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3月4日はわの会イベントでした。今回は金沢文庫駅から能見堂を巡る六国峠ハイキングコースがメインです。行程は、京急金沢文庫駅→白井と白井崎→(僕だけ赤井稲荷)→正法院→谷津浅間神社→能見堂喚鍾→谷津康申搭→六国峠ハイキングコース→能見堂跡→瀟湘八景と金沢八景→谷津関ヶ谷不動尊→不動池→太寧寺→京急金沢文庫駅の約2時間コースです。地図の上にコースを描いてみます。途中の六国峠ハイキングコースは階段と坂道で大変ですが、能見堂跡地は景色も良く快適です。金沢文庫駅をスタートしてすぐに、銀行と武道場の付近で説明が有りました。金沢文庫駅付近は今でこそ海からは距離が有り、にぎやかな所だけれど、江戸時代に湾内が埋立てられる前は、この付近までは海際で、清水の湧く井戸は貴重だった。金沢には7つの井戸、「白井」、「赤井」、「御中井」、「染井」、「御井戸」、「亀井」、「荒井」があり、ここに有った白井は鉱泉で、それを使った白井館と言う宿が有り栄えていた。また、今では暗渠になり見えないが谷津川がありそこに白井橋が有り、ここは白井崎と呼ばれていたらしい。ここを写真左手の道沿いに進むとしばらくして赤井稲荷が有る。皆は素通りしたのだけど、僕はお稲荷様が大好きなのでパチリと一枚写真を撮った。結構由緒あるお稲荷様なようですが、お稲荷様はお狐様を祀るものだけど、元は「宇迦之御魂神」つまり秦氏の神様を祀る神社なんですよね。全国に有ります。通常の神社が領地・荘園を持ち租税を取り立てるのに対して、お稲荷様はそんな野暮はしないので、庶民はみんなお稲荷様が好きでした。秦氏って不思議な一族ですよね。いつの日にか研究してみようと思っています。(ユダヤ人ではなく、渡来人の子孫としての秦氏です。)赤井稲荷をさらに釜利谷側に進み、赤井町内会館手前を右に入ると正法院です。ここは不思議なお寺さんで、色々な宗派が入り混じっています。仏足石や七福神の説明版等が有ります。ここは金沢七福神のうち福禄壽のお寺です。福禄壽って中国の仙人で、仙人とは中国の神様で仏教は関係なかったような気がする。お墓には赤井不動尊もあるし。ただ、きっと博学なお坊さんなんだと思う。なので先進的で色々な宗教を勉強しているのだろう。お堂から降りる階段の途中に稚児大師もいらっしゃる。稚児は天台宗や真言宗のお寺にいたんだよな。いったいこのお寺は何宗なんだろう?そうそう、前に行った手子神社もこの近くだったなぁ。西南の方角500mくらい?狛犬が親子2組からなっている不思議な神社だったけど。手子は元は稚児なんだと思った。ここの稚児大師と何か関係が関係があるのだろうか?もしかしてこの辺には稚児に関わる古い言い伝えが有るのだろうか?今度調べてみよう。正法院の裏には「赤井」がある。上の方に書いた白井同様に金沢七井の一つである。すぐ左にポンプが有るのが面白い。つまり井戸としてはまだ使えると言うことなのか?この井戸は昔、村人が日照りや疫病に悩んでいた時に弘法大師様が掘り当てた井戸だそうだ。ありがたい井戸なので飲んで見たかったけど残念。弘法大師様がその水で書いた不動尊が赤井不動尊で、後から写真を載せるけど、ここの裏山にある滝の不動尊がそうなのだそうだ。後の楽しみ。赤井を見たら一旦京急金沢文庫駅まで戻る。駅から今度は谷津の方へ歩く。途中左手に折れて進むと谷津浅間神社がある。僕はここの山の中に古墳があると思うのだけど今日は団体行動。入り口の鳥居を見るだけ。なお写真は実は取り忘れたので上の写真はgooglemapから拝借。この神社は藤原道長が能見堂に遊びに来た際に。東側にお椀を伏せたような山が有ったので、塗桶山と名付け、富士浅間大菩薩を勧請したのが始まりなんだそうだけど、この神社も能見堂も藤原道長の時代から有るんだと感心してしまった。それに、お椀を伏せたような山って古墳だよね。藤原道長も知っていたんじゃないかな?ここをしばらく北へ進んで右に折れたあたりの消防団に「能見堂喚鍾」があるそうだ。能見堂から持ってきた釣鐘を火の見やぐらに使っているのだそうだ。ただ僕はこの辺りではついて行くのがやっとでどこがそうなのか分からなかった。でもせっかくなので例によってgooglemapさんに写真をお借りします。もしかして火の見櫓の屋根がそうなのかなぁ?この消防団の手前に六国峠への案内板が有る。この写真を載せたのは案内板の設置者がひどいから。ハイキングに行く人が迷ってしまう。案内板の白い矢印の方に行くと、上の消防団の方に行ってしまい永遠に六国峠には行けない。誰かが親切に緑のテープで修正してくれているが、左に行くのが正解である。昔はこのすぐ左に「道標」が有ったそうで。