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2021年01月05日

チェコの君主たち10(正月二日)





 プシェミスル・オタカル2世が。ハプスブルク家のルドルフ1世との争いに負け、モラフスケー・ポレの戦いで命を落とした後に残されたのは、まだ幼少のバーツラフ2世だった。当時7歳だったバーツラフは、父の同盟者だったブランデンブルク家のオットー5世によって幽閉されてしまう。チェコの貴族たちの要求が通ってバーツラフが解放されてチェコの王位についたのは5年後の1283年のことだった。
 御年12歳のバーツラフがすぐに親政をとるというわけにもいかず、実権を握ったのはバーツラフ2世の母クンフタの愛人ファルケンシュテインのザービシュだった。この男は、性的な魅力で女性権力者に取り入って出世し実権を握った人物とされる。日本史上の道鏡みたいなものだといえばわかりやすいか。ザービシュの名前をポルノ映画の俳優が芸名とするぐらいにはよく知られた存在らしい。



 南方のハプスブルク家のオーストリアは避けて、バーツラフ2世の領土拡張の対象となったのは東方だった。まず1300年に、何度目かの試みでポーランド王位の獲得に成功する。これは武力で成し遂げたのではなく、最初のハプスブルク家から迎えた妻が亡くなった後、后としてポーランド王プシェミスウ2世の娘エリシュカ・レイチカを迎え入れたことで達成された。
 当時のポーランドは大分裂時代とも言うべき、国内を統一する王のいなかった長い時代が終わり、プシェミスウ2世によって再統一されたばかりで、その死後に王権の強化を嫌う貴族たちによって都合のいい王として選出されたのがバーツラフ2世だったのだ。おそらくバーツラフ2世の側からの売り込みもあったのだろうけど、貴族たちが国内で実際の政を摂るということで話がついていたのだろうと思われる。

 同様のことはハンガリーでも起こり、1301年にアールパード朝が断絶したときに、母クンフタがハンガリー王の娘だった関係で、貴族たちの決断によってバーツラフ2世に王位が提供された。バーツラフ2世はそれを息子のバーツラフ3世に与え、プシェミスル家がチェコ、ポーランド、ハンガリー三国の王位を占めることになった。武力で征服したわけではないので、三国に君臨したというと誇張になってしまうのだろうけどさ。
 バーツラフ2世の治世は、比較的安定したとされるが、それを支えたのが、13世紀末にクトナー・ホラで発見され、採掘が始まった銀である。この銀でプラハのグローシュと呼ばれる新たな銀貨を鋳造することで通貨制度の改革が行われた。その結果が、ポーランド、ハンガリーの王位の獲得であり、文化的にも豊かで安定していたとされるバーツラフ2世の治世なのだろう。

 残念ながらその安定した時代は長続きせず、バーツラフ2世は1305年に結核で亡くなってしまう。跡を継いだのは、まだ十代半ばだった息子のバーツラフ3世である。参考にしている子供向けの絵入りの本によれば、即位当初は典型的な放蕩息子で酒色におぼれる生活をしていたらしいが、やがて立ち直り君主としての職務を勤勉に果たし始めたという。放蕩を続けていれば暗殺されることもなく、プシェミスル王朝は、力を落としながらも存続した可能性もあったのかも知れない。
 妄想はともかく、バーツラフ3世は即位した1305年の時点で、負担にしかなっていなかったハンガリーの王位を手放すことを決める。1306年には、ポーランドで反乱が起こり、鎮圧に向かうために軍勢を集めたオロモウツで暗殺されてしまう。誰がどんな目的で暗殺したのかは現在もはっきりわかっていないようだ。聖バーツラフ大聖堂前のバーツラフ広場が暗殺の舞台だと思い込んでいたのだが、実際には建物の中でくつろいでいるところを襲われたようだ。

 かつて高校で世界史を勉強したときには、神聖ローマ帝国には選帝侯なるものが存在して皇帝が選挙で選ばれたというのを知って、妙に感心したものだが、王を貴族たちの選挙で選ぶというのは実はこの辺りではよくある話だった。王朝の断絶時には貴族たちの選挙でどこの国から新たな王を連れてくるかが決まるし、選挙自体が分裂して内戦になることもあるけど、後継者間の争いが起こったときにも貴族たちの意向で後継者が決まることがある。
 ということで後継者のないまま亡くなったバーツラフ3世の死によって、プシェミスル王朝は断絶し、誰を次のチェコの王座にすえるかを巡って国内外で争いが巻き起こることになる。

 プシェミスル家の君主?I
  29代 バーツラフ(Václav)2世 1283〜1305年
  30代 バーツラフ(Václav)3世 1305〜1306年

 プシェミスル・オタカル2世の亡くなった1278年から、バーツラフ2世が即位する1283年までの期間は空位扱いでいいのかな。
2021年1月3日24時。











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