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(6月26日の「表現共育のワーク」の参加者募集中です。また、6月8日の「音遊びワークショップ」も参加者募集中です。詳しくは5/3のブログを参照してください。)******************************お母さん達に子どもへの言葉かけが多い言葉を聞くと、“早くしなさい”とか、“ちゃんとしなさい”、“静かにしなさい”などの言葉が多いのですが、“それで言うことを聞きますか?”と聞くと、素直に言うことを聞く子なんていません。もっとも、子どもがみんな素直にお母さんの言うことを聞くようなら、お母さんは子育てで悩んだりはしないのですからそれは当然です。でも、どうして子どもはお母さんの命令に従わないか分かりますか。簡単なことです。子どもは強制されるのが嫌いだからです。子どもはいつでも自分の意志で行動したいのです。全く全く、ただそれだけのことなんです。子どもは自分の能動的な意志を通して体験したこと、学んだことでないと吸収出来ないように出来ているのです。生理的にそのように出来ているでのす。能動的な意志が働かないと、学習脳が働き出さないように出来ているのです。ですから、命令で色々なことをさせても自分のものとして吸収することが出来ません。だから、命令を嫌がるのです。でも、お母さんはどうしても強制したいようなのです。強制して言うことを聞かせないことには気が収まらないようなのです。それは、“引く”と書いてある(心の)ドアを一生懸命に押して開けようとしているようなものです。そして、“開かない 開かない”、“どうしてこのドアは言うことを聞いてくれないんだ”と嘆き苦しんでいるのです。でも、“引く”と書いてあるドアは引けば簡単に開くのです。それに、子どもの心のドアはいつでも開きたがっているので、頑張る必要なんかどこにもないのです。ドアの前に立ってニコニコしているだけで子どもはドアを開けてくれるのです。それなのに、引いて開けるべきドアを押しているから開かないのです。そして、“うちの子は頑固だ”と言っています。でも、それって変ですよね。ちなみに、無理に押し続けたらドアが壊れてしまって元に戻らなくなってしまうこともあります。お母さんは“開いた!”と喜ぶかも知れませんが、そうなってしまった子どもは一生苦しむことになります。子どもを走らせたいだけなら、一緒に走れば子どもは簡単に走り出すのです。でも、多くのお母さんが自分は走らないで子どもだけを走らせたがるのです。でも、子どもは走りたい時には走りますが、命令されると逆に走りたくなくなるのです。それで、お母さんはもっと強く命令するようになります。それで、抵抗することを諦めた子どもはしょうがなくて走り出します。そうして、お母さんは満足します。でも、大切なことは命令に従わせることではなく、子どもが自分の意志で走るようになることなのではないですか。お母さんも一緒に走って、“走るって楽しんだ”という体験をした子は、次第に一人でも走ることを楽しめるようになります。でも、命令で走らされている子は、お母さんが見えなくなると隠れて休んでしまいます。だから、いつまでも命令していないと動かなくなってしまうのです。でも、次第に子どもが成長して親の権威が落ちてくると、当然のごとく平気で命令を無視するようになります。そして、この頃になると今度は引いても開かなくなります。(心の)ドアが鍵を掛けてしまうからです。その鍵は本人にしか開けることができません。それが思春期頃です。お母さん達がどうしてこのような状態になってしまっているのかというと、それは、お母さん達自身も子どもの頃「自分の意志」を大切にされてこなかったからです。意志を否定され、正解に合わせて型にはめ込まれるようにして育ってきたので、他のやり方が分からないのです。そしてそれは、自分の心のドアの開け方も分からなくなってしまっているということでもあるのです。引く”と書いてあるドアを押され続けてきたので、自分でもその開け方が分からなくなってしまっているのです。だから、苦しいのです。だから子どもとの関わりを、毎日の生活を楽しむことが出来ないのです。科学寅さんやモアイさんのように自分の心の開け方を知っている人は子どもの心の開け方も分かるのです。だって、大人の心も子どもの心も基本的に同じ構造になっているからです。但し、子どものドアは大人に感応して開きますが、大人のドアは自分で開けないと開かないというだけです。では、心のドアに鍵を閉めたままで心のドアの開け方が分からない人はどうしたらいいのかということです。まず、子どもの心のドアを開けてみましょう。押してダメなら引いてみればいいのです。子どもを走らせたいのなら一緒に走ってみればいいのです。子どもが楽しそうにやっていることならお母さんも混ぜてもらえばいいのです。ただ、ニコニコしながらドアの前に立っているだけでもOKです。そうして、子どもを信じてみて下さい。すると子どもは簡単に心のドアを開きます。子どもはいつでもドアを開きたくてウズウズしているからです。きっかけをまっているのです。お母さんが押さなければ子どもは自分からドアを開けるのです。そうしないと成長出来ないからです。お母さんはそんな子どもの姿から心のドアの開け方を学んで下さい。きっと子どもはよい先生になってくれると思いますよ。また、きっかけがあったら“表現ワーク”にも参加してみて下さい。表現には心のドアを開ける力があるからです。というより、心のドアを開けないと表現は出来ないのです。自分を表現することから逃げる人のドアはずーっと閉じたままです。
2008.05.31
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(今回は個々のコメントにはご返事しなくて、今日のブログをご返事代わりにさせて頂きます。また、表現共育のワークの参加者募集中です。)***************************なんか「懺悔大会」のようになってしまいましたね。確かに私は昨日書いたように、抑圧と命令と脅しで子どもを支配しようとしているお母さんが多いことに大きな問題を感じています。このままでは日本の社会はもっともっと困ったことになってしまうのではないかという危惧も持っています。でも、勘違いしないで欲しいのはだからといって私は皆さんに“聖人君子になって下さい”とか、自己犠牲を要求しているわけではないのです。これでは“子どもが勝つか、お母さんが勝つか”という発想になってしまいます。でも、多分皆さんには聖人君子の才能はありません。私にもありません。だから、聖人君子を目指す限り子育ては失敗します。挫折感ばかりが強くなってしまうからです。実は、子どもを支配してしまう日本のお母さん達(大人たち)の根本的な問題はこの「二者対立的な発想」なのです。なんで子どもと自分の利害を対立させて考えてしまうのでしょうか。(夫婦の利害も、学校と親の利害も)なんで、“正解”と“不正解”を分けて、対立させてしまうのでしょうか。“正解”を固定して考えてしまうから、自由な発想ができないのです。いつもいつも繰り返し書いていることですが、子育てにも、子どもの育ちにも正解などありません。子どもとの生活を楽しむことが出来て、自分の人生を楽しむことが出来る子どもが育てばそれでOKなんです。その楽しさの中に人間として大切なことはみんな入っているのです。正解は細部にあるのではなく、全体のバランスの中にあるのです。全体がそれなりにバランスが取れていれば、細部はどうだっていいのです。でも、ほとんどの人が全体のバランスを無視して細部にばかりこだわります。だから子どもが自立出来なくなってしまうのです。バランスが悪いので、自分の足で立つことが出来なくなってしまうからです。全体のバランスが取れてくれば細部は自分の個性に合わせた形で自然と落ち着いてくるのです。それが“個性”というものです。その際、細部はみんな同じでなくてもいいのです。でも、不安が強い人、自分のバランスが崩れている人はどうしても細部に拘ってしまうのです。そして、子どもにも自分と同じ形の細部を要求します。自分の価値観を押しつけるのです。その結果、お母さんの不安が子どもにも受け継がれていきます。それは、“細部”は見ることが出来ますが、全体は見ることが出来ないからです。全体の状態は“感じる”という方法でないと知ることが出来ないのです。それが、“観る”とか“聴く”という方法です。“見る”とか、“聞く”という方法では全体の状態を知ることは出来ないのです。その時に必要なのは、五感の感覚ではなく、心の感覚なのです。でも、不安がその心の感覚が働くのを邪魔するのです。その不安は自分が幼い時から抱えてきた不安です。“正解を答えることが出来ない子はダメな子だ”と親や先生から脅迫され続けてきたことから生まれてきた不安です。それは大人が細部ばかりを子どもに要求してきた結果です。ぴぴさんさんが書いておられる今日も歯磨きしないことにチャイルドシートから降りてしまうことに雨なのに自転車に乗るといって聞かないことに物を投げたり、おもしろがってお友達に意地悪したり、というようなことはみんな“細部”です。“じゃあ、こういうことを放っておいていいのか”と思われるかも知れませんが、でも、子どもは細部に拘ろうとするお母さんに反発したがるものなんです。子どもの反発はお母さんの押しつけへの反動なんです。ですから、お母さんが押しつけようとしている限り問題はよけいにこじれてしまうのです。歯磨きはお母さんと同じ時間にお母さんと一緒にするようにしてみて下さい。無理にやらせようとするのではなく、家事の手を休め、テレビを消して、一緒に歯磨きを楽しんで下さい。チャイルドシートから降りてしまう子は活動的な子です。だから、いっぱい歩いたり、運動させてあげて下さい。近い距離なら歩くようにして下さい。雨なのに自転車に乗りたがる子は楽しいことを知っている素敵な子です。物を投げたり、面白がってお友達に意地悪してしまうのはお母さんの(心の)真似をしているだけです。友達と一緒に遊ぶ楽しさを伝えてあげて下さい。懺悔的なコメントが多い中、科学寅さんやぬくみずさんやモアイさんはもっと大きな視点からのコメントを書いて下さいました。科学寅さんこの解決策を、私は、先生や親に怒るよりもそういう大人の余裕の無さに原因があるのですから「面白がって、子どもを見る」人の関心の向け方の面白さ、好奇心の動きに注目することをオススメします。ぬくみずさんあるとき、「子どもは本当は自分で何でもやりたいんだ」「やりかたがわからなくてできないなら一緒に考えればいいんだ」、「何でもやってあげるのではなく自分でできるようサポートしてあげればいいんだ」と気がつきました。モアイさん 私も寅さんと同じ姿勢です。"子供を観察する。"子供のやっていることに関心を向けるのではなくて子供の関心を持っているところに関心を持つ。子供の行動を通して子供の脳みそを覗く感じなのです。そういうことなんです。昨日、CDレンタルのTUTAYAから「コレカラ」という雑誌の見本を送ってきました。その中にターシャ・デューダーという人の4枚の写真が付録で入っていました。その素敵な写真を見て、何か遠い過去を想い出すような感覚に襲われドキドキしてしまいました。ターシャ・テューダー現在92歳のアメリカの絵本作家ターシャ・テューダー。彼女は、いまもアメリカ・バーモント州の村の18世紀農家風の家で、ひとり豊かに暮らしています。ガーデニングを楽しみ、動物達に囲まれ、自然の恵みを生かして、ろうそくやジャムなどを手作りする毎日。そして絵本作家として創作活動を続けています。それで、ネットで彼女のことを調べてみました。そうしたらNHKのあるホームページで彼女の記事を見つけました。そこには彼女の言葉が紹介されていました。「人間は欲が深くて 満足を知らない」って私も賛成よでも人生は短いのよ充分に楽しむためには まず手に入れたものに感謝すること文句を言っている暇などないの目の前にある幸せを 精一杯味わうことよターシャの言葉 ~NHK「ターシャからの贈りもの」より~聖人君子にはなれなくても、人生を楽しむことは誰にでも出来るのではないでしょうか。せっかく生まれてきた人生ですから死ぬまでは思いっきり楽しんで“生まれてきてよかった”という生き方をしましょうよ。そうじゃないともったいないですよ。生命を大切にすると言うことはそういうことではありませんか。その楽しさを子どもに伝えようとする時、自然と子どもは素敵な人間に成長していくのですよ。
2008.05.30
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最近、非常に気になっていることがあります。それはお母さん達が子どもを脅かしている姿を色々なところで見かけることです。先日も、ある親子遊びのワークの時に、何かのきっかけで泣き出した子がいました。そうしたらお母さんが、“泣きやまないんなら帰るよ、ほら早くリュックを持って!!”と怒鳴っていました。でも、子どもは帰りたくて泣いているわけではありません。問題は別の所にあるのです。でも、その元の問題には目を向けないで、ただ子どもを泣きやませることしか考えていないのです。また、お店などでも“言うこと聞かないんだったら○○買ってあげないよ”とか、“大人しくしていないとゲームやっちゃだめだよ”とか子どもを脅迫しているお母さんがいっぱいます。子どもを支配するために子どもを脅迫しているのです。“勉強しないと落ちこぼれるよ”も同じです。何でお母さん達は子どもを脅迫するのでしょうか。子どもが泣くのにも理由があります。子どもが言うことを聞かないのにも理由があります。子どもが騒ぐのにも理由があります。でも、見ているとお母さん達はそんな理由には一切関心がないようです。一応、“何で泣くの”とは聞いてみますが、子どもには自分の気持ちを説明出来る能力がありません。それは大人が共感によって感じ取るしかないのです。でも、子どもがちゃんと説明出来ないことに苛ついたお母さんは子どもに命令し、支配しようとし始めます。お母さんにとっての切実な問題はただ一つ、“子どもが言うこと聞かない”、ただそれだけなんです。その場合、お母さんは被害者で、子どもが加害者だと考えています。それで、被害者であるお母さんは、理不尽な要求を繰り返す加害者の子どもに対して自分の要求を通すために様々な手を使います。とにかく、自分は被害者なんですからどんな方法でもそれは正当化されるのです。そのような考え方では虐待も正当化されるわけです。悪いのは虐待されるような原因を作る子どもの方なんです。そして、怒鳴ったり、叩いたり、また子どもの大好きなものを取り上げたり、“言うことを聞いたら○○してあげるね”と餌をちらつかせたり、“○○しないと△△になってしまうよ”と不安をかき立てたり、逆におだてたり、なだめすかしたりというような、ありとあらゆる方法を使います。そして、子どもが言いなりになると“いい子ね”、“えらいね”と褒めます。もちろん、全部のお母さんがそうだとは言いません。でも、悲しいことにそのようなお母さんの方が圧倒的に多いように感じるのです。そして、どうもそれを“仕付け”と考えているようなのです。でも、“支配”は“しつけ”とは違います。“支配”は奴隷や家畜や兵隊を育てる方法です。そんな方法で“人間らしい人間”を育てることなど出来ないのです。どんなに上手に子どもを支配しても、それは子どもの仕付けにはならないのです。その証拠は子どもが思春期になる頃に現れてきます。楽しみに待っていてください。でも、それはお母さん達だけの問題ではありません。周囲もまたそのような“仕付け”をお母さんに求めているのです。お母さん達はその期待に応えているだけなのかも知れません。わが子が電車の中で騒いでしまったら、“子どもの仕付けも出来ない親”として、みんなの冷たい視線を浴びることになります。でも、うるさいと思ったのなら、その人が“坊や、電車の中では静かにしてね”と教えてあげればいいのです。それだけのことです。それが社会人としての義務でもあると思います。でも、その義務を果たさず、その責任を母親一人に押しつけています。そんな時、子どもやお母さんに怒鳴ってしまう人もいますが怒鳴って子どもを静かにさせても、子どもは恐怖を学ぶだけです。また、お母さんに文句を言ってもお母さんが怒鳴るくらいで子どもが言うことを聞くわけがありません。そんな時、“おじさんが怒るから止めなさい”と子どもを説得する親もいますけど、それも仕付けにはなっていません。今の日本の社会では、子どもを上手に支配することが出来ないお母さんは未熟な親として見られてしまうのです。そして、“おすわり!”と言われたら、ズーッと静かに座っていることが出来るような子どもを育てることが出来るお母さんが優秀なお母さんだと思われています。でも、これっておかしいと思いませんか。繰り返しますが、子どもが泣くのにも理由があります。子どもが言うことを聞かないのにも理由があります。子どもが騒ぐのにも理由があります。どうして、その理由を子どもの立場に立って考えようとしないのでしょうか。そんなことをしたら自分が加害者になってしまって困るのでしょうか。でも、それは親の義務なのではないかと思うのですが・・・。PS>“他の地方にも同じような活動をしている人はいないですか”と時々聞かれますが、多分滅多にいないと思います。多くの活動している人は、先ず演劇や造形やコミュニケーションなどの自分の専門を学んでその専門分野の中で活動しています。でも、私は自分の子育てを通して必要になったものを順次学んでいくという形を取ってきましたので発想が逆なんです。私はもともと素人なんです。その素人が必要に迫られて子育てに必要な様々な要素を学んでいったら結果として、演劇や身体表現や造形表現や音表現や物語といった様々な世界につながってしまったということなんです。逆に言えば子どもの育ちはそれだけ多くの世界とつながっていると言うことなんです。子どもを中心に考えていったら、過去とも未来とも、世界や自然ともつながってしまうのです。だから子育ては面白いのです。その面白さを追いかけてきたらこうなってしまったというだけのことなんです。だから私の活動には“専門”がないのです。私は何でも出来る素人なんです。
