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幼い子どもたちは大人になるための心の基礎を作っています。建築でも同じですが基礎というものは最終的な目標である建物とは全く異なった姿をしています。向かう方向も違います。建物は上に向かうのに基礎は下に向かうのです。でも、この基礎がきちんと出来ていないと上に高い建物を建てることが出来ません。基礎が軟弱なのに無理に高くしようとすると何もない時には順調のように見えるのですが“思春期”という嵐の時に崩れてしまいます。そして、実際に思春期という嵐に耐えることが出来ないような安易な子育てをしている人がいっぱいいます。それで、色々と相談に来るのですが、でも基礎をやり直すことは出来ないのです。出来るのは基礎に合わせて自分サイズの大きさに建物の大きさや形を修正することぐらいです。それはつまり、自分の人生設計を現実に合わせて修正すると言うことです。高望みをやめると言うことです。それが出来ればそれなりに使うことが出来る建物になります。つまり幸せに生きることが出来るわけです。でも、子どもやお母さんが“こんな小さな建物じゃ嫌だ、こんな小さな建物になるために今まで勉強してきたんじゃない”と言い張ると、使い物にならない建物のまま人生を送ることになります。また、そのような建物では一緒に暮らしてくれる人も現れないでしょう。そして、小さい時から大人らしさを求められ、勉強に追い立てられて育った子ほどその基礎は軟弱です。それは親の責任です。でも、思春期になって限界が見えてくるとそういう親に限って自分自身のことは棚に上げ子どもの努力不足のせいにして子どもを責めます。子どもが“そんなあんたはどうなんだ”、というと“私が出来なかったからあんたに期待しているのよ”などと訳の分からないことを言います。では、子どもたちはその基礎の時期には何をしていると思いますか。赤ちゃんの頃には感覚の働きを通して自分を発見しようとします。人は自分の感覚の中に自分を発見するのです。赤ちゃんが指をしゃぶるのも、思春期の若者がリストカットするのも同じです。また、お母さんに抱きしめられたりすることで自分を発見します。セックス依存の若者も同じです。この時期に感覚が満たされないと子どもの意識は外に向かって行くことが出来ません。そして、大人になっても自分探しばかりすることになります。また、ハイハイして動き出すと手当たり次第に周囲の探索をはじめます。これは全く手当たり次第です。火にかかっているヤカンにも、包丁にも手を出します。これは目が見えない人が色々とぶつかりながらその場の状況を知るのと同じです。ですから適度に痛い目に遭うことも必要なのです。そのため、危険でない範囲で自由にさせてあげる必要もあります。そのような活動を通して、赤ちゃんは自分のテリトリー(安心出来る行動範囲)を広げていくのです。この時期に、安全だからといって檻(ベビーサークル)に閉じこめたままでは子どもは探索をしなくなります。そして、狭い場所になれてしまうと広いところに置かれても動き回ることが出来なくなります。また、広いところに不安を感じるようになってしまうかも知れません。お母さんとしてはその方が安心かも知れませんが、子どもの能動的な意志の育ちに大きな影響が出ると思います。そのように色々な探索活動が進むにつれて次の段階として“同じもの探し”を始めます。この頃になるともう赤ちゃんではありません。大体二才前後のことです。色々と探索していくうちに同じものがあるということに気付き興味を持つのです。そうして、同じものを集めたり、並べたりして遊ぶようになります。秩序というものに目覚め始めるのです。玄関の靴を並べたり、乱雑になっているおもちゃ箱を整理したりして遊ぶこともあります。うちの子は画材屋さんに行った時、単色の色鉛筆が違う色の所に入っているのを見つけては本来の場所に戻していました。お母さんとしては、“うちの子すごい”と思うのですが、しばらくするとやらなくなります。これは成長に伴う一過的な探索活動だからです。この時期の子どもはドングリや小石などを拾って並べて遊ぶのが大好きです。それは秩序の探索なのです。この時期の子どもたちは違っていることよりも、似ていることで仲間集めをしています。最初に“ワンワン”を教われば、四つ足で毛が生えていればみんな“ワンワン”になります。この時期の子どもに“あれはねワンワンではなく、ニャンニャンよ”と言っても理解出来ません。似ているところしか見えないからです。そして、“動く”ということで自動車や機械も生き物の仲間だと思っています。ぬいぐるみは生き物と同じ形をしているのでこれもまた仲間だと思っています。子どもにとってぬいぐるみは“物”ではないのです。動けないけど自分と同じようにちゃんと生きているものなのです。これは理屈ではなく、感覚なのです。だから、大人がぬいぐるみを乱雑に扱うと子どもは悲しくなります。また、生き物を乱雑に扱うことを学んでしまうかも知れません。この時期の子どもと遊ぶ時には子どもの真似をするとすぐに仲間に入れてもらえます。ひげが生えていても、髪の毛が白くても仲間だと認めてくれるのです。大人は違いによって世界を認識しようとしますが、子どもは似ている所を探すことで世界を認識しているのです。だから始めて会った子同士でもすぐ友達になるのです。でも、大人の価値観に染まってしまった子どもは違いの方に敏感になります。すると、異物排除を始めます。<続きます>ああ、長くなりそうだ・・・・・。それでもかなり大雑把に書いていますので、細かいところは四捨五入して丸めてあります。そこの所をご理解の上お読み下さい。でも、明日は朝5時くらいの電車に乗ってまた三重なのでお休みします。
2008.02.28
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昨日は子どもは大人とは異なる生き物だということを書きました。確かに外見も、解剖学的にも子どもは大人とそれほど異なりません。でも、心という視点で見ると非常に大きな違いがあるのです。その事を知るためには、まず私達がこの世界をどのようにして認識しているのかと言うことを知る必要があります。まず、“見える”、“聞こえる”ということとその音を聞き分け、見えるものを見分けその意味を知ることとは全く異なった回路で処理されているということを知ってください。それはつまり、目が正常ならちゃんと見えて、耳が正常ならちゃんと聞こえるというわけではないということです。それをコンピュータを例にとって考えてみます。実は人間とコンピュータはその処理システムが似ているのです。というより、コンピュータは人間の情報処理システムに似せて開発されてきたのです。コンピュータは二種類のソフトによって動いています。一つはアプリケーションソフトと呼ばれる私達が普通に使っているソフトです。これがないと実際的な活動が何も出来ません。でも、コンピュータが正常に働くためにはもう一つ別のソフトが必要になります。それがOSと呼ばれるものです。そして、アプリケーションソフトは無数にありますがこのOSは基本的にウィンドウズとマックの二種類しかありません。SEと呼ばれる人たちがこのOSに合わせてアプリケーションソフトを開発しているのです。このOSがアプリケーションからのデータを解析して、直接機械を動かしているのです。でも、OSだけでは何にもできません。OSだけしか入っていないコンピュータはただの箱と同じです。データの入力は出来てもデータの処理が一切出来ないからです。人間の問題に話しを戻すと、このOSは遺伝子に相当します。大人になると様々なアプリケーションソフトをいっぱい持つようになって、日常的な仕事の大部分をそのアプリケーションが自動的に処理してくれるようになります。自動的に考え、自動的に行動出来るようになるのです。蛇を見ただけでからだがすくみ、梅干しを見ただけでツバが出てくるのもこのアプリケーションソフトの働きです。考え事をしながらでも歩くことが出来たり、テレビを見ながら歯を磨くことが出来るのも、1+1が2であることが分かるのも同じです。勉強もアプリケーションソフトの一種です。このアプリケーションソフトが壊れてくると、脳や心やからだが自動的に動かなくなります。脳が老化してくるとそういうことが起きてきます。歯ブラシを手に持ってもどうしていいのか分からなくなるのです。赤信号を見てもそれが何の意味だか分からなくなるのです。いわゆる“ボケ”という症状です。簡単に言ってしまえば幼い子どもたちの状態はこのお年寄り達と似ています。違うのはお年寄りはアプリケーションソフトが壊れ始めていて、子どもたちはそのアプリケーションソフトを作っている最中だと言うことです。つまり、アプリケーションソフトがちゃんと働いていないということは同じでもその意味は全く異なるということです。だから、子どもたちはより多くの、そして多様なデータを集めるために一日中動き回っているわけです。お年寄り達はそれまで自動的に動いていたはずのアプリケーションソフトがちゃんと動かなくなって不安を感じます。でも、子どもたちはどんどんと新しいアプリケーションソフトを創り上げることで色々なことが可能になって嬉しいのです。(私は25年以上も前からコンピュータを触っていますが、昔のコンピュータを動かすのは大変だったんですよ。自分の必要なソフトは自分で作っていたのですから。)そして、そのそのアプリケーションソフトを作っているのは人間の遺伝子の中にOSの一部として組み込まれたSE(システムエンジニア)達がです。そのSE達はより優秀なアプリケーションソフトを作るために正確で多様な情報を必要としているのです。その中でも一番重要な情報は人間に関するものです。子どもは大人との関わりを通して、大人が持っているアプリケーションソフトをコピーしているのです。これらのソフトが出来上がるまでに何万年もかかっているので、一々自分で作ることはできないからです。このソフトがうまくコピーできないと、人間として困ったことになります。人間としてのアプリケーションソフトがうまく働かないことになってしまうからです。そして、大人になりそのようにしてアプリケーションソフトが出来上がると今度はアプリケーションソフトによって自動的に動くことが出来るようになります。自動的に考え、自動的に感じ、自動的に行動するのです。だから効率よく作業が出来るのですが、でもその処理が気に入らなくても自分でその処理方法を変えることは出来ません。全部自動的に処理されてしまうからです。そのアプリケーションソフトが“赤”を認識出来ないようにプログラムされているなら、その人にとってこの世界に“赤”という色は存在しないのです。虹の色は文化の違いによって7色になったり5色になったり、3色になったりします。日本人が“R”の音を聞き分けることが苦手なのもそのせいです。さて、問題はこのアプリケーションソフトを作っている最中の子どもたちはどのような処理回路で動いているのかと言うことなんです。そこには大人とは全く異なった処理システムが働いているのです。実は、子どもの中でアプリケーションソフトを作っているSEが直接子どもの心とからだを動かしているのです。より良いデータを集めるためにです。<続きます>明日はもっと分かりやすく書きますね。
2008.02.27
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<子どもの心>「おたまじゃくしはカエルの子ども」でも、おたまじゃくしにゃ手もない、足もない。だからといって、出来損ないのカエルじゃないよ。おたまじゃくしは、オタマジャクシ。やがてカエルになるけれど今は、カエルじゃなくて「オタマジャクシ」。無理矢理、陸にひっぱり揚げてジャンプの練習なんかさせないで!これは大分以前に私が書いた詩(?)です。まず皆さんにお伝えしたいことは、子どもは不完全な存在ではなく子どもとしては完全な存在だということです。成長とは不完全な存在が完全になることでも、未熟な存在が成熟していくことでもありません。完全な子どもがその完全性を保ちながら大人というまた別の完全体へと変容していく過程なのです。そこでは質の変化はありますが、優劣の変化はありません。そして、これは一つの進化なのです。大人と比較して足らないところばかりを探しているから子どもが未熟に見えるだけなのです。昔々、哺乳類はネズミのような生き物から進化したと言います。その延長に人類がいるわけですがではそのネズミは不完全で未熟だったのかというとそんなことはありません。不完全で未熟な生き物は生物として生きていくこと自体が出来ないからです。不完全で未熟な個体は成体になる前に死んでしまうのです。もしくは進化せずにそのまま滅びてしまうのです。ですから、子どものその完全な状態に大人が不用意に干渉してしまうとその完全性が壊れ一人前の成体になることが出来なくなります。オタマジャクシを陸にあげてジャンプの練習をさせたり、イモムシを放り投げて飛ぶ練習をさせると死んでしまうのです。やがてカエルになる身であっても、オタマジャクシの時にはオタマジャクシとしての生活があるのです。それが充分に満たされないと一人前のカエルになることができないのです。これはイモムシでも同じです。そして、人間の子どもでも全く同じなのです。子どもの時には子どもとしての生活があり、必要なものが大人とは違うのです。そして、それが充分に満たされていれば、時が満ちた時自らの力で立派な大人になるのです。成長という作業は自分でやるしかないのです。誰も代わりにやってあげることは出来ないのです。大人はただその過程を見守り、励まし、足らないものを補い、外敵から守り、本人の努力だけではどうしようもない時には手助けするだけです。脇で見ていてどんなにハラハラドキドキしても大人にはそれしか出来ないのです。そして、それしかやってはいけないのです。子どもの成長において“時を待つ”ことの重要性をみんながもっと認識するべきなのです。昔、地域社会の中に子育てのシステムが働いていた頃にはこんなこと考える必要がありませんでした。先人がやっていたことと同じようにしていれば子どもはそれなりに育っていたのです。地域の中に子どもが育つ場と仲間と時間と子どもを育てるシステムがあったからです。子育ては地域全体の責任だったのです。それは昔は皆共同体に守られて生きていたからです。今では人は個人として生きることも出来ますが、昔はどこかの共同体に属していないと生きていくことが出来なかったのです。だからその共同体を守るためにもみんなで子育てをしたのです。でも、現代では子育てが個人的なことになり、親が責任を持って子育てをしなければならない状況になってしまっています。だからどうしても細かいことが気になります。そして、子どもの理解出来ない行動を修正しようとします。そして、成長を急がせようとします。だからこそ、今大人たちは子どもの生活、子どもの育ちに必要なもの、子どもの感じ方、考え方をもっともっと学ばなければならないのです。では、大人とは違うその世界とはどのようなものなのでしょうか。ということで、ごめんなさい。後は明日に続きます。ごめんなさい。なかなか本題に入れません。書き始めは“今日はこういうことを書こう”と思って始めるのですが、何故か勝手に話題が流れていってしまうのです。
2008.02.26
