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朝の愛犬との散歩では、木イチゴを幾つか枝からもいで食べ、初めてパイナップルツリーを観た。自室の今朝の室温は5時台で早や28度。きっと昨夜も熱帯夜だったのだろう。そのせいか深夜に目が覚めた。眠れないままテレビを点け、ロンドンオリンピックの中継を観ていた。 卓球の福原愛選手。通称愛ちゃんと呼ばれる彼女が画面に映った。可愛い顔の愛ちゃんが懸命に試合をしている。なかなかの美人。そして結構バストが豊かなことに驚いた。彼女が卓球を始めたのは3歳の時。負けると直ぐに泣く、そんな子をテレビで知った。あれから20数年。今では日本の中心選手だ。ユニフォームが素敵で、彼女には良く似合う。試合はセットカウント1-3で負けていた。 画面を切り替えて柔道を観る。女子57kg級の松本薫選手は、いつもランランと輝く野獣の目をして、次の試合を待っている。闘志を高めるためか、何事かつぶやき気合を入れる彼女。そこには女性としての優美さはない。ただオリンピックの舞台で勝つ、そのためだけに今まで苦しい練習を重ねて来たのだろう。準々決勝だけは観なかったが、他の試合はほとんど観た。決勝は相手の反則で勝ち、日本に初めての金メダルをもたらした。 愛ちゃんはあれから逆転したようだ。石川佳純選手の戦う姿も観たが、愛ちゃんほどユニフォームが似合っておらず、色気もない感じ。今朝のニュースで、2人ともベスト8に残ったことを知った。愛ちゃんがオリンピックのシングルベスト8は初めてのようだ。そして2人が戦った相手は、どちらも帰化した中国人のように感じた。きっと選手層が厚い中国では、代表になれないためだろう。 今朝のニュースでは、笑顔の松本選手を観た。インタビューに答えている姿は、試合中のオオカミのような彼女とは全く別人だった。男子柔道73kg級の中矢は、準決勝まで順調に勝ち進んだことで油断があったみたいで、銀メダルに終わった。後もう少し集中力を保ち続けていれば、金メダルに手が届いたかも知れない。松本選手の精神力がどれだけ凄いか、そのことでも分かる。 さて、昨日は四国に住む孫に手紙を書いた。夏休みの宿題に「古墳」のことを調べたいと言う小学6年生のMちゃん。近所の山には珍しい形をした古墳があるようだが、それを観て興味を持ったのだろうか。手紙に添えて、丸い円墳、ホタテ貝のような前方後円墳、四角い方墳、四隅に突起がある四隅突出墓、リボンの形をした前方後方墳、周囲に溝がある周溝墓の、上から観た形と横から観た形の下手な絵も描いた。 娘にも手紙を書いた。古墳関係で私が持っている本のうち3冊を同封したが、本当は図書館で子供向きの解説書を探した方が良いことなどだ。入れたのは『五色塚古墳発掘調査書』、『奈良国立文化財研究所飛鳥資料館案内』、そして「装飾古墳」関係のもの。どれも専門的な内容だが、写真と図がたくさん掲載されているため、少しは理解を助けるはず。 残りの3冊は難解な専門書で、中には私もまだ読んでないものがある。Mちゃんが高校生になってもまだ古墳に興味がある時は、彼女に上げても良いと思っている。それは誰にも告げず、ただ私の胸の中に眠っている夢。普段はなかなか電話でも話さない孫娘だが、離れて暮らす爺ちゃんの想いは、果たして彼女にどう伝わるのだろう。
2012.07.31
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毎日暑い日が続いていますが、皆さまはどんな風にお過ごしでしょうか。さて、お恥ずかしい次第ですが、昨日の我が家の様子を紹介しますね。<食糧調達プロジェクト> トマト5個、キュウリ4本、ナス2本、ミニトマト20個、インゲン10本、アシタバ5本がこの日の収穫。トマトはぶつ切りにして食卓に上るほか、キュウリ、アシタバの茹でたのと共に「冷やし中華」の具に、ナスは焼きナスとなる。ミニトマトのうち8個ほどはマックスのおやつに。 インゲンはそろそろ収穫が終わる。これまで蓄えていたものを、妻は8分茹で後冷凍したようだ。収穫の総数は多分800本ほどにはなるはずだが、このうち冷凍にしたはどれぐらいだろう。今年も大成功のモロッコインゲンに感謝。 キュウリとゴーヤの蔓の先端部をちょん切る。脇芽を伸ばすためなのだが、少し時期が遅過ぎた感じもする。 妻が食料品の買い出しへ行く。「結構冷蔵庫などにも入っているのに」と思うのだが、スーパーのちらしに安いものを見つけると、つい買いに行きたくなるのだろうか。この辺が男の私には謎なのだが。<節水プロジェクト> 今日から米のとぎ汁、顔を洗った残り水、シャワー時に最初に出る冷たい水(私は平気だが)をバケツに貯め、庭や畑の撒き水用にすることにした。これはホースで撒くことが増えるため、少しでも節水しようと妻が考え出したこと。 風呂の残り湯を洗濯に使うのは前から実行中。妻が腱鞘炎になったのも、小さな洗面器でせっせとバケツに移し替えたため。現在は専用ポンプを利用している。こんなので月にどれくらいの節約になるのだろう。<暑さ対策プロジェクト> 猛暑に喘ぐ愛犬の首に、保冷剤を包んだタオルを巻くことにした。2回取り替え。日中は玄関に入れ、夜は芝生に繋ぐ。 私は水シャワー2回。読書やパソコン時(これが結構長く、ほぼ座りっ放し)のクッションは丹念に交換する。私は汗かきのため、尻の汗で直ぐに湿っぽくなるのだ。だが、これでも1時間ほどでぐっしょり。自室は夜の9時過ぎまで32度もある。この暑さに連日耐えながらの作業だ。<読書プロジェクト> 目下読書中の『新平家物語』(吉川英治著)の第7巻を、この日は120ページほど読了。以仁王の謀叛が発覚し、一味が平家の追及によって殺され、王の死後「令旨」が伊豆に流された頼朝の所に届く。いよいよ平家追討を決意する場面だ。これからますます面白くなるだろう。<テレビドラマ鑑賞プロジェクト> 大河ドラマ「平清盛」と、韓国歴史ドラマ「王女の男」をいつも通りに鑑賞。今後どう展開するか楽しみだ。これについては改めて書く予定。<スポーツ観戦プロジェクト> ロンドンオリンピック関係で本格的に観たのは、柔道(女子、男子)くらい。男子サッカーが本戦進出を決めたことや、水泳平泳ぎの北島が5位に終わったことは今朝のニュースで知ったばかり。 楽天の試合経過はパソコンで確認していた。昨夜の先発は田中マー君だが、5失点で2回で降板は大誤算。これで引き分けを挟んで5連敗。とうとう借金2になった。選手に疲れが出始めたようだが、オリンピックの進行と共に、今後が心配だ。日ハムの斉藤は6試合連続で勝てず、とうとう2軍落ちしたようだ。<その他のプロジェクト> 妻のと2人分の「大人の休日倶楽部」会員証が届く。これで今後JRの切符などが安く入手出来ることになる。さて、最初の旅はどこへ行こうかと思案中。 先月郵便局を通じて申し込んでいた「福島の桃」が届いた。これは「震災支援」の趣旨に賛同したもの。初めて自宅用にも頼んだ。妻は早速食べたが私はまだ。家庭用のためいつもより小ぶり。そして獲りたてで、まだ果肉が堅いようだ。 四国の長女から「桃が届いた」と連絡あり。上の孫のMちゃんからお礼の電話。久しぶりに話せて嬉しい。来月神戸での音楽コンクールに行くが、その時、夏休みの宿題のため「古墳」に行きたいのだが、どこか教えてほしいとのこと。小学6年生の女の子が古墳が好きとは驚いた。早速神戸市垂水区の「五色塚古墳」を教える。これは造設当時の姿に再現された巨大な前方後円墳で、実際に「埴輪」も並んでいる優れ物。古墳に登れるし、目の前に明石海峡が観られるのが凄い。 妻には私が「古墳関係の本」を持ってないか尋ねた由。探したら6冊ほど見つかったが、子供が理解出来そうなのは3冊くらい。これを送るほか、書店で探してみる積り。まさか孫娘が古墳に興味があるとはビックリ。これも遺伝の為せる業か。とても不思議な反面、嬉しい気もする。
2012.07.30
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いやはや暑い。梅雨明けの仙台は、連日33度の猛暑。梅雨の間20度以下の日もあっただけに、この急激な変化は体に堪える。居間にはヨシズを2張り張った。それでも室温は33度。ついでに私の部屋も測ってみたら、なんと34度もある。2階は屋根が熱せられるためか、さらに暑いのだ。こうなると服装などには構っていられない。首に濡れタオルでパンツ1丁のあられもない姿。もっともこれは自室での話だが。 昨日の朝食時に、我が家謹製の梅干しを初めて試食してみた。カリカリとしてとても美味い。妻が右手の腱鞘炎のため、今回はほとんど私が梅干し作りに従事したのだが、かなり梅酢が上がったことで上手に漬けられたのだろう。その分、重石はかなり重いのを使ったのだが。この猛暑を乗り切るためにも、梅干し、梅酢、梅酒を大いに活用しようと思う。 昨日の作業は愛犬マックスのシャンプー。もっともこれは妻が担当し、私は準備と片づけ。嫌がる愛犬を風呂場まで抱いて行き、終わるとバスタオルに包んで外まで運び出す。ともかく妻は愛犬を宥めるのが上手。とても私に対する態度とは違うのだよねえ。(怒)外へ繋がれた愛犬は、早速コンクリートに濡れた体を擦りつける。犬はシャンプーの人工的な匂いを本能的に消そうとするのだ。 日中の暑い時間帯は、愛犬を玄関に入れる。そこが涼しいことを知っている彼は、しきりに吠えて「入れてくれ」と訴える。歳も歳だし、鳴き声がご近所の迷惑にもなるため、極力彼の「言い分」を聞いてやることにしている。最近は散歩もかなりゆっくりで、足もフラフラするようになった。彼との散歩が唯一の運動の私も、これでは体重が増えるばかり。 暑さを軽減するための水シャワー。そして体重を減らすための野菜中心の食事。自分で言うのも何だが、共に涙ぐましい努力なのである。前日宮崎に住む弟から電話があった。前妻の7回忌を埼玉で行った由。そうか、もうそんなになるのか。私は今年2度の不整脈手術を受け、仕事も辞めたことを話した。さらに足の痛みがあって、もう走れないことも。 夕刻、近所のHCへ行って、ホースの留め金を買って来た。それをホースに着けようとしてビックリ。何と短いホースに留め金がついている。それは失くさないよう考えて私が工夫したものだった。それをすっかり忘れていたのだ。妻がどこかへやったものと勘違いしていた自分の愚かさに呆れつつ、早速庭と畑に水を撒く。きっと野菜や植木も苦しかったと思う。この日もトマトやキュウリの葉を食い荒らしていたテントウムシダマシを40匹ほど取って潰す。 夕方を過ぎても私の部屋はまだ暑い。結局夜の10時過ぎまで32度もあり、今朝の室温は25度。「局地的な熱帯夜」を見事証明出来た。昨日観たロンドンオリンピックは、開会式、バドミントン、柔道、女子サッカーなど。なでしこがスエーデンと引き分けたのは、多分作戦のはず。予選リーグ2位通過の方が、本戦で楽な相手と対戦できるからだ。 女子柔道48kg級の福見は、残念ながらメダルが獲れなかったようだ。かつて谷亮子を2度下しながらオリンピックに出場出来なかった悲劇の主の彼女だったが、やはり世界の壁は厳しかったようだ。男子柔道60kg級の平岡は危なっかしい戦い方だったものの、銀メダルが獲れたようで嬉しい。女子重量挙げ48kg級の三宅が銀メダルを獲ったのは凄い。多分父親を越えたはず。 一方ラジオで聞いていた楽天の試合だが、結局4対5で西武に負けた。これで今季初の4連敗。このところ連戦の疲れが出たのだろう。ましてドーム球場でないKスタは半端じゃない暑さ。選手の体にも大きな影響を与えるはず。だが泣きごとは言ってられない。男子体操の団体予選でも、得意の鉄棒でミスが続いたようだ。今後どう建て直すかが問題だ。さて、今日も猛暑が続く。読者の皆様も、熱中症にはくれぐれもご注意くださいね~!!
