今年の最初の二月も、さまざまな意味不明の規制にさいなまれたわけで、この一年もろくな年になりそうにない。老齢に近づく人間ですらそんなことを考えてしまうのだから、本来ならば希望にあふれているはずの若い人たちが絶望のあまりやけくそになってしまうのもわからなくはない。何もしなくても贅沢な暮らしを続けられる老人の命を守るために、若い人たちの権利、特に教育を受ける権利が阻害され、仕事もなく貧困に落ちていくような規制を導入するのは正しいとは思えない。最悪なのは日本のマスゴミが作り出した、若者のせいで感染の拡大が止まらないという誤ったイメージだろうけどさ。
それで、この、せっかく春も近づく三月になったというのに、追い詰められた気分を払うにはどうしたらいいのだろうと考えた。思い出したのは、平安時代の貴族たちが、年々歳々、歳々年々、年中行事を滞りなく挙行することで、新しい年でありながらこれまでと変わらない、つまりは平穏な年を送ることを祈念していたことを思い出した。もちろん平安時代にも道長の権力掌握につながった長徳元年(995)の疫病などさまざまな災害に襲われているけれども、それは怠慢な公卿が多くて儀式がまともに行なわれなかったからに違いない。
医療技術自体も、医療制度も発展した現在ならともかく、すべてが未熟だった平安時代であれば、疫病も天災と呼んでいいものだっただろう。だから、発生した場合の対策としても各地の神社に奉幣したり、寺でお経の転読をしたりすることになったはずだ。奉幣使として遣わす貴族が病気や穢れで行けなくなったなんてこともあったに違いない。長徳元年だと公卿がばたばた亡くなっていたから、誰を遣わすか、どこで何をさせるかを決めるのも大変だっただろう。
何かまた枕の置き方に失敗した気もするけれども、平安時代には三月にどんな年中行事が行われていたのだろうかという話にしたかったのである。年中行事について調べるとなると『西宮記』を使うことが多いのだが、小野宮流の人間としては、儀式を行なうなら公任の『北山抄』か実資の『小野宮年中行事』に準拠するべきであろう。
古記録を読んでいた大学時代から、『北山抄』の存在は知っていたのだけど、手に取りやすい形で刊行されたものがなく、読んだことはなかった。それが二、三年前に、国会図書館のデジタルライブラリーで、古い叢書に収録されて刊行されたものがネット上で後悔されているのに気づいて、全ページPDF化して入手したのだけど、まだ手をつけていない。公任の漢文って読みづらそうだという先入観があるのも手を出すのをためらっている理由のひとつである。
一方実資の『小野宮年中行事』は、「群書類従」、いや続か、続々がついたかもしれないけれども、「群書」のシリーズに入っているから、手に入れやすく、値段もそれほど高くなかったことから、岩波が大日本古記録の『小右記』を予約再販する前には購入して読み進めていた。あまり売れそうにない本を絶版にせず、手ごろな価格で販売してくれる出版社の続群書類従完成会には感謝の言葉しかないのだけど、残念ながらすでに倒産してしまった。岩波が生き残っているのはあこぎな商売しているからだよなあと恨み言がこぼれてしまう。
とまれ、日本を離れる際に処分せずにチェコまで持ってきた『小野宮年中行事』で平安貴族はどんな儀式を三月に行っていたのか確認してみようと思いついたのだけど、例によって長くなったので本題は稿を改める。
2021年3月2日24時。
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