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昨日、たぬきさんから>「幸せの体験」とは、親子の触れ合いや、自然での体験でいいのでしょうか?というご質問があったので答えさせて頂きます。もちろん、そのようなことも大切です。でも、私が言うところの「幸せの体験」は、それとはちょっと異なります。「幸せの体験」とは「魂が喜ぶ体験」のことです。生活に不自由していなくて、毎日おいしいものを食べて、優しいお母さんとお父さんがいて、いつでも自然の中で遊んでいても、人の心はそれだけでは満たされないのです。人間とは不思議な生き物で、幼い時から「自分が生まれてきた意味」ということを考えます。子どもがよく「大きくなったら○○になりたい」と言うのもその現れです。「○○になりたい」という願いの中に、自分が生まれてきた意味を見いだそうとしているのです。この「意味」を見いだすことが出来ない人はどんなに経済的に恵まれていても、なんとなく心が満たされないのです。その逆に、自分が生まれてきた意味を知り、自分の役割を果たすことが出来ている人は貧しくても心は満たされています。もしかしたら、人間にとって「人生」とは「自分が生まれてきた意味を探す旅」なのかも知れません。子どもたちはそんな旅の出発点にいます。それは子ども自身も直感的に分かっています。だから、その先輩としての大人をよく観察しています。身近な大人を見習いながらその旅を始めるのです。その時、大人が自分の目標をしっかりと持って堂々と生きていると、子どもは安心し、幸せになります。ガイドがフラフラしていたら不安になりますよね。またそれと同時に、子どもたちは自分の人生をしっかりと生きていくために必要な「魂のアイテム」を求めます。それは愛・勇気・希望・仲間というようなものと、そのようなものを含む「ファンタジー」(ものがたり)です。子どもたちはファンタジーの世界の中でそのようなものと出会い、使い方を学び、身につけていきます。現代社会ではあまり大切にされていないものばかりですが、子どもの魂は本能的にこのようなものを求めているのです。そして、これらが満たされないと心が虚無になり自分の人生を生きる力が湧いてこないのです。そして、人に依存して生きるようになります。もうちょっと具体的にお話しします。大分以前にも書いたことですが、子どもは他の人に喜んでもらうのが大好きです。ですから、お母さんや他の人のために絵を描いたりプレゼントを作ったりしていると幸せになります。お母さんも一緒になって、お友達の顔を思い浮かべながらプレゼントづくりをしている時に子どもの魂は満たされ、心は幸せになります。こういう体験をしている子には「友だちと仲良くしなさい」と叱る必要はありません。子どもはお母さんやお父さんやお友達に喜んでもらうことで「愛」に目覚めます。お母さんが愛しているから子どもが「愛」に目覚めるのではありません。実は、子どもは100%お母さんを信頼していますが、それと同じようにお母さんが子どもを愛する以上に子どもはお母さんを愛しているのです。そのことに気付き、その子どもからの愛を素直に喜びと共に受け止めてあげていると、子どもは「愛」に目覚め、愛情が深い子どもに育つのです。そして、その時魂が喜びます。また、子どもが夢を語る時、それを肯定的に受け止め一緒に夢を共有してあげる時、子どもは「希望」に目覚めます。たとえそれが「アンパンマンになりたい」でも同じです。その時また魂が喜びます。また、子どもが勇気を出して何かに挑戦した時、その勇気を認め褒めてあげることで子どもは「勇気」に目覚めます。たとえその結果汚れたり、ケガをしたりしても、まずはその勇気を褒めてあげて下さい。そして、成功するためにはどうしたらいいのかを教えてあげて下さい。「ケガをするからヤメナサイ」ではなく、ケガをしないようにやるためにはどうしたらいいのかを教えてあげるのです。そうすると子どもは「勇気」に目覚めます。そして、魂が喜びます。また、お話をいっぱい語ってあげて下さい。子どもはお話の中で仲間と出会います。一人ではないことを知ります。現実の仲間も大切ですが、お話の中の仲間も人生を生きていく上では非常に大切なんです。一生一緒に生きていくことが出来るわけですから。ですから、お話をいっぱい聞いて育った子は寂しくないのです。ただし、子どもがお話の中で出会う仲間とは、人とは限りません。もっと根元的な「生命の働き」です。
2008.09.30
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先日、NHKテレビで「浮世絵」の特集をやっていました。なんとなく見ていたのですが、その美しさに改めて驚きました。とくに浮世絵を生み出した鈴木春信の絵はほとんど知らなかったのですが、その素晴らしさに驚きました。でも、これは私の癖なのですが、そのような時にいつも疑問を感じるのです。それは、「どうして200年以上も前の人の作品が私の心にも響くのか」ということです。音楽ではクラシックも好きで、インターネットラジオのクラッシック番組を流しっぱなしにしているのですが、クラシック音楽を聴いている時にも同じことを考えます。何百年も前の人が作った曲がどうして私の心にも響くのかそれが不思議だからです。また、そのような芸術だけではありません。文学でもまた同じです。千年以上も前に作られた万葉集の歌にも心を動かされます。また、以下はアメリカインディアンのシアトル酋長が部族会議で語った言葉です。ただし、このメッセージが本当のものであるかどうかは諸説があるようです。でも、私は、この言葉に心を動かされます。私は、その事実の方を大切にしたいと思います。シアトル酋長のメッセージ ネットワーク「地球村」代表 高木善之訳1854年のことである。スカミッシュ族の酋長は、部族会議でこう語った・・・・・・大統領から、我々の土地を買いたいとの申し入れがあった。 ありがたいことだ。 なぜなら大統領には我々の同意など本当は必要無いのだから。しかし我々には分からない。 土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いができるのだろう。 土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。この土地を流れる水は祖父の血であり、水のさざめきは祖父の声なのだ。 川は兄弟であり、我々の渇きを癒し、カヌーを運び、食べ物を与えてくれる。もしもこの土地を売ったとしても、 水の語る一つ一つが我が民の物語であることを記憶に留めなければいけない。 川は我々の兄弟であると共に、あなた方の兄弟なのだ。白人の土地には静かな場所がない。 若葉がそよぐ音も、虫の羽音も聞こえない。 生き物の声が聞こえない人生など、生きる価値があるのだろうか。我々にとって、空気はかけがえがない。 なぜなら生き物、木々、人間、すべてが同じ空気を分かち合っているからだ。 もしもこの土地があなたのものになったとしたら、このことを記憶に留めよ。無数のバッファローが面白半分に殺された。 全ての生き物を殺し去ったとき、人間が死ぬだろう。他にふりかかったことは自分にも降りかかる。 すべてはつながっているのだから。すべての生命は一つの織物である。 それを織ったのは人間ではない。 人間も一本の織り糸に過ぎない。 生命の織物に対してすることは、自分自身に対してすることなのだ。大統領は我々に「居留地に行け」という。 我々には、自分の残り少ない人生をどこで過ごそうがもはや問題ではない。 子ども達は、父親が殺され、母親が辱められるのを見てきた。まのなく、かつての栄光の者たちは地上から姿を消すことだろう。 そしてその民の死を痛む者たちもいなくなるだろう。 しかし、それを悲しむ必要があるだろうか。 人は誰でも生まれては死ぬのだから。白人さえ、この運命には逆らえぬ。 白人と我々は兄弟なのかもしれない。 白人にも分かるときが来るだろう。 我らの神と白人の神が同一だということを。土地の所有を望むように、白人は神さえも所有しているつもりかも知れないが、 それは不可能なこと。神はすべてのものの神。 そのいつくしみはすべてに等しく注がれている。大地を害すれば、必ずその者は滅びるだろう。 なぜならそれは神を侮辱することに他ならない。 大地を害すれば、白人もまた死に絶えるだろう。 もしかすると、他のあらゆる部族よりも先に・・・・・森はどこに行ってしまったのか? 消えてしまった。 鷹はどこに行ってしまったのか? 消えてしまった。生き物に別れを告げることは何を意味する? それは“真に生きる”ことの終わり、“死んでいない”ことの始まりなのだ。この申し入れに同意するとしたら、 それは最後のひと時を過ごす場所を手に入れるためなのだ。この地上から我々が消えても、この大地はわが民の魂を抱いていてくれるだろう。 なぜなら私たちが、この母なる大地を深く愛しているからだ。この土地を売ったとしても、この土地を我々が愛したように愛してほしい。 我々が手塩にかけたように愛して欲しい。 この土地を手に入れたときそのままに、その土地の思い出を心に刻んでほしい。力の限り、知恵の限り、情熱の限り、子ども達のためにこの土地を守ってほしい。 神が我々を守るように・・・・・。我々は知っている。 我々の神はあなた方の神と同一である。 白人といえども、この共通の運命から逃れることはできない。 我々は兄弟なのかもしれない。 いずれ分かるだろう。これらの言葉の中には真理を感じます。だから私たちの心を打つのではないかと思います。昔の人たちは「普遍的な美」や「普遍的な真理」を求めていたような気がします。私が子どもの頃にもそういう雰囲気はまだ社会の中に残っていました。ですから、様々な絵画や音楽、また他の芸術や学問の分野でもその「普遍的な価値観」が大切にされていたように思います。でも、現代人はその「普遍的なもの」への希求願望を失ってしまったようです。「絶対的な価値」には価値がなくなり、「相対的な価値」の方が価値がある社会になってきました。需要と供給で価値が決まる社会とは相対的な価値しか存在することが出来ない社会なのです。ですから、音楽も絵画も文章もただの消耗品になりました。それと共に、人間の普遍性、絶対性も失われ、人間すらも消耗品になりました。現代では「美しい」ものより「かわいい」ものがもてはやされています。昔、「きんさん ぎんさん」という100才を越えたおばあちゃん達がテレビに出ていましたが、そのおばあちゃん達にもみんな「かわいい」と言っていました。でも、100才を越えたお年寄りの「美しさ」について語った言葉は聞いたことがありません。ちなみに「かわいい」という感覚は相手を自分より下に見る感覚です。
2008.09.29
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現代社会が大切にしなくなったものに「真・善・美」があります。この三つの感覚は人間性の土台です。そして、有史以来人類が大切にしてきたものでもあります。芸術も、科学も、宗教も、また他の様々な文化もこれらを大切にする延長に発展してきました。でも、その人間性の土台がこの100年くらいで世界規模で消えてきてしまいました。それは世界中が競争原理によって支配されるようになってきたからです。競争原理が大切にされる社会では「真・善・美」には価値がないのです。そんなもの大切にしていたら競争に負けてしまいます。「いやそんなことない、現代人だって真善美は大切にしている」とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが、現代人の一般的な「真・善・美」は社会的な価値と結びついてしまっています。つまり、社会的な価値によって肯定されることによって「真・善・美」に価値が生まれているのです。少なくとも学校では社会的に肯定されている「真・善・美」しか教えません。つまり、現代の学校では「真・善・美」の社会的な価値を教えているだけで、「真・善・美」の感覚そのものを子どもに伝えようとはしていないのです。「真・善・美」は感覚によってしかとらえることが出来ません。ですから、本来感覚の中にしか存在できないものなのです。それはつまり、教科書や言葉などで教えることなど出来ないものだということです。また、比較することも出来ないし、もちろん、成績など付けるなどということはもってのほかのことです。学校で教えている「道徳」は社会的な規則であって人間の精神における「真・善・美」とは無関係です。でも、「真・善・美」の感覚を失った人は精神的に自立することが出来ません。言い換えると、精神的に自立している人はちゃんと自分なりの「真・善・美」の感覚を持っているものです。私の知っている範囲では唯一の例外が「シュタイナー教育」です。シュタイナー教育では真・善・美の感覚を育てることが子どもの人間性や知性や感情やからだを育てるために非常に重要なことであるということを知っています。真・善・美の感覚は心の成長だけでなく、からだの成長や健康とも関係しているというのです。だから、小学校の間は遊んでいるようにしか見えない授業をしているのです。では「真・善・美」はどこにあるのかというと、至る所にあります。道ばたの草花や木々、風や光といった自然の中にも、人の喜びや悲しみの中にも、子どもの笑顔や遊ぶ姿にも真・善・美を見いだすことが出来ます。以下は、宮沢賢治が書いた『注文の多い料理店』の【序】です。 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。大正十二年十二月二十日 宮沢 賢治 宮沢賢治には「真・善・美」が見えていました。そしてそれを「きれいなたべものやきもの」「すきとほつたほんたうのたべもの」と表現しているのです。最近、私はようやくこの感覚が分かってきました。道ばたの草木や、空に浮かぶ雲、肌に触れる風、子どもが遊んでいる姿、子どもの声など美しいものに触れるとなぜか“おいしい”という感覚があるのです。なんで“おいしい”のか分からないのですが、“おいしい”としか表現しようのない感覚なんです。そして嬉しくなるのです。私は、子どもの頃から自然の中で一人遊びをすることが多かったのであまり社会的な感覚や感性は育つことがありませんでしたが、賢治のように古代人に近い感性は育ったのかも知れません。ちなみにこれは私が特別だとか、優れているとかいうことではありませんからね。このような感覚は昔は多くの人に共有されていた普通のものだったのではないかと思うのです。むしろ、それを失ってしまった現代人の方が特別なのではないかと思うのです。今、人間は非常におかしな状態になってしまっているのです。それが「地球環境」の問題として現れているのです。
2008.09.28