2008.05.29
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今日は表現共育ワークのお知らせです。都筑区で行う大人向けのワークと、茅ヶ崎で継続して行う子ども対象(大人も可)のワークです。********************************先日、ある幼稚園の場所を借りて親子一緒の表現ワークをやりました。参加者はその園の卒園生が中心です。「子どものあんな楽しそうな顔、久しぶりで見ました」という感想も聞かれ、非常に楽しい会になりました。帰り際に、あるお父さんと話しをしていて、“今、こういう活動が本当に大切なんですよね”という話しになりました。子どもの時に充分に子どもを体験してくることが出来なかった人は、大人になっても自分を出し切れません。どっかで自分を押さえて、体裁を取り繕って生きています。だから生き生きと自分の人生を生きることが出来ません。また、そのお父さんは“私の世代の親は幼い頃のトラブルを引きづったままの人が多い”というようなこともおっしゃっていました。テクニックとしての“表現”ではなく、“ありのままの自分を表現していくこと”、今そういう活動が本当に必要な時代なんだろうと思うのです。ということで、今度は大人向けの表現共育ワークをやります。是非、大勢の方の参加をお待ちしております。ちなみにこの企画は横浜の気質の勉強会の卒業生達が中心になって企画をしてくれました。(保育はありません。ご了承下さい。)日時:6月26日(木曜日)10:00~12:00(15分前位に集合)場所:横浜市都筑地区センター 機能回復訓練室(都筑区葛が谷2-1)地図は http://www.tsuzukicenter.jp で確認なさって下さい。参加費:1600円<備考> 動きやすい服装でおいで下さい。 スカートは不可です。参加希望者は私の所までメールをお願いします。**************************それと、9月から茅ヶ崎で第1,3木曜日の3:30~5:00まで、毎月という形で、子どものための表現共育クラスを作ります。大人も一緒に参加するのは大歓迎です。7月に体験会をする予定です。ただし、まだ会場が取れないので体験会の日程は未定です。募集対象は幼稚園の年中~小2までです。ずーっと継続して続けますので、学年が上がった場合はそれ以上でもOKですが、新規の方は小2までとさせて頂きます。その年齢を過ぎてしまうと自意識が強くなってしまい、素直に自分を表現することが難しくなってしまうからです。内容は、声を出したり、歌ったり、踊ったり、動いたり、遊んだり、絵を描いたり、ものがたりを作ったり、劇遊びをやったり、民族楽器で遊んだりということを考えています。表現を遊びとして総合的に扱っていこうと思っています。参加費は月謝という形で月3000円(子ども一人)になります。(大人はスタッフとしても働いてもらいますので参加費不要です。)年に数回、音楽演奏家や、ダンスをする人など様々な表現の専門家を呼んで一緒に楽しみたいと思っています。(その時は別途+α必要になるかも知れません)詳細が決まりましたら、またお知らせします。
2008.05.28
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昨日、nativemindさんが先日、発達の検査をしました。結果をみてお話するときに心理士さんがこうおっしゃいました。「お家で何かのトレーニングをして、このテストの点数をあげる方法はいくらでもあります。でも彼の時間をそれに費やすのはもったいないなと思います。たくさんのことを経験させてあげて、そのときに丁寧に言葉がけをしてあげてください。と書いて下さいましたが、これは障害の有無に関係なく大切なことです。今子どもたちはテストの点数を上げるための勉強ばかりやらされています。とにかく、点数が上がれば大人は満足するのです。それが大人同士のゲームになってしまっているのです。そして、子どもはゲームのコマに過ぎなくなってしまっています。だから全国テストなどでは学校ぐるみでインチキなどをするのです。親も、点数を上げることしか考えていません。その結果、子どもは自分の育ちに必要なことを学ぶことが出来なくなってしまい、思春期頃になってトラブルが続出してくるのです。また、それはnativemindさんが書いて下さった>時々、「僕、勉強苦手、できないよ」と子どもが言います。そんなときになんて言おうって思います。ということともつながってきます。親が点数競争の価値観に縛られたままでは、あきらめと、気休めしか言うことができません。さらに、親の言葉は子どもの成長に伴い次第に子どもの心には届かなくなります。仲間や先生の言葉の方が重くなるのです。ですから、言葉で説得するだけでは子どもを納得させることは出来ません。ではどうしたらいいのかというと、親自身が点数に縛られない新しい価値観に目覚めていくしかないのです。例えば“美味しいパンを作ることの喜び”、“草花を育てる喜び”、“困っている人たちのために働く喜び”、“何かの技術を学ぶことの喜び”、親自身がそういうことを大切にする姿を子どもに見せてあげる必要があるのです。そうして、“点数”という価値観などで人間としての価値を決めることなど出来ないということを子どもに体験させてあげるのです。そしてそれは全ての子どもたちに必要な体験です。“生き物を育てる喜び”“仲間と遊ぶ喜び”“何かを作る喜び”“頑張る喜び”人は、そのような“喜び”の中に自分を発見するのです。そして、他人との比較や点数によらない新しい価値観に目覚めるのです。喜びの体験が価値観を創り出すのです。(これをうまく使って洗脳することもできます。だから、現実とつながっているということが大切なんです。学校の成績やゲームで勝って得られる喜びは現実とつながっていませんからね。)でも、、母さん達に趣味や大好きなこと、“これをやっていると嬉しい”ということを聞くと、思いつかないお母さんがいっぱいいます。毎日の生活の中に“喜びの体験”がないのです。それでは、簡単に比較による点数競争に巻き込まれてしまうでしょうね。人は、“喜びの体験”が少ないと不安が強くなってしまうのです。すると自立出来なくなります。“喜びの体験”には不安を消す力があるのです。だから、子どもは一時の喜びの体験を求めてゲームにはまってしまうのかもしれません。でも、ゲームでの喜びは現実とつながっていないので虚無的なんです。
2008.05.27
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子どもは話しかけられなければ言葉を覚えることが出来ません。仲間がいなければ言葉の使い方を学ぶことができません。本を読まなければ学問の世界に入ることが出来ません。手を使わなければ工夫の仕方を学ぶことは出来ません。からだを使わなければ意志が育ちません。見たことも聞いたこともないことを学ぶことは困難です。遊んでいる子どもたちを見たことがない子は遊び方が分かりません。勉強している人を見たことがない子は勉強の仕方が分かりません。助け合っている人を見たことがない子は助け合うということが分かりません。こういうことは当たり前のことです。多くの人が、子どもは年齢が来たら自然に話し出し、自然に考えることが出来るようになり、自然に群れて遊ぶことが出来るようになり、自然に勉強するようになるなどと考えているようですが、それは全くの勘違いです。原因がなければ結果は生まれないのです。かといって単純に、“教えればいいのか”というとそれも違います。その点も多くの人が勘違いしています。子どもは見たことも、聞いたことも、体験したこともないようなことを教えられても学習できないのです。それは全ての動物に共通する学習システムです。オオカミが子どもに狩りの仕方を教えるのも、鳥が子どもに飛び方を教えるのも、猿が子どもに餌の捕り方を教えるのもみなやって見せて学ばせるのです。子どもは見て、模倣します。その間違いを大人は修正します。そしてうまく出来たら褒めます。そういう形の教育はできます。でも、見せないで、模倣もない状態で、大人が子どもに何かを伝えることは出来ないのです。動物の学習システムの基本は模倣なんです。それは人間も例外ではありません。教科書だけで自転車の乗り方、泳ぎ方を教えることは出来ないのです。確かに、教えることで知識を暗記させることは出来ます。何かを理解させることも出来ます。でも、その知識は使えない知識です。使い方は模倣によって学ぶしかないからです。“分かる”ということと、“使える”ということは全く別の問題なんです。“使える”ということは他の知識とのつなげ方を知っているということです。そしてその“つなげ方”は一種の技術なので、模倣で学ぶしかないのです。そして、使えない知識を詰め込んでも心もからだも感覚も動きません。それはつまり、そんなものいくら詰め込んでも自分の人生を生きる助けにはならないということです。むしろ、生き生きとした心やからだの働きを阻害してしまうので、自己肯定観も低くなり、虚無的になってしまいます。逆に言えば、心やからだや感覚とつながって入ってこない知識や理解は役に立たないということです。その知識や理解が心やからだの感覚とつながっているから、思考とつなげることができるのです。なせなら、思考は心とからだの感覚の延長にしか働くことが出来ないからです。(詳しくお知りになりたい方は最近の脳科学の本を読んでみて下さい。私は今「日本人の脳に主語はいらない」(月本洋著/講談社)というのを読んでいます。茂木さんや養老さんの本も面白いです。)子ども時代は、知識を覚える時期ではなく、模倣を通して知識の探し方、使い方を学ぶ時期なんです。例えば、「ヨモギ」という草があります。そのヨモギのことを本で読んで書いてあることを全部覚えても無意味です。まず、野原に行きます。そこで“この草なんて言うんだろうね、いい匂いだね、帰って調べてみようか”という感覚との触れ合い、そして大人や仲間との対話があります。そして、食べることが出来る、乾かしてモグサにすることが出来るなどということが分かったら、実際に天ぷらにしたり、ダンゴにしたり、モグサにして遊びます。こういう体験を通して“よもぎ”の事を知るのです。何回も繰り返してこのような体験をした子どもは、他の全ての知識にもこういう背景があるのではないかということが推測出来るようになります。だから、今度は自分一人でも出来るようになります。するとこのような体験をした子と、しない子とでは知識への理解度の深さが格段に違ってくるのです。そして、知識を使える形で学ぶことが出来るようになります。すると応用力が身に付きます。学校で教わった知識の背景に興味を持つことが出来た子だけがさらに先に学習を進めることが出来るのです。それはつまり、知識を一つの物語の一部として読み解くということです。だから学ぶことが楽しくなるのです。そして、このようなことは模倣によってしか伝えることが出来ません。でも、実は模倣以外にも子どもに何かを覚えさせるシステムもあるのです。それは“調教”という人間だけが考え出した方法です。調教では模倣は必要ありません。そして短時間で効果を上げることが出来ます。使うものはアメとムチです。模倣という方法では猿やライオンに芸を仕込むことは出来ません。でも、調教という方法ならそれが可能になるのです。そしてその方法はマニュアル化することが出来ます。だから、その方法をきちんと学べば、誰でも簡単に子どもを思い通りに調教することが出来るはずだ・・・と思いこんでいます。ちなみに、洗脳は調教の仲間です。でも、模倣で学んだ子どもたちは自立出来ますが、調教で学んだ子どもたちは自立出来ません。アメとムチがないと動けないからです。いつまでもアメとムチを与えてくれるご主人様が必要なんです。でも、その調教に拘っている人を説得するのは困難なことです。なぜなら、調教が好きな人は、自分もまた調教されて育った人が大部分だからです。そして、調教で育った人は自分の頭で考えることが出来ません。また、自分に都合が悪くなると怒り出すようにプログラムされています。だから、説得が非常に困難なんです。これは洗脳された人も同じです。ですから、そういう人を見分けるのは簡単です。自分の考え方や行動のパターンを決して変えようとしないからです。そして、話し合いには応じず、自分に都合が悪くなると怒り出します。そして、日本ではそのように調教を受けて育った人たちが政治や教育現場の中心にいます。“寄らば大樹の陰”、“長い物には巻かれろ”的な、自立していない政治家、自立していない校長先生がいっぱいいます。
2008.05.26
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今日は、ぷくぷくさんの小学校のころは基礎を学ぶので、小学校の勉強がわからないと、ずっとわからないでいってしまうのでは、と考えていました。だからついていけるくらいのところではいたほうがよいかなぁと。それも余り気にしなくてよいのでしょうか。というご質問に簡単にお答えします。まず、中学の勉強の基礎は小学校の勉強ではありません。それは小学校の勉強の基礎が幼稚園で先生が教えてくれることではないのと同じです。いや、本当はそうなっていないとおかしいのですが、日本ではそのようにつながっていないと言うことです。それは、幼稚園から大学までを子どもの成長に合わせた一つながりとしてカリキュラムが考えられてはいないということです。現在の日本の学校の教育システムは子どもを評価するための勉強が中心になってしまっています。その証拠に、点数という形で評価出来ないような内容の勉強は教えていません。また、本来評価など出来ないような内容のものでも、評価しやすい形に変換して教えています。カラオケで歌を点数化するようなものです。そしてそれは、先生の評価、学校の評価のためでもあります。また、入試で子どもを選別するためにも評価が必要です。日本の大人は自分の目と感性で子どもの能力を判定出来ないので点数という分かりやすい評価がないと不安になってしまうのです。ですから、「子どもの能力=点数」ではないのですが、無理矢理「子どもの能力=点数」ということにしてしまっているのです。先日、お母さん達のワークで“お子さんの長所を教えて下さい”と聞いたら、“子どもの長所が分からない”と答えられたお母さんが結構いました。その中の一人が、「先生からのお便りなどに“お子さんにはこういういいところがありますね”と書いてあると、“ああ、それがうちの子の長所なんだ”と分かるんですけどね」とおっしゃっていました。日本の学校では評価のために勉強を教えているだけで、その事を学ぶことが子どもの成長にどのような意味があるのかという視点でカリキュラムが考えられていないのです。また、子どもの心とからだの成長の特性に合わせた形でカリキュラムを考えるという視点もありません。実は、小学校時代は点数などでは評価出来ない能力を育てるべき時期なんです。それは簡単に言ってしまうと“人間として人間らしく生きて行くために必要な能力”ということです。そして、それは学校を出てから必要になる能力です。社会の中で自立して生きていくための能力、良好な夫婦関係、地域の人たちのとの関係、職場の人たちとの関係、そして子どもとの関係を築くために必要な能力です。また、子どもが将来楽しい子育てをするための能力も小学校時代に育てるべきことです。実際、社会に出てしまったら職場でも、家庭の中でも、子育ての現場でも皆さんの学歴や成績など全く関係がないでしょ。学校の外で問われるのは皆さんの人間としての能力そのものなんです。でも、日本の教育システムの中にはそういうものを育てるという発想がほとんどありません。だからみんな学校を出てから困ってしまっているのです。そして、実は小学校時代にそのような人間としての能力を育てることこそが中学以降の学習の能力の基礎になっていくのです。それは、手を使って工夫することを学ぶこと。本をいっぱい読む習慣を付けること。仲間と仲良く協力し合う能力を育てること。自分の考えや感じたことをきちんと説明出来る能力、また人の言葉にきちんと耳を澄ますことが出来る能力を育てること。仲間とのコミュニケーション能力、大人とのコミュニケーション能力を育てること。からだを動かすこと、学ぶことの楽しさをいっぱい体験すること。みんなと一緒に助け合い、活動をする楽しさをいっぱい体験すること。などなどです。中でも小学校時代に楽しく本を読む能力を育てることが出来なかった子は、中学以降の勉強には付いていくことは出来ません。これは断言出来ます。中学二年生あたりから勉強に付いていくのが困難になってくるでしょう。(必死で勉強すればなんとか付いていくことは可能かも知れませんが・・・・苦しいでしょうね。)残りの要素は学校を出た後に大きな意味を持ってきます。どうですか、小学校の成績にこのようなものは含まれていますか。含まれていないでしょ。だから、小学校時代の成績なんてそんなに気にする必要はないのです。ただし、あまり成績が悪いと劣等感と心の傷を作ってしまう恐れがあります。そうすると、中学校に入っても能力を発揮することが出来なくなります。実際、幼稚園、小学校の低学年頃には生き生きとして素敵な子どもだったのに高学年になり、成績が気になるようになってくると能力はあるのに劣等感に囚われてしまってその能力を発揮出来なくなってしまう子が少なくないのです。そういう子どもを見ていると悲しくなります。そういう子の場合、その子の親も子どもの能力を成績で評価してしまっているのです。だから、能力があってもそれを劣等感につなげるばかりで、肝心の勉強につなげることができないのです。だから、小学校時代の成績は人間としての能力にはあまり関係はないのは事実なんですが、実際には普通程度の成績は必要になるのではないかと思っています。でも、くれぐれも子どもの能力を成績で評価などしないで下さいね。
