アフィリエイト広告を利用しています
<< 2024年02月 >>
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

posted by fanblog

2019年08月19日

チェコの君主たち3(八月十七日)





 南東のハンガリー、北東のポーランドの拡大傾向に歯止めをかけられなかったボレスラフ3世は、即位直後から、ボレスラフ2世が獲得した領地を失うだけでなく、プシェミスル家内部にも混乱を引き起こした。ボレスラフ3世は、弟のヤロミールとオルドジフに君主の地位を奪われることを恐れ、二人を捕らえて、子孫を設けられないように去勢するようにという命令を出したのだ。
 ここでも無能だったのか、弟二人は、母と共にドイツ(東フランク)のバイエルン地方に逃げることに成功する。この短慮な行為が、領域内の貴族、豪族たちの反感を買い、ボレスラフ2世のもとでスラブニーク家を族滅するのに功績があり、有力な氏族となっていたブルシュ家に率いられた反乱が起こってしまう。ボレスラフ3世は、鎮圧に向かうどころか、身の危険を感じてドイツを経てポーランドに逃げ出してしまうのである。


 ブラディボイは自らの地位を固めるために、ドイツ王のハインリヒ2世に臣従し、ボヘミアに封じられるという手続きを取った。これによって、後にチェコが神聖ローマ帝国の領邦の一つとなることが決まったのである。ただ、このブラディボイという人は、極度の左利きだったらしく、翌1003年にはアルコール依存症の果てに亡くなってしまったらしい。

 ブラディボイの死後に君主となったのは、逃亡先のドイツ王ハインリヒ2世の協力でチェコに戻ることができたボレフラフ3世の弟ヤロミールだった。しかし、すぐにポーランドのボレスワフ1世の助力を得て帰国したボレスラフ3世によって追いやられてしまい。権力を掌握することはできなかった。
 チェコの君主の座にはボレスラフ3世が復帰したのだが、逃亡の原因となった反乱を主導したブルシュ家に対する復讐の念を忘れず、族滅の指示を出し、自ら娘婿の首を切ったらしい。これがまた国内に大きな混乱を引き起こし、保護者であるボレスワフ1世としては、ボレスラフ3世をポーランドに呼び寄せるしかなかった。呼び寄せて目を潰し、牢獄に幽閉したのである。この悪夢のような君主は、1003年から1037年に亡くなるまで牢獄の外に出ることはなかったという。

 操り人形のボレスラフ3世を通じてのチェコ支配に失敗したボレスワフ1世だが、今度は自らチェコの君主となる。すでにこの当時にはモラビアやシレジアをプシェミスル家から奪い取っていたし、ボレスラフ1世の孫でもあるので、チェコの君主になる正当な権利があると主張していてプラハン軍勢を進めた。ちなみにこの軍の中に加わっていたのが、スラブニーク家の族滅を逃れた最後の一人である。復讐のためにチェコに戻ろうとしていたのだろうか。
 一方、ボレスワフ1世は、ドイツに対しては、ボヘミアを封領として与えられるという形式を踏むことを拒否し、ドイツ王のハインリヒ2世と対立することになる。ハインリヒ2世は自ら軍を率いて、ボヘミアに侵攻し、1004年にはポーランドの軍勢をプラハから追放することに成功する。ハインリヒ2世がボヘミアの侯爵位に就けたのは、二度目となるヤロミールだった。ヤロミールが君主の座にあったのは1012年までで、弟のオルドジフの主導するクーデターで君主の地位を追われた。

 オルドジフは、久しぶりに軍事的にも成功した君主で、ポーランド軍のボヘミア侵攻を何度か跳ね返し、1019年か1029年にモラビアをポーランドの手から取り戻し、息子のブジェティスラフに統治させた。しかし、神聖ローマ帝国のコンラート1世と対立し、1033年に皇帝によって幽閉されてしまう。ちなみに、即位直後の1014年には、兄のヤロミールを支援したことをとがめて、ブルシュ家の生き残りを虐殺している。

 幽閉されたオルドジフに代わって、ヤロミールが三度君主の座につくのだが、今回も一回目と同様長続きしなかった。オルドジフが1034年に解放されてプラハに戻ってきて、再度権力を掌握するのである。そして、兄の目を潰し投獄する。オルドジフ自身は、同年のうちにどうも食べ過ぎ飲み過ぎで亡くなってしまう。
 目をつぶされたヤロミールは、甥のブジェティスラフの即位を認め、権力を求めないことで生き残りを図ったようだが、なぜかブルシュ家の生き残りによって復讐のために暗殺されてしまう。ブルシュ家の族滅を計ったのは、兄のボレスラフ3世と、弟のオルドジフのはずなのだが、復習の牙は兄弟の最後の生き残りに向けられたのである。

 名君と言ってよさそうなボレスラフ2世の統治したチェコは、息子たちの、言ってみれば兄弟げんかによって、他国の介入を招き、崩壊の危機に瀕した。最後に末子のオルドジフが多少立て直したようだけど、その息子のブジェティスラフの統治や如何にというところで、以下次回である。

  プシェミスル家の君主?
   7代 ボレスラフ(Boleslav)3世 999〜1002年
   8代 ヤロミール(Jaromír)    1003年
   —— ボレスラフ(Boleslav)3世 1003年
   —— ヤロミール(Jaromír)    1004〜1012年
   9代 オルドジフ(Old?ich)    1012〜1033年
   —— ヤロミール(Jaromír)    1033〜1034年
   —— オルドジフ(Old?ich)    1034年

 一世代3人の君主で、3代というべきなのか、7代というべきなのか。これに以下のピアスト家の君主が加わるのだから、この時期はややこしい。そして血まみれの時代である。


  ピアスト家の君主(ポーランド)
   1代 ブラディボイ(Vladivoj)  1002〜1003年
   2代 ボレスワフ(Boleslav)1世 1003〜1004年

 ただし、ブラディボイがピアスト家の出身かどうかには異論があるようである。またボレスワフ1世は、チェコではボレスラフ・フラブリーと呼ばれている。

 この血まみれの時代、日本では道長の全盛期じゃないか。ちょっと足が出るけど。『拾遺和歌集』の時代である。
2019年8月17日22時45分。














この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9091197

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。

Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: