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「旧約聖書」聖王以降の王達17(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達六・アハブとユダの王ヨシャファトと預言者ミカヤ 三年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった。三年目になって、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王アハブのところに下って来た。アハブは家臣たちに、「お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言った。それから、ヨシャファトに向かって、「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」と尋ねた。ヨシャファトはイスラエルの王に答えた。「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」と答えます。北のイスラエルの王アハブと南のユダの王ヨシャファトが、他国のアラムに占領された領地を取り戻すべく、共同戦線を張ります。この領地ラモト・ギレアドというのは、神の民であるイスラエルとユダにとっては、特別な意味を持つ土地でした。旧約の中でも、申命記、ヨシュア記には、律法の細かな規定が多く記されています。その中でモト・ギレアドは、全くそのつもりがなかったのに、事故で人を殺してしまった者は、その罪の裁きを猶予されるとされた逃れの町でした。律法がそのように定めた場所でした。それが、今、アラムの王の支配の下におかれたままになってしまっている。それで、共同戦線をはって、これを取り戻そうと相談をしているのです。統治者はともすれば、重大な決定をする時に人の力を超える神の託宣を求めます。 2人の王は、預言者に神の言葉を求めました。預言者とは、神の言葉を預かり、人々にこれを語り伝えることが役割です。特に、神こそが国を司るのであっって、国王はその神の意志の下に奉仕すべき存在として考えられていた国です。ですから、預言者は国王が神の御心に背を向けている時、これを指摘し、ただすことが本来の使命です。しかしありがちなことですが、お抱えの預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとはしませんでした。むしろ、国王が喜びそうなことを選んで語りました。そちらのほうが、自分たちの国王から歓迎される地位を確保できるからです。国王も、自分が願っていることを、神が奨励し、保証していると預言者たちの口から聞くことができれば、大いに力づけられるし、喜ばしかったのです。ところが、南のユダの国の王ヨシャファトは、慎重でした。同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言い、イスラエルの王アハブは、約四百人の預言者を召集し、「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と問うた。彼らは、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた。しかし、ヨシャファトが、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問うと、イスラエルの王はヨシャファトに答えた。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です。」ヨシャファトは、「王よ、そのように言ってはなりません」と諌めます。そこでイスラエルの王は一人の宦官を呼び、「イムラの子ミカヤを急いで連れて来るように」と言った。アハブ王が求める預言を更に強烈に語る預言者ツィドキの登場した後、いよいよ真実を語る預言者ミカヤが登場します。ミカヤを呼びに行った王の使いは、預言者ミカヤに忠告します。「あなたも、他の預言者たち同様、王に幸運を告げてください」と。
2012年09月30日
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「旧約聖書」聖王以降の王達17(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達五・王妃イゼベル イスラエルの王アハブが預言者の一人から主の預言を聞いて、機嫌を損ね、腹を立てて王宮に向かい、サマリアに帰った後、イズレエルの人ナボトの畑、サマリアの王アハブの宮殿のそばにあるぶどう畑を譲渡させようとします。アハブはナボトに話を持ちかけ「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言います。アハブは、イズレエルの人ナボトが、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取りません。オムリ王朝を築いたオムリが、サマリアを都とし、フェニキアと同盟、シドンからその子アハブの王妃として娶らせた王妃イゼベル(Jezebel)、この名前は太陽神バールを意味するフェニキア人の表現に由来しますが、勿論のこと律法上は主なる神以外を崇めることは許されません。イゼベルは熱心なバアル崇拝者であり、夫アハブを意のままに操っている様に想えますし、イゼベルは,何かほしいものがあると,人を殺してでもそれを手に入れる傾向がありました。その妻のイゼベルが来て、どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですかと尋ねると、彼は妻に、イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うと、妻のイゼベルに答えます。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」と言い、イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者二人を(モーセの律法上は二人乃至三人の証言が必要)彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪ったと証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」と命令します。その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせ、ならず者も二人来てナボトに向かって座ります。ならず者たちは民の前で「ナボトは神と王とを呪った」証言し、人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した後、イゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」と言います。アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った其の時、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。また彼に告げよ。主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と。その言を聞いたアハブがエリヤに、「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と言うと、エリヤは、そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねたからだ答え、「見よ、わたしはあなたに災いをくだし、あなたの子孫を除き去る。イスラエルにおいてアハブに属する男子を、つながれている者も解き放たれている者もすべて絶ち滅ぼす。わたしはあなたが招いた怒りのため、またイスラエルの人々に罪を犯させたため、あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家と同じように、またアヒヤの子バシャの家と同じようにする。」 主はイゼベルにもこう告げられる。「イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。」アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかったが、彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。しかし、彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。そこで主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」 と勝利宣言をされます。
2012年09月29日
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「旧約聖書」聖王以降の王達16(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達四・アハブはベン・ハダドと協定 アフェクの町に逃げ込んだベン・ハダドに家臣達が「イスラエルの家の王は、慈しみ深い王であると聞いています。腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王のもとに出て行きましょう。あなたの命を助けてくれるかもしれません」と進言します。こうして彼らは腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王の前に出て「あなたの僕であるベン・ハダドは、命を助けてほしいと願っております。」と言い、アハブは、「王は生き延びておられたか。彼はわたしの兄弟である」と返答します。ベン・ハダドの使者は良い兆しがありと見て、素早くその言葉をとらえ、「ベン・ハダドはあなたの兄弟です」と答えた。アハブは、「行って、彼を連れて来なさい」と言い、ベン・ハダドが出て来ると、アハブは彼を自分の車に乗せたときに、ベン・ハダドはアハブに「わたしの父があなたの父から奪った町々をお返しいたします。また、わたしの父がサマリアで行ったように、あなたもダマスコで市場を開いてください」。その言を聞いたアハブは「では、協定を結んだうえで、あなたを帰国させよう。」アハブはベン・ハダドと協定を結び、彼を帰国させます。ところが、この行為が主なる神の逆鱗に触れ、奇妙な預言者を登場させます。その預言者は主の言葉に従って隣人に、「わたしを打て」と言ったが、隣人は打つのを拒んだ。その人は隣人に、「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、わたしのもとから立ち去ると、獅子に殺される」と言い、隣人は彼のそばから立ち去ると、果たして獅子に出会い、殺されてしまいます。彼はもう一人の隣人を見つけ、「わたしを打て」と言ったが、果たしてこの隣人は彼を打ち、傷を負わせた。この預言者は立ち去り、だれだか分からないように目に包帯をして、道で王を待ちました。アハブ王が通りかかったとき、彼は王に向かって、「僕が戦場に出て行きますと、ある人が戦列を離れて一人の男をわたしのところに連れて来て、この男を見張っておれ。もし逃がしたら、お前はこの男の命の代わりに自分の命を差し出すか、銀一キカルを払えと言いました。ところが、僕があれこれしているうちに、その男はいなくなってしまいました。」と叫びます。イスラエルの王は、「お前の裁きは、お前が自ら決定したとおりになるはずだ」と答えます。其の時、預言者が急いで目から包帯を取り去ると、彼が預言者の一人であることが、イスラエルの王にも分かった。その預言者は王に「主はこう言われる。わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたは手もとから逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる。」と言った。イスラエルの王アハブは機嫌を損ね、腹を立てて王宮に向かい、サマリアに帰ります。 ここで、違和感を感じるには、主が渡されたベン・ハダドを国家間の力関係或いは経済を考慮してアハブが政治向きに判断した恩情とも取れる行為を、主なる神が偶像崇拝者たるベン・ハダドを殺さないことを、神への反逆行為とみており、突然の預言者を出現させ、それも隣人である仲間に「わたしを打て」と言い、隣人は打つのを拒んだ故に、その人は隣人に、「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、わたしのもとから立ち去ると、獅子に殺される」と言い、隣人は彼のそばから立ち去ると、果たして獅子に出会い、殺されています。恐らくは、此の隣人が彼を、主なる神の真の預言者と認めないことに対する不信へのむくいと想われますが、その隣人への一抹の哀れみを感じます。
2012年09月28日