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にっこりさんがこだわりじゃなくて、信念を持って生きればいいんだと、自分にずっと言い聞かせてきました。でも、自分が正しいと信じることばかりを主張するのは、押し付けですよね。。心の中で、「なぜ私をわかってくれない・・!!」と、しばしば嫌悪感でいっぱいでした。やっぱり自己中ワンパターンだったのだと・・・(とほほです。。。)と書いてくださったので、私は信念を持って生きるのは非常に大切です。でも、「信念」と「方法」は分けて考えた方がいいかも知れません。とご返事しました。多くの人が「信念」と「方法」を混同してしまっています。子どもに賢くなって欲しい、優しくなって欲しい、元気でいて欲しいと願うのはほとんどの親の願いですがでも、その結果が子どもを小さい時から勉強に追い立て、「優しくしなさい」と叱り、病気やケガをしないように快適に安全に子育てをすることになってしまっては子どもが成長した時に、その願いとは逆の結果となって現れてしまうでしょう。人間はどうも目先のことにとらわれてしまうのですが、それが「方法」への依存となってしまいます。よくお母さん達から「叱り方」「ほめ方」についての質問を受けます。「子どもは褒めて育てた方がいいのでしょうか、叱った方がいいのでしょうか」とか、「どうやって叱ったらいいのでしょうか」「どのように褒めたらいいのでしょうか」というようなことです。ですから、「褒める時には褒めて、叱る時には叱ればいいのですよ」と答えると、「じゃあ、どんな時に褒めて、どんな時に叱るのですか」と聞かれます。「どうやって叱ったらいいのか」「どうやって褒めたらいいのか」という場合も同じなんですが、このように質問してくるお母さんは「何のために叱るのか」「何のために褒めるのか」ということをあまり深く考えていないのでしょう。そう言うと「叱るのは悪いことを止めさせ、褒めるのは良いところを伸ばすためでしょ」とお答えになるでしょうね。では、どういうことが「悪いこと」で、どういうことが「良いこと」なんですか。また、子どもは叱って止めるとそれを悪いことだと知り、褒めてあげるとそれが良いことだと知ることが出来るのでしょうか。善悪というものは叱ったり、褒めたりして伝えることが出来るのでしょうか。それは、単に目先を整えているだけなのではありませんか。例えば、他の子をいじめている子を叱ると、その子は「いじめることは悪いことだ」と知り、他の子をいじめなくなるのでしょうか。でも、現実はそんなに簡単なことではないですよね。もしかしたら、その子は「次からは見つからないようにしよう」と思うだけかも知れません。“こういうことをすると叱られる”ということを知るのはただの知識です。そのことと、「こういうことをやってはいけないんだ」と反省することとは同じではありませんよね。正しい善悪の判断は自立した人間にしか出来ないことです。何かに依存した生活をしている人はその依存対象に有利なことが「善」であり、不利なことが「悪」になるばかりです。お母さんに依存している子はお母さんが叱ることが「悪」であり、お母さんが褒めることが「善」になります。でも、そのお母さんがいないと善悪を判断することが出来なくなります。これは政治家でも、会社でも、またお母さん達のグループでも同じです。これは本当の意味での善悪ではないですよね。でも、日本の社会ではこの「身内の中だけでしか通用しない善悪」が非常に蔓延しています。色々な食品偽装の問題もその現れです。食品偽装に怒っている人でも、叱ったり褒めたりすることだけで子どもに善悪を教えようとしている人は彼らの仲間を育てていることになります。私たちは「善はなぜ良いことなのか」、「悪いことはなぜ良くないのか」、「善悪はなぜ生まれたのか」というところから考え直した方がいいかも知れません。物事を上流に遡って考え直すのです。そうすると「方法」を自分で見つけることが出来るようになるのです。すると、子どもたちに「善」を伝えるためにはどうしたらいいのかが見えてきます。ちなみに、「善」が分かるようになれば「悪」は教えなくても分かるようになります。「善」に目覚めた子はどんなことが「悪」なのかということを教わらなくてもちゃんとやってはいけないことが分かるのです。だから、叱る必要などないのです。でも、叱られてばかりいる子はいつまで経っても「悪」も「善」も知ることは出来ません。光(善)が見えるようになるから闇(悪)も分かるのです。ズーッと闇の世界にいる子、つまり叱られてばかりいる子は光だけでなく、闇も分からないのです。その世界しか知らないのですから。最後に・・・子どもたちに「幸せの体験」をいっぱいさせてあげて下さい。それが子どもたちの心の中に「善なる心」を目覚めさせます。すると、叱る必要がなくなります。「叱り方」とか「ほめ方」などという「方法」は必要ないのです。「良いこと」と「悪いこと」を叱って教えても、「善なる心」が目覚めなければそれは知識に過ぎません。そして人間としての成長にとっては全く意味がないのです。一番大切なことは何なのか、そのことを考えてみてください。書いていて話が流れてきてしまいましたが、お許しを。
2008.09.27
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ワークの参加者の募集です。★都筑区で以前やった「表現ワーク」の二回目です。日時:9月29日(月曜日)10:00~12:00(15分前にお越しください。場所:「架け橋都筑」(電話045‐943‐4058)の一階、多目的ホール 。(車は都筑区役所におけます。)参加費:1600円今回は、イメージを使って動いたり、何かになってみたり、声を出したり、また言葉を手がかりに自分の感情に触れていくようなことをやります。」参加希望の方は、9月20日頃までに、星野さんまで連絡をお願いします。
2008.09.26
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ノアさんが「分かり合う」という事についてのコメントを入れてくださったので、今日はその事から書いていきます。どうも日本人には「誠意を尽くして話し合えば分かり合える」という信仰があるようです。これは「精神一到何事か成らざらん」という言葉とも共通する考え方です。また、23日に寅さんがブログで書いていた以下の日本軍の考え方とも通じています。昭和16年7月参謀本部の辻政信のお言葉です。「日本軍人たる者が必勝の信念を失って任務の達成ができると思うか…戦争というものは、勝ち目があるからやる、ないからやめるというばかりではない…勝利を信じて開戦を決断するのだ…日本軍が必勝の信念を抱いて作戦すれば、必ずや勝利は我が手に帰する…勝算の有無を問題にする前に、まず必勝の信念を抱け…それが武人たるものの心がけだ…ただいえることは、勝利はこれを信じるものが勝つ」どうも日本人は「相手や状況に合わせる」という考え方が苦手なようです。子育てでも「子どもというものは厳しく育てればいいのだ」とか「褒めて育てればいいのだ」というように方法を固定して、それを信念として頑張っている人がいっぱいます。それは「抱っこ法」でも「シュタイナー教育」でも同じです。何でもかんでもすぐに「信念」にしてしまうのです。そして、その信念が持てないと「自信がない」といいます。そして、その信念で失敗してしまうと今度は「なんだっていいんだよ」「あれはだめだ」と正反対に方向転換してしまうのです。「自由に育てたい」と放任育児をしていた人が、子どもが思い通りに育っていないのを見て今度は管理育児に切り替えるようなものです。何でもいいことなんかないのです。それはただのデタラメです。でも、だからといって形が決まった正解もありません。そもそも自由に変化する相手に対して固定された形で対応しようとすること自体が間違っているのです。だから、戦争でも政治でも日本は独自的な戦略を取れないのです。いつでも自分の論理だけで動いて、その思考パターン、行動パターンが固定してしまっているので手玉に取りやすいのです。昔から日本人は組織の中に組み込まれた生活をしていました。自分で役割を選ぶことは出来なくて、役割は与えられるものでした。そのような生活で求められることはただ言われた通りに働いて役割を果たすことだけです。そして、何か困難に出会った時でも、思考と行動の自由がないのですから精神論で乗り越えるしかなかったのでしょう。中国で生まれた孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、日本人はこのように合理的に考えることが苦手なんです。いつでも自分の都合を優先した「ワンパターン」なんです。そして、相手の都合を考えたり、その都合に合わせようとすると「屈辱的」だとか、「信念がない」とか、「軟弱」だとか言われます。どんな状況になっても自分が決めたことは変えないのが日本人の美学なんです。そして、それで失敗すると簡単にひっくり返ってしまいます。昨日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人が、あっというまに「平和主義者」に変身するのです。ただ、方法は固定しない方がいいのですが、理念は変えない方がいいです。「何のために」ということです。平和のために、子どものために、という理念です。方法を固定してしまうと押しつけになります。すると「平和のために」という目的を遂行するために戦争することになってしまいます。「理念」を遂行するためならその方法は自由自在でいいのです。でも、問題は「方法」は持っていても、そのしっかりとした「理念」を持っていない人が多いのです。
2008.09.26
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昨日かめおかさんから「森の声」さんの文章のなかで、「演技」と使っているのは、「表面だけ、形をつくる」という意味ではないかと思います。演劇をやっている立場からすると、「演技」とは、まさにその役のなかに入っていく行為です。というコメントを頂きました。演劇は最初から嘘の世界です。その嘘の中で演技によって「ほんと」を創るのが演劇の世界なのではないかと思います。でも、日常生活は最初から「ほんと」の世界です。ですから、その世界で演技をするということは「うそ」を創ることにつながるのでしょう。つまり、「うそ」と「ほんと」の世界を変換する働きが「演技」ということなのではないかと思います。そして、この「演技」は人間にしかできません。なぜなら、「うそ」の中に「ほんと」を見、「ほんと」の中に「うそ」を見ることができる能力がないと演技は出来ないからです。これはつまり意識の働きによって「見えないものを見る能力」です。そして、「うそ」と「ほんと」の間の境界がまだしっかりとしていない子どもたちはこの「演技」が苦手です。子どもは世界がまだ「うそ」と「ほんと」の二つに分断される前のたった一つの世界に生きているのです。だから、子どもたちはこの「うそ」と「ほんと」の世界を演技なしに自由に行き来しています。大人は、そういう状態の子ども達を見ていて「子どもは嘘つきだ」と言います。そして、子どもが「うそ」の世界に入っていると「嘘をつくんじゃありません」と叱ります。でも、子どもは何を叱られているのか分かりません。子どもはいつでもありのままに生きているだけです。「うそ」と「ほんと」だけではありません。子どもには「見えるもの」と「見えないもの」の間の境界も曖昧です。「聞こえるもの」と「聞こえないもの」に関しても同じです。「善」と「悪」、「生きているもの」と「死んでいるもの」の間も同じです。子どもたちにとっては全てがたった一つの「ほんと」の世界なのです。だから、よく役者さんが「子どもの演技にはかなわない」といいますが、子どもは演技していないからリアルなのです。よく子どもが虫を殺して遊んでいると「残酷なことをしてはいけません」と叱りますが、子どもにはその「残酷」という言葉の意味が分かりません。その境界は、意識の目覚めと共に5才、7才、9才、という年齢を境にして次第にしっかりとしたものになっていきます。最終的には思春期頃にその境界はほぼ完成するのですが、その境界を形成するために必要になるのが豊富な現実体験です。現実世界との多様な関わりが、現実と空想のちがい、そして現実と空想の関係を教えてくれるのです。そこではじめて意識して上手に「うそ」を付くことが出来るようになるわけです。演技も出来るようになります。ただし、誰でもがその年齢になればきちんとした境界を創ることが出来るわけではありません。充分な現実体験を得られなかったり、体験が偏っていたりするとその境界も弱くなったり、ゆがんだりしてしまいます。また、アルコールや麻薬にはその境界を壊す働きがあります。恐怖や孤独やストレスや過労も同じです。ですから、強い孤独の中で生活していると現実と空想の境目が消えていきます。すると、現実感が消えて困った事件につながってしまうこともあります。*******************************以下は教室の生徒の募集です。「ネネムの森 造形教室」幼稚園年中から小学生までの造形教室です。一人一人自分で課題を見つけて自分のペースで作っていきます。1ヶ月以上掛けて作る子もいます。茅ヶ崎の円蔵の自宅で毎日やっています。内容は工作が中心ですが、絵画、陶芸もできます。ただし、基本的に自分がやりたいことをやる場なので、強制はしません。時々、「絵が下手なので上手にしてください」と子どもを連れてこられるお母さんがいますが、そういう要求には対応していません。チラシはここです。「ネネムの森 どんぐりクラス」幼稚園児のみを対象とした造形教室です。ここではテーマを決めてみんなで同じことをします。作るということに慣れていない子はみんなと一緒に作ることで作る楽しさを体験していきます。チラシはここです。「土曜アトリエ」これは第二、四土曜日のみ行っているクラスです。会場も自宅ではなく茅ヶ崎駅周辺の公共施設を使っています。テーマを決めて色々と作っています。現在、小学生しかいないのでテーマも小学生に合わせています。それで小学生のみの募集になります。チラシはここです。「表現遊びクラス」7月に体験会をやり、9月から始まったばかりのクラスです。体験会には多くの方においで頂いたのですが、東京や横浜や横須賀といった遠方の方も多く、結局は来るまでに時間がかかりすぎると辞退された方がいました。それで、若干名の追加募集になります。4才から小学2年生までの子どもとそのお母さんやお父さんが対象です。大人も子どもも一緒に表現遊びを楽しみます。(お父さんもいます)チラシはここです。<最後に> 猫が来ました。 先週の土曜日に、相模川の河原で親子遊びの会をやっていたのですが、子どもたちが“何か声がする”と探したら、生まれたばかりのような小さな小さな子猫が歩いていました。 前日の雨で増水した相模川の川岸から2m程度のところで、周りは砂利ばかりの河原です。「え! どうしてこんな所に子猫が」と抱き上げてみんなで可愛がっていたら、一人のお母さんが目配せで何かを知らせていました。その方向を見たら、少し離れたところにこの子の兄弟達がレジ袋の中で濡れ鼠(濡れ猫?)になって死んでいました。この子一匹だけが生き残ったようです。その場で猫を飼える人を聞いたのですが、みんな「無理」ということで私が連れてきました。今までもうちの子どもたちがよく捨て猫を拾ってきたのですが、みんな長生きできずに死んでしまったので、この子も無理かなと思ったのですが、さすが一匹生き残ったたくましい猫だけに、その後も元気におっぱいを飲んでみゃーみゃーないて元気そのものです。動物病院にも連れて行ってチェックをしてもらいましたが異常なしとのことでした。先生の話だと生後3週間程度だそうです。でも、面白いことにこの子が来たら前からうちにいる猫がその部屋に入れなくなってしまったのです。警戒しているようです。4日程たって大分慣れてきましたが、まだ警戒しています。早く仲良く遊んでくれるようになることを願っているのですが猫では無理かな。ちなみに前からいる猫は雄で新しい子猫は雌です。ただ、二匹飼うのは色々と面倒なので可能ならどなたかにもらって頂きたいと思っています。もう少し大きくなるまで世話をして、不妊手術をしてお渡しします。どなたかご希望の方はいらっしゃいませんか。かわいいですよ。
2008.09.25
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友人のかめおかゆみこさんは「声美人」と言われているそうです。彼女は声で語りかける通信も出しているのですが、確かに声を聞いていると「素敵な人だな」ということを感じることが出来ます。(誤解しないでくださいね、「声だけ美人」と言っているわけではありませんからね。実物はどうなのかは会ってお確かめ下さい。)彼女は自分の感情を声に載せることができます。言葉と声を一致させることが出来ます。しかもそれを意識的にやることができます。まあ、演劇をやっているわけですからある意味で当然なのかも知れませんが、でも普通の人にはなかなか出来ません。現実の生活の場では誰でも自分の感情に従って声を出しています。元気な時には生き生きとして張った声になります。嬉しい時には弾むような声になります。悲しい時には沈んだ声になり。退屈な時には単調な声になります。無意識にそういう声になってしまうのです。でも、絵本を読んだり、物語を読んだりすると突然「棒読み」になります。それは書かれている内容が自分のこととは無関係の内容だからです。すると、お話を声を通して伝えることが出来なくなります。するとお話にリアリティーがなくなります。聞いている子がお話の世界に浸ることが出来なくなります。その逆に、声を作って演技する人もいます。怖い場面では怖そうな声を出し、嬉しい場面では嬉しそうな声を出すというようにです。でも、それは不自然です。確かに棒読みよりは楽しめるかも知れませんが、でも、それはその演技している人の芸を楽しんでいるだけでお話を楽しんでいるわけではありません。無理に声を演技してしまうと、子どもはお話の世界に入ることが出来なくなってしまうのです。ある男の人が、めいっぱい演技して絵本を読んだそうです。そのお話を聞いた子どもの感想は“面白いおじちゃんだった”だそうです。そういうことです。じゃあ、どうしたらいいのかということですよね。普通の人は棒読みに読むか、お話の状況に合わせて演技で声を出すか、そのくらいしか思いつきませんよね。ちなみにお母さんが子どもに本音ではないことを言う時にも声の演技をしています。でも、子どもはすぐにその演技に気付きます。そのことに気付く簡単なワークがあります。まず、参加者に「私の手の中に丸い玉があります」と言ってもらいます。この時点ではほとんどみんな棒読みです。今度は両手で実際に玉を持っているような仕草をしてもらいながら言ってもらいます。すると、かなり実感が出てきます。でも、この時点でも棒読みの人はいっぱいいます。それで、次に本物の玉を持ってもらってよく手の中で感じてもらいます。「丸い玉を持っているとどんな感じがしますか」と聞くこともあります。すると、「すべすべしている」とか「気持ちがいい」とか色々な感想が出てきます。それで次に、「その感覚をしっかりと覚えてください、今度はその感覚を味わいながら同じことを言ってください」と指示します。言葉を言う時には玉は脇に置きます。すると、実際は玉は手の中にないのににはちゃんと玉が手の中にある声になっているのです。この時演技は出来ません。人は何かを感じている時には演技できないのです。逆に言うと演技している時には感じていないのです。演技している時には演技している自分のことばかり考えているのです。人が実際に感じながら話す時、大げさな表現などしなくてもちゃんと気持ちは伝わるのです。感覚から出た声が相手の感覚に響くからです。お母さんが“優しくしなさい”と言っても、その声に子どもが優しさを感じなければその言葉は子どもに届きません。“あなたのためよ”と言っても、実際に子どものことを大切に思っている気持ちから出た声でなければ子どもは簡単にその嘘を見抜きます。そして悲しくなります。これでかめおかさんの「声美人」の正体が分かってきましたよね。かめおかさんは相手の気持ちを感じ、自分の心を感じ、そこから自然に出てきた声に言葉を載せているのです。だから聴いている人は実際に自分に話しかけられているように感じるのです。これはしつけなどの場合でも同じです。自分自身の心とからだから素直に出た声と言葉で、子どもの心とからだに届く声で語りかけないことには何回言っても、どんなに叱っても何も伝わらないのです。そしてそういうことが出来るようになるためにはお母さんが自分の心やからだとしっかりと向き合う必要があるのです。
