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≪ 若宮大路と江の電 ≫ 昨日分の最後に書いた歌だが、走友のkazuさんが訂正してくれた。正しくは しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな だった。 私はいつもその歌の「下の句」を忘れてしまう。それで「だったかな?」と書いたわけだ。ついでに「新平家物語」を読み直したら、静が舞ったのは雪ノ下の御所ではなく、鶴岡八幡宮の舞殿だった。たとえ素人でも、歴史ものを書く場合は注意しないといけないね。折角なので書いておこう。静御前が舞った際の歌がもう一つある。それは吉野山で別れた義経を偲ぶものだ。 よしの山 峰のしら雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき この後で頼朝の妻政子は、静が身籠っていることを女の直感で見抜いてしまう。 金沢街道へ戻る路地で、スイセンの芽が出ているのに気づいた。仙台の我家ならスイセンが地中から顔を覗かせるのは翌年の3月ごろ。いくら南関東とは言え早過ぎる。これも異常気象のなせるわざだろうか。他の場所でもツツジやシャクナゲが狂い咲きしてるのを観た。 時間は午後の1時近く。相当腹も空いて来た。蕎麦屋には行列が出来ていたため、角のしゃれた店に入る。妻が注文したのは、きのこたっぷりのサンドウイッチ。私と次男はスリランカ風カレー。鳥肉が入ったターメリックとトマトの味で、スープのように薄いカレーだが、案外美味しかった。これにコーヒーか紅茶とデザートがつく。デザートはイチジクのタルトだった。 若宮大路は大変な人混みだ。次男のお気に入りの陶器店に入る。扱っているのは備前焼がほとんど。私が作品を見ていると店の親父が色々と説明し出す。置いてある作品は、彼が前から目をつけていた作家のものとか。結構高額な品だ。笠間焼に似てると言ったら、「あれは焼きが甘い」と一言。陶器を焼く際の温度が低いため、備前のような風格は出ないのだとか。ほうほうの体で店を出る。 妻が買った「鎌倉焼き」を食べながら歩く。外側は抹茶の味で、中のあんはゴマ。次男が横町へ曲がれと言う。そこが鎌倉駅への近道らしい。ここも人波がすごい。別名「鎌倉の原宿」なんだとか。確かに観光地だけあって、街には活気が溢れている。ようやく人波を掻い潜って駅に到着。鎌倉名物の「江ノ電」(江ノ島電鉄)に乗るのが今日の楽しみの一つ。極楽寺までの切符を買う。 江ノ電は鎌倉と藤沢を結ぶ単線で、途中には江ノ島がある。そして「腰越」も通る。そこは平氏を滅亡させた義経が都から鎌倉へ訪れたものの兄頼朝への面会を許されず、必死の思いで弁明の書「腰越状」を書いた地なのだ。やって来た電車は2両編成の可愛いもの。ギュウギュウ詰めの電車は観光客で一杯。街中をカタコト音を立てながら、電車は西へと向かった。<続く>
2012.10.31
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≪ 鶴岡八幡宮と頼朝の墓 ≫ 雅楽が聞こえる。それに大変な人混みだ。着物姿の子供がやけに目につくのはなぜ?七五三のお参りは11月15日なのだが、親の都合で予定が開いている週末に行うのが、最近の流儀なのだろう。先ず本殿に向かう。神門の両側に武者姿の神像が2体。さすがは源氏の守り神だけのことはある。 平安末期の前九年の役の際に源頼義が、東北の古代豪族安倍氏を討つべく戦勝祈願するため、京都の石清水八幡を勧請した若宮八幡が神社の起源とか。康平6年(1063年)の時だ。それを治承4年(1180年)に頼朝がこの地に遷移し、社殿を中心に鎌倉幕府の中枢施設を整備したそうだ。 本殿の中では七五三詣での親子が大勢、お祓いを受けていた。出口に向かいながら懸られた絵馬を見る。あれれ?何と言うことだろう。日本語の絵馬に混じって、外国語で書かれた絵馬もたくさんある。英語、フランス語は分かるとして、中にはロシア語のキリル文字や、東南アジアの文字も散見。結構色んな国の人が参拝してるんだねえ。それも宗教を超えて。 舞殿では神前結婚式の最中。それが外からも丸見えなのだ。妙なる雅楽の音は、ここから聞こえていたのだ。石段では写真を撮る老若男女の姿。そして石段の右側には根元から切られた大イチョウ。それは2年前の強風で倒れたもの。三代将軍実朝が、イチョウの木陰に隠れていた甥の公暁に暗殺されたと言われる伝説の樹だ。今は元の位置から7m離して育成中みたい。 境内には源氏の氏神である白旗神社や鎌倉国宝館があるみたいだが、先を急ぐ。2つの池は平家池と源氏池。平家池に浮かぶ4つの島は「死」を意味し、源氏池の3つの島は「産」を意味する。これは頼朝の妻政子の発案だった由。平安から鎌倉初期にかけては、そんな迷信がやたらと信じられていた。それだけ世の中が不安定だったのだろう。太鼓橋は本来赤く塗られていた由。鎌倉幕府最後の執権赤橋氏の姓は、この橋から来ているそうだ。 境内を出て向かった先は頼朝の墓。次男も行ったことはないらしい。地図を確かめながら金沢街道を東に進む。やがて「雪の下」の地名。路地を左に入ると正面に小高い丘が見えた。路地の四つ角に「鎌倉幕府跡」の標識。んんん?これは予想外。こんな所に幕府の政庁が置かれていたとは。ところが頼朝の墓が貧弱なのには二度ビックリ。それもそのはず、江戸時代の初期、薩摩の島津藩が再興したものだとか。鎌倉時代のものなら、五輪の塔もそれらしい形をしているものだ。 そう言えば「私本太平記」には、鎌倉を攻めた新田義貞が頼朝の墓を徹底的に破壊したことが記されていた。なぜ同じ源氏の血を引く義貞が、源氏の統領である頼朝の墓を暴く必要があったのかが不思議。あの時代にはそれほどの憎しみが存在したのだろう。 帰路「雪の下」で思い出す。吉野山で捕らわれた義経の愛妾静御前が鎌倉まで連行され、頼朝と政子の前で舞を舞ったのが確かこの地「雪の下御殿」だったはず。その時静は義経の子を身籠っていたようだ。こちらは「新平家物語」の話。しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今になすよしもがな だったかな?<続く>
2012.10.30
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≪ 円覚寺から建長寺へ ≫ 鎌倉街道を南に下ると間もなく、円覚寺(えんがくじ)への入口。ここが最初の訪問地だ。境内へ入ると自然と寺院が融合した独特の趣がある。いかにも古そうな白槇(ビャクシン)の樹。この寺は鎌倉6代執権だった北条時宗が、元寇の死者の霊を慰めるために建立したもののようだ。寺名の由来は、寺地を選定した際、地中から石びつに入った「円覚経」が掘り出されたことによる由。 新田義貞が鎌倉を攻めた際、寺社の多くは焼け落ちたと聞いた。歴史の古さに比べて建物がさほど古いように感じないのは、再興されたせいだろう。それでも禅寺独特の雰囲気が一面に漂う。岩に刻まれた流紋に驚く。「模様を彫ったのかな?」と妻。「これは昔の谷の跡だよ」と私。山間の地形を利用したため、かつての流路の名残があるのだ。 「これはどこかに似てるな」と思って考えたら、安芸の宮島(厳島神社)の裏手から弥山へ登る辺りの雰囲気に良く似ている。あそこも境内の一角が小さな谷間になっていた。清々しい山門の後に仏殿。ここには宝冠を戴いた釈迦如来が安置されていた。堂々たる風格だ。天井に描かれた龍は、前田青邨が監修し、守谷多々志が描いたもののよう。 広い境内を山に向かって歩くと左手に古い堂宇。清楚な佇まいの舎利殿は、三代将軍実朝が宋から招来した仏牙舎利を奉安した建物で国宝指定。これは創建当初のままなのだろう。最奥部には北条時宗の霊廟があるようだが、観光客は近づけない。NHKの大河ドラマで北条時宗を演じた、狂言師の和泉元彌を思い浮かべる。 アジサイで有名な明月院には寄らず、鎌倉街道を下る。いつの間にか横須賀線の軌道とは離れていた。結構歩くと左手に学校。「鎌倉学園」の標識。校名は聞いたことがある。隣が建長寺なので、仏教系の学校のはず。円覚寺と比べれば、建長寺はより開かれた平地の趣。7本の立派で古いビャクシンの樹が先ず目についた。樹齢は730年。やはり創建当初のものだ。 この寺は五代執権北条時頼の創建。寺の名は完成した年号に因るのだろう。鎌倉五山第一の寺で、臨済宗建長寺派の大本山。そんなことよりも誰でも知っている「けんちん汁」はこの寺の発祥で、「建長」から来ているとは意外。法堂に安置されたご本尊は地蔵菩薩。大きく目を見開いていたのが印象的だった。修行中の釈迦像はガリガリに痩せた姿。ガンダーラ仏に良く似てると思ったら、やはり愛知万博のためにパキスタンで製作したものらしい。 唐門は金色に輝く扉が目立ち、禅寺には相応しくないような印象を受けた。山奥にある「半僧坊」にも行かず、国宝の梵鐘も観ずに境内を出る。鎌倉街道は途中から結構急な下り坂となった。これが鎌倉名物の「切り通し」かと思いながら坂道を下ると、鶴岡八幡宮の裏手に出た。階段を登ると丸山稲荷の赤い鳥居。その左手に社殿が見えて来た。<続く>
2012.10.29
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< 心配とすれ違い > 軟らかい便だった。それにいつもならガツガツと食べてしまう餌も、大半は残したままだった。愛犬のマックスに老衰が迫っているのは、ここ数カ月の彼を見れば直ぐに分かる。だが、この朝はさらに様子が違っていた。バケツの水を置こうとする妻を止めた。最近の彼は、水の飲み方もオシッコの仕方も尋常ではなかった。そのマックスを留守番に置いて行くのは、かなり心配だった。 鎌倉に行くのは、7月に東京に行った際に決めた。長男は日曜日も勤務があるので無理だが、同じ東京に住む次男は旅も歴史も好きで、私達夫婦のガイド役も喜んで買ってくれた。もう70近いのに、まだ鎌倉へは一度も行ったことはない。いや、たった1回だけ高校時代のクラスメイトと行ったことがある。私が東京勤務になり、川崎の小学校の教師だった友と一緒に行ったのだ。 ところが、その友がフィルムを買いに行ったきり帰って来ない。私は「待ちぼうけ」に飽きてその場を離れ、ついに友と会うことはなかった。だから鶴岡八幡宮と若宮大路くらいは覚えがあるが、その他は一切古都鎌倉を知らない。その友との再会は40年後のクラス会。だが、彼は若き日にそんな「事件」があったことすら忘れていた。 次男は何度か訪れているようだが、私達はほとんど鎌倉を知らない。それで1冊のガイドブックを買った。出来るだけ歴史的な背景を知りたかったのだが、書店に置かれたその類の本は、どれもどこが美味しい店かとか、どこが観光の目玉かとか、そんな編集方針で書かれた若者向きの物ばかりだった。ただ、好都合なことがあった。それは最近入った「大人の休日倶楽部」と言うJRのシルバー層向けの会員制度。これでかなり安くチケットが入手出来た。 東京駅には定刻に着いた。一番近い東北新幹線の改札口から出たが、次男の姿はどこにもない。「おかしいなあ」と辺りをキョロキョロしたが、その辺から妻の様子がおかしくなった。私の傍を離れ、勝手な動きをするようになったのだ。「これは迷子になるな」。そう思いつつ3度までは妻を見つけた。妻の携帯あてに次男から電話があった。でも2人の会話は要領を得ない。どちらも現在地がどこか正しく分かっていないのだ。 私は急いで「中央改札口」に向かった。それが次男との待ち合わせ場所だったからだ。だが、妻は私に付いて来なかったようだ。中央改札口にも次男は居らず、後ろから付いて来たとばかり思っていた妻もいない。さて困った。3か所ある東北新幹線の改札口をグルグル捜し続けたが、どうしても見つからない。やはり鎌倉は私とは縁が無かったか。そう思いつつ、案内所で「呼び出し放送」を頼んだ。 2人が中央改札口までやって来たのはかなり経ってから。彼らの話によれば、あの後携帯で連絡を取って「横須賀線」の地下ホームまで行ったらしい。妻は怒っていたが、私の方はもっと怒っていた。携帯は妻しか持っていないのに、一緒に行動しなかったら人が多い東京では直ぐに迷子になるのが分かってないのだ。鎌倉に向かう電車の中でも、妻と私は険悪な雰囲気だった。 その「緩衝材」が次男。まとまな就職も出来ず、東京で自由な一人暮らしをしている彼は私達夫婦の心配の種だが、持ち前の呑気さで刺々しい空気を包んでしまう性格の良さがある。妻の言い分、私の言い分をそれぞれに聞きながら、「まあまあ」といつの間にか2人を宥めてしまった。これは長女や長男には、とても真似の出来ない「裏技」だ。 1時間近く乗った電車を「北鎌倉」で降りる。私達夫婦の切符は「ウイークエンドパス」で、週末の2日間は決められた管内では何度も使える「優れ物」。一方の次男は電子式の「スイカ」。臨時出口では使用出来ず、向かい側のホームまで行って「かざして」来たようだ。いよいよ待望の「鎌倉散歩」が始まる。狭い道を大勢の観光客がゾロゾロと、一定方向に歩いて行く。<続く>
2012.10.28
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≪ 走ることについて ≫俺の足は走り始めてから十一年になった俺の足は色んな道を知っている凍った道霜柱の道真っ暗な道強い北風の道潮の香が染みついた道埃っぽい道カンカン照りの道汚くて凸凹の道牛舎や汚水の臭いがする道喘ぎながら登った坂道砂糖きびの穂が風にたなびく道コンクリートの道アスファルトの道砂利の道土の道芝生の道砂だらけの道怖い道優しかった道泣きながら走った道嬉しくて跳びはねた道北の道南の道海沿いの道誰も通らない山の中の道迷った道信じた道短い道長く苦しい道一人で走った道仲間と一緒に走った道駆けぬけた道うずくまった道道 路 径幾つかの土地の幾つもの道を俺の足は走って来た偏平足の足骨折した足もう二十回も肉離れをおこした足「筑波学園マラソン」では股関節の付け根から 動かなくなった足「NAHAマラソン」では繰り返す痙攣で苦しんだ足時には軽快なそれでいて時には鉛のように重くなる俺の足だが親からもらった 貧弱なこの足がまぎれもない俺の足だ俺は走る俺の足で走る俺の人生を走る幾つかの土地の幾つもの風景の中で俺の生命を走る走るという個人的な行為だが 極めて厳粛な儀式によって俺自身であることを確認する俺は 1990(平成2)年12月15日 在沖縄 第一詩集『南島風景』より 長い間の閲覧、どうもありがとうございました。また私の地球2周走破達成に関して暖かいメッセージをお寄せいただき、ありがとうございました。まだまだランニングに関する話は尽きませんが、本シリーズは一応これで終了します。
2012.10.27
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もう少し若い頃、私は不思議に思ったものだ。何故強いウルトラランナーだった人が、65歳を過ぎた辺りから急に長い距離が走れなくなるのかと。それが自分がその年齢に達してみると良く分かる。目は霞み、耳は遠くなり、ちょっとした段差にも躓く。人間商売が長くなるとそれまで使い続けて来たあちこちの「部品」が、きっと「勤続疲労」を起こすのだろう。 ランナーならば誰だって速く走りたいし、より遠くまで走りたい。そして歳を取っても出来るだけ長い間走り続けたいと願うものだ。人によって限界は違うだろうが、それでもいつかは走れなくなる時が必ず来る。それを出来る限り「先延ばし」するのが熟年ランナーの任務かも知れない。しかし「トランスヨーロッパ」を完走した走友達は凄い。私が1年かかって走り、歩く距離を、彼らは64日間で走破したのだから。 私は68歳になる今年までせっせと働いて来た。ハローワークで見つけた仕事は、パートの肉体労働。清掃に警備、そして機密文書の裁断。今考えるとどれもきつい内容だった。だが、60過ぎの人間には仕事を選ぶ余地はない。その厳しさに耐えながら頑張って来たのは、マラソンの経費をねん出するため。週末にはクタクタになるほどの疲労を、レースが始まるまでのわずかな間に回復させるのが常だった。 8月初めにあった宮城UMCの合同練習会「薬莱山とお足マラニック」の打ち上げで、私は仲間の前で宣言した。「来年はウルトラに復帰します」と。あれはその場の勢いで出た言葉で、本心では復帰出来るとは考えてもいなかった。あれから3か月。今もリハビリは続いているが、走れなかった約半年の間に失った筋力を取り戻すのは容易ではない。走れる距離はかなり延びたが、スピードが全く出ないのだ。 目下行っている「強化メニュー」は以下の通り。1)ランまたはウォーク 2)ラジオ体操 3)ストレッチ体操 4)青竹踏み 5)貝殻踏み(共に20回程度) 6)ぶら下がり(柵に30秒程度) 7)爪先立ち 8)スクワット 9)タオルギャザリング(いずれも50回程度) 10)腹筋(20回程度) 11)壁押し(適宜) さほどの強度ではないが、それでもかなりの効果があったと思う。 来年からのレース復帰を目指して鋭意トレーニング中だが、一進一退。「おお、これは行けそうだ」と思うこともあれば、「やはり無理みたい」と感じることもしばしば。今年の2月と4月の2回不整脈の手術を行い、長年のランの結果、両足には腱鞘炎や筋膜炎という爆弾を抱えているため、あまり無理が出来ない。それを「騙し騙し」訓練しているのが実態なのだ。 「地球3周走破」は多分夢に終わるだろう。これからは老化との戦いがさらに激しくなるからだ。それでも一歩踏み出せばその分だけ夢に近づく。100kmや200km先の遥かなゴールも、頑張っているうちに徐々に近づくのと一緒。老化や死と言う未知の世界を意識しながら、走り歩くのも一興ではないか。そのためにも出来るだけ心身を健康に保ちたいと願う昨今だ。<続く> 明日10月27日(土)は、早朝から鎌倉へ向かい、帰宅は夜遅くなります。このためブログはお休みになりますのでご了承ください。
