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新潟の銀のねこさんがは9月15日(土)から16日(日)にかけて開催された『信越五岳トレイルランニングレース』に出場した。これは斑尾山(1382m)、妙高山(2454m)、黒姫山(2053m)、戸隠山(1904m)、飯綱山(1913m)の5つの峰を走り抜ける110kmのレースだが、最初に袴岳(1135m)にも登るので、実際は『信越六岳』が正確かもしれない。完走記はまだ書きかけだが、ガッツある彼女のこと、きっと無事ゴールしたと信じている。 9月28日(金)にスタートした今年の『スパルタスロン』は、かなり気温が高く初日は36度の猛暑だったようだ。初参加のフランク翔太さん(香川)は、残念ながら100km付近の第31CPでリタイヤしたようだ。80km地点のコリントスを時間内に通過したランナーは400人中125人のみ。これは31%に過ぎない。完走率はさらに下がるだろう。まさに激烈なウルトラマラソンだ。 デンマークの最北端からスペインの最南端までを64日間で走る『トランスヨーロッパ」は昨日が42日目。日本人選手10名が相変わらず頑張っているほか、数名がステージランナーとして走っているようだ。数日前からコースはフランスの地中海沿岸に出た由。22日目までトップだったフランスのステファン選手は、その後仙骨の疲労骨折だったことが判明。なるほど過酷なレースではある。 9月23日(日)の『秋田内陸』に参加した仲間の様子が徐々に分かって来た。所属走友会と宮城UMCからの出場者は、昨年とほぼ同様のようだ。M仙人のレポートによれば、彼自身は無事完走。72歳にして12時間23分前後での完走は物凄い偉業。Dさん夫婦が共にクリスタルランナー(10回完走者)として今回も見事完走。O内さんが今回でクリスタルの資格ゲット。O川さんがクリスタルランナーとしての初完走。さらにS水さんが今回もサブ9での完走とある。 M井さんのHPで、大勢の仲間の元気な姿を確認出来た。その中にはM走会のパナップさん、古川組のT田さんら3人、たんぽぽの2人、宮城UMC仲間のF田さん、K藤さん、M黒さん、O友さん、S吉台のS木さんらの姿もあった。我が走友会のY田さん、M井さん、S村さん、K合さんらもそれぞれ素晴らしいレースを展開したことだろう。 古川のkazuさんは月300kmの練習をこなせるようになってから出場するのだとか。それも立派な考え方だ。ただし秋田の制限13時間をクリヤーするのは、加齢と共に年々厳しくなる。千葉の走友ボクシーさんは11年ぶりの参加だったが、残念ながら79km地点でリタイヤ。今後は66歳以上での完走者に与えられる、「チャレンジ賞」を目指すそうだ。 私は昨日の練習で30kmを走りに行った。8kmくらいには早くも両脚の筋肉が張り始め、12km辺りからは脚が重くなった。15km付近のコンビニでお握りなどを食べてエネルギーを補充し、4時間19分かかって何とか帰宅。これには休憩時間が含まれてないため、フルマラソンでは6時間以上かかるはず。1年ぶりに30km走れて嬉しいと思っていたのだが、「ジョギングシュミレータ」で計測し直したら、実際は28kmだったのが残念。う~む。 今日は台風17号の影響で夕方から大荒れになるようだ。9月の最終日なので、今日も走って200kmを越えたいのだが、果たしてどうなるか。筋肉痛は出ていないものの、右足の裏に違和感がある。心臓は大丈夫だが、筋膜炎が怖い。この症状が出たらランニングは中止。老後もランニングを楽しむため、無理はしない積りだ。
2012.09.30
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「私達は75歳までだね」と妻が言う。「何が?」と聞くと寿命らしい。彼女がそう考えた理由は「無理してるから」。あのなあ、勝手に俺の寿命を決められても困る。「俺は後10年は走りたいんだけど」と妻へ答える。走ることがそれほど無理だとは思わないし、無理をするのが必ずしも悪いこととも思わない。 「新平家物語」を読み出してから3カ月近くなるだろうか。テレビの大河ドラマと並行しながら読んで来たこともあってとても面白く感じるし、これまで分からなかった歴史の裏舞台まで良く理解出来た。そのことはまた改めて記すことにするが、著者吉川英治の人となりについて興味が湧き、ネットで調べてみた。すると意外なことが分かった。 その一つが、吉川は高等小学校中退だったこと。義務教育すら満足に受けてない学歴で良くこんな流麗な文章が書けると感心したし、教養が半端じゃないことにも驚く。二つ目は離婚していたこと。貧しい作家時代を支えてくれた糟糠の妻は、作品が売れ出して収入が爆発的に増加すると、それにどう対処して良いか不安になり、精神のバランスを崩す。吉川は元の静かな環境に戻してやろうと、やむなく妻を離別したようだ。悲しくも憐れな話だ。 映画「あなたへ」を観た時も夫婦について考えた。夫役の高倉健は離婚経験者。結婚の相手は歌手の江利チエミだった。だがチエミの成功を妬んだ義理の姉がマネージャーになり、2人に対しそれぞれの悪口を吹き込んだり、大金を勝手に持ち出したようだ。このためチエミは自ら離婚を申し出、たった1人で莫大な借金を返済したと言う。チエミは45歳で亡くなった。死因は脳卒中。きっと長年の無理が祟ったのだろう。チエミの遺体を乗せた車を、高倉は道路に立って静かに見送ったそうだ。 妻役の田中裕子は離婚を経験していない。だが、夫の沢田研二の最初の妻は、歌手ザピーナツの姉伊藤エミ。2人の間には男の子が生まれたようだが、その後離婚。原因は沢田研二の不倫。その相手が田中裕子だった。エミは夫を愛しながらも離婚を承諾したようだ。慰謝料は当時としては破格の18億円だった由。そのエミが今年がんで亡くなった。亨年71歳。あんなに睦まじい夫婦役を演じた陰に、実生活ではそんな凄惨なドラマがあったのだ。 先日観た映画「天地明察」では、岡田准一と宮崎あおいが夫婦役を演じた。この2人なかなか雰囲気が合って夫婦役がピッタリだと感じた。宮崎はまだ若いのに離婚経験者。夫だった高岡蒼祐はツイッターでフジテレビの韓流ドラマを批判し、問題になった。宮崎はそのことに嫌気が差して高岡に離婚届を郵送し、高岡は已むなく同意したようだ。 ところが離婚後に疑問に思った高岡が調べたら、宮崎が前から不倫していたことが判明した由。その相手が何と親友の岡田だったのだ。人気歌手で俳優の岡田と宮崎が知り合ったきっかけは映画「陰日向に咲く」での共演。妻の宮崎はコマーシャルや映画で活躍中の大女優で、夫の高岡はあまり売れない俳優。2人の収入にはかなりの差があったようだ。結局宮崎はそんな夫に愛想をつかしたのだろう。 以上書いた内容は、ほとんど今回ネットで調べて知ったこと。「天地明察」では出戻りの妻宮崎が、新婚初夜に夫役の岡田に言う。「いつまで私の帯を解いてくださらないのですか」と。今にして思えば、あれはとても意味深長な言葉だ。クリクリした目で愛苦しく聡明な女優の宮崎だが、その陰にはドロドロとした実生活が隠れていたようだ。 芸能界には普段ほとんど関心のない私だが、こと「離婚」となると話は別。縁あって夫婦になった男女が、何かの行き違いで別れてしまうことの不思議さ。さて夫婦とは一体何なのだろう、人生って何なのだろうと考えさせられるし、自分の人生に置き替えてみるテーマではある。
2012.09.29
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去る26日に国連総会で野田総理が行った演説は立派だったと思う。領土問題は当事国の一方が国際司法裁判所に提訴したら、相手国も必ずそれに応じる「強制管轄権受託」を受け入れるべきと言うのがその趣旨。国名は明示しなかったが、ロシア、韓国、中国が応じる気配はなさそうだ。応じないどころか、中国は日本の演説は歴史的に正鵠を得ておらず詭弁である旨の反論をしたようだ。果たしてどちらが詭弁だろう。 武力ではなく、あくまでも国際法による解決を求めた野田総理は正しいと思う。そして、自衛隊の艦船を尖閣に派遣することについては、慎重を期したようだ。日本の法整備が遅れているためでもある。中国に対するODAなどの援助額総計は6兆円にも上るとか。そのことを中国政府は自国民に説明していないはず。 暴動であれだけの被害を受けた日本企業は、一体「チャイナリスク」をどう受け止めているのだろう。賠償を求めるのは当然として、あんなことがしょっちゅう起きる国に、いつまで留まる積りなのか。中国はまさに近くて遠い国だ。政情が落ち着いたミャンマーでは、外国企業を受け入れるための整備が進みつつあるようで、新たな「受け皿」になってくれそうな気配。 私は戦後の歴史観を「自虐史観」とは思っていない。第二次世界大戦で我が国が近隣諸国に迷惑をかけたことは明白だし、謝罪するのは当然とも思う。だが、「南京虐殺」など、「あり得ない数字をでっち上げる」のはどうだろう。「南京虐殺」の博物館は、当時の日本社会党の寄付金によって建設されたと聞く。それなのに、彼らは恩を仇で返したのだ。 現憲法の成立にアメリカが大きく関わったのは事実。また朝鮮動乱をきっかけにして、自衛隊の前身である警察予備隊が作られたことも事実。アメリカは尖閣は日米安保の対象としながらも、領土権については関係当事国の問題とする立場を取っている。日本は今、岐路に立たされている。自分の力で平和を守る。それが独立国として当然の行為であることに気づくべきだと思うのだが。 話が丸きり変わるが(笑)、わが楽天は昨夜西武に敗れて借金2となった。残り試合は9。3位ソフトバンクとの差は3・5ゲーム。もう絶体絶命のところまで追い詰められている。残り試合を全部勝ち、かつ目下3位のチームが負けない限りクライマックスシリーズへは進出出来ない。10月に入っての2試合分のチケットを、昨夜ネットで予約した。最後くらいKスタで思い切り声を張り上げ、応援したいと思う。 昨日は不整脈の手術を受けた病院から自宅まで走って帰った。前日は6か月検診に先だって「ホルター心電図計」を取り付けていた。これは24時間の鼓動を計測するのだが、同時に自分の行動も記録する必要がある面倒なもの。本当はこの心電図をつけながら走ると、ランニング中の心臓の様子が把握出来て良いのだが、大量の発汗で装置が外れてしまう恐れがあり断念。 久しぶりに青葉城を走って登った。ゆっくりでも走れるのが最高。だが、ガッカリしてることがある。来年2月の「東京マラソン」がまたしても落選。これで連続7回の抽選漏れだ。「クジ」にはからきし弱い私だが、これほどまでに「東京マラソン」に嫌われるとは。気を取り直して「いわきサンシャインマラソン」への出場を目指して練習を頑張りたい。来月の1日が6カ月検診。果たして執刀医からどんな説明があるか。
2012.09.28
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自民党総裁が安倍元首相の再選となった。これで今後の政局が大きく変わりそうだ。地方票では圧倒的な差をつけた石破さんは、国会議員だけの決戦投票で敗れた。彼は派閥の長老の覚えがめでたくないそうだ。自民党にはまだ古い体質が残っているようだ。安倍さんはタカ派と言われている。「美しい日本」、「強い日本」、「豊かな日本」をスローガンにしてるが、その信条は決して悪くないと思う。 彼は憲法改正を強く唱えているので、今後はその動きが強まるだろう。「平和憲法」や、第9条の精神が、「聖域」では無くなるわけだ。私は必要なら改正はすべきだと思う。時代に合わなくなってる部分もあるからだ。だが私は「自主憲法」とかは問わない。あの頃の状況から、あれはあれでやむを得なかったと思う。 「日米安保条約は破棄すべき」とする「進歩人」もいるようだが、今のような状態で尖閣などの領土が守れるだろうか。中国軍部の首脳は「本気で尖閣を獲りに行く」と公言してるし、南西諸島の東部、つまり太平洋側まで中国の影響を及ぼそうとする「国家戦略」も明らかになっている。海上保安庁の艦船と今の体制で数百隻もの中国船や台湾船の侵入を防ぐのは、数の上からも到底無理だと思う。 戦争を恐れる人が多いと思うが、尖閣問題で日中が全面戦争になることはない。その前に国際世論に訴える必要があるが、日本には領土も含めた外交、財政、教育、貿易、農政などの基本的な国家戦略が無い。官僚の「事勿かれ主義」「前例主義」が、その場しのぎの政治を繰り返しただけのように感じる。安定した経済、安定した財政にするためにも、安定した政治が必要だ。 民主党の代表には野田総理が再選され、幹事長には輿石氏が再選された。この体制で次の総選挙に臨むのだろうが、何だか新鮮味や期待感が乏しい。国民にあれほど望まれた民主政権が誕生して3年。その期待はもろくも崩壊した感がある。それまでの苦しい財政問題や、医療制度、保険制度を継承したのだし、未曽有の大震災が生じるというハンディも背負ったが、いかんせん力不足だったのは否めない。 「国民の生活が第一」など、多くの議員が党を割った。これも「マニュフェスト」云々と言ってるものの、単なる選挙対策に過ぎない。また注目の的である「日本維新の会」の地方分権や議員定数の削減は良いが、その実力は未知数。橋下氏自らが図らずも「自分の賞味期限は短い」と言ってるが、国民の関心を惹き付けるだけでは単なるポピュリズムに終わるだろう。 日本のマスコミも悪い。テレビは視聴率を、新聞や雑誌は購買数を上げようとして、興味本位の報道が多く、国民もそれにつられる。尖閣諸島の買い取りは石原東京都知事が焚きつけ、マスコミが国による購入を煽った。中国は南シナ海に配備しようとした空母を東シナ海に向けるそうだ。これはもちろん「尖閣」を意識したもの。こうなると今後日本と中国の「チキンレース」がどこまで行くかが問題だ。 中国は50以上もの多民族国家。チベットやウイグルなどを見ても分かるように、資源が豊富なそれらの土地を漢民族が奪い、漢民族化教育が進められているのが実態の恐るべき国だ。不正と不満が満ち溢れた中国が、果たしてどこに向かうのか。日本はその中国とどう付き合うべきか、今後の課題は大きい。 憲法改正に関する国民の見解は二分されるだろうが、だらだらと討議を続けてばかりでは前進しない。何もしないままで平和は守れないことを自覚すべきで、馬鹿なテレビ番組を観ている暇はない。1人1人の国民が他人のせいにせず、自分で考え、自分で選択することが大事。戦後67年。日本人はそろそろ「平和ボケ」から目を覚ます時期ではないだろうか。≪注意≫この件に関する極端で攻撃的なコメントはお断りします。意見はご自分のブログで存分に主張してください。
