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帰日後、既に1週間が経ってしまった。之から全ての日を埋めるのはとても大変なので、基本的にはパスすることにする。帰って、1週間以上溜まった新聞をざっと読んだが、日記が追いつくまでは、その日に起こっていた、印象的なことを列挙して、済まそうと思う。それまでは、主だったことを記録して置くに留めたい。昨日から今日は何と言っても、大阪地検特捜部の押収資料改ざん事件で前主任検事前田恒彦がフロッピーディスク(FD)を改ざんした件で、大坪弘道・前大阪地検特捜部長と佐賀元明前副部長らが有罪判決を受けたことであろう。この有罪の意味は根深く、かつ広範囲に影響を及ぼすであろう。「仕方ない、ミステークでいこう」等と言った簡単な判断で、1人の有能かつ善良な人が有罪にされ、その一生をあわや踏みにじりかねないと言った、恐怖感を感じるものであった。被告側は、直ちに控訴しているが、自らを真摯に振り返ったのかどうか。感想は「淡々とした気持ち」なのだそうだ。もう1つは、「消費税二段階引き上げ案」がとりまとめられたと言うことだろう。完全に成立するまでには、紆余曲折が予想されるが、政府・民主党の税制調査会では「2013年10月に消費税率を8%、2015年4月に10%」という二段階引き上げ案を軸に、今後の展開が為されるようだ。政治生命を賭けたという野田総理、ならば、何故、政権交代でその事を旗印に戦わなかったのか、ある種のトリックに掛かったようで、いかにも釈然としない。財源が十分でないことは、あまねく国民の知るところかも知れないが、増税をする前に身綺麗になると言ったことを宙ぶらりんのまま、税率アップのことだけが、1人でばく進していることに、著しい違和感を感じるのである。
2012.03.31
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今回の中欧旅行の旅程には入っているが、ただ帰るだけの1日である。乗り継ぎのドーハに着いたのが、22:30であった、往路と同様、トランジットオンリーの場所(黄色表示)に降りるべく移動バスに乗り込む。行きと違って、要領は分かっているものの、ほぼ満員に近いバスは、結構長い距離を走り続ける。最初のストップはデスティネーションオンリーで、ここで降りてはいけない。又暫く走り続ける、如何に大きな飛行場かは知らないが、よそ道を走っているのではないかと疑うほどだ。そうする内に黄色いトランスファーのストップで降りる。そこで旅行組は一旦集まったが、階上に上がり、そこは見慣れたデパーチャーのフロアだった。来た時も思ったのだが、ガスが湧出しまくる前のカタール空港は、貧相で、ほんの少ししか乗降客は居なかったようだが、今回は、一応国際空港としての体裁を整えるまでになっている。分かりやすいと云えば分かりやすいのだが、ドバイ空港のように巨大ではない点安心と云うこともあるが、言葉を変えれば、何もすることはないと言った方が当たっている。23:40デューティーフリーショップでワインを求めるが、何しろ品数も少ないし、目新しいものがあるわけではない。そんなわけで、出発までの時間をひたすら待つことになる。1:25やっと我々の乗った機(QR-0802)はドーハを後にした。連れ合いは、メガネを紛失したことに気がついた。ショップでの買い物時はあったのだから、等と言っても最早遅い。私のボールペン騒ぎが今度はメガネ騒ぎになった。メガネがなければテレビの映画さえ観ることが出来ないのだが、私が借りていたメガネで何とか凌ぐことが出来た。私は「戦場の馬」を、また観たが、今度もうつらうつらしながらである。関空に着くまで何もすることはなく、寝ていてもおしりが痛いばかりである。それでも2度の食事の時は起きて食べるのだから、正しく養鶏場の鶏のような感覚である。旅行は終わったので、先の楽しみはない。今回の旅行をぼんやりと思い浮かべた。参加した人とは顔を合わせてはいるが、連れ合いほど親しく話しかけた事もないので、全員は思い出せない。まず、最初にお会いした香川からの先生夫婦、アンソニー・クィンのような感じの男性とその友達で、大阪と芦屋からの男友達2人、吹田の先生同士の夫妻2人、広島から来られた、71歳とか云われるブティック経営などのファッションおばさん姉妹の2人、せかせかおばさんとその娘とその友達の5人連れか、川重に勤めていたというご夫妻、終わりの頃までよく分からなかったが、1人参加の女性、韓国の奥さんとの夫妻、一寸自閉的な子を同伴した5人家族、といった具合で、後の方は、どういう関係なのか私にはよく分からなかった。同行者は35人と結構多い方なので、添乗員も何かと大変だったかも知れないが、概して、今回の皆さんは時間を厳守し、ほぼ乱れることなくそう言った点では添乗員を困らせるようなこともなかった。ヨーロッパ旅行に限らず、スリ、置き引きに注意しろとは、よく云われることだが、昔日本人の外国旅行は、カメラを胸に提げて、バッグを前に抱えるといったスタイルであり、このスタイルは、こういった注意からもたらされ、既に文化的DNA(リチャード・ドーキンス流に言えばミーム)となってしまっているのだろう。その注意のお陰もあって、置き引きに遭うことも、スリに遭うこともなく皆さん無事に帰ってこられたのは、ご同慶の至りである。加えて、出発時に小雨がぱらついていたにも拘わらず、ドーハを始め中欧諸国では、快晴であり、ポツダムでの朝霧を除いては、申し分ない天候に恵まれたのであった。持ってきた折りたたみの傘を使わなかったことは、帰って喜ばしいことであったが、旅行前に、日本では寒波が堪えたこともあり、早めに調べた目的地の状況は、いずれも稚内以北の緯度であり、当然もっと寒いことを想定していた。寒さが緩んだこと自身は結構なことだったが、何しろ寒さ対策の洋服ばかりを持参していたために、朝夕の冷え込みは別として、日中の暑さには返って体力を消耗することにもなった。最近は異常気象といわれるが、今年2月には欧州全体で、特に東欧では激しい寒波に見舞われ、死者が500人を超えたとのニュースもあったので、非常に心配はしていたのだが、そこまで極端な寒波にも遭わず、むしろこれ以上望めないといった天候に全くラッキーと云って良い。私の場合は、訪れた外国が、乾季と雨季がはっきりしているところが多かって、雨季に遭遇しなかったこともあって、概ね晴れた経験しかない。一度などは、サウジアラビアで、酷暑の中2日ほど例外的に雨が降り、国の人は大喜びをしていたことを思い出す。但し道路などの排水が一切雨を想定したものになっていないため、たちまち車の車輪は水に浸かると云うこともあった。ヨーロッパ旅行でも、全く幸いに、イタリア、パリ、スペインと雨の経験が無く、今回も雨に降られなかったと言うことで、極めて運が良いとしか云いようがない。今回は、安かろう、早かろう(時期)の感じがあり、各庭園や、ドイツに於いては、広葉樹がすっかり落葉して、新たな息吹さえも見えなかったのは、少し残念に思った。願わくば、サン・スーシーの庭園や、最後に訪れたシェーンブルン宮殿、ベルベデーレ宮殿の庭が、もう少し緑勝ちで、草花の彩りがあればこれ以上言うことはないと言うところだ。しかし、何事も過ぎた願望は良くないわけで、今回の旅行では、之と云ってクレームを付けるところはなかったように思う。添乗員が、一時規格外の行動を取ろうとして不機嫌になっていたようだが、之も、羊を追う番犬の立場に立てば無理からぬ事かも知れない。今回もトラピクスにお世話になったが、荷物のポーターは勘定に入っていないと云いながら、逞しい女性添乗員が、ことごとく処理してくれていたのを観て、これは社の方針なのかはたまた添乗員個人のパーソナリティーなのか、随分と助かった気がする。思い起こせば、30年近く前に会社から北欧への出張を命じられた時には、何処をどう通っていったのかさえうろ覚えであるほど、緊張もしていて、各トランジットでは自己責任で的確な飛行機に乗らなければならないなど、随分と気を遣ったものだった。その時は、ヨーロッパへの直行便が無く、一旦アラスカのアンカレッジまで戻って、北極に近い大圏コースを通ったことを思い出す。確かコペンハーゲンでの2度目のトランジットを済ませた時、周りは外人ばかりだと思った瞬間、「いや、ここでは俺が外人なのだ」と言った事を今でも思い出す。現在は、ヨーロッパならフランクフルトやパリまでは1フライトで来られるので楽なのに、やはり価格のせいか、ドーハでの1クッションは、結構きついものがあった。しかし、私にとってドーハは、つい最近仕事で降りたこともあり、懐かしい気持ちがした。カタールの先端ラスラファンでのガスプラントで、今は潤沢にガスが湧出しているが、その為の鉄骨構造を供給したのだと思うと、私も何かの役に立ったのかなぁと感じるのである。その時はサウジアラビアのジェッダのファブリケーターを使っていたので、現場のラスラファンから、ドーハを経由し、サウジに帰るイミグレの時に、カタールのオフィサーが私に「Why do you go to the such crazy country?」といったのを今でも思い出す。それ位サウジと云うところは、同じGCC諸国の中でも戒律が厳しく、融通の利かない国であった。私も、思わず「I don’t like to come back too. I’m sorry but it’s my business.」といったことを覚えている。勿論オフィサーは冗談半分であったのだが、片目でウインクする気持ちがよく分かった。私にとって、今回の中欧旅行は初めてであり、素晴らしい体験だった。吹田の先生夫妻が、褒めて?くれたように、私は訪問国の簡単な歴史と、訪問場所のデーターを事前に調べて私製のガイドブックを持っていった。市販のガイドでは、不必要なことも多く書かれているし、行きもしないところのことが書かれているので煩わしいからと、予習時に、1度、この目で観て2度、そして今反芻して3度とグリコではないが1回で3度美味しいという具合に海外旅行を捉えている。そうしないと、高いお金を払って、あそこはどうだったかなぁなどと云うのも勿体ないと思うからだ。しかし今回の旅行で、もう少し調べておけば良かったと思うのは、ハプスブルグ家の家系図である。家ではある程度調べてはいたが、同じような名前の皇帝が、どのような気性であったのかなど、せめて高校生程度の歴史的な知識を持って臨みたかったと思う。最近でこそ、シリアや中東に目が奪われ、ヨーロッパに於ける紛争は下火のように見えるが、紆余曲折を経て、今日の仮の姿になっているわけで、この状態がまた如何様に変化するかは、誰も想像出来ない。我々はヨーロッパ人と一言で括るが、色々な人種で構成されていて、あまつさえ、同じ国家の括りの中に異民族がモザイク模様になって存在していることに変わりはないわけだ。ドーハに来る時に話したオーストリアの青年(ルーカス君)の友人は、私のことを中国人かと云った。ルーカス君には私が中国人嫌いであることを云っておいたので即座に否定したが、彼らにとって、中国人も韓国人も果てはフィリピン人でさえも区別が付かないわけだ。無理からぬ事であろう。帰りの航路マップによれば、機体は北京から朝鮮半島を横切るのは止めて、黄海を一路南下していることが分かった。何の意味があるのかは知らないが、その点が往路とは違っていた。最後に、窓寄りに座っていた、一寸長髪の男性に一寸、声を掛けてみたら、これも大学の化学関係の準教授クラスの人間で、2週間のバケーションで日本に先に来ているガールフレンドと成田で落ち合うとのことだ。この旅行は時期的な関係もあって先生が多かった。その準教授は、既に41歳とか云っていたが、長髪なので、若く見えた。京都にも行きたいとかで、今は、何の計画も持ち合わせて居らず、ガールフレンドと合流してから行動を決めるとのことだ。考えてみれば、随分フリーになったものだ。私たちが海外出張をするという少し前は、まるで水杯を交わさんばかりの出来事だったのにと思う。EU(ユーロ圏)は経済面で、やや不消化な面があるが、シェンゲン協定など各国間の経済圏は大括りになってきている。今日本は、TPP云々と騒がしいが、やはり、自国を世界にさらけ出して尚競争力を持たない限り、未来はないと感じる。そうこうしている内に17:10予定通り関空に無事着陸し、荷物を受け取り、添乗員と同行の主立った人と挨拶を交わして、帰途に就いた。
2012.03.30
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今日は実質的な観光最終日だ。昨日オペラ座の通りから垣間見たシュテファン大聖堂は、旅程の中には入っていない。まあ、一応見たことにしておこうと下はビルで隠れている尖塔部分だけをカメラに収めておいた。ちょうどオペラ座の前からバスで、ホテルまで帰ったのだが、威風堂々たる国会議事堂の前を通ってくれたようで、日暮れる前のウィーンの街を車窓から垣間見せてくれた。ホテルの部屋は、まずまずの広さだった。芸術の街らしく、壁には、モネの「ひなげし」、「森の中で読書する少女」と後1点のレプリカが掛けられていた。連れ合いと、夜のホテル前を一寸散策した。ホテルに帰って、疲れていたので、すぐ寝て、朝はやはり4:45に起床した。明るくなった外を見ると、電車が、目の前で地下に潜るという丁度そんな位置にホテルはあった。右手はウィーンの市内であろう、車の数も増えてきて、皆その方向に向かっていた。朝食を済ませ、8:10にはホテルのロビーに集合した。もう、この頃には何人かの人とは打ち解けて話すような状態になっていた。旅行参加者の内連れ合いを含めて5-6人は学校の先生のようである。この時期丁度学校の区切りだからどうしても集中するらしい。8:20にホテルを出発したが、今日の運転手は、昨日までと違っていた。先ず訪れたのは、シェーンブルン宮殿である。ハプスブルグ家の歴代君主が離宮としたというだけあって、庭園を含めた規模は、パリのベルサイユ宮殿とも匹敵するかの如くである。しかし、建造時に資金が潤沢で無かったためか、全体として受ける印象はそれほどきらびやかと云うわけではなさそうだ。神聖ローマ帝国皇帝のマティアスが狩猟時に美しい(シェーン)、泉(ブルン)を発見したことに因んで名付けられたとか。前庭も広く、正面ファセットも端から端まで180mあるという。そしてあらゆる部屋を合計すると、1441室あるという巨大なものだ。我々は、せいぜい宮殿の主だったところを素通りしながらブリーフな説明を受けるのが精一杯である。裏庭の本来なら花で一杯の庭園の先にあるグロリエッタという慰霊記念碑がある丘まではかなり遠いので、脚力的にも、かつ時間的にもその余裕がないほどだ。観光客の集客ドル箱スポットだけに、シーズン開始前に補修をと各所で工事の最中であった。またこの日は風が非常に強く、裏庭で帽子を飛ばされ、見知らぬ人が追いかけて拾ってくれたほどだ。ガイドブックによると、マリア・テレジアは外壁に金を塗ろうとしたが、財政逼迫で、黄色に変更になったのだという。部屋はロココ風の仕上げで、左右非対称に出来上がっていた。部屋の中は、調度品や、カーテンなど、当時の素材を代替する物がないとかで、カメラのフラッシュはおろか撮影自体禁止となって窓も閉め切っていた。さて何があったかを思い出そうとしても、之といった目を惹くものはなく、部屋自体も地味であり、高価な家具かも知れないが、それほど目立ったものでないなど、ハプスブルグ家の実態はこのようなものだったのかと、むしろ予想外であった。マリ-・テレジアの娘マリー・アントワネットが、当時6歳で、ここに演奏に招かれたモーツアルトとの話で、宮殿内で転んだモーツアルトを助けたアントワネットに、モーツアルトが、大きくなったら結婚してあげると云ったとか、結婚してくれといったとかの話が伝わっているようだ。マリー・テレジアは、16人の子を為し、そのうち早世した者や、不具であった者が多く、血の濃さがその事を物語っている。マリー・アントワネットは彼女の15番目の子供だと云われている。ポートレートの間があり、そこは立ち止まらず、通り抜けしなければならなかったが、カール1世は、当時としては珍しく、一般庶民が描いた自然な表情のポートレートを好み、その絵を部屋に掲げていたという。最後に、ハプスブルグ家の最後の皇帝妃である、エリザベートの部屋があったが、彼女はここで、禁欲的なまでに美貌と体型をキープするために色々なエクササイズ器具を導入していたようだ。また、映画でよく観る、ベッドにいながらにして朝食を食べられる移動式テーブルなども展示してあった。9:45に見学を終え、シェーンブルン宮殿を後にする頃は、結構観光客が集まってきていた。バスで移動中ウィーンの中央駅が建設中であるところを通った。少し工程が遅れているとかだが、土地の人は一向気にしないといった風情であるらしい。日本などの突貫精神は、むしろ世界では異端なのかも知れない。次に向かったのは、ベルベレーデ宮殿である。300年前にオスマントルコをキックアウトした功績のある、フランス生まれのオイゲン公は功績により多大な財産を残したが、子供がいないことから姪のヴィクトリアに全ての財産を残す形となり、そのヴィクトリアからマリア・テレジアが買い取るという形で、ハプスブルグ家の持ち物になったという。10:18ベルベデーレ宮殿に到着する。都心に近く門に至までの広場もかなり広い。現在は、オーストリアで2番目に大きな美術館として使用されているとか。そして、入口の門には、金の楯を持つライオンが門柱の上で我々を迎えてくれる。その門を入った宮殿までの前庭も随分とゆったりして、真ん中には巨大な人工池がベルベデーレ宮殿をそのまま写し込むことが出来るほどに大きくしつらえてある。庭そのものの造作は、芝生以外は一寸した花が植えられている以外はシンプルに出来ていて、それが返って清々しい。宮殿の裏側というか、そこが宮殿の庭になるのだが、ここも大きくシンプルに出来ている。これ程庭を広く、造作も簡素で、ゆったりとしているのは流石、夏の離宮として作られたことを物語る。内庭には何故か、多くの女性スフィンクスが乳房を露わに随所に置かれているのも又面白い。宮殿の内庭の向こうには、シュテファン寺院と思われる尖塔が遠望できる。その向こうの丘陵は、モラバ丘陵になるのだろうか。やがて館内にはいる。通常の美術館と趣が異なるのはやはり宮殿だった故だろうか。全ては覚えていないが、表現主義のオスター・ココシュカやグスタフ・クリムトに影響を与え、クリムトから黄金を取り去らせたエゴン・シーレそして、今では日本で有名になっているグスタフ・クリムトの接吻が大きく取り上げられていた。門外不出といわれたクリムトの「接吻」を間近に見ることが出来たのは感激であったが、他のクリムトの作品をイメージしていたので、その大きさにまた驚いた。幅と高さが私の身長を超す180×180cmの作品は、やはり複製画で見るのとは違った味わいがあった。エゴン・シーレの作品は、あまり馴染みのある作品はなく、晩年の代表作「家族」が印象に残った。シーレは晩年、といっても28歳でスペイン風邪に掛かり夭逝している。シーレと同時期にあのアドルフ・ヒットラーもウィーン美術アカデミーに進学を試みるが2度失敗したそうだ。その腹いせとして、退廃芸術展など美術界への復讐を行う事になるのだが、歴史に「if」はないけれど、もしヒトラーが、美術アカデミーに何とか入学できていたら、世の中はもう少し変わっていたかも知れないだろうと思うのは私だけだろうか。クリムトは、「接吻」の他にも、「りんごの木」だとか、変わった試みの肖像画である「ソニア・クニップス」、「フリッツア・リドラー」などを収めている。またシェーンブルグ宮殿の青葉に満ちた頃の作品も残しており、通常の美術展ではなかなか見られない作品が多かった。11:15に宮殿を出て、再び市内に入り、ロシア兵駐屯の記念碑やクリムト、シーレなどが作った、分離派会館の横を通り、ウィーン美術アカデミーやウィーン工科大学横の道を走って、国民劇場前から、昼食のレストランに向かった。11:50にレストランに着きサラダたっぷりの豚のカツを食べてお腹が一杯になった。こちらの人は更に之に加えてジャガイモを食べるというのだから凄い。1時間ほどで昼食を終えて、そのまま空港に向かった。16:30ゲートインを済ませ15:57予定より少し早いが、我々の機(QR0096)はドーハに向かってテイクオフした。又6時間あまりの退屈な旅が始まると所在なげにテレビを見ていると、機内食が配られてくると云うのでCAがどうやら魚かチキンかと好みを聞いているようだ。一寸寝起きでもあり、かつ魚と云っても旨くないのもあるからなぁと考えていると、窓側に座っていたオーストリア人が、「魚か、チキンか好きな方はどれですか、と聞いていますよ」と日本語で教えてくれた。「そんなことは分かっているわ」と思ったが、考えてみれば、英語の喋れない日本人のおっさんが苦労しているのだろうと親切心で云ってくれているのだとわかり、なかなか親切な青年だと思った。それを期に、退屈紛れに、その青年に話しかけると、25歳のMr.Lukasというオーストリア人の経済学修士で、今から20名ほどで、北京に交流のために出掛けるという。やはり北京かとは思ったが、聞いていると、かつて、小樽に2年ほどいたことがあるという。それで少しは日本語も知っているし、日本のメンタリティーも心得ているのだと納得した。試しに私と連れ合いの年齢をフランクリーに当ててみろというと、流石、学があり、日本にも居たせいであろうか、私は1歳上の68歳、連れ合いの方はうんとまけて60歳という返事が返ってきた。眠気は一気に吹っ飛び、向こうも話し好きとあって、話が弾んだ、私が「To tell the truth I don’t like Chinese」というと、向こうも分かってウインクをした。それから日本語の教科書を取り出し、色々学んでいるという。中国語はどうだというと、全く習う気がないという。なかなか話の分かる奴だと、色々話を続ける内に原発の話になり、日本はあんな悲惨な事故の後も原発を続けようとしているがどう思うかと聞くと、オーストリアは、元々原発に頼らないでやっていると、これまた1本取られてしまった。DOHAが近くなり、話に夢中になっている内、私の3色ボールペンが見つからないのに気がついた。彼は気の毒がって、自分が持っているパイロットの消えるサインペンを差し出し之を使えという。機から下りて、結局見つかり、それを返そうとトランジットの待合い列で申し出ると、どうぞ使ってくれと云ってくれた。なかなか爽やかな気のいい青年である。芸術の都オーストリアが又好きになった。
2012.03.29
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旅行も残り少なくなってきた。今日は、ブダペストの市内観光とウィーンへの移動である。昨日少し通ってきたが、ブダペストはこじんまりした街のようだ。今日は5:00前に目覚め久しぶりに髭を剃った。今朝は、起き抜けに1人で、ホテルの外を散策した。そして一旦帰って、連れ合いと2人で、又違う方向を回ってみた。昨夜の夜警は、ドナウに映る金色の国会議事堂や、正しくその名がふさわしい鎖(ライトアップの電灯がまるでチェーンのように見える)橋。遠景のブダ城、結構荘厳な漁夫の砦など、ライトアップの素晴らしさは之に尽きるかとの感であった。一晩明けて、朝のすがすがしさの中の散歩も又良かった。ホテルもなかんずく高級で、ロケーションもよく、ホテルと同じレベルで隣同士のイシュトヴァーン教会が、ほの白く朝日の上がる前に浮かび上がっているのも、ハンガリーを建国したイシュトヴァーン1世のことを学んだ後だけに、ひときわ美しく見えた。また茜色に染まった夜明け前の空に浮かぶドナウ川の景色をブダの丘から味わえるのは、気分の良いものである。俗に茜空は夕焼けに染まる空を云うことが多いようだが、夜明け前の空(Dawn)のなかでも又茜色なのである。ホテルの前に、何気なく建っている銅像には、「XI. INCE PAPA」と書かれていた。第240代 ローマ教皇のインノケンティウス11世のようで、高徳の聖職者として知られている。また広場の真ん中には、イシュトヴァーン1世の騎馬像が堂々と建っている。ふと、カノッサの屈辱で有名な聖職叙任権をめぐるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の聖俗の争いに於いて、この場合のイシュトヴァーン1世とインノケンティウス11世との関係はどうだったのだろうかなどと考えた。ヨーロッパ諸国(キリスト教国)では、常に、ローマ教皇と、神聖ローマ帝国皇帝との覇権争いは壮絶であったのだろうと想像を巡らせた。やがてホテルに帰り、待ちかねて朝食を採る。ここも、相変わらずのブュフェスタイルではあるが、広く落ち着いた雰囲気のレストランで、朝食もゆったり食べることが出来た。9:00にローカルガイド(Mr.ザングロー)が来て、出発となった。この男性ガイドはハンガリー人ではあるが、6年ほど日本に在住したことがあるとかで、実に日本語が流暢である。それと、巧みな話術で我々を惹きつけてくれる、今回のガイドの中では1級品であるといえるだろう。在留日本人が、外国の状況を学び歴史などのいわれを披露するのと、現地人が、流暢な日本語で現地の歴史などを説明するケースではやはり後者の方が面白いと感じるのは私だけだろうか。最初に案内されたのが、マーチャーシュ聖堂と三位一体の像である。ほぼ15世紀に建てられ、時の王の名前を採った教会である。色彩豊かな屋根の瓦が特徴的であり、各種の戴冠式が執り行われた。外壁は石灰岩で出来ており、世界遺産に指定されている故に、修復時に於いても、その素材を変更することは叶わないとのことである。当時の軍隊の服装は、黒い服で統一され烏のようであったというが、(カラスはハンガリー語でも同じくカラスというのだそうだ)ハンガリー人(マジャール人)は、前にも書いたようにヨーロッパと云うよりは、東方系の民族であるが為に、日本人同様に生まれた時には、蒙古斑を持っているのだという。之はフィンランド人も同じだということである。そう言われるとハンガリーに対して、親近感を覚えるのも又単純な話である。ガイドの話では、896年がハンガリー建国の年としているが、マジャール人の王、イシュトヴァーン1世がキリスト教に改宗して、ローマ教皇からハンガリー国王として聖別をうけ戴冠したので、ヨーロッパ世界の一員となったという説明がある。いずれにしてもハンガリー帝国が最大版図を持った時の勢力はかなり強大だったようだ。現在ではかなり狭隘な場所に閉じこめられているような感覚なのであろう。私は、昔、ハンガリーとは、フン族がガリア(野蛮の土地)に攻め込んで、両者からこの一帯がフンガリアとなりそれが訛ってハンガリーとなったとの書物を見たような気がしたが、残念ながら、改めてそのような記述の書物を見つけることが出来ない。次に訪れたのは、漁夫の砦である。朝方見たところであるが、ここで敵の来襲を漁師が食い止めたということで、この名が残っているとのことだが、この塔の形が蒙古などに見られるゲルの形をしているとのことだ。そして今では、現代のハンガリーにおいて、若い恋人達のファースト・キスのメッカであり、外国人も又然りと云うことのようだ。今回の旅行者の中には、それに該当する人は残念ながら居そうにない。首都の名は、ブダペストは、中世に流行った「ペスト」と関係があるのかとガイドに問うと、即座に否定した。この街は、ブダ地区と、その北方のオーブダ地区、更にドナウを挟んだペスト地区が合わさってブダペストになったというのだが、何故、ペストなどと縁起でもない名前になっていたのか未だに合点がいかない。そこから、ソ連軍の銃弾跡も生々しい、防衛省跡を通り、王宮の横を歩いて、また、ちゃっかりと王宮を護衛する衛兵の横で連れ合いの写真を撮った。彼女が軽く会釈をすると若い衛兵は心持ちにこっと笑ったのが印象的であった。ガイドはひとしきり社会主義国家の悪口を言っていた。今、何のお咎めもなくそう言ったことが言えるのは彼らにとって驚異的に素晴らしいことなのだろうと聞いていた。曰く、ハンガリーでは車(ボディーがプラスチックで出来ている)を注文するととても早くて5年で手に入ると笑いを誘い、ロシアだと20年待たなければならず、子供が生まれた時にその子のために車を注文して、その子が成人した時やっと手に入ると云っていた。社会主義国家で一番怖いのは修道院だと云うことでその心は、密告者の溜まり場なのだそうだ。私が、「そのような日本人に対するジョークをいくつ持っているのか」と聞くと、「沢山あるよ、吉本に留学していたから」と一本取られた。ハンガリーは150年の長きにわたりオスマントルコに支配されてきたが、之を押し戻して以降ハンガリーを守る架空の鳥「トゥールル」のブロンズ像がドナウ川方面を睥睨している。その他こまごました話を丁寧に教えてくれて飽きることがなかった。10:00にその丘の見学を終え、一山向こうのゲレルトの丘にバスで移動した。バスの中で、ハンガリーにもこの辺りには40ヶ所ほど温泉が湧き、医者の処方箋で、年30回無料で入れるという、医療行為の一つとして位置付けられているとのことだった。10:30にゲレルトの丘に着いた。そこに1本、ソメイヨシノが満開であった。日本の稚内より北に位置するここでもう桜がという感じだ。そこから北方にドナウ川の下流を見ると、そこにはマルギット橋と、マルギット島が見える。そこには人が住んでなく、自然の公園のようになっていて、ホテルなどもあるようだ。10:35ゲレルトの丘を出発、丘を下って、ドナウ川に出て、鎖橋より更に上流のエリザベート橋を渡り、(更に上流の橋は自由橋という吊り橋だ)対岸の下流にある国会議事堂へと向かった。そこで土産物屋に立ち寄ったが、その間数分の間であったが、近くのステファン教会があるというので、連れ合いと二人でそそくさと出かけた。1人1ユーロ程度の喜捨で入場が許される。中にはいると流石ヨーロッパの聖堂だけあって、ドームの天井にはフレスコ画が描かれ、なかなか荘厳な雰囲気であった。国会議事堂は、通りすぎるだけであった。とにかく高さが96mあり、それは、ハンガリーの建国年である、パンノニア征服の年896年に因んでいるとの話である。12:30に昼食を採り、13:45にはウィーンに向け出発した。途中トイレ休憩をハンガリー内で取り、16:00に最後の訪問国、オーストリアに入国した。15世紀から18世紀にわたってヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の本家である。専ら話は、オーストリアの最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とその皇后で、美女の誉れ高いエリザベート(愛称シシー)の話で持ちきりだった。172cm、50kgの容姿になんとウエスト50cmというから驚異的なダイエットを行っていたようだ。宮廷内のいじめだろうか、精神を病み、22歳で、外国に転地療養を重ねて殆ど自国に帰ることはなかったという悲劇的な后であり、しかも晩年は、イタリアのアナーキーな青年に暗殺されるという生涯であったようだ。かつて、美術館で、このエリザベート皇后の肖像画を見たことがあるが、美に対してこれ程の執念を持ち続けた人だとは知らなかった。16:55ウィーンに到着した。少し時間があるので、買い物などと少しの自由時間があった。我々は、ウィーンのオペラ座の前の縁石に腰を掛けて、日だまりのウィーン夕刻の一時を楽しんだ。夕食は中華料理であったが、狭く、味もそれほどではなくあまり良い感じではなかった。20:30市内から少し離れた、ルネッサンス・ウィーン・ホテルに着き、散会となった。