2012.10.26
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≪ フルマラソン以上のレース全記録 その3 ≫Fフル Uウルトラマラソン T時間走レース (注)本日3回目の更新です。リスト1、2は↓にあります。興味のない方はスルーしてくださいね。(64歳)71 「第10回鉄人会5時間走」10時間走の部 T宮城 平成20年 72km ★この後、左足負傷72 「第4回いわて銀河」U岩手(100km)平成20 86kmでリタイヤ11:19:0073 「第11回立山登山マラニック」U富山(65km) 60kmでリタイヤ10:20:0074 「第28回つくばマラソン」F茨城 平成20 4:40:0775 「第27回東北ブロック新春マラソン」F宮城 平成21 4:35:2676 「第1回八丈島一周」U東京(62km) 平成21 8:22:10 ★暴風雨(65歳)77 「第19回かすみがうらマラソン」F茨城 平成21 4:53:4778 「第11回仙台鉄人会5時間走」10時間走の部 T宮城 平成21 75km79 「第5回いわて銀河」U岩手(100km) 平成21 13:29:3180 「第4回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成21 44:11:35 ★距離感狂う81 「第1回東山温泉紅葉ランニング」U福島(50km) 6:38:43 ☆高低差730m82 「第58回勝田マラソン」F茨城 平成22 4:25:1383 「第1回いわきサンシャインマラソン」F福島 平成22 4:29:38(66歳)84 「第6回伊豆大島ウルトラランニング」U東京(100km)平成22 13:36:2585 「第12回仙台鉄人会5時間走」10時間走の部T宮城 平成22 75km86 「第6回いわて銀河」U岩手(100km) 平成22 13:23:2487 「第5回磐梯高原ウルトラ」U福島(100km) 平成22 13:30:5788 「第20回秋田内陸」U秋田(100km) 平成22 13:00:30 ★時間外完走89 「第26回NAHAマラソン」F沖縄 平成22 4:50:2590 「第59回勝田マラソン」F茨城 平成23 4:20:0091 「第2回いわきサンシャインマラソン」F福島 平成23 4:19:17 ★この後、3月11日に「東日本大震災」発生。不整脈と筋膜炎の発症に苦しむ(67歳)92 「東日本大震災チャリティRUN」自由にFを走る 宮城 平成23 5:23:1093 「第7回いわて銀河」U岩手(100km) 平成23 73kmでリタイヤ10:38:4494 「第21回秋田内陸」U秋田(100km)平成23 8km地点で不整脈発症 45km地点(100kmの過去最低距離)でリタイヤ7:30:00 平成24年2月及び4月の2回、不整脈手術を受ける。この間はレース不参加。8月から約半年ぶりにランニングを開始。平成25年からのレース復帰に向けて、目下トレーニング中。現状はかなり厳しいものがあるが、何とか再挑戦したいと願っている。<続く> 私のブログを見た目下通院中のスマイルハート歯科さんから、ファックスで地球2周走破達成の祝辞をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
2012.10.25
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≪ フルマラソン以上のレース全記録 その2≫Fフル Uウルトラマラソン T時間走レース *リスト1は↓に、リスト3は↑にあります。興味のない方はスルーしてください。(57歳)石川勤務34 「第17回NAHAマラソン」F沖縄 平成13 4:45:00(58歳)茨城勤務35 「飛翔千葉ウルトラマラソン」U千葉(60km) 平成14 7:27:2336 「第14回秋田内陸ウルトラマラソン」U秋田 平成14 78km地点:11:11:1137 「えちごくびき野ウルトラマラソン」U新潟(50km) 平成14 6:11:30(59歳)これ以降仙台38 「第5回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成15 44km39 「第15回秋田内陸ウルトラマラソン」U秋田 平成15 80km地点:11:08:15(60歳)40 「第6回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成16年 45km41 「第15回阿蘇カルデラ」U熊本(50km) 平成16 5:08:3142 「第16回秋田内陸」U秋田(50km)平成16 4:58:46 ☆自己ベスト43 「第17回大田原マラソン」F栃木 平成16 4:06:4744 「第53回勝田マラソン」F茨城 平成17 4:14:19(61歳)45 「第7回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成17 43km46 「’05しまなみ海道ウルトラ遠足」U広島~愛媛(100km)平成17 13:01:1547 「第17回秋田内陸」U秋田(100km)平成17 12:02:08 ☆自己ベスト48 「第54回勝田マラソン」F茨城 平成18 4:01:52(62歳)49 「第16回かすみがうらマラソン」F茨城 平成18 3:55:3950 「第2回いわて銀河」U岩手(100km) 平成18 12:16:2451 「第2回磐梯高原」U福島(100km) 平成18 12:59:3052 「第13回奥武蔵」U埼玉(75km) 平成18 11:11:1553 「第1回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成18 41:40:0054 「第6回えちごくびき野」U新潟(100km) 平成18 12:58:1355 「第26回つくばマラソン」F茨城 平成18 4:11:3756 「第22回NAHAマラソン」F沖縄 平成18 4:28:2357 「第55回勝田マラソン」F茨城 平成19年 4:28:1458 「第15回おきなわマラソン」F沖縄 平成19 4:19:38(63歳)59 「第26回佐倉朝日健康マラソン」F千葉 平成19 4:08:1360 「第9回長野マラソン」F長野 平成19 4:27:5861 「第3回いわて銀河」U岩手(100km) 平成19 12:17:4362 「東京喜多マラソン」F東京 平成19 4:27:2063 「第3回磐梯高原ウルトラ」U福島(100km) 平成19 12:55:3764 「第10回立山登山マラニック」U富山(65km高低差3003m)11:16:0065 「第2回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成19 40:23:00 ☆自己ベスト66 「’07いわて北上マラソン」F岩手 平成19 4:13:3367 「第1回湯のまち飯坂ふくしまマラソン」F福島 平成19 4:17:0068 「第23回NAHAマラソン」F沖縄 平成19 4:39:0769 「第18回宮古島ワイドーマラソン」U沖縄(100km) 平成20 12:02:4570 「第8回24時間チャリティラン」T東京 平成20 114km ★膝負傷<リスト3に続く>
2012.10.25
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私のレース参加記録です。興味のない方はスルーしてください。本日(10月25日)は、3回に亘って「リスト」を掲載します。味気はありませんが良かったらぜひ覗いてくださいね!!≪ フルマラソン以上の全記録 その1 ≫ 注)F:フル U:ウルトラマラソン T:時間走レース ただし、フルの途中リタイヤ3件を除く。(45歳)沖縄勤務01 「第5回NAHAマラソン」F沖縄 平成元 5:22:29 痙攣に苦しんだ初マラソン(46歳)沖縄勤務02 「第6回NAHAマラソン」F沖縄 平成2 5:15:18(47歳)沖縄勤務03 「第7回NAHAマラソン」F沖縄 平成3 4:39:46(48歳)愛媛勤務04 「第13回瀬戸内海タートルマラソン」F香川 平成4 4:09:5005 「第31回愛媛マラソン」F愛媛 平成5 3:49:2206 「第7回全国健康マラソン宇部大会」F山口 平成5 3:49:05(49歳)愛媛勤務07 「第3回おらが村心臓破りフルマラソン」F高知 平成5 3:56:2508 「第9回NAHAマラソン」F沖縄 平成5 4:02:4709 「第32回愛媛マラソン」F愛媛 平成6 3:40:27(50歳)愛媛勤務10 「第4回おらが村心臓破りフルマラソン」F高知 平成6 3:53:1811 「第1回四万十川100kmマラソン」U高知 平成6 12:36:06 12 「第10回NAHAマラソン」F沖縄 平成6 3:36:03 ☆フル自己ベスト13 「第33回愛媛マラソン」F愛媛 平成7 3:52:38(51歳)大阪勤務14 「第2回四万十川100kmマラソン」U高知 平成7 12:51:0915 「第5回福知山マラソン」F京都 平成7 3:46:0216 「第26回篠山ABCマラソン」F兵庫 平成8 3:41:56(52歳)大阪勤務17 「第4回武庫川ユリカモメウルトラマラソン」U兵庫(70km) 平成8 7:30:2918 「第10回吹田中の島耐久5時間走大会」T大阪 平成8 49.7km19 「第10回和歌山城ー高野山往復ウルトラ」U和歌山(110km)平成8 15:37:0020 「’97泉州国際市民マラソン」F大阪 平成9 4:10:4621 「第27回篠山ABCマラソン」F兵庫 平成9 3:36:11(53歳)山形勤務22 「第7回仙台鉄人会フルマラソン」F宮城 平成9 4:07:5923 「第9回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成9 12:30:3424 「第10回大田原マラソン」F栃木 平成9 3:58:37(54歳)山形勤務25 「第10回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成10 12:56:1826 「第12回長井マラソン」F山形 平成10 3:49:3527 「第47回勝田マラソン」F茨城 平成11 4:18:0028 「第7回おきなわマラソン」F沖縄 平成11 4:10:25(55歳)山形勤務29 「’99かすみがうらマラソン」F茨城 平成11 3:55:1130 「第1回仙台鉄人会5時間走大会フルの部」F宮城 平成11 4:26:3831 「’99北海道マラソン」F北海道 平成11 3:55:1032 「第11回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成11 12:13:3533 「第15回NAHAマラソン」F沖縄 平成11 4:15:43 ≪この後、疲労骨折によるブランクで約2年間不調≫ リスト2に続く
2012.10.25
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< 走りたいレースと走れるレース > 走りたくても走れないレースもある。レースに参加するためには実力がなければ行けないし、お金もかかる。場合によっては休暇を取る必要もあるし、家族の理解がないと行けないこともあるからだ。マラソンはタダではない。特にウルトラマラソンともなればエントリーするだけで1万5千円前後するし、その他に交通費と宿泊費も必要だ。 また、レースには制限時間がつき物。たいていの場合、コースの途中に関門が幾つかあるし、ゴールも何時間以内と決まっている。実力と言うのはそう言うことだ。そのレベルに達してないと、時間内完走は出来ない。だから出たくても出られないレースが結構多いのだが、それはそれで諦めるしかない。また例えエントリーしていても、その後の怪我や体調不良のために参加出来ないこともある。 ウルトラマラソンの場合はかなり前からエントリーする必要があるが、レースまでの間が長いため、その間の事情で出られなくなることも生じる。加齢が進めばその可能性が高くなるが、これも涙を飲むしかない。残念ながら歳を取れば取るほど、出られるレースは限られて来るのが現実だ。 ところがマラニックは違う。リュックを背負って自分のペースで走るのなら制限時間も関係ないし、途中で休むのも自由。人と争う必要もない。レースの楽しみは大勢の人と一緒に走ることで高揚感も高まるし、応援も受けられる。マラニックにはそれはないが、レースとは違った自由さと達成感が得られる。ゆっくり走って寄りたい所に寄れば、その土地の観察も歴史の勉強も出来る。 私が2年前から「峠越え」を始めたのも、そんな理由からだ。ただし自由なペースで走れるのは良いが、リスクも自分で背負う必要がある。食べ物や飲み物の確保、マラニック中の安全も全て自己責任だ。さて、老化で走れなくなったらどうするか。その時は歩こうと思う。歩くのは走るほど脚(足)に負担をかけないし、もっと景色を楽しむことが出来る。ウォーキングのツアーに参加するのも楽しいはず。< 良いお手本 > 所属する走友会には私よりも年長の方が何人か居られる。最高齢は86歳だが、まだ現役のランナー。それもがんを克服した凄い闘志の持ち主だ。距離は短いが、その歳でレースにも出る。その次の先輩は70代半ばまで登山マラソンにも出て、最高齢賞をもらっていた。これはトップとの差が30分以内にゴールしないと完走と認められない厳しいレース。何せトップは高校や大学の運動選手なのだ。 中には75歳を過ぎてなお、「全国1歳刻みランク」の上位入りを目指す先輩もいるし、70を過ぎてから「ヒマラヤマラソン」に挑戦した先輩もいる。全国各地で登山を続け、私が出られない100kmレースでも見事に完走する実力者だ。また女性でも70過ぎからランニングを始め、ハワイの「ホノルルマラソン」(フル)を見事に完走した熟女も居られる。我が走友会には見習うべき先輩が多いのだ。 ただし長い間走っていると、たまには悲しいことにも遭遇する。参加したレースで知り合った走友の訃報を聞く時だ。がんのために若くして亡くなった走友。レース中に交通事故で亡くなった走友。残念ながら病気や加齢のために走れなくなった走友など様々だ。いつまでも元気で走り続けていたいのは山々だが、人間には限界がある。でも出来る限り、その限界に挑戦したいと願っている。< 家族の評価 > 3人の子供はいずれも遠隔地で暮らしているが、私が走っていることは知っているはず。幼い頃から走っている姿を何度か見ているし、年賀状には前年のランニングのことも書いてあるからだ。子供達は父親のランニングをどう思っているのだろう。「良い趣味」と見ているか、それとも「年寄りの冷や水」と見ているか。 さて、一緒に暮らしている妻はどうだろう。「お母さん、とうとう地球2周したよ」。先日妻にそう言ったが、あまり反応は無かった。まだ若い頃から走り続けて来たが、きっと「自分勝手なことをしてる」としか思ってなかっただろう。妻には転勤族の悲哀や管理職の苦しさを話したことはない。現職時代は何度か死を覚悟したほど辛い目にも遭った。だがその苦しさに1人で耐えて来たのだ。 その苦しみを救ってくれたのがランニング。ランニングがあったからこそ、今日の私がある。生きていて良かった。長い間走って来て良かったと言うのが偽らざる実感だ。ここ数年前から妻も走るようになった。もちろんレースには出られないほどのゆっくりペースだが、ランニングの楽しさは感じているようだ。 「そのうち一緒に走りに行こうか」。先日私はそんな提案をした。行き先は5kmほどの距離にある温泉。そこまで走って温泉に浸かり、美味しいものを食べるのだ。12km先にも別の温泉があるが、果たしてそこまで彼女が走れるかどうか。彼女も後数か月で定年を迎える。定年後の楽しみが見つからないようだが、「近所の山に登るのも良いのじゃ?」と、これも私の提案。さて、私達にどんな老後が待っているか。<続く>