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「旧約聖書」聖王以降の王達15(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達三 アラムの王ベン・ハダドは全軍を集めて、三十二人の王侯、軍馬と戦車をそろえてサマリアに軍を進め、これを包囲し、攻撃を加えた。彼はこの町にいるイスラエルの王アハブに使者を送り言わせます「ベン・ハダドはこう言う。あなたの銀と金はわたしのもの、あなたの美しい妻子たちもわたしのものである。」イスラエルの王アハブは答えた。「わが主君、王よ、あなたのお言葉どおりです。わたしも、わたしの持ち物もすべてあなたのものです。」使者は再び来て言った。「ベン・ハダドはこう言う。わたしはあなたに使者を送って銀と金、妻子たちを差し出すようにと言った。明日のこの時刻に、わたしは家臣をあなたに遣わす。彼らはあなたの家、あなたの家臣の家の中を探し、あなたの目が喜びとしているものをすべて手に入れ、奪い取る。」イスラエルの王アハブは、国中のすべての長老を召集して言った。「この男が、困ったことを要求しているのをよく知ってもらいたい。彼は使者をよこして、わたしの妻子と、銀と金を求めてきた。わたしはそれを断り切れなかった。」長老と民は皆、王に言います。「求めを聞き入れないでください。承諾しないでください。」こうして、王はベン・ハダドの使者に言った。「わが主君、王にこう伝えよ。使者を送ってあなたが僕になさったさきの要求にはすべて従います。しかし、この度の要求には従えません。」使者は帰ってこの返答を伝えた。ベン・ハダドは使者をアハブに送って、こう言わせた。「もしサマリアに残る塵がわたしと行を共にするすべての民の手のひらを満たすことができるなら、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」と、ところで、この発言は様々な解釈がなされるます。サマリアへの侵略者が手にすることができるものが塵だけでしかない、つまり侵略が失敗したらという理解も可能と、サマリアに残る塵で人々の手を満たすことができない状態がベン・ハダドの目標とする状態、すなわちサマリアには塵すらも残さないほど破壊し滅ぼし去るぐらいの決意で臨む、という意味に捉えられます。此処でイスラエルの王は答えます。「こう伝えよ。武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできないと。」 即ち、未だ勝利を手にしないうちには勝ち誇るなと言っています。ベン・ハダドは、ほかの王侯たちと共に仮小屋で酒盛りをしているときにこの言葉を聞いて、家臣たちに、「配置につけ」と命令、彼らは町に向かって戦闘配置についた。そのとき、見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言います。主はこう言われる。「この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。」、アハブが「誰を用いてそうなさるのか」と尋ねると、預言者は、「主はこう言われる。諸州の知事に属する若者たちである」と答えます。王が、「誰が戦いを始めるのか」と尋ねると、彼は、「あなたです」と答えた。そこでアハブが、諸州の知事に属する若者たちを召集すると、その数は二百三十二名であった。続いてすべての民すなわちイスラエル人七千人を召集した。彼らが出陣したのは正午であったが、ベン・ハダドと援護に来た三十二人の王侯たちは仮小屋で酒を飲んで酔っていた。諸州の知事に属する若者たちがまず出て行きます。ベン・ハダドは、サマリアから人々が出て来るとの知らせを、遣わした者から受けると、彼らが和平のために出て来たとしても生かしたまま捕虜にし、戦いのために出て来たとしても、生かしたまま捕虜にせよと命じます。諸州の知事に属する若者たち、更に後続部隊が町から出て来、それぞれがその相手を打ち、アラム軍は敗走した。イスラエルの人々は追い打ちをかけたが、アラムの王ベン・ハダドは馬に乗り、騎兵を伴って逃げ去った。イスラエルの王も出陣して、軍馬や戦車を撃ち、アラムに大損害を与えます。かの預言者がイスラエルの王に近づいてこう言い放ちます。「勇気をもって進め。あなたはなすべきことをわきまえ知れ。年が改まるころ、アラムの王はあなたに向かって攻めて来る」と。他方、アラムの王の家臣たちは王に言った。「彼らの神は山の神だから、彼らは我々に対して優勢だったのです。もし平地で戦えば、我々の方が優勢になるはずです。あなたはこうすべきです。王侯たちをそれぞれその地位から退け、その代わりに長官を置き、失った兵員、軍馬、戦車に等しい兵員、軍馬、戦車を補充するのです。我々は平地で戦いましょう。我々の方が優勢になるはずです。」王は彼らの意見を入れてそのとおりにし、年が改まったころ、ベン・ハダドはアラム軍を召集し、イスラエルと戦うためにアフェクに上って来た。イスラエルの人々も召集され、兵糧を支給されて、敵を迎え撃つため進んだ。イスラエルの人々は、敵に向かって二つの小さな山羊の群れのように陣を敷いたが、アラム軍はその地に満ちていた。そのとき、神の人が近づいて、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。アラム人は主が山の神であって平野の神ではないと言っているので、わたしはこの大軍をことごとくあなたの手に渡す。こうしてあなたたちは、わたしこそ主であることを知る。」両軍は、陣を張って七日間対峙した。七日目になって戦いを交え、イスラエル軍は一日でアラムの歩兵十万人を打ち倒した。敗残兵はアフェクの町に逃げ込んだが、その敗残兵二万七千人の上に城壁が崩れ落ちた。ベン・ハダドも逃げてこの町に入り、部屋から部屋へと逃げ回った。 アラム人の都市ダマスコの王(在位、前850年ころ)は思い上がりが強く、傲慢で、向こう見ず。この時代、ダマスコの力は強大だったが、ベン・ハダドはこの力を背景に軍を率いてイスラエル王国の首都サマリアに遠征し、国王アハブにとんでもない要求を突きつけます。あなたの銀と金はわたしのもの、あなたの美しい妻子たちもわたしのものであると。はなからケンカを売っているようなものだが、アハブは最初はこの要求に従おうとします。だが、長老たちの忠告でそれを拒否し、戦いが始まりましたが、軍備の点からはダマスコ軍が圧倒的に有利のはずだったが、幸運にもイスラエル軍が勝利を収めます。約十分の一程とも言われる軍勢で立ち向かった織田信長が、勝利を確信して出陣前夜に、酒を兵士に振る舞い寝ていたところを襲い、今川義元を討ち取り勝利したという日本の歴史上の有名な戦い桶狭間の合戦を想わせます。
2012年09月27日
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「旧約聖書」聖王以降の王達15(列王記上)大預言者エリヤ(三) アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてをイゼベルに告げます。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせます。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々(複数であることに注意)が幾重にもわたしを罰してくださるように。」それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼は金雀枝の木の下で横になって眠ってしまいます。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこの私の命をも奪おうとねらっています。」そこで主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれる。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」と。主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会います。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と答えます。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。 此処に登場するアハブの王妃イゼベルは神の人・大預言者エリヤを非常に怖れさせるほど、神懸かり的なちからある存在であったことは、アハブ王が事の次第をすべてをイゼベルに告げていることからも解せます。また、此の後の二人の預言者には、聖霊が降りて、新約のイエスの様な数々の奇跡を見せます。否、イエスが二人の行った奇跡同様のみわざを見せるのは、興味深く考えさせられます。イエスがエリヤの再来ではないかと云われたのにも理由がありそうです。
2012年09月26日
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「旧約聖書」聖王以降の王達14(列王記上)大預言者エリヤ(二) 多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリヤに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」 エリヤはアハブの前に姿を現すために出かけます。その都サマリアはひどい飢饉に襲われていました。アハブは宮廷長オバドヤを呼び寄せ「この地のすべての泉、すべての川を見回ってくれ。馬や驢馬を生かしておく草が見つかり、家畜を殺さずに済むかもしれない。」と言います。其のオバドヤは心から主を畏れ敬う人で、イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、百人の預言者を救い出し、五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った事もありましたが、アハブはオバドヤと国を分けて巡ることにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバドヤも一人でほかの道を行きます。オバドヤが道を歩いていると、エリヤが彼に会いに来ます。オバドヤはそれがエリヤだと分かって、ひれ伏し、「あなたは、エリヤ様ではありませんか」と言い、エリヤは彼に「そうです。あなたの主君のもとに行って、エリヤがここにいる、と言ってください。」と言われ、オバドヤは「わたしにどんな罪があって、あなたは僕をアハブの手に渡し、殺そうとなさるのですか。あなたの神、主は生きておられます。わたしの主君があなたを捜し出そうとして人を送らなかった民や国はないのです。彼らが、エリヤはここにいないと言えば、王はその国や民に、エリヤは見つからなかったと誓わせるほどです。今あなたは、エリヤがここにいる、とあなたの主君アハブに言いに行きなさいと言われる。しかし、私があなたを離れれば、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私がアハブに知らせに行っても、あなたが見つからなければ、私は殺されます。僕は幼いころから、主を畏れ敬っております。イゼベルが主の預言者を殺したときに私がしたことを、あなたは知らされてはいないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養いました。今あなたは「エリヤがここにいる」とあなたの主君に言いに行きなさいと言われる。わたしは殺されてしまいます。エリヤは其れに対し、「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます。今日わたしはアハブの前に姿を現しす。」オバドヤはアハブに会って知らせたので、アハブはエリヤに会いに来て、エリヤを見ると、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言い、エリヤは答えます。「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」、其れを聞き入れたアハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」と言いますが、民はひと言も答えません。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答え、更に、エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘ります。 次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じ、再度、彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうします。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにしました。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、献げ物と薪、石、塵を焼き尽くし、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言います。エリヤは、「バアルの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺し、アハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる。」アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた。「上って来て、海の方をよく見なさい」と彼は従者に言い、従者は上って来て、よく見てから、「何もありません」と答えた。エリヤは、「もう一度」と命じ、それを七度繰り返した。七度目に、従者は言った。「御覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます。」エリヤは言った。「アハブのところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさい。」そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になり、アハブは急ぎ車に乗ってイズレエルに向かいます。主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。 此の段に、絡繰りをみる方も居られるかも知れませんが、主なる神の象徴が厚い雲と炎であるのは、「出エジプト記」以来一貫しており、此の事件を偶然とみるか、奇跡とみるかは、エリヤの以降の行動をみるうえで重要になります。
2012年09月25日
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「旧約聖書」聖王以降の王達13(列王記上)大預言者エリヤ(一) オムリの子アハブは、サマリアで二十二年間イスラエルを治めますが、その混乱の時代に初めて、ギレアドの住民であるティシュベ人エリヤが登場します。主の言葉がエリヤに臨み、ここを去り東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠し、その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせると。エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川の畔に行き其処に留まります。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来、水はその川から飲んですごします。暫らくたつと雨がこの地方に降らなかったために其の川も涸れてしまいます。再び主の言葉がエリヤに臨み「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人の寡婦に命じて、そこであなたを養わせる」と。彼は立ってサレプタに行き、町の入り口まで来ると、一人の寡婦が薪を拾っています。エリヤは寡婦に「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言い、彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と答えます。エリヤは「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。何故ならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく、また瓶の油はなくならない。」其れを聞き、寡婦は行って、エリヤの言葉どおりにします。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこの寡婦にさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」と祈ります。彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」と訴えると、主が、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返ります。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」と述べます。