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昨日「最近のしつけは、子どもに“大人らしさ”を求めるものばかりです」と書きました。実は本当に多くの人が勘違いしているのですが子どもは単純に大人を未熟にした存在ではありません。ですからただ経験を与え、知識を教え、技術を身につけさせれば大人のようになるわけではないのです。もしそれが可能ならそのようなものを効率的に与えることで“子ども時代という無駄な時間”を省くことも出来ます。でも、実際には子ども時代には子どもの価値観に合ったものしか子どもは受けいれることをしません。つまり、子どもはちゃんと自分に必要な情報や体験や感覚を自分で選択しているのです。そのことを理解していないとただ押しつけるだけになってしまいます。そして、大人はイライラし、子どもは自分に必要なものが与えられず心とからだに成長障害を起こし、自己肯定観を低くします。また、子どもの心や感覚には子供用のフィルターがあって、そのフィルターに適合したものしかそのフィルターを通り抜けることが出来ません。また、そのフィルターは子どもが見たり聞いたり感じたりしたものを子どもの心とからだが消化出来る形に変容させる働きもしています。本来、この働きは子どもだけのものではありません。アメリカ人にはアメリカ人のフィルターがあり、日本人には日本人のフィルターがあるのです。また、個人個人もまた異なったフィルターを持っています。気質もまた一つのフィルターです。障害を持った子にもその障害特有のフィルターがあります。ですから、お互いにそのフィルターの存在に気付かないとコミュニケーションが出来なくなります。それは、同じ言葉、同じ動作でもお互いに全く異なった意味になってしまうことがあるからです。また、全く通じないこともあります。親近感を持って笑いかけたのに、相手がバカにされたと勘違いしてしまうこともあります。親しみを持って抱こうとしたのに、相手は攻撃されたと感じることもあります。また、幼い子どもに時間のことを話しても全く通じません。私達が住んでいるところは地球という名前で、それは丸いんだよということも通じません。知識として覚えることは出来ても理解することが出来ないのです。これはどんなに丁寧に説明しても通じません。そして、異文化、異民族との関わり合いの中で生きてきた人たちは比較的このようなものへの対応能力を持っています。それがコミニュケーション能力の土台になっているわけです。その能力がないと異民族、異文化の世界の中では平和を保つことができないのです。でも、そのような歴史を持っていない日本人の多くは相手にもそして自分自身にもそのフィルターがあるとは気付いていません。だから、こちらの意図が通じない時には、相手や自分の能力が足らないからだと思いこむのです。そして、自分の方が立場的に上なら自分の価値観をそのまま相手に押しつけようとします。“あんたはバカだからこんな事も分からないんだ”というようにです。そこに悪意はないのですが、フィルターに対する理解がないのでそうとしか解釈出来ないのです。それで、相手に自分と同じフィルターを押しつけることでコミュニケーションを図ろうとするのです。第二次世界大戦の時にはアジア諸国でそれをやったわけです。でも、今でも自分たちがおかしいことをしたということに気付いていない日本人がいっぱいいます。外国の人たちに日本人のフィルターを押しつけること自体が相手にとっては侮辱で、アイデンティティーの否定だと言うことに気付かないのです。むしろ、日本の進んだ教育で彼らの遅れた文化を発展させ、みんなを幸せにしたんだ、などと考えている人までいます。確かに物質的には豊かになったこともあったのかも知れません。でも、だからといって自分たちのアイデンティティーを否定した人に感謝することは出来ないでしょう。物質的な豊かさより、アイデンティティーの方を大切にする人たちだっていっぱいいるのです。そしてその状態は、現代の外交でも全くそのままです。だから、何で韓国や中国が許してくれないのか理解出来ないのです。彼らは別に日本に屈辱的な謝罪を求めているわけではないのです。彼らはただ韓国には韓国人のアイデンティティーがあり、中国には中国人のアイデンティティーがあり、それをもっと尊重して欲しい、と言っているだけのことなんです。韓国や中国の人たちはそれほどバカでも欲張りでも頑固でもありません。でも、日本人はそれを謝罪の問題だと受け取ってしまっています。だからいつまで経っても話がこじれたままなのです。自国の歴史を意識しないで生きている日本人にとっては、いつでも自国の歴史を意識しながら生きている人たちのアイデンティティーという概念自体が理解出来ないのかも知れません。そして、それと同じことを子どもに対してもやっています。そして多くの人が子どもはバカで欲張りで頑固だと思っています。そこで“子どものために”という名目で押しつけが始まるのです。<続く>明日は子どもはどんなフィルターを持っているのかということを書きます。
2008.02.25
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(今日二度目です)絵本作家の長野ヒデコ先生から“24日にテレビに出るから”と連絡を頂いていたので、先ほどまで見ていました。NHKテレビでの新美南吉の「狐」の特集です。長野先生が素敵な絵を描いて絵本になっています。番組の最後でその新美南吉の言葉が紹介されていました。それは、卒業生佐薙好子に出した手紙 そんなに遠くまで、心配をかけて申しわけありません。のどがわるいので、いっさいのお見舞をおことわりして、ふせっています。たとい、ぼくの肉体はほろびても、君達少数の人が、ぼくのことをながくおぼえていて、美しいものを愛する心を育てていってくれるなら、ぼくは、君たちのその心に、いつまでも生きているのです。つかれるといけないから、これで失礼。というものです。親は親として子どもに何を伝えることが出来るのでしょうか。先生は先生として何を伝えることが出来るでしょうか。子どもの心に長い間ぬくもりとして残っていくようなものを伝えることが出来るでしょうか。そういう美しいものを伝えることが出来たら私は幸せです。
2008.02.24
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以下は昨日の朝日新聞の夕刊の記事です。長くない文章なので全文を引用させて頂きました。「子どもの頃の学びって?」 チンパンジーの世界から考える京大霊長類研究所 松沢哲郎 ひとりぼっち。孤独。「孤」という字は親を亡くした子どもの気持ち、「独」という字は、子どもを亡くした親の気持ちを表すそうです。 人間もチンパンジーも、生まれたときはひとりぼっちではありえません。必ず親がいます。しがみつき、抱きしめる。目と目をあわせ、ほほえみあうように生まれついています。そうした子どもがもし親から引き離され、ひとりぼっちになったとしたらどうでしょう。きっとうつろな目をして、背中をまるめて、ひざを抱え込むでしょう。不安で食事ものどを通らないでしょう。 テレビ番組やコマーシャルにでてくるチンパンジーはみな子どもです。顔が肌色なのは子どもの証拠です。おとなは色素が沈着して顔がまっ黒になります。母親から無理やり引き離したか、親が育てあぐねるのをみて人間が取り上げました。そうした子どもは生きるのに必死です。 育ての親である人間の顔色ばかりをうかがいます。言われたとおりのしぐさをします。「笑顔」にみえるかもしれませんが、歯茎をだして□を開けた表情は、不安を示す「泣きっ面」です。昨日もテレビに「パンくん」というチンパンジーが出て頭のいいところを見せていました。確かにすごく頭が良くて、人間の言うことを良く理解します。そして、(出来る範囲内で)人間の言うことをよく聞きます。でも、チンパンジーに人間の真似をさせて面白がっている内容に違和感を感じます。そこには“チンパンジーらしさ”が全然ありません。チンパンジーにチンパンジーらしくない人間の行動を真似させるということは、チンパンジーのチンパンジーらしさの否定に他なりません。でも、チンパンジーは人間の真似をしていないと褒めてもらえません。それは餌と愛情を失う事につながります。だから、一生懸命に人間の真似をして良い猿を演じます。さて、ここからが本題です。上の文章を“チンパンジー”を“子ども”に、そして“人間”を“大人”に置き換えてください。そして、本当に今子どものこのような状態を強く感じるのです。私は16年間子どもと関わる仕事をしています。その16年の間にも子どもたちは大きく変わってきました。16年前に教室を始めた時にも“疲れた”、“かったるい”ばかり言うその子どもらしくない姿に驚きましたが、最近の子どもたちは何故かみんないい子ばかりなんです。でも、その“いい子”が不自然なんです。最初の頃の子どもたちはお菓子作りをしたり、焼き芋を焼いたりした時は先を争って食べていました。でも、最近自分で作ったのに“いらない”とか、“ママにあげる”と言って自分では食べない子が多いのです。(相対的に増えてきたと言うことです。昔はそういう子はあまり見かけませんでした。)ここ4,5年の変化です。また、“どんなの作ったらママが喜ぶかな”とか、“これママに上げるんだ”と言ってママのために作る子も多いです。つまり、自分のために作らないのです。また、昔は疲れた、かったるいと言いながらでも自分が作ったものは大切に持って帰りました。でも、最近自分で作ったのに持って帰らなかったり、嬉しそうではない子が多いのです。その逆に自分らしい作品を作る子で、作ったものを持って帰ろうとしない子もいます。ある子は、自分らしい面白い作品を作ったので“こんなの作ったよってお母さんに見せようか”と言ったら、真顔になって顔を横に振りました。分かりやすく上手にできた作品は持って帰るのですが、一見何が何だか分からない作品は親に見せたくないようです。私にはそっち方がずっとその子らしいと思うのですが・・・。最近、全体的にみんな“いい子”になってきたのです。ですから私が“コラー”と怒鳴る必要も無くなりました。でもそれとともに、奇抜な発想をしなくなり、大人しく、エネルギーが弱い子が増えてきました。特に男の子達が軟弱になってきました。だから造形でも常識的なものしか作りません。以前の子どもたちは結構大きな大作にも面白がって挑戦したのですが、最近の子にはそれだけのエネルギーがありません。簡単に言うと、子どもが子どもらしくなく“ミニ大人”のようなのです。その原因の一つとして考えられるのが“しつけ”の変化です。最近のしつけは、子どもに“大人らしさ”を求めるものばかりです。でも、うさぎに“はねるな”と要求するのはしつけではありません。上手なはね方を教えてあげるのがしつけです。鳥に“飛ぶな”と要求するのもしつけではありません。上手な飛び方を教えてあげるのがしつけです。チンパンジーに洋服の着方を教えるのもしつけではありません。木の登り方を教えるのがしつけです。そして、子どもに“ケンカをするな”というのはしつけではありません。上手なケンカの仕方、そして仲直りの仕方を教えてあげるのがしつけです。うさぎに“はねるな”、鳥に“飛ぶな”と要求することは虐待と言います。子どもに大人らしさを求めるのもまた虐待です。チンパンジーの芸のように、一見自分から進んでやっているように見えても、大人の要求に応えないと自分の居場所を確保出来ない子どもの立場を利用して“子どもらしくないこと”を要求するのは虐待なのです。ちなみに、2才の子にジーと座って、大人しくご飯を全部食べさせようとするのも虐待ですからね。<続きます>
2008.02.24
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最近、幼児虐待、児童虐待が増えていると聞きます。虐待を防止するための活動をしている友人もいます。日本は、親が子を一人前に育てることが出来ない国になりつつあります。もちろん、大多数のお母さん、お父さんは楽しい子育てをしているのだと思います。でも、問題は苦しい子育ての中で子どもを虐待してしまう人の割合がドンドンと増えていることなんです。“健全な人の方が多いからまだ大丈夫”ではなく、まだそういう人が少数派の間にその増えている理由を突き止め、何らかの対処を立てないと大変なことになります。そういう人たちが多数派になってしまったらもう手の打ちようがないからです。子どもを虐待してしまう理由はいくつか考えられます。○子育てに関する知識がない○子どもと、夫と、友人とコミュニケーションする能力がない。○子どもの成長過程、子どもの心やからだの特徴を知らない○小さい時からずーっと世話をされるばかりで世話をする体験が乏しいので、“世話をする”ということがどういうことか分からない。○世話を受けるばかりだったので相手に要求することは得意なのに自分を抑えたり、妥協したり、協調することができない。○“自分らしさ”や“自由”が最高という価値観を植え付けられているので、考え方が自己中心的で“お母さん”という役割を引き受けることが出来ない。“お母さん”という役割の中でも自由や自分らしさを保つことは出来るのに、そういう発想はできない、というかしたくない。○内面を育てる訓練を受けていないので外見的、物質的な豊かさ、美しさにばかりこだわる。○自分らしさは年齢と共に変わるものだと言うことを受けいれることが出来ず、いつまでも若い頃と同じようなお化粧、服装、生活にこだわる。○世話を受けるばかりで育ったので生活のやり方を知らない。○心やからだを思いっきり使った遊びを体験していないので、心とからだのコントロール能力が低い。それはつまり、自分の感情のコントロールが出来ないということを意味します。○仲間との群れ遊びの体験が乏しいので社会性が身に付いていない。○覚える勉強ばかりしてきたので試行錯誤ができない。○からだを使った遊びをしてきていないので、筋力、持久力、集中力が弱い。だから疲れやすく、あきらめやすい。○挫折に弱い。○ずーっと評価されて育っているので評価に敏感。○本を読まないし、創造的な活動の体験が乏しいので考える力が弱い。また社会的なものとしては○悩みを相談する仲間が近くにいない。○ご主人の仕事が忙しすぎて、手伝ってもらうことが出来ない。○子どもを安全に、自由に遊ばせる場がない。○子どもが少ないので子ども同士で遊ぶことが少なく、それだけ親にまとわりついてくる。○引っ越し、転勤などで孤独。どうですか。但し、このような要因を持っている人が必ずしも虐待をしているわけではありません。同じ要因を持っていてもその現れ方には非常に大きな個人差があるからです。“バカ”と言われてすぐに殴り返す人もいれば、知らん顔が出来る人もいます。でも、虐待に走ってしまう人の場合このような要因が大きく働いていることは間違いないと思っています。(風邪のウィルスがなければ風邪を引くことはありません。でも、風邪のウィルスがあっても風邪を引かない人もいます。免疫力が違うからです。)そして程度の差こそあれ、これらのことは今ではかなりの人に共通した状態なのではありませんか。それは、こういうことが個人的な要因ではなく、社会的な要因だからです。高度経済成長時代から日本では経済の成長と引き替えに社会全体がズーッとこの方向に流れてきてしまっているのです。だから、虐待が増えてきているのです。そして、このまま放って置いたらもっともっとひどい状態になるのは明かです。そういう中でも素敵な子育てをしている人たちは、そのような社会の流れに逆らって子育てをしているわけです。自分たちで仲間を見つけ、自分たちで自然の中での遊びを工夫し、テレビやゲーム機に依存しないで遊びや生活を工夫しているわけです。わたしの周りにもそういう素敵なお母さんはいっぱいいます。でも、そういうお母さん達の話を聞くと親も子も学校などでは結構浮いてしまっているようです。実際、今ではそういう子育てをしている人は少数なんです。小学校ではクラスのほとんど全員がゲーム機を持っています。夜の9時、10時でも平気でテレビを見ています。ゲームもやり放題という家も少なくありません。“うちの子が最近変なんです”という相談を受けたことがあります。そうしたら一日中テレビを見ていたこともあります。3,4才児でトトロのビデオを一日に3,4回繰り返して見ているというのです。また、ゲームは時間制限しているんですがという人がいたので、どのくらいに制限しているのですかと聞いたら“2時間”ということでした。2時間は無制限と同じです。先日も、“子どもにゲーム機を与えるのはどうなのでしょうか”という相談を受けました。年中さんなのですが、幼稚園で半数以上の子がゲーム機を持っているのでうちの子だけ与えないのが難しいというのです。このような状態の中で育った子が親になった時に幸せな子育てが出来る確率はかなり低いと思います。子育てにはマニアルがないからです。子育てでは基本的に自分の心とからだの能力しか頼るものがないのです。成績や学歴は全く無意味です。今日本では社会全体で子育てが出来ない子どもたちを育てているのです。そして、その成果(?)が今現れてきているのです。ですからこれからどんどんこの状況は進んでいくと思います。子どもを取り巻く日本の社会の常識全体が狂ってしまっているのです。大体、子どもが夜9:00以降まで起きている国の方が異常なんです。(うちの小5も9:30pmまでは起きていますから偉そうなことは言えませんけど・・・。9:00には布団に入って絵本タイムになるのですが、寝付くのは半頃です。)以下は、「子どもの発達と脳の不思議」からの引用です。(下線は私が引きました。) 日本人の睡眠時間は年々、短くなっています。NHKの国民生活時間調査によると、1970年には平均7時間57分だったのが、2000年には7時間23 分でした。毎年およそ1分ずつ短縮していることになります。深夜営業しているコンビニやファミレス、居酒屋などに出かけたり、テレビやインターネット、携帯電話などのメディアとの接触の増加…といった社会全体の「24時間化」が大きく影響しているといっていいでしょう。●図1夜10時以降も起きている子どもが増えている こうした中で、「夜ふかし朝寝坊」の子どもたちが最近、急速に増えています。私が1999~2000年に東京の練馬区と埼玉県草加市で3歳児を対象に調べたところ、約半数の子が寝つくのは午後10時を過ぎていました。日本小児保健協会による2000年の調査でも、夜10時以降に起きている子の割合は、1歳児が54%、2歳児59%、3歳児52%でした。図1のように、子どもたちは年々、夜ふかしになっているのです(テレビやビデオがついている時間の長い家庭ほど、子どもの就床時刻が遅くなっているという報告もあります)。そのため、当然、朝は早く起きられません。 表1は、世界各国の子どもたちの平均就床時間・起床時間を比較したものです。1996年のイタリアを除き、すべて日本よりも「早寝早起き」になっていることがわかるでしょう(*1)。日本の子どもたちの夜ふかしは、世界でも突出しているのです。 小中高生になると生活は、さらに深夜型化しています。ある調査結果では、深夜0時を過ぎても起きている小学生がここ15年間で4.5倍、中学生は2.7倍に増えています(中学3年生の8割以上が、就床時間は深夜0時以降です)。夜ふかししても、朝には登校しなければいけませんから、おのずと睡眠時間は短くなります。最近の小学生の訴えのベスト3は「あくびがでる」62%、「ねむい」58%、「横になりたい」47%だといいます。多くの子どもたちが睡眠不足を自覚しているのです。(*1)イタリアの子どもの寝る時間が遅いのは、大家族制でおじいさんやおばあさんといっしょに暮らしていて、夕食をみんなでゆっくり食べる家族団らんのためだという。そのわりに早起きだが、イタリアではシエスタ(昼寝)の習慣があり、夜ふかしの分は昼寝で取り返しているとのこと。また、中国でも最近、「夜ふかし朝寝坊」が進んでいますが、日本よりはまだだいぶ早起きのようです。<続きます>