2012.10.24
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< 練習とレースの関係 > ランナーにとって、レースの計画を立てる時が最高の至福なのではないか。次はどのレースに出るか。交通と宿をどうするか。来年はどこへ行くか。そんなことを考えると、仕事の苦しさも忘れることが出来た。私は第2の人生になってから、ウルトラマラソンが中心になった。ウルトラマラソンとはフルマラソン以上の距離を走るもの。そのためには長距離の練習が必要になる。 20~30kmの距離を練習で走れないとフルマラソンは無理。そしてフルマラソンを楽に走れたら100kmは走れる。つまりフルマラソンに出るのは、私にとって100kmレースの練習台なのだ。同じように100kmレースを楽しく走れたら200kmも大丈夫。だから制限時間内に100kmを走れるように鍛えるのが普段の練習だった。ハーフマラソンにはほとんど出なくなった。練習で走れる距離のレースに出るなんて、お金の無駄と考えていたのだ。< 思い出のレース > 自分にとって思い出のレースは何だろう。「NAHAマラソン」(沖縄:フル)は一番多く完走したレース(10回)で、初マラソンも自己ベストもここ。12月なのに26度になることもある厳しいレースだが、沿道の応援が凄いのだ。景色が良いのが「阿蘇スーパーカルデラ」(熊本)。私はまだ脚の調子が悪くて参加したのは50kmの部だったが、大カルデラの中に聳える阿蘇五岳や、遠くに見える由布岳(大分)などの眺めは最高級。コースは厳しいが、大自然の凄さを感じられる素晴らしい景観だ。 厳しかったのが「和歌山城ー高野山往復」(和歌山)。これは標高千mまで登って往復する110kmのレースだが、途中で膝を傷め、後半はかなり歩いた。無理をしたせいか、膝の靭帯がギシギシ音を立てているのが分かった。暴風雨の中を走ったのが「八丈島一周」(東京都:62km)。風は風速30mほどで吹き飛ばされそうだし、橋の上では雨が下から吹き上げて来たほど。あれほどの荒天のレースは他にはない。 「佐渡島一周」(新潟:206km)の制限は48時間。2晩寝ないで走り、歩くと、幻覚を見たり幻聴が聞こえるほど疲労する。レース中に眠れる器用な人もいるが、私は神経が興奮してとても眠れなかった。3度目の参加では、極度の疲労で物が二重に見え、距離感が完全に狂った。ゴール寸前でコースアウトしたと思い込み、同じ所を3度も往復していたのだ。また真夜中の海岸は誰もおらず不気味。最初の参加の時は、「北朝鮮に拉致されるのでは?」とビビったほど。< ランニング障害 > 長い間走っているうちには怪我もする。また老化に伴う障害も出る。鳴門勤務(40歳~45歳)の時は軟式野球をしていたが、何度も肉離れを起こした。完全に治らないうちに運動すると、同じ個所を再び怪我するのだ。私は5年間で30回ほど肉離れを起こし、それがその後のランニングにも若干影響したように思う。 大阪勤務(52歳~53歳)の時に、膝を傷めた。医師の診断は「変形性膝関節症」とのことだったが、これは誤診で2か月ほどで治った。山形勤務(54歳~57歳)の時には、捻挫しているにも関わらずレースに出たため、左足首が脱臼。くるぶしの形が完全に崩れて全治3カ月の重傷を負った。また、左足に種子骨が出来、そこが疲労骨折をした。これがその後3年間ほどランニングに影響した。今考えると元々の偏平足が、走り過ぎでさらにアーチが下がったのだろう。老化の始まりでもあった。 63歳の頃から左足に腱鞘炎が出だした。これがアーチが落ちたことによる影響だ。スポーツ整形外科で、医療用のインソール(中敷き)を作ってもらい、シューズに装着。それ以降これがないと痛くて走れなくなった。65歳で右足にも腱鞘炎が発生。こちらも医療用インソールが必要になった。66歳で右足に筋膜炎が発生。医者からは走ることを禁止されたが、医療用インソールを作り直して対応している。 昨年の春に不整脈を発見。原因は「東日本大震災」時のストレスだと思う。循環器内科の治療でも治らず、専門病院で2度の手術を受けた。不整脈の再発と両足の状態を気にしながらランニングを再開しているが、今のところ重篤な障害は出ていない。これからも体調には十分注意しながら、少なくとも後10年喜寿を過ぎる頃まではランニング生活を楽しみたいと願っている。<続く> ≪注≫門さんのスライドショーで、「トランスヨーロッパ」のゴールシーンとゴール後の打ち上げの様子を見た。さすがに選手の皆さんは良い表情でとても嬉しそう。何よりも元気そうで良かった。4176kmを走破した勇者達に改めて拍手!!Sパパ宛てに完走祝いの葉書を出した。帰国するまでに届くはずだ。
2012.10.23
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< 私の練習コース > 私は転勤族だったため、長く赴任先で走って来た。それぞれの地に走友がいたし、それぞれの地に練習コースがあった。今振り返ってみると遠い思い出だが、とても懐かしい。苦労して走ったそれぞれの地の風景が目に浮かんで来る。 筑波研究学園都市に転勤したのは昭和49年。当時は「つくば市」はまだ存在せず、桜村と言った。私のランニング生活は、ここでスタートを切ったのだ。現在「つくばマラソン」のスタート地点が職場の駅伝大会のコース。練習で走ったのが「学園東大通り」で、私はたいてい筑波山方面に向かった。当時は建物が少なく、また水を飲める場所がないため、特に夏は苦しい思いをしたものだ。 鳴門勤務は昭和59年から。新しい職場の立ち上げに苦労した。難問の連続で眠れず、夜中に起きて走ることも再々だった。ところが私が走った海岸には照明がほとんど無い。海の向こうに浮かぶ淡路島の明りが遠くに光るだけ。鳴門は海の傍なので練習コースも磯の香りが強かった。前職を辞めた数年後、高島、大毛島、島田島をつなぐ「鳴門スカイライン」を走れたのがとても強く胸に残っている。 沖縄勤務は平成元年から。当時の沖縄は返還後まだ17年目で、未整備状態。凸凹の道路や下水の異臭。酔っ払いや泥棒の横行と物騒だった。だが亜熱帯に属する島の植生は本土とは違った風景で珍しい。厳しい暑さも内地人を苦しめた。牛舎の臭いがし、冬にはサトウキビの穂が風に揺れる凸凹の道が練習コース。職場のループ道路も良く走ったものだ。 松山勤務は平成4年から。松山城の堀端を抜け、有名な道後温泉や四国八十八か所の寺を過ぎ、湯山から権現温泉を一周するのが山のコースで、春はミカンの花の芳香がランナーを慰めた。大川(と言っても小さな川だが)に沿って堀江海岸に出、そこから松山観光港で折り返すのが海のコース。瀬戸内海の眺めは最高だが、冬は北風が厳しかった。帰路、高縄山が望めるのが楽しみだった。 大阪勤務は平成7年から。昼休みは職場の目の前にある「万博記念公園」の中を、許可を受けて走っていた。週末は淀川の支流から本流の堤防に出るコース。ここは変化に乏しく、飲み水の確保が難しい場所だった。冬の堤防は風が強くて大変。そこを20kmから30km走るのは容易ではなかった。たまには摂津峡と言う山のコースにも向かった。周囲には結構立派な古墳が多かった。 山形勤務は平成9年から。この時代は仙台の自宅からバス通勤。昼休みは馬見ヶ崎川の堤防まで走りに行った。ここは山形名物の「芋煮会」をする場所だが、冬は雪が深くて走れないため、雪かきをした道路や体育館の中を走った。1回だけ千歳山の山頂まで走ったことがある。標高500m以上のトンガリ山だ。職場のグランドではkm5分でのペース走が出来た。 石川県の職場は平成13年からの1年だけ。山の中で不便な職場だった。山形勤務時代に疲労骨折した影響が残り、前半は走ることが出来ず散歩しながら俳句を作っていた。後半は手取川の河口や金沢まで練習で走った。冬は一晩に60cm以上雪が積り、スコップ持参で通勤。雪かきした後の道路も滑るので怖い。熊も職場付近に2回出没。あまり思うように走れなかった時代だ。 水戸勤務は平成14年から。足にはまだ疲労骨折の影響が残っていた。当時は全国的な組織の改組が大きな課題で、日夜その対処に忙殺された。心身のバランスを崩し、定年の1年前に辞職することを決意。そんな中で、千波湖の周囲を走ることで辛うじて心を癒すことが出来た。後半は石岡市までの30km走も復活。懐かしい筑波山の姿が観られたのが嬉しい思い出だ。 仙台の自宅に戻ってからは第2の人生。パートの肉体労働を続けながらウルトラマラソンを目指して、幾つもの練習コースで走って来た。選ぶのはその時の体調次第。不整脈手術の前は、自宅から県境の峠を超えて隣県まで60km以上走ることもあった。仕事も辞めた今、体調と足の筋力が戻り次第、また「峠越え」を復活したいと願っている。<続く>≪注≫8月19日にデンマークのスカーイェンをスタートした「トランスヨーロッパフットレース」が64日目の昨日、スペインのラ・リネアに無事ゴール。10人の日本人選手全員が無事完走したみたいです。酷い風邪で弱っていたSパパ、終始最後尾を走りながら見事な文章をブログで披露していた旅がらすさんも無事ゴールに到着。4176kmの厳しい走り旅がようやく終わりました。皆さんおめでとうございます。そして、本当にお疲れ様でした!! 私は昨日、「トランスヨーロッパ」の最終日に合わせて長距離の練習に出かけました。ランパン、ランシャツ姿だと風が冷たく感じたほど。40km以上走るのは、昨年9月「秋田内陸」の45km地点でリタイヤして以来。最近の練習では28kmが最高だったので不安でしたが、トランスヨーロッパに出ている走友のことを思えば大したことはない。何せ彼らの1日分にもならないのですから。 自宅~米ヶ袋~川内~八幡~折立~愛子~錦ヶ丘~秋保~自宅の周回コースで、途中錦ヶ丘のコンビニでお握り2個を食べてエネルギー補充。6時間7分の旅でした。筋力はまだ戻っておらず、相変わらず脚がもつれます。休憩を入れれば時間はもっとかかっています。フルマラソンを走れるようになるためには、さらに月日を要しますね。それでもトンネルの向こうに少し明りが見え出した感じです。
2012.10.22
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< 初レース > 10km:「いずし登山マラソン」(愛媛)平成5年 20km:「四国カルストマラソン」(高知)平成6年 ハーフマラソン:「高槻シティ国際ハーフ」(大阪)平成7年 1:34:00(?) 30km:「筑波学園マラソン」(茨城)昭和56年 2:26:00(?) フルマラソン:「HANAマラソン」(沖縄)平成元年 5:22:29 50km:「えちごくびきの」(新潟)平成14年 6:11:30 100km:「四万十川100kmマラソン」(高知)平成6年 12:36:06 206km:「佐渡島一周ウルトラ遠足」(新潟)平成18 41:40:00 トライアスロン:「中島トライアスロン大会」(愛媛)平成6年 <オリンピックディスタンス>< 自己ベスト記録 > フルマラソン:「第10回NAHAマラソン」(沖縄)平成6年 3:36:03 50歳 50km:「第16回秋田内陸ウルトラ」(秋田)平成16年 4:58:46 60歳 100km:「第17回秋田内陸ウルトラ」(秋田)平成17年 12:02:08 61歳 206km:「第2回佐渡島一周ウルトラ遠足」(新潟)平成19年 40:23:00 63歳< ランニング中に出会ったもの > 北海道の阿寒湖付近と知床半島では、エゾシカに遭いました。特に阿寒湖付近では、エゾシカが集団で走っていて見事でした。(平成8年)愛媛県松山市での練習中、山中で迷子になった大型犬のシベリアンハスキーが一緒に着いて来ました。これには恐怖を感じ、途中で「まいて」逃げました。(平成5年)島根県の中の海では、凍った湖の上で眠っている白鳥を見ました。(平成8年)山形県の山寺へ抜ける二口峠では、ヤマネ(とても小さなネズミみたいなもの)が葉っぱの下に隠れるのを見ました。(平成22年) 茨城県水戸市の練習コースだった千波湖では、白鳥や黒鳥が岸辺で巣を作っているのが見られます。(平成14年)沖縄本島一周の時(平成20~23年)には、道端で死んでいるハブを2回見かけました。もしハブに噛まれたら、30分以内に血清を注射しないと死んでしまうのですが、私が走っていた場所には人家がなかったのです。 平成8年に行ったオーストラリアでは、首都のキャンベラを走っている時にオウムの大群を観ました。これはかなり大型の鳥で白い色。野兎の穴も発見しました。メルボルンではフライングフォックス(大コウモリ)の声を聞きました。姿は樹の上で見えませんが、糞の異臭が凄かったです。シドニーでは馬に乗ったお巡りさんが追いかけて来たのにビックリ。どうやら巡回中だったようです。ああ驚いた!!< 最高地点 > 私が走って登った最高地点は3003mです。これは立山の雄山山頂です。富山市の浜黒崎海岸から65km先にある雄山山頂まで走って登る「立山登山マラニック」と言うレースがあります。参加資格はフルマラソンを4時間以内で走れ、登山の経験を積んでいることです。海抜0mから3003mまで登るのですから高低差も3003mになります。 途中の八郎坂は雨の後で崩落することも多い難所です。そこを過ぎると湿原の中の木道を走り、次に観光バスが往来する立山アルペンルートを走り標高2450mの室堂へ。そこから山頂までは登山そのものです。私が雄山山頂へ立てたのはウォークの部も含めて2回。山頂からの眺め、宿舎となる雷鳥荘からの雄大な景色は忘れられない思い出ですね。<続く>≪注≫「トランスヨーロッパ」(4176km)でリタイヤ扱いだったSパパと旅がらすさんの2人でしたが、大会本部の公式HPによれば昨日の第63ステージでは復活、完走扱いとなっています。どうやら誤報だったみたいで良かったね。今日が最終日。きっと日本人選手の10人全員がゴールしてくれるでしょう。地中海の海の色は長い距離を走り続けて来た選手達に、どう映るのでしょうね。皆さんお疲れ様で~す。最後まで頑張ってくださいね~
2012.10.21