2012年09月24日
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仏教概要十(日本寺院の総本山)真言宗金剛峯寺 深山渓谷の地に密教実践のために曼荼羅世界を実現せしめる為に開いたのが、霊峰の高野山です。現在真言宗の本山は、高野山の一角にある金剛峯寺ですが、本来は、金剛峯寺其の名称其の物が高野山全体を指しており、高野山其の物すべてが境内であると云えます。その空海は、宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で、坂の上田村麻呂の蝦夷征伐後、監視の容易さから移民政策により四国に移住した佐伯今夷氏で、父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日としますが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明です。15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学び、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。その大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入り、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。其の後、入唐までの空海の足取りは不明な点が多いが、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。更には中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあります。佐伯真魚が空海を名乗るのは、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記され、このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。但し、空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではなく、無空や教海と名乗った時期があるとする文献もあります。 弘法大師・空海は、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙と時を同じくして唐に渡りますが、最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門でした。此れが派遣僧で帰国までの時間的余裕の無い最澄に比べて、空海は密教を学ぶための充分な余裕があった理由です。空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事、大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受けます。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁したと伝えられています。此の事から、空海が大日如来の生まれ変わりとする風聞が生じます。彼は2年間の留学の末に密教の正統を受け継いで帰国します。以降、仏教による鎮護国家を目標とする国造りとその指導的役割を担う一方で、真言密教の体系を完成させて行きます。 密教とは「秘密仏教」の略で、4~5世紀頃の印度で生まれて、中国には8世紀頃に伝播しました。胎蔵界曼荼羅のもととなる「大日経」と、金剛界曼荼羅のもととなる「金剛頂経」を重要な経典として、宇宙の根本である大日如来と一体化して人が現世でこの身のまま悟りの境地に達する「即身成仏」を目的としています。空海も密教の修法の実践により、手に印を結び、口に真言を唱え心に仏を念じて、仏と一体となれる即身成仏を説き、密教を至上の教えとしました。 空海が構想した寺院建築・伽藍配置は独特で、一帯を大きく壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院の三つの区画に分け、奥之院は、現在も即身成仏の空海が身を留めて人々を見守っているという大師信仰の弘法大師御廟を最深部に置いています。中世以降は、高野山を此の世の浄土とする信仰が広まり、多くの供養塔と墓が建ち並ぶに到っています。
2012年09月23日
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「旧約聖書」聖王以降の王達12(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達二 ユダの王アサの治世第二年に、ヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、二年間イスラエルを治めます。彼は主の目に悪とされることを行って、父と同じ道を歩み、イスラエルに罪を犯させた父の罪を繰り返した。イサカルの家のアヒヤの子バシャが、彼に謀反を起こし、ナダブが全イスラエルを率いてギベトンを包囲しているところを襲い、ペリシテ領ギベトンでナダブを殺し、代わって王となったのは、ユダの王アサの治世第三年のことでした。彼は王になるとヤロブアムの家の者をすべて撃ち、ヤロブアムに属する息のある者を一人も残さず、滅ぼした。これは、主がその僕、シロの人アヒヤによって告げられた言葉のとおり、ヤロブアムが自ら罪を犯し、またイスラエルに犯させた罪によって、イスラエルの神、主の怒りを招いたためです。アサとイスラエルの王バシャの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。ユダの王アサの治世第三年に、アヒヤの子バシャがティルツァですべてのイスラエルの王となり、その治世は二十四年に及びますが、その間も、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行うアサとイスラエルの王アビヤムの継承者バシャとの間には、その生涯を通じて戦いが絶えることなく、イスラエルの王バシャはユダに攻め上って来て、ラマに砦を築き、ユダの王アサの動きを封じようとします。アサは、神殿と王宮の宝物庫に残るすべての銀と金を取り出して家臣たちの手にゆだね、彼らをダマスコに住むアラムの王ベン・ハダドに遣わします。その父はタブリモン、祖父はヘズヨンである。アサ王はアラムの王への伝言は「わたしとあなた、わたしの父とあなたの父との間には同盟が結ばれています。わたしはここに銀と金の贈り物をあなたにお届けします。イスラエルの王バシャとの同盟を直ちに破棄し、彼をわたしから離れ去らせてください。」というものでした。ベン・ハダドはアサ王の願いを入れ、配下の軍の長たちをイスラエルの町々に送り、イヨン、ダン、アベル・ベト・マアカ、キネレトの全域、およびナフタリの全土を攻略させました。バシャはこれを聞くと、ラマの構築をやめ、ティルツァにとどまって動けません。アサ王はユダの人々すべてにもれなく布告し、バシャがラマの構築に用いた石材と木材を運んで来させ、それを用いて、ベニヤミンのゲバとミツパに砦を築きあげます。アサ王が守りを固めた町々の事は、「ユダの王の歴代誌」に記されています。王は、年老いてから足の病にかかり、のち先祖と共に眠りにつき、先祖と共に父祖ダビデの町に葬られた。その子ヨシャファトがアサに代わって王となります。 一方、アヒヤの子バシャは主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返したため、バシャに対する主の言葉がハナニの子イエフに臨んで言わせます。「わたしはあなたを塵の中から引き上げて、わが民イスラエルの指導者としたが、あなたはヤロブアムと同じ道を歩み、わが民イスラエルに罪を犯させ、彼らの罪によってわたしを怒らせた。それゆえ、今わたしはバシャとその家を一掃し、あなたの家もネバトの子ヤロブアムの家と同様にする。バシャに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。」バシャが先祖と共に眠りにつき、ティルツァに葬られた後に、其れ等がバシャに属する者に起ります。その子エラがバシャに代わって王と成った時、ハナニの子、預言者イエフによって主の言葉がバシャとその家に臨みます。それはバシャが、その手の業によって主を怒らせ、ヤロブアムの家に倣って、主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主の怒りを招いたためであり、またヤロブアムを討ったためです。ユダの王アサの治世第二十六年に、バシャの子エラがティルツァでイスラエルの王となり、二年間王位にあった時に、その家臣で戦車隊半分の長であったジムリが謀反を起こした。そのとき、エラはティルツァにいて、ティルツァの宮廷長アルツァの家で酒に酔っていました。ジムリは襲いかかって、エラを打ち殺します。ユダの王アサの治世第二十七年のことであった。ジムリはエラに代わって王となり、王座につくと、バシャの家の者をすべて撃ち、親族も友人も、男子は一人も残さなかった。主が預言者イエフによってバシャに告げられた言葉のとおり、ジムリはバシャの家を滅ぼし尽くした。これは、バシャのすべての罪と、その子エラの罪のため、すなわち彼らが自ら罪を犯し、またイスラエルに罪を犯させ、空しい偶像によって、イスラエルの神、主の怒りを招いたためです。ユダの王アサの治世第二十七年に、ティルツァでジムリが王となり、七日間王位にあった。そのとき、民はペリシテ領ギベトンに対して敷いていた民は、ジムリが謀反を起こして王を倒したとの知らせを聞いた。その日すべてのイスラエルは、陣営において軍の司令官オムリを、イスラエルの王とします。オムリは、すべてのイスラエルと共にギベトンからティルツァに上り、ティルツァを包囲し占領。ジムリは町が占領されるのを見て、王宮の城郭に入り、自ら王宮に火を放って死にます。これは、彼の犯した罪のため、彼が、主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返したためである。そのとき、イスラエルの民は二派に分かれ、民の半分はギナトの子ティブニに従い、これを王にしようとしたが、他の半分はオムリに従い、ギナトの子ティブニに従う民を圧倒し、ティブニは死んで、オムリが王となります。ユダの王アサの治世第三十一年に、オムリがイスラエルの王となり、十二年間王位に在り、彼は六年間ティルツァで国を治めた後、シェメルからサマリアの山を銀二キカルで買い取り、その山に町を築き町の名を、山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けました。オムリも主の目に悪とされることを行い、彼以前のだれよりも悪い事を行った。彼は、ネバトの子ヤロブアムのすべての道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返して、空しい偶像によってイスラエルの神、主の怒りを招きます。そのオムリは先祖と共に眠りにつき、サマリアに葬られた。その子アハブがオムリに代わって王位に就きます。オムリの子アハブがイスラエルの王となったのは、ユダの王アサの治世第三十八年であった。オムリの子アハブは、サマリアで二十二年間イスラエルを治めますが、オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされること、彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏します。また、サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。彼の治世に、ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉のとおり、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失います。此の混乱の時代に初めて、ギレアドの住民であるティシュベ人エリヤが登場します。彼はアハブに、わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろうと言います。彼はアハブの恨みを買い、以降、命さえ狙われる事と成りました。 此の間のイスラエル分裂時代の王国は、南のユダはユダを出自とするダビデの王統と聖都エルサレムの存在故、比較的結束が固く国体が安定していますが、北のイスラエルは王統が頻繁に変わり、都さえ変更されています。また、実力主義的傾向から氏族間での争いも見られ不安定要因が多くあり滅亡を早めますます。
2012年09月22日