2008.09.24
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日本語には感覚的にニュアンスが異なるけど、何か似ている言葉がいくつかあります。「きく」という言葉には「聞く」「聴く」「効く」「利く」「訊く」という漢字が充てられます。それぞれ使い方、使う場面が違いますが、でもそれぞれの言葉の源流は一つのような気がします。もともと日本には文字も漢字も存在していなかったのですから、漢字が入ってくる前にはこれらの言葉の間に違いはなかったのではないでしょうか。古代の人は「きく」という音で表される根元的な働きを感じていたのだと思います。また、「みる」にも「見る」「観る」「看る」「視る」「診る」などの漢字が充てられます。これらの言葉も古代の人は区別しないでみんな「みる」で済ませていたのでしょう。これらの言葉を見ていると、古代の人たちの言葉とからだに対する鋭い感覚に驚きます。これは私の推測ですが、古代の人達は「きく」という言葉に「響くという現象を通して何かに働きかける力」を感じていたのではないでしょうか。そう考えると「聞く」「聴く」「効く」「利く」「訊く」という四つの別々の漢字の意味が一つにつながるのです。夏の暑い時にググッとビールを飲んで「きくー!」と言うことがありますが、それも自分の深いところに働きかけてくる何かを感じたということなのでしょう。日本人はあまり分析的に考えずに、感覚的に言葉を使っていたのではないかと思われます。ですから、日本語は非常に素直に感覚とつながっているのです。だから分かりにくいのですが、だから微妙なニュアンスを伝えることが出来るのです。ところが漢字を作った中国の人たちは非常に分析的に物事を考えたようです。日本人は同じ感覚に響くものには同じ音を充ててしまったのに対して、中国の人は意味によって違う字と音を割り当てたのです。これは全く私の推測ですが、日本人は感覚によって言葉を作り、中国の人たちは意味によって言葉を作ったのではないでしょうか。(ちなみに英語は音で言葉を作ったのではないでしょうか。)それは一つ一つの漢字が一つ一つの意味に対応していることからもうかがい知ることが出来ます。漢字は意味を表しているのです。そのように考えて改めて「聞く」「聴く」「効く」「利く」「訊く」という漢字を見てみるとその意味の違いが見えてきます。つまり、同じ「働きかける」なんですがそれぞれその相手と状況が違うのです。「聞く」は普通に「耳で聞く」ことだろうと思います。そして、反応が予想されています。子どもを叱っているお母さんが“ちゃんと聞いているの!”と言いますが、それは反応がないからでしょう。「言うことを聞かせる」という時もただ聞くだけでなく、聞いたことをちゃんと行動することまで求めています。「聞く」ことは理解や行動とつながっている言葉なのだろうと思います。それに対して、「聴く」は音楽を聴く時のように「心に働きかける」時に使うのでしょう。ですから耳では聞こえない音を心で「きく」時にも「聴く」を使うのでしょう。そして「効く」は状態が変化するように働きかけることで、「利く」は思い通りに操作することが出来ることで、「訊く」は答えを求めて働きかけることなんでしょう。このように見ていくと、全部「働きかける」というイメージでつながってしまうのです。「みる」という言葉は「知る」ということとつながっている言葉だと思います。外見を知るために見る時には「見る」、目では見ることが出来ないつながりを知るためにみる時には「観る」、相手に付きそう気持ちでみることが「看る」、注意して知ろうとする時「視る」、相手の心や体の状態を知るためにみるのが「診る」なのでしょう。目で見る時、意識でみる時、心でみる時、感覚でみる時、また、どういう気持ちや状態で見るのかということで使われる漢字が違うのです。でも、そのいずれにも「知る」という働きが流れていると思います。「味見」という言葉は味について知るという目的がありますよね。ただしこれらは素人考えですから学術的な根拠はありません。でも、子育てや教育の場では、ここに書いたような「みる」「きく」の全ての働きが必要なことは間違いないと思うのです。耳だけで聞いて、目だけで見て子育てをしてはいませんか。************************ちょっと追加です。古武道をやっている友人がお母さん達にも読んで欲しいことをブログに書いたと、連絡してきました。彼は難病を抱えており、本来なら普通の生活すら出来ない状態なのに古武道の鍛錬に励み生き生きと生きています。ですから、彼の言葉には体験から出た真実があります。ここにおいでになったついでに友人のブログも覗いてみてください。また、以下は1月にやる「セルフケアワーク」のために書いた文章です。子育て関係のある会に頼まれたワークですが、私もこんなことを(こんなことも?)やっています、というお知らせです。グループを作ってお呼び下されば行きますよ。からだほぐしは心ほぐしです。心がほぐれると心にゆとりが生まれます。心にゆとりが生まれると笑顔と安心が生まれます。そうすると、子どもと一緒の時間を楽しむことが出来るようになります。私の「セルフケア」のワークではからだが心とつながっていることを想い出しからだをケアすることが心をケアすることにつながるということをお話しし、体験してもらいます。今回ケアする部分は主に胸と腰と背中、つまり「胴体」です。その胴体に意識を向け、呼吸に合わせてゆっくりと普段やらないような動きをやってもらいます。その時自分のからだと対話が出来ない人は、自分の感情とも対話が出来ない人です。逆に言えば、からだとの対話を学ぶことで自分の感情との対話を学ぶことが出来るということです。私のワークは「からだとの対話」が主な主題です。単なるフィジカルエクササイズではありません。一回だけのワークではそれほど深くは入れませんがそういうことに気付くきっかけにはなると思います。是非ご参加下さい。
2008.09.23
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昨日、かえるさんのコメントに対して声に意識を向けることは自分の心に意識を向けることにつながるのですとお答えしました。現代社会は情報社会だと言われます。それで様々な情報が「文字」という形でテレビやネットや本などで流れています。こんなにも文字が氾濫したのは有史以来初めてのことでしょう。ちょっと前までは文字は一部の人にしか読み書きできない道具だったのですから。それでも、つい最近まで文字は情報を伝えるためのものであって「会話」のためのものではありませんでした。人類は何千年と文字を使ってきましたが会話にまで文字を使うようになったのはここ10年以内のことなのではないでしょうか。それと同時に私たちは声の必要性、声の可能性、声の豊かさを忘れ、声の楽しさ、声の技術、声でしか伝えることが出来ない世界を失いつつあります。それはまた同時に人々が自分や他者と向き合うことが出来なくなってきたという事ともつながっています。文字を書く時には相手は存在していません。メールであれば送信する時に相手が限定されるのです。また、文字はやり直しも消去もできます。そして発信元を示さなければ文字は匿名です。でも、声は声を発した時点で誰が、誰に向けて語っているのかがはっきりしてしまいます。匿名の電話で相手が名前を名乗らなくても、声を録音しておけばその人物を特定することは可能なんです。メールで届いた文字ではそんなことは出来ません。また、声を聞いたとたんに相手に対する感情を感じることが出来てしまいます。「どうしたの?」、「げんき?」などというような簡単な言葉でさえ、声に出して言うと相手に対しての気持ちまで表現されてしまうのです。メールの場合は本当に心配して書いた「どうしたの?」と、ただの挨拶程度の「どうしたの?」に区別はありません。その言葉をどのように受け取るのかはその文字を読む人次第です。だからメールなどでは誤解されないように絵文字を添えるわけです。文字で送ることが出来るのは「説明」だけです。「愛しています」とメールで送ってもそれは自分の感情を伝えているのではなく、自分の感情を説明しているだけです。また、メールは簡単にうそが付けますからその「愛しています」にリアリティーを感じるためにはそれだけの背景が必要になります。つまり、色々な情報を元にして何らかの解釈をしないことにはその「愛しています」の意味を正しく理解することができないのです。でも、実際に会って声で「愛しています」と伝える時には、どれほど愛しているのかという感情をそのまま相手に伝えることができます。とにかく嘘ではないと言うことだけは声で伝えることが出来るわけです。メールでは「愛しています」と書く時にはそれほど勇気は必要ありません。送信ボタンを押す時にちょっと勇気が必要になるだけです。でも、実際に会って自分の言葉で「愛しています」と伝える時には、その相手の前に立つだけで勇気が必要です。そして、一つ一つの言葉も心の中から絞り出さないと出てきません。そこでは自分の存在の全てがさらけ出されてしまうのです。ヘラヘラ笑いながら「愛しています」と言っても拒否されるばかりです。声で伝える時には、またその声を受け取る人も自分の存在の全てでその声を受け取ります。ですから、声を受け取る時の様子を見ていると相手に対する感情まで見えてしまうのです。一生懸命に話しかけているのに、目を見ようとしない人はその話しかけている人にあまりいい感情を持っていません。でも、文字でのコミュニケーションに慣れてしまった現代人にはこの「声」の持つ特性自体がウザッタイようです。本気や本音で語るということ、自分の感情をさらけ出すことに抵抗を感じる人が増えてきたのです。それはまた、地域共同体が崩壊して人と人との繋がりが希薄になったり、また群れ遊びの体験を失い、生身の人間同士でのコミュニケーションが苦手な人が増えてきたこととも関係していると思います。文字の世界では人間関係ですらゲーム感覚で遊ぶことが出来ます。でも、声の世界では人は本気で生きなければなりません。そして、人々は声を避けて文字の世界で軽い人間関係を作って、軽く生きていきたいと願い始めています。ちなみに、バーチャルな仮想空間も文字の世界と同じ特性を持っています。結局はデジタルなデータの集合に過ぎないのです。でも、文字の世界は子どもには通用しません。子どもたちは声の世界の住人だからです。ネット掲示板やメールなどでのモラルやルールを子どもたちに伝えようとする活動も盛んですが、でも、子どもたちは大人以上に文字にリアリティーを感じることができません。子どもにとって文字はおもちゃと同じなんです。「モラル」という人間的なものと「おもちゃとしての文字」を子どもはつなげることが出来ないのです。子どもたちに伝えなければならないのは「言葉のモラル」です。そしてそれは生の声での体験を通してしか伝えることが出来ないのです。生の声でないと子どもの感覚と感情とからだに響かないからです。繰り返しますが、子どもたちは古代人と同じように声の世界の住人なのです。ですから、お母さんが声の世界に目覚め、声の世界を受け入れないと子どもとの心の交流ができません。それではしつけも教育も出来ないし、子どもとの間に信頼関係を育てることも出来ないでしょう。また、文字が読める子にもお話を聞かせてあげたり、絵本を読んであげて欲しいのです。文字が伝える世界と、声が伝える世界とでは同じ話でも子どもの心とからだへの働きかけ方が全然違うのですから。
2008.09.22
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人間には視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚などの五感があると言われています。でも、これは他の動物でも同じです。でも、人間は他の動物たちが見ることが出来ないものを見、聞くことが出来ない音を聴き、触れることが出来ないものに触れ、味わうことが出来ない味を味わい、かぐことが出来ない匂いをかぐことが出来ます。それは、一過的に通り過ぎてしまう感覚からの刺激を心と意識の中にとどめてそれらの刺激を自在に分析することが出来るからです。つまり心と意識の働きが五感の働きの感受性を高めているのです。ですから、見ようとしなければ見えないものがあります、聴こうとしなければ聞こえない音があります。触覚も、嗅覚も、味覚も同じです。つまり、人は心や意識の状態によって同じものを見ても同じものを見ているとは限らないし、同じ音を聞いても同じ音を聞いているとは限らないと言うことです。そのような違いは大人と子どもの間にもあります。大人には見えても子どもには見えないもの、大人には聞こえても子どもには聞こえない音もあるのです。もちろんその逆もあります。子どもたちには見えているのに、大人には見えないものもあります。子どもたちには聞こえていても大人には聞こえない音もあります。このような違いは文明の中で暮らしている人と、自然の中で暮らしている人たちの間にも存在しています。ですから、自分とは異なった心と意識の状態の相手と対話する時にはそのことをよく知っておく必要があります。そうでないと対話によって理解し合えるのではなく、むしろその逆に誤解と反感ばかりが増えてしまいます。私たちは、“話し合えば分かり合える”と思いこんでいます。“心から説明すれば分かってもらえる”と思いこんでいます。確かに、それが単なる誤解やお互いの無知から生じているものなら話し合えば理解し合うことも可能でしょう。でも、その違いが心と意識の状態の違いから出ているのなら話し合っても分かり合うことはありません。それでも、大人が子どもに対して、文明人が未開の生活をしている人たちに対して無理矢理説得しようとするのは権力を持つ者の傲慢に過ぎません。分かり合えない相手は、分からなくていいのです。ただ、お互いに大切にしていることをお互いに大切にするのです。するとお互いに受け入れられたと感じるのです。理解できなくても受け入れることは出来るのです。ただ、その大切なものが対立する時には、より権力が強い方が譲歩する必要はあります。そうでないと弱い立場の者達は存在することが出来なくなってしまいます。すると世界から多様性が失われます。すると、権力が強いもの同士が分裂し戦いを引き起こし全滅します。生命が生き生きと生きるためには多様な世界が必要なのですが、その“多様”とは単に種類がいっぱいあると言うことではありません。そうではなく、自分の存在に不都合な存在の存在も許されているということが本当の意味での“多様である”ということなんです。人間の存在にとって不都合なもの達の存在も人間は受け入れる必要があるのです。そうでないと多様性が消滅して、結局は人類も滅亡します。家族の中でも同じです。大人にとって不都合な子どもという存在もありのままに受け入れるのです。それは子どもが大切にしていることを大人も大切にしてあげるということです。夫婦の間でも同じです。これを否定してしまったら家族は崩壊します。今日は話があちこち飛んでしまいました。お許しを。
2008.09.21