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< プロローグ > 地球2周走破達成の興奮がようやく治まった。既に一昨日から3周目に突入しているのだが、この3周目達成はかなり困難だろう。これからは老化との戦いの本番。筋力の衰え、気力の衰え、病気や怪我とも戦うことになると思うからだ。それもまた良し。これまでランニングは生活と共にあった。31年間の転勤暮らしの中で、どれだけ走ることによって慰められたか。 そのランニングを生涯続けるためには、健康が第一。これからも健康に注意し、出来るだけ前進したいと思っている。気がかりだった「トランスヨーロッパ」だが、昨日の第62ステージで、とうとうSパパと旅がらすさんが脱落した模様。Sパパは相当風邪が酷いようだ。旅がらすさんは足の痛みによる時間切れか。ともあれゴールまで後2日。ステージランナーでも良いから走り通して欲しいものだ。< 走り始めたきっかけ > 私が走り始めたのは筑波勤務時代の5年目。35歳の1月1日だった。前年の地区運動会では、子供達の前で無様な姿を曝した。自分では速いと思って出場した種目なのに、足がもつれて走れなかったのだ。それは骨折した影響で、まだ良く回復してなかったのが原因。「これは名誉挽回が必要」。そう思って元旦からランニングの練習を開始したのだ。 4月には人事異動があるが、職場にはランニングの好きな上司がいて走らされるのは確実。その「準備」のためにも鍛えておく必要があった。走り出したのは近所の道路。最初は3kmくらいでも脚がもつれた。それを5km、7kmと増やし、18kmくらいまで走れるようになった。そして職場の駅伝大会でも活躍するようになったのだ。 当時はタバコを吸っていた。それにその頃は「接待」もあり、週に2回は宴席に出たと思う。タバコを吸い、酒を飲んでも若さのためか走るのは結構速く、駅伝大会では1kmを3分34秒ほどで走れたと思う。ただし5kmが限界。走り終えると激しい息遣いで肺の中から「血の匂い」がしたものだ。尿から蛋白が出た後輩もいた。急に激しい運動をしたために、腎臓障害を起こしたようだ。< わがランニング史 > 35歳から走り始め、今年の正月でまる33年が過ぎた。今は34年目だ。あの後、茨城県の筑波から徳島県の鳴門へ転勤し、以後沖縄、愛媛県の松山、大阪、山形、石川県、茨城県の水戸と転勤を繰り返した。全部で31年間の転勤暮らしはとても長かったが、転勤先でスポーツを楽しみ、大半は走ることも出来た。各地のレースにも出たが、出張先にもランニングシューズを持参して走った。 観光地でも走った。だから地球2周走破は、そんな距離と34年分の積み重ねなのだ。寛平ちゃんはヨットと自分の脚で文字通り地球を一周したが、私のような市民ランナーはとてもそんなことは無理。走ったのはほとんどが国内の道路だし、外国は出張で行ったオーストラリアのキャンベラ、メルボルン、シドニーの路上だけ。それも今となっては良い思い出だ。< 記録 > 全都道府県を探訪し終えたのが平成8年。大阪勤務時代のことで、最後に残ったのが和歌山県だった。その記念に「和歌山城ー高野山往復ウルトラ」というレースに出た。距離は110km。文字通り和歌山城を出発して高野山の南門まで登り、そこから引き返すという厳しいコース。途中で膝を傷め、最後は寒さに震えながら夜道を歩いた。15時間もかかり、疲労困憊した思い出のレースだ。 地球一周走破を達成したのが走り始めて24年目の8月。水戸勤務の時で58歳だった。当時は地球1周を4万キロとばかり思っていた。単身赴任だったため、1人淋しく祝杯を上げたものだ。それが地球1周は4万8kmが正しいと知り、今回2周目達成で念のため「赤道の長さ」を調べたら4万75kmだった。多分同じ地球の周囲でも、自転してるせいで横の赤道の方が「縦」に測るよりも長いのだと思う。 全都道府県を走り終えたのが平成16年で61歳の秋。この時は前職を辞めて仙台の自宅に帰り、第2の職場で肉体労働をしていた。最後に残った未走県は奈良県。特に走りたいレースもなかったため、仙台から夜行バスで京都へ行き、そこから奈良へ移動して奈良市の周辺をグルリと走った。東大寺の西から奈良坂~柳生~光仁天皇陵~太安万侶の墓などを経由して、近鉄奈良駅前がゴール。先日気になって「ジョギングシュミレーター」で計測し直したら47kmだった。 こんな風に、私が全都道府県を走ったと言っても、全てレースに出たわけではない。観光で走ったのもあれば、出張で走ったのも含めている。それもまた素晴らしい思い出だ。だが滋賀県だけは納得が行かない。走った9kmは三重県の伊賀上野市がスタート、ゴールのマラソンで、たまたまコースの途中で滋賀県の山中に入るだけ。12月に滋賀に行く時に、延暦寺まで走って登ろうと思っている。< 出場したレース > 走り始めてからの10年間に出たレースはわずか3度。「筑波学園マラソン」の30kmのみ。これは「つくばマラソン」の前身で、今とはコースが丸きり違う。レース参加が少なかったのは勤務が多忙だったのと、赴任先にちょうど良いレースが無かったため。私が正式記録として残しているのは、フルマラソン以上のレースだけだが、「全都道府県走破」の資料にそれ以下の記録の断片が残っていた。 それらによれば、☆10kmレースが2回。☆20kmから23kmまでのレースが33回。☆30kmから36kmまでのレースが6回。☆フルマラソンと43kmまでのレースが50回。それ以上のウルトラレースが44回となっている。ウルトラは80km以下のレースが21回。100kmが19回。110kmが1回。200km以上が3回。参加レースの合計は135回。これだと年平均で4回以下。最初の10年でたった3回が影響しているが、これもまた我がランニング人生のうちだ。<続く>
2012.10.20
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< 走友たちの活躍 > 所属走友会のHPを見ると、頑張っている仲間の様子が良く分かる。新潟へ赴任中のSさんは、「新潟マラソン」で念願のサブスリーを達成したようだ。スピードランナーでありながら、「薬莱山マラニック」などにも挑戦している彼。単身赴任でも、頑張って走ってる様子が感じられて嬉しい。Sさんおめでとう!! 若手のホープで、今年の夏に結婚したばかりのHさんが、初めて参加した100kmレースの「越後くびきの」で、見事サブテンで完走したようだ。スピードランナーでありながら、長距離の練習もしている彼。ハネムーンは12月の「ホノルルマラソン」と言う徹底ぶり。Hさんおめでとう!!良く頑張ったね。 先日あった「松島ハーフマラソン」で、M仙人は前人未踏の36回連続出場と完走を果たしたようだ。70歳を過ぎてから「エベレストマラソン」に挑戦し、72歳の現在でも「秋田内陸」の100kmを悠々完走しているMさんは、鍛え方が私達とは全然違う。さすがは宮城UMCの会長。M仙人おめでとうございます!! いつも飄々としたO川さんが、最近の練習で山形県新庄市から鳴子、古川を経由して仙台の自宅まで走ったようだ。地図上で計算したら距離はざっと128kmほどある。以前には盛岡から仙台の自宅まで、約200kmを練習で走っている。それも単独で夜通しだから、その凄さが分かる。定年後も自宅から離れた土地で働いているO川さん。良く頑張ったね、おめでとうございます!! 山男S村さんとトレイルラン大好きのK副会長が南蔵王を駆け抜けたようだ。距離は34kmで高低差は1230m、かかった時間は8時間18分とのことだが、累積の高低差は多分その3倍にはなるはず。私が南蔵王を縦走した際は、6時間半ほどかかったが、距離は彼らが走った3分の1に過ぎない。「何か」を計画中みたいだが、全容が明らかになるのを楽しみにしておこう。お二人さん、お疲れ様~!! 新潟の銀のねこさんが「越後くびきの」を11時間ちょっとの好タイムで走ったことをブログで知ったが、その続編を読んでビックリ。何と彼女は100kmマラソンの帰りに仲間の待つ「24時間リレー駅伝」に合流し、キロ6分のペースで10kmほど走った由。少し前には「信越五岳」で、標高1500mから2000mの山道110kmを走破した彼女。まったく凄いお母さんランナーだ。 「トランスヨーロッパ」は昨日が第61ステージ。日本人ランナー10人は全員完走したみたい。このところ足の痛みが出て記録が落ちていたSパパが、昨日はとうとう最後尾でのゴールだった。残っている日本人ランナーでは最高齢の彼が、頑張っている様子が目に浮かぶ。門さんのツイッターによれば昨日のレース中に貝畑さんが転倒して、肋骨、膝、左手小指を負傷。テーピングしながら続行中とのこと。ゴールまで残り3日間。何とか頑張って全員ゴールすることを願っている。< 地球2周走破達成 > 記録達成まで残り12kmになっていた私だが、折角なので昨日のうちに挑戦した。疲労感があって本当は走りたくない気分だったのを何とか盛り上げるために着たのが、黄色い半袖Tシャツと黄色いランパン。これだけ目立てば、途中で走るのを止めるわけには行かない。冷たい風を受けながらの11kmランは結構気持ちが良かった。この日は3km歩いているため、合計で14km。いかにも私らしい達成ぶりだった。 夕食時には韓国の酒マッコリで地球2周走破(8万150km)達成を祝った。妻にも相伴させたが、私ほど感慨が湧かないのは仕方がない。走った本人しか苦労も喜びも分からないものだ。34年間の遥かな道のりが思い出される。特に2周目は58歳の時から。第2の人生に入って主にウルトラマラソンにシフトし、一気に距離が延びた。明日からは当分この話題を書く予定。ランニングに興味のない読者には気の毒だが、我慢して付き合って欲しいと願っている。ゴメンなさ~い!!<続く>
2012.10.19
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私がランニングの走行距離にウォーキングや自転車の距離を含め出したのは、5、6年前からだと思う。月刊雑誌「ランナーズ」では、10月が「走り込み月間」となっている。その中ではウォーキングの距離もランニングの走行距離に含めている。エネルギー換算が同じと言う理由だ。また自転車は、走行距離の40%分をランニングとして換算する。同じ有酸素運動だし、自分の体を使うことに変わりはないため、私はそれ以来この考えを採用している。 最近、私は一日置きに走っている。一度の走行距離が10kmを超えることが多くなり、疲れを感じるからだ。昨日はランのお休みの日。それでも距離を稼ぐにはハイキングが良いだろう。行き先は近所の太白山。標高は321mで、トレーニングにもなるはず。 ルンルン気分でリュックを背負う。買ったのは100円のスポーツドリンクのみ。あとは煎餅2枚。かりん糖3本。小さなクリームパンとアンパン1個ずつ。昼前に帰宅すれば、それほどエネルギーは必要としないはず。シューズはトレッキング用のを選び、インソールは医療用に取り換えた。これで万全のはずだったのだが、この時はそれが痛みの原因になることに気づいていない。 いつもの年より暖かい10月。歩き出すと直ぐに汗が噴き出す。まっすぐ市道を行けば4kmほどで麓に着くのだが、それでは楽過ぎる。そう考え直して、途中から「治山の森」に入った。ここは営林署の管轄だが、一般市民にも開放されている。結構勾配があるため、トレイルランにも好都合の場所だ。森の中は静かで涼しい。ここから太白山へは一度前に行っているので何とかなるだろう。 ところが9年前に1度しか行ってないせいか、なかなか太白山への分岐点が見つからない。看板にも載ってないのだ。何度か行きつ戻りつして、3度目にようやく見つかった。あれ~っ、こんなに遠かったかなあ?まあ人間の記憶力なんて、当てにならないものだ。山道はほとんど人が通らないのか、足元が良く見えない。 トレッキングシューズが岩で滑る。これじゃあまり役に立たないね。何年か前の「立山登山マラニック」の途中でこのシューズに履き換えたが、雨の八郎坂で何度もよろけた。あの時は疲労の極限だと思っていたのだが、きっとこのシューズのせいもあったのだろう。東北道の下を潜って「自然観察の森」に入り、センターで地図をもらった。 私はまだ2度目で道は不案内。幾つかある尾根道のうち「であいの道」から太白山に向かう。センターの職員からは眺めが良いと教えてもらったのに、見えるのは木ばかり。おまけに先ほどの下りで、足が痛くなって来た。どうやら堅くて窮屈なシューズに堅いインソールを入れたため、肉刺(まめ)が出来たようだ。う~む。 登山口への道が良く分からない。それに地図と看板の方位が違ってややこしい。迷いながら歩いていた時、森の中で何かが立ち止った。灰色と茶色の混じった動物がじっとこちらを見ている。小さな角が2本生えたカモシカの成獣だ。人を恐れないカモシカとは、前にも出会ったことがある。数年前の地震の翌日、住宅地の道路までひょっこり出て来たのだ。 ようやく登山口が見つかった。生出森八幡神社は東日本大震災で一部が倒壊し、登山道も一時閉鎖されていたようだ。鎖を伝って登る。急なのは分かっていたが、結構勾配がきつい。低い山でも、これは本格的な登山だ。頂上には貴船神社の小さな祠があり、その裏の開けた岩場に先客の中年女性が2人。話ぶりでは良くここへ登るようだ。登山道の幾つかは崩落のためまだ閉鎖中みたい。 木々の間から麓の集落が見える。隣の市の団地や東北道。先ほど通った山や住宅群も少しだけ見えた。爽やかな風を受けながらパンを食べ、スポーツドリンクを飲む。一休みして神社から真っすぐ下り、違った道を通って帰った。距離は10kmほどだが、迷ったせいで4時間近くかかり、肉刺が2つ出来ていた。これで今月の累計は201km。地球2周まで残り12kmだから、多分今日はその記念日になるはずだ。
2012.10.18
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プロ野球のCSファーストステージが終わった。セリーグは2位の中日が3位のヤクルトを下し、パリーグは3位のソフトバンクが2位の西武を破った。共に1勝1敗で迎えた最終戦で、助っ人の快打で勝利を物にした。わが東北楽天の選手達も複雑な思いがあったはず。何せ3位のソフトバンクとは、わずか1ゲーム差で涙を飲んだのだから。 公式戦が終了した後、各チームでは戦力外通告や、来シーズンに向けての新体制発表がされている。わが楽天でも元大リーガー岩本選手への戦力外通告があったし、田淵ヘッドコーチの退任を含む1軍2軍の監督コーチの大幅な入れ替えがあった。そしてこれからもドラフト会議など、来季へ向けての補強が検討されるだろう。 そんな折、Kスタでの秋季練習が昨日から開かれることをニュースで知った。開場は10時でバックネット裏をファンに開放し、入場料は無料。ほほう、これは面白い。どうせならそこまで走って行けばランニングの距離を稼げ、トレーニングにもなる。そうだ、明日はKスタまでマラニックだ。(マラニックとは、ピクニック気分でマラソンを楽しむという意味の合成語)さて、リュックには何を詰めるか。 当日は見事な晴天で雨の心配はない。むしろ暑いくらいだ。服装はランシャツにランパン。そして直射日光を避けるための帽子。リュックには若干の食べ物と牛乳と着替えを入れた。走っているうちは良いのだが、練習を観てるうちに冷えて寒くならないためだ。いつも自転車で行くコースを、リュックを背負って走って行くのはとても不思議な気分。 足の痛みが最大の関心事。最近は1日置きに、割と長距離を走っているが、その疲れが出ないかが心配。右足底部の痛みが筋膜炎でないことを祈る。左脚の脛と膝周辺の痛みも気になる。だが体が温まって来ると、それらの痛みが気にならなくなった。それにしても相変わらずスピードが出ない。悲しいけれど、これが今の姿。次第に額から汗が噴き出す。 1時間13分ほどでKスタ到着。距離は9kmくらいのもの。入場口ではペットボトルのチェックがあった。まさか練習でも飲み物のチェックを受けるとは。ランニングのために必要と言い、空のペットボトルを戻してもらった。早速バックネット裏へと急ぐ。既に100人ほどの熱心なファンが詰めかけていた。 練習開始は10時で、もう30分以上経っている。練習は外野でのジョグ。ウインドブレーカーを着てるため、誰が誰やら分からない。もっと緊張してるかと思ったら、割とのんびりした雰囲気だ。次に内野に戻ってのキャッチボール。この時はユニフォーム姿で背番号も見えた。三輪、田代、米村などのコーチ陣がマスコミへ対応してる姿が見える。 分かった選手はキャッチャーの嶋、伊志嶺、井野。内野手の小斉。外野手の鉄平、島内ら。投手はどうやら別メニューのようで誰もいない。私は専ら嶋と鉄平を観ていた。キャッチボールの距離が徐々に離れて遠投になる。コーチが鉄平にスローイングを注意している。内野手の送球みたいなのが不思議。リュックから取り出した牛乳を飲み、小さなアンパン、クリームパン、果物などを食べる。 練習がトスバッティングに変わる。1人が投げ、1人が打つ。これが絶妙なバットコントロールで、さすがはプロの技。ほとんど失敗がない。次に内外野に別れてのノック。それが終わると、内野手が外野に行き、外野手が内野でノックを受ける。ほほう、それで先ほど鉄平が内野手のスローイングをしていたのか。これは内外野どちらでも対応できる練習なのだろうか。 選手層の薄い楽天は、若手の選手を徹底的に鍛えるしかない。それで1軍のバッティングコーチだった大久保が、来季は2軍の監督に抜擢されたのだろう。1時間ほど練習を観て球場を出る。隣の陸上競技場ではどこかの学校の運動会でも開かれているようだ。「何年何組、どこへ集まれ」とか、スピーカーから聞こえて来る。 帰りは街中を走った。いつもは通らない裏道だ。新寺小路裏の知らないお寺が結構多い。山形の米沢、宮城県の岩出山と、藩祖伊達政宗と共に仙台へ移動して来た寺々は、戦になった時の要塞として一か所にまとめられたのだ。連坊小路、荒町を突っ切り、古い愛宕橋を渡って帰宅。距離は20kmほどになるだろうか。思った通り楽しいマラニックになって満足だった。 これで今月のラン&ウォークは189kmで、地球2周走破まで残り24km。ようやく後2、3日で達成出来るところまで来た。34年目にしての快挙。地球1周には25年もかかったが、2周目はわずか9年目。それだけ「老後に頑張った証拠」と言えよう。地球1周目は単身赴任先の水戸で1人淋しく祝ったが、ひょっとしたら今回は妻が祝ってくれるかもね。