2008.05.25
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私が子育てを通して心がけたことは“言葉を伝える”ということでした。自分の頭で考えるためには、考えるための言葉が必要だからです。言葉が脳の中に人間としての思考回路を創るのです。ですから、どんなに知識をいっぱい詰め込んでもきちんとした言葉を持っていない子は考えることが出来ません。 そして、当然のことですが考えるための言葉を持っていない子は自立出来ません。また、体験から学ぶことも出来ません。体験を処理してそこから何かを吸収するためには考える言葉の働きが必要だからです。ですから、きちんとした言葉を伝えることは“自立した賢い子“を育てるためには絶対的に必要な条件なのです。 昔、家族の人数が多く、人々が地域社会と強く結びついていた時代には子どもたちも普通に生活しているだけで多くの人と多様な場面で関わり合うことが出来ました。それはまた、多様な言葉との出会いの場を子どもたちに与え。子どもたちは普通に生活しているだけで多様な言葉を学ぶことが出来ました。不便な生活は考える言葉を必要とする生活でもあったのです。 でも、生活が便利になり、核家族が増え、兄弟も減り、地域とのつながりも希薄になってしまった現代では幼児期に子どもが言葉を学ぶ場がなくなってしまったのです。現代人の生活は言葉を必要としない生活なのです。(いつも言っていることですが、テレビで言葉を学ぶことは出来ません) 多くの人が、それを“現代スタイル”と安易に受けいれていますが、その流れに乗ってはいけません。なぜなら、上に書いたように考える言葉を身につけることが出来ないということは自立することも、成長することも出来なくなってしまうと言うことを意味しているからです。 現代では、自立出来ない人間、成長しない人間も当たり前になってしまいましたが、自分の子どもがそうなってしまうのは嫌でしょ。だから、子どもにはちゃんと言葉を伝えて欲しいのです。 ということで、私はどのようなことをしたのかということを書いてみます。 まず、出来るだけ状況に合わせて具体的に話しかけるようにしました。 例えばミカンを取ってもらう時も、“一番大きなミカンを取って”と言いました。これは“一番黄色いの”でも、“一番上の”でも、“一番美味しそうなの”でも構いません。ポイントは“ミカンはみんな同じではないんだよ”ということに気付かせるような言葉かけです。 こう言われると、子どもはただ“ミカンを取って”と言われるより意識してミカンの山を見るようになります。そして、それを選ぶこと自体が楽しい遊びになります。一番丸いミカンは転がして選ぶかも知れません。但し、このような事は“遊び”として考えてください。 ミカンを美味しそうなもの順に並べたり、黄色い順に並べたりして遊ぶことも出来ます。そして、そのような言葉かけをするだけで子どもの意識は広がるのです。そして、“大きい”とか、“丸い”とか、“黄色い”という意識で他のものも見ることが出来るようになります。 こういう“違い”というものに気付かない子は論理的に考えることができません。その違いに気付かせるためにも言葉が必要なのです。 そして、またこのような遊びは子どもの成長にも適っているのです。 兄弟が多い時には、おやつの奪い合いをしました。その時“どっちの方が大きい”とか、“どっちの方が美味しそうだ”ということは子どもたちの間で重要な問題だったのです。ですから、子どもたちは相手を説得するために様々な言い訳やこじつけを考えました。そして、自然とそのような概念を学ぶことが出来ました。でも、一人っ子の場合はどれでも自由なのでそういうことを考える必要がありません。 また、最近はお母さん達が子どものケンカをすぐに止めてしまいますが、ケンカの場面ではこのちょっとした“違い”というものが非常に大きな意味を持ってきます。子どもはケンカの場面では自分の理屈を通すために必死になって考えるのです。だから子どもはケンカという体験を通して、非常に多くのことを学ぶことが出来るのです。 だから、子どもがケンカしたら一方的に“悪者”を決めずに、両者の言い分をしっかりと聞いてあげて下さい。きちんと話しを聞いてもらうことで子どもは自分の考えを整理し、しっかりとした考え方や相手に伝わる言葉を使う能力を身につけていくからです。そうすると子どもはケンカを通して非常に多くのことを学ぶことが出来るのです。とにかく、ケンカほど子どもが真剣になる場面なんてないのですから、この時に多くのことを学ぶことが出来るのです。すると、自己中心的なケンカ、無駄なケンカはしなくなるのです。 でも、大人が一方的に悪者を決めて“ゴメンナサイ”で解決させてしまっていると子どもはケンカから学ぶことが出来なくなってしまいます。
2008.05.24
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では、もうチョット具体的に“賢い子どもの育て方”について考えてみます。私はこういう事を考えるのが大好きなんです。学生の頃から“人間を育てる方法”について興味があり、色々と考えていたので自分の子どもでそれを試してみることが出来るのを楽しみに待っていたのです。ただし、方法を考えるのは好きですが、実行にはあまり熱心ではありません。自分が出来ることのうち80%も出来れば大満足です。(実際には60%程度しか出来ていませんけど・・・)残りの20%(40%?)は神様に任せています。その神様の仕事を見ているのもなかなか面白いものです。へー、神様はこんな風にやるんだ・・・という発見がよくあります。なかなかおつなことをするものですよ。また、子どもの育ちは子ども自身の仕事でもあります。親も神様も手助けは出来ますが、手助け以上のことはできません。だから、実際に子どもがどのように育っていくのかは私にも予想が付きません。私の手の届かない所は、ただ応援するだけです。でも、その予想がつかないのがまた子育ての面白さ、楽しさでもあるわけです。ということで、うちの子どもたちを賢い子どもたちにするために私が心がけたことは何なのかということをお伝えします。ただし、誤解しないで頂きたいのは“これが正解だ!”ということではありません。私はこのように考え、このようなことをしたというだけのことです。皆さんは皆さんで考えて、皆さんが出来ることをやればいいのです。私の書いたことが、その時の参考になれば嬉しい、ということです。そんなことを考えながら子育てをしていると、毎日が楽しいですよ。ただし、ここでいう“賢い子”とは、“勉強が出来る子”という意味ではありませんので誤解のなきようお願いします。それでも、子どもたちの名誉のために付け加えておくとみんな塾にも行かないのに、成績は優秀です。(長女は中2の時、長男は中1の後半から塾に行きましたが、小学校時代は一切塾には通っていません。)現在、中3の娘はいまだに塾に行かずに頑張っています。そして10:00pm頃には寝ています。それでも、クラスでは上位です。この子は集中力がすごいのです。陸上部なんですが、走るたびに自己記録を伸ばしています。(中2の時、先生が“12時頃まで勉強しているのですか”というので“9時半には寝てます”と言ったらビックリしていました。)現在小5の四番目だけはまだ成績には現れていませんが、中学に行ったら急に伸びるでしょう。私を含めてうちはみんなそういうタイプですから。(私は、中学に入ったらなぜか急に勉強が易しくなったように感じたのです。みんなが“難しくなった”と言っているのが不思議でした。そうしたら勉強が楽しくなりました。)そして、うちでは“勉強しなさい”とは全く言いません。長女の時はズーッと成績が底辺だったので、時々“勉強してる?”、“分からないところがあったらいつでも聞きな”とは言っていましたが、それ以上のことは言いませんでした。そもそも、子どもは“勉強しなさい”などと言われたからと言って勉強などしないものです。また、強制されて勉強しても頭にはいるわけがありません。だから、お互いにストレスになるばかりでいいことなんか一つもないのでそんなこと言いません。それでも、中3頃になって自分の進路が決まり、自覚が出始めたら二倍、三倍とグングン伸びました。(最初の成績が分かるでしょ?)長女の場合は音楽系の高校に進むという目標でした。大切なのはその時にどう支えてあげるのか、という事だけです。現在は大学四年で中学の音楽の先生を目指しています。来月、母校で教育実習です。みんな精一杯頑張っている素敵な子どもたちです。だから勉強に関してはうちでは楽なもんでした。塾の費用はかからないし、勉強を巡っての親子げんかは一度もありません。とにかく勉強しろと言わないのですからケンカにはならないのです。でも、子どもは自分の目標が決まり、必要になれば自分で勉強を始めるのです。だから、勉強を押しつけるより、やりたいことを探す手伝いをした方がずーっと効果的なんです。やりたいことが見つからないのに勉強ばかり押しつけられていたら逃げたくなるばかりです。それは当然の心理ですよね。ただし、子どもは自分にとっての必要な量だけは勉強しますが、親が求める量を勉強するわけではありません。でも、子どもが自分の人生を生きるためにはそれだけで充分なのです。それ以上を望むのは親のエゴです。勉強の量よりも大切なことは、必要な時には自分の力で学ぶことが出来る能力を身につけさせてあげることと、学ぶことの楽しさを体験させてあげることの方なのです。そうすれば、一生成長することができます。私は子どもが一流大学を出ることより、一生成長し続けることが出来る人間に育ってくれることの方を願っています。<続きます>
2008.05.23
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昨日は“正解のない世界での生き方を知っている子が“賢い子”なんです”と書きました。それはどういう子かというと、自分の知識、感覚、考えで判断し、自分の意志で決断し、自分の責任で行動することが出来る子です。それはつまり、自立している子のことです。こういう子は困難にあっても切り抜けることができます。自信があるので希望を失いません。そして、体験から学ぶことが出来ます。でも、見方を変えるとそれは大人の思い通りにはならない子です。大人の都合には合わせてくれない子です。そして、ここで問題が起きてきます。政治に例えると、支配者にとって都合のよい国民を望むのか、命令ばかりする支配者など必要としない国民を望むのか、ということです。ですから、支配者としての立場を失いたくない親や、先生は断固としてこのような子どもを抑圧しようとします。そして、“子どもは大人が支配しないとだめな人間になってしまうぞ”と脅します。その結果、支配され、自発的な意志を否定され続けた子ども達は無気力になり、成績や権力や親に依存するようになります。そしてまた大人になった時には命令ばかりする支配者になります。大人になるということは子どもを支配する権利を与えられることだと思いこんでいるからです。これが政治のレベルでも、家庭のレベルでも今の日本を動かしている大きな社会原理です。このような社会原理で動いている社会では誰も責任をとりません。トラブルが起きたら“自己責任”で切り捨てれば一件落着です。自己責任で動いていない人たちが、こう言う時に限って“自己責任”という言葉でトカゲのしっぽ切りをするのです。また、社会全体がおかしな方向に動いていても誰もその流れを変えようとはしません。また、そんなこと気にもなりません。大切なのは自分の立場だけだからです。他人の評価や、人目ばかり気にして子育てをするのも同じことです。子どものことより、自分のことの方が大切だから評価や人目を気にするのです。違いますか?でも、私はそれを責めているわけではありません。小さい時からそのようにしつけられてきてしまっているのでしょうがないのです。理屈以前に、反射的、本能的にそのように反応してしまうのですから。でも、そのような自分と向き合う事を避け、自分を変えようとしない人、現実から逃げているばかりの人には賢い子を育てることはできません。“賢い子”を育てるためには、先ず大人が賢くなる必要があるのです。「天才の育て方」などという本を山ほど読んでも、天才を育てることなど100%出来ません。他人の情報に依存するような人が天才を育てることが出来るわけがないのです。自分の頭で考えることが出来ない大人が、自分の頭で考えることが出来る子どもを育てることが出来るわけがないのです。ですから、もしあなたが“賢い子ども”を育てたいと願うのなら、まず自分自身が自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で決断し、自分の責任で行動出来る賢い大人を目指してください。もし、それでも賢い大人になれなくても、そのように努力している姿に触れて育つ子どもは賢い子どもに育っていくのです。これはお母さん達だけでなく、学校の先生達にも望むことです。管理者が現場の先生を支配しているような教育現場で賢い子どもが育つわけがないのです。続きます。
2008.05.22
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昨日は、“勉強なんてどうだっていいじゃないか”というようなことを書きながら、一転、今日と明日とで“勉強の仕方”について書いてみます。なぜなら、この二つは矛盾するようで実はセットになっているからです。結論を先に書いてしまうと、勉強、成績と子どもを追い立ててしまうと本当の学力も、賢い子どもにも育たないということなんです。確かに、成績にはあまり意味がありません。でも、“賢い”ということは大切なことなんです。人生の試練に苦しむ時、より良い仕事をする時、地域や、社会や、世界に平和を創り出すためにも賢さは必要だからです。そして、その賢さは自分で学ぶことが出来る能力とつながっています。教えてもらったことを覚える能力ではなく、現実との対話を通して自分で発見する能力です。また、マニュアルなどなくても、他の人のやり方を見て、聴いて、理解出来る能力です。でも、この“賢さ”はそう簡単にテストで調べることができません。成績の世界は正解を基準に決めることが出来ますが、賢さの世界には正解などないからです。逆に言うと正解のない世界での生き方を知っている子が“賢い子”なんです。だから、工夫することも、発見することも、自立することもできるのです。正解のあるのは学校の中だけです。学校の外は正解のない世界です。ですから実は学校という世界は非常に特殊な世界なんです。その特殊な世界に過適応してしまっているのが今の子どもたちであり、親たちなのです。そして今、その学校の価値観に社会全体が巻き込まれようとしています。その結果、子どもたちは社会に出ていくことが出来なくなってしまっています。子育てでも、夫婦関係でも正解を求めてしまっています。また、“自分探し”と言って、“正解の自分”を探し歩いて“今ここにいる自分”を受けいれることが出来なくなってしまっています。そして、“こんなはずじゃないのに”と正解が見つからず途方に暮れています。そのため、子育てで悩んでいるお母さん達の話を聞いていると、話しが堂々巡りなんです。感情論ばかりで現実ときちんと向き合うことができていないのです。お母さん達はいつも子どもに“早くしなさい”、“やめなさい”と言っています。でも、そんな言葉に素直に従う子どもなんていません。いたずらを止めたとしても言葉を理解して止めたのではなく、お母さんの剣幕にビックリして止めただけです。その証拠に、年齢があがりお母さんの剣幕に慣れてきた子どもは全く言うことを聞かなくなってしまいます。そういう言葉では子どもが動かないなんて事はお母さんだって充分知っているはずなんです。だったら、もういい加減他の方法を考えてみるのが常識的な考え方だと思うのです。でも、なぜかお母さん達は思考停止してしまって同じことを繰り返すばかりなんです。“他のやり方で試してみよう”という発想が生まれないのです。現実との向き合い方が分からないのです。そして、それは子どもたちでも同じです。うちは、自宅で造形教室をやっているのですがその現実との向き合い方が分からない子どもたちがいっぱいいます。“僕やり方知っているよ”と始めるのですが、現実は思い通りにはなりません。だから、そこで試行錯誤が必要になるのですが、多くの子どもたちが現実が自分の思い込みと違うと分かると現実を放棄してしまうのです。試行錯誤するということが出来ないのです。但し、小さい時から長く来ている子はそんなことありません。自分で工夫して考えることができます。先日も、ある小学校で「紙飛行機大会」があったそうですが、総合1位、2位を取ったのはうちに長く来ている生徒達でした。たかが紙飛行機、されど紙飛行機なんです。紙飛行機も奥が深いのです。そして、そういう子どもたちとの触れ合いを通して試行錯誤出来ない子どもたちも少しずつ変わっていきます。子どもは大人の指導よりも子どもの影響を受けて育つのです。実は、人間の知的な能力の成長には年齢ごとにちゃんと段階があるのです。その段階をすっ飛ばしていきなり結論を求めてしまうから、子どもの本当の賢さが育っていかないのです。ということで続きます。