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仏教概要九(日本寺院の総本山)天台宗延暦寺 京都の都の鬼門・北東に位置し、世界文化遺産にも選ばれているのが天台宗比叡山延暦寺で伝教大師・最澄がによって開かれたす天台宗本山です。その天台宗は、クチャ出身の僧・鳩摩羅什が漢訳した「法華経」を至上の教えとして隋の天台智者大師・智ギ(ちぎ、Zhi-yi)(538年~597年)が、法華玄義・法華文句・摩訶止観をあらわしたのを実質的な開祖とする大乗仏教の宗派です。龍樹を初祖とし、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる慧文を第二、慧思を第三、智ギを第四祖とする場合もあります 奈良時代に律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入ります。次いで、平安時代に伝教大師・最澄が延暦24年(805年)に唐に渡り天台山にのぼり、天台教学と戒律(菩薩戒)、更には帰り際には密教を授けられますが、空海とは異なり派遣僧の制約があり、翌年、僅か一年間の在唐で帰国し伝えたのが日本に於ける天台宗の始まりです。その後、密教・禅・戒律の教えを融合(四宗相承)させて日本独自の天台宗を成立させます。 最澄は、皆平等に仏心を有し、すべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起きます。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名です。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めました。当時は、大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは認められておらず、南都の学僧が反論したことは当然でしたが、当時の朝廷は奈良仏教の法相宗などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安時代の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあり、論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立します。 また、入唐の際、最澄は密教を学んではいましたが、派遣僧の制約から期日的にも制約を受け不十分なものであり、後には、空海に密教の教えさえ請いますが、その後に破談、弟子の円仁等により本格的な密教が取り入れられて、以後天台宗の総合仏教としての教義が確立されます。この最澄と弟子たちの事績により、比叡山は平安時代の最高学府としての地位を確立します。平安末期以降は鎌倉仏教の開祖として登場する法然、栄西、道元、日蓮などは比叡山から輩出されます。
2012年09月21日
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「旧約聖書」聖王以降の王達11(列王記上)北イスラエルとユダの鼎立時代の王達一 北イスラエルのヤロブアムが先祖と共に眠りにつき、その子ナダブがヤロブアムに代わって王位を継承しますが、全イスラエル分裂後の一方、ユダ王国もソロモンの子レハブアムが、四十一歳で王位となり、十七年間エルサレムで在位します。その都エルサレムは、主が御名を置くためにイスラエルのすべての部族の中から選ばれた聖都です。しかし、ユダの人々は、主の目に悪とされることを行い、その犯した罪により、先祖が行ったすべてのことにまさって主を怒らせます。彼らもまたあらゆる高い丘の上と、茂った木の下に、聖なる高台を築き、石柱、アシェラ像を立て、更には、その地には神殿男娼さえいる始末です。彼らは、主がイスラエルの前から追い払われた諸国の民のすべての忌むべき慣習に従っていましたから、主の怒りからか、レハブアム王の治世第五年には、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って、主の神殿と王宮の宝物を奪い取ります。彼はソロモンが作った金の盾も何もかもすべて奪い取りました。レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、王宮の入り口を守る近衛兵の長たちの手に託して、王が主の神殿に来る度ごとに、近衛兵たちはその盾を持ち、また近衛兵の詰め所に戻すと云うなさけなさで、過去のソロモンの栄華は幻となります。レハブアムの他の事績、彼の行ったすべての事は、「ユダの王の歴代誌」の中に記されていますが、レハブアムとヤロブアムの間には戦いが絶えなかったようで、最後には、レハブアムは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られ、ネバトの子ヤロブアム王の治世第十八年に、その子アビヤムがユダの王となり、エルサレムで三年間王位にありましたが、彼もまた父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった。それでも、彼の神、主は、ただダビデのゆえにエルサレムにともし火をともし、跡を継ぐ息子を立てて、エルサレムを存続させられます。ダビデが主の目にかなう正しいことを行い、ヘト人ウリヤの一件のほかは、生涯を通じて主のお命じになったすべてのことに背くことがなかったからです。アビヤムとヤロブアムの間にも戦いが続いていましたが、アビヤムは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られ、その子アサがアビヤムに代わって王位に就きます。イスラエルの王ヤロブアムの治世第二十年に、ユダの王としてアサが王位につき、エルサレムで四十一年間、王位にあったアサは、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、神殿男娼をその地から追放し、先祖たちの造った偶像をすべて取り除きました。また彼は、母マアカがアシェラの憎むべき像を造ったので、彼女を太后の位から退け、その憎むべき像を切り倒し、キドロンの谷で焼き捨てました。聖なる高台は取り除かなかった事を除き、アサの心はその生涯を通じて主と一つでした。彼は父の聖別した物と自分の聖別した物、銀、金、祭具類を主の神殿に納め体裁を整えました。 此処まで王位継承者に、主なる神のみならず、他の偶像を崇拝する傾向が、多く見られるのに共通するのは、母方の祖国が偶像を崇拝する国家であり、その棄教が難しく、子たる王位継承者に影響を与えていることが読み取れます。其れ等の多くは多神教であることから、主を完全には離れなくても、彼の神も信仰する傾向があり、主なる妬む神を怒らせる原因となっています。
2012年09月20日
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仏教概要八(日本寺院の総本山)律宗唐招提寺 奈良市の西ノ京に位置する唐招提寺は、日本の戒律制度を整えた鑑真の律宗の総本山ですが、その鑑真は、中国東部・江蘇省揚州江陽県の出身で、仏教徒の家庭に生まれ、西暦708年、21歳のとき長安で受戒し正式に僧侶となると、その後40年に渡り、読経や寺院・仏像の建立に携わります。彼が授戒した僧侶の数は4万人を超え、なかには著名な高僧となった者もいます。中国東部における授戒大師と称えられ、その地位は高く、仏教宗首とされています。 743年、日本人僧の栄睿と普照は揚州に赴き、日本で仏教を広めるよう鑑真に要請しました。鑑真はこれを快諾し、航海の準備に入りました。彼の呼びかけに対し、21人の弟子が随行しましたが、1回目の航海は、政府の干渉を受け失敗に終わりました。 2回目の航海では、軍艦を購入し、仏像や仏具、薬品、食料などを調達。弟子などの随行人員は85人となりました。しかし、中国大陸を離れてまもなく、嵐によって船が破損。帰港し修理せざるを得なくなりました。修理が終わり3回目の航海を試みましたが、沖合いで座礁し、またも失敗に終わりました。 3度の失敗にもかかわらず、鑑真はあきらめませんでした。744年、彼は再び航海の準備に入りましたが、唐朝の反対により帰還。748年、61歳になった鑑真は楊州を出発し、4回目の航海を試みます。しかし、台風に遭い、中国南部・海南島に流されてしまい、やっとのことで楊州に戻り、再び5回目の航海に出ましたが、これも失敗。この5回目の航海は損失も大きく、日本人僧の栄睿と鑑真の弟子である祥彦が前後して病死して、鑑真自身も過労により両眼を失明してしまいます。5年の年月が流れ、66歳になった鑑真は、失明という困難にも負けず再度日本へ向かいます。753年10月19日、彼は楊州を離れ、12月20日、ついに日本の土を踏みました。そして、朝廷から庶民まで、人々の歓迎を受けたのです。日本朝廷は鑑真をねぎらい、授戒の権利をさずけるとともに、戒台寺を建立し彼にまかせました。756年には大僧都にも任命しています。こうした待遇は、かつてないほど厚いもので、その後、鑑真は弟子たちとともに「唐律招提」を建立。現在日本では「唐招提寺」として親しまれています。763年5月、鑑真は76歳で円寂。日本で埋骨されました。 鑑真は日本で10年間生活していますが、日本文化の発展や中日文化交流に大きく貢献しています。鑑真が日本へ来た頃、中国ではちょうど唐朝文化が繁栄していました。鑑真も来日の際、刺繍職人や画家、玉職人などを同行させ、絵画や刺繍、玉器、銅鏡などといった工芸美術の珍品や、大量の真筆法帖(ほうじょう)を持ち込みました。鑑真が伝えた中国の文化芸術は、日本で吸収され、天平文化に影響を与えました。鑑真はまた、中国医学を日本に伝えています。自ら、光明皇太后の治療にもあたりました。両眼を失明していたものの、薬の知識は確かなものでした。鑑真和上は、中国医学の正しい伝統を継ぐ医学・薬学を、日本にもたらした最初の現身の人である。現代の日本において、治病効果に威力を発揮する漢方医学の鼻祖として崇められる所以です。鑑真和上と関係ありとする漢方医学は、唐時代から現代まで、医療に重用されています。また、食品では味噌に始まり、絶妙の味月餅に至るまで枚挙に暇がありません。鑑真和上なしには、現代日本が文化国家気取りでいることが出来なかったと言っても過言ではないでしょう。 天平文化の核心にあるのは仏教文化ですが、鑑真はこの仏教分野において、日本に対し最も貢献しています。来日後、東大寺で聖武上皇以下400人に菩薩戒をを授けた鑑真が、その5年後に新田部親王の旧宅を譲り受け、戒律修行の道場としたことに始まります。当時は、唐律招提と名付けられた私寺でしたが、その後、8世紀に金堂が設けられるなど、鑑真没後に伽藍が整備されていきます。 律宗の「律」は、釈尊の悟りに境地に到達する修行法「三学」で、仏道を修行する者が必ず修学すべき戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三つがありますが、律宗の「律」はこのうちの戒学、身(しん)口意(くい)の三業による一切の不善を禁制し、善を修する戒律に由来し、律蔵に相当します。定学とは、禅定を修めることで、心の散乱を防ぎ安静にするための方法を修すること。経蔵に相当します。慧学(えがく)とは、智慧を修めることで、煩悩の惑を破って、すべての事柄の真実の姿を見極めることで、論蔵に相当。これら三学の相互関係は、戒律を守ることによって禅定を得、禅定を得ることによって智慧を発し、智慧を発すことによって惑を破して仏道を証得する、という関係にあり、不要なものとして除くべきものは一つもありません。戒定慧の三学は不即不離であり、この三学の学修をとおしてこそ仏教は体現されます。 鑑真が伝えた律宗は部派仏教の一派である法蔵部が伝持した「四分律」を重視する南山律宗で、以来、日本では仏教の実践においてもっとも重要なものとして継承されていきます。
2012年09月19日
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「旧約聖書」聖王以降の王達10(列王記上)ヤロブアムへの主の怒りと罰 ヤロブアム王は、常人と違い非常に頑なな人とみえて、これ等の証しを見ても、なお主を蔑ろにして、以降も悪の道を離れて立ち帰ることがなく、繰り返し聖別されたレビ人ではなく、民の中から一部の者を聖なる高台の祭司に任じ、また志望する者はだれでも聖別して、聖なる高台の祭司にしました。ここにヤロブアムの家の罪があり、その家は地の面から滅ぼし去られることとなった。そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になります。ヤロブアムは妻に、立って、ヤロブアムの妻だと知られないように姿を変え、シロに行ってくれ。そこには、わたしがこの民の王になると告げてくれた預言者アヒヤがいる。パン十個と菓子、それに蜜を一瓶持って彼のもとに行け。彼なら幼い子に何が起こるか教えてくれるだろうと言い、ヤロブアムの妻は言われたとおり、シロへ行き、アヒヤの家に着きます。アヒヤは老齢のために目がかすみ、見ることができなくなっていたのですが、主はアヒヤに告げて「見よ、ヤロブアムの妻が来て、息子のことをあなたに尋ねる。息子は病気なのだ。あなたはこれこれしかじかと彼女に語れ。彼女は変装してやって来る。」。アヒヤは戸口に着いた彼女の足音を聞いて言います。「ヤロブアムの妻よ、入りなさい。なぜそのように変装したのか。私は貴女に辛いことを告げるように命じられている。行ってヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。私は貴方を民の中から選び出して高め、わが民イスラエルの指導者とし、ダビデの家から王国を裂いて取り上げ、あなたに与えた。しかし、わが僕ダビデがわたしの戒めを守り、心を尽くしてわたしに従って歩み、わたしの目に適う正しいことだけを行ったのとは異なり、貴方はこれまでの誰よりも悪を行って、自分のために他の神々や、鋳物の像を造り、わたしを怒らせ、わたしを後ろに捨て去った。其れ故、わたしはヤロブアムの家に災いをもたらす。ヤロブアムに属する者は、イスラエルにおいて縛られている者も、解き放たれている者も、男子であれば全てを滅ぼし、人が汚物を徹底的に拭い去るように、わたしはヤロブアムの家に残る者を拭い去る。ヤロブアムに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。まことに主はこう告げられた。貴女は立って家に帰るがよい。貴女が足を町に踏み入れるとき、貴女の子は死ぬ。イスラエルのすべての人々はこの子を弔い、葬るだろう。まことにヤロブアムに属する者で墓に入るのは、この子一人であろう。ヤロブアムの家の中でイスラエルの神、主にいくらか良いとされるのはこの子だけだからである。主は御自分のためにヤロブアムの家を断つ王をイスラエルの上に立てられる。今日にも、いや、今にもそうされる。主はイスラエルを打って水辺に揺れる葦のようにし、その先祖にお与えになった地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテスのかなたに散らされる。彼らがアシェラ像を造って、主の怒りを招いたからである。主は、ヤロブアムが自ら犯し、またイスラエルに犯させた罪のゆえに、イスラエルを引き渡される」とヤロブアムの妻に告げます。ヤロブアムの妻は立ち去り、ティルツァに戻り、彼女が家の敷居をまたいだとき、幼いその子は死にます。イスラエルのすべての人々は主がその僕、預言者アヒヤによって告げられた言葉のとおり、彼を葬り、弔いました。 ヤロブアムの他の事績、その戦争と統治については、「イスラエルの王の歴代誌」に記されています。ヤロブアムが王であった期間は二十二年であり、彼は先祖と共に眠りにつき、その子ナダブがヤロブアムに代わって王となります。 ヤロブアム王が、常人と違い非常に頑なに見える彼は、エジプトの宰相になったヨセフのように有能な人物で王族と血縁関係があったことが予想されます。ソロモンは、そのヤロブアムの働きぶりを見て、宰相になったヨセフのようにヨセフ族の労役全体の監督に任命します。しかし、その有能さとユダ族を除くイスラエルの民の支持を見て、ソロモンは王位の継承に不安を覚え、サウルがダビデを殺そうとしたようにヤロブアムを殺そうとしますが、ヤロブアムはエジプトに逃亡し、ソロモンが死ぬまで、エジプトに留まりました。エジプトに寄留者として居た間、彼が自分の命を守ってくれたエジプトの信仰の影響は小さくはなかったでしょうし、出エジプト記にみるようにモーセの兄・祭司アロンでさえ金に覆われた聖牛を鋳る程ですから、主への信仰と共に偶像崇拝もする、所謂、多神教者であって、決して主なる神を信じていないのではないことは、彼の行動からみて伺えます。但し、一神教の律法からは、最もおぞましい行為ととられることは致し方ないでしょう。