2012.10.17
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昨日目が覚めたのは少し遅めだったが、まずブログに取りかかった。毎日5千文字ほどのブログを仕上げるには2時間はかかる。その「大物」を片づけないとどうも落ち着かないのだ。ようやく更新して、次は部屋の掃除。我が家は「オール電化」で電力料金の安い時間帯がある。極力その時間に電気を使うのが女房の方針。まあ、節約精神は見上げたものだ。 愛犬との散歩を終えて帰宅すると、妻はいない。今日は早めの仕事が入ったようだ。愛犬に餌と水をやり、玄関を掃く。それから鉢物に水やり。郵便受け周辺のコリウス、ベコニア、ライムペチュニアが立派に育っている。それらはHCで買った安ものだが、今ではなかなか見事に咲いている。2度目に蒔いた春菊と寄居カブの畝にも散水。そこはゴーヤを抜いた跡で、わずか20cmほどの幅。でも、それだけあれば、十分育つはず。 布団を干して家を出る。自転車で5kmほど先の種屋に向かう。今日は玉ネギの苗を買うのだ。今日から売り出すことは電話で確かめていたし、今朝も苗があることを念のために確認していた。100本が1束で、600円。つまり1本6円の苗と言うわけ。ここの種や苗はHCよりかなり高いけど、地元野菜が多く、しっかりしている。それでそんな遠くまでわざわざ買いに行くのだ。 畝は既に準備していた。夏は14本のトマトを植えていた跡だ。そこを耕して、発酵鶏糞と堆肥と石灰を撒いてから約1カ月。畝の表面を鋤で均し、小さなスコップで穴を開け、順次玉ネギの苗を植え付けて行く。間隔は10cm程度の密集ぶりだが、根が張らない玉ネギはそれで十分。植え終わった後は、丹念にじょうろで水やり。乾いた土が見る間に黒々と変色する。 これで空いている畝は全て秋冬野菜で埋まった。数えると白菜は25株。このうち8株は間引いた苗を移植したものだ。まだ夏の盛りだったため朝夕水を撒いたが、それでも日中は萎れてほとんど枯れかかり、もうダメだと諦めたことが何度もあった。それが今は幅40cmの葉を広げている。間引きしなかった株は幅60cmほどまでに成長。結球して白菜らしくなるのはこれからだ。 大根は全部で26本。昨年より白菜を増やした分、本数が減った。葉を広げ出した頃に虫に食われて無残な姿だった大根も、今は地中から白い茎が伸び出し、葉は上に真っすぐ伸びている。今年蒔いた種類は漬けものにも煮物にも合うようだ。気温が高く、追肥が効いたため、もうすぐ食べられるはず。 東の畑の春菊は、既に1度採り終えた。今は残った茎から新しい葉が出ている状態。これだと食べるまでに時間がかかるため、2番目の種をゴーヤの跡に播いたのだ。中国原産のチヂミ菜は暑さのせいか、全然葉が縮まない。これは大きなものから順次切ってお浸しにする。そのうちに小さな苗の成長が進むわけだ。芽を出したのを3個植えたジャガイモの茎は細く、葉はテントウ虫に食われている。果たして収穫はどうかな。 昨年は「当たり年」で120個ほど収穫出来た甘ガキは、8個ほどしか枝に残っていない。葉は色づき、少しずつ落ちて来ている。先日梢の上の1個を食べたが、熟して美味しかった。やはり日当たりが良い部分は甘さが違う。今年の夏に植えたイチジクはまだ40cmほどだが、2つ生った実は結構甘かった。来年以降どれだけ成長するかが楽しみだね。昨年は15年目にして初めて30個ほど実った柚子が、今年はわずか3個だけ。どうやらこれも「裏年」みたい。 夕方愛犬と2度目の散歩。今年に入ってからめっきり衰え出したマックス。あれだけ筋肉隆々だった太股が、今ではすっかり痩せ衰えている。目も耳も遠くなり、排泄もこれまでとは様子が違う。私と一緒に11kmを走り、グイグイ引っ張った頃の面影はない。散歩の途中で急に座り込む彼。どうやら腰が抜けたようだ。それでも何とかヨロヨロと立ち上がった。 もうそんなに長くはないだろう。寒い日は暖かい場所に移動し、暑い日は涼しい場所に移動しているが、緩い階段を登れず、私が抱いて上った時もある。表情がすっかり老犬になったマックスだが、まだ何とか飼い主が誰かは分かる。尻尾の振り方がかなり弱弱しくなった。最後の最後まで面倒を見るのが私の役目。畑や庭と同様、出来るだけたっぷりの愛情を注ぎたいと思っている。お父さんと一緒に頑張ろうね、マックス。
2012.10.16
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一昨日の夜「日本アルプス大縦断」という番組を観た。8月に行われたTJAR(トランスジャパン・アルプスレース)の総集編だった。富山県の早月川河口から静岡県の大浜海岸まで走る415kmのレースだが、普通の道路ではなく日本アルプスを縦断すると言う物凄いコース。これを1週間で走破する。 参加したのは厳しい審査を受けて選ばれた28人。スタート後に先ず向かうのが剣岳(2998m)から槍ヶ岳(3180m)に至る北アルプス。剣岳はたまに登山家でも滑落死するほど難しい山。それを出来る限りの軽装で登って行く。寝るのは自分で持つテントだけ。山小屋には泊れないのがルールだ。 天候が急変し、北アルプスで早くも4人の選手が脱落する。だがトップの望月選手(34歳、静岡県、消防士)は24時間で、既に槍ヶ岳付近まで到達。ほとんど眠っていないのだ。私は山に疎いので知らないが、剣岳から槍ヶ岳まで行くにも、2500mから3000mクラスの山を10座は登るだろう。彼が先を急ぐのは5日以内に走破して新記録を作るためとか。 2位グループは3人。このうち阪田選手は32歳の無職で三重県出身。3人一緒だと、コースを間違う心配は少ない。寝ないで先を急ぐ望月選手に対し、阪田選手達は要所で睡眠を取り、最後に逆転をねらう作戦だ。6位になった北野選手(45歳、長野県、地方公務員)は甲状腺がんで入院していた人。それを不屈の精神で跳ねのけ、困難なレースへ挑戦したのだ。 中央アルプスは駒ケ岳(2956m)から空木岳(2864m)までの縦走。ここは長野マラソンのコースである千曲川の堤防上からも良く見える。空木岳から駒ケ根に下り、仙丈ケ岳(3033m)から茶臼岳(2600m)までの南アルプスを経て駿河湾に至る。望月選手の新記録は達成出来なかったものの最小限の睡眠時間で、最後までトップは譲らなかった。 阪田選手は健闘して2位となり、がんを克服した北野選手は2人の小さなお子さんと一緒に6位でゴールした。28人中ゴールまで来れた選手は18人。それでも凄いと思う。岩崎選手(45歳 京都府 会社員)は最後のチェックポイントを通過したものの途中で時間切れ。それでもゴールへ向かう。登山の経験やトレイルランの経験が求められる過酷なレースの実態を知って驚いた。 「トランスヨーロッパ」(4176km)は昨日が第57ステージ。目下走ってるコースはスペインアンダルシア地方の山中で、アップダウンが厳しいようだ。この日まで残った日本人選手は10名。Sパパは2週間前から膝痛で苦しんでいるようだが、時速7kmで走れていると雲峰さん宛ての葉書に書いてあった。だが、公式HPによればタイムが徐々に落ちているようで心配。 毎日最後尾でゴールする旅がらすさんのブログによれば、コースの周囲はオリーブ畑が続いている由。ゴールまで残り7日。今日からはかなり距離が短くなる日が多いとのこと。脱落した8人の日本人選手も元気で、ステージランナー(正式ではなくその日ごとの)として全員走っている由。スペイン最南端、地中海のゴールまでもう少し。最後まで頑張って欲しいものだ。 私は昨日23kmを走った。山の上では足がヘロヘロ状態。先日の18km走では比較的楽に走れたと感じたのだが、半年間満足に走れなかったことで失った筋力を取り戻すのは容易ではない。この日も吹きつける秋風が気持ち良かった。3時間ちょっとかかって帰宅すると、体重が2kgほど減っている。それだけエネルギーを使い、それだけ汗をかいているのだ。 手術した心臓の調子は悪くない。スピードが出ないため、さほど負担をかけていないはず。それよりも心配なのが足。整形外科のドクターにはランニングを止めて、自転車に変えるよう勧告されている。長年のランニングで偏平足がさらに変形し、筋膜炎や腱鞘炎を引き起こすのだ。それを防ぐために、ランニングシューズに医療用インソールを装着し、痛みが出ないか注意している。 今は筋力回復を目指すと同時に、老化と戦っている感じが強い。1年以上レースから遠ざかり、走友会の仲間や、ウルトラマラソン仲間の活躍ぶりをネットで確認する現状だが、焦りはない。友は友。自分は自分。この状況を克服するのが自分に課せられた課題で、これをクリヤーしない限り前進はない。相変わらずのノロノロランでも、走れるだけで嬉しい。今日も朝焼けがきれい。健康に感謝だ。
2012.10.15
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「友達と絵を観に行って来るね」。そう言って妻は出かけて行った。宮城県美術館で特別展「東山魁夷展」が開催されているようだ。「平山郁夫なら俺も行きたいけどなあ」。そう思ったものの、さて自分は何をするか。そうだ先日頼んでおいた本を受け取るついでに、近くの博物館に寄ろう。本は村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』。これはそのうちにじっくり読むつもり。 「地底の森ミュージアム」は旧石器時代の森林跡をそのまま保存した、世界でも珍しい博物館。今日は企画展の『それでも生きる!考古学からみる災害のあと』を観るのが目的だ。企画展が開かれているのは小さな部屋なので、展示物は80点以下だった。内容は平安時代の「貞観地震」(869年)の災害関係、十和田湖の噴火物と姶良火山(鹿児島)の噴火物の飛来など。 貞観地震の津波では、約千人が溺死したと記録にある由。地震で壊れた当時の政庁多賀城や、陸奥国分寺の瓦を焼くために百済の技術者を派遣し、「陸奥国地震使」に紀春枝を任命したことが記録に残されている。津波で打ち寄せられた当時の海砂は、小粒でサラサラしていた。『新平家物語』を読むと、時々「ない」という言葉が出て来る。これがその頃の地震の呼び名。元々は土地を意味するようだ。 さて、東日本大震災復興予算の出鱈目ぶりが批判を浴びている。本来の復興事業とは全然異なる事業に予算を廻すやり方は、官僚のずるさで、いつものこと。実際の被災地では、復興予算の少なさ、手続きの面倒さに手を焼いているのが現状だ。復興が遅れている原因は予算の問題だけではない。資材の高騰、工事業者の不足、津波で流され境界が不明なことなどから、住民が住める場所がなかなか決まらない。 被災地の瓦礫受け入れを巡って、北九州市では市民が訴訟を起こした。放射能汚染物質の最終処分場建設では、栃木や茨城県内で反対運動が起きている。宮城県内では目下幾つかの裁判が進行中。それは震災時にもっと適切な避難行動を取っていれば、死なずに済んだと訴える幼稚園児、自動車学校の生徒、銀行職員の遺族からのものだ。 仮設住宅ではDV(家庭内暴力)の悲惨な事例も生じている。長引く避難生活に、イライラが募っているのだろう。生活資金が乏しくなり、将来の生活が見えないのだから気持ちが荒むのは当然。一頃は余りにも患者が増え過ぎてノイローゼになった精神科医が多かったと聞く。そんな中でも復興の兆しが少し見え出した。宮城県亘理町のイチゴ農家が、震災後初めて出荷出来そうとの話。 宮城県内でいち早く被災住民の新居住区を決定したのが岩沼市。安全を第一に考えつつ、産業とのバランスを取るのは大変な作業だったと思う。仙台市は海岸部を通る県道を6m「かさ上げ」することを決めた。これは「仙台東部道路」が堤防代わりになって津波を食い止めたのがヒントで、今後完工までには10年を要する工事とか。 このプランを震災の数カ月後にブログで紹介したことがあった。だが「最大40mの津波には耐えられない」とのコメント。学会から毎年のように賞をもらう理系の研究者のようだ。それはリアス式海岸の場合で、平野部の海岸はそんな高さにはならない。信じられない話だが、地形と津波の高さの関係についての基礎知識がないのだろう。 また、生の「ホヤ」をどうしても食べたいとブログに書いた人がいた。津波の被害が大きかった三陸海岸では、ワカメやカキやホヤの養殖いかだはほとんど海に流された。2万人近い死者を出し、まだ2千人ほどの行方不明者がいる未曽有の大災害。行方不明者の大部分は海の底に沈んだままのはず。そんなことに思いが至らない人も世の中にはいるのだ。 我が家は壁にヒビが入ったくらい。そして電気の復旧まで4日間、水道の復旧まで1週間、ガスの復旧まで35日間で済んだ。津波で亡くなった親戚は2人。だが福島原発に近い市町村では、帰るべき故郷を失った人も多いのだ。あれから1年7カ月。宮城県産のカキがようやく出荷出来る状態になった由。それらはかつて救援した広島県やフランスから贈られた種ガキが成長したものだ。これからも明るいニュースがたくさん届くことを祈りたい。
2012.10.14
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「ずいぶん日焼けしましたね」。循環器内科M医院の診察室に入った途端、ドクターがそう言った。「走ってるんです」と私。「どれくらい?」。「30km近くまで走れるようになりました。今朝も11km走ったんです」。「へえ~っ、そんなに?で、走っていて体調はどうです?」。「全く心配ないですよ」。「O先生から6カ月検診で異常がなかったとの手紙が来ています」。 O先生は専門病院の循環器内科部長で、不整脈の手術を執刀してくれたドクター。たまたま前回は不在のため、若い医師がホルター心電図などの検査結果を説明してくれた。それによれば全く心配なく、次回の検査は5カ月後で良いことになったのだ。「30kmも走れるようじゃ病人じゃないですね。でも今飲んでる薬は副作用が少ないので、まだ続けましょう」。 次に胸と背中をはだけて聴診。「脈も落ち着いていますね」。さらに血圧を測定して、「走ってるせいか、血圧が良い状態ですね」。それもそのはず上が110台で、下が60台。今朝走った影響がまだ残っているのだ。いつもより上下共20ほど数値が低い。走ることがストレスを解消し、血管を拡げるために血流がスムースなのだろう。「症状が安定してるので薬は2カ月分出しておきましょう」。 最後にMドクターが言った。「やはり手術を薦めた甲斐がありました。良かったですね」。最初の手術後も不整脈が出て2度目の手術を受け、その後も種類の違う不整脈が出た。M先生の病院で診察を受けてから1年半。薬の副作用や手術後の後遺症があって苦しんだ時期も長かったが、ようやく症状が安定して来た。こうしてランニングを再開出来るようになったのもM先生とO先生のお陰だ。 「ありがとうございます」。私は深々と頭を下げて診察室を後にした。支払いを済ませ、隣の薬局に向かう。処方箋を出すと、暫くして薬剤師が私の名前を呼んだ。「症状が安定して来たようですね」。年長の薬剤師が笑顔で言う。2カ月分の処方で分かるのだろう。「そうなんです。手術を2回受けたんですが、今では30km近く走れるようになりました。間もなく地球2周になります」。 他の薬剤師達も驚いたように私の方を見た。私に処方された薬の種類がこの1年半でずいぶん変わったことは彼女達も覚えているはず。「へえ~っ、まさかこのお爺さんが、地球を2周するランナーだったとはねえ」。彼女達の眼がそう言っている。「8万kmですか」。「8万150kmです。こんな爺さんですけどね」。料金を支払いながら私は答えた。 往路はバスで行った道を、帰りは歩いて下る。体調が悪かった時期、バスが通過した時は途方に暮れたものだ。今は何の心配もなく3kmの道を歩いて帰れる。きっとM先生は生涯のホームドクターになるはず。この1年半の間にそんな信頼関係を築けたと思う。帰宅後、昼食を自分で作り、午後は読書と昼寝。朝のランニング、愛犬との散歩、そして病院から歩いての帰宅。その疲れが眠気を誘ったのだろう。 目が覚めた時は3時を過ぎていた。慌てて外出の用意。今度は歯科での治療。幸いにして予約時間には、まだ若干の余裕があった。近所の歯科はとてもアットホームで、先生やスタッフの人柄が良い病院。今日は深い歯周ポケットの中の歯根に付着した歯石を取る処置の2回目。にこやかにSドクターが挨拶し、歯茎に麻酔の注射をした。いつもながらあまり気持ちの良いものではない。 次に歯科衛生士のSさんが歯石を処置。彼女は最近我が家の隣に家を新築された方。最後に先生がチェックし、取り残した歯石を丁寧に除去。インプラントの個所には手を着けられないが、後1回で治療は終わる由。感じの良い受付のお嬢さんに料金700円を支払い、次回の予約をする。ここでも生涯のホームドクターになる良い先生と巡り会えて、とてもラッキーだった。 インプラント治療は20年以上も前に沖縄で、12年前には山形で受けた。いずれも当時の赴任先だ。特に山形で受けたのは不要の「親知らず歯」を利用した難しい手術。もしこれ以上悪化したら山形まで治療に通うことも考えておこう。これからの老後は、健康維持に相当のエネルギーを要するはず。自分でも日頃から良く注意しようと思う。さて、来年の「医療控除」申請が過去最高額になるのは確実。これは準備も大変だね。