2012.03.28
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中欧旅行(チェスキークルムロフ→ブダペスト)今日も又2時に目が覚めチェコ語であろう映画をテレビで見た。云っていることは分からないが、ケビン・コスナーの「ポストマン」らしい。終わって、朝バスタブに湯を張りゆっくりと入る。結構贅沢な限りである。連れ合いは5時過ぎには起きて、朝の一寸冷え込む中、2人でホテルの周りを散策した。朝食も、狭いながら、皆と一緒に食べるスペースはあった。今日は、7:45にバスで、一路スロバキアのブラチスラヴァに向けて出発することになる。途中ローゼンベルグの名前をそのまま冠したドライブインにはいる。通常なら、チェコの中を走り、スロバキアに入ってブラチスラヴァに向かうのだろうが、シェンゲン協定のおかげで、近道を通り、一旦オーストリアに入ってそこからスロバキアへのルートが簡単に採る事が出来るわけだ。我々もそう言ったルートを採ったようだ。8:15にオーストリアに一旦入国し、1時間ばかり走ってドライブインでトイレ休憩をする。ドライブインではガソリン代をチェックするが、このところ高くなった日本よりも未だ1割方高いような気がした。モーツアルトの絵柄が入ったチョコレートがやたらに置いてある。之もお国柄であろう。ドライブインを出て、オーストリアの田園風景の中を走る。ここオーストリアも原発撤退組であり、各所に風力発電用の風車が目に付く。のどかな田園の風物詩でもあり、どう転んでも放射性物質のでない風車装置には何か安らぎに似たものを感じる。風力発電は、天候に左右されるとか、1kwh当たりのコストが原子力発電の8.9円に対し、14円とも20円とも勝手な計算をしているが、原発の廃炉を含めたグランドトータルのコストを考えると原発は8.9円というのは詭弁に過ぎない。又、ヨーロッパは全体として、大きなユーラシアプレートに載っており、海溝型地震や津波の心配は、日本に比べて全くないと言って良いくらいなのだ。皆熟知しているはずのこういった事実を日本の地質学者は何故大声で唱えないのか、不思議な気がするが、学者と雖も、食べていかねばならないと言うことから、日和見的な発言をする方が、潤沢な研究費がもらえるといった小賢しい体制になっているような気がする。まぁ、旅の途中で、そのようなことを考えても詮無いことだが、外国に出て、日本の愚かしさを感じることが多いのは、井の中の蛙になり、飼い慣らされている証左ではないかと感じるのである。添乗員の歴史講義にもあるように、昔は東欧と呼ばれていた、今旅行している国々の祖先は、中央アジアからヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族から分派したケルト族である。旧ローマ帝国からは、アルプス山脈を越えた地に住むものは蛮人として扱われ、ガリア人とも呼ばれていた。必ずしもケルト人とガリア人は同義ではないが、ドナウ川を挟んで、ゲルマン人との線引きが為されていた。しかし、4世紀、中国の北隣に居住していた匈奴の子孫であるフン族に押されて、ゲルマン人の一派であるゴート族が南下する所謂ゲルマン民族の大移動が起こり、ヨーロッパの古代は中世へと大きく展開することになる。その後、ハンガリー人の祖となるマジャール人や、アヴァール人、ボヘミアン(チェコ人)などにそれぞれ分派して、ヨーロッパの中世は始まったのである。いずれにしても、フン族に追われたゲルマンが移動し、ローマ帝国と一定の秩序で均衡を保っていたのが、徐々に崩れ、上記の民族の集合体であるフランク人と呼ばれる人達は、フランス、イタリア、そしてスイス、ドイツなどに展開したのである。スカンジナビア半島から南下した西ゴート族が王国を作り、フランク王国と、ドイツに興きた神聖ローマ帝国などと、にわかに中世色が濃い状態になる。後はハプスブルグ家である。ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系でユリウス一門の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得すると共に、強大な権力を手中にしたのである。ドイツ、オーストリア、スペイン、ナポリ、トスカーナ、ボヘミア、ハンガリー、オーストリアなどの大公・国王・皇帝の家系は全てこのハプスブルグ家に繋がるという有様である。このハプスブルグ家の関係をにわか勉強で知ろうとするには無理がある。このハプスブルグ家は、ヨーロッパ随一の名門王家と言われ、ビスマルクによる統一ドイツ帝国が出来るまではヨーロッパに君臨していた。こういった話を添乗員は細かく要領よく話してくれたが、時々は睡魔に勝てず、飛び飛びに聞いている有様であった。そうこうしている内に、11:30オーストリア内でホテル併設のドライブインで休憩を取った。ここはゴルフのドライビングレンジを有する結構大きな施設であった。30分ほどの休憩の後ドライブインを出発、再び、スロバキアのブラチスラヴァに向かう。スロバキアは、その名の通り、スラヴ人の土地であった。ゲルマン人の大移動に伴って、スラヴ人もカルパチア山脈を越え、モラビア川を越えて、スロバキア方面に入りモラヴィア王国を建国してスラヴ人王国として栄えたが、やがて、マジャール人に押されて、荒廃し、滅亡の道を歩んだという。マジャール人は元々東洋系の民族であり、移住してハンガリー平原に展開したが、オットー1世に破れ、生き残りのため、キリスト教改宗を決意した。ハンガリー王のイシュトバーン1世が洗礼を受けるに至って領地を安堵される形となった。この事は、やがてハンガリーに入った時に明らかになるであろう。それにしてもスロバキアの国境付近では、風力発電の風車が何とも多いのに驚く。12:40スロバキアに入国する。ここスロバキアはどちらかといえば原発依存のようだ。外見上は国が変わっても殆ど変化は感じられない。ドナウ川に掛かる、主塔の頂部に円盤を置いたような美しいフォルムをした片側長スパンの斜長橋を渡ると、左前方の高い丘の上にブラチスラヴァ城が見える。4方のタワーが突出しているために、「ひっくり返したテーブル」という愛称をもって親しまれているようだ。また、聖マルチン大聖堂も目を引く建物である。13:00にバスを降りると、ちょうど真っ赤な可愛い路面電車が通過するところであった。それをバックに連れ合いの写真を撮る。聖マルチン大聖堂はるだけだが、近くで見る大聖堂は、急勾配の赤屋根を持つ結構大きな建造物であることが分かる。昼食のレストランに向かう道路も小綺麗で、オープンカフェ的なテーブルが路上に並べられていた。またリストが滞在したという館には、彼の顔のレリーフが掲げられていた。今は武器博物館になっているという、ミハエル門を通りの奥に見て、ひときわ広いフラヴネー広場で周囲の建物を楽しんだ。周りには、日本大使館を始め、フランス大使館やギリシャの大使館もあった。また、マクシミリアン2世が命じて作らせたという噴水(水汲み場)は、今は枯れていたが、その一角を占めていた。日本語で「寿司」という店もあり、日本人も多くいそうな感じである。また広場の一角には、ナポレオンが肘を突いて休んでいるような銅像付きの椅子があり、観光客は好んでその銅像を背景に写真を撮っていた。赤い市内遊覧バスも走っていて、之が実にのどかな感じを醸し出している。観光バスに戻る道すがら、道路のマンホールから工夫が顔を出して眺めていると云った像(Man at work)があり、これも吹田から来たカップルに教えて貰った。他にも街角から写真を撮っているなどと云った像が、随所にあるとのことだが、我々が見つけたのは、ナポレオンと工夫の像だけだった。15:20バスに戻り、ブラチスラヴァ城に向かった。ブラチスラヴァ城自体は外観だけの見学だが、そこからの眺望は素晴らしく、ドナウ川が眼下に流れて、左には先ほど通ってきた斜張橋が見え、対岸は新市街ということになるのだろう。しばし風景を撮影したり、眺望を楽しんだりした後、土産物店でトイレを借りることになったが、ここの使用料は今までで1番高く0.8ユーロであった。ここスロバキア一帯は、実に目まぐるしく支配体制が変化していて、他のヨーロッパ各地よりも一層翻弄された歴史を持つ。それも、東欧(今は中欧)と呼ばれる、政治的イデオロギーの狭間にあったのと、民族的な鬩ぎ合いの交錯点にあった地政学上の問題が底辺にあるようだ。遠くローマ帝国の時代にはパンノニアとして皇帝属州であったが、その頃の版図は、現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがっていた。その後、時の皇帝の思惑などで、現在のスロベニアをパンノニアから除外したり、西ローマ帝国に属したりしこともあった。そして、フン族の出現で、パンノニアはフン族に割譲され、ローマ帝国の属州ではなくなった。その後、この土地は次々と支配者が変わり、東ゴート王国→ランゴバルド人→アヴァール人→スラヴ人→マジャール人(現ハンガリー人)そしてハプスブルク帝国と変遷し、最後に、オスマン帝国によって支配されるに及んでいる。最終的には、現在の形に収まっているが、今なお一部では、民族的な対立が解消されたわけではない。見学後バスに乗り、次の目的地である「東洋の真珠」と呼ばれるハンガリーの首都ブタペストに向かった。夕刻ブダペストに着いたが、明日見学する場所を通り今日投宿のヒルトン・ブダペスト・ホテルに到着したのは、18:55であった。夕食を済ませ、有志だけで、夜間ライトアップされた鎖橋や、対岸から見るブダ城を見学した。ヨーロッパの夜空は実に碧く、気持ちまですっきりする感じである。ホテルに帰りベッドに付いたのは、22:40で流石に今日は疲れた感じだ。
2012.03.27
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今日も2:30頃には1度目が覚め、うつらうつらしながら結局は4:30には起きた。連れ合いと2人で、少しは、冷たいが、昨日よりはコンディションの良いホテルの外を散歩した。ホテルの前は、V字型の路面電車の線路が交差する複雑な場所にあった。外観は城の様な、たたずまいである。ホテルの周りを一回りして、例によって1番乗りで朝食を食べ、7時前には食事は済ませていた。そろそろ出発だと言う頃に、吹田から来ているカップルが、どうやらネットで調べたらしく、ホテルに頼めば、真ん中の塔の最上階に連れて行ってもらえると云うことで、ホテルに交渉したようだ。出発時間には未だ少し時間があったが、それを知った添乗員は、あまりいい顔をしなかった。この事が、30数名の客全体に行き渡ったら、収拾が付かなくなることを恐れたのであろうが、少し方向が違っているという気がした。近くにいたのは我々2人であり、それを聞いて、吹田の2人と共に、急いで、ホテルの係員を伴って最上階に上り、プラハ郊外の町を睥睨することが出来た。北方向には丘陵に沿って流れるブルタバ川(ドイツ名モルダウ川)の支流らしき川が見え、東は、朝日で殆ど見えないが、南には、赤屋根の街並みの向こうに遠くプラハ城が覗えた。西の方を見ると、朝日に照らされた、チェコならではの家並みが、丘陵に沿ってその斜面を覆い尽くしていた。赤いベンガラ色の屋根に白い壁は、異国情緒たっぷりのものであった。吹田のカップルのおかげで、他の人より相当得をした気分で、1階に下りると、未だバスは到着していなかった。ほどなくバスが着き、プラハ城に向かった。プラハ城には20分程度で着いて見学が始まった。プラハ城の外観が見えるところから誰もがカメラを向けていた。更に、中に入って、衛兵が立っている、傍で、皆さんは写真をめいめいで撮っていた。顔色一つ変えるでもなく、毎日365日観光客と同じ被写体に収まるわけだが、之もまた大変な仕事だと思った。門を潜り、中庭を一回りしたが、今は庁舎として使われているとか、殺風景な広場であった。広場の各建物を背景に一渉り写真を撮った。広場に一角には、チェコスロバキアがハプスブルグ家の崩壊と共に独立して、その初代大統領に就任した、トーマス・ガリク・マサリク(TGM)の銅像が建っていた。之も今は昔、チェコとスロバキアが分離する前の事である。マサリクが統一を行ったチェコスロバキアは、今は民族毎の独立を果たしている。(この辺のところは、以前に読んだ「中欧の分裂と統合」に詳しい)統一民族である日本にあっては、この辺の真髄を肌で理解するのは困難かも知れない。敢えて、連れ合いの写真をマサリクの銅像をバックに撮った。プラハ城内の荘厳な聖堂は、いずこのヨーロッパでも目にする素晴らしいもので、ステンドグラスの採光と装飾は、外観の荘厳さとは別に、きらびやかな側面を持っている。そんなプラハ城を後にして、徒歩で坂を下りながら、チェコの街並みを見ると、ホテルから見た街並みが、クローズアップされているようで、なかなか味わい深い。きっとこんな道であれば日頃ウォーキングするのも又楽しいことだろう。プラハ城を降りるとモルダウ川に出る。モルダウ川はやがてエルベ川に合流して、北海に注いでいる。そのモルダウ川にヨーロッパ最古の石橋といわれるカレル橋が掛かっている。16連の上床型アーチ橋で現在は、歩道専用となっている。橋の欄干には、いくつかは修理中であったが、15体ずつ30体の彫刻があり、カトリック聖人のヤン・ネポムツキー像の基部に触ると幸運が訪れると云うことで、連れ合い共々触ってきた。勿論多くの人が触っているので他と違ってつるつるになっているので一目で分かる。橋の上は人で溢れんばかりである。そこを通って、プラハの旧市街地にはいる。何処をどう歩いたのか、やがて、旧市内広場に出た。そこには沢山の屋台がテントを張っていた。ヤン・フスの像やティーン聖母聖堂、聖ヴィトー大聖堂などがあり、とりわけ天文大時計ではその回りに沢山の人だかりで、計ったように大時計が11時の時を刻み窓から人形が顔を出し、てっぺんではトランペットを奏でる人がサービスの演奏を聴かせてくれた。11:20ボヘミヤングラスの店に入ったが、大して興味を惹くものもなく、そのまま、町の中を少しうろついた。中に、17ピースに分かれたマトリョーシカや、オバマ、プーチン、チェ・ゲバラ、プレスリーなどのマトリョーシカも売っていたが、残念ながら日本の人物のものはなかった。店を出て、暫く歩き、黒い弾薬庫の塔をくぐり抜けると、昨日バスが着いた広場に出た。黒い弾薬庫はその横の市民会館に繋がっており、その市民会館がレストランになっている。そこで昼食を採ることになっていた。それまで、あまり沢山の写真を撮りすぎたためか、折しもカメラの電池が、バッテリー切れを示す赤になっていたので、ウエイターに頼んで、持っていた充電器で電源を借りて昼食時間を利用して充電して貰った。昼食は、神戸の西端から見えている夫妻と同席だった。食事を済ませ、市民会館からバスまで歩くと、プラハを後に一路チェスキークルムロフへ向かった。バスは、プラハから、おそらく最短コースの真南に走ったのであろう。チェスキークルムロフには16:30に到着した。プラハから、東南にもう少し長く走ると、ボヘミアのモラバ丘陵を超えた辺りに連れ合いの姫が留学していたズリーンという町があると聞いていた。プラハからは遠いが、なかなか良いところで過ごしていたものだと、連れ合いは、娘が滞在していたところに近いことを味わっていたようだ。チェスキークルムロフが何故有名か。単に景観がよいというだけではなさそうだ。チェスキーは、チェコのという意味で、クルムロフは曲がっているという意味なのだそうだが、180度蛇行するモルダウ川に囲まれた、市街地は、ほんの小さな区画である。道路脇の駐車場から少し歩いて、ちょっと高台のホテルベルビュー迄歩き、そこで先ずチェックインを済ませた。インターネットで調べたそのままの正面玄関には、小型トラックが止まっていた。一旦投宿し、チェスキークルムロフ城見学のために出掛けた。この辺りは適当な石が取れず、石灰岩の壁に、ペインティングで、石組みのように見せるといった手法(だまし絵)が町のあちこちに見られた。この城の直下をモルダウ川が流れているのだが、裏側から見ると、自然の立地を見事に活かした、岩の上に建つ城で、どのようにして建てたのだろうかとつい想像してしまう程の要塞に見えた。城から見る旧市街は、箱庭のように、チェコの街並みがプラハで見たと同様に眼下に見えた。一渉り旧市街を散策し、スヴォルノステイ広場の一角のレストランでの夕食となった。この時は、芦屋と、大阪から来たという、男性2人組の人達と同じ食卓であった。歓談しながらの夕食は約2時間で、夕食を終えて外に出るとすっかりと暮れ、広場の中央にある、ペストに対する庇護を願ったマリアの像の塔の上には、三日月と、星が、行儀良く光っていた。一瞬イスラムの世界に紛れ込んだのかと思わすように、冴えた三日月は、あくまで澄み切った紺碧の空に煌々と光っていた。神のご加護で、ペストの拡散を防げたと云うが、私などは、何故、ペストが起こらないように神が事前に手を打たなかったのかという方に考えてしまう。信仰するものと、非信仰者との違いであろうか。ぶらぶらと散策がてら、ホテルへの道を歩きながら、今日は、バスでの移動距離が短い分、長く歩いたものだと足腰にやや、重みを感じた。帰りに、又チェスキークルムロフ城の方に行って夜景を観ようかと思ったが、連れ合いは、疲れた様子で、そのままホテルへの道を辿った。チェスキークルムロフは南ボヘミアのローゼンベルグ家のものであったのだが、近代に於いては、ドイツ系民族とチェコ系民族の相克の地となり、ナチスによる占領期にはドイツ系が幅を利かしたが、ドイツの敗戦によって、チェコ系民族が之に取って代わり、ドイツ系民族の財産没収と、300万人とも云われる大量のドイツ系民族の追放に踏み切った。その後の共産主義化に伴い、現在のような文化遺産を無価値とされる風潮に、チェスキークルムロフは、荒廃した町として忘れ去られるに及んだ。無価値とされ、忘れられて荒廃した町には、ジプシーとして知られる、現在も尚ヨーロッパで物議を醸すロマ族の大量移入するところとなった。現在は、チェコ人との同化も進んでいるが、現在も尚激しい差別意識は消えず、エスニック・クレンジングのためにロマ人の断種政策まで採られているという。街角に「Gypsy→」と掲げられたレストラン・パブの看板を見る時、一つの感慨が又起きるのである。こんな可愛い世界遺産の影に黒々とした得も言われぬものが底流に流れていることを知った。この町は、エゴン・シーレの母親の生誕地でもあることから、エゴン・シーレの名前も良く聞かれた。この町をクルクル回っていると、結構色々なものに出くわし飽きない感じだ。20:30にはホテルに帰り、屋根裏部屋のような一寸狭い部屋ではあるがシャワーを浴びて、1日の疲れを癒し、早めに眠りについた。翌朝、他の旅行組からは寒くて寝られなかったと云った苦情もあったようだ。
2012.03.26
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中欧旅行(ベルリン→プラハ) 午前0時、頼りにしている時計替わりのi-Phoneをベッドの狭間に落とし、探すのに一苦労をした。どうしても時差がつきまとうのかも知れないが、私にとっては、日頃から変則的な起床時間なので、眠い時が寝る時だと決めている。流石に旅の疲れもあって、再度眠りについたが、4:50に目覚めて、5:30には起床である。この時は、i-Phoneがサマータイムをフォローしているか気になったが、テレビの時刻と合っているので、安心することが出来た。モーニングコールが6:30ということだが、そそくさとホテルの玄関前に出る。玄関で記念の写真を撮る頃には外はもうすっかり明るい。しかし、全体がガスっているようで、冷気も又ひとしおである。昨日の昼間とはえらい違いだ。1階のロビーは、結構ゆったりと広く、正面には、長いカウンターバーが設置されていた。旅行組も、何人か降りてきていた。6:30には朝食がスタートで、早速1番でレストランに入る。誰も遅れる人はなく、8:00には、出発である。昨日の空港は、ベルリン・テーゲル国際空港で、ベルリンにある3つの国際空港のうち最も便数が多いのだそうだが、ランディング時に外を見ると住宅街が近く結構危険そうである。今年開港が予定されているベルリン・ブランデンブルク国際空港が出来れば、閉鎖が予定されているという。今日は、朝1番にポツダムへ行く予定で、ガイドの説明によると朝の霧は珍しいのだそうだ。ポツダムはベルリンからは西南に35kmほどの位置にある、ドイツは、制限時速無しのアウトバーンがあると聞いていたが、それは昔のことで、最近は、何処も制限時速があるとのことだ。1921年に完成したアヴス(AVUS:Automobil-Verkehrs- und ?bungs-Stra?e)と呼ばれる世界初のベルリン郊外サーキットだった道を通りポツダムに向かう。しかし、こうした道路整備が早くから出来ていたために、メルセデスや、アウディ、BMWなどの高級車が生まれたのかも知れない。尤も、走っている車は、フォルクスワーゲンが多いようだ。ポツダムは、元々小さな町であったが、都市特権を得た後にも30年戦争で、人口の半分を失ったという。しかし、宗教寛容令であるナントの勅令以降移民が増え、ヨーロッパ移民の中心地になったのだという。そんな話の中、8:35に、サン・スーシ宮殿に到着する。バスが止まったところには、大きな風車が目に付いた。日本にはない風車の風情は由緒ありそうな感じで一寸惹かれるものがあった。霧で視界が悪い上に未だ早いとあって、観光の客は、我々以外は数えるほどであった。フリードリッヒ2世(大王)が造営した、夏の離宮であるが、勿論中に入る予定はない。サン・スーシの意味は、無憂、気楽、気苦労無しというのだそうで、浮世離れした館という意味であろうか。このフリードリッヒ2世は優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセン(ドイツ、プロシャ)の強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされた人物であり、功績を称えて大王の尊称を贈られている。とにかく何段にもなった庭園の壁面には、ブドウの蔦が絡まっていて、之が繁茂する時期は、緑に包まれた館になるだろうと想像できた。ガイドの説明では、妻とは巧くいっていなかった。とにかく犬が好きだった。そして、痩せた土地でも繁殖するジャガイモの栽培を奨励したなどのエピソードの説明であった。この辺りには、湖や沼沢が多いようだが、我々が通った道は、未だ朝の霧が残り、良い風景を見ることが出来なかった。一渉り庭園の散策をして帰る頃には、ドイツ人の観光客と思われる人達もそろそろ出掛けてきているようだった。9:40、次に向かったのが、サンス・スーシ宮殿から少し北東部にあるツェツィリエンホフ宮殿である。ここでは、第2次世界大戦終結の会談(ポツダム会談)が行われた事で有名である。ドイツを詣でる日本人は必ず行くにようにし向けられているかの如く、例外なく訪れるようだ。この宮殿は、第一次大戦の際にドイツ帝国最後の皇太子ヴィルヘルムが妻のツェツィーリアに建てたものだそうで、いずれの国でも皇帝たる者よく妻に建物を贈るもだと感心する。建物は木製を誇張したもので、宮殿と云うよりも、豪華な、湖畔の静かな山荘という雰囲気である。その山荘風の建物内に、部屋数が180もあると言うから、一寸想像を絶する。庭園内にはいると、ガイドに載っていた、旧ソビエトの社会主義の象徴である赤い星の花壇がどかっと今でも植えられそのまま維持されている。既に、ソビエトは崩壊し、東ドイツも無くなった現在でも旧守のこの赤い星は何のために形を壊さず植え続けられているのだろうか。赤い星が象徴するものも無くなってしまったのだが目立つという点では、これ以上の物はないようだ。ここは、第2次世界大戦終結の密約がかわされた場所として有名であるが、東条英機との確執があった、日本陸軍参謀の石原莞爾もここに数年間滞在したという。何故大戦終結の会議が、ここポツダムで行われたかについてはよく分からないが、スターリンの存在が大きかったようだ。独ソ戦争で、「冬将軍」の助けを借りてソ連がドイツを蹴散らしたことに寄るのかも知れないなぁなどと考えたが、やはり、第2次世界大戦は、ヨーロッパが主役であり、その派生とした太平洋戦争は、日米戦争と云うことで、最終的にソ連が参戦したのは、過去のこういった経緯があってのことだろうかなどと考えた。ポツダムに参集したのは、アメリカからはルーズベルトに変わるトルーマンであり、イギリスは、チャーチルで、これもアトリーが継いでいる。勿論之をリードしたのは、スターリンであるようだ。スターリンには、控えの間や広い部屋が用意されているが、トルーマンには、狭い部屋しか用意されていなかったなど、当時の力関係を窺い知れる気がした。戦争に於ける武功もさりながら、出席者が変わるのとそうでないとではやはり発言力は違いがあるのだろうか、そう言う観点から見れば、日本のように猫の目のように変わる首相では外交上も、どこに行っても大きな発言力を期待することは無理であろうという気がした。とにかく円卓には、ソ連、アメリカ、イギリスの三者が付き、蒋介石には、トルーマンとチャーチルが、電報で了解を得るという形だったようだ。部屋の配置などから見ても、この時から既に冷戦構造は始まっていたという。ドイツは東西に分断、トルーマンは、この時原爆投下を決意したと云われている。静かな山荘のきらびやかとは云えない1室で、ドイツや日本の運命が定められたのかと思うと、感慨もひとしおである。そこを出て、11:40途中のレストランで昼食を採った。そのレストランには、マリリンモンローをキリストに見立て、クラークゲーブルやジェームスディーンなどと云った12名の最後の晩餐の絵が掛かっていたので、思わす、写真を撮ってしまった。レストランを12:35に出発し、後はトイレ休憩を挟んで、ひたすら、チェコの首都プラハに向かう。途中には、太陽光パネルや、風力発電のプロペラが、何基も設置してある。流石にメルケル首相の英断で、旧型原子炉の廃炉をいち早く決め、2022年までに全原子炉を廃止し・再生エネルギー拡大を目論んでいることが覗える。このバス運行の間が添乗員の働きどころである。様々な話で、退屈させないように話を繋いでいる。しかし、私などは、その殆どを寝てしまっているのだから、勿体ないと云えば勿体ない話である。城の名前でシェルとブルグの違いだとか、EU加盟の車のナンバープレートの左に書いてあるアルファベットは、国名を指すとか、簡単なドイツ語のレクチャーとか色々である。因みに我々の乗ったバスはナンバープレートに左端に「PL」と書かれていて、ポーランド国籍である事が分かる。車は360kmをひた走って、プラハに着くのだが、途中国境がある。昔なら、国境毎にイミグレーションの手続きをしなければ成らず。時間を食ったのだが最近は、バスで素通りである。バスもスピードを緩めるわけではないので、道ばたの、EUマークの看板を見落とすと、知らぬ間にチェコに入国していることになる。また、ヨーロッパの国家間ではシェンゲン協定を結んでおり、国境検査なしで国境を越えることを互いに許可している。ボヘミアと呼ばれたチェコの昔、スラブ系のオタカル1世はハンガリー王国と対立し、さらに神聖ローマ帝国が大空位時代を迎えると、次の皇帝候補の1人となったのだが、ドイツ諸侯やローマ教皇にとって、スラヴ人の家系であるオタカル2世が皇帝になる事は問題外であり、皇帝選挙では、ドイツ人であるハプスブルク家のルドルフ1世に敗北した。周りの選定候にあっては、腕力のあるオタカル1世よりは弱小な地方領主であまり発言力がなかったルドルフ1世の方が、手なずけやすかったと云うことだ。トップは軽い方が良いというのは、昔も変わらぬものであったようだ。プラハに着く前に、ボヘミア(チェコ)の宗教改革者ヤン・フスの紹介があった。腐敗したキリストカトリック教に反抗したのだが、やがて敗れて世俗により焚刑に処せられたという。しかし、フスは処刑される直前に、もし異端であることを認めれば命は助けるという要請を拒否し、処刑されたが、彼の最期の言葉は「真実は勝つ」だったとチェコ人の間に伝わり、この最期の言葉は、外国支配の続いたチェコ人のよりどころとなったというのである。このような逸材は、500-600年を待たぬと現れないのであろうか。16:40チェコに入りトイレ休憩を済ませ、18:00にはチェコに到着した。例によっておみやげ物やに寄り、投宿ホテルである、タワーのような中央棟がそびえるクラウンプラザ・チェコに着いたのは20:30であった。
2012.03.25
