全30件 (30件中 1-30件目)
1
「お江戸」の3曲目は山村暮鳥の詩を合唱に仕立てた無伴奏男性合唱曲「じゅびれしょん」から。「独唱」はあっさり聞き流したが、「りんごよ」は重厚な詩に相応しい人生の哀しみが感じられる小品。谷川俊太郎の詩による無伴奏男性合唱曲「木」も同様で、言葉の重さを味わえる作品だった。 第3ステージはパリンカの出番。この演奏会に向けて準備した曲、男性合唱とピアノのための「魂の木を想う」を歌う。これは福島の詩人である和合亮一氏が、昨年の東日本大震災で亡くなった犠牲者のために詩を作り、それを東京の高嶋みどりさんが作曲、初演するもの。歌の途中に偶然子供の泣き声がしたが、それがまるで深い悲しみを表わすように聞こえた。演奏後には、和合さんと高嶋さんも立ちあがって挨拶されていた。 第4ステージはパリンカとお江戸コラリアーずの合同演奏。100人もの団員が壇上に上がると圧巻だ。最初の曲は静かな「路標のうた」で木島始作詩。2曲目は「お江戸」の指揮者が担当しフライシュレンの詩を仕立てた「くちびるに歌を」。ドイツ語と日本語で交互に歌われたが、どっしりした低音部に素晴らしい高音部が乗り、とても2つの合唱団が歌ったとは思えない出来栄えだった。 最後は宮城県の民謡である「大漁唄い込み」の大合唱。これは「斎太郎節」と「遠島甚句」を合わせたもので、指揮者の大学の先輩である作曲家竹花秀昭氏がこの日のために編曲した初演の曲。民謡の内容ともマッチし、男性合唱の勇壮さが余すところなく発揮された感じ。目の前で地元の民謡を聞くのも悪くない。演奏後、竹花さんが会場内で立って挨拶された。 こうして2時間半があっと言う間に過ぎた。パリンカの指揮者である千葉氏が言う。「これでいっぱいいっぱいです。アンコールはありません。最後に拍手をお願いします」。去り行く2つの合唱団に対して、会場から惜しみない拍手が送られた。45年ぶりの男性合唱は、私の心を揺すぶった。歌にはたいてい歌詞や言葉がある。それに曲がつき、さらに編曲されて合唱曲になる。だから合唱は総合芸術みたいなもの。 そして訓練された人の声は楽器と同じ。2つの合唱団は共に見事な演奏だったし、合同演奏もさすがだった。昨年は震災で演奏会が開けなかったそうだ。2年ぶりの再会と演奏は、2つの合唱団にとって最大の喜びだろう。アンコール演奏もなく終わったが、今夜は思いっ切り飲んで欲しい。お疲れ様、そして素晴らしい歌声と感動をありがとう。またいつの日か、君達の歌を聞きたいものだ。
2012.06.30
コメント(0)
妻と合唱を聞きに行った。それが男声合唱と知ったのは、当日会場へ向かう地下鉄の中。妻が高校の同級生からチケットをもらったと聞いた時から、私はてっきり女声合唱だとばかり思い込んでいたのだ。壇上に並ぶ団員を見て驚く。そこには女性も4人ほど混じっていたからだ。高音部を歌うのだろうが、何から何まで不思議だった。 だが歌を聞いてビックリ。ハーモニーと歌唱の正確さに先ず驚かされた。最初の歌は合唱団の団歌。どうやら「パリンカ」は木の実で作った酒みたい。後で調べたら、プラムを原料にして作るルーマニアのブランデーのようだ。そして私がうなったのも道理で、パリンカは全国合唱コンクールで金賞を受賞した、実力のある合唱団だったのだ。 団歌に続く曲は、トマス・タリス作曲の「預言者エレミアの哀歌1」。カトリックの典礼で復活祭に先立つ3日間、ミサの際に朗読されたり歌われる旧約聖書の一節のようだ。後で調べたらタリス(1505~1585)はイングランドの作曲家で、オルガン奏者。当時は宗教改革の真っ只中で、彼自身はカトリック信者だが、曲はプロテスタントのために作曲された由。 荘厳なミサ曲と言うよりは、「美しく清らかなこだま」を聞くような感じ。プログラムには全ての曲の歌詞が紹介されているが、これはBC586年ユダヤが新バビロニアによって滅ばされ、それ以降ユダヤの民が流浪するきっかけになった歴史の一幕で、悲哀と重厚さをさほど感じなかったのは、まだ和声理論が確立してなかったことによるのかも知れない。 3曲目は間宮芳生作曲「合唱のためのコンポジション」第6番から。これは岩手県の稗搗き歌、田植え歌のはやし詞、青森県の神楽舞、福島県の田打ち歌をアレンジしたもの。女声のトップテナーが目立つ美しいハーモニーは良いが、本来生活臭のある民謡としては物足らない感じ。最後の「合いの手」の部分が面白かった。 第2ステージは友情出演の「お江戸コラリアーず」が担当。一昨年の10月に仙台で公演した際、街中で「パリンカ」と隣り合って歌ったのが縁らしい。その時、練習は居酒屋を借り切って行い、公演後はそこに戻って祝杯を挙げた由。団の名前のユニークさ、東北出身の団員の多さ、「パリンカ」との因縁、そして歌唱力、その全てに感動を覚えた。彼らも全国合唱祭で金賞を受賞している実力者だったのだ。 「お江戸」の最初の曲は「東京ブギウギ」。これは言って見れば団歌代わりみたいなもの。壇上で踊りながら歌い、最後は隠していた手拭を振って挨拶。歌った曲と言い、実に愉快な演出だった。2曲目は「シェナンドー」。これはこれまでに聞いたことがある曲。歌詞の中に「ミズリー」と言う地名が出て来るのでアメリカの歌だろう。哀愁を帯びた名曲だった。 合唱の合間に軽妙な語り口での団の紹介や団員募集がなされる。まあ、わざわざ仙台から東京まで練習に行く人はいないだろうが、とても愉快で好感が持てた。この「お江戸」にも女性の団員が3人いた。男性に混じって歌う女性の存在が、とても新鮮。そして「パリンカ」とは実力伯仲の、良い勝負だった。<後半に続く>
2012.06.29
コメント(6)
絵は案外好きな方だ。だが、昨年の大震災以来、あまり展覧会に行ってない。被害を受けた施設も多く、きっと画家も絵を描くどころではなかったのだろう。東北最大の「河北美術展」を2年連続で観ておらず、淋しい思いをしていた。そんな時に知ったのが宮城県美術館の「アンドリュー・ワイエス展」だった。 画家の名前は聞いたことがある。大阪の水彩画家である松風さんが好きな画家だとも知っていた。だが、どんな絵を描く人だったか、思い浮かばない。きっとベン・シャーンと混同していたのだと思う。この展覧会の楽しみはもう一つあった。ルーブル美術館からの出品があることだ。何故ルーブルなのかは分からないが、それで訪ねる気持ちが深まったのは間違いない。 初めに「ルーヴル美術館からのメッセージ:出会い展」を観る。昨年発生した東日本大震災に関し、日本の人々と連帯したいとの趣旨での協賛事業。展示内容は古代エジプトの彫刻、古代ギリシャの彫刻、古代オリエントの彫刻、中世ヨーロッパの宗教画、古代ギリシャの三美神に因む絵画が中心で、いずれも小品の22点。 私は博物館勤務の時にオーストラリアの美術館と博物館を20ほど訪ねたことがあるが、今回の展示はメルボルンのビクトリア国立美術館と雰囲気が良く似ていた。古代エジプト、古代ギリシャ関係の美術品は全て市民から寄付された本物で、さすがは大英帝国の末裔と感じたものだ。かつてのオーストラリアはイギリスの犯罪者を送りこんだ地だが、もちろん移住者は犯罪者だけではない。 フランスはナポレオン時代にエジプトを侵略し、多くの美術品や工芸品を本国に持ち帰っている。ルーヴルの収蔵品の中でそれらが占める比率は結構高いはず。ビクトリア国立美術館へ寄付された古美術品も、きっと市民達の祖先がエジプトやオリエントから収奪したものが多かったのではないか。だがたとえどんな経緯であれ、こうして本物を鑑賞できるのは有難い。 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)はアメリカの画家。「オルソン・ハウスの物語」のサブタイトルが示すように、東海岸メイン州にある淋しい作業小屋とそこに住む人々を好んで描いた。展示された120点のほとんどは水彩画で、一部鉛筆画が混じる。描かれた形は明確だが、色彩はモノトーンのような色調で、かつ濁っているものが多い。 一見して陰鬱な印象だが、ワイエスにとっては単調な田舎暮らし、朴訥な人間性、落ち着いた色合いの全てが好きだったのだと思う。私が受けた印象は、「色がついた水墨画」だった。常設展も観ず、大好きな彫刻家である佐藤忠良コーナーへも行かず、建物外にある数点の彫刻とアマチュア美術家の展覧会だけ観て帰った。近く市の博物館である「インカ帝国展」が楽しみだ。<続く>
2012.06.28
コメント(6)
木道が終わると再び泥道。滑らないよう悪戦苦闘しながら、スタート地点に戻る。転びはしなかったが、やはりトレッキングシューズは泥だらけになった。マイクロバスは市の送迎用だからまだ良いが、カーペット敷きの観光バスに乗り込む前には、草でシューズの泥を拭った。次に向かうのはとあるホテル。そこの温泉に入るのだ。 丘の上に瀟洒なホテルがあった。靴の泥が気がかりだが、仕方がない。大浴場の靴箱にトレッキングシューズを収め、脱衣所に向かう。浴衣を着てるのは宿泊客だが、この時間帯に温泉へ来た人は少なく、まるで我々ツアー客の専用みたい。湯船に入って驚く、何と肌に触れるとツルツルなのだ。しっとり滑らかなお湯に手足を伸ばし、右足底部の痛む個所を軽くマッサージする。 露天風呂はさすがに外気に当たってお湯の温度が下がってる。冷えた体を大浴場の熱い湯で温める。だがサウナには入らなかった。心臓に負担をかけると思ってのこと。1時間の入浴だが、私は30分で上がり、のんびりロビーの椅子で寛いでいた。確か温泉の名前は湯の沢温泉。効能は色々あったが、全部はとても読めなかった。 次に向かうのは法体(ほったい)の滝。往路は下界の様子が見えた。丸い大谷池と、その周囲の無数の池塘が光っていた。だが今は奥地に進むのに、何故か標高が徐々に下がり、木々の緑しか見えない。やがてバスは見晴らしの良い場所に着いた。芝生が広がる河原の横。そこから歩いて滝に向かう。滝の上方は狭く、下は広い不思議な形。昔の人はこれを袈娑(けさ)を纏った法師の姿、つまり「法体」と観た訳だ。 下からでも立派な滝だが、上から見るとさらに良いみたい。澄んだ広い淵と見事な滝。ここで漫画を原作にした「釣りキチ三平」の映画ロケが行われた由。釣りの天才少年である三平が全国の釣り場で大物を釣る、愉快な話だ。小さな赤いつり橋を渡り、山に取り付いた急な階段を登る。誰かが数えたら198段あったらしい。頂上の展望台は木製で、3段になって落ちる見事な滝の全容が見えた。 2つの川が合流する広い瀬から下は子吉川と呼ぶみたい。先刻訪れた湿原もこの滝も、まるで秘境のような素晴らしい風景だった。鳥海山の全貌が見えたのは昼食時だけだったし、お目当てのレンゲツツジとワタスゲは既に終わっていた。おまけに泥だらけの靴。一見踏んだり蹴ったりみたいだが私は十分満足出来たし、心配だった心臓と足も何とか最後まで持ってくれた。 疲れたのか帰路の車中で妻はかなり眠った。だが、私は「私本太平記」を読み続けた。往復で100ページは読めたはず。仙台駅西口には予定より15分くらい遅れて到着。この誤差は、きっとあの泥道のせいだろう。帰宅して早速愛犬と夜の道を散歩した。彼も大人しく留守番をしてくれたみたい。 翌日は妻の分も含め、2足のトレッキングシューズを洗った。体はどこも痛くないと妻。だが普段運動不足の私は、足腰が少し痛んだ。次は今週末の高原のホテル一泊とサクランボ狩りの旅。今からとても楽しみにしている。<完>
2012.06.27
コメント(4)
M仙人が数年前に連れて行ってくれた獅子ケ鼻湿原のブナ林には、「あがりこ大王」とか「ロウソク台」とか呼ばれる不思議な形をしたブナの木があった。それは炭焼きをしていた時代に、20年ごとに木を切った痕なのだ。地上1mほどのところで切ると、20年後には再び炭焼きが可能な枝が伸びて来る。つまりはブナを有効に使う思想が、不思議な形のブナの木になった訳だ。 また秋田と青森の県境にある白神山地には、天然のブナの森がある。まだ一度も伐られたことのない手つかずのブナ森はとても貴重で、世界自然遺産に登録されることになった。太いブナの幹に耳を当てると、地中から水を吸い上げる音が聞こえるのだとか。私も妻と共に訪れたことがあるが、穢れのない深い森に魅了されたものだ。 ガイドのSさんが植物の名前を教えてくれる。タニウツギ、ギンラン、ギンリョウソウ、ツクバネソウ、ツルウルシ、トチバニンジン、フタリシズカ、サワハコベ、エンレイソウ、ミツガシワ、コバギボシ、ヤマゾエゼンマイ、ウラジロヨウラクなどなど。この他にも10種類は聞いたのだが、覚え切れなかった。彼は生物の先生かと思って尋ねたら、教えたのは体育とのこと。まあ、凄い記憶力だ。 話しながらどんどん前へ行くSさんは長靴を履いている。だから水の中でも平気なのだが、必死で追いかける我々はトレッキングシューズがほとんど。だから次第に泥まみれになるのだ。やがて木道が現れ、湿原になった。低く垂れこめた雲の間に、鳥海山の雪渓が見えた。1週間前まではレンゲツツジが満開だったとか。 4年前、この湿原がテレビで紹介されたそうだ。晴れ渡った空に、数多くの雪渓を残した鳥海山が聳え、その手前の湿原には全面を覆うレンゲツツジとワタスゲの群落。それから連日アマチュアカメラマンが押し掛け、100人もの人が湿原の中に入り込んだためワタスゲは3分の1に減ってしまった由。慌てて市が木道を敷設したのは、そんな理由らしい。 泥んこ道も同じこと。大勢の観光客が来る前は歩き易い落ち葉の道だったのが、踏み潰されて土が露出し、さらに溝が出来て降雨後には水たまりが出来る。元々が粘土質の土のため、雨が降るとあんな泥田になってしまうのだろう。 レンゲツツジの花には毒があるとSさん。だからこの花が咲いている時期は、養蜂家は来ないそうだ。蜜にも有害の成分が混じってしまうのだとか。それはトリカブトの花も同様。猛毒成分が含まれているのは根っこだけではないのだろう。 湿原の終わりに雑木林があった。その枝に白い泡の塊。天然記念物モリアオガエル(森青蛙)の卵だ。その真下に小さな池。泡の中で孵化したオタマジャクシはポトリと水溜りに落ち、そこで育つ。だが水中ではイモリが待ち構えていて、木から落ちたばかりのオタマジャクシを捕えて食べてしまう。それでもモリアオガエルが絶滅することはないそうだ。きっと絶妙なバランスが働いているのだろう。<続く>