2012.10.13
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朝の連続ドラマ『純と愛』が相変わらずハチャメチャだ。あんな突飛な行動をするホテル従業員がいたら直ちにクビになるだろう。だが話は面白く、どう展開するかとても楽しみだ。大河ドラマ『平清盛』がますます分からなくなって来た。あれでは清盛の真実の姿や時代の背景が理解出来ないと思う。脚本家の勝手な想像で描いたドラマは歴史観を歪め、歴史の面白さを奪うだけとしか思えないのだが。 吉川英治の大作『新平家物語』は、間もなく第14巻を読み終える。こちらは大河ドラマと違って、歴史を丁寧に辿って行く。義経は一の谷、屋島、壇ノ浦で平家を次々に破り、ついに滅亡させる。まさに戦の天才だ。だが兄頼朝から遣わされた軍監梶原景時の讒言によって冷遇され、兄と会うことすら許されない。強固な武家社会を築こうとする頼朝にとって、義経主従は邪魔な存在だったのだろう。 読み始めてから3か月が過ぎた。話がゆっくり進むため、とても理解し易い。文章も構成も素晴らしく、ストーリーの展開が巧みなため、つい釣り込まれてしまう。天皇家、貴族、武士、庶民の暮らしぶりが良く描けている。当時の宗教や人々の考え方、食べ物や服装、産業、交通事情、地勢などが良く分かるし、人間心理が手に取るようだ。 だから清盛を描けば清盛を応援したくなり、木曽義仲が登場すれば義仲の生き方を想い、義経の奮戦ぶりに感動し、そして頼朝の冷酷さに慨嘆する。「吉川史観」と言うか、彼の歴史観の公平さも感じる。よほど多くの史料に目を通したのだろう。過去の評価に加えて、彼独自の解釈も随所に散りばめられ、より生き生きとした人間と時代が描かれる。 きっと吉川は、現実の人生でも相当苦労したのだと思う。そうでなければ、あれだけ人間を深く捉えることは不可能。人間の業の深さと弱さを知るからこそ、暖かい目で人間を観られるのだろう。大河ドラマとは比べようもない素晴らしい作品だ。残り2巻とちょっと。心行くまで吉川文学の世界を楽しもうと思う。 昨日は映画を観るついでに古本屋に寄った。買ったのは『風の歌を聴け』、『村上朝日堂の逆襲』、「村上ラヂオ』、『カンガルー日和』、『1973年のピンボール』の5冊。『走ることについて語るときに僕が語ること』は紀伊国屋で取り寄せてもらうことにした。全て村上春樹の著書だ。残念ながら今回はダメだったが、来年こそノーベル文学賞を取ってくれるはず。 さて、昨日観た映画はシネマ歌舞伎。劇場で演じられた歌舞伎を撮影し、映画館で見せるという趣向。第18作目は『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)。吉原の花魁(おいらん)の美貌に魅せられた客が、金をだまし取られた上に恥をかかされ、ついに女を殺すというストーリー。客が中村勘三郎で、花魁が坂東玉三郎。歌舞伎を観たのは初めてだが、日本の伝統芸術を知るのも悪くはないと感じた次第。
2012.10.12
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布団を干して走りに行った。30kmでもなく、28kmでも23kmでもなく18kmのコース。もしそれで余力があったら、近所の坂道を走れば良い。山を登る。かなり涼しくなったせいか、さほど汗はかかない。名取川の堤防を東に向かう。涼しい風がとても気持ち良い。生きていて良かった、走れて良かったとしみじみ感じる瞬間だ。 脚の筋力が少し戻って来たような気がする。それでスピードを上げてみた。ほほう、良いねえこの感触。他人から見ればただのゆっくりランナーだが、当人には十分スピードを出した積り。呼吸も楽だし、鼓動も苦しくはない。ようやくここまで来れてちょっぴり安堵する。30kmを楽に走れるようになるには、まだ時間を必要とするようだ。だが去年の今頃に比べれば雲泥の差。 去年の9月の「秋田内陸」では、わずか8km地点で異常を感じた。レース中の不整脈発生。血液の一部が心房から心室に逆流するため、エンジンがストンと落ちた感じ。そこからはスピードを上げたくても上がらないのろのろラン。10km過ぎでは後ろから大会本部の車が着いて来た。何と生まれて初めて最後尾ランナーとなったのだ。 大覚野峠は何とか越えたものの、50kmの中間地点には辿り着けなかった。45km地点でタイムアウトになり、そのまま車に乗せられた。100kmレースで半分も走れなかったのは初めてのこと。ゴールに送られ、「ああ、これが最後の100kmになるなあ」と覚悟を決めた。翌月の「伊南川ウルトラ遠足」も結局は参加を見合わせた。それほど体調は良くなかった。 昨年の大震災後に発見された不整脈。それ以降循環器内科での治療を受けたが、服用した薬は全て合わなかった。激しい動悸、めまい、そして吐き気。それらは全て薬の副作用のせいだ。それで薬を飲むのは諦め、エントリーしたレースは全て取り止めた。どん底の気分を察知したドクターが専門病院での手術を勧めてくれた。名医でこれまで行った手術数も多いらしい。 だが成功したかに見えた1回目の手術後、また不整脈が起きた。私の場合は継続性のもので、長い間不整脈が続いていた由。そのために1回の手術では不整脈の発症源を、焼き切ることが出来なかったそうだ。不安に怯えながら受けた2回目の手術。術後の苦しみに耐えながら、パートの重労働をこなしていたのだが、ある朝体調が悪くて出勤出来なくなった。疲労の限界。それで9年間働いたビル管理会社を辞めた。 2回目の手術後にも不整脈が出た。妻には言わなかったが、絶望感が私を襲った。取り敢えず近所の循環器内科での治療を受け、専門病院にも連絡してもらった。治療は薬の服用。2度の手術の後遺症と薬の副作用で気持ちが悪い。この夏の猛暑との戦いも過酷だった。それらに耐えながら読書する日々が続いた。ゆっくりと走り始めたのは8月から。ウルトラマラソン仲間の練習会「薬莱山とお足」に出るためだった。 もちろん55kmを走るのは無理のため、自転車での参加。110kmをマウンテンバイクで往復出来た時、ランニング復活への微かな自信が芽生えた。あれから2カ月。ようやく気持ち良く走れるようになった。1日3回の薬の服用でも異常はなく、術後の6カ月検診も無事済み、晴れてランニングに許可が下りた。 太白大橋を渡る。名取川を覗いても、まだ鮭の遡上は見られない。今年は海水温が異常に高いため、鮭がオホーツク海から下って来るのが遅れそうだ。2時間16分余りで帰宅。ランニング日誌を見たら、前回より30分以上の短縮。やはり少しずつ練習の「成果」は現れている。暗澹たる気持ちの1年前と比べたら月とスッポン、天国と地獄ほどの差。やはり健康はありがたい。 夜、ネットで注文したジャージの上下が届く。色は私の好きなダークグリーンが基調。ところが上着にポケットが無い。あれまあ、何ということかと驚いたのだが、注文したのは確かサッカー用。へえ?サッカー用のはポケットが無いのか、と初めて知る。この日は筑波時代の悪友から「招待状」も届いていた。3年ぶりの「麻雀大会」を滋賀県で行う由。昔の仲間に会えるのも嬉しいが、この際参加するついでに、ある計画を実行しようと思いついた私だった。
2012.10.11
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仙台も少しずつ秋が深まって来た。このところの朝の気温は12度で寒いくらい。日中は21度ほどまで上がって暖かく、晴れた日には布団を干せるのが嬉しい。だが午後になって日が翳ると、寒く感じることもある。裏庭のサンザシの赤い実が鮮やか。コムラサキシキブの紫が、ようやくきれいに色づき出した。猛暑のために開花が遅れたヒガンバナが、今燃えるような花弁を天に向けている。 さて、このたびノーベル医学・生理学賞を受賞することになった京都大学の山中教授だが、何と趣味はランニングみたい。先日受賞が決まった日も25km走ったことを、京都のブログ友ケイサンが教えてくれた。iPS細胞の発見から6年でのノーベル賞受賞は異例の短さなのだとか。京都大学も研究所の整備に力を注いでいるが、それでも研究費が不足して困っているようだ。 そこで山中教授が考えついたのが、彼自身がフルマラソンを完走することを条件に、一般の方からも寄付金を募る方法。その考えに共鳴した方から多くの寄付が寄せられているようだが、この度の朗報を知ってかなりの方が募金に協力してくれた由。世界的に有益な研究とランニングが深く関係していることが、ランナーの一人として何だか嬉しい。 ノーベル文学賞候補である村上春樹氏が熱心なランナーであることは良く知られた事実。フルマラソンを何度も完走し、『走ることについて語るときに僕の語ること』の著書もある。ブログの畏友ドングリ大使が、同氏が走っている写真を掲載してくれた。なるほど体全体がほっそりした見事なランナー体型だ。もし同氏もダブル受賞となれば、ランナーとしてはまさに狂喜すべき事態なのだが。 走友のその後の情報が分かった。1500mから2000mクラスの山を7つほど踏破する「信越五岳」(110km)に参加した新潟の銀のねこさんは、結局女子の12位で見事完走したみたい。彼女にとっては不満な結果だったようで、来年は同時期の「佐渡島一周」(206km)を止め、「信越五岳」に再挑戦したいとブログにあった。第1回の「佐渡」で一緒だった彼女だが、ずいぶん強くなったものだ。 ギリシャの「スパルタスロン」(246km)を110km付近でリタイヤした香川のフランク翔太さんだが、リタイヤの理由は高温だけでなく食べ物が合わなかったことや、ペース配分を間違ったことも影響したとブログに書かれていた。何とキロ5分ペースで40km付近まで行ったとの話に驚く。もっと驚くのは、その1週間後に国内でも有数の山岳レース「ハセツネカップ」を走破したこと。 それも「スパルタスロン」の疲労が残っていて思うように走れず、飛行機の時間に間に合わないため途中でリタイヤしようとしたが、山から下りるリフトの運転時間の関係で走るしかないことが分かり、そこからゴールまでスパートして完走したとの話にはビックリ仰天。あそこは時には死者が出る危険なコース。そこを一晩中走るだけでも大変だと思うのに、とても人間業とは思えない結果だった。 「スパルタスロン」を完走した2人の女子選手のうち、松田さんがその足で「トランスヨーロッパ」(4176km)を走る仲間の許を訪れたことは数日前に知った。車で伴走中の門さんのツイッターで観られるスペインの風景がとても秀逸。大会本部のHPによれば、一旦完走者リストから消えていたNAMIさんと旅がらすさんの名前が、数日前から復活しているのが不思議。昨日が第52ステージだから残るのは後12日間。10人の日本人選手には、何とか最後まで頑張って欲しい。 さて、来年のレースについて計画中の私だが、10月の「弘前白神アップル」と12月の「NAHA」を止めて、その分「久米島マラソン」に変更することを考えている。沖縄の離島である久米島は、わが東北楽天のキャンプ地。これまで何年かお世話いただいている島を、いつかは訪れたいと思っていたのだが、どうせなら「久米島マラソン」を走ったらどうかと思い直したのだ。 10月末でも気温は30度近く。その暑さの中を、楽天のユニフォームと野球帽で42kmを走り、島の人達に感謝するのだ。レースの制限は7時間。これならいかに鈍足の私でも、何とかゴール出来るのではないか。まだ筋力が戻らずにヨレヨレのランしか出来ない私だが、来年の10月までなら間に合いそう。そう考えたら、何だかとても楽しくなって来た。
2012.10.10
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10月8日(月)何の祝日か忘れていたけど、この日は体育の日だったんだねえ。仙台は朝から気持ちの良い青空。近所の公園まで走りに行くことにしたよ。暑くなりそうなのでランパン、ランシャツ姿。それに日差しを避けるための帽子。手には100円で買ったスポーツドリンク。汗かきの俺はこれを飲みながら走るんだ。 この公園へ来たのは久しぶり。調べてみたら4月末の大型連休以来だったよ。公園の真ん中は芝生なんだけど、そこだけでは距離が足らないので草むらに入る。草が20cm以上伸びていて、左足を軽く捻挫している身としては要注意。歳を取ると、ちょっとした凹凸が怪我の元になるもんね。雑草の野原から芝生。芝生から舗装道路。そしてまた野原へ戻って一周すると800mくらいになるんだよ。 徐々に野原でのランニングにも慣れると、周囲を観察する余裕が出来る。薄い紺色の可憐な野菊。干しブドウみたいなワレモコウ。そして昔は女の子がままごとに使った赤マンマ。草むらからは虫の音も聞こえるよ。まさに秋だね。右回りを5回。そして左回りを5回数えて家に戻る。途中にある公園も少し秋の色に染まっていた。 12kmを走り終え「これで大記録達成」と喜んだけど、念のためにネットで調べた。何をって「赤道の長さ」。つまり地球を一周したら何kmになるかだよ。私はてっきり4万8kmだとばかり思っていた。だから2周で8万16km。それを走り始めて34年目のこの日に、達成したと喜んでいたのさ。だが結果は4万75kmが正解。2周だと8万150kmだからその差は134km。まあ今月中には間違いなく達成するけど、ちょっとガッカリだったね。う~む。 楽天はこの日が最終戦。前夜は新人釜田が初めて抑えを試みたけど、一球もストライクが入らず、結局は押し出しでのサヨナラ負けだった。だが、さすがにエースの田中はものが違うね。味方の打棒も奮って6対0の完勝だよ。これで今シーズンは借金0の4位。3位ソフトバンクとの差は1ゲームだから、もうちょっとでCS進出だったのになあ。う~ん、グヤジイ!!でもこれで田中は4年連続の2ケタ勝利で、防御率も2位に上がったみたい。 昼は畑から春菊を採ってラーメンに入れたし、夕方はお浸し用にチヂミ菜を採った。ゴーヤの佃煮も第2弾を食べ尽くし、残るはいよいよ最後に作った分だけ。来年は獲れ過ぎても大丈夫。せっせと佃煮にすれば良いんだから。ほろ酔い気分で自室に戻ったら、テレビで京都大学の山中教授が、ノーベル医学・生理学賞を授与されたとのビッグニュース。 ハハハ。これは嬉しい。例のIPS細胞の研究で、ノーベル賞の候補になって3年目くらい。ようやく決まってホッとした。尖閣問題などの暗く重苦しいニュースが続いていただけに、これはまさに日本にとって、いや世界にとっても朗報だね。あの凶暴で傲慢な中国もさすがにこれだけは真似が出来ないもんね。いや~。良かった良かった。 嬉しさのあまり、ついバーゲンのジャージ上下をネットで注文しちゃったけど、ちゃんと調べなくて大丈夫だったかなあ?まあこんなことも、たまには良いけどね。大記録達成と勘違いし、一旦は「ぬか喜び」した体育の日だったけど、最後の最後に逆転満塁ホームランが飛び出した感じかな。今日は国内がそのニュースで持ち切りになるね、きっと。山中教授、本当におめでとうございま~す!!