2008.02.23
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今、子どもや家庭や教育を巡る様々な問題が教育の場でもまた社会的にも議論されています。でも、その多くの議論の中で子どもたちからの視点はほとんど考慮されていないように感じるのです。みんな大人たちが大人たちだけの視点と、大人たちだけの利害関係だけで、“子どもたちのために”子どものことを考えているのです。そのためそのほとんどが“押しつけ”になってしまっています。そして、子どもたちがその押しつけを受けいれないと今度は罰則を厳しくして対応しようとします。そして、“これは君たちのためなんだよ”と付け加えます。そして、実際多くの大人たちが“これは子どもたちのためなんだ”と思いこんでいるようです。そして、子どもを叩き、子どもに怒鳴り散らしながら“こんなにもあんたのために頑張っているんだから少しは感謝しろ”と要求します。それは教育の現場でも、子育ての現場でも同じ状況です。すると子どもたちは悪いのは自分たちの方だと思いこみます。幼児虐待の場でも子どもたちは“自分が悪いから、お母さんが僕をぶつんだ”と解釈するといいます。だからどんなにひどい虐待を受けている子どもでもお母さんを擁護するのです。だから逃げないし、だから他の人にも言わないのです。子どもは大人を疑わないのです。生理的に疑うことが出来ないのです。テストの成績が悪くても“先生の教え方が悪いからだ”などとは考えません。“ぼくの頭が悪いからだ”と考えるのです。先生は子どものために勉強を教え、子どものためにテストをしているつもりなんでしょうが、子どもたちは評価されることで結果として自分に対する肯定観を失っていくのです。子どもの頃に読んだ「ながくつしたのピッピ」という本の中に勉強などしたことがないピッピが学校に行って授業を受ける場面があります。先生は、“これは分かりますか”とピッピに聞きます。でも、勉強などしたことがないピッピはそんなこと分かりません。すると先生は、“こんな事も分からないんですか、これは○○でしょ”と言います。するとピッピは、“なんだ先生知っているんじゃん、知っていることを人に聞かないでよ”と言い返します。(これは私の記憶だけで書いているので、細部は違うかも知れませんが大体こんな内容です。)ピッピはバカにされたと思ったのでしょう。私はこれはまったく正常な反応だと思います。でも、先生は怒りました。学校では正解は先生しか知りません。自分で考えたり、自分で調べた答えでも先生が持っている答えと同じでなければそれは間違いになります。時には最先端の学者の言うことですら学校の先生は平気で否定します。先生達は教科書を教えているだけで事実を教えている訳ではないからです。学校ではどんなに偉い専門家の言うことより教科書に書いてあることの方が正しいのです。それはつまり、学校の中に学問は存在していないということです。ただ教科書というバイブルがあるだけなのです。そして子どもたちはそのバイブルを暗記させられているだけです。そして、不思議なことにその絶対的なはずのバイブルもしょっちゅう内容が変わるのです。それもまた大人の都合だけで変わります。学校は、世界の七不思議の一つに付け加えたいほど不思議な世界です。そういう学校では子どもたちはまったく無力です。先生に服従しないと良い成績をもらうことが出来ないのです。自分で考え、自分で答えを見つける子どもは“素直ではない”、“扱いにくい子”として扱われます。そういう子はピッピのように教科書とは異なった答えを主張するからです。でも、そのような学校でも、子どもの立場に立って一生懸命に頑張っている先生もいます。友人にもそのような先生は数人います。でも、校長からの評価はあまりよくないようです。しょっちゅう校長と喧嘩しているようですから。今、ここでは学校のことを書いていますが、これらのことは子育ての場でもまったく同じなんですよ。子どもは自分たちに必要なもの、自分たちが求めているものを説明することが出来ません。時にはただ泣くだけです。また、権力も権威も何にも持っていません。全くの無力です。泣いたり、病気になったり、問題行動を起こしたりというようなことで大人に向けてメッセージを出すのですが、それすらも無視されています。そして、その声にならない言葉に耳を傾け、その想いに寄り添おうとすると“甘やかしている”と非難されます。そして、大人の言うことをよく聞く子を育てることが親の務めのように言われます。<続きます>どのくらい続くか分かりませんがこの問題を色々と考えてみたいと思います。結論だけ先に書いてしまえば、「子どもと共に生きる」というという視点、生き方が結局は大人たちの幸せ、また人類の未来も救うということです。ただし、ここで“子どもと”書いてあるのは実際には子どもだけを指しているわけではありません。障害を持った人たち、老いて一線から退いた人たちのことも含めています。また、人間以外の生き物や自然のことも範囲に入っています。それはつまり、権利を要求して声を上げることが出来ないものたちの声にもっと耳を傾けて欲しいということです。現代社会は、大きな声で権利を要求するものばかりに権利が集中してしまっています。そのような社会は遠からず自滅してしてしまうでしょう。それがまた現代の政治の弱点でもあるのです。声を上げれば政治を変えることが出来ます。確かにそれは良いところです。でも、それは逆に言うと声を上げることが出来ないもの達は簡単に無視されてしまうということでもあります。そして、声の大きなもの達の声ばかりが優先されると言うことです。そして、今の日本の社会はその方向にまっしぐらです。誰かがその“声にならない声”を聞き取って、声にしてあげる必要があるのですがみんな自分の権利を要求することばかりに夢中です。宗教がまだ生きていた頃には、宗教(日本では仏教)がその個人の権利要求の行きすぎを抑制する働きをしていたのですが今の日本にはその働きをするシステムは存在していません。そして、今では声を上げることが出来ないもの達の声を聴き、そのもの達の立場に立ってその権利を守ろうとする人たちは、自分の権利すら失う可能性があります。その正当性の裏付けがないからです。でも、自ら声を上げることが出来ないもの達が消えた時、人類そのものが消えてしまいます。みんなつながり合っているからです。
2008.02.22
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今日は一日で歩いていたので、パソコンの前に座る時間がありませんでした。ということで今日はお休みします。明日は、家族、夫婦、男女、両親ということを子どもの目線で考えてみますね。どうもこれらが大人の論理ばかりで語られているように感じるからです。
2008.02.21
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今日は一日出歩いていたので、パソコンの前に座る時間がありませんでした。ということで今日はお休みします。明日は、家族、夫婦、男女、両親ということを子どもの目線で考えてみますね。どうもこれらが大人の論理ばかりで語られているように感じるからです。
2008.02.21
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何となくいい足りないことがあって、ちょっと昨日の続きです。子どもの育ちには“ぬくもり”が必要です。言葉にも、まなざしにも、そして知識や様々な学びにおいてもです。その“ぬくもり”とは人の想い、そして生命の想いを通して伝わっていきます。地動説だってただ“地球は太陽の周りを回っているんだよ”と無機的に教えることも出来れば、天動説に込められた人々の想い、そして地動説をとなえた時のガリレオの想いとつなげて教えることも出来ます。すると、子どもはその想いに触れてその人たちのぬくもりを受け取るのです。そして、自分とのつながりを感じるのです。そして、同時に自分が肯定されたことを感じるのです。輪になって隣の人と手をつなぐだけで自分が肯定されたように感じるものです。それと同じです。つながりの感覚はぬくもりを伝えるだけでなく自己肯定観を育てるのです。そして、そのつながりの感覚の中で学ぶことに興味を持ち始めるのです。結果としての知識を教えるのは簡単です。マニアルを覚えることが出来る人なら誰にでもできます。そしてテストをして30点しか取れなければ、それは生徒の努力不足で済ませることが出来ます。でも、生徒が30点しか取れないと言うことは、ちゃんと伝わっていないということです。生徒達にちゃんと伝わっているのなら、当然全員が100点になっているはずなのです。“つたえる”という行為は“つたわった”という結果とセットになっているからです。“ちゃんと伝えたよ”ということは、“ちゃんと伝わったよ”という意味でもあるのです。でも、教えるのはその結果とは無関係ない一方的なただの労働です。全ての知識、歴史、学問は人々の想いとつながっています。想いがあったからこそ存在しているのです。数学や算数だって星のことが知りたい、無事に航海したい、争いを減らしたい、宇宙の真理を知りたいという想いがあったからこそ進歩してきたのです。いきなり算数や数学が学問として生まれたわけではないのです。私達は人類が誕生して何百万年、生命が誕生して35億年という長い歴史の中で紡がれてきた全ての生命の“想い”の積み重ねの上に今生きているのです。二本足で歩くのも、言葉を話すのも、その始まりには想いがあったのです。赤ちゃんも同じです。だから“お母さんと話しがしたい”という想いが目覚めない子は言葉が出てこないのです。そして、自分の想いに合わせた言葉を話すようになるのです。幼児期はその想いがまだうまく言葉とつながらないのでイライラするのです。学ぶということはその想いを引き継ぐということに他なりません。私達はその想いを引き継いで、また次世代に手渡さなければならないのです。ただ、テストでいい点数を取り、いい学校に入るために学ぶのではありません。100年後1000年後の子どもたちにぬくもりを手渡す流れの途中に私達の学びがあるのです。だから、学ぶということからぬくもりを消してはいけないのです。そのぬくもりの中に人々の想いが息づいているからです。学ぶということ、そして生活の中からぬくもりが消えた時人は利己的になって、文化も文明も途絶えてしまうでしょう。みんな自分を守ることばかりに夢中になって伝えることをやめてしまうからです。子どもが“なんで勉強なんかしなくちゃいけないの”と聞く時、その子どもはぬくもりの消えた知識だけを学ばされています。子どもは自分とのつながりを感じていれば“なんで”などとは聞かないのです。おままごとをやっている子どもが“なんで私はおままごとするのだろう”などとは考えないのです。自分とのつながりを感じないものを学ばされているから違和感を感じて“なんで?”という根拠が知りたくなるのです。“なんで生きなければならないの”と考える人は自分の生活の中にぬくもりがない人です。それは子育てでも同じかも知れません。ぬくもりのある子育てを受けた人は、そのぬくもりをまた子どもにも伝えようとするでしょう。そこに“なぜ?”という疑問は生まれません。自分が受け継いだから、自分の子どもにも伝えるだけです。それは群れ遊びの中で遊びが引き継がれていくのと同じです。楽しい遊びを伝えるのに“なぜ?”という疑問は生まれないのです。問題は、その“ぬくもりのつながり”が途切れてしまった場合です。ぬくもりが途切れてしまうと、想いが伝わりにくくなってしまいます。他の人の想いを感じる力が衰えてしまうのです。だから自分のことばかり考えるようになります。そして、他の人に自分の想いを伝えることも難しくなります。ぬくもりに包んで手渡すことが出来ないからです。冷たい、無機質なままの状態で相手に与えようとするので相手が手を引っ込めてしまうのです。子どもがあぶないことをやっている時に、それをやめさせる場合も同じです。ぬくもりに包まれた言葉なら子どもは聞く耳を持ってくれるでしょう。でも、ぬくもりのない言葉は子どもは拒否します。中には、“私はそんなぬくもりなど知らないで育った”という人もいるかも知れません。でも、本当は人は皆最初からぬくもりに包まれているのです。それは“生命”というぬくもりです。このぬくもりがないと人は生きていくことが出来ません。ただ、ぬくもりを人から手渡されていない人はその自分の中のぬくもりにも気付くことが出来ないのです。それは、“悲しみ”という言葉を知らない人が、自分の中の悲しみに気付くことが出来ないのと同じです。ちなみに、よく“木のぬくもり”という言葉を使いますが、この木のぬくもりは“木の想い”であり、“生命のぬくもり”の現れです。お母さんに触れた時の温かさも生命のぬくもりです。嬉しい、悲しいという感情も生命のぬくもりです。子どもの成長にはこういうぬくもりの体験が必要なのです。ちなみに芸術的な体験は子どもの心の中のぬくもり感覚を育ててくれます。(芸術の体験ではありませんからね。あくまでも“芸術的な体験”です。)そういうことに意識を向け、そういう想い、ぬくもりを感じようと心を使っているうちに自分の心の中のぬくもりにも気付き始めるのです。
2008.02.20
