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今、日本中、いや、世界中で“子どもを守ろう”という活動が盛んになっています。その背景には子どもに危害を加える大人、子どもが子どもらしく生きることが出来ない環境、貧しさ故に学ぶことが出来ない環境などの存在があります。でも、私は敢えて言います。子どもを守らないでください。子どもは“育てるもの”であって、“守るもの”ではないからです。人は何かを守ろうとする時、どうしても枠を作ってその中に閉じこめようとしてしまいます。その方が安全管理がしやすいからです。自由に行動する子どもに寄り添ってSPのように子どもを守るという方法も考えられますがそれは現実的ではありません。そんなことしたらお母さんの行動が束縛されてしまいます。それにそんな親子関係は変です。だから、子どもを守ろうとすれば子どもの行動を束縛するしかなくなってしまうのです。でも、殻を破ってどんどん成長しつつある子どもを、“守る”という名目で殻に閉じこめてしまっては子どもは育つことができなくなってしまいます。そもそも“誰が”、“誰から”、“何を”守るのですか。“子どもを悪い大人、悪い環境から守ろう”と言います。じゃあその悪い大人はどこにいて、どういう人ですか。どうして悪い大人がいっぱいいるのですか。悪い環境とはどういう環境でそれはどうして増えてきているのですか。もし、親がそのような“悪い大人”だったらどうしますか。学校の先生が“悪い大人”だったらどうしますか。隣のおじさんが“悪い大人”だったらどうしますか。向こうから道を歩いてくるおじさんが“悪い人”だったらどうしますか。いつも吸っている空気、毎日飲んでいる水、食べている食べ物に毒が入っていたらどうしますか。道路のアスファルトやビルのコンクリートが悪いものだったらどうしますか。空気の中に飛び交っている電波や電磁波が悪いものだったらどうしますか。そして、子どもの周りから“悪いもの”を排除して、子どもを守っていれば子どもは“よい大人”になるのですか。そして、“良い環境”は増えるのですか。子どもを守ろうと活動している人は“良い大人”なのですか、そして子どもを守っていれば良い大人になるという根拠はあるのですか。“子どもを守る”という考え方の一番大きな間違いは、“大人”と“子ども”、“良い人”と“悪い人”、“良い環境”と“悪い環境”を分けて考えていることです。つまり、本来分離出来ないはずのものを勝手な思い込みで二つに分けてしまっているのです。これは、文明人の特徴かも知れません。物事をすぐに二者対立の構造で考えてしまうのです。“勝ち組”と“負け組”も同じです。人間と地球や自然を対立させるのも、知性と感情やからだを対立させるのも変です。“子どもと大人”は対立するものではなく、“後輩と先輩”という関係に過ぎません。そこには“今の子ども”と“昔の子ども”、“将来の大人”と“今の大人”がいるばかりです。他には誰もいないのです。どうしてこの両者を分離することなどできるのでしょうか。野球やサッカーなどのチームで先輩が後輩を守ってばかりいたらどうなりますか。試合をして負けたら可哀想だから試合はしません。練習をしてケガをしたら可哀想なので練習もしません。間違いを指摘したら自尊心をなくすので間違いを指摘しません。そんなチームは崩壊してしまいます。先輩には後輩を育てる義務があるのです。負けた時にはどうした負けたのか、どのように練習したらいいのかを一緒に考えるのが先輩のはずです。ケガをしたら、ちゃんと手当をしてあげて練習を怖がらないようにケアをして、ケガをしてでも頑張る目標と喜びを与えてあげるのが先輩の役目なのではないですか。自尊心はしっかりとした成長によって自然に得ることが出来るのではないですか。間違いを指摘しなくても、自分の成長を自覚出来ない子は自尊心が育たないのです。崖を登ることが出来なければ崖を登る技術を教え、ケガをしたら手当をして、励ましてあげるのが先輩の役目であって、崖に近付かないように指導するのは無責任としか言えません。だって、子どもの周りは崖ばかりなんですから。この崖を登らないことにはしっかりとした大人になることが出来ないのです。この関係の中で“子どもを守る”ということは、“子どもの成長する意志”を守るということなのではないですか。一人の人間として自立する意志も能力もこの延長にしか生まれないし、育ちません。そして、そのためには大人にも“成長する意志”が必要です。後輩の技術を育てるためには、先輩が高度な技術を持っている必要があります。そして、後輩以上にもっと頑張っている必要があります。そして、後輩に向けて希望を語ることが出来なければなりません。当たり前のことですよね。でも、昨今の“子どもを守ろう”という考え方には悪者を排除するという考え方しか感じないのです。そして、子どもを“安全地帯”に閉じこめようとしています。そのような状況の中で子どもは良い先輩になることができるのでしょうか。私には、自分のやるべき事をやらずに後輩をいじめるだけの先輩が増えるような気がしてならないのです。私は、子どもが大人になるまで身につけなければいけないのは、“自分を守る能力”ではなく、“仲間を守る能力”なのではないかと思っています。そしてそれは大人に守られているだけの子どもには手に入れることが出来ない能力です。大人に守られているだけの子どもが得ることが出来るのは“怖いものから逃げて身を守る能力”だけです。つまり、逃げるのが得意な能力です。(逃げるのが悪いと言うことを言っているわけではありません。時には逃げることも必要です。でも、逃げているばかりでは成長出来ないのも事実です。)逃げることでしか自分を守ることしか出来ない人の群れはお互いに傷つけ合います。でも、それでは結局自分自身も守ることが出来ないのです。でも、仲間を守る人たちの群れは平和です。そのような群れの中では自分を守る必要はないからです。大人に守られているだけの子どもがそのような能力を育てることが出来るとはとても思えないのです。
2008.06.30
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今日は“神様”という言葉がいっぱい出てきますが、それは“人智を超えた大きな働き”という意味です。ですから、ご自分の趣味に合わせて仏様にでも、精霊にでも、自然にでも自由に読み替えて下さって結構です。*******************************皆さんは道に迷ったらどうしますか。町の中なら聞く人もいるし、標識もありますからそういうものを手がかりに正しい持ちを探して前に進むこともできます。でも、もしそれが誰もいない森の中だったらどうしますか。人も人類も未来に向けての道を歩いています。この道は誰も通ったことがない道です。ですから誰も“正しい道”を知りません。そのため、多くの人がすぐに道に迷ってしまいます。そして、ある人は“あんたが悪いんだ、私はあんたに教えられた道を歩いてきただけなんだから”と言っています。でも、人は一人一人違う道を歩くのですから、他の人の指示で歩いていたら必ず迷子になります。人は自分が歩いてきた道のことしか知らないからです。またある人は、“みんなが歩いている道だから大丈夫だと思ったのに”と言っています。みんな“誰か知っているだろう”と人任せにして歩いてきたのです。また、ケモノに追われて逃げているうちに迷子になってしまう人もいます。美味しそうな木の実や、獲物を追いかけて迷子になってしまう人もいます。知ったかぶりで歩いて迷子になってしまう人もいます。ゲームをやりながら歩いていて迷子になってしまう人もいます。とにかく私達は地図がない道を歩いているのですぐに迷子になってしまうのです。でも、そこで立ち止まっているばかりでは事態はもっともっと悪くなっていきます。やがて、食べ物もなくなるでしょう。暗くて寒い夜もやってくるでしょう。恐ろしいケモノもやってくるかも知れません。でも、大丈夫です。なぜなら、私達はその道が“正しい道”か、“間違った道”かを感じ取るセンサーを持っているからです。正しい道を歩いている時、人は元気になり、笑顔に溢れ、みんなと仲良くすることが出来ます。でも、間違った道を歩いている時には、怒りや悲しみといった負の感情ばかりが増え、元気がなくなり、笑顔がなくなり、周りの人とケンカを始めます。これらは私達が正しい道を進むことが出来るように神様が授けてくださったセンサーです。私達は、未来の地図は持っていませんがその代わり幸せへと続く道を選ぶことが出来るセンサーを持っているのです。ですから、“自分はどうも間違った道を歩いてきてしまったようだぞ”と気付いたなら、より元気になる方、より笑顔が出る方、よりみんなと仲良く出来る方に道を変えればいいのです。ただし、あまりに奥深くまで間違った道を進んできてしまっている時には正しい道に戻るまでに困難がいっぱい待っているかも知れません。途中に崖やイバラの林が待っているかも知れません。でも、どんな人にでも間違いなく、元気になる道、笑顔が出る道、仲良くなる道、幸せになる道はちゃんと用意されているのです。そして、その道に戻ろうと決意するとその途中に崖があっても、イバラの林があっても勇気と元気が湧いてくるのです。そしてさらに不思議なことには、必ずその人を助けてくれる人や出来事が現れるのです。これは全く不思議なことです。神様は間違った道を進む人からは生きる力を奪い、正しい道を目指す人には勇気と元気と手助けを与えてくれるのです。そうやって進むべき道を教えようとしているのです。苦しい時、“なんでこんな苦しみを与えるんだ”と言って神様を恨む人もいますが、そうではないのです。その苦しみは自分(もしくは自分達)で作っているのです。その事に気付き、そこから遠ざかるために苦しみがあるのです。実は幸せを探すセンサーが正しく働くためには“苦しみ”が必要なのです。ですから、生まれた時から幸せしか知らない人は“幸せ”が分からないのです。昔の人が空気を知らなかったのと同じです。ですから、“可哀想だから”と言って、子どもの頃に苦しみから遠ざけるだけの子育てをしてはいけないのです。子どもは、小さな苦しみを乗り越えた時に“幸せ体験”をするのです。その幸せ体験が“幸せを探すセンサー”の感度を高めてくれるのです。でも、苦しみばかりでそれが“幸せ体験”につながらないとセンサーは幸せの方を向かなくて苦しみの方ばかりを向くようになってしまいます。でも、その反対側には幸せがあるということに気付けばそれも“幸せセンサー”になります。自分の道は自分の力で歩くしかないのです。それは神様にもどうしようもないのです。そこまで神様に求めてしまったらオカルトになってしまいます。だからこそ神様は幸せの道を探すためのセンサーを与えてくれているのです。そして、子どもも自分の道は自分の力で歩くしかありません。親にはどうしようもないのです。だから、親は“幸せの道を探すためのセンサー”の感度を高めて上げる必要があるのです。ここに書いているようなことを信じることが出来ない人もいるかも知れませんが、でも、今あなたが悲しみや苦しみを感じているというその事実がまさに、あなたにも幸せへの道が用意されている証拠なんです。それは幸せを探すセンサーが正しく働いているということですから。方位磁石が正しく北を指しているということは、正しく南を指すことも出来るという証拠なんです。そして、実はここに書いたことは皆さんも知っていることなんです。自分の心の奥深くにその“幸せを探すセンサー”を探してみてください。きっとそのセンサーにはここに書いたようなことが書いてあるはずです。みんな誰でも知っていることなんです。ただそれを想い出せばいいのです。そしてそのセンサーに従って歩いてみてください。きっと幸せの道にたどり着けますから。
2008.06.29
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今日は6月25日の続きです。めろめろさんが書いて下さった溜まっているものが出てくるときに、怒りという形以外に自分で変換する方法ってあるのでしょうか。実際にはお腹の底からマグマが噴出してくるような感じで、自分でコントロールするのは難しいと感じてしまうのですが。というコメントへのお答えの続編です。先日は、一般的に、“私の感情”とか“私のからだ”というような表現をするが、じつは“私”という意識は感情やからだの一部に過ぎなくて、感情やからだの世界の方が“私”という意識の世界より広いので、コントロールするのは無理です。正確には、感情の中の私、からだの中の私なんです。だから、コントロールしようとするのではなく、付き合い方を学ぶ必要があるのです。というようなことを書きました。“私”という意識は感情の海に浮かんだ小舟のようなものです。海が荒れている時、その小舟が海を静めようと思っても無駄ですよね。そんなことやっていたら転覆してしまいます。そうではなく、波を読み、風を読んで、無理をしないでその荒れた海とうまく付き合っていればそのうちに収まるのです。そして、“私”と感情が仲良くなれば、感情は次第に荒れ狂うことも少なくなってきます。感情は“私”に分かって欲しいのです。だから、自分の感情からの声を無視して、コントロールしようとすると余計に荒れ狂うのです。また、自分の感情は自分の子どもと似ています。だから、25日にも書いたように、自分の感情との付き合い方が上手な人は子どもとの付き合い方も上手なんです。そして、感情やからだの場合と同じで、“私の子ども”という考え方も間違っています。私達は伝えられてきた生命を子どもに伝えただけですから、正確には生命でつながった“私達の子ども”なんです。“私達の子ども”を“私の子ども”と勘違いしてしまうから話しがおかしくなるのです。皆さんだって自分の親に“あなたは私のものだ”と言われたら反発したくなるでしょ。ということでその付き合い方です。まず、自分の感情を自分の子どものように向き合ってください。そして、否定しないでその声を聞いてあげて下さい。ただ、押さえ込まれてきた子どもが思春期になって暴れ出すように、抑え込まれてきた感情が怒りという形を取って暴れ出すかも知れません。でも、その怒りの背後にある感情を感じ取ってあげて下さい。きっと、寂しさや悲しさがいっぱい詰まっているはずです。寂しさや悲しさがいっぱい詰まってくると、“怒り”という鎧を着てしまうのです。そして、自分でもその鎧の下の本当に姿に気付かなくなります。すると、いつでも“戦いモード”になってしまうのです。これ以上寂しい想い、悲しい思いをしたくないのと、そのことを想い出したくないからです。また、感覚に意識を向けてみて下さい。感情に振り回されている時には感覚は鈍くなっているはずです。怒っている時にはどんなに美味しいものを食べても美味しくないのです。どんなによい景色を見ても何も感じないのです。どんなにいい匂いをかいでもうとっりしないのです。だから、感情に振り回されている人は子どもからの小さな声を聞き取ることが出来ないのです。そして、支配しようとしてしまうのです。森に出て風の音を聴いて下さい。肌に語りかけてくる風の言葉を聞いて下さい。草や花々の色や匂いを楽しんで下さい。森の音に耳を澄まして下さい。風に揺れる枝葉のダンスを楽しんで下さい。最初は退屈な時間かも知れません。でも、退屈でもひたすら感覚からのメッセージに耳を澄ましていて下さい。すると、感情の嵐は落ち着いてくるのです。だから森で暮らす人々は穏やかなんです。それは家の中でもできることです。音楽に耳を澄ましたり、毎日の食事の味を丁寧に感じたり、家事や育児をしながらでも、自分の感覚に感じてくるものを丁寧に受け取って見て下さい。人は感じる力が鈍くなってくると支配的になってくるのです。感じる力は“聴く力”だからです。よく聴こうとする人は支配などしないのです。これはモアイさんがいつもおっしゃっている“観察”も同じです。また、ストレッチや整体やヨガなどをやって自分のからだとの対話の仕方を学んで下さい。感情はからだの中にため込まれて、からだの力を借りて出てくるからです。からだは感情と“私”という意識の真ん中にいて、感情と意識の仲介役をやっているのです。だから、自分のからだと仲がよくなると、自分の感情の扱い方も分かってくるのです。そして、感情のコントロールは出来なくてもからだのコントロール(付き合い方を学ぶということ)なら訓練次第で可能になります。だから、古今東西の精神修行法ではみなからだにアクセスするのです。野口体操、整体、太極拳、ピラティス、ヨガ、何でも静かに自分のからだとの対話を促すような活動ならOKです。ただ、ジャズダンスのようにリズムに乗って動くものや早い動きの活動はストレス発散にはなるでしょうが感情の声を聴く手助けにはならないと思います。また、音楽をかけて行うもの、指導者の号令に従って動くものもお勧めしません。意識が自分との対話に向かわないからです。ただ、そのようなものは生活を楽しくして感情のエネルギーのガス抜きには役に立ちます。筋肉が増えれば意志も強くなります。人間は筋肉が少なくなってくると憂鬱的になってしまうのです。
2008.06.28
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(昨日からの続きになります)昨日も書いたようにみんなが個人の問題だと思っていることでも、実は日本という国の文化の問題だということが少なくありません。母音を大切にする日本語を母国語にしている人と、子音を大切にしている英語を母国語としている人とでは脳の働きも違うという研究もあるくらいです。自己表現が下手だというのもそれは日本人一般の問題です。ですから、それを自分の欠点だと感じたり、恥ずかしがったりする必要は全くありません。日本人は自己表現は下手ですが、その代わり相手の気持ちを読みとる能力は高いのです。(高かった?)ただ問題は、今みんなが気持ちを読み合うばかりで絡み合ってしまって身動きが取れなくなってしまっているということです。昔の村社会では価値観や社会秩序がはっきりとしていたし、相手の個人的な情報も分かっていましたからこんなにもがんじがらめに絡み合うことも少なかったと思うのですが、現代では価値観が多様化し、社会秩序も混乱して相手が見えなくなってしまっているだけに、相手の気持ちを読みとろうとすると余計におかしな事になってしまうのです。そういう状態の中では、みんながみんな相手に縛られていると感じて負の感情がどんどん溜まっていくばかりです。でも、本当は誰も縛ってなんかいないのです。相手の気持ちを読みすぎて自分で自分を縛っているのです。他のお母さんがいる前では自慢していると思われるのが嫌だから子どもを褒めることが出来なくて、子どもを叱る時は“ちゃんと仕付けていますよ”とアピールするために子どもは聞いていなくても他のお母さんには聞こえるように大きな声で叱っています。それで、子どもに申し訳ないと思って、反省したり、家に帰ってきてから子どもを褒めたりしています。でも、自分を表現することなく、人目を気にして生きている限りストレスも悩みも増えるばかりで減ることはありません。でも、実は自分の子どもを叱りたいお母さんは多くないのです。褒めてあげたいと思っているお母さんの方が多いのです。だから、そういうことをはっきりと言って、そして態度として表現していれば最初は“え!”という反応をされても、次第に他のみんなも子どもを褒めるようになるのです。だって、その方が楽だし、楽しいからです。みんな早くそんなバカバカしい縛り合いなんか止めたいと思っているのに、勇気ある最初の一人が出てこないのでみんないつまでも縛り合って、傷つけあって苦しんでいるのです。これは悲劇です。家庭の中でも自分を分かってもらうように努力もせず、また子どもやご主人を分かろうともしないで、分かってもらうことばかりを期待している人がいっぱいいます。なんとなく、“先に分かってあげるなんて損だ、分かってくれるなら分かってあげるけど”という雰囲気を感じるのです。(自分が先に謝るのは嫌だという子どものケンカと同じです。)そうやってお互いに意地を張り合っているのでコミュニケーションが成り立たないのです。でも、それでは子どもが悲劇です。群れ遊び体験が出来ない今の子どもは家庭の中でしかコミュニケーションや自分を表現すること、相手を理解する能力を育てることが出来ないからです。その家庭の中が意地の張り合いでフリーズしてしまっていたとしたら子どもは人と人とのつながり方を学ぶことが出来ないまま成長するしかありません。どうかちょっとの勇気を出して下さい。そのちょっとの勇気で世界が変わるのです。だって、みんな誰かが変えてくれるのを待っているのですから。“自己表現”とはそのちょっとの勇気なのです。