2012.10.09
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「世界一危険な輸送機」と評判のオスプレイが沖縄に配備された。これまでも世界各地で墜落した「実績」があるらしい。でもアメリカの発表では、事故の原因は「人的な要因」とのこと。つまり操縦ミスと言う訳か。ヘリコプターと飛行機を兼ね備えた機能を持つだけに、通常の輸送機とは全然飛ぶ仕組みが違うのだろう。それが尖閣諸島の地理的条件にぴったりのため配属された理由と私は理解しているのだが。 オスプレイが配属されたのが「世界一危険な基地」普天間飛行場なので、沖縄県民は激怒しているそうだ。仲井真知事は例の表情で怒りを露わにしている。しかしそれほどまでに普天間を危険視するなら、何故早く名護市辺野古のキャンプシュワブへの移転を認めないのだろう。あそこなら周囲に人家はほとんどないのだから。自民党時代に移転が決まって既に13年は経つ。許可しない沖縄にも責任があると私は思う。 沖縄県民の怒りの原因は何か。琉球王朝時代の薩摩藩の支配。明治期の「琉球処分」による日本への帰属。第二次世界大戦時の日本軍による卑劣な行動。米軍統治時代の屈辱的な生活。日本復帰後の経済格差。そんな過去の歴史が「沖縄は常に支配者によって虐げられて来た」との「被害者意識」につながっているのだろう。それが幼少時からの「平和教育」の刷り込みや、基地反対を煽る地元マスコミによって増幅される。それに異を唱えるのはなかなか困難。狭い島の中では、地縁、血縁で自由な発想が出来なくなるからだ。 「女性宮家の創設」が検討されそうな雰囲気がある。皇太子、秋篠宮及び悠仁親王以外の皇族は全て女子。これだと皇統が途絶える恐れがあるとの憂慮からだ。私は無理に天皇制を維持しなくても良いと思う。天皇家、幾つかの宮家、宮内庁、天皇陵の維持に、果たしてどれだけの国家予算が注ぎ込まれているのだろう。奈良時代までの天皇陵は全て学術的な発掘を行い、その後は公園にして市民が自由に立ち入れるようになったらどれだけ有益か。 靖国神社には英霊が眠っていると言うが、そんな訳がない。日露戦争当時、旅順港の戦いでの作戦ミスで何万人もの兵士を死なせた乃木大将は、明治天皇が崩御すると夫妻で殉死し、死後乃木神社に祀られている。死んだら神になるとの日本古来の思想だが、特定の宗教で国事を行うのは憲法違反との判決も出ている。もし戦争による犠牲者を悼むなら、宗教性のない平和祈念公園を作れば良いと思う。 中国の艦船が9月18日以来、尖閣諸島周辺に出没し続けている。交代で巡回している海上保安庁の艦船の乗組員たちは、きっとヘトヘトなのではないか。思えばUチューブに映像を流出させた一色元職員の「中国船体当たり」の実像を知らなかったら、もっと理解は困難だったはず。そしてこれまでの行動から見ても、中国の軍部首脳が行った「尖閣は必ず奪う」との宣言を、決して取り下げることはない。 実効支配を強化するために今後何が必要か、冷静かつ早急に検討すべきと私は思う。 戦後67年。日本国憲法にも実態と合わない個所が出ているそうだ。矛盾点や明確でない点があるなら改正すれば良いし、改正のための検討は大いに結構。どこをどう改めるかは国民が関心を持ち、大いに論議すれば良いと思う。自らの憲法を必要に応じて自らの手で改正出来ないなんておかしい。それを「右傾化」などと言うのはさらにおかしい。この世に「聖域」など存在してはいけないのだ。軽薄なマスコミに惑わされず、自分の頭で自由に考えることが民主主義の根本のはず。
2012.10.08
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Kスタへ急ぐ。一昨日の対西武戦は3塁側内野上段席で観た。始球式の投手は卓球の福原愛ちゃん。いつもの笑顔が愛らしい彼女は仙台の出身。手術した右肘の調子が良いのか、弓なりではあったがボールはノーバウンドでキャッチャー岡島のミットに治まった。 今日はKスタでの最終戦。残念ながらCSへの進出は果たせなかったが、借金1でここまで来たのは立派。今年初めてのレフト指定席に座る。始球式のピッチャーは、名前の知らない貫禄のあるおっちゃんだった。左隣の小母ちゃんがやけに野球の詳しい人。一昨日の試合もレフト席で観たと言う。へえ~っ、こんな人もいるんだなあと感心しながら辛島の投球を見つめる。 レフト席と3塁側内野席はほぼ満員。さすがは最終戦、これからも続々と集まって来るはず。ライトのソフトバンク応援団はまばら。だが楽天の追撃をかわして既にCS進出を決めているせいか、悠々としたものだ。先発にファースト小久保の名前。引退を発表した彼の姿をKスタで見るのは、今日が最後になる。 2回裏、ホセがセンター前にヒットを放ち、続く牧田が目の覚める弾丸ライナーの第9号ホームラン。ボールが飛び込んだレフトスタンドのファンが湧く。皆、立ち上がって歓喜の渦。これは幸先の良い先制点だ。完全試合ペースで投げていた辛島が隙を突かれたのが4回。フォアボールの本多が2盗を決め、さらに投球がワンバウンドの間に3盗も決めた。 「だから本多の時は要注意なんだよ」。隣の小母ちゃんが悔しそうに叫ぶ。やはりこれが悪い予感で、主砲ペーニャのレフト前ヒットで本多が楽々ホームベースを駆け抜けた。2対1。試合は一気に緊迫する。6回表には1アウト後にまたしても本多が3塁打を放ったが、辛島は何とか後続を断ち切った。7回裏には1アウト1、2塁の好機を、代打鉄平が併殺打に倒れた。う~む、実に重苦しい展開だ。 7回裏の攻撃に入る前、私はリュックからやや軟らかくなったジェット風船を取り出した。それは一昨日の9回に飛ばそうと一旦膨らましたもの。結局抑えの青山が打たれて同点となり、出番を失ったヤツだ。「恨み」の白風船を空へ放った。この日、星野監督は8回まで辛島を続投させた。球数が増えていた彼にとっては苦しかったはずだが、これも来季へ向けての厳しい「親心」。 そして9回は青山。2日前に悪夢を観たばかりの彼をあえて登板させたのも監督の強い意志。これも来季へ向けての無言の「檄」のはず。その期待に応えて、青山は見事に抑えた。結局は2対1での勝利。Kスタでの最終戦、142試合目でとうとう楽天は2カ月ぶりに借金を完済した。小雨降る夜空に1万本以上の白いジェット風船が飛んだ。 試合後、巨大なスクリーンに今季のイヌワシ戦士たちの活躍する姿が映った。「ああ、あの場面か」大勢のファンがそれを観て、1年間の戦いを振り返ったようだ。だがキャッチャー嶋の挨拶も星野監督の挨拶も短かく、もうちょっとの差でCS進出を逃した悔しさに溢れていた。「来年こそは」。きっと大勢のファンも同じ思いだったはず。 この少し前、小久保を先頭にソフトバンクの選手達がライトスタンドのファンに挨拶をした。小久保はKスタの楽天ファンにも帽子を高く掲げてグラウンドを去った。私の胸に突然淋しさが過った。力が衰えた選手はいつか自ら引退するか、球団から戦力外通告を受ける。心ならずも一時巨人へ移籍した小久保の心も、きっと淋しさが去来したはずだ。 巨人へ行った朝井とヤクルトへ行った一場も今シーズン限りで戦力外となった。彼らも楽天の創設期を支えてくれたかつての仲間。さて日曜日からは5位のロッテを相手の2連戦。楽天の4位は確定だが、果たして貯金を作れるかが勝負。きっと連日の移動で選手達はクタクタだろうが、何とか強いハートで頑張って欲しい。 家路を急ぐ私の後から、歌声が聞こえて来る。あれは応援団が歌う選手の応援歌。今年一年間戦い抜いた選手の活躍を労って、1人ずつ応援歌を捧げているのだ。ありがとうイヌワシ戦士達。来年もまた久米島での厳しい練習に耐え、さらに強くなって戻って来て欲しい。そしてありがとう、戦力外となったかつての仲間たち。貴方達の未来に希望の光が注ぐことを祈っているよ。
2012.10.07
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昨日の仙台は26度近くまで気温が上がったようだ。10月なのにまだ夏日とは驚く。日本列島を取り巻く海水温も、まだかなり高めのようだ。これではサンマがなかなか南下しないだろう。大震災で壊滅的な被害を受け、その後少しずつ回復しつつあるカキも、海水の高温で死滅するものが出て来たとのこと。 何気なく庭を観て驚いた。何とハイビスカスが花をつけていたのだ。いつもの年なら1度しか咲かないのに、今年は2度も咲いた。散歩の時にはハマナスの花も見つけた。これも2度目の花だ。お向いさんが畑に行くと言うので何の作業か尋ねると、「インゲンの収穫」との答。9月に2度目の種を蒔いたのがもう収穫できる由。ウソみたいな本当の話に驚く。 ベランダに妻と私の布団を干す。折角のお日様を利用しない手はない。そのまま近所の歯医者へ行く。取れた金属冠を入れ直した後は、歯石の除去をしてもらっている。今日はその2回目で、深い歯周ポケットの歯根についた歯石を、麻酔をかけて除去する由。歯科衛生士のSさんはお隣の方。先ずSさんが処理した後、ドクターがさらに手を加える。 口中が血だらけになり、何度かうがいをする。ようやく終了したが、治療はまだ続くようだ。次回の予約をして帰宅。普通はここまで手の込んだ治療はしない。他の歯医者なら2回か3回で終わるのを、じっくりと丁寧に診てもらえるのが嬉しい。さらにこの日はどんな治療をしたのか、口内の図にメモを加えて渡してくれると言う徹底ぶり。だから一度治すと、暫く行かなくても済むので有難い。 昼食後は半袖庭シャツに着替え、庭の草取りをする。雑草が種を付け出しているので今が抜くチャンス。畑の白菜がかなり大きく育って来た。1つの株が直径60cmくらいまで葉を広げている。どうやら肥料が効いているようだ。中には中心部が少し巻き出したものもある。いくら葉が大きくても、完全に巻き切らないと食用にはならない。こう暑いと、玉ネギの苗の植え付けはまだ早い。 玄関の前にキノコが干してある。「ためしてガッテン」を観た妻が、キノコを干すとビタミンDが増えると聞いて試しているようだ。干したのは店で売っている普通のエノキダケとブナシメジだが、それでも効果があるようだ。午前中に干した布団を取り込んだ後は読書。そして眠くなったら昼寝。この日感じた疲労は、前日のランとKスタへ自転車で往復したせいだろう。 韓国が竹島に外国の報道陣を招待したようだ。イギリスのBBCに、アメリカのCNNも居た。そこから自国あてに実況する女子アナウンサーの姿を、悔しい思いで眺める。アメリカの新聞には「慰安婦問題」の広告も出したようだ。実態は日本や台湾も含め、貧しい家の婦女子が高給に釣られて志願したケースがほとんどなのだが、何故日本はちゃんと広報しないのか歯がゆい。 大滝秀治さんが亡くなった。亨年87歳。死因は肺の扁平上皮がんとのこと。実に良い役者だった。飄々としてとぼけた味が素晴らしかったが、本人はそのことを言われるとむきになって反論していたようだ。私は先日観た映画「あなたへ」が最後になった。心から冥福を祈って合掌。 悲しみの一方、喜びのニュースもあった。女子レスリングの吉田沙保里選手が国民栄誉賞を受賞することになったようだ。オリンピックと国際大会での13連覇は、これまでのロシアの男子選手の記録をも抜く偉業。このところ暗い話題ばかり続く中で、たまにはこんな明るいニュースがあって良い。さて私は今夜もKスタへ行く。これが今年最後の球場での応援になるだろう。
2012.10.06
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台風の行方を気にしながら走りに行った。どんよりした空は、あまり気持ちが良いものではない。少し涼しいかと思って半袖とハーフタイツの組み合わせにしたのだが、走っているうちに暑くなった。何だか足が重い。ランニングを復活してそろそろ2か月近くなるが、全くスピードが上がらない。それに今日はどうしたわけか、走るのがとても辛いのだ。 11kmの平坦なコースに1時間40分ほどかかって帰宅。相変わらずキロ9分ペースだ。午後は読書。だがそのうちに眠くなる。たかだか11km走ったくらいで疲れるとは、俺も歳を取ったものだ。夕方は愛犬の散歩を兼ねて近所のスーパーへ。今夜は久しぶりにKスタへ行く。もちろん東北楽天の応援だ。買ったのは「中落ち弁当」と蒸しパン。どちらも値引きで合計305円。これが今夜の夕食になる。 リュックの底に食べ物と飲み物を忍ばせる。Kスタは「持ち込み禁止」だが売店が高過ぎるため、こうして「自前で調達」するのだ。Kスタへ来たのは何と5月以来。今年は手術後の体調が悪く、猛暑だったこともあって家でテレビを観ていた。だが、きれいで明るいKスタはやっぱり良い。この日の先発はダックワース。ストライクが入らず苦しんでいる感じ。それでも1回を何とか0点に抑えた。 その裏の楽天は連打に次ぐ連打で4点を取った。これは幸先良いスタート。きっと楽に勝てると確信したのだが。2回の表には1点を失った。だが4回には聖沢の目が覚めるようなライナー性ホームランで5対1と突き放す。中落ち弁当も蒸しパンも美味い。ペットボトルの焼酎に酔う。7回裏には立ち上がって球団応援歌を歌う。そしてエンジ色のジェット風船を飛ばす。手術後は肺活量が落ちて、この風船を膨らませることすら出来なかったのだ。 ピッチャーはその後、ラズナー、ハウザー、小山と繋ぎ、最終回は守護神青山の登場。これで勝利は確実と信じたファンが多かったはず。レフト鉄平の2つの超ファインプレーで2アウトまでは取った。だが西武の打球は全て鋭い当たりばかり。とうとう捕まって同点とされるまで、なぜか星野監督は動かなかった。 9回裏がいけない。2アウトを取った西武の様子が急におかしくなる。ピッチャーや野手を次々に替える。それも替える必要がない場面でだ。これは明らかな遅延行為。きっとCSに備えて、延長戦にしない作戦だ。Kスタに響く怒号。これほど西武が卑劣な作戦を取るとは。だがひょっとして、1回裏の攻撃でキャッチャー炭谷を負傷退場させられた「恨み」があったのかも。 結局楽天は5対5の引き分けに終わった。万事休す。もうこれで楽天のCS進出の夢は断たれた。借金2で4位。今季の楽天は若手の活躍で頑張って来たが、残念ながらここまでだった。今年のスローガンは「共に前へ」。大震災後の復興を目指して、選手も大勢のファンも心を一つにした一年だった。私は明日のソフトバンク戦も応援に行く予定。そして来年こそは、もっと熱い応援をしたいと思う。
2012.10.05