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人間の“聴く力”とはすごいものです。私の母親は今幻聴がすごいのですが、存在していない音を聞くことが出来ると言うことはそれはそれですごいことです。そして、母親の場合は聞こえる音から様々なイメージが沸き上がってくるようです。毎晩二階で宴会を開いている奴がいるとか、廊下でたき火をしている奴がいるとかです。でも、実際に見ようとしても見えないようで、“隠れるのが上手だ”と言っています。ですから、まだ科学的な知識を持っていなかった昔の人が森の中で聞こえてくる音に様々なイメージを沸き上がらせのも自然なことです。「あずきあらい」などの妖怪などもそのようにして生まれてきたのでしょう。でも、人間はそれとは逆にイメージすることでその音を聞くことも出来ます。雲の動きを見ながらその音を聞こうとすると雲の音を聞くことができます。お母さんが話しているところをイメージしているとちゃんと声が聞こえてきます。オノマトペという擬態語も、動きのイメージが音に変換されたものでしょう。葉っぱが落ちる落ちる姿を見て、その音を聞こうとするとちゃんと“ヒラヒラ”という音が聞こえてくるのです。またそれとは逆に、周囲がうるさくて落ち着かない時に森をイメージすることで周囲の音が消えてしまうこともあります。このように、人間にとって“聴く”ということは心の働きと密接につながっているのです。さらには、それは感覚ともつながっています。モゾモゾ動くものを見て、心の中で“モゾモゾ”と音を聞いてしまうと、からだの感覚でも“モゾモゾ”を感じてしまうのです。黒板をひっかく音を聞いて不快な感じがするのは音が感覚に働きかけているからです。また、お母さんの声や恋人の声を聞いていい気持ちになるのも声が感覚に働きかけるからです。また、イメージをしながら語られた言葉は聴く人の心にイメージを沸き起こらせます。大きな木をイメージしながら“大きな木”と語られると、聞き手の心の中に“大きな木”が生まれるのです。それはただ棒読みをした時には起きない現象です。“大きな象がいました”と大きな声と、大きな身振りで語っても“大きな象”は見えませんが、心の中にしっかりと大きな象をイメージしながら“大きな象がいました”と語ると、それがたとえ小さな声でも聞き手の心の中に象が見えてくるのです。人間は声を通して、相手の心を感じることが出来るのです。また、声を通して自分の気持ちを伝えることも出来ます。何を言ったかということだけではありません、声そのものも心のメッセージを伝えるのです。ですから、子どもはお母さんの声を通してお母さんの心の声を聞いているのです。だから、子どもに嘘は通じないのです。<続きます>
2008.09.20
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今日二回目ですが、これはワークのお知らせです。日にちが間近で、先日来からお知らせしているワークですが、まだ空きがあるのでお知らせします。また、これらのことと同時に子どもの心の世界に事についてもお話しします。子どもの心の世界のことを知らないと子どもと遊ぶことが出来ないからです。「7才までの子どもとの遊び方あれこれ」(ワークショップ+講義)子どもとの遊びには色々ありますが今回は、家の中での遊び、生活の中での遊び、自然の中での遊び、町の中での遊びなどをご紹介します。難しいことはありません。ちょっとした発想の転換だけで家の中も、町も、森も遊び場に変わってしまうのです。そんな発想の転換を皆さんにお伝えします。 具体的には歌や言葉で遊ぶ、イメージで遊ぶ、家の中を遊び場として遊ぶ、生活の中で遊びを工夫する、お散歩やお買い物を遊びに変える、何もない公園での遊び方等々です。これらの遊びは親と子のコミュニケーションを育ててくれるばかりでなく、子どもの想像力+創造力も育ててくれます。また、子どもの心を理解したり、子どもとの信頼関係づくりの手助けにもなるでしょう。 ただし、今回は「からだ遊び」や「造形遊び」、「わらべうた」などその場で直接子どもと遊ぶ遊びはやらないので、お子さんの同伴はできません。 一応保育を用意しましたが、可能ならご主人に任せてご参加下さい。ご主人にとっても貴重な時間になると思います。(寝たきりの赤ちゃんなら同伴可です。) ご家庭に帰ってから、じっくりとお子さんと遊んであげてください。<日 時> 9月21日(日曜日)10:00~11:50 <場 所> 茅ヶ崎市勤労市民会館4F 練習室<参加費> 1500円 保育が必要な人は別途300円(一人)必要になります。<備 考> 動きやすい服装でおいで下さい。スカートは不可です。参加希望者はメールか、0467-54-6356 宛てにFax.をお願いします。
2008.09.19
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先日のかめおかさんのワークでは色々な条件の中で“聴く”ということをやりました。その中に“聴こうとしない相手に話しかける”というのがありました。でも、私がパートナーを組んだ人がいい人で、“聴かないでください”という指示なのに、ちゃんと聴いてくれちゃうのです。顔はよそを向いてからだも他の方に向いているのですが、よく観察しながら話しかけていると、私の言葉にちゃんと反応してくれているのが見えてしまうのです。だから、その反応を手がかりにこちらも話をすることができました。私たちが話をする相手は“石の地蔵さん”ではなく、“生きた人間”です。だからこそ言葉が通じるのですが、時として相手が“石の地蔵さん”のようになってしまっている場合があります。それは相手がテレビやゲームなどに夢中になっている時です。人は何かに夢中になっている時には“聞く耳”がなくなってしまうのです。また、その逆に話し手が相手を“石の地蔵さん”に変えてしまうこともあります。それは、相手の関心がないことを言ったり、相手に理解できないことを言ったり、相手が聞きたくないことを言ったりする時です。人間が何かを聴く時には“耳”と“心”の両方が協調して働く必要があります。耳だけが働いていても心が働いていなければ言葉は心の中に入っていかないからです。心の中に入っていかない言葉はただの“音”に過ぎません。だから、相手に話しかける時には“耳”にではなく、“心”に話しかける必要があるのです。その心で聴く時に働くのがいわゆる“聞く耳”というものです。ですから、“聞く耳を持たない”と言うことは、“聴く心を持たない”ということでもあります。当たり前ですが、“耳”がなくなってしまうわけではありません。でも、どうも見ていると子どもの“心”ではなく、“耳”にだけ話しかけているお母さんがいっぱいいるのです。そんな時、“ちゃんと聞いているの?”と確認すれば子どもは“聞いているよ”と答えるかも知れません。それは嘘ではありません。確かに耳では聞いているのです。だから復唱させれば復唱することが出来ます。でも、それでも子どもはそのお母さんの言葉を無視したような行動や態度を取ります。それでお母さんは自分が無視されたように感じ、怒ります。そして、“何回言ったら分かるの!”と怒鳴ります。でも、何回言っても、相手の耳にしか話しかけていなければ子どもの心には届かないのです。それは子どもの責任ではなく、お母さんの責任です。英語しか理解できない人に日本語で話しかけて、“何で分からないの”と怒ることがナンセンスなのと同じです。それは、相手に通じる言葉で話しかけない方の責任なんです。言葉は相手の心の中まで届かないことには相手に影響を与えることができません。そのためには子どもの心を感じながら、その心の中の“聞く耳”に話しかける必要があるのです。大人になると、意識の働きによって自分に必要な言葉には自分の意志で耳を傾けることが出来ます。それが“自我”の働きです。でも、その自我の働きが未熟な子どもの場合は話し手の方が子どもの心に届くように話しかけないことには言葉は子どもの心には届かないのです。子どもに“もっとちゃんと聞くように”求めても無駄なんです。“石の地蔵さん状態”の子どもに一生懸命に話しかけ、説得し、また叱りつけているお母さんがいっぱいいますが、無駄なことはやめましょうね。そういうことを続けていると、子どもは人の言葉に耳を傾ける能力を育てることが出来なくなってしまいます。<続きます>**************************以下は、しゅんさんのご質問への返事です。森の声さんが、「そうでないと一人だけの世界に入り込んでしまう恐れがあります。」というのは例えばテレビの中で起きていることが現実にはほとんどないということを親から教われないなどのことでしょうか?いやそういう“知識”の問題ではありません。これは現実を取材したドキュメンタリー番組を見ている時でも同じです。子どもに“これは嘘で、これは現実だ”ということを説明しても理解できません。それは、客観的な意識が目覚めていないので生理的に理解できないのです。“一人だけの世界”とは、“自分を支えてくれる他者”、“自分とつながっている他者”が存在しない世界のことです。それは不安で孤独な世界です。テレビを見る時には、お母さんが話しかけなくても、お母さんのお膝に乗って、お母さんのぬくもりを感じながら見ているだけで子どもは孤独ではなくなるのです。そのぬくもりの中に自分を支えていてくれる他者を感じていることが出来るからです。そのぬくもりが子どもの心がテレビに取り込まれることから防いでくれるのです。そのぬくもりがないと子どもはそのぬくもりをテレビの中に求めてしまいます。すると子どもの心はテレビの中から出てくることが出来なくなってしまいます。テレビのヒーローなどになりきったりしていても、家族ごっこでお兄さんや犬を演じるように相手がいれば一人だけの世界ではないということになりますか?一人で家族ごっこをしている場合はどうなのでしょうか?相手が子どもの言いなりになっている場合はそれは“他者”ではありません。言いなりになるだけの人が何人いても、子どもは孤独です。一人だけで家族ごっこをすること自体は問題ありません。それはそれで素敵なことです。でも、いつも“一人だけ”というのは問題があるということです。また、「テレビに子育てを任せないでくださいね。後で困ったことになります。」というのは主にどんなことですか? コミュニケーション能力、他者や自分や自然を感じる働き、社会性、意志、思考力、身体能力、集中力などが育ちにくくなってしまうと言うことです。周囲に遊び相手の子どもがいない場合はお話をいっぱい聞かせてあげてください。子どもは“お話”の中でも他者と出会うことが出来るからです。また、お母さんの声を通してお母さんのぬくもりに触れることも出来ます。それと、自然とのふれあいや、色々なものを作ったり、様々な生活体験をいっぱい体験させてあげてください。周囲に子どもが少なくても、大人が工夫をすることでそれを補うことは出来るのです。
2008.09.19
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かめおかさんが“聴く”というテーマの連続講座を始めました。私も、興味のあるテーマなので申し込みをして、火曜日にその一回目に参加してきました。その内容についてはここで書くわけにいかないのですが、これからどのように展開していくのか楽しみです。現代人は話すことばかりに価値をおく傾向がありますが、でも聴くことが出来ない人は相手に伝わるように話すことが出来ません。子どもの言葉を聴くことが出来ない人は子どもに伝わるように話をすることが出来ません。夫婦でもパートナーの言葉を聴くことが出来ない人はその相手に伝わるように話をすることが出来ません。それは、人は自分の話をちゃんと聴いてくれる人の話に耳を傾けるものだし、また聴くことが出来る人は相手の状況が理解できる人だからです。話す能力は聴く能力とセットになっているのです。でも、多くのお母さん達が一方的に子どもに話すばかりで子どもの言葉に耳を傾けません。そんなお母さんがまじめに子どもの話を聞くのはお母さんが子どもに質問した時だけです。でも、その時には子どもには関心がないこと、話したくないことまで聞き出そうとします。お母さんは、“質問しないと何にも話してくれないから”と言いますが、でもそういうことをしているから子どもが話さなくなってしまうのだということには気付いていません。そして、それが親子のコミュニケーションだと思いこんでいます。実は、子どもが話したい時に、話したいことをちゃんと受け止めてあげることが“聴く”ということなんです。さらに、聴くのが上手な人は、子どもが話したくなるように子どもの心を誘導するのも上手です。つまり、子どもの心の声を聴くことが出来るから子どもから言葉を引き出すことが出来るのです。怖い顔をして“怒らないから言いなさい”と大きな声で言われたら子どもは何にも言えません。でも、“痛かったね”、“イヤだったんだよね”、“面白かったんだよね”などと子どもの心に共感しながら、“どうしてそういうことをしちゃったの?”と聞けば子どもは話しやすくなるのです。すると、原因が分かるので次から同じことを起こさないためにはどうしたらいいのかと言うことも見えてくるのです。次から次へと問題を起こす子どもは自分の想いを聴いてもらえない子なんです。<しばらく、このテーマを続けます>
2008.09.18
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幼い子どもは100%お母さんを信じていますが、でも、子ども自身はそんなこと意識していません。幼い子どもは、“君はお母さんを信じているの?”と聞かれても答えられません。だって、それしか知らないのですから。それは、“死”というものを知らない人に、“死ぬのは怖くないですか”と聞くのと同じ事です。人が何かを“信じている”という時は、その反対の“信じていない”という可能性についても知っている時なのです。お母さん達が素直に子どもを信じることが難しいのはそれまでの人生で“信じることが出来ない”状況をいっぱい体験したからなのです。だから“証拠”が欲しいのです。信じて裏切られてしまうことが恐ろしいからです。でも、裏切られる可能性を意識した状態では信じることは出来ないのです。信じると言うことは“任せる”ということです。幼い子どもは生命もからだも丸ごとお母さんに任せています。神様を信じると言うことは“神様に任せる”ということです。それは観念的な理屈でも、信念や思想でもありません。生き方なんです。だからこそ裏切られた体験をした人にとっては信じることが難しいのです。任せていて裏切られたら自分の存在そのものが危険にさらされてしまいます。子どもであれば生命にかかわります。抱っこされていてそのまま投げられてしまうことすらあるのですから。よく人と神様の話をしていると、“私も神様っていると思っているよ”、“クリスチャンじゃないけど神様は信じているよ”という人が多いのですが、ほとんどの人が、自分と神様を分けて考えています。“私がいて神様もいる”という考え方です。でもそれは多くの場合、“私は人間を越えた何か不思議な力の存在を知っているよ”ということであって、“神様を信じている”ということではありません。そして、古来からの日本人にとっての“神様”とはそのようなものっだったのではないかと思います。それが神道での“神様”です。日本人は特に教育を受けなくても感性的に神道の信者なんです。それがイエス・キリストも仏陀も八百万の神々の一人にしてしまう“日本教”の働きです。日本人には“唯一神”という考え方が理解できないのです。それに対して、仏教やキリスト教では“信じる”ということがもっとはっきりしています。ですから、“信じることは任せることだ”という思想もあります。信じる対象がたった一つしか存在していないから任せることが出来るわけです。幼い子どもがお母さんを100%信じているのも、自分の全てを任せる人が世界にたった一人しかいないからです。ですから、反抗期が来てお母さんへの依存度が低くなるに従ってお母さんだけを信じるということも減っていくわけです。逆に、虐待を受けている子の場合は依存度が高いのでお母さんを疑うことが出来ないのです。そして、実は“子どもを信じる”ということもまた“子どもに任せる”ことなのです。ただし、“子どもに任せる”といっても、子どもの好き勝手にさせることではありません。子どもにしかできないことは子どもに任せ、その結果をそのま受け入れるという意味です。神様を信じる場合も同じです。自分たちで出来ることは自分たちで一生懸命にやります。でも、神様にしかできないことは思い煩わず、神様に任せてしまうのです。そして、どんな結果になっても“神様の選択”として素直に受け入れるのです。(現代ではそういう時に必ず“誰かの責任”になってしまいますけどね。)お母さんは子どもの代わりに体験することは出来ません。子どもの代わりに学ぶことは出来ません。子どもの代わりに喜んだり、苦しんだりすることはできません。子どもの代わりに子どもの人生を生きることも出来ません。だから、そういうことは子どもに任せてしまうのです。そして、子どもの選択した結果は素直に受け入れます。そして、子どもが喜んでいる時には一緒に喜び、子どもが苦しんでいる時には一緒に苦しむのです。“お母さんが言った通りにしないからケガをしたじゃない”などとは言わないのです。お母さんが注意することは大切です。でも、今ケガをして泣いているのなら子どもがその痛みや悲しみ耐えることが出来折るように共感して支えてあげて欲しいのです。その痛みや苦しみに耐えることは子どもにしかできないことだからです。だからお母さんに出来ることはその子どもを支えてあげることだけです。そのようにお母さんに支えてもらうことで、子どもはその痛みや苦しみを乗り越えることが出来るのです。その力を信じ、子どもに任せることが“子どもを信じる”ということなのです。それがおととい書いた“子どもの幸せを願う祈り”の具体的な形です。この話題はこれで終わりにします。