2008.06.27
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色々と忙しくて遅くなりました。今日はちょっと話題を変えます。今日、都築区で自己表現ワークをやって来ました。私は表現の型を教えるわけではありません。それに表現の仕方は人それぞれでいいので、そこに正解などありません。でも、自分が伝えたいことが相手に伝わらない。相手が伝えたいことを受け取ることが出来ないということは人間関係の形成において問題になって来ます。でも、どうも日本人は相手に分かってもらうことばかりを期待して、分かってもらう努力をしていないように感じます。そして、これは日本という国の文化的な伝統なのかも知れません。物事をはっきりと言わないのが日本人の美学なんです。はっきりと言わない人の気持ちを察して、分かってあげるのが日本人の美学なんです。でも、このようなコミュニケーションが可能だったのは昔の話しです。そしてそれはそういう文化的な背景があったからです。日本は昔から価値観の多様性が少ない国だったのです。そして、基本的な価値観が共通していたので相手の気持ちを察しやすかったのです。それは、一生狭い村社会の中だけで生活して、その中でトラブルが起きないように気を使いながら生きてきた結果なのだと思います。つまり、日本人は自己表現をする必要がない文化の中で生きてきたのです。むしろ、自己表現などをすると角が立ってしまうのです。でも、それ故に日本人は教えてもらわなくても見て学ぶ能力は高かったのです。日本人は教える(表現する)のは下手ですが、見て学ぶ(解読する)のは上手なんです。それが世界に誇る“勤勉”の正体です。だから、アッという間に世界に追いついてしまったのです。でも、追いつくことは出来ても追い越すことが出来ないのです。模倣する対象がいないと進むことができないからです。でも、現代ではその村社会は崩壊し、価値観が多様化してきました。その結果日本人が得意だった“見て学ぶ能力”も消えつつあります。ですから、現代では分かってもらうことを期待するのではなく、分かってもらうように努力しなければ勉強を教えることも、自分の考えや感情を伝えることも出来ない時代なんです。でも、ワークなどをすると“私は自己表現が苦手なんです”と言う人がいっぱいいます。でも、そのような人の話をよく聞いてみると、どうも自分でも何を表現したいのかよく分かっていないようなのです。そのくせ、相手に分かってもらうことはちゃんと期待しているのです。社会が変わっても精神文化は変わっていないのです。そして、分かってもらえないと“何で分かってくれないの”と怒ったり、疎外感を感じたり、悲しくなったりします。秋葉原の事件の犯人も同じです。お母さんが子どもに対して“なんべん言ったら分かるの!”と叱るのも同じです。これは、“なんべん言ったら分かってくれるの”という期待の裏返しです。相手が分かるように伝えればいいのに、分からない表現をしていながら分かってくれない相手をなじるのです。学校の先生も同じです。子どもの成績が悪いのは先生の教え方が悪いせいです。でも、“教えてあげているのに生徒が分かろうとしない”と思いこんでいる先生が山ほどいます。分かるように工夫することなく、分かってもらうことばかりを期待して授業をしているのです。これはプロの考え方ではありません。授業参観などを見に行って、“あんな授業でよく子どもが我慢しているね”という話しはよく聞きます。そんな授業をしている先生に限って生徒の努力不足をなじるものです。お母さんが、“子どもが言うことを聞いてくれないから悲しい”と言う時、そこには子どもへの期待を感じます。でも、これを英語的に言い直すと“私は悲しい、なぜなら子どもが言うことを聞かないから”という表現になります。そこには理由があるだけで子どもへの期待はありません。そして、自分の感情をはっきりと言っています。今、日本は“相手に分かってもらう文化”から、“相手が分かるように努力する文化”へと転換するべき時期なんです。そして、そのためにはまず、一人一人が先ず自分が何を相手に伝えたいのか、それをしっかりと自分自身で整理することです。考えを伝えたいのか、感情を伝えたいのか、感覚を伝えたいのか、想いを伝えたいのか、イメージを伝えたいのか、共感したいのか。それによって表現の方法が決まってきます。それが分からないのに表現の技術だけを学んでも無駄です。英語を丸暗記しても使えないのと同じです。そこがゴチャゴチャでは表現のしようがありません。そして、聞いている方も訳が分かりません。逆に、それが分かってくれば、表現の仕方も自分で工夫出来るのです。つまり、自分は自己表現が下手だと思いこんでいる人のほとんどが、自己表現が下手なのではなく自分が何を表現したいのかが分からないだけなのです。それは自分との対話が出来ないということです。そして自分との対話が苦手な人は、子どもや他の人との対話も苦手です。そして、自分の人生を人任せにしてしまいます。
2008.06.26
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7月17日の「表現共育クラス」(茅ヶ崎)の体験日の時間は3:30~5:00です。最初、チラシの時間が間違っていたので訂正させて頂きます。これがそのチラシです。ご覧になってみて下さい。*******************************今日はめろめろさんが書いて下さった溜まっているものが出てくるときに、怒りという形以外に自分で変換する方法ってあるのでしょうか。実際にはお腹の底からマグマが噴出してくるような感じで、自分でコントロールするのは難しいと感じてしまうのですが。について書いてみます。昨日は、“子育てでお母さんが相手をしているのは小さな赤ちゃんではなく、大きな自然なのです。”ということを書きました。そして人間はその自然の一部に過ぎないわけですからお母さんが赤ちゃんをコントロール出来るわけがないのです。人類は文明の発達と共に自然をコントロールすることを目指してきました。そして、それは成功するかに見えました。でも、部分におけるコントロールの成功が結果として自然全体のバランスを崩し、人類のコントロール能力を超えてしまいました。でも、それはその一部である人類の絶滅の危機にもつながってしまっています。今地球はコントロールされて育てられてきた子どもの思春期の状態と似ています。世界中で起きている異常現象はそれまで押さえ込まれてきた地球の感情の爆発のようです。それで今“自然との賢い付き合い方を見直そう”ということが言われています。自然を“コントロールする対象”としてではなく、共に生きるものとして認め、受けいれて行こうということです。そこで必要になるのは“コントロールの方法”を開発することではなく、“自然との付き合い方”を学ぶということになってきます。誰から? もちろん自然からです。そして、これは子育てでも全く同じことが言えます。子どもという自然をコントロールしようとすると、心とからだのバランスが崩れ思春期に大変なことになってしまいます。時にその破壊エネルギーは子ども自身を滅ぼし親をも滅ぼしてしまいます。じゃあどうしたらいいのか。それも地球の場合と同じです。大人の知識でコントロールの方法を考えるのではなく、子どもから付き合い方を学べばいいのです。実は子育てが上手なお母さんは、子どもをコントロールするのが上手なのではなく、子どもとの付き合い方が上手なんです。賢い子育て法とは、子どもとの楽しい付き合い方に他ならないのです。だから育児書を山ほど読んでも無駄なのです。ぎゃくに、子どもとの付き合い方が上手なお母さんは子育てに関する知識なんてなくても上手に子育てをすることが出来るのです。と、ここで話しをめろめろさんのコメントにつなげます。人間は誰でも自分の内側に自然を抱え込んでいます。いやいや、もっと正確に言うのなら“人間は自然の海に浮かんだ泡”に過ぎません。“自分の内側に自然を抱え込んでいる”と言う表現は分かりやすいですよね。でも、実はこれは間違いです。人間を自然と切り離しているのは“私”という意識に過ぎません。その意識以外は肉体も心も知性も全て自然に属するものなのです。そして、その“私”という意識に実体はありません。その実体がない“私”という意識が、私を支えている自然をコントロールしようとしているのが“人間”という存在なんです。実は人間の特権だと思われている知性も自然に属するものなのです。様々な物理法則や化学的な事実はみな自然の知性なのです。赤血球は脳の指令がなくても適切に行動しますでしょ。受精卵が人間にまで成長する過程に知性が含まれていないと考えられますか。「1+1=2」は人間の知性ではなく、自然の知性なのです。人間はそれを使っているだけです。だからその知性を使って自然に働きかけることも出来るわけです。地球の生態系のバランスは自然の知性によって支えられています。そして、宇宙もこの知性によってバランスが保たれています。人間はその知性を自然から切り離して、人間の目的のために使うことが出来るようになっただけです。それが意識の働きです。“意識”は全体から部分を切り離して、自分の内側にそのミニチュアを作るのが得意なんです。でも、人間はそのミニチュアに過ぎないものを“全体”と勘違いしてしまいやすいのです。だから、本当は“自然の中の私”のはずなのに、“私の中の自然”というように考えてしまうのです。そして、コントロールが可能なように錯覚してしまうのです。それでトラブルが起きてしまうのです。話しがどっかに飛んでいきそうですから戻します。人間を支えている自然の中でも人間が一番コントロールしにくいのが自分の感情と肉体です。というより実はこれらはコントロール出来ないのです。だから、コントロールしようとする試みは無駄ですからやめた方がいいです。私達は“私の感情”とか“私のからだ”などという表現を使いますが、実際は“感情の中の私”であり、“からだの中の私”なのですからそれは当然です。部分が全体をコントロールすることは出来ないのです。でも、確かにコントロールするのが上手に見える人もいますよね。でも、そういう人はコントロールなどしていないのです。“私”という意識が自分の感情や肉体と仲良しになって一体化しているのでコントロールしているように見えているだけなのです。“走りなさい”と命令されても走らない子でも、“一緒に走ろう”と言われれば走りますよね。そういうことです。めろめろさんを含めて、自分の感情に振り回されている人は自分の感情をコントロールしようとしている人です。そして、自分の感情との付き合い方が下手な人です。そして、ここが面白いのですが、自分の感情との付き合い方が下手な人は子どもとの付き合い方も下手なんです。子どもは感情そのものの生き物ですからね。そして、子どもも自分の感情もコントロールしようとします。だから苦しくなるのです。ということで続きます。
2008.06.25
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7月17日の「表現共育クラス」の体験日の時間は3:30~5:00です。最初、チラシの時間が間違っていたので訂正させて頂きます。これがそのチラシです。ご覧になってみて下さい。*******************************昨日は重要なコメントが多かったので、そのコメントに答えさせて頂きます。<無人さんへ>自分の感情を否定せず、受け入れるだけで子どもが救われるようになるのでしょうか。森の声さんのお話で、私自身は救われたように感じましたが、私の子どもはどうしたら救われるのでしょうか。子どもはお母さんが見ているものを見ようとします。ですから、お母さんが下を向けば子どもも下を向きます。お母さんが後ろばかり見ていれば子どもも後ろばかり見ます。お母さんが子どものことばかり見ていれば、子どもは自分のことばかり見るようになります。そして前に進むことが出来なくなります。でも、お母さんが前を向けば子どもも前を向きます。それだけのことです。ですから、子どもに前を向けさせるためにはお母さんが前を向けばいいのです。その時子どもを信じることです。子どもを信じることが出来ずに子どもを見てしまうと、子どもは自分に意識が戻ってきてしまい前を向くことが出来なくなります。それと大切なことはお母さんが見ているものを子どもに話してあげることです。雲を見ているなら雲の話しを、光を見ているのなら光の話しを、未来を見ているのなら未来の話しをしてあげて下さい。そうすると子どもはお母さんが見ているものに希望を感じるようになり、それを自分の希望として受けいれるようになります。<kieさんへ>このことに後悔してからも、共同保育 などで、親は口出ししない、というやり方に、違和感を感じつつも、何がいけないかが自分の中で答えがでませんでした子供同士の群れでやりくりさせるにもリーダーが必要だったのですね親が子どもに干渉してはいけないことの理由として“子どもの自立心を育てるため”というようなことが言われます。また、添い寝をしないで小さい時から別室で寝かせるのも“自立心を育てるため”というように言われます。そして、アメリカ人などが日本人の添い寝を見て“これでは自立心が育たない”などと言ったという話も聞いたことがあります。でも、これは全くの勘違いです。“自立心”とは単純に“一人で生きていく能力”のことではありません。無人島にでも流されない限り人は一人ではないのです。人はいつでも人とのつながりの中で生きているのです。みんなに助けられ、みんなを助けるつながりの中で生きているのです。ですから、“自立している”ということは、そのようなつながりの中で生きているのにもかかわらず自由であると言うことに他なりません。他者を束縛せず、他者に束縛されずに生きている人が自立している人なんです。決して、一人っきりで生きている人のことではありません。さらにいえば、自立している人は他の人としっかりとつながっているのです。つながりの中にしっかりと自分の位置を持っている人です。だから安定しているのです。それでいてそのつながりに縛られることなく自由なんです。だから自立しているのです。ですから、それは決して一人っきりにされて育つ能力でも、子どもが自分一人で身につけることが出来る能力でもありません。気持ちを一緒にする仲間と大人の手本が必ず必要なのです。そのことを多くの人が知りません。一人でやらせれば自立心が育つと思いこんでしまっているのです。でも、幼い頃に大人に支えられずに育った子はむしろ依存心が強くなってしまうのです。どうしてだか分かりますか。不安が強いからです。幼い頃の不安は大人になってもなかなか消えないのです。ですから、その不安を消すために依存するのです。(この不安から抜けるにはかなりの覚悟が必要です)本当に自立した人は他の人を助けたり支えたりすることが出来ます。でも、一人で生きてきた人は他の人を支えることが出来ません。自分を守るのに精一杯だからです。そして、人を信用しないのでいつでも独りぼっちです。<PIKOさんへ>なんだか母親はつらい役回りだなあ。。。これはPIKOさんが宝の山が目の前にあるのにそれをガラクタにしか見ていないからです。子育てでお母さん達はものすごく苦しんでいます。でも、どうして子育てが苦しいか分かりますか。それは人間の心が自然からあまりにも離れてしまったからなのです。人間が自然と共に生きていた頃には子育てなんて特別なものではなかったのです。毎日、自然のリズムに合わせて野菜を育て、家畜の世話をし、野山を駆け回って獲物を捕ってくる生活と子育ての間にはなんの境界もないのです。なぜなら子どもは“自然”そのものだからです。でも、今私達は管理、コントロール出来る社会に住んでいます。文明の歴史とは自然を管理、コントロールする歴史でもありました。ですから文明依存の社会は、管理とコントロールを大切にする社会でもあるのです。それは人間に対しても同じです。文明社会では人間も管理、コントロールされるのです。(現代では農業や牧畜も同じ考えで管理されています。)そんな価値観の社会の中に何万年前と同じ状態の赤ちゃんが生まれてきます。赤ちゃんは自然のリズムのままに生きています。ですから、お母さんがそのリズムに合わせることが出来れば子育てなんか難しいことはないのです。でも、その自然そのものの赤ちゃんを管理、コントロールしようとするから子どもはおかしくなり、お母さんは苦しくなるのです。実は子育てでお母さんが相手をしているのは小さな赤ちゃんではなく、大きな自然なのです。そのことに気付かないと無駄な努力をすることになります。管理、コントロールされて育ってきた人にはそのような方法しか思いつかないのでしょうけど。お母さんはこんな野生児のまま大人になったら困ると思うのかも知れませんが、大丈夫なんです。子どもは人類の進化を繰り返しながら成長するようにできているからです。だから、その時々を大切にしていれば成長と共に自然に現代人になっていくのです。でも、そこで無理をしようとするからおかしくなるのです。つまり、お母さんは子育てを通して人類の進化に立ち会っているのです。そして、子どもは私達が失ってきたものを突きつけてくるのです。ですから、子どもと共に成長出来るお母さんはものすごく成長します。これは母親の役得なんです。でも、その子どもを管理、コントロールしようとするとお母さんには苦しみばかりやって来ます。<おうじょさんへ>どうやらそれが、「怒り」のようなのです。だから、子どもたちがそのスイッチをおすと、目の前の些細な怒りに、過去のいろんな怒りが便乗してあふれ出してきます。押さえ込まれた感情は出てくる時に“怒り”の力を借ります。悲しみも、悔しさも、孤独感も、むなしさも、嫉妬も、全部押さえ込まれていたものが吹き出してくる時にはその起爆剤として“怒り”が使われるのです。それは怒りが一番強いエネルギーを持っているからです。ですから、本当に大切なものはその怒りではなく、“怒りの次に出てくるもの”、“怒りの下に隠されているもの”なのです。それを周囲も、本人も知っている必要があると思います。<めろめろさんへ>溜まっているものが出てくるときに、怒りという形以外に自分で変換する方法ってあるのでしょうか。実際にはお腹の底からマグマが噴出してくるような感じで、自分でコントロールするのは難しいと感じてしまうのですが。これは長くなりそうなので明日書きます。
2008.06.24