近所の公園にその道標が保存されている。この辺って昔から本当に観光客が多かったんだなと思う。あちこちに道標が有ると言うことは、大勢の人がここに来ていた証だし、また迷う人も多かったんだなと思う。さて道標に従って進むと谷津の康申搭が有る。康申搭は60日に1回巡ってくる庚申待を3年続けた記念に立てられるもので長寿祈願の為のもの。昔から村に疫病や災いが入って来ないように、村境や辻に立てられたのだそうである。ただ、横浜は都会なので、康申搭もあちこちに有ったのが邪魔になりここに集められたらしい。都会っていやですね。さらに進むと右手に六国峠ハイキングコース入口が見える。ちょっと分かりづらく、知らない人は見逃すと思う。こんな感じ。目立たないから地元の人じゃないと分からないよ。前の案内板の矢印も反対向きだったし。まぁ文句を言っても仕方ないのでここから登る。最初は階段、しばらく行くと坂道、さらにその先は階段。結構きついかも?でも幅が広いので、心理的には「道」みたいな感じなので楽。狭いと山道に見えて辛いからな。道が広いのはかってはここを籠が登ったかららしい。いつの世も金持ちは楽したいらしい。確かにこの広さならば籠も通るかも?途中にはすれ違える広場もあるし。坂を上りきると平坦な部分に出て、案内板が有る。上の案内板(昔の写真)との比較の為に現在の様子を写真に撮ってみた。今はもう無くなっているけれど、正面には昔「筆擲松(擲筆松と書く人もいる)」が有った。平安時代の絵師巨勢金岡がここから見える景色を描こうとしたが、潮の満ち干により移り変わる景色の美しさに筆が進まず、ついに能見堂の前に会った松の前に筆を捨てたと言う故事により名づけられた松である。実は三重県の熊野にも同じような言い伝えが有り、そちらは金岡が熊野へ行く途中の藤白坂で童子に出会い筆比べをすることになったのだが、金岡は松にウグイスを描き、童子は松にカラスを描いたが甲乙つけがたく、絵の前で手を打ったところ、童子のカラスも金岡のウグイスも絵から飛び出してしまった。しかし童子のカラスは呼ぶと絵に戻ったのに金岡のウグイスは戻らず、金岡は悔しさのあまり持っていた筆を松の根元に投げ出してしまったと言うもの。思うに、熊野ならばカラスは神の使いだし、ウグイスは松にはとまらないのが普通だから、きっと三重の話には何か宗教的な話が有り、能見堂のはそのエピソードに習ったのかも?写真青の矢印「金沢八景根元地」石碑の所に能見堂跡地へ上る階段があり、そこから上った。そこはかって藤原道長が建てたと言う伝説の有る能見堂跡地だが、さすがに平安時代に道長がここまで遊びにくるなどあり得ず観光地にありがちな伝説だろうが、そのすぐ下には江戸時代に建てられた能見堂地蔵院の跡地が有る。ここには建物の礎石が残っているので、こちらは本当だろう。小さな礎石なので神社などでは無く地蔵堂なんだと思う。ここの先の台地から金沢から釜利谷までが見渡せる。壮大である。左は横須賀の夏島から、八景の野島、瀬戸神社そして手子神社(つまり小泉)まで見える。いわゆる瀟湘八景である。金沢八景は中国の西湖の付近の「瀟湘八景」にならって、西湖畔出身の中国僧心越禅師が詠んだ八編の漢詩に基づくもので、歌川広重の絵で有名だが、金沢八景はここ(能見堂)から見るものだと言い上の写真の「金沢八景根元地」の碑を建てた。ここを過ぎると谷津関ヶ谷不動尊へ下る道が有る。不動尊の左には滝不動が有る。この不動尊は元は谷津染井谷奥の滝の傍に有ったのだが、宅地開発により昭和62年ここに移設。元の滝は谷津川の水源地だったらしい。ここをさらに下ると不動池がある。かって釜利谷の宅地造成で出た土を金沢の埋め立て地に運ぶために山にトンネルを掘り、ベルトコンベアーで土を運んだ後を池にしたのだそうだ。僕が思うには、その時にいくつかの古墳を壊したのだと思う。何故そう思うのかと言うと、付近の家の庭に明らかにその時に出土したと思われる直径60cm位の土器が有ったから。買ってきた土器ならば庭先にあんな形では置かないだろうと思う。恐らく宅地造成時に出たか、トンネル掘削時に出たのだろう。それを近所の人が持って帰ったのに違いないと思う。最後は太寧寺に行った。ここには源頼朝の異母弟(義経の兄)の源範頼の墓がある。かって横須賀の室の木に有ったのが戦時中に海軍追浜飛行場の拡張の為にここに移設したらしい。頼朝に謀反の罪を疑われ伊豆修善時に幽閉後、(室の木)まで逃げてきて太寧寺で自刃したらしい。珍しい所では、有名な赤ひげのモデルの小川笙船(おがわ・しょうせん)の墓もあるそうだ。源頼朝も変死しているし義経は頼朝に殺されているし、実朝も暗殺されているし、源氏は呪われているな。平家の祟りじゃないだろうか?