2008.09.17
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ここのところ“神様”という言葉が多く出てきて違和感を感じられた方もいらっしゃるかも知れませんね。でも実は邪魔イカさんが“神様を信じなければ、子供を信じることもできないですよね。”と書いてくださったように、“神様”と“子どもを信じる”ということは深い関係があるのです。ただし、ここで言う“神様”とはどこか特定の宗教に属する神様ではなくて、それら全ての神様の源流に存在している“かみさま”のことです。この“かみさま”は人類が言葉を得た時に人類の元にやってきました。そして、言葉と共に伝えられてきました。その“かみさま”は言葉の中に存在しているのです。ですから、言葉には神様の力が宿っています。そして、言葉を大切にしない社会では神様は生きることが出来なくなります。言葉は神様の依代(よりしろ)なんです。キリスト教では聖書を、イスラム教ではコーランを、仏教では経典を、神道では言霊を大いなる力を持つものとして大切にするのはそのせいです。そして、祈りが神に届くのは祈りが“言葉”だからです。想いが言葉として語られた時、それは神の世界に届くのです。皆さんは、生命や、愛や、勇気や、希望や、祈りといったものを大切なものだと感じていらっしゃいますよね。でも、これらは“かみさま”と同じで言葉の中にしか存在することができません。手に取ってみることも、機械で観測することもできないのです。実は、このような“人間の精神”に属するものはみな“かみさま”の仲間なんです。というか、そういうものがやってくる源に昔の人は“かみさま”という不思議な存在を感じたのです。それで“生命は神様によって作られた”という話につながるのです。“世界”も言葉と共に生まれます。そして、“子どもを信じる心”も神様の所からやってくるのです。“風”という言葉が生まれる時、“風”が生まれるのです。“愛”という言葉が生まれる時、“愛”が生まれるのです。ただし、それは人間の認識の世界の話です。物理的な世界の話ではありません。そこをごっちゃにしてしまうから話がおかしくなってしまうのです。物理的な世界では“風”と“愛”は全く別物です。“風”は存在していますが、“愛”は存在していません。でも、認識の世界では同じ仲間です。人は“愛”に“風”を感じることも、“風”に“愛”を感じることも出来るのです。私たちは、“風”に力学があるように、“愛”にも力学があることを知っています。シュタイナー教育で有名なR.シュタイナーは非科学的なことをいっぱい言っています。でも、それも認識の世界の話です。それを物質世界の話と混同してしまうとオカルトになってしまいます。聖書の話も同じです。(人間は物質世界を認識の働きによって理解しようとします。その結果物質世界に人間の精神世界が投影されます。でも、両者は同じものではありません。)人間の肉体は物質世界に生きていますが、人間の心は認識の世界に生きています。ですから認識できないものは存在していないのと同じ事になります。その逆に、物理的には存在していないものでも認識出来るものは存在しています。人は“愛”を感じ、“愛”の影響を受けます。“愛してます”という言葉で、心拍数も呼吸も顔色も表情も変わってしまいます。ですから、“愛”は存在しているのです。そして、その認識の世界を作っているのが言葉なんです。人は言葉の世界を生きているのです。だから言葉を大切にして欲しいのです。子どもたちにももっと言葉を伝えて欲しいのです。特に、心でしか見ることが出来ない、感じることが出来ない言葉をいっぱい伝えてあげてください。それらの言葉は神様につながっています。ですから、そのような言葉を多く伝えてもらった子どもは心が安定し、みんなを幸せにする力を得ることが出来るのです。それが神様の力です。皆さんは、子どもに“信じる”という言葉をどのように伝えたらいいと思いますか。“言うことを聞かなければ信じてあげない”という言葉で伝わると思いますか。“愛”という言葉をどのように伝えたらいいと思いますか。“愛”という言葉は、“愛”を伝えることととセットになっていないと伝わりようがありませんよね。“音”という言葉を伝えるためには実際の“音”が必要なようにです。子どもの心を育てるためには言葉の中に生きている神様の手助けが必要なんです。だから、昔話やお話をいっぱい聞かせてあげることが大切なんです。子どもに想いをいっぱい語ってあげることが必要なんです。
2008.09.16
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私たちは、神様を信じる、仲間を信じる、明日を信じる、子どもを信じる、など“○○を信じる”という言葉をよく使います。そして、“信じていたのに裏切られた”という言葉もよく聞きます。でも、私はそういう言葉を聞くたびに疑問を感じるのです。“裏切られた”という言葉は、相手が自分の予想や期待とは違ったことをやったり、期待はずれだった時に使われますよね。だとすると、“信じる”ということはただ“期待する”ということと同じ意味になってしまいますよね。信じると言うことは単に“期待する”ということなのでしょうか。神様を信じると言うことは神様に何かを期待するということなのでしょうか。確かに日本の宗教にはその傾向があります。神様や仏様に対して現世利益的なお願いをする人が非常に多いのです。そして、その期待に応えてもらうためにお布施を出すのです。これは、昔からそうだったようで中世の頃に日本にやってきた宣教師達も日本人のその現世利益的傾向には驚いたようです。日本人は神様や仏様はなにかお願いをする対象だと考えているようです。何かをしてもらうことを期待しているのです。確かに、宗教には本来的にそのような側面はあると思います。でもそれと同時に宗教には“神様のために自分は何が出来るのか”という発想もあるのです。“信じているから、信じているもののために働きたい”という発想です。そして、見返りを求めないのです。そのような信仰の人は、自分に不幸が来ても、自分が苦しくなっても神様のために働くことが出来るだけで幸せになることが出来るのです。そのような信仰心を利用して金儲けをしている宗教団体もいっぱいあるので、だから宗教に対する印象が悪くなってしまっているのですが、でもこのように考える人は何が起きても疑いません。どこまでも裏切られるということがないのです。オスカー・ワイルドが書いた「幸福な王子」の話はご存じですよね。最初は金銀や宝石をまとった美しい王子の像が、不幸な人たちを見て自分のまとっていた金や銀、そして宝石をみんなあげてしまうというお話です。この話を読んで感激する人と、“バカだ”とか“理解できない”と感じる人もいると思いますが、私は、子どもの頃にこれを読んで深く心に残りました。他にも、グリムなどの昔話の中などにも似たような話はいっぱいあります。これを、“人々からお金を巻き上げるために宗教が考え出した詐欺の方法だ”などと考えてはいけません。宗教を信じていない人たちでも、自分を犠牲にしてまで他の人のために生きている人に感動する心は同じだからです。ボランティアの人たちに感動するのも同じです。人は見返りを求めない純粋な行為に、崇高な精神を感じるのです。そして、その象徴として仏様や神様がいます。だから、見返りを求める仏様や神様は偽物です。そして同時に仏様や神様に見返りを求めてもいけないのです。そうでないと詐欺に引っかかります。偽物の宗教では信者は神様に見返りを求め、神様も信者に見返りを求めています。でも、これではただの“商売”に過ぎません。全財産を寄付した人にも、貧しくて一円も寄付できない人にも同じように慈悲や愛を注いでくれるのが本当の仏様や神様なのです。もっといえば、仏様や神様を信仰しているかどうかなどという事とも関係していません。仏様や神様の想いに沿った生き方をしているのなら仏様や神様のことなど知らなくても手助けしてくれるのが仏様や神様なのです。仏様や神様は人間的な価値を超越したところにいるのですからそれは当然のことなのです。だからこそ“ありがたい”のです。では、その“仏様や神様の想い”とはなんだと思いますか。実はそれは“みんなが幸せになること”なんです。(ただし、アニミズム的な神様は別です。)ですから、みんなが幸せになるように祈るのです。そして、この祈りを忘れず、その祈りのために生きることが信じるということなんです。ですから、“神様なんかいない”、“神様なんか信じない”と言っている人でも、みんなの幸せを願い、そのために生きているのなら神様はちゃんと手助けをするのです。だから、そういう人は個人の能力を越えた働きをすることが出来るのです。そして、同じように子どもを信じるということは、子どもが幸せになるように祈り、どんなことがあっても子どもを助けてあげるという決意を持つことなのです。すると神様が助けてくれるのです。そして、この“信じる”には“裏切り”が存在していません。「言うことを聞かず、イタズラばかりして、嘘ばっかりついている子を信じることなんか出来ません」などという人がいますが、それは偽物宗教レベルの“信じる”です。でも、そんな人でも子どもが生まれた時には“子どもが幸せになるように願い、どんなことがあっても子どもを助けてあげる”という祈りを持ったのではありませんか。その祈りを忘れないでください。その祈りを忘れないで毎日を過ごすことが“子どもを信じる”ということなんです。この“信じる”は裏切られることがありません。子育てママさん、直接的なご返事ではありませんが参考になりましたでしょうか。
2008.09.15
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幼い子どもはお母さんを100%信じています。だからお母さんが与えてくれるものを無条件に受け取り、吸収し、成長するのです。物事を吸収し、成長するためには信じる心が必要なのです。それはもっと成長してからも同じです。学校でも信じている先生の言葉は吸収できますが、信じていない先生の言葉は覚えることは出来ても吸収することは出来ません。薬でも、信じている医者から与えられればよく効きますが、同じ薬でも信用していない医者からもらった薬は効果が落ちます。子どもの声などでも大好きな子の声はうるさく感じないものです。でも、知らない子や嫌いな子の声はうるさく感じます。人間は心が受け入れないものは頭や感覚やからだも受け入れないようになっているのです。ですから、人を信じる心を持った子はどんどん成長していきます。それに対して、幼くして人を信じることが出来なくなってしまった子は勉強でも他の学びでも後れていきます。子どもが一番お母さんを信じなくなるのは“無視”(ネグレクト)です。叱られても叩かれても“お母さんだから”、“自分のことを思っていてくれるから”と解釈できますが、“無視”は疑いの心を目覚めさせるのです。そして、心の中の“母親”を失ってしまいます。その“無視”とは、お母さんが子どもの気持ちに関心を示さない、子どもの言葉を聞かない、自分だけの世界に閉じこもっているなど、子どもを孤独にするような行為や状態を指します。ちゃんとご飯をあげて、ちゃんと洗濯をしてやってあげていても、心が子どもに向いていなければそれは“無視”(ネグレクト)なんです。法律的には虐待ではなくても、子どもの心にとっては立派な“虐待”なんです。孤独な心の子どもは人を信じることが出来なくなります。そして、それは大人になってもそのままです。人を信じることが出来れば孤独ではなくなのですが、孤独が苦しいのに人を信じることが出来ないのです。信じてくれる人が現れても信じることが出来ないのでその気持ちを受け入れることが出来ません。また、相手の心を試そうともします。どこまでも試そうとして、相手がつきあいきれなくなると、“やっぱりそうだ、信用しなくてよかった”と安心します。そこまで行ってしまっているような人はこのブログを読んでいないでしょうが、“信じることが出来ない心”と“信じたい心”がせめぎ合って苦しんでいる人はいらっしゃるかもしれません。そういう人にとっては無条件にありのままの状態で子どもを信じることも難しいのではないかと思います。子どもが自分のことを信じているという証拠が欲しいのです。その証拠によって子どもを信じようとするのです。そして、そこに“しつけ”が使われてしまっています。“言われたことを守るなら信じてあげよう”ということでしつけが子どもに押しつけられているのです。そして子どもを信じたいからこそ無理難題が増えていきます。続きます。
2008.09.14
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科学の世界には事実があるだけで、“信じる”という価値観、観念は存在しません。そして、宗教というものを失ってしまった現代人にとっては“信じる”ということがますます分かりにくいものになってきています。多くの人は根拠によって信じます。何かを信じるためにはデータが必要なのです。そして、信じたとおりの結果にならないと“裏切られた”と感じます。でも、それは“信じる”ということではなく、相手に対する“期待”に過ぎません。本来“信じる”ということは根拠にも依らなければ、結果とも無関係なんです。ですから“裏切られた”と感じることもないのです。だから、宗教を巡る様々なトラブルが絶えないのですが、でもだからといって“信じる”ということがバカバカしいことであるという事ではありません。実は、人は誰でもいつも信じているのです。そして、信じていないと生きてゆけないのです。それは人は現実の世界ではなく、心の世界を生きている生き物だからです。心の世界は信じているからこそ存在できる世界なのです。だからこそ、愛も勇気も希望も心の中に存在することが出来るのです。そして、どんな人でも自分の心を疑うことは出来ないのです。目の前にリンゴが見えた時、そのリンゴを疑う人はいません。また、お金が価値を持つことが出来るのはみんながお金の価値を信じているからです。自分の考えを疑うことはありますが、自分の感覚や感情を疑うことは滅多にありません。常識はみんなが信じているから“常識”なんです。これらのことを信じる時にいちいち根拠など必要ないでしょ。まあ、お金の価値や常識は時として疑うこともありますが、自分の心に関係することは疑うことが出来ません。つまり、お金の価値や常識を疑っている自分を疑うことは出来ないということです。早期教育に夢中になっている人も何かを信じています。お金や権力にしがみついている人も何かを信じています。何かを疑っている人も、“疑っている自分”は信じています。実は、疑り深い人ほど“自分を信じる力”は強いのです。だから、疑り深い人を説得するのは困難なんです。そして、疑り深い人はその信仰が強いためなかなか成長することが出来ないのです。“私は自己肯定感が低い”、“私は自信がない”と言う人も、自分のことは信じています。そのことにしがみつく人ほど信じています。“自信がない”ということを信じているのです。自信がないということを信じているから自信がないのです。そのことを疑り始めたら自信も目覚めてくるのです。お分かりでしょうか、人の心は“信じる”ということでできあがっているのです。幼い子どもは100%親を信じています。子どもが親を信じるのに根拠など必要がないのです。ですから、親も子どもを信じてあげればそれだけで親と子との信頼関係は育っていきます。でも、多くの親が子どもを信じるのに何か根拠を求めています。“嘘もつくし、困ったことばかりしているのにどうやって信じろと言うのですか”と言いたい人もいるかも知れませんが、子どもは叱られても、叩かれても、嘘をつかれてもお母さんを信じています。信じるのに根拠は必要ないのです。大人の場合でも、“どこまでも信じる”という覚悟さえあれば、信じることが出来るのです。“信じる”ということは“愛する”ということと似ています。愛してくれたから愛するのではありませんよね。人を愛するのに根拠は必要ありません。そして、愛は基本的に一方通行です。実は、“信じること”と“愛すること”は密接につながっているのです。信じることは愛することであり、愛することは信じることなんです。ですから、神様を信じると言うことは神様を愛するということになります。だから出家した人は結婚しないのです。また、自分だけを信じている人は自分だけを愛しているのです。そして、信じることが出来ない人、裏切られてばかり来た人は他の人を愛することが出来ないのです。“子どもを愛する”ということは“子どもが親を信じているように子どもを信じる”ということです。嘘をつかれても、言うことを聞かなくても信じるのです。“子どものために”とお金を掛けても、あれこれやらせても、肝心の子どもを信じていないのならそれはお母さんの自己愛や子どもへの期待であって、子どもを愛しているわけではないのかも知れません。