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9月から茅ヶ崎で始める「大人と子どもの表現遊びクラス」のチラシが出来ました。体験は7月17日です。ご覧になってみて下さい。*******************************昨日のブログに対してものぐさ父さんから大切なコメントを頂きました。ちょっとそれてしまいますが、こどもの”よい子化”の原因の一つは、お父さんの”お母さん化”にあるのかな、などと考えながら読ませていただきました。これは非常に大切なポイントだと思います。以前、学童をやっている友人からいじめ問題に関するグチ電話がありました。まず母親が、「子どもが“でべそ”と言われて泣いて帰ってきた。これはイジメだ。保育者はイジメに対してどんな対策を取っているのか・・・」などなどと延々1時間くらい話した後、“主人に代わります”といって出てきたその父親もお母さんと同じことを延々とまた一時間話したそうです。それが夜中の1時、2時のことです。つまり、お父さんに父親としての意見がないのです。価値観が一緒なんです。昔は母親には母親の価値観があり、父親には父親の価値観があったと思うのですが今では父親も母親も“学校の価値観”、“よい子という価値観”に染まってしまってしまっているケースが増えてきているようなのです。(他にも、“お客さん”という価値観、“被害者”という価値観も共通しているようです。)まず、学校と家庭では役割が違いますから、本来異なった価値観に支えられているはずです。でも、今家庭は学校の出先機関になりつつあります。お母さんやお父さんが先生の手下になって子どもを追い回しているのです。昔B&Bというコンビで活躍していた島田 洋七が書いた「佐賀のがばいばあちゃん」という本を読まれましたか。そこに出てくるおばあちゃんは、洋七が“歴史がわからん”と言うと、“私は過去には興味がありませんと書いておけ”と言うような豪傑でした。このばあちゃんは勉強に関しては全く関心がありませんでしたが、でも、洋七の人間としての成長には一生懸命気を使っています。つまりそういうことなんです。本来学校は勉強を教えるところで、家庭は人間性を育てるところなんです。この両者が補い合う働きをするから子どもは自立した大人になることができるのです。だから学校の先生は親に子どもの勉強の世話までさせてはいけないのです。子どもに勉強を教えるのは先生の役割なんです。塾の役割は更に上を学びたい子のためのものです。そして、親は学校にしつけまで求めてはいけないのです。ただし、親は先生が勉強を教えやすいようにサポートし、先生は親が人間性を育てやすいようにサポートする必要はあります。役割というものは支え合って効果的に機能するものだからです。でも、現実にはお互いに足の引っ張り合いばかりしています。また今、家庭でも子どもの人間としての成長など考えなくなって来てしまいました。とにかく、学校の中で、社会の中で落ちこぼれないように、負け組にならないように子どもを追い立てるだけの場になってしまったのです。現代人にとって“人間としての成長”などということは意味がなくなりつつあるのです。今子どもたちに求められているのは“よい子”ではあって、“人間性”ではないのです。さらに、昔は家庭の中でも父親と母親の役割は分担されていましたが、今ではそれも同じになりつつあります。子どもの育ちにおける父親と母親の役割分担は古い考えになりつつあります。そして、父親と母親の価値観が同じになってきてしまいました。それは“学校”とか“評価”とか、“成績”とか、“よい子”という価値観です。ですから、子どもが成績のことで叱られる時、誰も守ってくれる人がいなくなりました。父親と母親の価値観が違えば母親に叱られた子どもが父親の所に逃げて、父親に叱られた子どもが母親の所に逃げるということが出来たのですが、今では父親からも、母親からも同じ言葉しか聞くことが出来なくなりました。これでは子どもは窒息してしまいます。秋葉原の事件の犯人の親もそのような子育てをしていたようです。父親からも、母親からも同じことを言われた子どもは自分を否定することだけを学んでいきます。だからといって、私は別に古い価値観を復興しようとしているわけではありません。ただ、社会の中でも、家庭の中でも役割分担という考え方は必要だということを言いたいだけです。心臓には心臓の役割があり、胃には胃の、脳には脳の、手には手の、足のは足の役割があるということです。それぞれがそれぞれの役割をちゃんと果たしているから元気でいることができるのです。この役割が消えてしまったら生命というシステムは崩壊してしまいます。ただし、今まで足だった人が手になってもいいのです。でも、それまでは足でも、手になったら手の役割を果たすべきだということを言っているだけです。役割の交代を否定しているのではありません。役割の崩壊を否定しているのです。“平等な社会”とは役割を同じにする社会ではなく、自分の意志と能力に応じて自由に役割を交代することが出来る社会のことなのではないかと思うのです。(昔はそれが出来ませんでした。)学校には学校の役割があります。地域にも地域の役割があります。家庭にも家庭の役割があります。父親には父親の役割があります。母親には母親の役割があります。そして、こどもにも子どもの役割があります。それをお互いに尊重して、助け合い、支え合うことで子どもも社会も生き生きとしてくるのです。(もっと言えば、草や木には草や木の役割があり、川には川の役割があり、虫には虫の役割があるということです。“人間にとって必要がないから”という理由だけで勝手に壊したり、殺したり、消したりしてはいけないのです。)そういう生き生きとした世界では“よい子”などという価値観は幻想に過ぎなくなってしまいます。“よい子”という価値観に縛られている人は、“人間としての成長”という視点で自分の人生や子どもの育ちを考えてみてください。その価値観が消えてしまっているから“よいこ”に縛られてしまっているのではないでしょうか。
2008.06.23
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昨日、やまっこさんから以下のようなコメントを頂きました。来月で3歳と1歳の男の子二人の母です。最近子育てや家族の問題で悩んでいました。自分の感情のコントロールができす子供を今までにないほど叱ってしまったり両親に対してものすごい怒りをぶつけてしまったり夫婦で喧嘩をしたり感情のコントロールができなくなり自分自身の事ですごく悩んでいました。自分自身がいい母でもないいい娘でもなくいい妻でもなく子育ても家事もできずいらいらしていました。子供に対してもいい母でいるため叱らないよう叱らないようにと感情を抑えてばかりいてそれがいつも爆発していました。両親や夫に対しては自分の話を聞いてくれない。理解してくれない。と不満ばかり目につくようになりもう限界でした。本気で精神科に行ってみようと悩んでいました。私はおかしくなってしまったのか。と思っていました。苦しそうですね。特に、お子さんの年齢から考えると今が一番子育てで苦しい時期ですよね。やまっこさんは子どもの頃からずーっといい子を演じ続けてきたのではありませんか。そして、自分の素直な感情に蓋をしてきたのでしょう。でも、子どもたちはその蓋を開けようとしているのです。なぜなら子ども達は“演技しているお母さん”ではなく、“ありのままのお母さん”を求めているからです。お母さんは上手に演技をしているつもりでも、幼い子どもはその演技を見抜いてしまうのです。そして、演技をしているお母さんが理解出来ないのです。ですから、“よい子”を演じるのが得意な子でも、子ども相手にはよい子は演じないものです。子どもは子ども相手に演技をしても無駄だということを知っているからです。子どもは大人の評価を得るために“よい子”を演じるのです。でも、これと矛盾するようですが最近子ども相手にも“よい子”を演じている子が増えてきたのです。上に書いたような“よい子を演じ分ける子ども”は昔からいたでしょうが、なぜか子どもに対しても“よい子”を演じる子どもたちが増えてきたのです。そういう子どもは、子どもが水溜まりに入っていると、“そういうことしちゃいけないんだよ”と注意してくれます。裸足で歩いていると、“裸足で歩いちゃいけないんだよ”と注意してくれます。つまり、お母さんと同じことを言うのです。そういう子どもたちは、子どもの本能に蓋をしてしまっているのです。そして、“子どもらしさ”を忘れてしまっているのです。子どもらしさを忘れてしまった子どもは、“よい子”という生き方しか分かりません。ですからこの場合は、演技をしているという意識もありません。自分が何がしたいのか自分でも分からないので、結果として大人の価値観に合わせて行動する事しか出来ないのです。でも、“なんか違う”、“これは私ではない”という感覚だけはズーッと積もっていきます。そして、子どもらしさを忘れてしまった子には“心を許せる友達”が出来ません。自分の本音を表現するという方法が分からないからです。私はそういう“よい子”を自分を素直に表現する“悪い子”に変えるのが好きです。最初はよく仕付けられた大人しい子がだんだん“やだ”、“きらいだ”、“つまんない”と言い出して言うことを聞かなくなります。でも、表情も雰囲気も生き生きとしてくるのです。そして、それまで止められてきたことをやり始めます。その経過を通って、落ち着いていくとちゃんとバランスが取れた子どもに戻ることが出来るのです。ドロンコ遊びをする子に、“そういうことをやっちゃいけないんだよ”と言っていた子が、いつの間にか夢中になってドロンコ遊びをするようになるのです。つまりそういう子どもは、やりたくなかったのではなく“やっちゃいけない”という大人の価値観に縛られていただけなのです。それで子どもらしい行動が出来なくなってしまっていたのです。(但し、本当にやりたくないという子どももいますからね、念のため。)そういう例をいっぱい見ていると、今の子どもたちの置かれた状態が非常に心配になるのです。子どもが子どもらしく生きることが許されない社会になって来ているのです。そして、“よい子”に安心している子育てに不安を感じるのです。そして、想像ですがやまっこさんもこのような“よい子”だったのではないでしょうか。自分自身に違和感を感じて、“なんか違う”、“これは私じゃない”という感覚をズーッと持ち続けて今まで生きてきたのではないでしょうか。そのつもり積もった違和感が怒りという形で今あふれ出そうとしているのです。子どもはお母さんに本音で生きることを求めてきます。私が“よい子”を“悪い子”に変えるような働きかけを子どもはお母さんにやっているのです。だから、感情を抑えていた蓋がずれてきてしまったのです。ですから、これは“悪くなった”のではなく、“よくなった”現れなんです。その事を受けいれてください。その事を受けいれることが出来ないと安全な形で蓋を開けることが出来なくなります。やまっこさんは今、子どもの時に失った“自分の感情”を取り戻そうとしているのです。何十年もため込んできた感情が今外に出たがっているのです。その感情を否定しないでください。抱きしめてあげて下さい。その感情はやまっこさんの“心”そのものなんですから。でも、大丈夫ですよ。子どもが導き手になってくれます。ですから、自分の感覚ではなく子どもの感覚の方を信じてみて下さい。
2008.06.22
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多くのお母さん達が自分ができなかった夢を子どもに託しています。それで、子どもをゲームのコマのように扱って自分の人生ではない子どもの人生の中でその人生をやり直したいと考えています。これは、子どもがバーチャルな世界の中で自分の欲望を満たそうとしているのと似ています。バーチャルな世界の中にいる“自分の身代わり”はその外の世界にいる人の操作で動いています。戦うのも、危険な目に遭うのもその身代わりです。操作している人間には痛みも苦しみもありません。そして、もし殺されたり負けたりしたらリセットするだけです。痛みや悲しみを共有していないので愛情を感じることが出来ないからです。でも、現実の世界の中で子どもを身代わりにして“自分の人生やり直しゲーム”をやっている場合にはリセットはできません。それで、子どもをののしることになります。“なんでちゃんと動いてくれないの、これじゃ私の人生をやり直せないじゃないの・・・”と。でも、子どもの人生は子どものものです。その人生の主人公は子ども自身です。親が主人公気取りで子どもを操ろうとしてはいけないのです。親に出来ることは、その主人公がしっかりと自分の人生を生きることが出来るように、励まし、支え、手助けしてあげるだけです。親は親の人生を生きればいいのです。というより自分の人生を生きなければいけないのです。確かに、子どもの人生は親の人生の一部として始まります。親からその人生の一部をもらってそこから新しい人生を始めます。肉体が親の肉体から産まれるように、子どもの人生は親の人生を母体にして産まれるのです。そして、子どもは親の行動や言葉を模倣するようにして、生き方を模倣しようとします。なぜなら、子どもにとって親は自分の人生を生きるための手本だからです。親がこのことを自覚していなくても、子どもは親を手本として学ぶようにプログラミングされた状態で産まれてくるのです。その時、親が自分の人生を生きていないと子どもは迷子になってしまいます。昔の話しですが、ある国の王様が“子どもは誰も話しかけなければ神様の言葉であるヘブライ語を話し始めるのに違いない”と考えたそうです。それで、家来に命じて一切言葉かけをしないで赤ちゃんを育てる実験をしてみたそうです。そうしたら、みんな死んでしまったそうです。(但し、真偽は不明です)死ななかったとしてもヘブライ語どころか全く言葉を話せないままで成長してしまったでしょうね。親が自分の人生を生きていないと言うことは、この王様と同じ事をしていることになります。“人生の生き方の手本を子どもに示さなかったら子どもは自分の影響を受けずに素晴らしい人間になるに違いない”という実験です。そして、実際意識してそういう実験をしているお母さんもいます。“子どもには私のような人間になって欲しくないので出来るだけ私の影響を子どもに与えないようにしています”というお母さんが時々いるのです。でも、子どもはそういうお母さんから“自分の人生を生きない”、“人と関わることを避ける”という生き方を学んでいます。以下はチョット違う話題ですが上の話しともつながっているので書いておきます。先日、ある親子遊びの場で“共同保育”について質問を受けました。ある共同保育に参加したところ、その会には“親は一切子どもの遊びに手を出してはいけないという”ルールがあったそうです。全部、子ども任せなんです。ケンカをしても、イジメがあっても子ども任せなんです。それで、“そういうのってどうなのでしょうか”と質問されたわけです。確かに、昔の子どもたちの群れには大人はいませんでした。子どもたちはトラブルが起きてもみんな自分たちで解決していたのです。そこで子どもたちは自立した精神や仲間としてのつながり意識を育てていたのです。多分、その発想からその共同保育の会では“親は一切手を出すな”というルールが生まれたのだろうと思います。またそのように決めてしまうことで、親同士の価値観のぶつかり合いを避けることが出来ます。“うちのやり方に不満があるならよそに行って下さい”で済んでしまうのです。子どもとの関わり方について話し合いをする必要すらないでしょう。そして、親は親で別の時間を楽しむことも出来ます。そして、そのような方針で活動しているグループは他にもあるようです。でも、これは間違っています。これはただの放任育児です。今は昔と同じ状況ではないのです。まず、群れの構成が違います。昔の群れでは小5~中学1、2年生くらいの子どもがリーダーとして入っていました。つまり、ちょっと大人の価値観を知りかけた子どもたちがリーダーとして参加していたのです。ですから、トラブルがあった時には大人的な判断で問題を解決することが出来ました。この年齢の子どもは“仲間の中で大人のように振る舞う”ことにかっこよさを感じるのです。小5を過ぎると、大人の考え方の模倣が出来るようになるからです。子どもというものは、大人に対してはイタズラ坊主でも、小さな子の中でリーダー的な役割をする時にはまともな判断をするものなのです。5年生くらいになるとそういう使い分けが出来るようになるのです。だからこそ5年生くらいの子どもの育ちには、リーダー体験が必要なのです。でも、今の子どもたちの群れは大人が人工的に作っている群れですから、年齢が偏っています。幼稚園くらいまでの子どもを何人も集めて、勝手に遊ばせても横のつながりは生まれません。気の合う子同士でお友達はできるでしょう。そして、2,3人の子で一緒に遊ぶでしょう。でも、それは“群れとしてのつながり”ではありません。群れには“遊びを知っていて、みんなのことを考えるリーダー”が必要なのです。そのようなリーダーがいることで子どもたちは安心して、好き嫌いを超えて横につながることが出来るのです。気の合う子とだけしか遊ばないのは群れではないのです。子どもの育ちには“横のつながり”と“縦のつながり”が必要なのですが、縦のつながりがしっかりとしていないと横のつながりは生まれないのです。これは家庭の中でも、学校でも、地域でも同じです。そして、お母さんがしっかりと自分の人生を生きることも“縦のつながり”になるのです。ですから、子どもの中にリーダーがいる時はそのリーダーに任せればいいし、子どもの中にリーダーがいない時には大人が遊びのリーダーとして参加する必要があるのです。そして、リーダーがしっかりとしていれば横のつながりも生まれます。そして横のつながりが生まれれば、自分たちの中からリーダーも生まれてきます。そうしたら大人はそーっと消えていけばいいのです。群れ遊びの体験がない子どもたちに子どもの群れを任せるためにはそれなりの段階と時間が必要なのです。昔の群れがつながっていたのはみんなをまとめることが出来て、伝承遊びをいっぱい知っているリーダーがいたからなのです。群れ遊びの場は“リーダー養成の場”でもあったのです。そして、だからこそ何百年も遊びが受け継がれてきたのです。でも、幼児だけの群れにそのようなリーダーが現れることはありません。幼児は基本的に自分のことしか考えることができないからです。また、遊びも知りません。さらには、リーダーも模倣によって育つのですからリーダーがいない場でリーダーが育つわけがありません。そして、子どものリーダーが消えてしまった今、その役割は大人がやるしかないのです。子どもは大人のやり方を見て、真似ることで学んでいます。他の子にいじめられて泣いている時、ただ遠くで見ているだけで助けてくれないお母さん、何もしてくれない大人たちの姿を見て子どもは何を学ぶのでしょうか。
2008.06.21
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天然堂さんが以下のようなコメントを寄せてくださいました。>人は過去を変えることはできません。ですから、過去にしがみついている限り自分を変えることも出来ません。同じような事を水俣病の語り部の人から聞いた事があります。『他人を変える事は出来ないけれど、自分が変わる事は出来る。』いわれない苛めにも遭い絶望した時に病の淵にある父親から言われた言葉で自分の考えを変えて生きてきたそうです。チッソという会社を責めるのではなく、天命だと。心の苦しみのほとんど全部が過去からやって来ます。子育てに苦しんでいる人の苦しみもその人の過去からやって来ます。でも、多くの人がその原因を“今”に求めます。子どもがいうことを聞かないから苦しんだ。亭主が協力的でないから苦しんだ。自分の時間がないから苦しんだ。というようにです。でも、同じような状況でも苦しんでいない人もいます。子どものイタズラを見て“何で私を苦しめるの”と思う人もいれば、“面白そう”と思う人もいます。亭主が協力的でなくても、それを愚痴る人もいれば、張り切って頑張っている人もいます。同じ状況でもみんなが同じように感じるわけではないのです。ですから苦しみの原因の大本はその状況の中にではなく、その人個人の心の中にあるのです。そしてそれはその人の過去とつながっています。現在は過去の結果に過ぎません。それを自覚している人は、いつでも過去のことを考えています。そして、後悔したり、恨んだり、悔やんだりしています。そういう人は心が現在に生きていないのです。からだは現在にいるのに心は過去にいるのです。それで、心とからだがバラバラになり、さらに苦しくなります。また、現在に目を向けていないので現在がおかしくなって、また後悔のネタが増えることになります。そして繰り返します。昨日書いた、“一生懸命に見る”、“一生懸命に聞く”という方法はその心を現在に引き戻す働きをしてくれます。すると、心とからだがつながります。すると落ち着きます。過去にとらわれている人は過去を変えようとします。過去を捨てようとします。過去を忘れようとします。過去を乗り越えようとします。でも、そのほとんどは失敗します。どうしてだか分かりますか。結果としていつでも過去のことばかり考えるようになってしまうからです。でも、現在のことに集中すれば、自然に過去は落ち着くところに落ち着くのです。過去のことばかり考えているから現在が見えなくなり、そしてそこで起きたトラブルがまた過去を作り苦しみが増えることになるのです。そういう人は、今できることをしないことで1年後にそれがトラブルになった時に、“あの時こうやっていればよかった”と悔やむのです。ズーッとそうやって生きてきたのです。心が過去に向いてしまっているので、過去の出来事になってからでないと見えないのです。過去の奴隷にならないで下さい。過去は影に過ぎないのです。大切なのは現在です。今できることをやることです。それが過去を変えていくのです。私達は今過去を作っているのです。私達は過去を作ることは出来ても、出来てしまった過去を変えることは出来ません。だから今を一生懸命に生きるしかないのです。それが何年か後には素敵な過去になるのです。最初に“現在は過去の結果です”と書きましたが、人間は今を大切に生きることで“過去を現在の結果”に置き換えることができるのです。それは人間だけが持っている魔法の力です。息をすること、歩くこと、笑うこと、話すこと、花を見ること、風を感じること、美味しいお料理を作ること、そういうことに気持ちを向けて丁寧に生きればいいのです。すると、過去はあなたを縛る魔力を失いただの想い出になっていきます。あなたは自由になるのです。
