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山北にある「ペガススの家」での冒険クラブのお泊まり会から無事帰ってきました。今年も楽しかったですよ。明日、ちょっと写真でその楽しさをお裾分けしますね。
2008.08.31
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不謹慎な話かも知れませんが母親が呆けていく過程を見ているのは悲しい事であると同時に興味深いことでもあります。以前から不安な時、ストレスが溜まっている時、体力が落ちている時にはおかしなことを言っていましたが、でも、元気になるとまたそれなりに元に戻っていました。ということは、疲れ、不安、ストレス、体力低下というようなものには精神を退行させる働きがあるのでしょう。そして、元気、希望、安心というようなものが健全な精神を支えているのだろうと思います。ですから、子どもの精神を健全に発達させようとするのなら、無用な不安やストレスを取り除き、体力を付けてあげることが必要なのだろうと思います。こまかいことにこだわったり、勉強などで子どもを追い詰めたり、からだを思いっきり使った遊びを阻害していると精神の育ちに悪い影響がでる可能性があります。ちなみに体力をつけるためとスポーツなどをやらせる人も多くいますが、“やらせるスポーツ”は子どものストレスになるばかりです。これは指導者の質の問題とも関係していますが、子どもがやりたがるように指導できていないスポーツクラブは避けた方が身のためです。何でもそうなのですが、自分からやりたがらないのにやらせることは子どもの育ちを阻害します。自分からやりたくなるように指導するのが指導者であり、また子育てやしつけの成功のポイントです。そして、どんな方法を使ってもやりたくならないことはやらせないで下さい。まだその時期が来ていないか、その子にとっては必要のないことだからです。そのように一進一退を繰り返していた母の状態が、先日急に悪化しました。どのような状態になったのかというと、子どもの成長でいうと7才前の精神に戻ってしまったのです。それまでは7才から9才頃の状態だったのですが、ついに7才の境を逆行して戻ってしまったのです。それはつまり、“夢の中”という状態になってしまったということです。ただ、成長しつつある子どもと、退行していく大人ではその状態の影響が全く異なっています。子どもは夢の中の状態で夢や希望を思い描きます。でも、退行していく精神の中には妄想や怒りや絶望が生まれます。子どもは色々なことが出来るようになっていきます。大人は色々なことが出来なくなっていきます。母が以前から言っていたのが“本が読めなくなった”ということです。言葉を追うことが出来ないのです。ここには記憶や論理的思考能力の低下が影響しているのでしょう。また“テレビを見てもつまらない”とも言っていました。感情が動かなくなっていたのです。それと共に新しいことに対する興味、好奇心も低下していました。子どもが感情を育てているのは思春期までの子ども時代ですから、この時には思春期前の状態に戻っていたのでしょう。そして、今回は7才を逆行して、時間と空間の感覚も消えてしまったようです。“家に帰ってくる道が分からないんだよ、それがすごく怖いんだよ”と言っていました。それと、時間系列で並んでいた過去の出来事が全部ぐちゃぐちゃになってしまって、昔々のことを今のことのように言います。“7才までは夢の中”といいますが、どうしてそのような状態なのかというと時間と空間の感覚がまだ育っていないからなのです。そして、その状態では時間と空間に束縛されない思考をします。そして、事実と空想の区別が付かなくなります。時間と空間の感覚を失うと言うことは客観的な論理の世界が全て消えてしまうことを意味しています。その思考を支配しているのは体験の記憶と感情だけです。ですから、同じ呆けでもその体験の記憶と感情の状態によって症状の現れ方は全く異なっているようです。途中ですが、今日はこれから冒険クラブのお泊まり会で山北の「ペガススの家」に行くので続きは明日か、あさって書きます。
2008.08.30
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ご心配をおかけしましたが少し落ち着きました。以前から、疲れたり、ストレスが溜まったり、具合が悪かったりすると時々おかしな事を言っていたので、“そのうちくるかな”と予想はしていたのですが、あんなに突然、急激に変わるものとは思いませんでした。今までは、元気になるに従って元に戻りましたがでも、今回はどうなるかちょっと分からない状態です。今は、昔からの積もり積もった苦しみ、想い、感情が妄想と共にあふれ出し、怒りに支配されています。先日までは愚痴ばかり言っていましたが感情のたががはずれたとたん、愚痴が怒りに変化したようです。それらは今までの人生で我慢してきたことばかりです。子どもの頃のこともあれば、夫婦の間のこともあります。一つ一つは大したことではないのですが、その大したことではないことでも自分の中で、そして夫婦の間で解決できてこなかったのでしょう。それが理性のたががはずれたとたん、夢の中のように妄想によって脚色され、大きくふくらんで、感情の爆発となって出てきたのです。自分を押さえるだけの我慢は目には見えなくなってもズーッと感情のしこりとなって一生残っていくのです。また、理屈だけの納得では頭は納得できても、感情が納得できないのでこれもズーッと残っていきます。そして、これは子どもの頃から積もり積もっていきます。皆さんの中にもこういうものがいっぱい溜まっていませんか。押さえつけるしつけ、支配するしつけ、説得するしつけは表面的な効果はあるかも知れませんが、心の中にわだかまりや、苦しみを植え付け、成長する意志を萎えさせてしまうのです。一見それでうまくいったように見えても、現象が内側に隠れてしまって見えなくなっているだけなのです。そして、日常的な思考や感情や感覚の働きに悪影響を与え、感情が不安定になったり、理性の働きが弱くなったりすると溢れて出てくるのです。それが今の私の母親の状態です。ですから、しつけでは子どもの感情を納得させることが非常に大切なことなんです。良心的なお母さんはぶったり叩いたりせず、理屈で納得させようと一生懸命に説明していますが、子どもは理屈が理解できません。理屈というのは大人の論理だからです。理屈が有効に働くのは自我が成長した思春期以降の子どもたちだけです。でも、この頃になるとお母さんの中途半端な理屈は子どもの理屈によって拒否されてしまうでしょう。思春期になると子どもも理屈が使えるようになるからです。理屈が使えるようになって初めて理屈が理解できるようになるのです。皆さんも思春期の頃にはそうやって親と理屈で戦いませんでしたか。ということで、“大人の理屈”は思春期以前の子どもにはただの強制に過ぎないのです。そして、理屈ばかりで子育てしていると、子どもは“理屈”ではなく、自分勝手な“屁理屈”ばかり上手になります。客観的に物事を考える能力が未熟な時期の子どもにはそういう論理しか展開できないのです。屁理屈では自分の都合がいいようにしか論理が展開しません。ですから、屁理屈が上手になった子は言い訳や嘘が多くなります。ここで、“嘘を言ってはいけません、なぜなら・・・”と理屈で説明しても、また同じことが繰り返されるだけです。つまり、子どもの嘘は大人が作っているのです。子どもは感情が満たされた生活をしていれば、嘘を言う必要がないのです。大切なことは、“嘘をつかせない”ことではなく、“嘘をつく必要をなくしてあげる”ことなのです。子どもは自分を守る必要がある時に嘘をつくのです。ちなみに子どものファンタジーは嘘ではありませんからね。それでminaさんの以下のご質問にお答えします。もうすぐ8ヶ月になる息子。現在、、、離乳食です。ちょうど、自分の手で食べ物を口に入れたり、いじりたい時期なのですが、、、悩んでいます。お行儀良く、食べることのしつけと、、、いじらせるしつけ。支配にならないようにしたいのですが、なにせ、8ヶ月。遊びも、食事も一緒の冠買うの様子なので、どのようにしていいのかわかりません。「大地の恵みだから、、、ぐちゃぐちゃはダメ!」「遊びじゃないから、、、」といいつつ、、、むなしく涙。どうしたら、いいのでしょうか。この時期の子どもにとってはこのような行動は大切な学びです。幼い子どもは五感を通して自分が生まれてきた世界と関わり、その世界を知り、その世界での生き方を学んでいるのです。そして、同時に自分の感覚の働きを育てているのです。それが幼い子どもの本能なんです。幼児期に日本語を聞いて育てばネイティブとしての正しい発音で日本を話すことが出来るようになります。それは、幼児期に日本語の音に接して、日本語の音を聞き分ける感覚を身につけることが出来るからです。それと同じようなことを全ての感覚において子どもは試そうとしているのです。食べ物を手でグチャグチャやることで子どもは手の感覚で食べ物を体験しているのです。この時期はただ、食べることが楽しいという体験を充分に味わわせて、美味しく食べることだけを大切にしてください。そういう時期なのです。また、この時期の子どもはグチャグチャやりながら手指の感覚を育てています。ですから泥んこや時にはウンコでさえグチャグチャやります。とにかく感触体験がしたいのです。問題は、この時期の子どもは何でも口に入れてしまうということです。ですから、食べ物でグチャグチャ体験が出来るのならそれが一番安全です。“それを見ているのが耐えられない”というのは、お子さんの問題ではなくminaさん自身の問題です。お子さんはこの時期相応の正しいことをやっているだけです。食べ方のしつけは子どもがお母さんの真似をするようになったら伝えてあげてください。2才頃になると(個人差はあります)子どもはお母さんの行動に興味を持つようになり、色々と真似を始めます。社会性が少しずつ目覚め始めるのです。つまり、子どもの側にもちゃんと受け入れ時期があるのです。この時期を無視して急ぎすぎると子育てが苦しくなるばかりです。それと、子どもが手の使い方に目覚めるのは自由に立って歩くようになって手が自由になってからです。それ以前の子に手の使い方を教えても無理です。また、走り回れるようになると、かなり器用に手を使うことが出来るようになります。このように子どもの成長にはちゃんとした順序と時期があるのです。子どもは多くのことを学んで成長しますが、ちゃんとそれらを学ぶ時期があるのです。それは子どもの様子を観察していればよく分かります。慌てなくても大丈夫です。
2008.08.28
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minaさん、ごめんなさい。ご返事は明日書かせて頂きます。昨日も書いた母の件もあり、作業が山積みになって、今日はご返事が書けそうもありません。
2008.08.28
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すみません。昨日、別居している私の母親の痴呆が急に悪化して、ちょっとごたごたしております。それで、今日はちょっとブログをお休みさせていただきます。申し訳ありません。幼児が獲得していく能力を、痴呆になると失っていきます。痴呆を見ていると、子どもたちが何を獲得して成長していくのかが見えてきます。
2008.08.27
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お母さん達のしつけの悩みの原因をいろいろ分析してみると●子どもの心とからだの特徴についての無知。 以前、“食事の時にジーとお座りが出来ないんです”と相談を受けたので、“何歳ですか”と聞くと、“一歳半です”ということがありました。“寝相が悪いんですけど病気でしょうか”という相談もありました。“赤ちゃんが食べ物で遊ぶのをやめさせたい”というのもありました。でも、みんな子どもとしては正常な活動ですから安心してください。 “それでもやめさせたい”というのは“支配”になります。そして、支配するためにはムチとアメによる調教が必要になります。それは時として成功しますが、子どもの正常な発達をゆがめることになるので、その結果は非常に困った状態で思春期以降に現れます。●子どもの成長についての認識不足 子どもは大きな声を出したり、どろんこ遊びをしたり、走り回ったり、仲間と遊ぶことでこの時期に学ぶべき大切なことを学んでいるのです。子ども時代には、“遊び”という形でないと学ぶことが出来ない大切なことがいっぱいあるのです。子どもは本能的にそれを知っています。だから、自分の本能に反した要求は無視します。これは子どもが悪いのではなく、お母さんの認識不足が原因です。●お母さんのコミュニケーション能力、表現能力、仲間づくり能力の欠如 過度に人目を気にする子育て、孤独な子育て、子どもとのコミュニケーションが億劫、子どもが言うことを聞かないなどなどです。 いつも同じ事を言っているのに子どもが言うことを聞かない時はお母さんの伝え方が悪いのです。子どものせいではありません。 特に、“説明型”のお母さんの言葉は子どもは無視します。また、日頃のコミュニケーションが充分でなく信頼関係が築けていないと、お母さんの言葉は子どもに届きません。 他の子をぶってしまうような子どもも他の子との関わり方が分からないのです。そのような子の場合、どうも見ているとお母さんが“説明型”のケースが多いように思います。(かといって、どなったり、ぶったりすればいいと言うことではありません。)●お母さんが自分自身が受けた子ども時代の苦しみに縛られている 子どもを支配しないと気が済まないのはこのせいです。●お母さんの自分の個人的な価値観、美意識を子どもに押しつける。 例えば、食事を残す、食事中に落ち着かない、食べ物で遊ぶ、だらしがない、片づけないなどです。“だってそんなこと許したら困った人間になってしまうでしょ”と言いますが、そういうことは大人になってからでも直すことが出来ます。もっとも、大人になってまで食べ物で遊ぶ人はいませんけどね。 それと、そういう人に限って片づけは下手です。 成長してからでも、直すことが出来ることにこだわるのは無駄な苦しみを増やすばかりです。●子どもの状態をよく観察していないので自分の子どもの状態がよく理解できていない。 また、子どもの気持ちに共感していない。すると子どもは孤独になって、お母さんの気を引くために困ったことをし始めるのです。子どもは無視されるより、叱られている方が安心するからです。するとしつけが困難になります。そういう時は、子どもの心を満たしてあげるだけで問題行動は減るのですが、問題行動を叱っているだけだと、いつまで経っても問題行動は減りません。などなと、細かく書いてもきりがないのでこのくらいでやめておきますが、こうやってみてくると“しつけの問題”は実際には“子どもの問題”ではなく、“お母さんの問題”なのだということが見えてくるのです。子どもの行動は一種の“自然現象”なんです。ですから、無理にコントロールしようとするとおかしな事になります。そうではなく、その自然現象との付き合い方を学ぶことが大切なんです。そうすると、その“自然現象”はお母さんとの付き合いを通して“人間らしさ”を学んでいくのです。お母さんが、そのことに気付いて子どもの心とからだへの理解を深め、“自分の問題”に取り組み始めると子どもは落ち着いてきます。そして、そのお手伝いをするのが私の仕事です。昨日告知した「遊びのワーク」に参加してみてください。仲間を集めてワークを企画してくださればどこでも行きますよ。お問い合わせ下さい。
2008.08.26
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最初にちょっとワークのお知らせです。本文はこの下にあります。「7才までの子どもとの遊び方あれこれ」(ワークショップ+講義)子どもとの遊びには色々ありますが今回は、家の中での遊び、生活の中での遊び、自然の中での遊び、町の中での遊びなどをご紹介します。難しいことはありません。ちょっとした発想の転換だけで家の中も、町も、森も遊び場に変わってしまうのです。そんな発想の転換を皆さんにお伝えします。 具体的には歌や言葉で遊ぶ、イメージで遊ぶ、家の中を遊び場として遊ぶ、生活の中で遊びを工夫する、お散歩やお買い物を遊びに変える、何もない公園での遊び方等々です。これらの遊びは親と子のコミュニケーションを育ててくれるばかりでなく、子どもの想像力+創造力も育ててくれます。また、子どもの心を理解したり、子どもとの信頼関係づくりの手助けにもなるでしょう。 ただし、今回は「からだ遊び」や「造形遊び」、「わらべうた」などその場で直接子どもと遊ぶ遊びはやらないので、お子さんの同伴はできません。 一応保育を用意しましたが、可能ならご主人に任せてご参加下さい。ご主人にとっても貴重な時間になると思います。(寝たきりの赤ちゃんなら同伴可です。) ご家庭に帰ってから、じっくりとお子さんと遊んであげてください。<日 時> 9月21日(日曜日)10:00~11:50 <場 所> 茅ヶ崎市勤労市民会館4F 練習室<参加費> 1500円 保育が必要な人は別途300円(一人)必要になります。<備 考> 動きやすい服装でおいで下さい。スカートは不可です。参加希望者はメールか、0467-54-6356 宛てにFax.をお願いします。****************************私は、2000年1月から「ポラン通信」(最初は「ポランの広場」)という個人通信を隔月で発行してきました。でも、51号となるこの「8月号」で休刊にすることにしました。これまで書きためた文章を少しまとめる時間が必要だからです。それで、以下の文章がその通信に「しつけ」というテーマで書いてきた最後の文章です。この「しつけ」のシリーズは通信に書いたものと、ブログに書いたものをまとめて来年の春頃に小冊子という形に仕上げたいと思っています。いま、早急にお母さん達に届けたい内容だからです。「笑顔を育てる」 子育てで一番大切なことは子どもの笑顔を育てることです。子どもの笑顔が育っている時、お母さんにも家族にも笑顔があります。というか、本当はその逆で、お母さんや家族に笑顔があるから子どもの笑顔も育っていくのですが、いずれにしても子どもの笑顔は子育ての大切なバロメーターでもあるわけです。 確かに、子どもは泣いたり怒ったり悲しんだりしながら成長していくのですが、それでも家族の支えがあればすぐに笑顔に戻ることが出来るのです。 そして、すぐに笑顔に戻ることが出来る子は感情が豊かな子でもあります。