2012.06.26
コメント(2)
打ちたてのソバと揚げたての天麩羅が美味しかった。ソバは少し堅めで腰があり、天麩羅は暖かい。そして食後に小さくて丸い餅が出た。やはり地元の名産で、名前は「松皮餅」だそうだ。これも少し堅く、中には漉し餡。甘さ控えめでとても美味しかった。早めに昼食を済ませた私は外へ出た。隣に物産市の建物。妻はそこでお土産を買った。 駐車場に大きな看板。それは由利本荘市全体と近隣まで含んだ観光案内だった。鳥海山をぐるりと取り囲む市町村。そのところどころに湿原や沼がある。地元の人に聞くと、この市は1市7町が合併して出来た由。道理で海から山までと、市域が広いわけだ。私が以前M仙人に連れて行ってもらったのは「獅子ケ原湿原」で、滝は「奈曽の滝」。もっと海岸に近い隣の市にあることが分かった。 バスは山道へ入る。驚くような細さで、対向車が来ると、どちらかが少し広い場所まで下がる繰り返し。車内で添乗員から事前の説明。若い人だが愛想が悪く、話す内容はほとんど事務的なもの。このツアーの目玉だったレンゲツツジとワタスゲはほとんど終わり、ハイキングコースは泥んこ状態の由。だが、この時はまだそれほど深刻だとは考えてなかった。 バスは桑の木台湿原の駐車場に入った。市の職員の人が何人かで誘導中。ここから先はさらに道が細く、市のマイクロバスに便乗して湿原へ行くようだ。尾瀬沼へ行く時も同じだが、あれは環境保護のため。地元のガイドさんが2人乗り込んだ。悪路に揺られながら山中を行く。数年前までは約1時間ほどを歩いて行ったとか。これでも楽になったようだ。 湿原の入口に到着。ここが最後のトイレ。仮設で使い難いが、男子用は簡単だ。女子用は扉が良く閉まらず、妻が入っている間は私が扉を抑える始末。2班に分かれて出発。私達1班の引率はベテランのSさん。年齢は60歳くらいか。2班の引率者は40歳代の元気な方で、Sさんの教え子のようだ。この湿原は観光客に知られてからまだ日が浅く、目下ガイドの養成中なのだとか。 歩き出して間もなく、戻って来たハイキング客を観てビックリ。彼らの足元は一様に泥だらけ。それがどうしたらあれほど汚れるかと思うほどの凄まじさなのだ。スニーカーを履いた添乗員はバスに残ったが、ようやくその理由が分かった。彼はこの泥道の酷さを十分知っていたのだ。こうなったら覚悟を決めるしかない。やがて問題の泥道が目前に現れた。 普段は歩き易い道だそうだが、先日の台風4号でかなりの雨が降り、悪路と化している。粘土の上、道幅いっぱいの水たまり。転んだら大変と、必死になって笹をつかむ。もう妻のことまで気が回らない。ツアーで転んだ人も結構いるとガイドのSさん。せめて事前に分かっていたら、泥除けのスパッツを持参したのに。市の職員が所々に臨時の木道を架けている。その幅が狭く、桟木もないため、かえって滑り易い。 周回路に入ると間もなく、周囲は鬱蒼としたブナ林に変わる。これで樹齢は200年ほどとか。1本のブナは年間8トンの水を吸い上げ、葉っぱの数は20万から30万枚。落葉すると1ヘクタール当たり3トンの腐葉土が出来、これが天然のダムになる由。そして1年間に放出する酸素の量は44人分に当たるそうだ。かつては営林署が積極的に伐採を急いだ時代があったが、今はその貴重さに気づきブナの苗を植林している由。<続く>
2012.06.25
コメント(4)
観光バスは鳴子温泉の手前から江合川に架かる橋を渡り、国道108号線を北に向かった。久しぶりに通るこの道。前回通ったのは走友達と「秋田内陸ウルトラ」へ向かう時。確かこの道も大きな地震で通行止めになったことがあったはず。それが開通して、私は「峠越えマラニック」の候補地にもしていた。その時はまだ元気だったのだ 「お父さん、ここが良いと思うんだけど」。そう言って妻が旅行会社のパンフレットを差し出したのは1カ月半ほど前だった。「真っ赤なツツジ咲く桑ノ木台湿原!鳥海山パノラマウォーク」のタイトルと内容を観て、「良いんじゃない♪」と答えた今回のツアーだが、しっかり内容を確認したのはつい数日前のこと。私の体が果たして耐えられるか心配になったのだ。 あれは6年ほど前のこと。走友会の先輩であるM仙人の車に乗って、「鳥海登山マラソン」に参加したことがあった。鳥海山は秋田山形の県境にそびえる標高2236mの秀峰。レースは山形県側の海岸からスタートし、鳥海山の中腹がゴールの18kmだったが、レース後に仙人が案内してくれた湿原が良かった。鳥海山からの湧水と静謐なブナの森、そして少し離れた滝。素晴らしい旅の思い出だ。 ひょっとしてあそこへ行くのだろうか。そんな疑問を抱いて調べたのだが、どうやら違うみたいだ。「法体の滝」は何とか地図で探した。だがハイキングコースが、どんな場所なのかは不明。1時間ほどの散歩のため楽とは思うが、装備をどうするかが問題。結局泥除けの「スパッツ」は持たず、トレッキングシューズで行くことにしたのだ。 国道108号線は淋しい。確か奈良時代、秋田の蝦夷が叛乱した際に、宮城の伊治(これはり)城から秋田の雄勝まで急遽作ったのがこの道だし、平安時代の後三年の役では、源氏が秋田の清原氏を討つため侵攻したのもこの道だ。鳴子ダム、鬼首(おにこうべ)地熱発電所の看板などを観ながら、私はそんなことを考えていた。秋田県境付近ではバスのフロントガラスに細かい雨粒が当たった。 仙秋鬼首トンネルを過ぎると、そこは秋田県の雄勝町。かつては大和朝廷の出城である雄勝柵が置かれ、一時出羽国府も置かれていた。古代から国家権力が次第に東北を制覇して行った証しだ。今は合併して湯沢市になった。小野集落に「小野小町の故郷」の標示。美人の代表である小野小町は秋田出身であることは定説化しているが、山形県の小野川温泉にも小町伝説が残されている。 道の駅でトイレ休憩し、再び元の道を引き返す。国道13号線から108号線へ入り、そのまま西行。山間の平原でバスが停まった。旧鳥海町百宅集落で、合併後は由利本荘市の一部。ここはソバの名産地らしく、昼食には立派な天ぷらソバが出た。大きなガラス窓の前方に鳥海山の勇姿。青空の下に、残雪を戴いたなだらかな山容が見渡せた。<続く>
2012.06.24
コメント(4)
台風4号が去ってから気温が上がった。私は今年初めてアイスキャンデーを食べ、床屋へ行った。台風の被害はわずか。モロッコインゲンの蔓が何本か切れ、葉擦れがあった。移植したばかりのナスの葉に泥がつき、少し元気がない。一旦は回復したように見えた白ゴーヤが、やはりダメになった感じ。それでもトマトには小さな実が幾つかつき、モロッコインゲンに花が咲き出した。 花と言えば、クジャクサボテンが今年もきれいな花を咲かせた。妻は「月下美人」と言うが、あれは夜咲いて間もなくしぼむと聞いた。我家のは日中から咲いているので違うだろう。よっちゃんさんのブログを観たら、「オオキンケイギク」のことが載っていた。外来種で生命力が旺盛なため、元々の植物を駆逐するらしい。そのため栽培禁止措置が取られているようだ。 そのことを妻に教えた。妻も驚いていた。どこからもらったのかは知らないが、昨年少しだけ植えたのが、あっと言う間に庭に広がっている。そんなに強い花とは見えないのだが。話は変わるが、最近「自殺」が多い。と言ってもこれはミミズの話。毎年今ごろになるとミミズが庭や畑からコンクリートへ這い出し、干からびてしまう。何故そんな行動をするのか聞きたいのだが、ミミズは答えてくれない。 スズメの姿を見かけなくなったと言う。昔ながらの屋根瓦の家が減り、彼らの巣が作りにくなったのが理由の一つのようだ。だが、我が家の庭には良くスズメが来て、しきりに何かを啄ばんでいる。そして近所に屋根瓦の家もある。偶然裏の家の前を通りかかったら、壁にツバメの巣があった。最近はツバメの姿もあまり観なくなったが、こんな近くに棲んでいたとはねえ。 フィラリアの薬をもらいに行った時、マックスを観て「やせたね」と獣医が言った。私はそれほどとは思わなかったのだが、確かに前に比べたら骨が目立つ。体重を測ったら昨年より1kg減っていた。ラブラドル犬の寿命はどれくらいか聞いたら、15歳前後と教えてくれた。私は17歳くらいまで生きると思っていたので、これは予想外の答え。食欲はあるものの、歩く姿がかなり老いぼれた。 ドッグフードをネットで注文した。13.5kgの大きなものを2袋。これで4カ月持つ。これからは散歩の距離も短くしようと思う。そして出来る限り気持ち良く過ごせるよう、気をつける積り。私は70歳過ぎて外国を走るのが夢だった。それまでは働いて資金を作る。その夢は消えた。心臓と足の調子が悪く、ランニングも仕事もやめたからだ。 それにマックスが生きてるうちは、妻と外国旅行に行くのは無理と思っていたのだが、予期せぬことで実現が早まりそう。なんだかとても複雑な気分だ。今日は妻とバス旅行に行く。秋田県の鳥海山が見える高原を散歩し、温泉に入る企画。お利口さんにして大人しく留守番をしててね、マックス。
2012.06.23
コメント(6)
ミニマム級王座統一選、凄かったねえ。何って、ボクシングの話ですよ。WBC王者の井岡とWBA王者の八重樫、2人の日本人チャンピオン同士が戦った試合は壮絶な打ち合いだった。判定で井岡が勝ったんだけど、八重樫もあれだけ目が腫れた状態で、最後まで良く戦ったもんだ。これから怪我の後遺症が出ないかが心配だね。 ダルビッシュが9勝目を挙げ、岩隈も中継ぎで初めての勝利をものにしたみたい。イチローは見事大リーグ通算2500本安打達成。この他に日本でも1278本を打ってると言うから、並みの選手じゃないね。ボートダブルスカルの武田大作選手が4度目のオリンピック出場を決めテレビに出ていたけど、元気そうで良かった。もう38歳。彼は松山勤務時代のランニング仲間なんだよ。 爽やかなスポーツの話ならまだしも、巨人の原監督の醜聞にはがっかりだね。若大将がまだ現役の時だけど、女性問題を起こし暴力団関係者に1億円を払った事件があったみたい。それが今ごろになって蒸し返されたんだね。前オーナーと球団側との訴訟事件もそうだけど、折角の快進撃に水を差しそうだね、あれは。 スペインのエスカティーヨ洞窟で発見された壁画は人類最古の絵みたいだよ。赤い斑点状の絵が4万1千年前のもので、手形が3万7千年前なんだとか。4万年前と言うのは、ネアンデルタール人がいたヨーロッパに、アフリカ大陸から現代人の祖先が移動して来た時期に当たるそうだけど、そんな時から絵を描いていたのは、きっと収獲を祈っていたんだろうね。 一方国内では、佐賀県の遺跡から木簡が発見されたみたい。こちらは奈良時代の戸籍。木には墨で17人の名前や年齢、戸主との関係などが記されていたようだよ。これまでの木簡と違う点は、何枚か束になって出土したこと。つまり「税金の台帳」だった訳。「郡」の代わりに「評」が使われているため、日本で一番古いものと分かったそうだけど、昔から税金の取り立てが厳しかったんだねえ。 東京湾に逃げ出したペンギンはその後捕まって水族館に戻ったけど、この間の台風の時に相模湾に漂着したアザラシの赤ちゃんは、可哀想に助からなかったんだね。ちょっと古くなるけど、佐渡のトキは無事巣立ちしたみたいで良かったね。アメリカでは洪水で白クマが檻から逃げたそうだけど、全く物騒な話だね。レバ刺しが禁止になったニュースは、動物の話と一緒にしても良いのかな。 まあ色んなニュースがあるけど、なんてったって一番の注目は政局だね。社会保障と税の一体化の問題を巡る攻防が今後どうなるか。民主党内の分裂は必至か。「橋下維新新党」を含む新たな政界編成が進むのかどうか。だけど、そんなことでいつまでもモタモタしてる暇はないと思うよ~。早く元気な日本を取り戻さなくちゃいけないんだけどねえ。喝!!