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「トランス・ヨーロッパ」は昨日が第46ステージ。日本人選手10名は、この日も頑張って無事完走したようだ。顔を知っているSパパ、ニセコさん、NAMIさんの3人ともまだまだ大丈夫そうで嬉しい。9月30日の第42ステージでフランスからピレネー山脈を越えて、最後の国スペインへ入ったようだ。最高地点の峠は1513m。この日は雷雨もあり、寒くて怖かった由。 レースをしながらブログを公開している旅がらすさんによれば、彼女は水シャワーで風邪を引き、咳をしながら走っているみたい。おまけに足を傷めており、辛くて記憶が飛ぶ由。それでも連日素晴らしい文章を書いているのが凄い。朝食はパンとジャムだけだったり、2日間全く野菜が出ないのも辛いようだ。きっと便秘にも苦しんでいるはず。サポート役のKadoさんが撮った写真が素晴らしい。レースは今日を入れて残り18日。まだまだ緊迫状態が続く。頑張れ~選手達!! 昨夜の楽天は西武に敗れた。これで借金2の4位。3位のソフトバンクはパリーグの優勝を決めた日ハムに圧勝して貯金5。楽天が3位となってCSへ進出するためには、残り5試合を全部勝ち、かつソフトバンクが残り3試合を全て負けることが条件になった。多分ソフトバンクは1試合が引き分けでもOKのはず。我が東北楽天は絶体絶命。この期に及んで今夜と明後日の夜Kスタへ応援しに行く予定。 しかし、借金3のロッテが5位なのだから、今季のパリーグは激烈だ。楽天が5位になる可能性も十分ある。そんな中で昨日は投手陣の戦力外通告があった。佐竹、有銘、川岸、川島、下柳の5名だ。有銘、川岸らは球団設立当初から頑張って来た戦士達。若手が伸びた今、彼らの出番はなくなったが、一言「ご苦労さん!」そして「ありがとう!」と労ってやりたい。 朝の連続ドラマ「梅ちゃん先生」が先月で終わった。最終回は20%以上の視聴率だったそうだ。何がそんなに面白かったのか、私にはどうも良く分からない。ごく平凡な話だし、無理な設定も多かったと思うのだが。一番良かったのが片岡鶴太郎が演じる町工場の親父。憎たらしいところが地で行くような素晴らしい演技だった。 代わって10月から登場したのが大阪支局制作の「純と愛」。若い男女の物語らしいが、何と「純」が女で「愛」が男なのだ。初日は病院へ行ったため観られなかったが、これがまた面白い。初っ端から愛のストーカー紛いの行動や、「透視能力」が出て来る。純の行動も破天荒で常識外れ。朝ドラは平凡で安心出来るのが普通なのだろうが、変わり者(?)の私には、こっちの方がずっと面白い。 読み続けている吉川英治の歴史小説『新平家物語』が、昨日から第14巻目に入った。いよいよ場面は源平の最後の戦い「壇ノ浦」前夜まで来た。丁寧で読者の気を逸らさない文章はさすが。これまで知らなかった歴史の裏舞台が丸見えなのだ。一流作家の手にかかると、こうも歴史が面白く感じるものか。義経の最後まで、きっと緊迫する場面が続くのだろう。う~む、どうなる。 昨日も中国の艦隊が尖閣に押し寄せた。連日のように脅しにやって来る彼らに、海上保安庁の職員の方々の気苦労はさぞかし大変だろうと察している。きっと神経をすり減らし、緊張の連続のはず。だが卑劣な脅しには絶対に屈せず、頑張って欲しい。果たしてどこまで続くのか、中国とのせめぎ合いは。 そんな中での明るいニュース。先日秋田県由利本荘市で、我が国初の「シュールオイル」が採掘された。地下1800mの岩盤に含まれる成分を、特殊な技術で地上に汲み上げるものらしい。技術的にも困難だし、採算が合うかどうかもまだ不明だが、何とか新たなエネルギー資源になってくれれば嬉しい。鳥海山の桑ノ木湿原や法体の滝を観た今年の6月に同市を訪れたのも、何かの奇縁だろう。
2012.10.04
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窓を開けると、微かにキンモクセイの香りがする。今年はずいぶん枝を切ったキンモクセイだが、わずかな花から漂う芳香。朝の散歩では彼岸花の茎が地中から伸び出しているのを見つけた。花が遅れたのは夏の猛暑のせいだろうか。裏庭の萩が雨に打たれ、地面にピンクの花弁を零している。今日は曇天。次の台風が近付いているようだが、今日も引き続き日本と中国との関係について考えている。 中国の歴史書に日本のことが最初に記されたのが『魏志倭人伝』。当時の中国は三国時代で、日本は弥生時代。女王卑弥呼の時代から日本は中国に使者を送り、大陸の文化を学んでいたのだ。飛鳥時代の遣隋使、奈良時代の遣唐使も同じ発想。難破を重ねながらも先進国である隋や唐の文化を学び、高僧鑑真が3度の難破の末に我が国に到来した。実に尊いことだ。 その後遣唐使は中止となり、我が国独自の平安文化が栄える。平安後期から鎌倉期には宋銭を輸入した。また鎌倉時代には元が高麗軍と共に襲来した。いわゆる元寇だ。室町時代には明と勘合貿易を行ったが、中国との冊封関係に入らず、形式的な臣下になる道を選ばなかった。江戸時代は鎖国体制が敷かれていたが、長崎や平戸を通じて、明や清との貿易は続いていた。 明治新政府が成立すると朝鮮半島の独立を巡って日清戦争が始まり、日本が勝利した結果、台湾、遼東半島などの割譲を受ける。中華民国とは満州事変などを巡って第二次世界大戦となり日本が敗れた。戦後成立した中華人民共和国との間に「日中平和友好条約」が締結されたのが1972(昭和47)年で、現在に至る。 だが、もし松下幸之助氏が快く中国の要請に応えて技術提供しなかったら、そして日本政府が多額の資金援助をしなかったら、果たして今日の中国の繁栄はあっただろうか。中国は進出の条件として最新技術の公開を求め、高度成長を進めて行った。その潤沢な資金を元にアジアやアフリカ諸国に経済援助を続け、国連安保理の常任理事国の座を手にした。お人よしの日本はここでも敗れたのだ。 東シナ海でのガス田開発でも、日本は後れを取った。共同開発するはずだった天外天(日本名:樫)は、2010年には中国が既に採掘を開始したようだ。日本が国際海洋法裁判所などを通じて解決しようとしてもこれに応じないのだ。天外天のほかにも中国はかなりの海上採掘基地を建設しており、日本領内のガスが「ストローで吸われる」ように減って行くのは確実だ。 日本領の南鳥島周辺の海底の泥に厖大なレアアース資源が眠っていることが分かると、中国は「島」ではなく「岩」だと主張し、国際的に島であることが認められると今度は艦船を同島付近まで派遣し、「必ず島を奪う」と公言している。国土は世界第4位で日本の25倍。人口は世界第1位で日本の13倍。13億以上の人民を食わせるためには、手段を選んでいる暇はないのだろう。 国連総会で「尖閣は日本が盗み取った」と中国が演説したのはつい最近のことだが、2日前ほど前にはパキスタンの新聞に同様の趣旨の広告を載せたようだ。恐るべし中国。尖閣付近へも中国艦船がひっきりなしに接近している。海上保安庁では全国の艦船をやり繰りして尖閣付近を当番体制で守っているが、この「神経戦」にいつまで耐えられるかが心配だ。 尖閣諸島の国有化が明らかになって以降、中国では政府主導での暴動が起きた。その反応に驚いた野田総理は「ここまで騒ぎが大きくなるとは予想しなかった」と話したそうだが、そのこと自体が日本が「領土問題に関する基本戦略」がないことを物語っている。中国はきっと陰でほくそ笑んでいることだろう。 沖縄では今、新型輸送機オスプレイの配属について反対する声が大きい。だが尖閣が「有事」となれば、垂直離発着、ホバーリングというヘリコプターの利点を持ち、速度と飛行距離が優れたオスプレーが「活躍」するのは確実。この脅威が分かっているからこそ、中国は決して軍事行動には出ないと確信する。もちろん「有事」が生じないことが大事だが。 私は普通の市民でタダの爺さん。特別な情報を持ってる訳でもなく、発信力があるわけでもない。だが、マスコミの言いなりではなく、自分の頭で考え、自分の良識で判断しようと努めている。沖縄で3年間勤務し、宜野湾市の普天間飛行場も、名護市辺野古のキャンプシュワブもこの目で実際に確認している。だから沖縄の人達にも尖閣問題と米軍基地の関係、そして「平和とは何か」について冷静に考えて欲しいのだ。
2012.10.03
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あれは何日前だったか、中国政府が尖閣周辺に千隻の漁船を送り込むと発表したことがあった。「これは大変、きっと衝突が起きる」と心配したものだが、尖閣諸島に近づいた船は少なく、700隻ほどの漁船は、尖閣の北方250kmほど離れた公海で網を入れたようだ。結局は中国政府の「脅し」だった訳だ。 それから数日前、中国政府は国連総会の場で、「尖閣は日本に盗み取られた」と名指しで非難したとのニュースを聞いた。「これは大変。そこまで中国はやるのか」と、この時も大いに驚いた。ブログの畏友ドングリ大使によれば、あれは中国国内に対してアピールするのが狙いとか。確かに深夜の会議場には、両国の応酬に耳をそばだてる国はほとんど居なかった。 竹島にしても尖閣にしても、韓国や中国の若い世代の熱狂ぶりには驚かざるを得ない。幼い時からの教育で、「あれは自分の国の領土であり、日本に奪われたもの」との「刷り込み」が、彼らをそうさせているのだろう。「独島(竹島)は我らのもの」という歌を幼稚園の子供が歌う姿は異常だし、中国国歌はかつての日本の侵略に対する戦いの歌だと言うことを、つい最近池上氏の解説で知った。 先週の土曜日、たまたま池上彰さんのニュース解説のスペシャル番組を観た。だが、「領土問題」について日本が授業で大きく取り上げないのは何故だろう。また1968年(昭和43年)の国連の海洋調査により、「尖閣諸島付近には大量の石油資源が埋蔵されている可能性がある」と発表されたが、何故国連がそんな調査をしたのだろう。台湾や中国が尖閣は自分の領土と主張し始めたのはその3年後かららしいが。 中国の領土政策は先ず軍事的な優位を確立することから始め、次にその軍事力を背景にして国境線を画定する方針なのだそうだ。それで旧ソ連やインドと渡りあって来た「実績」がある。南シナ海でも然り。先ず漁船をたくさん島に送り、その保護のために漁業観察艦を送り込み、最終的には軍艦が乗り込んで、目指す島を乗っ取るのが彼らのやり方だった。それを観ていたからこそ、尖閣への漁船千隻派遣発言に驚いたのだ。 池上氏によれば、尖閣は沖縄に含まれるとの記事が中国共産党の機関紙「人民日報」に載っているそうだ。後で調べたら1953年(昭和28年)1月8日のものだった。確かに海洋調査の前だ。また中国の地図(これは紅衛兵教育用のものらしいが)にも「魚釣島、尖閣諸島」と記入され、台湾と与那国島の中間に国境線が引かれている由。今は「釣魚島」と中国式に表記しているが、「魚釣島」が日本領であることを、彼らも当時は認めていた何よりの証拠だ。 それなのに矛盾点を指摘され、都合が悪くなると、今度は「日清戦争後に日本帝国に奪われた」とか、「琉球は元中国のものだった」とか平気でウソをつく。まあ恐るべき国だ。田中総理と周恩来首相による日中国交復活の際も、彼らの交渉術が発揮された。 その最たるものがトウ小平による「今は知恵がないので、尖閣問題は将来の人間に委ねましょう」と、あたかも領土問題が存在するかのように印象付けられた発言。あれも自国が有利な状況になるまでの「引き延ばし策」。その時には「石油資源埋蔵」が分かっていたのだ。だから米国の沖縄統治時代に、中国や台湾が尖閣領有について抗議したことは一度もない。 元外務省の高官がある番組で言うには、「領土問題では何もしないのが一番」なのだとか。これが我が国の外交を引っ張って来た官僚の言葉かとガッカリしたものだ。韓国は日本がまだ国連に復帰してない僅かな時を狙って、不法にも竹島を「李承晩ライン」の内側に組み入れ、実効支配した。旧ソ連も終戦のドサクサに紛れて、北方領土を自分のものにした。 周囲には狡猾な隣人たちが住んでいるというのに、なんとまあ日本人のお人よしであることよ。教科書でちゃんと教えないなら、私達は自分で調べて真実を知るしかない訳だ。「何もしない外交」、「何も教えない教育」、「その場しのぎの政策」。たとえ政権は変わっても「基本的な国家戦略」は継続されないと困るのだ。戦後67年。すっかり平和ボケした日本人は、そんなことにすら気づいていない。レ・ミゼラブル。この問題が「解決」するまで、かなり長引きそうだ。
2012.10.02
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今日から10月、台風一過である。昨夜半、あれほど荒れ狂っていた風雨が、今朝起きたら空は明るみ、青空が戻っていた。前日の天気予報では、今日の午前中は風雨が強いと言っていた。今日は不整脈手術後の6カ月検診の日。もしも大荒れだったら病院に行くのが大変だろうと、それなりに覚悟していたのだが杞憂に終わった。 前日の日曜日、私は13kmを走った。月間200kmに達するために逆算すると、その距離になるのだ。妻は朝から岩手県の平泉へ行った。絵の仲間との写生会だ。彼女も天気を心配していた。岩手は曇り時々雨だったからだ。夕方の散歩を早めに終え、愛犬を玄関に入れた。物干し棹と箒が風で飛ばないよう片づけ、雨戸は全て下ろした。 夕食後は台風情報と「ビフォーアフター」を観た。大河ドラマを観なかったのは初めてだが、あまりにも「平清盛」がつまらな過ぎるのだ。次第に強まる風の音と雨の音を子守り歌代わりに眠ったのは、10時半を過ぎた頃。そして愛犬がピチャピチャ何かを舐める音を聞いたのは朝方。今朝は時間がなく、ブログを書けないまま病院に向かった。 今日はなぜか不整脈手術の権威であるO先生は不在で、若いM先生の診察室に呼ばれた。先日行った24時間心電図と、この日行った心電図の両方とも、波形に乱れはない由。体調を聞かれ、「問題ありません」と答えた。経過が良いため次回の検診は来年の3月になった。最後に執刀医のO先生には脈拍数を110以上に上げてはいけないと言われたが、ランニングをしても大丈夫かを質問した。 ドクターの答えはOK。手術直後にそれ以上数値を上げると、不整脈が再発する比率が高まる由。また手術は普通の生活に戻るためにしたので、半年経って脈が正常であれば運動しても何ら問題ないそうだ。もしそれで不整脈が起きたら、また考えましょうとM先生。ここ数カ月間のモヤモヤがすっかり解消した私だった。 先日厚生労働省から発表された平成22年度の調査結果によれば、男子の「健康寿命」は70.42歳で、女子が73.62歳。これは制限なく健康な日常生活を送れる年齢なのだそうだ。逆に平均寿命からこの数字を差し引くと、男子が9.22年で、女子が12.77年。悲しいことだが、それだけの年月が「不健康な状態で死を迎える準備期間」になるわけだ。 老後をどう過ごすかは人それぞれ。私の趣味の筆頭はランニングで、走り始めてから今年で33年目になる。老化などのため筋力や走力はかなり衰えたが、慎重に付き合えばまだまだ楽しむことは可能で、少なくても後10年78歳までは現役ランナーであり続けたいと願っている。またランニングに伴うリスクも、これまでの経験と知恵で乗り切れるはずだ。 昨日の13km分で9月は200kmに達した。地球2周分(8万16km)から差し引くと、残りはわずか79kmとなった。今月初旬にはめでたく走破達成となるはずだ。結婚生活43年。家庭菜園は通算31年。ブログ公開が12年。ランニングもそうだが、長期間継続するには健康であることに加えて本人の努力が必要。もちろん妻への感謝も忘れてはいけない。これからも自分を信じ、信念を貫きたいと思っている。≪ 9月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:13回 ラン距離:200km ウォーク距離:83km 月間合計283km 年間累計:1972km うちラン:663km これまでの累計:79937km
2012.10.01
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