2012.09.27
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『ツタンカーメン展』はバスツアーのパンフレットを観て決めた。誘ったが妻は同じ日の『果物狩り』に行くと言う。「芸術の秋」を取るか、「食欲の秋」を取るかの違いだが、私は東京へ行き、妻は山形へ行くことになった。私の方の料金は8900円。この中に千円の弁当が昼と夜の2食分と、美術館の入館料3千円が入っているのでバス代は3900円の計算。往復11時間の長旅だが、その間は本を読めば良い。 ツタンカーメンの名前と「黄金のマスク」のことを初めて知ったのは、まだ中学生の頃。かつて日本でも展示会が開かれたようだが、観たことはない。発掘関係者が次々に死んで行く「ファラオの呪い」や、ツタンカーメンの死因に関する情報には、少なからず心惹かれたものだ。ただし、その後の研究で「ファラオの呪い」は新聞社のでっち上げであることが分かっていた。 それにしてもナイル川西岸ルクソールの「王家の谷」にある64の墓の中で、唯一未盗掘だったのがツタンカーメンの墓との話には驚く。墓荒らしの被害から逃れたお陰で、3300年前の古代エジプト王の暮らしが分かるのだ。今回観なければ、もう2度とは観られないはず。今回日本に来た展示物は、全てエジプト考古界の重鎮であるザヒ・ハワス博士が選定した逸物と聞けばなおさらだ。 「上野の森美術館」には、「日本芸術院」の事務局が置かれていた。かなり混雑していたものの、予約していた私達は並ばずに入館出来た。だが大勢の観覧客で展示物が良く見えない。ここはじっと我慢し、ゆっくり進む。展示は6部門に分かれ、総数107点。いずれも国宝級のものばかりだった。中でも王の胸飾り、曾祖母チュウヤの人形棺が眩ゆい黄金製で、素晴らしい出来栄えだった。 ツタンカーメンはBC1340年代に生まれ、19歳で死んだ。父アクエンアテンが信じたアトン神から一代で元のアモン神信仰に戻したと伝えられている。また父王同様、腹違いの姉妹を妻にしており、このため背骨の変形、足の指の欠損、臓器の疾患など、近親結婚による先天異常が見られると言う。ミイラの腕の長さも左右で違っていた。 展示品の中には、妻アンケセナーメンとの間に生まれた2人の子供のミイラもあった。いずれも出産後間もなく死んだようだ。2010年にエジプトで行ったCTスキャンとDNA検査によって、青年王の死因は大腿骨の骨折とマラリアであることが特定出来た。これまで言われて来た暗殺ではなかったようだ。また同年のドイツ熱帯医学研究所の検査では、「鎌状赤血球貧血症」が判明。やはり近親結婚が続いたことで病弱だったのだろう。 展示品の材質は金、銀、銅、紅玉、ラズリラピズ、トルコ石、砂岩、珪岩、凍石、玉髄、象牙、アラバスター(方解石)、石灰岩、黒曜石、ガラス、ファイアンス(施釉陶器)、アスファルト、漆喰、顔料、石灰、粘土、亜麻布、木(黒檀、杉、アカシア)と実に多様で、最高の技術が施されていた。まさに世界の至宝だった。 展覧会を観終えて上野公園を散歩した。直ぐ近くでは中国人の大道芸が行われていた。尖閣問題を気にしたのか「中国雑技団」とすべきところを「東京雑技団」としてあった。それでも凄い力技に、万来の拍手が起きた。東京国立博物館では10月中旬から特別展「出雲展」と「中国王朝の至宝展」が同時に開催されるようだ。帰宅は夜の10時過ぎ、眠ったのは深夜の1時半を過ぎていた。
2012.09.26
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江戸時代の初期、御城碁を生業としながら北極星の観測と暦の改良に一生を捧げた男が居た。映画『天地明察』はその男、安井算哲(後の渋川春海)の話である。しかしまた不思議な話。あの時代に殿様に碁を教えながら天文学に勤しむ人間などが居たのか。そして何故そんなことが許されたのだろう。 原作は冲方丁。これで「うぶかた・とう」と読ませるらしい。彼は昭和52年生まれだから、私の次男と同学年。平成9年に角川書店から刊行したこの小説で、吉川英治文学新人賞を受賞し、後に直木賞候補作家となったようだ。監督は『おくり人』でアカデミー賞を受賞した滝田洋二郎。そして音楽担当は久石譲。予告編を観た時から「面白そうだ」と感じていた。 安井算哲は碁打ちの2代目で、本因坊道策の良きライバル。徳川2代将軍秀忠の御前で過去の記録に基づき、「定石」を教えていた。算哲を演じる岡田准一も道策を演じる市川染五郎も若くて実に良い男ぶりだ。ところがこの算哲はなぜか算術が好きで、神社に奉納されている「算額」(幾何などの問題を書いた絵馬)を解くのに夢中になる。 それも道理。算哲は数学と暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞と松田順承に、垂加神道を山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んでいた。彼の天文好きを伝え聞いた会津藩主保科正行は、「北極出地」を命ずる。これは日本全国を旅しながら北極星の位置を観測することで、正しい緯度を計測する仕事。江戸初期の日本が、国を挙げてこんな事業をしていたことに驚く。 無事任務を終えた彼が、次に向かったのが暦の改良。当時日本国内で使用されていた宣明暦は平安時代に唐からもたらされたものだが、800年間のうちに「ずれ」が著しくなっていた。閏月(うるうつき)なども誤差を埋めるための工夫だが、それでも限界があった。ある日暦にない「日食」が突然起きる。算哲は水戸光圀に暦を改良すべきと訴えるが、当時暦の運用の実権は京都の朝廷が握っていた。 それを説き伏せるための涙ぐましい努力と失敗の数々。そしてその夫を陰で支える妻。妻役の宮崎あおいには絶対的な存在感があった。結局命を賭した算哲の予測が当たり、我が国最初の本格的な暦である「大和暦」の採用が決まる。この功により算哲は碁方から天文方へ配置替えとなり、250石取りの士分となる。 正徳5年(1715年)、全国を測量して正確な日本地図を作った伊能忠敬が生まれる30年前に、算哲改め渋川春海は死んだ。幕末には憂国の士がたくさん出た。諸外国の脅威から何とか日本を守ろうとして立ち上がった男達。算哲はその150年以上も前の人だが、彼のような心ある男が国を支えていたことが嬉しい。彼は初手を天元(碁盤の中央)に打った最初の人。やはりとんでもない天才だったのだろう。
2012.09.25
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大相撲秋場所が終わった。優勝は綱取りに挑戦中の大関日馬富士。2場所連続の全勝優勝で、念願の横綱を実現した。千秋楽の相手は、長年一人横綱で頑張って来た郷土モンゴルの先輩白鵬。最近力が衰えた感がある横綱を鋭い出足で終始攻め立て、最後は下手投げの連続で土俵上に投げ捨てた。勝った日馬富士の額には土が着いていた。相撲の神様に感謝して、自ら土俵に額を擦りつけた由。 彼は体に恵まれなかった。大関になるのにも時間がかかり、昇進後も成績にバラツキがあった。心は強かったものの、まだ体が出来てなかったのだろう。それが「もう一つ上を目指せ」と言う親方の一言で闘争心に火が点いたようだ。2人の横綱が共にモンゴル出身とは日本の国技として情けないが、これも実力の世界。異国での最高位獲得には、相当の苦しみがあったと思う。今後のさらなる活躍に期待したい。 時々会う小父さんがいる。愛想の良い人で、いつもゴールデンレトリバーと一緒だった。ワンちゃんはとても大人しく、長い毛をユサユサしながら歩いていたのだが、最近はその毛がすっかり抜け落ちていた。老化が進み、皮膚病に罹っていたようだ。年齢は我が家のマックスと同じ14歳と聞いた。小父さんが1人で歩いていたところを見ると、ひょっとしてあのワンちゃんは死んだのだろうか。 昨日、近所の奥さんから電話があった。雑種のシンバが居なくなったと言うのだ。シンバも同じ14歳。耳も目も遠くなり、老化が進んでいるように見えた。若い頃から私にはよくなついた犬だ。いつもは庭に放されているのだが、家が改築中のため「抜け道」が出来、彼はその穴から脱出したようだ。見かけたら連絡して欲しいと、慌てた様子だったと妻。 暫くしてシンバが見つかったとの連絡。何と1kmほど先の路上でうずくまっているのを発見した人が、警察署に連れて行ったようだ。彼はほとんど散歩をせず、狭い庭をうろつくだけだったのだが、何故そんな場所まで行ったのだろう。人間なら「徘徊老人」みたいなものか。ともあれ見つかって良かった。 我が家の黒ラブ、マックスもこのところ老化が著しい。階段を登るのもやっとだし、生理現象も以前とは違う。暑さに特に弱い彼は、この夏日中は玄関で過ごした。やはり視力や聴力は衰え、近くに行くまで誰か判別出来ないようだ。普段は大人しい彼でも、たまに知らない人が来ると猛然と吠える。郵便屋さん、配達の人、ビラ配りの人などがその対象。 きっと自分の「縄張り」に近づく者を威嚇しているのだろう。動物が縄張りを主張するのは本能のようだ。それは人間も同様で、特に長い間食料調達を担当して来たオスは、自分の縄張りを侵す者を撃退しようと反応する傾向がある由。だが、領土問題では女も立ちあがった。フォークランド紛争では、サッチャー英国首相が奪われた自領の島を、軍事力を行使してアルゼンチンから奪い返した。まさに「鉄の女」だった。 日本は今、北方領土、竹島、尖閣諸島でロシア、韓国、中国と紛争中だ。最近の状況は特にきな臭い感じを受ける。領土問題で心が大きく動くのは、私が老化し保守的になったからか。それともオスの本能なのか。昨夜はある番組で桜井よしこさんの主張を聞き、理路整然とした話しぶりに共感を覚えた。真実を追求しようとする彼女の姿勢には頭が下がる。単なる「タカ派」の意見として無視するのはどうかとも思った。
2012.09.24
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「ツタンカーメン展」から帰宅したのは昨夜の10時過ぎ。それから愛犬マックスを散歩に連れて行き、寝たのは深夜の1時半ごろだったと思う。早寝早起きの私にしては珍しい。バスに11時間ほど乗って疲れていたにも関わらず眠気がしなかったのは、やはり興奮していたのだと思う。そのせいで、今朝はゆっくりの起床になった。 台所に行くと床の上に新聞が敷いてあり、色んなものが載っている。泥だらけのサトイモ、20粒ほどのクリ、ブドウが2房。それらは妻が行ったバスツアーのお土産なのだ。昨日私はバスツアーで東京へ行き、「ツタンカーメン展」を観て来た。一方妻はバスツアーで山形へ行き、果物狩りなどを楽しんだ。 台所からは甘じょっぱい醤油の匂いが漂っている。先日ブログ友のよっちゃんさんに教えてもらったレシピをもとに、妻がゴーヤの佃煮を作っていた。愛犬との散歩から帰って来るまでに佃煮は完成。早速朝食で食べたが、なかなかの味。これなら作り置きしていても持ちそう。新聞を読み終えた後は庭に出て作業を開始。 先ずは「ヨシズ」の片づけ。夏の間直射日光から居間を守り、室温を下げてくれたヨシズだが、気温が下がった今ではもうご用済み。2本のヨシズを掃除し、ガレージの天井から吊り下げた。次はホースの片づけ。暑さが厳しかった今夏は、庭や畑の散水に大活躍したホースをきれいに拭いて巻き、物置にしまった。 次はゴーヤの始末。まだ実は獲れるが、そろそろ秋冬野菜のためには日光が必要。塀に沿ってネットを張ったため、表と裏の両面から少しずつ蔓を切って行く。そのついでに収穫。結局この日獲れたゴーヤは大小合わせて20本ほど。中には相当大きなものがあった。ゴーヤはカクレンボの天才で、ちょっとした葉の茂みに上手に隠れている。小さなゴーヤはジュースにし、大きなものはゴーヤチャンプルーや佃煮にしよう。 全ての蔓を除いた後は、ビニール紐を切って支柱からネットを外す。シソは来年の種用に1本だけ残して全て抜き、アゲハ蝶の幼虫に葉を食べ尽くされたアシタバも、一本だけ種用に残して刈った。ミョウガは全て茎を切って片づけた。引き続いて草取りをしようとしたら、急に雨足が強くなった。このためたくさんの収穫をもたらしてくれた夏野菜に感謝しつつ、作業を終了。 白菜と大根の成長が著しい。白菜の苗は大きなもので直径50cmほど。これから葉が巻き込み、次第に白菜らしくなって行く。シュンギクは一度収穫してお浸しにした。ジャガイモも発芽した。仙台周辺では昔ジャガイモのことを、方言で「ヌドイモ」と言った。これは春と秋の2回収穫出来るための「二度イモ」が訛ったもの。 裏庭の萩が咲き出した。吾亦紅(ワレモコウ)の干しブドウのような実が可愛い。そのうちサンザシやムラサキシキブの実も色づくだろう。柿もユズも今年はさらに減って、数個しか枝に残っていない。それでも季節が巡って行くのが感じられる。 8回続けた「あの島の話をしよう」シリーズだが、自分の計画では後8回分が残っている。アクセス数から見ても、結構ファンがいるようで嬉しい。その一方飽きた方もいるみたいで、中には「別な話題を」との注文もある。このため、少しだけお休みしようと思う。さて、今日の「秋田」は雨模様みたい。大勢の仲間にとって走り易いと良いのだが。頑張ってゴールを目指してね、我が走友達~!!