2012.07.29
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私の一日は、たいていブログ掲載から始まる。その後で愛犬との散歩、朝食、新聞。朝食の前に、最近は野菜を収穫し、庭や畑への水撒きをすることも多い。ガレージと玄関の掃き掃除も私の仕事だし、晴れれば2人分の布団を干す。後は体調、天候、必要に応じて庭仕事。これが暑いし、汗をかくし、蚊に食われるしで大変な作業なのである。 この他の大部分は読書とネットサーフィンに費やされる。そしてそれらに疲れたら昼寝。昼食はすべて自分で作る。と言ってもほとんどが麺類。今は冷やし中華が中心だ。夕方に愛犬との2度目の散歩。夕食後はプロ野球の進行を気にしながらの読書。テレビはニュースは観るが、後はよほど観たい番組でなければ観ないことにしている。 昨日の作業の第1は製作中の梅干しを干すこと。もうかなり良い色に漬かって来た。今回で2回目の天日干しなので、ほぼ完成だろう。6時間ほど干し、初めてガラスビンに詰め替えた。その上から新聞紙でくるみ、台所の冷暗所に置く。昨夜は土用丑の日で「うな丼」だったため、一応「食べ合わせ」を考慮し、今朝の朝食時に今年の梅干しを試食する予定。 作業の第2はジャガイモ掘り。茎がかなり枯れて来たので、そろそろ収穫の時期と判断したわけ。ジャガイモを作るなんて滅多にないこと。今回はお向いさんが不要になった種イモをくれたのがきっかけ。15個の小さな可愛い男爵。しかもシワシワだった。こんなので本当にイモが出来るのだろうか。私はダメモトで植えたのだ。 最後の方は土寄せもした。ジャガイモは地上付近にもイモが出来ると知ったためだ。掘る道具は小さな園芸用の「熊手」。これだとイモをさほど傷つけないで済む。最初に茎と支柱を全て取り除く。そして茎のあった周辺を静かに掘り起こす。茎を引き抜いた時点で、着いて来たイモもあったが、さほど大きなものはない。 ところが掘り出すと、結構大きいものが出た。結局地中から掘り出したイモの総数は、80個ほどになったはず。大きいのが20個。中ぐらいのが30個。そして可愛いのが30個くらい。種イモの数と大きさからすれば、大成功と言えるだろう。チビは洗ってザルへ。その他は大きさに分けて陰干し。お向かいさんへは収穫の報告と共に、お礼のトマトとモロッコインゲンを差し上げる。 そうそう、このお向いさんからは枝豆をいただいていた。茹でた枝豆を昼食時に食べた。午後の作業は「ヨシズ張り」。ガレージの天井にぶら下げて格納していたものをほどき、居間の東側と南側にそれぞれ1枚ずつ設置する。夕刻、仕事から帰宅した妻にダメだしを食う。私のやり方だと、網戸を傷める由。妻と2人で作業をやり直す。これで今日から涼しく過ごせるはず。 大差をつけられていた楽天は9回裏に追い着き、西武と7対7で引き分けた。目下読んでいる「新平家物語」は間もなく第6巻を読了する予定。残り10巻。果てしない旅が当分続くだろう。テレビで放送中の「平清盛」と合わせて観るとなかなか面白いが、そのことはまた別の機会に書きたいと思う。さて、そろそろロンドンオリンピックの開会式が始まる頃。ブログも終わりにしないとね。
2012.07.28
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いや~。とうとう明けましたねえ。何がって梅雨ですよ、梅雨。一番最後になりましたが、とうとう昨日で東北にも梅雨明け宣言が出たんです。私はそろそろだと思って、トマトの畝に差していた3本のビニール傘を、数日前には外してましたからね。トマトはあまり水を与え過ぎるのは良くないんです。一時期結構雨が降って、その時に根っこから腐って来た苗が3本ほどあったんです。 梅雨が明けたせいで、仙台も急に暑くなりました。お陰で畑の野菜は大豊作ですよ。モロッコインゲンなどは大きなザル1杯採れるし、トマトも真っ赤なのが毎日5個以上採れてます。もっとも、苗に残るトマトは確実に減るわけですがね。キュウリ、ナスも結構採れるようになりました。ミニトマトも完熟で美味しいですよ。 クチナシの花が咲き出しました。最初は今年は蕾が少ないなあと思っていたのが、何と例年通りたくさんの蕾が膨らみ、今次々と花を開かせています。私はこの花の匂いが好き。傍に行くと、プ~ンと良い匂いが漂って来ます。残念なのはユズと柿かな。今年は裏年らしく、どちらも極端に実が少ないですね。それにまだ小さくて青い柿の実が、ポロポロ落ちて来るんです。これを見るとさすがに悲しいです。 さて、私の暑さ対策はバッチリです。愛犬との散歩の時は人目があるので半ズボンに半袖のTシャツですが、家の中ではランパンランシャツ姿。そして首には濡らした布の「ベルト」を巻いてます。ランパンランシャツはレース用。これは元々涼しいように作られているし、即乾性の素材なので気持ち良いですよ。 さらに暑いと感じる時は水シャワーを浴び、どうしようもなくなれば扇風機を使っています。これでも「元ランナー」なので、ランパンランシャツは10組くらい持ってます。ついでに言うと、半袖Tシャツは40着、長袖も10着はあるかな。ほとんどはレースの参加賞ですけどね。ワハハ。 昨夜は悲しかったなあ。何がって、楽天がオリックスに連敗したんです。テレビでもラジオでも放送が無いため、パソコンで試合経過を観ています。たった1点が取れなくて、昨夜も0対1で負けました。とうとう4位に落ちてガッカリですが、首位までまだ3.5ゲーム差。それだけパリーグは競ってます。勝負はこれからが本番ですね。ケチの楽天も何人か外国人選手を補強したみたいだけど、本当に「助っ人」として役立つかどうかは不明で、あまり期待はしてないんですけどね。 そしてビッグニュース。女子サッカーの「なでしこ」に続いて、男子サッカーの「侍ジャパン」も初戦に勝ったんですよね。それが相手は優勝候補のスペインを破ったのですから大金星。まさか勝てると思ってなかった強敵から勝ち点3をゲットですから番狂わせでしょうね、これは。昨夜は眠たいのを我慢して実況放送を観ていたんです。 私には珍しいことですが、世界的なプレートはどんなものか、この目で確認して観ようと思ったんです。前日の「なでしこ」よりも放送時間が早かったのもそんな思いにさせた原因かな。そして日本の男子がどれくらいスペインと戦えるのかを、確かめたい気持ちもありました。まあ5対1くらいでボロ負けすると思ってはいたのですがね。 最初はやはりスペインに押されてましたね。でも「パスならいくらでもさせておけば良い」と、昼間に解説者の人が言ってたんです。彼らのパス回しは超一流でも、日本にもチャンスがあると言うことかな。そんな言葉が頭の片隅にあったのも事実です。粘って守っているうちにリズムが良くなり、前半の良い時間帯にコーナーキックからのセットプレーで日本が先取点を取った時はビックリでした。あれは鮮やかに決まりましたね。見事なタイミングでのゴールでした。 相手の人数が1人少なくなったこともあって、後半もそのまま守り切り、ついにタイムアウト。ブルーのユニフォームの日本が勝ったんです。スペインの若者を日本の若者が破ったんです。頼りなさそうと思った日本選手でしたが、彼らの中にもヨーロッパで活躍中の選手がいるんですってね。私はそんなことも知らないでいたんです。 これで予選通過が確実かどうかは分かりませんが、少しだけ有利になったのは間違いないでしょう。女子も男子も、さらに前進して欲しいですね。そして間もなく開会式かな。きっとこれからは日中に昼寝して、夜はロンドンの中継を観ることが多くなるでしょう。プロ野球に高校野球にオリンピック。スポーツ好きには堪りませんねえ。でも寝不足と夏バテには注意しましょうね、皆さ~ん。
2012.07.27
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なでしこが勝った。ロンドンオリンピックのサッカー予選が始まったのだ。ロンドンと日本との時差は7時間。生活のリズムを乱さぬよう、昨夜もいつも通りの時間に寝たのだが、やはり気になったのか夜半に目覚めた。ちょうど試合が終わり、2対1でカナダに勝ったことが分かった。川澄と宮間のゴールだったようだ。 試合前、カナダの選手は「日本を破って銅メダルを取る」と話していた。なでしこも直前の親善試合でフランスに敗れるなど、決して調子は良くなかった。澤がめまいで長期間戦列を離れたことも大きかったのだろう。そして今夜は男子サッカーが登場する。本番は金曜日からだが、連日の熱戦に眠れない夜が続くのではないか。頑張れニッポン!! イチローが突如NYヤンキースに移籍したニュースには驚いた。シアトルマリナースに所属して11年。安くはない年俸の彼が、チームの将来を見越して決断したようだ。最初の試合が古巣の球場で、直前まで所属したチームと言うのも大リーグならではのこと。早速ヒットを打ったイチローに、マリナースのファンも惜しみない拍手を送ったのが嬉しい。 だが来季もイチローがヤンキースに居られるかどうかは分からないと、NYの新聞は書いたそうだ。ヤンキースが負担する年俸も高くはない。打順は1番から8番か9番へ、守備もライトからレフトへシフト。そんな厳しい条件に彼は自ら身を置いた。11勝を挙げたダルビッシュ、10勝を挙げメジャー51勝目となった黒田の活躍の陰に、不振のゴジラ松井が戦力外通告を受けた。これがメジャーの厳しさ。彼の前途は一体どうなるのだろう。 大相撲名古屋場所は大関日馬富士の優勝に終わった。千秋楽まで全勝同士の取り組みにはしびれたが、横綱白鵬のかつての勢いに、陰りが見え出したのが心配だ。先場所優勝の旭天鵬が2勝13敗で終わったが、幕内最高齢で連日上位との取り組みは厳しかったはず。あれでも良く頑張ったと思う。日本人大関の最高が10勝止まりとは淋しい限り。日馬富士は3度目の綱取り挑戦だが、小兵力士がどこまで頑張れるか注目だ。 プロ野球のオールスターでは、ようやく第3戦でパリーグが勝った。我が楽天から選ばれた5選手が、それぞれ活躍したのが嬉しい。そして昨夜から後半戦が再開。残念ながら楽天は最下位のオリックスに敗れ、黒星でのスタートになった。それでも首位のロッテに3.5ゲーム差。と言っても、5位のソフトバンクですら首位と5ゲーム差。これからますます厳しい戦いになるだろう。頑張れ楽天~っ!! そしてそのプロ野球にもちょっとした波紋。選手会が次のWBCには出ないと言い出したのだ。WBCに関してはメジャーリーグが会社を作って運営し、利益の66%を手にしているのが現状で、日本へはわずか13%しか還元されない由。メジャーリーグは一流の選手は出さない上に、スポンサーは日本の企業がほとんど。これでは選手会が怒るのも無理はない。さて、今後どう決着がつくのか。 夏の高校野球大会の県代表がボツボツ決まり出した。宮城県代表は仙台育英に決まった。仕事を辞めて暇になった今年は、準々決勝のうち2試合を観に行った。65歳以上は無料とのことで、場内にはたくさんの高校野球ファンが押しかけていた。ノーシードの東北高校は決勝戦で惜しくも敗れたが、良く頑張ったのではないか。甲子園での熱い戦いが間もなく始まる。どうやら東北も今日辺り梅雨明けしそうな感じだ。ふう~っ。
2012.07.26
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≪ 六義園~東京駅~丸ビル ≫ そうそう、柴又帝釈天で塩饅頭と羊羹を買ったと書いたが、あれは勘違いで、買ったのはここ巣鴨の商店街だった。「東京って、町によってずいぶん感じが違うね」と妻。近代的な大都会にも、こんな風情と人情を感じる場所が残っているのだ。「俺達が知らないだけで、まだまだ良いところがあると思うよ」と私。巣鴨からJRで一つ先の駒込へ。ここから本郷通りを南下する。 そのまま行けば、かつて勤務した3番目の職場に出る。そしてその手前には次男の住むマンションも。結構歩いて辿り着いたのが六義園。ここは江戸時代、柳沢吉保の庭園だったところ。吉保と言えば五代将軍綱吉がまだ館林藩主だったころから仕え、綱吉が将軍になってからは川越藩主、甲府藩主に出世し、大老までなった男。 庭園は8万7千平米の広大なもので、東京ドーム7個分に相当する。植えられた高木は6100本で、低木は数え切れず2万8千平米とある。それを造るだけの権力を彼は持っていたのだ。私は石坂浩二扮する吉保は大河ドラマ「春日局」だと思っていたのだが、実際は昭和50年の「元禄太平記」だったようで、当時は筑波時代の激務でほとんど観てなかったのだろう。 六義園は明治に変わってから、岩崎弥太郎が手に入れた。大財閥三菱の創始者だ。大河ドラマ「竜馬伝」では香川照之が弥太郎役を演じ、薄汚い粗野な男が大商人に変わって行く様子がとても印象的だった。入園料は65歳以上は半額で、私と妻は仙台市の「豊齢パスポート」を見せてOKになった。これはラッキー。 夕方間近の庭園内はとても静かで、人影もまばら。正面入り口付近では大きな枝垂れ桜が私達を待ち受けてくれた。さすがは国の特別名勝に指定されているだけあって、美しく整備された園内だ。大きな池に浮かぶ島に築かれた妹山と背山。そして蓬莱島の風情はなかなかのもの。東京のど真ん中で、周囲のビルが全く見えない庭園はさすがに凄い。 地下水を汲み上げた滝も、標高35mもある藤代峠も風情があった。渡月橋を渡り一周して帰るまでに1時間近くかかったはず。1つの町内がまるまる収まってしまう庭園の広さに圧倒された私達だった。再び駒込駅に戻り、山手線で東京駅へ。そこから外へ出て、東京駅の外観を見る。明治期に創設された当初の赤レンガの姿に変える工事がそろそろ終わる頃。まだ塀は残っていたが、かつての勇姿が観られた。 皇居へは行かず、第2丸ビルの喫茶室へ入った。今日歩いた距離は多分10km以上のはず。地下鉄の乗り継ぎなどでも結構長い距離を歩いている。妻と次男は足が痛いと言う。確かに私も疲れた。次男に「そろそろ家に帰らないか」と、それとなく話す。「死ぬのが近いとそんな話をするんだろうか」とざっくばらんな次男。ハハハ。東京に住む長男と次男の将来が唯一の心配であるのは事実。 一日中付き合ってくれた次男に、「ガイド料」をそっと手渡す。東京駅に戻ってコインロッカーから荷物を出す。。日本橋で別れた長男への土産は、彼の好きな「ホヤ」の瓶詰と仙台名物の「ずんだ餅」だったが、次男へは「ずんだ餅」の他にメロンとプラム。普段果物を食べてないと聞いた妻が、わざわざ買ったものだ。お金を渡せば済むと私は思うのだが、その辺が男親と女親の違いなのだろう。 楽しかった東京見物。2人の息子にも会えて良かった。出来れば「東京マラソン」で走りたかった都内を、息子達の案内で歩けたのがせめてもの慰めだが、思いのほか楽しかった今回の旅。「次は鎌倉へでも行こうか」。別れ際に私がそう言うと、次男もまんざらでもないような返事。いつになるかは分からないが、次の楽しみにとって置こう。自宅に戻って「3男坊」の愛犬と散歩した時は、もう10時近かった。留守番ありがとうね、マックス。<完>