私の見た範囲ですが、笑顔の少ない子はどうも感情が偏っていることが多いように感じるのです。 そういう子は感情が固まってしまっていて、笑うことだけでなく、素直に怒ることも、泣くことも出来ません。そして、普段は無気力なんですが、時として興奮して突然キレます。そしてこれは子どもに限りません。 笑顔のない子(人)は自分を守ることに精一杯なのです。そして、鎧のように感情を固めてその中に隠れているのです。だから笑顔が出てこないのです。そして、誰かがその鎧に触れた時、自分を守るためにキレルのです。大人であればその時に虐待が起きます。 笑顔は心が健康である証拠なんです。ですから、笑顔がある子は心の病気にかかりにくいのです。 世の中には様々な有名な子育て法、教育法がありますが、それがどんなに立派な効能書きを持っている方法でも、それを実施していく過程で子どもから笑顔が消えていくようならそれはお子さんには合っていないのだと思います。ですから、そのことに気づいた時点ですぐやめた方が身のためです。そうでないと、取り返しがつかないことになってしまいます。 また“しつけ”も、子どもの笑顔が消えるようならそのしつけの内容か、もしくはそのやりかたが間違っています。 例えば、他の子をぶたないようにしつけるのではありません。それでは子どもの笑顔は消えていきます。そして、いつまでたってもそのしつけは実を結ばないでしょう。子どもはただ否定されるだけだからです。 そうではなく、他の子と仲良く遊ぶことが出来るようにしつけるのです。そうすれば笑顔が増えます。そして、結果として他の子をぶつことはなくなります。子どもは自分が肯定されたり、楽しいことは受け入れますが、楽しくないことは受け入れないのです。 これは理屈ではなく、子どもの本能なんです。だから、この本能を無視したやり方は必ず失敗します。 もし、勉強をさせたいのなら勉強を強制したら逆効果です。そうではなく、勉強することの楽しさを教えるのです。そうすると笑顔が増えます。 子どもが騒いでうるさいのなら、“静かにしろ!”と怒鳴るのではなく、静かに遊べる遊びを教えてあげてください。それが楽しいものなら子どもは自然と静かになります。 子どもがお手伝いをしないのなら、お手伝いが楽しくなるようにお母さんと一緒にお手伝い遊びをしてください。子どもはお母さんと一緒なら楽しくなるのです。一人でも出来るようになるのはその楽しさを充分に味わってからです。 子どもの笑顔が育つように子育てをしているのなら特別な教育方法などに頼らなくても、子どもは素敵な大人に育つのです。そして、とくべつな「しつけ」などいらないのです。****************************「ポラン通信」をお読み下さっている皆様へ 以前からお知らせしてきた通り、今号が最終号になります。これから、ブログや通信などで今まで書きためてきたものを整理し、小冊子の形にしたり、可能なら書店から出版できるような形にしていきたいと思っています。 とりあえずは、今早急に必要と思われる「しつけ関連」をブログの記事とも合わせて手作り小冊子の形でまとめます。来年の春頃には形にしたいと思っています。(予約受け付けます。多分、500~700円になると思います。冊子が届いてからのお支払いですからご安心を。) 間違ったしつけは子どももお母さんもそして社会も不幸にしてしまいます。そして今、その“間違ったしつけ”が蔓延しています。 通信の中にも書いたことですが、子どもの笑顔を奪うようなしつけ、そして子育ては必ず失敗するのです。そして、その結果は子どもが思春期を迎える頃に非常に困難な形で現れてきます。その困難を乗り越えるためには子どももお母さんも地獄のような苦しみと立ち向かわなければならないのです。 お母さんの一生懸命の努力がかえって子どもを不幸にしているとしたら悲しいことです。 もし、子どもの笑顔が消えていることに気付いたら、一度立ち止まって、深呼吸して空を見上げ、子どもの顔をもう一度しっかりと見てください。そして、子どもの一生のことを考えてみてください。そうすると、正しい道が見えてくるはずです。長い間、有り難うございました。
2008.08.25
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以前、キーロさんに「お母さんはしつけをしないで」(長谷川博一 草思社)という本をご紹介いただいたので、早速買って読みました。長谷川さんは様々な事件の臨床の現場に立ち会ってきた体験から、お母さんが“子どもをしつけよう”と頑張ることがかえって子どもの成長をゆがめてしまっているという現実を書いています。だから、“しつけをしようなんて考えないで”と呼びかけているのです。私の体験からもこれは全く同感です。じゃあ、どうしてお母さんがしつけに一生懸命になると子どもの成長がゆがんでしまうのでしょうか。お分かりになりますか。それは“しつけ”というものは本来“共同体”に属するものであって、“個人”に属するものではなかったからです。もともと“しつけ”は子どもたちに家族共同体、地域共同体、文化的共同体、また職業共同体などといった様々な共同体の中でのルールやそのつながりの中での生き方を伝えるためのものだったのです。だから、ちゃんとしつけられない子は大人になってから困ったことになってしまったのです。昔は、何らかの共同体に属していなければ生きていくことが出来なかったからです。だからこそ“しつけ”が必要だったのです。でも、今の日本は何の共同体に属していなくても一人で生きていくことが出来る社会になりました。というより、日本の社会ではその共同体自体が消滅してしまったのです。今では家族でさえ共同体としてのつながりを失いつつあります。ですから、本当はその共同体の消滅と共に本来の意味での“しつけ”も消滅しているはずなんです。でも、実際には今でもお母さん達は“しつけ”に夢中になっています。でも、多くのお母さんが(他の大人も)何をしつけたらいいのかを知りません。共同体の消滅とともに“しつけの基準”も消えてしまったからです。それで多くのお母さんが自分の個人的な価値観と、他人の目だけを基準にしてしつけをしています。だから困ったことになってしまっているのです。昔は、“しつけ”を通して子どもは“共同体に属するもの”になりました。つまり、ちゃんとしつけを受けた子は親から自立することが出来たわけです。でも、今ではその“しつけ”によって子どもが“お母さんに属するもの”になってしまっているのです。ですから、お母さんが“しつけ”を頑張れば頑張るほど子どもはお母さんから自立が出来なくなってしまっているのです。だから、お母さんに“もっとちゃんとしつけをして”などと責め立ててはいけないのです。それで、長谷川さんが書いているように「お母さんはしつけをしないで」ということになるのです。ただし、ここに書いたことは私の分析であって、長谷川さんの本には書いてありません。長谷川さんはただ“しつけの害”の事例をいっぱい紹介して“だからしつけをしないで”と訴えているだけです。ですから、“どうしたらいいのか”ということまでは書いていません。でも、ただ、“しつけをしないで”と言われても、“じゃあ、どうしたらいいのか”という道を示さないことにはただ不安と混乱を招くばかりです。人は“何もしない”ということなど出来ない生き物だからです。いつでも何かをしたいのが人間なんです。そして、それを考えるのが私の仕事なわけです。今、新しい時代の新しい“しつけ”が求められています。それは、昔のように“共同体のルール”を伝えるものではありません。今では敬語など使えなくても、箸が使えなくても外国に出てしまえばそんなことどうでもいいのです。食事中に食べ物をボロボロこぼすみっともない食べ方だって、中国やスペインに行ってしまえばどうってことなくなってしまうのです。(日本人ほどテーブルや床が汚れることを気にしないということです。悪口ではありません。)それらのルールは特定の文化に属するものだからです。ただし、日本人として生きていくのなら最低限の日本的なルールは伝えておくのが親の役目だとは思います。ただ、必要以上にこだわる必要はないのではないかと言うことです。でも、どんな国、文化の社会に入っても、自分の気持ちや考えなどを人に伝え、また他の人の気持ちや考えを理解する能力は必要になります。それはいわゆる“コミュニケーション能力”と呼ばれるものですが、この能力は特定の文化に属するものではなく、もっと普遍的に“人間らしさ”に属するものだからです。実は、昔人々が共同体の中で生きていた時代にはこういう能力はあまり必要ではなかったのです。人々は共同体の中での役割が決まっていたので、その役割をちゃんとこなしていればみんなから受け入れられていたのです。そして、その役割を伝えるのが“しつけ”でもあったわけです。ですから、日本のように人々が狭い島国の中で、小さな共同体に縛られて生きてきた国では、この“新しいしつけ”、つまり“世界で通用する人間らしさの基本”は大人も含めて新しく学ばなければならないことなんです。そうしないと、子どもに伝えることなど出来ないからです。でも、不思議なことに幕末の頃の人たちは現代人よりももっとそういうことが出来たようなのです。私には昔の人より現代人の方がコミュニケーション能力が衰えているように感じるのです。それは現代人が“伝えるもの”を失ってしまったからなのではないでしょうか。人間が“伝えるもの”を失ってしまったら、コミュニケーションそのものの必要性が消えてしまうのです。
2008.08.24
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最初にちょっとワークのお知らせです。本文はこの下にあります。「7才までの子どもとの遊び方あれこれ」(ワークショップ+講義)子どもとの遊びには色々ありますが今回は、家の中での遊び、生活の中での遊び、自然の中での遊び、町の中での遊びなどをご紹介します。難しいことはありません。ちょっとした発想の転換だけで家の中も、町も、森も遊び場に変わってしまうのです。そんな発想の転換を皆さんにお伝えします。 具体的には歌や言葉で遊ぶ、イメージで遊ぶ、家の中を遊び場として遊ぶ、生活の中で遊びを工夫する、お散歩やお買い物を遊びに変える、何もない公園での遊び方等々です。これらの遊びは親と子のコミュニケーションを育ててくれるばかりでなく、子どもの想像力+創造力も育ててくれます。また、子どもの心を理解したり、子どもとの信頼関係づくりの手助けにもなるでしょう。 ただし、今回は「からだ遊び」や「造形遊び」、「わらべうた」などその場で直接子どもと遊ぶ遊びはやらないので、お子さんの同伴はできません。 一応保育を用意しましたが、可能ならご主人に任せてご参加下さい。ご主人にとっても貴重な時間になると思います。(寝たきりの赤ちゃんなら同伴可です。) ご家庭に帰ってから、じっくりとお子さんと遊んであげてください。<日 時> 9月21日(日曜日)10:00~11:50 <場 所> 茅ヶ崎市勤労市民会館4F 練習室<参加費> 1500円 保育が必要な人は別途300円(一人)必要になります。<備 考> 動きやすい服装でおいで下さい。スカートは不可です。参加希望者はメールか、0467-54-6356 宛てにFax.をお願いします。****************************<本文です>子どもの自信の育て方について色々と書いてきました。でも、ある時には考える力が必要だとか、遊びが必要だとか、色々と書いていますがでも混乱しないでくださいね。基本的に同じことを色々な側面から説明しているだけですから。ということで今日は“子どもの自信が育たない子育て”、つまり“無力感の育て方”について書いてみます。これは、“自信の育て方”よりもはるかに簡単です。●子どもの言うこと、やることに関心を示さない。 お母さんが携帯に夢中になっているともっと効果的です。●家の中に閉じこめたり、一人だけで遊ばせる。 おもちゃやテレビやゲームなどに子育てを任せてしまう。 ●子どもの感情や心や表情に共感せず、行動だけを監視する。●お母さんが笑わない。●子どもの話に耳を傾けない。●子どもの子どもらしい行動を否定し、バカにする。 例えばどろんこや水遊び、空想の話をする、走り回る、ごっこ遊びをするなど。●“ダメ ダメ”と子どもの行動を束縛するばかりで、どうしたらいいのかを手本になって教えてあげない。●人目を気にしながら子育てをする。 子どもはお母さんを世界の基準として価値観を身につけていくのですが、そのお母さんが他人の目ばかり気にしていると子どもはしっかりとした価値観を身につけることが出来なくなります。●言葉だけでしつけようとする。説明だけで子どもを納得させようとする。 子どもは言葉で説明されても理解できません。 理解できないのに“さっき言ったでしょ”と結果を要求していると、子どもの無力感は育っていきます。●頑張ったのに褒めない。 “ママ、どろ団子できたよ”と持ってきた時に、“まあ、また洋服を汚して、洗濯するの大変なんだからね”と言っていると、子どもの無力感が育っていきます。●親が模倣の対象、手本としてではなく、指示命令を出す指導者として子どもを支配していると子どもの無力感が育っていきます。●子どもに“あんたは嘘つきだ”、“意地悪だ”、“バカだ”、“人間として失格だ”などと言い立て、そのように思いこませていると無力感が育っていきます。●子どもの能力を超えたこと、理解できないことを子どもに要求し、出来ないと非難する。 子どもは論理的に考えることが出来ません、言われたことをズーッと覚えていることが出来ません、楽しくないことを覚えていることが出来ません、子どもは抽象的な指示命令は理解できません、子どもはすぐ忘れます、子どもは相手の立場に立って考えることが出来ません。 子どもとはそういう生き物なんです。それを非難してばかりいると子どもは自分を否定し始めます。●子どものあら探しをして難癖を付ける。いっぱいありすぎて書ききれないのですが、つまり簡単に言うと“子どもへの共感の気持ちを失った子育て、子どもの成長への意志を無視した子育てをしていると無力感が育ちますよ”ということです。もしあなたが、子どもの自信を育てたい、子どもの自己肯定感を育てたいと願っているなら、できるだけここに書いたようなことは減らしてください。ただし、ゼロは目指す必要はありません。ゼロを目指すためにはお母さんが自分自身を否定しなければならなくなってしまいます。それでは逆効果です。それは難しいことではありません。ここに書いたような“子どもの無力感を育てる子育て”をしている人は子育てを楽しんでいないのです。子どもと一緒にいる時間を、そして子育てを楽しんでいないから上に書いたような状態になってしまっているのです。上に書いたようなことはその結果に過ぎないのです。だから、逆にどのようにしたら子どもと一緒にいる時間を楽しむことが出来るか、子育てを楽しむことが出来るかということを考えればいいのです。子どものしつけ方や、子育ての方法など考えずに一緒に楽しく生活する方法だけを考えるのです。そうすれば上に書いたようなことは自然に減っていくのです。その自然に減っていく程度が丁度いいのです。そして、その作業は同時に子どもの笑顔によってお母さんの自信をも育ててくれると思います。そうすれば子どもは勝手に自信を育てながら育っていくのです。お母さんの自信は子どもの成績によってではなく、笑顔によって育っていくのです。
2008.08.23
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“自信”というテーマは奥が深いですね。考えていると、どんどん出てきます。それは“自信”が意志の育ちとも、感情や知性やからだの育ちや精神の育ちとも密接につながっているからなのでしょう。そして、大人になってからでもそれらのバランスが崩れてくると自信を失い、バランスが整えば自信が目覚めます。また、状況依存型の自信と、どんな時にも安定している自信もあります。この両者は仕組みは同じものではないでしょう。つまり、“自信”とは単独で存在しているものではなく、複合的な働きの結果生まれてくるものだということです。だからこそ、自信を失わせるのは簡単なのに、自信を取り戻すのは難しいのです。一カ所だけでもトラブルが起きるとそれは全体のバランスに影響します。そしてそれが自信の喪失につながることもあります。つまり、今までは全部100点を取ってきたのに、たった1回90点を取っただけで自信を失ってしまうこともあり得るということです。特に、それまで完璧にやって来た子ほど簡単に崩れます。そして、なかなか元に戻りません。点数だけが自信の根拠だったからです。そしてそれはいわゆる“心の傷”として残っていきます。でも逆に、今までは50点ぐらいしかとれなかった子がたった一回90点を取っただけで自信を付けてしまうこともあります。このような子は点数ではなく、努力が自信の根拠になっています。つまり、“やれば出来るんだ”という事に目覚めたのです。それが成功体験です。だから、他にももっと何かできるかも知れないと思い始めるかも知れません。そして、そのことに目覚めた子は未来に向けて行動を始めるでしょう。それに対して、自信の根拠を点数に依存している子は点数が取れなくなると過去にばかりこだわるようになります。今まで精一杯努力してきたのでそれ以上どのように努力していいのか分からないのです。それはつまり、単純に能力の優劣が自信を決めているわけではないと言うことです。自分の努力が報われた時“自信を得て”、努力が報われなかった時“自信を失う”ということなのです。そして、多くの体験を通して努力の仕方を学んだ子はもっと普遍的な自信を手に入れるでしょう。ただ頑張るだけの努力しか知らない子の自信は一時的ですが、努力の仕方を工夫できる子は状況に依存しない自信を持つことが出来るのです。ただし、ここで言う“努力”とは“自発的な意志”に基づくものです。親に脅迫されて観張ってもそれは努力ではありません。ムチを打たれてながら重い荷物を引いている牛はムチから逃れようとしているだけであって、目標に向かって努力しているのではありません。たとえそれが遊びであっても、自発的に努力をすれば結果として自分の成長という形で報われるという体験をした子は、必要な時がくればその能力を勉強にも振り向けることも出来るのです。でも、勉強ばかりしている子は100点をとり続けていても、それを“自分の成長”として実感することが出来ません。ですから、100点ばかり取っていてもそれは“成功体験”にはならないのです。(どんなに努力しても100点以上は取れませんからね。ある意味でむなしいですよね。)日本の学校教育での勉強の世界はどんなに努力しても上限が決まっている世界なのです。また、画一的に評価されてしまうので工夫が評価されることもありません。でも、遊びの世界には上限がありません。また、工夫することで遊びがどんどん豊かになっていきます。だから努力することを楽しむことが出来るのです。そして、自分の成長を素直に実感することが出来ます。さらに遊びでは努力と結果の因果関係を自分の目とからだでリアルに体験することが出来ます。誰かのせいにも出来ないし、他人の評価も必要ないのです。この体験は努力する能力、工夫する能力、そして自信の育ちに大きな働きをするのです。実は、遊びというものは子どもたちが人生のシミュレーションを体験する場なのです。だからごっこ遊びなども大好きなんです。また、大人の世界のことがすぐに遊びの中に取り入れられるのです。つまり、子どもは遊びを通して“どのように生きたらいいのか”ということを試行錯誤しながら体験的に学んでいるのです。その、遊びの時間を減らしてまで勉強をさせるから自信がない子どもに育ってしまうのです。