2012.06.22
コメント(6)
「私本太平記」も第4巻目に入った。鎌倉から室町へかけての時代、そして初めて読む吉川英治の文章がとても新鮮に感じる。鎌倉幕府を転覆しようとする後醍醐天皇の謀が漏れ、遠く隠岐の島に流される。楠木正成は戦いに敗れて雌伏する。物語の主人公、足利尊氏(高氏の時代)の動きはまだないが、バサラ大名佐々木道誉の動きが急だ。 出て来る言葉が古い。おおよその「感じ」は解るが、極力辞書で本来の意味を調べながら読んでいる。「古語辞典」を使うのは多分50年ぶりくらいのこと。それよりも広辞苑に載っている言葉の方が多い。昔の小説家がいかに言葉を知っていたかが分かる。それに漢字に関する素養は大変なもの。面白さにつられて1日200ページほど読んでいるが、先の展開は全く不明だ。 この小説は大河ドラマにもなった。楠木正成役が武田鉄矢で尊氏の弟直義役が高嶋政伸だったことは覚えている。中でも印象的だったのが片岡鶴太郎扮する北条高時の狂乱ぶり。だが、尊氏役の真田広之の印象が薄いのが不思議。調べてみると、放送されたのは平成3年。これは沖縄赴任の3年目で、当時高校3年の長男と2人で暮らした頃。今にして思えば食事の世話などで、テレビどころではなかったのだろう。 小説中の地名にも惹かれる。公卿日野俊基が綸旨を持って血起を呼び掛けた高野山は、47都道府県探訪最後の県で、記念に110kmのレース「和歌山城~高野山往復ウルトラ」を走った際の折り返し点。またその手前の紀見峠や天見峠は、「大阪府山岳連盟チャレンジ登山マラソン」で走った。どちらもアップダウンが激しく、厳しいレースだった。 後醍醐天皇が最初に立て籠った笠置山は、最後の未走県である奈良を走った時に傍を通った。急峻な砦への食料補給は柳生から行ったようだが、私は奈良市内から北上して柳生に達し、そこから南下して50kmほど大回りしたのだ。途中で古事記、日本書紀の編纂に加わった太安万侶の墓にも立ち寄ったのが良い思い出だ。 正中の変で捕まった公卿日野資朝は佐渡へ流され、処刑される。その場面で出て来る地名が雑太(さわだ)と国府川。前者はその後佐和田と変わったが、「佐渡島一周ウルトラ」206kmのコースの途中にある集落。いつも真夜中に通るため誰一人いない不気味な街だ。国府川はその南方12kmほどにある小河川。付近には佐渡に流された貴人の墓も多く、やはり走っていて不気味だった。 後醍醐天皇が配流先の隠岐に向かう途中に島根県の安来を通る。中の海の沿岸だが、私は直ぐ近くの宍道湖畔を走ったことがある。玉造温泉から松江を往復したのだが、凍った湖水で白鳥が眠っていたのを覚えている。この小説が今後どう展開し、時代はどう変わるのかとても楽しみ。きっと私の想像もますます広がるに違いない。 40ほどのブログを巡回するのがこれまでの日課だった。だが走れなくなった後、訪れるブログにも変化が生じた。キロ何分で走ったとかの記録を重視するシリアスランナーの日記が面白く感じなくなった代わり、生活感に溢れ、著者の人生観が現れたブログにより惹かれるようになったのだ。テーマは園芸、旅行、文学、映画、評論、写真、美術などなど。老後の楽しみが一層増して来たように思う。
2012.06.21
コメント(6)
台風が宮城県沖を通過中とか。雨の勢いは昨夜ほどではなく、風もさほど強くはない。きっと最大時の勢いはなくなったのだろう。降り続いた雨で、川の氾濫が心配。海岸部の高潮の被害は大丈夫だろうか。 さて、韓国歴史ドラマ「トンイ」が先だっての日曜日で終わった。その前の「チャングム」もそうだが、私は10回目の頃から観始めたため、最初のころの話を知らない。それでも1年以上、面白く観続けることが出来た。王宮の暮らしや庶民の暮らし。李氏朝鮮時代の儒教精神と、王宮における権力闘争の凄さ。そんなものが心に残ったが、トンイの人間性が一番の魅力だったと思う。 7月からは「王女の男」が放送される由。これも李氏朝鮮王朝の話とか。これまでのように日曜日の夜の放送だが、仕事を辞めた今はゆったりした気持ちで観られるのが嬉しい。話は変わるが3年に亘って放送された「坂の上の雲」だが、原作者の司馬遼太郎は、生前この小説の映画化は許さなかったと聞いた。それがテレビ化されたのは何故なのだろう。そしてNHKが戦争の場面を延々と映したのも解せない。 先日洋画「スノーホワイト」を観た。原作はグリム童話だが、私はディズニーの漫画の印象が強い。白雪姫と7人の小人が出て来る話だ。原作はかなり怖い話のようだが、映画はさらに怖かった。CGで再現された魔法の世界は、まさにおぞましいもの。それでも私は観て良かったと思う。どうでも良い話だが、私はスノーホワイトつまり白雪姫よりも魔女の方が美しいと思った。それが特殊メーキャップで老女の顔に変わるのが凄かった。 2年ほど前の話だが、観たいと思っていた「ロビンフッド」を見逃した。こちらはイギリスの伝説を映画化したものだが、中世のヨーロッパの風景や習俗を観たかったのだ。「スノーホワイト」はアメリカの映画だが、撮影場所は多分イギリス北部のスコットランドかアイルランドのはず。断崖絶壁上の古城や、荒れ果てた大地などから「ロビンフッド」時代の風景を想像することが出来た。 次は「グスコーブドリの伝記」を観たいと思っている。原作は宮沢賢治の童話で、映画はそれをアニメ化したもの。果たして宮沢賢治の世界がどう再現されているか楽しみ。たとえ本を読んでなくても、映画でそれを味わえるとは嬉しい。童心に帰ってスクリーンを眺めるつもりだ。<続く>
2012.06.20
コメント(4)
「伊南川ウルトラ遠足」の募集要項は捨てた。これは10月にある100kmのレース。「秋田内陸」の募集要項は、その前に捨てた。こちらは9月にある100kmのレース。唯一机の上に残されているのが、9月に福島県で行われる「磐梯高原猪苗代湖マラソン」の募集要項。その中の60kmのレースなら何とかなりそうな気がして、まだ捨てないでいる。 昨日はいつもの循環器内科に行った。不整脈を抑える薬がなくなったためだ。1時間半ほど待って、診察室に呼ばれた。いつもはにこやかなM先生の言葉が、今日は何だか歯切れが悪い。自分が勧めた手術の結果が思わしくなかったからだろう。だが、そんなことを私は気にしていない。来月K病院で受ける3か月検診に向けて、執刀医への手紙は書かないと言う。 その代わり、5月の末に撮った心電図のコピーを大きな封筒に入れてよこした。全ては執刀医の判断に委ねたようだ。私には飲んでいる薬と現在の症状を直接伝えて欲しいと話す。私もそれを了承した。手術で不整脈は完治出来なかったが、以前より症状が軽くなったことは確か。それに薬の副作用も何とか治まっているように思う。 軽いめまいやちょっとした拍子に動悸が高まることがある。最近では表現し難い耳鳴りも起きる。それでも何とか日常生活は可能。このところ1カ月近く、全く走っていない。これは足の痛みのせいだが、自分の意識の中ではいつでも走れそうな気もする。それが幻想であることは分かっているのだが。 愛犬の息が荒い。ゼイゼイ、ヒューヒュー。散歩の時は喉からそんな音が漏れる。歩みものろくなり、足取りが覚束ない感じ。かつてならどんどん私を引っ張って困らせた愛犬も、今ではすっかり年老いてしまった。彼と付き合う散歩が主な運動なのだから、私の衰え具合も分かろうと言うもの。だが、今まで同様なのが食欲。読書の合間にお茶を飲みながら、ついついお菓子を口に運んでいる。 今気をつけているのが体重と体脂肪率。激しい肉体労働とウルトラマラソンに明け暮れた昨年までは、どれだけ食べても全て必要なエネルギーに変わった。それが散歩だけで今まで同様に食べれば、栄養過剰になるのが当たり前。急に運動を止めたスポーツマンの肥満は、そんなことが原因なのだろう。どれだけ食べても太らないのが妻の悩み。逆に抑え気味でも太ってしまう私。全く皮肉な話だ。 走れなくなった私だが、悔いはない。確かに仕事もマラソンも無理をした「つけ」が今現れているのかも知れないが、既にやりたいことはやった。頭の中には、今も走り続ける自分の姿がある。そして多少のプライドもまだ残っている。人生もランニングも苦しい旅の連続だったのだろうが、とてもそんな風には思えない。多分3度目の手術は受けないだろう。そしてこれからは、大いに幻想を楽しむことにしよう。
2012.06.19
コメント(6)
前日楽天は巨人に敗れた。これで昨年からの連敗が8。それまでは1点差か2点差での負けが、この日は圧倒的な差で敗れ、セパ交流戦での巨人の優勝が決まった。スポーツニュースを観るのさえ悔しく、悶々として床に就いた私だった。 その夕方、電話があった。私は自室に居て聞いていたのだが、妻は残念そうに誰かと話していた。近く行く予定のバス旅行が中止になったのか、それとも日曜日にある妻の写生会が中止になったのか、そのいずれかだろうと思った。中止になったのは妻の写生会。大抵は行く朝の7時前に最終決定するのに、何故前日に連絡が来たのだろう。妻はかなり落胆したようだ。 あくる日の日曜日。テレビも観ずに本を読んでる所へ妻が来た。さる合唱団の発表会があるので聞きに行こうとの誘い。写生会が中止になったため、急に暇が出来たのだ。チケットは友人が送ってくれ、2枚ある由。妻と合唱を聞くのも悪くはないか、そう考えて行くことにしたが、どうもおかしい。改めて日付を見ると、一週間先の日曜日。それを教えると、妻は再びがっかりしたようだ。 「子供と孫の洋服を見て来るからね」。やがて妻はそう言って、昼食も摂らずに出かけた。合唱の発表の時に着て行く服が欲しいようだが、長女はなかなか言い出せないみたい。2人の孫がピアノや合唱をしていることは知っていたし、いつもお揃いの服を妻が買い、四国の嫁ぎ先に送っていることも知っていた。 妻が出かけた少し後、玄関のチャイムが鳴った。予想通り、四国の長女からのプレゼントだったが、差出人は夫君の名前になっていた。入っていたのは日本酒の4合瓶が3本。いつもは焼酎なのだが、四国の銘酒もたまには良いだろう。妻に見せるため、配達伝票だけ包装紙から切り取り、お酒も段ボール箱も片づけた。 しばらくして、東京の次男から電話があった。以前次男の声に似た「オレオレ詐欺」の電話に騙されかけたが、この日はちゃんと名前を聞いたので大丈夫。多分父の日にプレゼントを送る金がないため電話で済ませたのだろうが、それはそれで嬉しい。いつもより長く、私の体調などを詳しく話した。 長男からは何もなかった。前任地の三重で交通事故に遭い、不調のようなのだ。まだ通院してるため示談が終わってない由。不要の荷物を着払いで我が家に送ったところを見ると、きっとお金にも困っているのだろう。3人の子供が遠くに離れて暮らしている我が家は、心配が絶えない。今はまだ良いが、息子達の老後はどうなるか気がかりだ。 夕食後、四国の長女にお礼の電話。最初に出たのは夫君。巨人ファンの彼に、セパ交流戦優勝のお祝いを言うと、とても喜んでいた。婿殿と電話で話すのは久しぶりのこと。お中元セールの関係で、今年は日本酒にしたと長女。私の体調を心配していたが、薬の副作用があって苦しかった前回よりはかなり良いと伝えた。 その時、ちょっと待ってねと言って電話が中断。受話器から聞こえて来たのは、2人の孫娘の合唱だった。曲は「花」。春のうららの隅田川・・。小学6年生と4年生にしては声がしっかり出ている。コンクールでも何度か優勝しているようだ。私は初めて聞くが、妻は東京のコンクールで聞いている。 「これはDNAなんだって」。長女が電話の向こうで言う。「歌が好きなのは遺伝」と、誰かに言われたようだ。確かに若い頃、私は合唱団に入っていた。そのせいか、長女も中学校時代から「ハレルヤコーラス」を歌い、高校では合唱部に入った。ただし、ピアノはサボってばかりだったが。確かめると低音部を歌っていたのは上の孫娘。私の予想通りだった。 妻は買い物へ行って疲れたようだ。急に気温が上がった父の日。体調が悪くなってもおかしくない。愛犬との2度の散歩以外は、ずっと家に居て本を読んでいた私。そのせいで「私本太平記」も3巻目に突入した。楽天は新人の釜田で初めて巨人に勝ったし、結構今日の父の日は良かったのではないか。夜朝鮮歴史ドラマ「トンイ」の最終回。なかなかの番組だったが、感想はいつか書きたい。