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今日から(実質は昨晩から)中欧旅行に出掛けた。昨日の午前中、連れ合いは、卒業式を済ませ、午後から行動を起こしたのである。連れ合いの早すぎるというのにも耳を貸さず、出発したのが午後3時であった。生憎の雨模様に、車で、荷物と連れ合いを駅まで先に送り、車を置きに帰って、後から歩いていった。従って梅田に着いたのは、16:00で梅田発のリムジンに乗ったのは、16:20であった。1時間足らずの17:15には関空に着いていた。バスには1番乗りだったこともあり、最前席に座った。前にも同じルートを通ったのだが、後部座席だったために気づかなかったが、今回は、雨模様の中、フロントガラスから真っ赤に塗装された、港大橋が見えた。3径間のゲルバートラス橋で、全長980mと東京ゲートブリッジには劣るものの、トラス橋の中央径間510mは、日本最長で、世界第3位の長さであり、東京ゲートブリッジの440mを凌いでいる。関空に着いた後は、しばし日本食にありつけないと云うこともあって、和食の食堂に入った。暫くして、受付が始まろうとする20:00に旅行社デスクに行くと、既に高松からバスできたというご夫妻に出会った。そこからが長かった。カタール航空の搭乗手続きは21:50ということで、約2時間待たされた。何でも早く行けばいいと云うものではなく、連れ合いに「次はもう少しゆっくり来ようね」といわれる始末。それでも、少し早めに関空の端の空港デスクに赴いたが、既に、人並みでごった返して居るではないか。暫くその列にいたが、どうもおかしいと気づいた。そこは隣のアジアンエアーであった。隣り合わせのカタール航空は、予定通りのチェックインである。ここでも1番先に並び、手荷物検査に赴いた。ここが結構面倒な気になる。あらゆる金属類を出して、果てはベルトまで取れというのだから、煩わしい。前に靴まで脱げと言われたので聞いてみると、どうやら短靴は良いらしい。イミグレーションについては、最近あまり気にならなくなった。スタンプも、日本では、結構真面目に押してくれるが、外国は、斜めや裏向きなど一切構わず、ただ押すだけである。連れ合いは一層要領が良く、空いた列に回って、向こう側で待っていた。ドーハ乗り継ぎのQR803の搭乗ゲートは1番である。中間駅で降りて、端の方になる。夜遅いこともあって、ゲート前はガラガラであった。やがて同じ旅行組やその他の人も集まって、次第にゲート前は賑やかになった。やがて乗務員一行が乗り込み、定刻00:20発が00:05に変更になっていた。滅多に15分も早まることはないのだが、国際線故、そこは何があるか分からない。登場して日も変わり、無事テイクオフできた。カタール航空は、空の5つ星と銘打っているが、そう言われてみると、前に乗った時よりも心持ちレッグルームが広めに感じた。テイクオフして暫くすると食事である。チキンや白ワインを頂いて、後は寝るだけだが、所在なく、テレビを見たが、どうも使い勝手が悪い。うつらうつらしながら、「戦場の馬(War Horse)」を英語にアラビア語の字幕スーパーというので見たのだが、雰囲気は分かるものの、細かいニュアンスなどは分からない。食事と眠りとの間に、少しばかり映画などを観るのだが、それにしても、11時間30分のフライトは辛い。出発前に添乗員が、ドーハ時間にアジャストしておくように云われたが、i-Phoneの世界時計で何とかなるだろうとそのままにしておいた。時差は、ドーハが6時間遅れである。日頃から、i-Phoneの充電は、赤いアラームが付いてから充電することにしているのだが、気がつくと電池残量が少なくなっており、充電の必要性を感じた。電源のありかをCAに聞いたが、「Under」(シートの下)と実に素っ気ない。それでも探すと差し込みがあるので、持ってきたC型のソケットを介して、差し込んでみるが、一向に通電している様子がない。もう一度CAを呼ぶと、今度は日本人がやってきて、C型コンセント無しで差し込むと通電した。「ここはそのままで良いんですよ」とのことだが、ならば何故、差し込み部が、C型対応のように丸型対応にもなっているのか合点がいかなかった。そんなこともあったが、機体は、関空を発ち、ほぼ一直線に北京に向かい、ゴビ砂漠とタクラマカン砂漠を突ききって、イスラマバードの上空をかすめた。その後パキスタンを縦断するように、南下して、オマーン湾に出、その後は、ホルムズ海峡を右に見ながら、一直線にドーハへと向かった。5:15に、機長アナウンスで、外は20℃とのことだが、ドーハの朝は意外に涼しそうである。ランディング姿勢に入り、窓外を見ると、砂で覆われた家々が、その家自体砂色で、何とも味気ない風景が広がっていた。ドーハ上空で何度か旋回していたようだから、おそらくラスラファンのガス田の上も通ったであろう。6:50には無事ドーハ空港にランディングした。ドーハ空港は、私が訪れた時よりは随分立派に大きく拡張されていた。ドーハはトランジットだけだからイミグレもなく、実に簡単である。従って、パスポートにはあの独特なアラビア文字はスタンプされない。ベルリンに向けて出発は之もとん先のゲート34からで、8:45のやはりカタール航空のQR-0053である。ここで、ベルリン時間との時差2時間を調整するところだが、昨日からヨーロッパは、サマータイム導入で、1時間の時差と云うことになるようだ。とてもややこしいが、私のi-Phoneは行く先々で、その地の時刻に合わせてくれる。因みに、サマータイムまで考慮して調整してくれるのだから、立派なものだと感心する。カタールはリッチな国であるが、一面砂だらけで、北部でガスが湧出すると云うだけのことである。カタールの町の一角に高層ビルが建つ以外は、全面砂漠といった方が当たっている。テイクオフして窓外を見るとその事がよく分かる。ドバイと同じように、無から新都市を建設しようとする姿が良く見える。機体は、アラビア海をほぼサウジの海岸線に沿って北上する。途中砂漠に円形のイリゲーションを見かけるところもある。ここも砂漠のトルコを横断し、10:20には黒海を通過オデッサの西南からヨーロッパ大陸に再上陸する。そこからの視界は、今までの砂漠と違い、緑に覆われて肥沃な大地である。かつて、十字軍が、何故肥沃な土地から、砂漠の国に攻め入ったのかと云うことを思うと、合点がいかないのだが、それほど、エルサレムという土地がシンボリックな土地なのだと改めて感じた。いよいよベルリンに到着だ。機長の機内アナウンスではベルリンは快晴で、17℃だという。予想を遙かに越えて、良いコンディションだ。 予定より早く13:40荷物を無事ピックアップ、そのまま市内観光に出掛けるのだ。こういったハードスケデュール故に安価なツアーが成り立っているのかと、承知の上で、バスに乗る。最初に訪れたのは、「シャルロッテンブルグ宮殿」である。プロイセン王フリードリッヒ1世が、后ゾフィー・シャルロッテのために建てたというコの字型の瀟洒な建物である。時間の関係で、正面玄関からの外観写真を撮るだけに終わり、内部のより美しい庭園は素通りである。未だ早いと言うこともあって、宮殿前の人出は、それほど多くなかった。それでも最初のメニューは消化、次に「ベルリンの壁後」に向かった。ドイツ敗戦後、東西ドイツに分かれた際にこの壁は、東ドイツからの西への脱出者を防ぐために作られたという。理想的に聞こえる共産主義の破綻は、この時から既に明らかなのであるが、高さ3m程度のこのような壁を、よくまあ、人為的に作り出したものだと感心した。おそらく、そこここで、之を乗り越えようとして命を失った人も多いに違いない。敢えて2-300mの区間、実際の壁そのものを残してある部分があり、そこには、記念の博物館が併設されていた。次は、「ブランデンブルグ門」である。 こういった観光旅行は、時代が、前後するので又混乱する。元々は城郭都市を守るための壁を設けていた18ある門の内残存する唯一の門である。この辺りになると、中世ヨーロッパ史を熟知していないと、理解がなかなか覚束ないが、アテネの門のドーリア式円柱を今に残し、門のトップにはクアドリガ(四頭建ての馬車)に乗った女神ヴィクトリアが威風を放っている。ナポレオンに征服され又奪還したという運命に翻弄され、更に、ベルリンの門が、このブランデンブルグ門の眼前に張り巡らされるに及んで、門は門の態を成さなくなったという。ドイツユーロ硬貨の裏面に掘られるなど、ドイツの象徴的な建造物となっている。後は余録であるが、ベルリン大聖堂の近くに降りた。しかし、残念ながら、ミサの始まる時間だという云うことで、内部には入れなかった。市内を軽く一回りしたが、どの建物がどれなのかまではとても覚えられない。最後に、「きむらや」というショッピングの店に連れ込まれたが、之は旅行社の必要な立ち寄り場所と云うことで、中を覗いたが、大して魅力的なものは置いていなかった。歩行者専用の信号灯に使われた「アンペルマン」がベルリンでは流行りだそうだが、何の変哲もないものだった。ホテルに帰る前に夕食を済ませたのだが、どてっとソーセージが皿の真ん中に置いてあるのがメインだとかで、いかにもドイツらしいと感じた。この頃になって、やっと同行の人達がどこから来たのかが少しずつ分かるようになった。夕暮れが迫る中、今晩のホテルに向かう。ベルリン郊外で、結構時間が掛かるのは仕方のないことだが、20:40ホテルに着いたら、既に外は暗く、周りは、住宅街のようで、外出する気にもならなかった。ホテルの名は、ホリデイイン・ベルリンシティーウェストということで、各自部屋まで荷物を運び、明日7:55集合と云うことで、今日一日の長かった飛行機と観光の旅を終えた。
2012.03.24
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第六十段【本文】真乗院に、盛親僧都(そうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治(れうぢ)とて籠り居て、思ふやうによき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭(あし)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏(とも)しからず召しけるほどに、また、他用(ことよう)に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。 この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎(とき)・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡(ねぶ)たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚ぬれば、幾夜も寝(い)ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常(よのつね)ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。【訳文】 仁和寺の真乗院に、盛親僧都といって、非常に偉い学僧がいた。いもがしらという物が大好きで、それをたくさんたべた。仏典の講義をする席でも、いもがしらを大きな鉢に山盛りに盛って、いつも膝もとに置いて、それをたべながら、仏典をも読んで説明した。病気にかかることがある時は、七日・十四日などの期間、療養といって自分の室に閉じこもっていて、うまいいもがしらを思い通りに選び出して、ふだんよりも特に多くたべて、どんな病気をもなおした。そのいもがしらを他人にたべさせることはない。いつも、自分ひとりばかりたべた。ひどく貧乏であったところ、師匠が、死にぎわに、二百貫の銭と一つの坊を譲ってくれたのに、その坊を百貫に売って、二百貫の銭とこの代価百貫とを合わせて合計三万疋をいもがしらの代金ときめて、京都にいる人に預けておいて、十貫ずつ取りよせては、いもがしらを不足なくおあがりになっていたうちに、その代金をほかの用途に使うことがなくて、すっかりなくなってしまった。「三百貫相当の物を貧しい身に得をして、このように処分したのは、ほんとうに珍しい道心ある人だ」と人々が言った。 この僧都は、ある僧を見て、「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるりとは、どんな物か」と人が尋ねたところが、「そんな物は、わたしも知らないのだ。もしあったとしたら、この僧の顔にきっと似ているだろう」と言った。 この盛親僧都は、容貌が立派で、力が強く、大食いで、名筆家として、博識家として、能弁家として、多くの人に立ちまさり、宗門内に重きをなす人であるので、真乗院でも重んじられていたけれども、世間を何とも思っていない、一癖ある者で、何事にも思いのままにふるまって、全然、他人に随従するということがない。仏事の勤めに出て、その終った後の御馳走の膳などに向かう時も、列席の人全部の前にすっかり膳を置き並べるのを待っていないで、自分の前に置き終わると、すぐに自分だけたべて、帰りたくなると、ひとりぷいと立って出て行った。正式の食事や非時の食事も、他人と同じように時刻をきめてたべない。自分のたべたい時は、夜中でも夜明けでもたべて、眠くなると、昼間でも室にとじ籠って眠り、どんな重大な事件が起こっても、他人の言うことを耳に入れず、目がさめてしまうと、幾晩も寝ないで、雑念を捨てて詩歌を吟じて歩くという具合いで、世間なみではないありさまであるけれども、人にいやがられず、万事に許容された。これは、僧都の徳がこの上なくすぐれていたからであろうか。【注釈】・芋頭:里芋の親いも・斎:戒律上の正しい食事第六十一段【本文】御産の時、甑(こしき)落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣(おんえな)とゞこほる時のまじなひなり。とゞこはらせ給はねば、この事なし。下ざまより事起りて、させる本説(ほんぜつ)なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に賎しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。【訳文】 高貴な方の御産の時に、尾根の枕から甑を落とすということは、いつもきまっていることではない。御後産がなかなか下りないで長びいた時のまじないとしてするのである。御後産がお長びきにならなければ、このことは行なわれないのである。 このまじないは、下層階級から始まった事であって、しつかりした根拠となる説があるわけではない。行なわれる時は大原の里の甑をお取り寄せになるのである。古い宝蔵から出て来た絵に身分の賤しい人が子を産んだ場面があって、そこに、棟の上から甑を落としている有様が描いてある。【注釈】・甑:瓦製の、飯を炊く器・御胞衣:後産第六十二段【本文】延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に御言づてとて申させ給ひける御歌、 ふたつ文字、牛の角文字、直(す)ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる恋しく思ひ参らせ給ふとなり。【訳文】 延政門院は、御幼少でいらしゃった時に、父君、後嵯峨法皇の御所へ参上する人に、父君への御伝言として申し上げさせられた御歌は次のようであった。 ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる 〔ふたつ文字(こ)、牛の角文字(い)、すぐな文字(し)、歪み文字(く)、とあなたのことは思われます〕 この一首の意味は、「こいしく」(なつかしく)お思い申し上げになるということである。【注釈】・君:後嵯峨法皇第六十三段【本文】 後七日の阿闍梨(あざり)、武者を集むる事、いつとかや、盗人にあひにけるより、宿直人(とのゐびと)とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中(しゅじゅう)のありさまにこそ見ゆなれば、兵を用ゐん事、穏かならぬことなり。【訳文】 後七日の御修法の導師が、警備のために武者を徴集するということは、いつであったか、御修法の期間中に盗人に襲われたことから、護衛役として、かように仰々しくやるようになってしまったのである。一年間の吉凶の形勢は、年頭のこの御修法の状況にあらわれるということであるから、兵士を使うということは、穏当でないことである。【注釈】・阿闍梨:御修法の導師第六十四段【本文】「車の五緒(いつゝを)は、必ず人によらず、程につけて、極むる官(つかさ)・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。【訳文】 「五緒の簾をつけた牛車は、必ずしも乗る人の身分によるものではなく、家の格に応じて、極官・極位にまで達すると、乗るものとなっているのだ」と、ある人がおっしゃった。【注釈】・五緒の簾:5ヶ所に垂れた5筋の風帯第六十五段【本文】この比の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。【訳文】 近ごろの冠は、昔よりは、ずっとたけが高くなっているのである。そこで、古代風の冠桶を持っている人は、新しい冠を入れるために、桶の縁を継ぎ足して高くし、今使うのである。【注釈】・冠桶:冠筥ともいい、冠を収める容器
2012.03.23
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今年初めての定例ゴルフコンペが高槻カントリーであった。コンペは80回目という事だが、私はトータル35回の出場になる。 今回は、9組32名の参加で、いつもの通り、我々は、同期3人と、友人の夫人との4人組である。 この間、打ちっ放しの練習に行ったが、段々と衰えを感じ始めている。スウィングで、体がふらつくのだから始末に悪いし、今回でも2回はそう言う時があった。連れ合いが忙しくなったので、練習にもあまり行かなくなったせいもある。今は、既に消防署(119)ペースになってしまっている。回れるだけでも幸せなどと言っていたが、時々は、何とかしようと力むことがある。今日は、前半、池のあるホールが4つあるが、ことごとく吸い込まれるように落としたし、ニアピンのマークの旗に当てるし、補修中という青杭にも当たるし、バンカーからのショットを木に当てるなどあらゆる障害に引っ掛かった。夫人は、ドラ短を取り、友人Bは5位入賞、いつもは冴えている友人Aはパットで苦労して見るべき所がなかった。私はと言えば、上記に加え、パターが後数センチのところで外すと云うことが多く、スコアは滅茶苦茶のゴルフで、上がってみれば、ブービー(BB)賞に該当していた。従って、他を振り返る余裕はなく嘆きの自分の記録を振り返っておく。 今日は久々にインからのスタートだ。取り敢えずは例によってホールバイホールで振り返ってみる。No.10(M)は、やっとFWに届くかなと云う右ラフだ。2打目はアイアンでクリーンに当て残り95YDの上りだ。打上は難しい、3打目がグリーンに届かず、カラーで止まった。3.5mに4オンで、1パット目が、実に惜しく、2パットでのダボである。友人Aは3パットのボギー、友人Bは私と同じで、夫人は2桁のスタートとなった。 No.11(S)は、余裕のあるクラブを選択したが、芯に当たらねば、どのクラブも同じだ。2打目をパターでアプローチしたが、前の組が立てていたニアピンの旗に当たり、行き足を削がれた。3パットと最悪になった。友人Aは1オンしながら3パットとパーを逃していた。友人Bはボギーだ。夫人もダボだった。 No.12(M)は、クリークのあるミドルで、どうも相性が悪い。左に引っ張って、ラフに落ちた。残り110YDは、コースのうねりでグリーンは見えない。ラフで食われて、クリークの手前に落ちた。3打目を軽くオンかとコントロールしたが、インパクトで力が抜けてクリークに入った。罰1打で、5オンとなる。更に3パットだから始末に悪い。友人Aはダボ、友人Bはパーであった。夫人は、ダボである。 No.13(M)は、右が崖の、ドラ短ホールだが、ティーショットはまずまずのFW真ん中だ。2打目はクリーンに当たり、左ラフ残り60YDだ。ここで軽々と思ったのだが顔が上がったのかチョロだ。パターで乗せようとしたのが、修理の青杭に当たり、之もピンに近づききれなかった。2パットのダボだ。友人Aは私と同じ、友人Bはボギーで納めていた。ドラ短を取った夫人は、ダブルスコアだった。 No.14(S)は、打ち降ろしで、グリーン手前は池である、どうも相性が悪いホールと言う観念がある。今日はアイアンで打ったが、右に飛び、崖の石造りの法面に当たって結局は池に飛び込んだ。3打オンは1.2mだったが、2パットしてしまい、結局ダボだ。友人達は、パー、ボギー、夫人は私と同じく、池に入れ、ダブルスコアだった。No.15(M)は、ドライバーの当たりは飛距離を考えなければ、まずまずで、フェアウェイだが、コース全体に目土を入れていた。2打目は、そのせいでもないが、残り95YDのアゲンストだ。ここで載せようと思ったので、頭が上がりトップして、グリーン近くまで転がって行った。そして4打目をシャンク。5mへの5オンから2パットで、トリプルとなる。友人2人は、3パットながら、ダボで納め、夫人はダブルスコアであった。No.16(L)は、打上、打ち降ろしだ。ティーショットは、当たりが悪くやっとフェアウェイに届く程度だ。友人2人は遙か先を行く。しかし2打目は、結構クリーンに当たって、少し息を吹き返した。3打目も少し池が掛かりそうだが、良い位置に付けた。しかし左足下がりに引っ掛かり、またしても池に。罰打を加えて、結局オンしたのは6打目だ。之も2パットで、トリプルである。友人2人は之も3パットずつながらダボだった。夫人は、ティーショットのチョロを引きずり、9打となった。 No.17(M)は、右ドッグのドラコンホールで、比較的近くに前の組の旗が立っている。友人Bはナイスショットで、その旗を大きく越えた。友人Aはドラコンを狙って、目の覚めるような弾道で、友人Bの球を遙かに越したが、残念ながら左のラフへ、少しこぼれてしまった。私は、宣言通り、旗と友人Bの間に落ちるのが精一杯である。2打目も比較的よく、50YDを残す右ラフだ。アプローチで5mに3オンし、今日之だけは褒められる、上りフックラインを1パットで沈めた。パーとなり、友人2人のボギーを越えた。夫人は連続9打叩いていた。前半最終、No.18(L)は、まずまずの当たりと思うが、何時もFW迄届かない。こういう設定のホールは、力の無さを少なからず痛感する。2打目は最近アイアンを使うが、之もまずまずで、右のラフだ。どうやらまだ250YDはある。3打目もアイアンだが、当たりが悪く、FWながら未だ140YD残る。FWには、ここも目土が入っている。4打目は之も良さそうな当たりなのだが、結局は池に入ってしまった。最終的に7オンで、1パットだったが、トリプルである。友人Aはパー、友人Bはダボ、夫人は、私と同じだった。 10:30に前半を終わり、アウトは11:10スタートと言うことで、ゆっくり食事は出来ない。No.1のティーグランドで前の組が打ち始めたので、ゆっくりと席を立った。No.1(M)は、友人2人は左に飛んだ。友人Aはラフの木の下に潜り込んだ。私は、右FWを少しラフに入ったところだ。2打目でテイクバックの時、よろける感じだったが、そのまま打ちチョロになった。残り、110YDの上りが届かず4打目もオーバー。パターで5オンだ。2パットのトリプルになった。友人Aはティーショットのブレが響いてか、考えられないダブルスコア、反対に友人Bは1パットで沈め、パーである。夫人は、私と同じトリプルだった。No.2(M)は、ドラ短のホールだが、友人Bは目の覚めるような良い当たりが出た。私も自分なりに良い当たりでFWを捉えた。2打目も当たりは良かったが、グリーンには届かなかった。ピッチランで3オンした。パーパットの1パット目が後5cmと入らず惜しくもボギーだった。友人Aは同じ、良い当たりの友人Bは3パットで、ダボである。夫人もダボであった。 No.3(M)は、比較的長いホールで、今日のティー位置も前回と同じ前方だ。ティーショットは自分なりには良いショットだった。友人Aは左に引っ張りすぎて前方の土手を直撃したが、行ってみると良いところに出ていた。友人Bは何がどうなったのか、右下の崖を直撃する変な当たりでOBだ。前方の女性ティーからの夫人はナイスショットだった。私の2打目もクリーンで、右ラフだったが、一寸危ないかと暫定を打ったが、結局はセーフだった。残り100YDを又失敗し、バンカーの手前10cmで止まっていた。ラフからだが、パターでアプローチし、2.5mを2パットした。ダボである。友人2人は、共にトリプルだった。夫人は、手こずって、9打である。 No.4(S)は、フラットなショートで、今回も力んだようだ。当たりが悪く、左手前のバンカーに入れた。2打目では出ず、3打目はグリーンを越え、やっと4オンは4mで、3パットの7つ叩いた。友人Bはパー、友人Aはボギー、夫人もダボと、完敗である。No.5(L)は、右ドッグレッグの池有りコースだ。ティーショットは良い当たりだが、少し左目のラフだ。2打目はアイアンで結構クリーンに当たり、残り150YDのFWとまずまずのポジションだ。3打目は、左の池を避け、予め右土手狙いで、案の定土手から下に落ちてきた。4オンし、また、パーパットを惜しくも後3cmと外し、ボギーとなった。友人Bはパー、友人Aもボギーである。夫人は池に入れて、トリプルだった。 No.6(M)は、右ドッグレッグだ。ティーショットを左に引っかけ木の根元で止まった。救済を受け、2打目はFWを確保、残り125YDであった。またしてもアプローチが巧く当たらず、グリーンに届かない。パターでの4オンは3mである。ここでも、1パット目を後5cmと逃し、ダボになった。友人Bはボギー、滅多にないことだが、友人Aは左に引っかけて、キックも悪くOBでトリプルだった。夫人もトリプルである。 No.7(M)は、距離の長いハンディキャップ1のミドルで、ドラコンホールだ。友人Bは前方の旗を遙かに越える綺麗なフォームで振り切る。友人Aは右のラフで、ややトラブル。夫人も良い当たりだったが、私は何故か大天ぷらとなり、最後尾に付けた。2打目もバックスウィングで、よろけ、そのまま打って左へ。そこから、クリーンに当たったが、まさかの前方木の枝を折り下のバンカーへ。バンカーからはクリーンに出せたが、後のアプローチは覚えていない位に滅茶苦茶で、ゴルフを始めた頃のようにグリーンを行ったり来たりして、上がってギブアップと同じ12打だった。友人達はボギーとダボで、夫人はダブルスコアだ。悪夢のホールとなった。 No.8(S)は、横長のグリーンで、今回も左にカップが切ってある。ニアピンの旗は、右端に立っている。載せれば良いだけだと打った球は、バンカーに入る。友人Aは左の崖を擦りながらのグリーン手前。友人Bと夫人はバンカーの手前に落とし、誰も1オンしなかった。夫人がバンカー越えをバンカーに入れ、友人Bも吸い込まれるようにバンカーに入れた。(3人ともバンカーだ)その後私は向こうのバンカーに入れるなど、上がったらダブルスコア。友人Aのみパーで、友人Bはダブルスコア、夫人は7打であった。最終No.9(L)は、ティーショットは左カート道に跳ねて少々得をした。2打目もまずまずの当たりで、ラフながら良かった。3打目も、FWセンターで、之も云うことはない。ところが、4打目をチョロして載せられず。5オンの2パットで、ダボになった。友人Aはボギーで閉め、友人Bは私と同じダボである。夫人は、ティーショットからナイスショットの連続で、アプローチも30cm内に付け、最後のパットも1パットで沈めパーであった。有終の美である。 次回は、HDCPが31になる。早く何とかしなければと思うが、之ばかりはどうにもならない。しかし、図らずもBB賞を貰ったので、恥ずかしさより、実質面で、得したなぁと思いながら帰った。
2012.03.22
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それほど深い意味はないのだが、友人と知人の違いについて考えると共に、私にとって友人は何人いるのか、また、その中でも親友と呼べる友人はいるのか居ないのかなどについてふと考えてみた。おそらく、これらを分別するには、友人と知人それぞれについての定義が必要になるが、それを明確に規定したものは無いだろう。先ずこの世の中にと言うか、日本国内だけを見ても、1億2000万人ほどの人がいるわけだが、そのうちに、何らかの事で顔を見たとか、何処かで見かけたと認識する人が何人居るだろうかと考えてみると、実に微々たる数でしかないことに気づく。当たり前のことだが、自分自身が有名人になったとして、向こうは顔をしているが、こちらは知らないという芸能人やスポーツ選手などがいるが、この場合は、一方的に知っているからと言って、その人は知人ではないわけだ。サラリーマンをして来て、真面目に勤めていると、勿論何人かの人に出会う。営業職と技術職別に見ると、少しは営業職をしていた人の方が出会う人は多いだろう事は推測できる。私は技術畑を歩んできたので、所謂知人というのは少ない方だろう。仕事の関係で、名刺交換をし、何度か話した人を知人と言っていいかどうか知らないが、それらの人を糾合しても、一生涯で、高々3,000人かその位ではないだろうか。勿論それらの人は、仕事上の付き合いだけであるから名刺が残っていたとしても、実際どんな人かと思い出そうとしても思い出せない人が殆どだ。そして思い出したとしても、相手が又自分を思い出せるかと言えば、そうでもなく、両者が互いに認識する知人となれば、極めた少ないか、もしくは殆ど居ないと言うことにも成りかねない。家族は元より、親戚縁者は、互いに、名刺の交換はしないが、互いにより良く知っている訳だが、之は知人とは言わない。幼なじみや学校時代の友人もまた、名刺交換などしないわけで、そう言った中に、知人はいるし、又友人もいることになるだろう。勤め出すと、同じ職場や、関連の職場の人とは名刺交換などはしないけれども知人はそれなりに出来る。仕事の関係で、他社の人とまみえることとがあると必ず名刺交換となるが、その中には一時的な知人は出来てもそれは、恒久的な知人に成るとは限らない。小学校から、大学までの期間で知り合う仲間はいるものの、同窓であるからとか、同期であるからと言って、知人ではあり得ても、友人の域に達しない人の方が殆どだろう。こうしてみていくと、私などは、実に狭い社会の中で生活しているのだと言うことに気づくのである。仮に高校の同期生だとか、大学の同期生は皆友人になるかと言えば、必ずしもその域に達していないものも多い。そんなことを考えていくと、本当の友人というのは、果たして何人いるのかと言うことになる。昔の戦友的な感情を抱く人は、我々の中には居ない。如何に企業戦士と雖もOfficerでもなければSoldierでもないのである。高校や大学で、互いに親しくしていたといってもそれが即ち友人であったり、親友であると言うことにも成らないようだ。中には、そう言った友人が居るが、その場合も形の上では友人を演じているが、実のところ、相互によく知らないとか、顔を合わさなくなってから久しいとなおのこと友人と呼ぶには気が引けるというものだ。友人とは、むしろ現在がどうであるかによって判断されるべきではないだろうか、でなければ、一人暮らしや、孤独死などと言うものは存在しなくなるだろう。そう言った人でも、過去に知り合った友人という者はあっただろうし、互いに助け合ったり慰め合ったりする相手ぐらいはあった筈だからである。知人から友人に発展するケースはあるが、その逆に友人から知人になることはないという人もいるが、案外後者のような関係でも、相互に、一方的には、友人だと信じているだけで、その実、知人でしかないという事実はあると思う。友人と知人の違いは「お互いの人間関係の深さ」によるとの話もある。何処までが深く、何処までが浅いのかを、何mといった基準数値で計るわけにはいかないのが事実だ。頻繁に会うとか、よく話しをすると言うだけで、それも友人とは言い難いし、かといって長く会っていなくても心が通じていると言い切るには、相当に無理があると言わなければならない。友人とは「ぶつかりもするが本根で話し合え、互いに理解できる」などと定義しても、そこまで侃々諤々議論をしたわけでもないと、果たしてどうなのだろうかと思ってしまう。「長い間に培った信頼関係も何かのきっかけで簡単に壊れる」などと言うのは、当たり障り無く対峙していただけで、実はそれほどの信頼関係が築けていなかったと言うことかも知れない。そこで、教訓と言う訳ではないが、瞬間、瞬間の関係を誠実に向き合って過ごすと言うことが必要なのかも知れない。そこで、前田利家のいう、人のタイプには4つあると言うことを思い出す。名将言行録で、前田利家が不遇の時代に言った言葉によると、人間の心は自分が不遇になるといちばんよくわかるというものだ。それは、1.ざまをみろとさげすむ者2.世話になったがいまはちかづけないと泣きごとをいう小心者3.さぐりにくる者4.ほんとうに心配してくれる者と、利家は分析したというのだ。やはり、親友・友人というのは、4であって然るべきだろう。ふとそんなことを思わせることがあった。
2012.03.21