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今日もまた三重での話題です。最初に、行く時に新幹線の中から見た富士山です。三島を通り越して少し先あたりだと思います。先日も書きましたように午前中は学校や幼稚園の先生達向けの講演会でしたが、午後は地元のお母さんが企画して下さった絵を描くワークをやってきました。(私は何でも屋さんなのです。でも、講演よりみんなと遊ぶ方がずーっと楽しいです。)これはこれで大評判ですごく楽しかったのですが、今日書きたいのはその事ではありません。お昼にそのお母さんに連れられて絵本専門の本屋さんで喫茶もある「おはなしの森」というお店でお昼をご馳走になりました。と、美味しいサンドウィッチを頂いている脇に一冊の絵本が見本として置いてあったのです。それがこの本です。「はるになったら」(シャーロット・ゾロトウ文/ガース・ウィリアムズ絵)内容は小さなお姉ちゃんが弟にしてあげたいことが書いてあります。簡単に目を通して素敵な絵本だったのと、ワークで使えそうだと思ったのでその場で購入しました。絵は実際に買って頂くか、図書館でご覧になっていただくしかないのですが、文章を一部だけご紹介します。かぜが ふいたら、びんの なかに つかまえてきてあげる。あつい ひに、おうちの なかで、 すーっと にがすの。うみに いったら、まきがいを ひろってくるわ。なみの おとを きかせてあげる。えいがに いったら、うたを おぼえてくるね。おうちで まねして うたってあげる。といろいろと小さなお姉ちゃんが小さな弟のためにやってあげたいことが書いてあるのです。私がこの絵本を読んで素敵だなと感じたのはそのお姉ちゃんが弟にやってあげたいことが“つたえる”ということだからです。“私に感謝しなさい”、“私は素敵でしょ”的な“やってあげる”ではなく、この世界はこんなにも素晴らしいのよ、こんなにも楽しいのよ、ということをどうやったら小さな弟に伝えることが出来るのかということを子どもの心で一生懸命に考えているのです。実際にはびんの中に風をつかまえることはできません。巻き貝を拾ってきても、海の音は聞こえません。映画の歌を覚えてもその映画の楽しさは小さな弟には分からないでしょう。でも、そのお姉ちゃんは自分が素敵だなと思うことをみんな弟にも伝えてあげたいと思っているのです。これは“教える”とは違います。野原に吹き渡る風の心地よさを教えることはできません。巻き貝を使って海の音を教えることもできません。でも、風の心地よさを伝えることはできます。海の音を伝えることはできます。教えることは出来なくても伝えることは出来るのです。なぜなら、一心に伝えようと心を込めることで想いが伝わるからです。“教える”ということと“伝える”ということは一見似ていますが、実はまったく異なったものなのです。そして、教えることはマニアルを使っても、テレビやパソコンを使ってでもできますが、“伝える”ことは人から人へと手渡ししないことには伝わりません。伝えるためにはそこに“ぬくもり”が必要だからです。“ぬくもり”が消えた時、それはただの知識や情報になります。するとそれは伝えるものではなく、教えるものになってしまうのです。そして、人が人として生きるために本当に大切なことは教えてもらったことではなく、伝えてもらったことの方なのです。言葉も、歩き方も、考え方も、感じ方も、教えてもらったのではありません。お母さんやお父さんのぬくもりを通して自然に伝わってきたのです。そして、子どもはぬくもりを感じたものを自分から受け取ろうとするのです。ただし、ここでいう“手渡し”とは、“心から心へ”ということであって、物理的な“手”を指すわけではありません。心の現れとしての“手”という表現です。心から心へ手渡しするからぬくもりがあるのです。だから、読む人に作者の心を受け取る心があれば、絵本を通してでも手渡しができるわけです。私はシャーロット・ゾロトウの想いを絵本を通して受け取りました。それが“伝わった”ということです。但し、人はそれぞれ異なった“手”(心)を持っていますから。同じものを渡されても同じようには受け取ることは出来ません。でも、それでいいのです。伝わったものはもう自分のものだから自分流でいいのです。伝えるということは受け手次第でそこに正解はないのです。でも、教えてもらったことには正解があります。教える人は正解を教えるからです。“なんべん言ったら分かるの”という言葉は“私の言っていることこそが正解なんです”という意味です。それは家庭の中でも学校でも同じです。ですから、子どもは教えてもらっても正解に縛られて自由になることが出来ません。今、大人たちは“正解”を教えることばかりに夢中になっています。そのため子どもたちは窒息寸前です。教えるのではなく、伝えてほしいのです。この世界はどんなに素晴らしいところなのか。学ぶと言うことはどんなに楽しいことなのか。仲間と一緒にいるとどんなに励まされるのか、ということを伝えて欲しいのです。もし、伝えるものを失ってしまっているとしたらまずそれを取り戻すことから始めるべきでしょう。自分が持っていないものを伝えることは出来ませんから。それから、自分でも持っていないものを子どもに要求するのはやめましょう。子どもに優しさを伝えたいのなら、まず自分の中の優しさを育てることです。それを伝えるのです。そこからしか何も始まりません。日曜日に「詩とお話しで遊ぶ会」で冬をテーマに遊びました。そして、最初に大人たちが自分たちの冬の想い出を語りました。雪の上に二階から飛び降りたこと。雪の結晶に見とれたこと。雪の上におしっこしたこと。つららを食べたことなどなど。そういう想い出を語っている時、みんな幸せそうです。そして、そういう想いが子どもにも伝わるのです。すると、冬が輝き出すのです。冬がファンタジーの世界とつながるのです。人は“つたえる”ことで“つながる”ことができるのです。
2008.02.19
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今日はダージリンさんの「それでも自分にOKを出してもいいんだよ」って伝える為には、森の声さんならどんな風におっしゃいますか?というコメントにご返事させて頂きます。まだ今日の原稿を書いていなかったのでちょうど良かったです。まず、私は自分にOKなど出す必要はないと考えています。もうその時点で自分の中にもう一人の自分を設定して自分が一つの統合体ではなくなってしまっています。人が自分に自信を持っている時、無心になっている時、自然体でいる時には自分のことなど意識していないものです。自分で自分を見つめすぎるから身動きが取れなくなってしまうのです。それはOKを出していても、NOを出していても同じことです。一時自分にOKを出しても、自分のことばかり気になって前を向いて動き出すことが出来なければ、しばらくしてまた苦しくなります。自分のことばかり見つめていたらいつまで経っても動き出すことはできないのです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、忘れることです。自分のことを忘れるのです。人は自分のことを忘れた時に自分自身のありのままの状態に戻ることが出来るのです。でも、忘れようとすると忘れることができません。座禅などで無念無想になろうとすればするほど雑念が湧いてくるのと同じです。それは、OKを出そうとすればするほど、NOの声も強くなってしまうと言うことです。それで余計に苦しくなってしまうのです。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、一つの方法は、遊ぶことです。人は無心で遊んでいる時には自分が消えています。そして、ありのままの自分の状態に帰ることが出来ます。だから無心になって遊ぶと心の元気を取り戻すことが出来るわけです。それ故に、まじめな人ほど悩みが深くなってしまうのです。もう一つの方法は感覚に集中することです。見えること、聞こえること、感じることに意識を集中するのです。すると自分を忘れることが出来ます。だから、苦しみに向き合いたくない人は、様々な刺激で自分の感覚を満たそうとするのです。感覚刺激に浸っている時には苦しみを忘れることが出来るからです。ヘッドホンで耳を塞いでいる若者も同じです。テレビを付けっぱなしの人も同じです。テレビを付けっぱなしにしていると心とからだが楽になるのです。自分を忘れる方法として、そこまでは多くの人が本能的にやっています。でも、忘れるだけでは前に進むことが出来ません。遊びが終わった時、刺激が消えた時にはまた現実と向き合わなければなりません。だから、このような方法で自分を忘れようとする人は遊びや刺激に中毒になります。もう一つ別の方法もあります。これも感覚に集中するのですが、ただし今度は肉体的な感覚ではありません。見えないものを観ようとし、聞こえない音を聴こうとし、五感で感じることが出来ないものを六感で感じようとする感覚です。この感覚集中には意識と意志、そしてイマジネーションの働きが不可欠です。子どもの言葉を耳で聞きながら、心で心の中の声を聴くのです。風の音を聴きながら生き物たちの生命の声を聴くのです。目の前の子どもを見て、その子どもにつながっている多くの生命を観るのです。星を見て星から見た地球を観るのです。自分にOKを出すことが出来ない人は自分のことばかり考えている人です。それは自分をつながりの中で考えることが出来ないからです。つながっている自分を感じることが出来ないから自分のことばかり考えてしまうのです。だから、自分を“自分のもの”のように考え、自分に要求ばかり押しつけ、自分にOKを出すことが出来ないのです。それは子どもにOKを出すことが出来ない構造と同じです。子どもを“自分のもの”と思っているから、どこまでも要求が増えて、OKを出すことが出来ないのです。いかがでしょうか。簡単に言うと、自分を自分のものだと思っている人は自分にOKを出すことなど出来ないということです。子どもに支えられている自分、他の生命に支えられている自分、自然に支えられている自分、友人達に支えられている自分に気付けばそれでOKなんです。それ以上のOKはありません。以下は曹洞宗の開祖、道元さんの言葉です。私が言いたいことはこれと同じです。(正法眼蔵 現成公案 第一)仏道をならふというふは自己をならふなり自己をならふといふは自己をわするるなり自己をわするるといふは万法に証せらるるなり万法に証せらるるといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
2008.02.18
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昨日は三重で学校や幼稚園の先生対象の講演をしてきました。タイトルは「大人になりたくない子どもたち」です。造形や遊びや様々な表現の場で私が見た子どもたちの現実をお話しし、どうしたらいいのだろうかという私なりの提案をさせて頂きました。ただ、時間が短かった(1時間ちょっと)ので話しをまとめることが出来なかったのが残念した。人生は冒険の旅のようなものです。その冒険で宝を見つけ、伴侶を見つけ、自分の人生、生きがいを見つけます。その旅の最終目標は“幸せ”です。そして、自立までの子ども時代はその旅のための準備期間です。でも、今子どもたちはその準備が出来ないまま子ども時代を過ごしています。そのため、旅立ちの日が近付くことを恐れ、大人になることを拒否し、子どもであることにしがみついています。子どもたちによる様々な事件の背景にもこのように“大人になりたくない子どもたち”の心が隠れています。自分の未来に夢や希望を持っている子は自分の人生を壊すようなことはしないのです。そして、未来を失った子どもたちは自分だけを愛すること、自分を傷つけること、また相手を傷つけることで自分の存在を確認しようとしています。生命感覚に響くリアルな出来事の中に自分が生きていることを確認しようとするのです。自殺もその一つかも知れません。そういう子どもたちに勉強は無意味です。どんなに勉強時間を増やしても、尻を叩いても、面白おかしくなるように工夫しても意味のないことは吸収されません。 大人たちは子どもたちの学力を上げるために一生懸命ですが、肝心の子どもたちにとっては学力を上げるための勉強になど意味がないのです。今の学力論争にはその子どもたちからの視点が抜け落ちてしまっています。大人の目線からの子育て法や教育法ばかりを見聞きするのです。曰く“賢い子を育てるための・・・”、“学力上げるための・・・”、“優しい子に育てるための・・・”などなど、みんな大人の目線からの考え方ばかりです。そして、“それが子どものためだ”と決めつけます。また、“心の教育”も同じです。皆さんは皆さん相手に“心の教育をします”と言われたらどういう感じがしますか。喜びますか。嬉しいですか。それよりむしろ、信用されていないことを感じるのではありませんか。この大人の目線からの考え方には“自分たちが手本になる”という視点が抜け落ちてしまっています。だから、大人たちが色々と考え、色々とやっても子どもの視点から見たらかえって自分たちの未来を塞いでいるようにしか見えないのです。言っていることとやっていることが違う手本を見せられて、大人にあこがれる子などいないのです。そもそも“子どものために”という発想自体が、子どもを“大人の期待”という檻の中に閉じこめようとすることなのかも知れません。本当は大人は子どもを見守り、子どもの心に寄り添っているだけでいいのかも知れません。そして、大人が子どものために出来ることは手本を見せることなのでしょう。勉強の必要性を説くのではなく、“勉強って楽しいね”と勉強を楽しんでいる姿を見せれば子どもは勉強に興味を持つのです。“勉強しなさい”と怒鳴られたら、勉強が嫌いになるだけのことです。実際、みなさんだってそういう体験を山ほど味わっているではありませんか。“優しくしなさい”と怒鳴るのではなく、お母さんが優しい声と思いやりを持って子どもに接していれば子どもは優しい子どもに育つのです。“手伝いをしなさい”と叱るのではなく、楽しそうに家事をこなし“一緒にやろう”と子どもを誘えば子どもは自然にお手伝いをするのです。そしてそれらは“子どものため”のものではなく、大人が自分自身の人生を豊かにし、幸せに生きるために必要なものです。そうやって前向きに自分の人生を生きている大人を見て、子どもは“自分もそのように生きればいいんだ”ということを知るのです。これを、“子どものため”と思ってしまうと、またおかしなことになります。全て自分自身のためなのです。まあ、それでも現実には子どもを取り巻く状況がこれだけおかしくなってしまっている現実では、単に子どもに寄り添い手本を見せるだけでなくもうちょっと積極的に“子どものために”邪魔者を取り除く必要はあります。社会全体が子どもの育ちを阻害する方向に流れてしまっているからです。放っておいても、どんどん邪魔者が子どもを取り込もうと狙っているのです。ちなみに何が子どもの育ちを邪魔しているのかお分かりになりますか。例えば、時には知識を教えてしまうことも“邪魔”なんですよ。子どもから発見の喜びを奪ってしまうからです。でも、その“発見の仕方”を教えてあげると子どもは喜びます。子どもは自分で発見したいのです。そして、子どもが発見した時一緒に喜んでくれる仲間がいると子どもはもっともっと発見を始めます。子どもが知りたいのは知識ではなく、その知識の発見の仕方なんです。だから先を急いではいけません。先を急ぐ人は結果ばかりを詰め込みます。すると子どもは窒息します。
2008.02.17
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明日も三重に行くのでブログの更新はできません。(早朝出かけて深夜帰ってきます。日帰りです。)あしからず。
2008.02.15
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昨日、パソコンに向かっていたらドヨーンと憂鬱的な気分になって、心とからだが重くなって苦しくなってきました。それでしばらくその憂鬱質の気分を味わっていたのですが、ちょっとそのままでは動けないのでその気分を変えるためにイメージ転換をやりました。ここは満開の桜が咲き乱れる川沿いの道です。空は青く、ピンクのトンネルはどこまでも続いています。川面には光がキラキラしています。土手には菜の花がいっぱい咲いています。そのイメージの中で、ピンクの空気を吸いながらその土手をブラブラ歩いていくのです。実際にからだを動かしながら桜に触れたり、菜の花の匂いをかいだりします。その時もし私の側に人がいたら、おかしくなったと思うかも知れません。そうやってしばらく春の土手で散歩したら気分がスッキリとして、憂鬱的な気分は消えていきました。また別の話です。私は歯医者が嫌いです。まあ、好きという人はいないでしょうが怖いのです。それで、“はい、口を開けてください”などと言われるとこわばってしまいます。だから、その時には“ここは歯医者じゃない、ここはハワイだ。今私はワイキキビーチで日光浴をしているのだ。ほら、ハワイアンも聞こえる。(頭の中でハワイアンを流す)”そういうイメージを持つとからだが楽になり、力も抜けます。え、私はおかしいですか。でも、子どもはいつでも似たようなことをやって遊んでいますよ。ただ、子どもの場合は無意識的、無自覚的ですけど。それに、お母さん達もみんなやっていますよ。子どもが外で遊んでいて知らない人に連れて行かれたらどうしよう。木登りをしていて、落ちたらどうしよう。勉強しなくて負け組になったらどうしよう。などなど、現実とは異なるイメージの世界の中で遊んで(?)いますでしょ。でも、そのイメージは桜の土手やハワイとは違って、心を重く、不安にさせています。さらに、このイメージは不安故になかなか抜け出ることが出来ず、次第に目の前の現実を見ることが出来なくなります。そして、子どもはお母さんの“不安ごっこ”に付き合わされることになります。“私はアダルトチルドレンだ”と“アダルトチルドレンごっこ”をやっている人もいっぱいいます。“私は不幸な子どもだった”と“不幸ごっこ”で遊んでばかりの人もいっぱいいます。でも、こういう遊びは楽しくありません。そろそろ楽しい遊びに変えませんか。そのためにはイメージに縛られるのではなく、イメージを使いこなす技術を身につけることです。過去はもう心の中にしか存在していません。だから一種のイメージに過ぎないのです。だから、自分の意志でそのイメージに手を加えることも出来るわけです。そのためのトレーニングとして“ごっこ遊び”が非常に有効です。子どもと一緒にごっこ遊びで遊んでみて下さい。でも、自分のイメージに縛られている人はそのごっこ遊びが苦手です。自分で自分のイメージをコントロール出来ないのです。自分のイメージを変えることが出来ないまま“うさぎさん”をやるのは非常に恥ずかしいものです。でも、“うさぎさん”になりきってしまえば恥ずかしくなんてありません。うさぎですから。ここで“うさぎらしさ”にこだわると、偽物の“うさぎ”になってしまいます。(お母さんらしさにこだわるお母さんも偽物のお母さんです。)子どもはそのイメージ遊びの達人です。だから恥ずかしがったりなどしません。子どもの表現力はそのイメージ遊びの結果です。表現の技術など問題ではないのです。ちゃんとイメージ出来れば、ちゃんと表現出来るのです。それを小手先だけで何とかしようとするからどうしていいのか分からなくなってしまうのです。但し、“うさぎ”のイメージに自分を合わせるのではありません。それでは“うさぎ”に縛られることになってしまいます。“不幸ごっこ”と同じです。イメージに縛られていたら退屈な“うさぎ”しか表現出来ないのです。実際、“不幸ごっこ”に縛られている人はみんな似たようなことしか言いません。そうではなく、“うさぎ”になってしまうのです。すると自由で生き生きとした“うさぎ”になることができます。いつでも子どもの表現の裏側には生き生きとした子どものイメージが存在しています。そして、子どもはそのイメージになりきって表現します。そのイメージの中に子どもが本当に言いたいことが隠れているのです。自分でイメージをコントロール出来ない人は子どものそのイメージを感じることが出来ません。でも、自分でイメージをコントロール出来るようになると、子どものイメージも感じることが出来るようになります。是非、楽しいイメージ遊びを色々と工夫してみて下さい。そして、子どもと遊んで下さい。昔話や絵本のお話しを“ごっこ遊び”として子どもと遊ぶのも楽しいですよ。なりきってしまえば恥ずかしくなってありません。最後にかめおかさんのブログの紹介をします。「再現ごっこ」簡単に言うと、昨日ご紹介した「やきいも」と同じことです。自分が体験した出来事を言葉によって説明するのではなく、実際にその場でゴッコ遊びとして再現して遊ぶというものです。