2008.08.22
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人間には物事を論理的に考える“思考力”と呼ばれるものがあります。そして、今の日本の子どもたちはその思考力が弱いともいわれます。実際、国際的な試験でも暗記問題や選択問題は得意でも“○○についてどう思いますか、自由に自分の考えを述べてください”と言うような問題には手が出ない子が多いのです。そしてそれはお母さん達でも同じです。ワークなどで“○○についてどう思いますか”と聞いても、ただの知識や常識的な答えばかりが出てきて、自分の頭で考えた“考え”が出てくることはあまり多くありません。そして、“何でもいいんです。自分で考えていることを言ってみてください”というと“分かりません”と答えます。いつでも何か正解があるように思いこんでいるのです。そして、自分で考えたことなど価値がないと思いこんでいます。ですから、自分の考えを言う時には非常に遠慮がちに恐縮しながら言います。今、日本では自殺も鬱病もどんどん増えています。私の周りでもこのような話題を時々聞きます。ご主人が鬱病で苦しんでいる人も数人います。先日も、友人が鬱で悩んでいることを知りました。日本人全体が自信をなくしつつあるのでしょう。私はこの問題と、日本人の思考力の低下とは密接につながっていると思っています。それにしても最近の政治を見ていると、政治家達の思考力の低下もひどいもので、このままでは日本はどうなってしまうのか本当に心配してしまいます。心配性の人、自信がない人、そして鬱の人たちの思考は世界が閉じてしまっています。自分の価値観、感性、感覚にこだわるあまり、事実をありのままに受け入れ、こだわりなく考えることが出来ないのです。つまり、思考が理性ではなく、感覚や感情に支配されてしまっているのです。だから、心配事があるとそのことばかり考えるようになり、抜け出すことが出来なくなってしまうのです。論理的な思考は科学と同じで現実を相手にします。だから、倫理的な思考が出来ない人は科学を理解することが出来ません。今、子どもたちの科学離れが進んでいますが、それは当然のことです。論理的な思考が出来ない人には科学の面白さは分からないのです。それで方々で子どもたちに科学の面白さを知ってもらおうと様々な実験体験のワークショップなどが開かれています。でも、申し訳ないのですが、この方法で子どもたちを科学好きにすることは出来ません。論理的な思考力が乏しい子どもたちにとっては科学の実験も、手品も、ディズニーランドのイベントも同じようにしか楽しむことが出来ないからです。それは、“面白かった”というだけの体験です。子どもたちに科学の面白さを伝えようとするのなら“考えることの面白さ”を伝える以外にないのです。そして、そのためには必ずしも派手な実験など必要ありません。“思考力”とは、現実の世界の中に隠された因果関係を読み解く力なのですからそれは遊びや造形といった活動でも、また家事や炊事の場でも育てることができるのです。(科学寅さんのやっている「仮説実験授業」などは考える楽しさを大切にしています。)今、私たちは洗濯機に汚れ物を放り込むだけで洗濯機に洗濯をしてもらっています。ですから、中で何が起きているのか分かりません。でも、これが洗濯板と手で洗濯をする場合には“何が起きているのか”知っていないことには洗濯をすることが出来ません。汚れの質や、洋服の素材に合わせて洗い方や洗剤を替える必要もあるでしょう。手や指の使い方にまで違いが出るかも知れません。“思考力”はこういうことを知っていく過程で目覚めるのです。そういう体験をしてから洗濯機を使うと、色々な疑問が湧いてきます。自分が手でやっていたこと、考えてやっていたことを洗濯機はいったいどのようにやっているのだろうかという疑問です。これが科学的な好奇心です。そして、このような体験を通して現実世界の仕組みに気付いていくと、その現実世界との関わり方も上手になってきます。現実世界を操ることが出来るようになるからです。子どもはこのようにして思考力を育て、そして人類は科学を進歩させてきました。でも、現代人は子どもも大人も現実世界と関わる体験をすることが難しくなって来てしまいました。昔は、子どもはお手伝いや遊びを通して、大人は家事や炊事、そして毎日の仕事を通して現実世界とつながっていたのですが、今では大人も子どもも人間が作り上げた虚構の世界の中だけで生活しています。ご飯を炊く時に薪を使って焚く場合には、火やお米といったものとの対話が必要になります。その対話の経過が思考力を育てるのです。でも、お米と水を炊飯器に入れてスイッチを押すだけではそこに思考が入り込む余地がありません。ゲームの世界も同じです。ゲームの世界の中の論理は現実世界の論理とは無関係です。ですから、ゲームを通してゲームの論理になれていても、それは思考力とは何の関係もありません。ゲームの中だけで通じる考え方は、現実を相手にしなければならない“思考力”とは別物なんです。でも、今子どもたちはそのゲームの中で学んだ考え方で現実世界も生きようとしています。現実世界もゲームのように生きることが出来ると勘違いしてしまっているのです。“死んだら生き返る”とか、“リセットする”という考え方です。イジメも一種のゲームのように進められます。そのような子は造形の場でも、体験もしたことがないのに簡単に出来ると思いこんでいます。そして、実際には思い通りに出来ないと知るとすぐに臆病になります。造形教室に体験でやってきた時には“あれも作りたい”、“これも作りたい”と嬉しそうに言うのですが、実際にノコギリも切れない、ハサミでも思い通りに切れない、説明を聞いても本を読んでも理解できないという現実に突き当たると、急激に作る事への興味を失っていく子が多いのです。それと、作ること自体を楽しむ子が非常に減ってきました。結果としての“物”ばかり求めるのです。ですから、“簡単に”、“手早く”ばかりを要求するのです。下手をすると“先生、作って!”とまで言う子もいます。“物”は欲しいのですが、作ることは楽しくないのです。先日の「仕掛け貯金箱」を作るワークでも、途中で“退屈だ”と何回も言っている子もいました。でも、そういう子に限って作る事にちゃんと取り組まないのです。子どもたちの学力低下、思考力低下、そして自信のなさ、自殺率や鬱の増加の根本的なところにはこのような子どもたちの姿があるのです。ですから、単純に勉強時間を増やしても無駄なんです。ですから、ここでいつもの持論になってしまうのですが、子どもも大人ももっと“手”や“からだ”を使う生活を大切にして欲しいのです。それは、遊びでも家事でも、そして教育の現場でも同じです。人間は手やからだを通して現実世界とつながっているのです。知識は現実世界のことを教えてくれますが、でも、知識で現実世界とつながることはできないのです。そして、つながることが出来ない人は心とからだが不安定になります。心とからだは知識ではなく現実世界に属するものだからです。手抜きの生活をしていると、心とからだの中から“気”が抜けてしまいます。“元気”という“気”です。
2008.08.21
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今日は「さくもうさん」がたとえ怒られながらでも、結果的に成功すれば、その成功体験が自信へと繋がるものと思っていました。大いなる勘違いに愕然としております…と書いてくださいました。さくもうさんのような勘違いをしている人は実にいっぱいいます。本人にやる気がなくても結果として成功してしまえば達成感も、自信も得られるはずだ。だから、本人にはまだ勉強することの大切さの意味が分かっていないようだから、手遅れにならないように叱ってでも、力ずくでも勉強させるのです。結果として成功すればきっと子どもは私に感謝するに違いないのです。というような思いこみです。でも、本当にそうなのでしょうか。どっかで自分の不安をごまかしていないでしょうか。もし、自分がその子どもの立場だったら素直に感謝しますか。ずーっと自分にとっての大切な時間を奪われて、やりたくないことを強制されるのですよ。それは一生取り戻すことが出来ない時間です。たとえ、成功したとしても親が敷いたレールを走らされて、自分の価値観と合わないことで成功して嬉しいですか。成功すれば価値観や考え方が変わると思いますか。でも、想い出してみてください。ほとんどの人にとって子どもの頃の価値観は大人になった今でも大切な価値観として残っているのではありませんか。実は、子ども時代は人間としての価値観の基礎を形成する時期なので、子どもの頃に目覚めた価値観は大人になってもそれほど大きく変わらないのです。だから、強制されて勉強して成功してもそれだけで価値観が大きく変わることなどありえないのです。(ただし、人は感動によってその価値観を変えることはあります。)万が一変わったとしても、そこから先の人生を、子どもが自分の意志と判断で生きていくことが出来ると思いますか。それまで自分の意志と判断を否定され続け、親のいいなりに生きてきた子にそれが可能だと思いますか。冷静に考えてみてください。たとえ成功したとしても、その成功と引き替えに子どもは自分の人生を失うのです。親は“自分の人生より成功の方が大切だ”と思うのかも知れませんが、果たして子どもも同じように考えるでしょうか。親の力による成功も、親から見たら“子どもの成功体験”かも知れませんが、子どもにしてみれば単に“親の成功体験”であり、子どもにとっては“自分の人生を失ってしまった失敗体験”なのではないでしょうか。子どもだけでなく人は、自分が“やる”と決めたことをちゃんと実行できた時に達成感を感じるのです。毎朝お母さんに起こされても達成感はありませんが、自分で目覚ましをセットして、自分の意志で起きることが出来た時に達成感を感じるのです。毎日、お母さんに怒鳴られながら勉強して100点を取っても達成感など感じないのです。そんな時に感じるのは、“これでお母さんに叱られない、お母さんに褒めてもらえる”という安堵感だけです。そして、失敗することが出来ない不安ばかりが強くなり、「点数=自分自身の評価」という強迫観念にとりつかれます。ですから、100点を取り続けても決して自信など生まれないのです。そして、点数が下がり始めた時、それだけで人生の絶望を味わうのです。だって、「点数=自分自身の評価」という価値観以外の、他の価値観を持っていないのですから。人は、自分の自由な意志で実行出来た時のご褒美として“達成感”を感じるのです。また、自分の意志で頑張るから一生懸命に考え、感じ、工夫し、観張るのです。そして、その積み重ねで自信も育つのです。実は、人間の前頭葉は基本的に能動的な意志に感応して動くように出来ているのです。それは、能動的に動くことで人らしい脳が進化してきたと言うことなのでしょう。つまり、能動性こそが人間らしさの源なんです。他の動物たちは古い脳だけを使い反射と本能だけで生きています。動物に芸を教えることが出来るのはその反射を利用しています。自由意志で芸をしているわけではないのです。ですから、人間は能動的な意志が働かない限り論理的に考えることは出来ないのです。ただ動物と同じように反射と本能で動くばかりです。自分の意志が働かない状態で勉強をさせても、サーカスの動物と同じようにただ反射でこなす術を身につけるだけです。また、能動的な意志で行動する体験が少ないと、前頭葉の成長も遅れるかも知れません。実際、最近の子どもたちの脳の成長が遅れているという研究もあります。以前、読んだ本には昔の子より2年ほど成長が遅くなっていると書いてありました。今の子どもたちの精神的な幼さも、それと関係しているかも知れません。それは、「ダージリンさん」が高2でボランティアを始め、ようやく自分に自信を持つにはどうすれば良いか、少しずつですがわかり始めました。自分でとことん考える→そしてそれを「実行する」ことでした。と書いてくださった事ともつながってきます。結論として言えば、子どもの自発的で自由な意志を大切にしてそのサポートをすることで子どもは達成感も、自信も身につけていくと言うことです。そして、それを実現するために一番効果的な方法が“遊び”なのです。だから子どもたちは遊ぶことが大好きなんです。
2008.08.20
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今の子どもたちは非常に失敗を恐れます。でも、子ども時代は失敗を繰り返しながら色々なことを学ぶ時期ですから、むしろいっぱい失敗するということは必要なことです。そして、そのために“遊び”というものがあるわけです。子どもたちは遊びの場で失敗の体験を乗り越えながら成長していくのです。そして、ここに重要な原則があります。それは、“遊びの場では失敗の体験は発見の喜びとセットになっている”ということなんです。けん玉でもお手玉でも何かが出来るようになるということはこの“失敗”と“発見”の繰り返しなんです。子どもたちは上手になったから嬉しいのではなく、その過程で色々な発見をしたから嬉しいのです。その点を多くの人が誤解しています。その体験があるから、新しいことにも前向きに取り組もうとするのです。たとえそれが困難なことであっても、今度はどんな発見が出来るのかワクワクするのです。それに対して、失敗したら叱られるような場、失敗しないようにマニュアルを与えてくれる場、懇切丁寧に指導してくれるような場では子どもたちは失敗しないように必至になるばかりでうまく出来ても発見の喜びを味わうことはできません。叱られながらけん玉やお手玉が上手になっても嬉しくないのです。これは“遊び”ではなく、“お仕事”です。これでは新しいことに挑戦しようなどという気持ちにはなりません。サーカスの動物たちが自分の意志で新しい芸に挑戦しようなどとしないのと同じです。同じ“上手”になってもこの違いは非常に大きいのです。失敗を繰り返し、色々と発見しながら自分で上手になった子は自由です。だから、色々と変幻自在に動くことが出来ます。そしてそれが自信にもなっています。でも、叱られながら上手になった子、マニュアルで上手になった子にはその自由がないのです。上手なんですけど自由には動けないのです。その不自由感が自己肯定感を低くしてしまうのです。そのため、そのように育てられた子どもは、“よく知っていること”、“ちゃんと出来ること”にしか手を出そうとしません。しかも、最低限のことしかやりません。自分の工夫やアイデアを入れると失敗してしまうかも知れないからです。失敗すれば工夫を評価されるのではなく、ただ怒られるだけです。それに対して、自信のある子は失敗を恐れません。失敗しないほど技術や知識があるから自信があるのではなく、失敗からでも学ぶことが出来ることを知っているから失敗を恐れないのです。失敗は成功への道しるべなんです。失敗を恐れない子に怖いものなどありません。だから自由に動くことが出来ます。それが“自信”なんです。自信があるから失敗を恐れないのではなく、失敗を恐れない気持ちが自信を生み出しているのです。いや、もっと正確に言うとそれは“失敗を楽しむ気持ち”かも知れません。人はどんなに能力があっても、失敗を恐れている限り自由はなく、自信を失い、自己肯定観も低くなるのです。ですから、自信のある子にはその自信の根拠など必要ありません。ただ、失敗しても楽しむ心があるだけです。一方、今の子どもたちやお母さん達の自信には根拠が必要なようです。失敗しないだけの知識や技術がないと自信を持てないのです。でも、その自信は不安と表裏一体です。そして、新しいことに挑戦する時には役に立ちません。今、子どもたちは紙飛行機の折り方もよく知りません。飛ばし方もよく知りません。それで、折り方を教えてあげるのですが、でも、あまり遊びません。数回投げてうまく飛ばないとやめてしまうのです。紙飛行機は折っただけですぐにちゃんと飛ぶものではないのです。左右のバランスを整えて、飛び方を予想しながら羽の形を調整をするのです。そうすることで、上下に一回転したり、左右に回ったり、まっすぐに飛んだりというような工夫が出来るのです。自分のイメージを飛行機に託すことが出来るのです。だから紙飛行機は楽しいのです。でも、そのためには色々と試して実験してみる必要があります。これは自分でやってみなければなりません。体験を通して学ぶことだからです。でも、今多くの子どもが何の調整もしないまま投げて、うまく飛ばないとそれだけで“失敗だ”と言ってやめてしまうのです。試行錯誤して調整するということをしないのです。遊びでは“失敗した”ということはありません。“こう折ったら、こう飛んだ”という因果関係の発見があっただけです。それが遊びです。その自由度が遊びの楽しさでもあるのです。そして、その過程で色々なことを学び、結果として上達するのです。上達はいっぱい遊んだ結果に過ぎないのです。最初に正解を決めてしまうから“失敗”が生まれるのです。だから楽しくもないし何も発見できないのです。子育てでも同じです。勝手に正解を決めてしまうから楽しくもならないし、“失敗”も生まれるのです。だから自信がなくなるのです。色々と試して子育てを楽しんでみてください。ただ楽しめばいいのです。そうすれば結果として子育て上手になるのです。そして、自信も湧いてくるでしょう。子育てを遊べばいいのです。
2008.08.19
