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2017年03月27日

摂関考3(三月廿四日)




6貞元二年兼通の死
 貞元二年四月に兼明が左大臣の地位を去った後、頼忠が左大臣に移り、右大臣には宇田天皇の孫にあたる源雅信が就任する。その後、十月に関白兼通が発病し辞職、その後を左大臣の頼忠が継ぐことになる。兼通はそのまま十一月には亡くなってしまう。このとき兼通五十三歳、頼忠は五十四歳であった。頼忠は翌年太政大臣に就任する。
 『大鏡』には、病床にいた兼通を見舞わずに内裏に向かう弟兼家に対する怒りのあまり、参内して頼忠を関白につけるなどの除目をおこなう兼通の姿が描かれるが、右大臣、左大臣として実績を積んできた頼忠が関白の地位を襲うのは既定の路線だったのではないだろうか。

 兼家はこのとき大納言であり、兼通の中納言からよりはましだとはいえ、ここで一気に関白につけてしまえば、二代連続での異例の関白就任ということになり、貴族社会の反発は避けられなかっただろう。そもそも兼通と兼家の兄弟による確執は、さまざまな混乱を引きおこし貴族社会において評判が悪かったはずであり、九条流に摂関の地位を好き勝手にされたくないという貴族社会一般の風潮もあったはずである。兼通に摂関の地位を譲って藤原氏内部の対立を抑えた頼忠にたいする褒賞の意味もあったのかもしれない。
 頼忠はその後十年ほど関白の地位を保ち、摂関の争いをしばらく沈静化することに成功する。

7永観二年花山天皇即位
 永観二年に円融天皇が譲位し、冷泉天皇の皇子花山天皇が即位する。このとき頼忠と花山天皇の間の血縁関係はほとんどないと言ってもいいのだが、関白として再任されているのは、円融天皇即位時の実頼の場合と同様である。左大臣源雅信、右大臣藤原兼家という布陣も変わっていない。
 花山天皇の生母は、藤原伊尹の娘懐子である。伊尹の子供たちは早世するものが多く、伊尹や懐子の庇護も受けられなかったため、父花山天皇の即位の時点で公卿に昇っているものはいなかった。花山天皇の即位後に引き上げられたのが、藤原義懐である。永観二年に三位に上って公卿に列すると、翌寛和元年には、参議に昇った後、三ヶ月ほど二十九歳で権中納言に昇進する。この急激な昇進は明らかに花山天皇の即位によるものである。
 このまま、花山天皇の時代が続けば、義懐は順調に出世し、頼忠が亡くなるころには、大臣の地位を占めて関白の有力候補となっていたことは疑いを得ない。そんな状況に我慢できなかったのが、藤原兼家であった。

8寛和二年寛和の変、一条天皇即位
 寛和二年の花山天皇の突然の出家とその後の一条天皇の即位は二重の意味で異例の出来事だった。花山天皇が出家したのは、寵愛する女御藤原為光の娘を亡くしたからだと言われるが、その裏に右大臣藤原兼家とその息子たちの暗躍があったとは、『大鏡』などの伝えるところである。今、その詳細に立ち入る気はないが、重要なのは出家することによって天皇たる地位を失い、それが新天皇の即位につながったことである。公卿たちも出家して仏門に入ると、公卿たる資格を失って、公卿名簿である『公卿補任』から姿を消す。花山天皇の即位後に中納言まで昇進していた藤原義懐も、花山天皇の後を追って出家してしまったため、公卿の地位を失うことになる。
 このとき、即位した一条天皇は、円融天皇と藤原兼家の娘詮子との間に生まれており、兼家は天皇の祖父ということになる。だから、兼家が、七歳で即位した天皇の摂政の地位についたのは、一般的な摂関政治のイメージから言えば、当然のように見える。
 一方、関白だった頼忠と天皇との関係は非常に遠く、それが一つの理由となって、一条天皇が即位した際、頼忠は再任せず、太政大臣の地位を保つのみになった。これまで、忠平以来、三度続いてきた天皇の代替わりがあっても摂関の地位は変わらないという慣例、摂関は太政大臣を兼ねるという前例が破られたのである。これが、藤原北家九条流の一員が無理をして摂関の地位を得た二つ目の例になる。

 ここで、兼家がこれだけの無理をした理由は、二つあるだろう。一つは花山天皇の在位が続くと義懐が大臣の位につき、頼忠の後の関白に就任しかねないというもの。もう一つは、関白の頼忠のほうが兼家よりも長生きをしてしまうのではないかという恐れであろう。兼家の父師輔は五十三歳、兄伊尹は四十九歳、兼通は五十三歳で亡くなっている。このとき兼家は五十八歳、頼忠は六十三歳だったとはいえ、頼忠の父実頼が七十一歳まで生きたことを考えると、その死後に関白の地位につけるとは思えなかったのだろう。
 兼家は摂政就任直後に、右大臣の地位を去り摂政のみになっているが、これは右大臣として太政大臣の下につくのを嫌ったからであろう。これも前例を無視した行動であった。その後、頼忠の死後、太政大臣に就任し、前例を踏襲している。

 一方頼忠のほうは、関白の地位を失って四年、兼家に先立つこと一年、永祚元年に六十六歳で亡くなっているが、兼家が無理をしなかった場合には、せいぜい一年ほどしか関白の地位にいられなかったということになる。
 頼忠が、いや実頼から始まる藤原北家小野宮流が、ここで摂関の地位を失い、二度と取り戻すことができなかったのは、小野宮から入内して女御となった娘たちに子供が生まれなかったことに尽きる。実頼と同様に頼忠も、娘を円融天皇、花山天皇の後宮に入れるが、子供は一人も生まれていないのである。これは、新しい摂関が必要とされるときに、摂関の候補となる大臣の地位にまで出世しておくのが難しくなることを意味する。
3月25日21時。


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