2008.05.21
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日本人は自分を表現しようとしない国民です。いつでも他の人に合わせて生きているのです。でも、それで自分の人生に満足し、日々の生活に幸せを感じているのならそれもそれで一つの生き方ですから他人がとやかく言うことではありません。でも、実際にはそうでもない人の方がはるかに多いような気がするのです。みんな、否定もせず、肯定もせずただ諦めているのです。自分の人生を自分らしく生きることを諦めているのです。ディズニーランドで何時間もおとなしく待っている人たちも諦めているのです。満員電車で毎日通勤し、過労死寸前の生活を送っている人も諦めているのです。子どもを毎日塾に追い立てている人たちも諦めているのです。つまらない授業なのに真面目にイスに座って大人しくしている子どもたちも諦めているのです。テレビやゲームなどで気を紛らわせながら生活している人たちも諦めているのです。どうせ、自分には何にも出来ないんだから・・・・、と。日曜日に、冒険クラブで鎌倉を歩いた時、子どもたちは崖を見れば崖に登り、岩を見れば岩に登り、大きな木の枝があれば木の枝に登り、水を見れば水に入って遊んでいました。そんな風に楽しく遊んでいた一人の子のお母さんが、“うちの子ADHDと言われて療育に通っているです”とおっしゃっていました。でも、遊びの場では普通に元気がよい子どもらしい子どもに過ぎません。ちゃんと会話も出来るし、頑張ることも、集中することも出来ます。実際、家でも何かを作っている時の集中力はすごいらしいのです。ただ、自分がやりたいことにだけしか集中しないので、画一化を求める学校では問題児になってしまうのです。(なぜか私の活動にはそのタイプの子が集まってきます。大人も?)崖を見れば崖に登り、岩を見れば岩に登り、大きな木の枝があれば木の枝に登り、水を見れば水に入って遊ぶような子どもたちにとっては、今の学校の中に居場所がないのです。そういうことをみんな諦めて大人しくしている子が“よい子”で、自分の感覚に素直に行動し、やりたいことにしか集中しない子は“問題児”になってしまうのです。でも、子どもの子どもらしい感覚に響くような授業をすれば子どもらしい子どもたちだってみんなついてくるのです。それはハラハラ、ワクワク、ドキドキするような授業です。それをノルマ消化のような退屈な授業をしているからそういう子どもは飽きてしまうのです。それは子どもの生理現象です。ですからそれは子どもの責任ではなく、大人の責任です。(先生達もノルマ消化のような授業しか出来ない状況に追いつめられているのも事実です。だから、子どもの心を持った生き生きとした先生は苦しくなってしまっています。)しつけだって同じです。上から押しつけるから言うことを聞かないのです。子どもには子どもの論理があるのです。だからその論理に従えば子どもは自分の成長に必要なことはちゃんと吸収するのです。(必要のないことは無視します。子どもが全然言うことを聞かないとしたら、子どもに必要のないことばかり押しつけているという証拠です。)それと、大きな声で言いたいことがあります。何でみんな学力ばかりに夢中になるのでしょうか。勉強が出来ないのは悪いことなんでしょうか。勉強が出来ない子は人間として問題があるのでしょうか。勉強が出来ない子は生きる価値がないのでしょうか。僕は勉強は出来ないけど、立派なお料理を作ることが出来る。僕は勉強は出来ないけど、歌を上手に歌うことが出来る。僕は勉強は出来ないけど、りっぱなイスを作ることが出来る。僕は勉強は出来ないけど、小さな子の面倒を見ることは出来る。僕は勉強は出来ないけど、絵を描くのは得意。という子は勉強が出来る子どもたちより劣っているのですか。確かに、何かたった一つだけでも自分が自信を持つことが出来るものを持っていることは大切なことです。勉強が好きになるのも大切なことです。でも、勉強が出来なければ人間としての価値が低いなどと誰が決めたのですか。実際、大人たちは子どもたちをそのように扱っていますよね。勉強が出来ない子どもたちは親からも、教師からも“問題児”扱いされていますよね。そして、勉強が出来た時だけ褒めていませんか。学校は子どもたちが全員行くところです。だから特定の価値観の押しつけはしてはいけないのです。ただ、“勉強は楽しいよ”ということを教えてくれればいいのです。そうでないと、オカルト集団と同じになってしまいます。和田中の問題も同じです。大分以前、鎌倉駅のプラットフォームを歩いていたら、お母さんが駅で掃除をしているおじさんを指さして、“勉強しないとあのおじさんのようになってしまうよ”と言っていました。今の時代、みんな子どものからだを守ることには熱心ですが、子どもの心を守ることを忘れてしまっています。だから、子どもたちは自己肯定観を育てることが出来ないのです。
2008.05.20
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先日、本屋さんで色々と本を物色していたら、“鬱病は日本の国民病だ”というようなタイトルの本がありました。鬱病になってしまった編集者が書いた本のようです。確かに、日本人は自己肯定観が低く、憂鬱的な気分が強い国民です。それで、その裏返し(強がり)で、やたらと威張って見せる人もいるわけです。日本の社会が権威主義というのもその現れです。自信がないから権威に寄りかかるのです。学歴信仰、学力信仰も同じです。みんな寄りかかるものが欲しいのです。生涯雇用という考え方も同じです。自虐的と言って、まともな反省を避ける人も自信がない人たちです。自信がないから事実を直視出来ないのです。また、お母さん達は自分の子どもをほめることが出来ません。家の中では褒めていても他の人に聞かれるような場では褒めたりしません。大抵は子どもの悪口を言って盛り上がります。でも、内心では子どもに申し訳ないと思っているのですが、でも、それを口に出してしまうと場が白けるので、みんなに合わせてしまうのです。また、さらには子どもの長所が分からない人もいっぱいいます。そして、そういう人は自分の長所も分かりません。逆に言えば、自分の長所が分からないから子どもの長所も分からないのです。自分を肯定出来ない人が子どもを肯定出来るわけがないからです。それでいて、みんな人目を気にして非常に真面目なんですから、これはもうみんな鬱病予備軍と呼んでもおかしくない状態です。でも、日本人は昔からそうだったのかというとそうではないのではないのかと思うのです。それがいつからかと考えてみると、どうも明治になって多様性が否定され、価値観が統一され、政府が正解を押しつけるようになった辺りからではないかと思うのです。なぜなら、江戸時代に教育を受けた世代の人たちの中には枠や型にはまらない破天荒な大物がいっぱいいたからです。(大正生まれの老人達より、明治生まれの老人達の方が元気だったという話しも聞いたことがあります。まだ、そういう気骨が残っていたのでしょうね。)自己肯定観の低さ、自信のなさは正解を基準に否定され続けてきた結果なのではないかと思うのです。多様性が肯定されていた時代には、人は正解によって評価されることはありませんでした。どれだけ人のために仕事が出来るかどうかで評価されたのです。そこには正解はありません。だから、自己満足であろうと自分で自分を肯定出来たのです。まあ、あまり過去ばかりを褒めてもしょうがないのでじゃあ自己肯定観の低い時代に生まれた私達がどうしたら自己肯定観を取り戻せるのかということを考えてみます。そこで、自分を表現することや言葉を紡ぐことの非常に大きな意味が現れてくるのではないかと思うのです。ということで続きます。
2008.05.19
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今日は「冒険クラブ」で鎌倉の天園ハイキングコースを歩いてきました。天気はよし、気分は上々で楽しく歩くことが出来ました。ただ、参加者が27組の親子+男性一人で、私を含めると60名以上の団体になってしまったので、先頭と、末尾の間が離れること離れること・・・。先頭を行く小学生は走り、末尾を行く幼児は葉っぱを見つけ、虫を見つけ、小川で遊んでゆっくりですからね。それでも、みな楽しく、そして無事に歩き通すことが出来ました。素敵な子ども力の子どもたちばかりです。お猿さんの集団です。大人には大したことのない段差でも2,3才の子には崖です。ゆっくりでいいんだよ。道を歩いていたら突然上から葉っぱなどが降ってきて山猿に襲われました。ボスザルの頭がちょっと見えます。頂上です。下に見える広場で食事です。でも、食事が終わったらすぐ裏の崖でがけ登りが始まりました。子どもも大人も夢中になってがけ登りです。でも、こんな事やっているのは「冒険クラブ」の集団だけでした。高さは5,6mくらいで大したことがないのですが、ほとんど垂直のような感じで一人の子は2mくらいズルズルッと落ちました。みんな必死です。ガンバレ!帰りは沢のあるコースです。水が出始めた辺りから子どもたちが動かなくなりました。みんな水遊び。でも、先頭集団とはかなり離れています。私はあせるのですが、子どもはのんびりです。まあ、水遊びは楽しいもんな・・・・。道はグチョグチョ。素敵な沢でしょ。帰りの電車の中でも元気でした。
2008.05.18
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ある人の言葉のありようは、その人の心とからだのありようと直結しています。優しい人は優しい言葉を使います。繊細な人は繊細な言葉を使います。頑固な人は頑固な言葉を使います。不安が強い人は不安を感じさせる言葉を使います。賢い人は賢い言葉を使います。まあ、全く当たり前のことですよね。そして、子どもは幼稚園に上がるころには生活を共にしている人の言葉を受け継ぐことで、ほとんどの日常会話が話せるようになっています。そして多くの場合それはお母さんです。他には、テレビや絵本、そして公園で会うお母さんやお友達からも言葉はやってきますが生活とつながった言葉、自分の心やからだとつながった言葉の大部分は生活を共にしている人から学びます。なぜなら言葉は共感を通して伝わるものだからです。そして、それが“母国語”です。ちなみに英語では“mother togue(母語)”でそのままの表現です。だとすると、子どもの感性の土台はお母さんからの言葉を通して育てられていることになります。子どもの育ちには様々な体験が必要ですが、子どもはお母さんの言葉を体験するすることから人生を始めるわけです。(もちろん、お母さんでなくお父さんやおばあちゃんだったりすることもあります。)だから、子どもは親に似てしまうのです。家族の間では“みんな違うのに”と思っていても、他の人から見たらその家族はなんとなく考え方や感じ方が似ているものなのです。(但し、夫婦は別です)遺伝子がからだの特徴を伝えるものだとしたら、言葉は心の特徴を伝えるものなのです。つまり、心の遺伝子だということです。だから優しい子どもに育って欲しいと思うのなら、お母さんが優しい言葉を身につける必要があります。賢い子どもに育って欲しいと思うのなら、賢い言葉を使う必要があります。そこを抜きにしてお勉強させても、賢い子にはなりません。ちなみに声や表情や身振りも言葉とセットになっています。それらがセットになっていないのはロボットの言葉です。ということで、今日はここまでにします。今日は「冒険クラブ」で鎌倉を歩きますので、帰ってきてから時間がありましたら写真をアップします。(すごい人数になりそうです。迷子が出ないようにしなければ・・・)お楽しみに。
2008.05.18
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急なお知らせで申し訳ありません。家内が企画したオイリュトミーの体験ワークショップのお知らせです。ちなみに明日です。ご都合の付く方はいかがでしょうか。あまり体験出来ないことですから。家内と娘(ピアノ係)は行きますが、私は別の集まりがあるので行けません。「体験オイリュトミー」音のリズムや流れを目に見える形で動いてみる。体をとおしてその美しさを感じてみましょう。オイリュトミストでもある難波さんがやさしく手ほどきしてくださいます。 5月18日(日)10:00~12:00(10分前にお集まりください) 場所 茅ヶ崎市総合体育館 B1Fオーケストラ室参加費 2000円(ピアノ、部屋代を含む)講師 難波加代子ピアノ 篠 明日香動きやすい服装、底のうすい室内履きやオイリュトミーシューズ、靴下でもOK. 申し込み 篠 裕子 hiroko_shino2005@yahoo.co.jp
2008.05.17
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だめ母さんへずーっと長い間苦しい子育てをしてきたのですね。お母さんもそしてお子さんも苦しかったでしょうね。子育ては幼児期にボタンの掛け違いをしてしまうと、その帳尻を合わせようとしてしまい余計にどんどん深みにはまってしまうのです。成長してからでもそのボタンの掛け違いを治すことは出来ますが、非常な困難を伴います。家作りで、上ものが建ち始めてからその基礎の部分を直すようなものだからです。しかもその家は自分の家ではなく、こどもの家です。ですから、子どもが親を拒否してしまうなら何も出来ないのです。だからまず親と子の間の信頼関係を取り戻さないことには何にもできません。私は“幼児期の子育てで一番大切なことは何ですか”と聞かれたら、まず一番に“親と子の信頼関係を育てること”と答えます。幼児期には親と子の信頼関係を育てること以上に大切なことはないのです。子育ての場ではテレビやテレビゲーム、そして食べ物やしつけの問題など様々な課題がありますが、とにかくこの信頼関係を育てること以上に大切なことはないのです。親との信頼関係が育っていない子はどんなに素晴らしい教育を受けさせても身に付きません。また、一見どんなにお行儀がいい子でも親との信頼関係が育っていない子は二面性を持っています。それは、心の底に不安が残ってしまうからなのです。心の底に不安が残ってしまっている子は“不安定”になってしまうので自分との対話が出来ないのです。だからその場しのぎのことしかできないのです。もちろん、その上にしっかりとした建物を建てることも出来ません。(○○教育、○○法と呼ばれるものに熱心な人が多いですが、親と子の間の信頼関係が育っていなければすべて無意味です。)ですから、親と子の間の信頼関係を取り戻すことがそのまま基礎の補強にもつながるのです。心の底の不安が消えれば安定するからです。(ただし、もう上ものが出来てしまっているので、上ものに合わせた状態で安定するだけです。基礎の補強はできますが、作り直すことは出来ません。)そして、基礎が安定すれば嘘をつく必要がなくなります。子どもは不安をごまかすために嘘をつくのです。だから、不安をいっぱい抱えている子ほど嘘をつくのです。これは大人でも同じです。だから、“嘘をつくんじゃありません”と追いつめると、よけいに嘘をつくのです。(ただし、先日書いた“大人が作る嘘”と“遊びとしての嘘”は子どもの嘘ではありません。また、夫婦の間にトラブルがあって家庭内に不安がある時にも子どもは嘘をついたり、問題行動を起こしたりします。)ですから、子どもの嘘や問題行動をなくしたいのなら、お子さんとの信頼関係を育ててください。嘘をつく子どもを責めないでください。責めても嘘は消えないのですから。でも、その前にお母さん自身が自分の心の底に横たわっている不安を何とかする必要があるでしょうね。そうでないと、子どもの嘘がその不安を刺激して不安が増大してしまうからです。その増大した不安を消すために、子どもを叱ってしまっているような気がするのです。ということはお母さんの不安が消えれば子どもの不安も消え、嘘をつかなくなるということなのではないでしょうか。
2008.05.17