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今日は、横浜で「仕掛け貯金箱」を作ってきました。対象は小学校3年生以上です。それで最初にカッターを使って穴をあける作業をしたのですが、ここでも小3くらいの男の子が最初、“ぼく、カッター使ったことがないからやだ”と嫌がっていました。でも、カッターの使い方を教え、励ましたら何とか無事に穴をあけることが出来ました。近くにお母さんもいたので安心もあったのかも知れません。 今、この子のように何かを勧めると“やったことがないから嫌だ!”と拒否する子がいっぱいいます。でも、小学生のうちから“やったことがないから嫌だ!”などと言っていたらこの先どうなるのでしょうか。これから先出会うほとんど全てことは“やったことがないこと”ばかりのはずです。成長すると言うことはそういうことの繰り返しです。同じ事ばかりやっていたら成長できないのです。昨日は“年齢相応に成長すること”の大切さを書きましたが、年齢相応の成長をするためには年齢相応の新しい体験が必要なのです。年齢相応の新しい体験が子どもの年齢相応の成長を促すからです。そんな時、“やったことがないから嫌だ”と新しい体験を拒否してしまうということは自分の成長を拒否してしまっているのと同じなのです。実際、今子どもたちはおままごとなどの遊びでも、お母さんやお父さんといった大人の役は人気がなく、人気があるのはペットや子どもの役ばかりだそうです。成長しなくても済むからでしょうか。友人の幼稚園の先生は、子どもたちが首にひもを付けてペットの役をやっている姿を見てショックだったと言っていました。一昔前だったら、それはイジメなんでしょうが、今ではそのペット役が人気なんです。社会に出なければならない時に、“一人で生きて行くなんて事やったことがないから嫌だ!”と社会に出ることを拒否してしまったら自立して生きていくことが出来ません。でも、実際には今そのような“パラサイト”と呼ばれる若者達がどんどん増加しています。子どもたちが成長することを拒否し始めているのです。そして、大学を卒業したら“人生はもう終わりだ”などと考えている若者もいっぱいいるようです。だから、学生のうちに遊びまくるのです。勉強に追い立てられてきた子どもたちにとっては、大学より先の人生はどのように生きていいのかも分からないし、目標も喜びもない灰色の道に過ぎないのです。そして、この“子どもの現実”は大人の目の届かないところで進行しています。だから、何か事件が起きた時大人は理解に苦しみ驚くのです。そのような子どもたちの姿を見たいのなら、今までやったことのないような何か新しいことに挑戦させてみてください。特に“手を使う活動”、“時間のかかること”、“頭を使うようなこと”、“仲間と協力してやる活動”など有効です。みんな、今の子どもたちにとってはなじみのない活動ばかりです。また、自由に何かを表現をさせて見せてください。きっと、皆さんの知らない子どもたちの姿を見ることが出来ると思います。(知っていても、“成績に比べたら大したことではない”と思いこんでいる人の方が多いかも知れませんけど・・・)このように、新しいことに挑戦しない子どもたちの特徴は新しいこと、知らないことにワクワクしないということです。ワクワクしないから挑戦しないのです。どうしてワクワクしないのかというと、“発見”がないからです。そのような子どもたちはマニュアル通りに動こうとするので“発見”という現象が起きないのです。自分の頭と心とからだを使って一生懸命に考えないことには決して発見は生まれないのです。そして、今の子どもたちはそれが出来ないのです。<続きます>
2008.08.18
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14日(木)から友人の家族達とキャンプに行ってきました。肝試しをしたり、釣りをしたり、鱒の手づかみをしたり、歌を歌ったり、川を早く流れる競争をしたりして思いっきり遊んできました。とった魚は竹で串を作って焼いたり、ソテーにしたり、薫製にしたりして美味しく食べました。その串は子どもたちが自分たちでナイフで削って作ったのですが、小2の男の子が“僕はナイフを使ったことがないから自信がない、だからやらない”と言うのです。そして、“6年生ぐらいになったら自信が出てくるかも知れない”とも言いました。それで私が、“自信は待っていても出てこないんだよ 自信は実際にやって身につけるんだよ”と言ってあるお父さんに指導をお願いしました。そうしたら、ナイフが使えるようになって素敵な串が出来て、他の子は使い終わったら捨てたのですが、その子だけ大切に持って帰りました。3才までの子は無鉄砲で積極的です。初めての体験でも、“自信がないから”などと尻込みすることはありません。その無鉄砲さがあるから赤ちゃんは親が教えないことでも積極的に学ぶことが出来るわけです。ですから、からだで学ぶことはこの時期に教えてしまうと簡単に学ぶことが出来ます。うちの子でも3才の頃にはトンカチもノコギリも切り出しナイフも普通に使うことが出来ました。ただし、教えるといっても基本的には“やっているところを見せ、自由に真似をさせる”というやり方です。言葉で教えようとしても無理です。4才ぐらいになると仲間の中で学ぶようになります。お母さんがやらせようとしても怖がったり、嫌がったりするようなことでも、仲間と一緒なら積極的にやったりするのです。コマ回しやケン玉や竹馬などはそのようにして学びます。子どもは仲間と同じ能力を身につけることで自信を付けていきます。また、高いところから飛び降りたり、川を飛び越したり、木登りしたりという怖い遊びも大人に見てもらったり、仲間と一緒なら積極的に挑戦して乗り越えていきます。そして、自信を付けていきます。子どもの時の自信は、頑張って努力した結果を仲間や大人に認められることで育っていきます。ですから、そのようなものに挑戦する機会がない子、挑戦しても無視されたり、否定されたりしている子は自信が育ちません。先述した子の場合は、そういう体験をする機会がなかったわけです。だからやりたいんだけど手が出なかったわけです。これが、日頃から否定されている子、無視されている子の場合だったら励ましてもやらなかったと思います。いつも否定されている子、無視されている子の場合は“ガンバレ”という励まし自体を嫌うのです。これはお母さん達でも同じかも知れません。“ガンバレ”と言われて素直に受け取ることが出来る人はただ自信がないだけかも知れませんが、“ガンバレ”という言葉に強制と脅迫を感じる人は子どもの頃から否定されたり、無視されてきたのかも知れません。子どもたちはこのようにして遊びを通して年齢相応の能力を身につけていきます。実は、子ども達の自信は、“特別なこと”が出来るようになることではなく年齢相応に“みんなと同じこと”ができるようになることで育っていくのです。ここのところを多くの大人が分かっていません。大人にとっては他の人が出来ないような特別なことが出来ることが自信につながります。それで子どもにも“特別なこと”をやらせます。そして、人並みはずれた能力が身に付くと喜びます。この時、大人はこれが子どもの自信育てにもつながると思いこんでいるのでしょうが、それは勘違いです。子どもはどんな特別な能力を持っていても、年齢相応の能力が育っていないと自信を持つことが出来ないのです。そういう子が持つのは“自信”ではなく“優越感”です。“自信”と“優越感”は違うのですが、そこを勘違いしている人がいっぱいいます。ところが、最近の子どもたちはその“年齢相応”の能力を身につけることができないまま役に立たない知識だけを覚えて成長していきます。造形教室のような活動をしているとその問題点がよく見えるのです。うちには様々な造形関係の本があります。うちでは自分で作るものを自分で決めるシステムですから、子どもたちはそのような本を見て自分が作りたいものを決めています。そして、面白いことに子どもたちはちゃんと自分の年齢相応の課題に興味を持つのです。幼稚園の子ならガラクタで作るような工作を喜びますが、小学校高学年にもなると見栄えもかっこいいものを作りたくなるのです。子どもの意識は(自分の実力とは無関係に)成長に合わせて自動的に変化していくのです。でも、ここで問題が起きます。例えば工作関係の本に“5年生用”と書いてあったとしても、それは幼稚園用、1年生用、2年生用と積み上げてきた子どもを前提にした“5年生用”なんです。つまり、“5年生用”というのは、3年生や4年生の課題がちゃんと出来る子を対象としていると言うことなんです。でも、今“5年生の課題”を一人で本を見ながら作ることが出来る5年生は滅多にいません。ノコギリも使えない、釘もちゃんと打つことが出来ない子にちゃんとした椅子を作ることは無理なんです。(わかりやすいので椅子を例に挙げていますが他のテーマでも同じです。)それで今学校の工作では組み立てるだけのキットを使っています。これなら技術のあるなしにかかわらず、年齢相応のテーマに挑戦させることが出来るからです。子どもには“ただ切るだけ”、“ただ打つだけ”が楽しい時期があります。その時期にいっぱい切ったり打ったりしているうちに技術が身に付き、次の段階に進むのですが、5年生にもなるとただ切るだけ、ただ打つだけではもの足らなくなってしまうのです。それでちゃんと年齢相応の課題に挑戦したくなるのです。でも、小さい時からうちの教室に来ている子はそれでOKなのですが、高学年になって入ってきた子はそこで挫折を味わうことになります。そして、年齢相応の技術が身に付いていないことに気付くのです。それは自分がやりたいことを自分にはやる能力がないというということを意味しています。それでもただ自信がないだけの子は励ましてあげればそこからまた学び直し、自信を付けていくことが出来ます。顔つきまで変わっていきます。でも、否定されてきた子は逃げようとするばかりです。自分と向き合おうとしないのです。ですからいつまで経っても成長しません。子どもたちはその積み重ねで大人になっていきます。大人の年齢になれば自然と大人の能力が身に付くわけではないのです。そして、大人になった時に大人としての能力が身に付いていない子は不安になります。大人として生きていく自信もありません。それを“大人のくせに”、“お母さんのくせに”と否定されてしまうと、ただ自信がないだけの状態から自己否定の状態へと移行していきます。すると、自己防御の意識が強くなってしまい、成長が難しくなってしまいます。でも、今世の中ではみんなそれをやってしまっています。
2008.08.17
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最初にいくつかワークのお知らせです。お知らせが多いのですが、本文もちゃんとありますので最後までお読み下さい。それと、今日はこれから二泊三日で道志村にキャンプに行くので16日(土)まで更新をお休みさせていただきます。皆さんも楽しい夏休みをお過ごし下さい。★「自分のからだと向き合う、感情と向き合う」9月11日(木) 10時10分~11時50分神奈川県民サポートセンター(JR横浜駅の近くです)お部屋はミーティングR709参加費は1500円保育もありますが、保育が必要な人は別途保育料が必要になります。自分のからだと向き合ってからだの声を聞いたり、簡単なセルフケアなどをお伝えします。また、からだを通して聞こえてくる自分の感情などにも耳を澄ましてみましょう。あまり広くない部屋なので、大きな動きが必要なものはやりません。でも、じっくりお話が出来ると思います。持ち物:バスタオル、ヨガマットのような、下に敷くもの(床に座ったり、横になったりします)服装:動きやすい服装(スカートやからだを締め付けるような服装は不可です)問い合わせ、お申し込みは松本和夏さんにお願いします。******************************★都筑区で以前やった「表現ワーク」の二回目です。日時:9月29日(月曜日)10:00~12:00(15分前にお越しください。場所:「架け橋都筑」(電話045‐943‐4058)の一階、多目的ホール 。(車は都筑区役所におけます。)参加費:1600円今回は、イメージを使って動いたり、何かになってみたり、声を出したり、また言葉を手がかりに自分の感情に触れていくようなことをやります。」参加希望の方は、9月20日頃までに、星野さんまで連絡をお願いします。*********************************★以下は小学生対象の造形ワークです。横浜の都筑区で「仕掛け貯金箱」を作るワークをします。対象は小学校3年生以上です。内容は以下の通りです。★日時→8/18(月)9:30~12:00(9:15に来て下さい)★場所→藤が丘地区センター・中会議室(青葉区藤が丘1-14-95/045-972-7021)(会場駐車場なし。近くのジョナサンにコインパーキング有)★内容→しかけちょきん箱を作ります。(お金を入れると箱の中にしかけた水車のようなものが回って、その回転で動物が箱からジャンプして出てくるというようなしかけです)★参加費→1700円(材料費込み)★申し込み→小学3年生以上の方★申し込み方法→8/12(火)までに(1)「工作教室申し込み」(2)名前(3)学年(4)電話番号 を橋本さん(045-479-2031)までFAXして下さい。**********************★それと、「ペガススの家でのお泊まり会」への参加申し込みを頂いた方にはメールをお送りしました。申し込みをしたのに、メールが届いていないという人はご連絡下さい。**************************************ということでようやく本文です。「自己否定の構造」自己肯定感が低い人は、単に自信がないということではなく自分で自分を否定している人です。ですから、東大を卒業した人にも、一流会社で働いている人にも自己肯定感が低い人はいます。私のワークに参加してくださっている人はなぜか子どもの頃に勉強が出来た人が多いのですが、そのような人の中にも自己肯定感が低い人はいっぱいいます。周りから見たら色々と出来て素敵なのに、なぜか本人は満たされないのです。でも、ここでちょっと考えてみてください。自分で自分を否定するってどういうことなんでしょうか。普通によく使われている表現ですが、よく考えてみると不思議ではありませんか。私が二人もいると言うことなのでしょうか。実はその通りなんです。実は人には誰でも“私”が二人いるのです。それは“頭の中の私”と“からだの中の私”です。さらに、思春期になるともう一人の“私”が現れます。(もしかしたら“魂の中の私”もいるかも知れませんがそれはここでは扱いません。)“からだの中の私”は、感覚や感情や本能や無意識や記憶とつながった“ありのままの私”です。そして、その“ありのままの私”は常に現実を生きています。というか、“ありのままの私”には現実しか存在していないのです。そしてこの“からだの中の私”は他の人や他の生き物や自然や地球とつながっています。お腹が空いたらイライラしたり、天気がよいと気分も良くなったり、月の動きに合わせて感情が動いたり、“好き”と言われて嬉しくなるのはこの“からだの中の私”です。そして、人間以外の動物もこの“からだの中の私”は持っています。もちろん、幼い子どもたちも持っています。それに対して、“頭の中の私”は意識によって作られた“非現実的な私”です。“非現実的な私”だからこそ、現実に縛られないで未来のことを考えたり、様々な空想をしたり、勇気や愛といった抽象的なことを考えることが出来るわけです。その“頭の中の私”は私が直接“私”と感じている、自意識とつながっている“私”です。ですから、無意識状態の時にはこの“頭の中の私”はお休みしている状態です。この“頭の中の私”はまた、“夢の中の私”とも似ています。そして、“夢の中の私”は空を飛ぶことだって出来ます。でも、夢の中にはオオカミも山も川も出てきます。つまり“私”だけでは夢は生まれないのです。そして、その夢の中に登場してくる“私”以外の存在は“からだの中の私”が創り出しています。つまり、私を追いかけるオオカミは“からだの中の私”の現れなんです。そして、そのオオカミも含めて“トータルとしての私”が存在しているわけです。つまり、夢の中でオオカミに追いかけら逃げているのは“頭の中の私”なのですが、オオカミも含めてその夢まるごとが“トータルとしての私”だということです。つまり、夢の中では背景やストーリーや“私”以外の登場人物は“からだの中の私”が創り出し、“頭の中の私”はそれを主人公として体験していくということです。“頭の中の私”と“からだの中の私”が出会う場が夢の中なのです。ですから、“からだの中の私”にトラブルがあると怖い夢を見ることになります。そして逃げることになります。それは、“頭の中の私”が“からだの中の私”を恐れ、拒否していることを意味しています。その結果、“トータルとしての私”が分裂してしまっているのです。ちなみに思春期になると第三の“私”が目覚めます。それが“自我”と呼ばれるもので、その自我が“頭の中の私”と“からだの中の私”を統一してくれます。ただし、この三番目の“私”の状態は人それぞれです。“頭の中の私”と“からだの中の私”をしっかりと統一してくれるレベルのものもあれば、“頭の中の私”か、“からだの中の私”に振り回されているばかりの“私”もいます。ちなみに子どもの時の記憶は“からだの中の私”の中に生きています。忘れてしまっていても、ちゃんとからだの中で生きているのです。<続きます>
2008.08.14