2012年09月18日
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仏教概要七(日本寺院の総本山)華厳宗東大寺 中国では五世紀の初めに、覚賢が訳出した60巻本《華厳経》を読誦供養することによって、霊験を求める民俗信仰が、南北朝より隋・唐にかけて、終南山至相寺を中心に,初祖杜順・次祖智儼と続き参祖法蔵が、五教十宗の教学体系と、独自の実践、結社の組織化を完成します。天台の実相論に対して、一即一切・一切即一の縁起を説き(縁来れば生ず、縁去れば滅す)という従来の縁起に対し、(縁来るも生ぜず、縁去るも滅せず)という絶対実在の生起を主張する華厳宗ですが、日本には736年に唐僧の道セン(どうせん)が伝え、新羅僧の審祥(しんじよう)が東大寺で初めて華厳経を講じ、日本華厳宗の第一祖となり、新羅の大安寺で講義を受けていた第二祖良弁(ろうべん)によって確立しますが、のちに衰え、鎌倉時代に凝然・高弁により復興された、東大寺を大本山とします。 その東大寺ですが、奈良時代の天平勝宝四年(752年)四月九日、鎮護国家を祈って「金光明四天王護国之寺」として総国分寺の役割を担って、像高16メートル、推定重量250トンという廬舎那仏坐像を本尊として建立、開眼供養が聖武上皇・光明皇太后・内親王から皇位に就いた女帝孝謙天皇が文武百官を従えて行われました。その大仏安置の世界最大級の木造建築である大仏殿や、奈良時代を代表する建築物の法華堂、お水取り(修二会)で有名な二月堂など様々な建造物が、被災しながらも現在まで伝えられています。また、大仏殿の西には律宗の宗祖で、日本に視力を失ってまで渡来、日本仏教の受戒制度を整えた鑑真が設立した戒壇院があります。戒壇院は僧侶になるための受戒が行われる場所であり、奈良時代の仏教においては最も重要とされる寺院でした。 華厳経では、此の世の全てが縁起して生じ、万物が相互に関係しながら、存在として有ると説きます。その存在の本質こそが究極の存在であり理法としての有そのものとの教理の根本としています。其れ故、東大寺の廬舎那仏坐像を宇宙其の物かの様に、その思想を体現しています。しかし、此処で気が付くのは、物事には生も滅も無く只縁起しており、有と無とを離れた「空」を説く、人類の思想・哲学・宗教に於ける巨峰、大乗八宗の祖ナーガールジュナ(龍樹)の「中論」との関係でしょう。
2012年09月17日
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「旧約聖書」聖王以降の王達10(列王記上)神の人を欺く老預言者 主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来て、ヤロブアムに祭壇の傍らに立って、主の言葉に従って祭壇に向かって「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上で生贄としてささげ、人の骨をお前の上で焼く。」と呼びかけ、幾多の証しを見せた後、主の言葉に従って、パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならないと戒められているのですと言い、その人はベテルに来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行く神の人に、ベテルに居る一人の老預言者が、息子の一人が来て、神の人がその日ベテルで行ったすべてのこと、王に向かって告げた言葉を語り聞かせます。すると、父は、「その人はどの道を行ったか」と尋ねます。息子たちは、ユダから来た神の人がどの道を行ったか見ていたので、息子たちに、「ろばに鞍を置くように」と言い、彼らがろばに鞍を置くと、そのろばに乗り、神の人の後を追います。その彼は、樫の木の下で休んでいる神の人を見つけ、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と問うと、その人は「わたしです」と答えました。老預言者が、一緒に私の家に来て、食事をなさいませんか」と勧めますが、彼は、一緒に引き返し、一緒に行くことはできません。ここで一緒にパンを食べ、水を飲むことはできません。主の言葉によって、「そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな」と告げられているのです。と答えますが、老預言者は、私も貴方と同様の預言者です。「御使いが主の言葉に従って、あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよと私に告げました。」その人を欺きます。その人は彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んでしまいます。ところが、彼らが食卓に着いているときに神の人を連れ戻した預言者に主の言葉が臨みます。彼はユダから来た神の人に向かって大声で言います。主はこう言われる。「あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられないと。神の人がパンを食べ、水を飲んだ後、老預言者は連れ戻したその預言者のろばに鞍を置いてやり、その人は立ち去ったが、途中一頭の獅子に出会い、殺されてしまいます。亡骸は道に打ち捨てられたまま、ろばがその傍らに立ち、獅子もその亡骸の傍らに立って居ります。そこを通りかかる者があって、道に打ち捨てられた亡骸と、傍らに立つ獅子を見、老預言者の住んでいる町に来てそのことを話しました。神の人を欺いて、その道から連れ戻した老預言者はこれを聞くと、「それはあの神の人のことだ。彼は主の御命令に逆らったので、主はお告げになった御言葉のとおりに彼を獅子に渡し、獅子は彼を引き裂き、殺してしまったのだ」と言い、息子たちに「ろばに鞍を置くように」と命じた。息子たちが鞍を置くと、老預言者は出かけて行き、道に打ち捨てられている亡骸と、その傍らに立つろばと獅子を見つけます。獅子は亡骸を食べず、ろばも引き裂かずにいた。老預言者は、神の人の亡骸を抱えてろばの背に乗せ、自分の町に持ち帰り、彼を弔い葬むります。老預言者は自分の墓にその亡骸を納め、「なんと不幸なことよ、わが兄弟」と言って彼を弔い、埋葬後、老預言者は息子達に「私が死んだら、神の人を葬った墓に私を葬り、あの人の骨の傍に私の骨を納めてくれ。あの人が、主の言葉に従ってベテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだと言います。 此処に、非常に苛立ちに加えて、腹立たしさを持つのが、老預言者が「御使いが主の言葉に従って、あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよと私に告げました。」との欺きであり、その虚言です。「老」預言者と特筆するところを見ると、その老齢では主の言葉がおりない状態とも受け取れ、神の人への尊敬と憧れとも予想出来ますが、イサクの件の如く、主が神への信仰の深さを試みたとすると、我々には「哀れ」の一語としか言えないと申せましょう。
2012年09月16日
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仏教概要六(日本寺院の総本山)法相宗興福寺 法相宗は、明代の中国文学名作である中国三大奇書の水滸伝・三国志演義・西遊記のうち、京劇の題目にもある西遊記の三蔵法師のモデル玄奘三蔵が印度で学んだ唯識学を、弟子の慈恩大師とも呼称される基窺(基)が整えて、法相宗として開いて宗祖となった宗派です。此れを遣唐使船で入唐して、玄奘に師事した道昭が紀元653年に日本に教えを齎します。 法相宗は、インドの古代仏教の唯心論(唯識論)の流れ、世親(せしん)の「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」について、護法らインド十大論師が施した注釈を集大成したものを玄奘(げんじょう)が漢訳して10巻に収めた「成唯識論」をもとにし、デカルト流に言えば、Cogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito = 私は思う、ergo = それゆえに、sum = 私はある)我思うゆえに我ありの懐疑論に似ていますが、そもそも思惟がすべてを生じ、世界を動かすという唯識論は根本的に異なります。 唯識思想は、世のすべて、ありとあらゆるものが認識されることで、はじめて存在するところとなり、認識なしには存在なきに等しいと説きます。あらゆる事象の認識の仕方は、六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)に加え、第七識(末那識)、第八識(阿頼耶識)の働きにより、心の働きを重要視しています。 その法相宗は8から9世紀にかけて、興福寺・薬師寺・法隆寺を中心に栄えますが、現在その大本山とするのが薬師寺と、藤原不比等によって和銅3年(710年)に建立された興福寺で、藤原氏の隆盛とともに栄え、僧兵を抱えて朝廷に強訴を行うなど、政治にも大きな影響力を与えます。その激しさから、平氏の南都焼き討ち等の被災にあって来ましたが、創建時と同じ様式で再建されています。
2012年09月15日
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「旧約聖書」聖王以降の王達9(列王記上)主の前に悪を行うヤロブアム イスラエルのすべての人々はヤロブアム(Jeroboam)が帰ったことを聞いたので、人を遣わして彼を共同体に招き、ユダを除き王としてイスラエルの人々の上に立てたことで、レハブアムはエルサレムに帰ると、ユダの全家とベニヤミン族から選り抜きの戦士十八万人を召集し、イスラエルの家に戦いを挑み、王権を奪還して自分のものにします。しかし、主の言葉が神の人シェマヤに臨みます。「ユダの王、ソロモンの子レハブアムと、ユダ、ベニヤミンのすべての家およびほかの民に言え。上って行くな。あなたたちの兄弟イスラエルの人々に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ。」彼らは預言者シェマヤから此の主の言葉を聞き、主の言葉に従って、それぞれに帰って行きます。イスラエルの王権を戴いたヤロブアムはエフライム山地のシケムを築き直してそこに住み、更には、そこを出てペヌエルを築き直します。だが、ヤロブアムは心に、今現在の状況では、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民が生贄を捧げるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろうと考えます。それ故、金の子牛を二体を造って、人々に、貴方達はもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神であると、彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置います。 此の事は主の前に罪の源となりました。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。彼はまた聖なる高台に神殿を設け、律法に反してレビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じました。ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、彼独自で第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上ります。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛に生贄をささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てました。彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上り、彼はまた、イスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香を焚きます。ヤロブアムは預言者アヒヤを通して主の託宣を受けた、イスラエル王国十部族の王国からの離脱、主の怒りがソロモンが主なる神を捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、主の道を歩まず、主の目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからとする以上に主の前に悪を行います。 主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブアムは祭壇の傍らに立って、香をたいていました。その人は主の言葉に従って祭壇に向かって「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上で生贄としてささげ、人の骨をお前の上で焼く。」と呼びかけます。その日、この人は更に続けて「これが主のお告げになったしるしである。見よ、祭壇は裂け、その上の脂肪の灰は散る。」と一つのしるしを与えて言います。ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって呼びかける神の人の言葉を聞くと、祭壇から手を伸ばして、「その男を捕らえよ」と命じたが、その人に向かって伸ばした彼の手は萎えて戻すことが出来ません。神の人が主の言葉に従って与えたしるしが実現して、祭壇は裂け、その祭壇から脂肪の灰が散ります。王が神の人に、「どうか、あなたの神、主を宥め、手が元に戻るように私のために祈ってください」と言ったので、神の人が主を宥めると、王の手は元に戻って、前のようになった。王は神の人に、「一緒に王宮に来て、一休みしてください。お礼を差し上げたい」と言ったが、神の人は王に、たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。 主の言葉に従って、パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならないと戒められているのですと言い、その人はベテルに来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行きます。 ヤロブアム王は、常人と違い非常に頑なな人とみえて、これ等の証しを見ても、主を蔑ろにして、以後に神の激しい怒りを招くことに成ります。