2012.07.25
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≪ 芝公園付近~「とげ抜き地蔵」 ≫ 大門駅から地上へ出ると、目の前に増上寺の大門が見えた。そしてその向こうには大きな伽藍。次男が道の向こう側に渡れと言う。そうすると東京タワーが見えるらしい。なるほどなるほど。お寺の右側に赤白のタワーが現れた。上方は工事中みたいだ。少し背が低くなったのは、先端のアナログ放送用の鉄塔を取り外したためのようだ。映画「三丁目の夕日」を彷彿とさせる光景だ。 増上寺は室町時代の建立だが、この地に移って来たのは江戸時代の初期。宗派は浄土宗で、上野の寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺であることで知られている。この周囲は芝公園になっているが、昔はお寺の境内だったはず。今でも結構広いのだが、かつてはこの2倍もあったそうだ。裏手に回ると静謐な雰囲気の一角。そこが徳川家の墓域で、「三つ葉葵」のついた門が見えた。 イギリスの外交官アーネスト・サトウの著書『一外交官が見た幕末』によれば、明治初期の廃仏毀釈によって寺院は荒れ果て、横浜の港には持ち出された仏像がうず高く積まれていたと言う。幕末期、増上寺はアメリカ海軍のペリー(例の黒船で大統領国書を持って来航した軍人)の宿舎になった所だが、明治に入ると由緒ある「三つ葉葵」の紋がついた扉が捨てられていたほど、荒廃した時があったようだ。今ではとても信じられない話だ。 お寺の横を通って東京タワーに向かう。「登ってみる?」と次男。私達は前に登ったことがあるため辞退。東京スカイツリーの完成後は、すっかり閑散としてると思ったのに、案外観光客で賑わい、大型バスが何台も停まっていた。そこから増上寺の周囲を一周。木々が鬱蒼と茂って、とても東京とは思えない。それに結構勾配がある。これが武蔵野丘陵の一部なのだろうか。ランナーの姿が結構目に付いた。 大門駅に戻る途中、屋根の上に千木(ちぎ)が載った神社が見えた。あれは一体何だろう?むくむくと好奇心が湧く。結構歴史好きの次男も初めて見るみたいだ。それはコンクリートの丘の上に聳える芝大神宮だった。遠く平安時代にこの地に勧請されて伊勢神宮と同じ祭神を祀り、「関東のお伊勢様」と称されて庶民の信仰を集めている由。今は結婚式場と化し、隣には大きなビルディングまで所有していた。 御成門駅から再び地下鉄へ。次に向かうのは巣鴨の「とげ抜き地蔵」。中高年の集まる町として有名な場所を、一目観たかったのだ。巣鴨から地上に出ると、なるほど大勢の人が歩いている。それもほとんどが老齢の婦人ばかり。婦人物を扱う店が多いようで、セールの衣料を奪うように手に取る小母ちゃん達。ここ巣鴨が「中高年の原宿」と呼ばれる所以なのだろう。ともかく活気のある商店街だ。 「とげ抜き地蔵」は通称で、正式名は曹洞宗の高岩寺。木造の柴又帝釈天と違って、こちらはコンクリート造りの近代的な建物だった。本堂は昭和32年に東北大学の横山教授が設計し、平成21年に国の登録有形文化財に指定された由。コンクリートの建造物、それもそんなに古くないものが文化財とは、何だか不思議な気持ちだ。 なにやら人が集まっている。あれが「とげ抜き地蔵」かと思ったらそうではなく、「洗い観音」なのだとか。お地蔵様の方は秘仏で開帳せず、自分の体で治したい個所を観音様の同じ部位に水をかけ、タオルで拭うとご利益が得られる由。私も大勢の善男善女に見習って、観音様の両足に水をかけた。足が治ればまた走れるのだが、信仰心が薄い私はきっと無理だろう。<続く>
2012.07.24
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≪ 柴又~東京スカイツリー~日本橋 ≫ 柴又八幡から「寅さんシリーズ」で有名になった帝釈天への参道へ戻る。団子屋さん、煎餅屋さんが多いが、川魚料理店も目立つ。昔は田圃の水路や江戸川でも川魚が獲れたのだろうが、今は余所から持って来るか養殖のはず。大きな鯉が水槽の中で何匹も泳ぎ回っていた。横断歩道の向こうに由緒ありそうなお寺が見え出す。ボランティアの方にお寺の宗派を尋ねると、意外にも日蓮宗なのだとか。 「帝釈天」は通称で、経栄山題教寺が正式名。川向うの市川市には日蓮宗大本山の法華経寺があって、かつては京成千葉線の車内から五重の塔が見えた。後で調べたら、この帝釈天はその法華経寺の僧が江戸初期に開山したようだ。日光東照宮に似た彫刻が本堂に施されているが、こちらは無色。折角なので無料ゾーンだけ拝観させていただいた。 再び駅に戻る途中、名物の塩饅頭と羊羹をお土産に買う。妻も柴又の雰囲気にすっかり魅せられたようだ。次の見学地は東京スカイツリー。ここからは乗り継ぎだが、意外に近い。東京の私鉄や地下鉄は複雑で分かり難い。私は40年前の丸ノ内線と銀座線のイメージのまま止まっている。だから成田空港と羽田空港を繋ぐ路線などの存在には驚くばかり。時代がどんどん変化しているのを実感する。 東京スカイタウンの建物から外へ出る。まあ大変な人混みだ。まだオープンして間もない上に、土曜日なので、観光客が全国から集まって来るのだろう。真下から見上げるツリーは迫力がある。少し離れた場所まで歩き、次男に写真を撮ってもらった。きれいに整備された感じの街だが、テレビのニュースでは観光客が捨てるゴミの量が凄いのと、自転車を放置する人が多いと言っていた。 古いお寺の次は最新の建造物。この落差の大きさを楽しめた。次は長男の勤務地である日本橋へと向かう。降車駅は「水天宮」。これも何やら曰く有り気な名前だが、かつて奈良の方から勧請した安産の神様らしい。地上への出口を間違えたようで、再び反対方向へ戻る。地下道に立っていた長男に手を振る。顔色があまり良くない上に、また太ったようだ。相変わらず仕事が忙しい由。 蠣殻町、小舟町、室町など、いかにも江戸時代の風情を感じる町名だ。昔は東京湾も、またそこに注ぐ川の水もきれいだったのだろう。長男お薦めの蕎麦屋へ入る。私達夫婦は天盛り、長男は鴨せいろ、次男はザルの大盛りを注文。出て来たものは更科系の上品なもの。麺が細く味は薄い感じ。「これなら山形のソバの方が美味しいね」妻がささやく。山形のソバは10割で味が濃く、ボリューム満点の上に安くて美味いのだ。 昼食後は日本銀行の本店を見学。明治時代の建物なのか、いかにも歴史を感じる外観だ。付近の銀行やデパートなど、いかにもそんな雰囲気の建て物が多い。次に「日本橋」へ向かう。ここは東海道などかつての5街道の出発点。道路の真ん中に、その基盤が埋められている。青く錆びた橋を背にして記念撮影。だが川の水は汚なかった。 忙しい長男とはここでお別れ。そっと小遣いを手渡す。何度も振り返りながら彼は道路の向こうに消えた。きっと私達と別れるのが淋しかったのだろう。来月には帰省すると、帰宅後妻に電話があった由。私達はそこから地下鉄に乗った。次の目的地は芝の増上寺。私は40年以上前に行ったことがあるが、妻は初めて。果たしてあれからどんな風に変わったか。<続く>
2012.07.23
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≪ 柴又「帝釈天」への道 ≫ 新幹線の中で合羽を干す。他にそんな人がいるだろうか。朝早い車両には乗客もまばら。それを良いことに、妻は濡れた雨具を干した。朝早い旅の場合、車のない我が家では駅に向かう「足」はいつも自転車。それが折り悪しく雨の場合は、当然濡れることになる。駅に着いた妻の顔もビッシリと雨の痕が残り、私の眼鏡も雨で濡れた。 暇にまかせて新聞を読む。私は当日のを、妻はまだ読んでいない前日のを。テレビを点けないで読む新聞は、良く頭に入る。ほとんど読み終えて少しまどろむともう宇都宮。車内が混み出したので合羽をリュックに入れ、座席を1つ空けると、たくさんの荷物を持った女性客が横に座った。「鈍行」の東北新幹線でも2時間20分ほどで東京に着くのが有難い。 改札口に出ても、次男の姿はない。そこで中央口の方まで見に行くが、そこにもいない。どうしたものかと妻を待たせた南口へ戻ると、「上野駅の山手線乗り場で待ってる」とのメールが来たと妻。私が考えていたのとは違ったが、次男も何か考えがあるのだろう。そう思い直して、不要な荷物は地下のコインロッカーに入れた。 私達がこの日買ったチケットは、「ウイークエンドパスポート」とか言うもの。これは「管内」なら何度でも使える優れ物。その都度切符が必ず戻って来るのが嬉しい。山手線の上野。それらしい若者を見つけたので、その方に歩み寄ると、「お父さん」と妻が後から呼ぶ。次男はカッコ良い若者ではなく、どうやら冴えない服装の男の方だったようだ。 そう言われて見れば確かにニヤニヤした次男が立っていた。正月以来の再会だが、元気そうで良かった。その間に私が2回の不整脈の手術を受けたことを彼も知っているが、特段「大丈夫?」とかは聞かない。こちらも東京でアルバイト暮らしの彼を心配はしているものの、面と向かって言いはしない。これが父親と息子の関係だろうか。この次男とは、それでも気持ちは通じている。 「最初は柴又へ行くからね」。次男はそう言う。今日見物したい候補地は前もって幾つか伝えていた。それを彼なりにどう移動したらスムースに行くかを考えてくれていたのだろう。「京成電車」へ向かう。この辺は東京勤務時代の通勤路だったせいで、私も結構土地勘がある。と言っても、もう40年も前の話で、次男はまだ生まれてなかったのだが。 京成の各駅停車に乗るのは初めて。そのガラガラの車両内で、次男はサンドイッチを食べた。東京の下町は、どこか親しみが持てる。どんよりした曇り空の下に広がる薄汚い家家。そのうち次男が指を差した。その方向に、「東京スカイツリー」が見えた。先頭部分には雲。もう当日券を売り出しているが、こんな曇り空では上空からの景色もあまり良くは見えないだろう。 柴又で降りると、駅前に「寅さん」の銅像があった。頭には例のカンカン帽子を被り、右手には大きなカバンを下げている。今は亡き渥美清の懐かしい顔が、直ぐそこにあった。横に佇むと大勢のボランティアの1人が近づき、写真を撮ってくれると言う。妻と一緒にカメラに収まる。そこから彼が猛烈にしゃべり出す。それが「ええ~っ、何なのこの人は?」と言うほどの熱心さなのだ。 「解説してもらえば」。次男が言う。中年の男性は喜び勇んで、手に持った資料を広げた。いやはや詳しいのなんの。両側にずらりと並んだお店の由緒を教えてくれるのは良いのだが、特に寅さんファンで無いものにとっては、話の半分はどうでも良いことなのだ。折角なので名物の草団子も買って食べた。ボランティアの説明はそこから一層詳しくなった。 「帝釈天」へ向かう途中から、八幡神社へ向かう。その道すがら、この周辺の歴史を聞いた。奈良時代の資料によれば、この柴又は「嶋俣」(しままた)と記されていた由。そして正倉院に残された嶋俣の戸籍には「トラ」と「サクラ」と言う人名が残っていたそうだ。もちろん偶然なのだが、彼にとっては「奇跡的な出来ごと」に思えたのだろう。 付近には一躍歌で有名になった「矢切の渡し」もある。江戸川の向こうは千葉県。かつての下総国府もあった由。そこで思い出したのが平将門。平安中期、彼は下総、上総、常陸、下野、武蔵の国府を次々に破り、「新皇」と名乗って関東を制覇した。結局は親族に討ち取られるのだが、同時期に四国で反乱を起こした藤原純友と並ぶ古代の勇将だ。 八幡神社の地下には古墳がある由。古墳の上に神社が建てられる例は全国にも良くあること。まだ文字の無い時代、そこに「先祖」が眠っていることを代々口で伝えられたのではないか。そして小さな祠が後世神社に変わったと考えられないだろうか。<続く>
2012.07.22
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仙台はかなり涼しい朝です。これから愛犬との散歩と朝食を済ませて駅に向かいます。東京も涼しいみたいですね。帰りは遅くなります。「お上りさん」の報告は、明日になります。では、皆さん失礼して、行って来ますね~!!