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連れ合いの兄が経営するクラブでのカラオケ大会に3回目の参加をした。(通算第176回という事だ)これを書いているのは、5月11日なので、多少記憶があやふやかも知れない。(中欧旅行で延ばしのばしになっていた)従って簡単に書いておく。今回は13人の参加であった。例によってカラオケ機械2台が出す点数を足して、2曲の合計点に対してのオネスト・ジョン方式である。即ち、機械が出した合計に一番近く、しかも越えない点数を申告した人が優勝となるルールだ。(例えば、自分の力が、どの機械も80点程度出すと考えたら2台の機械が2回評価するわけだから80×4=320点が申告する点数となる) そして、13人を競馬よろしく、枠組みを作り、誰が優勝するかを当てる連勝単式方式もあるから、こちらの方も当てなければならないといった趣向は同じだ。19:00になって、いよいよ歌合戦が始まった。今日の機械はとても低めな点しかでないとのことで、皆の申告も300点が最高である。最低の申告は常連さんの240点である。私は、250点、連れ合いは258点を申告した。最初に歌った人は、「初恋によろしく」で、1曲目の点数で1つは伏せてあり、もう1つの公開点は88点といつも高得点である。私は4番目で、あまり歌わない「夜霧よ今夜もありがとう」を歌い、たったの30点である。何じゃこれはと思った。低めの点しかでないと言っていたが、皆が歌い終わって最低の点であった。この機械の点数で、最高点は私の後に歌った、ドングリ目玉のおじさんの90点だったが一体この差は何だろうか思った。別のどうと言うこともないわと、連れ合いの番になり、私の好きな「風の盆恋歌」を歌うと、何とこれも私に次ぐ最小点で34点だった。さて隠された点は如何にと、思うものの、とても申告した点に届くべくもない。歌の巧拙に関係なく、ビブラートを使うと点が悪いとか、変にこぶしを利かすと受け付けないとか、機械にも個性があるようだ。まあ、そんなところで自分を慰めるのだが、この機械での公開点で、最高は、90点、最低は私の30点であった。今回の夕食は、23日からの中欧旅行では食べられないだろうと御寿司を注文していた。そしてお酒も、結構好きなだけ飲んで、後半戦の2曲目は始まった。 最初に次点を出した常連さんの2曲目は「旅人よ」であった。得点は(30+67)点である。今度は意識的に調子を落としてきたかとも思えるほどの点数である。4番目の私の番になった。選曲に困るというか、いざ歌うとなるとなかなか曲名というものは出てこないものだ。とは言うものの、歌合戦であるから、店に入る前には既に決めているのだが、その歌は「北国の春」である。得点はまたまた、(23+80)点と低く、もうこれで、上位にはなれない。10番目の連れ合いの今度の歌は「愛の終着駅」で、これも何と (15+75)点であった。因みにこの機械で、高得点を出したのは、「ジェラシー」を歌ったロンゲのおばさんで、(84+84)点という高得点である。次点が、私の知らない「マディソン郡の恋」を歌った、何時もチョッキを着たおばあさんの(75+84)点である。低い点数の方は、連れ合いの(15+75)点で、その上でも「さんばし時雨」を歌ったメガネのおばさんの(10+84)点だった。1回目と2回目、更に3回目とそれぞれ違った機械の得点集計のようで、その機械の癖を掴まない限り、自分の歌がどの位に評価されるか分からないわけで、常連さん(と言うよりよくその機械に精通している人)が良い結果を出すことになる。そんな具合で、全員が歌い終わり、優勝は申告点252点に対し、得点251点(251/252)のおばさんで、因みに歌った曲は「白い花が見える町」と「忘れないで欲しい」であり、準優勝はドングリ目玉のおじさんで、申告点305点に対し得点303点と際どい。歌った歌は、1曲目は忘れたが2曲目は「時代屋の恋」という私の知らない歌であった。銅賞は、声の綺麗な常連さんの奥さんで、申告点245点に対し得点236点と差は9点であった。私は209/250で8位、連れ合いは、206/258で9位と言う結果に終わった。因みにブービーは264/240と14点オーバーの常連客であった。
2012.03.20
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この内容は、時間が無く、2012.5.2に書いている。新聞によると、早くも来年の大学卒の採用人員は、67,921人で、今年の12.1%増で、今年の春の採用の13.7%より少し減じたものの、2年連続で2桁アップとなっているのは、喜ばしいことだが、これまでが、リーマンショックによる就職氷河期だったと言うことから考えると、まだ余り手放しでは喜べないのかもしれない。更に副題に「製造業は伸び鈍化」と書いてある。之は一体どういう事なのだろうか。昔、私が就職する頃には、製造業に就職する学生が多かったようだが、一体どういうことになったのだろうかと、一寸寂しい気がした。職業に貴賎など無いのは元よりだが、何らかの物づくりを志す学生の割合が減ったと言う訳でもなく、採用する側に製造業からの引きが少なくなったということなのであろう。このことは、どことなく寂しい気がすると言うだけでなく、物づくりの技術者と、その支援の営業などの部門の地盤低下を意味している。多くの製造部門の海外流出(特に中国やタイ、ベトナムといった国々)が利いて、国内での採用が低くなったと言うことかも知れない。そう言えば、4~12月までの企業の決算集計を見ても、製造業の経常利益は30%も減じているようだ。そのけん引車は電機関係のようだ。テレビなどの不振がたたり、大手電機会社が大幅な赤字に追い込まれたからであろう。思い出すのは、サムスンで、この巨大化した韓国企業に全日本の電機業界は席巻されてしまっている。この場合も、又、日本が対外技術供与した、そのお釣りが帰ってきたと言うことだろう。日本は、国内生産では、賃金高のために、製造拠点を賃金の安い海外シフトせざるを得なくなり、製品の品質管理(QC)のためには、一定のノウハウを供与せざるを得ないということになり、それはとりもなおさず、営々として築いた技術の流出に繋がることになる。一度得た技術のノウハウは、瞬時にして、敵に塩を送り、その結果、国内空洞化は加速されると共に、国内産業の凋落を意味することになる。これが国内の採用人員減に繋がっていることも否めない。之に関連するかのように、最近(4月25日)は、新日鉄が、ポスコを「鋼板技術の不正取得」ということで、提訴しているが、これはその良い例だろう。1969年に技術提携(塩を送り)をして、2012年には提訴(技術を盗まれる)しているというわけだ。裏には、不況でリストラされた人材や、高額な給与でつり上げられた技術者によるものもあるようだ。何しろ、軒を貸して母屋を取られると言った類のことが起こっているわけで、これは自明で、青天の霹靂でも何でもない。もう少し言及すると、コマツなどは、いち早く、世界の工場と言われる中国からの撤退の方向に動いているようだ。中国が世界の工場と言われる所以は、潤沢な労働力が、低賃金で得られるということであったが、今や、中国人の賃金も鰻登りに上がっていて、相対的には、日本よりも安価であっても進出企業に取っては収益悪化と成らざるを得ない。こんな中、ホンダはエコカーであるハイブリッド車の技術を、中国企業に供与している。その先は見えているだろうが、足下の問題として、中国に於ける販売台数の低迷があり、日産、トヨタに水をあけられたと言うことが遠因しているようだ。技術を移転し、韓国、中国などの労働力に頼れば、国内の就職に対する需要が落ちるのは当然のことであろう。日本人は、就職したければ、中国に移住し、中国人並みの給与で働かなければいけないようになるかもしれない。来春採用の上位企業に、製造業の名前が少ないのは、こう言ったことに起因しているのではないかと思われる。新聞に来春採用予定の会社が抜粋(?)されていたが、その数2275社の中に、私が勤めていた会社の名前を見いだせなかったことは、少なからずショックであると共に、既に凋落している造船業の象徴として捉えなければいけないと考えている。テレビでは、最近の若者は、家庭を大事にするためか、海外赴任を望まないと言うことも言われている。ドメスティックに、仲良くやっていきたいという事だろうが、その行き着く先は、どういう事になるか、想像してみたことはあるのだろうか。一方では、幹部登用の前提条件に英語の力を要求している会社もある。勿論日本にいて英語を使うと云うことではなく、広く海外に視野を向けていることは明かである。このギャップは、島国に生まれた、日本人のDNAではないだろうか。最後に就職率の計算に於いて、正規雇用であろうが、非正規雇用であろうが、就職が決まれば十把一絡げで扱っているようで、さも就職率が良いと思わせるのが、最近の大学の政策のようだ。少子化で、子供の数は減るし、林立する大学は淘汰されるであろうが、当面はこういった問題が続くのではないかと思われる。
2012.03.19
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第五十六段【本文】 久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つきざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。 人の身ざまのよし・あし、才(ざえ)ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。【訳文】 長い間離れていて、しばらくぶりで逢っている人が、自分の方にそれまであったことを、次から次へと全部ぶちまけて語り続けるのは、よろしくないものである。どんなに分け隔てなく親しんだ人でも、しばらくたって逢うのは、遠慮を感じないであろうか。教養や品位の一段と劣っている人は、ちょっと外出しても、帰ってくると、今日こんなことがあったと言って、息も休めず立て続けに語っておもしろがるものである。立派な人が物語をするようすは、同席の人が大勢いても、その中の一人に向かって話しかけるのを、自然に他の人たちも聞くということになるのであるが、しかし、くだらぬ人は、誰に対するともなく、大勢の人の中で話し始めて、現在見ていることのように作って語るので、一座の人たちがみな大笑いして騒ぎ立てるのは、非常に騒々しいものだ。さらにまた、おもしろおかしいことを言っても、たいしておもしろがらない人と、おもしろくもないことを言っても、やたらに笑う人とで、その人品の程度は評価できるであろう。 人の風采のよい・わるいについて、あるいはまた、学問のある人は、その学問についてなど、大勢集まって論評し合う場合に、自分を引き合いに出して話をし始めたのは、ひどく聞き苦しいものである。【注釈】・つきざま:教養や品位の劣っている人・あからさまに:ついちょっと・らうがはし:騒々しい第五十七段【本文】 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。 すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。【訳文】 他人が語り出した、和歌に関する物語の中で、大事な和歌が不出来なのは、がっかりするものである。少しでも歌道のことに明るい人は、そんな不出来な歌をすぐれたものとして語りはしまい。 何事においても、よくもわかっていない方面についての物語をしているのは、にがにがしく、聞きづらいものである。【注釈】・かたはらいたく:相手の独りよがりに悩まされる状態第五十八段【本文】「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑(しづ)かならでは、道は行じ難し。 その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羮、いくばくか人の費えをなさん。求むる所はやすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁(のが)れんことこそ、あらまほしけれ。偏(ひと)へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。【訳文】 「仏道に志す心があるならば、どこにいても修行できるから、住む所に関わるまい。出家後、家庭にあって、世俗の人と交際していても、来世の往生を願って修行するのに、困難なことがあろうか」と言う人があるが、これは、いかにして来世の往生ができるかを、全然心得ていない人である。ほんとうに、この世をはかないものと思い、きっと、生死の迷いの境を超脱しようと思う時に、何の興味があって、朝夕、主君に仕え、家庭の雑事を心にかけるような仕事に、進んで心をうちこむであろうか。人の心というものは、周囲の環境に牽引されて変化するものであるから、周囲が閑静でなくては、仏道修行はやりにくいものなのである。 今の世の人は、その器量が昔の修行者ほどに達せず、山や林に入って隠遁しても、身の飢えをしのぎ、嵐を防ぐ拠り所がなくては生きてゆけない状態なのであるから、稀には、世間的欲望にふけることも、場合によっては、どうしてないことがあろうか。それだからといって、「そんなことでは遁世したしるしがない。そんな程度なら、どうして世を捨てたのか」などと言うのは、無茶なことである。何といってもやはり、いったん出家して、世俗の煩累を避け嫌って山林に生活する人は、たとい欲望が起こったとしても、権勢ある人の飽くことのない欲望の烈しさには類似するはずがない。その生活は、紙で作った夜具、麻の衣、鉢に一杯だけの食事、あかざの吸い物という、きわめて粗末なものであるから、どれほど、他人のものを費やすであろうか。求める品は容易に入手できるし、その心はすぐに満足するにちがいない。自分の僧形の姿に気がひける所もあるから、世間の人と同じ欲を起こすことがあるといっても、悪事には遠くなり、善事には近づくことがどうしても多いものである。 この世に人間として生まれているしるしには、何とでもして、出家遁世することこそ望ましいことである。やたらに世俗の名利をほしがることに努力して、悟りの道に入ろうとしない者は、人間ではなくて、すべての畜生の類と変わった所もないのではあるまいか。【注釈】・げの:真実に・無下:無茶な・衾:法衣・偏へに:やたらに第五十九段【本文】大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたゝめまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽くる限りもなく、思い立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。【訳文】 仏道に入るという人生の一大事の実行を思い立つ人は、離れにくく、心にひっかかる、さまざまな用事の目的を果たさないで、それをそのままそっくり捨て去るべきである。「もうしばらく待とう。これが終わってからのことにして」とか、「同じことなら、あの事を処理しておいてからのことにして」とか、「これこれのことについては、他人が悪くいって嘲笑するだろう。将来、非難のないようにちゃんと処理し、準備してから」とか、「長い年月かかるのでは困るが、あの事の処理のできるのを待つのに、そう長くかかるまい。せっかちでないようにしよう」などとあれこれ思うなら、わが身から避けられぬ用事ばかりますます重なって、それがなくなる際限もなく、発心する日もあるはずがない。大体において、世間の人を見わたすと、少し出家・入道の志がある程度の人々は、すべて、上に述べたような思わくだけで、一生が過ぎてしまうようである。 近所の火事などで逃げ出す人は、「しばらく待ってみよう」と言うものか。わが身を助けようと思えば、恥をもかえりみないで、財宝をも捨てて逃げ去るものなのである。失われる命は、人の気持ちを待ってくれるものではないのだ。死のやってくることは、水や火の襲いかかるのよりも速くて、逃げ去ることのできないものなのに、その時になって、年とった親や、幼いこどもや、主君から受けた恩や、他人の好意などを、捨てにくいといって捨てないでいられようか。【注釈】・年来:長年の間・無常:死
2012.03.18
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2日ほど前に、予定がなければ、夕食を一緒にとの誘いがあった。何時もゴルフでラウンドを共にしている友人夫妻からの誘いである。夫人の方から、連れ合いにメールが来たのだが、今日は土曜日で、予定もなく、2つ返事で、喜んで伺うと云うことになった。何度かお宅に招かれたことがあり、1度は帽子を忘れて、わざわざ宅急便で送り返してくれたこともあった。元々ご主人と、我々2人は、高校時代の同級生であり、私と彼とは、九州への修学旅行の写真等では、よく一緒に写っていたことを記憶している。私は、クラブ活動に専念していたし、彼はおとなしい性格だったので、親しく話すことはあまりなかったようだ。高校を卒業してからこっちは、全く接点がなかった。と言うのも、大阪を離れた私と、外国を転々とした彼とは、顔を合わす術もなかったと言うことだ。彼の場合は、延べ20年以上を海外駐在で過ごしたと云うから、凄い、の一言に尽きる。主にニューヨーク駐在だったと言うことで、時折開かれていたらしい同窓会にも出られなかったわけで、私の方は、絶対同窓会などに行くものかと思っていたので、卒業以来会うこともなかったわけだ。彼も連れ合いも、そして私も出身中学は各々違うし、高校時代も同じクラスになった記憶もないので、全く高校の3年間を通じても接点のない顔見知りという程度であったわけだ。そう思って卒業アルバムを見直すと、私は運動部でバスケットボールをやっていたが、彼は化学部と言うことで、之も接点はなかった。連れ合いはと言えば、ESSクラブで、英語を話す試みをしていた。就職してからの私はというと、造船の設計をやっていた関係で、造船が斜陽になるまでの21年間は、岡山に在住し、その後会社内で転勤を重ね、最終段階で、何の巡り合わせか、海外での駐在を少し経験して過ごした。海外と言っても、発展途上国ばかりで、旧宗主国が、イギリスやアメリカと言ったところだったので、結構身振り手振りで、コミュニケーションを取ることが出来た。友人の奥さんは、彼の勤める会社の社員だったと云うから職場結婚である。年齢も我々より1世代とまではいかないが若い。これと云ったプロポーズの言葉もなく、結婚していたとは夫人の言である。連れ合いの言葉を借りると、「粉を掛けられていた」と言うことらしい。詳しくは聞いていないが、夫人も、彼に同行して、アメリカでの生活が10年近くあって、元々英語には興味と自信があったとかで、楽しい在米生活を送っていたようだ。しかし、アメリカ駐在期間に、友人は、ゴルフを始めたのか、夫人は、ゴルフウィドウになったとこぼしていた。相当真面目にゴルフに打ち込んだのだろう、現在の力量から容易に想像がつく。私などは、とびとびにゴルフクラブを握った程度で、才能の無さも手伝ってか、若い頃からゴルフは上達しない。ドライバーを例に取れば、彼我の力量の違いは歴然で、目標フラグが大体230YDであるのだが、そこまでは必ず飛ばすのである。それに比べて、私の飛距離は、児戯に等しく、せいぜい7割方しか飛ばない。このように現在ゴルフを通じてよく交流をすることになったのだが、そのきっかけはと言うと、勿論私の帰阪が元ではあるが、友人と同じ中学校出身のもう1人の高校同級生とが主催する忘年会などに、連れ合いも出席していた事による。私は、大阪に帰ってきたものの、自ら友人を訪ね歩くこともなく、元々同窓会を忌避してきたので、家に籠もって、外出することもなかったわけだが、連れ合いの配慮で、徐々に友人達の会合に出席して、酒を飲み、語る事が何度かあった。どういう経緯でゴルフの話になったのかは覚えないが、夫人もゴルフのレッスンを始めていると聞き、連れ合いもお遊びでラウンドしていると云うことで、1度一緒に行きましょうとなったのが、2年前のことであった。忘れもしない、亀岡ゴルフクラブでの成績は、今思えば、何と友人とグロスで同じだったのだ。私は上出来、彼は不調という組み合わせだったようで、その後は、一切スコアがニアミスすることもない。連れ合いは、60を過ぎてからの手習いで、しかもコーチが私なので、上達と言ってもそれほど高望みは出来ないが、2人で回る分には、結構楽しく時間を過ごせている。夫人は、若いし、体躯も大柄なので、アドレスのスタイルなど、様になっているし、なかなか良く飛ぶ。最近では、私のグロスを脅かすまでになっているので、要注意である。そんな4人でのプレーは1年半ほど前に始まったのだが、1回のラウンドで連れ合いは、夫人と波長があったようで、控えめでいて芯が強い夫人とすぐに意気投合したようだ。勿論、先生仲間には沢山の友人もいるのだが、特に夫人には、新鮮なものを感じたようである。今回のお誘いも、そう言った延長上での話なのだが、連れ合いは、1も2もなく大喜びで、メールを貰ったことを喜んでいた。私も、大阪に帰って、様々な付き合いには連れ出されるが、考えてみれば、夫婦揃ってのお付き合いは、この友人夫妻をはじめ数が少ないので、改めて少し驚くと同時に、得難いことだと感謝している。やはり婦唱夫随の夫婦の方がうまくいくようだ。私流に言わせて貰うと、男は、遮二無二仕事をすべしで、家を守る女性はとにかく従順についてくれば良いと言った明治の親父に育てられたから、その感覚が抜けきらないが、女性の方はそんな理不尽なことはないと云うことだろう。私の知る、夫婦は、口には出さないが、奥さんの方の不満が多いケースをよく耳にする。そこで、旦那が歩み寄りを見せると、まだまだ良いのだが、なかなかコミュニケーションが取れなくなったケースでは、一寸寒いものを感じることがある。その点友人の奥さんも、旦那の仕事一本槍や、ゴルフウィドウ時代は、我慢をしていたようだが、現在は、共に共通の趣味として、ゴルフを楽しむことができているので、接するこちらまで、心が温かくなる。連れ合いは、ゴルフが上手とは言えないが、それでも時折、ナイスショットが出たり、長いパットが入ったりすることを楽しんでいて、私も気楽にラウンドすることが出来る。最早この歳で、ゴルフの上達を望むべくもないが、2本の足で芝生を踏みしめてクラブを振れることがどれだけ素晴らしいことかと反芻しながら、友人夫妻とのラウンドを期待しているような状態である。前振りばかりになってしまったが、夕方、阪急の正雀駅の近くに黒塗りの新車が待っていてくれた。この間買い換えたばかりのスカイラインである。わざわざ夫人が駅まで迎えに来てくれ、車には友人が待機してくれていた。新車の香りがする助手席に乗せて貰い、友人の家まで連れて行って貰った。以前は、車での訪問だったので、お酒は控えていたが、今日は、ワインを持参し、用意された冷酒も味わい、見たこともない美味しい手作り料理を頂いて、最高に幸せな気分であった。我々3人は老齢の域に達しているが、夫人は未だ若い。ここに来ての5歳から10歳は、大きく違うものだとつくづく思う。美味しいお酒なので、ついつい飲み過ぎ、結構饒舌になった。これは私の癖であるが、私の現在が満たされていればこそ、友人夫妻の今の幸せを素直に受け止められるわけだ。話の内容は、取り留めないことだっただろう、友人夫婦の馴れ初めも何となく聞き出した。かと思えば、大飯原発の再稼働の問題も話した。近々お孫さんも産まれると言うことだ。お互いに歳を取ったなと思うが、現在このような心休まる時を持てる自分を幸せ者だと思う。帰りは、連れ合いと2人で、ぶらぶらと今日の余韻を感じながら、大改造中のJR岸辺駅まで歩き、帰途についた。引き留められるままに長居をして、マンションに帰ったのは、翌日になっていた。(感謝)
2012.03.17
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今日は行事が重なった。午前中は、連れ合いの孫の卒園式で、その後午後からNHKの美術講座の7期目の最終回があった。更にそこから帰って、夜は、島本町の住民委員会とのスケジュールだ。卒園式は10時からと言うことだが、狭い講堂だとかで、多くの人が真ん中の良い席を取るべく早めに出掛けているようだ。我々は当事者ではないので、卒園式に間に合うように行けばいいのだが、少し早めに出掛けた。もうすぐ4歳になる弟も一緒に連れて行くので、最初は、弟を少し預かって、太郎君夫妻は、早めに出掛けて席取りをすることにしていたらしい。山崎幼稚園は、JR島本駅の次の駅で、昨日私がウォーキングしたコースである。JR島本駅が出来て随分と楽になったようだ。我々が島本駅に着いたら、太郎君達3人が居るではないか。どうやら席取りは、友人にお願いして、少し遅い目に出てきたのだという。お父さんも、お母さんもおしゃれをしているが、3歳の弟も黒で統一したなかなかいかした格好をしている。幼稚園についてビックリしたのは、若いお母さん方が、着飾って、着物姿もちらほらいることだ。私自身は、幼稚園に通ったこともないので、こんな経験はないし、当時のことだから、あったとしても、これ程華やかなお母さん達は、居なかっただろう。50年も前の話だから、当然と言えば当然なのだが。狭い講堂はそんな親たちで席はぎっしりである。我々は、入口付近からのぞき込むようにしていた。卒園する長男は、ここに3年通ったわけだ。沢山の友達も出来、この幼稚園にも馴れてきたことであろう。長男は4月でも早い日に生まれているので、心なしか他の子供達よりもしっかりして見える。皆と一緒に控えの教室にはいる時に目があったが、素っ気ない顔をしていた。後で聞くと、多少緊張気味であったようだ。180人ほどの園児に1枚ずつ卒園証書を渡すのは、結構時間が掛かるが、受取方にも個性があって、既に、園児の性格を垣間見ることが出来る。そんなこんなで、1時間半ほど掛かっただろうか。親たちはてんでにカメラやビデオを回し続けていた。最後に来賓挨拶で何時もゴルフで一緒に回っている女性がスピーチで、卒園に花を添えていた。園児のみんなに「みんな話はどこで聞くのかな?」に園児達は「耳!」と応えるのを、その先生は「そうね、それと、目と、心でも聞くのよ」と話していた。子供達を扱い成れた、先生がそこにいた。式が終わって、真ん中に座っていた4歳間近の弟が、やっと講堂内から出てきたので、「どうだった?」と連れ合いが聞いていたが、一言「長かった!」と応えていた。しかし、途中トイレで出てくる子や、親同士がぺちゃくちゃと喋っているなど、マナーの悪い点も見られたが、弟君はむずがるかも知れないと危惧していたにもかかわらず案外行儀よく我慢をしていたようで、なかなかやるものだと感心した。ひょっとして、この春から幼稚園は違うが、自分も入園すると云うことを意識していたのかも知れない。卒園式を見届け、NHKの「ヨーロッパ美術の輝き」の最後の講義になるモンドリアンを聞きに出かけた。之で最後かと思うと若干名残惜しい気がしたが、講師も、また元に戻ってギリシャ時代から始めると云うことなので、また何か適当な講座でもあればと、一旦は終了することにした。モンドリアンはオランダの抽象派の画家である。絵の手ほどきは、父や兄から受けたと云うことだ。最初の絵は、「日光の中の風車」で、36歳の時の作品だ。これは未だ、ある程度写実的で、抽象画の域に入っていない。20歳代の作品は、自ら処分したとかで、殆ど残っていないらしい。赤で描いた風車、日光の輝きを表す黄色何とも幻想的で、モネの「ジベルニーの積み藁」に似通ったところがある。次の作品は、「ウル郊外の森」で、之もある程度写実的である。赤い木や、青黒い木から成る森の奥に黄色い大きな太陽が堂々と光っていて、うねるような沼の表面を照らしているといった個性的な表現である。この絵の対照として、ゴッホの「星月夜」やムンクの「叫び」が引き合いに出された。このいずれの作品も、若干病的な面を持ち、不安神経症のようなものを内在しているという点で、類似性があり、モンドリアンの作品自身も神秘的でなにやらおどろおどろしいものを感じさせる。次の「木のある風景」は、殆ど抽象画の中に入っている作品で、パリのアンデパンダン展(無審査で誰でも出品できる)に出品した作品である。キュビズムの影響を受けていることは、作品を見ると解る。私は直感的にピカソの「ヴォラールの肖像」を思い出したが、講師は、対照作品として、もう1点ピカソの「オルタ・デ・エブロの工場」を挙げていた。ピカソも、ブラックも、モンドリアンも、存在する実態を求めて、絵の対象を分解し、再構築することで、自分なりの絵画を確立しようと試みたが、結局は行き詰まってしまい、キュビズムからの脱却を図ったとされている。次の作品は「灰色の木」である。大いにキュビズムの影響を受けた作品だが、全体が濃い灰色基調で、幹は黒い線で描かれている。何をどう表現したいのか、なにやらおどろおどろしい気分になる絵である。それ以降の作品は、講師の評も、私には理解できず、とにかくモンドリアンは、既に理解不能の画家になってしまっている。「オーシャン5」黄色基調の楕円形で、水面を水平と垂直の線で分割し、膨らみを持たせ、立体感を出そうとしている。地球的規模の海と、砂浜に見る波の盛り上がりを表現したとの解説であったが、雰囲気は伝わるものの、やはりしっくりと受け入れられない自分を感じた。「緑のコンポジション」もまた膨らみを表現したという。モンドリアンはスタイルを意味する「デ・スティル」というグループを結成し、之にはピカソも参加したという。このメンバーである建築家のリートフェルトのシュレーダー邸は世界遺産にもなっているとのことだが、モンドリアンは、このリートフェルトに強い影響を受けたとされる。リートフェルトの、「赤と青の椅子」が紹介されたが、シュレーダー邸は、この椅子をモチーフにして作られたという。モンドリアンは、この立体的椅子を平面的に描くことを試み、「赤・黄・青・黒のコンポジション」を描いたとされる。以降コンポジションという作品を多く描いているが、並べておくと言った意味のこれらの作品は、どの作品が何を云わんとしているのか、よく分からない。思いっきりぶちまけたように描くカンジンスキーが熱い抽象派と言われる一方、モンドリアンは、冷静に構成したと云うことから冷たい抽象派だと云われることがあるようだ。ナチスが台頭して、抽象画を迫害したために、モンドリアンはやむなくロンドンやニューヨークに渡ることになる。アメリカは、許容範囲が広く、モンドリアンも受け入れられたので、そこで、「ブロードウェイ・ブギウギ」を描くことになる。この抽象画は、今までの作品と違って少し華やかさを感じる色調になっている。「ミッフィーの楽しい美術館」で知られる、ディック・ブルーナはマチスが好きであり、又モンドリアンにも敬意を表していた。そして、うさこちゃんが、モンドリアンの絵を見ているという絵が残されている。最後に講師は、絵が分かると言うことについて、「なんだか好きで、共感できる」と言うだけでは不足ではないかと持論を展開した。絵を分かると云うことは、その画家が行ってきた、仕事の意義(画業)を知り、それを理解するということであるというのだ。即ち、画家の「様式・形成史」が分かると云うことが、その画家の作品を分かると云うことだというのだ。草間彌生を例に取り、モンドリアンやカンジンスキーを出発点としているこの画家の作品を理解する事は、まだ出来ないとは講師の言であった。いずれにせよ私に取っては、モンドリアン・カンジンスキーも既に理解の範囲を超えていると言っていいだろう。ほぼ3年の長きにわたるヨーロッパ美術の輝きの講座も本日を以て終了となった。
2012.03.16