2008.06.20
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9月から茅ヶ崎で始める「大人と子どもの表現遊びクラス」のチラシが出来ました。体験は7月17日です。ご覧になってみて下さい。*******************************今日は、6月12日の「家族の再生と表現共育」からの続きです。今、心がバラバラになってしまっている家族がいっぱいあります。例の秋葉原の事件の犯人の家族もそのようでした。大人はそれなりに自立していますから、バラバラの家族の中でも生活していくことが出来ます。夫婦で話し合わなくても、子どもと話し合わなくても、自分の仕事をして、自分の趣味で気を紛らわせていればそれで苦しいということはないでしょう。それに、最近ではかえって関わりが浅い方が楽だという人も多いのではないでしょうか。テレビでも、“夫婦の思いやり”といって、別々の部屋でテレビを見ているCMが流れていました。若者達も友達との深い関わりは苦手なようです。でも、そのような家族には子どもの育ちを支える力がありません。子どもは深い関わりの中でしか自分の能力を存分に育てることが出来ない生き物だからです。だから、子どもは母親に深い関わりを求めます。いつでもどこでも母親との関わりを求めます。ベタベタしたり、イタズラをしたり、大騒ぎをしたり、よい子にしたりして母親の気を引こうとします。でも、子どもとの深い関わりを望まないお母さんは、それがうっとうしくてイライラしてきます。世話をするのが嫌でも、嫌いでもないのです。子どものことは大好きだし、しっかりと成長して欲しいと願っています。ただ、子どもが大人しく世話をされていてくれるならいいのですが、子どもはそれ以上の関わりをお母さんに求めてきます。ベターっとくっついてきたり、しょっちゅう話しかけてきたりします。それがうっとうしいのです。それで、無視していると子どもは色々なことをやらかしてくれます。そして、お母さんが自分と関わらざるおえないようなトラブルを作り出すのです。どうですか、思い当たりませんか。子どもは無視されているより、叱られている方が安心なのです。叱られている時にはつながっているからです。幼児期の家族の問題が大人になっても解決しない人のカウンセリングをやっている人の本を読むと、虐待されたり、叱られたりしてきた人より無視されてきた人の方が回復が難しいらしいのです。人はつながりの中で傷つくのですが、癒しも、再生もそのつながりの中でしか目覚めないのです。無視されて育てられてきた人はそのつながりの回路自体が育っていないのでカウンセリングが相手の心にまで届かないのです。ですから、子どもは本能的にお母さんとの深い関わりを求めます。そして、昔のお母さん達はその子どもの本能に対してお母さんの本能で相手をしました。それが動物としての本能であり、人間以外の動物たちもみなそのように子育てをしています。ただ、昔のお母さん達の方が素敵な子育てをしていたということではありませんからね。よくも悪くも単純に本能的に子育てをしていたというだけです。ですから暴力的な子育てをしていたお母さんもいっぱいいたでしょう。でも、親と子の深い関わり自体はいっぱいあったのではないかと思うのです。だから、“子殺し”はいっぱいあっても、“親殺し”や“自殺”などは少なかったのではないでしょうか。これは私の推測ですが、親を殺す人、自殺をする人は親や人とのつながりを絶たれた人なのではないでしょうか。精神的につながりを絶たれた人が、物理的にもつながりを絶とうとするのでしょう。“親殺し”と“自殺”はつながっているような気がするのです。精神的母子分離が出来ていない人にとっては、“親”と“自分”は一緒なのですから。子どもの頃に母親と深い関わりを持つことが出来なかった人はなかなか精神的母子分離ができないのです。そして、大人になっても子どもの頃のようにお母さんのことばかり考えてしまうのです。でも、それでは現実が見えません。前に進むことが出来ません。そして、自分の子どもがまた悲しい思いをすることになります。目の前のお母さんが、精神的にお母さんではなく子どものままでは、現実の子どもは困ってしまうのです。時々、一生懸命にお母さんのようにお母さんの世話をする子どもがいますが、それでは子どもが困るのです。(当のお母さんは喜んでいるのですけど・・・・)子どもはお母さんにはしっかりとお母さんになって欲しいのです。でも、今のお母さん達は本能のままに子育てをする能力を失ってしまっています。だから知識を求めるのです。でも、知識は人を迷路に連れ込むばかりで答えを与えてくれません。知識は一種の空想と同じだからです。そこに現実はないのです。どうしたらいいのか・・・・・。人は過去を変えることはできません。ですから、過去にしがみついている限り自分を変えることも出来ません。でも、大丈夫です。過去を変えなくても、生まれ変わってしまえばいいのです。(すると結果として過去は変わります。)どうしたらいいのか。「語り部」になるのです。“過去の私”を語る“私”になる時、それは“新しい私”なのです。(言っている意味分かりますか。)それは“過去という殻”から抜け出さないと出来ない作業だからです。さあ、生まれ変わりましょう。
2008.06.19
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9月から茅ヶ崎で始める「大人と子どもの表現遊びクラス」のチラシが出来ました。体験は7月17日です。ご覧になってみて下さい。*******************************ゆめさんから以下のようなコメントを頂きました。母親の習い事半年ほど前から趣味としてダンスを習い始めたのですが、予想外に自分に影響が出てきて驚いています。自分の平常時の気持ちの位置というか、幅がとても広くなって、それだけでこどもにも夫にも、生活全般にも丁寧に接することができます。そうなんです。人は何かを学ぼうとする時には感覚が開くので他のことでも色々と受けいれやすくなるのです。ですから、行き詰まった時にはそれ以上頑張るのを止めて自分が学びたいことを学ぶ方に気持ちを切り替えた方が結果として答えを見つけやすくなるのです。それが当面のテーマと関係がなくてもいいのです。でも、真面目な人ほど行き詰まった時頑張ってしまいます。自分に結果を求めてしまいます。そして、当面の課題と違うことを始めた人を見て“逃げるな”と言います。でも、ムキになって頑張ってしまうと感覚が閉じてしまうのです。そして、気付きが生まれなくなるのです。そして迷路と泥沼にはまってしまいます。人は結果を求められたら感覚を閉ざしてしまいます。それは子どもでも同じです。そして、自分自身に対してでも同じです。それでも、スポーツや仕事のように、目標がはっきりとしているもの、正解がはっきりとしているものならはっきりとしたゴールがあるのでなんとかなるのですが、子育てや人間関係や生き方のような問題にはゴールがないので感覚が閉じた状態では前に進むことが出来なくなってしまうのです。(目を閉じて山道を歩くようなものです。)それでマニュアルに頼ることになるのですが、感覚が閉じたままではマニュアルに束縛されるばかりで、マニュアルを使うことが出来ません。それで問題が余計にこじれていきます。でも、マニュアル依存の人は感覚が閉じてしまっているので、問題がこじれていてもその現実に気付きません。そして本当にどうしようもなくなるまでドンドンと困った方へと進んでいってしまうのです。じゃあ、そんな時はどうしたらいいのかというと忘れてしまうのです。といってもそう簡単に忘れることなんか出来ませんよね。でも、一度忘れないと心の中で問題の整理が出来ないのです。その整理は無意識がやるのですが、意識が何かにこだわったままだと、無意識がその問題を処理出来ないのです。ちなみに「夢」はその整理過程を見ている状態です。じゃあどうするか。感覚に集中するのです。一生懸命に見る、一生懸命に聞く、一生懸命に感じるということに集中するのです。すると意識が問題を手放すことが出来ます。すると、あとは無意識が問題を整理して分かりやすくしてくれます。何か新しいことを学ぶ事でも同じ状況になります。新しいことを学ぶ時には一生懸命に見ようとし、聞こうとするからです。ですから、ゆめさんが書いて下さったような事が起きるわけです。でも、何かを学ぶ時間も予算もない時にはもっと手軽な方法があります。それは絵を描いたり、詩を作ったり、本を読んだり、手仕事をしたりするのです。一生懸命に雲を見たり、楽器を演奏したり、ジーッとアリが歩いているところを見てもいいのです。すると、意識が悩みを手放してそこに集中します。すると感覚が開くのです。すると心が柔らかくなって入り口が開きやすくなるのです。すると他の色々なことでも学びやすい状態になるのです。(シュタイナー教育はこの効果を活用しています。)散歩をしていて風を感じていたり、野の花を見ている時、お風呂に入っている時、お便所に入っている時などに突然気付きが生まれるのもそのせいです。一流の学者や経済人の中には趣味も玄人はだしの人が多いのはそういうことです。勉強ばっかりやっていてバイパスを持っていない子は生産性が悪くなってしまうのです。(学校は勉強ばっかりさせているから学力が上がらないのです。)子育てでも、素敵な子育てをしている人は素敵な趣味を持っている人が多いように感じます。一番まずいのはただ悩んでいるだけで毎日同じことを繰り返すだけの人、自分を追いつめてばかりいる人、また逆に逃げてばかりの人です。とにかく前向きに何かを始めないことにはなんにも始まりません。それはちょっとしたことでもいいのです。一日に5分か10分そのための時間を作るだけでもいいのです。そのわずかな時間の変化が次第に全体を変えていくのです。その際、多くを望まないことです。多くを望むと義務になってしまいます。すると感覚が開きません。生活の中にちょこっと他のことに集中する時間を作るだけでいいのです。(問題は、幼児がいるとこのわずかの時間を邪魔しに来ることです。それまで一人で遊んでいたのに、ちゃんとこのわずかな時間を狙ってやってくるのです。コノヤローという感じです。でも工夫してみてください。そんな子どもの本能に逆らわずに、モアイさんのように“子ども観察”に集中するという手もあります。)でも、ものぐさ父さんもおっしゃる通り、他の人に対しての場合はこの能動性を引き出すのが一番難しいのです。自分のことは覚悟次第で自分で何とか出来ますが、他の人の場合はそうはいかないからです。扉は内側からしか開かないのです。だから、外側にいる人は働きかけながら信じて待つ、ということしかできません。でも、目には見えなくても、形には現れなくても、扉の内側ではで何かが起きているのです。それを信じて下さい。あせると台無しになります。今は入力時期なのだと思います。出力を急いで求めないことです。
2008.06.18
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人間は知性・感情・感覚・精神・肉体・魂・意志などの様々な要素によってその活動を支えられています。そしてそれらの各々は密接につながり合って、肉体に働きかける力は肉体を通して感覚、知性、精神、魂、意志などにも働きかけ、知性に働きかける力は知性を通して感情、感覚、精神、肉体、魂、意志などにも働きかけます。出入り口は別々でも、中ではちゃんとつながっていると言うことです。ですから、たとえば肉体への働きかけで知性を育てることも知性の育ちを阻害することも出来るわけです。それは食べ物の事を考えて頂ければ分かると思います。食べ物は肉体を通して他の要素全てに働きかけているのです。でも、それは他の要素も同じなので食べ物だけで全てが決まるわけではありません。だからこそ子どもの丸ごとの状態をよく感じていることが大切になるわけです。食だけにこだわる、情操教育だけにこだわる、知的な教育だけにこだわっているとバランスが崩れてしまいます。ちなみに、肉体をその他の要素とつながった状態で語る時、私はそれを“からだ”とひらがな表記しています。でも、これらの要素はいきなり全部同時に育っていくわけではありません。赤ちゃんにはまだ肉体と感覚という入り口しか開いていないからです。でも、赤ちゃんの場合はその肉体と感覚にどのように働きかけるのかということがその他の要素の育ちも影響してきます。どういうものを食べて、どのように語りかけ、どのように触れてあげるのかなどということが赤ちゃんの内側で育ちつつある感情や、知性や、意志や、精神や、魂の育ち方に影響を与えているのです。そうして、肉体と感覚への働きかけで少しずつ感情が育ち3才頃から感情という入り口が開き始めます。でも、それはまだ入り口であって出口としては使えません。ですから、感情のコントロールはできません。3才頃になると肉体と感覚という入り口は出口としても伝えるようになります。ですから、自分の肉体のコントロールが出来るようになります。肉体が“からだ”になるのです。感情のコントロールが出来るようになるのは7才を過ぎてからです。(ものすごく大雑把に、一般化して書いていますからご了承下さい。)その要素が入り口としてしか使えない時期は準備の期間で、出口としても使えるようになると応用の期間に入ります。応用の期間にはいるとコントロールが出来るようになります。というより、応用の期間とはコントロールの方法を学ぶ期間なのです。そうして、“自分なりのやり方”が確定してくると、そこで学びは一応終了します。まだ、自分なりのやり方が決まっていない時には学習システムが働きますが、自分なりのやり方が決まってしまうとそこで一応学習は終わってしまうということです。そうしてその要素は自立します。3才頃になってからだが自由に動くようになると、色々と動き回って今度は自分の意志と感覚で自分のからだを育て始めます。そうして、“自分のやり方”を探していきます。それが落ち着くとそこでからだの学びが一段落します。でも、また新しいからだの動きが必要になってそれまで学んできたからだの動かし方では対応出来なくなるとまた学習システムが働き出します。例えば、けん玉や竹馬といった生活の中にはないからだの使い方を学ぼうとする時にはからだの新しい入り口が開くのです。からだにも色々な要素があるのです。最初に人間には知性・感情・感覚・精神・肉体・魂・意志などの様々な要素が有ると書きましたが、それぞれの要素の中にもさらに細分化された要素があるのです。知性にも様々な種類の知性があるということです。この辺りの話しは複雑で面倒くさいのと、今日はこの話しを書くのが目的ではないので、それぞれの要素の細かい成長の話しは書きませんがポイントは人の成長には“受け身的に学ぶ時期”、能動的にそれを使ってコントロールを学ぶ“応用時期”、やり方が決まってしまう“自立時期”の三段階があるということです。自分なりのやり方で何とか不自由がなくなってしまうとそこで学びが一段落して、自立してしまうということです。ここでいう自立とは、他者からの影響を受けにくくなってしまうということです。でも、それまでに身につけた能力では対応出来ないような状況に出会うとまた入り口が開いて学習、応用、自立の過程を繰り返します。例えば、外国で暮らさなければならない状況に陥ると、大人になってからでも新しい入り口が開いて新しい状況に対応しようとするのです。だから、子どもの育ちには多様な体験が必要になるわけです。多様な体験が学習能力を高めるのです。新しい入り口が開きやすい状態になるのです。ただし、子どもの頃に多様な体験が少なかったり、新しいことを学ぶということに対して感情のブロックがかかってしまうと、それまでの自分の能力では対応出来ないような状況の中でも新しい学びの入り口が開きにくくなってしまうのです。そして無理矢理自分のやり方を押し通そうとしたり、相手を否定することで自分の正しさを主張しようとします。ものぐさ父さんの奥さんの状態もそういうことなのでしょう。こういう場合に可能な方法としては入り口が開きやすい状態にしてあげることと、感情のブロックを取り除くことです。ただし、第三者が入り口を開くことは出来ません。あくまでも入り口を開くのは自分なんです。周囲の人間に出来ることは入り口が開きやすいような状態を作ってあげることだけです。それ以上のことは出来ないのです。そして、待ちます。それが相手の人間としての尊厳を大切にするということでもあるのです。実は、この入り口を開ける働きは全ての要素に共通しているのです。知性の学びへの入り口を開く働きもからだの学びへの入り口を開く働きも同じなんです。ですから、奥さんの興味に合わせて何か新しいことを学ぶことを勧めて見て下さい。子育てと関係なくてもOKです。テニスでもピアノでも、今まで体験したことのない新しい学びを勧めてみてください。個人的にはヨガとか整体なんかお勧めですね。すると、入り口を開く働きが働き始めるのです。それは、心が柔らかくなるということです。心が柔らかくならないと入り口は開かないのです。それを、“出来ないこと”を責めていたのでは、心が固くなるばかりで入り口は開きません。また、感情のブロックをはずすためには喜びの体験が必要です。“ねばならない”という理屈では頭を納得させることは出来ても感情のブロックをはずすことは出来ません。感情のブロックは自分でははずせないのです。それをはずすためには他の人の手助けが必要なんです。なぜなら、そのブロックは他の人によって作られたものだからです。これはみねぼんさんが書いて下さったもがいてきた一人として、伴侶にしてもらって力がでたのは、子育てで声を荒げてしまった日の夜、何もいわずにハグハグしてくれたことでした。自分でも十分、こうすればよかった、ああすればよかった、後悔の念が頭をぐるぐる。そのとき、ただただ黙って頭をなでてくれるだけで次の日への力になったのは私だけでしょうか。とか、お菓子さんが書いて下さった私は、周りの人が、わたしに振り回されず、ただ笑っていてくれると、とても安心します。そうすれば私も自分の課題に安心して取り組むことができます。とか、ダージリンさんが書いて下さった「アナタはアナタのままで良い」その思いが純粋に相手にまっすぐ通じた時に、初めて相手は歩み寄って来てくれるのだと思います。いうこととつながるのです。ものぐさ父さんのブログを拝見していて感じたのは、ものぐさ父さんが得意な方法は子どもの笑顔を引き出すことなのではないかと思います。それでもいいのです。子どもの笑顔をいっぱい見せてあげて下さい。もしかしたらそれを嫌がるかも知れません。自分が否定されたように感じるからです。子どもの時に笑うことが出来なかった人は、子どもの笑顔を喜べないことがあるのです。子どもの頃のことを想い出してしまうからです。でも、それでも子どもの笑顔をいっぱい見せて下さい。どんどん見せて下さい。時として怒りは壁が崩れる予兆なのです。
2008.06.17
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(いっぱい書いたのですが、理屈っぽくなってしまったのでバサッと切って、今日はこれだけにしておきます。)私はお母さんを楽にする方法を考えているわけではありません。お母さんが楽になっても、子どもが自立した大人になるための能力を育てることが出来なければ次第に子育ては苦しくなっていきます。楽なのは最初だけです。かといって、お母さんに自己犠牲を求めているわけでもありません。お母さんが自分を犠牲にして頑張っているだけでは子どもがお母さんに依存するようになってしまいます。(ご主人も依存してくるでしょう。)自己犠牲は依存関係を生み出してしまうのです。じゃあどうしたらいいのかというと、子どもとの関わりを楽しみ、共に成長することができるのなら自分を犠牲にしなくても、子育ては楽しくなるのです。それを幸せな子育てと読んでおきます。ちなみにこの両者は自分を中心にしか考えていないという点で同じものです。自己犠牲も、自分中心の考え方なのです。そして、両者とも“共に”という視点がないのです。子どもも幸せになり、お母さんも幸せになるためにはこの“共に”という視点が不可欠なんです。
2008.06.16