2012.06.18
コメント(4)
天気が良くないため出歩かない日が続いている。こんな時は野次馬根性での話題に限る。無責任とお叱りくださるのも良し、はたまた豪快に笑い飛ばしてくださるのも良し。ともあれ素人の無責任な言であることを最初にお断りしておく。 ディーン元気がオリンピック代表に選考された。早稲田大学在学中の陸上選手で専門の種目はやり投げ。これまで日本の第一人者だった村上選手を破って、先日の大会で初優勝した。こんな選手がいたとは初耳。砲丸投げの室伏選手は父子2代で国内の選手権を守り続けているが、彼との共通点は共にハーフであること。 室伏選手のお母さんは確かハンガリー人で、ディーン元気選手の方は父親がイギリス人のようだ。やはり親が外国人だと、肉体的にも優れた子供が誕生するのだろうか。村上選手も標準記録を突破して、2人で同じ種目に出られるのが嬉しい。これを機会に、ますます切磋琢磨して欲しいと願う。 松田聖子が再々婚するとか。えええ~っ!?と思うが、そんなことも世の中にはあるのだろう。相手は大学の先生で年下の歯科医みたい。よほど年下の歯科医が好きだと見える。我が妻がつぶやく。「羨ましいねえ」。映画館で上映の合間に流れる曲。あれが彼女の歌であることを最近知った。確かに声が若いし、とても魅力に富んでいる。世の中の結婚観が変わったのか、それとも彼女達が特殊なのか。 オウム事件の逃亡犯、高橋克也がついに捕まった。あれだけ顔写真が出回り、買ったバッグなどが公開されたら、逮捕は時間の問題だった。17年間逃げ回っていた彼だが、教祖麻原の著書十数冊やテープを、大事に保持していた由。きっとまだマインドコントールが解けていないのだろう。多くの犠牲者が出た凶悪な事件の全貌が解明されることを望む。賞金千万円の行方も少々気になるが。 停止中だった大飯原発3号機と4号機の再稼働が正式に決まったようだ。何やら不透明な感じが否めないこの件。原発の敷地内を活断層が通っていることや、安全のための課題がクリヤーされた様子はないのに、夏場の電力不足を切りぬけるための見切り発車としか思えない。使用済み核燃料の問題、地震への安全対策など、課題が山積する原発だが、私は代替エネルギーの開発も言うほど簡単ではないと考えている。 社会保障と税の一体改革に関して協議していた与野党(と言っても、民主、自民、公明の3党だが)の合意が成立したようだ。主体は消費税のアップだが、政局はまだ流動的。何せ民主党内の意見がまだまとまってないのだから。「小沢先生、鳩山先生、どうぞ反対して下さい。その方が国会はスッキリしますから」。これは民主党の黄門様こと渡部最高顧問の言。 イギリスの経済誌「エコノミスト」最新号に、日本の野田総理を絶賛する記事が掲載された由。EUは今、混沌としている。財政が破たんしたギリシャでは選挙もやり直しするなど混迷し、スペインの財政も同様とか。果たしてEUがいつまで持つかも分からない状態。そのEUへイギリスは参加していない。円高が続く日本で政局がもたついてて良いわけがない。 尖閣諸島の都による買い上げ運動が進む一方、国の動きは鈍い。先に行われた沖縄県議会議員選挙で、仲井真知事の与党である自民、公明は議席を伸ばせなかった。沖縄県内の民主は、党本部の意見と乖離している。こんな状態での辺野古移転は無理だろう。オスプレイ型輸送機の沖縄配置も、米国本土の墜落事故で困難と思われる。さて、この混沌状態から日本はどう抜け出すのか。
2012.06.17
コメント(4)
このところ何だか寒い日が続いている。いわゆる梅雨寒だ。サマーセーターは勿論のこと、自室でパソコンを開いたり、本を読む時は膝に毛布が欠かせない。暗くて鬱陶しいことこの上ない季節だが、日本列島に住む者の宿命と思うしかない。 さて、ブログを開設して5年が過ぎた。話題に事欠き、搭載に苦しむ毎日ではあるが、衰え行く脳を保ち続けるためにも文章を書くことは有効だと思っている。さほど面白くもない我がブログを訪れる読者の皆様には、この場を借りて御礼申し上げたい。 ブログは言うまでもなくネット上に公開する日記。文章を書くためには先ずパソコンの文字変換機能が上手く行くことが前提。ところが悲しいかな、メカ音痴のせいで、その変換に苦労する毎日だ。自分の打ちたい文字がなかなか出て来ず、「音」は合ってるものの変な漢字が結構な頻度で出て来る。こうなると頭をひねって、文字を繋ぎ合わせるしかない。 個人的な「辞書登録」の方法も知らないので、毎日その繰り返し。まあ無駄な作業だが、ボケ防止に良いと思うことにしている。書いた文章は一旦「下書き保存」する。これは楽天ブログの機能の一つ。だが、気をつけないと、ちょっとした拍子に文章が消えてしまうことがある。操作ミスではなく、多分楽天ブログの欠陥なのだろう。 そんな時はさっさと諦めて、再び書き直す。私の場合、毎日3500~5500字ほどの文章を書いているのだが、折角書いた文章が、あっと言う間に消えるほど空しいことはない。それでも書き直すことで、さらに良い文章になると思って諦める。一旦公開した後でも、文章がおかしい個所は極力直す。 ほとんど修正しないで済む日もあるが、それは稀で、大抵は5、6度推敲を重ねるのが常。たまには前日の日記を修正することもある。誤字、脱字、表現がおかしい個所、内容が間違っている個所、別な表現にした方が適切な個所。読み直すとそんなところがどうしても出て来る。文章には責任を持ちたいと思って直すのだが、歳を取ると字やものの名前を忘れるのはザラ。それに勘違いもある。 パソコンの傍には小さな本棚があり、そこに広辞苑(国語辞典)、新字源(漢和辞典)、英和辞典、古語辞典、歳時記などが置かれている。また各種の地図や歴史年表もある。だから大抵のことは、それで調べれば分かる。(グーグルのお世話になることも多い)ところが広辞苑は昭和48年発行の第2版。収録された言葉が古く、文字がとても小さいのが欠点だ。 老化で視力が落ちた目には、この小さな文字が見えにくい。特に画数が多くて入り組んだ漢字は、とても見えない。そこで登場するのが天眼鏡。今時の言葉で言えばルーペか。100円ショップで買った安物だが、まあまあ役に立たないこともない。こんな苦労をしながら毎日文章修業に明け暮れている訳だ。 それらの小道具は、読書の際にも活躍する。今読んでるのは吉川英治の「私本太平記」。第1巻は読了して目下第2巻目だが、表現が古めかしく、意味が分からない言葉が結構ある。広辞苑で調べるのは大変だが、それも自分のため。こうして「物」のお世話になる毎日だが、一番大切なのは自分の気持ち。困難に立ち向かうことこそが人間たる所以と思うからだ。≪参考≫今日書いた文章も、公開後に15回ほど修正を重ねています。推敲に苦心した好例でしょうか。なお、最初の文章を掲載したのは、朝の5時台でした。
2012.06.16
コメント(8)
「お父さん、花壇の雑草抜いといて」。ある時私に妻が言う。指定されたその草を見ると、雑草ではないと直感。彼これ雑草と戦って40年近く。今まで色んな雑草を見て来た。形、色、背丈、花芽のつき加減。そんなものを良く観察すると、園芸植物だと私は感じた。やがてそれは白い大きな花をつけた。見事なホタルブクロだった。妻は自分でそれを植えたことも忘れていたようだ。 「お父さん、梅の枝が伸びたね。そして梅の実が大きくなったよ。早速梅干を作ろうと思うんだけど」。先日、妻が言った。私は言下に断った。「梅干しには早過ぎるよ」。確かに我が家のはブンゴウメだから実は大きいのだが、肝心の赤シソが売ってなければ梅干しは作れないのだ。 でも彼女が気にしてるひょろりと伸びた梅の細い枝だけは伐ってやろう。そう思って剪定鋏と脚立を庭に持ち出した。これが要注意。結構梅の枝は高く伸び、なかなか伐るのが難しい。おまけに不注意に伐ると、折角の梅の実が落ちてしまう。「確か『落梅集』は島崎藤村だったな」。そんなことを思いながら慎重に作業した積りだったのだが、やはり大事な梅を1個落とした。 梅に続いてハナモモの枝も伐った。こちらは茂り過ぎて重たくなっていたのと、お隣の敷地に大きく出っ張っていたからだ。思い切って3分の1ほどを伐るとさっぱりとし、これまで隠れていた花が見えるようになった。ついでに玄関脇のヒイラギナンテンを刈り込む。正確にはヒイラギナンテンなのか、ナンテンヒイラギなのか、いつも迷う。こちらもすっきりと片付く。 家の西側の通路を確保するため、伸びた枝も伐る。シャラ、アジサイ、ハナズオウなどだ。伐った枝はまとめてゴミに出す。ハナモモの実を100個以上もぎ取る。結構大きく、かつ数も多いため木の負担になると思ってのことだ。ハナズオウの莢も気になる。花が終わった後に、大量の莢がまるでキヌサヤのようにぶら下がっている。何百という緑の莢を必死でもぎ取るが、それが樹木にとって本当に必要な作業なのかは分からない。 モロッコインゲンの蔓が空に伸びる。支柱の高さを越え、空中にはもう絡むものがない。それだけ大きいのに、まだ花は咲かない。ヤマイモの蔓がやたらと庭に出る。これは他の木に絡みつき、とても厄介な代物だ。蔓を抜いても地中に根が残り、抜いても抜いても出て来る強い植物。好奇心で「むかご」を埋めたのが、こんなことになるとはねえ。 ジャガイモの葉っぱに隠れていたキュウリの苗が少し伸び出した。だがひょろりと痩せているのは、まだ日光の当たり方が足らないのだろう。どの植物も自分の成長が第一で、他の植物のことなど構ってはいない。生存競争は野菜も同じなのだ。緑の可愛い葉っぱが東の畑にちらほら。良く見ると柿の葉のようだ。色と形、それにつやつやした葉は柿以外に考えられない。 昨年は我が家のも含め、160以上は確実に食べた。生でも食べたが大抵は干し柿。思わぬ大豊作に喜び、ベランダに吊るした干し柿は圧巻だった。その種が生ごみとなって堆肥に混じり、畑に撒いたために発芽したのだろう。何だか1本くらいは残して育ててみたい気分。家の15年点検の時、ユズの根が下水管に入りこんで大きくなっていたことは妻には内緒。もし「お父さん、ユズの木を伐って!」なんてご命令が出たら困るもんね。
2012.06.15
コメント(2)