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今日は、何かと考えさせられることが多かった。とは言いながら、考えてもどうしようもないことなのだが、もう少し若い頃から、生きていると云うことを真剣に考えることも必要ではなかったかと言うことを含めて、色々と思いを巡らせる日に当たっていたのかも知れない。と言うような大仰な事ではないが、70歳が近づくにつれ、時々色々なことを考える時がある。とは言いながら、物事を深く掘り下げて考えるというのでもなく、現状をそのまま受け入れていることで良かったのかとか、他に道があったとしてもその道を進む勇気があっただろうかとかと言ったことを考えるのである。そう言う意味では、人生80年などと考え始めてからでも、特に何かを意図して、事を行うこともなく、ただ唯々諾々と世の中の流れに身を任せてきたといった方が当たっている。昨日は、中学校の卒業式だったが、そのころから世の中を見据えて生きていたら、少しは違う人生が展開していたかも知れないと思った。果たしてその道が自分にとってハッピーだったかどうかなどは、やはり終わってしまってからでないと解らないもので、考えずに過ごしてきた、今日の方が、自分に合っていたかも知れないわけだ。今自分を振り返ると、小学校や中学校では、全く物を思うことがなかったと言っていい。高校に入学する時も、又自分の進路を決める時も、本質的なことは何も深く考えなかった気がする。その分自分が選んだことは、最も良いことなのだと暗示することは得意だったのかも知れない。人生にはいくつかのターニングポイントがある。その事も実感して解っているし、そんな岐路に立った時、正しく自分が判断してきたかどうかについては、自信を持ってそうだったなどとは思えない。そんな悩みというか、考えるべき時に、先人のアドバイスは特に有効かも知れないが、私にそう言った助言を呉れる人や、この人に相談しようという特定の人も居なかった。(徒然草第52段の仁和寺の僧の心境だ)幸か不幸か、私は9人兄弟の末っ子であったために、両親とは、随分年が離れていて、私が、悩むことや、迷うことに的確に助言を呉れると云うこともなかった。所謂放任と云うことになるのか、それでも根底には私を大きな愛情で包んでいてくれたことで、大きな間違いをすることもなく今日まで来られたように思う。こんな事を考える事も昔はなかった。そんなことは当然だと思ったし、友人の家庭がどうだからと云って、そうありたいとか、羨ましいなどとは露ほども思わなかった。潤沢なお小遣いを貰っていたわけでもないし、何でも好きなことが出来たという身分でもなかった。もしその頃、やりたいことがあったとしても、必ず一過性のものであって、後々の自分に何らかの効果的な影響をもたらしたかどうかは否定的である。私は、大学進学について考えた時のことを思うと、少し残念な気持ちになることがある。何の気無しに京都大学を志望していたが、クラブ活動に力を注ぎすぎたために、入試に挑戦することさえ出来なかった。もし通らなくて、浪人することなど、自分の環境では考えられなかったからだ。そこで、之は、極めて邪道であるが、偏差値の低い学科を探し、探し当てたのが、私の進んだ造船学科である。考えてみれば、高校時代にクラブ活動そこそこで切り上げていたら、ひょっとして進路が変わっていたかも知れないが、それはあの時池に落としていなかったらと云うゴルフに似ている。そう言った仮定の話をしていると、きりがないわけで、進んだ道でベストを尽くす以外にない。大学の講義は、これ程厳しいもの(時間的に)と思ったことはなかった。大学生活は好きな科目を学び必要なだけ単位を取ればいいといった風に考えていたが、とんでもないことであった。工学部だった故か、カリキュラムはばっちりと少しの余裕もなく組み上がっていた。1回の講義を休むと、次の内容の理解に支障を来すといった具合であった。今考えてみれば、造船というのは、総合技術をオーガナイズするもので、建築業界に於けるゼネコンのような存在だったのかも知れない。造船科を出たからと云って、造船に必要な全ての要素技術をマスターできるわけでもなく、一般的デザイナーとしての造船、構造力学を必要とする造船、抵抗や推進、又船体運動を主とする造船、更に現場工作法に関する溶接を主とした、構造材料に関する造船といった具合に分かれている。勿論基本的には、全員が等しく基礎を学ぶわけだが、専門課程に進むと、上記の中の1つを選択し、更に深く学んでいくと云うことになる。ここでも怠け者の私は、一番楽そうな、工作法と材料関係を選んだわけだ。それなりの成績で学部を修了し、就職したのだが、この就職先の選択でも、あまり考えることもなく、選択した。当時は、造船学科在籍者は100%就職が保証されていたし、学生仲間で不文律的に、成績の良いものから就職先を選んで良いというスタイルだったので、比較的良い就職先を選べたと思っていた。入社してしばらくは、若い先輩に指導を受けながら、自分にとっては結構難解な構造解析なども手掛け、やりがいのある仕事だと感じていたが、暫くすると、韓国の追従が聞こえ、その後、中国の猛追などで斜陽化の兆しが見え始めたが、その前に日本に於ける造船の設備が過剰であり、競争力が削がれると云って、設備削減の指示がお上から出てきたことがあった。この時、現在は、造船という名ではなく、機械部門のトップ企業と言われる三菱重工や、川崎重工、そしてIHIなどは、造船部門を縮小、航空、ハイテク、物流などに力を注ぎ始めたわけだ。私の会社と、その他の会社は、造船という名を捨てきれずと云うか、其れ以外に入っていけず(勿論少しは食い込んではいるが)今日まで、鳴かず飛ばずで、推移し、最早、新聞紙上に時々名前を見るだけで、その名前も、造船以外のことが多い。若い頃造船を志したのも少し不純であったかも知れないが、かくも完膚無きまでに打ちのめされると云うことは、考えもしなかった。先頃象徴的な出来事の1つとして、3月9日三菱重工の神戸造船所で、最後の商船(自動車運搬船)の進水式があった。日本に於ける造船の終焉を思わせるような気持ちで眺めた。勿論長崎と下関では商船建造は続くわけだが、三菱重工で、造船がメインでなくなることは間違いのない事実である。IT産業と違って、商品のライフサイクルがそれほど短くないはずの造船などでは、労働集約的産業の典型として、コスト低減の成否の影響が根幹であり、それ故労働力の安価なところでの建造が、多少の技術の優位威勢を凌駕することは仕方のないことである。船長が200mを越す自動車運搬船は、特に上甲板上の高さも高いので、何千トンもする鋼材で出来た巨大な構造物で、それが船台の上を滑り落ち、海に浮かぶ様は、感動的なものである。9日の三菱の進水式には約6500人の見学者が来場したと云うことだが、又1つ造船の火が消えるかと思うと、一抹の寂しさは禁じ得ない。勿論私が奉職した工場でも同じような進水式を何度も経験しているし、当事者でもあったわけだが、このような、終末が、いつか日本全体を覆い、ここがかつて造船というものを行っていたところだと、博物館形式で残る日が来るのではないかと考え込む。そこで、一体私は、二十数年何をやってきたのだろうかと云った感慨にふけるわけだ。現に2014年問題として、歴史的な円高に加えて低コストを武器にした、韓国や中国との価格競争に破れ、受注が激減して、ほとんどの造船の大手各社は2013年までに受注残が底を突くと言うことが懸念されている。JFEとIHI傘下造船子会社の合併で乗り切ろうとしているが、当の三菱重工業は日本の空洞化を顧みることなく、海外生産の拡大と銘打って、敢えて中国やインドの造船所に技術の供与を行う道を採ろうとしている。自らは、造船に見切りを付け、他の部門で業容を拡大しているが、ほぼ、造船一本で来た会社は之により致命的な打撃を被ることになるのは必定であろう。その昔私が会社に入った頃は、造船会社は、互いに隠すようなこともなく、互いに技術的な問題を企業間で共有し合うという良き風潮があったが、今となっては、それも夢の又夢である。自分が過ぎ来し方を思いながら、今日は久しぶりに隣の駅の山崎までウォーキングしてみた。一時代昔の製品になったが、耳にi-Podのイヤホンを入れ、ドボルザークの「新世界」を聞きながら、2本足で、歩けることに感謝しつつ1時間余掛けて、ゆっくりと歩いた。
2012.03.15
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連れ合いが教鞭を執っている中学校の卒業式だった。晴れがましい1日のようで、連れ合いも普段の授業時よりはかしこまった服を着て、胸にブーケなどを付けていった。私は、学校までの送り迎えを仰せつかったのだが、自分の中学の卒業式はどうだったのかなど考えても、思い出せない。私の中学時代は、千里山だったので、今から考えると一寸田舎だったのかも知れない。とにかく、大きく開けたのは、万国博覧会が開かれたのがきっかけだったのではないだろうか。その頃から千里ニュータウンが開け、阪急電車は千里山駅が終点だったのが、現在は千里中央駅まで延伸している。万博を機会に周りの農地はなくなって、田舎が田舎といえなくなってしまったようだ。しかし、その千里ニュータウンも若かった我々が、老齢になってしまった如く、ゴーストタウンになってしまったところもあるようだ。現在は再び若い人を導入して、地域の活性化を図る動きも出ているようだ。東京の玉ニュータウンにしろ、千里ニュータウンにしろ、大都市のベッドタウンは、半世紀も経つと、そこに居住する人達は、代替わりすることになり、人間(人生)のサイクルのようなものを感じる。私の中学校はとても変則的な校庭を持っていた。校舎のある上庭と呼ばれる比較的狭く細長い部分と、中庭と呼ばれる、テニスコートやバスケットコート(屋外)などがある庭と、下庭と呼ばれる、陸上競技のトラックや、ラグビーなどをする広く大きな校庭の3つに分かれていた。そして、その下庭の周りは、農地が点在していたようだ。中学で何を習い、誰と遊んだかを思い出しても、その後、交流のある友人は、それほど多くなく、皆霧散してしまったようだ。楽しかったことどもを断片的に思い出すのだが、一貫して中学校生活はどうだったのかと問われると殆ど記憶がないのである。連れ合いが勤めている中学校は、阪急の水無瀬駅に近く、且つ先頃出来たJR島本駅にも程近い、今や最高の利便性のある立地条件だ。だからといって、周りが全て建物かというとそうでもなく、一寸歩けば、小さいながらの農地が未だに残っている。この辺りは、京都に出るのも大阪市内に出るのも便利な位置にあり、おそらくは、吹田、茨木、高槻と住宅区域の拡充の中、開発されていった場所であろう。参観日に、地域住民の1人として、授業風景を見せて貰ったことがあるが、中学生とは、こんなに小さかったのかと感じたことを覚えている。中には、大きな生徒も居て、そのアンバランスは、極端であった。中学校の卒業後は、今では殆どの子供は高校に通う。我々の時も、中学から就職する子供は少なかったように記憶する。卒業式の時点では、自分たちが何処に進むかはもう既に決まっているから、卒業式は粛々と進行したようだ。我々の時代には、1年上の先輩2人が高等学校に入るために、中学浪人をした。大学を目標に高校は進学校に入りたいということなのだが、なかなかどうして、勇気の要ることだろうと考えたものだ。今でもそのような生徒はいるのだろうか。中学3年生ともなると、良くできる子とそうでない子の差は歴然としてくる。出来ない子でも何とか救ってくれる私立の高校を探して無理矢理押し込んで貰うと言うことになるのだそうだ。この頃に自分の人生を見通して、何をやりたいかを決めている生徒が居るのだろうか。そんなことをふと考えた。みんなはどうか知らないが、少なくとも私はそのようなことは考えたこともなかった。今年の冬は、非常に寒かったので、春の訪れもゆっくりとしている。例年だと桜の便りもちらほらと云うところだが、今年は、梅のつぼみが膨らんだと云う程度のようだ。しかし、とにかく晴れがましい日に違いはない。天気もそれを祝して、青空を見せている。生徒は、教えを受けた恩師達にも、感謝しているに違いない。もとより、そんな卒業生の中から、将来は、恩師を追い抜く子供も出てくるわけで、またそうでないと日本の明日は停滞してしまうだろう。校門まで送って行った時に、新しく(と言ってももう1年が経過するという)英語の教師の補助で、ニューヨークから来ている26歳の若いアメリカ人を紹介して貰った。彼は、もうすぐ近くの中学校に転任するそうだが、今は、連れ合いの学校で、生の英語を教える手助けをしているとのことだ。我々の時代は、勿論日本人の先生が、下唇を噛めとか、舌先を上顎に付けろ、だとか、色々と発音上の注意を受けたことを思い出すが、それでも所詮日本人から耳で聞く英語を習っているのであり、自ずと限界がある。その点は、今の中学生は非常にハッピーな気がする。全国の中学校が全てそうなっているわけではないだろうから、恵まれていると言えよう。その青年は、居酒屋好きであり、近く京都に転居するとか云っていたが、日本の文化にも興味があり、滞在期間を有意義に過ごしているようだ。逆の場合を考えてみた。日本人が海外で、日本語を教える補助要員として出掛けている例はあるだろうか。例えば、ニューヨークの学校で、日本語を教えるアメリカの先生の補助として、日本の若者が、日本語の発音や、日本語会話を補助的に教えることをしているだろうかと云うことだ。そう言った例は、あまり聞いたことがない。勿論、英語には世界の共通語としての価値があり、日本語を学ぶ以上の意味があるだろうが、外国で、日本語を学ぶというのは、やはり単なる趣味の域を出ないか、もっと日本のことをよく知りたいという、特殊な人に限られているように思う。26歳という事は、大学を出て4年程度経過しているわけだが、日本なら、永久就職的なことをしていて、とてもそう言ったことを1期間フリーターとしてやれたり、又やったりすることもないだろう。もしそれが可能として、果たして今の若者が、他国の人に正しい日本語を教えることが出来るかどうかは甚だ疑わしいと云わなければならない。しかし、日本という国には、どれだけ多くの英会話など英語に関する教材や、講座があるだろうか。そして、その存在の数の割に、英語を話すことをためらう人が多いことかと思う。よく云われることだが、英語は単なるコミュニケーションの手段であり、決して英会話それ自身が目的ではないと言うことである。英語で会話するにしても、相手の国のことや、そこの歴史や地理、その他、英語以外で、話題となるべき色々な事柄を最低限知っていないと、会話は前に進まないだろうと云うことだ。いくら「Nice to meet you.」と始めても、その次に何も言えないのでは、会話にならないと言うことだ。どこに住んでいる、何年位日本にいる、日本の何処がよいと感じるか、等々、簡単英会話の本に出てくる内容を話してしまうと、もう続かないのである。しかし、最近は、日本も海外進出が増えてきたから、英語を全く話せないのでは、仕事にならないという状況になってきているし、管理職になるためには、英語がある程度話せないと駄目だとか、海外駐在の機会も増えてくるので、中学校で覚えた英語を率先して応用できるように自ら励まなければならない状況だ。私自身は、小学校は別なところで育ち、中学と高校時代を千里山という土地に居たという感じで、その後も転居ばかりしていたので、中学時代そこが地元だという感覚は希薄であった。先生との関係もそれほどの密度は感じなかったし、友人も特定の人を除いて、殆ど親密な関係ではなかったので、一層卒業と云うことに関しても記憶が希薄なのかも知れない。それでも中学時代に感じたことや場面を断片的に覚えているのだから、地域に密着して過ごした、生徒や、連れ合いなどは、感慨もひとしおなことであろう。やり残したこともあるだろうし、完璧ではなかったかも知れないが、業を終え、巣立つという意味は、少なからず感動的なことである。
2012.03.14
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アメリカ主導の下、EU(欧州連合)と日本が共同して、中国のレアアースの輸出制限についてWTO(世界貿易機関)に提訴するという話が掲載されていた。ここでも日本は、後追いの対米追従の形式である。レアアースは元々、強力磁石の原料や液晶ガラスの基板、さらには自動車などの排ガス浄化触媒やモーター用等に広く使われているという。之までもレアアースなるものを使用してきたが、ここに来て急に脚光を浴びるようになった感がある。これらは、希土類元素と呼ばれ、勿論元素の周期表に掲載されているものであるが、我々が良く使う、鉄や、銅、アルミといった金属とは違って、あまり陽の目を浴びてはこなかった。しかし、現在は、このレアアースがないと上記のような製品はできないわけで、影の力持ち的な存在であるわけだ。しかし調味料的な要素の希土類は、その名の通り、希 (稀)な存在であり、且つ希少な元素なのであったが、我々エンドユーザーは直接的に殆ど関心を持つことがなかった。このレアアースは17種類の元素を云い、生産地は、中国、インド、ブラジル等が挙げられるが、その中でも現在では、中国が埋蔵量の97%を占めると言った、偏在の仕方なのである。一方では、鉱物資源であるから、掘り出す必要があり、生産にかかるコストも中国ならではの安さが、中国の寡占を許している面もある。中国と言っても、内モンゴル地区がその生産の殆どを占めているわけで、中国が、これらの土地を縛り付けて放さない所以の1つでもある。最近よく聞く名前では、ネオジム(Nd)、ジスプロシウム(Dy)、セリウム(Ce)、ランタン(La)等と言ったところだろうか。最近これらの元素が取り沙汰されるのは、このところの、中国の経済成長により、自国でも使う必要に目覚めたと云うところではないだろうか。一旦このレアアースの有用性が解り、自国でも必要となると、その先の中国の出方、誰が見ても一目瞭然である。即ち、少ししか取れないものを出し惜しむと云うことである。中国の言い分は、環境対策であるというが、この真っ赤な嘘を平気で並べ、輸出規制を強化しているのだ。昔から、中国にとって、WTOなんてものは存在しないのと同じ位に、軽い存在と見なしている。既に5年前になるが、知的財産権の保護が、中国では全くないとアメリカは中国をWTOに提訴している。海賊版DVDやCDの氾濫である。中国人にとっては、馬の耳に念仏的なことであろう。例えば、オリジナル版が3,000円するが、多少は音質が落ちるにしてもこちらのパイレーツ版は1,000円を切るとなったら、誰が正規値段で購入するだろうか。そんなことをする奴は馬鹿だ。といった具合なのであろう。中国政府は、表向き、WTOに加盟しているために、規制を強化するとは云いながら、実情は野放し状態で、おそらく時々、必要でなくなった、DVDやCDの山を築き、そこに火を放つといったパフォーマンスをするわけである。しかし、民度の低い国民が、素直にそれを履行することはないことは、過去5年間の中国のやり方を見れば歴然である。このようにして、アメリカが対中でWTOへの提訴を度々行っており、5年前で5件、現在では遙かに多くの提訴を行っているが、そう言った概念が希薄な国に対して、節度ある行動を求める方が、無理であろう。今、アメリカは、大統領選の最中であり、イラン、イスラエル、アフガン、パキスタン、さらにはシリア等々多くの問題を抱え、ここでまた、中国への弱腰を見せると、国内的に、共和党の良い餌食にされるといった考えも底流にはあるようだ。中国はまた、2010年秋の漁船衝突事件を契機に、レアアースを外交カードとして使い始めたという。そう言ったところには抜け目のない、実に狡猾な国である事が解る。すでにレアメタル(希少金属)についてはアメリカとEUがWTOに提訴し、WTOはほぼアメリカの主張を認めているという。しかし、WTO違反の報告書が発行されたからと言って、直ちに刑の執行(処罰)などと言ったものは取り得ないので、良識のない国に良識を求めると言った形にしかなり得ないであろう。中国が、様々な論理のすり替えで、レアアースの対外輸出を制限しているために、その値段は著しく高騰している。ジスプロシウムやネオジウムなどは、中国の輸出手控えで、40倍近い高値になっているのが現状のようだ。日本に於ける通常の刑事裁判も簡単に決心することはないので、国際間のWTO紛争については、長時間掛かることを考慮しなければならないことになる。何となく、中国のごね得のような結果に終わるのではないか。提訴の中には、レアアースだけではなく、レアメタルであるタングステン(W)とモリブデン(Mo)も含まれる。皮肉にも、中国でその殆どが産出される。これらのレアメタルとレアアースは、中国にとって、格好の切り札となっている。タングステンは、超硬工具、電球フィラメント、携帯電話の振動モーターの原料や超硬工具賭して必要であり、モリブデンは特殊鋼の添加剤や放射性医薬品等に必要であるという。早速ハイブリッド車のモーターに使うレアアース(ネオジウムやジスプロシウム)等への影響から、プリウスなどの国内最低価格を引き上げることになったようだ。国内では、これらに対応するために、レアアースのリサイクルや、レアアースの代替品の開発に注力している。エネルギー(化石燃料の石油やガス)も然りで、日本は、あらゆる鉱物資源を輸入に頼っているために、こう言ったことは容易に予測可能ではあるが、それでも尚、中国に進出するのは、格安な人件費の魅力に勝てないというところだ。しかし、ここ数年のうちに、中国の物価も上がり、絶対的なコスト上昇は歴史の語るところであるから、何時までもこのカードを使い続けることは出来ないであろうが、当面は、レアアースなどの問題に悩まされ続けなければいけない。中国のこういった悪意の輸出規制は、レアアースを使うハイテク部品の企業を強引に中国に引っ張り込もうと云った戦略も覗える。しかし、最も重要なノウハウは秘匿しているという、日本の好意的な対中国技術援助の発想とは格段の違いがある。中国はここまで囲い込むといったやり方をするのは、何もこの問題に限ったことではないが、やり方が露骨で、その点いかにも中国らしいと言わざるを得ない。こういった事態を重く見て、日本では車などの分野に於いて、電子部品各社では、脱レアアース化の動きも始まっている。ネオジウムやジスプロジウムなどを用いることなく、電磁石の原理を応用し、酸化鉄の外周にコイルを巻くなどして、電流を流して、強力な磁力を発生する考えだ。同様に、排ガス浄化触媒でも、レアアースを使わない方法も考えられており、更なる元素についても脱レアアースの方向で準備を始めなければならないだろう。こういった基礎技術力を応用することは、日本の得意とするところであり、こういった、偏在した材料については、代替化が出来るように供える必要があるようだ。特に中国を相手にする場合は、いつ何時、彼らの方針が変わるかも知れず、私企業ベースの了解事項などと云った甘いことは許されないのが現実であり、共産党のトップの考え方で如何様にも転ぶわけだから、なおさらのことである。アメリカや、オーストラリア、そしてウクライナなどにも、レアアースの産出が期待されるものの、当面は、中国に頼らざるを得ないわけで、我田引水しか考えない中国を相手にしては、リスク管理の考えを徹底しなければならない。
2012.03.13
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アメリカは、現在大統領選挙の真っ最中である。共和党の結果が刻々と伝えられ、スーパーチューズデーも過ぎ、14日(これを書いている)には、ロムニーが代議員500人近くに対し、2位のサントラムが200人を超えたと言うところだ。必要代議員数は1144人と言うから、まだ先は不透明と言うことになる。そんな中、民主党オバマ大統領は、対外的に、大きな問題を抱えている。その1つである、今日の新聞では、「米・イスラエル時間の地政学」と称して、イランと、イスラエルの狭間で、核問題と戦争の危機への対応を迫られている。言うまでもなく、イランは、中東に於けるやんちゃ坊主的な存在で、核の開発を、平和利用と称してぐんぐんと推し進めている。これに対して、イスラエルのネタニヤフ首相はこの状態を黙認できないと、先制攻撃の機をうかがっている。ネタニヤフ首相は、オバマ大統領に早くイランを叩かせろと強硬に詰め寄るが、オバマ大統領は、之を押しとどめているという状況である。日本では、イランが、ホルムズ海峡を軍事封鎖する恐れ有りと言って、緊張感が隠せない。尤もそう言った心配はなさそうであるが、故人レベルで言うと、ガソリン屋が値上げの材料に使っていると言うところだ。利用できることは何でも利用して儲けようとの薄汚い根性である。ホルムズ海峡は紅海に於けるソマリアの(アフリカの)牙の如く、アラビア湾(ペルシャ湾というからイランが自分の領域と勘違いを強めている)に突き出し、交通の要衝(隘路)となっている。しかしこの狭隘部に突き出ているのは、アラビア半島側の、オマーンである。ここは複雑で、本来はUAE(アラブ首長国連邦)の最北の首長国である、ラス・アル・カイマの延長のようだが、実は、オマーンの飛び地になっているのだ。勿論アラビア湾に入れば、UAEも関係するし、カタールやバハレーンも影響が出る。最奥のイラクでさえも、ここからしか外洋に繋がらないのであって、これら諸国が、対イスラエルを意識したとしてもアラブの国家として大同団結する可能性は極めて薄いであろう。イスラエルは、いつでもというより、今すぐにイランの核開発施設を破壊しなければ、何時自分たちがやられるかと言う恐怖を感じている。アメリカは、「少し待て、時期(レッドライン)はイランが実際に核爆弾の製造に入り、核実験を試みようとした時だ」言うことで、説得を試みようとしている。しかし、イスラエルは、当事国であるために、それほど危険な目に遭うことを満を持して待つわけにはいかない。待てば、現在補足可能な核開発も地下に潜り、分散してしまうことに成りかねないというのがその考え方だ。オバマ・ネタニヤフ会談での摺り合わせが出来ない点は、レッドラインの時期の問題と、空爆が最善の選択肢かという点だ。イスラエルの近隣には、ヒズボラが潜伏するレバノンが喉元に切っ先を突き刺しているのと同じである。アメリカはイラクなどでの経験から、空爆しても核開発を数年遅らせるだけで、根本的な解決は望めないとする見方である。更に、イスラエルから空爆を使用としても、航続距離が長い上に、トルコかまたは他のアラブ諸国を通過する必要があるという点だ。そこで、イスラエルは、イランを単独で空爆することについて、完全に不可能ではないが、非常な困難を伴うと予想している。下手をすると、アラブの湾岸諸国を全て巻き込んだ、第3次世界大戦に発展しかねないわけだ。しかしパキスタンが核を持つという危険性は、上記を踏まえ、世界の共通認識として存在する。現在イランのアハマニネジャド大統領は、最高権力者のハメネイ師と最近、そりがあっておらず、この内紛が、イランの核開発にどのように響くか注視する必要がある。最近になった、イランは、IAEA査察を受け入れることを表明したようで、この点についても注目すべきであろう。イランは、ペルシャ語を母国語とする、ペルシャ人の国としてアラブ系の民族とは、立場を異にすることが多い。同じように、中東と区分されるが、アフガニスタンでは、ペルシャ語やパシュトゥン語を話し、トルコはトルコ語を話すわけで、扱いは別に考えないといけない。そして、中東に位置しているが、唯一イスラエルは、ヘブライ語を話すユダヤ人の国家である。こういったモザイク模様の地政学上の問題は、常に、この地域に紛争と、覇権の問題を繰り返し、もたらした。私には、何故イスラエルがこの地にいるのか、未だによく理解は出来ないが、この問題は、永遠に解かれない謎であろう。イギリスや、フランスの外交政策の刹那性がよく表れていると言っていい。その後を継いだのが、アメリカであるが、アメリカも膨大な軍事予算を縮小する必然性に迫られ、世界を相手に横綱相撲を取り続けるわけには行かなくなってきた。イラク戦争後、イラクからの撤退を決めたが、そのまま横滑り的にアフガニスタンに駐留を決め、カルザイ大統領の指導力を期待したが、どうもこのカルザイ大統領も、見てくれよりは遙かに力がない。アメリカも最近の軍統制に変化があったのかも知れない。2月23日には首都カブールなどで、駐留アメリカ兵らがイスラム教の聖典コーランを燃やした事の抗議に端を発する、大規模なデモが上げられる。アメリカ兵の誰がと言う点だが、おそらくは、クリスチャンであろうその兵は、聖書を焼かれたらどう感じるかなどと思いもしなかったのだろう。オバマ大統領は即座に、謝罪したが、その事が未だ沈静化するかしないかの内に、今度は狂った(?)アメリカ兵による銃の乱射で、無抵抗な子供、女性を含むアフガン人の民間人16人を射殺したというのだ。この犯行の際立つ残虐性は射殺後、遺体を焼いたという痕跡があると言うことだ。西欧もそうだが、アメリカなど白人の間では、往々にして、黒人はおろか、黄色人種に対するある種の間違った優越意識を持っている者もおり、こういった惨事を平然と行う時がある。今回は、兵士の異常行動と言って簡単に済ませる事は出来ないようだ。之では、幾ら、アフガンの平和維持と名乗っても、アメリカ軍の存在すらが障害となることは、明かである。アメリカでは、大統領選挙があると、こういった、対外的な、軍の活動などが、論争の争点になることが多い。タリバンは、パシュトゥン人であり、元々イスラム教神学校の学生である。一時はアフガニスタンの政権まで握った、極めて厳格な、イスラム教徒で、偶像支配を禁じていることなどから敦煌石窟の爆破など、価値観の違うものは簡単に破壊することに躊躇はない。現在のカルザイ大統領では抑えきれないので、アメリカ軍は、駐留をして、タリバンをアフガン北部のカンダハルに閉じこめると言うところまでいっている。しかし、隣国パキスタンは、タリバンの援助を惜しまないなどから、問題はより複雑になっている。タリバンにとっての後方支援組織になっているパキスタンそのものを叩くべく、アフガン駐留のNATO軍ヘリコプター部隊が越境攻撃をして、パキスタン兵28人を殺し、20人を負傷させるという事件も起こしている。この空爆も、アフガン北部のタリバン攻撃のためと言いながら、パキスタンまで侵入しているのである(表向きは誤侵入としている)。このように、アメリカは、アフガニスタン政府と対立するタリバン、そのタリバンを影で支援するパキスタン政府、これらの4つ巴で、打開の口が見つからない上に、イランの核開発に対するイスラエルの先制攻撃の可能性が入り交じったような状態である。そこにイスラエルが絡み、加えて、シリアに於けるアサド政権の非人道的虐殺を毎日のように聞かされ、辟易しているような状態である。
2012.03.12