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今日は、昨日の“削除してください”というコメントに対するご返事をさせていただきます。まず、コメント有り難うございました。あのコメントを書くのにはかなりの迷いと覚悟が必要だっただろうと思います。匿名ですが、ちゃんとした自己表現として受け止めました。ですから、ちゃんとお答えします。私の言い方がきつく、責めているように、強制しているように感じられたのでしょうね。でも、私は誰かを責めているわけではありません。ただ、今起きていることの原因を明らかにして、どうしたら幸せな未来に向けて、今の状態を切り替えていくことが出来るのかということを考えているだけなのです。私は毎日子どもと関わっていますが、今子どもたちの状態がますます困った状態になってきています。と言っても、まずそのことを多くの大人の人たちが認識していません。だから、私が言っていることだけが浮いてしまいます。確かに、周りにいる子どもたちはみんな普通の子どもたちです。特に、人に迷惑を掛けるようなトラブルを起こすわけではありません。それにみんな適当にやさしいです。それなりに友達と遊ぶのも好きです。ゲーム漬けの子も多いですが、外で元気に遊んでいる子も少しはいます。一見、何の問題もないように見えます。確かにそれはその通りです。でも、今の子どもたちの本当に深刻な問題は目には見えないところにあるのです。それは“人間としての基礎能力の低下”ということです。確かに、子どもとしての日常生活には困らないだけの能力は持っています。ですから、子どもの時にはその問題は見えてきません。でも、将来、自立した大人として生きていくための能力が悲しいくらい育っていないのです。実は、大人として生きていくための能力は子ども時代にその基礎を育てないことには大人になってからでは身につけることが出来ないのです。大人として生きていくために必要な能力は、子どもの時に育てた能力を応用することで生まれてくるのです。子どもの時に身につけた自分の能力を状況に合わせて自在に応用する能力こそが大人の能力なんです。それを司っているのが思春期に目覚める“自我”という働きです。ですから、思春期までにそれ以前の能力が育っていないと自我が空回りしてしまいます。その人間としての基礎能力とは、“考える能力”、“工夫する能力”、“人の話を聞く能力”、“自分を表現する能力”、“学ぶ能力”、“仲間を作る能力”、“仲間や弱いものを守る能力”、“論理的で客観的な見方”、“感情をコントロールする能力”、そして“困難に立ち向かう意志”などです。どうですか。皆さんのお子さん達はこのような能力が充分に育っていますか。これらはみな、仲間や大人や自然との双方向の関わり合いの中でしか育てることができないものばかりです。言い換えるとそのような双方向の関わり合いが少ない子どもたちはこのような能力を育てることが出来ないということです。水に入ったことのない子は泳げないのです。英語を聞いたことがない子は英語を話せないのです。それは調べなくても分かることです。こういうものは、ただ守られているだけの状態の子どもたちには必要のない能力です。実際、こういう能力が育っていなくても、子どもの時には特にそれが困ったことの原因にはなりません。だから普通の生活を通してしか子どもと関わることがない大人たちには今の子どもたちの本当の問題が見えないのです。そして、意外な時に“アレッ”と思うのです。でも、社会に出たとき、親になった時にはこの能力が育っていないと非常に困ったことになります。それはいつまでも続く苦しみや不安という形でその人に現れるでしょう。困難から学び、困難を乗り越える能力がないからです。昨日、“削除してください”というコメントを書いて下さった方も今その状態で苦しんでいるのだろうと思います。でも、その苦しみはあなたの責任ではありません。だからあなたを責めているのではありません。ましたや、私はあなたの親でも先生でもありませんから強制しているわけでもありません。私はただの“ガイド”です。でも、あなたが今その不安や苦しみときちんと向き合ってそれを乗り越える覚悟を持たないと、あなたのお子さんも将来親になった時に、あなたと同じ苦しみに苦しむようになるでしょう。そしてそれはあなたの責任です。私はその苦しみの原因を書いているだけではなく、その苦しみから抜け出すための様々な方法や考え方も書いてきています。お読み下さっていますか。今あなたに出来ることはこのコメントを書いて下さったように自分を表現していくことです。自分の苦しみや感情を言葉でも、何らかの他の表現でも構いませんからドンドンと表現していくことです。すると、つながりが生まれます。つながりは表現しようとする者の周りにしか生まれてこないのです。つながりが生まれれば、双方向の学び合いが可能になります。そうやって今から学び直していくのです。それがあなたには可能なんです。諦めないで下さい。
2008.06.15
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昨日も書いたことですが、人間は感情の動物です。ですから、感情が肯定しないことは感覚も思考もからだも受けいれません。これは、一人一人が自分のことを振り返ってみればすぐ分かることです。嫌いな勉強は身が入りません。頭も働きません。出来るのは無色透明にしてただ暗記してしまうことだけです。算数であろうと、国語であろうと、社会であろうと、道徳であろうと、全て暗記で対応してしまうのです。そうすれば、好き嫌いと関係なく処理することが出来ます。でも、本来国語を学ぶためには国語的な感覚と考え方が必要です。というか、国語を学ぶのは、そのような感覚や考え方を学ぶためでもあるのです。それは算数でも、理科でも、社会でも同じです。皆“質”が違うのです。でも、“暗記”という方法はその“質の違い”を消してしまいます。ピーマンが嫌いな子にピーマンを食べさせるためにピーマンらしさを消してしまうのと同じです。まあ、ピーマンはそれでもいいのですが、勉強はそれではこまります。なぜならその質の違いが分からない人は、どんなに知識をいっぱい持っていても実際には何にも使えないからです。それでは何にも勉強していないのと同じなんです。そして日本には何にも勉強することが出来ないまま大人になってしまった人がいっぱいいます。子どもたちに試験のためだけでない勉強をやらせようと思ったらまず勉強を好きにするしかありません。算数って楽しい、国語って面白いということを体験させるのです。そして、そのように子どもたちの感情が動くように授業を進めていくのです。それはつまり、学ぶことで子どもたちの感情を育てると言うことでもあります。学習というものは本来“感情教育”なんです。そして、だから学ぶことは全て道徳教育なのです。知識で道徳を教えても有害無益です。そのように理解することで、算数も国語も音楽も絵画も体育もみなつながるのです。そして、子どもの育ちを支える力になるのです。でも、文明というものはその感情の働きを否定します。感情というものに価値を認めません。文明社会ではお金に換算出来ないものには価値がないのです。一方、文化はその感情に価値を見いだします。文化は感情が生み出してきたものだからです。でも、その文化を文明の機器で扱うようになった途端に文化からも感情の価値が消えてしまいました。なぜなら、文明の機器は生の感情を伝えることができないからです。機械が伝えることが出来るのはデータだけです。文化は生身の人間が伝えないことにはその生命が消えてしまうのです。たとえば、消滅しつつあるお祭りの記録を取ってそれを全く同じように再現したとしても、それは博物的、剥製的な文化であって生きている文化ではありません。文化は、直接人から人へと生き生きとした感情と共に伝えられないと死んでしまうのです。今の日本には社会の中に感情を育てるシステムが存在していません。昔の子どもたちは群れ遊びの中で感情を育てていました。また、からだを丸ごとで使った生活も感情を育てていました。からだを動かすと感情も動くのです。ですから、からだの使い方と感情の使い方はつながっています。ハタキを掛ける時に動く感情と、ホウキで床を掃く時に動く感情は違うのです。けん玉で遊んでいる時の感情と、竹馬で遊んでいる時の感情も違うのです。ですから、多様なからだの使い方を必要とする生活や遊びは、多様な感情を育てることが出来たのです。でも、ボタンを押すだけでは感情が動きません。さらには、いつも受け身で生活しているだけの生活では感情は育ちません。自分の感情に対する気付きも生まれません。ですから、受け身でばかり生活していると、“自分”が分からなくなってしまうのです。人は、他者との能動的な関わりの中で自分の感情に気付き、自分を発見するのです。だれでも知っているように、鏡の前でやるスピーチと、実際に大勢のお客の前でやるスピーチは同じではありません。目の前に大勢人がいると、自分の感情が自分を邪魔するのです。その時、“他者”としての自分と出会うのです。そして、“自分”に気付くのです。“表現”するということはそういうことなのです。鏡の前のスピーチでは自分と出会えないのです。自分以外の人との関わりがないと自分と出会えないのです。ですから、自分の感情がよく分からない人は、それまでにちゃんと他者と向き合ったことがないと言うことなんです。それはつまり、能動的に生きてこなかったということでもあるのです。そして今そういう人がいっぱいいます。ワークをやっても自分の感情が分からないと言う人が多いのです。そして、自分の感情が分からない人は他の人の感情も分かりません。子どもの感情も分かりません。だから支配しようとしてしまうのです。****************************<お知らせです>9月から茅ヶ崎で子どもと大人の表現を主体とした「表現共育クラス」を始めます。毎月、第1,3木曜日の3:30~5:00です。募集対象は幼稚園の年中~小2までです。ずーっと継続して続けますので、学年が上がった場合はそれ以上でもOKですが、新規の方は小2までとさせて頂きます。その年齢を過ぎてしまうと自意識が強くなってしまい、素直に自分を表現することが難しくなってしまうからです。ただし、大人も一緒に参加するのは大歓迎です。お母さんでも、大人だけでも結構です。子どもと一緒に表現遊びを遊びたい方是非ご参加下さい。子どもを理解できるようになったり、親と子の信頼関係作りにもつながると思います。内容は、声を出したり、歌ったり、踊ったり、動いたり、遊んだり、絵を描いたり、ものがたりを作ったり、劇遊びをやったり、民族楽器で遊んだりと、表現を遊びとして総合的に扱っていこうと思っています。参加費は月謝という形で月3000円(子ども一人)になります。(親子一緒に参加する大人は参加費不要です。大人だけの参加の場合は子どもと同じ参加費になります。また、参加者の都合でお休みしても返金出来ませんのでご了承下さい。)年に数回、音楽演奏家や、ダンスをする人など様々な表現の専門家を呼んで一緒に楽しみたいと思っています。(その時は別途+α必要になるかも知れません)それでその体験教室を7月17日に行います。時間は3:30~5:00、会場は茅ヶ崎青少年会館2Fホールです。参加費は1000円(子ども一人あたり・大人だけの時も)大きな声を出したり、思いっきり動いたりします。動きやすい服装でおいで下さい。スカートは原則不可です。また、可能なら裸足でお願いします。無理なら動きやすい上履きをお持ち下さい。お申し込みは「ネネムの森」までお願いします。
2008.06.14
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人間を動かしている大本のエネルギーは“感情”から生まれてきます。人間にとって感情とは行動のためのエネルギーなのです。そして、その感情と行動をつなげようとするときに能動的な意志が働き、“表現”というものが生まれます。そして、その表現を他者が受け止め、他者と共有されるとき、人は他者の表現も受け止め、共有することが出来るようになります。その表現を工夫する過程で、意識や知性や感覚が育っていきます。簡単に言うと、どうやって自分の感情を行動に移したり、相手に伝えようかと工夫し考えることで、人間としての意識に目覚めていくということです。ですから、秋葉原の事件の犯人は自分の感情をあのような形で表現するために、考え、実行する過程でワクワクしていたのではないかと思います。今まで、ズーッと親からも周囲からも無視され、抑圧してきた感情を自分の意志と行動でみんなに向けて表現することが出来るわけですから。言い方はおかしいですが、“これでやっと一人前の人間になることが出来る”という感覚だったのではないかと思います。そのワクワク感があったから、彼は行動を止めることが出来なかったのでしょう。だから、彼は自分がやった行為(表現)を反省はしないと思います。あれは“衝動的な気の迷い”ではなく、自分の意志に基づくちゃんとした“感情表現”だからです。(少なくとも本人はそう思いこんでいると思います。)彼はあの表現によって抑圧されてきた“今までの自分”から自由になろうとしたのです。25年間、ズーッと抑圧をされてきた感情の蓋を吹き飛ばすためにはあのくらいの破壊力が必要だったのです。反省をしてしまったらその蓋を肯定することになってしまいます。それは自分の人生を否定することになってしまいます。人間の感情は押さえ込まれたままで出口がないと破壊的なエネルギーに変化してしまうのです。そして、今大人も子どももその破壊的なエネルギーをいっぱいため込んでいます。だから、ちょっとしたきっかけで暴発してしまいます。学級崩壊も、満員電車の中のいざこざもその破壊的なエネルギーが原因だと思います。子どもを叱ってばかりいるお母さんもそのようなエネルギーがいっぱい溜まっているのでしょう。また、小さい時から感情をちゃんと表現する事を学んでいないので、自分の感情をコントロールする能力も育っていません。だから感情に振り回されてしまうのです。でも、その逆に子どもを叱らないように一生懸命に我慢している良心的なお母さんもいっぱいます。でも、ほとんどの場合その努力は失敗します。喜びの感情は表現しないと消えていきますが、怒りの感情は表現しないと逆に増えていくからです。そして、間欠泉のように時々大爆発を起こすことになります。また、怒りを抑えている人は感覚や感情全般の働きが止まってしまいます。からだの感覚も、心の感覚も鈍くなってしまうのです。それはおしっこを我慢している時と同じです。ですから、子どもの心が見えなくなります。すると、子どもは自分の感情をお母さんに向けて表現することが出来なくなります。それは子どもにとっては自分の意志と感情が肯定されていないと言うことを意味します。じゃあ、どうしたらいいのかというと感情を表現という形で行動とつなげてあげればいいのです。ただ吐き出すだけではだめです。カラオケやスポーツに行って、パーッと発散してもそれは一時的なガス抜きにしかなりません。自分と向き合うような表現が必要なのです。それは“自分の感情に気付くような表現”と言うことです。一番簡単なのは言葉に出すことです。嬉しい時には“ウレシー”、悲しい時には“かなしい”と言葉に出すだけで人は自分の感情に気付きます。怒っている時には“お母さんは怒っているぞ”とちゃんと言うことです。するとそれは子どもにも伝わります。でも、多くのお母さんがそれまで押さえていた感情が爆発するようにいきなり怒鳴り出します。でも、いきなり大きな声を出されても子どもはビックリするだけです。そして、子どもはビックリしてしまうと自分の感覚を閉ざしてしまいますから、その後であれこれ言っても全く子どもは聞いていません。それに、そういう状態では子どもにも言いたいことがあっても子どもは言うことが出来ません。それで子どもの感情は抑圧されていきます。でも、問題はその肝心の自分の感情に気付かない人が非常に多いのです。お母さん達に“こんな時はどんな気持ちがしますか”と聞いても“分かりません”という反応が多いのです。自分の感情に振り回されているだけの人は、自分の感情からの声を聞くことが出来ないのです。ですから、感情を表現したいと思うのなら、先ず自分の心の中にはどんな感情が蠢いているのか、そういうことを深く深く自分の心に問いかける必要があると思います。秋葉原の犯人も本当の感情は“怒り”ではなく“悲しみ”だったのではないかと思うのです。そこに気付けば彼はまた違った行動を取ることもできたのではないかと思うのです。子どもを怒鳴ってしまうお母さんの中にあるのは本当に“怒り”なのですか。もしかしたら“悲しみ”なのではないですか。その悲しみと向き合いたくないから、怒るのではないですか。だとしたら、表現すべきは“怒り”ではなく、“悲しみ”の方なのでしょうね。そうしないと、怒りは消えていかないと思います。
2008.06.13
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昨日は知り合いの幼稚園で「子どもが被害者にならないために 加害者にならないために」というテーマで講演をさせて頂きました。その前置きで友人が“今日本では家族間の殺人が異常に増えている”という話しをしていました。家族の間での殺人事件がこんなにも多い国はないのだそうです。そして、そのこととイジメや学級崩壊、そして学力低下といった、子どもを取り巻く様々な出来事とは確実につながっているのでしょう。もちろん今回の秋葉原の事件ともつながっています。“誰でもよかった”、“人を殺してみたかった”、“死刑になりたい”というような動機の事件、そして若者の自殺もみなその根っこには家族の問題があります。それはそのような事件の後で見えてきます。確かに、家族の問題の周囲には社会の問題もあります。でも、社会の流れに流されずに自覚的に生きることもできるはずなんです。そして、今そのように自覚的に生きないと子どもをそして家族を守ることが出来ない時代でもあるのです。今、日本の家族は崩壊しつつあります。トラブルもなく一緒に暮らしていても、その家族の間に信頼と楽しいコミュニケーションが存在していなければ、その家族は崩壊しているのです。それは“家族”ではなく、ただの“同居人”に過ぎません。なんでそんなことになってしまっているのでしょうか。そしてどうしたらいいのでしょうか。そのことを家族の間の表現、そしてコミュニケーションという視点で数回に分けて考えてみたいと思います。親子げんかもその中に含めていきます。まず、今の日本では親と子の間のコミュニケーションが非常に偏ってしまっています。言葉や情報が大人から子どもに向かうばかりで、子どもから大人に向かう言葉や情報が極端に少ないのです。つまり、コミュニケーションが一方通行で双方向になっていないのです。ですから子どもは大人の言葉が理解出来る程度の語学力さえ有れば“普通の子”として生活していくことが出来ます。そして、それ以上の語学力を学ぶこともできません。話したいこともなければ、話しても聞いてくれる人もいないからです。また、聞いてくれる人がいたとしても、体験を共有していないので話しが通じません。お母さんが一生懸命に子どもの言葉を聞こうとしても、子どもがゲームのことしか語ることが出来ないのなら、理解することが出来ないのです。そして、子どもは虚しくなって話すのを止めてしまいます。学校で国語を学んでも、その学んだことを実践で使う場がなければ自分の表現力として使うことは出来ません。昔、子ども同士が群れて遊んでいた頃には子どもは子どもの中で双方向のコミュニケーションを学ぶことが出来ました。また、生活の中でもお手伝いを通して双方向のコミュニケーションの必要性が生まれていました。でも、今の子ども達の生活からはそのいずれも消えつつあります。また、コミュニケーションが通じるためには体験が共有されている必要があります。言葉だけではコミュニケーションは通じないのです。特に、子どもの未熟なコミュニケーション能力では言葉だけでその意味を理解するのはなかなか困難です。今では、子どもは毎日毎日お母さんや先生からの指示命令に従って生活するばかりです。その息抜きとしてテレビやゲームがあります。でも人間は、自分を表現する場がない、表現する相手がいない、表現する能力がないと虚無的になります。自己肯定観も低くなります。なぜなら自分を表現しないということは誰ともつながることが出来ないということを意味するからです。表現する能力が育っていないと言うことは、他の人とつながる可能性すら断たれてしまっていると言うことです。それは絶望を意味します。人の話を聞いているだけで、自分から表現しない人は人とつながることが出来ないのです。でも、本人には“自分には自分を表現する能力がない”ということがなかなか分かりません。表現を学ぶ場がないので、自分を表現するということはどういう事なのかが分からないからです。それで、相手が自分を理解してくれないのは相手が自分のことを無視しているからだというように理解します。表現しない人を周りの人が理解することが出来ないのは当たり前なんですが、なかなかそういう風には受け取れないのです。個人的な掲示板に自分の日記を載せるだけで自分を表現していると勘違いして、誰からも反応がないとみんなに無視されていると思いこんでしまうのです。