2012.07.21
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四国に住む長女から、先日電話があった。妻が送ったお中元が届いたとのこと。元気そうな声を聞いて安心した。私は長女に桃を送る手続きをしてることと、週末に東京に行くことを伝えた。桃は果物が嫌いな孫達も喜んで食べると聞き、ここ数年送り続けているもの。昨年だけは例の放射能汚染問題で山形県産のを送ったが、今年は例年通り福島県産のものを送ったと告げた。 もちろん汚染はしていないのだが、知らない地方の人は気にする。だが長女は何も心配してないと言ってくれた。福島県産の農産物は風評被害でさっぱり売れないらしい。郵便局では震災復興支援として福島県産の桃を扱っていたので、今回は敢えてそれを申し込んだ。しかも例年は進物用だったのを今年初めて自家用にし、ついでに我が家の分も頼んだ。もっとも届くのは、8月に入ってからなのだが。 昨年までの値段で2軒分の上に、復興支援につながるのだから嬉しい話。長女も喜んでくれた。妻と電話を代わる。後で聞いたら上の孫がコンクールで上位になり、神戸に行くらしい。それで妻に来ないかと尋ねたようだ。今年の2月には東京であったコンクールにも妻は出かけた。私は留守番で、もう3年ばかり孫に会っていない。長女が私の健康を気遣っていたのが、せめてもの慰めか。 先日JRの「大人の休日倶楽部」入会の手続きを済ませた。申し込んだのは夫婦会員だが、会員手帳などが届くには暫くかかるようだ。これに入るとJRの切符が安く買える。後2年以内に妻も仕事を辞めるだろう。そうなったら2人で旅行をするのだ。もちろんその前にも行けるが、老犬がいるため日帰りかもしくは1人だけで行くことになる。 妻は長野の風景が好きで毎年バスツアーで出かけているが、今年は列車の旅だ。私は取り敢えず、津軽海峡線に乗って、北海道へ渡ってみたい。東北新幹線も盛岡までは乗っているが、その先はまだ。体調さえ良ければ、旅も楽しめるはず。私は鎌倉でも良いし、京都や奈良へも行きたい。古都には私の好きな歴史と風情がある。 さて、野菜中心の昼食にし、朝と夕食のご飯を減らしたら、体重がようやく元に戻った。出っ張っていた腹が凹み、少しだけすっきりした感じ。その代わりと言って良いのか、1日だけウンチが出なかった。これも多分運動不足のせいだろう。働いている時は、起床後直ぐに出たし、出なくても朝の散歩後には出た。食事と排便が運動と密接につながっていることを、今回ほど意識したことはなかった。 からりと晴れ上がった昨日、初めて梅干しを干した。漬けている梅を干すので梅干しと言うわけだが、干すことできっと発色が良くなるのだろう。2kgほどの我が家の梅の実は、順調に梅干しになっている。最低でも後1回は干してみよう。妻は早く食べたいと言うのだが、今はまだ酸っぱいだけで、十分漬かっていないはず。そんなに慌てることはない。 昨日は忙しい妻に代わって、整形外科で湿布薬をもらって来た。ドクターに呼ばれて症状を聞かれたのだが、妻は黙って渡してくれると思っていたようだ。薬の不正な入手を防ぐためにも、そんな風なシステムになっているのだろう。今日は私の番。いつもの内科で、不整脈と高血圧の薬をもらう予定。目下心臓の鼓動が安定しているのが嬉しい。 明日は早朝から妻と東京へ行く予定。長男と次男に会い、ちょっとした東京見物をしようと思う。ヒートアイランド現象もあって、大都会はきっと暑いだろう。直ぐ汗をかく私にとっては苦痛だが、2人の息子達に会えると思えば我慢も出来る。そんな訳で、明日は一日留守にし、この日記も書けないはず。少し早い夏休みですが、読者の皆さんよろしくね~。
2012.07.20
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九州と東北を除いて梅雨が明けた。しかし、九州のあの豪雨は何なのだろう。1時間で40mmでも大変な豪雨なのに、100mmとは。そして1日の降雨量が1000mmを越えた日もあった。特殊な気象条件が重なった結果だったのだろうが、たくさんの死者と行方不明者を出したあの濁流には驚いた。きっとこの数日の雨量は、通常の1年分くらいになったのではないだろうか。 東北でもかなり降り、その影響が我が家の畑にも現れた。トマトの根がかなりの雨で腐り、病気になったのだ。慌てて3本のビニール傘をトマトの畝に差したのだが、措置が遅かったようだ。茎が下から茶色になり、トマトが生ってる「へた」の部分まで変色して来る。そのうち苗全体が茶色に腐るだろう。そんな苗が3本はある。せっかくたわわに実り、赤く色づいて来たのだが。 モロッコインゲンの葉が、少し黄ばんで来た。そろそろ終わりのサインか、それとも水不足なのか。東北にはまだ梅雨明け宣言が出ていないのだが、このところ猛烈な高温が続き、我が家の小さな庭や畑も乾燥気味なのだ。そのため苦しがった虫が、野菜の葉を食べにくる。テントウムシなのか、それともテントウムシダマシかは分からない大量の虫。 ジャガイモの葉の半分は食われた。これはそろそろ収穫なので、食われても大丈夫のはず。ところがこれから成長が続くナスやトマトは、葉がスカスカに食われると今後の成長に大きく影響する。殺虫剤は極力使わず1匹ずつ捕まえて殺すのだが、これがまた大変な作業で手が臭くなる。彼らも生きるのに必死で、お尻から嫌な臭いを出して逃げようとするのだ。昨日は多分40匹以上殺したはず。 ナスはかなり大きな実が幾つか採れた。トマトも赤い実が10個以上実っている。モロッコインゲンは毎日ザル1杯分ほど採れる。キュウリもきれいなのが少し採れ出した。完熟したミニトマトは味が濃くて美味しい。ピーマンも幾つか収穫したが、本番はこれからだ。そんな野菜が虫に食われるのはしゃく。しつこいダンゴ虫などは、ナスに穴を開けて軟らかい果肉を食べるのだから。 2kgほど収穫した梅の実は、梅干しになる途中。「今年の梅干しはお父さんが作ったようなものだね」と妻。彼女は右手の腱鞘炎で、なかなか思うように家事が出来ないでいる。枝から全部採ったと思った梅の実だが、黄色く色づいたのを3つほど見つけ、そのまま洗って食べた。青い梅の実には青酸とか言う毒性が含まれているが、黄色く熟れれば少し酸っぱい果実だ。 暑さのせいか、庭のユリが咲き出した。白いのはテッポウユリで、黄色とピンクのはカサブランカか。今年はクチナシの花がとても少ないのは何故だろう。カンゾウかキスゲの仲間も咲き出した。暑がりの老犬マックスは、涼しい玄関に入れろと毎日吠える。ひんやりとした床が好きで、そこだと安心して眠れるのだろう。 増えた体重が気になる私は、昼食はもっぱら畑で採れた野菜を食べることにした。茹でたモロッコインゲンとナスには出汁醤油をかけ、トマトはもちろん切っただけで。それにバナナとお菓子を少々。コーヒーには牛乳を入れて。これまでの体重より増えたのは600gほどだが、油断をしたら直ぐに2kgほど増えるので大変。家の中で読書ばかりの日常は、相当運動不足のはずなのだ。 さて、今日も美しい朝空。きっと暑くなることだろう。そろそろ東北にも梅雨明け宣言が出ても良い頃だ。布団をたたんで、愛犬と散歩へ出かけよう。そしてその後は、庭と畑に水を撒かないとね。
2012.07.19
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一体何なのだろう。この空しい気持ち、どんよりとした閉塞感は。例えば大津市で起きた「いじめ」による中学生の自殺。校長の説明も腑に落ちないし、教育委員会の説明もおかしい。彼らには全く教育者としての良心が感じられないのだ。あるのは何とか現状を維持し、混乱を避けようとする自己保身だけで、問題を解決しようとする姿勢が全く感じられないのはどうしたわけだろう。確かあの学校って、道徳教育の実験推進校らしいのだが、何だかなあ? かつては聖職と言われた教師。今その誇りを持って生徒や児童に接している教師がどれだけいるのだろう。問題に対応出来なくて、うつ病になる教師も多いと聞く。そして校長は自分の評価ばかり気にする。中立性を持つ教育委員会も、十分に機能していないのではないか。聖職に聖域。批判を許さない体質が、校内での陰湿ないじめにつながっている部分はないのだろうか。 政治もおかしい。政治家が本当のことを言わないのだ。マニフェストが破たんしたのなら、はっきりそう言えば良い。「この部分が間違ってましたから、こんな風に改めます」。と国民に説明したら良い。何だかはっきり分からないうちに、方針ががらりと変わる。群馬県の八ッ場ダム建設などはその典型。言うことやることがコロコロ変わって、何を信用したら良いのか分からない。 「最低でも県外」。「東シナ海を友愛の海にする」。良いね良いね、理念だけは。でもその方法論は全く述べられない。空疎な理念は政治家の頭が空っぽな証拠。「言うだけ」で国民の信用を得られると考える政治家の軽さ。言葉の軽さ。中身のなさ。そんな政治家を、一体だれが信用すると言うのだろう。与党も野党も自分の党の都合ばかり。国家戦略なんてどこにも感じられない二流国だ。 沖縄の県民もどこかおかしいよ。確かに長い抑圧の歴史があり、苦しんだのは分かるけど、国境地域にはやはり軍備は欠かせないと思うのだ。尖閣があのままで良いの。街中の基地が古びて事故が起きても良いの。防衛大臣が訪れても、国で一番の責任者である総理大臣が訪れても、仲井真知事のあのブスっとした態度は何なのだろう。国と沖縄県は決して対等ではないと思うんだけど。 確かに沖縄は不幸だった。本音で沖縄県民と話す政治家が少なかった。だから今でもそうだけど、沖縄では反対だけしてたら、たくさん予算をつけてくれると勘違いしてるんじゃないかな。一体だれが国土を守るのか。一体だれが複雑な関係にある国境を守るのか。それなのに、上海で沖縄の土地を売り出すセールを、沖縄県が援助したみたい。もっとも中国人が土地を買っても、日本のものであることに変わりはないけどね。 民主党を飛び出した小沢さん。彼について行ったたくさんの議員達。消費税の引き上げに反対、原発にも反対なんて言うのは簡単だけど、日本の政治や経済にはたしてどんな展望を持ってるのだろう。今は政局ばやり。そして人気取りばかり。テレビでは下らない放送の垂れ流し。感じはしても考えない国民。信頼する心を失い、一億総白痴化の国民じゃ、政治がこんな風になるのも当たり前かな。 大飯原発(福井県)と志賀原発(石川県)の敷地内にある断層が、活断層かどうか再調査するみたい。もし活断層だと分かれば停止や廃炉へと向かうのだろうが、そもそも建設する際に、そのことが分からなかったんだろうか。「将来のエネルギー政策に関する意見聴取会」での電力会社の社員の発言問題も酷いね。あれは完全な「やらせ」。あんなのが許されるのが日本の現状とは情けない。喝!
2012.07.18
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「二次会」からの帰路、酔っ払って歩きながら、私は少しだけ元気を取り戻していた。久しぶりに走友会の仲間に会ったせいだ。少し痩せた感じのYちゃんはきれいになっていた。「仙台ハーフの時に声をかけたのは私だよ」とEちゃん。「応援している私を呼んだランナーが誰だったか分からない」と書いた2か月前の私のブログを、彼女は気にしていたのだ。書いた翌日に私もそれを思い出してはいたのだが。 今10kmくらいしか走れないとEちゃんは言っていた。それでも走れるなら良いさ、私なんかたった10歩ほどだもの。東京のY子さんは少しふっくらしたかもね。私と同様足に障害を持つ彼女。気になって走れているか尋ねたら、やはり無理なのだそうだ。70歳間近の私ならいざ知らず、スピードランナーでまだ40代の彼女が走りたくても走れないのは、悲しいだろうね。 8月の「薬莱山とお足」のことを気遣い、来年の「みちのくラン」の時はボランティアで参加したらと言ってくれたKさん。色々心配してくれてありがとうね。すっきりした表情のTさんも元気そうで良かった。最近走り始めたと言うS村さんの奥様とは初めて会った。11月の「佐渡島一周」に初めて参加するS村さん頑張ってね。何度も参加したO川さんは、きっと何の心配もないはず。 74歳になるM仙人が相変わらずウルトラを走れているのが凄い。ますます元気な感じで嬉しい。長老D堂さんがまだ働いているのも大したもの。翌日には早速彼が撮影した「二次会」の写真が、走友会の掲示板に載った。声をかけてくれたM井さんありがとう。東京のS水さんは、わざわざ「仙台ハーフ」応援のお礼を言いに来てくれた。唯一ブログにお礼を書いてくれたのも彼ヨン様だった。 最近結婚したと聞くO友氏の落ち着きぶりは大したもの。受付で私が冗談を言っても、ちゃんと受け流してくれたもんね。蔵王山麓の美味しいパンの店は上手く行ってるの、S目さん。「今でもブログを書いてるんですか、そしてどんな手術を受けたんですか」と聞いてくれたH岡さん。会長のF田さんも、わざわざ挨拶に来てくれてありがとう。 新郎のH郷さんも元気そうで良かった。新婦が案外色っぽかったね。これからも仲良く走って下さい。76歳の鍛えられた肉体美を披露したS木さん。舞台に上がったスピード組のK野さん、T橋さん、A部さん達のパフォーマンスは愉快だったね。そしてみんな元気そうで良かったよ。夜道を歩いて帰りながら、ひょっとして自分もまた走れるようになるかも知れないなんて、錯覚したくらいだった。 でも、翌日になると、やはり足が痛む。走れないランナーなんて走友会に所属する意味がない。ましてウルトラマラソンの同好会に所属する意味なんて。これまで何度そう思ったか分からない。走友達の活躍が、正直言って時には辛く感じることもある。だがこう思ってじっと我慢しているんだよね。「まだランナーとしての魂が残っているうちは、自分もランナーの端くれだ」と。たかがランニング。されどランニング。
2012.07.17