2012年09月14日
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2012年09月13日
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仏教概要五(日本寺院建立の条件)宗祖13宗の選択 奈良時代の仏教寺院の多くは、一時一宗の体制は強制されることはなく、国家鎮護の祈りの場であるとともに、僧侶の経典及び教義の研究・学習の場でもありました。一つの寺院に複数の宗派が混在することは、取り立てて珍しい事でもなく、各宗に属した僧侶も自己の宗派にとらわれることなく、比較的自由に教えを学びあっていました。平安時代にには仏教に神秘的傾向が求められて、台密と云った最澄を開祖とする天台宗、東密と呼ばれる空海を開祖とする真言宗が隆盛を極めます。最澄・空海のともに密教系の宗派の二人は、本山を都を離れた深山渓谷の険しい山林に密教実践の場を求めます。とくに天台宗の比叡山は都の鬼門である東北に位置して、鬼門封じとしての役割の意味合いが持たされています。一方、真言宗の空海は深山渓谷の霊峰である高野山に密教実践の場を求めます。 さらに、平安時代から鎌倉時代にかけては、良忍の融通念仏宗、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、続いて禅宗系の栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、その後の一遍の時宗や日蓮の日蓮宗や江戸時代に来日した隠元の黄檗宗などでは、其々の宗祖の思惑や弟子たちの思想も絡まり、各地各所にの多様な場所に本山が建立されていきます。また、これらの宗派は歴史を通じて、宗教面だけでなく日本の文化・芸術に大きな影響を及ぼして、現在に於いても信仰だけでなく、日本人の生活と精神に深く浸透していると云えましょう。 南都六宗に代表される奈良時代の法相・華厳・律宗は宗派とは云っても「学派」と云っても差し支えないけんきゅう・学問の場の色彩の濃いものでした。平安時代の密教思想の台頭は修行的色彩が濃厚であり、真言密教では即身成仏さえ説いています。一方、鎌倉時代の融通念仏・浄土・浄土真宗や日蓮宗や時宗は、其れまでの官僧身分中心から離脱して、民衆救済を目指す僧が出現した革新的仏教とも云える教えが弘通されていきます。また、鎌倉・室町時代の武家政権は、五山制度によって禅宗のうち臨済宗を庇護・統制、その後の臨済宗は旧仏教に代わって官制仏教となります。以降に成立した江戸時代のキリスト教禁制政策をとる徳川幕府は檀家制度を強制し、全国民をいずれかの仏教寺院の檀家としますが、強制がなくなった現在も制度的には受け継がれています。
2012年09月13日
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「旧約聖書」聖王以降の王達8(列王記上)三代目が永続の鍵 ソロモンは先祖と共に眠りにつき、父ダビデの町に葬られ、その子レハブアムがソロモンに代わって王となり、すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行きます。ネバトの子ヤロブアムは、ソロモン王を避けて逃亡した先のエジプトにいましたが、使いが送られて来たので、彼もイスラエルの全会衆と共に来て、レハブアムに、ソロモン王はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、ソロモン王がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします言います。レハブアム王は、三日たってからまた来るがよいと答え、存命中の父ソロモンに仕えていた長老たちに相談、あなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずですとの答えが、自己をソロモンより大なる者と考えたい、ダビデから数えて三代目の彼は大いに不満で、この長老たちの勧めを捨て、自分と共に育ち、自分に仕えている若者たちに相談、彼らは父が課した軛を軽くしろと言ってきた。我々はこの民に何と答えたらよいと思うかと問うと、共に育った育った若者たちは、あなたの父上が負わせた重い軛を軽くせよと言ってきたこの民に、わたしの小指は父の腰より太い。父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめると答えて大いなる王の威厳と権勢を見せつけろと焚きつけます。三日目にまた来るようにとの王の言葉に従って、三日目にヤロブアムとすべての民はレハブアムのところに来ますが、王が長老たちの勧めを捨て、若者たちの勧めに従って言った。「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」と答え、王は民の願いを聞き入れなかった。主が、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉を実現されるために計られたことです。その言を聞き、イスラエルのすべての人々は、王が民に耳を貸さないのを見て、ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよいと返答して、イスラエルの人々は自分の天幕に帰って行きます。それ故、レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けただけになります。レハブアム王は労役の監督アドラムを遣わしたが、当然に、イスラエルのすべての人々は彼を石で打ち殺したため、レハブアム王は急いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げ帰ります。そこで、イスラエルのすべての人々はヤロブアムが帰ったことを聞いたので、人を遣わして彼を共同体に招き、王としてイスラエルのすべての人々の上に立てます。ユダ族のほかには、ダビデの家に従う者はなくなりました。 偉大な父や祖父を持った者はえてして、自己の分を超えて見せ付けようとする傾向があり、日本の戦国時代の勝頼始め、多くの者が国を傾け、会社を潰すのは古今東西を問わず当て嵌まりそうです。初代の苦労を見て育ったのが二代目であり、先代の苦労の苦の字を知らずに偉そうに出しゃばるのが三代目と言われる通り、この三代目が永続の鍵を握るのかもしれません。
2012年09月12日
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仏教概要四(日本仏教の宗派)本末制度 古寺・名刹をもとめて古都を訪れると、総本山とか大本山と書かれた表札をよく見かけますが、此れが江戸時代に生まれた本末制度と呼ばれるもので、宗派の根本となっている総本山、宗祖ゆかりの大本山を筆頭として、以下、本寺・中本寺・直末寺・孫末寺といった寺院が位置付けられて階層を成しています。本寺以下は末寺と総称され其々、儀式や経済的な援助を本山の指示を仰いでいます。 本末制度は、戦国時代に浄土真宗を信仰集団とした一向一揆があり、大名を倒すまでの力を持ったものもあり、その鎮圧には上杉景虎を持ち出すまでもなく、鎮圧には手を焼き、江戸幕府の成立とともに、寺院の管理制度の改革に乗り出し、すべての寺院を宗派の本山寺院に総べさせて、幕府は本山のみ管理していれば、以下の諸寺院を管理する手間が省けるために採用されたものです。此の本末制度が現在にも受け継がれて、本山を頂点とする階級と繋がりが築かれて存続しています。 代表的な本山としては、真言宗の高野山金剛峯寺、天台宗の比叡山延暦寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の東西本願寺等々、誰もが知って訪れたこともありそうな名刹が並びます。但し、本山と云っても同じ宗の中でも名乗る寺院が幾つもあったり、大本山と総本山が並び立っていることもあります。此れ等は同じ宗の中でも、部派に分かれた結果、各派が本山を立てたことによります。例えば、臨済宗などは14派にも別れ、建長寺派は建長寺、大徳寺派は大徳寺を、妙心寺派は妙心寺を其々に本山としています。 以上の様に、日本では宗教法人として登録されているだけでも8万程度の寺院が在り、これ等の寺院は必ずどれかの宗派に属し、本山が定められています。しかい、寺院を訪れてみると、山門に入るだけでも高い入場料、寺院の境内を利用した広大な有料駐車場、葬儀場と化した寺院を見るにつけ、本末制度の維持に多数の金銭を要求されることが予想され、各々寺院の維持と上納金制度の存在までを勘ぐりたくなります。
2012年09月11日
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仏教概要三(日本仏教の宗派)分裂と発展 日本の仏教は印度を出て中国に伝播、朝鮮半島を経て紀元538年に伝来、七世紀の初頭の聖徳太子による仏教興隆のために成した功績は目覚ましく、以降現在までに13の宗派へと分かれますが、その数は江戸時代以来変わりません。中でも大乗仏教の教えは一般に定着化して発展して来ました。一方、分派の方は長くは56派と云われてきましたが、戦後の信教の自由が憲法上保障されると、更に新派が生じますが、その入出は激しく、現在、宗教法人登録数の派は160前後だとされています。 具体的には、まず奈良時代に興隆して弘通した南都六宗に始まり、法相宗・華厳宗・鑑真が齎した律宗、平安時代には天台宗と真言宗が成立します。更には平安末期から鎌倉時代には、浄土教の教えを受け継ぐ融通念仏集・浄土宗・浄土真宗・時宗、経典よりは釈尊そのものの悟りの便法を説いた禅宗系の臨済宗・曹洞宗、そして唯一正しき教えの白蓮教である法華経のみを信仰する日蓮宗が続き、江戸時代に禅宗系の黄檗宗が此れに加わります。 いずれにしても、日本では上座部仏教は浸透せず、大乗仏教一色の観が在り、中でもナーガール・ジュナが大乗八宗の祖とされ崇敬を集めていることには注目すべきものがあります。
2012年09月10日
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仏教概要二(仏教の宗と派)大乗仏教の勃興 部派仏教全般に云えることは、其の成り立ちから見て、出家者が中心であるという特徴があり、在家の者が救われるには、其の儘ではなく、悟りに至るには、出家が是が非にも必要とされていたことです。こうした部派仏教に対する反発から、出家者だけではなく、すべての人々を悟りへ導くべきだと主張する大乗仏教が紀元前後に勃興し、法華経や般若経といった大乗経典が編纂されていきます。 部派仏教と大乗仏教に別たれた仏教が中国に伝播するのは、釈尊入滅から400~500年を経過し、多くの仏典が漢訳されます。ところが、その漢訳された仏典の正当性を巡っての僧侶の対立が深まり、其々その正当性を奉じる経典をもとに教えを説く様になります。此れが各「宗」に於ける仏教が興った因となります。 日本には紀元538年に仏教が伝来、特に竜樹を祖とする大乗八宗は、日本の生活と文化に影響を与えます。奈良時代に始まった南都六宋、平安時代の天台宗や真言宗、江戸時代に定着した禅宗、臨済・曹洞宗に次ぐ黄檗宗など、現在の日本では代表的な「宋」は13を数え、その「派」は150以上の諸派に分けられ、宗派が異なれば、教えが違うのは勿論の事、僧侶の袈裟や仏事のしきたり、異なる宗派の葬儀は行えないまでに至っています。世界三大宗教に限らず宗祖の教えに戻れとの原理主義が叫ばれるのを無理からぬとするのは、宗祖の教えを逸脱してまでの宗派の分裂と発展が因をなしているのは間違いの無いことでしょう。
2012年09月09日