2008.06.12
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数日前から“親子げんか”の予告を出し続けているので、“親子げんか”について書かなければと思いつつ、どうしてもあの秋葉原での事件のことを書かないと気持ちが落ち着かないので、申し訳ありませんがお付き合い下さい。加藤という男性は子どもの頃から頭がよく、スポーツも出来て、中学時代はクラスのリーダー的存在で、近所の人の話では「まじめてきちんとあいさつもする、やさしい子だった」ということです。全く、多くのお母さん達にとっては理想的な子どもだったわけです。実際、多くのお母さんがわが子をこういう子どもに育てようと日々子育てを頑張っているのでしょう。ところが、その理想的なはずの子どもがこのような事件を起こしてしまったわけです。その現実の不可解さに、今日本中の多くのお母さんが驚き、戸惑っているのではないかと思います。そして、不安に駆られているお母さんも多いでしょう。“どうして???????”常識のレベルでは、この子どもの時の理想的な姿と、現実に起きてしまった事件とを結びつけることは困難です。実際、子どもの頃の加藤を知る人たちが異口同音に“信じられない”と言っています。でも、いつもこのブログをお読み下さっている人には何となくその理由の想像がつくのではないでしょうか。そのヒントは彼が携帯の掲示板に書き込んだ言葉にあります。(以下は抜粋です。下線は私が引きました。)<4日>0:55 勝ち組はみんな死んでしまえ0:55 そしたら、日本には俺しか残らないか あはは15:52 味方は一人もいない15:53 この先も現れない 一生無視される 不細工だもの<5日>7:32 やっぱり悪いのは俺だけなんだよね こうやって邪魔者を排除するわけですね<6日>2:48 やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占14:39 店員さん、いい人だった14:42 人間と話すのって、いいね<7日>13:33 どーせ俺なんて、中年になっても6畳1間のボロアパートで1人暮らしでしょう 工場で派遣のアルバイトで月に12万稼いで家賃を払い残った金でワンカップの日本酒を買い休日に飲んだくれるのが唯一の楽しみの染みったれたオヤジになるでしょう<8日>6:02 いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される6:03 大人には評判の良い子だった 大人には6:03 友達は、できないよね11:45 秋葉原ついた11:45 今日は歩行者天国の日だよね?12:10 時間です<ここで終わりです。この後20分後くらいに事件が起きます。>この言葉を読んでいると、悲しくなってきます。今も苦しんでいる多くの子どもたちの声を聞いているようです。以前、お母さん達のワークで自分の短所について聞きました。そして、“どうしてそれが短所だと思うのですか”と聞きました。すると、“そのように親に言われ続けてきたからです”という返事が返ってきました。でもその多くが、客観的に見てただの個性であって短所というほどのものではないのです。ただの個性を親が“短所”に仕立て上げてしまっているのです。そして子どもは一生その短所に縛られていくことになります。自分で気付いた短所は自分の努力で乗り越えることが出来ます。でも、親に作られた短所を乗り越えることは非常に困難なんです。トラウマとつながっているからです。子どもを褒めないお母さんはいっぱいいます。そういうお母さんは短所作りが上手です。そして、“どーせ俺なんて”という子どもがいっぱい育っているのでしょう。また、勝ち組、負け組という言葉に対しても異常なこだわりを感じます。今、これは社会全体の価値観のようになってしまっていますが、これも、親に言われ続けてきたのでしょう。“ちゃんと勉強しないと落ちこぼれるわよ、負け組になってしまうわよ”と・・・。そして、競争ばかりを強いられてきたのでしょう。その結果“勝ち負け”という価値観しか学ぶことが出来なかったのでしょうね。そして、加藤が不幸だったことはなまじ頭がよかったことです。だから親の期待に応えることが出来ちゃったのです。それで、最初のうちは“勝ち組”でいることができたのです。彼のプライドはその優越感の中で作られたのでしょう。だから子どもの頃は生き生きもしていたのでしょう。でも、勉強は出来ても学ぶ楽しさを学ぶことが出来なかった子は次第に勉強に追いついていくことが難しくなっていきます。加藤はそれでも親の期待に応えるために必死になって勉強していたのでしょう。そのストレスが家庭の内での暴力になって現れていたのだろうと思います。家庭内暴力を繰り返す子は、親に反発をしながらも親の依存から抜け出すことが出来ません。反発と依存という相反する力が共存してしまうのです。だから、その矛盾を暴力という形で吐き出すのです。(DVも同じです)親に反発をして簡単に親への依存を切ることが出来ちゃう子は親に向けて暴力をふるう必要などないのです。進学校から四年生の大学に行かず、自動車整備士を養成する短大に進んだのは彼にとっては親の束縛から逃れるための必死の抵抗だったのではないかと思います。でも、その後また別の大学に移っています。この間に親との壮絶なやりとりがあったことが想像されます。そして彼は負けたのでしょう。そして、夢を捨てたのでしょう。でも、勝ち組でいた時のプライドを捨てることは出来ませんでした。一度出来てしまったプライドはそう簡単には消えないように出来ているのです。そのプライドが“今の自分”を否定し、彼を追いつめたのかも知れません。そして、掲示板に書き込まれた“いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される”、“大人には評判の良い子だった”という言葉・・・・。子どもの頃には褒められて嬉しかったのでしょう。でも、思春期になってみると自分が大人の都合で褒められていたことに気付きます。思春期になるとそれまで見えなかった親の下心が見えるようになってしまうのです。そして、大人にいいように操られていた自分の間抜けさに気付きます。(アメとムチで子育てをするとそういうことになります。)彼は子どもの時にはお母さんを喜ばせることに一生懸命で、思いっきり子ども時代を楽しむことが出来なかったのでしょうね。(今、そういう子どもが増えてきています。)それで、いつも私が書いている通りに中学時代になってその結果が家庭内での暴力という形で現れたのです。でも、そういう子は家の中では暴れても、家の外では“よい子”を演じ続けるのです。プライドを守るためにです。絵を描いても、手を描かない子どもたちが増えてきたというのは能動的な意志で行動することが出来ない子どもたちが増えてきたことの現れです。その子どもたちが手を得るために、暴力という形で自分の意志を発現させようとするのは当然の結果なのです。(日本の昔話とグリムには「手なし娘」の話しがあります。両者とも最後には自分の子どもを守るために手が生えてきます。でも、守るべきものを持たない人は暴力という形で手を生やそうとするのです。)指示と命令と管理の子育てや教育は、農薬と人工肥料漬けで、さらにビニールハウスに閉じこめられた畑と同じです。最初のうちは理想的な収穫ができます。でも、それをずーっと続けていると、土(土を取り巻く生態系)が死んでしまいます。土が死ぬともっと農薬と人工肥料が必要になります。そして、さらに土が死にます。そうして、どんなにいっぱい農薬や、人工肥料を撒いても収穫が減るようになってきます。現実に今、世界中の畑でそのようなことが起きています。そして、管理され続けてきた畑は管理する人がいないと何にも収穫出来なくなります。子どもたちは思春期がくると、管理者の手を受け付けなくなります。ビニールハウスも捨ててしまいます。それは生理的なものです。どんなに管理が必要な状態でも、思春期が来ると子どもは管理を受け付けなくなるのです。それが思春期なんです。すると、アッという間に畑は嘘のように荒廃してしまいます。本当に、それはアッという間に激変するのです。それは当然の結果なんですが、その因果を見ることが出来ない人には信じられない変化なのでしょうね。それでそのことを警告すると“悲観的だ”と言われるのです。今はこんなにも豊かに実っているじゃないですか、その生命力を信じることが出来ないのですかと・・・。でも、農薬と人工肥料に支えられた生命力はハリボテなんです。薬とサプリと病院と文明の機器に支えられた健康がハリボテなのと同じです。事件の後色々と情報を検索していたら2チャンネルの掲示板に加藤は英雄だよくやったぞ、加藤というような言葉がいっぱい並んでいました。彼は、「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」を実現し、負け組から抜け出しました。今や彼はスターです。少なくとも、そう思いこんでいる若者達がいっぱいいるようです。どうしましょうか・・・・。
2008.06.11
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(ごめんなさい。書き始めたら「親子げんか」ではなく、別の話題になってしまいました。)先日、時間があいたので茅ヶ崎の北の方へ散歩に行きました。往復3時間ぐらいブラブラ歩いてきました。天気もよく、最高に気持ちよかったです。その時、ふと思ったのです。“今、携帯が鳴ったらこの気分は台無しだな・・・”と。感覚は、浸りきっている時に生き生きと働きます。そして、一度感覚に雑音が入るとなかなか元の状態には戻りません。キャンプで山の中に行くと、着いた日に見る風景と、森の中で一晩寝て翌日見る風景とでは同じではありません。見える色も、聞こえる音も、肌に感じる感覚も、森の気配も違うのです。私の感覚では3日ぐらい森の中にいると感覚が森仕様に入れ替わるようです。(この状態になってから都会に帰ると辛いです。)それで気付いたのです。それは、現代の子どもや大人がテレビやゲームや携帯やネットに依存してしまうのは現代人の生活が自然から離れてしまっているからなのではないかということなのです。子どもたちは外が大好きです。自然が大好きです。裸足が大好きです。裸が大好きです。私は、夜中に泣き出した赤ちゃんをオンブしてよく外に散歩に行きました。不思議なことなんですが、それまでズーッと泣いていた子が、外に出るとスッと泣きやむのです。それで、夜の散歩をしばらくしていると落ち着いて寝るのです。また、うちの教室に来ていた自閉症の子も家の中にいるとストレスが溜まってしまうので、時々外に出ていました。そのことを本人が自覚していました。どうしてだか分かりますか。人間は自然の中にいる時からだ丸ごとの感覚を通して自然とつながることが出来るのです。すると、本能的に安心するのです。別の言い方をすると、多様な感覚刺激が脳に届き、脳が満たされるのです。感覚刺激は脳の栄養ですから、感覚刺激が偏ったり、少なくなると脳の状態が不安定になるのです。それは“心の不安”という形で現れます。それは、感覚を遮断する実験でも確かめられていることです。靴や洋服を着るということは一部の感覚を遮断するということを意味します。そして、文明にもその洋服と同じように人間の感覚を遮断する働きがあります。また、極端に偏った感覚刺激ばかりが多くなります。町の中やエアコンの効いたビルの中にいるだけで多くの感覚が遮断されてしまいます。また、刺激の多様性が失われてしまいます。すると、人の心は不安になります。そして、脳は刺激を求めます。でも、人工的に作り出された刺激は偏っているので脳は満たされません。だから、不安は消えません。そして、もっと新しい刺激を求めることになります。テレビは視覚と聴覚への刺激は満たしてくれます。でも、脳は視覚と聴覚への刺激が来た時、当然それとセットにして来るであろう触覚や、嗅覚や、筋肉感覚や、場の気配を感じる感覚などの情報を求めます。脳は情報を総合的に判断しようとするからです。でも、テレビはそういう感覚を満たしてはくれません。だから、脳はもっと情報を得ようとします。脳はいつでも判断しようとするのです。すると、テレビから目を離すことが出来なくなります。これは感覚刺激を栄養にして脳が育ちつつある幼児において特に見られる状態です。幼児は、テレビがついていると内容など分からないのに刺激を得るために見続けるのです。そういう状態の中で長く生活していると、脳が多様な刺激を処理出来なくなります。脳の回路は刺激によって作られるので、刺激が来なければ回路は作られないのです。すると、森や自然が退屈な場所になります。そして、人工的な環境に戻りたくなります。人工的な環境を増やしたくなります。最近では人工的に多様な感覚刺激を作り出そうともしています。テレビなどのサラウンドもそのようなものです。それでも、幼児期の子どもたちはまだ脳が柔らかいので、自然の中での体験を繰り返すことでまたその感覚を取り戻すことはできますが、でも、そのまま思春期を迎えてしまうと、なかなかその感覚を取り戻すことは困難になります。感覚が価値観とつながってしまうからです。ということで、エアコンを消す、あまりテレビを付けない、出来るだけ自然を感じるような生活をする、そういうことが携帯やネットやゲームなどに依存しにくい子どもの感覚を育ててくれるのではないかと思うのです。ただ、子どもの場合は「ゲーム=友達とのつながり」という要素が強いので、そのような生活をしていても周囲にゲームつながりの友達しかいなければ子どもはゲームばかりするようになります。でも、それも思春期の頃までです。思春期が近付いてきて、視野が広がり始めると外の世界に出ていきたくなるのです。ですから、それほど深刻に心配することはありません。でも、人工的な環境の中だけで生活してきた子はその外の世界を感じることが出来る感性が育っていません。外の世界に対する不安と恐怖もあります。それで、ネットなどの中にその外の世界を求めてより深くに入っていくのです。それまでゲームばかりやっていた子でも思春期頃になるとそれほど夢中にならない子も出てきます。その一方で、そのままゲームやネットへの依存から抜け出せない子もいます。子どもがそこで分かれるらしいのです。(調査した人がいるのです。本を持っているのですが山積みになっているので探せません。)私は、その分岐点にあるのが“自然体験”なのではないかと思っています。
2008.06.10
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(親子げんかについては明日書きます)秋葉原で25才の男性による凄惨な通り魔事件がありましたね。まだ事件の詳細ははっきりしませんが、この事件の核心は明らかに子どもの時の問題ですね。子どもの時から押さえ込まれてきた問題が一気に吹き出したと言うことなのでしょうね。「生活に疲れ、世の中がいやになった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと供述している。と語ったそうですが、25才でもう人生に絶望しているのです。子どもの時からの絶望の積み重ねがないと25才でこんな状態にはならないのです。また、asahi.comのニュースを見ていたら以下のような記事も出ていました。家庭裁判所が、虐待されている子どもを保護者から強制的に離して施設に入所させることを承認した件数が、昨年1年間で195件にのぼり、過去最多となったことが、最高裁のまとめで分かった。暴行など身体への虐待やネグレクト(育児放棄)などの深刻な虐待が増えているという。今週、知り合いの幼稚園で話しをさせて頂くのですが、そのテーマが「被害者にならないために、加害者にならないために」というものです。園長から希望されたテーマです。多くのお母さんが自分の子が何らかの被害に遭うことを心配しています。それと同時に、自分の子どもが将来加害者になってしまうのではないかと心配しているお母さんも少なからずいます。まあ、そういう心配をしている方のお子さんは大丈夫だろうと思いますが、現代の問題は被害者にならないような子育てと、加害者を育ててしまう子育てが分離出来ていないということなんです。お母さんが子どもを囲い込み、外で遊ばせず、危険なことをさせず、ケンカもさせず、大人から遠ざけ、地域から遠ざけ、仲間から遠ざけ、自然から遠ざけ、ゲームや物やお金はいっぱい与え、勉強という競争に追い立て、成績で子どもを評価し、褒めることをせず、命令し、刺激の多い生活をし、成績や、権力や、お金といった大人の価値観だけを押しつけ、子どもが自分の意志と発想で自由に行動出来る場と時間と仲間を取り上げてしまっています。これで、バランスの取れた素敵な大人になるわけがないのです。皆さんは自分のお子さんに“素敵な大人”に育って欲しいですよね。じゃあ、皆さんの考える“素敵な大人”ってどんな人ですか。・自立している人・責任感がある人・明るくて生き生きとしている人・仕事に自信を持っている人・家族や仲間を守ることが出来る人・明るい人・楽しい人・真面目な人・責任感のある人どうですか、こんなところじゃないですか。この中で子どもには必要なくて、大人だけの特徴ってありますか。みんな同じじゃないですか。(家族は“仲間”、仕事は“自分の活動”と読んで下さい。)つまり、“素敵な子ども”と“素敵な大人”は本質的に同じなんです。素敵な子どもが成長して素敵な大人になるのです。大人になって急に素敵な大人に変化するなどということはありえないのです。(ただし、大人になってから苦労を重ねて素敵な大人に成長する人はいます。でも、まれです・・・)そして、“素敵な子ども”は子どもを管理しない事で育ちます。と書くと、“じゃあ、好き勝手にさせればいいのか”と噛みついて来る人がいます。そういう人は、頭の中に“管理”か、“放任”かという二つの考え方しか存在していないのです。観念論に支配され、現実に即した物の考え方が出来ないのです。もっとも、日本の教育では“現実に即した物の考え方”など教えてくれませんからしょうがないのですけど・・・。そうじゃないのです。子どもの中の“成長したいと願う意志”をサポートしてあげればいいのです。子どもは色々なことが出来るようになりたいし、色々なことを知りたいのです。そしてそれは最終的にちゃんと“大人の世界”につながるようになっています。それが子どもの本能なんです。だから、それを手助けしてあげるだけで子どもは自分の力でどんどん伸びていくのです。声を大にして言いたいことは、子育てや教育は本来子どもと大人の共同作業だということなんです。実際、共同作業でないと成り立たないのです。それを“大人だけの仕事”だというように勘違いしてしまっているので、押しつけになってしまっているのです。子どもが出来るようになりたいことは禁止し、子どもが学びたいことは否定し、大人が学ばせたいことばかりを押しつけてしまっています。これで無気力にならないわけがないのです。学力が低下しているのも、ゆとり教育のせいではありません。子どもたちが無気力になってしまっているからです。無気力な子どもが能動的に考えることを期待する方が無茶なんです。だから、脅迫やアメやムチが必要になるのです。子どもが今何ができるようになりたいのか、何を知りたいのか、そういうことは子どもを観察していればすぐ分かります。そして、状況に合わせて手助けしてあげます。すると、子どもと大人のつながりが生まれます。すると、信頼関係が生まれます。子育ても、教育もここから始めないと大変なことになります。
2008.06.09