2冊の本を連続して読んだ。いずれも古本屋で買った1冊105円の本。だが本の薄さと価格の安さに比べて、そこに書かれていた内容は、ずっしりと重いものだった。艱難辛苦に遭った時、人は思わぬ力を発揮する。2冊の本はそのことを十分に知らしめてくれた。そして著者が苦心して書いた小説から、歴史の真実の一端をも知り得た。人間の、そして読書することの奥深さを、今しみじみと感じている。≪ 吉村昭著『高熱隧道』新潮文庫 昭和50年初版 平成21年第52刷 ≫ 「黒四ダム」のことは誰でも知っていると思う。『黒部の太陽』として映画化もされた。だが、その20年前、第2次世界大戦に向かう時代に作られた黒部第3発電所のことは、ほとんど誰も知らないだろう。今も欅平まで続く黒部峡谷鉄道。だがその先には黒部川の急峻な渓谷を辿る「日電歩道」と呼ばれる崖道しかなかった。工事はその絶壁に沿って進められた。 トンネル工事に伴って地中から高熱が吹き出す。初めは60度くらいだったのが、最高で165度に達する。とても人間が耐え得る熱さではない。ダイナマイトも自然発火するほどの危険さ。だが人夫に谷川の冷水を浴びせ、凍らせた竹筒にダイナマイトを仕掛けて、トンネルを掘り進む。ある時、コンクリート製の5階建て宿舎が谷から忽然と消える。 日本初の泡雪崩(ほうなだれ)の仕業だった。急速に冷え込んだ深夜に起きるもので、雪崩の「爆風」で宿舎が丸ごと数百mも吹き飛ばされる。4年に及ぶ工事の犠牲者は300名以上。約3mに1人の異常さだった。そこまで過酷な工事を進めた理由は、近づく戦争に備えて物作りのため電力を確保すること。犠牲者には天皇から金一封の弔慰金が贈られる国策工事だったのだ。 歴史にも残らずに死んだ多くの人々。欅平までトロッコ電車で行った際でも、谷の深さを実感したものだが、黒部には人を寄せ付けない厳しさが潜んでいたのだ。今は黒部立山アルペンルートで黒部湖までも近づけるが、技術力の乏しかった戦前は、ただがむしゃらに発破をかけ、トンネルを掘るしかなかったのだ。小説は細いトンネルが貫通したところで終わり、その先の厳しい工事までは書かれていない。≪ 井上靖著「『天平の甍』新潮文庫 昭和29年初版 昭和54年第35刷 ≫ 奈良時代の天平5年(733年)、難波津から4隻の船が出航する。当時の先進国である唐へ向かう遣唐使船だ。ここに5人の僧侶が乗り込んでいた。仏教を学び、唐から高僧を招くためだった。やがて4隻の船は無事唐に着き、洛陽を経て都のある長安へ向かう。5人の僧はそれぞれ寺を指定されて学問に打ち込むことになる。 だが、時として運命は過酷。帰国の船(次の遣唐使船)がいつ来航するかは分からないまま、日本に来てくれる高僧を探し続ける僧侶達。その旅の途中で抜け出す僧もいる。唐でも有名な鑑真は、自らの意思で日本へ渡ることを決心し、20名ほどの弟子と共に船に乗り込む。だが嵐に遭って難破し命だけは助かったものの、多くの経典が海に沈む。 そんな遭難が5度も続き、その中で鑑真は失明する。日本人僧の運命も様々。中国国内を流浪した挙句、天竺(現在のインド)まで旅しようと試みた者。30年にも及ぶ滞在で3000巻もの仏典を写経した者。彼はその厖大な経と共に海に沈む。中国の女性と結ばれて帰国しなかった僧もいたし、一番熱心に鑑真を招こうとした僧は旅先で病死した。 唯一生き残った僧普照は現在の沖縄から薩摩に渡り、鑑真らと共に都へ上る。帰国まで実に20年。一緒に帰る予定だった阿倍仲麻呂の船は嵐で現在のベトナムに漂着し、再び玄宗皇帝に仕えることになった。鑑真は東大寺に戒壇を設け、多くの僧に真の仏教を伝える。それまでは税を逃れるため僧や尼僧になる者が多かったのだ。 やがて鑑真のために唐招提寺が都の西に建立され、国内の僧は、先ずここで学ぶことが定められた。その寺へ、渤海国を経由して遥々唐から2個の瓦が届く。彼の地に残った僧が送った瓦は、長い旅で傷だらけ。その鴟尾(しび=鬼瓦みたいなもの)が唐招提寺の屋根に取り付けられた。小説のタイトルは、そのことを表している。 さて、少し前に埼玉のブログ友であるしぃさんが68冊もの本をわざわざ送ってくれた。全て彼女が読破した本だ。次はその中から吉川英治の『私本太平記』全8巻を選んで読むことにした。いつ果てるか分からない分量だが、覚悟を決めて読み始めた。厖大な資料を元に小説を書く作家の苦労に比べれば楽な作業だが、作家の想いをしっかりと受け止めたいと願っている。
2012.06.14
コメント(8)
マックスが吠えている。あれは玄関に入りたいというシグナル。彼は私が仕事を辞め、いつも家に居ることを知っている。だから私に訴えているのだ。仕方なく玄関に入れると安心して眠る13歳と9カ月の彼。人間の歳に直せば71歳。私よりも歳上になった。ラブラドルレトリバー種のオスで毛の色は黒。いわゆる黒ラブの彼が我が家に来てから13年8カ月になった。 近くに行ってもなかなか誰だか分からないマックス。昨年辺りから視力が衰えたのだ。目のレンズが少し白っぽいのは白内障なのだろうか。それに音も聞こえなくなったようだ。静かに近づくと気づかず、触るとようやく匂いを嗅いで誰かを理解する。さすがに嗅覚だけは鋭敏で、特に他の犬のオシッコの臭いには敏感に反応する。 足腰もかなり弱った。散歩でもたまにカクっと膝が抜けることがある。先日などは、わずか50cmほどの溝を飛び越えられなくて、危うく落ち込むところだった。きっとあまり良く見えないせいもあったのかも知れない。以前ならそんなものは軽々と飛び越えていたのに。蔵王の地蔵岳に登り、濁流の広瀬川に飛び込み、笊川の上流を私と一緒に探検したかつての勇姿はない。 まだ元気な頃、彼は私のランニングにつきあってくれた。1日2回の彼の散歩は私の役目だが、時間があまりない私は走りたいことがある。そんな時は散歩を兼ねて、彼と一緒に走ったのだ。一番長い距離は、川に沿った11kmのコース。最初は元気な彼だが、家に着く頃には逆に私が彼を引っ張る形が多かった。ベテランランナーの私は、ペース配分はお手の物だった。 その私が心臓の不調で2度手術を受けた。不整脈が原因だ。手術を受けた当初は良かったのだが、結局はいずれも不整脈が再発した。来月3カ月検診があるが、3度目の手術を受ける気持ちはない。それに右足の調子も良くない。長年走り続けた影響で左右の足は共にアーチが下がり、特に不要な骨が出っ張った右足の底部には、足底筋膜炎の痛みが慢性的に起きるようになった。 33年間も続けて来たランニングだが、これではもう走ることは出来ない。今では自転車に乗り、マックスと散歩するのが私の運動。その散歩で彼に話しかける。「マックス頑張って」。「マックス、もっと長生きしないとダメだよ」。「マックス、オシッコの臭いを嗅ぐしか趣味はないの?」。彼は私の忠告を無視し、今日もまた他の犬のオシッコの臭いを嗅ぐのに忙しい。 そんなマックスだが、食欲だけは旺盛。1日カップ3杯の餌を夢中で食べる。そして玄関に入れて欲しいのは、私達夫婦から「ご褒美」をもらえると思ってのことかも知れない。そんな彼と付き合えるのは、最長で後3年くらいか。だからそれまで、私も足の痛みに耐えながら、彼と散歩を続けたい。単身赴任先で、そして200km超級のレースの中でも、私は良く彼の名前を呼んで慰められたっけ。 そして今日の散歩でも言うだろう。「マックス、お父さんと一緒に頑張ろうね」。顎の髭が白くなった。足の先にも白い毛が混じっている。冬毛と、夏毛。年に2回の生え換わりも、最近はなくなった感じ。きっと新陳代謝機能が衰えたのだと思う。彼の名前をハンドルネームに借りた私も老化は一緒。「似た者同士で今日も散歩をしようね、マックス」。
2012.06.13
コメント(8)
昨日は梅雨の晴れ間。仙台でも久しぶりに青空が戻った。公園のヤマボウシが少し前から咲いている。ハナミズキに形が似た花。名の由来は多分白い花を、荒法師の頭巾に見立てたのだろう。外階段の深紅のバラが、まるでアーチのように咲いている。先日まで降った雨の重みで「アーチ」が低くなり、頭に触れるほどだった。気温が上がって軽くなったのか、「アーチ」は再び高くなった。 妻が仕事に出かけた後、テレビを消して庭に出た。今日は絶好の庭仕事日和。先ず気になっていた庭木の剪定。移植したドウダンの枝を払って、負担を少なくする。茂って来たフイリアオキ、山椒、レンギョウを思い切って刈り込む。枝を紐で縛って片づけ、ゴミに出す。山椒の棘がチクリと指を刺す。これで庭がすっきり。ドウダンを移植した後も見通しが良くなってすっきり。 トマトの脇芽を摘み、伸びた茎をビニール紐で縛る。ミニトマト、ジャガイモも同様。ジャガイモに花が咲き出した。色は違ってもナス科の花は、どれも形が似ている。いよいよ大仕事。今日の農作業の目玉は玉ネギ掘り。掘った玉ネギは丹念に根を切り、茎を落とす。不要になった根と茎はバケツに入れ、玉ネギは大きさ別に分けて芝生の上で乾かす。 玉ネギを掘りながら、雑草も抜く。鬱蒼とした玉ネギの茎で抜けなかったイネ科の雑草、ハコベ、カタバミなどを抜くと、畝もすっきりと変身。玉ネギの乾いた土を軍手で拭き落としながら、大きさ別に箱に詰める。それも空気が入って乾燥し易いようにだ。作業をしながら数えると、全部で101個あった。植えた苗は105本ほど。 そのうちしっかりした苗が100本で、混じっていた細いのが5本ほど。妻が抜いて既に食べたのが4個として、105本の苗が全て育った計算だ。こんなことは初めて。しかも今年は球が結構大きい。ちび玉ネギ3個と、芯の堅そうなもの2個は洗って台所へ。帰宅した妻が1個を薄く刻んで、ピザ風にして食べた。 抜いた後の畝に、堆肥、発酵鶏糞、石灰を撒き、スコップで耕す。均した畝にナス2本、シソ3本、トマト3本を移植。ナスは買ったものだが、トマトとシソは昨年の種が落ちて勝手に発芽したもの。いわば余り物だが、特にトマトがどんな風に育つかが楽しみだ。移植した苗に早速水遣りし、伸びて倒れた黄色コスモスに似た花を紐で縛る。 最後は汗をかきながら雑草取り。そして仕上げはレタスの葉を7枚ほどむしる。これは肉を巻いて食べると美味しい種類だが、私は刻んで冷やし中華の具にし、残りは夕食のサラダになった。お金が一切かからないステキな農作業。多少疲れても心身の健康維持には良いだろう。夕方には整備された庭と畑を妻が見回った。この夜、楽天が勝って4連敗を免れ、私は久しぶりに安眠出来たのだった。
2012.06.12
コメント(6)