2008.02.15
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まず、以下のかめおかゆみこさんのブログをまずお読みになって下さい。 「はっ、やきいも!」この内容を簡単に言うと、かめおかさんが昔ベビーシッターのアルバイトをしていた時、夜帰ってきたお母さんにその日にあったことをその子どもとかめおかさんの二人のジェスチャーで伝えるというあそびです。子どもは言葉で表現するのは苦手ですがこういう表現遊びは大好きです。それは、子どもがお母さんに伝えたいことはみんな言葉では言い表せないようなことばかりだからです。表現期の子どもとはそういうものなんです。子どもはいつでも、出来事を伝えたいのではなく、その時自分は何を、どのように感じたのかという気持ちを伝えたいのです。もっと言えば、自分が体験したことを丸ごとお母さんに伝えたいのです。だからこそ、言葉が出てこないのです。大人だって気持ちを伝えようとしたら言葉が出てこなくなってしまうでしょ。子どもにとっては“事実”なんて大したことではないのです。だから、自分の気持ちをもっとうまく伝えるためには平気で事実の方を変えてしまうのです。“釣り逃がした魚は大きい”という言葉がありますが、実際には20cm程度の魚であっても、その時の気持ちを表現するためには40cmとか50cmと言った方がもっと自分の気持ちを表現出来るのです。そして、子どもはしょっちゅうこういう変換をやっています。それを大人は“嘘を言うんじゃありません”と言って叱りますが、子どもは嘘なんかついていません。なぜなら、子どもが伝えたいのは“出来事の事実”ではなく、“気持ち”の方だからです。気持ちとしては嘘ではないのです。大人が勝手にそれを“事実を説明する言葉”として聞いてしまうから、“嘘”になってしまうだけです。子どもはいつでも自分の気持ちを伝えたいのです。それだけが一番大切なことなんです。表現期の子どもにとって出来事の事実、客観的な事実なんて何の価値もないのです。なぜなら、それは自分の事ではないからです。それを大人が正確な事実だけを聞こうとしていると子どもは自分のことを無視されたように感じてしまうのです。また、叱られるのが怖くて嘘をつくこともよくあります。でも、その時でも、“叱られるのが怖い”という気持ちは理解してあげないと、そのうちに本当の嘘つきになってしまいます。発達に伴う表現期の嘘はその気持ちを受け止めていてあげれば、表現期を抜ける時に自然に消えていきますから、そんなに心配する必要はないのです。そして、“気持ち”を伝えたい時期の子どもたちは言葉という表現より、からだ丸ごとでの表現が大好きです。これが表現期の子どもたちの特徴でもあるのです。そして、実際からだ丸ごとでの表現をさせていると子どもたちは生き生きとしてきます。でも、寂しいことに今そのからだ丸ごとでの表現を抑えてしまっている子どもがいっぱいいるのです。イメージ遊びやゴッコ遊びにもあまり興味を示さないような子どももいっぱいいます。でもそれは大人がその表現を受け取ってくれないからなのです。人は誰でも、話しかけても返事をしてくれなければ話しかけることをやめてしまうのです。それは当然のことです。でも、話したい気持ちが消えたわけではありません。その証拠に、かめおかさんのように大人が表現で語りかけると子どもも少しずつ表現で返し始めるのです。ああ、この人は自分たちの言葉を理解してくれる人だと分かるのです。そして、生き生きとした表現で言葉を語り始めます。私もしょっちゅうこういう子どもたちに出会っています。最初は硬い表情をして、お母さんから離れない子どもたちでも表現で語りかけていると次第に動き出すのです。そして、別人のように生き生きとしてきます。お母さん達はそれを見て驚きます。私はそれを知っています。子どもの心とからだの中に“表現”という言葉でしか語ることが出来ない想いが山ほど詰まっていることを。だからそれを表現させてあげたいのです。その想いを表現することで子どもたちの中に生き生きとした心が育っていくのです。でも、そのためには“受け手”が必要です。昔はその受け手も子どもでした。子どもは異年齢の仲間達との遊びの中でその表現言葉でやりとりしていたのです。でも、今子どもの周りには表現言葉でやりとりする仲間がいません。また、ただ子どもを集めても表現言葉に長けたお兄ちゃんやお姉ちゃんもいません。遊びと同じように表現言葉にも技術が必要なのです。だから子どもたちは表現出来ない想いをため込んだまま、子どもでありながら“子ども”を生きることが出来なくなってしまっているのです。子どもを大切にすると言うことは、子どもらしさを大切にすると言うことです。決して安全であればいいということではありません。守るだけではダメなんです。それでは動物園の動物と同じです。ただの見せ物です。でも、今“子どもを大切にする”ということを、安全にしてあげて、美味しいものを買ってあげて、素敵なおもちゃや洋服を買ってあげて、塾などに通わせてやりたいことをやらせてあげることだと思いこんでいる大人が山ほどいます。だから、子どもが思春期を迎える頃になると人間として社会に出ていくことが出来ない若者がいっぱいいるのです。子どもの時にしっかりと子ども時代を生きていないと、大人になってしっかりと大人になることが出来ないのです。素敵な子ども時代を生きた人が素敵な大人になるのです。(素敵な子ども時代を過ごすことが出来なかった人でも、自分の子どもと一緒に子ども時代をやり直せば大丈夫です。)だからこそ、お母さん達にも“表現言葉”を学んで欲しいのですが、でも、表現言葉は自分を丸ごとさらけ出さなければ使えません。実際、表現言葉を話している時の子どもはお母さんに丸ごとさらけ出しているでしょ。それが難しいのです。
2008.02.14
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今日は赤ちゃんの“泣く理由”を少し説明させて頂きます。赤ちゃんの“泣く”という行為ほど理解しにくく、誤解されやすい表現方法はありません。生まれたばかりの赤ちゃんは泣くという表現方法しか持っていません。二ヶ月くらいになると“笑う”という表現も使うようになりますが、生まれたばかりの時はただ泣くだけです。でも、その泣き声でメッセージを伝えているといいます。オムツが濡れて気持ち悪い泣き方。お腹がすいている時の泣き方。不安な時の泣き方。みんな違うらしいのです。そして、赤ちゃんを産んだばかりのお母さんにはこの泣き声を聞き分ける能力があるようです。実際、お腹がすいて泣いている時には、その泣き声を聞くだけでおっぱいが張るそうです。これは、人間の動物としての本能なのでしょうね。(でも、最近その感覚が鈍いお母さんも増えてきているようですけど。)言葉を話し始める前の時期の子どもは、“泣く”ことでお母さんに助けを求めているのです。そして、その伝えたいことを泣き方で泣き分けているわけです。だから、この時期その泣き声の意味を感じて適切な対応をしてあげることができると、子どもはお母さんとコミュニケーションが通じていることを感じて安定してきます。そして、不安から泣くことが少なくなります。ただ、この時期の赤ちゃんにとって泣くという行為は“生理的表現”なので、からだの中に違和感がある場合も泣きます。ちゃんと対応しているのに、泣きやまない場合は体の具合がどこか悪いのかも知れません。あと、泣いている赤ちゃんを放っておいて相手をしないと赤ちゃんは泣かなくなります。だから、泣いている赤ちゃんに一生懸命に相手をしているお母さんに、“そんなの放っておけばいいのよ、構うから泣くのよ、相手をしなければ泣かなくなるんだから”としたり顔で教えてくれる人もいます。これは2ヶ月頃に笑いかけてくる赤ちゃんに笑い返さないと笑わなくなってしまうのと同じです。この時期の赤ちゃんは助けを求めて泣いているのです。ですから、放っておかれて泣かなくなるということは“お母さんに助けを求めなくなる”ということに他なりません。赤ちゃんがお母さんをあきらめてしまうということです。それはコミュニケーションが閉ざされてしまうということです。私はまだ結婚する前から何故か職場(大学の事務職)で、時々子育て相談を受けていたのですがその時の同僚で“夜泣きを三日間泣かせたままにしていたら泣かなくなった”と自慢している友人がいてその赤ちゃんの気持ちを察して悲しくなってことがあります。きっと、その後も親子のコミュニケーションが難しくなってしまったのではないかと心配です。でも、子どもも立って歩き、言葉を話すようになると、泣く意味も変わってきます。nogさんのコメントにもあったように我慢するということも出来るようになります。でも、基本的に泣くことは我慢させない方がいいのです。子どもたちにとって泣くというのは一種の異物の排泄的な意味があるからです。だから泣くとスッキリするのです。生理的表現としての“泣く”という行為を止めさせると、からだの中につまりを生じて将来心とからだのトラブルの原因になってしまうと思います。でも、7才頃からその意味も変わってきます。生理的表現としての意味が消えるわけではないのですが、感情表現としても泣くことができるようになるからです。つまり、悲しいお話しを聞いても泣くことが出来るようになるということです。そしてその頃から子どもはあまり泣かなくなります。泣くところを人に見られることを恥ずかしいと感じるようになるからです。また、もっと小さい子でも一人で我慢している時には泣きません。迷子になった子がお母さんの顔を見た途端に泣き出すことはよくあることです。また、転んで痛い時にお母さんがいない時には我慢しているのに、お母さんの姿を見た途端に泣くこともよくあります。安心するとゆるむのです。ゆるむと止めていたものがあふれ出すのです。そしてさらに泣くともっとゆるみます。だからからだが楽になります。笑った時も同じです。だから心とからだが安定してきます。でも、泣くとゆるむので小さい子の場合は泣くとお漏らしをしてしまうこともよくあります。でも、これはコントロール出来ません。叱らないで下さい。
2008.02.13
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表現期の子どもにとっては表現こそが言葉です。そして、言葉を学ぶのならネイティブに学ぶのが一番です。そして、ラッキーなことに目の前にいるお子さんこそがそのネイティブスピーカーなのです。先生がつきっきりで一日中指導してくれるのですからこんな恵まれた環境はありません。ただ、この先生は自己中心的で、こちらの都合を考えずに休みなしに、さらには夜中まで指導してくるので困りますけど・・・。私は若い頃一年弱、ヨーロッパとインドをフラフラしてきました。それで、行く前に最低限の言葉は知っておかなければと思い、フランス語とスペイン語の講座に通いました。そのフランス語の先生は一切日本語を話しませんでした。フランス語なんてまったく分からない生徒相手にフランス語しか話さないのです。でも、色々な動作をしながらそれを言葉で表したり、何かを持って名前を言ってみたり、具体的に動きながらフランス語を話していくのです。ですから最初はチンプンカンプンですが、次第になんとなく意味が分かってきます。そして、こちらが意味を推測して正しい反応をすると笑顔でOKを出してくれます。そんな感じなので、まったく神経衰弱のように集中して先生の行動や言葉に意識を向けていないと授業についていくことが出来ません。でも、そのおかげでたった半年ぐらいの勉強でしたが、最低限のフランス語は理解できるようになりました。(ただし、今では全部忘れています)ドイツ語は授業で3年間やりましたが、そのドイツ語より半年のフランス語の方が理解できるようになったのです。子どもの表現を学ぶのも基本的には同じ方法です。よく観察して、こういう意味かなと感じたところで応えていく。そして、子どもが笑顔になればOKということです。よく、“なんべん言ったら分かるの”と子どもを叱っているお母さんがいますが、なんべんも言っても通じていないということはお母さんが子どもには理解できない表現で一方的に押しつけていることにほかなりません。それを子どものせいにしてしまったら子どもは可哀想です。中には、子どもがバカだったり、反抗的なのでいうことを聞かないのではないかと思いこんでしまっている人もいるようですがそれは全くの勘違いです。子どもはそんなにバカでも反抗的でもないのです。ちゃんと気持ちが通じればそれなりにお母さんの想いに応えてくれるのです。また、叱ったその時はやめても、しばらくするとまた同じことを繰り返すようならそれも通じていません。無駄なことを繰り返すのは子どももお母さんもストレスが溜まりますから、少し反省して違う表現方法を考えた方がいいと思います。ちなみに子どもの表現で分かりにくいのは“泣く”という表現です。大人も子どもも泣きます。でも、その意味は同じではありません。大人は悲しくて泣きますが、子どもは生理的に辛くて泣くだけです。転んで泣くのと同じです。大人は転んでも泣かないでしょ。でも、子どもは痛ければ泣くのです。また、寂しい時、不安や不快を感じた時は助けを求めるために泣きます。驚いた時、パニックになった時は気持ちを落ち着かせるために泣きます。とにかく子どもは生理的に不安定になった時に泣くのです。だから、多くの場合ただ抱いたりして安心させてあげれば次第に落ち着くのです。だからまた、“いたいの いたいの とんでいけ”などという呪文が聞くのです。呪文で安心するからです。実は、泣くという表現が多い時期の子どもにはあまり悲しいという感情はないのです。“悲しい”という感情が目覚め始めるのはもう少し成長して逆にあまり泣かなくなってからです。だから、子どもが泣かなくなってきたら逆に注意深く子どもの様子を見ていた方がいいでしょう。また、お人形でもおもちゃでも、何かを大切に出来るようになってきたら悲しいという感情が目覚め始めたサインです。これは大人でも同じです。大切なものをいっぱい持っている人は悲しみもいっぱい持っているのです。(“大切なもの”とは“失いたくないもの”ではなく、“護りたいもの”のことです。)大人では“泣く”という表現は感情表現ですが、表現期の子どもたちにとっては生理表現だということです。感情の状態を伝えるためではなく、生理的な状態を伝えるために泣くのです。だからお菓子が欲しくて泣いている場合も“わがまま”ではないのです。だから、叱っても無駄です。おしっこを止めることが出来ないのと同じように、泣くことを止めることも出来ないのです。ほとんどの場合そういう時はただ泣いていれば落ち着いてくるのです。(おしっこも出し切れば止まるのです)子どもは泣くことで自分を落ち着かせているのです。それを“泣くな!”と叱ると、逆になかなか泣きやまなくなります。また、そういう時は“そうなの お菓子が欲しいのね おいしいもんね でも、もうすぐご飯だから後にしようね”と言えばいいのです。もちろん、それだけでは泣きやまないでしょう。でもそれでいいのです。子どもは泣くことで落ち着くのですから。そこでお母さんがイライラして子どもの言いなりになってしまうと、次第に子どもは自分の気持ちを落ちつかせるために泣くのではなく、お母さんに言うことを聞かせるために泣くようになります。“泣く”ということを、お母さんを従わせる有効な表現方法として学習してしまうのです。すると、その要求に応えないと泣き方がエスカレートしていきます。また、“怒り”という感情も表現期の子どもにはあまりありません。よく、赤ちゃんが火が点いたように泣き出すと“あーあ、怒っちゃったよ”などと言いますが、赤ちゃんは怒りません。悲しみとか、怒りというのは社会的な感情だからです。赤ちゃんが火が点いたように泣くのは、脳がパニックになってしまっただけです。だからしばらくは元に戻りません。怒りという感情は社会性の目覚めとつながっています。怒りは社会的なものなのです。雨に濡れて悲しくなることはあっても怒りは湧きません。でも、窓の上から水を掛けられたら怒りが湧きます。そうですよね。洋服が濡れたという現象は同じでも、その原因が人間によるものでなければ怒りにはつながらないのです。だから、群れ遊びが出来るような時期になって怒りの感情も目覚めてきます。それに対して、嬉しいとか楽しいとか気持ちがいいという感覚や感情は生理的なものなので大人も子どももあまり変わりません。だから、嬉しいとか楽しいとか気持ちがいいというような表現を基準に子育てをしていると道を間違えないのです。それに対して、子どもを泣かさないように、怒らせないように子育てをしていると子どもの思いとは違った方向に行ってしまいます。明日は子どもと表現遊びを楽しむ方法を考えてみます。