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土日はアクセスが少ないので、ちょっと寄り道して天然堂さんの以下のコメントにお答えさせて頂きます。・・・・ネット上となると手がつけられません。仮想現実ですから、家では、その辺の身の処仕方が判るまで与えたくないネットワークです。森の声さんの子育てではネットや携帯などについてどういった対処をしていたのかお聞かせ下さい。まず、ご理解して頂きたいのは、子育てや教育というものは「場」や「環境」や「状況」に対する依存度が大きいので、Aという環境に住んでいるAAさんがやった方法で、Bという環境に住んでいるBBさんがやったとしても結果が同じになることは保障されないと言うことです。多くの人がこのことを理解していません。だから、マニュアルを求めているのです。(天然堂さんのことを言っているわけではありませんからね。)マニュアルは場や環境や状況に依存しません。だから覚えやすく、簡単なのですが、実際問題としては部分的にしか役に立ちません。でも、なまじ部分的に役に立ってしまうと、依存度が高くなり、全体としては非常に困ったことになってしまうこともあります。実はこれは科学でも同じで、私達が普通にお湯を沸かしても多くの場合100度ぴったりにはならないのです。100度でお湯が沸騰するためには気圧や、水の不純物の問題やら色々な条件が必要なのです。だから、科学者が実験をする時にはまず状況や環境を統一する所から始めます。そうすることで初めてマニュアル通りに実験が可能になるのです。でも、子育てや教育ではそんなこと出来ません。「天才の育て方」という本を読んで、同じ結果を得るためには、その著者と同じ生活環境を用意し、夫婦共に同じ性格になって、子どものDNAもその著者の子と同じにする必要があるでしょう。また、時代や土地の雰囲気、隣人の状況、風土なども同じにする必要があります。また、偶然に起こる様々な出来事も全く同じことが起きる必要があります。そのようにして、その本を書いた人と全ての条件を同じにしないと、同じ結果は保障されないのです。でもそれはナンセンスです。また、Aという状況の人に向けて文章を書くと、Bという状況の人が反感を持つこともあります。幼児期の子どもの子育てをしている人にテレビやゲームの害を訴える文章を書くと、もうすでにテレビやゲーム漬けになって成長したお父さんから文句が出てきます。アフリカの砂漠に住む人のために書かれた狩りの仕方も、その前提が分からなければアマゾンのジャングルで生活している人から“そんなやり方で獲物が捕れるわけがない”と文句が出てくるでしょう。だから、私は出来るだけ原理や原則を書くようにしています。そして、読む人にもその原理や原則を読みとって欲しいと思っています。それはマニュアルを覚えることより遥かに難しいことですが、でも、そうじゃないと子どものためを思ってやったことが逆効果になってしまうこともあるのです。もっとも、自立した人、ゴーイング・マイウェイの人、いいかげんの人(いい加減)にはむしろマニュアルがない方が楽ですけどね。私もへそ曲がりですから、マニュアルに合わせることの方が苦痛です。子どもの時からよい子で、大人になっても真面目な人がマニアルに依存しやすいのです。そして、そういう大人が増えています。それが鬱病や自殺の増加ともつながっているのではないかと思います。ということで、本題に入ります。結論から言ってしまえば、うちは携帯は高校生からです。今大学4年の長女、2年の次男の場合も高校生になってからでした。ですから、その下の中3と小5の子どもたちは持っていません。我が家ではそういうもんだ、と諦めています。これも、状況と関係しているのですが、我が家の辺りは非常に落ち着いて安定した住宅街です。安全でのんびりとした雰囲気の所です。通りで見かける子どもたちもみな普通の格好をした、普通の雰囲気の子どもたちばかりです。高校生もです。(歩いて5分の範囲内に、幼稚園、小学校、中学校、高校があります。)うちの子が通う小学校と中学校も非常に落ち着いていて、学級が崩壊しているクラスはありません。中学に行っている娘が先生に、“この中学は茅ヶ崎中で一番落ち着いている”と言われたそうです。だからといって、先生達の締め付けが厳しいわけではありません。うちの子も毎日楽しく学校に行っています。携帯を持っていないことで、また携帯を持っていることで大きなトラブルが起きたという話しも聞きません。(日常的な範囲のトラブルはあるでしょうけどね。実際、教室のお母さんからは携帯を持たせた途端に交友関係がおかしくなった、という話しは聞きました。)ネットに関してもうちは特に規制はかけていません。中学生の娘は普通にネットで調べ事をしています。ただし、パソコンもテレビもうちは子ども部屋にはありません。居間と私の仕事場にあるだけです。パソコンはあえて無線にしないでケーブルでつないでいます。ですから、大学生の子どもたちも居間か私の仕事場のパソコンで調べ事をしています。(居間にあるのは大学生の長女のものです。仕事場には二台あります。)まだ、おかしなサイトにつながってしまったという状況に即面していませんが、でも、その時はその時です。ネットとはそういうものだということを教える教材として使おうと思っています。私は、“何が起きてもそれを教材にしてしまえ”という考え方の人なので、そんなに深刻には考えていません。こんなもんでよろしいでしょうか。
2008.06.08
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よくお母さん達から、“うちの子どもたちはしょっちゅうケンカばかりしていて困るんです”と、兄弟げんかの相談を受けます。そんな時は、“兄弟げんかの数だけいっぱい仲直りも体験しているのですから大丈夫ですよ”と答えます。子どもはケンカしても、すぐに一緒に遊び始めます。大人と違って“ゴメンナサイ”などという儀式は不要です。その、ケンカから一緒に遊び始めるまでの過程の中に“仲直り”も含まれているわけです。以前、今大学4年と、2年の上の二人が小さかった頃、その過程を見たくてケンカしている脇でただジーッと見ていたことがあります。ケンカしている時も、仲良く遊んでいる時もよく見ていましたが、その境界で何が起きているのかを知りたかったのです。そうしたら、最初のうちは言い合いをしていました。でも、しばらく言い合いをしているうちに気持ちが落ち着いてきたのでしょう、側でジーッと観察している私が気になり始めました。そして、姉の方が“あっちへ行こう”と弟の手を引いて行ってしまいました。そこでケンカは終わりました。でも、多くのお母さんがそんな面白い現場を見ることなく子どものケンカを一方的に止めてしまいます。そして、多くの場合お兄ちゃんやお姉ちゃんが怒られることになります。すると、兄弟の間に妬みが生まれます。そして、兄弟の仲が悪くなっていきます。そして、またケンカを始めます。そしてまたお母さんに怒られます。(ちなみにうちでは決して兄弟を比較しません。“お兄ちゃんはこうだったのに”と言われたら兄弟仲が悪くなるばかりですからね。)つまり、ケンカを一方的に止めてしまうことがかえってケンカを増やしているのです。そして、そこではケンカの体験ばかりで仲直りの体験ができません。その仲直りの体験が出来ないまま成長していくと、年齢が上がるにつれて“ケンカ”が兄弟間の“イジメ”というような形に発展していくことがあります。イジメの世界には仲直りは存在しません。そして、そのような状態になってしまうと、お母さんには兄弟の間に何が起きているのか分からなくなってしまいます。そして、いじめられている方の子がお母さんに訴えても、簡単にケンカを止めるようなお母さんはそういう現実を見たくない人なので“気にし過ぎよ”などという言葉でごまかそうとします。いじめる側の子はお母さんを信用していないから、お母さんの目が届かないところで兄弟をいじめているのですが、その現実にしっかりと向き合わないと今度はいじめられている側の子からも信用されなくなります。そうなってしまってから問題を解決するのは非常に困難です。ですから、そうならないように兄弟げんかを楽しんでみましょう。実は、子どもにとって“ケンカ”という場面ほど自分を表現しようとする状況は生活の中にないのです。いつもは無気力に受け身で生活している子どもたちでもケンカの場面の時だけは能動的になるのです。そして、行動的になり、おしゃべりになります。つまり、自己表現を始めるわけです。つまり、“心のドア”が開くのです。その時に、相手やお母さんにその自己表現をちゃんと受け止めてもらうことができれば子どもは自分を表現することに臆病にはなりません。そして、相手に理解してもらうための表現能力も育っていきます。そして、自分を表現する能力が育てばケンカをする必要もなくなっていきます。また、子どもの気持ちにちゃんと向き合ってくれたお母さんへの信頼も育っていくでしょう。ですから、兄弟げんかが起きたら、“しめた!”と思ってください。ケンカという場でないと伝えることが出来ないこと、育てることが出来ないこともいっぱいあるからです。ケンカの時、子どもは先ず自分の感情を吐き出そうとします。まず、その感情を吐き出させてあげます。感情を止めてしまうと感覚も思考も働きませんから、話しが先に進みません。その時、“辛かったんだよね”とか、“イライラしたんだね”というように子どもが言葉化出来ない心の中の言葉をお母さんが感じて、言葉化してあげることも必要になります。子どもは自分の感情をどのように表現したらいいのか分からないからです。(お母さんも分からなかったりして・・・)ただし、自分の感情を吐き出すのはいいのですが、相手を否定するような言葉はしっかりと止めてください。それと、お母さんが善悪の押しつけをしないようにして下さい。それをやってしまうと子どもは自分の感情を言わなくなります。兄弟げんかは生活の中の「感情表現ワーク」でもあるのです。大切にしてあげて下さい。(かめおかさんが書いている「日本演劇教育連盟がお届けする演劇教育の専門メルマガ」にも同じような話題が出ています。お読みになりたい方はかめおかさんに連絡を取ってみてください。)
2008.06.07
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最初にお知らせです。明日、茅ヶ崎で「音のワーク」(音で遊ぼう)をやります。まだまだ余裕がいっぱいあります。参加してみませんか。楽しいですよ。5月3日のブログの下の方に詳細が載っています。(6月26日の「表現共育のワーク」の参加者も募集中です。こちらはあと少しです。)**********************************実は人間の人間的な文化のほとんど全てが模倣で成り立っています。人間は自然からインスピレーションを受けて文化や文明を発展させてきましたが、そのインスピレーションとは模倣そのものなんです。鳥を見て空を飛ぶ物を創りたいと想像するのも模倣能力の現れなんです。そして、子どもたちはその人類が模倣してきたものを模倣することで人間らしさも、文化も、文明も引く嗣ぐことが出来るわけです。ですから、子どもたちをそのようなものを模倣出来ないような状態で育ててしまうと、人間らしい人間に育たなくなるということです。冷静に考えたらこれは当然のことです。だから日本で生まれて、日本人の親に育てられれば日本語を話すようになり、日本人らしい感性やしぐさや考え方や行動様式を身につけることが出来るのですから。でも、知識は模倣ではありません。“家を建てるのは大工さんだ”と言う知識で、家を建てることはできないのです。人間は現実と関わることで生きています。ですから、人間が生きていくために必要なのは“現実との関わり方”なのです。“現実についての知識”をいくらいっぱい持っていても、“現実との関わり方”を知らなければ、生きていくことは出来ません。そして、“現実との関わり方”は模倣によってしか学ぶことが出来ません。ほんとに、ほんとに、こんな当たり前のことも今の時代では子どもたちに保障されていません。でも、模倣衝動が強い時期の子どもたちは、とにかく生活の中で印象の強いものを模倣しようとします。生まれたばかりの鳥の赤ちゃんが最初に見た動く物を親だと思いこんでしまうように、それは何万年も前から続く人類の本能的な衝動なのです。そして、今の子どもたちはテレビやゲームの中に登場する人物の行動やしぐさを真似しようとします。子どもたちは真似をすることで“同化”しようとするのです。同化することでその対象を内側から体験するのです。そして、そのものの持つ“力”を受け継ぐのです。人間の人間らしい感覚はそのようにして受け継がれていきます。単純な動作はその動作だけを見て真似ることが出来ますが、でも心やからだの内側で働いている感覚は相手になりきって真似をするという方法でないと受け継ぐことが出来ないのです。それがままごと遊びや、ごっこ遊びの持つ意味です。だからまた、子どもはお母さんやお父さんの真似をするのです。ですから、子どもたちにとって真似をするということは自己を失うことではなく、逆に自己を得ることなんです。演劇的なワークで相手のしぐさや歩き方をそっくり真似をしてみるというものがあります。そうすると何が起きるか分かりますか。真似をすることで相手が感じていることや心の中の感覚に触れることが出来るのです。(もちろん、実際にはその感覚は相手とは同じものではないかも知れません。でも、“異質な自分”を体験することはできるのです。)逆に言えば、どうしても相手の感覚が分からない時には演技でごまかすことは出来ても真似が出来ないのです。でも、本人はうまく真似をしたつもりでもその違いは周りで見ている人にはすぐ分かるのです。そもそもちゃんと真似ている時には真似ているという感覚自体がないものなんです。アンパンマンになり切って遊んでいる子には“アンパンマンの真似をしているんだ”という意識はないのです。逆に言うと、その意識が消えないと“なりきる”ことができないのです。そして大人は同化能力が低下してしまっていますから、なかなかなりきることが出来ません。だから、大人は子どものおままごとの相手をするのが苦手なんです。人の心はしぐさや表情や動作といった器の中に存在しています。そして、その器の形は心の形でもあります。ですから、器の形を真似れば、その内側にある心の状態も感じることができるのです。この感覚はアニミズム的な宗教や呪術の世界とつながっています。動物の姿や形や動作を真似ることで、その動物のパワーを得ようとしたり、絵を描いたり、形を似せたものを作ったり、描いたりしてそのものの力に触れようとするのです。形見として、写真や絵を大切にするのも同じです。そこで、亮月庵さんが書いて下さったそれいらい写し書きは大人気。みんなガラス窓にそのままかけるコピーを貼り付けて、一生懸命なぞっています。書き終わった後べつに塗るでもなく持ち帰ることが多いので、もうひとりの指導員(50歳代の方です)は「塗りもしないでただ無駄に紙を使って」と咎めるような感じでしたが、わたしは上手にまねを出来るのがうれしいんだろうなあと思っていました。という話しとつながってくるのです。上手に真似が出来たから嬉しいのではなく、子どもはその写した絵を通して、その絵の対象とコンタクトをとることが出来るのです。その“自分で描いた絵”には自分とその相手とをつなぐ呪術的な力が宿っているのです。だから大切なんです。そしてだから子どもは大好きなものの絵しか描かないのです。子どもはアニミズムや魔法の世界に生きているのです。大人でも、恋人の名前を呼んだり、写真を見たりするだけで、恋人が側にいるような感覚があるでしょ。好きな子の名前をノートいっぱいに書いた記憶はありませんか。その感覚がアニミズムの世界とつながっているのです。人は人ばかりでなく、自然や動物や宇宙まで真似しようとします。ストーンヘンジは宇宙を真似ようとして作られたのです。人の心は模倣によって創られるのです。そして、人間はその模倣したことを自在に組み合わせて独自の文化を創ってきました。言葉はその象徴です。エジソンみたいになりたい。マザー・テレサのようになりたい、黒澤明のようになりたい、イチローのようになりたい、○○先生のようになりたい、お父さんやお母さんのようになりたい、というのもみんな模倣です。人は模倣によって目標を見つけるのです。ですから、模倣する対象を持つことができない子は自分の人生で迷子になります。猿も模倣はしますが、その模倣したことを自在に組み合わせることはしません。創造性とは、模倣をしないことではなく、その模倣したことを自在に組み合わせる能力のことをいうのです。だから、子どもたちの育ちには“大人を模倣すること”と、その“大人の常識にとらわれないで自由に表現したり、活動すること”の両方が必要なんです。大人を模倣するだけでは創造性のない人間になってしまいます。でも、模倣がなくて自由なことばかりやっていると人間らしさも、人間としての能力も育ちません。でも、どちらか一方だけが好きな大人が多いのです。保守的な人は、大人の模倣を強要します。進歩的な人は、あえて大人を模倣しないように自由にさせます。でもいずれの方法でも、子どもは人間らしく育つことができません。
2008.06.06
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(昨日からの続きです)皆さんは、“人の真似をするロボット”と、“自分勝手に動くロボット”とどちらの方が作るのが難しいと思いますか。当然、“人の真似をするロボット”の方がはるかに難しいのです。なぜなら、人の真似をするためには先ず、人の動きを感じ取る感度の高いセンサーが必要です。そして、その感じたものを自分の動きに変換する高度な計算能力も必要です。そして、変換したデータを自分のからだの動きに合わせて処理をして、実際にそのデータでからだを動かし、さらに正しく動けているかをフィードバックして調整しなければなりません。でも、自分勝手に動くロボットの場合は自分のからだをコントロールする機能さえ付いていればOKです。後はランダムにデータを作り出して、動かせばユニークな動きをするロボットが生まれます。その際に必要なのはデータを“自己矛盾”を起こさないように処理することだけです。つまり、人の真似をするためにはフィードバックによる学習と、他者に合わせたコントロールが必要なのに対して、人の真似をしないで個性的に動くだけなら学習も、他者に合わせる能力も必要ないということです。また、ロボットの機能はいつまでも作られた時のままですが、人間の場合は真似を繰り返していくうちに真似をする能力が成長していくのです。真似をするという行為が合理化されていくのです。そのために必要なのは、相手の動きの中からパターンを抽出してデータとして蓄えていくことです。そうすることで、データ処理の速度を速めることが出来ます。毎回毎回、全てのデータをあつめて、一々細かく計算して動きを写さなくても、パターンとして処理することが出来るようになればポイントだけチェックすれば、次の動きすら予想出来るのです。すると、もっと楽に、素早く真似をすることが出来るようになります。その過程を“学習”といいます。私は、太極拳をやっていたのですが、最初は先生が見せてくれる動きが全く訳が分かりませんでした。でも、真似を繰り返しているとパターンが見えてくるようのです。すると、何となく動きに付いていくことが出来るようになったのです。学習は他者との関係の中でその必要性が生まれてくるのです。その必要性に目覚めた人は本を読んで一人でも学習ができますが、最初から自己完結して自由に動いているだけのロボットや人間には学習の必要が生まれません。模倣する他者が存在していなければ学習は必要がないのです。この“パターン化”することを、“抽象化する”といいます。“木”というものは現実には存在していません。現実に存在しているのは“この木”であり、“あの木”なのです。でも、“この木”や、“あの木”などをいっぱいいっぱい知ることで、それらの間に共通するパターンを抽出することが出来ます。そのパターンを“木”と呼んでいるわけです。言葉の世界はパターンの世界なのです。つまり、似ているところだけを探し出して、その要素に名前を付けたのが“言葉”なのです。この似ているところだけを探し出す能力を抽象化する能力といいます。そして、この能力は模倣や真似をする能力ともつながっています。ですから、模倣や真似をすることが苦手な人は、抽象化することも苦手です。そして、抽象化することが苦手な人は言葉もちゃんと理解出来ません。(但し、障害を持っている人でこの抽象化をせずに、ただコピーするように模倣することが得意な人もいます。でも、パターンとして抽象化できずに、丸ごとそのままコピーするだけなので、応用することが出来ません。オウムの記憶と同じです。)自閉症傾向の子どもたちがそのような状態です。先日、うちの教室に来ているアスペルガーの子が粘土をやっていて丸いものを作っていたので、“リンゴみたいだね”と言ったら、“これはリンゴじゃないよ、粘土だよ”と真顔で訂正されました。“丸い”というパターンでリンゴと粘土の作品を比較することができないのです。たとえ話が通じないのです。ライオンのことを「百獣の王」と言いますが、実際には動物たちの王様ではありません。王様と、ライオンの間に似たパターンを感じた人がそのように言い始めたのです。言葉というものはそのようなパターンの集合体なのです。つまり、似ているところを抽出する能力は人間にとって本質的な能力なのです。ですから、幼い子どもたちは本能的にその能力を一生懸命に育てようとしています。だから、お母さんの真似をして、友達の真似をして、“ごっこ遊び”や“なりきり遊び”に霧中になるのです。お母さんごっこで子どもは“お母さん”というパターンを演じて、体験しているのです。ドロンコの粘土を丸めて“おだんご どうぞ”と言う時も、子どもは“ドロンコだんご”と、“本物のだんご”を“丸い”というパターンで“同じもの”として処理しているのです。大人は“違い”の方に先に目がいきますが、子どもにとっては“共通点”の方が大切なんです。それが“抽象化”なのです。そして、その能力が育っていないと、“希望”や“勇気”や“生命”といった概念も理解出来ません。ですから、これは人間にしか出来ない非常に高度な能力なんです。この“見立て能力”が人間としての高度な思考能力の基礎になっているのです。“見立て能力”と“模倣能力”と、“抽象化能力”と、“思考力”は一つながりなのです。子どもの遊びをバカにしてはいけません。多くのお母さんが、“遊んでばかりいないで勉強しなさい”と叫んでいますが、勉強ばかりしていると勉強しか出来ない頭の悪い子になってしまいますよ。