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今日であの忌むべき東日本大震災から丁度1年を経過した。関西からは遠く、テレビで見るしか現状を知り得ないが、未だに惨状の幾ばくかが復元しているものの、惨禍の傷跡が残っているところも多々ある。今回の災害は、3つの大きな要素が重畳して起こったものである。1つは、マグニチュード(M)9.0と言う超弩級な地震による災害、2つ目はその地震によって起こされた、これも過去に例を見ない22mを越える高さの津波、そして最後は、福島第1原発による原子炉の崩壊(メルトダウン)という最悪の競演であった。1と2は、予知は試みるが、正確な情報は得られないままであり、3に至っては、何をか況やの人災事故である。今日までに公表されている死者は、関連死を含めて、17,254人で、更に尚、3,155人の行方不明者が居る。負傷した人は、26,992人で、避難生活を余儀なくされている方々は、343,935人と途方もない数である。しかし、宋時代の黄河大水害では100万人もの人が死に、華県地震では83万人もの人が死んだとの記録があるようだ。これらは、500年から1000年も昔のことだが、20世紀も後半になって、唐山地震では、25万人近い人が死んでいる。地震や津波は地球規模のことだから、あながち他国のことと考えてはいけないが、日本に於いても関東大震災というとてつもない大きな地震災害に遭遇している。そして、まさに、この三陸海岸を襲った、巨大地震と津波が1896年にも起こっていて(明治三陸地震・津波)、27,122人の死者を出しているということだ。この地震も、海溝型で、地震のエネルギーはマグニチュード(M)8.5であったという。そして押し寄せた津波の高さは最大38.2mと言うから法外である。10階建てのビルがあったとしても呑み込まんとする高さだ。この時の震源は、釜石市の東方沖200kmと言うことだから、今回の震源地とさほど変わっていない。 更に下って、1933年には昭和三陸地震津波が同地方を襲っており、この時の地震エネルギーは、マグニチュード(M)8.1であり、3,100人が亡くなっている。従って、今回の同地方の地震と津波の被害は3回目という事になる。これら地震に関する証言収集のために、作家、吉村昭が地元を歩いて事情を聴取していて、「三陸海岸大津波」を表している。津波のことを現地では「よだ」と呼ぶようで、吉村は在住の老人との会話で、「よだ」(津波)の高さを50mと聞いているが、老人の家が海抜25m程度に位置していることなどから、食い違いから生じた誤認であったとされている。しかし、実際には、38.2mと言う公式記録もあることから何故に之をネグレクトしたのか合点がいかない。更に言えば、1933年の昭和三陸大津波の津波高さは、28.7mと言うことであり、2度の教訓を全く考慮していないとしか言えない。こういった顛末を見たり、斑目原子力委員長の当初の発言を聞いたりすると、あらゆるファクターを考えて、設計すれば、物は設計出来ないから、何処かで妥協しなければならないと言うことであり、それはとりもなおさず、赤字を垂れ流してまで、企業が万全の策を採らないと言う証左である。こういったスタンスで、原子力を扱うには、あまりにリスキーであることは言うまでもない。ドイツのメルケル首相が、一旦は、ドイツで原発を再開しようと決断したそうだが、福島の原発事故を見て、完全に翻意したという。やれ、フランスから売電できるからだとか、色々口さがなく言う者もいるが、再生可能エネルギーで、代替・補填することが可能だという信念での決断であったと思う。我々日本人は踊らされやすい民族であるようだ。昔からお上を信仰するDNAが植え付けられているから、ある識者(専門家)が、こう言ったとか、政府が大丈夫だと言っているとかで、簡単に洗脳されてしまう。(今回この事は証明されている)過去を振り返って、太平洋戦争では敗戦している最中にも、未だ日本が逆転して戦争に勝つと信じていた人が多かったように、容易に暗示に掛かりやすいのではないだろうか。現在ではタレントの洗脳だとか言われているが、かつて、カルト教団のオウム真理教でも、同様の刷り込みがあり、一時我を忘れた人達が起こした暴挙は記憶に新しい。ドイツの人達のように、我が身を自ら考えることが出来ないのだろうか。直近の利益に目が眩んで、遠い将来の膨大な危険を忘れるなどは、身勝手も良いところである。日本で原発が最初に稼働したのは1963年の東海村であるが、1955年から、原発志向が始まっている訳であり、その間半世紀以上、原発に向けて、最大限の研究と予算付が行われてきたのである。最も安直に(安全であればの前提だが)電力を得る方法として考えられたのであろうが、1957年イギリスのウィンズゲール火災事故、1966年アメリカのエンリコ・フェルミ炉炉心融解、1969年スイスのリュサン原子力発電所事故、1979年アメリカのスリーマイル島原発事故、1986年旧ソ連のチェルノブイリ事故と立て続けにシリアスな事故の教訓があり、更に日本でも、1997年の東海村再処理工場で爆発事故、1999年の東海村JCO臨界事故、2004年の美浜原発で蒸気噴出事故と大いなる教訓が目白押しである。昨年(2011年)にはフランス南部の核関連施設での爆発も報じられている。それから得られた、発電コストの比較表でも、原子力発電は8.9円/kwhと他の再生エネルギーに比べて格安と報じている。(但し、事故費用は含まないと書いてある。)こんな馬鹿な計算で、数字面だけを見て原発が必要と説くことに最早日本人はだまされないと思っていた。事故が起こった対策費、補償費などはおそらく十分でなくても天文学的な値となるであろうからだ。それに加えて、26年経ったチェルノブイリは、今なお、近づくことさえ出来ないという。福島も同様であり、狭い日本、もう住むところがないと言うことになったらどうするつもりだろうか (54基の配置を見ると逃れるスペースはない) 。基準が甘かったでは済まされないし、電力料金を上げるぞと言っても誰もいなくなってしまうのだ。こういった悲惨な事故の後であり1年目の反省点を述べるのに、かのノーベル物理学賞を受賞した、益川敏秀は「原発は使って行かざるを得ない・・・一番怖いのは、原発の研究そのものが無くなってしまうことだ。・・・」と述べている点だ。「あーぁ、之では、日本民族の、いや人類の滅亡を予言せざるを得ない」と感じた。福島に戻って、プレートテクトニクス理論による太平洋プレートの北アメリカプレートに潜り込む地帯であることは、明治時代の1896年には解っていなかったとしても、現在では、そらんじて、話すことが出来る人は沢山いるはずだ。福島第1原発は1971年に稼働を開始しているようだが、その時点で、設置位置等を決めるのに、既にこれら大きく2回の大災害があったことは、記録に残っていたはずである。何故にこれら貴重な体験を活かすことなく原発のロケーションがここに決まったのか、どう見ても不思議でならない。原子力発電所は安全神話を流布するに当たり、放射性物質の異常な放出を防止するため、「5重の壁」を設けていると喧伝していたが、良く見ると、之は、原子炉自身が、自発的に問題を起こした場合のことを述べているのであって、外部からの攻撃(テロも含め、今回のような津波)に対応するようには作られていない極めて脆弱なものであることを露呈した。津波の凄さもさることながら、この原発の要諦である冷却装置の脆弱性は真剣に工場配置を考えたのかどうか疑わしい。通常考えられるのは、原子力を専門とする人にとって、炉心を冷却することは必須であるとの認識はあるが、ややもすると、原子核の分裂や、炉内の変化等に気持ちを取られ、冷却そのものは前提として巧く機能すると言うことで見過ごされてきたのではないだろうか。要は、冷却システムの回路は、原子炉そのものの構造などに比べると1次元低位に見られていて、原子力技術者の盲点になっているのではないかと言うことだ。そうでなければ、原子炉をちょっとした高台に置く配慮はあっても、冷却水を送る心臓であるポンプ群をそれより低位に配置し、津波に対して無防備であった今回のような初歩的なミスにはならなかったであろう。如何に想定外と雖も津波が来て、水を被る可能性が高い低位にポンプを配置して、冷却が叶うとは、誰も気づかなかったのであろうか。之は1例であり、危険を考慮しすぎると、工学的には可能としても、経済的に成り立たないという中、原子力をそんな安易な対象に選ぶのは、是が非にも止めて貰いたい。人間は所詮浅知恵、考えても考えても、人のすることの限界(ヒューマンエラー)のあることを忘れてはいけない。
2012.03.11
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第五十一段【本文】亀山殿の御地に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭(あし)を給ひて、数日(すじつ)に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻(めぐ)らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたづらに立てりけり。 さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結(ゆ)ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。【訳文】 亀山殿の庭のお池に、大井川の水をおひき入れになろうとして大井川沿いの土地の住民に命じて、水車をお造らせになったことがあった。たくさんの金銭を下さって、数日かかってせっせと作り出して、大井川の水にしかけたところ、全然水車が回転しないので、あれやこれやとなおしたけれども、とうとう回転しなくて、何にもならず立っていたのであった。 そこで、今度は、宇治の里の住民をお呼び寄せになって、水車の製造をおさせになったところ、楽々と組み立てて差し上げた水車が、思い通りによく回転して、水を汲み上げて池に入れることが、実にみごとなものであった。 何事についても、その専門をよくわきまえている者はたいしたものである。【注釈】・亀山殿:今の天龍寺に当たる・大井川:大堰川・まかせられん:(水を)引き入れる・こしらへさせ:工夫して造り出す第五十二段【本文】 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。【訳文】 仁和寺にいる憎が、年をとるまで石清水八幡宮に参拝したことがないので、情けないと思われて、ある時発意して、ただひとりで、徒歩で参拝した。そして、麓の極楽寺・高良などの八幡宮付属の寺・社を拝んで、これだけのものと思いこんで、仁和寺に帰って来た。 そこで、仲間に向かって、「長年思いつづけて来たことをやっと果たしました。八幡宮は噂に聞いたのよりまさって、実に尊くあらせられました。それにしても、参拝の人たちがみな山へ登って行ったのは、山の上にどんなことがあったのでしょう、行って見たかったのですが、神社へ参拝するのが本来の目的なのだと思ったので、山の上までは見ませんでした」と言った。 些細なことについても、案内役はあってほしいものである。【注釈】・心うく:情けなく・かたへ:仲間・ゆかし:見聞きしたい・先達:案内役第五十三段 これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしながへ)を放りて、頭に被(かづ)きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。 しばしかなでて後、抜かんとするに、大方(おほかた)抜かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせんと惑ひけり。とかくすれば、頸の廻り欠けて、血垂(た)り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へ難かりければ、かなはで、すベきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率(ゐ)て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。物を言ふも、くゞもり声に響きて聞えず。「かゝることば、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言へば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。 かゝるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。たゞ、力を立てて引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかりに引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。【訳文】 これも仁和寺の僧のことであるが、稚児が僧侶になろうとする別れというので、僧たちがめいめい芸をして楽しみ興ずることがあった時に、その憎が、酔っぱらって興にのり過ぎた結果、そばにある足のついた鼎を手にとって、頭にかぶったところ、つかえて入りにくく感じたので、鼻を平たくしながら顔を中へつっこんで舞って出て行ったところ、一座の人たち全部がこの上なくおもしろがった。 しばらく舞った後で、頭を抜こうとしたところ、いっこうに抜けない。そこで、酒宴の興がさめてしまい、一座の人たちはどうしたものかと途方に暮れた。抜こうとして、あれやこれやとするうちに、頸の周囲の肉が傷ついて、血が垂れ、やたらに腫れふさがって、呼吸もつまって苦しくなったので、鼎を打ち割ろうとするけれども、容易に割れず、その上、がんがん響いて、かぶっている僧にとって我慢できないので、それも思うようにできず、どうしたらよいかわからないので、鼎の三木足の角の上に帷子をひっかけて隠し、その手をひっぱり、杖をつかせながら、京都にいる医者のもとへつれて行ったのを、その途中、人々が何であろうかと非常に怪しんで見た。医者の家に入って、その僧が医者と向き合って坐っていたであろう、そのありさまは、さぞ奇妙な様子であっただろう。法師が何かを言うのさえ、鼎の内にこもった声としてひびいて、ほっきり聞こえない。「こんなことは、医書にも見あたらず、口伝(くでん)の治療法もありません」と医者が言うので、また、仁和寺へ帰って来て、親しい友達や年とった母親などが、枕もとに近く坐って泣き悲しむけれども、その声を本人が聞いていそうにも周囲の人に思われない。 こうしているうちに、ある者が、「たとい耳や鼻が切れてなくなっても、命だけは、どうして助からないことがあろうか。この上は、ただもう、力をふりしぼってひっぱりなさい」と言ったので、藁のしべを首の廻りにさしこんで、鼎の鉄を首の肉から離して、首までももぎとるほどひっぱったところ、耳と鼻がとれて、跡に穴があいたけれども、頭はやっと抜けてしまった。法師は、あぶない命をひろって、その後長い間わずらっていた。【注釈】・頭に被き:頭に被る・かなで:舞って・欠く:傷つく・かなはで:意のままにならず・がり:所へ・枕上:寝ている枕元・うぐ:穴があく・からき:危険な第五十四段【本文】御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(わりご)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたゝめ入れて、双(ならび)の岡の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。 うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻(めぐ)りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困(こう)じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼(た)かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋(うづ)みつる木の下に向きて、数珠おし摩(す)り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹たちて帰りにけり。 あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。【訳文】 仁和寺にすばらしい稚児がいたので、何とかして誘い出して一緒に遊ぼうと計画した法師たちがいて、芸能のできる雑芸の法師たちなどを仲間にひき入れて、たべ物を入れた、しゃれた意匠の破子(わりご)のようなものを念入りにこしらえ上げて、箱の形をした物にちゃんとまとめて入れて、双(ならび)の岡の、都合のよい所に埋めておいて、その上に紅葉を散らしてかけたりなどして、誰にも気づかぬようにして、仁和寺の御所へ参って、めざす稚児を誘い出してしまった。 法師たちは、計画通りになったので、うれしく思って、あちら・こちらと遊び廻った後、さきほど埋めておいた、苔の一面にはえた場所に一同が並んで坐りこんで、「ひどくくたびれてしまったなあ」、「ああ、この紅葉を焚く人がいればよいのになあ」、「修法の効験のありそうなお坊さんがた、試みにお祈りしてごらんなされ」などと互いに言い合って、一同が、埋めておいた木の下に向かって、数珠をすり、手で印形を仰山に結んだりして、ひどくもったいぶった動作をして、木の葉をかきのけたけれども、全然、埋めておいた物も見えない。埋めた場所が違っているのであろうかと思って、掘らない所もないくらい山中を探し求めたけれども、どこにもなかった。埋めたのを人が見ておいて、法師たちが仁和寺の御所へ参っている間に盗んだのであった。法師たちは、その場をつくろうことばも見当たらず、聞くに堪えないように口争いをし、腹を立てながら、仁和寺へ帰ってしまったことである。 あんまりおもしろくしようとして趣向をこらすことは、きっとつまらないことになるものである。【注釈】・能:芸能・いたう:ひどく・困ず:疲れる・いらなく:もったいぶって・つやつや:いっこうに・あいなき:つまらない第五十五段 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。 深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、灯暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。【訳文】 家の作り方は、夏に適することを主とするのがよい。冬は、どんな所でも住むことができる。夏の暑いころ、住むのに不適当な住宅というものは、我慢できないものである。 庭のやり水について言うと、底の深いの涼しそうな所がない。浅くて流れている水が、ずっと涼しい感じである。こまかい物を見る時に、遣戸のある室の方が、蔀のある室よりも明るいものである。また、天井の高い室は、冬の間寒く、夜は灯火が暗いものだ。建築は、きまった何かの用に使われない所を設備してあるのが、見た目も趣があり、いろいろの役にも立ってよいものだと、ある人たちが論じ合ってきめました。【注釈】・むね:もっぱらにする
2012.03.10
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こんな記事が、小さく新聞に載っていた。アメリカの海洋大気局(NOAA)は太陽表面の巨大な爆発現象(太陽フレア)が6日に発生して、放出された電離ガス(プラズマ)等による太陽嵐が地球に向かっていると発表した。この太陽嵐の電離ガスは8日には地球に到達したという。太陽嵐としては、最近5年間で最大の規模だといい、通信や送電線網、飛行機の運航に悪影響を及ぼす恐れがあるというのだ。プラズマは時速640万kmと言うから、地球と太陽の距離14,960万kmを之で割ると、約23時間という事で、丸一昼夜、走り(飛び)続けてきたようだ。太陽嵐というのは、太陽からエックス線などの電磁波やプラズマ粒子が爆発的に放出される現象を言い、地球に於いては、地場や、電離層が乱れて、通信や全地球測位システム(GPS)に問題が起こるとか、停電を引き起こす事もあるのだそうだ。また、地球近傍の人工衛星等に甚大な被害をもたらす恐れもあるという。1989年に太陽嵐が起こった際には、はカナダで大規模な停電が発生したようだ。幸か不幸か、現在までの所、今回の太陽嵐によって何らかの障害があったという報告はないようだ。ウィキペディアによると、太陽嵐(Solar storm)は太陽で非常に大規模な太陽フレアが発生した際に起こると云うことで、このような状態は良く観測されている。太陽の黒点数の変化周期は約11年毎と言われていて、この他にも長周期のものがあるようだが、太陽の黒点活動の観察が始まったのが約400年前と言うことで、長周期の約200 - 300年というのは、定かとは言えない。この11年周期で太陽表面の活動が活発な極大期とそうでない極小期とを繰り返しているという。 従って、今回は、太陽活動の極大期に当たると言うことだが上記以外にも観測史上最も激しい太陽フレアは2003年に起きたとのことで、人工衛星や惑星探査機に影響が及び、国際宇宙ステーションでも念のため避難が行われたが、被害は限定的で一時的に留まったようだ。 このフレア活動も、11年周期と言われながら最近は、長期化する方向にあると言う。しかし、今回の活動は2003年からわずか9年しか経っていないので、キチッと11年周期と言うことでもないようだ。電子器機の発達などもあって、この太陽フレアの極大期には、様々な影響がもたらされることも考えられるようになり、「太陽嵐」と呼ばれるようになった。 では、太陽嵐による影響はというと、通常よりも格段に多量の電磁波(紫外線、光(可視光線)、赤外線、電波)、磁場の波、粒子線、粒子などが放出されるため、注意を要するが、通常は、地球の磁気圏や大気圏を通過する際にほとんどすべてが減衰してしまうので、特段の問題にならないことが多い。 電磁波などの種類によるが、太陽嵐によって地球を襲う電磁波などはオゾン層や磁気圏で捉えられるために通常、地表に届くのは可視光線や赤外線のみである。しかし、一方では、昨年の4月頃には、北極のオゾン層が過去最大の減少をしたとされており、高度18km~20kmで範囲の径が1000km~3000kmの楕円状に広がり、オゾン量が80%も破壊されていたことが発見されていて、過去2004年に南極の上空のオゾン層の破壊が極大になった時と似た状態になっている。この太陽嵐の地球到来以前にも、今年の1月には北極圏(フィンランドやノルウェー)でオーロラの活動が活発になっていると報道されていた。この鮮やかなオーロラは、地球に衝突したコロナ質量放出(CME:Coronal mass ejection)が引き起こしたもので、太陽から放出される超高温プラズマと荷電粒子の雲だという。オーロラの剣と呼ばれる美しい情景は、観光客には願ってもない見ものであるが、果たして地球にとっては良いことなのかどうか。ここでいう、コロナ質量放出(CME)とは太陽活動に伴い、太陽から惑星間空間内へ突発的にプラズマの塊が放出される現象を云い、宇宙飛行士や飛行機パイロットの人体に与える影響も大きいとされている。 そして、今回は2003年10月以来最大とされる太陽嵐が発生し、それに伴って、巨大なCMEが地球に高速で向かってきたということになる。ところが、この太陽の巨大変化である太陽嵐(太陽フレアによる)の起こる原理は正確には解っていないが、地球のマントル対流のような状態が、太陽内部でも起こっており、磁気を帯びたガスがベルトコンベアーのように循環をしていると考えられている。この循環は40年程度で太陽内部を一巡するが、この長さが約30年-50年程度と前後する場合があるのだそうだ。それと共に、太陽磁場が反転して磁力線が大きく動く極大期(11年周期)に巨大な太陽フレアは発生するとされている。この太陽嵐も、通常はオゾン層などにより防御され、プラズマ粒子などが直接地上に達することは無いのだが、オゾン層が大きく破壊されてオゾンホールが大きくなっている場合には、そこから上部大気に直接影響が及ぶ可能性もあり、人工衛星等への影響が懸念されたり、プラズマ粒子等が溜まって磁気圏内に生成された電気エネルギーが電離層に強い電流を流し、それによって激しい地磁気変動が発生したりする問題が生じる。 こういった誘導電流が送電線に混入するなどの影響を及ぼすと、電力関係の機器が壊れたり、発電所や変電所などの電力施設が破壊されて停電になったりするなど、大規模な被害が発生することにもなる。最近では、IT社会が構築され全て電気や、通信で成り立つ世の中になっているため、こういった電気障害などは、世界規模で、致命的な混乱を及ぼすことになると予想される。 こういった問題は、太陽黒点の活動にも関わっているとされ、最近では、一時期黒点数がほとんどゼロとなるなど、太陽活動の低迷が指摘され、極小期が当初の予想より大幅に長引き11年周期が、大幅に延びて、約13年となっているようだ。このように周期が伸びた時期には地球が寒冷化する傾向にあることから、小氷期の到来を懸念する声がある。この冬極端に寒かったのは、そんなせいではないかと思っている。こんな時にも、地球成層圏内のCO2温暖化の議論は、ごく微視的な問題であり、太陽の活動如何によっては、温暖化どころか、小寒冷気に突入すると云うことになるかも知れない。しかし、3月7日に発生した2つの太陽フレアの活動により8日に地球へ到達したとされる太陽嵐は当初予想されたものに比べて、穏やかだったと発表された。この原因についてNASAの太陽宇宙物理学者アレックス・ヤング氏は、「太陽嵐の影響が予想外に小さかったのは、地球の磁場に衝突したときの移動方向が大きな原因だ。地球の磁場の北から到達している」。と指摘している。 そして、「この太陽嵐による磁気嵐は9日にかけて活発化する可能性が残っているものの、影響は最小限で、実質上何の問題も起きないはずだ」と述べている。 しかし、今後は、さらに強力な太陽嵐が到来することも当然考えられるわけで、地球への影響は一重に太陽の活動如何に掛かっていると云える。CMEを起こす爆発は通常、太陽黒点で発生するとされ、黒点は磁場の乱流領域である周囲の温度(摂氏5500度)よりも低い、摂氏3300度の領域が暗く見える個所のことである。3年前(2009年)4月には、黒点数が、100年に1度の低水準と報道され、1913年に黒点が最小であった時を更に下回っていると言うことであった。通常の年に比べても黒点数は80%程度であったという。17世紀~18世紀(1645年~1715年)の期間は太陽黒点数が著しく減少しマウンダー極小期と呼ばれているが、この時期には、欧州などの寒冷化を招いたとされる。同じ2009年の10月には太陽表面から噴出する巨大なプロミネンス(紅炎)を捉えており、太陽は一時も休んでいるわけではなく、マウンダー極小期のような大がかりな活動停止時期とは現象が違うようだ。このように、地球の運命は、太陽の動き一つで決まるものであるから、研究は研究として、実際には、我々人間というものは、俎上の鯉のような存在であることを思い知るのである。
2012.03.09
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東京近辺では、想定される地震は18種類もあるのだそうだ。その内の「東京湾北部地震」が起こると東京23区の東部では、震度7になる恐れがあるという分析結果が公表された。今までは、最大でも震度6強という想定だったが、10段階に於ける最高震度が予想されると言うことになる。之を震度階級表から (A)人間が体感する状況、(B)屋内の状況そして(C)屋外の状況別に拾ってみると、震度6強では、(A)這わないと動けない。(B)未固定の重い家具のほとんどが移動、転倒する。(C)補強されていない大半のブロック塀が倒れる。と言う状態が、震度7では、(A)揺れにほんろうされ、自分の意志で動けない。(B)ほとんどの家具が大きく移動。飛ぶこともある。(C)補強されているブロック塀が倒れることもある。というほどに変化するという。気象庁による震度階級は震度を決めるもとになる尺度で、1995年の阪神大震災をきっかけに、それまで震度0~7の8階級であったが、1996年に8階級から10階級に変更になった。震源地のエネルギーの強さは、マグニチュードで表されるが、この震度は、震源地からの距離や、震源の深さなどによって異なった応答を示すもので、その土地での計測加速度がベースになる。以前はこの震度は体感をベースに決めていたが、より客観性を持たせるためにも、現在では器械により計測され、得られた加速度の波形から震度を計算することになっている。では、最高震度である震度7は、どの位の加速度(ガル:Gal)に相当するかであるが、地震波は、色々な周期の波を含んだ合成波形をしているため、一概に加速度を特定することは出来ない。震度7の下限である計測震度6.5以上となるために単一周期の波が何波か続くと仮定すれば、周期0.1秒で約2700ガル以上、周期0.5秒で約900ガル以上になるということだ。地球の重力による加速度は980ガルであることから地球を飛び出すに十分な加速度を有すると言うことだ。ほとんどの家具が大きく移動、飛ぶこともあると言う表現は、まさに、重力の加速度を遙かに凌駕した値である訳だ。では、これまでに震度7を観測した地震波というと、気象庁が震度階級7を設定してから3回あって、1回目は、1995年の「阪神淡路大震災」で、2回目は、2004年の「新潟県中越地震」、そして、3回目は、昨年(2011年)の東日本大震災である。この内、新潟県中越地震における長岡市の最大加速度は1722ガル(周期は約1秒)と言う記録がある。(2516ガルという記録もある)いずれにしても重力の加速度の2倍近い数字であり、上越新幹線が浮き上がって線路から外れたことは記憶に残っている。この時の地震の形態は、直下型と呼ばれるもので、比較的小さなエネルギーでも応答は大きく、被害はそれだけ大きくなるという、直下型の特徴がもろに出ている。一方、東日本大震災に於けるエネルギーは、震源が宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底で深さは約10kmあり、震源地からは比較的遠かったとは言え、後にマグニチュードは8.8から9.0に修正されるなど強烈なエネルギーを持っていたために、太平洋プレートの沈み込みが大で、之により反動したユーラシアプレートの跳ね上がりが大きく、強大な津波(高さ22mを越えるという記録有り)を誘発し、甚大な被害を被った。このように地震の震度(応答)は、マグニチュード(エネルギー)の大きさに比例するが、マグニチュードが小さくても、震源の位置が地表から浅かったら、震度は当然大きくなる。「東京湾北部地震」の地震の予知だが、当初震度6強だったのが、震度7になる恐れがあるという修正は、関東近辺で、複雑に入り込む太平洋プレートとフィリピンプレート、そして北からの北米プレートの関係で、特に北米プレートに入り込むフィリピンプレートの境界が、当初想定していた位置より10km浅く、約20~30kmであると解ったからだという。海底が10kmを越えると今の技術では、目視することは勿論、海洋探査のROV (遠隔操作無人探査機)でも到達出来ない訳で、研究チームは、過去5年間における南関東296地点の地震計から、日常起こっている地震の震源や、伝わり方を調べた結果マグニチュード7.3と想定される「東京湾北部地震」について、プレート位置を算定した結果であるという。研究成果としては、以前のものより新しく、より正確なようだが、果たして、これで正確な地震予知が出来るかと言えば、必ずしも肯定的な意見を持つ学者ばかりではない。東大のロバート・ゲラー教授もその内の1人だが、彼は、「できもしない地震予知に投じる予算があるなら、 護岸工事、耐震補強、防災教育など国民の生命、財産を守ることに回すべき」とも言っている。極めて明快且つ実際的である。東日本大震災で、15854人+1407人(関連死)という未曾有の死者や3155人という不明者を出しているが、この群発地震を予知し得たかといえば全く出来ていない。なるほど、起こった後に、メカニズムはどうだったかとか、応答がこのくらいになったのは伝搬がどうだったからだとか、その結果GPSによると、何mか日本は、東へ引き寄せられているとか、プレートテクトニクス理論をかざして、解析は試みられている。その結果、一般の我々は、そうだったのかと納得したようなことになるわけだが、この地震が、近い将来起こるであろうと予測されている、「東京湾北部地震」に対する対策として、どのように役立っているかと言えば、甚だ疑問である。狼少年ではないが、地震が来る、来ると言われて、更に現実的に巨大地震を経験した後であれば、十分に注意をする気持ちになるであろうが、何度も、何度も、繰り返される内に人間のテンションはそうそう続くものではなく、来ると言いながら来ないではないかと思った頃に襲われて被害が甚大になると言うことを繰り返すのかも知れない。地震予知の研究や、地球の内部を知ろうとする試みは、軽視すべきものではないだろうが、実生活には、全くと言っていいほど役に立たないものが多い。もし、「東京湾北部地震」が起こるとしたら、それは、1週間程度の誤差で何時であるといえなければ、あまり意味がないといえるし、もしそれが正確としたら、おそらくパニックが起こるかも知れない。大勢の人は、直下型地震が震度6強から震度7になったからといって「へぇー、そうなんだ」というしかないわけである。ゲラー教授も云うように、かつての地震予知は少額の予算しか確保できない「研究計画」にすぎなかったのが、1969年に政治力によって「実施計画」へと格上げされ、年70億円という高額予算を得るナショナルプロジェクトになったというわけだ。 その後、1976年、東海地震の危険性が指摘されると、1978年に「大規模地震対策特別措置法(大震法)」が制定され、地震予知が法的に裏付けらるといった具合に、段々と、地震予知が力を得て、地震村が出来上がってきたとも言える。そこに、1995年の「阪神淡路大震災」や2004年の「新潟中越地震」が発生するに及んで、人心は、まさにこの研究成果を見守っているわけだが、一向に時間スケールでの予知が可能だとの話にはならず、あっても、向こう30年にとか7年にとかのバラバラの研究結果が流布されるに及んでは、一般の国民はどうして良いのかますます混乱するだけだ。真面目な研究者も居るであろうが、実際に強大な地震が起きる度に、ますます膨らんでいく、地震解明への予算と偏在した予算配分で、財を成す人種も多い。今回の、フィリピンプレートの境界面が、実際より、10km浅いといった研究も、既に6年前の2005年10月19日に地震学会によって発表されている。この時も、防災計画見直しなどの影響も出そうだと言うことを述べている。新しい知見を得る度に、新しい金を生む結果になるようだ。地震のない国もあるだろうが、地震は1国だけで予測したり、研究したりしていても埒があかないような気がするし、国際的な体制で、集約的にやれば、無駄なく、効果的になるのではないだろうかと考えてしまう。震度6強から震度7で「這わないと動けない。」が「揺れにほんろうされ、自分の意志で動けない。」と変わったからと言って、じゃあ、どうすれば良いのかと言った示唆がないのでは、あまり意味がないように思える。