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いやはや参った。まだ酔いが残っている。だが、この日記を書き終える頃には、多分醒めているはずだ。酔っ払った原因はある二次会。私は「一次会」には出ず、二次会だけの参加だった。案内のメールが来たのは、2か月ほど前だったと思う。2か月先の体調が心配ではあったが、ともかく出席するとの返事を出した。だが、それは相手に届かなかったようだ。 届かなかった原因は、メールのあて先が携帯電話だったため。必ず返事は欲しいと書かれていたため「住所録」で自宅の電話番号を探し、直接電話して見た。彼は所属走友会の後輩。ランニングの世界ではエリートのサブスリーランナー(フルマラソンを2時間台で走れる実力者)なのだ。その彼が結婚式を上げるのだが、披露宴の招待者数には限りがあるため、「その他大勢組」は二次会だけの招待になったのだろう。 おめでたい話なので断る理由はない。だが何かと心配はあった。先ずは自分の体調が第一。そして暑い時期の披露宴に、何を着て行けば良いかが第二の問題。後は会場が分かるかどうか。メールには、さるデパートの向かいの5階と書かれていたからだ。名前も書かれてはいたが、それがビルの名前なのか、それとも店の名前なのかは分からない。ともかく昨日がその当日だった。 体調が悪くて仕事を辞め、走るのも止めた。そのために体重は増え、街へ出るのも、大勢の人の中に混じるのもおっくうになっていた。前職にいた当時はもちろんスーツ姿だったが、それ以降スーツを着ることはほとんどなくなった。まして薄い生地の夏用スーツは限られている。果たしてズボンが合うかどうか心配だった。きつかったが、何とか入った。そして会場のビルも何とか見つけた。 5階まで行くと、仲間のO川さんがいた。彼と会うのは新年会以来。その後続々と仲間が集まり、広い部屋の一角をわが走友会のメンバーが占めた。懐かしい顔ぶればかりだ。中にはわざわざ東京から来た走友もいた。会場はビアホールみたいだが、実際はイタリア料理店なのだそうだ。でも出て来るメニューはやはり「飲み放題」のつまみだけ。 ビール、ワイン、焼酎、日本酒。いつもは薄い焼酎の水割り1杯だけなのに、飲み出したら案外飲めた。もうこうなったら新郎新婦などそっちのけだ。だが新郎が38歳であることは耳に残ったし、初々しい新婦の姿も目に焼き付いた。わが走友会のメンバーが唯一の余興をやった。愉快なパフォーマンスは、大いに座を盛り上げた。 珍しいことに、私は抽選会で初めて賞品をゲットした。当たったのは新機能の体重計だったが、見知らぬ青年に上げた。野茂英雄に似た太った青年だった。彼も酔っ払いから賞品をもらうとは思っていなかったはず。帰りのバスはなかなか良いのがなかった。日曜日の夜は、本数が少ないのだ。仕方なく、かなり手前で降り、3kmほどを千鳥足で帰った。 新郎は我が家の長男と同じ年頃。我家の2人の息子にも、果たしてこんな日が訪れるのだろうか。そういえば私達夫婦も、正式な結婚式と披露宴の後に、友人を中心とした会費制の披露宴を続けて行った。あれから42年。3人の子供達はその時の私達の年齢を遥かに超えた。新郎新婦の新しい門出に幸あれ。私も何とか元気に老後を過ごしたいと思う。
2012.07.16
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近所の広場に建てていた老人ホームが姿を現した。3階建てのかなり大きなもの。工事を始めたのは確か昨年の秋ごろだったので、結構長くかかった方だ。広場は町内会のグランドゴルフの会場でもあった。だが、40年前は沼。周囲のほとんどは田圃で、沼は田圃の水源だった。そのせいか、工事中に大量の水が噴き出した。多分その水にてこずったと思う。 偶然だが、私もここで田植えをしたことがある。当時下宿先の小母さんの実家がこの周辺にあり、たまたま田植えを手伝ったのだ。あれが唯一の田植えの経験だった。それが不思議な縁で、この土地を買うことになった。結婚して間もない頃だった。当時はほとんど家もなく、私はそのまま放置して全国を転勤し続けていたのだ。だから家を建てる時は、敷地がゴミ捨て場のようになっていた。 我が家のある路地には、建売住宅も何軒かあった。そのうちの1軒が、目下「新築そっくりさん」の工事をしている。やはり昨年の大震災で、被害を受けたようだ。私達が結婚した頃、妻の父には建売住宅は買わない方が良いと言われていたのだが、こうなってみるとやはり亡き義父の意見は正解だったのだろう。 建売住宅のもう1軒は年寄り夫婦が住んでいるのだが、顔を見ることは滅多にない。寝た切りのお爺さんを高齢のお婆さんが看護しているのだ。時々、介護施設の車がお爺さんを送り迎えに来る。そして毎日お弁当が配達される。私達夫婦もいずれはそうなるのだろう。 草ボウボウだったその家の庭が、最近きれいになった。草取りをしたのは若いお嬢さん。多分ボランティアの人だろうが、前に入った植木屋さんよりも丁寧な仕事ぶりだった。我家の裏の家も、とうとう木を切った。大きな木が何本もあり、毎年大量の枯葉が我が家の裏庭に落ちる。それを注意し続けて15年。ようやく本格的に伐採したのだ。 もっとも悩みの種だったクルミは、バッサリ伐られた。強い北風が吹くと、ほとんどの枯葉が我が家に落ちた。高い木で、2階の樋に枯葉が入るのも嫌だった。伐れば自分の庭もすっきりするのに、なぜ今まで放置していたのだろう。先日その家の主と会ったら、すっかり老人の顔に変わっていた。そうか。彼も歳を取って思うように動けなくなり、ようやく手伝いを頼んだのだ。 町内の角にある工務店。道路に停めた小型トラックの運転席には「工事関係車両」と書かれた札。資材が積まれた駐車場に入れられないため、違法駐車なのだ。あのなあ、工事車両には違わないが、それで違法駐車が許される訳じゃないんだよ。その家の屋根は、ブルーシートがかけられたまま。震災で壊れた屋根瓦をまだ直していないのだ。自分の家も直さない工務店って、一体何なの?。 さて、新しい老人施設の脇には、これまた新しい道路が出来つつある。これまで草ボウボウだった小道が、幅6mの舗装道に生まれ変わるのだ。きっと人の行き来が便利になるはず。この辺りは消防車も通れない道が多い。かつての農道がそのまま生活道路になったためだ。今では田圃どころか畑もない、全くの住宅地。40年の歳月は、風景を一変させてしまった。
2012.07.15
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インカ帝国の範囲はとても広い。中心地は現在のペルー、エクアドル、ボリビアだが、北はコロンビアから南はチリ、アルゼンチンにかかる。そして西は南太平洋岸の砂漠から始まり、アンデスの高地を越えて、アマゾンのジャングルまで達する。それを繋ぐのが「インカ道」。とてもアップダウンに富んだ道だ。総延長は4万kmと言うから、地球1周分に相当する。 その険しい道を、1日で260kmほど走ったそうだ。馬ではない。人間だ。それも1人の人間ではなく、「飛脚」が小刻みにつなぐ駅伝方式のようだ。彼らのために、数十kmごとに宿泊施設も用意されていたと言うから、やはり本格的な情報伝達手段だったのだろう。険しい崖の道を必死で走って行く飛脚の姿を思い浮かべると、彼らの苦労も分かるような気がする。 インカには文字がない。ではどうやって各地に王の命令を伝えたのか。口頭での伝達もあったろうが、彼らの独特の記録媒体として「キープ」がある。これは縄の結び目を使っての信号で、3段階まで情報を細かく記録していたようだ。似たようなものに、琉球王国時代の「わら算」がある。これはわらの結び方で、どんな穀物をどれだけ収めたかが分かる仕組みで、文字を読めない島民のために考えられたものだ。 インカの王は征服した民族に、大量の贈り物をしたようだ。征服された側はこれを一方的に受け取るだけで、返礼は出来ない。彼らが出来るのは服従のみだ。征服された側の中心人物は、帝国の都へ移住させられる。そして代わりの者が彼らから技術を学び、共に産業を支える。こうして北から南まで、帝国は強化されたようだ。 金や銀は採れた。だが、インカに鉄鉱山はない。だからマチュピチュの精巧な石組みは、堅い石を使って加工したものなのだ。カミソリの刃すら入らないと言われているあの石組みを、一つ一つ丁寧に積み上げるには、相当の時間がかかったと思う。住居、水路、天文観測所、段々畑、そのすべてが石で出来ているのだから。そして避暑地マチュピチュに住める人数は750人だそうだ。 インカの文化の特徴の一つはミイラ作り。征服した民族にもミイラ作りを奨励したようだ。海岸部の乾燥した砂漠地帯のミイラは良く保存されているし、4千m級の山上に捧げられた「いけにえ」の子供も、体はさほど傷まずに残っている。今回展示されているミイラの中には、眼球の一部が残っているものもある。遺体は少女だが、とても奇跡的なことらしい。 展示総数は260点余で、ペルー以外の博物館や研究機関からも借用した、本格的な展示内容だった。きらびやかな財宝は少なく、王も含めインカの人々の暮らしが良く分かるものが多かった。綿、リャマやアルパカの毛にも自由に触れた。それらが高地の冷涼な気候から体を守った衣服の材料だ。3Dの映像も観た。まるでコンドルに乗って、上空からマチュピチュを観ているような気持ちになった。 マチュピチュの精巧な模型もあった。私はその周囲をグルリと回った。走友の中には、そのマチュピチュを2回も訪れた人もいる。私は多分行けないだろう。でも十分満足だ。この『インカ帝国展』を半額で観られたのだから。そして模型とは言え、マチュピチュを俯瞰したのだから。空中都市マチュピチュの傍には、あの三角の山「ワイナピチュ」も聳えていた。発泡スチロールの山容ではあったが。<完>≪ 参考「:コンドルは飛んで行く」 日本語訳≫ああ雄大なアンデスのコンドル連れて行っておくれ私の家へ、アンデスのああコンドルよ私の最愛の地へ戻りたいインカの兄弟と共に生きたい この郷愁よああコンドルよクスコの大広場にマチュピチュとワイナピチュを待ってさあ出かけよう
2012.07.14
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インカと言ったら、一体何を思い浮かべるだろうか。きっと「天空の都市マチュピチュ」と答える人が多いと思う。そして中には「コンドルは飛んで行く」の哀愁を帯びた旋律を思い浮かべる人もいるかも知れない。あの光景にあの曲は、やはり定番だろう。そのマチュピチュが発見されてから100年を記念する『インカ帝国展』が今、仙台市博物館で開かれている。 確か仙台の前は国立科学博物館での開催だったはず。もし仙台で開かれなかったら、東京へ行きたいとも思ったほどだからラッキーだった。それにしても日本人はなぜあの山上の遺跡に憧れるのだろう。「石組み建物を自然景観の中にうまく溶け込ませる感性が、日本の借景の発想と似ていて、自然と寄り添う感覚に共感するからではないか」と、国立科学博物館の篠田氏(人類史研究グループ長)は言う。 南アメリカ大陸の古い文明と言えば、地上絵で有名なナスカ、王の遺骸を逆さまに埋めるシカン、土器に特徴があるチャビンなどがあるが、インカはそれらに比べればかなり新しく、最近の研究では1200年頃から1400年頃にかけて国家が徐々に拡大して行ったと考えられているようだ。日本で言えば鎌倉から室町時代の頃だ。 そのインカが突然滅亡したのは1532年。スペインのピサロが率いる160人ほどの手勢によって最後の王第13代アタワルパが捕えられ、翌年処刑される。インカが敗れた理由は簡単。武器がこん棒やナイフだけで、荒くれ者達が持つ鉄砲には勝てなかったのだ。そしてその前から侵入者がもたらした病気によって病死し、人口が減少していたとも言われている。 インカには「馬に乗った白い神」が訪れるという言い伝えがあった。だからピサロ達馬に乗った白人を神と信じた彼らは、安々と侵略を許したとの説もある。「この部屋いっぱいの金を上げるので、命だけは助けてほしい」。アタワルパ王は命乞いする。事実、急遽インカの各地から集められた金は、約束通り部屋に満ち溢れたと言う。だがピサロはあらん限りの金銀を奪い、翌年王を殺した。 奪われた大量の金と銀は、溶かされてインゴットにされた。いわゆる「延べ棒」だ。本国スペインに送りやすいためでもあるが、インカの人々を奮い立たせる宝物の呪術性を解き放つためでもあった。こうしてインカの秘宝である大量の芸術品は、ほとんどが地上から消えた。今に残されている金銀製品はわずかで、助かった大部分は合金製のものなのだ。 マチュピチュは1440年ごろに造られた王の避暑地と言われている。アタワルパ王の処刑と共に滅んだこの山上都市を500年後に発見したのは、アメリカの歴史学者であるビンガム。地元民から「空中の街」の話を聞いて探しに行ったのだ。石組みの街は、ぼうぼうの草に覆われていたようだ。マチュピチュは地元のケチュア語で「老いた峰」の意味。そしてインカはケチュア語で「王」の意味だ。<続く>
2012.07.13