2008.02.12
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子どもとのコミュニケーションで悩んでいるお母さんはいっぱいいます。ワークなどでお母さんに聞いてもほとんどのお母さんが子どもが言っていること、やっていることが理解できない。なんべん言い聞かせ、叱っても言うことを聞かないという悩みを持っています。悩んでいなくても、“子どもってそんなもんだ”というように割り切ってしまって、子どもとのコミュニケーション自体をあきらめてしまっているお母さんもいます。さらには、できるだけ子どもと関わらないようにしてトラブルを避けているお母さんもいます。(子どもが小さい時はこれが可能です。でも、小さい時にだけしか使えない方法です。あとで大きなしっぺ返しが来るからです。)また、子どもは動物と一緒だから言葉が通じないのだ。だから動物の調教と同じように厳しく、からだに分からせなければいけないのだ、という人もいます。このような人は子どもが子どもの言葉(表現)を持っていることを知りません。子どもが子どもの言葉で一生懸命に語りかけてきていることに気付きません。そして、子どもには理解できない言葉で説明し、従うことを要求しています。そして、子どもには理解できない論理で叱ったり、褒めたりしています。だから子どもはお母さん(大人)の顔色をうかがうようになります。理屈ではその事の善し悪しを判断できないので、お母さんの顔色を基準にしてやっていいことと、やってはいけないことを判断するようになるのです。そしてこれが自己表現期の子どもの能力でもあります。大人のちょっとした表現からでも、大人の心を読みとることが出来るのです。特に、厳しくしつけられている子ほどお母さんの顔色に敏感になります。その結果お母さんの前では“よい子”になります。どうしたらお母さんが怒り出さないかということを体験的に学習してしまうからです。そしてお母さんは満足します。そして、“だから子どもは厳しくしなければいけない”と言います。でも、このような子はお母さんに褒められることの代償として、自分で考える能力、自分で学ぶ能力を失ってしまいます。(ここで言う“お母さん”とは普通の大人の代表として読んで下さいね。お母さんだけを問題にしているわけではありませんから。)人間としての善悪も分からなくなるでしょう。お母さんに褒められるのが善であり、叱られるのが悪であるということしか学習できないからです。そのため、お母さんがいない場では大変なことになります。子ども本人の中に善悪が存在していないのですから。子どもは“表現”という子どもの言葉で話しかけています。ですから、大人がその事に気付いてあげると子どもはもっともっと自分の言葉で話すようになります。そして、大人と子どもの間にコミュニケーションが成り立つようになります。その延長に声による言葉が生まれます。声による言葉でないと伝えることが出来ない大切なものに気付き始めるからです。それは“名前”です。名前だけは表現という方法では伝えることが出来ないのです。そのことに気付きだした子どもは“指さし”を始めます。“指さし”という表現は“子ども語”と“大人語”をつなぐ働きをしているのです。子どもが指を指し、お母さんが“ワンワンね”とか“お花よ”と答えてくれる。ここで、子どもの表現と大人の表現がようやく出会うのです。このように言葉は“名前”から始まるのです。だから、古来から名前を付けることが神ごととつながった非常に重要なことだったのです。“名前”は神様から降りてくるのです。だからわざと名前を隠す文化も世界中にあったのです。でも、名前は物の名前だけではありません。“怒り”とか、“悲しみ”と言った言葉はある種の感情に付けられた名前です。“勇気”とか、“希望”という言葉も名前です。子どもたちがどのようにしてこのような名前を学んでいるのかご存じですか。ここでも子どもたちは表現と言葉が出会う必要があるのです。子どもの表現と言葉が出会った時に“名前”が生まれるのです。子どもが泣いている時に、“かなしいね かなしいね でも 大丈夫だよ”というお母さんの語りかけを通して、子どもはその感情に“かなしみ”という名前があることを知るのです。でも、今子どもたちは自分自身の表現と出会えないまま言葉だけを覚えさせられています。だから、自分の表現としてその言葉を使うことが出来ないのです。全ては子どもの表現に大人が気付くところから始まるのです。そして、子どもに通じる言葉で応えてあげる。すると今度は子どもが大人の言葉に興味を持つようになるのです。ですから、ダージリンさんが実は私の中で、長男と本当に<気持ちが通じ合えるようになった>と手応えを持てるようになったのは、この1、2年のことなのです。一方通行ではない、ちゃんとコミュニケーションが取れている、そう確信できるようになってから、息子は急速に変わったような気がします。と書いて下さった出来事は偶然ではないのです。息子さんはお母さんが成長して、自分の言葉に気付いてくれるその時をズーッとズーッと待っていたのでしょうね。ちなみに、子どもの表現を感じることが出来て、子どもの表現で子どもに返すことが出来る人は、周囲の大人からは“おかしな人”、“変わった人”という評価を得ることになります。
2008.02.11
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ダージリンさんが何を怒られていたのか全く覚えていないのですが(笑)、私の小学生時代は、母親のヒステリックに怒鳴っていたことだけは、鮮明に覚えています。と書いて下さったように、子どもは叱られても何で叱られたのかはあまり覚えていないのに、お母さんがどのような表現で叱ったのかということはよく覚えています。そして、それと同じ叱り方で弟や妹やお人形などを叱ります。“自己表現期”という言葉を勝手に作って昨日説明しましたが、これがこの自己表現期の子どもの特徴でもあります。この時期の子どもたちは自分の気持ちはからだ丸ごとの自己表現で大人に伝えようとします。大人は説明してもらわないとよく分からないのですが、この時期の子どもは自分の気持ちや感覚や考えを言葉で説明することが出来ません。だから大人は子どもの自己表現を読み解かなくてはなりません。そうしないと子どもが本当は何が言いたいのか、何をしたいのかが分からないからです。でも、それだけではありません。子どもの自己表現に対して、大人も自己表現で応えてあげる必要があるのです。すると子どもは大人とコミュニケーションが取れるようになり安心し、安定します。そして、その自己表現によるコミュニケーションの育ちが後の言葉によるコミュニケーション能力の土台になっていくのです。実際、この時期の子どもは大人の表現方法もどんどん吸収しています。言葉もその一つなのです。自己表現で豊かなコミュニケーションが出来るようになった子は言葉でも豊かな表現が出来るようになるでしょう。自己表現という形で伝えていたことを言葉でも伝えたいと工夫するからです。そうでないと、知識によって説明するだけの言葉しか使うことが出来なくなってしまうと思います。すると何を聞かれても“べつに”とか“ふつう”と答えるようになります。(大人も子どもも“あなたはどう思うのですか”と聞いても自分の言葉で答えることが出来ない人が非常に多いのです。ただ知識で説明するだけなのです。そしてそういう人はただの知識と“自分の考え”の区別が付きません。“知識ではなくあなたの考えを聞かせて下さい”と聞いてもその言葉が理解できないのです。)また、子どもの自己表現に対して大人も自己表現を返してあげることで子どもは大人の自己表現を学ぶことが出来ます。自己表現も一つの言葉だからです。そして、大人の自己表現を学ぶことを通して、大人の感覚や感情や考え方を学んでいきます。自己表現はそういうものの現れだからです。具体的にはどのようなことかというと、子どもはお母さんが怒っている時の表現を通して、その時のお母さんの感覚やからだの状態を学んでいるということです。からだが共鳴してしまうのです。そして、それを再現できるようになります。お母さんの優しい声、優しいまなざしという表現を通して、優しくするという表現の仕方を学びます。よく子どもに“優しくしなさい”と怒鳴っているお母さんがいますが、それでは怒鳴り方は学べても、優しくする仕方を学ぶことはできません。“静かにしなさい”も同じです。“静か”の表現の仕方をお母さんが表現して見せてあげないことには子どもは“静か”の表現の仕方が分からないのです。大切なことは“どのような言葉で説明するのか”ではなく、“どのような表現で伝えるのかということなのです。”ただの言葉による情報として覚えさせるのではなく、からだ丸ごとの体験として体験させるのです。そうすると子どもは理解します。表現期の子どもは言葉ではなく体験で理解するのです。言葉はすぐに消えてしまいます。優しい子どもに育てたいのなら、優しい表現を子どもに体験させるしかないのです。だからといって、急に理想的なお母さんを演じようとするのは間違っています。それを求めている育児書もあるかも知れませんがそれは子どもの心とからだのことを知らない人が書いた本です。子どもはそれが本音か演技かなどということはすぐに見破ってしまうからです。そして、本音を隠して演技すること、つまり“嘘のつき方”を学んでしまうでしょう。子どもに嘘は通じないのです。でも、嘘のつき方を学んだ子どもは、一見いい子になったように見えます。それが落とし穴なのです。じゃあ、どうしたらいいのかというと“なるべく”そういうことを心がければいいのです。無理をする必要はありません。無理なく出来る範囲で少しずつでも心がけていれば、少しずつ変わっていくのです。その少しずつが大切なんです。すると子どもは自分を変えていこうとするお母さんの意志を体験することが出来るからです。子どもはお母さんの自分を変えていこうとする姿勢を体験し、学ぶことが出来るのです。これは理想的なお母さんの体験とは違ったまた素晴らしい体験なのです。ここで自分を卑下非難してしまってはいけません。自分を卑下非難する人は前に進むことが出来ません。反省は大切ですが、卑下非難は邪魔者です。子どもも自分を卑下非難することを学んでしまいます。それに自分を卑下非難する人はただ嘆き悲しむばかりで反省はしないものです。だからいつまで経っても変わることが出来ません。
2008.02.10
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表現は“自分を見せること”、そして、その表現に反応した人が何らかの表現を返し、その両者の間に何かしらが共有された時コミュニケーションが成り立ちます。また、自分の発見、感覚、考えなどを多くの人と共有しようとして他の人に働きかける時にマス・コミュニケーションが生まれます。さらにその共有したものを記憶、記録し時代を超えた共有が生まれた時に、人間は文化と文明を持ち、人間が人間になったわけです。それは言葉の発生によって初めて可能になりました。言葉は情報を伝達するばかりでなく情報を記憶するシステムでもあるのです。そしてその積み重ねが人類に知恵をもたらしました。でも、あるところで起きた出来事がその場から切り離されて他の大勢の人と共有されるようになるためには抽象化という作業が必要になります。つまり、“体験”を“情報”に変換するのです。そのため、さらに説明も必要になります。目の前に象を見た人たちの間では、“でかいね”、“うん、すごくでかいね”でコミュニケーションが成り立ちます。表現に対して表現を返すだけでいいのです。同じ体験を共有しているからです。でも、その象を見たことがない人にその象の大きさを伝えるためには“高さは5mくらいかな、長さは7mもあったかも知れない、巨大な丸太のようでとにかくすごく大きかったんだよ”というように“情報”に変換して説明するわけです。ですから、その場で出来事が起きている時の一対一のコミュニケーションと、ただ情報を伝えるだけのコミュニケーションとではその状態が大きく異なるのです。前者の場合、説明は不用なのです。かえって説明は、両者の距離を隔ててしまいます。私が何を言いたいのかお分かりでしょうか。自己表現期の子どもとのコミュニケーションは一対一の関係の中でしか生まれません。それはつまり、自己表現期の子どもを育てている時には説明は不用だといういうことです。自己表現期の子どもとコミュニケーションするためには説明は役に立たないということです。説明はかえって、子どもとの距離を作ってしまい、子どもの表現を抑えてしまうと言うことです。初めて象を見た人が“山のように大きいね”と言って感動している時に、“身長は5メートルぐらいだよ”と説明されたら会話が止まってしまいます。この“自己表現期”という言葉は私が勝手に作った言葉ですが、幼い子どもはもっぱらからだ全体を使って自己表現をしています。この時期の子どもは説明はしません。自分がなんでお菓子が食べたいのか、なんでご飯が食べられないのか説明が出来ないのです。そしてまた説明を聞いても理解できません。3才頃までは完全な自己表現期だと思います。そして、7才、9才、12才、14才と少しずつ“説明期”に移行していきます。ちなみに、この“説明期”も私が勝手に作った言葉です。但し、これは個人差が大きく、9才くらいで自己表現をしないで説明ばかりするような子どももいっぱいいます。そういう子どもは能動的に動きません。感受性も乏しいです。シュタイナー教育的に言うと“知的な目覚めが早すぎる子どもたち”です。特に7才前の子どもの言葉は“表現”なんです。幼い子どもたちは表現でコミュニケーションをしているのです。それは子どもたち同士が遊んでいる状態をよく観察していると分かります。遊んでいる時に説明することでコミュニケーションをしている子どもなど見かけることが出来ません。そもそも子どもが子どもと関わるのは遊ぶ時だけです。だから、説明する必要などないのです。けん玉や竹馬のやり方を教える時も、ただやってみせるだけです。言葉はただの補助です。ですから、大人でも幼い子どもとコミュニケーションをするつもりなら表現によってコミュニケーションする必要があるわけです。それが子どもたちの言葉だからです。でも、多くの大人が説明によって子どもとコミュニケーションしようとしています。そして、子どもにも説明を求めています。“何でご飯をちゃんと食べないの、理由を言いなさい”、“なんでお友達のおもちゃを取っちゃうの”などなどのようにです。でも、子どもは説明ができません。それで嘘をつくことになります。お母さんが納得するような嘘を考えるのです。ですから、無理に子どもに説明を求めていると子どもは嘘つきになります。そして、子どもはお母さんとの距離を感じ、表現をしなくなるのです。でも、その時子どもの中の子どもの生命力と感性は萎えていきます。