2012.03.08
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民主党は、来年度の税制改正を目論んでいる。衆院通過のめどが立ったと言うことだから確実に増税されると言うことである。「租税特別措置法」と言うから、時限立法の様だが、之は足がかりで、何処か取れるところがあれば、むしり取ろうとする意味である。税制の改正に関することだから、全ての税について見直されているわけだが、何と言っても、8割以上を占めるサラリーマンの問題がクローズアップされることはいつものことである。他にも、勿論消費税の問題や、法人税の問題も含まれているわけだが、新たに、地球温暖化対策税(環境税)が設けられている。所得税の給与所得控除が縮小されるという点がサラリーマンにとっては、大きく関係するだろうし、消費税は、生活するみんなの懐を直撃するものである。所得の意味を調べてみると、「通常の所得」というカテゴリーでは、収入とほぼ同義であり、特に、サラリーマンが得る「雇用者所得」(=給与所得)は、税引き前かつ社会保険料の差し引き前の額(総額)である。「税法上の所得」というカテゴリーは課税される収入から必要経費を除いた税法上の利益。である点で、大きく異なることに注意する必要がある。ともあれ我々は、給与所得と源泉徴収という中で生きてきたから、殆ど所得税に関しては、あまり詳細に知らなかったと言っていい。(あーぁ、何でこんなに税金引かれるんやろ?と言ったところである。)改めて国民の三大義務は言われるまでもなく、憲法に定められている。1.教育に関しては、義務教育である、中学以上の教育を積極的に受け、その殆どを学校に返してきた(忘れてきた)ところである。・・・憲法第26条2.勤労に関しては、60歳停年まで、働き続けて、3.に要求される納税を行ってきたわけだが、最近では、65歳まで働くようになりつつある。・・・憲法第27条3.納税に関してはお上の言いなりに、節税なんて事を考えるゆとりもなく、毎月しっかりと徴収されていた。・・・憲法第30条今回は、所得税控除を縮小と言うことで、納税の義務を楯に取った大上段からの攻めである。そんなことはないよ、この増収は子供手当てに充てるのだからと言うことらしいが、そもそも、民主党は、そんなことをしなくても、財源はあると言い続けてきたわけで、そっちの方の断りはないまま、はい、やりますでは、納得は出来ない。この事に連動して配偶者控除の所得制限案については、来年度からの導入を見送ることになったようだが、いかにも姑息で、一寸ちらつかせて、反対(民主党内の)が多いようだから引っ込めるというやり方は頂けない。結局子供手当(公約)を何としても見せかけでもやったと言うために、他で増税しようというのだから、国民を朝三暮四の猿とでも思っているのだろうか。ここで、国の税収全体に占める所得税の割合を見ると、日本に於いては、1986年では39.3%であったのが、2011年では、31.2%と減少している。1986年のGDPは340兆円(1人当たりのGDPは280万円)であり、2011年のGDPは469兆円(1人当たりのGDPは367万円)となっている。短絡的に見れば、日本全体のGDPは469/340=1.38倍になっているが、1人当たりのGDPは367/280=1.31倍にしかなっていない。1人当たりのGDPは、全体のGDP/人口と言うことなので、日本の生産性が上がっていると言うことになる。この事から見ても、一挙に2極化までは言えないが、明らかに富の偏在が大きくなっていることを示していると考えて間違いはない。来年度の給与所得控除を縮小するということだが、現在は、サラリーマンの経費として収入から一定額を差し引く給与所得控除は、収入に応じて控除額も無制限に大きくなる仕組みになっているが、之を年収1500万円(控除額245万円)で頭打ちとすると言うことである。また、法人役員は年収2000万円超から控除額を徐々に減らして、4000万円以上で約半額に削減しようというものだ。 また23~65歳の被扶養者を持つ世帯主が対象の成年扶養控除は、所得500万円(年収で689万円)を控除対象の上限に設定し、400万円から500万円の間は徐々に控除額を減らすと言う内容だ。これからすると、給与所得控除では年収1500万円以上のサラリーマンと約500万円以上で23歳から65歳の人を扶養しているサラリーマンに影響すると言うことになり、低所得者には関係のないことのようである。因みに、現在のサラリーマンで年収1500万円以上と言う人は、それほど居ないのではないかと思われる。富の偏在を平準化する意味では、この改正は一理あると言わねばならない。但し、この先が問題で、いずれ、この控除は段階的に1000万円→800万円辺りまで下げられる可能性があることだ。800万円では未だ低所得者層とは言えないが、所得控除の対象を下げれば下げるだけ多くの財源が得られるわけだから、民主党が考えていないということは考えにくい。しかしよくよく考えてみても、1500万円の所得があるサラリーマンはごく限られているとしか思えない。かつて、海江田万里が経財相時代に「年収1500万円は中間所得者。金持ではない」と言う発言をしたようだが、年収1500万円を得る人は、全体の1.2%程度で、約50万人が対象だという。政府要人の金銭感覚は、まさに庶民とはかけ離れていると言わざるを得ない。今回の税制改正による所得税関係で、約842億円が増収になると言われているが、之を50万人で割ると、1人当たり17万円程度になり、彼ら高額所得者にとっては痛くも痒くもないと言ったところであろう。実際に年金生活者は、200万円前後で生活をしているわけで、何をか況やである。高所得者層から高負担を強いるというのは、一見不平等にも見えるし、一生懸命働いて高額を得るというインセンティブを削ぐことになるかも知れないという危惧があるが、当たっていないと思う。本当に、裸一貫から1代で財を成した人は少なからず居るだろうが、大抵は、2世3世であり、いわば不労所得を得ているようなものだ。典型的な例は、政治家にして愚鈍な馬鹿鳩(鳩山由紀夫)のケースである。新聞報道によれば、鳩山の実母が5年間で約9億円に上る資金提供(通称子供手当)をしていたことや、大王製紙のお坊ちゃま(井川意高)が90億円に近い金を不正に動かし、30数億もの金をカジノで使ったということなどを考えると、超高額所得者からもっと深く取税する方法はないものかと考える。オリンパスの巨額粉飾然り、AIJの2000億円もの巨額年金消失など、庶民の想像を絶する事件が続いて起こる昨今は、日本の先行きを暗澹たるものに感ぜざるを得ないという心境である。増税は、社会保障との一体改革で為されると言いながら、AIJへの旧社保庁からの天下りを許し、平均年収1000万円を超える、何もしない族を増やし続けたことなどはどう考えているのだろうか。あれほど、政治改革をと言いながら、取り上げた仕分け対象は、元々箸にも棒にもかからない重箱の隅をつつくだけで、何ら実効がなかった。国会議員の定数是正、議員の歳費削減などについても、遅々として進まない。最近は、利己的なことばかりを考える風潮が特に高まり、自分さえ良ければと言った我田引水型の事柄が如何に多いことか。政治家が、先ず身を切ると言うが、そう言ったことを進んでやる政治家は居ないであろうし、必ずこういった動きを牽制する反動勢力が出てくる。官僚にしても然りであり、国家国民のことを考えた、一時代前とは違い、如何にすれば、自分の行き先がちゃんと確保されるかに力点が置かれるため、なかなか天下りも無くならないだろう。民主党に1票を投じた人は皆、その内容の不履行を怒っているが、最も金に不透明な小沢一郎が外野から政府を批判している構図は笑えない。それにしても元の田沼(自民)の濁り恋しいというわけにはいかない。実質的に団塊世代が65歳になり仕事から完全に引退する2012年には、今盛んに云われている問題が一気に吹き出し、日本の将来は暗澹たるものになるであろうが、その場合でも今の国会議員や官僚連中はそれでも我田引水ばかりを考え、挙げ句の果てには、安い国外で余生を送ると言うことになっているかも知れない。
2012.03.07
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十選で「歓ばしき戯れ」というテーマで、映画監督の吉田喜重の選による10点の紹介に基づいて、鑑賞してみる。之は昨年1月の記事である。第1作は「センネジェムの墓 壁画『彼岸における収穫の図』」である。古代エジプトの壁画であるが、この墓の遺跡は、エジプトはナイルの中流、デル・エル・メディナの砂漠にあり、当時、墓堀人を管理するセンネジェム夫妻を描いているのだという。死んだ夫妻が、舟でナイルを渡って冥府に行く姿を上段に描き、2,3段は刈り取りや、牛を使っての耕作の様子を描いている。古代エジプト人は天国と地獄を思い描くほどの思考力がなかったのではと書いているが、あの世は、この世に於ける素晴らしい部分がそのまま存在すると言うことを想像していたのではないかと思う。3500年以上前の壁画が、何と素晴らしいことかと思うのである。第2作は、ヒエロニムス・ボスの「天上界への上昇」である。画家の描く天上界は、円筒のトンネルの遙か彼方であるという存在なのであろう。選ばれた人が、付き添われてその入口に誘われている。既に入口近くに到達した人や、トンネルの中に入っている人などが描かれている。ヒエロニムス・ボスは「地獄・呪われた者の墜落」というこの絵とは対になる絵を描いている。又、ボスの絵は、2枚や、3枚の屏風のように描かれているため、その全貌を見ないといけないが、単品で掲載されることが多く、また、個々の作品だけでなく天国と地獄などと言った取り合わせで描く世界観は、ボス独特のものであり、ボスを通してその時代の宗教観を伺い見ることが出来る。第3作は、ヴィットーレ・カルパッチョの「ふたりの遊女」である。この絵は、二人の遊女を描いたものだと思われてきたが、絵の背景に置かれた壺の紋章が上流階級のものだった事から、遊女から一気に貴婦人だとの評価を得た作品なのだという。黒い犬は、年老いた夫人を地獄へ誘うものと考えられ、この絵は、若い夫人と老女を表す寓意だとのことだが、私にはどちらが古くてどちらが若いか解らない。この絵の夫人達が、娼婦と間違われたのは、無表情な顔と視線からではないだろうか。カルパッチョといえば、生の牛ヒレ肉の薄切りに、チーズもしくはソースなどの調味料をかけた料理を思い出すが、元々、この料理はヴィットーレ・カルパッチョが好んだ料理だそうで、彼の名前を採って名付けたと言うことだ。第4作はジュリオ・ロマーノの「巨人族の没落」である。16世紀に生きた、マニエリスム派の画家である。この絵ほど、意味がそのまま読み取れるといった絵画はないという。ラファエロとほぼ同時代に生き、ラファエロがバチカン宮殿に描いた「アテナイの学堂」の良き協力者として、早世したラファエロの後を継ぎ、「アテナイの学堂」を完成させたという。画家は、また、建築家でもあり、ローマを去り、招かれた領主の別荘を設計し、その壁画も手掛けたわけだが、神聖ローマ帝国軍による「ローマの劫掠」の時代に生きた故に、かくも自虐的に、自らが設計した館を破壊するという過激な絵を残したと言われている。破壊される館の柱の下敷きになり、天を仰いで、苦しむ巨人族の姿が恨めしい程に描かれている。第5作はカラヴァッジョの「聖パウロの改宗」である。カラヴァッジョの生き様が命がけの大いなる戯れであるという。そう言えば、映画にもなり見に行ったものだ。「世間(教会)では、日頃から、教会法を盾に、言論を封殺し、改宗に応じないものは、火あぶりの刑に処したり、自らの腐敗・堕落は棚に上げ、遊女を斬首の刑に処したりするなど、女性と雖も、容赦ない振る舞いをしていた。カラヴァッジョの絵は、そんな世相の影響と、自らの幼児期の両親喪失感とが相まって、ますます過激な表現を採ったようである。」(当時のブログから)この絵は、後にキリスト十二使徒として数えられた「小さいもの」を意味する「聖パウロ」を描いたもので、本場面は聖パウロがユダヤ教徒の時代に、キリスト教弾圧のためにダマスクスへ向かう道中に、突然天からの強烈な光に照らされ落馬、キリストの声を聞き改心する光景である。劇的な一瞬を捉えたもので、暗中に浮かび上がる落馬し、両眼を閉じた聖パウロの驚きと躍動感、それを見る従僕の一こまを切り取った場面である。やがて彼は、友人を殺害して逃避行の末、2度とローマに帰らず、38歳で死んだという。第6作目は長谷川等伯の「松林図屏風」である。日本画は、この際スキップしようと思う。第7作目はゴヤの「着衣のマハ」である。この間のスペイン旅行の際、プラド美術館で、辛うじて見ることが出来た作品である。この絵は、もう一対と言われる「裸のマハ」とセットで思い起こさせる。ゴヤは宮廷画家として、カルロス国王一家の集合した肖像画を描いているが、画面中央に実質的な支配者であった王妃マリア・ルイサを配し、宮廷の裏まで知り尽くしていたゴヤだが、本作と「裸のマハ」は画家の重要なパトロンのひとりで、王妃の愛人であり、権力を手にしていた宰相ゴドイに依頼され、愛人ペピータを描いたという説がある。(マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で「小粋な女」を意味する単語)「着衣のマハ」を見た時「裸のマハ」が頭に浮かび、女性が衣服を脱ぎ裸体になる仕草を想像して遙かに、「裸のマハ」よりもエロティックなものを感じるという計算があったのかも知れない。いずれにせよ、女性の裸体は、神話上のものなら許されるが、現実の生々しい女性の裸像は禁じられていたから、おそらくは、隠れて鑑賞されていたことであろう。ゴヤの挑戦であろうか。「着衣のマハ」は「裸のマハ」の翌年以降に手がけられたと推測されている。その意図するところが面白いと思う。第8作目はマネの「フォリー・ベルジェールの酒場」である。画家が死の前年に完成させた、最後のサロン出典作でもある。この作品に描かれるのは、当時流行に敏感な人々が挙って集ったパリで最も華やかな社交場のひとつであったフォリー・ベルジェール劇場のバーと、シュゾンという女性をモデルにした給仕の姿である。女給仕の背後の情景は鏡に映ったフォリー・ベルジェール劇場で繰り広げられる様々な情景であるが、画面右部分に紳士と会話する女給仕本人が鏡に映る後姿である。中央では給仕を真正面から捉え描き、右部の鏡に映る後姿は紳士と共に角度をつけて描かれている点などから、本作では現実にはありえない構図的・空間的矛盾が生じており、発表当時は辛辣な酷評を受けたという。またこの絵の左上には、空中曲芸する女性の宙に浮いた足だけが描かれている。画家は、本作品でも、絵画空間が、画家の虚構に過ぎないと言うことを示した遺作ではないかとの見方をしている。しかし、本作は技法的にも、大胆に筆跡を残す躍動的な筆さばきや色彩など特筆すべき点が多く、中でも画面前面に描かれる食前酒など様々な酒瓶、オレンジや花が入るクリスタルのグラスなどの静物は秀逸の出来栄えを示している。第9作目はモネの「アルジャントゥイユのひなげし」である。我々は、モネの生家、ジヴェルニーにまで行ったので、より親しく感じる画家である。パリを訪れた時、連れ合いが、「ここまで来たのだからジヴェルニーに行ってみましょう」と足を伸ばしたのだ。アルジャントゥイユはジヴェルニーに行くまでにある。モネは、ルーアン大聖堂も描いているが、モネの絵画の多くは、パリからセーヌ川に沿った地域を画題にしている。モネは、死に伏せって刻々と変わる妻カミーユの顔を描き続けたという。その妻が健在の時、アルジャントゥイユのひなげしの群れの中に遊ぶ、2組の女性と幼い子供がいる。その内のおそらく真ん中に配されているのが妻カミーユと息子のジャンであろう。監督は、左上の2人連れも同じ2人で、下に降りる前の状態だと想像しているようだ。あまりに酷似しているからだと言うが、どうかな、と思う。また真ん中の子供は赤い縁の帽子を被っているので、左上の2組が、妻と子なのかも知れない。類似する2人の女性を以て、画面の動きを表現しようとしたとの見方も、あながち一笑に付せないかも知れない。私は、茎が見えない、燃えるようなひなげしが、草から浮いて咲き誇っているのを見て、流石印象派という感想を持った。第10作目はゴーギャンの「黄色いキリスト」である。近代絵画芸術の巨人ポール・ゴーギャン、第3次ブルターニュ滞在期の代表作とされる。彼は、幼い頃に父親の関係で、新政府の弾圧を恐れ、パリからペルーに亡命している。フランスに帰って、住んだのがブルターニュ地方のポンタヴェンだ。従って、ブルターニュ地方の女性の姿が多く描かれている。「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」と並んで、象徴主義的な総合主義絵画の代表的作として知られているこの作品は、ブルターニュの農婦らが厚い信仰によって磔刑に処される主イエスを幻視する姿である。しかし、黄色い主イエスの姿は農婦らの幻視ではなく、画家自身の内面的心象の表れであると考えられている。ゴーギャンは同時期に、この黄色い主イエスの姿を背景に「黄色いキリストのある自画像」を描いている。この作品で、画面中央に、石垣を乗り越え去って行く男が居るのに初めて気がついた。監督はナンセンスだと言うが、どういう意図があったのだろうか。病めるキリスト、退廃する西欧に嫌気がさし、タヒチへと逃避することを予兆したものではなかったろうか。ペルーからブルターニュそしてタヒチへと、世界を巡ったゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を地でいった画家ではなかったろうか。
2012.03.06
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第四十六段【本文】柳原の辺(へん)に、強盗法印と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。【訳文】 京の柳原のあたりに、「強盗の法印」と人が呼ぶ僧があった。たびたび強盗に出くわしたというので、世間の人がこの名をつけたということである。【注釈】・法印:僧位の最高第四十七段【本文】或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応(いら)へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立ちて、「やゝ。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君(やしないぎみ)の、比叡山に児にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」と言ひけり。 有り難き志なりけんかし。【訳文】 ある人が清水の観音へ参詣に行った時に、途中で一緒になって行った、年とった尼が、道々、「クサメクサメ」と言いながら行くので、「尼さま、何のことをそのようにおっしゃるのですか」と尋ねたけれども、返答もせず、やはり言いつづけていたので、何度もそのわけを尋ねられて、腹を立てて、「ええうるさい。くしゃみした時に、こうまじないを言わないと死んでしまうものだと世間で申すので、私の育てた若君で、いまは比叡山に稚児でおいでになる方が、今すぐにもくしゃみをなさるだろうかと思うと、心配になって、こう申しているのですよ」と言った。 珍しく殊勝な好意であったのだろうよ。【注釈】・くさめくさめ:くしゃみをした時、唱える呪文・やゝ:うるさいと言うほどの意・鼻ひたる:くしゃみする第四十八段光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾の中へさし入れて、罷(まか)り出でにけり。女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有職の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かえすがえす)感ぜさせ給ひけるとぞ。【訳文】 光親卿が、後鳥羽上皇の院の御所で行なわれた最勝講の奉行の役をして御所に伺候したのを、上皇が御前へお呼びになって、御食膳をお出しになって、おたべさせになった。すると、光親卿は、あちこちとむぞうさにたべた食器を載せた衝重を、上皇のおられる御簾の中へさし入れて、退出してしまった。これを見られた院の女房たちが、「まあ、きたない。だれにかたづけよというのですか」などと言い合われたところ、上皇様は、「これこそ有職に叶ったやり方であって、実にたいしたことである」と言われて、くり返して何度も感心あそばされたということである。【注釈】・光親卿:藤原光親・供御:上皇・天皇などが食べる飲食物・衝重:檜で作った食器台第四十九段【本文】老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。 人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。 「昔ありける聖は、人来りて自他の要事(えうじ)を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼(せま)れり』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。【訳文】 老いがやって来て、その時に、はじめて仏道を修行しようと待っていてはならない。古い墓は、大部分ば、年少で死んだ人のものなのである。このように、人はいつ死ぬかわからないのであるから、思いがけず、病気にかかって、にわかにこの世を去って死にゆく時になって、やっと、いままで過ぎ去ってしまった期間のまちがっていたことが自覚されるものなのだ。そのまちがいというのは、ほかのことではない、速くしなくてはならないことをのんびりと後廻しにし、いつやってもよいことを先に急いでやって、生涯を経過してしまったことであって、それが、死にぎわに後悔されるのである。しかし、その時になって後悔しても、何の効果があろうか。 人間というものは、ひたすら、無常、即ち死がわが身に近く迫ってしまっていることを心中にしっかりと保持して、わずかの間も忘れてはならないのである。こうした心がけでいるならば、どうして、この現世に執着する邪念も薄くならないであろうか、また、仏道に精進努力する心持もまじめでないことがあろうか。 「昔いた高徳の僧は、仙人が来て、おたがいの大切な用件を話す時に、それに答えて、『いま、至急なことがあって、もう、わずかな時間内に近づいているのだ』と言って、相手の話を開かず、耳をふさぎながら念仏して、とうとう極楽往生をとげた」と、『禅林十因』という書にございます。また、心戒といった高徳の僧は、この世の一時的ではかないことを余りに思いつめて、静かに膝をつけてすわることさえなく、いつもは膝をつけずにしゃがんでばかりいた。【注釈】・無常:ここでは死の意味・うづくまり:膝を立ててしゃがみ込む第五十段【本文】 応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて、その比廿日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「たゞ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)と云ふ人もなし。上下、たゞ鬼の事のみ言ひ止まず。その比、東山より安居院辺(あぐゐへん)へ罷り侍りしに、四条よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざンめりとて、人を遣りて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るゝまでかく立ち騒ぎて、果は闘諍(とうじょう)起りて、あさましきことどもありけり。その比、おしなべて、二三日(ふつかみか)人のわづらふ事侍りしをぞ、かの鬼の虚言は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。【訳文】 応長元年のころ、伊勢の国から、女の鬼になったのをひきつれて都へ上って来たという事件があって、そのころ、二十日ばかりの間、毎日、京都や白川の人々が、その鬼見物にといって、やたらと外を出歩いた。そして、「昨日は、西園寺に伺ったんですってね」、「今日は、上皇様の御所へ参るようです」、「ちょうど今は、どこそこにいるらしい」などと言い合っている。確実に見たという人もいないし、まったくのうそだという人もない。貴賤上下の人たちは、やたらに、鬼のことばかり噂してやまないのである。 その当時、東山から安居院のあたりへ参りました時に、四条通りから北にかけての一帯の人たちか、みんな、北へ向かって走って行く。そして、「一条宝町に鬼がいるぞ」と一緒に騒ぎ立てている。そこで、今出川のあたりから見渡すと、院の御桟敷のあるあたりは、全然、通りぬけることもできないほど、人が雑踏している。もともと、根のないことではないようだと思って、人を行かせて様子を見させたところ、全然、鬼に逢った人がいない。しかも、日の暮れまで、そのように人々が立ち騒いで、しまいには、喧嘩が始まり、あきれかえった事がいろいろあった。 そのころ、世の中に広く、二、三日、人々の病気することがございましたので、あの鬼についての流言は、この病気の流行する前兆を示すものであったのだと言う人もございました。【注釈】・ゐて:引き連れる・かみさま:以北・跡なき事:無根の事実・闘諍:いさかい、けんか
2012.03.05