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「アニメですけど良いんですか」。この手の映画を観る時、チケット売り場の若い女性が必ずそう聞く。「まさか、クレヨンしんちゃんじゃあるまいし」。もちろん分かってるさ。恐らくは彼女達の方が映画の内容を知らずに、マニュアルどおり客にそう聞いているのだろう。 「風の又三郎」、「オッペルと象」、「銀河鉄道の夜」、「セロひきゴーシュ」、「よだかの星」、「注文の多い料理店」などが宮沢賢治の童話であることは知っている。だが、実際に本を読んだ記憶はほとんどない。「オッペルと象」を小学校の教科書で読み、「よだかの星」は劇を観たくらいか。「グスコーブドリの伝記」も全く同様で、知ってるのは名前ぐらいなものだ。 孤高の童話作家にして詩人の宮沢賢治は明治29年(1876年)に岩手県で生まれ、昭和8年(1933年)にわずか37歳で亡くなった。きっと「雨ニモマケズ・・」の詩は、誰でも知ってるはず。生家の暮らしぶりは割と良かったようだが、進学したのは盛岡農学校。現在の岩手大学農学部の前身に当たる。 さて、映画「グスコーブドリ」の登場人物はネコ。もちろん童話では人間なのだが、ネコの方がこの童話の神髄を良く表現できるとキャラクター原案担当のますむら・ひろしは考えたようだ。彼は「銀河鉄道の夜」を漫画化した人。そして監督、脚本、絵コンテはアニメ「白蛇伝」(昭和33年)を手がけ、テレビの「まんが日本昔ばなし」を作った杉井ギサブロウ。 不思議な話だった。冷害に苦しむ一家が、次々にいなくなる。雪の中に飛び出す父。そしてそれを追いかける母。残り少なくなった食べ物を、子供達に与えるようにして消え、2度と戻って来ない。妹もいつの間にか家から消え去る。さらに冷え切る気候。そこでグスコーブドリが採った大胆な行動とは・・。 賢治が生まれた年と死んだ年には、三陸沖地震があったそうだ。もちろん当時は冷害も多く、食えなくなった家では娘を女工や女郎にして凌いだ。少し恵まれた生活をしていた賢治には、そのことが心の負い目になっていたと聞く。最初からドキッとする場面の連続は、暖かくて優しくて楽しい童話とは全く異なる。当時の東北の農村の貧しい暮らしが、童話の根底にあるのだ。グスコーブドリは苦しむ人々を救うために乗り出し、そのまま帰って来ない。 彼の童話の背景には農学校で学んだ自然科学の知識、熱心な法華信者だった宗教心、そして熱烈な愛郷心がある。映画を観てそのことが良く理解出来た。彼が描く理想郷「イーハトーブ」とは、岩手県のことなのだ。因みに他の作品に出て来る地名「モリオール」は盛岡のことで、「センダード」はお隣の県都仙台のこと。 賢治の精神がこの作品にも良く表れていた。擬人化されたネコは、やはり賢治ワールドにはピッタリだった。実は上映時間のうち、合計で4分の1か3分の1ほど、私は眠っていたようだ。それでも筋は繋がったし、青年グスコーブドリの崇高な精神は分かった。結局、グスコーブドリは愛の人賢治そのものだと思う。 エンディングに流れる曲も良かった。あの透明な歌声は誰なのだろう。魂が浄化される歌、魂を揺すぶる歌。人々の幸せを祈って天空に消えたグスコーブドリの心が、そのまま清らかな曲になった感じ。家に帰って調べたら、歌っていたのは小田和正。彼は結構な歳のはずなのに、まだあんな声が出せるのだ。まだあんな魂の歌を歌えるのだ。新たな驚きだった。そして『グスコーブドリ』は童話と言うよりも、素晴らしい文学そのものだった。<第2部へ続く>
2012.07.12
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デデポポ~、デデポポ~。山鳩の鳴き声を聞きながらモロッコインゲンを収穫する。このところの高温でモロッコインゲンの成長が早い。だが大きくなっても軟らかくて美味しいのが、普通のインゲンと違うところ。先日もボウルに一杯採ったのだが、あれはどうしたかと妻に尋ねたら、全部人に上げた由。あのなあ、園芸関係は全て俺が金を出し、俺が野菜を育ててるんだよ。それを黙って人に上げるなんて。 お向いさんから2度もお礼を言われたので聞いてみたら、2度もらったと言っていた。そして「軟らかくて美味しいね」ともね。それはそうだ。俺が苦労して育てた野菜だもの。長い間雨が降らない時は水を撒き、雑草が伸びたら蚊に食われ汗だらけになって草を抜き、追肥をしたり土寄せをする。収穫だけしかしない女房とは苦労が違うんだよな。 それにしても女房殿の煩いこと。やれ、「食器を洗った後は十分に濯げ」とか、「最後に風呂に入った人は床や壁を拭いてから上がれ」とか、「カスピ海ヨーグルトを作るビンは専用のスポンジで洗え」とか、「漬け物を作る際は先ず手を洗え」とか注文が多いんだよね。これじゃ宮沢賢治の童話と一緒だね。『注文の多い料理店』。もっともあれは客がヤマネコに食われる話だが。 無茶な注文もあったね。あれはブログを書いてた時だ。買い物が多くなったので、直ぐに自転車で迎えに来いとの呼び出し。あのなあ、俺が文章を書いてる時は真剣勝負なんだよ。それに楽天ブログはちょっとした拍子に消えることがある。だから丁寧に処理する必要があるんだが、我が女房ときたら、パソコンはパチッとスイッチを切ったらそれでお終いと思ってるんだもんね。 それにしても腹が立つ。この間なんか、俺が書いたメモに「要求事項」を書き足していたもんね。何か用事がある場合、俺は忘れるのを防ぐため、メモ用紙に青いサインペンで箇条書きにする。(1)何何、(2)なになにとかね。それが俺の字に似せて「(4)草取り」だってさ。馬鹿じゃないの。いくらなんでも、自分の字を忘れるヤツはいないよ。 もちろん気づいていたけど、俺は黙って庭と畑の草を抜いた。その方がきれいになるからね。本当は自分の体調を考えながらその日の計画を考えている訳さ。それを女房は「直ぐやれ」だもんね。こっちは松戸市の「すぐやる課」じゃないんだよなあ、まったく。それでも全ては人間修業の一環、老後の自立のために女房が訓練してくれていると思えば良い。まあ女房は自分が先に逝くなんて、全く考えてはいないけどね。 言ってみれば『艱難汝を珠にす』(かんなん、なんじをたまにす)かな。苦労が人間を大きく育てるってことよ。そう思って俺はじっと我慢の子だ。でも昨年の大震災時に富士山に亀裂が入ったみたいだし、俺もいつ大爆発するか分からないよ。インゲンと箴言(しんげん=金言)。面白い語呂合わせだね。これはやっぱり俺の特技かもなあ。 そんなことを考えながら今日も小さなキュウリの実をもぎ、(これは味噌をつけて食べ、残りは冷やし中華の具にする)、梅の実と赤シソの葉を混ぜ(目下梅干しを製作中なんだ♪)、大きく育った鉢植えの花を株分けする俺だ。んんん、ワイルドだろ~。スギちゃんじゃないぜ~。とってもワイルドなマックス爺だぜ~。(どこが?)でも若い恋人はいないぜ~。ワハハ。
2012.07.11
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たまにだが、早起きした妻が走りに行く。私は自分の部屋にいて、その音に気づく。距離は長くても7kmくらいのものだが、走れるだけでも羨ましい。そして走らない日でも、自分の部屋で1時間は朝の体操をする。そのせいか、食欲は旺盛。それでも太れないと妻はこぼす。仕事もまだ続けている。定年が延長され、67歳までは働けると張り切っている彼女。 一方の私は朝起きて直ぐにパソコンに向かい、日記を書くのが最近のパターンになった。その方が時間を有効に使えるためだが、走れないためでもある。そう言いながら、体操すらしていない私。運動は専ら老犬との散歩なので、走っていたころに比べたら運動量は雲泥の差だ。 鏡を観て思わずギョッとすることがある。表情に生気がないのだ。もうすっかり老人の顔になった。走っている時は顔に艶があった。そしていかにも元気そうな表情をしていたものだ。これだけ人間の顔が変わるものだろうか。それでも働いていた頃に比べたらまだマシ。強烈な肉体労働に草臥れ果てて辞めたのだが、最後は「死相」が現れたと感じたほどだ。 少し前にNHKの番組「ためしてガッテン」を観た。テーマは偏平足の障害に関するもの。ビデオを撮った妻が、観るのを勧めてくれたのだ。私も生来の偏平足で、長年走り続けたために左右とも障害がある。ところが偏平足でない人も老化によってアーチが落ち、色んな障害が起きる。それを阻止するために、筋肉の強化を図るのが番組の趣旨だった。 「お父さん、足の筋肉を鍛えれば良いんだよ」と妻。私の場合はもう手遅れ状態なのを彼女は知らないのだ。スポーツドクターからは医療用インソールの着用と、ランニングから自転車へ切り替えることを厳命された。その上足首用のサポーターにもお世話になっている。もし心臓の調子が良ければ、足の手術を受けたいと考えたこともあった。 ところがその肝心の心臓が、2度の手術を経ても不整脈が出たのだ。目下薬で治療中だが、軽いめまいが日常的に起きる。その上老化のせいか、景色が眩しくて見えにくい。家の中で読書をすることが増え、鬱々とした気分が鏡の中の表情になるのだろう。「ためしてガッテン」で驚いたのは、骨が足の底部に飛び出した映像。あれでは痛いはずだ。私の足は底ではなく、内側に骨が飛び出しているのが痛みの原因だ。 手術を受けた病院に行って来た。術後の3カ月検診を含め、この1週間で3回も通った。昨日は通院中の病院で撮った心電図を持参した。執刀医がその時以来の治療状態を尋ねるのだが、あれから2カ月近く経ち、記憶を呼び起こすのが大変だった。ドクターは言う。「手術後に不整脈が起きる可能性があるのはあれにも書いてあったでしょ。まだ1度しか起きてないので、当分様子を見ましょう」。 「あれ」とは高周波カテーテルアブレーション手術を受ける前に書いた「同意書」のこと。私はとても意外だった。てっきり3回目の手術を勧められるとばかり思っていたのだ。その時は断ろうと決めていたのだが。足の手術も受けないと思う。さほど日常生活に不便はないし、痛い個所は足だけではないからだ。このまま粛々と「老人化計画」を進めるのも良し。これからは俺も普通の爺さんになるのだ。ワハハ。
2012.07.10
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上野動物園のパンダシンシンが赤ちゃんを産んだ。普通パンダの性別は直ぐに分からないそうだ。赤ちゃんが小さいのと、母親がなかなか手放さないからだろう。ところが産まれた赤ちゃんがオスだったことが分かった。どうやらシンシンが育児に疲れ、一時的に手放してしまったからだ。若い母親は今、夢中で好物のタケノコを食べているみたいだ。何も食べずに授乳していたため、空腹だったみたい。 このまま育児を放棄するかどうかは、様子を見ないと分からない由。今のところは人工授乳で保育されているようだ。それにしても母親の大きさに比べて、赤ちゃんパンダの何と小さなこと。体重はわずか130gほどだったと思う。赤ちゃんを日本に置けるのは3年間だけで、名前をつけるにも中国に相談する必要があるとか。石原都知事は「せんかく」が良いと言ってるが、多分そうはならないだろう。 お向いさんが、せっせとアリを殺している。我家の塀の隙間にいるアリにまで薬品をかける。彼の言い分によれば、黒いアリもいずれは白アリになる由。そんなことはないだろう。白アリの食べ物は古い木材だが、アリは何でも食べるはず。そう思ってネットで調べて見た。白アリはゴキブリの仲間なのに対し、アリはハチの仲間で、やはり食べ物が違う。早速お向かいさんに教えたら、まだ釈然としないようだ。 ガラパゴスゾウガメのロンサムジョージが死んだ。推定年齢は100歳以上だった由。ガラパゴス諸島は太平洋に浮かぶ絶海の孤島のため、これらの島にしか居ない絶滅危惧種が多いことでも知られている。ゾウガメも鳥のフィンチ同様に、島ごとで種が違っていた。ロンサムジョージが棲んでいたのはピンタ島。ここに残っていたゾウガメはジョージただ1匹だけ。それでロンサム(孤独な)と名付けられたのだ。 貴重な種を何とか保存しようと、極力遺伝的に近い種のメスとの交配を試みた時期もあったようだが、孤独なまま死んでしまったジョージ。他の島にはまだ別の亜種が棲んでいるのが、せめてもの慰めか。さよならジョージ。天国で昔の仲間達に会えると良いね。 福島県大熊町のメスネコ「きなこ」が、このほど1年3カ月ぶりに飼い主の元に戻った由。大熊町は例の原発事故で町民全員が避難中の町。どうやらあの時のどさくさで迷子になったきなこを、他の人が見つけて飼っててくれたみたい。元気だったか聞いても、「きなこ」はただニャ~と鳴くだけみたいだが。 京都大学の藤田教授(比較認知科学)の研究によれば、犬が飼い主の感情を理解していることが実験で確かめられた由。楽しいビデオを見た場合は飼い主の顔を長く見つめ、悲しい物語の場合は、飼い主の顔をあまり見ないそうだ。どうやら楽しい場合は遊んでもらえると考えているみたい。 一方、関西学院大学の中島教授(心理学)の研究によれば、物を見分ける時犬は人間が「こっちだよ」と教えるとそれを信じる由。ところがサルの場合はその方法だと上手く出来ないようだ。チンパンジーは自分で判断する「科学者」で、人間との付き合いの歴史が長い犬は「心理学者」だと言うのが東京大学の長谷川教授(動物行動学)の説。 京都大学の高岡非常勤講師の研究によれば、犬は信用出来る人と信用出来ない人の区別が出来る由。心のありようは知能が高いチンパンジーより犬の方が人間に近く、窮地に陥った飼い主の助けを呼びに行ったり、何百kmも離れた個所から帰ることが出来るのは、このためなのだとか。さて、愛犬が待ち構えているはず。そろそろ散歩へ行こうかねマックス。
2012.07.09