土曜日に「ビフォーアフター」を見た。不自由な家を、匠の力を借りて住み易く改良するリフォームの話は、私が好きな番組の一つ。この日は再放送で箱根の美術館予定地の敷地を整備する内容だった。駐車場のスペースを作るために、土手を崩して石垣を組み直し、急な道を緩やかな階段とスロープに替え、休憩のために円形の広いテラスを作って行く。 子供達のためには切った木を利用してアスレチック装置を作り、湧き出している温泉を使って「足湯」を作る。それらの作業を行うのは元不良仲間の青年達。彼らが力を合わせて仲間の家の庭をリフォームして行く以前の番組も観たが、今回はさらに広大で難しい敷地。それが自然を取り入れた素晴らしい美術館の敷地に変貌して行く。いつ観ても感動する番組だ。そして、あの青年達にも報酬が支払われたことを信じたい。 6月10日日曜日は時の記念日。仙台は朝から小雨が降り、すっかり梅雨らしい空模様だ。テレビではウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)を放送していた。富士山の周囲を48時間以内にグルリと廻るトレイルレース。夫婦で挑戦された方や厳しいコースにリタイヤする選手の姿が写った。このレースには私の走友も参加していた。 156kmの一周コースには、香川のフランク翔太さん。こちらの累積標高差は8530mという凄まじさ。彼は完走出来たようだが、しばらく足がおかしかったとブログに書かれていた。そして82kmの半周コースへはS田夫妻。こちらも累積標高差は4209mとなかなかの厳しさ。夫のまこちゃんが近く札幌へ単身赴任することを、たった今知ったばかりだ。 小雨をついて、前日農業園芸センターから買って来た「カシワバアジサイ」を植えることにした。場所がないため、先ず梅の木の下のドウダンを抜く。植えてから十数年経って、かなり大きく育っている。これは東側の畑の隅に移植。その跡に土を入れ、カシワバアジサイを植えた。結構息が切れる大作業だが、妻が考えた通り見通しが良くなった。 この日は「いわて銀河」と「飛騨ウルトラ」の日でもあった。「いわて銀河」には走友会や宮城UMCの仲間が、そして「飛騨」には走るナースさんやテラさんが出てるはず。いずれも100kmレースだが、私は初めて「いわて」の50kmの部にエントリーしていた。不整脈と足の痛みで出場は見合わせたが、大勢の仲間達はあの雨をものともせずに走り切ったと思う。 妻は友人と観劇に出かけ、私は1人で映画を観に行った。今年9回目の映画は洋画の「幸せへのキセキ」。母を失って苦しむ息子のために、たまたま買った田舎の家は動物園付き。オーナーの死に伴って閉鎖された動物園を、苦労の末に開園させる過程は圧巻だ。これはアメリカであった本当の話とか。ずぶの素人が虎やライオン、巨大なクマを相手にするのは大変だったと思う。 午後からは晴れた。母の日に妻に送った鉢植えのカーネーションを、地植えにしてみた。これまでの経験から、「育たないよ」と妻は言うが、挑戦する価値はある。今日は朝から晴天。梅雨の合間にきれいな青空が広がっている。そろそろ玉ネギの収穫時期かも知れない。
2012.06.11
コメント(8)
あれほど咲き乱れていた春の花がほとんど散った。先日まで咲き誇っていたオオテマリとモッコウバラは、散って醜い残骸を曝している。このところバラの花弁を掃除するのが日課になっている。モッコウバラの残骸はかなり少なくなったが、ピンクのバラは当分美しい花弁を散らし続けるだろう。そして深紅のバラも散りかけ。それらは敷地の入口の塀に沿って生えているため、掃除が欠かせないのだ。 畑の傍のシャラも散り始めた。別名ナツツバキと言うだけあって、ツバキのようにまとまって花が落ちる。地面に落ちた花は、ピンクの縁取りがある可憐なもの。こちらは掃除しないでそのまま放置している。玄関脇のシャラはまだつぼみ。確か純白の花弁だったはず。我家の狭い庭でも、咲く花の種類で季節の移り変わりが分かる。 今年のクリスマスローズはどこか変。庭には緑系、白系、赤系の花の3種類があるのだが、いずれも薄い緑色になって、本来の色が出ていない。これは余所の家のも同じ。冬の寒さが厳しかったからだろうか。それともこれから色が変わるのだろうか。先日HCで花を買った。赤、白、ピンクのベコニア、ライムペチュニア、コリウスだ。いずれも安物だが、鉢に寄せ植えにして郵便受けの下に置いた。 昨日は一日中雨。その雨の中、妻とバスに乗って市営の農業園芸センターへ行って来た。前日から始まったバラ展を観るためだ。駅のバスターミナルで待っていたら、今年2回センターへ行ったと言う老婦人が、大温室が震災で壊れて観られないことと、食堂が開いてないことを教えてくれた。温室のことは聞いていた。全面ガラスなので修復にも相当の経費がかかるのだろう。 それに温室が壊れたら、中の熱帯植物も全部ダメになったはず。それでもバラ展は初めてだったので、心配はしてなかった。不安そうな老婦人が近づいて来た。1人で出かけるのは滅多にないことで、夫君をバラ展に誘ったのだが、断られた由。そこで今聞いたばかりの情報を彼女にも教えた。遠い道を辿って、バスは終点に着いた。そこが農業園芸センターだ。 先刻の老婦人はバス停で帰りの時間を確かめていた。1時間に1本の発車時間は私達も確認した。ところが彼女の姿を観たのは、それが最後になった。色んな花も即売していたが、食堂が開いていることを最初に確かめた。後で知ったのだが、食堂はバラ展が開かれた前日にオープンしたようだ。老婦人はそれを確かめもせず、心配になって乗って来たバスで帰ったのだと思う。 宣伝してるだけあって、バラ展はさすがに見事だった。世界中の色んな品種が所せましとばかりに咲き乱れている。色、花弁の形、匂いなど様々。中には青っぽい紫色のバラもある。品種開発にかける執念はどの国も共通のようだ。名前も凝っている。私が印象に残ったのは「ピース」。確かフランスのもので花弁は黄色系だったはず。誕生は1945年。第2次世界大戦がようやく終わった年だ。 食堂ではうどんとお握りを食べた。雨が降り、弱い風でも吹くと寒い。冷えた体がようやく温まった。遠くに見える道は、先日津波被害の復興ぶりを観に自転車で通ったところ。この近辺の田圃は海水が入らなかったのか、田植えがしてあった。妻が即売の花を買った。カシワバアジサイの白い花だ。よっちゃんさんのブログで観た通り、柏のような葉っぱをしていた。 夕方のニュースで、東北南部も梅雨入りしたことを知った。道理でシトシト降っていた訳だ。カシワバアジサイを植えるために、今植えてある植木を少しずつ移動させたいと妻が言う。梅雨は移植には好都合の季節。暗くてジメジメして鬱陶しいが、植物が育つことを考え我慢しようと思う。暇な老人が長い長い梅雨を乗り切るには、何をすべきなのだろう。
2012.06.10
コメント(6)
人の顔があれほど変わることに驚いた。オウムの逃亡犯菊地直子と高橋克也の話だ。全国手配の顔と、現在とではまるきり違っていた。女性の場合は髪形によってかなり印象が違うだろうが、2人ともあれだけ違った原因は整形手術ではなく、老化。人の顔は老いることによって、あれだけ違ってしまうと言う見本かも知れない。そう言えば私も若かりし頃はもっと美男子だったもんねえ。 さて、今日の話は顔ではなく家。菊地直子が彼女を匿った高橋寛人と住んでいた相模原市の家は、トタンで覆われたあばら家のように見えた。今どきあんな家があるのかと思うほどのボロ家だ。ところが外見と違って家の中は、ビックリするほどきれいだったそうだ。高橋寛人が自分で内装工事をした結果らしい。そして高橋克也が住んでいた部屋には、家財道具が全く無かった由。いつでも逃げられるよう、用心していたのだろう。 割と近いある町内にトタン張りの家がある。屋根も壁も古いトタンで覆われ、窓は小さいものが幾つか。なぜ戦後のバラックが残っているのかと驚いたのだが、ある時、家の前を通りかかって驚いた。なんとバキュームカーが「くみ取り作業」をしていたのだ。水洗式のトイレでないのだろうが、誰かが住んでいることが分かった。 別な日に通りかかって、さらに驚いた。鎖を解いた扉から現れたのは乗用車。そして住人はなんと若者だったのだ。あんなボロ家に若者が住んでいたとは。そしてそこに、車が潜んでいたとは。あまりの意外性に驚いたのだが、なぜ若者がそんな暮らしをしてるのか分からない。暗くて日も差さない家に「おつり」が来る便所。だが、とても健康そうな若者だったのも不思議だ。 我が家の居間に小さな装置がある。朝日が登るとオレンジ色の明かりが灯り、さらに明るくなると色は青に変わる。オレンジは発電中。そして青は売電中のサインだ。我家は今年の春から屋根にソーラー装置をつけた。それ以来妻は、今日はどれくらい発電したか、今月はどれくらい電力が売れたかが気になるようだ。配電盤の横にあるメーターには、その時の発電量が数字で表れる。 オール電化も実施した。夜間電力でお湯を作る方式のもの。効率良い給湯なのは良いのだが、毎日大量のお湯が余る。以前、風呂のお湯は毎日替えてはいなかった。そこで洗濯の時に使ったり、バケツに汲んで庭や畑に撒くことにした。それでも冬はそんな必要はないし、梅雨時も無駄になる。節約家の妻には悩ましい季節だろう。 電子レンジやIHクッキングシステムを使うと、青い色が途端にオレンジに変わる居間の装置。売電から買電に切り替わるためだ。ソーラーの導入によって夜間電力の時間帯は前後1時間ずつ延長されるので、その間に妻は掃除や洗濯、場合によっては調理の下ごしらえなどを済ませる。まだ1カ月分のデータしかないが、効果は結構大きいようだ。 先ずガス代がかからない。電気代は3千円近く戻ると差し引きでこれまでと1万円は違う。そして水道代はこれまでとさほど違わない。工事業者の話によれば10年で元が取れると言うが、私は毎月の光熱費をメモして前年の経費と比較する積り。エネルギーの節約にも貢献出来るし、インチキ話で年金を失うよりはよっぽど良い。妻と2人、ささやかな夢を楽しむ老後の暮らしだ。
2012.06.09
コメント(4)
虎退治といっても加藤清正の話ではない。セパ交流戦、楽天対阪神戦のことだ。悲しいことに対巨人戦は7連敗中のわが楽天だが、阪神に対しては今年も甲子園で2連勝し、負い目はない。6月5日火曜日の先発は美馬。本当は田中マー君の姿を久しぶりに観たかったのだが、チケットを買った時点でいつ彼が復帰するか分からなかった。 Kスタに近づくと黄色い縦じま模様の半纏を着た男女がゾロゾロ。いつもは鳴りを潜めている「虎キチ」が、この時とばかり勢いづく季節だ。球場の中も4分の1が阪神ファンで埋まっている。きっと仙台市内だけでなく、東北各地から駆けつけたのだろう。美馬と岩田の息詰まる投げ合いも、4回表、金本のライトスタンドに突き刺さるホームランで均衡を破られた。 あまり当たってないとは言え、さすがは兄貴。44歳の「老体」で146kmの速球を打ち返したのは立派。東北福祉大学出身の彼はよほどKスタと相性が良いのか、これで7本目のホームランだ。楽天もラッキーセブンに1点を返し、同点のまま最終回へ。中継ぎのハウザーも悪くなかったが、抑えの青山が誤算。5月の月間MVPだった彼の球は威力が無く、ヒット2本と2個のフォアボールで自滅した。 何故あんなに焦った継投策を採ったのかが不思議。美馬もハウザーもなかなか良かったのだ。Kスタに黄色や白のジェット風船が飛び交い、「六甲おろし」がいつまでも夜空に鳴り響いた。1年ぶりに観た虎キチの熱狂的な応援は、やはり凄かった。それに反して楽天ファンの応援は陰気で、あまりにも大人し過ぎる。悔しい思いを胸に、家路を急いだ私だった。 翌6日水曜日は自宅での観戦。息子が送って来た50インチの大画面で観る試合は、なかなかの迫力。球場で観るよりも選手の表情が良く分かる。背筋の故障で48日ぶりのマー君は、やはり立ち上がりから調子が出なかった。1回表、わずか3球で1点を献上する始末。2回の裏にはヒット4本と内野ゴロで3点を取り逆転。だが3回表、阪神に1点を返される。 この後ベンチに戻ったマー君はコーチや伊志嶺捕手と話し合い、攻め方を変えたようだ。変化球を低目に集める作戦だ。結局これが功を奏してマー君は立ち直り、味方はマー君を助けようと打ちに打った。フェルナンデスの2ランホームランも効いたし、1軍に復帰したばかりの鉄平の3打点も実に効果的。9回表に1点を奪われたものの、最後まで投げ切ったマー君の3勝目だった。 彼が不在の間に、若手の投手が頑張って来た。近く松井稼や岩村の復帰が予定され、守護神ラズナーも2軍で好投している。若手とベテランが活躍し、これからますます楽しみなわが楽天。テレビの前で思い切り球団歌を歌った私だった。それにしてもセは巨人、パはロッテが強い。楽天もこのまま喰らいつき、少なくても3位以内を維持したいもの。間もなく梅雨入りだが、せめて心は晴れていたいと願う。