2008.06.05
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昨日は、“表現とは能動的な意志の発露”だと書きました。じゃあ、子どもたちは成長の始めにどのような形でその能動的な意志を発揮し始めるのかと言うことです。実はそれが“模倣”なんです。子どもたちは真似をしたくてしょうがないのです。それが人間の本能なんです。つまり、“表現”は“模倣”から始まるのです。ここで多くの人が勘違いしています。模倣には個性がありません。そして、個性がないのは表現ではないと考えている人がいるようなのです。最近、“自分らしさ”とか、“個性”いう考え方が好きな人が増えてきましたが、でも、そのようなものは結果として現れるものであって、大人が意図的に作り出すものではありません。“自分らしさ”とか、“個性”というものは子どもたちが生き生きと成長していく過程で自分の素質に合わせて自然に現れてくるものなのです。だって、人間は生まれた時から一人一人違うのですからそれは当然なのです。わざわざ、大人が“個性を育てよう”と頑張るようなものではないのです。大人はただその違いを肯定的に受けいれていればいいのです。そうすれば自然と個性豊かな子どもたちが育つのです。時々、以下のような相談を受けることがあります。3,4才頃までは自由に素敵な絵を描いていたのに最近友達の真似をしたり、お人形のような絵ばかり描くようになってしまって絵が急につまんなくなってしまったのです。“上手に描けない”といって泣くこともあります。それで、“もっと自由に描いていいのよ”と言うのですが、そういう時はどうしたらいいのでしょうか。という様な相談です。“わたし、絵が下手だからママ描いて”と自分で描かなくなってしまいました。というような話しもよく聞きます。まず、友達の真似を始めるのは社会性の目覚めに伴う正常な発達です。ですから、この時期の子どもたちにとって模倣は能動的な意志に伴うちゃんとした表現なんです。ただし、気質によってその真似の仕方に個人差があります。多血は積極的に友達の真似をしたがり、胆汁はそれとなくかっこいい子や先生の真似をしたがり、憂鬱は裏でこっそり友達の真似をしようと努力し、粘液はそういう子どもたちを見ることで無理をしないで出来る範囲で真似をします。子どもの模倣を、自信がない大人が人の真似をしてごまかすのと同じレベルで解釈してはいけないのです。でも、確かに2,3才の頃には巨匠のような絵を描いていたのに、その時期を過ぎると次第に絵は常識的になり、つまらなくなっていきます。それは親としては寂しいことかも知れません。でも、安心してください。それが正常なんです。なぜなら思春期前の子どもは模倣によってその“常識”を身につけている時期だからです。“自分らしさ”や“個”に目覚め、それを大切にしたいと思うようになるのは思春期が来てからなのです。これは、絵だけでなく子どもの表現全般に言えることです。だから、子どもの表現に無理に個性を求めてはいけないのです。それは“大人の趣味”なのです。また、模倣という方法を“画一的”といって否定してはいけないのです。子どもたちは模倣によって他者を取り入れているのです。そして、その他者の複合体として“自分”というものを創り上げていくのです。他者との関わりがなければ“自分”というものは生まれないのです。ですから、思春期前の子どもたちには模倣の対象となるような仲間や大人や、また、その模倣のきっかけとなるような様々な体験が絶対的に必要なのです。“豊かな自分”が育つためには、“豊かな模倣”が必要だということです。そして、その模倣能力が学習能力の基礎にもなっていくのです。子どもの頃の学習とは模倣に他ならないからです。そしてそれが同時に、“表現能力”の基礎にもなっていくのです。でも、今学校にも、家庭にも、地域にも、子どもたちが積極的に模倣出来る環境がありません。そして、ただ受け身的に教えてもらうばかりです。言葉は模倣で覚えます。ですから、言葉を模倣出来ない子は言葉で自分を表現することができません。それと全く同じことが他の表現や学習の場でも起きているのです。つまり、模倣ができない子は学習能力も低く、また表現も上手に出来ないということです。表現が他者に通じるためにはその他者から学んだ感覚が絶対的に必要なのですから、それは当然のことです。但し、模倣に正解を作らないでください。同じものを見て模倣しても、A君の模倣と、B君の模倣は同じではありません。実はそれが“個性”なんです。ですから、思春期前の子どもにおいて個性を大切にすると言うことは一人一人自由に描かせるということではないのです。但し、(但しが多くてゴメンナサイ)自由に描かせることに意味がないということではありません。自由に描いたり作ったりすることで子どもは自分が模倣したことを使いこなす能力を育てることが出来るからです。模倣で学んだ知識や技術や感覚を自分独自のものにするためには、このような自由な活動も絶対に必要なのです。それが、思春期以降の“個性”につながっていくのです。でも、子ども時代におけるその基礎は模倣だということです。どうしてこういうことが言えるのかというと、子どもたちを見ていて模倣能力が低い子は学習能力も、表現能力も低いことをいつも感じているからなのです。模倣がうまく出来ない子は自由に描くことも、表現することもできないのです。そして今、この模倣が出来ない子どもたちがものすごく増えてきています。手本を見せても、見本を見せても真似が出来ないのです。それで、すぐに教えてもらいたがります。教えてもらわないと出来ないのです。でも、それでは自立出来ませんよね。
2008.06.04
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ダージリンさんがそれでも、最初から最後まで殴り書きだけで終わったスケッチブックを、私は全部残して行きました。本人は何故か、それを繰り返し繰り返し眺めるのが大好きでした。と書いて下さいましたが、その“殴り書き”も息子さんにとっては能動的な意志の現れで、立派な表現だったのでしょうね。私にはかめおかさんをふくめ“表現”の専門家の友人が何人もいます。その専門は演劇だったり、舞踏だったり、絵画だったり、彫刻だったりしますが、一様にみなその専門外でも自分の表現というものを大切にします。つまり、どんな時でも自分の能動的な意志で発言し、行動するのです。絵を描いたり、踊ったりする時だけ能動的になるわけではありません。(学校の先生は扱いにくかったでしょうね・・・)それはつまり、それがどんな表現であろうと子どもの表現能力を育てたいと思うのならまず、“能動的な意志”そのものを育てるところから始める必要があるのではないかということなんです。芸術家と呼ばれる人たちは、その能動的な意志を表現する手段として絵画や演劇や舞踏というジャンルを選んだに過ぎません。つまり、ジャンルに分けられた様々な表現は能動的な意志の結果であって、その原因ではないということです。ですから、その能動的な意志を普通のサラリーマンの仕事の中で表現している人もいるでしょう。また、主婦や子育ての仕事の中で表現している人もいるでしょう。そして、そういう人はどんな場合でも創造的に仕事をするのです。だからこそ、全ての子どもたちに“表現共育”が必要なのです。自分の能動的な意志に基づく表現は人間らしく生きたいと願う全ての人に必要な能力なのです。表現能力は芸術家と呼ばれる人たちだけに必要な能力ではないのです。シュタイナー教育では教師に芸術的な授業を求めていますが、それも同じです。それを、芸術を多く取り入れた授業と勘違いしている人もいますが、そうではないのです。教師が能動的な意志の現れとして授業を進めようとすると、自然と芸術的になっていくのです。そして、そういう授業は芸術と相性がいいのです。でも、授業の中にどんなにいっぱい芸術を取り入れても、教師に能動的な意志がなければ子どもの能動的な意志を育てることは出来ません。感性も育ちません。それはどんなにシュタイナー教育に似ていてもシュタイナー教育ではないのです。シュタイナー教育は方法によってではなく教師の精神によって支えられるのです。そして実は、その“子どもの能動的な意志”を育てるために必要な活動こそが“遊び”なんです。子どもの遊びの世界の中には大人の全てジャンルの表現が種として含まれています。つまり、子どもの遊びはまだジャンルが分化していない状態の「原始表現」の世界だということです。その世界の中には歌も踊りも演劇も文学も実験も研究も冒険もみんな含まれているのです。それが子どもの遊びの世界なのです。だからこそ子どもは遊びの世界の中で人間としての基礎を育てることが出来るのです。遊びの世界では表現しない子は遊ぶことが出来ません。“おにごっこするもの この指とまれ”と呼びかけるのも、また群がってその指にとまるのも、“いーれーて”と言うのも、立派な表現なんです。そこでもじもじしてしまう子は遊ぶことができないのです。誰からも強制されないのにみんなと仲良く遊ぶのも能動的な意志の現れなんです。おままごとも、基地づくりも、木登りも能動的な意志の現れです。ですから、そこには一人一人の表現があります。その表現を大切にすることから表現共育は始まるのです。ただし、テレビゲームはそのような意味では“遊び”ではありません。“現実”との関わりがないからです。能動的な意志は“現実”と関わる時に必要な働きなのです。心の中の世界と現実世界をつなぐのが“意志の力”なのです。ですから、能動的な意志の力を育てることが出来ない子はなかなか心のドアを押して外に出てくることが出来なくなってしまいます。最近、表現教育という名目で“技術としての表現”を教える活動は盛んですが、どんなに表現が上手になっても、能動的な意志が育たなければ“自分らしい表現”はできません。確かに、そのような表現も“道具”としては役に立ちますが、場面限定的であり、生きる力とはつながらないと思います。
2008.06.03
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今日からちょっと話題を変えて「表現共育(教育)」について考えてみます。ネットで表現教育のことについて調べ見ても、演劇や造形やコミュニケーションといったジャンルごとに縦割り的に語られているばかりなのでそれを“子どもの育ち”という視点を中心にして再構成してみたいと思います。確かに、様々なジャンルの人たちが集まって表現について語っている本もあるのですが、その内容の紹介を読んだ範囲ではやっぱり寄せ集め的な議論しか出来ていないように感じるのです。話し合うことを通して自分の専門を超えた中心を抽出できないのです。それは“子どもの育ち”そのものに対する感覚的な理解が乏しいからなのではないかと思います。そのため、“表現”というものに対する本質的な理解にたどり着けないのでしょう。まず、表現には大きく分けて二種類あります。表現しようとする意志がある表現と、意志のない表現です。赤ちゃんも、犬や猫も表現しています。でも、その表現は無意識的で“表現しようとする意志”の発露ではありません。熱いものに触れて“熱い!”と言うのも、お腹がすいた犬がよだれを垂らすのも表現として見ることも出来ますが、そこには表現しようとする意志は存在していません。その表現は反射であり、反応だからです。見る側の人間がそれを表現として受け取っているに過ぎません。この手の表現は本能的、生理的なものなので“表現共育”のテーマとしてではなく生物学や生理学の課題になるのでしょう。ですから、“人間の育ち”という視点から見たら、大切になるのは“表現しようとする意志のある表現”の方だということです。言葉が話せるようになるちょっと前の子どもはお母さんに“あ あ”と言いながら指を指して一生懸命に何かを伝えようとします。この“指さし”という表現には子どもの意志が現れています。ですから、この“指さし”は立派な表現です。その証拠にこの表現を行えない子は“言葉”という表現にスムーズに移行することが出来ません。逆に、絵を描いても、踊りを踊ってもそこに“表現しようとする意志”が存在していなければ、それはただの技術の陳列であって、表現ではありません。それは上手下手とは関係ありません。そっくりに描かれた絵でもそこに表現しようとする意志がなければロボットの絵と同じです。でも、幼稚園児の下手な絵でもそこに表現しようとする意志があるならそれは立派な“表現”として見てあげるべきです。でも、多くの大人が結果の上手下手だけで子どもの表現を判断しています。そうすると、自分の意志で表現しようとする子は自信をなくしていきます。なぜなら、自分の意志で表現しようとする子は大人の期待通りには描かないからです。子どもが表現したいことはいつでも大人の予想の範囲外にあるのです。ある子は学校で、“運動会で一番印象に残ったことを描きなさい”という課題で、お母さんと一緒にお弁当を食べている絵を描いたそうです。でも、先生は“これは運動会の絵ではない”と怒り、描き直させたそうです。でも、その子のお母さんは仕事をしていて忙しく、普段は子どもと一緒に食事もできないのです。そんな中で、運動会の時にはお母さんと一緒にお弁当を食べることが出来たのです。ですから、この子にとっては“運動会の想い出”は“お弁当”だったのです。先生に言われた通りに、ただノルマをこなすために上手な絵を描く子は褒められて、本当に自分が描きたいことを描いた子は否定されてしまったのです。これは表現の否定であると共に、子どもの意志の否定です。子どもの表現を大切にすると言うことは“子どもの意志”を大切にすると言うことでもあるのです。それは絵とか踊りとかそんなジャンルとは関係ありません。高いところに登ってジャンプするということでもそれが子どもの意志の現れなら、それも立派な表現だと言うことです。人の絵を模倣するのも、模倣したくて模倣するのならそれも立派な表現なんです。大人はそんな模倣に作品としての価値はないといいますがそんなこと子どもには関係のない話しです。“模倣したい”という意志は人間の成長にとって非常に重要な要素なのです。大人には価値が無くても、模倣がしたいと思った子どもにとっては模倣も立派な表現なのです。そのように、表現というものを絵画とかダンスとか造形といったような縦割りのジャンルで考えるのではなく、子どもの成長という視点から横につなげて考えてみると、一般的に“表現”という言葉で表されるものとは全く異なったものが見えてくるのです。そして、“表現”が子どもの成長と直結した、もっと日常的なものであるということも分かってきます。絵画やダンスや造形といったものはその表現の一形態に過ぎないのです。そして親子の関わりや、学校での勉強といったことの中でも表現共育という視点を持つことで子どもの育ちをサポートしやすくなるわけです。さらにまた、その“表現しようとする意志”のある表現にも二種類あります。それは“自分に向けた表現”と“他者に向けた表現”の二種類です。ということで続きます。
2008.06.02
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心のドアは自分にしか開けることが出来ません。それは子どもでも大人でも同じです。そして、そのドアは必ず心の内側から外側へと開くのです。ノブが内側にしか付いていないし、またそのようにしか開かないように出来ているのです。そして嫌なものが来た時にはすぐ閉じることが出来るようになっています。だから、誰かがそのドアを開けようと押しても開きません。そして、昨日は“引いて開ける”と書きましたが、実は心のドアの外にはノブがついていないので無理矢理には開けることが出来ないのです。でも、周りが楽しそうなら自分で開けて外に出てきます。開けるように誘いかけることは出来るわけです。そして、そこが安心出来る場ならドアを閉じません。ですから、子どもはドアの外に出て色々な体験をして色々なことを学び、吸収することが出来ます。でも、ドアの外にあるのが辛いこと、悲しいことばかりなら子どもはドアをあけません。すると、外の人とのコミュニケーションがとれなくなります。そして、心を成長させることができなくなります。そして、そのまま大人になってしまった人がいっぱいいます。そういう人は、もうドアの外は安心な状態なのに外の世界に恐怖心があるのでドアを開こうとしません。それは人間に対する恐怖心です。そして、自分はドアから出ないのに子どもには“ドアを開けなさい”と命令します。そして、言うことを聞かないと無理にドアを押し開けようとします。すると余計にドアが固く閉じてしまいます。子どもは最初ドアを開けているのですが、お母さんが命令ばかりするので、ドアを閉じてしまうのです。お母さんは自分がドアを開けて外に出たことがないのでドアの開け方が分からないのです。そして、命令すれば開けるだろうと思いこんでいるのです。先に自分がドアの外に出て“ほら外の世界はこんなにも楽しいんだよ”とアメノウズメ(天の岩戸の前で踊った人)のように誘えば子どもも興味に引かれてドアをソーッと開けるのです。その時、“さあ、おいで。一緒に楽しもう”とタジカラノミコトのように、ドアを引いて開ける手助けをしてあげるのです。(この時、子どもを騙すともう二度とドアを開けなくなります。)でも、大人の場合はなかなかアメノウズメもタジカラノミコトも現れません。だから自分の意志でドアを開くしかないのです。じゃあ、どうするのかと言うことです。昨日は“そのために表現ワークが役に立ちますよ”ということを書いたのですが、身近にそういう場がある人は多くありません。それに、表現ワークにはかめおかさんのような“アメノウズメ”が必要なのです。一人では出来ないのです。他者が居るから表現が生まれるのです。また、子どもに“心のドアの開き方を学んでください”とも書きましたが、実はもう少し積極的に自分の心のドアを開ける方法もあるのです。それは、自分の中の他者と対話するのです。その“他者”とは、自分の感覚であり、無意識のことです。これらはドアの中に閉じこもっている心にとっては他者なんです。ドアを自由に開けることが出来る人にとっては感覚も無意識も“わたし”として感じることが出来ます。むしろ、感覚や無意識の中に自分を感じるのです。でも、ドアを開けることが出来ない人にとっては自分の感覚や無意識すらも自分に危害を加えるかも知れない他者になってしまっているのです。だから、そういう人は自分の感覚を遮断し、無意識からの声を無視しようとするのです。そして、頭で自分に命令してロボットのように動こうとするのです。だから、表情がなくなり、からだが緊張し、固くなるのです。ということで続きます。
2008.06.01
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