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痛かった指の棘がようやく抜けた感じ。これは10日ほど前に剪定した時に刺さったもの。咲き終えたモッコウバラと垣根のバラの蔓が伸び過ぎていたのだ。咲いているうちはきれいだが、散り出すと掃除が大変。私はほぼ3週間ほど、散ったバラの花びらを掃いていた。そのバラも残っているのは僅かになった。ピンク、深紅、そして朱色。白のミニバラも散りかけだ。 先日まで乾いていた畑の土が、降り続く雨で黒々としている。トマトは3段目まで実がつき、それも結構大きくなって来た。これ以上雨が降ると、水分過剰になる恐れがある。天気を見て、不要の傘をトマトの支柱にしばろうと思う。これからはさほど水分を必要としないからだ。勝手に生えて来た苗も、ミニトマトではなく普通のトマトだった。昨日はその3本のトマトにも、頑丈な支柱を施した。 このところの雨で、モロッコインゲンが一気に成長し出した。蔓は支柱を遥かに越え、空中を漂っている。かなり咲いた花が、今次々と実っている。先日、そろそろ実を採って良いかと妻が言うので、少し待ってと答えたのだが、いつの間にか夕食のおかずになっていた。おまけに向かいの奥さんにまでお礼を言われた。雨が降った後だともっと大きく育ち、効率が良いと私は考えていたのだが。 ナスは長ナス、ベイナス合わせて4本を既に採った。ナスの場合はインゲンと逆で、最初の実は早めに収穫した方が良い。まださほど大きくない苗の負担になるからだ。これはピーマンとナスの味噌炒めになり、残りは野菜たっぷりのカレーに入った。ミニトマトは枝分かれが凄いため、伸びる都度ビニール紐で支柱に縛る。トマトもそうだが、葉で擦れると白い服が緑に染まって落ちなくなる。 ジャガイモには土を被せた。実った芋の一部が地上に出かかって来たためだ。直径わずか3cmほどの種イモが結構大きくて丈夫な苗になり、花を咲かせた後に丸い緑の「実」がついたものまである。地中のイモがどれだけ育ったがが楽しみ。収穫した玉ネギは雨の日は物置に入れ、晴れたら外に出して干す。もう10個近くは料理に使われたはず。 シソの葉も食べられるまでに大きくなった。これからは素麺の薬味や刺身のつまとして、大いに出番があるはずだ。ユズにも小さな実がついている。まだ5mmほどの可愛いもの。今年も金色の実を見られるのが楽しみだ。我家の庭で収穫した2kgの梅の実は、目下「おもし」をして梅干しになる途中。かなり梅酢が上がって来たので、そろそろ赤シソの葉を買う時期だろうか。 花はアジサイが見ごろになった。白い大きなアジサイだ。青のはまだ色が薄く、これからが本番か。白い米粒のようなナンテンの花。ポトリと落ちる玄関脇のシャラが可愛い。ホタルブクロとクリスマスローズはそろそろお終いだが、リュウノヒゲやラベンダーが元気。そしてセージやタチガレソウの紫色の花も目立つ。花壇のユリはまだつぼみだが、咲いたら見事だろう。先日の鮮やかなピンクとは別のクジャクサボテンが、今小さくて赤い花を咲かせている。 ササ~っと庭に下りる黒い影。ヒヨドリがミミズを食べに来るのだ。ささやかな我が家の庭でも、それなりに楽しめるのが嬉しい。さて今日もどんよりと曇った空だが、何とか持ちそうな感じだ。吉川英治の『新平家物語』は昨夜から第2巻目に入った。今夜はテレビで『平清盛』がある。小説と大河ドラマを見比べる、そんな楽しみが当分続きそうだ。
2012.07.08
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結局はあの薄気味悪い山道を、再び戻ることにした。お寺で自転車に乗って出発。最初の曲がり角に「青麻道」と刻まれた石がある。これは一体何だろう。ちょっと不思議な雰囲気だ。そこから少し戻ってとある店の中に入る。珍しくパン屋さんを見つけたのだ。コンビニでお握りでも買いたいのだが、どうやらコンビニは無さそうだ。 小さな米粉パン5個が入った袋と、豆パンを買った。いずれも半額の品。それをリュックに入れて再出発。「青麻道」の所から左折。ここを直進した若宮前には八坂神社がある。もちろんその昔、京都の八坂神社からご神体を勧請したものだろう。そして現在塩竃神社の境内にある志波彦神社は、元々この岩切に鎮座していたもの。そのことを見ても、多賀城に近い岩切が、街道を通じて古代から栄えた集落であったことが分かる。 ところで志波彦神社、旧志波姫村、岩手県盛岡市付近にあった古代の出城紫波城のいずれもにつく、「しわ」とは何なのか、長年の私の謎になっている。間もなく岩切城へ入る道の角に、再び幾つかの古い石碑を発見。きっとこれが岩切城への標識代わりのはず。直進すると宮城郡利府町の「館の内」地区。奥州藤原氏が滅亡した後、鎌倉幕府から奥州留守役として派遣された留守氏の館があった場所だろう。 左折して山道を登る。直ぐ左手にも幾つかの板碑。やはりこの辺は鎌倉時代の宗教遺物が多い。付近には熊野神社もあることを後日知った。坂道が急過ぎ、もう自転車を押して登るしかない。それが延々と続く。先ほど飛び降りようか迷った崖まで来た。右手の集落は利府町の神谷沢。神様が住む谷や沢。昔からの地名には、何か謂れがあるはず。 小高い山が見える。あれが岩切城がある山だろうか。坂も緩くなり、アップダウンを繰り返す。城跡への入り口らしい場所まで来てガッカリ。何とその先は工事中で入れず、鉄の柵で塞がれている。ここもやはり昨年の大震災時に崖崩れが起きたようだ。残念だが今日はここまでだが、雰囲気は分かった。先ほど見えた頂上が城跡で、現在は高森公園になっているようだ。 「青麻道」を直進すると県民の森に続くようだが、そこも工事中で歩行者の進入は出来ない。仕方なく自販機でコーヒーを買い、道端にしゃがんでパンを食べる。米粉パンは素朴な味で美味しかったし、甘い豆パンも美味しい。帰宅後気になって「青麻道」が何なのか地図とネットで調べて見た。あの道の先をどこまでも行くと青麻(あおそ)神社に行き着く。だから「青麻道」だったのだ。 仙台市泉区、黒川郡富谷町、宮城郡利府町との境界だが、その神社までの道に沿って宮城野区が細く入り込んでいる不思議な形。青麻神社は全国にある同名の神社の本宮で、奈良時代に穂積氏がこの地に勧請した由。穂積氏は古代の豪族で、確か大阪の茨木市穂積周辺が本拠地だと思う。彼らは麻の栽培を広めたようだ。それが神社の名前にもなったのだろう。 麻は成長が早く、とても大きく育つ。そのためにかつて赤ちゃんの肌着や「オシメ」には、麻の模様が施されていた。徳島県には麻植郡(おえぐん)があり、阿波国一宮は鳴門市にある大麻比古(おおあさひこ)神社だ。今でこそ大麻(たいま)は取り締まりの対象だが、昔は生活に欠かせない重要な繊維だったのだ。そして青麻の名は麻の表皮が青っぽいことに基づくみたいだ。 帰りながら城跡の山を見上げる。なるほど素晴らしいロケーションだ。山は深い谷の向こうにあり、攻めるのはかなり困難だったはず。この天然の要害を巡って、戦いが続いたことが容易にうなづける。『私本太平記』の室町時代も、ここで北畠顕家が戦ったはずだ。帰路は「今市橋」を渡り、「奥の細道」を通った。途中、急な比丘尼坂を登る。 平安中期、戦いに敗れて平将門が討ち死にした際、妹の比丘尼(びくに)がこの地まで逃げ、生活の足しに甘酒を売っていたとの言い伝えがある由。私は「尼」と「甘」をかけたように思う。つまり元々は「尼酒」だったのではと。いずれにしても岩切を通り、多賀城へ向かうこの道が、古代から多くの人々が往来し、中央から人や文化や宗教やたくさんのものを運んだことは間違いないだろう。 ブログ友であるしぃさんが、たまたま不要になった本を送ってくれたことで読んだ『私本太平記』。その関係で岩切を訪ね、新しい歴史の勉強をすることが出来た不思議な縁。中世を訪ねる旅の終わりに、私は仙台市歴史民俗資料館に立ち寄った。そこで早速岩切周辺の歴史を調べたのは言うまでもない。小さな旅は、私にとって楽しく意義深い旅になった。<完>
2012.07.07
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境内で草刈りをしてる人に「磨崖仏」のある場所を聞く。そこの坂道を登ったところらしい。ついでに岩切城に行けるか聞くと、行けると言うが、歯切れは良くない。私はポシェットから鈴を取り出し、腰につけた。名取市那智が丘、仙台市折立、富谷町などにクマが出たニュースが続いていたからだ。そして利府の県民の森にも出没したようだ。お寺の裏手の山は、その県民の森とつながっているのだ。 坂を登って行くと何やら看板。ここ東光寺にも中世の城があったようだ。少し平らな部分が「見張台」か。磨崖仏のある岩窟は直ぐに分かった。5つある岩窟のうち、磨崖仏が刻まれているのは1つだけ。それも鉄柵で塞がれている。中を覗くと、すっかり摩耗した仏像らしき姿が見えた。鎌倉時代のものだが、長年の風雨で本来の形を失っている。それでも貴重な文化財だ。 私は大分県の国東半島で、かなりの規模の磨崖仏を見たことがある。あそこには古い仏教文化が栄えていた時代があったのだ。付近の宇佐市には天皇家と縁のある宇佐神宮もある。伝説では神武天皇が東征した際に宇佐に立ち寄ったとされ、古い相撲神事や古墳群も残されている不思議な土地だ。磨崖仏を観た場所からさらに坂を登ると、平らな場所に出た。 直ぐに目についたのが石を切った跡と板碑。この付近には古代の石切り場跡がいくつかあるようだ。それが岩切の名の起源だ。岩切から切り出された石は、陸奥国分寺と国分尼寺の基壇になったようだ。多分ここからは15kmは離れているはず。それなら3kmしか離れていない国府多賀城や、その付属寺院である多賀城廃寺の基壇などに使われていたとみてもおかしくないだろう。これは奈良時代の話。 一方鎌倉時代の仏教遺物である板碑は、名取市の熊野那智神社境内に数多くあり、東北大学植物園の中にもある。それらは静かな山中にあるのだが、ここでは平らな場所に忽然と現れたのだから驚く。板碑は戦いや飢餓で亡くなった人を鎮魂するために建てられることもあるが、一般的には神聖な場所「結界」を示したのではないか。 仙台市内のお寺にある「モクリコクリの碑」は蒙古軍襲来時に派遣された兵士の魂を慰めるためのものらしい。「モクリ」は蒙古軍のことで「コクリ」は高句麗つまり高麗軍のこと。あの時「神風」で海に沈んだのは蒙古と高麗の合同軍だった証しだ。墓地では石工が墓の設置をしていた。それを横目で見ながら山に入る。先方も鈴をぶら下げた変な爺さんが、何故山に入るのか不思議そうな感じだった。 山の道は細くて頼りない。これはキノコ採りの人しか通らない道だ。クマに出会わないかビクビクしながら行くと行き止まりの道が多く、最後に出たのがある家の前。だが青いビニールシートがかかっていて、その家の庭へは行けない。昨年の震災で崖崩れしたようだ。右手下には岩切城への道路。そこへ出るには高さ3mの崖を飛び降りるしかない。悪い足がさらに壊れるのは必至だが、さてどうするか?<続く>
2012.07.06
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そうそう、『私本太平記』で意外だったことの一つは、多賀城が出て来たことだ。古代東北の治安と経営のために奈良時代に建てられた多賀城は、度重なる炎上や復興の末、平安時代の末期にはその機能を終えたと言うのが私の認識だった。調べたらやはり承徳元年(1097年)に国府多賀城は焼失している。 だが後醍醐天皇により建武の新政(建武の中興ともいう)が敷かれた後、わずか7歳の義良親王を征夷大将軍とし、17歳の北畠顕家を陸奥守に任じて多賀城に派遣し、ここに陸奥将軍府を設置した。北関東と東北の騒乱を抑えるための措置だった。その期間は短かったものの、多賀城が再び歴史上に浮かび上がったのだ。 JR多賀城駅をスタート地点に、先日「みちのくラン」が2年ぶりに開かれた。一歩も走れない私は参加出来なかったが、星峰さんのブログ、雲峰さんの掲示板への辻ポンさんの書き込み、T田さんが送ってくれた大量の写真でマラニックの様子が大変良く分かった。また参加されたボクシーどん、ちっちさん、kazuさんが私のブログにコメントを寄せてくれた。 大会は大成功で、皆喜んで帰られたみたいだ。マラニックの途中国指定史跡の多賀城跡に立ち寄った時、「あの歴史好きの爺さんはどうしたの?」との声があったとか。どうやら私のことを覚えてくれていた遠来の客がいたようだ。参加者の中にSパパがいたことも後で知った。今年3度目の「トランスヨーロッパ」に出場する彼が、わずか30kmばかりのマラニックに来られたことが意外で嬉しかった。彼は練習のため、早朝の仙台の街を走っていたみたいだ。 「みちのくラン」の4日前、私は自転車に乗って市内の岩切へ行った。そこには中世の山城である岩切城がある。『私本太平記』を読む途中で、「中世の雰囲気」をどうしても味わいたくなったのだ。この周辺でも南朝方と北朝方に分かれて壮烈な戦いがあったことは何となく知っていた。その岩切から多賀城へは極く近い距離。まさかそこに北畠顕家が陸奥守として派遣されたとは。 岩切へは極力「東街道」を通って行った。昔から利用された古道で、芭蕉も「奥の細道」の際に歩いている。私が初めて岩切に行ったのは、Sパパが主催した「奥の細道ウォーク」の時だ。雲峰師匠やちっちさんと初めて会ったのもその時。原町の古い標識の位置は覚えていたのだが、途中で「奥の細道」を離れ、広い県道を直進してしまった。確か急な坂があったのに、こっちは平らな道で変だとは思っていたのだが。 それでも岩切へは行ける。七北田川を渡るとそこが岩切。中世の頃、この川は冠川と呼ばれ、多賀城の前を流れていた。今では流路が変わり、砂押川と言う別な川になっている。その河口から舟が上り、岩切の周辺は大変な賑わいだったと言う。もちろん鎌倉や室町時代ごろの話で、当時は岩切ではなく今市と呼ばれていた。その今市は現在でも地名として残っている。 その日私が最初に訪ねたのは東光寺。あの「奥の細道ウォーク」でも立ち寄った古寺だ。みんなが記念にと撞いたゴ~ンゴ~ンと響く鐘の音が、今でも耳の奥に残っている。ここは現在曹洞宗だが、建立当時は天台宗。慈覚大師が開基の古刹なのだ。実はあの時、この寺で見つけられなかったものがあった。鎌倉時代の磨崖仏がこの寺のどこかにあるはず。何故なら本物そっくりの「洞窟」を、私は仙台市博物館で何度も観ていたからだ。<続く>
2012.07.05