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自己肯定感の低い人は否定され続けてきた人です。でも、否定されている人は無意識的に自分を守ろうとします。ですから必死になって自分を納得させるような理屈を考えるのです。虐待されている子も、決して“お母さんが自分を憎んでいるから”などと思わないのです。お母さんの行為を、“僕が悪いから”、“僕のために”と解釈しようとするのです。そのようにして必死に自分への希望をつなぐのです。それが成長への意志の働きなんです。そして、いつでもお母さんの評価に合わせようと努力します。お母さんに認められるように努力しようとします。子どもにとってはお母さんは生存の命綱です。だから手放すことが出来ないのです。その命綱を平気で手放すことが出来るのは、その命綱によってしっかりと支えられている子です。そういう子は自分で命綱にしがみつく必要がないのです。だから、手放すことが出来るのです。そんなに一生懸命お母さんの言うとおりに頑張っても、それでもお母さんはいつも“出来たところ”ではなく、“出来なかったところ”を見つけだして、子どもを非難します。そのようにして、子どもは自分を否定するお母さんのまなざしをそのまま自分を見つめる目として取り入れて行きます。そして、限りなく自分を否定し始めます。この時、その人は母親を自らの内側に取り入れて、その内側の母親によって裏付けられた自分の存在を肯定しているのです。母親は絶対ですからその視点に立てば自分も絶対になることが出来るというような理屈です。それはつまり、自分の子どもに対して自分がお母さんにやられたように振る舞えば、自分が(心の中の)お母さんに肯定されるように感じてしまうということです。そのようにそのようにして、それは世代を越えて繰り返していくのです。つまり、自己肯定感が低い人は自分を否定することで、否定している自分の存在によって自分を肯定しているのです。だからこそ、そこから抜け出すのが難しいのです。おわかりになりますか。本当に自分を否定してしまうと人は死んでしまうのです。生きて“生命”にしがみついていると言うことは、どこかで自分を肯定する論理を組み立てているのです。他人に否定されてもお母さんが子どもを守っていれば子どもの自己肯定感は守られます。たとえ、お父さんに否定されてもお母さんが守っていれば子どもは大丈夫です。でも、その周囲の意見やお父さんの意見に流されて子どもを否定してしまうと、難しいことになります。学校の先生のいいなりになって子どもを叱ってはいけないのです。自己肯定感が低い人は必然的に“よい子”への強迫観念があります。いつでも頭の中の“お母さんが望むであろう理想のよい子”と自分を比べてしまうのです。ですから、たとえ昔話の中でも魔女やオオカミを殺すことが出来ません。そして、子どものちょっとした子どもらしさに対しても、よい子を求めて子どもを否定します。昔話にはこのような状態の人の“心の中の親殺し”を補助する働きがあるのです。でも、そのような人は“心の中の母親”の存在によって自分を肯定しているのですから、決して魔女やオオカミを殺すことが出来ないのです。そして、残酷な話をハッピーエンドに変えてしまいます。つまり、“よい子のお話”に変えてしまうのです。また、心の中の母親を殺すことは自分の存在を否定することです。ですから、心の中の母親を殺すより、目の前の母親を殺す方が楽なんです。でも、その母親も殺せない時は父親を殺します。父親も殺せない時には見知らぬ誰かを殺します。そして、最後には子どもに行き着きます。このように、だんだんと敷居が下がっていくのです。ただし、これは極限まで追いつめられた時の話です。大半は、そこまで行かないで家庭内暴力程度で済んでしまっています。ですからそれほど心配しなくて大丈夫です。このような、“よい子への強迫観念”が強い人は子どもの子どもらしい嘘に対しても、ちょっと他の子のものを持ってきてしまっても、ちょっとイタズラ描きをしても、ちょっと親の目を盗んでお菓子を食べてしまっても、“人間失格”のような言い方で子どもを非難、否定します。じゃあ、このような状態の人をその状態から抜け出させるためにはどうしたらいいのかということなんですが、これは非常に困難です。おぼれる人が必死になってワラをつかんでいる時に、“ワラを手放しなさい”と言うようなものだからです。その強迫観念にとりつかれてしまっている人はたとえ陸に揚げてもらって、ワラなど無意味な状態になってもワラを手放さないものです。そして、“ワラを手放してもいいんだよ”という助言を自分への“攻撃”だと受け止めてしまいます。恐怖とはそういうものです。ですから、基本的に自分で気付くまで待つしかないのです。自分で気付いて、自分で自分を変えたいと思い始めた人には手助けが有効ですが、そうでない人は手助けを攻撃だと受け止めてしまうのです。だから、周囲が一生懸命になればなるほど逆効果になってしまうのです。周囲の人はただ明るく、ニコニコ、普通に接していればいいのです。時間はかかるかも知れませんがそれが一番安全で、効果的な方法です。もし、そんな悠長なことを言っている状態ではないという場合には専門家の所に連れて行って下さい。素人になんとかなるような問題ではないのです。素人が無理に相手を変えようとしてしまうと自分を守るエネルギーが“怒り”という形であふれ出して、周囲を破壊してしまう事すらあるのです。私のブログも、自分で自分を変えたいと思っている人の手助けはできますが、自分を変えたくないと思っている人には効果がないのです。
2008.08.13
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最初にちょっとお知らせです。横浜の都筑区で「仕掛け貯金箱」を作るワークをします。対象は小学校3年生以上です。私が指導します。内容は以下の通りです。★日時→8/18(月)9:30~12:00(9:15に来て下さい)★場所→藤が丘地区センター・中会議室(青葉区藤が丘1-14-95/045-972-7021)(会場駐車場なし。近くのジョナサンにコインパーキング有)★内容→しかけちょきん箱を作ります。(お金を入れると箱の中にしかけた水車のようなものが回って、その回転で動物が箱からジャンプして出てくるというようなしかけです)★参加費→1700円(材料費込み)★申し込み→小学3年生以上の方★申し込み方法→8/12(火)までに(1)「工作教室申し込み」(2)名前(3)学年(4)電話番号 を橋本(045-479-2031)までFAXして下さい。****************************ここまで書いてきたように、私は“自信がない”という状態と、“自己肯定感が低い”という状態を分けて考えています。厳密にはこの両者の境界は明快ではないのですが、でも、子育てや様々な場面においてこの両者は異なった反応をするように感じています。また、その原因も異なっているように思います。昨日も書いたように、自信がない人はリーダー体験の不足です。リーダー体験とは模倣体験のことです。子どもは信頼できるリーダーがいると安心します。そして、リーダーを見習おうとします。ただし、この“リーダー”とは必ずしも群れのリーダーを意味していません。単純に、あこがれや目標の対象ということで、“成長をリードしてくれる人”というような意味で、私の造語です。ですから、それが実際に群れのリーダーのこともあれば、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんのこともあれば、また、近所のおじさんやおばさんのこともあると思います。ここで大切なことは“指導する人”ではなく、一歩前に立って“リードする人”ということです。今、幼稚園でも、地域の活動でも指導者はいっぱいいます。でも、本当に子どもの育ちに必要なのは指導者ではなくて子どもと同じ立場と目線に立つリーダーなのです。そういうリーダーがいると子どもは安心するのです。リーダーと指導者は一見似ていますが同じではないのです。昔で言うところの“ガキ大将”もリーダーです。ガキ大将は指導者ではないですよね。子どもにとってリーダーは身内ですが、指導者は身内ではありません。でも、大人はみんな子どもに対してリーダーではなく指導者になりたがります。つまり、“大人”という立場から離れることが出来ないのです。そして、“リーダー養成”という名目で“指導者”を養成しています。でも、子どもはリーダーを見習おうとはしますが、指導者を見習おうとはしないものです。そして、学校などでもリーダー体験の少ない子にリーダーを任せると、“指導者”になってしまいます。そして、みんなから浮いてしまいます。本当のリーダーとは手本でなければいけないのに、指示命令で人を動かそうとするからです。子どもは模倣によって成長します。ですから、その模倣の対象が身近に存在していないと自分の成長の方向が見えなくなってしまいます。そして、その場しのぎの快楽(気を紛らわせてくれる遊び)だけで毎日を過ごすようになります。そういう子は自分のテリトリー内では元気がいいのですが、そこから出てくることに対しては非常に臆病です。そして、このような人(子ども)は自己評価が低いのです。つまり、空元気はあるのですが、自分自身に対して自信がないのです。遊びなどでも、自分が知っている遊び、見てすぐに分かる遊びでは元気に遊ぶのですが、知らない遊び、簡単に理解できない遊び、正解が分からない遊びには参加しようとしません。そして、失敗を怖がり、たとえ挑戦しても、一回失敗しただけですぐにあきらめてしまいます。その状態は、思春期になって新しい世界に出ていかなければならない時にも現れてきます。それで、過度に反抗的になったり、暴力的になったりします。それはまた、人間に世話をされて、動物園の中だけで育てられてきたような動物のようなものです。動物園の中では元気なんですが、ジャングルに出されたら不安で動けないのです。会社勤めをしていた時にはバリバリ元気だったのに子どもが産まれて家庭に入ったら急に不安が強くなった人も同じだと思います。子育ての場は何が起きるか分からない、ジャングルのようなものですから。このような人は、自信がないので正解を求めます。模倣を通して成長してきた子は結果ではなく、過程の中に意味を見いだすことが出来るのですが、模倣体験の少ない子は結果だけしか分からないのです。でも、結果が分かっても過程が分からないので自分で結果を出すことが出来ません。例えば、けん玉が上手な子がいたとします。すると、子どもはそういう子にあこがれます。そして、自分でも工夫し、努力して、真似をしようとします。それが“リーダー体験”(模倣体験)です。そういう体験を繰り返してきた子は結果に至るためには過程が大切だと言うことを知っています。でも、そういう体験がない子はやり方を教えてもらえばすぐに出来ると思いこんでいます。そして、竹馬などでもやったこともないのに“そんなの簡単だよ”などと言い切ります。でも、最初の失敗で、もう挫折します。ナツメさんが園では自由工作をしたり リズム遊びをしたりしていますがやっぱり自分を自由に表現する段階になると急に黙りこんで動けなくなります。毎日試行錯誤しながらやってはいるものの家庭環境の影響も大きくて 自信が積み重さならない感じです。とコメントを下さいましたが、こういう時は先生が指導者ではなくリーダーになる必要があります。どんなに一生懸命に指導しても、指導では子どもは変わりません。私が子どもたちと表現遊びをする時には私が先頭に立ってやって見せます。ある時は、“動物になろう”と遊んだのですが、最初子どもは動きません。その時は全く、初めて会った子ばかりだったので子どもの方も警戒していたのと、やったことのない遊びだったからです。それで、私が犬になって子どもに絡み始めました。それでも最初は動きません。子どもは慎重なんです。でも、私は子どもたちがこういう遊びが大好きだということを知っています。子どものこのような遊びへの興味は本能的なものなのです。生まれつき子どもは何かになって表現することが大好きなんです。でも、そういう遊びには仲間が必要です。ですから、仲間体験が少ない子は必然的にこのような遊びに対して慎重になります。でも、信じて働きかけていれば大丈夫。子どもは、“あ、やっていいんだ”、“この人は受け止めてくれるんだ”、“自分を解放しても良いんだ”ということが分かると、少しずつ動き出すのです。私はそういうことを知っていますから、最初子どもが反応しなくても気にしません。そして、その時も最初はお母さんのお膝から動かなかった子どもたちが次第に猫や犬になり始め最後はみんなで私を襲ってきました。私が“キャンキャン”逃げ回ったほどです。面白かったですよ。そして、このような遊びが継続していけば、子どもの中からリーダー的な役割の子が現れてきます。すると、私のような大人がリードするより子どもたちはもっと深くそのような遊びを遊ぶようになります。今、子どもたちの中に遊びの場でリーダー的な役割を果たすことが出来る子がいないので、大人がガキ大将のようになって子どもをリードせざる終えない状況になってしまっているのです。でも、それは子どもが動き出すまでです。子どもたちが自分たちで動き始めたら、あとは子どもに任せた方がいいです。でも、このようなことを大人の講習会でやろうとするとみんな尻込みします。“さあ、動物になろう”と指導するのは得意なのですが、自分自身が動物になりきって遊ぶことには抵抗があるのです。子どもは指導者のその本音を感じてしまいます。そして、本音を模倣します。だから動きません。先日も、保育園や幼稚園の先生達の講習会でイメージで遊ぶ遊びをやったらある中年の男の先生が“私はこういうのが苦手で”と逃げてしまいました。その先生に“恥ずかしがらないでやってください”と言ったせいか、感想文の中で他の先生達は皆“大満足”の所に○を書いてくれたのに、この先生だけが“やや不満”の所に○が書いてありました。後で聞いたら、彼は某保育園の園長先生でした。また、ある保育園で、園長先生から“先生達はみんなわらべうたを知っているのに実際の保育の現場でそれを活用していない”と相談を受けたことがあります。これも同じです。先生が生徒を集めてわらべうたを指導しても子どもたちは遊ばないのです。でも、先生達が2,3人でわらべうたで楽しく遊んでいれば、子どもたちは自然に集まってきてしまうのです。指導されているばかりの子ども、放っておかれたままの子どもはこのようなリーダー体験(模倣体験)が出来ません。だから、自分の成長力を解放することが出来ません。だから、自信が育たないのです。
2008.08.12
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いやー、相変わらず暑いですね。昨日から家内の両親と熱海に行って来て、先ほど帰ってきました。そして、これから私の実家の鎌倉の「花火大会」に行って来ます。屋根の上で見ます。裏が山なので蚊が多いですが、土地が高いのでよく見えるのです。ということで、今日はちょこっとだけ。昨日書いたことですが、ほっぽかされて育てられた子は自信がありません。放任育児の幼稚園の子は仲間内で騒いでいる時には元気がいいのですが、きちんとした課題が与えられると元気がなくなります。昔の子どものグループは子どもだけでしたが、小5~中学生くらいまでのリーダーがいました。子どもが自信を持つためには、このリーダー体験が必要なのです。でも、幼稚園児だけのグループにはリーダーはいません。管理やしつけの強い幼稚園の子は能力的には高いものを持っていても自己肯定感は低くなります。教え込まれているので結構色々なことは出来るのです。でも、それを楽しめません。それに、色々と出来るのに自己肯定感は低いのです。子育てに苦しんでいるお母さん達にもこの二つのタイプがあります。自信がないお母さんと、自己肯定感の低いお母さんです。自信がないお母さんは子ども任せです。どうして良いのか分からないからです。自己肯定感の低いお母さんは理屈では分かっているので、色々とやらせて、子どもを否定します。出来たところではなく、出来ないところばかりを指摘するのです。こういうお母さんは自己肯定感は低いのになぜかプライドは高いのです。子どもを否定することで自分のプライドを保とうとしているように見えます。そして、傷つきやすいのもこのタイプです。
2008.08.11
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私は17年前から子どもの教室をやっていますが、当時も“めんどくさい”、“つかれた”、“かったるい”、“先生やって”、“僕バカだから”、“腰が痛い”などとばかり言っている子どもが多いのに驚きましたが、それでもまだまだ元気な子どもたちもいっぱいいました。でも、最近では元気な子は少数になりつつあります。多くの子が大人しくていい子になってきたのです。ただし、こちらが付き添って励ましてあげないと動けません。同じ事の繰り返しなら出来るのですが、新しいことや、頭を使うような活動、手間や時間がかかるような活動になると急に消極的になります。このような子は、サッカーのようなルールの決まった活動では動けるのですが、仲間で相談して動くような“遊び”ができません。相談ができないのです。そんな中で、ADHD系の子は、落ち着かず、やたら大きな声で騒ぎまくり、集中できないで動き回っています。そういうタイプの子も増えてきました。また最近、最初見た時、“ん、この子は障害があるのかな・・・”という印象の子どもが増えてきました。目に力がなく、ぼーっとした感じなんです。でも、話をしたり、造形をやらせてみるとそこそこ出来るので“障害ではなさそうだぞ”ということが見えてくるのですが、このようなタイプの子は子は昔はあまりいませんでした。また、昔は曜日ごとのクラスで横のつながりが出来て“みんな仲間”というような状態で楽しい雰囲気だったのですが、最近ではその横のつながりが消えて、一人一人まじめに造形に取り組んでいます。そして、ADHD系の子が遊び回っていると、“何のために造形に来ているの、お金がもったいないよ”とまで言う子がいます。お母さん達のグループでも、雑談ではいっぱい言葉が出ているのに、“○○についてどう思いますか”と意見を求めると、急に静かになってしまいます。また、感想や印象を語ることは出来ても“考え”を語ることが出来ません。そもそも、“考える”という方法を知らない人がいっぱいいます。日本の教育では“考え方”を教えてくれません。むしろ、自分で考えることを否定しているくらいです。だからしょうがないのですが、考える力が育っていない人は自分に自信を持つことが出来ません。自分を納得させる論理を構築することが出来ないからです。逆に言うと、自分に自信を持っている人は自分なりの論理、考え方を持っているものです。ですから、自分に自信がない人を論理で変えることは出来ません。自分に自信がない人は論理を理解できないからです。じゃあ、どうしたらいいのかというと、手やからだを使って創造的な活動をすることです。手やからだを使って創造的な活動をすることで論理的な考え方に目覚めるのです。そして、自分で考えることが出来るようになると自信が生まれてきます。実際、上に書いたような自信のない子どもたちでも手を使い、からだを使っているうちに顔つきが変わってきて、自信が出てくるのです。ただし、自信がないだけでなく、自己肯定感も低い子の場合はなかなか難しいです。自信がないということと自己肯定感が低いと言うことは同じではないからです。自己肯定感が低い子は自信もありません。でも、自信がない子が自己肯定感も低いとは限りません。ただ、体験が少ないだけのことがよくあるからです。そういう場合は、ただ体験が少ないので臆病になっているだけなのです。ですから、体験を通して自信が付いてくれば変わっていきます。今、このような子がかなりの割合を占めています。でも、自己肯定感が低い子は体験すること自体を嫌がります。自分と向き合うこと、集中することから逃げようとします。怖いのです。そういう子は自分を変えたくないし、変わりたくもないのです。自己肯定感が低いのだから、自己肯定感を高めるために努力するのかというとそんなことはないのです。自己肯定感が低い人は、人をうらやむばかりで自分を変える気はないのです。自分の中に閉じこもってしまうのです。そして、“私は絶対に自己肯定感が低いのです”と自己肯定感が低い自分に自信を持っています。そして、自信がない子が自分の考えを持っていないのに対して、自己肯定感の低い子は自分独自のしっかりとした考えを持っています。身を守るためにちゃんと理論構築しているのです。ただ、その理論は自分を守るだけにしか使われません。また、ただ自信がないだけの子は自信を付けたいと思っています。だから励ましや補助があれば少しずつ頑張ります。でも、それに対して自己肯定感の低い子は励ましや補助を嫌います。励ましや補助を押しつけや強制と感じてしまうからです。自己肯定感の低い子は否定された体験を持っています。やったことがないのではなく、やってみたけど否定されてきたのです。絵を描いた経験のない子は絵を描くことに自信がありません。でも、絵を描いたのにそれを否定されてきた子は(上手に描けてもです)自己肯定感が低くなります。ですから、放任育児で育てられた子は自信がありません。それに対してしつけに熱心なお母さんに育てられると自己肯定感が低くなります。(放任育児の幼稚園、しつけに熱心な幼稚園でも同じことが起きています。)しつけに熱心なお母さんは子どもを色々と連れ回して、色々な体験をさせようとします。そして、子どもを評価、批判します。そして、自分の価値基準に子どもを合わせようとします。すると、子どもは自己肯定感を失っていきます。その、自己肯定感を失ってしまった子どもに自己肯定感を取り戻させるのはかなり困難です。自分を守るために理論武装しているし、大人や他者からの関わり自体を拒否してしまうからです。他者によって傷つけられてきたので他者を受け入れなくなってしまっているのです。