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キーロさんが毎日ではありませんが、自分と対話したくなったときだけ書きます。そうすると、心の中も整理されます。と書いて下さいました。5月15日うまれさんがなかなか上手く伝える文章を書くのは難しいです。と書いて下さいました。ものぐさとうさんがブログを書き始めてから書き続けることが面白くなりました。なにかあると、これはブログのネタになるな、などと思いながら毎日を過ごしています。と書いて下さいました。この3人の方のコメントには言葉を紡ぐ上での非常に大切なポイントが含まれています。昨日は、“自分との対話が出来ない人は言葉を紡ぐことが出来ない”ということを書きました。でも、それだけではありません。自分との対話が出来ない人の言葉は他の人に伝わらないのです。なぜなら、自分との対話を通して紡がれてきた言葉は、その言葉を聞く人にも“自分との対話”を促すのですが、そうでない言葉はただの情報として処理されるだけだからです。確かに、情報としては伝わるのです。でもそれでは“想い”が伝わらないのです。それはつまり、“人間としての言葉”が伝わらないと言うことです。そして現代では情報としての言葉ばかりが氾濫して、想いを伝える言葉が消滅しつつあります。先日は“子どもの嘘”について書きましたが、子どもの言葉は子どもの想いの現れです。それを情報として聞いてしまうから“嘘”になってしまうのです。確かに、子どもは自分との対話は出来ません。でも、子どもの言葉は感覚と感情から直接生まれてくるのでそれは想いの固まりなんです。だから子どもの言葉は詩人の言葉に似ているのです。ただ、自分との対話という過程を通っていないので自分との対話になれていない人には分かりにくいのです。だから大人は誤解するのです。自分との対話を通して紡がれてきた言葉は、聞く人にもまた自分との対話を促します。ですからその言葉を聞きながらその言葉が生まれてきた過程を疑似体験することができます。本を読んでいるとき、読み手が登場人物に感情移入してお話しを体験することが出来るのはそのせいです。主人公がハラハラ、ドキドキするような場面になると、読んでいる人もハラハラ、ドキドキしてしまうのはその言葉が作者によって紡がれた言葉だからなのです。名作と呼ばれるような物語はみな“紡がれた言葉”で出来ているのです。以前、友人の家でトヨタの売り上げ販売台数一位の記録を持っている彼のいとこの話を聞いたことがあります。さすがに話しがうまいのです。でも、“立て板に水”といううまさではありません。自分が自分の仕事で体験したこと、感じたことなどを自分の言葉で相手に響くように話しをするのです。そこに押しつけはありません。するとその話を聞いているうちに相手の気持ちに共鳴して、自然に巻き込まれてしまうのです。話しが下手な人は自分の考えを押しつけようとします。だから相手は余計に離れていきます。でも、上手な人は押しつけないのです。そして、相手との共感を大切にします。すると、相手が自分から寄ってくるのです。そして、言葉を聞いてくれます。学校の先生も、お母さんもみんな逆効果になるようなことばかりやっているのです。でもそれも自分との対話が苦手な人には出来ないことですけど・・・。但し、自分との対話から生まれた言葉でも誰に対しても対話を促すわけではありません。自分と対話することが出来ない人の心には共鳴しないからです。言葉が伝わるためには相手もまた同じ言葉の感性を持っている必要があるわけです。そういう感性を持っていない人は、名作を読んでも感情移入できません。だから、退屈です。自分と対話が出来ない人は、本を読んでも主人公と一緒に物語を体験することが出来ないのです。つまり、逆に言うと本を読んで登場人物に共感してハラハラ、ドキドキできる人は自分との対話も出来る人だということです。子どもの場合は、登場人物に共感してハラハラ、ドキドキすることが自分との対話の訓練になっているということです。そう考えていくと、今子どもたちが本を読まない理由が見えてきます。それはまた、イジメや学級崩壊、若者の自殺の増加、さらには勉強における応用力の低下ともつながっています。それは自分と対話する能力が育っていない子どもたちが増えてきているということなのです。だから困難を乗り越えることが出来ないのです。自分と対話出来る人間は孤独ではないし、強いのです。
2008.05.16
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人は言葉を紡ぐ時に自分の心や感覚の世界の中に深く入っていきます。その世界の中で人は自分の心の奥深くにある、感情や、感覚や、知識や体験の記憶などと出会うのです。つまり、言葉を紡ぐことは自分との深い対話を必要としているのです。逆に言うとその対話が出来ない人は言葉を紡ぐことが出来ません。言葉を紡ぐことが出来ない人は思いつきの言葉や、受け売りの言葉をただ羅列するばかりです。そして紡いでいないので言葉がつながっていきません。ただの羅列なんです。そして、“あなたはどう思いますか”という質問に答えることが出来ません。また、言葉を感情にまかせてただ吐き出すだけの人もいます。そういう人は長く話しますが、同じ所をグルグルと回っているだけで話しが先に進んでいきません。紡いでいないからです。“あなたはどう思いますか”という質問に答えることは出来ますが、そんな時もただ感情を吐き出すだけで自分の心やからだとの対話がありません。そして、自分の心や感覚との対話が出来ない人は、他の人とも対話が出来ません。相手に従うか、相手を支配しようとするばかりです。そして、実は子どもたちはまだこの状態です。子どもたちはまだ言葉を紡ぐことが出来ないのです。それは、言葉を紡ぐための自我意識がしっかりとしていないからです。これは思春期にならないと目覚めない能力なんです。その自我意識がサーチライトのように真っ暗闇の心と感覚の世界の中を照らし、そしてその世界の中から言葉を紡いでいくのです。ですから、子どもは自分との対話が出来ません。学校に行く時にどうしてお腹が痛くなるのか分かりません。“反省しなさい”と言われても、何が何だか分かりません。“こんなことをしたらみんなが困るでしょ”と言われてもよく分かりません。ですから、ほとんどの子どもの作文はただ出来事と感情が羅列してあるだけです。遠足で江ノ島に行きました。展望台があって登りました。高くて遠くまで見えました。すごくきれいでした。こんなところに住めたらいいなと思いました。という感じですよね。これは、出来事と感情の記憶を自分が体験した順に羅列しているだけです。ただし、これが悪いという事を言っているのではありません。子どもの心とはそうなっているという事をお伝えしているだけです。そして、大人の人でもこのような文章しか書くことが出来ない人がいっぱいいます。つまり、自分との対話が出来ない人です。実を言うと私もそうでした。作文は苦手でした。何を書いたらいいのか分からなかったのです。それで27年前、ヨーロッパやインドの旅から帰ってきて、雑誌に簡単な旅行記を載せてくれることになった時大変だったのです。頑張って一生懸命に書いた文章なのに編集者の人は“まるで子どもの文章ですね”とバッサリ。今では一日に何時間も文章を書いていますし、書くのが好きなんですが、でも10年くらい前に通信を出し始めた時にはひどいもんだったようです。(自分ではそうは思っていませんでしたけど。)通信を書いて皆さんに読んでもらっていたのですが、ある友人なんか赤ペンで添削して返してくれました。その友人が“大部読みやすくなったね”と言ってくれたのが4,5年くらい前です。その間に何があったのかというと、実は文章を書くこととは全く関係のない“からだを通しての自分との対話”の時間なんです。そのからだとの対話を通して、自分自身の心や感覚との対話を学び、そこから言葉を紡ぐ感覚を身につけていくことが出来たのではないかと思うのです。ということで、続くかも・・・・
2008.05.15
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天然堂さんから以下のようなご質問を頂きましたので今日はそれに付いて書いてみます。息子は小学3年生ですが、よく嘘をつきます。母親は嘘つく子どもが大嫌いで、いつも大変な騒ぎになってしまいます。勿論、嘘はいけないことだと解っていても、叱られるから嘘をつくという悪循環になっているのかなと、なぜ嘘をつくのかを考えてみようよと母親を諭しております。森の声さんは子どもの嘘についてはどうお考えですか。(2008.05.13 09:58:19)ちなみに“子どもの嘘”については3月4日に「子どもの心」(子どもの嘘)というタイトルで書いていますのでそちらもご覧になって下さい。(その前後もお読み下さい。)まず、天然堂さんがおっしゃるように、子どもを嘘つき扱いしていると子どもはその期待に応えて嘘つきになります。これは他のことでも同じです。子どもをバカにしていると馬鹿な子どもに育ちます。子どもを信頼していないと信頼出来ない子どもに育ちます。でも、その逆に子どもの言葉を素直に受け取っていると、子どもは素直な子どもに育ちます。子どもを優しい子として扱っていると優しい子どもに育ちます。子どもは扱われているように育つのです。これは子育ての基本です。じゃあ、子どもの言うことをなんでも信じればいいのというとそれも違います。子どもは自分の感覚と感情の世界のことしか話さないからです。つまり、子どもは最初から事実を話すつもりなんてないのです。というより、子どもは自分の感覚や感情と切り離して事実だけを語ることが出来ないのです。そういう客観的な意識を持っていないのです。逆に言えば、だから意識的に嘘をつくことも出来ないわけです。子どもが嘘をつくのは嘘をつかないと逃げられない時と、また嘘が遊びになってしまった時です。前者は本能的、無意識的な嘘です。子どもはいつでも“自分にとっての本当”を話します。それを、“嘘をつくんじゃありません”と叱られたら、お母さんが満足するような嘘を考えて叱られないように工夫するのです。でも、子どもは大人を納得させる嘘をうまくつくことが出来ません。それで、嘘を隠すために嘘を繰り返すことになります。“ゴメンナサイ”と言わないと許してもらえない子は、簡単に“ゴメンナサイ”と言うようになります。でも、同じ悪さを繰り返します。つまり、その“ゴメンナサイ”は嘘なんです。嘘が遊びになってしまうのは大人が嘘に対して過剰反応する時です。子どもは大人の反応が面白くて嘘をつくのです。騙すつもりはありません。“オオカミがきたー”と叫んで村人を騙して遊んでいた昔話の少年と同じです。男の子が大勢人がいるところで“ウンコ”、“チンコ”と大声を上げるのも同じです。大人があわてふためくのが面白いのです。嘘には“話し手が作る嘘”と“聞き手が作る嘘”の二種類があります。話し手が作る嘘は、相手を騙すために意識的に作る嘘です。それに対して、聞き手が作る嘘は相手を信用しないことから生まれます。ガリレオが“地球は丸い”と言った時、ガリレオは嘘つき扱いされました。この場合ガリレオは嘘をついていませんでした。その事実を信じない人がその話を“嘘”にしたのです。つまり聞き手が嘘を作ったのです。そして、聞き手が嘘を作ると、嘘つき扱いされるのが嫌な人は相手が信じるような“嘘”を付くようになります。そうして、話し手として嘘を作るようになります。でも、その人はそれで“正直な人”と言われます。子どもが自発的に話す言葉はみんな子どもの感覚や感情の世界では本当のことばかりです。エビが水の中を飛ぶのも子どもの心の中では本当のことです。見えない友達に話しかけるのも本当のことです。子どもの言葉は子どもの心の中の実況中継のようなものなんです。ですから、それを“嘘”と言われた子どもは困ります。大人なら、それは夢の実況中継のようなものです。空を飛ぶ夢を見た人は嘘つきなんでしょうか。怪獣と闘う夢を見た人は嘘つきなんでしょうか。ですから、子どもの話を聞く時には大人が嘘を作らないようにしてください。ただし、それは子どもの言葉の内容をそのまま信じるということではありません。子どもの心の声としてそのまま受け取ってくださいということです。最後に、・・・・・・言葉は全部嘘の世界です。人の心も嘘の世界です。現実は言葉では表し切れません。現実は心の中に入り切れません。私達はみんな嘘つきなんです。私達のコミュニケーションは嘘に依存しているのです。この世界に“美しい花”など一本も存在していないのです。心の中の“感覚と感情のものがたり”が「美しい花」という嘘を創るのです。そもそも文化というものは嘘が作るのです。だから、世界中で文明の形には大きな違いがないのに、文化には大きな違いがあるのです。“むかし むかし あるところに ・・・”と語る人に、“昔っていつのことですか”、“あるところってどこですか”、“それって嘘の話じゃないですか”というような社会では人は生きることが出来ないのです。
2008.05.14
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自転車に乗ることが大好きな人は「自転車の乗り方」について本を書くことが出来ます。でも、「自転車の乗り方」という本を読んだだけで、実際に自転車に乗ったことがない人は本を書くことが出来ません。書いたとしても自分が読んだ本をまとめることしかできません。森が大好きでよく森に行く人は「森について」という本を書くことができます。でも、その本を読んだだけで実際に森に入ったことがない人、森が好きではない人は、その本の感想は書けても“森について”書くことは出来ません。お料理を作ることが大好きな人はお料理の本を書くことが出来ます。食べるのが大好きでお料理を味わうことが出来る人は食べることの楽しみ方、また美味しい店についての本を書くことが出来るでしょう。言葉は言葉のない世界から生まれてきます。それは感覚と感情の世界です。人は自分の感覚と感情の世界で起きたことを伝えるために言葉を必要としているのです。そして、実際子どもが言葉で伝えたいのもこの感覚と感情の世界の出来事ばかりです。“ねーねー おかあさん あのね きょうがっこうで ・・・・”という時に子どもがお母さんに伝えたいのは自分の感覚と感情の世界の中の出来事です。子どもはいつでも“自分の話”がしたいのです。だからあまり人の話を聞かないのです。そして、それが客観的な事実であるかどうかは不明です。子どもが人の話に耳を澄ますのは、その話が自分の感覚と感情に響く時です。そうでない時には、言葉は耳を素通りしていきます。ですから、どんなに立派なお説教をしてもその話が子どもの感覚や感情に響かないようなら子どもは他のことを考えながら時間が過ぎるのを待っているだけです。言葉が感覚や感情に支配されずに、客観的な事実や、自分の考えを伝えることが出来るようになるためには思春期を待つ必要があります。ですから、子どもが話す言葉はそのまま子どもの感覚と感情の現れです。デリケートな言葉を使う子は素敵な感覚を持っているのでしょう。いっぱい話したいことが詰まっている子は豊かな感情を持っているのでしょう。感覚は“話し方”に現れ、感情は“話す量と内容”に関係しているように感じます。わけの分からないことを一方的に言いまくるだけの子どもは強い感情を持っているのでしょうけど、豊かな感覚や感情は持っていないのかも知れません。聞いていて楽しくなるような話しをしてくれる子は豊かな感情を持っているのでしょう。言葉は少なくても、耳を澄まして聞きたくなるような言葉を持っている子は豊かな感覚を持っているのでしょう。ぐりぐりさんが書いて下さった 先日、次女がホームセンターの熱帯魚コーナーで「エビ」をみながら「ままー!エビさんとんでるー」と嬉しそうに何度も何度も話しているところに「飛んでないんだよ、泳いでいるの」と冷ややかに、1つ上くらいの男の子が次女に「教えて?」いました。というエピソードでも、「エビさんとんでるー」という表現に豊かな感覚と感情を感じます。それに対して、「飛んでないんだよ、泳いでいるの」と教えてくれた子は鈍い感覚と退屈な感情を持っているのかも知れません。(ただ、お兄ちゃんぶってそう言っただけかも知れませんけどね。子どもがお兄ちゃんぶって言う時には大人のような表現を使いますから。)続きます。
2008.05.13