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吉川英治著『私本太平記』全8巻を昨夜ようやく読み終えた。彼の著書は初めてだったし、中世に関する本も初めて。文中の言葉が古く、初めて知る地名もあった。地名は地図で、言葉は各種の辞書で、人物や事物はネットで確認しながらの読書だった。だがそれは決して苦痛ではなく、むしろ私にとっては楽しい作業でもあった。 単純な感想だが、言って見ればやはり「大河小説」だろうか。30年以上に亘って1人の人物を追うのは大変なこと。それが新しい時代を切り開く者であればなおさらだ。時代の寵児足利尊氏を取り巻く人間像の豊富さと複雑さ。ことは後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとする企てから始まる。幕府側と朝廷側のどちらにつくか迷う武士団。それが寝返りと裏切りの連続で、最終的な帰結が全く読めない展開だった。 小説を読みながら、私は平成3年に放送された大河ドラマ「太平記」の俳優を思い起こしていた。北条高時(片岡鶴太郎)、足利直義(高嶋政伸)、楠木正成(武田鉄矢)、佐々木道誉(陣内孝則)、高師直(柄本明)などの顔が生き生きと思い出されるのに、話の主役である足利尊氏(真田広之)、後醍醐天皇(片岡孝夫)、新田義貞(根津甚八)の印象が薄いのは何故だろう。 それはあまりにも錯綜した戦いが続いたせいもある。テレビでは分からなかった歴史的な背景が、今回小説を読んで良く理解出来た。尊氏の戦いは多分30回にも及んだはず。幕府を京都室町に開いた後も、南朝側に何度も都を奪還されている。あれだけ血みどろの戦いだったことを、今回初めて知った。まさに戦国時代、下剋上の先駆けだったと思う。 私の中では「南北朝時代」と「室町時代」が混在していた。また戦前のいわゆる「皇国史観」があの時代を小説の対象とすることに躊躇させていたようだ。吉川英治がこの本を書いたのは昭和33年1月から36年10月までの3年10カ月間。ようやく書き終えたのは死の1年前でしかない。彼にとっては最後の大作だった。 この大河小説を通じて、作者は一体何を描きたかったのだろう。多分それは人間そのものであり、権力者の実態だったはず。実弟である直義の毒殺や、敵である正成との交流など、尊氏は杳として捉えることが困難なほどの多面性を見せる。悩み苦しむ姿も、全て真実だったのだろう。変な話だが作者の学歴は高等小学校だけ。それも卒業ではなく中退のまま。 義務教育すら終えていない人が、とても書ける本ではない。一つには彼自身が人生とは何か、絶えず悩み苦しんでいたからこそ書けたのだと思う。室町時代、2つの皇統の争い、皇国史観、いわばそれまでの小説家が避けて来たテーマに、果敢に取り組んだ精神が至高の文学となった。引き続いて私は『新平家物語』全16巻に手をつけた。さらに吉川文学、吉川史観に魅せられることは間違いない。<続く>
2012.07.04
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宮城県側は雨が降って気温が低かった。だが、山形県側に入った途端に雨は止み、気温が上がった。「お釜」見学に備えて着込んでいた長袖とサマーセーターを脱ぐ。ともかくムシムシして暑いのだ。バスは曲がりくねりながら坂道を下る。結構スピードが出ているが、対向車は少ない。だが何気なく運転席の横にあるバックミラーを見てるうちに、大変なことに気づいた。 蓮池薫さん似の運転手の様子が変。いつの間にか目がトロンとして来たのだ。窓は開けているものの急に暑さが増して来、眠くなったのだろう。トロンとなっては目を開け、目を開けてはまたトロン。そのうち目を擦り出す。「オイオイ、大丈夫かよ?」。その様子に気づいた乗客は私だけのよう。隣の席の妻も眠っている。 こうなったら覚悟するしかないが、幸い運転手の腕は確かなようで、対向車とぶつかる様子やふらつくことは無い。似たような状況は赴任先の徳島で経験したことがある。次男が少年野球をしていた頃のことだが、早朝からマイクロバスで試合場へ向かったことがあった。ところが前を走っている車の様子がおかしい。フラフラ蛇行しながらの運転で、たまに縁石にタイヤが当たるほど。 監督が言った。「あれはシラスウナギの帰りだな」。養殖ウナギを育てるための元になるシラスウナギは貴重品で、何でも杯一杯で何千円もするらしい。それを照明を点け海岸で一晩中網で掬うのだ。恐らくは徹夜作業で眠ってないのだろう。本人は良いとして、後続の車まで事故に巻き込まれるのは迷惑な話。慌てて車間距離を取ったものだ。 もしそんなことが起きたら大声を上げよう。私はそんなことを考えながらバックミラーに映る「蓮池さん」の目を見ていた。眠たい目をこする動作が5回とあくびが1回。それでも何とか麓近くまで下りた。もう曲がりくねる道ではない。蔵王温泉方面には行かず、上山市方面に左折。途中に猿倉温泉の看板が見えた。街に入り、国道13号線の下を潜って細い道へ入り、再び山へ向かう。 これも予想外だった。本当は山形方向へ右折して東根市か天童市へ向かうとばかり思っていたのだ。そこは有名なサクランボ産地なのだ。ええっ、こんなところでもサクランボが取れるのだろうか。そんな疑問も間もなく払拭。道の両側にサクランボ狩りの旗が見え出した。奥まった農園の前でバスは停まり、農園の人が車内でサクランボ狩りの注意を説明し出す。 時間は30分間で、枝は折らずに実だけもぐ。種は吐き出して良いが、サクランボはその場で食べるだけで持ち帰ってはいけないことなど。引率される途中に赤い実をつけた枝の下を潜る。それを見ただけでも大興奮だ。現在食べられる種類は「佐藤錦」、「山形美人」、「紅秀峰」ともう1種類のみ。早速サクランボを取って口の中に放り込む。ムシャムシャムシャ。ああ美味しい。 甘い甘いサクランボが幾らでも食べられる。そのうち少し酸味があるものや、高い枝の先にある濃い紫色のものを食べた。早生の種類で取り残したものだ。それが甘味が凝縮して、まるで干しブドウのような味。妻の分も4つほど取った。時々農園の人が観光客を怒っている。サクランボをビニール袋に入れて持ち帰ろうとする人を見張っているのだ。きっと動作で分かるのだろう。注意された3人はいずれもお婆さんだった。 ともかく食べに食べ、最後には腹がパンパンになった。20分で駐車場に戻り、売店を覗く。佐藤錦などは1kgで数千円の値段。これでは果物屋とさほど違わない。あれと比べたら私は多分5千円分は食べたはず。入場料は2千円だったので、3千円は得した計算だ。だが、次の物産センターに寄って驚いた。あれだけ食べたのに、ここでジュースを買った人がいたのだ。ええっ、信じられな~い!? 帰路は私が走って越えたことのある笹谷峠や関山峠は通らず、山形道を通った。それも川崎で降りて一般道へ出た。順調に見えたのも仙台西通りで渋滞。どうやらトンネル内で事故があった模様。あまりのノロノロで眠くなった。もう運転手の心配はせずに眠った。庭に穴を掘っていたものの、愛犬は大人しく待ったいた。「第5の事件」は妻の帽子が見つからないことか。いやいやそうではない。 夜風呂に入る時に測った私の体重だろう。何と2kg近く増えて68.6kgになっていた。これは自己新記録達成だ。実は腹一杯で昼食を食べてない。だからほとんどがサクランボの影響。やはり2kgは食べたのだ。それも翌日の夜までには解消した。ポリフェノールたっぷりのオシッコやウンチが大量に出たからだ。そのうち体からサクランボが生えるのではないかと心配している。ワハハ。もちろん嘘だよ~ん。<完> ## 昨日の午後記念すべき切り番「222222」は私自身が踏みました。日頃のご愛顧に心から感謝し、ご報告させていただきます ##
2012.07.03
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妻と入れ替わりに2回目の温泉へ行く。中には体を洗っていた人が1人だけ。広い湯船に入ろうとしたら結構熱い。するとその男の人が、ジャージャーと水を出してくれた。そして言う。「これは循環だから、どんどん水を入れた方が良いんだよ」。私も循環なのには気づいていたが、次の言葉には驚いた。「このお湯は岩手県の平泉のなんだよ」。「ええっ?」。 彼は山形の人。山形県は各市町村に最低1か所は天然温泉がある温泉県なのだ。この蔵王一帯の温泉は硫黄臭がするのが普通らしい。ところがお湯はサラサラで匂いもしない。疑問に思ってフロントで聞くと、「風呂場に張ってあるのを見て下さい」と言われたそうだ。そこで改めて見たら、岩手のお湯だと分かった由。そう言われてみればまさにおかしい。お湯を手にとって嗅ぐと、硫黄臭ではなく微かな消毒臭だった。 確かに温泉成分の検査証明書には、岩手の地名が書かれていた。それにしても温泉のお湯を、そんな遠くから毎日あるいは数日ごとにタンクローリーで運んで来るだろうか。いや、決してそんな手間は掛けないだろう。それに温泉のお湯なら出てからも暫くは体が熱いはずなのに、ここは出た途端に冷める。これはやっぱり変で、インチキ温泉と言わざるを得ない。部屋に戻って早速、妻にこの「第3の事件」を教えた。 その夜、妻は早めに眠った。月末で職場に1か月分のレポートを出したため、疲れたのだと思う。私は眠気と戦いながら、「私本太平記」の第7巻を読んだ。翌朝はガスが出ていた。おまけに地面が濡れている。どうやら小雨のようだ。「日曜日は曇りの予報だったのに」と思ったが、ここは山の上。やはり気象が違うのだ。前日は見えた2つの烏帽子岳がすっかりガスに隠れている。 朝風呂へも行った。だがインチキ温泉と思うと、もう何の感激もない。バイキング方式の朝食も、以前とは比べられないほどのお粗末さ。ただしレストランには大勢の若者などを含め、人が溢れていた。きっと私達同様に安い料金に釣られて泊ったのだろう。だがよほどのことが無い限り、私は2度とこのホテルへは来ないつもり。玄関フロアでは作務衣を着た男の人が、薪ストーブを焚いていた。その煙がけむい。 その煙で、伊豆大島のホテルを思い出した。中国人の若い女性がオーナーのインチキホテルだ。HPで観た分には素晴らしい内容なのだが、実際はまるでお粗末。部屋の暖房は故障し、水も出ない。服をかける設備もなければ、食事も出ない。おまけに風呂は煮えたぎっていて、入れるものではなかった。暖房は庭木を切った薪。その臭いがホテル全体に漂っていたのだ。あれは酷かった。 サクランボ狩りのバスは前日と違ってマイクロバスだった。そこで昨日のバスにイヤリングを忘れたことを話す。間もなくやって来た大型バスの席を探すと、やはり座った場所に落ちていた。作務衣の人がマイクロバスを運転して出発。だが、バスは遠刈田温泉方向へ下りた。変だなあと思ったらやはり間違えたようで、直ぐに引き返した。 そして彼が言う。「今日は雨が降って見えないので、「お釜」には寄りません。その代わり、山形の物産センターに行くことにします」。「お釜」とは蔵王山系刈田岳の下方にある火口湖。エメラルドグリーンの色合いが不思議なのだが、それが観られないとは残念。エコーラインの頂上付近には道路の左端に車がズラリ。雨でも登山する人達のものだ。山形県側に下る道で「第4の事件」が起きた。<続く>
2012.07.02
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6月30日土曜日は走友達が主催する「みちのくラン」の日。昨年は震災のため開かれず、今年は2年ぶりの開催だった。その間に私の体調がすっかりおかしくなった。心臓は2度の不整脈手術をしても良くならず、2回目の入院時以降右足底部の痛みが消えない。たくさんの思い出があるこのマラニックだし、久しぶりに全国の走友にも会いたかった。だが、走るのは到底無理と諦めざるを得なかった。 長年の走友であるぼくし~さんも参加すると知り、ボランティアとしてお手伝いすることや、懇親会だけの出席も考えた。だが運動不足の最近はとても疲れ易く、わずかのアルコールでも直ぐに酔っぱらう。そのため、前から妻が希望していた山の温泉1泊とサクランボ狩りへ行くことにした。幸い雨は振らないみたい。後の心配は年老いた愛犬を留守番に置いて行くことだった。 ホテルの送迎バスは珍しく大型。どうやらサクランボ狩りを組み込んだ企画が当たって宿泊客が増えたため、特別にチャーターしたようだ。途中休憩した蔵の町村田の蔵の形をしたトイレでビックリ。中に入ろうとしたら何か黒いものが飛び込んで来たのだ。何と男子用トイレ洗面所の丸い照明の上に泥の巣があり、3羽のヒナが黄色いくちばしを開いていた。 まさかツバメがトイレの中に巣を作るとは。確かにここは雨も当たらず外敵も来ない。だが利用客が多いため中に入れず、何度も旋回を繰り返している親鳥が可哀想。妻は隣の物産館で、早速お土産を買った。ホテルがあるのは蔵王山中腹の1000m辺り。蔵王エコーラインは走友会の仲間と何度かトレーニングした場所だし、一昨年はここを越えて山形の蔵王温泉まで77kmの険しい山道を1人で走った。 ホテル到着は3時前。ここに泊るのは2回目だ。施設はボロだが、前回の料理は良かった。そして山の上の温泉だけに気分は最高。妻は早速温泉へ行き、私は酎ハイを飲みながら楽天の試合を観ていた。このところ好調のわが東北楽天。前日の田中に続きこの日もヒメネスで連勝。喜んで温泉へ行こうとしたのだが、妻がイアリングをバスの中に忘れたとのこと。これが「第1の事件」だった。 熱い風呂が気持ち良かった。お湯の中で痛む足をさすった。この足さえ治ればまた走れるのだが、長年の酷使で変形した足が、果たして手術で治るのかどうか。部屋に戻って一休みし、指定の時間に夕食の会場へ行った。だがテーブルの上を見てビックリ。あまりにも料理が粗末なのだ。前回とはうって違った内容は、一体どうしたのだろう。これが「第2の事件」。まあ肥満防止のため、私にはちょうど良いのだが。冷やの地酒を小さなコップでいただく。<続く>≪ 6月の実績 ≫ ウォークのみ130km 年間累積:1078km(うちラン:242km) これまでの累積:79,223km
2012.07.01
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