2008.09.13
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今日はnoguchi705さんからの以下のご質問に答えさせて頂きます。<悩むことと、考えることの違いって何でしょうか?>簡単に言ってしまえば、考えるというのは客観的な観察やデータに基づいて関係性をつむぐ(解き明かす)ことであり、悩むというのは主観的な印象に基づいて自分勝手な関係性を決めつけ、その結果生まれる現実とのギャップに苦しむことなのではないかと思います。ですから、考える時には“なぜ?”と問いかけ、悩んでいる時には“どうして!”と叫ぶのでしょう。こんがらがった毛糸の固まりをほどく時には、最初糸の先を見つけ、丁寧にその繋がりを追っていく必要があります。でも、今の子どもたちはそのこんがらがった毛糸の固まりをほどくことが苦手です。無理矢理引っ張るのです。だから余計にこんがらがってしまいます。そして、どうしようもなくなって私の所に持ってきます。そのどうしようもなくなってしまった状態が“悩み”だということです。考えるためにはまず相手の状態に寄り添い、その状態をよく観察するところから始めます。そして、何が問題でどこが糸口なのかを見極めます。糸口が見つかったらほぐしていくのですが、イライラしたり焦ったりしてはいけません。無理に引っ張ったら余計にこんがらがってしまうばかりです。どこまでも相手の状態に寄り添っていくのです。そうしないと毛糸は途中で切れてしまうか、ほどくことが不可能な状態になってしまいます。それに対して、悩んでばかりで考えることが出来ない人は毛糸の固まりを見て“どうしてこんなになってしまったの”と糸口でもないところを無理に引っ張るようなことばかりをします。ですから、余計にこんがらがってしまいます。ですから、頑張れば頑張るほど状態が悪くなるのです。それなのに“これは毛糸が悪いんだ”などと毛糸に向かって文句を言う人すらいます。そして、さらに悩みも深くなります。数学の問題を解く時も同じです。文章題の時にはまず、その文章を丁寧に分析します。そして、糸口を見つけます。昨日書いた“絵や図に描いてみる”というのはその分析の手助けになります。この分析がちゃんと出来れば問題の解き方は自然と見えてくるのです。でも、数学が苦手な人はその分析が出来ません。そして思いつきで解こうとします。そして、余計に分からなくなります。ただし、これは“考えると言うことはどういう事ですか”というご質問に答えただけで、必ずしも“子育ても同じようにやって下さい”と言うことではありませんからね。そうでないと数学が苦手な人は子育ても苦手だと言うことになってしまいます。子育てでは子どもの心に寄り添って毎日を楽しく過ごしていればこんがらがることはないので難しく考える必要はないのです。(子どもの“要求”に寄り添うのではありませんからね。念のため。)でも、無理をしてこんがらがってしまっている人の場合は取り返しが付くうちに一度立ち止まってじっくりと考えた方がいいでしょうね。何が原因で、いつ、どこでこんがり始めたのかを考えて、じっくりと糸口を探すのです。<喜怒哀楽の感情の中でどうして怒の感情は、表現する時に、罪悪感を伴いやすいのでしょうか?>これは人それぞれです。気質も関係しています。怒りを抑えるタイプの人は怒ることに罪悪感を感じますが、怒りを抑えないタイプの人は罪悪感を感じません。まあ、それは考えてみれば当然のことです。怒りを抑える人は“怒りを抑えられてきた人”か、“自分で自分の感情を抑制してしまうタイプの人”です。怒りを抑えられてきた人は怒りが爆発すると罪悪感と共に快感も感じます。自分で自分の感情を抑制するタイプの人は怒った後で悲しくなります。もしかしたら、このようなタイプの人の罪悪感は子どもに対してではなく、怒りを抑えることが出来なかった自分への気持ちの現れなのかも知れません。本当に子どもに対して罪悪感を感じるのならそう何回も繰り返さないのではないかと思うからです。“怒っちゃってゴメンネ”というのは“怒りを抑えることが出来なくてゴメンネ”ということで、子どもの心が傷ついた事への罪悪感ではない可能性があるということです。
2008.09.12
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人生には色々な悩みやトラブルがあります。子育ての悩みもその一つに過ぎません。子どもの時には子どもの悩みや苦しみがあり、親になれば親としての悩みや苦しみがあり、年を取ればまた年を取ったことから生まれてくる悩みや苦しみがあります。人は生きている限り悩みや苦しみから逃げることは出来ないのです。生きると言うことはその“悩みや苦しみと共に生きる”ということに他なりません。ですから、悩みや苦しみから逃げることばかり考えている人は自分の人生そのものから逃げていることになります。でも、それでは余計に悩みや苦しみが増えていくばかりなんです。神様はその人が負いきれないほどの苦しみは背中に乗せません。ですから、それを信じて立ち上がってみてください。そして前に向かって動き出して下さい。すると、自分には必要のない苦しみはこぼれ落ちていくものです。そして、本当に自分が背負わなければならない苦しみだけが残っていくのです。でも、それはあなたを成長させるために必要な苦しみですから逃げないでください。それは時として、使命とか宿命と呼ばれる苦しみです。その苦しみを大切におぶっていくとやがて大切な宝ものに変わっていくのです。苦しみ自体は消えなくても、不思議なことに苦しみが喜びを呼び寄せてくれるのです。問題は、苦しいと言って動かなくなってしまう人や逃げ回る人です。動かない人の背中の苦しみはこぼれ落ちていきません。むしろ乗りやすいのでどんどん苦しみが乗っかっていきます。そして時としてつぶれてしまいます。逃げ回っている人は自分の人生を見失い、喜びや幸せと出会うことが出来なくなります。喜びや幸せというものは自分の人生をしっかりと生きているものにしかやってこないからです。でも、今まで動かなかった人が動き出すためには膨大なエネルギーが必要になります。今まで動いていなかったので悩みや苦しみが鎧のように固まってしまってその人を覆ってしまっているからです。時として、外を見ることも出来ないほどに覆い隠されてしまっています。そして、そこまで行ってしまうとなかなかやっかいです。人の言葉も届かなくなってしまうからです。人の言葉も届かないほどに苦しみに閉じこめられてしまっている人をそこから出してあげるためには信じて待つ以外にはないと思います。でも、その信じてあげることこそが大切なんです。“信じる”という働きかけがその苦しみの鎧を溶かすのです。信じてくれる人がいることで人は自分の人生を生きるエネルギーを得ることが出来るのです。“信じる”と言うことは時としてどんな方法より強力なんです。そして、これは子どもに対しても同じです。
2008.09.11
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ダージリンさんから個人メールでコメントが届きましたので、それをご紹介させて頂きます。(前略)>“数学は頭で考えても分からないよ。数学は手を動かして解くんだよ”私も、この意味が分かりません(笑)「手を動かす」って、どうやって?って思います。数学の問題を解く時に必要になる客観的な思考というものは基本的なパターンが決まっています。ですから、実は明日の予定を立てたり、今日の夕食を決めることよりずーっと簡単なんです。その証拠にコンピュータは数学の問題を解くことは出来ても明日の予定を立てることはできないでしょ。その客観的な思考は“物の論理”に従います。だから、その思考でロケットを飛ばすことが出来るわけです。でも、私たちが普通に使っている論理は感情や感覚に従った論理です。ですから、ロケットを飛ばすことはできません。でも、その代わり人の心を理解したり、明日の計画を立てたりすることは出来るわけです。その“物の論理”は基本的に体験によって導かれています。ボール投げをしたり、積み木をしたり、何か実験のようなことをしてその論理に気付いていくのです。ですから、“物との関わりの体験”が少ないと、その“物の論理”を理解する力が育ちません。そして、感情や感覚の論理ばかりで物事を考えるようになります。今の子どもたちの現実体験の貧弱さも学力低下の問題とつながっています。また、一般的に右脳と左脳をつなぐ脳梁が太い女性の方が物を考える時に感覚や感情の影響を受けやすい傾向があるようです。ですから、男性は比較的自分の感情と切り離して論理を構築することが出来るのに対して、女性は自分の感情を納得させるような論理を構築するのが得意です。でも、それでは数学や物理を理解するのは困難です。(私は物理学科でしたが、90名くらいいたクラスで女性は一人っきりでした。)ですから、先日出ていた>一般的に、男性よりも女性の方が“今”にとらわれやすいのでしょうか、ね?という話につながるのです。客観的な世界は時間から自由な世界だからです。客観的な論理とは、いつ、どこでも、どんな時でも通用しますが、主観的な論理は“状況”に依存します。ですから、その状況を共有している者同士の間では客観的な事実のように会話することが出来ますが、その状況を共有していない人には訳が分かりません。でも、だからこそ考えることが出来ること、解決できることもあるわけです。これは優劣ではなく、男女の間の特質なんです。男性と女性の間にもこのような差がありますが、実は人間の五感の間にも似たような差があるのです。視覚は比較的客観的で、味覚や触覚や嗅覚は結構主観的です。聴覚はその間くらいでしょうか。それは視覚や聴覚からの情報はある程度客観的に検証することが可能なのに対して、味覚や触覚や嗅覚は他の人と比較のしようがないからなのでしょう。ですから、何かの問題に突き当たって考えても解決策が見つからない場合には問題点を書き出してみて整理したりすると、より客観的に物事を見ることが出来るようになり、解決策に気付きやすくなります。それと、書き出してみると心の中が整理されることを実感することが出来ます。数学の問題の場合は、まず、“最終的に何を導き出せばいいのか”、“与えられた条件は何なのか”ということを書き出してみます。実際に書き出さなくても、そのつもりで問題を整理してみると、多分視覚の働きが脳の中では働いていると思います。多くの場合、それだけでおおまかな道筋は立てることが出来ます。勉強が出来ない子はこれは出来ないのです。何を聞かれているのかが分からないのですから、答えが出るわけがありません。さらに、問題の文章の内容が一目で分かるように言葉を時間経過に沿って図式化してみます。そこに数式を当てはめていけば自然に答えは出てしまうのです。“りんごが10個ありました”と書いてあったのなら、りんごの絵を描いてみるのです。“それを5人で分けました”というのならその下に五人の人間を描いてみるのです。そして、手を動かして絵の中でりんごを分けていきます。すると、考えなくても答えは分かるのです。慣れてくると、このような処理を絵を描かなくても出来るようになります。それが思考なんです。ポイントは自分で考えて文章を図に変換するという過程です。その時には、最初から図や物が描いてある場合とは違う論理的な脳の働きが必要になるのです。>その回路が出来ている人はそれができますが、その回路が存在してい ない人にはそれはどうしていいのか分からないのだと思います。(9/ 7のコメントから)・・・そういうことなんですね。こういう訓練が遊びや様々な体験で培った脳の働きを、お勉強にも使えるように育ててくれます。からだを使った遊びや仲間との遊びをいっぱい体験している子どもは現実に即して考えることは得意です。でも、その頭の良さをお勉強につなげてあげるためにはちょっとした仕掛けが必要なんです。その仕掛けがないと、小さい頃から勉強三昧で生活してきた子にはなかなか追いつけません。でも、そのつながりが分かった子は簡単にお勉強三昧の子を追い越してしまいます。お勉強三昧の子は現実の世界での体験が少ないので抽象的な思考が苦手だからです。抽象的な世界は具象の世界を知らない子には理解できないのです。私の試行錯誤した中で、子ども達に一番響いていると思うことは、 「(能動的に)受け身に徹すること」のような気がします。ガンジーがやった“積極的無抵抗”のようなものですね。でも、これが一番難しいですね。
2008.09.10
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昨日は人間は能動的に行動しようとする時に初めて自分の頭で考えます。と書きましたが、では人はどのような時に能動的に行動するのでしょうか。実はそれは“表現しようとする時”なんです。自分の心の中にあるイメージ、想い、感情、考えなどを他の人に伝えようとしたり、実際の行動によって実現しようとする時に人は自分の頭で考えるのです。ですから、逆に自分の頭で考えていない人は何かを表現することを嫌がります。何を表現したらいいのか分からないからです。幼い子どもが理解不能な言葉で一生懸命に何かを伝えようとしている時も、子どもは一生懸命に考えています。その一生懸命を肯定してあげていると子どもは考える能力を育てていくことが出来ます。何か新しい技術を学ぶ時も同じです。技術というものは受け身的には学ぶことができないからです。必ず、自分のイメージ通りにやってみてイメージと現実のすりあわせをしないことには技術を学ぶことは出来ないのです。つまり、試行錯誤も一種の“表現”だということです。子どもはいつでも表現しようとしています。それは子どもがいっぱい学ぼうとしていることの現れです。子どもは表現しながら自分の力で学ぶのです。だから教えもしないのに言葉を覚え、歩き方を覚えてしまうのです。でも、そのため失敗も多く、訳の分からないことも言います。でもそれはいっぱい試行錯誤しているということの現れでもあるのです。自分で考えない人は表現しようとしません、そして失敗を恐れます。でも、自分で考える人にとっては失敗は大切な学びの一つなんです。自分で考える人は失敗からでも学ぶことが出来るということを知っているのです。だからどんどん色々なことに挑戦することが出来ます。数学があまり得意ではない中三の娘に、“数学は頭で考えても分からないよ。数学は手を動かして解くんだよ”と伝えたのですが、数学が苦手な子は一生懸命に頭だけで考えて問題を解こうとしてしまいます。でも、それが出来るのは自分の実力以下の問題を解いている時だけです。実は人は頭だけで考えようとしても考えることはできないのです。頭だけで考えようとすると思考が同じ所をぐるぐると回るだけになってしまうからです。子育てで悩んでいるお母さんの思考も同じ状態です。でも、前に進んでいくためにはきちんと道標を立てていく必要があるのです。そのためには思いついたことはとにかく実際に手を動かし、からだを動かしてやってみることです。それでうまくいかなかった時には理由を考え、違う方法を試してみることです。その体験が道標になっていきます。そのように色々とやっているうちにひらめくのです。点でしかなかった道標が面になり図を描き出すからです。失敗を繰り返しているうちに見えてくるのです。ですから、子どもの失敗を叱ってはいけないのです。ちなみにテストの成績が悪かったのもその失敗の一つに過ぎません。大切なことはそこから何を学ぶことが出来るのかということであって、成績ではないのです。それを成績にこだわり子どもを叱っていたら子どもはますます勉強しなくなります。子育てでも同じです。何か問題を抱えていて、その問題を解決したいと思っているのなら色々と試してみればいいのです。頭で考えていても、本を読んでも、ワークに出ても、実際の生活の場でその学んだことを色々と試してみようとしなければ決して問題は解決しないのです。その試してみる過程で考えるお母さんの考える能力も育っていきます。そうすると状況を見通す力も育っていくのです。でも、中には“いっぱい試しましたがダメでした”という方もいらっしゃるかも知れません。でも、そういう人は自分の考え、価値観を相手に押しつけようとしていただけなのではありませんか。自分の考えや価値観を押しつけようとしているだけならいつまで試行錯誤を繰り返しても無駄ですよ。そうではなく、子どもの考えや価値観を知るために、そしてその気持ちに寄り添うために試行錯誤するのです。そのような試行錯誤を通してお母さんが子どもの考えや価値観を大切にしようと思う時、子どもはお母さんの考えや価値観も大切にしようと思い始めるのです。そこでつながるのです。きっとダージリンさんの試行錯誤はそのようなものだったのでしょう。ちなみに数学でも出題者の意図を理解しないまま試行錯誤を繰り返してもなかなか答えにはたどり着きません。長女はそれがなかなか分かりませんでした。出題者の意図が分からないので考える筋道を立てることが出来なかったのです。子育ての悩みの出題者は子どもです。ですからその出題者の意図を理解してくださいね。それを、その出題者の意図を無視して、“私はこんな答えは嫌いだ”、“私はこう解きたいんだ”、“これが私の解き方だ”と主張していたら決して出題者のOKは出ませんからね。