2008.08.10
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ちょっとお知らせがあって今日2回目を書かせていただきます。横浜の都筑区で「仕掛け貯金箱」を作るワークをします。対象は小学校3年生以上です。私が指導します。内容は以下の通りです。★日時→8/18(月)9:30~12:00(9:15に来て下さい)★場所→藤が丘地区センター・中会議室(青葉区藤が丘1-14-95/045-972-7021)(会場駐車場なし。近くのジョナサンにコインパーキング有)★内容→しかけちょきん箱を作ります。(お金を入れると箱の中にしかけた水車のようなものが回って、その回転で動物が箱からジャンプして出てくるというようなしかけです)★参加費→1700円(材料費込み)★申し込み→小学3年生以上の方★申し込み方法→8/12(火)までに(1)「工作教室申し込み」(2)名前(3)学年(4)電話番号 を橋本(045-479-2031)までFAXして下さい。**********************それと、「ペガススの家でのお泊まり会」への参加申し込みを頂いた方にはメールをお送りしました。申し込みをしたのに、メールが届いていないという人はご連絡下さい。
2008.08.09
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子育ては個人的なことであると同時に社会的なことでもあります。でも、お母さん達はそのことを受け入れようとしないし、また政治家はそのことを押しつけようとしています。お母さん達が子育ての社会性を受け入れたくないのは、子育てがお母さん自身の人生の一部であり、プライバシーに属すると考えているからなのでしょう。それはつまり、子育ての社会性を受け入れることで、自分の人生の中に他人の価値観が入り込み、自分の個人的な価値観や感覚が否定されるように感じるからなのかも知れません。今、若い人たちは自分の感覚や価値観を否定されることに非常に敏感になっています。それは先日ご紹介した「友だち地獄」(土井隆義著/ちくま新書)だけでなく、多くの本によって明らかにされている通りです。そしてそれは若者達の、“傷つきやすさ”という特徴として現れています。だから、人の考えは否定しないし、自分の考えが否定されるのも嫌がります。実際には、嫌がるという以上に恐怖を感じています。だからみんな、自分の本当の考えを他人に悟られないように隠し、考えと考えがぶつからないように気を配り、ビクビクしながら生きています。それは子どもの頃から否定され続けてきたので傷つきやすくなってしまっているからなのです。お母さんは“子どもを傷つけるようなことを言った覚えも、やった覚えもない”と思っているかも知れませんが、子どもは子どもらしさを否定されただけで傷つくのです。そして今や社会全体で子どもらしさを否定しています。例えば、どろんこ遊びをした時、“なに馬鹿なことやっているの”、“あーあ、またこんなに汚して。いったい誰が洗うと思っているの”などと言われると子どもは深く傷つくのです。そういう繰り返しの毎日の中で子どもは“自分らしさを表現してはいけないんだ”、“自分らしさを表現することは悪いことなんだ”ということを学んでいくのです。なぜなら、子どもにとって“子どもらしさ”はそのまま“自分らしさ”に他ならないからです。そしてお母さんの顔色をうかがいながら生活するようになります。そのように育てられた子が思春期に近づくと、今度はお母さんの代わりに友だちの顔色をうかがいながら生活するようになります。さらに成長して、結婚し、子育てをするようになると、他のお母さん達の顔色をうかがいながら子育てをするようになります。だから、子どもを見守ることが出来ず、行動を管理しようとしてしまうのです。行動を管理するだけならみんなで子どもの行動を見ていれば出来ます。でも、見守るためにはお互いの価値観を話し合って調整する必要があります。でも、そんなこと出来ません。そんなときに、“子育ては社会的なものだ”などと言われてもそんなこと受け入れるだけの余裕はないでしょう。“社会的なものだ”という考えを受け入れることが、自分の考えや価値観が否定されるように感じてしまうのです。そして、子どもの頃“子どもらしさ”(自分らしさ)を否定されてきたトラウマがよみがえるのです。でも、子育てはお母さんの人生の一部であると同時に、子どもの人生の一部でもあり、また社会全体の未来の一部であることも否定できない事実なんです。それをお母さんの“個人的なこと”にしてしまったら子どもは苦しみ、社会は混乱します。だからといって、“社会的なことである”という考えを押しつけてもお母さん達は拒否するばかりでしょう。このような状況を変えるためには、お母さん達、そして大人達が見失ってしまった“自分らしさ”を取り戻し、自分に自信を持つことから始めないと何にも変わらないと思います。以下に、大人の目から見たら不可思議な子どもの事件の記事を載せました。じっくり読んで、冷静に考えて見てください。*******************************何の不満も無いから死にたい? 一流女子高生の不可解 東京都板橋区の私立女子高の2人の女子生徒が一緒に首吊り自殺を図った。1人が死亡し、もう1人は軽傷で発見された。遺書には「生活に何の不満もない。身勝手を許してください」などと書いてあったといい、東京・高島平署はJ-CASTニュースに対し、「自殺理由が簡単にわかるような事件ではない」などと話すなど全く持って不可解な自殺だ。成績がよく、クラブ活動もしていて、イジメもなし高校生が通っていた学校の進路実績ページには、一流大学の名前が並ぶ 自殺が発見されたのは、2007年3月6日午前0時20分ごろの高島平団地5号棟12階の踊り場。亡くなったのはこの団地に住む一流女子高の2年女子生徒で、首をつった状態で発見。もう1人は横浜市内に住む同じクラスの生徒で、首にロープを巻きつけた状態で倒れていた。 亡くなった生徒のかばんからは家族などに宛てた3通の遺書が見つかり、また、自宅のパソコンの中にも遺書があったという。そこに書かれていたのは「生活に何の不満もない。身勝手を許してください」。二人とも成績がよく、クラブ活動もしていて、イジメなどの問題は抱えていなかったようだ。自殺した日も普段通りに登校していたというから、この自殺は実に不可解なのだ。この“不可解”という言葉に、大人の目線でしか子どもを見ることが出来ない大人の現状が見えています。簡単に言うと、これは大人の都合通りに生きてきた子が、大人の都合通りにしか生きることが出来ない自分を否定したのです。思春期になって、自分の未来を考え始めた時、“自分の未来”が見えなかったのでしょう。<稚内商工高>高2が自殺…中傷書き込みで停学処分の後に8月7日12時13分配信 毎日新聞 北海道稚内市の道立稚内商工高校(生徒数337人)2年の男子生徒(16)が携帯電話サイトの掲示板に他の生徒を中傷する書き込みをしたとして停学処分となり、自宅で自殺を図って2週間後の今月4日に死亡していたことが分かった。 同校などによると、サイトの書き込みは複数の生徒をイニシャルで示して「死ね」などと中傷する内容で、サイトを利用している生徒から通報を受け、生徒指導担当の男性教諭ら計6人が7月20日、男子生徒から2時間50分にわたり事情を聴いた。生徒は「軽はずみに書き込んでしまった」と事実を認め、停学処分を受けて午後5時ごろ、学校に呼ばれた母親とともに帰宅。同日夜、首をつって自殺を図った。 生徒の父親(46)が7日、記者会見し、生徒が自室の机上に残したノート3ページ分の書き置きを公表した。学校側から停学中に書くように指示された反省文の下書きで、聴取の際に教諭たちから「お前の罪は重い。死ね」「バカか」「アホか」と言われ「おれって先生たちにも信用なかったんだな」と傷ついた心境がつづられ「停学は重すぎる」「ケジメをつけるために死のうと思う」と訴えている。 川崎博正校長は書き置きの内容について「そんなことを言うはずがない。職員の対応に問題はなかった」と否定したが、父親は「ここに書いてあることは学校側の言い分とは随分違う。私は息子を信じます」と学校側への不信感をあらわにした。【金子栄次、仲田力行】教師が“死ね”と言ったかどうかは不明ですが、自分は平気で友だちに“死ね”と書き込んできたのです。それが、自分が“死ね”と言われたからと死んでしまう・・・。“死ね”と言われて死んでしまった同様の事件は他にもあります。以下は8月8日の朝日新聞です。埼玉県川口市のマンションで7月、中学3年の長女(15)=殺人容疑で送検=が会社員の父親(当時46)を刺殺した事件で、県警の調べに対し、長女が「人の顔色を見て生きるのに耐えられなかった。悪くなった期末テストの成績を親に知られる前に、家族全員を殺そうと思った」と話したことが分かった。県警は8日、長女をさいたま家裁に送致する。 長女は調べに対し、「人に合わせて、人から嫌われないように生きていくのに疲れてしまい、耐えられなかった」と話しているという。小学校高学年ごろから、自分が他人からどう見られているかを強く気にしていたという。 3年生になり、成績が下がり親にしかられたことなどから、イライラすることが多くなり、事件の数週間前、「何もかも嫌になって、すべてを終わりにしたい」と考え始めたという。 県警は7月の期末テストが長女を追いつめたとみている。事件当日に予定されていた保護者会で母親に成績を知られることをおそれたといい、「期末の成績が親に分かると、自分も、怒った親も嫌な思いをする。その前に家族全員を殺して自殺すればいいと考えた」という。 長女は「両親によく思われたかった」とも話していて、親に対して、恨みや憎しみは口にしていないという。父親を最初に殺そうと思った理由は「まず、一番力が強い父親を殺さないと、犯行を止められると思った」と話しているという。 如何ですか。子どもらしさを無視した自分勝手な子育ては子どもを苦しめるのです。でも、今“子どもらしさ”を否定するのは当然の考え方になりつつあります。そしてそれが“子どものため”だとも思いこんでいます。だから、原因が見えないのです。そして、今、どんどん状況が悪くなって来ています。それは子どものの状態、お母さん達の状態に現れています。子どものための活動をしている私の友人達も焦っています。(みんな40代後半以上です。若いお母さん達に話しても何が問題なのか理解してもらえなくなりつつあります。)だから、私も最近少し強く言うようにしたのです。ただし、誤解しないで欲しいのは私はお母さん達を否定しているのではありません。(どうしてもそう取る人がいるのです。)そうではなく、“目を覚ましてくれ!!”と言っているのです。このことに気付かないと結局、自分が苦しむことになるからです。子どもの幸せ、お母さんの幸せ、そして社会の幸せを失わないためにです。この三つは分離できないのです。
2008.08.09
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最初にワークのお知らせです。「自分のからだと向き合う、感情と向き合う」9月11日(木) 10時10分~11時50分神奈川県民サポートセンター(JR横浜駅の近くです)お部屋はミーティングR709参加費は1500円保育もありますが、保育が必要な人は別途保育料が必要になります。自分のからだと向き合ってからだの声を聞いたり、簡単なセルフケアなどをお伝えします。また、からだを通して聞こえてくる自分の感情などにも耳を澄ましてみましょう。持ち物:バスタオル、ヨガマットのような、下に敷くもの(床に座ったり、横になったりします)服装:動きやすい服装(スカートやからだを締め付けるような服装は不可です)問い合わせ、お申し込みは松本和夏さんにお願いします。******************************ブリッジさんから以下のような相談が来ましたので今日はこれに答えさせていただきます。私は先日、子供同士の喧嘩で相手のお母さんと気まずくなってしまいました。 相手のお母さんは、子供の叩きあいの喧嘩であっても決して止めません。加害者でもです。被害者になっても怒りません。そして先生の去年のブログの喧嘩のルールもお互い読んでいます。 今日のブログですと、私は管理する側だと思いますが、喧嘩を止めないことには限度があると思います。子育てはマニュアルではないと先日仰ったように、篠先生のブログに書いてあったから大丈夫と思ってほしくないのです。 喧嘩のルールは年齢や性別によっても、微妙に違うのではないかと思います。(4歳の異性同士の喧嘩でした) 母として子供を管理・支配してしまう自分は認めます。でも、良い母でいようといまいと、自分の子供の行動に責任を持ちたいです。喧嘩であっても、暴力はいけないと伝えたいです。時には私が止めさせるために、子供に暴力をする時もありますが・・・。多分、私が知っているお二人のことだろうと思いますが、ここでは一般論として話をさせていただきます。ご了解下さい。最近、子どもとの付き合い方が分からない子どもが増えてきました。今、多くの子どもが毎日の生活の大部分をお母さんと二人だけで過ごしていますがお母さんと一緒に生活していても子どもは子どもとの付き合い方は学べません。一緒に遊んだりケンカできるような兄弟がいればそれもちょっと違ってくるのですが、兄弟げんかを体験したことのない子の場合はケンカの仕方も知りません。それでちょっとしたことで平気で危険なことをしてしまう子がよくいるのです。(突き飛ばすとか、かみつくとか、顔をひっかくというような)“やめて”と言えばいいだけのところで言葉の代わりに相手の顔をひっかいたりするのです。またやられる方も暴力は振るわなくても相手の嫌がることを平気でやったりします。両方ともに相手とどう関わったらいいのかが分からないのです。この場合の暴力は攻撃ではなく、自分を守るための行為です。3,4才くらいまでの幼児の暴力は多くの場合防御の手段なのです。(相手が逃げても追いかける場合は攻撃です。)だからといって、相手の嫌がることをやってしまうのも意地悪からではありません。幼い子どもは相手と対等の関係で遊ぶことが出来ず、お人形やおもちゃと遊ぶように相手を支配しようとしてしまったり、もっと遊びたいという意思表示で相手が嫌がることをする場合もあるのです。ただし、防御だからいいとか、意地悪ではないからいいということではありませんからね。ただ、叱られても何で叱られているのかが子どもには理解できないと言うことです。お母さんとしてはそういう子どもの気持ちも見えているから余計にどうしたらいいのかが分からなくなるのでしょうね。先日は、“基本的にケンカは止めないでルールを教えてください”と書きましたが、でもこれはルールが理解できるような年齢の子どもの話です。具体的には、子どもたちだけの群れできちんと鬼ごっこなどをして遊ぶことが出来るようになった年齢の子どもの話です。幼児の場合は基本的にケンカのルールを教えても理解できません。また、理解できたとしても自分の行動をコントロールすることは出来ません。子どもはいつでもやってしまってから、自分がやったことを知るのです。これはかなり年齢が高くなってからでも同じです。相手が泣いてから“しまった”と思い、言い訳けを考えるのです。じゃあどうしたらいいのかということです。まず、ケンカをしていて危険な時、相手が恐怖を感じているような時、一方的な時にはしっかりと止めてください。それは言葉だけではなくからだを使って止めてください。しっかりとからだを押さえて目を見て“ぶっちゃダメ”としっかりと伝えてください。どっちが良いとか悪いと言うことではありません。それを言い出すと話がややこしくなります。お互いに対等にケンカしている場合なら、適当な時間を見計らって、“はーい、ここまで”と明るく割って入ればいいのです。子どもはケンカの落としどころを探っている場合もあります。言葉だけでいくら叱っても無駄です。ただしこれは応急処置です。ケンカを止めるだけでは根本的な問題は何にも解決しません。それで、二人だけではなくお母さんも入って一緒に遊ぶようにしてください。実は幼い子どもの遊びにはリーダーが必要なんです。幼い子どもは自己中心的ですから同年齢の子どもだけで遊んでいると遊びが深まってくると必然的にケンカになってしまうのです。二人とも自分流で遊びたいからです。そんな時、リーダーがいると自分流にこだわらなくなります。そして一緒に遊ぶことが出来るようになります。また、お母さんが入って遊んでいる時にケンカしそうになったのなら、ケンカになる前にそっと止めてください。子どもが興奮している時にはからだを使って止めますが、その前の段階なら気持ちを切り替えさせることで忘れてしまいます。ケンカになるまで待つ必要はありません。子どもは楽しい体験をいっぱい共有することでケンカなどしないで遊ぶ遊び方を学んでいきます。ケンカなどする必要がなくなるのです。3,4才までの幼児の場合はそのようなものですが、もうちょっと年齢が上がると別の要素も入ってきます。ですから、こういう問題の対処法は一概にはいえないのです。幼稚園や保育園に遊びに行っても、ケンカを売っているとしか思えないような攻撃ばかりしてくる子が結構います。そういう子は持ち上げてぐるぐるやってあげたり、おんぶしてあげたり、戦いごっこをしてあげるとすごく喜びます。そしていつまでもしつこくそれを求めてきます。そのような生理的な触れ合いに飢えているのです。生理的な欲求なのですから、言葉で禁止しても無駄です。特に、女の人が怒っても無駄です。また、これは私の勘なんですが、5歳を過ぎてすぐにケンカをする子はお父さんとの遊びが足らないのかも知れません。(特に男の子の場合)昨日書いたこととつながるのですが子どもはお父さんとの関わりを通して社会的なものを学んでいるからです。(昔、子どもたちが群れで遊んでいた頃はこれは“お兄ちゃん役”の子やリーダーの役割でした。ですから、別にお父さんには限りませんが男性ということです。)社会的なことはお母さんが言っても通じませんがお父さん(男の人)が言うとちゃんと通じたりするのです。子どもはお父さん(男性)から学ぶことと、お母さん(女性)から学ぶことを分けているのです。だからこそ、子育てはお母さん一人ではできないのです。また、大人から学ぶことと仲間から学ぶことも分けています。ですから、お母さんが何回言っても無視していたようなことでも、仲間に言われると素直に言うことを聞いたりするのです。でも、この手の問題は難しいです。状況に依存する要素が大きいからです。ですから最終的には現場にいるお母さんが自分の判断で動くしかないのです。私は原則論しか書くことが出来ません。