March 11, 2021
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同じような境遇の人が困っているかもしれないので書く。60歳や65歳を過ぎて働きながら厚生年金に加入している人は注意が必要である。注:このブログは特別支給の特別支給の老齢厚生年金がフルに支給可能だった時代に 書かれたものなので、特別支給の老齢厚生年金が支給されなくなった世代には 少し合わなくなってしまった部分が有ります。通常、年金保険料は定時改定と言って、7月1日に居る会社の4~6月の給料の平均により、9月から翌年8月までの「標準報酬月額」が決定される。(厚生年金保険法第21条)但し、年度途中に給料が上がったり下がったりした場合には、その後の3か月の平均で定められ1か月後から新しい「標準報酬月額」になる。これを随時改定と呼ぶ。(厚生年金保険法第23条)納める健康保険料や厚生年金保険料はこの標準報酬月額に基づき決まるので、重要なことである。ところが、65歳になって再雇用された場合には、雇用契約が一旦切れるので、また給与が下がり、貰う給料に見合わない高額な保険料を払うことになる。貰ってもいないお金に基づいた保険料を払わされるのは詐欺に近い。(法には理由はあるのだが)このことは60歳で払うと約束されて加入した年金が65歳にならないと払われないことに加え、多くの労働者の不満をよんだが、それに加えて60歳以降も働く人の障害になるので、「同日得喪」と言う制度が導入されていくらかの人は救われてきた。同日得喪とは退職後も同じ会社に勤める人が1日も明けることなく雇用を実質上続けるならば、厚生年金の被保険者としては継続しているものとしてみなし、被保険者の資格の喪失届と取得届を退職後に同日付で出せると言うものである。つまり、例えば3月18日が65歳の誕生日で、3月31日に退職し4月1日から再雇用される場合、喪失日は退職日の翌日なので(退職日はまだ被保険者)4月1日付で喪失届と取得届を出せるし、その場合、特別に定時改定ではなく4月1日をもって新しい標準報酬月額を取得できると言う、素晴らしい手続きである。例えば再雇用時に給料が20万円減った場合、支払う保険料は給料が下がった分だけ減り、健康保険料+厚生年金保険料は1か月あたり2万円位減るので、4~8月+ボーナス(あれば2か月位?)の7か月分の保険料が減るので、14万円も得である。さらに受給する年金も得をする。給料にもよるので、恩恵を受ける人もいれば受けない人もいるが、一般的に年金を受給しながら働いていると、「年金の全部または一部の支給停止」を受ける。式が難しいので詳細は略すが、これも標準報酬月額が効いてくる。たくさんお金をもらう人は我慢しろと言う理論である。本当は、生活保護などと違い年金は自分(と会社)が納めて来た年金保険料を返してもらうので、現在の収入により過去に自分が納めた年金保険料の返却が減るのは理論的におかしいのだが、法律がそうなっているので個人が吠えてもどうにもならず仕方ない。そこで、少しでも多くもらうにはどうするかと言うと上記の標準報酬月額を利用するしかない。保険料の納付でもそうだったが、標準報酬月額が多いと支給停止額も多い。定時改定だと上の霊の場合4月から8月まで過去の高い標準報酬月額が適用されて、支給停止額も高いままだが、同日得喪により標準報酬月額が下がれば、この5か月分(場合によっては4か月)が下がる。5か月分の標準報酬月額が20万円減れば支給停止額もその分減り、その分だけ年金の手取りが増える。とても良いことだと思う。定年後も働き続ける人がふえるのではないだろうか?<後日追記>せっかくなので日本年金機構の「同日得喪」の説明を載せる。但し、これは古い(平成25年)ので今ではより多くの人が対象者になっている。中小企業で退職制度が無い場合は従来は(退職しないで働き続けるので)対象外だったが、平成27年度以降下の絵に加えてそれらの人も対象になっている。で、今日の話だけど、年金事務所の受付は「偉そうにして」嘘を言う人が多いので注意が必要。例えば支給停止は厚生年金保険法第46条に基づき計算されるのだが、「年金額の改定」は同法第43条により計算され、同法36条第2項により翌月から適用される。だが支払い停止額は同法46条第5項により同法第36条第2項が適用されず当月から適用される。