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前から気にはなっていた懸案の物置を解体した。連れ合いの実家の裏庭には例の「100人乗っても大丈夫」と宣伝している、イナバ物置が2つ繋がって置いてある。先日その中味を整理し、殆どをごみとして捨てたのだが、中の必要そうなものを残しても1つあれば十分だと言うことになった。姫も湘南に行ってしまい、常駐する者も居なくなった大きくて立派な家は、それなりに、傷んでいて、連れ合いは、内壁のクロスを張り替えるように手配している。私は、家の内部には手を出しかねるので、主に外回りの雑草などを挽いたり、松以外で長く伸びすぎた植木を刈り込んだりしてきた。しかし、常に庭の管理をしているわけではないので、夏場は、雑草の生えるのも非常に早い。なかなか腰を落ち着けて、草挽きに専念すると言うことも難しい。そんな中、部屋の中を綺麗にすると言うので、庭も何とかと思う気になった。今日は日曜日で、連れ合いは、試験の答案用紙をチェックすると言うことで、忙しそうである。何の気無しに、小屋の解体をしてしまおうかという気になった。小屋の解体は、結構大変そうなので、太郎君と協力して、来週末にやろうと云うことになっていたが、その前の下見と言うことで、車を借りて見に行った。手に持った物はと言えば、ペンチ(昔親父はやっとこと言っていた)と簡単なドライバーセットだけである。やっとことはペンチとは若干違う物だが、なにやら懐かしい。小屋は2つ並列していて、庭のコーナーにある方を残す事にしていた。之は、移設という労力を省く意味でも至極当然の選択ではあるが、残す方の引き戸は、解体しようとする方よりも鯖がひどく、一寸悩んだが、錆も本体を侵食していないようなので、ペンキを塗ることで回復可能だと踏んだ。室内を改修する業者に見積もらせたところ、こちらでは何もしないで内容物も含めて撤去して貰うとすると、小屋1つで、10万円は下らないと言うことだった。しからば、内容は吟味してゴミとして処分するとして、小屋解体と撤去だけをお願いするとしても、数万円はかかるようだ。そんな見積もりもあって、小屋を解体する工賃が結構馬鹿にならないと言うことが解った。しからば、日頃生産的なことは何もしていない私だから、昔こそ時間単価の高い仕事をしていたが、今私がやれば、工費はゼロと言うこともあり、自分で解体することにした。更に、聞いてみると、解体した部材は、粗大ゴミとして、町に頼めば、2500円也で引き取ってくれるという。ますます元気付いたことは言うまでもない。不要な小屋は無くなることで庭の有効面積が広くなるわけで、言うことはないとの結論だ。今日は朝から、からりと晴れていたので、日頃引きこもってばかり居るのも身体に良くないと、出掛けてきたわけだ。さて、解体をと見ると、外回りの六角ボルトはさび付いてしまっている。最初の数本は、ペンチで抑えつけて何とか、回すことが出来た。回りにくいなら、市販のオイルが必要かも知れないと心づもりしていたが、台所にある天ぷら油を流用して誤魔化した。しかし、何本あるのか、多くのボルトをペンチ1本で回して抜くことは無理で、時間が掛かりすぎることが解かった。皮肉なことにさっきまで良い天気だったのが、しょぼしょぼと雨が降り始めた。之では時間を掛けている暇がないと、近くのコーナン(DIYの店)に車で行き、六角のボックスレンチを480円で購入した。イナバの物置は、全て10mmの六角ボルトで占めてあるので、組み立ても解体も工具は1本で済むという便利さがある。しかし、1.3mm程度のホットコイルを使った側壁などを締めるのに、長さが20mm程度有り、強度的に、冗長である。強度はボルトの径で決まるわけで、幾ら100人乗るからと言って、20mmも長くは要らない。長いと言うことは、抜く時もそれだけ分回さないと、抜けないと言うことで、之に少々腹が立った。六角のボックスレンチの使用は本来、最初の数周りだけで良いはずで、後は指先で回すことが可能であるはずが、段々と解体していくに従って、小屋の駆体が歪になるのであろう、なかなか指先だけでは回らなくなり、最後まで六角のボックスレンチに頼らなかった。その分時間ばかりが喰うことになり、少々腹立たしかったわけだ。しかしよく考えたプレハブ形式で、組み立てるにしても、解体するにしても手順通りにたった1本で行えるというのは大したものである。屋根の部分から外していくのだが、屋根の波板の端部を剥き出しにしないためにも、周囲を緑の枠で囲ってある。この枠を外すと、後は屋根の波板を両端で留めているボルトを外すことによって、屋根のパネルメンバーが、30cm幅で次々と外れる仕掛けだ。屋根の板を外してしまうと、しょぼ降る雨がもろに掛かり、良くはないのだが、手順通りやらないと、屋根が落ちてくるので致し方ない。屋根を外し終わると、後は側板だが、之も上下2つのボルトを外すことで、次々と解体出来ていく。物を組み立てていくと言うことは成果が徐々に形になるのだから、楽しいことであるが、反対に、順序よく解体していって、部材を取り外していくことも又、ある種の面白みがある。屋根が取れ、側板が取れたら、後は4方にある柱を外すのだが、流石に柱だけあって、しっかりとボルト2本で固めてあった。それも、簡単に工具で外れ、溝の部分に差し込んである床の端から柱を抜くと、後は四周の枠とその枠で留められた、床板だけになった。そして今まで小屋として空間を占めていた物体は、各構成メンバーに解体されて、1ヶ所に積み上げた。夢中で解体していたから、気づかなかったが、左小指の先に血豆が出来ていた。きっと、スパナで無理矢理錆びたボルトを回そうとしたために何処かにぶつけたのであろう。それにしても、たった480円の小型六角ボックスレンチだけで、全て事が済むと思っていなかっただけに、プレファブの凄さを感じた。(道具を使うから人間か!等と思った)イナバは1975年から物置を造り続けていると言うことだから、さもありなんと思うが、随所に工夫が凝らしてあるのを見ると、流石に長年作り続けていると言うことがよく分かった。分解しやすいこと(例えば場所の移動などで)は、作りやすいことと同様に大切なことだと言うことを感じた。ただ露天に曝される物であり、一般家庭だから定期的に補修するなどと言うこともないため、どうしても、錆びてもその都度タッチアップなどしないから、劣化するのは致し方のないことだ。しかし、3枚戸板の1枚だけ、しかも真ん中部分が大きく錆びている。之は、不良品と言わざるを得ない。普通屋根の端っこや、側壁などの下部が、錆びていくのは、解らなくないが、その部分だけ、塗装がおろそかになっていたに違いない。プレファブと言うことは、工場で製品化するのだから、そのようなことが起こるはずもないのだが、実に不思議な現象である。こういった物置などには、BL(Better Life)基準があり、設置する地域の積雪量や風力に応じて、設計仕様が決められている。勿論積雪地帯でもなく、豪雪地帯などでは毛頭無い通常地域であり、風も海岸沿いで特に強いというわけでもないから、一般仕様と言うことで、積雪荷重性能区分的には、S1200型(1200N/m2)でありCGS系だと、122kgf/m2の耐圧強度を持っていると言うことである。之は、積雪量に換算すると、1年を通じて、あまり雪が降らなく、勿論根雪が残らない地域と言うことで、積雪量としては、60cm 以下の通常地帯を対象にしている。宣伝で、「やっぱりイナバ100人乗っても大丈夫」などとやっているが、実は通常タイプだと1平方mに3~4人は乗れるから、実際は大丈夫でないかも知れないわけだ。その点では、敢えてそんなことをする人も居ないわけで、絶対試さないだろうから宣伝文句に使っているが、詳しくは、豪雪地帯仕様ならと言う一言を入れなければならないだろう。風圧に関しては、日本全域の約8割程度の地域に対応できる風圧力で、基準風速は34m/sと言うことである。之は全く問題ないであろう。しかしやはり問題は、塗装仕様である。塗装に関しては引き渡し時に素人が十分であることを判断することは難しく、工場製品などは、抜き取りで塗膜の膜厚検査などをやるが、如何に薄く塗り効果を発揮するかで、経済的に大きく違ってくるので、イナバも有り余るほど塗装してくれているわけではない。品質条項には、「十分な耐久性を持ったものであることを試験により確認しています。」とあり、「耐食性に係る促進試験、塗膜の付着性試験、耐候性に係る暴露試験を実施し、著しい腐食や塗膜のはがれ等がないことを確認しています。」と言っているから、5年間保証の間に錆が来ることはないであろう。残念ながら小屋は、長い年月を経ているから、メーカーの保証範囲を超えているのであろう、等と思いながら、解体作業を終えたら、約4時間は経過していたが、結構達成感もあり、面白かった。
2012.03.04
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今日はひな祭りだ。おそらく全国各地では、旧来からの伝統に基づいて、ひな壇を飾るといった風習を今に残しているところもあるかも知れない。年寄りだけの家には、そんな風情もなくなってしまって、孫のいる家に行けば、それなりのコンパクトなひな壇があるかも知れないと云ったところだろうか。之を旧き良き時代の風習というのかも知れないが、私の家では、5人の姉が居たが、ひな人形などと言うものは見たことがない。之もまた富める者とそうでないものとの物差しと言うこともあり、また家が十分に広くないとか、人間優先で、とても人形どころではないと言うところもあるだろう。鴻巣では「ビックリひな祭り」とかがあるそうで、数え切れない程のひな壇に、又数え切れない人形を飾っている写真を見たことがある。家庭でのひな人形は無いところが多く、あっても押し入れの肥やしになっているのが落ちだろう。核家族化した現代では、1テンポ遅れた日本の風習はどんどんとその姿を消していき、公共の場でのショーのようなものでしか見ることは出来なくなるだろう。時代の流れは確実に速くなっているようだ。よく年寄りは呆けると言うが、それはそれで当たっているだろうが、現代では、人の動きに比べて世の中の相対スピードが速くなっていると云うことなのだと思う。年寄りも良くそれに付いていけばいいのだろうが、やはり、反射神経など加齢による身体能力の低下は如何ともしがたいものがある。最近では、特に言葉の省略などにその事が表れているかも知れない。フルネームで言うと、時間が掛かりすぎて、なかなか会話が進まないから、若者は、極端に省略用語を使うのだそうだ。そして、それが世間一般に定着するケースも多い。携帯電話が世に普及し始めたのは、1996年頃だという。それまで、造船所などでは、ハンディートーキーで、こちらが話しては「どうぞ」と、相手に喋らせると言った交互通話だったことを覚えている。それが、可搬型の電話となり、自動車電話にそれを搭載して、これ見よがしに使っている車に乗せて貰ったことがある。きざだとは思うが、なるほど便利なものだと感じた。それが、2000年代に入る前には、手持ちで、ポケットに入る大きさとなり、会社から携帯を持たされるといった時代がやってきた。この時既に携帯電話は携帯と省略され通じている。この携帯、掛けたい時に掛けられるという利点はあるが、逆に何時でも掛かってくると言った厄介なものでもあった。何処だったか仕事を終えて、羽田空港に帰って、電源を入れると、待っていたように電話が鳴り、その足で、次の仕事場に向かうようにとの非情な電話も受けたことがあった。元々電話自体が嫌いだったので、自分が進んで携帯を持つことはなく、それで十分に事が足りていた。それでも2005年頃であろうか、個人持ちの携帯を持つようになった。しかし、之と言って掛けるところはないし、掛かってくることもない。携帯電話は簡単に掛けられるが、勿論、高額な料金が掛かると言うことも認識していたので、持っているが、なかなか掛けないといった調子だった。馴れないものを持つと、ろくな事はなく、ポケットに入れたまま、洗濯したり、落としたりと、使うよりもトラブルが多かった。当事の携帯電話は従量制で、基本料金は掛かるが、使わなければそれ以上料金は掛からないと言った具合であったから、なかなか、使うこともなかったし、使う相手もいなかった。そのうち、インターネットにも繋げるとかという話になり、携帯電話で、簡単なメールが打てる、と言うことにもなった。しかし、一寸、梅田のグルメ店を検索しようとして時間が掛かると、法外な請求が来たことがあった。それからは、そう言った無謀(?) な試みはしなくなった。しかしほどなく、パケットし放題とかで、定額料金までは従量制だが、一定額(之が結構高い)を越えるとそれ以上はインターネットもし放題というシステムが導入された。インターネットはパソコンでといった固定観念を持つものとしては、携帯でインターネットを利用することもなく、画面が小さいので、実用的でもない。それでも若い人は使いこなしていたようだ。メールもよく使う人は、その打つスピードは半端なものではなく、両手で操ったり、電車の中でも片手で親指をリズミカルに動かす光景を良く見る。最近は、空いた電車に乗るようになったが、車両に入った瞬間に座っている人のほぼ3割強は、そう言ったメールをしている人達である。ものも言わず(勿論1人だからだが)せっせとメールに専念しているのである。こんな光景は今まで見たことが無く、今までは、大概の人は、こっくりこっくりと居眠りをしているか、ネクタイを締めたサラリーマンが、ビジネスバッグからやおら週刊漫画本を出して読み始めると言った光景が多かった。その携帯電話の日本での普及率は90%を越えていると言うことで、なるほど持っていない人は相当なお年寄りか、心臓ペースメーカーなどを使っている人ぐらいである。その携帯電話が、あと4年もすると世界でも100%近く普及すると見込まれている。海外で、電話を借りて使う場合、SIMカードなるICカードを挿入するだけで、どんな機種でも使えるという便利さがあったが、日本の携帯だけは使えなかった (日本の携帯のガラパゴス) 。自分の持っている携帯で国際電話を掛けると法外な値段が請求されると言うことで、このSIMカードが使えるようにSIMフリーとすることが一時問題になったが、その後どうなったのか、トンと話は聞かなくなった。そうこうしている内に、今度はスマートフォン(高機能携帯電話)の登場である。之も「スマホ」という名で通じるというか、一々スマートフォンなどと言うのは時代遅れのようなのである。ここで話はずれるが、スマートフォン(ホンでなく)は、英語でSmartphoneと書くわけで、「ph」の発音は「f」の発音と同じく、下唇を上の歯で軽く噛んで発音すると英語では教えるのだが、日本語は「スマートホン」でもなく「スマホ」なのである。一方では、英語の普及をと言い、小学校から英語教育をと言いながら、SmartphoneをSumahoと言っていたのでは、何をか況やである。ついでに言うと、私の関係している住民委員会で活き活きした街作りのテーマを、「ビビッド」と称しているが、私は「ヴィヴィッド」と称した方が良いと思っている。「Bibid」ではなく「Vivid」だからだ。何時の頃からか、「ヴィ」を「ビ」と簡略化(?)してきたようだが、間違っていると思う。私も、恥ずかしながら、依然、ついうっかり「Our cheam」と書いたことがあった。友人に「team」だけどな、と言われたが、之も日頃、「チーム」と言っているからで、「ティーム」と言っていれば、こういった間違いも少なくなるのではと思っている。話はそれたが、この「スマホ」、破竹の勢いで伸びているようだ。世界では、既に携帯の30%を越え、欧米では50%に達するのも時間の問題であるというのだ。国内でもほぼ同じ傾向で、2015年には、3000万台(約60%)にも成ろうかと言うことである。思えば隔世の感がある。20年足らずで、モバイル(携帯)なんて夢だと思っていたのが、今や、スマホである。パソコンの売れ行きと逆転したと言うし、この間、更正法の適用申請したエルピーダメモリが製造していたDRAMは既に斜陽化して、最近は、クラウドという雲を掴むような所にデータなどを保存できると言うし、現在のスマホを使うことによってグリッドコンピューティングや、スマートシティーにも対応が可能だと言うことである。エルピーダメモリもこういった流れを知ってか、知らずか、おそらく之からも、名前の通り、日進月歩のIT社会では、一寸気を抜くと既に流行遅れの浦島太郎に成りかねないわけだ。あと20年も生きているつもりはないが、その頃にはどういった生活体系が出来ているのだろうかと若干興味がある。リニアモーターは走っているし、スマホは進化しているだろうし、忙しい世の中になっていて、「おひな祭り」なんて、そんな風習も歳時記にはあるねと言うことになっているかも知れない。
2012.03.03
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昨日、新聞は、北朝鮮がウランの濃縮を停止したことを報じていた。アメリカと、核関連の活動を停止することをアメリカと合意したというのだ。所謂米朝合意というものが成立したということである。ウラン濃縮の停止を検証し、監視する、国際原子力機関(IAEA)による査察をも受け入れるという内容だ。この事は、IAEA創立以来、査察を拒否してきたイラク、イランと北朝鮮の1角が崩れたと言うことでもあり、喜ばしいことである。しかし、之には北朝鮮特有の、瀬戸際外交に於ける絶対の切り札を切らなければならないまさに窮余の一策的な匂いを感じるのだ。アメリカは、この合意に基づいて、北朝鮮が要求してきた食糧支援に向け、動き出すことになる。この事は、膠着してきた関係が一歩前進したことを表す真の慶事であると捉えることが出来るのだろうか。とてもそのようにすんなりと受け入れるとは考えがたく、北朝鮮が核開発を手放しで中止することはないであろうと言うことは大方の見方である。北朝鮮は、核保有国たらんことを決して諦めていないわけで、北朝鮮側の言葉「臨時中止」という言葉に見て取れるというわけだ。北朝鮮は今、金正日亡き後、金正恩体制を堅固なものにしようとしている。その為には、金正恩への移行が、北朝鮮の国民にとっても喜ばしいことでなければならない。北朝鮮で何が望まれているかを推測するに、先ず、食べる物が欲しいと言うことに帰結するようだ。「我々を導いてくださる金正恩同志様」は私たちに食べ物を惜しげもなくもたらされた、と言ったことにするストーリーであることは、明かである。米中合意の骨子は、1.長距離弾道ミサイル発射と核実験の停止、ウラン濃縮活動の一時停止2.ウラン濃縮活動停止に関するIAEAの監視の受け入れ3.アメリカは、24万トンの食糧支援を行うといったバーター合意である。ここで、24万トンの食糧支援がどの位のものであるか簡単に見ると、北朝鮮の人口は、世界48位の約2400万人であり、米1合は約150グラムであるから、この食糧支援を仮に国民全体にもれなく配られると大雑把に仮定したら、10kg/人、即ち1人頭10kgで、それは、67合にしか相当しない。1日1合で細々と暮らしたとしても、2ヶ月しか持たない数字である。勿論、この食料支援のそのままが国民に配られるものでないことは、我々は知っているわけだから、国民に分けられる、数量は、ごく僅かな、一時的なものでしかないはずだ。即ち、一時的にも国民に金正恩様が、素晴らしいお方だと思わすに十分であれば、事は足るのである。アメリカの、交渉役で、キム・ジョンヒルと揶揄された、クリストファー・ヒルは、何度も、北朝鮮との交渉に当たったが、何ら進展はなかったように、北朝鮮は、自らの都合によって以外動かないことは明白である。合意したその時から、すでに「今回の北朝鮮との合意は、失敗に終わるだろう」との見通しと、「北朝鮮は秘密の核兵器開発を我々の鼻先で続けるだろう」との観測が流れている。中国はこの合意を評価、日本は、期待を持って見守るといった姿勢のようだが、日本の外務省は、本当に、自己の分析の下に発した声明であるかどうか疑わしく、且つ、公式声明的な発表なら、日本国民の誰に聞いても、言えるような内容のことでしかない。勿論腹で何を考えているか、十分咀嚼しての発表であると信じがたいが、如何せん田中防衛大臣や玄葉外務大臣である。どういった感覚で対処しているか知りたいものだ。更によくよく読んでみると、北朝鮮は、寧辺でのウラン濃縮活動停止は謳っているが、その他については言及していないようだ。寧辺と言えば、既に使用されていない核施設内の実験用黒鉛減速炉の冷却塔は、内部のパイプなどが除去し、空洞状態となった後で、爆破するというパフォーマンスが行われたところである。従って、これ以降、如何に寧辺を査察しても、北朝鮮の言うとおり、ウランの濃縮は行われていたいだろう。北朝鮮の核問題を報じるテレビで、今まで必ずと言って放映されてきた古めかしい洗濯機が並んだ光景は、最早撮されることはないであろう。しかし、原子炉が必要なプルトニウムの濃縮と違って、ウランの濃縮は、手軽に地下設備などで行うことが出来るために、新たなウラン濃縮場所をIAEAが独自に見つけ出すことはかなり難しいと言わなければならない。こういった経緯を鑑みるに、北朝鮮は、過去のらりくらりとしている間に、寧辺以外で、地下ウラン濃縮設備を開発設置したのではないかと勘ぐられる。そして、そちらの方は隠して、最早不要になった寧辺施設を査察対象とさせ、国際的に、北朝鮮は核開発への道を断絶したとの風評を勝ち得、そのバーターとして、食糧の支援を取り付けようとする意図ではないだろうか。もう少し穿った見方をすれば、北朝鮮国内的にも耐用年数が過ぎ、利用が不可能になった寧辺の軽水炉を破壊することに応じ、更に地下での別な施設でのウラン濃縮を進めることを隠しながら、多くの国際的な経済支援や、食糧支援を引き出そうとしているのではないだろうか。そう言った一連の流れの中で、北朝鮮も独立してやって行くには、平和利用による、原発の開発が不可欠であると導き、寧辺型よりも、より進んだ、韓国型軽水炉の建設に同意させようとしているのではないかと言うことだ。このストーリーは、イランのアハマニネジャド大統領が採っている内容と変わらず、イスラエルを初め、アメリカ等を刺激しているのである。北朝鮮の切り札は、核は何度も使えるカードであり、日本は下より、アメリカ、韓国などが手玉に取られている現状を考えるに、今回の合意が北朝鮮の主導で行われたと云わざるを得ない側面もある。北朝鮮は、金正恩で国内統一を果たし、求心力を持つことが足下の急務であり、アメリカは、大統領選挙を控えて、民主党による、北朝鮮問題打開に一応の成果を見せなければならないと言った状態にある。放っておけば、いつ何時、国土にノドンやテポドンを打ち込まれるかも知れない日本は、拉致問題一つ解決する気もなく、全てアメリカのお膳立ての下に動いているだけである。この米朝合意に対しても、玄葉外務大臣は、「重要な一歩であり、歓迎する、今後、合意内容の具体的実施に向けて行われる調整が円滑に進展することを期待する。」と、まるで、よその国のことのようなコメントを平気で発しているのである。やはり、日本の外交は、稚拙であると、この一言を見ても感じざるを得ない。中国が、この米朝合意に対し、賛意を表明したとあるが、中国が表明した根本には、米朝間の代理戦争となる、南北朝鮮間の戦端が開かれた時、北の難民が、大量に中国側に流れ込むのを最も恐れていると言うことだ。既に30万人分のキャンプ建設を始めていると言うことだが、之は中国経済にとっても由々しき問題になることは間違いない事実である。アメリカは、自国に達するテポドンが核弾頭を搭載することを恐れているが、過去の朝鮮戦争からベトナムへ、そしてイラクからアフガンへと転々とする戦火をデタントしたい思惑もある。経済面での過度の負担も重荷になっているが、かといって、国防費が世界第2位になった中国の躍進を、このまま放置すれば、第一次列島線はおろか、第2次列島線までにも中国進出を許すことにも成りかねない。折角TPPにおいて、環太平洋を自らの意のままに操作しようとしている折から、之は絶対に避けなければならないだろう。表向きは、1.北朝鮮のウラン濃縮を許せば、核拡散に歯止めが掛からなくなる。2.中国の発表した国防費の実際は1.5倍の10兆円を越えているとのことでもあり、北朝鮮をその緩衝地帯とする中国思惑を牽制すること。3.北朝鮮でけじめを付けないと、足下のイランを勢いづかせる。と言ったことが絡んでくると思われる。しかし金正恩になって急に物わかりが良くなった訳でもない北朝鮮は、之からも同様の方法で、危険な外交を続けるであろう。
2012.03.02
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恒例となった友人夫妻とのゴルフも今回で13回目となった。コースは、昨年11月にプレーした、茨木国際カントリーで、私は5回目のラウンドである。最近は、友人の実力の程がよく分かってきたので、付いていけないものと諦めているが、その友人曰く「前回は一寸・・、今回はリベンジだ」という。調べてみると、前回の友人は、99と彼自身にとっては不本意な出来だったようだ。私は勿論100を越えていたけれど、一応、こんなものかと思うスコアであった。このゴルフ場は、3コースあって、東、西と北コースになっている。前回は、西コースが、手入れ中だとのことで、東コースから北コースへと回ったが、今回は、修復成って、西コースから北コースへと回ることになった。今回も先輩から頂いた株主優待券を使ってのお得ラウンドだ。 2月に行く予定が、当日雨で、泣く泣く断念したが、この時ほど、天気予報が当たることを嫌だと感じたことはなかった。仕方なく今日への延期となったが、前日の雨に少し心配したが、今日は絶好のゴルフコンディションで、ラウンド中は若干汗ばむほどであった。長く待っただけに、友人は、「明日、雨は降らない!」と、やる気は満々である。夫人も、連れ合いもやる気は満々のようだ。我々は、前校長の誘いもあって、今年1回プレーしているが、友人達は、初めてのラウンドと言うから、気合いも入ろうかというものだ。 連れ合いも今日を心待ちにしていた。友人の夫人とお喋りしながらラウンドするのがとても楽しいようだ。前回と同じく、7時に家を出て、7:30頃にはゴルフ場に着いた。少し遅れて、友人夫妻も、到着した。 西コースは、どうやら私しか経験したことがないようだが、既に日数も経っているので、勿論コースの詳細を覚えるべくもない。グリーンは朝露で少し湿っていたが、すっかり晴れ上がり、気分がよい。8:28スタートはすぐ来て、前の4人組を見送る形となった。 毎回ホール・バイ・ホールの結果を書いているが、実に恥ずかしげもなく、とは思いながら、最近では、気の置けない友人や知人と、このようにラウンドできる(コースを歩ける)事こそが何よりも幸せなことなのだと思えるまでに至った。元々、それほど巧くはないのだから、そう思わざるを得ないという側面もあるのだが。スタートは西コースからだ。西No1(L)のティーショットは、4人ともまぁまぁの出来だった。2打目に早くもダフリ、3打目はやや良く残り30YDに付けた。7mに4オン2パットで沈め、ボギーは上々の滑り出しである。3パットの友人を尻目に、オナーをキープだ。女性陣のことを事細かく書くのは控えよう。 西No.2(M)では、ティーショットは何とレディースティーの前である。如何にレディースティーが前にあると雖も、之は、屈辱的な当たりである。2打で、何とか挽回してFWセンターに運んだ。150YDを切る距離を、5YDショートし、アプローチで、トップしたボールがポールに当たるラッキーさで、1パットで沈め、幸運のボギーを拾った。依然友人は3パトで、オナーキープ。西No.3(M)で、がらりと変わり、実力を露呈した。打ち出した球は、右に出たが、OB杭はなく当然隣コースかその間にあるものと探し回り、友人も見てくれたが、結局はロストになった。ここでテンションが切れたのだろう。プレ4からのショットも又右へOBした。打ち直して6打で届かず、トップなどもあって、8オンし2パットは2桁である。友人は、3パットを連続してもダボである。女性陣は、そこそこ付いてくる。続く西No.4(S)は私には一寸中途半端な距離で、当たり損ないは、右へショートした。2打を、パンチ気味に打つと、乗ったが、1パット目を50cmほどオーバーする惜しいパットで、ボギーとした。友人は、1パットで入れパーだ。夫人もボギーだった。西No.5(M)はティーショットが情けないチョロ当たりで、2打を打って、何とレディースティーのやっと前に落ちる始末。如何にレディースティーが前とは言え、之はないだろう。3打で届かないのはまだ良いとして、4打目もグリーンを捉えられなかった。5オン1パットのダボである。友人は、ボギー、連れ合いは、私と同じであった。 西No.6(M)は、ティーショットは右ラフに落ちた。友人は、カット気味に入っているからとアドバイスを呉れた。2打で、残り140YDでは苦しいところだ。3打で届かず、4オンして3パットではどうしようもない。トリプルだ。女性陣もトリプル、友人一人ボギーである。西No.7(S)は、122YDと額面よりは短いが右に大きな池があり、気になるところだ。当たり損ないの球は、それでも左バンカーにも入らず、レーキをかすめるように花道(?)で止まる。ランニングアプローチのつもりが突っ込みきれず、3パットであった。友人は1オンし、悠々のパーだ。夫人は、池をクリアし、ボギーだ。連れ合いは、池へボールをプレゼント。西No.8(M)は、無茶苦茶なホールで、OBもあったのだろう、記憶が吹っ飛ぶほどだ。上がってみたらダブルスコアで、話にならない。連れ合いにも負ける有様だ。友人はそれでもボギー。前半最終の日No.9(L)は、ティーショットは相変わらず当たらない。2打目も芯をずれゴロ気味で、前方に。3打目はクリーンに当たったが、何とガードバンカーだ。4打目で出してオンし、2パットは、まずまずのボギーである。最終で、何とか形になった。それでも友人はパーと、その差は縮まらない。午前中の最後は何とか形になったが、スコアについては語りたくない気分である。2ホール3回のOBでは纏まるスコアも纏まらないのは当たり前である。西コースは、女性ティーがかなり前であることに気づいた。 今日は、昼食付きと云うことだが、医者から食べ過ぎを指摘されている関係で、ソバを頼むことにした。レストランの窓外には、千里ニュータウン辺りや、梅田も遠望できると言った具合で、なかなか景色は良い。昼食時間は40分内に済ませろと言うことで、最近は、何処もそう言った按配である。そして午後のプレーが始まった。北No.1(M)は、ティーショットが、カート道をやっと越える位までしか届かない。2打目も当たりは快心ではない。3打目でやっとクリーンヒットしたが、アプローチでまたもやトップ気味に入り、向こう側のバンカーに入れてしまった。バンカーでは3回目にやっと出る始末で、後は悲惨な結果の2桁である。夫人と同じで、連れ合いにも負ける。ただ友人は平然とボギーで上がっている。 北No.2(L)は、距離はやっとFWに届くが右ラフで、2打目にアイアンを使ったが、まずまずの当たりで、FWセンターに出た。3打目もクリーンに当たったものの、イニシャルの距離不足から30YDショートした。ここで、4打で突っ込めず、5オンとなった。パットも平凡に2パットと、ダボにしてしまった。友人は、悠々のパーである。あーぁ、こんな時にはやはり、ドライバーの飛距離がもう少しあったらな、と思ってしまう。北No.3(M)は、緩やかに右ドッグレッグで、当たりはそこそこだが、FWを捉えるだけに終わった。2打目の落下地点は、残り135YDの打上である。やはり3打目で届かない。その上、ピッチランのアプローチまでもグリーンに載らず、5オン1パットのダボである。この時は友人もダボであった。 北No.4(L)でもまたとてつもないことが起こってしまった。すり鉢状の右土手に飛んだ球は、草にひっかっかって、降りてこないではないか。またしても、OBである。そこから先は、またカーっとなってしまったのだろう。目も当てられぬ、2桁の再現である。おそらくここでも、プレ4から再びOBしてしまったのではないかと思っている。友人はボギーである。こっちも必死だが、なんだか友人の足を引っ張るようで、気の毒な気がした。北No.5(S)は、大きな谷越えで、しかも砲台グリーンだ。友人は左に1オン、私も巧く当たって、左に出て1オンこそしなかったが、カラーに止まった。女性は2人とも谷にボールをサービスして、プレ4である。私はパターで攻めて、パーを拾った。友人は3パットのボギーだった。久しぶりにオナーに成れた。 北No.6(M)は、私としては、まずまずで、右のラフだ。友人のティーショットはますます冴え、打った瞬間の弾道を見て皆で、「ウォー!」という声が出てしまった。私の2打目はアイアンでFWセンターの残り130YDである。次ぎもトップして、地を這うように、砲台グリーンの下に止まった。4オン2パットのダボは友人と同じだった。取り敢えずオナーはキープ。北No.7(M)は、比較的良かったが、FWに届く手前のラフだ。2打目で残り105YD迄運んだ。乗せたい一心で、力むのだろうまたしても届かない。4打で3mにオンするも、2パットのダボである。友人は、ボギー、夫人もダボであった。北No.8(S)は、見た目より距離があるショートで、友人は真っ直ぐ飛んだが、グリーン向こうのバンカーに入ってしまった。私のは、右に飛んで、なにやら木に当たったようだ。暫定球として打ち直したが、木の根元に落ちた。今回は探して、ラフではあるが木の中に第1球を発見、それを打ったが、結局バンカーに捕まるなど、3パットも手伝って、7打となった。友人もバンカーから出ずに苦労していたらしいが、私はそれどころではなかった。 最終の北No.9(M)は、振り切れ、距離はそこそことしても、気分的には悪くなかった。その気持ちの余裕からか、2打目の今日一番の当たりで、残り130YDである。アプローチでは届かなかったが、4打目をピッチオンで、2パットのダボ終了だった。今回は友人と同じスコアである。友人は、前回よりも良く、私は、遙かに悪かった。張り切っていた友人の夫人も、思ったよりも良くなかったようだ。連れ合いも前より悪かったようだが、練習をしていないので、仕方のないことである。
2012.03.01
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