2012.06.08
コメント(6)
≪ 心の中の風景 ≫ 妻と「野草園」へ行った時にピンクのユリを見た。ササユリという名前だった。福島県との県境にある宮城県最南端の七ヶ宿町。その山中にササユリの自生地があることを聞いていた。確か天然記念物だったと記憶している。だが盗掘でほとんどが消え去った由。その幻のササユリを初めて見たのだ。自然の種類であんな鮮やかなピンクのユリがあったとは。 「縄文の森広場」の展示を見た時、仙台市内には貝塚はないと書かれていた。だが私は見たことがある。仙山線の線路沿い。場所は北仙台駅から東へ1kmほど行った崖の下だ。それを見たのは私がまだ小学生だった時のこと。崖に白い地層があり、掘ると石灰化した貝殻が幾つもこぼれて来たのだ。貝塚は縄文人が食べかすなど、不要なものを捨てた跡。あれが貝塚でないとすれば一体何だったのだろう。 「仙台市科学館」でもらったパンフレットによれば、今から1600万年前、仙台市茂庭一帯は海だった。堆積した茂庭層には大型の有孔虫などが含まれていて、それまでの産出分布を塗り替えたそうだ。1000万年前~500万年前、仙台市の西方には巨大な湖があった。太白区秋保から泉区七北田まで広がる湖は激しい隆起で出来たもの。冷温帯性落葉樹などの化石が出る由。 500万年前には、現在の福島県いわき市から岩手県花巻市に至る、広大な内海が広がっていた。名前は「竜の口の海」。この地層にはセンダイゾウやクジラなど豊富な動物化石が含まれているそうだ。300万年前の噴火で埋まった立木が石化したのが硅化木。仙台市内霊屋を流れる広瀬川の中に、35本の石が立っている。世界でも珍しい群落を保護するため、小さなダムを作って水の中に沈めているが、橋の上から1本だけ確認することが出来る。人間が生まれていない時代の地球は、どんな風景だったのだろう。 「仙台文学館」に置かれていた小冊子。『みやぎ「ふるさとの絆と思い出」プロジェクト』が製作したミニ写真集だ。未曽有の大震災で失われた郷土の風景を、残された資料から再現する試みだ。そこには破壊、流失する前の故郷が写っている。動画のURLから、私は「富山観音」を観た。あそこは「みちのくラン」で走ったところ。地震で壊れる前のと修復後の堂宇が写っていた。だが、私の足はもう走れない。 「エクレールお菓子放浪記」という映画を楽しみに待っていた。だが調べてみたら、宮城県内での上映は既に終わっていた。確か仙台、石巻、気仙沼の3か所で各1日だけの上映。どうやら映画館で上映される種類のものではないようだ。そのロケ地は石巻市が中心で、震災前の懐かしい風景がたくさん観られると思っていたのだが。 ブログに日本武尊のことを書いたら、よっちゃんさんが彼が死んだとされる三重の神社のことを教えてくれた。かなり前のことだ。再び書いた今回、今度は日本武尊の母の御陵について、兵庫のherenさんが教えてくれた。神話上の人物だが、神話を通じて歴史の一端を想像することは可能。真実に近づく喜びもさることながら、わざわざ教えてくれたブログ友の優しい気持ちがなにより嬉しい。
2012.06.07
コメント(10)
≪ 失われた風景-2 ≫ 右手に松林が見える。貞山堀に沿って植えられた防風林。津波でかなり流されたのだが、生き残っているのもあった。堀の何箇所かの水門も津波で破壊されたはず。間もなく井土の集落。ここにも人家は見えない。海寄りの地域の井土浜は妻の母の実家がある所。親戚の家は全部流されたものの、命だけは助かった。 さらに県道を荒浜へと向かう。右手にあった乗馬クラブは更地になっていた。荒浜地区は千名近い死者が出た集落で、残っているのは小学校の建物だけ。だが被害の大きさと児童数が少ないため、授業は他の学校で受けているはず。交差点のガソリンスタンドが破壊されている。津波の凄まじさを改めて感じる。 荒浜は漁業と海水浴の町だが、名取市のゆり上同様集落が壊滅し、目下集団移転計画が練られている。だが住民の中には、ここに残りたいと言う人もいるようだ。交差点から左折し、仙台市内へ向かう。自転車に乗った人がやって来た。「ここが荒浜ですね」と確認すると、「この先にたくさん住んでたんです」と海の方を示した。 勿論それは知っていたが黙って聞いた。ここでは生き残った人は僅かのはず。誰もいない廃墟で人に遭うのは、何だか不思議な気持ち。泥田から潮の匂いがする。海水に浸かった田圃が本来の役割を果たせないまま広がっている風景。ここからの道は知らない。小さな集落跡を過ぎて仙台東部道路の下を潜る。その向こうには、青々と風になびく小さな苗。高さ10mほどの高速道路の堤が、津波を阻止したのだ。まさに天国と地獄だ。 「トンネル」には流木が詰まり、内側に入った海水は僅かで済んだようだ。土手の効果は高く、そこに登って助かった人も多いと聞く。荒井の集落に入ると建物が壊れてないことに安心する。ここは新しい地下鉄路線の終点で、どんどん住宅やアパートが建てられていた。七郷集落でHCを発見。ここは震災当時自転車に乗ってガスボンベを買いに来た所。3本入り2セット買えた貴重品も、10日もせずに使い切った。 そこから先で道に迷った。南小泉方面から来れば間違えないのだが、逆の道が枝分かれして分かり難い。迷いながらも霞ノ目に出た。記憶を辿りながらある個所を訪ねようとした。江戸時代の名横綱2代目谷風の墓だ。だが、人に聞いても知らないと言う。自衛隊の基地に沿って何度か曲がると、墓は見つかった。前にここを訪れたのは高校時代のこと。あれから50年以上経過している。 風景がすっかり変わっている。昔は原っぱだったのが、今では人家が立て込み、墓の横にも大きなアパートが建っていた。当時の霞ノ目基地はグライダーの練習などのんびりしていたのが、今では大型ヘリコプターがブンブン飛んでいる。私は昔ここで「赤い円盤」を観た。てっきり宇宙人が攻めて来たものと驚いたのだが、それは地表から登る大きな月だった。それほど地上には何も無かったのだ。 小道から梅林の集落へ出る。高校時代の一時期弟と一緒に、叔父の家に厄介になった。父が夜逃げ先の四国で急死し、故郷の仙台に帰って来た時だ。あのボロ家は既にない。叔父は死に、従妹は40過ぎてから嫁に行った。木造平屋だった刑務官宿舎は立派なアパートに、そして線路沿いのゴム会社は高層マンションに変わっていた。あの貧しかった時代が何故か懐かしい。こうして38kmの自転車の旅を無事終えた。
2012.06.06
コメント(4)
≪ 失われた風景-1 ≫ その日も朝から軽いめまい。でもゆっくりとなら大丈夫なはず。そう思って飲みものと食べ物を用意する。自転車に乗って津波に襲われた地区のその後を確認する旅だ。地図を見てルートは決めていたが、地図は持たない。体調も含めて、多分何とかなるはず。旅には多少の不安が付きまとうのが普通。ニュースで観ていた地区が、あれからどう変わったのか。 名取川の堤防沿いに名取市ゆり上(ゆりあげ=ゆりは門の中に水)へ向かう。海からの弱い風があるが、下りのため苦しくはない。また気温も寒くは感じない。江戸時代以来の松並木、「あんどん松」付近から一般道へ。昨年来た時は自衛隊の人が泥田を探していた。そこは元々宅地だったのだが、津波で家々が流され、瓦礫が所々に集積していた。そして乗用車が直角に突き刺さっていた。 自衛隊の人達が捜索していたのは遺体。泥田に入って丹念にゴミを片づけながらの作業は大変だったはず。前回は街並みへ入っても壊れた家しかなかった。それが今はかなり片付き、土台しか残っていない無人の町。そして一面見通せる異様な風景。消防署は壊れたまま。遠くに見えるお寺も屋根が壊れ、壁面にベニヤ板が打ちつけられている。 人の気配がしない中学校。かつての繁華街はまるで茫漠たる砂漠。所々に盛り上げられた土は、津波が襲来した際の避難箇所だろうか。日和山だけがポツンと見える。標高10m以下の小高い丘が、まるでゆり上のランドマークのよう。橋を渡ってサイクルセンターに行こうとしたが、ガードマンに止められた。そこから先は工事関係車両しか入れない由。 破壊された貞山堀の岸辺に立ってサイクルセンターを見ると建物はなく、区分された瓦礫が小山のように積み上げられていた。あそこは年の初めに走るマラソン会場だった所。その面影は全くない。左手の海岸で煙を上げている工場は、臨時の焼却場だろうか。最近日曜市が再開されたようだが、かつての面影はない。笹かまぼこの工場跡がある。再建するまでの間モニュメントとして残すらしい。 日和山の頂上に木柱の慰霊碑が2本。その前に花が捧げられている。地元の人が2人いた。震災前、この頂には社があった由。それが流されて無くなっている。「大東亜戦争慰霊碑」が残っているのは、土台がしっかりしているのと石碑が重すぎたせいか。青々とした1本の松。どうやらこれも津波と塩害に耐えたようだ。 ゆり上大橋へ向かう。お寺の墓石がなぎ倒されている。土台だけの異様な街並み。700人近い住民が犠牲になった港町。私の従兄もここで死んだ。橋を渡る。前回は橋の手前で警視庁のパトカーが制止していた。地震で橋に段差が出来たためだ。そして警戒してたのは泥棒が横行していたためでもあった。無人の家から金目のものを盗み、遺体の指を切断して指輪を奪うとんでもない奴らが出没していたのだ。 橋を渡ると仙台市の藤塚地区。ここから貞山堀沿いにサイクリングロードが続いていたのだが、あの津波で破壊され、通行止めのはず。県道10号線を北に向かう。右手の海岸の所々に瓦礫の山。これは津波の防御用かも。左手の水田には濁った水。入り込んだ海水が引かず、泥田と変わっている。濃い塩分の影響で、数年間は田植えが不可能のようだ。大型のダンプが多いのは災害復旧工事のためか。ガードマンに右手の歩道を行くよう指示された。左手の歩道が壊れているのだ。<続く>
2012.06.05
コメント(6)