2012.09.23
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≪ 本部半島周辺の島々(1) ≫ 『宮城島』 昨年の11月、私は沖縄本島の北部にある本部半島を走って一周した。4年に亘る「沖縄本島単独一周」の最終年だった。名護市真喜屋と言う集落までタクシーで行き、そこから橋を渡って島へ行く。最初の島が宮城島。沖縄で「宮城」とか「奥武」(おお)とつく島は、かつては風葬の地だったことが多い。ここでも小島へ渡った途端に、沖縄独特のお墓が見えた。「やっぱりなあ」私はお墓を見ながらその傍を走り抜けた。 『屋我地島』 次の屋我地島も沖縄本島と地続きみたいなものだ。この島は結構大きく、本部半島の付け根に「ふた」をしたような感じ。その内側にあるのが遠浅の羽地内海だ。島へ渡ってすぐの道端に何かの死骸があった。1m50cmもある白いハブだった。後で聞いた話では、屋我地はハブが多いので有名らしい。これには驚いた。何故なら標高100mくらいの島にはハブがいないとされるからだ。 かつて沖縄の島々は中国大陸と陸続きだった。だが造山運動が激しくなって隆起と沈降を繰り返すと孤島になり、標高100m以下の低い島は何度か海の下になり、この時ハブは死んだ。だが扁平な屋我地島にハブが多いのは、沖縄本島に近いため海を泳いで来たのだと思う。まあ日中走るのであればハブは見えるので心配はないのだが。 屋我地島に入って間もなく道は行き止まりになった。その先にあるのは病院だけ。地元の島民に道を聞きながら、古宇利島へ渡る橋を探した。後で気づいたのだが、多分あの病院は「らい病」専門の病院。全国でもあまり人の来ない淋しい場所にらい病の病院があることを私は知っていた。かつては不治の病として偏見の対象だったらい病も、特効薬が出来た今では普通の病気だ。 一旦古宇利島へ渡った後で再び屋我地に戻るのだが、その時に観たのが「オランダ墓」。これは幕末に来たフランス艦船の乗組員の墓地。当時外国人のことを沖縄では「オランダー」と呼んだのだ。狭い海峡の向かい側つまり本部半島側に運天港が見えた。そこから伊是名島や伊平屋島に渡るフェリーが発着するのだが、かつて源(鎮西八郎)為朝がこの港に立ち寄り、琉球王の祖になったとの伝説がある。いわゆる「日琉同祖論」で、日本が琉球を併合し易くするための作り話みたいなもの。 『古宇利島』 古宇利大橋を渡って島へ行く際に、海中にライオンみたいな岩山が見えた。私は勝手に「ライオン島」と名付けた。橋の上からは沖縄本島が微かに見えた。古宇利島は周囲2kmほどの円形の島。この島の特産がモズク。沖縄は全国でも有数なモズクの産地だが、その7割をこの小さな島で養殖している。養殖用の網には「種」が着き易いように、ビニールのひもが結んであった。 古宇利大橋が出来てから観光客が増えたのか、島内の至る所にレストランや展望台、宿泊施設などが出来ていた。数年前に一種のブームがあったようだ。だが、そのうち半数以上が既に閉鎖されていた。こんな小さな島はあっと言う間に見終わってしまい、休む必要もないからだろう。折角の投資が無駄になったその「残骸」を見ながら私は島を一周した。 島の西側からは本部半島が良く見えた。琉球王朝時代には、この島にも烽火(のろし)台があったようだ。目の前には運天港、そして北部の守りである今帰仁(なきじん)城が見え、島の東側からは沖縄本島の北部が見渡せる絶好の位置にあるこの島は、きっと戦略上も重要だったのだろう。 わずか2kmほどの距離に1時間近くもかかったのは、坂が急だったためだけでなく、不整脈が起きていたのだと思う。帰路の橋の上から、朝の光に包まれた沖縄本島が見えた。芭蕉布で有名な大宜味村辺りだ。あれほど崇高な景色を見たのは久しぶりだった。<続く>(メモ) 本日はこれから「ツタンカーメン展」を観るために東京へ向かいます。帰宅が遅くなるため、コメントへの返事が遅れることをご了承くださいませ。
2012.09.22
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8月19日にデンマークの北端をスタートした「トランスヨーロッパ・フットレース」も9月20日(木)が第33日目。フランスに入ってから不調だったネットだが、大会本部のHPから選手達の記録は把握できていた。2、3日前から門さんのツイッターとコノちゃんのブログが復活して、レースの模様も少し分かるようになった。18名いた日本人選手のうち8名が故障などで既にリタイヤしているが、そのうちの何名かはステージランナーとして頑張っている由。 暇にまかせて計算したのだが、リタイヤランナー8人の平均年齢は67.1歳で、最高年齢はKYさんの73歳。これに対してレース継続中の10選手の平均年齢は63歳で、最高年齢はSパパの68歳。宮城県出身で私と同学年の彼が、3度目のトランスヨーロッパ完走を目指して走り続けているのが、何よりも嬉しい。スペイン南端のゴールまで残り31日間で、距離は1877.8km。彼らがゴール後に眠る体育館も、徐々に寒くなって来たようだ。 9月28日(金)にスタートする「スパルタスロン」は246kmを36時間で走る、過酷なウルトラマラソンだ。スタートはアテネでゴールがスパルタ。これはアテネの兵士がスパルタに援軍を求めて走った古代ギリシャの故事に基づく。日中の気温は27度だが、コースの途中には1000mを越えるサンガス山があり、夜は5度台まで冷えるらしい。 何年か前に「いわて銀河」で一緒だった香川のフランク翔太さんが、今年初めてこのレースに挑戦する。彼は「萩往還」、「富士登山競争」、「マウント富士トレイルレース」などに出場している強者。スパルタスロンから帰国した週末には山岳レースの「ハセツネカップ」に出場すると言うから驚く。出国まで後7日。今は周到な準備をされていることだろう。彼の吉報を待ちたいと思う。 今度の日曜日9月23日(日)は「秋田内陸」のレース当日。現地の天気は曇り時々晴れで、最低気温が17度と涼しいものの、日中は28度の予報。きっと厳しい戦いになると思う。所属走友会や、宮城UMCの仲間達は、例年通り明日の土曜日に現地へ出発するはず。何とかゴールを目指して頑張って欲しいものだ。 一昨日は手術後初めて練習で23kmを走った。これは今年の1月以来。一度失った筋力はなかなか戻らないが、ノロノロでも走れるのが嬉しい。昨日は11kmのコースを走っている途中、誰かが追いかけて来た。走友会の長老M仙人だった。最近は長距離の練習をしておらず、「秋田」の完走も厳しいだろうと彼。72歳にして制限13時間100kmの「秋田」に挑戦するだけでも凄いこと。私の最後の100km完走は66歳だった。 自分に気合を入れるため、ブログの「帯」に次回の参加予定レースを掲げた。来年2月の「いわきサンシャインマラソン」がそれ。制限6時間でフルを走り切る走力、筋力がそれまで戻るかどうかは分からないが、ひたすらゴールを目指したい。30kmの練習は10月1日にある手術後の6カ月検診を受けた後になるが、果たしてドクターが何と言うか。 明日22日(土)は、早朝から東京に出かける。上野の森美術館で開かれている「ツタンカーメン展」を観るためだ。「秋田」に向かう走友達を激励するのは今日しかなく、急遽「あの島の話をしよう」シリーズを休止した。なお、今月の28日には「東京マラソン」の抽選結果が分かる。果たして初出場となるかどうか。「秋田内陸」に行かれる皆さん、頑張ってくださいね~!!私は仙台から応援していま~す。
2012.09.21
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≪ 宮古島 ≫ 職場に宮古島出身の男がいた。彼は沖縄では有名な詩人。その詩集を見せてもらったが、まるで呪文のようでチンプンカンプンだった。宮古島の言葉は沖縄の中でも特異らしい。例えば「平良」は沖縄本島では「たいら」だが、宮古では「ひらら」。それを地元では「プサラ」と発音する由。彼の詩を読んだことや亜熱帯の風景に驚いたことなどが、25年ぶりに私に詩を書かせた。 その島を初めて訪れたのは平成9年の冬。8番目の職場の出張の時だ。私は早速、琉球王朝時代、石垣島で起きた反乱を鎮めた島の英雄仲宗根豊見親の墓や、当時使用された大和ガー(降り井戸)などを見学した。また翌朝には西平安名(いりぴんな)岬方面に走りに行った。私は全国どこにでもランニングシューズを持参し、平成16年に47都道府県を走破している。 宮古島はロングタイプのトライアスロン「ストロングマンレース」で有名だが、これは余りにも人気が高く、出場は実績と抽選によって選考される由。一方ウルトラマラソンもかつて2つのレースがあった。土曜日にあったのが海宝氏主催の「宮古島ウルトラ遠足」で、翌日の日曜日に地元主催の「宮古島ワイドーウルトラ」が開かれた。共に距離は100kmだが、中には2つをかけ持ちする強者もいたのだ。 私は平成20年の「ワイドー」に出た。これは宮古の言葉で「頑張れ」の意味。前日の「遠足」は27度の猛暑だったが、この日は21度と絶好のウルトラ日和。風もあってとても走り易かった。三角形の島を時計回りに廻るのだが、スタートの5時はまだ真っ暗。日本の最西部にある沖縄は、位置の関係で夜明けがかなり遅いのだ。夜が明けたのは、来間(くりま)島に架かる来間大橋を戻った時。真っ白い砂に、エメラルドグリーンの海が美しかった。 西平安名岬からは池間大橋を渡って池間島を一周する。橋の上は猛烈な西風で、海には白波が立っていた。夏は穏やかな島だが、冬は厳しい季節風が吹き荒れる。この500mほどの海峡は干潮時には浅瀬となり、昔は竹馬で渡った由。平良市内に戻った時、苧麻(ちょま)の栽培園を見つけた。前日、たまたま島のオバーが機を織っているのを見た。それが苧麻だった。 苧麻は日本の古代、税金代わりに納められたいわゆる「調布」の原料となる繊維だ。琉球王朝時代、宮古島ではこの宮古上布が税の代わりに納められた。折角の機会なので、レースを中断し見学。苧麻は60cmほどの高さの、赤い表皮を持つ植物だった。東平安名(あがりぴんな)岬ではマミヤの墓を見た。彼女は琉球王朝時代首里の王府から来た役人の現地妻。役人が沖縄本島に帰った後、この島一番の美女は絶望して海に身を投げたと言う。 85km過ぎからは厳しい坂道の連続になった。七又海岸にはパイナップルに似たアダンの実が実る並木があった。その先で横浜の走友Tさんに追い着いた。彼は前日も100kmを走っている。私より2歳年上だから当時は66歳のはず。彼とは「秋田内陸」、「奥武蔵=埼玉」、「しまなみ海道=広島~愛媛」などでも何度か会っているが、まあ元気な人だ。 5時過ぎ、イルミネーションが点いたホテルの庭にゴール。12時間02分45秒。私にとっては2番目の好タイムだった。池間大橋付近では、前日走った走友会の仲間が車中から応援してくれた。翌日、宮古空港から飛び立った機内から、雲の合間に伊良部島が見えた。間もなく宮古島との間に橋が架かるらしい。あの頃は1市2町1村だった宮古島も、今では全島が合併して宮古島市になったと聞く。 その昔、倭寇の基地が置かれ、貧しさゆえに渡り鳥のサシバ(現在は天然記念物に指定)まで食べたと言う島も、今ではすっかり豊かで美しい島に変わった。その島を再び訪れることはないだろう。私も年老い、もう100kmレースを走るのは無理。わずか4年前だが、今にして思えばあの頃がウルトラランナーとしての絶頂期だったのだろう。<続く>
2012.09.20