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「旧約聖書」聖王以降の王達7(列王記上)ソロモンの事績とその陰り ソロモンが主の神殿と王宮の建築を終え、造ろうと望んでいたものすべてについての念願を果たした時、主は再びソロモンに顕現して、私はあなたが私に憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。私はあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこに私の名をとこしえに置く。しかし、もしあなたとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨て去ると伝えます。また、繁栄の中でソロモンはしてはならない事、軍備強化のために、戦車と騎兵を集め、戦車千四百、騎兵一万二千を保有。それを戦車隊の町々およびエルサレムの王のもとに配置します。だが、国を守られるのは主である。王が自分の武力や富を蓄え始めた時、彼は主から離れていく。更には、王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。馬を集め、金銀を蓄積する王は、やがて国民を見下すようになる。王とは神の命により、民に仕えるために立てられたのを明言しています。 こうして主の怒りはまず、ダビデにより征服されたエドム王国に、ソロモンに敵対する者として、エドムの王家の血筋を引く者エドム人ハダドを起こされの反乱となって現れ、王国南部が不安定化します。王国北部ではダビデが征服したシリア地方に反乱が起こり、ダマスコも王国から分離していきます。また主は、ソロモンに敵対する者としてエルヤダの子レゾンを起こされた。彼らはダマスコに行って住み着き、ダマスコで支配者となりますが、何と言っても最大の反乱は、エフライム部族の指導者ヤロブアムによって起こされた預言者アヒヤを通して主の託宣を受けた、イスラエル王国十部族の王国からの離脱です。直接的にはソロモンの課した強制徴用と重税であったが、列王記記者は王国分裂の背後に主の怒りを見ています。主がこうするのは、ソロモンが主なる神を捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、主の道を歩まず、主の目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからですらだとしています。また、主がダビデになされた約束はソロモンの背信により破られますが、主は約束を守られ、「彼の息子の手から王権を取り上げ、それを十部族と共にあなたに与えるが、一部族を与え、私の名を置くために私が選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火が私の前に絶えず燃え続けるようにする。こうして私はダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない」と云われます。それから千年の時を経て、ダビデの末から新しい王、真実の王が起こされるます。新約聖書マタイ伝ではエッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサをマタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけ、このマリアからと書かれているとおりです。
2012年09月08日
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仏教概要一(仏教の宗と派)根本分裂と枝末分裂 仏教は、本来は開祖釈尊の教えを奉じており、本来ひとつである筈の哲学・宗教に、日本の仏教は現在13の「宗」に分かれるのみならず、その「宗」も多くの「派」に分かれ経典どころか敬う仏も葬儀の形式も異なる状況です。その開祖ゴータマ・シッダールタは紀元前5世紀後半にインド北部のインド系民族外の釈迦族の王子として生まれ、裕福な生活環境の中16歳で結婚し、長子ラーフラをもうけます。此の長子ラーフラも後年には釈尊の弟子に成ります。ところが、、早くから王子としての境遇から世間を見詰めていたシッダールタは、世の無常を感じ29歳で、一切を捨てて修行生活を送ります。以降6年に亘って辛酸苦行を重ねますが、やがて、苦行では悟りを得る事が出来ないことで、それを断念、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想に入り、35歳のときに悟りを得て正覚者(仏陀)となります。 悟りを得た後の釈尊は45年に亘っての永き遊行生活を通じての布教活動を行うなかで、インド各地では釈尊を慕う多くのサンガが形成されます。しかし、多くの人の苦からの解放を説き・救いながらの生活もクシナガラの沙羅双樹の下で涅槃・入滅され昇華します。その入滅から100年後後には、サンガは釈尊の定めた戒律の解釈をめぐっての対立が生じ、戒律を厳格に守るべきだとする上座部と、時代に即して戒律を緩急自在・縦横無碍を主張する大衆部に分裂(根本分裂)します。更には、此の二派も其々、我こそが釈尊の正当な継承者なりと主張する教学の部派に分かれ、発展確立を目指していきます。これら全般を部派仏教と云います。 宗教哲学とも云うべき仏教の、宗教の宗派分裂の激しさは、エホバを信奉するユダヤ・新旧聖書に基づくプロテスタントやカソリック及びイスラム教に比して際立っています。そこには世の根本を説く哲学としての仏教の特異性がみえます。
2012年09月07日
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「旧約聖書」聖王以降の王達6(列王記上)ソロモンの栄華 主はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心を与え、その知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさったと云われます。彼の語った格言は三千、歌は千五首に達し、其の学は全てに及んでいました。さて、ティルスの王ヒラムは、ソロモンが油を注がれ、父に代わって王となったことを聞き、神なる主の御名のために神殿を建てることと王宮建設についての二人は条約を結びます。そのために、ソロモン王はイスラエル全国に男子は三万人を徴用し労役を課し、多くの奴隷を使役します。まさに国の金庫と人員を総動員した大事業です。主の神殿で行われてきた仕事がすべて完了すると、ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムの自分のもとに召集し、主の契約の箱を定められた場所、至聖所と言われる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置しますが、箱の中には石の板二枚のほか何もありません。 或るとき噂を聞き及んだシバの女王(Queen of the South)が、イスラエルを訪れソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、感極まります。女王は王に、わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。私は、此処に来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでしたが私に知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富は噂に聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民、いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は以来二度とは入って来なかった。また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来たので、王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作ります。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかった。ソロモン王は、シバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行きますが、物語の様に彼と女王の間に恋愛感情が生まれていたものかどうかは想像するしかありません。ソロモンの歳入は金六百六十六キカル、そのほかに隊商の納める税金、貿易商、アラビアのすべての王、地方総督からの収入がありました。また、王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めました。 ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせます。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせ、こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に顕現して、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。そこで、主がソロモンに現れて、あなたがこのように振る舞い、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかった故に、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる。ただし、王国全部を裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与えると伝えます。その言を聞いて後、エルサレムで全イスラエルを治めたのは四十年、ソロモンは先祖と共に眠りにつき、父ダビデの町に葬られます。ソロモンの他の事績、彼の行ったすべての事、彼の知恵は、『ソロモンの事績の書』に記されている。主の予言通りその子レハブアムがソロモンに代わって王となりますが、前途には多難が待ち構えていました。
2012年09月06日
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「旧約聖書」聖王の後継者ソロモン概要 ダビデの後継者ソロモンは、イスラエル王国の黄金期を創出した父の遺産、領土は属国・朝貢国を含めてを受け継ぎ、それを日本のほゞ半分、イスラエル本来の領域の約六倍に拡張します。しかし、この地域には古今天然資源は乏しいのですが、ダビデが周辺諸国を征服、戦利品・貢納物が王宮の金庫を満たし、それを資本にしてソロモンは、秀でた商才を、三大陸の接点(ランドブリッジ)と言われる南にエジプト、東北東にメソポタミア、北西に小アジア、西はエーゲ海域と云う古代文明の花咲いた四地域に囲まれたイスラエルの地の利、ひとたび戦乱になれば軍馬に蹂躙される宿命の国土を、隊商通路の安寧を確保して、その類稀なる知恵を駆使した通商外交で、古代のフェニキア、海洋民族として地中海をまたにかけて貿易で富と文化を高めていた都市国家北隣ツロとの同盟によって、自国と属領内の産物を商品化、更には兵器の中継貿易で莫大な利益を得ます。南のエジプトとは婚姻政策で友好を深め戦車と馬、北はキリキアとの良馬の貿易を振興しています。 次はダビデ以来の悲願であった、主なる神の神殿建設と、土木建築の才を発揮した王宮建築ですが、国力を傾けんばかりの規模で、国民の徴税と徴募により、いかな富をも食い尽くしていきます。その壮大な神殿も装飾性に堕し、宗教の形骸化への一歩の危険性を秘めていましたが、その建築はそれから二千数百年を経たいまもユダヤ教徒にとって「嘆きの壁」として、神殿跡地として残される聖なる場所となります。 表面的にはソロモンの時代は大輪の花を咲き誇らせつつ、平和な中に彼の治世を閉じますが、その死が引き金となって、北方十部族の不満が爆発して連合王国は解体、北はイスラエル王国、南はユダ王国として、ダビデの王国は僅か二代限りの分裂王国の時代と成り、国力はにわかに弱体化して、其々の王国は道徳的に堕落の道をたどり、やがてバビロンの捕囚に至ります。
2012年09月05日
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「旧約聖書」聖王以降の王達5(列王記上)訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたソロモン ソロモンは、エジプトの王ファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入ファラオの婿となります。彼は宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待ち、まだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台で生贄を捧げています。 ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台で生贄をささげ、香をたいていました。王は生贄を捧げるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物を捧げました。その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われ、それにソロモンは「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」と答えます。主はソロモンのこの願いをお喜びになった。主なる神は「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」と言います。ソロモンは目を覚まして、それが夢だとは知りますが、エルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張ります。そのころ、遊女が二人王のもとに来てその前に立ち、一人はこう言います「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子をわたしのふところに寝かせたのです。わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、わたしの産んだ子ではありませんでした。」、するともう一方の女が「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」対して先の女も言いはります。「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。」二人は王の前で言い争った。 王は「生きているのがわたしの子で、死んだのはあなたの子だと一人が言えば、もう一人は、いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子だと言う。」と発言し、そして王は「剣を持って来るように」と部下に命じます。王の前に剣が持って来られると、王は命じた。生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよと。生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言ったのです。しかし、もう一人の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言います。 王はそれに答えて宣言した。「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」 、其ののち王の下した裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。ここで、似たような話が思い浮かぶのは、ベニスの商人でしょう。 いずれにしろ、ソロモン王は真の意味で全イスラエルの王となったのです。 その高官たちは次のとおりである。ツァドクの子アザルヤが祭司。シシャの二人の子エリホレフとアヒヤが書記官。アヒルドの子ヨシャファトが補佐官。ヨヤダの子ベナヤが軍の司令官。ツァドクとアビアタルが祭司。ナタンの子アザルヤが知事の監督。ナタンの子ザブドが王の友であり祭司等々で王の周りを固め、その他にイスラエル全国に十二人の知事を置き王と王室の食糧を調達しました。すなわち、知事は各自毎年一か月分の食糧を調達することになっていた。ソロモンは、ユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、かってイスラエルが支配下に置いたことさえないすべての国を支配、その類稀なるソロモンの商才が、イスラエルに富みと栄を齎すことになり、イスラエルに黄金期が訪れました。