2008.02.09
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先日来からずーっとコミュニケーションと表現の関係と違いを考えています。それでようやく一つの考えに至ったのですが、簡単に言ってしまえばそれは表現とは“私を見せるための方法”であり、コミュニケーションとは、“他の人と共有するための方法”なのではないかということです。鳥や動物や人間などの求愛表現も自分を選んでもらうために自分の素晴らしさを見せる方法です。戦いの時の威嚇も自分はこんなにも強いんだぞと言うことを見せる方法です。絵や歌や踊りでも文章でも、自分が見たもの、感じたもの、考えたものを見せる方法です。役者になって誰かを演じている時にも、そこに自分が存在していなければその演技は嘘になります。演技者が自分を消してしまったらそれは嘘なんです。感情は自分の内側からしかあふれてこないからです。私は演技の専門家ではありませんが、私なりの考えでは演技とは“引き受けること”なのではないかと思っています。私は山田太郎さんではありません。山田太郎さんに変身することもできません。でも、山田太郎さんを引き受けることはできます。山田太郎さんを引き受けた自分の姿を見せるのが演技であり、表現なのではないかと思うのです。観客が見たいのは山田太郎の真似をする偽物ではなく、山田太郎を引き受けた“本物の私の姿”なんです。だから見る人の心を打つのです。だからそこに役者の冥利があるのではないでしょうか。役者の技量とはその引き受け方なのでしょうね。かめおかさん、どうなのでしょうか。そして、これは子育ての場でも同じなのかも知れません。お母さんの偽物を演じるのではなく、母親という役割を引き受けた自分のそのままの姿を見せることがそのままお母さんとしての表現なのではないかと思うのです。こんな事を言ったらお母さんらしくない子どもをぶったらお母さんらしくない子どもを愛せないなんてお母さんらしくない、といってよいお母さんの役を演じようとするのはお母さんの偽物なのかも知れません。目の前の子にとってのお母さんは世界にたった一人だけです。他に比較するお母さんなど存在していません。それがどんなお母さんであっても世界で一人だけのお母さんなんです。だから堂々としていればいいのです。また子どもはお母さんに堂々としていて欲しいのです。それなのにお母さん本人だけがいつでも他のお母さんと自分を比較しています。だからちゃんとした母親としての表現ができないのです。だから子どもが不安定になってしまうのです。怒鳴っても、ぶっても、子どもは“お母さんとはこういうものだ”と思うだけです。過剰に心配する必要などないのです。ただ、堂々としていて欲しいのです。と話しがずれてしまいましたが、表現に関しては私はこのように思っています。それに対してコミュニケーションは共有することです。今日は寒いですね。ほんと、今日は格別に冷えますね。この会話には感覚の共有があります。この機械はこう使うんだよ。分かりました。という会話には技術や知識の共有がありますこれは自分を見せる“表現”とは違った働きです。表現は共有を目的としていません。分かってくれる人だけが分かればいいのです。だから分からない人のためにわざわざ説明する必要はありません。状況によってコミュニケーションには説明が必要になりますが、表現には説明は必要ないのです。ピカソの絵を見て分からないと言う人に、説明をしても無駄なんです。表現は直感で受け止めるのです。でも、表現に対して表現で返す時、それはコミュニケーションになります。直感が共有されるからです。子どもがニコッと笑った時に、ニコッと笑い返すことでそこにコミュニケーションが生まれるのです。子どもが風の表現をした時、お母さんが風に吹かれるお花の表現をすればそこにコミュニケーションが生まれます。赤ちゃんの笑顔は最初は生理的な反射に過ぎません。そこに何の意味もないのです。でも、それを子どもの表現として受け止め、ニコッという表現で返してあげているとそれはコミュニケーションになります。また、子どもが“なぜ?”という表現をした時も同じです。その表現に対して大人も自分なりの表現で返してあげているうちにコミュニケーションが生まれます。最初子どもはコミュニケーションの方法を知りません。でも、子どもは泣いたり笑ったりしながら表現はできるのです。お母さんに分かってもらおうとからだ全体を使って一生懸命に自分を見せようとするのです。それこそが神様が仕組んだ知恵なのでしょう。その子どもの表現に大人が表現で返してあげているうちに子どもはコミュニケーションの方法を学んでいくのです。ここで大切なことは、子どもの表現に対しては表現で返すということなんです。いつまでも泣いているんじゃありません、とか、何で泣いているのか説明しなさい、などという対応をしていると子どもはコミュニケーションの方法を学ぶことが出来なくなります。いかがでしょうか。
2008.02.08
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今日は「コミュニケーション」と「表現」の関係について考えてみます。人間の社会はコミュニケーションで成り立っています。コミュニケーションが人と人をつないでいるわけです。ですから、人間だけでなく群れで生活している生き物はみなそれぞれコミュニケーション方法を持っています。とにかくコミュニケーションがなければ集団を維持することが出来ないからです。そして、人間だけがそのコミュニケーションで伝わった情報を溜めることが出来るようになりました。他の動物たちでは一過的に通り過ぎてしまうだけの情報を記憶して溜めてそれを使うことが出来るようになったのです。そこで知恵が生まれ、思考が生まれ、文明が生まれ、学問が生まれました。そのため込んだ情報を“知識”というのですが、知識はコミュニケーションの結果に生まれるものです。そもそも我々は言葉すらコミュニケーションによって学んでいるのです。ですから、他の人とのコミュニケーションがない状態で育てられた子どもは言葉を話すこともできなければ、もちろん知識も得ることは出来ません。つまり、他の人とのコミュニケーションを絶たれた状態で育てられてしまえば、たとえ遺伝子的には人間であっても、人間らしく育つことは不可能だということです。それだけ人間にとってコミュニケーションは本質的な働きなわけです。だから、いくら知識をいっぱいため込んでいてもコミュニケーション能力が身に付いていない子どもは人間として生きていくことが困難になってしまいます。コミュニケーション能力が充分でないと、他の人とつながることも、他の人から学ぶことも困難になってしまうからです。そのため、学校の成績は良くても、社会に出て一人で生きていかなければならない状況において突然身動きが取れなくなってしまうのです。目も耳も塞がれた状態でジャングルに出ていくのと同じ状態なのです。今、そのように目も耳も塞がれた状態でジャングルを歩かされている子どもたちがいっぱいいます。そういう子どもは一度つまずくとそこにうずくまってしまって、二度と動こうとはしなくなります。自分の周りの状況が理解できないので、怖くて動けないのです。このようにコミュニケーションというものは非常に重要なものです。でも、それに対して“表現”はあいまいなものです。実際、その役割ははっきりとしていません。表現の起源を探っていくとそれは求愛の表現にたどり着くのではないかと思います。(私は生物の専門家ではないので素人の知識としてはということです。)鳥などは求愛の時に様々な表現をします。他にも求愛の時に独自の表現をする生き物はいっぱいいます。人間もその仲間です。また、怒って相手を威嚇する時にも様々な表現を使います。自分を大きく見せようと膨らんだり、口を大きく開けたり、大きな声を出したりします。でも、そのような生き物でも日常的にそのような表現を使っているわけではありません。必ずしも生活には必要がないからです。じゃあ、人間を含めて生き物たちはどのような状況の時に“表現”という方法を使っているのかというと“個”と“個”が出会った時なんです。オスの求愛の時の表現は自分こそが相手にふさわしい個であるということをアピールするための方法です。そして、メスはその表現を見てより優秀で自分に合った遺伝子を持った個体を選びます。戦いの時の表現も個と個がどちらが強いのかをお互いにアピールするための儀式です。実際に戦ってしまえばそんな儀式は必要ないのでしょうが、でも、そんなことをしていたら生命がいくつあっても足りません。実際に戦ったら、どちらが勝つにしろお互いに傷つきます。そうしたら、側で傷つくことを待っている捕食者の餌食になってしまうのです。つまり、実際に戦ったらよっぽどの力の差がない限り勝っても負けても死んでしまうのです。高度な知能を持った生き物たちはこのように表現という能力を身につけることでより効率的に優秀な遺伝子を残す方法を獲得したのです。挨拶という表現もその一つなのでしょう。挨拶をすることで戦いを回避できるのですから。だからこそ挨拶が出来ない個体は危険因子として排除されてしまうのです。無理矢理排除されなくても、挨拶も出来ない個体は群れの中に自分の居場所を持つことができないため、群れから出て行かざる終えなくなってしまうのです。また、進化の過程でその集団を構成している個に個性が生まれてきた時、そのコミュニケーションの方法にも個体差が生まれてきました。そうなると余計に表現という方法でそのコミュニケーションを補う必要が生まれてくるわけです。例えば、同じ“バカ”という言葉でも、人によって、また場面によってその意味は異なってきます。私達がその意味をはっきりと知ることが出来るのは、その言葉を使う時の表情、しぐさ、声、雰囲気などの“表現”によってです。つまり、個体が個性化してしまった群れでは目に見える形での表現という手段を使わないと正常なコミュニケーションが成り立たないのです。つまり、個ということが大切にされている社会ほど表現の重要性が高くなるということです。ということは逆に言うと、個が大切にされていない社会では個人的な表現はあまり大切にされていないということです。だから表現を育てるための教育など必要がないわけです。ですから、その表現が存在していない文字だけのメールなどではすぐにいざこざが起きてしまいます。絵文字などがその表現の代わりに使われていますが、でも、実際の人間の表現はそんなに単純なものではありません。ですから、絵文字では伝えることが出来ない想いがいっぱい取り残されてしまうのです。それに文字や絵文字は嘘がつけるので信用ができません。それに対して、面と向かった一対一の関係の中で交わされる表現ではなかなか嘘をつくことができません。よっぽど訓練をした人でなければ、無意識の働きがその表現を決めてしまうからです。でもそれ故に、今若者達はその嘘をつくことが出来ない状況を避けようとしています。ありのままの自分の姿を相手に見られることを非常に嫌うのです。濃いお化粧も、独特の若者言葉も、奇抜なファッションも、奇抜な行動も、メールだけのやりとりもみな自分を隠すための手段なのです。嘘をつくための方法なのです。さらにいえば、成績も、学歴も自分を隠すための嘘です。昔の日本のように“役割”でつながっていた社会ではみんな役割の中に隠れていることが出来ました。でも、その役割社会が解体してしまった今では若者達は役割の中に生きることもできず、さりとて個人として自分を表現して生きることもできず(個人として生きる教育を受けていませんからね)、中途半端な状態の中でみんな必死になって小さな穴に頭をつっこんで自分を隠そうとしているのです。それは宿(ヤド)から引っ張り出されたヤドカリのようです。まったく滑稽な姿です。それが今の日本の若者達の姿なのです。でも、結婚して子どもが生まれると、子どもは嘘を見破ります。子どもに嘘は通じないからです。そして、自分と向き合わなければならなくなります。そして、苦しみが始まります。自分を表現する手段を持っていない人は自分と向き合う方法を知らないからです。そして、子どもの表現を読みとる能力もないので、子どもとのコミニケーションもできません。子どもが言っていることは子どもが本当に言いたいことと限りません。子どもがやっていることは子どもが本当にやりたいこととは限りません。それは子どもの表現をよく見ていないと分からないことなんです。でも、その表現を読み解く能力がないのです。そして、自分の想いを子どもに伝えるための表現方法も知りません。その結果、無力感に囚われ、自分を非難、否定することで自分を納得させようとします。でも、ここにも嘘があります。自分で自分を非難、否定することで自分の本音を隠そうとする嘘です。<また明日に続きます>
2008.02.07
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日本の教育システムの中には「表現教育」というジャンルが存在していません。日本人は“表現を大切にする”という価値観を持っていない民族のようです。表現をすることを自己主張やワガママと混同している人も多いようです。また、人前で表現することに恥ずかしさを感じる人もいっぱいいます。(人前で表現しなくてどこで表現するのだ)ですから、私の周囲のお母さん達もみんな表現から逃げようとします。中には、表現することに臆さない人もいますが、でも、表現の仕方が下手です。そういう人のほとんどが胆汁質が強い人ですが、でも、表現の方法を学んでいないので自分の表現はするのですが、他の人の表現を読みとることができません。また、ただ自分の言いたいことを吐き出すばかりです。そんな時、他の人はただ黙って聞くばかりです。“言っても無駄”だと感じるからです。ただし、胆汁質が強い人は言葉での表現は得意ですが、身体的な表現は嫌がります。多血質や(意外なことに)憂鬱質の人は身体的な表現が比較的得意なはずなんですが、でも多血質は恥ずかしがって、そして憂鬱質は怖がって表現することから逃げます。但し、多血質の人は仲間と一緒なら、また憂鬱質の人は誰も見ていないところで一人の時なら表現できるように思います。いずれの気質の人でも自分の子どもに対してなら素敵な表現をしている人がいるからです。でも、大人に対してだと逃げてしまうのです。対等な相手との間で自分を表現することが出来ないのです。(でも、日本人は匿名になると急に表現を始めます。ただし、自分勝手でルール無視の表現です。それだけ表現したいことが溜まっているのでしょう。でも、それを正しく表現する術を持っていないのです。また、身内の中だけでは雄弁という人も多いようです。つまり、日本人はそれだけ他の人に評価、否定されることを恐れているのでしょうね。日本人は評価されることに対して異常に敏感ですからね。)そんな日本でもコミニケーションの大切さは色々なところで語られています。コミニケーションが存在していなければ家庭も、学校も、会社も、社会も崩壊してしまうからです。また、コミニケーション能力が育っていない子は友達と遊ぶことも、勉強を学ぶことも出来ません。それは当然のことです。でも、不思議なことに、それにも関わらず日本では家庭の中にも、学校の中にも、社会の中にもそのコミニケーションを育てるシステムは存在していません。積極的に子どものコミニケーション能力を育てようとする意志も感じません。昔の日本の社会では人は「個」ではなく「役割」で生きていました。その名残は、“山田太郎さん”ではなく、“山田くんのお父さん”という日常的な表現の中にも見いだすことが出来ます。老人会などでも先ず自分の名刺を出したり、自分が昔勤めていた会社や役職のことばかり言う老人が多いという話を聞きますが、それも同じです。日本では人は「個」ではなく「役割」として存在していたのです。だから、ただ黙ってその役割を果たしてさえいれば後ろ指を指されることはなかったのです。ですから、最低限のコミニケーション能力さえあればそれで困らなかったのです。それだけ社会が安定していたということでもあります。役割というものが保障されていたのです。終身雇用という形態もその現れでしょう。でも、現代の社会では役割は保障されていません。今は○○会社の部長でも、一年後はホームレスかも知れない時代です。そのような時代に必要なのは個人としての能力です。肩書きなど無力です。そして、その個人としての能力の根幹にあるのがコミニケーション能力なのです。でも、実際には多くの大人が子どもの学力にばかり夢中です。でも、学力など社会に出たら何の役にも立ちません。そんなこと大人はみんな知っているはずです。確かに、昔はいい大学を出ることで、いい会社に入ることもできたのかも知れません。でも、それは過去の幻です。それでもなぜかみんないい大学にはいるために、学力を上げることに夢中です。これは異様な風景です。妖怪に操られているのではないかとさえ思えます。みんな自分がやっていることがあまり役に立たないと知っているのにもかかわらず、大切なものを犠牲にしながらもそれを止めることが出来ないのです。本当に子どもの幸せな一生を願っているのなら、学力よりもコミニケーション能力を育ててあげて下さい。そして、実はコミニケーション能力が高い子は学習能力も高いのです。みんな土の栄養や、根っこや幹を大切にしないで果実ばかり大きくしようとしているのです。だから、おかしなことになってしまっているのです。と、コミニケーション能力を育てることの大切さを書いたところで、ここからが本題です。ここまでは前ふりです。問題は、では子どものコミニケーション能力を育てるためにはどうしたらいいのかということです。ここでまた話しは「表現」に戻るのです。ということで続きます。