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≪ なかゆくい(1)距離 ≫ 少し前に南蔵王を縦走した時、山岳ガイドのYさんが蝶々の話をしてくれた。アサギマダラはこの付近から沖縄の与那国島や台湾まで飛んで行くそうだ。2500kmにはなる距離を1日平均50kmほど飛ぶので、50日ほどかかることになる。だが沖縄本島と宮古島の間は300kmあり、この間に島はない。果たしてアサギマダラはどうやって休むのだろう。 人類で一番古い舟は一本の木をくり抜いた丸木舟。南九州から南西諸島へ、あるいは中国大陸から先島諸島へ我々の遠い祖先たちが渡って来た時も、やはり丸木舟に乗ったはずだ。人間は島影が見える時は安心して航海できるが、島影が見えないと不安になるらしい。彼らはその不安と戦いながら黒潮に小舟を漕ぎ出し、島々を伝って行ったのだろう。 我が国の代表的な民俗学者である柳田國男が唱えた説に「海上の道」と言うのがある。日本人の主食であるコメは、中国大陸、台湾、先島諸島、南西諸島の島々を伝って九州に到達したとの仮説だ。だがその夢は破れた。日本人が食べる短粒米のジャポニカ種は中国の山東半島が起源で、それより南では育たないことが分かったのだ。 このことから現在では、米が来たルートは山東半島から直接九州へ来るルートと、朝鮮半島経由の2つがあったとされている。今は険悪なムードが漂う日中、日韓、日朝関係だが、かつては米をはじめ、先進の文化がそこから日本列島へもたらされた。さらに私達の血にもかなり色濃く朝鮮民族の血が混じっている。ある研究によれば古代朝鮮半島の動乱が原因で渡って来た人は、2世紀で200万人にも上るらしい。当時の日本の人口はせいぜい数百万人なので、その比重は相当のものだ。 さらに米をもたらした弥生人も中国や朝鮮半島から渡って来たので、日本人と朝鮮人(韓国人)はDNAが非常に近い。また文法や宗教にも良く似たところがある。従来から日本列島に住みついていた縄文人と、渡来人の弥生人が混血した結果が現日本人だが、南西諸島では混血の度合いが薄く、縄文人の特徴を色濃く残している。これはやはり離島のためだ。 琉球王朝時代、離島間の情報伝達に用いたのが烽火(のろし)。烽火は狼煙とも書き、中国大陸ではオオカミの糞を用いたのが名前の起源。琉球では黒い煙と白い煙の2種類で伝えたようだ。さすがに300kmも離れた宮古島までは伝えられないが、沖縄本島周辺の島々や慶良間諸島、久米島との間には通信網が敷かれていたことを、昨年走る途中に寄った本部半島の博物館で知った。<続く> <注> 「なかゆくい」とは沖縄の言葉で「一休み」の意味です。
2012.09.19
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≪ 伊是名島 ≫ 4年前の7月、私は沖縄本島の西海岸を縦断した。140kmを3日間で走ったのだが、最終日は最北端の辺戸岬から名護市への55kmの逆走。朝の8時過ぎには既に気温は33度になり、路上は40度を越す。その猛暑の中で、私は2度意識を失いかけた。いわゆる熱中症だ。走り始めて間もなく東シナ海に浮かぶ2つの島が見え出した。私はてっきり伊是名島とその南にある無人島とばかり思っていた。 だが、どうも解せない。2つの島が離れ過ぎているのだ。あんな所に島があったのだろうか。ひょっとして私は幻の島を見ているのではないか。無事縦断を果たした後も、私はまだ夢を見ているような気持ちだった。沖縄の地図を確認して納得したしたのはその数カ月後、あれは伊平屋島(いへやじま)と伊是名島(いぜなじま)だったことにようやく気づいた。 伊平屋島にはクマヤ洞と言う岩窟がある。日本の神話で天照大神が隠れた「天の岩戸」の沖縄版だ。そして伊是名島は、不思議な伝説を持つ島だ。あの2つの島が同時に見えるのは、沖縄本島最北部の西海岸だけ。それも道路がクネクネと曲がっているために、偶然走っている私からも見えたのだろう。その伊是名へ私は1度だけ行ったことがある。 沖縄本島の北部、本部半島の付け根に運天港がある。那覇からだと100km近く離れているだろうか。そこへ原付で行き、30km沖にある島へフェリーで渡る。伊是名は美しい島だった。ピラミッド型をした三角山の頂上には伊是名城(いぜなグスク)があるのだが、残念ながら金網が張られ、山に登ることは出来なかった。県の指定文化財なのだ。 そこから暫く行った山道を登って驚いた。海の中と山の中に2つの直立した岩山が聳えていたのだ。海中の岩は「海ギタラ」で山中の岩が「陸ギタラ」。陸ギタラの天辺には祭祀跡があるらしい。どうして古代の人があの危険な岩に登れたのか、なぜそこに登って祈る必要があったのか私にはどうしても理解出来なかった。 リュウキュウマツの姿が実に美しく、清らかと言う表現がぴったりだった。その島で「神アシャギ」を初めて見た。アシャギは「足上げ」が訛ったもの。つまり神様が棲む家なのだ。何にも無い藁ぶきの小屋が、とても神々しく見えた。人口1500人、周囲17kmの円形に近いこの島で、第二琉球王朝初代王尚円(1415-1476)となった金丸が生まれた。 百姓だった金丸が20歳の時に島を追放されたのは、田圃の水を盗んだからとも、島中の若い女性が彼に言い寄ったからとも伝えられている。仕方なく彼は首里王府に赴き、そこで百姓になった。だがある時たまたま城を出た王の目に止まり、城で働くことになる。4代の王に仕えて信頼を増した彼だが、4代目の尚徳王の怒りを買って隠居する。だが王は急死し、幼い王では政治が不可能になる。 重臣達が金丸の元を訪れ、王になって欲しいと頼む。金丸はその願いにより尚円と名乗り王位に就く。明治初期まで約400年続いた第二琉球王朝がこうして始まった。正史にはそうあるが、実際はクーデターだ。百姓の若者がまさか30年後に王になるとは誰が思っただろう。琉球史でも他に例がない不思議な話だ。 伊是名島には尚円王の誕生地が「みほそ所」として祀られ、県の文化財となっている。「ほそ」は「へそ」の古い呼称。「ほぞを噛む」として日本語にも残っている。つまり胎盤を埋めた場所だが、島を追放された男の胎盤が残っている訳がない。歴史が支配者に有利なように書き替えられる典型だ。島出身の版画家、名嘉睦稔製作による尚円の銅像が伊是名港に立っている。 この島では毎年10月に「いぜなトライアスロン」が開かれる。スイム2km、バイク66km、ラン20kmのローカルルールだが、その大会が終わって選手が乗り込んだフェリーが島を離れる時、岸壁から若者が海に飛び込むようだ。それが別れを惜しむ南の島独特の儀式。不思議なあの島を再び訪れることはないが、思い出は私の胸に深く刻まれている。<続く>
2012.09.18
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≪ 浜比嘉島 ≫ 島はママの故郷だった。職場で飲んだ後、私達は「姉妹」と言う店へ行き、良く沖縄の歌を歌った。「二見情話」、「石くびり」などの沖縄民謡のほか、譜久原恒勇が作曲した美しい旋律の歌が私は特に好きだった。「芭蕉布」、「ふるさとの雨」、「なんた浜」など、今でも曲を口ずさむことがある。そんな私達を、ママはいつも優しい顔で観ていた。 周囲7kmの浜比嘉島。「はまひがじま」を、地元では「はまひじゃ」と呼ぶ。その島の祭り「シヌグ」のことが新聞に載った。何でも弓矢を人に向けて、戦う真似をするらしい。何故そんなポーズを取るのだろう。私はとても不思議に思った。浜比嘉島は沖縄本島の東部、勝連半島の先にある小島で、周囲の島や沖縄本島とは違った風習があるとも聞いた。 ある日、私は原付に乗って屋慶名港へ向かった。浜比嘉行きの船はそこから出るのだ。屋慶名港はカラオケに良く出る風景で、見覚えがあった。船は30分ほどで浜の港に着く。島には2つの集落がある。西海岸にあるのが「浜」で、東海岸にあるのが「比嘉」。島の名前は2つの集落を合わせたものなのだ。私は先ず「浜」の西南部の山に向かった。そこに古い風葬墓があると聞いたからだ。 だが、間もなく道は行き止まりになった。那覇から酪農に来ていると言う人に尋ねたら、その先へは行かない方が良いと言う。島外の人間が風葬の地へ行くのはタブーなのだろう。私は直ぐに悟った。そのまま引き返し、今度は比嘉集落へ向かった。そこがママの故郷だった。浜から比嘉へは小さな峠を越えて行く。標高は50mほどのものだろう。 道端の側溝に、大量の清らかな水が流れているのを見て驚いた。島に川はないし、山も高くはない。降った雨は直ちに石灰岩の土壌に吸われ、低地で泉になるのが沖縄では普通なのだが、何故これだけの水が高い位置で湧き出ているのかが不思議だった。比嘉集落には廃屋が目立った。きっと現金収入の道がないのだろう。浜辺にはアマミキヨ、シネリキヨの墓があった。洞窟の風葬墓だ。 琉球人の祖先神である2人の墓が、なぜこの島にあるのか。「アマミキヨ」は奄美(あまみ)に通じ、さらに海人(あま)族に通じる。つまり海洋民族だ。2人の神が最初に立ち寄ったのは沖縄本島最北部の辺戸岬とされているので、彼らが奄美や南九州から来たのは間違いなく、沖縄人(うちなんちゅ)が日本人と共通の祖先を持つと推定される所以だ。 「シヌグ」の戦いのポーズの謎が解けた。浜集落の人は元から住んでいた現地民で、比嘉集落の人は島外から漂着した海洋族と考えたらどうか。現地民と漂着民との間に戦いがあった。シヌグの弓矢はその時の戦いの名残ではないのか。シヌグは元来「凌ぐ」だったはず。雨露を凌ぐの「しのぐ」だ。5母音の日本語に対して琉球語は3母音なので、そのルールにも合致する。意味は「生き抜く」こと。私はそう解釈した。 さらに島の東南部へ向かった。そこには古い穴居跡の洞窟があった。クバ島と呼ばれる岩山は遺物散布地らしいが、海の中なので近づけない。私は仕方なく浜辺で横になっていた。目が覚めると、私の顔をじっと見つめる島の青年が居た。私はゾッとした。その目は狂人のものだった。 狭い地域で長年結婚を重ねると血が濃くなる。その結果優秀な者も出るが、異常者の出現が増えるのが遺伝の法則。沖縄では琉球王朝時代から、同じ地区内での結婚が一般的だった。税が人口と一体の「人頭税」のため、人の移動を極力禁止していた名残だ。ひょっとしてママがこの島を離れたのにも、何か訳があったのかも知れない。船でしか行けなかったあの小島に、今では橋が架かっている。 島の人口は500人足らず。島内にマラソンはないが、「海中道路」を使ってこの島へも渡る「あやはし海中ロードレース」が4月に開催される。私の行きたい度数は50%。マラソンに出ることはあっても、あの島へ行くことは多分ないはず。やはり神秘のベールで包まれていた方が、あの島には相応しい。<続く>
2012.09.17