2008.08.08
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昨日、rei-mさんからのコメントの返事に書いたように、本来「子育て」とは子どもの“自分育ち”つまり、「子育ち」を支えるものだったのではないでしょうか。環境を整え、そして共感し、励まし、生活を共有していれば親が頑張らなくても子どもはちゃんと育ってしまいます。子どもの成長の主役はあくまでも子どもだからです。どうも、そのことが忘れられてしまっているように感じるのです。「子育て」という言葉では“親”が主役です。だから、子どもが事件を起こすと親の責任になります。子どもがお店などで騒いでいると親のしつけをなじられます。でも、実際には子どもの育ちでは子どもが主役ですから、注意する人はお母さんにではなく、当の子ども本人に注意すべきなんです。親がいくら叱っても叱られなれている子どもは平気で無視します。親が叱っていないから子どもが暴走するのではなく、多くの場合叱りすぎていることの方が多いのです。ですから、お母さんに責任を求めてしまうと逆効果になってしまいます。お母さんは叱ることしかできませんから。そんな子でも他の人に注意されると素直になるのです。ただし、親がその他人からの注意を好意的に受け入れない時には、子どもは他人からの注意も無視するようになります。お母さんが、“うちのしつけに口を出さないでください”という反応をすると、子どもは親の言葉も他人の言葉も無視するようになります。親の役割と地域の大人や学校の先生の役割は異なります。親の役割はあくまでも子どもを守り人間としての基礎を育てることです。これは理屈ではなく、実際に子どもがそれぞれに対して求めているものが違うのです。子育てにおける父親と母親の役割は社会が決めるものではありません。子どもが決めるのです。ですから父親と母親が同じことをしても、子どもは異なったものを学び、吸収します。同じ“おんぶ”でも、“お母さんのおんぶ”と“お父さんのおんぶ”は同じではないのです。実際にはこれは生物学的な問題なんです。それを大人は大人同士の社会的な問題にすり替えてしまっているから話がおかしくなって、問題が見えてこないのです。子どもはお母さんに保護を求めます。これは“お母さんは子どもを保護しなさい”という義務論ではありません。実際に子どもはお母さんにだけ保護を求めるのです。心とからだの保護です。私たちの遺伝子には“お母さんという存在は保護を与えてくれる存在だ”というように書かれているのでしょう。だから、子どもが保護を求めてきた時には保護を与えるのがお母さんの役割です。少なくとも子どもはそのように神様から教えられてこの世界にやってくるのです。この場合でもあくまでも主役は“子ども”です。大人は子どもが求めているものを与えるだけです。でも、子どもが保護を求めてきた時、他のお母さんの目を気にして無視したり、逆に叱ったりしてしまうと子どもは“裏切られた”と感じます。そして孤独になります。子どもが“幼稚園に行きたくない”という時、お母さんに心の保護を求めているのです。ただしそれは、“じゃあ行かなくていいよ”ということではありません。“苦しいことがあったんだね”などと共感することが大切なんです。子どもの心は“共感”によって保護されるのです。決して言いなりになることではありません。実際に幼稚園に行くか行かないかはその共感をベースにしてその時の状況に合わせて考えるべきことです。物理的な保護はお母さんでなくても誰でも出来ます。でも、特に幼児の場合“心の保護”はお母さんにしかできないのです。子どもがお母さんにしか“心の保護”を求めないからです。子どもは親から勉強ではなく、生活の知恵、生きる知恵のようなものを学ぼうとします。ですから、そういうものを与えようとすると子どもは素直になります。でも、子どもが求めていないものを教えたり、伝えようとすると子どもは拒否します。ただ、9歳を過ぎた子なら演技でごまかすかもしれませんけど。そのように子どもは自分の成長に必要なものは誰に、いつ、どのような状況で求めたらいいのかということをちゃんと分かっているのです。だから、周囲の大人はそんな子どもの状態をよく観察して、子どもが求めてきた時にちゃんと応え、与えてあげればいいのです。そうすれば、子どもは自分の力で成長していくのです。ただし、生活や地域の中から体験の多様性が消えてしまった現代では、親が意識して子どもが多様な体験ができる場や環境を作ってあげる必要があります。そうでないと、現代では子どもは自分の育ちに必要なものを求めることすら出来なくなってしまいます。このようなことを考えていく時“子育て”という言葉の意味も変わってくるのではないでしょうか。まさに、“子育ち”を支えるのが親の役割であり、また本当の意味での“子育て”なのではないでしょうか。頑張って子育てしている皆さんは一度子育てをやめてみたらいかがですか。そして、ただ子どもと一緒に楽しく生活することだけを考えるのです。そうすると子どもが何を求めているのかよく見えてくるはずです。そして、それに応えているだけで子どもは勝手に成長していきます。子育てなんかしなくても子どもはちゃんと育っていくのです。しつけも親自身がきちんとした生活をしていれば次第に親を見ながら学んでいきます。子どもはお母さんと同じことをしたがるものですから。公園でトラブルを起こしたら、他のお母さんにお願いして叱ってもらったらいかがですか。お母さんが叱るよりずーっと効くはずです。勉強をしない時には先生が叱ればいいことでお母さんが叱る必要はありません。そんなことしても子どもは勉強などしません。子どもは保護を与えてくれるはずのお母さんにまで叱られてしまったらよけいにやる気がなくなるものです。親は子どものその“成長しようとする意志”を見守り支えてあげるだけでいいのです。それが子どもが求めている親の役割なんです。決して、大人の思い通りに子どもを育てることが“子育て”ではありません。それは絶対に失敗します。
2008.08.07
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今、子育てが非常に困難な時代になってきました。幼い子どもと関わったこともなければ、子育ての様子を身近に見ることも出来ず、相談する相手もいないし、自分も子どもの頃に遊んだ経験が乏しいので遊び方も分からないし、遊んでも何が楽しいのか分からないし、また、子どもの心とからだのこと、成長の様子なども分からず、いきなり“お母さんになったんだからしっかりと子育てしなさいよ”とワガママし放題の子どもに振り回されながら生活しなければならなくなってしまっています。さらには、様々な子どもの事件やトラブルの原因を“未熟な子育て”のせいにされ、町に出たら子どもの子どもらしい行動までもが批判の対象になり、そしてなぜか、お母さん同士の間でもお互いにしつけに関して盛んに批判合戦を繰り広げています。そのため不安に駆られて様々な育児書を読み、様々な講演会に行き、公園デビューで仲間づくりに励んでいるお母さんがいっぱいいます。先日書いた“大きな声で挨拶しよう”という子育てサークルもそのようなお母さん達の集まりなのではないかと思います。でも、そのようなサークルは“子どものため”に活動しているサークルなので必ずしもお母さんにとって居心地がいい場所であるかどうかは不明です。また、子どものためのサークルなのでお母さん同士の間での価値観が共通しているかどうかも不明です。だからといって、お互いの価値観についての話し合いまでするような深い関係にはなかなかなりません。自分自身のための仲間づくりという訳ではなく、子どものために一時的に参加しているという意識があるからです。中にはそうではないグループも、また人達もいるとは思いますが、多くの場合は“子どもが小さい時だけの一時的な居場所”程度の感覚で参加しているのではないでしょうか。そのため、価値観が共有されていないので“見守る”という関わり方をすることができません。例えば子どもがケンカをしている時、仲直りするまで見守っていたいと思っていても、“何で止めないの、ケガでもしたらどうするの”と言われたら止めざる終えません。“見守ろう”とする人たちの関わり方は、子どもを管理しようとする人たちから見たら無責任に見えてしまうのです。そして、責任を問われたら、言い返すことが出来ません。 あるお母さんは“多少のケガぐらいOK”と思っていても、相手のお母さんがちょっとのケガでも大騒ぎするような人ならどうしても“何もしなかった人”が悪者になってしまうのです。それが今の日本の常識的な判断なのです。その結果トラブルが起きないように先回りして子どもを管理することになってしまいます。これは、先の子育てグループだけの問題ではなく、今や幼稚園や学校や地域や政治などの場で日本中に広まっている考え方です。その一つの例として、あのグループの“仲間募集”の文章をご紹介しただけのことです。ですから、私はあのグループを非難したのではなく、あのような“考え方”を非難して、日本中の大人に向けて“子どもを管理、支配するような子育てや教育をやめて欲しい”と言っているのです。子どもを管理、支配するような子育てでは子どもが自立できなくなるので、結局後で大人が困るのです。“何を伝えるのか”という価値観に属することは個人の自由ですが、社会や人のつながりが崩壊するような子育てや教育は肯定されるべきではないのです。それは押しつけではなく、祖先から文化や文明を受け継いできた我々の義務なのです。子どもが自立できない社会では文化や文明も途絶えてしまうのですから。これは、“子育ての自由”、“教育の自由”とは分けて考えるべきことなのです。ここで発想の転換をしてみませんか。現代人はあまりにも“子育て”にとらわれすぎているのではないでしょうか。だから、子どものことばかりが気になり、子どもを管理、支配したくなるのです。昔は子育ては生活の一部でした。家族や地域の中で普通に生活しているうちに子どもは勝手に成長していったのです。そういう生活では、“子育て”ではなく“子育ち”を支えるのが大人の役割だったはずです。大人の生活が忙しかったので、“子育て”をしている暇などなかったはずだからです。高度経済成長時代に“専業主婦”という言葉が生まれました。そして、その専業主婦の仕事の一つとして“子育て”が考えられてきました。それまでは生活の一部に過ぎなかったことが、お母さんの“仕事”になってしまったのです。そして、経済を支える有能な戦士を育てることが子育てや教育の目的になってしまいました。大人達が、子どもたちを文化や文明を受け継ぎ、伝える存在としてはなくただの働き手として扱い始めたのです。ですから、意識的に子どもたちは生活や地域から切り離され、競争させられるようになりました。そして、この辺りから子育てが狂い始めたのです。子どもは多くの人との関わりの中で成長するのであって、お母さん一人で育てるものでも、育てることが出来るものでもありません。ペットとは違うのです。でも、一人ではペットのようにしか育てようがないのです。でも、誤解しないでくださいね。私はペットのように子育てをしている人を非難しているのではありませんからね。でも、安易に“それでいいんだよ”と言ってしまったら子どもが成長してからそのツケが返ってきてしまうのです。今は楽になっても、将来何倍もの苦しみになって返ってくるのは困るでしょ。だから、まだ間に合ううちに“子育てを変えようよ”と言っているわけです。<続きます>
2008.08.06
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世の中には“優しい子育て”を支持する人と、“厳しい子育て”を支持する人がいます。“子どもは優しく育てることで生き生きとしてくるのだ”という意見と、“厳しく育てることでしっかりとした人間になるのだ”というような意見です。私は基本的には“優しい子育て”を実践してきましたが、でも“厳しい子育て”を否定はしません。それは人間観の違いであって正しいとか正しくないというような問題ではないからです。ですから、どっちにしろ自分の信念で子育てをすればいいのです。そうすれば子どもはそれなりにしっかりと育っていきます。ただ、育てられ方によって異なった価値観の人間が育つだけです。そして、異なった価値観の人が多く存在している社会は健全な社会です。ですから、子育ての仕方を統一してはいけないのです。でも、問題なのはその“信念”がない子育てなんです。親に信念がない時、親も不安ですが、子どもも不安になります。すると、子どもの心が安定せず不安定なままになってしまいます。すると、自意識が強くなりすぎたり、自分を守ることばかり考えたりするようになってしまう傾向があるように感じるのです。昔、人々がまだ狭い村社会で生活していた頃には村全体で基本的な価値観が共有されていましたから個人として特に信念を持つ必要などありませんでした。子どもも親に信念がなくても、村全体が同じ価値観なので特に不安も感じなかったでしょう。でも、現代のように多くの異なった価値観が混在する社会で生きるためにはしっかりとした自分の価値観を持つことが非常に大切なんです。そしてそれが“信念”です。子どもはその価値観が安定していないと世界をちゃんと認識できなくなってしまって不安になるのです。特に、思春期にその不安はピークになります。価値観は世界を見る時の座標軸だからです。信念を持っていない人が優しい子育てをすると、子どもの顔色ばかりうかがうような子育てをします。子どもを怒らせないように、泣かせないようにするばかりです。子どもの気持ちに寄り添わないで、要求に応えることで優しさを演じてしまうのです。でも、そのような関わり方をしていると、子どもは制限が分からなくなって王様のようになっていきます。支配的になり、ワガママになるのです。実は、これは子どもの不安の裏返しなんです。不安な人は支配的になるのです。ただし、子どもも顔色をうかがうのが上手になるので、このような子は家では暴れまくっていても、学校や他の人がいる場ではいい子を演じています。そして、今このような“いい子”がいっぱいいます。(私は家庭内での暴力という形でこういう子の相談を受けることがあります。こういう子はしっかりと叱ってあげると落ち着くことがあります。叱って欲しいのです。)信念を持っていない人が厳しい子育てをすると、自己中心的で支配的な子育てをします。気分任せに叱り、筋が通っていません。そして、自分が間違っていても決して謝りません。このような子育てを受けている子は人の気持ちが読めなくなります。そして目立ちたがります。本当は肯定されたいのですが、目立つことで肯定されることの代償としているのです。ですからその気持ちを先生に理解してもらえないとトラブルメーカーになります。このように、“優しい子育て”とか“厳しい子育て”というように子育てを“優しさ”とか“厳しさ”で区分けしても意味がないのです。そうではなく、今求められているのはお母さんやお父さんのしっかりとした価値感に基づく信念なんです。それはお母さんやお父さんの生き方の問題です。結論として言えば、お母さんやお父さんが自分の信念を持ちしっかりと生きているなら、優しく育てようと、厳しく育てようと子どもはちゃんと育つのです。ちなみに“価値観”や“信念”とは“何を大切に生きているのか”、“何を守りたいのか”ということです。その基準をしっかりと持っていますか、ということです。それが“生きる自信”につながるのです。
2008.08.05