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個性とは単なる“違い”ではなく、“多様性を支えている個”のことなのではないでしょうか。“個人”とか“個性”という考え方が、“みんな違っているのが当たり前”という欧米文化の中で生まれてきた意味もそこにあるのではないかと思うのです。それは社会の構成要素が“個”だという考えたかです。でも、日本では“個”を主張する時、社会からはずれてしまい“孤”になってしまいます。生命というシステムは多様性によって支えられています。社会も文化も科学も全て多様性によって支えられています。私達の喜びも多様性によって支えられています。人が癒しを感じるのも多様性に触れた時です。その多様性の世界は“みんなが違っているからこそ大切なんだ”という世界です。“みんなちがって みんないい”のではありません。それはただ“みんな”をバラバラにしているだけです。違っているものが、つながりあっていて、支え合っているるからこそ素敵なんです。道ばたの小石の下に住んでいる虫だっているのです。昔話の中の王様のように、触れるものが全て金になってしまうとしたらどうでしょうか。最初はお金持ちになれて喜ぶでしょうね。でも、お酒を飲もうとしてもお酒が金になり、猫をなでようとしたら猫が金になり、大好きな人を抱きしめようとしたら大好きな人が金になり、そうして自分の周り中が金になってしまったらあなたは喜びますか。でも、今日本ではそうなってしまっているのですよ。物理的な“金”に変換されなくても、この世界の全てを“お金”に換算して見ているとしたら同じことですよね。そこには多様性が存在していません。人間はただの労働力としてとっくの昔にお金に換算して扱われていますが、今では人間のからだ(臓器)までもお金に換算されています。目の前の猫が大切なのはそれが“猫”だからです。お金に換算して高価な猫だから大切なのではありません。目の前の花が大切なのはそれが“花”だからです。お店で買ってきたものだから価値があるわけではありません。それが個性です。猫が猫らしく、花が花らしく一生懸命に生きている姿が“個性的”なのです。お金に換算して世界を見ている人にとっては、お年寄りや子どもや障害を持っている人たちは価値のない存在です。ただ、子どもだけが将来価値が出てくるからそのための投資が必要だと考えられています。でも、“子どもは子どもだから価値がある”という考え方は今の日本には希薄です。そして、みんな早く価値のある大人にしようと思ってせっせと投資しています。でも、それは子どもの“今”を否定していることです。子どもの心とからだを否定していることです。そして、子どもたちはそのような大人の考えに影響されて、自分たちは価値のない存在だと考え始めています。「裸の王様」の昔話の中で、“王様は裸だ”といいはなった子どものように、子どもは大人の価値観に縛られません。昔から、子ども達はお金や権力には縁がない存在だったのです。だからこそ“真実”を見ることが出来たのです。でも、今子どもの遊びもお金に変換されるようになってしまいました。テレビゲームや高価なおもちゃの問題点はここにもあります。ゲームにはまってしまっている子どもはお金がないと遊ぶことが出来ません。こんなこと有史以来始めての出来事なのではないでしょうか。子どもが大人と同じ価値観になってしまったのです。そして、子どもたちも全てをお金に換算して見る見方に染まり始めています。うちの教室でも子どもが材料を無駄にするので“もったいない”というと、すぐに“いくらしたの?”と聞いてきます。そして、“どうせダイソーでしょ”と言います。その結果、エンデの「モモ」に出てくる時間を奪う泥棒に時間を奪われ、「はてしない物語」に出てくる虚無に取り憑かれてしまっています。そういう社会の中で王様の裸を見抜くことが出来る子どもは逆に“嘘つき”扱いされるようになってしまいました。風の声を聞き、お花や動物とお話しする子は“嘘つき”なんです。そして大人たちは、どんぐりがどんぐりだから大切にしようとしている子どもに、“そんなもの捨てなさい、汚いでしょ”と言い放ちます。金のどんぐりなら大切にするのでしょうけど。でも、言葉は猫が猫の世界、花が花の世界、どんぐりがどんぐりの世界、子どもが子どもの世界からしか生まれてきません。言葉は、その多様性に満ち、すべてがつながりあった混沌の世界の中から紡ぐものだからです。全てをお金に変換してしまう世界で言葉が価値を持つのはその言葉がお金に変換される時です。だから、情報としての言葉、知識としての言葉には価値があります。でも、心を伝えるための言葉には価値がないのです。実際、子どもたちはそういう言葉を学んでいません。だから苦しいのです。
2008.05.12
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日本人は“普通”が大好きです。だから人と違うことはあまりしません。やむおえない事情で普通が出来ない時に限って、“これも個性だ”と言います。今簡単にネットで“・・・も個性だ”という言葉で検索してみたら以下のような言葉が出てきました。運動会で足の速いのも個性だし、絵を描いて上手い子がいたり、下手な子がいたりするのも個性だ不自由どころではなくて、まったく身動きできなくても個性だろう保護者会続編 人見知りも個性だよね人が(いじめを)やるのも個性だ」 の発言には、正直度胆を抜きました。「体が弱かった」というのも、個性だと思えるようになりました。昔は低すぎてコンプレックでしたが、今ではそれも個性だと思えるようになりました。障害も個性だ日本人は「個性」という言葉を、人に合わせることが出来ない時の言い訳として使っているようです。ちなみに上に書いてあるようなことは“個性”なんかじゃありません。草や花が一本一本違うのは当たり前のことです。人が一人一人違うのは当たり前のことです。ましてや何かが出来ないことを“個性”と言ってしまったら、教育は意味がなくなってしまいます。でも、日本人にとってはその“違っていること”が当たり前ではないのでしょう。“みんなと同じ”の方が当たり前なんです。そういう風に思いこんでいるのです。それで、みんなと合わせることが出来ない人は肩身の狭い想いをしてきました。それが、“個性”という言葉が使われるようになって市民権を得てきただけです。ですから、“個性を大切にする”という言葉が、“あきらめ”とか“排除”としての意味を持ってしまっています。“障害も個性だ=だからしょうがない、あきらめよう”と特別視することで、障害を普通の社会から排除しているのです。だって、障害を持っていない子には個性を認めていないのですから。“算数が出来ないのも個性だ”などと親も先生も思ったりはしないでしょ。それを“個性”と言う時にはあきらめた時です。日本ではみんなに付いていくことが出来ない時にそれを“個性”と呼んでいるのです。でも、実はその“違っていること”に対して“どのように向き合っているのか”ということこそが“個性”なんです。その能動的意志の表現の中に個性が現れるのです。障害を持っている人がその障害にどのように向き合っているのか。その障害を抱えた親、周囲の大人たちがその障害にどのように向き合っているのか。その能動的な意志の現れの中に個性が現れるのです。“足が遅い”ということに対してどのように向き合っているのか。“絵が下手”ということに対してどのように向き合っているのか。“背が低い”ということに対してどのように向き合っているのか。そういうことです。ですから、一人一人の能動的な意志を否定している社会は個性を否定している社会です。“あなたはどう思いますか”と問われた時に、ちゃんと自分の考えを言うことが出来る。その違いの中に“個性”があるということです。でも、日本の学校や社会の中で、“個人としての考え”を求められることは滅多にありません。お子さんが“勉強が出来ないのも僕の個性だ”と言ったらどうしますか。私なら、“努力して、頑張った結果ならそれがどんな結果であろうとそれを個性として認めるよ、でも、努力が出来るのに努力をしないのは個性とは言えないんじゃない”と言うでしょうね。そのようにみんなが“普通”を目指して、“個人としての考え”を大切にしていない社会では自分の考えや感覚を紡ぐ言葉は生まれてきません。ですから、言葉を紡ぐことで始めて現れてくる精神世界、心とからだの世界と出会うことが出来ません。人は言葉を紡ぐことで自分の心やからだと出会うのです。ということで続きます。
2008.05.11
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わたしは、だめ母さんやきゅうりさんのお子さんのような子どもが大好きです。実際、うちの教室には、お母さんが“子どもの居場所がないので・・・”とそういう子がよく連れてこられます。それで、私が“すごいじゃない”、“素敵じゃない”と言うと、“そんなこと言ってくれるのは先生だけです”と言われます。今の子どもたちのつながり、幼稚園、学校にはこういう素敵な子どもたちの居場所がないのです。みんな“おんなじ”を目指しているのです。大人の顔色をうかがいながら、他の子の顔色をうかがいながら行動する子が“よい子”で、自分の考え、自分の感覚で行動する子は“変な子”になってしまうのです。いわゆる、「K・Y」です。だから、今の日本の子どもたちの本当の問題点が見えないのです。みんなが普通だと思っている子どもたちの方が今困ったことになってしまっているのです。だから深刻なんです。これは日本人の“正解好き”な性格によるものだろうと思いますが、そうやってみんなで縛り合っているのです。そうして、“赤信号みんなで渡れば怖くない”と、みんなで車がビュンビュン走っている真ん中へと平気で歩いていっているのです。問題は、その“正解”が単純に多数決の原理だけで決められていることです。みんながそう思っていれば正解なんです。そこには全く客観的な理由など存在していないのです。だから、日本では“議論”ということが意味を持っていません。常に多数派が正解なんですから、議論する意味がないのです。政治の世界でも、“弱者、少数派の意見も聞きます”と公聴会などやっても、公聴会をする前に結論はもうすでに決まってしまっています。本来、議論の場では弱者も少数派も多数派も関係ないはずです。そういうものを全て取っ払って“本当のことは何なのか”ということを話し合うのが議論なのです。でも、日本人はそういう議論が苦手です。そんな時、本能的にその状況に違和感を感じる子は、“やだ、みんなと歩きたくない”と言ってダダをこねます。すると“おかしな子”、“へそ曲がり”、“問題児”と言われます。そして私もその“へそ曲がり”の一人です。そして、だめ母さんやきゅうりさんのお子さんも“へそ曲がり”のようです。でも、へそ曲がりの子は真実を見ようとします。他の人の意見に流されません。無理に他の人の意見に合わせません。でも、そういう子は孤立しやすいのです。そして、孤立してしまった子は、思春期が近付くに連れて自分の方がおかしいのではないかと思い始めます。思春期に孤立しているのは非常に苦しいからです。そして無理に他の子に合わせようとします。そして、自分を失い、苦しいことになっていきます。そんな状況を救ってくれるのが本なんです。そういうへそ曲がりの子は本の世界の中に仲間を発見するのです。実際、名著と呼ばれているような本、伝記などにはそのへそ曲がりの仲間達がいっぱい出てくるのです。「長靴下のピッピ」のピッピも、ドリトル先生も、孫悟空もみんなへそ曲がりです。物語の世界の中では、そのへそ曲がり達が大活躍して仲間を救い、世界を変えていくのです。そして、私も本に救われました。本を開くといつでもそこに仲間がいたからです。それで励まされたのです。ちなみに、本当は子どもたちはへそ曲がりの子が好きなんです。だって、面白いですからね。ですから、一斉保育のお勉強系では問題児だった子でも、自由なドロンコ系に移れば人気者になってしまうことだってあるのです。でも、大人がそういうへそ曲がりの子に悪いレッテルを貼ると、子どもたちは自分も悪い子の仲間扱いをされたくないのでそういう子を排除し始めるのです。
2008.05.10
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今、子どもたちを襲っている最大の危機は“言葉を学ぶ場がない”ということです。言葉はテレビでは学べません。テレビから学ぶことが出来るのは「音」だけです。言葉は本からは学べません。本から学ぶことが出来るのは「言葉の使い方」であって、言葉そのものではありません。「水」という言葉の使い方は本で学ぶことが出来ますが、“水の体験”は本ではできないので「水」という言葉が自分のものにならないのです。テレビゲームは言葉を必要としていません。受け身的な生活は言葉を必要としていません。指示語、命令語に従うだけのことなら犬にだって出来ることです。どんなに勉強したって言葉そのものを学ぶことはできません。言葉は「器」であって、中身が入っていなければ言葉としての価値がないのです。そして、自分の心とからだでの直接的な体験を通してしかその“言葉という器”に中身を入れることは出来ません。子どもは自分の心とからだで直接体験出来る言葉しか学ぶことが出来ません。ですから、豊かな言葉を身につけるためには豊かな体験が必要になります。でも、ただ豊かな体験をいっぱいしても、その体験と言葉が出会わなければ言葉を学ぶことは出来ません。ですから、その場にその体験を共有する仲間や大人がいる必要があります。“立派な杉の木だなー”と言う人が側にいるから“立派”という言葉、“杉”という言葉に中身が入るのです。“風が気持ちいいね”と言う人が側にいるから“風”という言葉、“気持ちいい”という言葉に中身が入るのです。言葉は人から“分けてもらう”ものなのです。でも、それだけではまだ足りません。そこで物語や、本との出会いが必要になるのです。人の心の中のことは物語や本の中でしか体験出来ないからです。ですから愛や勇気や希望といった心の中にしか存在出来ないものに言葉を与えるためには物語や本との出会いが必要になるのです。また、五感を通してバラバラに入ってきた言葉をつなげ、世界を一つに統合してくれるのも物語や本の働きです。そして、過去のこと、未来のこと、地球の果てで暮らしている人のこと、地球のこと、幸せな人の話、不幸な人の話、人のために働いた人の話などを子どもに体験させてくれます。だから、物語や本と出会っていない子は、こういう事を語ることが出来る言葉を身につけることが出来ません。いっぱい自然体験をしていて、色々な言葉を知っている子でも、物語と出会っていない子、本を読んでいない子は世界について語ることが出来ないのです。こう考えていった時、今の子どもたちの困った状況が見えてきますよね。あまり悲観的なことばかり言いたくはないのですが、水が足らなければ草花は枯れてしまうのです。これは事実であって、希望論で何とか出来ることではないのです。今、その草花は必死で生きようと頑張っています。ですから、豊かな水を与えてあげて下さい。
2008.05.09
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今日はちょっと目先を変えて、“言葉”という視点から子どもの育ちを考えてみます。今、子どもの育ちで見過ごされているのがこの“言葉の育ち”だからです。先日来から色々と今の子どもたちの状態を書いていますが、でも、実はそういうことのほとんど全てが子どもの言葉の育ちの中に現れているのです。ですから、その子どもの発達の状態を知るためにはその子どもの言葉の育ち方を見るとすぐに分かります。言葉の中には心の状態、知性の状態、からだの状態、そしてどういう体験をしてきたのかという記憶までが含まれていからです。それで最近気になるのは日本語を理解出来ない子どもたちが増えてきているということなんです。だからといって外国語が得意なわけではありません。とにかく、言葉がおかしいのです。会話をしていてなんかトンチンカンなんです。まず、“説明”が理解出来ません。うちは自宅では造形教室ですから、子どもたちに色々と造形の指導をしています。ですから、説明しなければならない場面がいっぱいあるわけです。でも、いくら説明しても反応がないのです。それで“わかった?”と聞くと、“わかんない”と言います。そういう子は自分でも説明が出来ないし、新しいことにも挑戦しません。毎回、分かっていることだけしかやらないのです。そしてまた、そういう子は言葉だけでなく、図を解釈することもできません。うちの三番目(現在中3)の娘は幼稚園の時から折り紙の本を読みながら一人で色々と折り紙を折っていました。でも、いま小学生でも図を見るだけでその理解が出来る子は多くありません。(特に男の子)だから説明するのですが、説明も理解出来ません。図を見て何となく分かる子は言葉の説明も理解出来るのでしょうが、図を見ても何が何だか分からない子は説明も理解出来ないのです。これは見て学ぶ能力と言葉の理解力がつながっているからかも知れません。けん玉やコマなどの遊び方は見て学ぶしかありません。昔の子どもたちは、落語や職人の世界のように技を見て盗んだのです。そして、このような作業が言葉の理解力も育ててくれていたのではないかと思うのです。理解力も一つの技術ですから。実際、言葉の理解力が乏しい子は、けん玉やお手玉といった遊びでも、見て真似することが苦手なようです。相手の動きを解釈出来ないのでしょう。それですぐ教えてもらいたがります。今、学校でもカルチャーでもなんでも懇切丁寧に教えてしまいます。(お母さんも)でも、この“教えてしまう”という関わり方が、逆に理解力を弱くしてしまうということに多くの人が気付いていません。今、教えることの方が教育的だと思いこんでいる人がほとんどですが、見せるだけで教えないという方法の方が教育的な場合もあるのです。(そのかわり、繰り返し見せるのです。だから最初は時間がかかります。)私の太極拳の先生もそうでした。やってみせるだけで教えてくれませんでした。それで、“それはどうやるんですか?”と聞くと、“そんなことは自分で考えろ”と叱られました。ですから、必死で考えました。だって、教えてくれない癖に、出来ないと怒られるのですから。これは一見不親切なようですがこういうやり方でないと伝えることが出来ないものもあるのです。先日、ある遊びの会に五寸釘をいっぱい持っていって子どもたちと「くぎさし」をして遊びました。最初、子どもたちは全然出来ません。こういう事は言葉で教えても出来るようにはなりません。それで子どもたちは色々と工夫していました。私はやってみせるだけです。そして、しばらくすると刺さる子が出てきました。そうすると、そういう子は出来ない子に説明を始めるのです。自分で工夫することで頭の中に説明という回路が出来上がったのです。そして、こういう回路がいっぱい育っている子が言葉の理解力も育っていくのです。しばらく、言葉の話題を続けます。
2008.05.08