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≪ 久高島 ≫ 私は足の裏を鍛えるために、青竹を踏んでいる。なかなか刺激があって、鍛えている実感がある。だが、それよりもっと強烈なのがシャコ貝だ。凸凹の突起が踏むと痛くて、そう長くは続けられない。長径12cmほどのその貝を獲ったのが久高島(くだかしま)。あれは平成3年の秋。沖縄勤務の思い出に、職場の仲間とその島へ渡った。 久高は「神の島」と呼ばれる。琉球人の祖先である、アマミキヨ、シネリキヨの2人の神がこの島へ上陸した後、知念半島へ渡ったとされる伝説の島だ。この小島では、琉球王朝以来数百年にわたって「神行事」が行われて来た。この島で生まれた女性だけで結成される「祝女」(ノロ」と呼ばれる集団がそれを司る。その最高の祀りが「イザイホー」と言うものであることを、私は本を読んで知っていた。 島を案内してくれたのは「琉球髷」を結った30代の男だった。だが、私達を乗せてくれた軽トラックは、間もなく動かなくなった。きっとガソリンが古く、水でも混じっていたのではないか。私達は自分で浜辺へ向かい、貝などを獲って食べた。シャコ貝は岩を溶かしてその中に潜む、不思議な習性を持っている。嬉々としている仲間に対し、私は複雑な思いだった。「一木一石といえども勝手に獲ってはいけない」と言う禁止事項が、この島にあることを知っていたからだ。 久高島は知念半島の東5kmほどの海上に浮かぶ、周囲8kmの細長い島。最高地は18mの扁平な島で、人口は200人。長い間、飲み水は井戸に頼って来た。農地がほとんどないため、島全体が島民の共有地。つまり原始共産制が長い間保たれて来た国内では珍しい島なのだ。貧しい作物しか獲れない畑も、順番に割り振って公平性を保つ。島の物を持ち出さないことや、勝手に獲らない規則は、貧しいゆえの知恵だったのだろう。 この島で神行事が数百年間も守られて来たのには理由がある。琉球王朝時代から、この島の男は優秀な船乗りとして、中国や東南アジア、日本との貿易船に乗り組んだ。神行事は男達の長い航海期間、妻の不貞を防ぐためでもあった。毎週のように神行事への参加を求められるため、不貞を働く暇がないのだ。それでも例外が起こるのが人の常。だが不貞を働いた女は呵責に苛まれ、地上に描かれた「橋」を渡ることが出来なかったそうだ。 島の最大の聖地である「フボー御嶽」(うたき)には、祝女しか入れない。そこにはソテツに似たクバ(フボーはクバが訛ったもの)しか生えてないそうだ。かつてこの島を訪れた画家の岡本太郎は、地元の人に頼んで風葬墓を見せてもらったようだ。彼はそれを写真に撮って公表した。その結果、案内した島民は狂死した。風葬墓は島民しか立ち入ることが出来ない聖地。それを破った案内者は、島民の怒りを買ったのだ。 岡本太郎はパリ大学で民族学(文化人類学)を学んだ。だからこそ島の神秘性に惹かれたのだろう。それは私も同様だ。だが沖縄関係の本を300冊以上読んでいた私は、島の禁止事項は知っていた。12年に一度午(うま)の年に開かれるイザイホーは、昭和53年(1978年)が最後になった。神行事を司る祝女(のろ)集団が高齢化したためだ。私はその貴重な映像を、偶然8番目の職場で観ることが出来た。島を離れた4年後だった。 結局シャコ貝を食べても、罰は当たらなかった。もう神の呪縛は消えたのだろう。島の向かい側である知念半島の斉場御嶽(せいふぁうたき)は沖縄最大の聖地で、世界文化遺産にも登録されている。島へ渡っての祭祀を薩摩藩によって禁止された琉球王が、自分の代理として聞得大君(きこえおおぎみ)を派遣し、そこから久高島を遥拝させたのだ。 伝説の島、久高にマラソンはない。私の行ってみたい度数は50%。行きたい気持ちは大いにあるが、あの島はそっとして置くのが一番と思うからだ。あの島で起きた不思議な出来ごとを、私は一篇の詩にし、第2詩集に載せた。今でも白昼夢のようなあの小島を、時々思い出して懐かしんでいる。<続く>
2012.09.16
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≪ 与那国島 ≫ 2人の女性の話す声を偶然聞いてしまった。あれは昭和47年の5月ごろだったか。場所は私の3番目の職場(東京)の地下だった。どうやら親戚の方が亡くなったのだが、故郷に帰る必要があるかどうかの相談で、若い方の女性は泣き声だった。彼女らの故郷は沖縄。それも最西端の与那国島とのこと。沖縄の人に会ったのは、彼女らが初めてだった。そしてその島の名前を聞いたのも。 若い女性Aさんが泣いていたのは、お金がかかるからみたい。今でも飛行機を乗り継いで往復すれば、かなりの金額がかかる。那覇から石垣島までが440km。そこから与那国までは、さらに130kmほどもあるのだ。きっとその飛行機代だけでも、彼女の給料の半年分が吹っ飛んでしまうのではないか。まして当時はまだ沖縄が返還される前。「日本」へ来るのにもパスポートが必要だった時代だ。 地元の言葉で与那国は「どなん」と呼ばれる。漢字で書くと渡難。島へ渡るには相当難儀するとの意味だろう。そして与那国の言葉で台湾は「たかさん」と言うらしい。意味は「高い」。台湾には標高3997mの新高山はじめ3千m級の高山が幾つかあり、海上から見上げればとてつもなく高い島に見えるからだろう。この「たかさん」が後に「高砂」に変化したようだ。 かつて台湾が日本に帰属していた時代、台湾と与那国は互いに親戚づきあいをしていた由。サトウキビの季節には、台湾から手伝いに来たと言う。そして終戦後の一時期、与那国の沖合では台湾との密貿易が行われていたようだ。与那国から台湾へは、石垣島へ行くよりも近い。その縁かは知らないが、台湾の花蓮市と与那国町は姉妹都市の協定を結んでいる。まさに国境の最前線なのだ。 この島の西海岸久部良集落に「クブラバリ」と呼ばれる岩の裂け目がある。琉球王朝時代には、ここで妊婦をジャンプさせた由。幅3m、深さ7mの裂け目を妊婦が飛んだらどうなるか。ほとんどの妊婦は死に、たとえ助かっても胎児は死んだ。厳しい税の取り立てのため、少しでも人口を減らすための措置だが、最果ての島の悲しい伝説だ。 サツマイモのような形をした島の東南にある岬「新川鼻」沖の海中に、不思議な遺跡が発見されてからまだ日が浅い。発見したのは地元のダイバーで、琉球大学の木村政昭名誉教授(当時は理学部教授)が自ら潜って確認した。彼の専門は海洋地質学だが考古学にも造詣が深く、沖縄で幾つかの海中遺跡を発見している。 与那国の海中遺跡は、階段状のもの、アーチ状のもの、溝状のもの、亀の甲羅状のものなど様々な石組がある由。私も写真で観たことがあるが、やはり人工物のように感じた。木村名誉教授は富士山の噴火や「ムー大陸」の存在を早くから唱えたことでも有名だが、この海中遺跡はかなり古く、ひょっとして「ムー大陸」時代の名残かも知れないと言う。その真偽のほどは不明だが、陸上部の遺跡とも繋がっているようなので、過去の地震で海に沈んだのかも知れない。 与那国島の人口は1700人。マラソンはないが、度数60度の泡盛「花酒」が島の名産。その強い酒を、私は岡山で飲んだことがある。そんなことで私の行きたい度数は100%。いずれは必ず訪れてみたい島だ。国境防衛のため、島の人は自衛隊の駐留を望んでいると聞くが、果たしてどうなるか。<続く> ≪警告≫ このブログのコメント欄に、中国のことを「シナ」などと書き込んだ場合は直ちに削除しますのでご注意ください。本日「シナ」は「ストップワード」として登録します。
2012.09.15
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≪ 尖閣諸島 ≫ 「尖閣諸島の古い地図はありますか?」。そう言って私達の職場を中国の大学職員が訪ねて来たのは、私が沖縄勤務となった年だったと思う。平成元年の9月頃だ。「ありませんよ」。私は即座に答えた。部下からそんなものがあるとは聞いてなかったし、変な質問をする中国人とも思わなかった。ましてそれが国益に反したなどと考えたことも。だが、今にして思えば、あれはきっと中国のスパイだったのだろう。 正確な地図なら国土地理院にあるはず。何故私達の職場を中国の人が訪れたのだろう。それは多分「尖閣」が古くから沖縄に所属していた「証拠」が存在するのかどうかを確認したかったのだと思う。だが、そんなものはないし、もしあったとしても焼けてしまっただろう。第二次世界大戦時、沖縄では地上戦があった。アメリカ軍の艦砲射撃で、沖縄本島は連日猛火に包まれた。 だから沖縄の歴史的な資料のほとんどが焼け、今残っているものは偶然他県に避難していたか、米国からコピーをもらったか、偶々地方に埋もれていたかのいずれかなのだ。それでも中国はその証拠を探していた。何のため?。もちろん沖縄にその「証拠」がなければ、「あれは元々中国のもの」と言い出せるからだろう。 先日中国の政府高官の発言をたまたま聞いた。尖閣が中国のものとする理由だ。その第一が「尖閣」という名前。これは日本語らしくなく、中国的だと言うのだ。それはその通りだと思う。沖縄の島なら、あんな名前はつけないはず。彼が主張した2つ目の理由は、「徐福」が尖閣を発見した可能性があること。これには笑ってしまった。 徐福は秦の始皇帝時代の人。始皇帝の命令で不老長寿の薬を求めて東シナ海に乗り出し、ついに帰らなかったと言う伝説の人だ。徐福は何艘もの大きな船で、一族と共に航海に出たとされる。きっと始皇帝の暴政を恐れての脱出が、その真相だったのではないか。ところがその徐福伝説が伝わる地方が2つある。和歌山県と佐賀県だ。徐福一族が本当に日本に着いたのかは不明だが、もし彼らがその時に尖閣を見つけたとしても、それなら尖閣は日本に帰属することにならないか。彼らは日本に帰化したのだから。 ベトナムとの間で領有権が争われている西沙諸島(パラセル諸島)、フィリピンとの間で領有権が争われている南沙諸島(スプラトリー諸島)も尖閣同様島名に漢字が当てられている。これは偶然ではなく、やはり中国の影響が強かったと見て良いと思う。確か元の時代、中国はアラビア海まで出向いて通商していた。いわゆる「海のシルクロード」だ。中国の航海術はそれほどまでに優れていたから、島に中国風の名前がついていてもおかしくはない。 だが、それと領有権問題は違う。尖閣を日本の領土としたのも、他に領有権を主張する国がないことを確かめた上のこと。それを中国が横取りしようとするのは、豊かな漁獲と鉱物資源が眠っていることを知ってからだ。田中角栄と周恩来との間で日中国交正常化がなされた1972年(昭和47年)、2人は「尖閣問題」を棚上げすることで合意したが、なぜあの時田中は「尖閣は日本の領土」とはっきり主張しなかったかと悔まれる。 当然のことだが地球上の土地は元々、誰のものでもない。「尖閣」も日本帰属となって以降、台湾の漁師も自由に漁が出来た時期があった。それは台湾が日本に帰属した時期で、彼らを排除しなかったのだと思う。だが、これだけ資源が重視される時代になれば問題は別。領土は国の総力を挙げて守るべき対象になった。 国有化問題で揺れる「尖閣問題」だが、もし中国が領有権を主張するのであれば、国際司法裁判所へ申し出れば良いだけの話。直ぐに日本の正当性が認められると思う。日本の領有権手続きには何の問題もないからだ。 少々過激かもしれないが、尖閣には「避難港」を初めとする必要な施設を早急に作るべきだと私は思う。日本人はかつてあの島で、鰹節作りをやっていた。一方、中国はあの島を自国の領土としたことは一度もない。日本は何を恐れているのだろう。そして中国はなぜ暴徒を野放しにするのだろう。あの島に住む人はいない。従ってあの島に「マラソン」は存在しない。私の「行きたい度数」は0%だ。<続く>≪注≫問題が問題だけに、コメントには十分ご注意ください。某国のハッカーが監視してるかも知れませんので。(笑)
2012.09.14