2008.02.06
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みなさんは(人間以外の)動物のからだと人間のからだの違いが分かりますか。もちろん見かけ以外でです。解剖学的には人と猿などの間にはそれほど大きな違いはないのではないかと思います。そして、単純作業なら人間が出来るような作業の大部分は猿にも出来るでしょう。実際、猿の身体能力はすごいものです。竹馬に乗ったままで平気でバクテンをする猿を見たこともあります。逆立ちも楽勝です。指先も結構器用です。そして、学校などでの“子どものからだ育て”の目的もこのようなからだの機能を育てることに重点が置かれているように感じます。跳び箱も、鉄棒も、サッカーなどのスポーツも子どものからだの機能を育てるためのものでしょう。それはそれで大切なことだとは思います。でも、これらはみんな猿にでもできることです。猿にとっては特別に訓練などしなくても大車輪だって楽勝です。これらのからだの動きには目的があります。そして、正解があります。跳び箱にも鉄棒にもサッカーにもその動きには正解があるのです。その正解が目的となっています。だから、その指導法や学び方をマニアル化することもできるわけです。そしてだから猿にも出来るわけです。もちろん、ロボットにもできます。正解がある動きはプログラムで書くことが出来るからです。でも、猿にも、ロボットにも出来ない動きがあるのです。人間にしかできない動きです。それは“表現”という動きです。猿もロボットも鉄棒も、縄跳びも出来るかも知れません。でも、おままごとでお母さんの役を演じることはできません。大人でもなかなか出来ない大車輪は猿でもできますが、幼稚園児にもできるおままごとの動きは猿には出来ないのです。つまり、それは難しそうに見えるバクテンや大車輪の動きより、一見簡単に見えるおままごとの動きの方がはるかに高度だということなんです。でも、その事に気付いている人はほんのわずかだと思います。これは面白いですよね。教室のある子は焼き芋を美味しそうに食べるシーンをお母さんにパントマイムでやってくれたそうです。こんな事も猿やロボットには出来ません。冷蔵庫を開けた時にケーキを見つけた喜びと驚きを子どもでも表現することができます。でも、これも猿やロボットには出来ません。なぜなら、表現するからだは心の働きとつながっていなければならないからです。そして、子ども時代にはこの“心の働きとつながっているからだ”こそ育てなければならないのです。そうでないと心が育たないからです。心はからだと一緒にでないと育つことができないのです。そして、心の育ち方がからだの育ち方に現れます。また、からだの育ち方が心の育ち方に現れます。でも、その“からだ”には正解がありません。心には正解がないからです。だから、マニアル化もできません。問題はそういうからだを育てるにはどうしたらいいのかということですよね。<続きます>
2008.02.05
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昨日は言葉というものは暗号であり、その暗号を解読するためには暗号キー(解読キー)が必要だということを書きました。それは全ての生き物において共通のことで、だから異種間では言葉が通じないわけです。オウムが人間の言葉を話せても、オウムと言葉で会話が出来るわけではありません。オウムは人間の言葉の音を真似することは出来ても、その意味を解読する暗号キーを持っていないからです。ちなみにここで“言葉”とは音声によるものばかりを指してはいません。種によっては匂いや超音波や色などが言葉として使われている場合もあります。そして、人間以外の生き物たちは基本的に生まれた時から同じ種であれば同じ暗号キーを持っています。暗号キーがもうすでにDNAに書き込まれているからです。だから、教育など受けなくとも異個体間とのコミニケーションが可能になるわけです。でも、人間以外でも高等な生き物になるほどその暗号キーに文化的な変化が生まれてきています。猿でも、群れごとに微妙に暗号キーが違っているのです。だから、同じ種類の猿でもよそ者は排除されてしまうのです。それは高等な生き物になるほど生まれてからの学習がその暗号キーの形に大きく影響を与えるようになってくるからです。そして人間はその極にいます。人間の暗号キーはその大部分が生まれてからの学習によってその形が決まるようになっているのです。そして、この暗号キーをちゃんと作ることが出来ないと他者とのコミニケーションにトラブルを生じるようになります。でも、そのかわり神様は育ちの環境に合わせて高度で複雑な暗号キーを創り出す能力を人間に与えてくれました。それはつまり、人間だけがDNAに書き込まれた暗号キーに縛られなくてもよくなったということです。ある意味で人間は神様から自由になったのです。人間はこの能力のおかげで複雑な暗号キーを創り出し、ついには神様の暗号を読み解きたいと願う人たちがその神様の創造物である物質の世界の暗号を解読する暗号キーまで探り当ててしまいました。そのおかげで、人間はそれまで自然の中に隠されていた暗号を次々と読み解くことができるようになりました。その新しい暗号キーの名前を科学と言います。そして、人間は次々と新しい扉を開け、その中に隠されていた力を使うことが出来るようになりました。でも、それは禁断のリンゴだったのです。育ちの環境に合わせて自在に暗号キーを創り出すことが出来るということは、逆に言うと育ちの環境にトラブルがある場合は暗号キーがデタラメに作られてしまう危険性もあるということなのです。すると、“科学が分からない”どころか、仲間とのコミニケーションすらとれなくなってしまう恐れもあります。さらに、その状態がひどければ他の生き物たちよりも劣った状態になってしまう危険性すらあるのです。また、デタラメではなくとも異なった部族や宗教や文化の人たちの間でさえコミニケーションが難しくなってしまいます。物質の暗号を読み解く暗号キーだけは世界共通なのですが、人と人がコミニケーションする場合に必要になる暗号キーは人それぞれだからです。それこそが禁断のリンゴの恐ろしい意味なんです。人間は禁断のリンゴを得て、大きな可能性を得ると同時に、また同時に自分自身を破滅させるかも知れない大きな危険性にさらされることになったのです。旧約聖書に書かれた「バベルの塔」の寓話は現実世界の話しなのです。今まで人類は禁断のリンゴの素晴らしさばかりを称え、その力を使いまくってきました。でも、今どうも神様から“開けてはいけない”と言われていた最後の扉まで開けてしまったようなのです。(これは昔話でも多く語られているパターンです。)その扉の向こうには“鏡”がありました。見る人の心と現実を写す鏡です。そして多くの人がその鏡に虚無と、醜い自分自身の姿を見ました。それは自分たちの欲のためばかりに禁断のリンゴの力を使ってきた人間の姿です。でも、そのことに気付き、その間違いを正そうと志す人はその醜い自分の姿を真っ正面から見つめようとします。すると、鏡はその人を受けいれ新しい世界へと導いてくれます。実は鏡は新しい世界への入り口なのです。この世界への入り口を開く暗号キーは方法ではなく、人間の魂そのものだったのです。この鏡を通り抜けることが出来ればここからまた新しい物語が始まるのです。でも、通り抜けることが出来なければ人類の物語はここで終わります。自分の醜い姿を認めようとしないで鏡から目をそらす人たち、整形してごまかそうとする人たち、気に入らない鏡を壊そうとする人たち、鏡の前で言い訳する人たち、楽観論ばかりでごまかそうとする人たちは決して鏡の向こうの世界へ入ることは出来ません。鏡は新しい世界へのフィルターなのです。どんなに科学が進んでも、その科学を使う人間の心が正常でなくなったら物語はそこで終わってしまうのです。さて、この人類の物語の先はどのように展開するのでしょうか。このまま終わってしまうのでしょうか。ちなみに、“子育て”という物語では“子ども”がその鏡の役割を果たしています。その鏡が写し出すものを素直に受けいれることが出来る人は鏡の向こうの素晴らしい世界に入ることが出来ます。でも、そうでない人はズーッと鏡に映る自分の醜さに怯えながら生きることになります。言葉の話しからおかしな方へと話題が流れてしまいましたが、人間にとって言葉とはそれほど本質的な働きだと言うことです。神様と同じように人間は言葉で出来ているのですから。
2008.02.04
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1月31日にダメ母さんから色んな例をあげてあったんですが、例えば言葉を獲得するべき時期に獲得しそこねた場合・・子供の言葉の発達やその他の成長はどうなるのでしょうか?という質問を頂いたのでそれにお答えさせて頂きます。まず、言葉の育ちと子どもの育ちにはどのようなつながりがあるのかと言うことを簡単に考えてみます。誰しも、子どもの言葉の育ちが心の育ちとつながっていることは理解できるでしょう。でも、実は言葉の育ちはからだの育ちとも深くつながっているのです。それは人間の感覚や動きは言葉によって導かれているからです。たとえば、テレビにはよく言葉を理解しているように見える非常に賢い猿が色々と登場しますが、彼らのやっていることはただの動作であって、基本的にはロボットの動きと同じです。どういうことかというと、猿には言葉でしか表現し得ない動きはできないということです。それは、 波のように動いてみて もっと、優しく動いて ライオンのように強そうに歩いてみて ボールのように転がってみてという動きは出来ないということです。彼らが出来るのは、“もっとドシンドシンとあるいて”、“もっと肩を上げてあるいて”、“ゆっくりあるいて”などというような彼らの感覚で直接感じることが出来るようなことばかりです。つまり、動作の指示は出来るのですが、言葉のイメージでしか伝えることができない動きを伝えることはできないということです。ただ、私は猿の調教師ではないので私の体験からこういう事を言っているわけではありません。でも、テレビで見ていて調教師の人がそのような言葉で指示を出しているところを見たことがありません。また、実際の猿の動きから何らかのイメージを感じ取ることもできません。“猿はこういうイメージを伝えたくて動いているのだな”という動きを今まで見たことがないのです。確かに、何らかの気持ちを伝えたい動きはやっています。だからその動きに非常に人間的なものを感じるわけです。でも、イメージを伝える動きは出来ないようなのです。人間は“波のように動いて”といわれた時に、その波のイメージの中から、今求められているものはどういうことなのかということを抽出することができます。それが出来ないと、“私は波ではないので波の動きなど出来ません”ということになってしまいます。そう、確かに人間は波ではありません。だから波と同じことが出来るわけはないのです。でも、“波のように”という言葉を理解して、波のように動くことが出来ます。そこではイメージの伝達が行われているわけですが、その“イメージの伝達”こそが言葉の本質的な働きなんです、そして、コンピュータの世界でもまだそのイメージを伝達することは出来ていません。なぜなら、イメージは一種の暗号だからです。イメージを読み解くためにはそのイメージを発した人と受け取る人の間に同じ暗号キーが共有されていることが絶対的に必要なのです。それはなにかというと、“波の体験”です。つまり、“波のように”というイメージを使う人にも、また受け取る人にも“波の体験”が共有されている必要があるわけです。この暗号キーを共有していないものの間ではイメージの伝達は起こりえないのです。そして人間の暗号キーは人間のからだを持ったものにしか得ることが出来ないのです。暗号キーはからだが作っているのです。ですから、機械は人間の暗号を解読することが出来ないのです。このように、言葉というものは言葉だけを覚えても意味がないのです。それは、木、石、ご飯、本などという物の名前でも、“悲しい”、“嬉しい”などという感情を現す言葉でも、“冷たい”、“ごわごわする”というような感覚を伝える言葉でも同じです。言葉が通じるためにはお互いの間に“暗号キー”が共有されていることが絶対的に必要なのです。その理解がないままに言葉の教育をしても無意味です。そして、その暗号キーを身につけることなく言葉だけを覚えても、言葉を使うことはできないのです。テレビでは言葉の教育が出来ない理由もここにあります。(幼児の場合です)ヘレンケラーが「ウォーター」という言葉を理解したのはサリバン先生がヘレンの手に水を掛けている時です。この時、ヘレンは手の感覚の中に暗号キーを発見したのです。そしてその暗号キーというシステムは人間以外の生き物も持っています。蜂は蜂の暗号キー、猿は猿の暗号キー、犬は犬の暗号キーというようにです。でも、猿の暗号キーで人間の言葉という暗号を解読することは出来ません。人間の言葉を理解するには絶対に人間の暗号キーが必要なんです。ここでダメ母さんの質問に戻ります。まず、ご質問の中の“言葉を獲得するべき時期に獲得しそこねた場合”という状況がよく分かりません。お母さん達からも“うちの子どもは言葉が遅いんです、どうしたらいいんでしょうか”という質問を受けることがあります。その時、まず聞くのは“お母さんの言うことは理解できていますか”ということです。言葉を話すことが出来なくても、言葉を理解しているようなら大きな問題はありません。暗号キーはちゃんと作られているからです。あせらせず、ゆっくりと待っていればやがて話し始めます。それでも言葉が出ない時は、発話に関する身体的機能にトラブルがあるのかも知れません。ただし、理解できる言葉と、理解できない言葉をちょっとチェックしてみて下さい。その状況をよく観察していると、子どもの中にどのような暗号キーが育っているのかと言うことが分かります。もし、動作の指示というような単純な暗号キーしか持っていないようなら意識して色々な体験を与えて、その体験につながった言葉かけをしてあげて下さい。例えば、昨日も子どもたちと動物ごっこをやって来たのですがこの動物ごっこのような“ごっこ遊び”が出来るかどうかは非常に大切なポイントです。暗号キーが育っていない子は“ごっこ遊び”が出来ないからです。但し、同じ“ごっこ遊び”ばかりを繰り返している場合も注意してみていて下さい。暗号キーの作られ方に偏りがあるかも知れないからです。言葉も遅く、言うことも理解できないようなら何らかのトラブルが予想されますので、しかるべき専門家の所に相談に行った方が良いと思います。また、言葉はいっぱい話していても、こちらの言うことが理解できないようなら注意して下さい。この場合は先天的なものが影響していることも、育ちの環境が影響していることもあります。テレビに子育てをさせているとこのような状態になることもあります。また、脳の障害の場合もあります。自閉症の子はこのようなことがあります。でも、いずれにしても言葉の理解が出来ない場合は知的なトラブルが予想されます。ただ、テレビに子育てをさせてしまっている場合は速やかに子どもをテレビから離すことで大分改善されるようです。(その時の年齢にもよります)シュタイナー教育ではその暗号キーを作ったり、解読する時の働きを支えている感覚を「言語感覚」と呼んでいるようです。
2008.02.03
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