2008.09.09
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昨日は、それに、叱ってやめさせても子どもがそのような繰り返しで学ぶのは“お母さんの言うことを聞かないと叱られる”ということだけです。子どもにはお母さんがなぜ叱っているのか、その意味など分からないからです。結局、何のしつけにもなっていないのです。で終わりました。今日はその続きです。“しつけ”だと思ってお母さんが叱ってやめさせたり、何かをやらせていると、子どもは叱られないとちゃんと行動しなくなります。そして、次第に叱られることになれてきて叱られても行動しなくなります。子どもが成長して相対的にお母さんが怖くなくなればもっと言うことを聞かなくなります。ですから、叱ってしつける方法は結果として何にもしつけていないのと同じ事になってしまうのです。ただただ、親子の関係がこじれ、子どもの心の傷が増えるばかりです。人間は能動的に行動しようとする時に初めて自分の頭で考えます。言われたことをやるだけの時には自分の頭で考えないのです。そして、自分の頭で考えて行動しないことには何にも学習できません。勉強も自分の頭で考えてやらなければ身に付かないのです。ですから、叱って、脅して勉強させても知識は増えるかも知れませんがその知識から何も学ぶことが出来なくなります。ただ言われたことだけをやっていればそれで何とかなってしまう社会や生活ではそれはそれで構わないかも知れません。でも、それは奴隷の生活です。人間として人間らしい生活を送るためには自分の頭で考えることが絶対的に必要なんです。でも、奴隷の生活に慣れてしまった人は自分の頭で考えようとはしません。そして、言われたとおりに“支配者のルール”や“みんなのルール”に従います。子どもの成長でなにより大切なのはこの“能動的に考える力”を育てることなんです。能動的に考える力があるから周りの状況を見ながら、“やっていいこと”と“やってはいけないこと”を自分の頭で判断することが出来るようになるのです。そうすると、叱る必要などなくなるのです。ですから、叱られなくてもちゃんと行動できる子は自分で考えて行動することが出来ます。それが、“賢い”ということです。実は、能動的に考える力を育てる過程の中にもうしつけの要素は含まれてしまっているのです。能動的に考える力を育てるためには、能動的に行動してその結果を自分の行為の結果として体験することが必要になります。そこで因果の法則に気付いていきます。また、能動的に行動するためには他の人のやり方をちゃんと見ている必要があります。子どもの能動性は模倣によって引き出されるからです。お母さんやお兄ちゃんがやっているからやりたくなるのです。それが子どもの能動性です。その能動性が肯定されているともっとよく見るようになるのです。そして観察力が育っていきます。そして、自分で工夫してみてうまくいかない時には素直に人の話を聞きます。体験があるので、言葉を理解することができるのです。私は“コミュニケーション能力”を育てることと、“表現能力”を育てることを新しい時代の“しつけ”として考えているのですが、その要素がこの“考える力を育てる”過程の中にみんな含まれているのです。私には、叱ってばかりのしつけの流行と、学級崩壊と、子どもたちの学力の低下とがつながっているように思えるのです。続きます******************************「7才までの子どもとの遊び方あれこれ」(ワークショップ+講義)子どもとの遊びには色々ありますが今回は、家の中での遊び、生活の中での遊び、自然の中での遊び、町の中での遊びなどをご紹介します。難しいことはありません。ちょっとした発想の転換だけで家の中も、町も、森も遊び場に変わってしまうのです。そんな発想の転換を皆さんにお伝えします。 具体的には歌や言葉で遊ぶ、イメージで遊ぶ、家の中を遊び場として遊ぶ、生活の中で遊びを工夫する、お散歩やお買い物を遊びに変える、何もない公園での遊び方等々です。これらの遊びは親と子のコミュニケーションを育ててくれるばかりでなく、子どもの想像力+創造力も育ててくれます。また、子どもの心を理解したり、子どもとの信頼関係づくりの手助けにもなるでしょう。 ただし、今回は「からだ遊び」や「造形遊び」、「わらべうた」などその場で直接子どもと遊ぶ遊びはやらないので、お子さんの同伴はできません。 一応保育を用意しましたが、可能ならご主人に任せてご参加下さい。ご主人にとっても貴重な時間になると思います。(寝たきりの赤ちゃんなら同伴可です。) ご家庭に帰ってから、じっくりとお子さんと遊んであげてください。<日 時> 9月21日(日曜日)10:00~11:50 <場 所> 茅ヶ崎市勤労市民会館4F 練習室<参加費> 1500円 保育が必要な人は別途300円(一人)必要になります。<備 考> 動きやすい服装でおいで下さい。スカートは不可です。参加希望者はメールか、0467-54-6356 宛てにFax.をお願いします。
2008.09.08
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昨日はお母さんにとって都合の悪いこと全てを“悪いこと”として叱り、やめさせようとしています。と書きましたが、“そんなことはない”と反感を持たれた方もいらっしゃるかも知れませんね。そして多くの方が、“自分は悪いことをヤメナサイと叱っているだけです”とおっしゃるでしょうね。それは例えば、他の子をぶってはいけない、嘘をついてはいけない、人の迷惑になるようなことをしてはいけない、食べ物で遊んではいけない、他の子をいじめてはいけない、などというようなことです。そういうことに対して“ダメ”、“ヤメナサイ”と叱ることは親としての当然の義務だと思っていますよね。でも、それならどうして禁止だけでなく“こうしようね”、“こうしたら楽しく遊べるんだよ”、“こういう時はこういう遊びをしようね”、と“どうしたらいいのか”を教えてあげないのでしょうか。また、我が子がなぜ嘘をつくのか、なぜ他の子をいじめるのか、なぜ人の迷惑になるようなことをするのかということを考えてあげないのでしょうか。もちろん、間違ったことをした時には止めるのが親の義務です。でも、止めるだけでは子どもは育ちません。子どもが“なぜそのようなことをするのか”ということを考え、もっと子どもが喜ぶような形で“何をしたらいいのか”ということをちゃんと伝えない限り、子どもはいつまで経っても同じことを繰り返すのです。しつけで大切なことは叱ることではなく、叱る必要がないように子どもを育ててあげることなのではないでしょうか。そうでないと、叱る人がいない時、子どもが成長して親が怖くなくなった時に困った事になってしまいますよね。それを叱るだけで済ましてしまっているのは親の都合の押しつけなのではないでしょうか。そして、実際叱られてばかりの子どもは叱らなければいけないようなことばかり繰り返すのです。親が叱らないから間違ったことをするのではなく、禁止するばかりで子どもがやりたい、求めていることを支えてあげないから間違ったことをして親の気を引こうとしているのです。叱られてばかりいる子どもは寂しいのです。では、なぜ叱ることしかしないのでしょうか。もっといっぱい遊んであげれば弟や妹をいじめないかも知れません。一緒に遊んであげれば、他の子に意地悪なんかしないかも知れません。生活のリズムを整え、スキンシップを増やし、一緒に歌ったり、お話を聞かせてあげることで子どもの問題行動が減るかも知れません。そのような、“お母さん自身がやるべき事”をやらなくて、子どもの行動を禁止するだけでは子どもはいつまで経っても叱られるようなことしか出来ないのです。禁止することがしつけではありません。叱るのがしつけでもありません。子どもが生き生きとし、自分に自信を持ち、生活の様々な場面で自分の判断で適切な行動が出来るように育ててあげるのがしつけなのです。それに、叱ってやめさせても子どもがそのような繰り返しで学ぶのは“お母さんの言うことを聞かないと叱られる”ということだけです。子どもにはお母さんがなぜ叱っているのか、その意味など分からないからです。結局、何のしつけにもなっていないのです。続きます。
2008.09.07
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世の多くのお母さん達が“悪いことをしない子”を育てようと一生懸命です。ですから、お母さん達は子どもの“悪いところ”ばかり見ようとしています。そして、お母さんにとって都合の悪いこと全てを“悪いこと”として叱り、やめさせようとしています。それは、お母さんの心とからだに余裕がないからなのですが、その背景には子どもの成長に対する無知と、自分の心とからだのセルフケアが出来ないことと、自分とは違う価値観、考え方の相手とのコミュニケーション能力の欠如、そして孤独などがあります。以前、モアイさんが>森の声さんの文章を読んで悲しくなってくるのは、>お父さんが全く仲間に入れてもらえていない事です。と、コメントを下さいましたが、子育てで苦しんでいるようなお母さんはお父さんとのコミュニケーションもうまくいっていない場合が多いのです。悩み相談で色々と聞いていって、“お父さんはどう言っているんですか”と聞くと、“そのお父さんが問題なんです”と言われることもよくあります。お父さんは競争社会の人間です。また、子どもの頃から世話を受けるばかりの生活をしてきました。昔なら、男の子には男の子の責任と役割があり、そこで父親としての能力も育てることが出来たのですが、今ではお母さんの世話を受けるだけの生活の体験しかないまま大人になってしまっている“男の子”が本当に多いのです。(最近よく聞くのがお休みの日に、自分の部屋にこもってゲームばかりしているお父さんの話です。休日を自分の“趣味の日”と考えているのです。)ですから、家族の中でリーダーシップも取れないし、また奥さんや子どもとコミュニケーションを取る能力も持っていないのです。それはお母さんも同じなので、ご主人とのコミュニケーションの方法が分かりません。それで、結果として文句を言うだけになってしまうのです。すると、ご主人は協力する気がなくなります。お父さんだって手伝いたいとは思っているのです。でも、どうしていいのか分からないのです。だから一緒に話し合い、相談すればいいのですが、そこで文句ばかり聞かされていたら“もういい、おまえに任せた”という事になってしまうのです。かといって、それはお母さんにもどうにも出来ないことです。だから夫婦関係が平行線になってしまい、お母さんは孤独の中で子育てをしなければならなくなってしまうのです。それで、苦しくなり子どもの起こすトラブルに冷静に対処出来なくなるのです。孤独な人はとにかくトラブルが怖いのです。でも、そうしてお母さんが子どもがトラブルを起こさないように監視していると、子どもは“悪いことをすればお母さんが自分に気持ちを向けてくれる”と言うことを知ります。よいことをしても無関心なのに、悪いことをした時には自分に関心を持ってくれるのです。それで子どもは安心するのです。そして、トラブルを繰り返します。続きます。***************************以下はワークのお知らせです。★「自分のからだと向き合う、感情と向き合う」9月11日(木) 10時10分~11時50分神奈川県民サポートセンター(JR横浜駅の近くです)お部屋はミーティングR709参加費は1500円保育もありますが、保育が必要な人は別途保育料が必要になります。自分のからだと向き合ってからだの声を聞いたり、簡単なセルフケアなどをお伝えします。また、からだを通して聞こえてくる自分の感情などにも耳を澄ましてみましょう。あまり広くない部屋なので、大きな動きが必要なものはやりません。でも、じっくりお話が出来ると思います。持ち物:バスタオル、ヨガマットのような、下に敷くもの(床に座ったり、横になったりします)服装:動きやすい服装(スカートやからだを締め付けるような服装は不可です)問い合わせ、お申し込みは松本和夏さんにお願いします。******************************★都筑区で以前やった「表現ワーク」の二回目です。日時:9月29日(月曜日)10:00~12:00(15分前にお越しください。場所:「架け橋都筑」(電話045‐943‐4058)の一階、多目的ホール 。(車は都筑区役所におけます。)参加費:1600円今回は、イメージを使って動いたり、何かになってみたり、声を出したり、また言葉を手がかりに自分の感情に触れていくようなことをやります。」参加希望の方は、9月20日頃までに、星野さんまで連絡をお願いします。
2008.09.06
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“ゴメンナサイ”という言葉は相手に詫びる言葉で、“ありがとう”は相手に感謝する言葉です。両方とも自分の心の表現ですから他の人が強制することではありません。自発的に出てきた言葉だからこそ心の表現になるのです。これは、“きれい”とか“おいしい”という感覚を表す言葉と同じです。“きれいって言いなさい”とか、“おいしいって言いなさい”などと無理に言わせても何の意味もないことは誰にでも分かることです。それに、そのような言葉を強制して言わせていると自分の心や感覚に対する感受性が育って行かなくなります。“お母さんが作ったお料理だからおいしいでしょ! 美味しいって言いなさい。”などとやっていたら“おいしい”という感覚が育たなくなってしまうのです。“おいしい”という感覚を育てるためには、子どもが美味しそうに食べている時に“おいしいねー”と声を掛けたり、一緒に美味しいものを食べた時に子どもの顔を見て、美味しそうな顔をして、“おいしいねー”と言うしかないのです。嫌々食べている子どもに対して“おいしいでしょ、おいしいって言いなさい”とやっていたら“おいしい”という感覚が育たなくなるのは当たり前のことです。“きれい”とか“たのしい”とか、“うれしい”などという感情や感覚も同じです。このような感情や感覚を育てるためにはお母さんがその時々でからだと言葉できちんと表現してあげることが必要なのです。そのようなお母さんの姿を見て、子どもは手の使い方、歩き方、話し方を模倣するように感情や感覚も模倣していくのです。そして、それを表現する言葉の使い方も学んでいくのです。それは、“ゴメンナサイ”と“ありがとう”も同じです。でも、多くのお母さんが子どもに“ゴメンナサイと言いなさい”と強制しています。でも、そういうことを続けていたら相手の心を思いやる心が育たなくなります。“ゴメンナサイ”と言えば許されてしまうからです。“ゴメンナサイ”の強要は子どもの優しさの育ちを阻害してしまうのです。そして、見かけの“優しさごっこ”しかできなくなります。実は、“ゴメンナサイ”という言葉は7才前の子どもには理解できないのです。どうしてだか分かりますか。なぜなら、それは相手の立場に立って考えないことには使えない言葉だからです。そうですよね。そして、7才前の子どもは自分のことは分かっても相手の心のことまでは分からないのです。それは生理的に分からないのです。脳がまだそういう状態なのですから。自発的な“ゴメンナサイ”はその相手の立場に立って、相手を傷つけてしまったという自覚から出てくるのです。その自覚がない“ゴメンナサイ”はトラブルを避け、相手の非難から逃げるための方便に過ぎません。つまり、強制された“ゴメンナサイ”は子どもに対して本当の“ごめんなさい”とは正反対の働きかけをしているのです。“ゴメンナサイ”が上手に言えるようになってしまった子は自分の身を守ることが上手になった子であり、本当の意味での優しさを失ってしまった子なのです。そのような子は見せかけの優しさを演じることは出来ても、本当に相手が喜ぶような言葉かけや行動ができないのです。それに対して、“ありがとう”はそのまま自分の感情の表現です。相手の立場に立つ必要はありません。だから、幼い子どもでも“ありがとう”という言葉は理解できるのです。だから(ゴメンナサイではなく)もっともっと子どもたちに“ありがとう”を伝えて欲しいのです。それに、素直に“ありがとう”が言える子は無理に“ゴメンナサイ”を言わせなければならないような困った行動はしないものです。ただし、これも強制されてしまったら意味が分からなくなってしまいます。自分の感覚や感情を表現する言葉を強制してはいけないのです。そういうことをしているから、自分を素直に表現できない大人になってしまうのです。“ごめんなさい”も“ありがとう”も、お母さんや周囲の大人が日常的に使っていれば子どもはその姿を見て自然に学んでいくのです。他にも、“おいしい”、“きれい”、“たのしい”、“うれしい”、“かなしい”などという言葉も同じです。そういう感覚や感情を表す言葉を生活の中でいっぱい使うのです。そうすると、子どもは言葉を覚えると共にその感覚や感情にも目覚めるのです。それが心の世界への気づきにもつながり、結果として優しさも育っていくのです。“優しくしなさい”と怒鳴っていると、要領のよい見かけだけの優しさを演じることが得意な子に育ちます。そして、“みんながありがとうって言ってくれない”と文句を言うでしょう。他の子に対して、“○○ちゃん、ありがとうって言わないからいけないんだ”とか、“ゴメンナサイを言わないからいけないんだ”とか言い立てる子どもはそのようにしつけられているのでしょう。もし、ご自分のお子さんがそのような状態なら即刻“ゴメンナサイ”を強制することをやめてください。そうでないと“優しい子”ではなく、“優しさを演じるだけの子ども”になってしまいます。