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暑い。9月だと言うのに異常な暑さだ。仙台で30度を越えるのは、一夏に2週間ほどが普通だった。それが今年は9月に入ってもなお30度を越えたのが10日以上。気象台始まって以来の新記録らしい。昨日は一旦片づけた扇風機を、再び引っ張り出した。朝夕はめっきり涼しくなったこの頃だが、日中はまだじっと暑さに耐えている。 猛暑のせいか、ゴーヤが元気だ。きっと生まれ故郷を思い出してるのかも知れない。白ゴーヤは20本。緑のゴーヤは既に30本近く採れたはず。それぞれ1本の苗からだ。昨日は「かくれんぼ」していた巨大なゴーヤを2本見つけた。定番のゴーヤチャンプルーの他に、サラダやジュースになったゴーヤだが、それでも食べ切れず近所に配っている。 この暑さだと、まだまだ採れそうなゴーヤ。今年は葉っぱがなかなか黄色くならない。きっとせっせと水を撒いたせいだ。それに肥料もたっぷりやったしね。白菜と大根の葉が結構大きくなって来た。その周囲をヒラヒラと舞う蝶々。彼らはただ優雅に舞っているのではない。自分達の子孫を何とか残そうと、卵を産み付けようとしているのだ。折角育った野菜を食べられては困るので、こちらはスプレー式の農薬を撒く。それでも何とか産み付けようと、毎日のように彼らは現れる。 トマトは全て収穫した。こんなことは初めてだ。いつもなら苗を処理する時に、まだ青い実が幾つもついている。勿体ないけど、秋野菜の種を蒔くために捨てるのが常だった。それが今年は全て完熟のものを食べることが出来た。これも暑さが続いたせいだろう。梅雨の時に病気になりかかった苗も、何とか最後まで持ってくれた。17本の苗から採れたトマトは、多分200個にはなったはず。そのほとんどが妻と私の胃の中に消えた。 先日は30度を越える気温の中を走った。涼しい朝に走れば良いのだが、起きたら先ずブログに取り掛かりたくなるのだ。それでどうしても走りに行くのが遅れてしまう。再び23kmに挑戦したのだが、途中で熱中症の危険を感じて短縮。17kmで止めた。その数時間後、心臓の鼓動が少しおかしくなった。きっと猛暑が体に堪えたのだろう。それに溜まった夏の疲れが出るのはこれからだ。 走友会の仲間達は、山越えで70km近く走ったようだ。先日の合宿に続くロングランは、今月下旬の「秋田内陸」へ向けての練習だろう。古川組は栗駒山へ走って登った由。これも「秋田内陸」への練習を兼ねているはず。私は昨年の「秋田」が最後のレースになった。それも45km地点でのリタイヤ。レースの途中で不整脈が出、どうしてもスピードが上がらなくなったのだ。 あれから1年近く経つが、その間に2度の手術を受けた。来年こそはレース復帰と意気ごみ、幾つかエントリーもしたが、実際に走れるかどうかは分からない。衰えた筋肉がなかなか戻らず、長距離を走った後に心臓がどうなるかは不明なのだ。それに走り出したことを、まだ執刀医には伝えていない。果たしてドクターは何と言うか。 政局が動き出した。民主党の代表選。自民党の総裁選。そして注目の日本維新の会の結党。私にはどこも「日本の政治はどうあるべきか」ではなく、「我が党こそが権力の中枢に立ちたい」との想いが強いように感じてならない。浮かれ過ぎるなよ日本。そして中国が虎視眈々と尖閣を狙っていることを忘れるな。明日から新しいシリーズを書き始める予定。テーマがテーマなので、読者やブログ友の皆さまには、くれぐれも「無理な」コメントはしないようお願いしますね~。
2012.09.13
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ずいぶん前に亡くなった歌手、河島英五の歌に「時代おくれ」と言う歌がある。阿久悠作詞、森田公一作曲でペーソスを感じる好きな歌だった。その1番の最後が次の歌詞だ。 目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめつづける 時代おくれの男になりたい 私の場合は別に「なりたい」わけじゃないのに、結果的に時代に取り残されているようだ。フェイスブック、スマートフォン、携帯電話、デジカメ、プリンター、車の免許。今時はフツーに持っているそれらを一切持っていない。唯一持っていた「原付」の免許も、今年返上した。もう15年以上乗っておらず、特に不便を感じなかったのだ。 私のブログも同様で、1枚の写真すら載っていない淋しいもの。ただし、文章だけはやけに長い。これは私がメカに弱いのが原因。そのうち覚えたいと思ってはいるが、それよりも文章を書くのが好きなので、自分では不便とも思わない。いわゆる「アナログ人間」の典型なのだろう。ブログのテーマだってアクセス数が増えるよう、「ジャンルクチコミテーマ」などを選べば良いのだろうが、その使い方も知らないままだ。 大方の「ポイント」にも無関係。仕事柄、良く飛行機を利用していた頃は「マイル」を貯めず、その後折角貯めたマイルも使い方が分からず無効になった。チェーン薬局、リカーショップ、コンビニなどのカードもあるが、金額が少ないのでポイントが生かされたことはない。役立っているポイントカードは、映画館と床屋くらい。それらは回転が早いために結構ポイントが溜まり、時々「タダ」になるのが嬉しい。 ある走友に、「携帯があると便利だよ」と言われたが、経費がかかるため妻が持たせてくれない。まだ仕事をしている妻は簡単な機能のものを持っているが、私はパソコンのみ。それも極端にメカに弱いため、プリンターはない。まさに「時代遅れ」そのものだが、私自身は特に困っていない。車の代わりには愛用のマウンテンバイクがあるし、旅行したければ安いバスツアーでも十分。 最後の職場を辞める時に、OBが加入する「後援会」へは入らなかった。その職場で冷遇されたのが理由だ。「業界」のニュースはテレビや新聞で十分。いや、最近ではそれすらさほど活用せず、パソコンでニュースをチェックすることが多くなった。いずれは自分の葬式を出すことになるが、妻には「家族葬」で良いと伝えてある。いくら金をかけても本人は分からないしね。 私は転勤族だったため地元の知り合いは少なく、親せき付き合いも兄夫婦に任せたままだった。長年のそんな習慣が、気楽で良くなったのだ。幸いにして私には、ランニング、読書、日本史研究、家庭菜園、自転車、映画、プロ野球の応援、美術鑑賞などの趣味がある。そしてたまには妻と一緒に旅行する。これで老後は十分。他に何を望むことがあるだろう。 欲を言えば切りがない。次から次へと欲しいものが増えるだけ。だが、私は健康な体と判断力さえあれば、後は何とかなると思っている。世の中、期待し過ぎると裏切られた時のショックが大きい。だからほどほどの期待で良いのだ。自分へも、他人へも。さて、今日も一日が始まる。愛犬と散歩にでも出かけようか。
2012.09.12
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会員として登録している映画館がある。Mと言って幾つもの上映ホールを持つグループだが、シニアだと千円で観られるのが有難い。私が次の映画を選ぶ方法は2つ。1つは予告編であり、もう1つは上映スケジュールに載っている簡単な作品紹介。それらを観て面白そうだと感じたものを選ぶのが私流だ。だがこれには欠点がある。邦画を観た場合の予告編はほとんどが邦画で、アニメを観た場合は子供向きの映画が多いのが残念だ。 先日は「2本立て」を観た。午前中に「海猿」を観た後昼食を採り、午後は「あなたへ」を観たわけ。こんな風に映画のハシゴをしたのは初めてだが、なかなか楽しめた。これも1作品千円で観られる恩恵の賜物だろう。比較的身近に映画館があるのは嬉しい。私にとって映画は、プロ野球よりも安くて簡単に楽しめる娯楽になっている。 『Brave Hearts海猿』の原作が人気漫画であることは作品紹介で知った。劇場版はこれで4作目だが、なかなか映画化出来なかったようだ。ご存知の通りこのシリーズは海上保安庁の活躍がテーマだが、『Brave Hearts』は海上着水するジャンボジェット機の救援を取り扱う。多分それをどう撮影するかが困難だったのではないか。 このところ尖閣諸島での中国船の体当たり侵入事件や、不法上陸事件が続いた。法整備が遅れているために海上保安庁職員の負担は大変なものがあるのだろう。今回の映画を観るに際し、それらのことが蘇った。場面は尖閣とは違うが、良くあんな事故現場を再現出来たものだ。そして最後まで人命を救おうとする海上保安庁職員の犠牲的な精神には、泣けて仕方がなかった。 仙崎役の伊藤英明も、吉岡役の佐藤隆太も、どちらもひたむきな魂を持つ青年で、文句なく格好良かった。あれが海上保安庁の実態かは分からないが、多分それほど違ってはいないのだろう。ともかくヒューマンな内容で、心から応援したくなる。原作の漫画を読んでなくても、共感出来る映画だった。「いや~、映画って本当に良いですね」。 もう1つの『あなたへ』の主演は高倉健。私は彼の若い頃の任侠映画も『網走番外地シリーズ』も、評判になった『鉄道員(ぽっぽや)』、『幸せの黄色いハンカチ』、『八甲田山』など一切の作品を観たことがない。それが観たくなったのは、不思議にも簡単な「作品紹介」を読んだことなのだ。降旗康男監督はこの構想に数年かけた由。そして高倉健は6年ぶりの映画出演だった由。 81歳の高倉は、自分が気に入った映画しか出演しないそうだ。今でも映画に出るためのトレーニングを欠かさず、ハリウッドからの出演依頼も断るらしい。そんな男が60代の刑務官を演じた。顔のしわ、手のしわ、かすれがちな声はやはり80代であることを隠せないが、心は堂々の60代。妻役を演じる田中裕子との間には、何とも言えないほのぼのとした空気が漂っていた。 映画全編を流れるのは、「人間の不思議さ」と「縁の不思議さ」。「出会い」が人間の運命を変えて行く。不思議な縁で出会った男女が、やがて1組の夫婦となって人生を共に歩む。この話はその晩年。死を迎えた妻が夫に託したものは何か。残された夫は妻の遺言に従って、彼女の生まれ故郷に向かう。その途中で織りなされる人間模様。初めて観た降旗作品。初めて観た高倉健の演技。その全てに心から感動を受けた。 映画を観た数日後、NHKの番組『プロフェッショナル ~仕事の流儀~』で、偶然高倉健の仕事への取り組みが紹介され、この映画作りと並行しての取材が放送された。それで高倉健の映画に対する考え方を知り、あの作品の背景を知った。なるほどねえ。だから人間は面白いし、人生は奥が深い。映画の中で田中裕子が歌った歌。宮沢賢治が作詞作曲したものだが、何だかとても不思議な歌詞と旋律だった。 81歳の高倉健が、『プロフェッショナル』で唯一畏まっていたのが大滝秀治の前。大滝は高倉より6歳年上の87歳。その高齢でもなお映画に寄せる情熱は衰えを知らない。高倉が驚いたのは大滝の演技。たった一言のセリフに万感の思いが詰まっていることを高倉はその時初めて知り、大先輩の心意気に脱帽したのだ。「いや~、映画って本当に良いですね」。
2012.09.11