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昨日、「いっぱい遊んでいる子は大人と張り合えるほどに成熟した子どもなんです。ですから、大人よりすごい能力だっていっぱい持っているのです。」ということを書きました。今日は、では「その“子ども力”とは何か」ということを書いてみます。私は10年近く前から「トロルの森」という、森の中での親子遊びの会を指導しています。「横浜自然育児の会」の企画で、対象は1才程度の赤ちゃんから入園前の子どもたちと、そのお母さん達です。その森(豊顕寺市民の森)には小さな崖があります。高さは5,6mでそれほど高くないのですが、60度以上はあるようなかなり急な崖です。特に雨の後などは非常に滑ります。お母さん達でさえ時々転がって落ちます。でも、地域の子どもたちもそこでがけ登りを楽しんでいるようで、それなりにルートは出来ています。また手がかりとなるような木の根っこやなどもいっぱいあるので、それにつかまって登ることができます。私は、よく子どもたちをその崖に連れて行きます。先日もそのがけ登りをやりました。でも、新しい参加者も多く子どもたちは2才前後のチビちゃんがほとんどです。最初は多くのお母さん達が崖を見あげて躊躇していました。子どもも最初はどうしていいのか分からず、戸惑っていました。でも、もう何回も参加して慣れているお母さんと子どもはスルスルと登っていきます。すると、それを見ていたお母さん達も挑戦し始めました。子どものお尻を押して“さあ登りなさい”と励ましました。それでも嫌がっている子どももいました。でも、一人、二人と登り始めると、みんな頑張り始めたのです。すごいですよ。2才前後の小さな子どもが根っこや枝につかまって必死になって、大人でも落ちそうな急な崖を登っていくのです。(もちろん、私は途中にいてサポートします。すでに上にいるお母さんもサポートしてくれます。でも、お母さんのサポートはしないので、お母さんは時々落ちて泥だらけになります。)皆さんもご存じの通り、大人は周囲の状況を見て行動しますが、3才前の小さな子どもは自分の意志でないと怒鳴られたって行動しません。周囲の状況なんて関係ないのです。この時期の子どもはいつでも本気モードで頑固なんです。その子どもが必死になってがけを登ろうとするのです。それは挑戦することが子どもの生命力に響くからです。もちろん、上まで登りきった子どもの顔は輝いています。生命が喜んでいるのです。これが「子ども力」です。大人たちもみんな心から“すごかったね”、“がんばったね”と褒めていました。また、以前3,4才のちょっと大きなお兄ちゃん達と登った時のことです。お兄ちゃん達は簡単に登ります。でも、チビちゃん達は途中で止まって動けなくなったり、泣き出したりします。そんな時、そのお兄ちゃん達が手を出して助けてくれるのです。大人が何にも指示も命令も出していないのに、小さな子どもたちを助けようとするのです。まだ、3,4才のチビなんですがかっこよかったです。これも「子ども力」です。ちなみに、うちの子どもたちもがけ登りは好きでした。(多分、今でも)子どもたちは何の報酬もないのに、誰からも強制、評価されないのに、自分の生命に響くものには夢中になるのです。そして助け合うのです。うちの三番目が小学校に上がった時、まだ「うんてい」が出来ませんでした。でも、多分友達は出来たのでしょう。それで、毎日手に血豆を作りながらも夢中になって練習していました。これも「子ども力」です。外で群れて遊んでいる子どもたちは一緒に遊びたい子ならみんな歓迎してくれます。知らない子でも、小さな子でも、“いれーて”と言えば入れてくれるのです。これも「子ども力」です。大人にはなかなか出来ないことです。本来子どもと子どもの間には垣根などないのです。でも、ゲームとかスポーツといった大人の考えた遊びは子どもの間に垣根を作ります。みんな対立を前提とした遊びだからです。(私は小学校に上がる前の子どもにスポーツは勧めません。)また、友人が副園長をしている幼稚園ではコマが盛んです。そこで、どのくらい長く回し続けることが出来るのかという勝負があるそうです。回っているコマをヒモで叩いて回し続けるのです。そこで子どもたちは何時間も回し続けるそうです。最高は確か3時間くらいだったとおもいます。(今、友人のそのことを文章に書くようにお願いしています。)分かりますか。3時間コマを回し続けるのですよ。最後の方は子どもたちが集まってきてみんなで応援するそうです。喉が渇いたら他の子が水を持ってきて飲ましてくれるそうです。みんな心を一つにして見守るのです。これも「子ども力」です。“こんなことをしてなんの役に立つの”、“頑張ると何かいいことがあるの”などという発想は本来の子どもの世界にはないのです。(でも、最近それをよく言う子どもが増えています。子どもを餌で釣ろうとしているとそうなるのでしょう。そして、そういう子は餌がないと動きません。そして、ちょっとやって無理そうだとすぐに諦めます。)また、うちの子どもたちは始めて聞いたわらべうたや手遊びでも、ほとんどその場で簡単に覚えてしまいます。楽しいことならすぐ覚えてしまうのです。これも「子ども力」です。子どもたちはこんなに素敵ですごい「子ども力」を持っているのです。でも、仲間がいない、自然がない、時間がない、その代わりに口うるさい大人がいる、大人が考えたおもちゃやゲームがあると子どもたちはこの「子ども力」を発揮することができないのです。そして、自分の中の「子ども力」を目覚めさせることが出来ないまま寂しい大人になっていくのです。
2008.05.07
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昨日は、「子どもの能力は生活の中で必要としているものだけが、必要としている分だけ育つのです」というようなことを書きました。ですから子どもの能力を育てようとするなら、毎日の子どもの生活がどのような能力を子どもに求めているのかということを振り返ってみればいいのです。そして実際、お子さんは毎日の生活の中で必要としている能力しか育っていないはずです。それは、毎日の生活にはない能力を必要とする状況に子どもを置いてみればすぐ分かることです。そして、便利になった現代の生活の中で子どもに求められている能力はほんのわずかに過ぎません。現代人の生活には手を使う能力も、言葉を使う能力も、考える能力も、感じる能力も必要ないからです。それはまるで何もしなくてもいい家畜と同じ生活です。これは“子どもにどのようなことを教えているのか”ということではありません。“考えなさい”と言っていても、また“考え方”を教えても、実際に考える必要がない状況なら子どもは考えないのです。そして、考える能力も育ちません。塾や教室にいっぱい通っていても、それで能力が育つわけではありません。子どもが受け身で学んでいるだけなら能力は育たないのです。それでも生活には困らないから、みんな事の重要性、深刻さに気付かないのです。でも、その人間としての能力の低下はそのまま人間性の低下につながってしまうのです。人間性とか、人間としての精神は人間としての能力が育つ過程でしか育つことがないからです。人間としての能力と人間性は不可分なんです。でも、赤い色を見ることが出来なくなってしまった人は、子どもが赤い色を見ることが出来なくても気付かないように、人間らしさを失った人は、子どもが人間らしくなくても気付かないのです。また、自分の希望的観測だけでしか物事を見ることが出来ない人もいっぱいいます。全体の流れを見ないで、“ほら、今の子どもにだってこんないいところがあるよ”というようにです。でも、これは子どもをバカにした言葉です。本来の子どもの能力はこんなもんじゃないのです。時には大人を超える能力を持った子どもだっているのです。それをいいところだけを探して“まだまだ大丈夫”と言ってしまうのは子どもに対して失礼な話しです。こういう人は子どもを褒めながら、子ども本来のすごさを否定しているのです。10年前に、私の書くことが悲観的だと言って通信の受け取りを拒否された方がいましたが、でも、この10年で事態は私の予想通りの方へと変化してきています。子どもは大人を未熟にした存在ではありません。いっぱい遊んでいる子は大人と張り合えるほどに成熟した子どもなんです。ですから、大人よりすごい能力だっていっぱい持っているのです。それは、多くの仲間と野山で遊んでいる子どもたちを見ているとよく分かることです。それが「子ども力」です。みなさんだって子どもの時には出来ていたのに、今は出来ないことだっていっぱいあるはずなんです。そうは言っても、寂しいことに今大人より優れた能力を持った生き生きとした子どもにはなかなか会うことが出来ません。多くの子ども達が大人を未熟ににしただけのような状態になってきてしまいました。それは子どもから“子どもの生活”が消えてしまったからです。今、子どもたちは大人の生活に合わせて生活しています。でも、大人の生活では子どもの能力は育たないのです。それは子どもの能力を必要とする場も、その能力を競い合う仲間もいないからです。そして、大人が褒めるのは、子どもらしい子どもではなく、大人のような子どもばかりです。野原で裸足で走り回る子は叱られて、靴を履いて大人しくしている子が褒められているのです。でも、そういう大人は子どもの成長のからくり、真実を知らないのです。子どもの時に、いっぱい子どもとしての能力を育てることが出来た子だけが、大人になった時にしっかりとした大人としての能力を身につけることが出来るのだということをです。「子ども力」は「大人力」の基礎なのです。どうか、このブログをお読みになっている方は、そういう子どもの子どもとしての成長の素晴らしさ、「子ども力」のすごさを周りの人たちに伝えて欲しいのです。子どもを勉強に追いやっている人だって、心のどこかで“なんか違うな”と感じている人が多いのです。勉強という基準では人生を生きていくことなんか出来ないということはみんな分かっているのです。でも、親自身が子どもの時から勉強という基準しか与えられてこなかったので他の基準を知らないのです。人間には“生命の働き”という基準があるのです。それを無視していると子どもは育たないのです。どうか「子ども力」を育ててあげて下さい。
2008.05.06
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5月1日に、大人に必要な能力として「受け継ぎ 守り 育て 伝える」と四つの能力をあげました。そして、“育てる能力”以外は、全ての生き物に共通だとも書きました。全ての生き物が生命や遺伝子を受け継ぎ、守り、伝えてきたからです。そして、生物が複雑になるにつれて、その内容も複雑になり、生命や遺伝子といったものだけでなく、知識や技術というものまでその対象になってきました。それは、その生き物にとってはその知識や技術も、生命や遺伝子と同じくらい大切なものになってきたということを意味します。なぜなら、その生き物たちの生命がその知識や技術に依存するようになってきたということだからです。人間は手を使い、考えることで環境の変化に対応し、他の生き物たちとの戦いに勝利して生き延びてきました。それは、裏を返せば人間が手を使い考える能力を失ったら絶滅するということでもあります。ですから、人間にとっては子どもたちに人間として生きるために必要となる知識や技術を伝えることは生命を伝えることと同じくらい大切なことなんです。人間にとって“生命を大切にする”ということは単に“死なない”、“殺さない”ということではないのです。自分自身が人間らしく生き、また他の人の人間らしさを大切にすることこそが、“人間にとっての生命を大切にする”ということなんです。その背景に“手の使い方”や“考え方”を伝えることの意味があるのです。(今朝の朝日新聞に“白鳥の命だって人間の命と同じように大切なものなんだ”という記事が載っていましたが、でも、生命の仕組み自体は同じでも実際には白鳥の生命と人間の生命は同じではありません。そうでないと、“ゴキブリの生命も人間の生命と同じだ”、“人間の生命もゴキブリの生命と同じだ”という事になってしまいます。白鳥やゴキブリだけ別扱いする根拠など存在していないからです。また、魚は他の生き物にその大部分を食べられてしまうという前提で無数の卵を産みます。それを、“人間の生命と同じだ”という考えで全部成体にまで育てたら自然界は大混乱してしまいます。もちろん、一つ一つの生命はみんな大切です。みんな必死で生き延びようとしています。でも、魚の生命は魚のものであり、人間の生命は人間のものです。それを比較しても意味がないのです。)そう考えていくと、今の日本は全く生命を大切にしない国になってしまいました。人間が人間としての尊厳を失い機械、合理性、効率、そして経済の奴隷になってしまいました。今子どもたちには、人間らしさより、機械を操作する能力が求められているばかりです。その“人間らしさ”を支えている能力の根幹に“手を使う能力”と“言葉を使う能力”があります。この二つの能力は5月1日に書いた見る力/聞く力/理解する力/覚える力/考える力/助け合う力/伝える力/工夫する力/豊かな感情と感性など様々な能力の出発点にあるものです。これらの能力もこの“手を使う能力”と“言葉を使う能力”が育っていく時に育っていく能力なのです。極端に言ってしまえば、人間の知能は人間らしい手の使い方を学ぶことで育ち、人間の心は人間らしい言葉の使い方を学ぶことで育つのだと言うことです。(但し、人間の場合心と知能を分離出来ません。知能が育つ時に心も育ち、心が育つ時に知能も育つのです。)ちなみに、多くの人がこれらはわざわざ伝えなくても、子どもたちは勝手に学んでいくものだと考えているようですが、それは違います。人間は(他の生き物でも同じですが)自分が生きていくのに必要なものしか学ぶことが出来ないのです。これは絶対の原理です。それは、見る、聞く、話す、感じる、動くという人間の活動を支える全てのことにおいて言えることです。生まれた時から歩く必要のない生活をしていれば歩く能力は育たないのです。考える必要のない生活をしていれば考える能力は育たないのです。テレビで様々な情報に触れていても、知識が増えるだけで能力は増えません。テレビは見る人に能力を求めないからです。赤ちゃんだって見ることが出来るのがテレビなんです。実際、最近、街を歩いている若者の歩き方を見ていると、歩くのが下手な若者ばかり目立ちます。歩き方がぎこちないのです。あれでは長距離を歩くことも出来ないし、すぐに疲れてしまうでしょう。また、筋肉や神経の偏りが心やからだの病気を引き起こすかも知れません。子どもが学ぶことが出来る能力は子どもの生活の中で必要になるものだけです。手を使う能力を必要としていないのなら子どもたちは手を使う能力を身につけることが出来ません。言葉を使う能力を必要としていないのなら言葉を使う能力を身につけることが出来ません。それはつまり、子どもたちが人間らしい知能も心も育てることが出来ないということを意味しています。
2008.05.05
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今日は久しぶりに家内と山に登ってきました。登った山は箱根の外輪山の一つ「明神ヶ岳」(1169m)で、道了尊からのぼり、宮城野へ降りました。そして、宮城野の町営温泉(650円)に入ってきました。行程は以下の地図の通りです。まだ新緑がまぶしく、ボケや桜も咲いていました。桜のようです。山からのわき水です。延々と登ります。霧も出てきました。頂上です。でも、霧で何にも見えませんでした。それと、お弁当を買い損ね、土産物屋で買ったジャガイモの煮付けを食べたっきりです。こんな花も咲いていました。新緑が奇麗でしたよ。景色は見えませんでしたが、気持ちのいい登山でした。(お弁当がなかったのは残念ですが・・・)それと、温泉も気持ちよかったです。家内はきっと明日は筋肉痛でしょう。
2008.05.04
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今日二度目のブログです。教室の案内とワークショップのお知らせです。<生徒募集>「土曜アトリエ」 茅ヶ崎駅の周辺の会場で、第2、第4の月二回の土曜日だけ活動している教室です。ここでは共通したテーマで活動しています。6月までのテーマはここで見ることが出来ます。ただ、今小学生ばかりなのでテーマを小学生に合わせてしまっています。それで、小学生の生徒だけの募集になります。ご了承下さい。「ネネムの森 造形教室」自宅(茅ヶ崎市円蔵)の方では月曜日から金曜日まで造形教室という形で活動しています。ここでは、共通したテーマを決めずに子どもが自由に製作しています。時間は曜日によって違いますが夕方一時間半です。 詳しくは、ホームページの方をご覧になって下さい。*****************************<ワークショップのお知らせ>「心あそび と からだ遊び」*・・心とからだはイメージでつながっています・・*子どもは心とからだ丸ごとで生きています。心が動けばからだも動きます。からだが動けば心も動きます。嬉しければ飛び跳ねて、悲しければ泣きます。雲をイメージすればからだが軽くなり、ウサギをイメージすれば跳ねたくなります。そこに嘘やごまかしがないのです。そんな子どもの世界を子どもたちと一緒に遊んでみませんか?子どもの心が見えてくると思いますよ。 日 時: 2008年5月25日(日) 10:00~12:00場 所: 港南台幼稚園 講 師: 篠 秀夫先生 親子遊び、表現共育(心あそび)研究家 造形教室、幼児教室主宰 「しょうなん育自の会」(子育ては自分育てから)主宰 その他、様々なワークショップ、勉強会の講師など多岐にわたり、ご活躍です。対象者: 幼稚園年中から小学校3年生までのお子さんと親 20組参加費: 親子で 1500円連絡先: 小島もと子 参加される方は親子とも動きやすい服装でおいでください。スカートは不可です。滑りやすいので、遊ぶときにはできるだけ素足でお願いします。**************************音遊びワークショップも参加者募集中です。「音遊びワークショップ」久しぶりに音で遊んでみたくて音のワークショップを企画しました。まっ暗な中で音を聞いたらどうなるか、音で風景を演出出来るか、身近な物を使ってお話しの効果音を作ったらどうなるか、床や壁を叩いて音階を探して演奏はできるのか、太鼓の音で目を閉じた人を操縦、大声を出す、拍手で演奏、などなど色々と実験してみたいと思います。 また、太鼓を叩いたり、踊ったりしても楽しいですね。色々な民族楽器を持っていきます。いっぱい遊んでみたいのでお気軽にご参加下さい。日 時: 6月8日(日) 10:00~12:00会 場: 茅ヶ崎市民文化会館 1F 練習室1 (茅ヶ崎市役所隣、中央公園の前です)対 象: 幼稚園年長以上と大人参加費: 一人 800円(兄弟は500円)その他: 動きやすい服装でお願いします。 スカートは不可です。 部屋をまっ暗にしたりもし ますので、まっ暗が苦手な 人は無理だと思います。 (ホントにまっ暗になります)申し込み: kodomotachihe@yahoo.co.jp Fax.0467-54-6356 篠まで