2008.09.05
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昔、人々が大家族で暮らしていた時、家族の中心に年寄りがいました。農家などの家の中心には囲炉裏があり、村の中心には神社や広場がありました。そして、心の中心には神様や仏様がいました。その中心は多くの場合積極的には動かずただそこにいるだけの存在です。でもみんながそれを大切にしていて、そこに集まってくるのです。その“中心”は価値があるから大切なのではありません。その逆に、みんなが大切にしているからそのものが中心としての価値を得るのです。競争社会の中ではその競争に参加できないものはただの“お荷物”です。競争に参加しているものだけが収入を得ることができるのです。そこで“勝ち組”と“負け組”が生まれます。その競争社会には中心がありません。みんな同じ方向を向いて競争しているのです。さらに、そのゴールに希望はありません。勝っても、負けても一人なんです。どんなに巨額の富を得ても心からのつながりを感じる仲間に支えられることのない人は孤独です。そして富で孤独を誤魔化すことはできても、満たされることはありません。今、一国の頂点まで登りつめた人の孤独をテレビで演じています。競争社会では障害を持った子、お年寄りはその競争からはずされ、孤独の中に置き去りにされてしまいがちです。だから、後期高齢者などという表現で呼ばれるのです。クラスの中に車いすでしか動くことが出来ない障害を持った子がいるとします。その子はクラスの役には立たないかも知れません。それどころか他の子の手を借りないと学校の中の移動も出来ないでしょう。でも、その障害を持った子をみんなで大切に守ってあげようとする時、その子は中心になります。そして、中心としての価値を得ることが出来ます。そして、その子を中心にクラスのみんながつながり、まとまることが出来ます。そして、みんなが元気になるでしょう。ただしそれは強いものが弱いものを守るとか、お金を持っているものがお金を持っていないものを養うとか、能力があるものが能力のないものを助けるというような、上から下へのつながりではありません。それは“あわれみ”であって、“あわれみ”では中心は生まれません。“かわいそうだから守ってあげよう”ではないのです。それは“イジメ”と同じ構造です。そして、実際その哀れみを受ける立場の人が素直でない場合その援助は簡単にイジメへと変換してしまいます。そうではないのです。そのように競争からはずれた存在と触れ合う時、人は本当の自分と出会うことが出来るのです。だからそういう存在が大切だし、ありがたいのです。人は老人や子どもや障害を持った人たちのように競争からはずれた存在によって生命や自然の真理に触れることが出来るのです。赤ちゃんが産まれた時、家族のみんなが赤ちゃんをありのままの状態で受け入れる時、その赤ちゃんは家族の中心となり、家族のみんなが生命の神秘に触れることが出来ます。そして家族のつながりも深まるでしょう。でも、その赤ちゃんを早いうちから競争レースに参加させようとしてしまうと子どもはただの未熟な存在になってしまいます。そして、生命の神秘に触れることもないでしょう。そんなものはかえって子どもの成長を阻害するものにしか見えなくなってしまうかも知れません。生命の神秘は大人の思い通りにはならないからです。その中心は与えられるものではありません。“ありがとう”という気持ちを持てばそこに中心が生まれるのです。道ばたに咲くお花に対してでも、毎朝の朝日に対してでも、子どもに対してでも、“ありがとう”と言ってしまえばそこに中心が生まれるのです。人が“ありがとう”という気持ちを持つ時、“ありがたいこと”がやってくるのです。でも、自分が中心でいたい人に限ってその“ありがとう”が素直に出てこないのです。そして、孤独な人ほど自分が中心でいたがるのです。だからズーッと孤独なままなのです。また、自分が中心でいたがる人は競争したがる人でもあります。今、そういう人たちばかりがいっぱい増えてしまっています。
2008.09.04
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ブログでもご報告したとおり先週の土・日と総勢47名で泊まりがけで遊んできました。半数くらいは幼稚園児と小学生の子どもたちです。でも、この会は初めて参加してくださった方にとっては非常に奇妙な会に思われたのではないかと思います。普通、このようなイベントを企画する場合は、細かくプログラムを決めたり、料理のメニューを決めたりしますよね。でも、冒険クラブの集まりではそのプログラムも、食事のメニューもないのです。ですから、“そろそろ食事の準備をするから遊びをやめて集まれ”などというような呼びかけはありません。簡単に言ってしまうと、冒険クラブではみんなで一斉に同じことをする、同じことをしなければならないという発想自体がないのです。食事のメニューは各自考えてきてもらっています。そのメニューに必要な食材も基本的に持参してもらっています。それで、各自が色々なお料理を作ってバイキングのようにテーブルに並べて自由に取って食べるのです。その時、自分で作りたいメニューがなかった人は、他の人のお手伝いに入ります。結果として少人数グループでのお料理作りになります。ですから、食事は単一のメニューではなく非常に多様性のある、豪華なものになります。珍しい料理もいっぱい並びます。また、“○○時にご飯だよ”というような大まかは時間配分があるだけで、“○○時から夕食づくりの準備”というようなきまったプログラムもありません。結果として○○時にご飯が食べられるように自分で考えて動いてもらっています。ですから、数人のお母さん達が一生懸命にお料理を作っている時に、別のお母さん達は子どもたちと遊び回っているという状況が生じます。普通は、これで怒り出す人もいるのでしょうが、冒険クラブではそれもOKです。遊んでいる人がうらやましいと思うのなら、自分も遊べばいいのです。妬んだり、非難する必要などありません。“それじゃあ、ご飯が食べられなくなってしまうじゃありませんか”と反論が来るかも知れませんが、私は“それもそれで面白いかも”と思っています。みんなが“誰かがやってくれるだろう”と思って、食事の時間に集まったら何にもお料理がなかったらみんな慌てますよね。そうしたら、そこから食事を作り始めればいいだけのことです。その時、大切なことは人を非難しないことです。人を非難し始めたらそこで流れは止まってしまいます。そして、分裂してしまいます。でも、非難しないでみんなでその状況をどうにかしようと知恵を出せばちゃんと流れていくのです。非難合戦にならなければちゃんと結果はうまくいくのです。そして、分裂どころかつながりも強くなります。子どもたちだって一生懸命に手伝うでしょう。ちょっと食事の時間が遅くなるだけのことです。私は、この会の参加者が決まった段階でメーリングリストを作りました。そして、上に書いたような考えを流しました。長くこの会に参加している人にとってはこのような私のやり方はもう周知のことですが、新しく参加してくださる方にもしっかりと伝えておかないと混乱が起きるからです。食事のメニューに関しても“私は○○を作ろうかな”などと、各自そこで申請してもらいました。そして、“私は○○”とか、“私はアイデアがないから△△さん一緒に混ぜてください”というやりとりがありました。私は、情報の公開とコミュニケーションというものを非常に大切に考えています。少数の人が企画して、その企画通りに動くのではなく、コミュニケーションによるつながりによって各自で考えて動くのです。そして、それでちゃんとうまくいくのです。私は、人間の賢さと優しさを信じています。だからそれに任せているのです。でも、プログラムやマニュアルで人を動かそうとする場合はその人間の賢さは否定されてしまいます。だから、受け身になってしまうし、生き生きとしてこないのです。そして、文句ばかりが出てきます。私はそのメーリングリストで、“人に迷惑をかけない範囲で自分の自由に動いて参加してください”というようなメッセージを流しました。ですから、遊んでいる人たちがいる時にお料理を作ってもいいし、お料理を作っている時に遊んでいてもいいし、また寝ていてもいいし、話し合っていてもいいですよ、ということです。なんといい加減な会なのでしょうか。これではバラバラになってしまうし、混乱してしまうに違いないと思われるかも知れませんが決してそうはならないのです。ここで視点を変えてみましょう。あるお母さんがお料理を作っている時、遊んでいるお母さんがいます。でも、そのお母さん達の周りには遊びたい子どもたちが集まって来ます。そして、一緒に遊んでいます。お料理を作っている自分にはできないことをそのお母さん達はやってくれているのです。これはありがたいことです。遊んでいるお母さん達にしても同じです。自分たちが遊んでいる時に手の込んだ美味しいお料理を作ってくれている人がいるわけですからありがたいことです。子どもたちは遊び回って笑顔と喜びをいっぱいまき散らしています。子どもの笑い声がすると元気が出ます。これもありがたいことです。そもそも現代人は“何かをしなければならない”という強迫観念にとらわれすぎです。資本主義の社会では何かをすることで対価を得ています。仕事をしないと生きていけないのです。ですから、人間の価値は仕事が出来るかどうかで決まってしまいます。そのため、昔の教育では人間性を育てていましたが、現代では仕事が出来る人間を育てる作業になってしまいました。人間性には価値がないからです。このような社会では、何にも出来ない子どもや老人や障害を持った人たちの価値は肯定されません。“いてくれるだけでありがたい”という価値は社会的に受け入れられないのです。でも、この“いてくれるだけでありがたい”という発想というか、考え方は非常に大切なんです。この考え方があるから人と人はつながることが出来るのです。寝ているだけの人でも側にいてくれるだけでありがたいのです。何かをしてくれるからありがたいのではないのです。そして、この“ありがたい”という考えがあったから昔の人たちは自然と共生することができたのです。花が咲くありがたさ、実がなるありがたさ、魚や獲物が捕れるありがたさ、風が吹き、雨が降るありがたさ。子どもの笑顔のありがたさ、そういうものを感じることが出来たから自然と共に生きることが出来たのです。そういうものを想い出していきたいのです。
2008.09.03
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今日は8月30日にやまっこさんから頂いた森の声さんの>しつけでは子どもの感情を納得させることが非常に大切なことなんですはどのようにしたらいいのですか。というご質問に答えさせていただきます。子どもは理屈で納得するのではなく感情で納得します。ですから、同じことを言っても大好きな先生が言った時には素直に納得しますが、嫌いな先生が言った時には納得しません。子どもは真偽を判定する能力がないので、信頼できる人かどうか人を選ぶのです。ですから、子どもの感情を納得させるためにはまず子どもとの間にしっかりとした信頼関係が必要になります。ただ、嫌いな人には叱られたくないので、嫌いな人の言うことは守るという場合もあります。でも、納得しているわけではないのでその行動は表面的です。ですから、その人がいなくなると平気で言われたことを無視してしまいます。その逆に好きな人に叱られても子どもは怖くありません。むしろ叱られたいこともあります。ですから。わざとあまり言うことを聞かないこともあります。でも、それは関わりを求めているだけで、言われたことはちゃんと分かっていることも多いのです。ですから、そういう場合はその人がいない時には結構ちゃんとやっているのです。家ではやっていないのに、幼稚園や学校ではちゃんとやっている場合などそういうことです。ですから、結果を強制するのではなく、怒らず、気長に伝えていけばいいのです。大切なのは親の見ている前でちゃんとやるかどうかより、親が見ていないところでもちゃんと出来るかどうかの方ですから。子どもはやがて親から離れていくのですからそれでいいのです。また、子どもは楽しいこととつながるのなら納得します。お片づけでも、楽しければやるのです。感情が納得するからです。以下は、私が出している通信の中に書いた文章の一部です。 また“しつけ”も、子どもの笑顔が消えるようならそのしつけの内容か、もしくはそのやりかたが間違っています。 例えば、他の子をぶたないようにしつけるのではありません。それでは子どもの笑顔は消えていきます。そして、いつまでたってもそのしつけは実を結ばないでしょう。子どもはただ否定されるだけだからです。 そうではなく、他の子と仲良く遊ぶことが出来るようにしつけるのです。そうすれば笑顔が増えます。そして、結果として他の子をぶつことはなくなります。子どもは自分が肯定されたり、楽しいことは受け入れますが、楽しくないことは受け入れないのです。 これは理屈ではなく、子どもの本能なんです。だから、この本能を無視したやり方は必ず失敗します。 もし、勉強をさせたいのなら勉強を強制したら逆効果です。そうではなく、勉強することの楽しさを教えるのです。そうすると笑顔が増えます。 子どもが騒いでうるさいのなら、“静かにしろ!”と怒鳴るのではなく、静かに遊べる遊びを教えてあげてください。それが楽しいものなら子どもは自然と静かになります。 子どもがお手伝いをしないのなら、お手伝いが楽しくなるようにお母さんと一緒にお手伝い遊びをしてください。子どもはお母さんと一緒なら楽しくなるのです。一人でも出来るようになるのはその楽しさを充分に味わってからです。 子どもの笑顔が育つように子育てをしているのなら特別な教育方法などに頼らなくても、子どもは素敵な大人に育つのです。“感情を納得させる”ということはこういうことです。
2008.09.02
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コメントに対するご返事は明日書かせていただきます。土、日と山北にある「ペガススの家」で思いっきり遊んできました。前日が雷雨で、川遊びができるかどうか心配したのですが、現地に向かう途中の川の下流は濁流になっていましたが、「ペガススの家」はかなり上流なので水もそれほど濁っていなくて、水量も少し多いくらいでなんとか遊ぶことができました。(大人達は適当な位置にいてちゃんと子どもの安全を見守っていました)この「冒険クラブ」のメンバーはとにかく大人が元気です。子どもより大人がはしゃいでします。だから、子どもたちも巻き込まれていっぱい遊んでしまいます。この時も子どもたちはしばらく遊んで“もういい”と上がってしまったのですが、大人達がいつまでもはしゃいで遊んでいるのでまた水着に着替えて遊び始めました。「冒険クラブ」の大人達は昔楽しく遊んだ記憶をいっぱいもっています。だから、すぐに子どもに戻って遊ぶことが出来ます。でも、今その記憶を作っている状態の子どもたちには遊びのリーダーが必要なんです。滝行です。ここは普段はちょろちょろしか流れていないところです。でも、これだけの水量がありました。例年滝ジャンプで使っている場所は初日は水が多すぎて無理でした。でも、二日目は快晴で水もかなり引いたので、小学生を中心に「滝ジャンプ」をしました。でも、私はパン焼き窯に火を入れるのが忙しくて写真はありません。これは夜の遊びです。グループに分かれてテーマを考えて簡単な劇遊びをしました。このグループは茅ヶ崎名物「烏帽子岩」の物語です。観客達です。総勢47名でした。次は富士山の生い立ち富士山です。これはオリンピックにちなんで「シンクロナイズドスイミング」です。この華麗な演技をご覧下さい。パン焼きの竈ですドラム缶風呂焼き上がったパンパン生地を竹に巻き付けてたき火で焼いて「まきまきパン」もやりました。そして、スイカ割り。今年のスイカ割りは豪勢でしたよ。なんたってスイカが8個もあったんですから。農業をなさっている参加者からの寄付です。他にも野菜をいっぱいいただきました。有り難うございました。
2008.09.01
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