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平忠盛(清盛の父:第17代中村勘三郎)、池禅尼(忠盛の妻:初代水谷八重子)、祇園女御(清盛の生母:新珠三千代)、清盛:仲代達矢、時子(清盛の妻:中村玉緒)、時忠(時子の弟:山崎努)、経盛(清盛の弟三男:郷ひろみ→古谷一行)、頼盛(清盛の弟五男:山本学)、忠度(清盛の弟六男:中尾彬)平徳子(佐久間良子)。 源義朝(頼朝、義経の父:木村功)、頼朝(高橋幸次)、為朝(伊吹吾郎)、義経(志垣太郎)、常盤御前(義経の母:若尾文子)、北条時政(加東大介)、政子(栗原小巻)、弁慶(佐藤允)、熊谷次郎直実(岡田英次)、木曽義仲(林与一)。 白河院、後白河院(滝沢修:二役)、高倉帝(片岡孝夫)、以仁王(北大路欣也)、待賢門院(久我美子)、美福門院(小山明子)、藤原忠実(森雅之)、藤原忠通(原保美)、信西(小沢栄太郎)、源三位頼政(芦田伸介)、伴ト(藤田まこと)、麻鳥(緒方拳)、藤原秀衡(加藤嘉)。 長々と書き連ねたが、昭和47年の大河ドラマ「新平家物語」のキャストである。今からちょうど40年前のこの年は、大河ドラマを始めてから10年の節目に当たり、このような豪華な配役が実現したようだ。年配の人間にとって皆懐かしい名前ばかりだが、これだけの実力者が当時は存在したのだ。 「新平家物語」は吉川英治の同名の小説がモデルで、原作は16巻もの大著だ。ところが現在放送中の「平清盛」は、過去の歴史小説をほとんど参考にしていないらしい。「平清盛」のタイトルからすれば、話は清盛の死で終わるのかも知れない。ところが「新平家」の方は平家の滅亡後、義経が頼朝に追われるまでの長い歴史を扱っている。 大河ドラマは約50回と言う限られた放送時間の中で、主人公の人間像やあの時代をどう捉え、どう表現するかが勝負だと思うのだが、「清盛」にはそれらがほとんど見えて来ない。昨夜も観たが相変わらず「今様」、「兎丸」、「さいころ」の連続で、途中でつまらなくなり眠ってしまった。ほとんど歴史性を感じず、人間清盛の魅力が感じられないのは一体何故なのだろう。 それは脚本の拙さだけでなく、俳優の選択ミスも大きいと思う。貴族から武家へと、それまでの政治を一変させた清盛とその時代を描くのに、あの脚本と俳優はお粗末過ぎる。40年前に清盛を演じた仲代達矢は当時40歳。そして時子役の中村玉緒は32歳。これに対して松山ケンイチは27歳で、深田恭子が30歳。 白河院役の伊東四朗は凄味があって良かった。松山ケンイチも悪くはないが、あまりにも若過ぎる。主役が若いため、他の俳優もそれに合わせて若くせざるを得ない。まだ20代の若者が、日本の歴史を動かした人物を演じる不自然さ。清盛の晩年には、彼の子や孫や甥が政治の主役になるのだが、俳優達の歳が近いため誰が誰だか全く分からない。親子や伯父甥がまるでお友達感覚なのだ。あれでは呈の良い「学芸会」だ。 深田恭子も当時の中村玉緒とは2歳しか違わない。だが存在感がまるで違う。それにあのキンキン声でお婆さん役は無理。彼女は間もなく二位の尼となり、天皇の祖母となる身なのだ。失敗の原因は人気者を使って番組の宣伝にしたいと言う思惑が強過ぎるためだろう。歴史がほとんど見えて来ない「清盛」だが、40年前の仲代清盛と玉緒時子は、まだ私の脳裏に残っている。 私は今、吉川英治の「新平家物語」を読んでいる最中。第11巻目で、既に清盛も義仲も死んでいる。大河ドラマと並行して読んで来たため、私自身はあの時代の動きを比較出来る。だからこそ「清盛」の曖昧さと不自然さを余計に感じるのだろう。大河ドラマは単に面白いかどうかだけでなく、国民の歴史認識を磨く機会でもある。「表現の自由」は良いが、「公共放送」であまりにも身勝手な歴史解釈を押しつけるのはいかがなものか。
2012.09.10
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N○Kの連続ドラマを観ているが、最近ではもうどうでも良いようになった。「梅ちゃん先生」のことだ。医者を目指して勉強していたころは、まだ良かった。街の医者として頑張る姿にも好感が持てる。だが私が違和感を感じるのは人間の描き方だ。頑固一徹の父親などはその典型。確かに昔はあんな父親が多かったと思うが、あまり生身の人間味が感じられない。 梅ちゃんの恋人だった松岡は全くの世間知らずだったし、ノブの元恋人も良い線行ってると思っていたのに、つまらない理由で去って行った。梅ちゃんと幼馴染のノブが一緒になるための伏線なのだろうが、ちょっと無理な設定が多過ぎる。町工場を経営するノブの父親と梅ちゃんの父親との確執も凄い。隣同士であんなに仲が悪いのなら、普通子供同士を結婚させたりはしないだろうに。 「梅ちゃん先生」は後3週間で終わる。結末がどんな風かは知らないが、多分それほどの展開はないだろう。これまでの連続ドラマでは「ゲゲゲの女房」や「カーネーション」などが面白かったが、どちらも実話に基づいた話。現実感があるから視聴者には面白く感じられるのだろう。どうでも良いドラマは時間の無駄だが、つい観てしまうだけに一層歯がゆい。 韓国歴史ドラマ「王女の男」も毎週観ている。私がこれまで観たのは、「トンイ」と「チャングム」。どちらもストーリーの展開に意外性があり、毎週ハラハラさせられたものだ。そして李氏朝鮮王朝時代の風習や政治の在り方などを通じて、歴史や文化を学べた点も大きかった。だが今回の「王女の男」には、男女の恋のもつれはあっても歴史性や文化性はあまり感じない。 「トンイ」でも「チャングム」でも、両班(やんぱん)と呼ばれる貴族同士の争いが出た。「王女の男」も同様だ。今回はそれに王族の陰謀まで加わった。朝鮮の歴史や文化の底流には、儒教精神が存在するとされる。父母への服従、目上の人への尊敬、男女間の倫理などがそうだ。だが、儒教精神が最も発揮されるべき政治の世界で、常に陰謀が渦巻いているのが不思議。それは一体何故なのだろう。 我が国の歴史も同様で、どの時代にも激しい権力争いがあった。古代には天皇が貴族の政争に巻き込まれ、王位継承の争いが絶えなかった。時代が下ると貴族と武士の争いとなり、やがては武士同士の争いとなって行く。余所の国の歴史をとやかくは言えないが、それでも儒教精神があれでは変だし、韓国歴史ドラマもネタ切れのように思えてならない。 大河ドラマ「平清盛」の出来が相当悪い。視聴率は大河ドラマでは過去最低だそうだ。それはそうだろう。ストーリーの展開があまりにもハチャメチャなのだ。このドラマが始まった時から評判は良くなかった。画面は暗いし、汚な過ぎる。それに白河院と清盛の関係や宮廷内のドロドロとした人間関係が、これでもかこれでもかと続く。果たしてあれが平安時代の全てなのだろうか。 毎回流れる「今様」の調べ、今でも時々出て来る「兎丸」という元海賊。あんなのが「清盛」の象徴とはおかしい。あの頃の武士は、たとえ叔父であっても若い一族の統領には従うのが掟。まして元海賊が太政大臣を呼び捨てにすることなどある訳がない。脚本担当は藤本有紀。連続ドラマ「ちりとてちん」は面白かったが、今回の清盛は最低。わざと時系列を乱している個所があるが、分かり難い話が一層分かり難くなる。歴史の冒涜以外の何物でもないと私は思う。<続く>
2012.09.09
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朝夕めっきり涼しくなった。秋の到来が近いことを感じさせる大気。これからは楽に走れる季節だ。少し遡るが、走友達の活躍ぶりを紹介しておきたい。≪8月25日(土)立山登山マラニック≫ 海抜0mの浜黒崎をスタートし、標高3003mの立山連峰雄山山頂がゴールのレース。65kmを10時間で走るのがマラニックの部。これに我が走友会のS村さんが出場したようだ。山男の彼はレースの前日にも金剛堂山と白木山に登った由。レース当日は途中で熱中症にかかったが、田圃や川の水を被って復活し見事完走。レース翌日には奥大日岳へも登ったと言うから凄い。 富山地方鉄道の立山駅からスタートし、雄山頂上を目指すのがウォークの部。こちらは走らずに歩くのがルール。滋賀のOさんのブログによれば、彼は雄山頂上にゴールした後、大汝山~富士ノ折立~大走分岐まで登った由。その先はランニングシューズでは危険と判断して引き返したようだ。香川のTANさんもウォークの部に参加した由。私と一緒に雄山山頂に立ったことを思い出したと、ブログにコメントしてくれた。≪8月26日(日)北海道マラソン≫ 走友会からはS田夫妻、K野さん、A部さん、S水さん、S山さんが出場したようだ。今回からスタートが9時に変わったため、気温が低くなって走り易くなったと思うがどうだろう。私が出場した13年前は、確か北大前は20kmを過ぎた地点だったと思うのだが、今回はなんと構内がコースで40km地点に当たるようだ。男子の優勝は公務員ランナーの川内選手だったが、仲間も全員完走したようで嬉しい。仲間の皆さんは、レース後も観光を楽しんだみたい。≪9月1日(土)~2日(日)走友会合宿≫ 今年の会場は福島市の「あづま総合運動公園」で、M仙人以下12名のメンバーが参加。皆さん充実した練習が出来たみたいで良かった。懇親会も盛り上がり、翌朝は山道トレーニングをした仲間もいた由。≪9月2日(日)浦佐温泉耐久山岳マラソン≫ 新潟県の浦佐高原で開かれた大会に、宮城UMC仲間のT田さんが出場。地元新潟からは「佐渡島一周」仲間のF川さんも。1周21km余りの山岳コースは高低差が375m。普通は1周だが、これを2周する特別コースもあるようで、T田さんF川さんは多分2周組のはず。T田さんからはたくさんの写真を送ってもらった。いつもありがとうねT田さ~ん。≪トランスヨーロッパ・フットレース≫ 9月7日(金)が第20ステージで、まだドイツ国内を南下中の模様。旅がらすさんのブログによれば、前回のコース(2009年イタリア~ノルウェー)を逆走しているみたい。日本人選手は故障で7人がリタイヤし、Sパパ、ニセコさんを含む11人がレースを続行中。ただしステージランナーとして走り続けている人もいる。Kさんのスライドショーでは、コースの風景や選手の表情などが窺われ、旅がらすさん、コノちゃんのブログではランナーの心理が良く理解出来る。スペイン南端のゴールまで残り44日。何とか健康で走り切って欲しい。 最後に私自身について言えば、南蔵王縦走2日後の火曜日には、5kmを走った。縦走直前のトレイルランと縦走中に傷めた右足底部が、ひょっとして筋膜炎の再発かと心配だったが、どうやらそうではないようで助かった。木曜日には23kmのコースに向かった。相変わらずの鈍足だが、それでも走れるのが嬉しい。 下山途中で突然の大雨。迷ったがそのまま前進。しかし堤防の直線コース上で雷鳴。避ける場所がないため危険と判断し、急遽20kmにショートカットして帰宅。ずぶ濡れにはなったが、雨で筋肉が冷えたため走り易かった。雷さえなければ夏の雨は楽しいもの。来年2月の「いわきサンシャインマラソン」の要項が届いた。来月中には30kmの練習が出来たら最高なんだけどねえ。
2012.09.08