2012年09月04日
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「旧約聖書」聖王以降の王達4(列王記上)シムイに聖王呪いの悪の報い 王は人を遣わし、シムイを呼んで「エルサレムに家を建てて、そこに住むがよい。そこからどこにも出て行ってはならない。 02:37もし出て行ってキドロンの川を渡れば、死なねばならないと心得よ。お前の血はお前自身の頭に降りかかるであろう。」と命じます。シムイは王に、「親切なお言葉です。僕は、わが主君、王の言われるとおりにいたします」と答えました。其ののち、シムイはエルサレムに住んで多くの月日を過ごします。しかし、三年目が過ぎて、シムイの二人の僕が、ガトの王マアカの子アキシュのもとに逃げ去ったときのことです。この二人の僕がガトにいるとの知らせを受けると、シムイは驢馬に鞍を置き、二人の僕を捜し出すために、ガトのアキシュのもとへ行ってしまいます。そしてシムイは、二人の僕をガトから連れ戻して帰って来ます。その知らせがソロモンに届くと王は人を遣わしてシムイを呼び出し、「私はお前に主にかけて誓わせ、警告しておいたではないか。どこであれ、出て行けば、その日に死なねばならないと心得よと。其の時、お前は、親切なお言葉です。私は従いますと主にかけて誓った。なぜ主にかけて誓ったこと、またわたしの授けた戒めを守らなかったのか。」 更に王はシムイに「お前は私の父ダビデに対して行ったすべての悪を知っている筈だ。お前の心はそれを知っている。主がお前の悪の報いをお前自身の頭にもたらしてくださるように。しかし、王は祝福され、ダビデの王座はとこしえに主の御前にあって揺らぐことのないように」と言いました。 王がヨヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出て行ってシムイを打ち殺しました。こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなり、サウルの血が絶える事と成りました。
2012年09月03日
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「怪異」俺はエイリアン 二十一世紀に入って、世界の中でも複数の巨大人口国家の産業優先・重工業化・輸出優先の成長路線が進み、過去の先進工業国家か京都議定書でCО2削減・地球温暖化の警笛を鳴らしても、其々の国家の国民生活改善の突き上げで、環境第一を叫ぼうなら、政権転覆下手をすれば国家体制其のものが維持出来ない状態で、年々CО2は増加傾向にあり、今や地球温暖化どころか温室化と呼んだほうがいいような、地球の自然環境の異常が起こって居ます。 俺の国でも、今年は、夏日が天候史上の記録を更新、都会では分刻みで熱中症患者が搬送されているのが、日常茶飯と成りました。御多分に漏れずクーラーの効かない部屋で仕事する自分が熱中症、以前からの上腹部の痛みに加えて完全ダウン。総合病院で点滴を受けて帰ったところが、身体が余程弱っていたらしく翌朝に、腹部に激痛がはしり、救急電話をかけるにも、途中で住所さえ言えずにそのまま倒れ、病院に担ぎ込まれました。人間七転八倒とか云うけれども、真に激痛にあった時は、筋肉が硬直して凝り固まり、悲鳴を上げる事も出来ずに脂汗を流しているしかありません。それでも筋弛緩と鎮痛薬の注入で一時的には、死よりも辛い激痛からは解放されました。 CTスキャンの結果は、胃の中にメダル級の大穴と五十円玉クラスの穴が穿たれてるとのこと、ただ、熱中症のために食欲がなく、20日間程も水程度しか身体に取り入れてなかったので、腹膜にしてもきれいなので開腹手術をするか薬で治していけるか検討すると言われ、自分は勿論のこと切腹をお断り致しました。30日間ほどベッド生活が経過した頃、正確な診断が居りました。私の仕事柄、不規則な生活のため、一日二食どころか一食はおろか全く食事をしない日々もあり、一時的に食欲を高めるため身体が胃酸を多く出して食べ物を要求するにも拘らず胃に何も入れないため、胃酸の酸性が高くなり自らの胃壁を溶かして穴を穿ち潰瘍を起こしていることが解かりました。但し、問題はその酸性度がほゞ希塩酸に近いことです。 自分の食道や胃壁は日数を経る事と薬物療法で耐性が出来たものの、或る日の事、通学時間帯の満員バスで胃酸が込み上げ、偶々クシャミが出たものだからたまりません。周りの女子高生から悲鳴が聞こえます。恐る恐る眼を向けますと、皆の洋服に点々と焦げた匂いと共に煙が。其の儘、逃げるようにしてバスを降りましたが、ニュースでは塩酸バラまき通り魔事件の報道が。俺はエイリアンか?。
2012年09月02日
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「旧約聖書」聖王以降の王達3(列王記上)アドニヤとその加担者の始末 ハギトの子アドニヤはソロモンの母バト・シェバのもとに行った。彼女が、「穏やかな事のために来たのですか」と尋ねると、彼は、「穏やかな事のためです」と答えた。彼が、「実はお話ししたい事があります」と言葉を続けると、彼女は、「話してごらんなさい」と答えたので、彼は言った。「ご存じのとおり、王位はわたしのものであり、すべてのイスラエル人はわたしが王となるように期待していました。しかし、王位は移って弟のものとなりました。主のお計らいによってそうなったのです。今、お願いを一つ申し上げます。断らないでくだい。」彼女が、「話してごらんなさい」と言うので、 そう彼は老王ダビデの添い寝のために選ばれた娘「あのシュネムの女アビシャグをわたしの妻にしていただけるように、ソロモン王に頼んでください。あなたの願いなら王もお断りにならないでしょう。」と言います。バト・シェバは軽く考えて、「いいでしょう。あなたのために王に話します」と答えます。彼女はアドニヤのために取り次ごうとして、ソロモン王のもとに行くと、王は立ち上がって母を迎え、その前にひれ伏し、王座に着き、母のためにも席を設けさせた。彼女は王の右に座り「小さなお願いが一つあります。断らないでください」と言います。王が「母上、願いを言ってください。あなたの願いなら、わたしは断りません」と答えたので彼女は言いました。「あのシュネムの女アビシャグをあなたの兄アドニヤの妻にしてください。」、対してソロモンは母に「どうしてアドニヤのためにシュネムの女アビシャグを願うのですか。彼はわたしの兄なのですから、彼のために王位も願ってはいかがですか。祭司アビアタルのためにも、ツェルヤの子ヨアブのためにもそうなさってはいかがですか。」と答えます。ソロモン王は、ハギトの子アドニヤに陰謀を嗅ぎ取り、主にかけてこう誓います。「アドニヤがこのような要求をしてもなお生きているなら、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。わたしを揺るぎないものとして、父ダビデの王座につかせ、お約束どおり私のために家を興された主は生きておられる。アドニヤは今日死なねばならない。」ソロモン王はヨヤダの子ベナヤを送ってアドニヤを討たせたので、アドニヤは亡くなります。王はまた祭司アビアタルにこう言った。「アナトトの自分の耕地に帰るがよい。お前は死に値する者だが、今日、わたしはお前に手を下すのを控える。お前はわたしの父ダビデの前で主なる神の箱を担いだこともあり、いつも父と辛苦を共にしてくれたからだ。」ソロモンはアビアタルが主の祭司であることをやめさせた。こうして主がシロでエリの家についてお告げになったことが実現します。この知らせがヨアブにまで届いた。ヨアブはアブサロムには加担しなかったが、アドニヤに加担したので、主の天幕に逃げ込み、祭壇の角をつかんだ。ソロモン王は、ヨアブが主の天幕に逃げ込み、祭壇のそばにいることを知らされると「行ってヨアブを討て」と命じ、ヨヤダの子ベナヤを遣わします。ベナヤは主の天幕に入り、ヨアブに、「王が、出て来いと命じておられる」と言ったが、彼は「出て行かない。わたしはここで死んでもよい」と答えた。ベナヤはヨアブがこう言って答えたと、その結果を王に伝えると、王は「彼の言うとおりにせよ。彼を打ち殺して地に葬れ。こうして、ヨアブが理由もなく流した血を私とわたしの父の家から拭い去れ。 主が彼の流した血の報いを彼自身の頭に齎して下さる様に。彼はわたしの父ダビデの知らないうちに、自分より正しく善良な二人の人物(ヨアブより正しく善良とは史的に見ても信じ難いが)イスラエルの軍の司令官、ネルの子アブネルと、ユダの軍の司令官、イエテルの子アマサを討ち、剣にかけて殺した。この二人の血の報いはヨアブとその子孫の頭にとこしえにもたらされ、ダビデとその子孫、その家、その王座には主によってとこしえに平和が続くように。」と言います。それで、ヨヤダの子ベナヤは上って行ってヨアブを打ち殺し、ヨアブは荒れ野にある自分の家に葬られた。王は彼の代わりにヨヤダの子ベナヤを軍の司令官とし、アビアタルの代わりに祭司ツァドクを立て、自らの権力基盤を強化しました。
2012年09月02日
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2012年09月01日
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「旧約聖書」聖王以降の王達2(列王記上)ソロモンの支配体制の確立 王位継承を宣言したアドニヤと、彼と共にいたすべての客は、地は裂ける程の「ソロモン王、万歳」と叫ぶその声が騒音として響いてきた。その声を聞いた彼らは食事を終えたばかりであり、ヨアブは角笛の音を聞いて、「どうして町に騒がしい声がするのだろうか」と言った。 そうこう話しているうちに、祭司アビアタルの子ヨナタンが来ます。アドニヤは、「近くに来るがよい。お前は勇敢な男だ。良い知らせがあるにちがいない」と言ったが、ヨナタンはアドニヤに答えた。「いいえ、我らの主君、ダビデ王はソロモンを王とされました。王は、ソロモンと共に祭司ツァドク、預言者ナタン、ヨヤダの子ベナヤ、クレタ人とペレティ人を遣わし、彼らはソロモンを王の騾馬に乗せました。祭司ツァドクと預言者ナタンはギホンでソロモンに油を注いで王とし、彼らがそこから喜び祝いながら上って来たので、町は騒いでいるのです。あなたがたに聞こえたのはその声で、ソロモンは既に国王の座についておられます。王の家臣も次々と来て、我らの主君、ダビデ王に祝いの言葉を述べています。あなたの神がソロモンの名をあなたの名よりも優れたものに、ソロモンの王座をあなたの王座よりも大いなるものにしてくださいますようにと。また、ダビデ王は寝床の上でひれ伏して「イスラエルの神、主は讃えられますように。主は今日わたしの王座につく者を与えてくださり、私はそれをこの目で見ている」と言われました。。その知らせを聞いたアドニヤに招かれた客は皆、震えながら立ち上がり、それぞれが帰途につきます。 アドニヤもソロモンを恐れ、祭壇に立ち行き、その角を掴み、この私を剣にかけて殺すことはないと今日ソロモン王に主に誓っていただきたいと祈ります。この知らせがソロモンに伝えられるとソロモンは、彼が潔くふるまえば髪の毛一筋さえ地に落ちることはない。しかし、彼に悪が見つかれば死なねばならないと言い放ちます。ソロモン王は人を遣わしてアドニヤを祭壇から下ろさせ、アドニヤがソロモン王の前に出てひれ伏すと、ソロモン王は家に帰るがよいと言います。死期が近づいたとき、ダビデは王位に就いたソロモンに「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、誠をもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはないという約束を守ってくださるであろう。また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたことを知っている。彼がイスラエルの二人の将軍、ネルの子アブネルとイエテルの子アマサにしたことである。ヨアブは彼らを殺し、平和なときに戦いの血を流し、腰の帯と足の靴に戦いの血をつけた。それ故、あなたは知恵に従って行動し、彼が白髪をたくわえて安らかに陰府に下ることを許してはならない。ただし、ギレアド人バルジライの息子たちには慈しみ深くし、あなたの食卓に連なる者とせよ。彼らは、わたしがあなたの兄アブサロムを避けて逃げたとき、助けてくれたからである。また、あなたのもとにはバフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼はわたしがマハナイムに行ったとき、激しくわたしを呪った。だが、彼はわたしを迎えにヨルダン川まで下って来てくれた。わたしは彼に、あなたを剣で殺すことはないと主にかけて誓った。しかし今、あなたは彼の罪を不問に付してはならない。あなたは知恵ある者であり、彼に何をなすべきか分かっているからである。あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」こう言って王子ソロモンを戒めた。ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られます。ダビデがイスラエルの王であった期間は四十年に及んだ。彼はヘブロンで七年、エルサレムで三十三年間王位にあった。ソロモンは父ダビデの王座につき、その支配は確立した。 ダビデがソロモンに遺言した中で、永年辛苦を伴にし、ダビデを支えてくれたツェルヤの子ヨアブに言及した部分には、ダビデの陰の部分を知る者を絶たなければ、王国の安定が望めないこと、バフリム出身のベニヤミン人ゲラの子シムイに対しては寛容を示した観があった、王としてのダビデと人としての慈愛の限界を知らされます。ダビデは主に油を注がれその教えに従い、聖別されたイスラエルの救世主と云う意味での聖王であることは間違いないことですが、主なる神の慈愛によって人々を救いに導く聖なる人と云う意味の聖人の王と捉える事はその事績からも無理があります。その出現を期待出来るのは後世を待つことになります。
2012年09月01日
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