≪ 仙台市科学館 ≫ 地下鉄旭ケ丘駅で降り、台原森林公園の中を歩いて裏口から玄関まで長い階段を登る。この日はめまいがしていた。それを堪えながらの歩行。森林公園は何度も来ているが、科学館は初めて。いや、大昔東二番丁と青葉通りの交差点の地下にあった頃、一度だけ訪れたことがあるが、そんな時代の頃を覚えている人は少ないだろう。 広い館内には大勢の子供達がいて、ノートなどを手に持って歩き回っている。小学校と中学校の生徒で、それも複数。やはり授業の一環のようだ。科学館の印象はまるで「筑波科学万博」のパビリオン。子供達の興味を引くような展示が多いが、あれで落ち着いて勉強できるかどうかは疑問。私は古生物が一番面白かった。 巨大なシンシュウゾウやアケボノゾウ。マンモスにセンダイゾウやシオガマゾウ。ナウマンゾウの大きな臼歯もある。どれくらい昔かは知らないけど、日本列島にもかつてはゾウが居た。瀬戸内海の海底からナウマンゾウの臼歯が網にかかったり、長野県の野尻湖底からたくさんの動物化石が発掘されていたことは知っていた。 それにしてもシンシュウゾウの大きいこと。体高は5mほどもありそうだ。あんな大きな象が闊歩していた時代の風景はどんなだったのだろう。ウタヅギョリュウの化石もあった。これは南三陸町歌津の海岸にあった魚竜館の展示品だが、あの津波で被害に遭い、目下東北大学理学部の管理下に置かれている。石巻市から気仙沼市まで90kmを走った途中、魚竜館に立ち寄ったことを思い出す。≪ 仙台文学館 ≫ 公園の坂道を登り下りして文学館に向かった。県道側から行ったことはあるが、森林公園の中から向かうのは初めて。昨年までこの公園は良く走った。「仙台鉄人会10時間走レース」は、100kmレースの練習台だったためだ。アップダウンの激しい坂道を25周も出来たのが、今では1周しても心臓が壊れてしまうに違いない。その日もランナーの姿を見かけた。 仙台文学館の常設展示は仙台に因む文学者の作品や人物の紹介コーナーが中心。明治以降では島崎藤村や高山樗牛、魯迅、土井晩翠など。現代では伊坂幸太郎、伊集院静、佐伯一麦、俵万智など。井上ひさしはここの館長だっただけに展示品が多い。私が唯一読んだのが「新遠野物語」。「吉里吉里人」はまだ書架に横たわったままだ。 特別展は「北斎漫画」。北斎生誕250年記念の特別企画で、版木から今回特別に刷り下ろした版画ばかり134点。そして版木が51点。北斎漫画は全15編で、その中に3900余りの動植物、生活用品、妖怪など北斎の関心の対象となった森羅万象の事物が掲載されている。富嶽三十六景や美人画、役者絵などで有名な北斎だが、彼の興味は旺盛だ。 最後に私が好きな石川善助(明治37~昭和7年)の詩をコピーしてもらった。彼は仙台出身の詩人で、31歳で不遇のまま亡くなった。仙台市内愛宕神社の頂上の石碑にこの詩が刻まれている。 化石を拾ふ 光りの澱む切り通しのなかに 童子が化石を探してゐた 黄赭の地層のあちらこちらに 白いうづくまる貝を掘り 遠い古生代の景色を夢み 母の母なる匂ひを嗅いでゐた ・・もう日は翳るよ 空に鴉は散らばるよ だのになほも探してゐる 探してゐる 外界*のこころを *読みは「さきのよ」 生の始めを 母を母を
2012.06.04
コメント(2)
最近は体調をみながら色んなところに出かけている。博物館や美術館、野草園に科学館などだ。仙台市が管理する施設はほとんどが無料で入れる。65歳以上の市民には「豊齢カード」が送付され、これを施設の窓口で提示すれば良い。暇つぶしになるし、自分の刺激にもなる。自転車に乗ったり歩いたりで、健康維持にも役立つ。まさに「一石三鳥」なのだ。≪地底の森ミュージアム≫ ここは世界で唯一、氷河期の森が再現された博物館。多分地下鉄工事の際に発見された遺跡で、約二万年前の湿地帯跡。当時は現在より平均で7~8度ほど気温が低く、周囲にはトウヒ(アオモリトドマツ)、ダイマツ(チョウセンゴヨウマツ)、モミなどの針葉樹が茂っていた。この湿地に鹿などの動物が水を飲みに立ち寄り、それを旧石器人が狩猟するためキャンプ地にしていた。 累々たる針葉樹の倒木の間に、作りかけの石器や残骸、鹿の糞、焚火の痕などがそのままの形で保存されている、珍しい地下の博物館だ。私は既に5回ほど訪れているため、企画展を観るのが目的。今回の企画展は「仙台の遺跡1 ~名取川下流域の遺跡~」で、8つの遺跡からの出土品が展示されていた。いずれも道路建設や宅地開発などに伴う発掘。東北で一番大きな甕(かめ)を見られたのが収穫か。建物の外には当時に近い樹木が植えられ、雰囲気を出している。≪縄文の森広場≫ ここは高台にある縄文時代の遺跡。8戸ほどの竪穴式住宅跡や、食料を保存するための穴などが見つかっているほか、大量の縄文式土器が出土している。私が訪れた時は大勢の小学生が来館していた。授業の一環で滑石を磨いて「勾玉」を作る実習のためだ。ほかにも縄文式土器を作ったり、木の棒を廻して火をおこす実習、壊れた土器を復元する実習もあるようだ。 企画展は「海辺のムラの環境と暮らし ~国史跡大木囲貝塚~」。松島湾の周囲には縄文時代の多くの有名な貝塚があるが、これは湾の南岸で標高40mほどの高台にある遺跡。東西450m、南北600mの広さに、厚さ5mの貝層が形成されている。ここから出土した土器は、東北地方の縄文前期、中期の編年の基準となった。 展示品は私も訪れたことのある七ケ浜町歴史資料館からの借用物で、土偶、骨製の装飾品、釣り針、石製のおもり、クジラ、イノシシ、犬の骨などだった。クジラは湾内に漂着したもので、シカやイノシシは狩猟によって得られた獲物。犬は人間と共に生活し、狩猟を助けたのだろう。松島湾岸の遺跡には製塩に関するものが多いのも特徴。作られた貴重な塩は、多分奥地に住む人へも届けられたに違いない。縄文時代の犬は、稀に食用にされた例がある。 今回は2つの小さな博物館を巡ったが、仙台市内にはこの他にも小規模の博物館がある。予算も人員も限られた中で、どんな展示を企画して客を呼ぶかが学芸員の腕の見せ所だろうが、多分どこも苦戦しているはず。数が増えれば増えるほど予算や人員が減るからだ。ボランティアによる解説も、きっとその一助なのだろう。頑張れ小さな博物館たち~!!
2012.06.03
コメント(6)
司馬遼太郎著『北のまほろば』を先日読み終えた。「街道をゆく」シリーズの第41巻。青森県内を旅した際の紀行文だ。「まほろば」はあまり聞き慣れない言葉だが、「優れた良いところ」を意味する古語。本州最北端の青森県だが、司馬にとっては寂れた土地ではなく、豊かな土地に思えたのだろう。 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる倭しうるはし 古事記や日本書紀に現れる伝説的な英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)が死に瀕して、生まれ故郷の美しさを想って詠んだ歌とされるが、もちろん歴史的な事実ではない。ただ、古代から国のために戦地に赴き、彼の地で亡くなった多くの兵士がいたことは間違いない。そして遠く離れた故郷を思う気持ちは、古今東西共通だと思う。 この本で取り上げられているのは、先ず弘前城、岩木山、津軽衆と南部衆、津軽出身の作家。弘前城の項目では石場家のお婆ちゃんも出て来た。作家で出て来たのが今東光、日出海兄弟、太宰治、石坂洋次郎などだが、私はほとんど読んだことがない。太宰の「走れメロス」は小学校の教科書で知った程度で、石坂の小説は映画「青い山脈」を観たのみ。私が読んだ長部日出雄の「津軽世去れ節」は津軽三味線に命を賭ける男の栄光と没落を描いた小品だが、そこには津軽の独特な風土や、津軽衆の心情が良く描かれていた。 十三湖と中世の豪族安東氏との関係、三内丸山遺跡、亀が岡遺跡、大森勝山のストーンサークル、弥生時代の水田遺構である垂柳遺跡などにも触れている。それらを訪れて、青森は縄文時代から富み栄えた地であることを確信したのだ。三内丸山は五千年近く永続的に営まれた縄文の村で、当時は海の傍にあったため鮭の遡上や栗の栽培などで食料に恵まれていた。 また垂柳遺跡は、弥生時代の東北では稲作は不可能との常識を覆した。これは陸路ではなく、海路を辿ってイネがもたらされたためで、関東地方とほぼ同時期に稲作が始まっていたのだ。ただし後世気温が低くなると、稲作は一旦後退する。まだ冷害に強い品種がなかったためだ。縄文時代の東北が日本列島の中で一番人口が多かったことも立証されているが、それだけ豊かな収穫があったのだ。 冬季の八甲田山で大量遭難死した第八師団の話(新田次郎の小説で有名)と当時の南蒙古進出との関係、古来の狩猟民であるマタギの話、版画家棟方志功の話も興味深いが、戊辰戦争で敗れた会津藩士が明治政府から下北半島への移住を強制された話には驚いた。45万石の大藩から名目3万石の「斗南藩」へ。廃藩置県までの3年間の幻の藩の苦しみを初めて知った。それほど東北は明治新政府から目の敵にされたのだ。 津軽半島の先端である竜飛崎へは菅江真澄(三河国出身)や、長州藩の吉田松陰が津軽藩の警戒を破って訪れている。彼らはどんな想いで岬に立ったのだろう。素晴しい本だったが、幾つか著者の誤解があった。その最大は、西行や芭蕉が訪れた最北の地は宮城県との記述。正しくは岩手県。平泉で芭蕉が詠んだ 夏草や兵どもが夢の跡(高館)、五月雨の降のこしてや光堂(金色堂)などの有名な句を、彼が知らない訳がないのだが。「画龍点晴を欠く」とはこのこと。惜しいものだ。
2012.06.02
コメント(9)
映画監督の新藤兼人が亡くなった。100歳だったと言う。私は彼の映画を一度も観たことはないが、反骨精神に富んだ社会派の監督であることは知っていた。それに女優乙羽信子の夫だったことも。4月22日が誕生日で、関係者が100歳のお祝いの会を催したらしい。その時、彼は挨拶で一言「さよなら」と言ったそうだ。 その誕生祝いの後、2回も救急車で病院に運ばれたようだ。「さよなら」はユーモアだけでなく、案外本気だったのかも知れない。死の前日、監督は寝言で映画のことを話していたとか。最後の最後まで映画作りが頭の中にあったのだと思う。彼にしてみればまだ道半ばだったのだろう。息子や孫にも映画監督がいると聞いた。彼の遺志はきっと息子や孫が継ぐに違いない。 先日2010年の我が国の平均寿命が発表された。それによれば女が86.3歳で、男が79.55歳。男女とも前年よりわずかに下がったようだ。言うまでもなくこの平均寿命は、その年の出生児が何歳まで生きられるかの平均予測で、私達成人のものではない。ましてこれから何年生きられるかを保障するものでもない。でも、少なくともその歳まで生きたいと思うのが人情だ。 だが幕末期はそうではなかった。吉田松陰や坂本竜馬は30代で死んだ。満年齢なら松陰はまだ20代の若さだ。もちろん自分の意思ではないが、彼らは死を賭して行動していたのだから同じようなもの。戊辰戦争で敗れた会津藩の白虎隊に至っては10代での切腹。死を称賛するものではないが、平和な現代ではとても考えられない覚悟の人生だった。 さて、私の体調は少しずつ回復している。先日までのめまいと吐き気は、間違いなく薬の副作用。これは危ないと思い、妻には何かあったら救急車を呼んでくれと言っていた。だが彼女は本気にしなかったようだ。初めて低血圧になったため、血圧降下剤を2日休んだ。一時は140近かった脈拍が70台まで下がり、逆に血圧はようやく110を上回るようになった。どうやら体が薬に馴染んで来たようだ。 昨日は少し歩いた。最近隣の市や町でクマが出たとのニュース。この日はとうとう市内にも体長1.5mのが現れたようだ。用心のためラジオを聞きながらの散歩。本当は近所の山に登りたかったのだが、無理せずその麓にあるお向かいさんの畑を見た。畑は木の柵で囲まれていた。イノシシが荒らすのを防ぐためとのこと。帰路は幾つかの団地を迷いながら帰った。2時間8kmのささやかな旅だった。 今日は昨年津波の被害を受けた地区を、自転車で廻る予定。体調を見ながらゆっくりペダルを踏もうと思う。未曽有の津波で多くの方々が犠牲になった町。それをこの目で確かめるのだ。死を必要以上に恐れることはないが、かと言って侮るのは愚かなこと。「盛者必衰」の言葉を心に刻みながら、生きていることの意味を考えてみたい。
2012.06.01
コメント(2)
全30件 (30件中 1-30件目)
1