2008.05.03
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天然堂さんから以下のようなコメントを頂きましたのでこのことについて少し書いてみます。>私は自治会や子ども会、PTAなどに参加して思いを強くしたのですが、親が学ぶ場が必要なのではないだろうかと…どんなしかけが有効でしょうか?最近、子どもの事件や子どもの様々な問題が語られる時“家庭教育”の重要性が謳われます。そして同時に、その親を教育する必要性も語られます。子どもにも色々な問題が現れていますが、親も親で「モンスターペアレント」「モンスターマザー」という言葉で表されるようにおかしな親が増えてきているからです。というより、子どもの問題は親の問題が子どもを通して現れているだけですからそれは当然のことです。でも、もっと考えるとその親のさらに親の問題が今の若い親を通して現れているだけなのです。ただ、世代を経るに従って問題が深刻化してきているので、今の親や子どもたちが急におかしくなったように見えるだけなのです。つまり、今の若い親たちのことを嘆いている世代の人たちがその問題のある若い親たちを育ててきたのですから、今さら古い価値観を持ち出して若い親たちを再教育しようとしても無駄だということです。今の年寄り達にそれが出来るなら、最初からそういう親が生まれてこなかったはずだからです。そんなことをしたら余計に問題が深くなってしまいます。でも、そんな子どもたちでも、また若い親たちでも今の自分に満足して幸せなのかというとどうもそうではないようです。昨今の若者の自殺の増加を見ていると、非難されいる立場の若者達、子どもたちも苦しいのです。苦しいけどどうしたらいいのか分からないのです。そんな時どうしたらいいのかという教育を受けてこなかったからです。だから、非難ばかりしても、罰則を厳しくしても無駄なんです。“死刑になりたいから人を殺した”という若者に対して、罰則は意味がないのです。今、必要なのは正解を押しつけることではありません。若者達はそんなことにはうんざりしています。正解ばかり押しつけられて来たから正解のない現実の生活の中で迷子になってしまっているのです。考える力、自分で工夫し、発見する力を育ててもらえなかったから道を先に進むことが出来なくなって死んでしまうのです。ですから、これは「心の教育」などという“きれいごと”でなんとかなるような代物ではありません。道徳的な話を聞かせて、道徳的なビデオを見せても、それを“正解”として押しつけたら、かえって反発するだけです。そんなもの自分の人生を生きるためには何の役にも立たないのです。じゃあ、どうしたらいいのかということです。結論から言ってしまえば、“自己教育の場”を作ることです。それ以外に方法はないと思います。自分で気付いて、自分で発見し、お互いに刺激しあいながら成長する場を作るのです。その時、造形的な活動、芸術的な活動、表現活動、グループによる創造活動などが非常に有効になります。いずれも今の日本の教育、子どもたちの生活の中にはないものばかりです。そして、これらは今の子どもたちが苦手なものばかりです。実際、様々なところで子どもを集めて色々な活動をしていますが、その多くは単なる自然体験かスポーツかゲームのようなものばかりです。つまり、指導者の下で受け身的に体験することが出来るものばかりなのです。では、自治会や子ども会、そしてPTAなどがそのような“大人の自己教育の場”になり得るかというとそれはなかなか困難だろうと思います。色々な人から聞こえてくる色々な情報によると、そういう場の多くは一部の権力者が実権を握って場を支配していることが多いようですから。そういう場では話し合いすらまともに出来ないでしょう。そのような状態では自己教育は難しいでしょうね。でも、それもそれで仕方がない部分もあるのです。誰かが決めて、誰かが責任を持たないと物事が先に進まないのに、日本人の多くはその責任から逃げようとしてしまうからです。だから、みんな受け身的にしかそういう活動に参加していないのです。だから、支配者も生まれるし、支配者がいるから物事が効率的に進んでいくのです。じゃあ、どうしたらいいのかという問題です。一つ考えられるのは、自治会や子ども会、そしてPTAなどで、子どもたちのための造形的な活動、芸術的な活動、表現活動、グループによる創造活動の場を作ることです。“子どもたちのために”という名目があると、大人は動きやすくなります。そして、大人たちがそこでの子どもたちの姿、変化、成長に触れることです。すると、子どもが成長すると大人も刺激を受けるのです。子どもは大人の鏡ですが、同時に大人も子どもの鏡だからです。子どもが一生懸命に頑張っている姿を見ると、大人も“もう少し頑張ろうか”と思い始めるのです。ですから、そういう場での子どもたちの変化、成長をちゃんと見ることが出来る人が、それをみんなに報告して、みんなの意識を子どもの成長に向けるようにするのです。子どもの成長をみんなで喜ぶことが出来る雰囲気を作るのです。そうすると、大人も成長を始めます。但し、子どもの成長に気付き、それをみんなに伝えることが出来る人がいないと、どんなに子どもによいといわれることを子どもたちに体験させても、“やらせるだけの活動”になってしまい、子どもも大人も成長しないでしょう。でも逆に言えば、日常的な子供会や地域の活動の場でも、子どもの成長をしっかりと見ることが出来て、それをみんなに伝えることが出来る人がいるなら、そのグループは成長していくのです。子育て支援の場でも、お母さんが子どもの成長に気付くように、またそれを喜ぶことが出来るように誘導してあげることで、お母さんもまた子どもと共に成長を始めるのです。“○○くん、表情が変わってきたね”、“○○ちゃん、あれが出来た時すごく嬉しそうだったね”、“子どもはチャレンジしながら成長するんですね”ということを見て、感じて、積極的にみんなに伝える人がいれば周囲も少しずつ変わっていくのです。そして、それは誰にでも出来ることですよね。
2008.05.03
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昔は、地域と学校と家庭の間には何となく役割分担があったように思います。子どもたちは、学校に上がる前や学校から帰ってきてからは地域の群れの中で遊んだり、また地域の大人と関わったりして過ごしていました。そういう関わりの中で、“遊び”や“遊びの知恵”を受け継ぎ人と人の関わり方を学ぶことが出来ました。さらには、そういう関わりを通して人間としての生き方、世間の常識も学ぶことが出来ました。また、家庭の中ではお手伝いをすることで“生活の方法”を学び、文化を受け継ぎました。また、家庭は人間としての生き方の基本を伝える場でもありました。そして、学校では過去と未来、そして世界とつながる知識を、宇宙とつながる知識など学びました。地域や家庭には“現在”しかありません。ですから、学校に行かないでも生活には困りませんが、非常に狭い世界で生きることになります。それが“無知”という状態です。それに対して、学校には“現在”がありません。“現在”を伝えるのは地域や家庭の役割だったので、学校で教える必要はなかったからです。だから、学校では生活の場では役に立たないことを中心に教えてきました。でも、その役に立たないことを学ぶことが人間としての精神を目覚めさせ、育てる働きをしていたのです。でも、今地域と家庭が子どもを育てる場ではなくなってしまいました。子どもがつながることが出来る地域は消えてしまいました。家庭はありますが、文化を学ぶ場でも、人間としての生き方を学ぶ場でもなくなってしまいました。そんな中、学校だけが相変わらず昔に近い状態のまま生き残っています。それで、地域や家庭で子どもたちが学ぶことが出来なくなってしまった“現在”の問題がどどっと学校に持ち込まれるようになってきました。仲間と助け合う、大人の言うことを聞く、などということは本来学校の外で学ぶべき事だったのですがそういうことを学んでいない子どもたちがそのまま学校に来るようになってしまったのです。ですから、今学校でそういうことを教える必要があるのです。1,2年生の間に群れ遊びを通して、仲間作りの方法を学び、お話しをいっぱい聞いて大人の言葉を聞く力を育てる必要があるのです。それが、3年生以降の学力に影響してくるのです。本来、そういうことは幼稚園(保育園)の役割なのでしょうが、学校がお勉強と規則中心なので、お母さん達は幼稚園にその準備を求めてしまっています。わが子が学校で取り残されないように必死なんです。遊びを中心に活動している幼稚園もありますが、実際にはお勉強系の幼稚園の方が圧倒的に多いようです。また、遊びが多い幼稚園でも、ほっぽりぱなしの所も多くあります。でも、ほっぽりぱなしでは“みんなで遊ぶ遊び”はなかなか体験出来ません。みんなで遊ぶ遊びの体験がルールを守ったり、助け合ったりする心を育ててくれるのです。でも、学校はそういう子どもたちを規則で縛るばかりです。だから、簡単に崩壊してしまうのです。学校が“現実”に対応出来ていないのです。それの一番の責任は文科省です。でも、文科省の言うことに盲目的に従っているばかりの先生達にも大きな責任があります。実際、限られた自由の中でも色々と工夫して頑張っている先生達もいるからです。長女(現在大学四年)が小1の時の先生は歌が好きで、授業中にもみんなでいっぱい歌を歌ったそうです。それで学校が好きになったようです。現在、声楽を学んでいるのもその影響があるかも知れません。友人の先生は、社会の授業で学んだことを劇にして子どもたちと演じています。子どもたちはそういう先生が大好きだし尊敬しています。だから、崩壊など起こさないのです。先生が規則だけで子どもを縛ろうとするから崩壊が起きるのです。上から言われたことに盲目的に従っているばかりの先生は、自分の頭では考えません。そして、規則で子どもを縛ろうとします。だから、世間では考えられないような非常識なことがいっぱい起きてきます。そんな話しがお母さん達からいっぱい寄せられてくるのです。そして、子どもたちは結果として何も学ぶことが出来ないまま世の中に押し出される羽目になります。だから、大人になれないのです。丸裸でジャングルに放り出されるようなものです。これではちょっと安全なところがあったらそこに閉じこもってしまいますよね。確かに、学校だけが悪いわけではありません。でも、今この現実に対応出来るのは学校しかないのも事実なんです。学校がこの現実を無視して、学力ばかり子どもに求めているともっともっと大変なことになってしまうでしょう。
2008.05.02
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みなさん、“大人の条件”なんて考えたことがありますか。お金を稼ぐことですか?子どもを産み、育てることですか?家族を守ることですか?平和を守ることですか?どれも部分的には正しいとは思いますが、でもこれが大人の条件だとすると本人の努力にかかわらず大人になることが出来ない人があまりに多くなってしまいます。また、これが出来たからと言って“大人としての自覚”が生まれるわけでもありません。私は、大人の条件を「受け継ぎ 守り 育て 伝えること」だというように考えています。この中の“育て”以外の所は人間以外の生き物でも同じです。全ての生物は生命を受け継ぎ、守り、また子孫に伝えてきました。この流れが途絶えてしまったらその種は絶滅してしまいます。そしてその役割を担っているのが“大人”です。でも、最近の日本人はこれも難しくなっています。週刊誌の見だしなどを読んでいると、結婚したくない人、セックスが嫌いな人、子どもが嫌いな人、子育てが嫌いな人が急増しているような印象を受けるからです。実際に、虐待もまた増加しています。また、日本人男性の精子の数が世界レベルで極端に低いという報道もあります。サルや象などは、「餌の取り方」、「餌の場所」、「なわばり」なども受け継ぎ、守り、子孫に伝えています。子育てをする生き物では“育て”も入ってきます。育てないと死んでしまい、生命を後生に伝えることが出来ないからです。また、人間の場合は文化や知識や技術や知性なども「受け継ぎ 守り 育て 伝えること」の対象になります。こういう活動の主体になっているのが“大人”だということです。ですから、結婚していてもいなくても、子どもがいてもいなくても、大人としての役割を果たすことは出来るわけです。そして、その役割を果たす大人がいなくなってしまったらその種は退化するか絶滅します。だとしたら、大人に求められる能力は●受け継ぐ能力●守る能力●育てる能力●伝える能力の四つだと言うことです。でも、悲劇的なことに今の日本にはそのいずれの能力も子どもたちに伝える場がありません。みんな“自分を守ること”に精一杯なのです。これらの能力を支えているさらに基本的な能力は、●見る力●聞く力●理解する力●覚える力●考える力●助け合う力●伝える力●工夫する力●豊かな感情と感性●手を使う能力、からだを使う能力などです。確かに、学校などでは似たような能力を子どもに求めています。でも、不思議なことにその能力を求めるばかりでその能力を育てるカリキュラムがないのです。考える能力を育てることなしに、“考えろ”と考えることを要求しているのです。でも、考えるということは一つの技術ですから、その技術を学ぶことが出来ない子どもが考えることなど出来るわけがないのです。だから、手っ取り早く“暗記”という方法で対応する癖を付けてしまうのです。でも、子ども時代に暗記で勉強する癖が付いてしまうと、考える能力が身に付かなくなってしまうのです。子ども時代は試行錯誤しながらそれらの能力を学ぶ時期であって、それを結果によって評価してはいけないのです。評価をしてしまうと、子どもたちは手っ取り早く大人を満足させる方法を身につけてしまうのです。それは例えば、自転車を知らない人たちに自転車で競争させるようなものです。自転車に乗ったこともない人たちですから、正しい乗り方など分かりません。それで、ちゃんと乗ろうと考え始める人もいるかも知れませんが、押して走り出す人も出るでしょう。すると、結果としては自転車に乗ろうと工夫する人より、押して走った人の方が早くゴールにたどり着けるのです。そして、早くゴールにたどり着いたものだけを褒めていたら、みんな自転車に乗らずに押して走る癖が付いてしまうでしょう。自転車とはそういうもんだと思いこんでしまうのです。でも、そのうち出遅れながらも一生懸命に頑張って自転車の乗り方を学んできた人が走り出すと、ただ押して走っている人は追い抜かれ、追いつけなくなります。でも、そうなってしまうとそこからあらためて自転車の乗り方を学び直そうなどとは思わないのです。そんなことをしてしまったらさらに成績が下がってしまいますからね。そして、“自分には能力がないからダメなんだ”と自分を納得させるのです。また、学校で子どもたちが学んでいるのは、学校という場の中だけでしか使えないことばかりです。子どもはやがて大人になって社会に出ていって大人としての活動をしなければならないのに、学校という場の中だけでしか使い道のない知識、技術しか学ぶことができないのです。これは子どもたちにとっては悲劇です。でも、社会の中で活動をしたことがない学校の先生にはその悲劇がよく分からないのです。そして、それを子どもの能力の問題に転換してしまいます。でも、学校の先生達の非社会性は多くの場所で語られていることです。先生達の常識は社会の常識ではないのです。だから、先生の常識を子どもたちに押しつけてはいけないのです。(もちろん全部の先生がそうだというわけではありません。子どもが生き生きと社会に出ていくことが出来るような教育をしてくれている先生だっています。でも、悲しいことに少数です。)これでは、日本の社会がおかしくなって当然です。むしろ、おかしくならない方が不思議です。
2008.05.01
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