つまり、支給停止額が減る場合には1か月早くもらえる年金が増えるのだ。この為、法律を理解できていない年金事務所職員は混乱を生じ、何とか払わずにすまそうと、当月ではなく前月の標準報酬月額で計算されるので増えないとごまかす。でも法律には当月の(変更された)標準報酬月額で算出すると書いている。(標準報酬月額が変わらない時は計算されない。でも同日得喪をするような人は給料が下がって いるので、当然標準報酬月額は下がっているから、当月の標準報酬月額で計算する。)その嘘を助長しているのが「公的年金給付の総解説(健康と年金出版社)」である。この本で、「喪失月に再取得した場合の額改定及び在職調整」の解説が誤解を与えている。こう書いている。平成27年10月1日の法改正で額改定の起算日の改正があったが、支給停止に関する改正では、法第46条の規定で「省令で定める日を除く」となりその「省令で定める日」とは「資格喪失日から起算して1か月以内に非保険者とならない場合における資格喪失日(つまり完全に辞めた人の喪失日)」となり、資格喪失日の属する月から支給停止解除となるとは限りません。注)資格喪失日の属する月に再取得した場合には、前月の総報酬月額相当額(ブログ注:ほぼ 標準報酬月額で決まる)によって支給停止額が算出されます。その結果1日に資格喪失し 同日に再取得した場合には、前月より引き続き被保険者であるにも関わらず前月の総報酬 月額相当額を基準に支給停止額が算出されます。こんな書き方をしたら、誰だって誤解する。法第46条には「被保険者(前月から引き続き資格を有する者に限る。)である日が属する月において、そのものの標準報酬月額と~長いので途中略)~の合計額から支給停止調整額を控除して得た額の2分の1に相当する額に12を乗じて得た額(以下この項において「支給停止基準額」と言う)に相当する部分の支給を停止する。」と書いている。(長いので一部省略した)法にはどこにも「前月の総報酬月額相当額」を基準に支給停止額が算出するとは書いていない。では、この本が書いているのはどういうことか?どこに誤解の出る原因があるのか?この本が書いているのは法及び規則のある一部分のうち自分に都合の良いぶぶんを抜き出しているだけである。それは「同日得喪を理由とした支給停止額の再計算は行われない」と言うことと、「再計算が行われないと前月までの支給停止額が継続される=前月の総報酬月額相当額を基準に支給停止額が算出される」と言うことである。標準報酬月額が変わるのは同日得喪が行われたことが原因ではなく、給料が変わったのが原因。確かに同日得喪前後の標準報酬月額が同じなら(そんな人は同日得喪の手続はしないと思うが)書かれた通りである。でも被保険者の4月1日のことを考えると被保険者は4月1日には被保険者なので4月は4月1日が属する月であるから、適用される標準報酬月額は法に書かれた通り4月の標準報酬月額であり、3月の標準報酬月額ではない。もし4月1日に新しい(低い)標準報酬月額が適用されたならば支給停止額は減り、需給年金額は増えるはずなのである。年金事務所の受付はここを勘違いしているのである。では、勘違いの元になった法第46条の中の「省令で定める日を除く」がめざす本来の意味で、この本が書いてないが、本来書くべきだったこととは何か。注)が余計なことでこれが誤解を与えているのである。注)の前に書かれている「資格喪失日の属する月から支給停止解除となるとは限りません。」が法と規則が本来言いたいことである。これは退職日と資格喪失日が同じ日ではないことにより生ずる不都合を回避する為のものである。上の例の場合、3月31日に退職したにも関わらず資格喪失日が4月1日だった場合、「省令で定める日を除く」が除かれないと、従来の法律では4月の年金に、退職して働いていないにも関わらず支給停止がかかってしまい、本来全額もらえるはずの年金が一部又は全部もらえないと言う、とんでも無い不都合が生じる可能性が有った。(実際に有ったかどうかは不明)そこで、資格喪失後1か月間再就職していない人の資格喪失日を「省令で定める日を除く」と定めこの人に関しては支給停止の計算をしないと明確にしたのである。
March 5, 2021
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