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子育てとは人間が人間を育てることです。それはただ、“からだを大きく育てる”ということだけでなく、知性や感情や感覚や魂を育て、人間が今までに作り上げてきたもの、つたえてきたものを受け継ぎ、また後生に伝える能力を育てるということです。親と同じ能力、親が受け継いできたものを子に伝えるというのはすべての生き物に共通した原則であって、この能力を受け継ぐことが出来なかった個体は生き延びることが出来ません。そして、種全体でそのようなことが起きるとその種は退化するか滅亡します。それは人間も同じです。これは私の勝手な予言ではなく、冷静に考えた時に必然的に導き出される帰結です。また、好き嫌いの問題でもなければ、価値観の問題でもなく、論理的な事実です。でも、最近の人類はこの原則を忘れ始めています。個人的、もしくは社会的な趣味、主義、価値観だけで子育てを始めたのです。そして、それは文明国の一つの特徴になりつつあります。個人のレベルでは子育てが親の個人的な趣味に任されるようになったため、その傾向がもっと進んで、非常に多種多様で雑多な子育てが存在するようになりました。確かに、今までも文明や文化の違いによって多種多様な子育てが存在していました。部族や民族ごとに異なった子育てをしていました。優しく育てている部族もあれば、非常に厳しく育てている部族もありました。そしてそこに優劣はありません。私も、どの部族の子育てが一番優秀だなどということを言う気はありません。また、そんなこと言えません。いろいろな子育てがあっていいのです。でもその方法は、何世代にもわたって部族の中で受け継がれてきた子育ての方法です。それだけはすべての部族で共通しているのです。部族ごとには様々な子育てがありましたが、その部族内では子育ては共通していたのです。そうでないと価値観が共有されないからです。価値観が共有されない時、その部族は崩壊します。子育ては、価値観から生まれ価値観を伝えます。どのように子育てをするのかということはもうすでに一つの価値観の現れであって、その価値観で育てられた子はその価値観を受け継ぐのです。それが人間が人間を育てるということなのです。また、何世代も受け継がれてきたということは先輩の言葉が役に立つということでもあります。また、発達に伴う子どもの変化も予想できるということです。また、みんなに支えてもらえるということです。でも、今その流れが断絶してしまっています。お母さん達はたった一人で子育てをゼロから模索しなければならなくなってしまっています。助けてくれる人はいません。また、次の展開が分かりません。今やっている子育ての結果として子どもがどのように育つのか予測がつきません。今やっていることが子どものためになっているのかどうかも分かりません。色々な本を読んでも、自分の子どものことは書いてありません。また、子育て方は価値観とセットになっていますから“とにかく楽になりたい”などと、自分の価値観と異なった価値観に基づく子育て方を取り入れてしまうと、あとで困ったことになります。そう言う意味で、現代の子育ては一種の賭になってしまっているのです。でも、時代は戻せません。子育てを統一することも現実的ではありません。だからこそ、現代の子育てでは学びが必要なのです。ただし、それは子育ての方法を学ぶのではありません。価値観が多様化してしまった現代社会には“正しい子育ての方法”などもうすでに存在していないからです。じゃあ何を学ぶのかというと、“子どものこと”を学ぶのです。彫刻家は木のことを学びます。料理家は素材について学びます。外交官は相手の国について学びます。それは当然のことですよね。これは価値観の問題ではありません。どんな価値観を持っていようと、子どもを育てるためには子どものことを学ぶ必要があるのです。どんな彫刻を作りたいのか、どんな外交をしたいのか、そしてどんな子どもを育てたいのかはその後の話です。そして、そこから先は個人の問題ですから自由に考えればいいのです。そこまでは私は関与しません。でも、自分が関わろうとしている相手のことを知らなければよっぽど運がよくなければ困ったことになります。そして、その一番有効な方法は子どもをよく観察することで子どもから学ぶという方法です。本を読むならそれを補うように読んでください。決して本が先ではありません。でも、子育てではなぜかみんな子どものことを知らないままで子育てをしているのです。これでは失敗して当たり前です。いつも同じことを怒鳴っているばかりで、同じことを繰り返している人は子どもの心とからだのことが見えていないのです。子どものことを学ぶと、子どもとの関わり方が見えてきます。子どもの成長の道筋も、子どもの心やからだの状態も見えてきます。何が必要で、何が害があるのかということも見えてきます。確かに、様々な子育てがあってもいいのですが、この子どもの現実を無視した子育てだけは肯定しません。なぜなら、子どももお母さんも苦しくなるばかりだからです。また、不安や不満を抱えた人間が増え、社会にも人類の未来にも悪影響を及ぼします。子育ては個人的なことであると同時に、ヒトという種の問題でもあるし、また社会的なことでもあるのです。それを“私の勝手でしょ”と言うのはただの“エゴ”であって、個人の尊重とは別の次元の話です。だからといって私は無理難題を要求しているわけではありません。また、お母さん達の価値観を否定しているわけでもありません。そうではなく、もっと楽に、楽しく、幸せになる子育てを提案しているだけなのです。子どもの成長に即した子育ては楽な子育てであると同時に、子どももお母さんも幸せになる子育てでもあるからです。子育てには二種類あります。“だんだん楽になる子育て”と“だんだん苦しくなる子育て”の二種類です。子どもの現実を受け入れ、それに合わせた子育てをしていると、最初のうちは辛いのですが子どもが成長するに連れてだんだん楽になって、思春期が過ぎれば子どもは自立して出ていきます。また、このような子育てでは子どもの成長を見守ることで、お母さんも子どもと一緒に成長することが出来ます。お母さんの“育ち直し”ができるのです。でも、子どもの現実に目を向けずに自分の趣味、価値観、都合を子どもに押しつけるような子育てをしていると、最初のうちは思い通りに子育てが出来ますが、子どもの自我の目責めと共にだんだん苦しくなっていきます。それでも“自分のやり方”を変えなければ、子どもの自然な成長が抑圧され、依存心ばかりが強く、自立できない子どもに育ってしまうこともあります。先日、語りと学童をやっている友人から聞いた話ですが、子どもの現実を無視した子育てをやっているお母さんがいて、“そんな子育てをしていたらそのうち金属バットになってしまうよ”と忠告したそうです。子どものことが分かっていればそういうことは見ていれば分かるのです。そうしたら、後日実際に“金属バット事件”が起きてしまったそうです。ただ、幸いなことに大きなケガにならずに済んだので大事にはならなかったそうです。確かに、いろいろな子育てがあってもいいのです。でも、結果として子どももお母さんもまた社会も不幸になるような子育てはやはり間違っているとしか思えないのです。
2008.08.04
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以下は昨日も載せたものですが、昨日行った某公民館(分館)の壁に貼ってあった“仲間募集”のチラシの文章です。集団生活を始める前の大切な時期だからこそいろんなことに何でも楽しみながら親子でチャレンジしませんか!子どもたちが自分で出席カードにシールを貼るなど自主性を育てながら季節に沿った活動内容で礼儀正しい子・友だちを思いやれる優しい心・自然を大切に出来る心が育ってくれたらと願う仲間の集まりです。みんなのルール大きな声であいさつしよう約束を守ろう!これを読んでみなさんはどんな感じがしますか。と問いかけたところrei-mさんから>子どもたちが自分で出席カードにシールを貼るなど自主性を育てながらここがちょっと微妙な感じがします。そういうことで本当の「自主性」って育つのだろうか?と。というコメントを頂きました。rei-mさんはこの部分に違和感を感じられたようですが、でも、多分一般的には全く違和感を感じない人の方が多いのではないかと思います。なぜならここに書かれていることはほとんどのお母さんたちが普通に持っている願いのように思えるからです。どんな時代でも親というものは子どもに願いをかけます。ですからそれ自体は自然なことです。でも、問題はそれがどのような視点からの願いであるかということなんです。つまり、“子どもの成長”、“子どもの一生”という視点からの願いになっているのか、それとも、ただ単に親の都合、大人の価値観の押しつけになってしまってはいないかということなのです。そして、ここに書かれていることのすべてが大人の価値観の押しつけに過ぎません。子どもには興味のないことばかりです。むしろ子どもの子どもらしい興味、行動を束縛するものばかりです。子ども自身が、“礼儀正しい子”になりたいなどと思うと思いますか。“友だちを思いやれる優しい心・自然を大切に出来る心”などを持ちたいなどと思っていると思いますか。子どもはいっぱいケンカして、いっぱいケガをして、いっぱいイタズラをして、いっぱい笑って、いっぱい泣いて、仲間たちと自然の中で一緒にハラハラ、ワクワク、ドキドキする遊びを山ほどして、結果として“友だちを思いやれる優しい心・自然を大切に出来る心”を育てるのです。“この文章を書いた人もそのような思いからこのように書いたのかも知れませんよ”と思われる方もいらっしゃるかも知れませんがでも、それは違うと思います。なぜなら、そのような視点を持っている人なら子どもたちが自分で出席カードにシールを貼るなど自主性を育てながら・・・大きな声であいさつしよう約束を守ろう!などというようなことは書かないはずだからです。この文章には子どもの成長への期待ではなく、子どもの行動への期待があります。ですから、この文章全体が“子どもの行動への期待”として書かれていると理解すべきだろうと思います。ですから、この会では“友だちを思いやれる優しい心・自然を大切に出来る心”も具体的な行動として子どもに求めているはずです。それは“ごめんなさいと言おうね”とか、“おもちゃを貸してあげなさい”、“仲良くしなさい”というような行動への強制です。つまり、“ケンカをすることで仲良くなるんだよね”とケンカを見守るようなことはしていないだろうということです。この文章からはこのような見守りの視点は一切感じません。“成長への期待”はいいのです。でも、“行動への期待”は子どもを束縛してしまうのです。そして子どもは大人の期待に応えようとしてしまいます。なぜなら大人の期待に応えて“いい子”にしていると、楽だからです。でも、そうすると子どもは成長への欲求を失ってしまうのです。行動への期待は調教と同じなのです。それは人間を育てる方法ではありません。(ただし、時としてそれが必要な場合もあります。)ケンカの例で言うと、いつもケンカを止められている子はケンカをすることに罪悪感を持つようになります。そしてケンカが出来なくなります。それで大人は満足かも知れませんが、ケンカが出来ないと言うことは友だちと深く関わることが出来ないと言うことを意味します。そして、トラブルを避けるようになり、表面的な付き合いしかできなくなります。そして、一度トラブルが起きてしまうと修復(仲直り)が出来なくなります。そのような人間関係が陰湿ないじめともつながっています。“成長への期待”は“見守りの視点”を必要とします。それに対して“行動への期待”は“監視の視点”を必要としています。この両者は似ているようでありながら子どもに対して全く正反対の働きかけをするのです。大人の価値観、都合に合わせて育った子を大人たちは“よい子”と呼んでいます。秋葉原の事件を起こした加藤も、父親を殺した京都の少女も大人の価値観に合わせて生きてきた“よい子”です。だから、大人の価値観を基準にして考えている限り何が問題なのか分からないのです。大人の都合に合わせて育ってきた子は思春期になって自分の足で立って生きなければならなくなった時にその足がないことに気付くのです。そして不安になるのです。これは励ますだけではどうしもないのです。どんなに励ましても肝心の足がなければ歩けないのですから。ちなみに“足”とは成長への意志のことです。
2008.08.03
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今日は川崎で子どもたちと森の中で遊んできました。午前中は、私があらかじめ撮っておいた森の中の写真のその“場所”を探す遊びをしたり、草笛で遊んだり、いろいろなものを集めて板に貼ったり、“もし、この森を子どもたちの公園に変えるとしたらどんな公園にしたいか”などということを考えたりして遊び、午後は森の中のものを使って簡単な造形をしました。以下の写真はその時の子どもの作品です。子どもたちはみんな素敵で、楽しくいっぱい遊ぶことが出来て時間を30分もオーバーしてしまいました。で、それはそれで楽しかったのですが、最初その会を主催している公民館(分館)に集まった時、壁に貼ってある“仲間募集”のチラシが目にとまりました。その内容は以下の通りです。集団生活を始める前の大切な時期だからこそいろんなことに何でも楽しみながら親子でチャレンジしませんか!子どもたちが自分で出席カードにシールを貼るなど自主性を育てながら季節に沿った活動内容で礼儀正しい子・友だちを思いやれる優しい心・自然を大切に出来る心が育ってくれたらと願う仲間の集まりです。みんなのルール大きな声であいさつしよう約束を守ろう!これを読んでみなさんはどんな感じがしますか。ということで、私の印象は明日書きます。
2008.08.02
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昨日、“正解はあります”と書きましたらプクプクさんから“正解をどうやって見分けるのでしょうか”というご質問をいただきました。それに対して私は以下のようにご返事を書きました。<プクプクさん>>そもそも「正解」かどうかはどうやって分かるものですか?>子どもを見ていれば分かる、のでしょうか。もちろん子どもが育ってから振り返れば「正解」かどうか分かるのでしょうけれど、今現在進行中の生活の中では、よく分からないのが本当のところです。-----<わたし>子どもたちが地面を掘って水を流して川遊びをします。水は毎回違って流れます。100回やれば100回違うように流れます。それは何度やっても同じです。川の流れ方に正解はありません。でも、水はその都度正解を動いて流れていきます。決してでたらめ、気分次第、思いつきでは動きません。それが物理法則です。じゃあ、その正解はどのように決めているのかというと水は正解を決めていません。正解は水が決めているのではないのです。水はただ、“こっちへおいで”という方に素直に流れていくだけです。するとそれが正解になります。だから素直な心とからだに任せてしまえばいいのです。するとちゃんと正解を選んで動いてくれます。それを頭で考えてしまうから正解が分からなくなってしまうのです。多くの人が“子育てや表現には正解がありません”と言っています。私もそう言っています。でも、正解を求めている人にはその言葉は理解できません。どうしていいのかも分かりません。それは“正解がない=自分勝手でもいい”というように聞こえてしまうからなのでしょう。そして、“自分勝手に子育てして子どもがちゃんと育つわけがない”と考えるのは正常な感覚です。実は昨日も書いたように正解はあるのです。その正解を知っているから“正解なんてないんだよ”と言い切れるわけです。言っている意味が分かりますか?絵の表現には正解がありません。どんな風に描いてもいいのです。でも、だからといってりんごを描かなければならない時に大根の絵を描くのは間違っています。対象を見ないで描くのも、絵の具をこねくり回して遊ぶのも間違っています。また、誰かの絵の真似をするのも間違っています。“どんな風に描いてもいい”とはいっても、確かにやってはいけないことはあるのです。そこが分からないから“正解なんてないんだよ”と言われると困ってしまうのでしょう。どうしてこんな間違いが起きるのかというと、それは“今自分は何を相手にして何をしなければならないのか”ということがちゃんと分かっていないからなんです。だから、“自由=デタラメ”としか解釈しようがないのです。つまり、自分の状況がよく理解できていないのです。だから自分で判断が出来ず、マニュアルなどで行動を指示して欲しくなるのです。そして、“自由にやっていいよ”と言われると不安になるのです。“りんごの絵を描きましょうね”とりんごを目の前に置かれたのに、その意味が分からず、目の前のりんごを見ないで、そのりんごとは無関係な別の人の画集を見てそれを写すようなことをしているのです。確かに、絵の表現には正解はありませんが、でも、そのようなやり方は表現以前のところで間違っています。そして多くの人が子育てでも同じようなことをしています。そのような人は“自分の絵”を描こうとしないで、“ゴッホのように描くのが正解ですか、それともルノワールの描き方の方が正解なんですか”と聞いてくるのです。そして、“いやいや、他の人の絵など気にしないで自分の絵を描けばいいのですよ”というと、“私は絵が下手だから”、“絵なんか描いたことがありません”、“絵の描き方なんか知りません”などと言うのです。でも、自分がしっかりと自分の絵を描こうとすればそれはどんな表現でも正解になるのです。でも、どんなに上手にモネの真似をしてもそれは不正解なのです。つまり、自分の立場、役割をしっかりと理解して一生懸命にそのことと取り組もうとする時にはすべてが正解になるのです。目の前のりんごを見て、一生懸命にりんごの絵を描こうとする時、その表現はすべて正解になるのです。それをせずに、他の所に正解を求めてしまうから正解ではなくなってしまうのです。美術館に行くと無数の表現に出会うことが出来ます。でも、それらはすべて正解です。でも、そのような絵を描く人は“上手に描こう”などとは考えていません。モネもドラクロアもゴッホもルーベンスも上手に描こうなどとは思っていなかったのです。また幼児の絵も同じです。だから幼児の絵は時として巨匠の絵に似ているのです。ここにも正解があるのです。正解を求めてしまうと正解(結果)を固定してしまいます。すると、それは正解ではなくなってしまうのです。現実の生活の中では固定されたものは正解ではないのです。固定された正解が通用するのは学校だけです。ですから、本を読んだりして正解を求めている人には“正解なんてないんだよ”と言います。そして、子どもと向き合って一生懸命頑張っている人には“すべて正解なんだよ”と言っています。実はその一生懸命に子どもと向き合おうとする生き方が結果を正解に変えてしまうのです。なぜなら、子どもがそれを正解として受け取ってくれるからです。子育ての場では、どんな立派な方法でも子どもがそれを受け取ってくれなければそれは正解にはならないのです。でも、どんなにへたくそなやり方でも、子どもが自分の成長の糧として受け取ってくれればそれは正解になります。子育てでは、“正解”は大人ではなく子どもが決めるのです。だから子どもの心とからだの声にしっかりと耳を傾けることが大切なんです。“正解”はそのような姿勢の中から自然と生まれてきます。なぜなら、子どもは子どもの心とからだの声に耳を傾けてくれる大人の人の言葉に耳を傾けてくれるからです。
2008.08.01
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