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2019年08月25日

チェコの君主たち4(八月廿三日)




 ブジェティスラフ1世は、母親の身分が低かったために、妻を迎えるのに苦労するだろうと予測されていたようだが、父親と同じ方法で解決した。つまり、正妃となれる身分の高い女性を誘拐してきて結婚したのである。修道院で育てられていたバイエルン公爵家の娘を、信頼できる部下と共に忍び込んで誘拐しチェコに連れて帰って来て、モラビアへも一緒に向かったのだとか。5人の息子に恵まれたというから、誘拐から始まったとはいえ良好な夫婦関係を築けたのかな。
 君主の地位についたブジェティスラフ1世は積極的に軍事行動を行い、1039年にはポーランドの中心ともいえるグニェズノの街を占領することに成功する。この街にはスラブニーク家の族滅を生き延びたもう一人、元プラハ司教のボイテフの墓があり、バルト海沿岸の異教徒への布教中の殉死をたたえられて列聖された聖ボイテェフの墓の前で、チェコにおける最初の基本法典の発布したらしい。
 このとき、聖ボイテフの遺骸をチェコに持ち帰ったのだが、以後、チェコとポーランドの間で、聖ボイテフをめぐる争いが巻き起こることになる。記憶違いかもしれんけど。

 このブジェティスラフ1世の積極的な軍事行動は、神聖ローマ帝国のハインリヒ3世との間に対立を生み、1040年に皇帝軍によるボヘミア侵攻が行われた。このときは撃退に成功したものの、翌年の再侵攻の際には、ブジェティスラフ1世は皇帝に降伏し忠誠を誓わされることになる。以後はポーランドではなくハンガリーのほうに勢力を拡大していった。
 最後のブジェティスラフ1世の功績としては、死を前にして、プシェミスル家の相続のルールを制定したことが挙げられる。以後、プシェミスル家の最年長の男子が君主の地位を継ぐように定められたのである。

 ブジェティスラフ1世の死後、跡を継いだのは、長子のスピティフニェフ2世だった。同時に、3人の弟たちには、モラビアを三つに分割しその統治が任されたという。コンラートはブルノ、オタはズノイモ、 ブラスティスラフ ブラティスラフ はオロモウツをそれぞれ任された。ただし、これはスピティフニェフ2世の意志ではなく、父のブジェティスラフ1世の意志で、スピティフニェフ2世は実権を掌握するとともに、三人の兄弟から領土を取り上げてプラハに呼び戻したという話もある。
 とまれ、これが領地を与えて分家を建てさせる目的でなされたのか、単に統治を任せただけなのかはわからないが、一度廃止されたモラビアの3領土はすぐに復活する。そして、最終的には統合されて、モラビア辺境伯領が成立する。これは12世紀に入ってからのことである。末弟のヤロミールは教会に入ったらしい。

 また、神聖ローマ帝国、つまりドイツとの関係が悪化したわけでもないのに、ドイツ人をチェコから追放する命令を出している。それはバイエルン侯爵家出身の母親も例外ではなく追放の憂き目にあった。ただ、ドイツ人追放を神聖ローマ皇帝がとがめた様子もないことから、追放されたのは母親とその周辺のドイツ人だけだったのではないかとも言われる。正妃もドイツのザクセンから迎えているし。
 スピティフニェフ2世は、父がモラビアの統治をしていたオロモウツで生まれ、即位後6年、1061年にシレジアのオパバの近くで亡くなったらしい。息子は一人いたが、出家して教会に入り、ローマ教皇の側近としてイタリアで活動することが多かったようである。後を継いだのは、すぐ下の弟ブラティスラフ2世だった。ブジェティスラフ1世の定めた最年長者の相続ということですんなり決まったのだろうか。

ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 は、モラビアの支配体制を再編し、ブルノとズノイモを合わせて、コンラートに、オロモウツは オト オタ に任せた。これによってモラビアでは、オロモウツとブルノという二つの街が中心となる現在まで続く(ブルノの連中は否定するだろうけど)伝統が形作られたのである。
 宗教面では、プラハの司教座の影響力を弱めるために、オロモウツに領内二つ目の司教座を設置することに成功する。これが1063年のことで、5年後の1068年にチェコの諸侯たちがプラハの司教として叔父のヤロミールを就任させて、 ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 と対抗しようとしたことを考えると、先見の明があったと言っていい。

 外交の面では、神聖ローマ帝国との関係を重視し、皇帝ハインリヒ4世の要請にこたえて各地の軍事行動で貢献し、またローマ教皇との争いにおいても、皇帝を支持し続けたことで、忠誠に対する感謝のしるしとして、王位を授けられた。それが、1086年のことで、一代限りとはいえ、チェコの君主が初めて王の位を獲得したのである。
 と書いてはみたものの、当時の王の意味がよくわからない。これによって神聖ローマ帝国内でのチェコの地位が上がるのはある程度予想されるが、王になっても皇帝の下であることには変わりないのだし、国内的には君主として諸侯の上に立つ構図は変わりようがない。威信が高まるとかいう効果があったのだろうか。

ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 の30年にわたる治世は、チェコに繁栄をもたらし、ボレスラフ2世の治世に次いで二度目の全盛期と言ってもいいのだが、最晩年にケチがついた。オロモウツを任せていた オト オタ の死後、 ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 は、その地を息子のボレスラフに任せようとしたのだが、それにブルノを統治していた弟のコンラートが反対した。その結果1091年にモラビアへの軍事遠征を余儀なくされブルノを包囲していたのだが、息子のブジェティスラフに反乱を起こされてしまう。
 その結果、 ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 は後継者として、プシェミスル家の男子で最年長である弟のコンラートを指名し、息子のブジェティスラフは、父の怒りを恐れてハンガリーに逃亡する。翌1092年に ブジェティスラフ1世 ブラティスラフ2世 が亡くなると、指名通りにコンラート1世が君主の座につくのだが、わずか8ヶ月足らずで亡くなってしまう。何か陰謀があったようにも思われなくもないが、参考にしている本にも、ウィキペディアの記述からも、特にそのようなことは読み取れない。


  プシェミスル家の君主?C
   10代 ブジェティスラフ(B?etislav) 1世 1034〜1055年
   11代 スピティフニェフ(Spytihn?v)2世 1055〜1061年
   12代 ブラティスラフ(Vratislav) 世  1061〜1092年
   13代 コンラート(Konrád)1世     1092年

 ブルノを統治した期間が長かったせいか、コンラート1世にはブルニェンスキーというブルノからできる形容詞がつけられることが多い。

 この二世代、四人の君主は、藤原頼通の時代と重なるか。最後のほうは院政期に入るけど。もう一つ重要なのは、 チェコ、もしくはボヘミア王 ブラティスラフ1世 (ボヘミアの侯爵としては2世) が仕えた神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、いわゆる叙任権闘争でローマ教皇のグレゴリウス7世と争って、「カノッサの屈辱」事件を起こした人物だということである。神聖ローマ帝国が、皇帝と教皇の対立で揺れている中、ブラティスラフは一貫して皇帝を支持し続けたのである。確か皇帝は実の息子たちにも離反されていたはずだから、王位ぐらいくれるわな。
2019年8月23日24時。













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