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≪ 戦い終えて ≫ 壮絶な下りだった。私は何度か滑って尻餅をついた。ガイドのYさんと先頭グループはどんどん離れて行く。彼らの技量と経験が私達とは違うのだろう。時々立ち止まって妻を待つ。彼女も必死の下山だ。筋力が劣る女性は男よりさらに厳しいはず。もう私の後には5人しかいない。妻、他の夫婦、中年の女性、そして「しんがり」が添乗員のYさん。 掴めるものは何でも掴む。木の枝、木の幹、笹。それらを掴んで、少しでも楽に下りるためだ。粘土質の土が深くえぐられて、足の形になっている。大勢の登山者がそこを通った証しだが、その段差が凄い。体を捩って横向きに下りたり、あらゆる工夫をする。それもこれもストックを持ってないせいだ。先を行く人が早いのは、これまでの経験に加えてストックを使っているため。それで姿勢が安定し、楽に下山が出来るのだろう。 前方から楽しそうな会話が聞こえる。下山の途中でも時々小休止があるのだ。だが折角先頭に追い着いても、再び離れる繰り返し。そのうちに彼らの姿は、まったく見えなくなった。不忘山の頂上から中腹の白石スキー場までの高低差は970m。普通は1時間半の行程を2時間かけて下りるようだが、ガイドと添乗員の2人は3時間かかると覚悟していたようだ。 登山靴もスパッツも雨具のズボンも、いつの間にか泥だらけだ。技術がない証拠だが、今はそんなことに拘る暇はない。靴に水がしみ込む。どうしても避けられない水溜りがあるのだ。3度ほどの休憩の後、次第に傾斜が緩くなった。そして埴物層もかなり違って来た。万歳!!「泥地獄」はようやく終わった。ブナ林の中をひたすら下る。 前方に平らな道が見え出す。そこが「白石女子高山小屋跡」。今は男女共学になり、その名門女子高はない。そして彼女らの先輩達が長年使った山小屋も、朽ち果てて残っていない。ようやくツアーの全員が揃った。妻も何とか無事に下山出来た。そこからスキー場までは砂利や土の普通の道。暫く下りると前方に私達のバスが見えた。ヤッホー!! 皆が整理体操をしている最中、私は2人分の登山靴や雨具を始末していた。汚れ物をまとめるためだ。バスの車中はギンギンに冷えていた。震えながらじっと我慢。ゴアテックスのような高級素材と違って私達のは安物。雨は避けられても中が蒸れ、シャツもズボンもびしょ濡れなのだ。動いているうちは何とか大丈夫だが、こんな状態での冷房は辛い。よほど冷房を止めてもらおうと思ったほどだ。 20分ほどでバスは鎌先温泉に着いた。ここは白石市の奥にある古い温泉地。「千と千尋の神隠し」に出て来そうな古い木造旅館が見えた。4階建ての凄い時代もの。冷えた体に暖かい温泉は嬉しい。お湯の中で痛んだ足を擦りながら、山中で出会ったアザミを思い出す。何の変哲もないアザミだと思ったのに、あれはザオウアザミと言う蔵王山系の固有種とのこと。 登山開始が9時。そしてスキー場に着いたのが夕方4時。途中で何度か休んだが、7時間の山行だった。「当初の予定より1時間早く下山出来たのは、ベテランが多かったからですよ」と添乗員が私達を誉めた。私はアンケートで彼を讃えた。誠実な人柄といつも全員の行動に配慮していた姿に感心したからだ。山岳ガイドのYさんは皆の拍手に送られて、菅生SAで別れた。ありがとうYさ~ん。 驚いたことに、仙台は大雨だった。再び雨具を着直して、自転車に乗った。暗い上に登り坂。疲れた体にはペダルを漕ぐのも辛い。荷物を家に置き、裏庭へ行く。老犬マックスが雨の中でうずくまっていた。小屋にも入らず、びしょ濡れのままだ。体に触れるとビクッとする彼。良く辛抱したねマックス。ヨロヨロと立ち上がる彼と、雨の中を遅い散歩に出かけた私達だった。 妻は片付けもせず床に就いた。よほど疲れていたのだと思う。だが長年の夢を果たした私は、安心していつもの歴史ドラマを観ていた。猛烈な筋肉痛が襲ったのはその翌朝。山との戦いは何とか終わったが、今度は筋肉痛との新たな戦いが始まった。私は極度の疲労と筋肉痛に耐えながら、2足の登山靴を洗って干した。<完>
2012.09.07
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≪ 遭難碑とウメバチソウ ≫ 屏風岳の頂上で弁当の残りを食べて出発。私はY添乗員と話しながら、一番後ろから行くことにした。バスの車中で聞いた彼の話に興味を持ったためだ。大企業で勤務した後農業法人を立ち上げるために思い切って辞め、市場でアルバイトしながら情報収集に努めたそうだ。そこで得た情報を元に仙台の海岸部に土地を購入して農業を始めた時に、あの東日本大震災の津波でビニールハウスは全て流された由。 これがまだ30代の若者の話とは信じられない。奥様は岩手県の出身で、彼はその婿になったのだそうだ。義父上も岩手で手広く農業を営み、彼はいずれ岩手へ帰るようだ。新潟出身の彼が仙台の大学で学んだお陰で、ずいぶん大変な経験をしたみたい。奥様の実家のある市は、私もウルトラマラソンで何度か訪れたことがある。義父上はその大会の役員をしてるかも知れないと彼。「へえ~っ!」と心の中でつぶやいた。「縁」とは実に不思議なものだ。 次の南屏風岳までは案外平坦。尾根が狭い上に風が強いことを除けば、とても歩き易い感じだ。標高1810mの頂上はびっしりとクマザサに覆われ、東側は「屏風」と同じように絶壁なのだろう。ここで小休止。私と妻は仲間から離れて「花摘み」へ行った。これは登山の隠語でトイレのこと。男は「キジ撃ち」で女は「お花摘み」だが、妻と一緒のため女性優先。山中でのトイレは、妻は初めての経験のはず。 さっぱりしたところで大福とキュウリを食べる。キュウリには「味噌汁の素」の味噌をつける。キュウリの食感と、味噌のしょっぱさが疲れた体には合うのだろう。小休止の後、再び出発。次のピークは今日の行程の最後の不忘山。「飛行機が墜落したんでしょ?」とYガイドに聞くと、「B29ですよ。遭難の碑があります」と彼。B29は第2次世界大戦時に日本を襲った米軍機だが、戦争中のことなのだろうか。 一旦下ってから急激な登りになる。足元が滑り易いのは、細かい火山岩が増えたためだ。その岩の間にウスユキソウ。これはエーデルワイスの仲間で、白い衣をまとっている。ウメバチソウは真っ白い5枚の花弁を持つ可憐な花。頂上が近付くとさらに険しくなり、両手を使って登る。上からYさんが写真を撮ったようだ。後で見たら、頂上を見上げる私が写っていた。 折角登った1705mの頂上では休まずに下山開始。ここからは高低差950mの長い長い下りが始まる。ゴツゴツした岩だらけで、危険な個所が多い。暫くしたら下方に聳える大きな岩が見え出す。Yさんが止まった所に墜落した米軍機の犠牲者を悼む「不忘の碑」があった。山の名前はその碑から採ったようだ。 元来は「御前山」と呼ばれたようで、地図にはカッコ書きでそう記されている。わざわざ追悼碑を建てたのは戦後の進駐時の頃なのだろうか。戦中なら敵国機が墜落しても喜んだはず。それにしても米軍機の墜落事故を悼んで「この悲劇を絶対忘れない」=「不忘」として山の名前まで変えた日本民族のなんと優しいことか。Yガイドのブログには、碑を見上げる雨具姿の妻が写っていた。 荒れ狂う強風の中、再び下山開始。刈田峠付近の整備されて歩き易い登山道が、ここでは中高年登山者にとって地獄そのものだ。火山岩から粘土質の土に変わり、やがてそれが泥に変わって行く。山岳ガイドと添乗員が、天候によっては途中から引き返すことがあると話していたのはこのためだろう。前日からの雨で、道が非常に滑り易くなっている。それに、一歩毎の段差が大きい。ここではもう妻の心配よりも、自分の安全確保が最優先だ。ゴメンね母ちゃん。お前もお前で頑張れ~!!<参考>「葉っぱ塾」で検索し、9月3日の日記をご覧ください。山岳ガイドYさんのブログですが、当日の登山の写真と高山植物が紹介されています。ご参考まで。
2012.09.06
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≪ 花の名前、山の名前 ≫ 2つ目のピーク杉ケ峰へ向かう途中、前方から5人ほどのパーティーがやって来た。屏風岳までは行ったものの、天候が心配で引き返して来たらしい。「どこからですか?」と聞くので、「刈田から」と答えると、「そうじゃなくて」と彼ら。「ああ、仙台からですよ。不忘までの縦走です。白石スキー場へ下りるんです」。「へえ、この中高年ツアーがねえ」。彼らはきっとそんな風に感じたのではないか。 標高1745mの杉ケ峰の頂上で1回目の食事。「お腹が空いた」と妻。休憩はせいぜい10分程度だが、その短い時間で少しずつエネルギーを補充するのが登山中の食事。9時に歩き出してからもう1時間半。そして朝食から5時間が経っている。それに激しい運動が加われば、腹が減るのは当然なのだ。弁当はハイキング用のものより若干ボリュームがあった。その半分ほどを食べて出発。 再び下り始めたが、前が良く見えない。これには慌てた。眼鏡の外側は細かい雨の水滴で、そして内側には雨具の胸元から立ち上る湯気で、二重に曇るのだ。これでは見えるはずがない。歩きながら眼鏡を外し、雨具のポケットにしまう。眼鏡ケースは持参してないし、第一こんな稜線で立ち止まるわけには行かない。必死でポケットのファスナーを閉める。どこかにぶつかって眼鏡が壊れないことを祈るだけだ。 ガイドのYさんが言う。「登山中に靴が壊れることがありますよ。先日は両方同時に壊れた人がいました。私は結束用に工事用の針金を持ってます」。「原因は接着剤の劣化ですかね。私のはもう20年経ちます。安物だけど、結構丈夫だもんなあ」。登山靴を買ったのは、四国の松山勤務時。これで1271mの皿ケ嶺や1972mの石鎚山へ登った。ひょっとして長持ちしている理由は、私達の登山回数が少ないせいかも知れない。 Yさんは花の名前も教えてくれる。エゾシオガマ、ヨツバヒヨドリ、トモエシオガマ、イワショウブ、アキノキリンソウなどなど。だが、こっちはそれどころではない。足元の確認と安全確保に必死なのだ。コバギボウシ、ハクサンボウフウ、ワガトリカブト、シロバナトウウチソウ。んんん? だから花の名は、彼のブログから後日拝借したものだ。 約200mを下り切ると、目の前に湿原が現れ、道は木道に変わった。ここが「芝草平」。と言っても芝は何処にもなく、その代わりに少し紅葉した草が見えた。湿原はかなり広いようで、ワタスゲなども生えているはず。だがガスが立ちこめて全貌は不明のままだ。そこから再び登り坂。その途中の分岐点で休憩。笹の間に見えた小道が、標高1681mの後烏帽子岳に向かう道。山男や山ガール達が、良くこんな目立たない標識で迷わないものだと感心する。 再び前進すると登りになる。雨は降ってないものの、風が強烈で寒い。屏風岳が近づくにつれ、さらに風の勢いが増す。稜線が次第に厳しく、かつ狭くなる。頂上が近い証拠だ。喘ぎ喘ぎ急坂を登ると、クマザサに覆われた平坦地に出た。今日のコースの最高峰、標高1825mの屏風岳だ。山の名前になった冬の良く晴れた日に遠望出来る真っ白い崖、つまり「屏風」のようにそそり立った絶壁が、今私の足元にある。<続く>≪注≫ 「葉っぱ塾」で検索すると9月3日の日記にこの登山の記事と写真が載っています。これは私達を引率してくれた山岳ガイド、Yさんのブログです。ご参考まで。なお、私達夫婦の姿も見えますが、さてどこでしょう?(笑)
2012.09.05
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≪ 一瞬の風景 ≫ これから向かうルートは前山(1684m)、杉ケ峰(1745m)、屏風岳(1835m)、南屏風岳(1810m)、不忘山(1705m)を経て白石スキー場へ下りるコース。最初は下りから始まった。私はガイドのYさんの直ぐ後についた。その方がペース的に楽なのだ。しっかりした階段と、周囲の木が刈り込まれた登山道。そして美しいクマザサの群生。 「良く整備されてますね」。「屏風岳までは花を観に行く人が多いんですよ」とYさん。するとそこから先はどうなのか?と疑問を持つのだが、彼は無言。出発前には「天候によっては途中から引き返すことがあります」と話していたが、そんなことが一体これから起きるのだろうか。ともかく天気予報では、雲の動きが激しいそうだ。それに高山で天気が急変するのは、特段不思議ではない。 昨夜はかなり雨が降ったのだろうが、これだけ登山道が整備されていると歩き易くて助かる。気がかりだった低温も、動いている限りは問題が無さそうだ。雨具の下は薄いトレパンと長袖Tシャツ1枚。登山用のズボンとシャツは少し厚手で、暑がりの私はきっと大汗をかくと思って着用しなかったのだ。それが今後、どう影響するか。 順調に刈田峠の鞍部まで下りる。まだエコーラインが無かった頃は、この峠越えが山へ登る唯一の方法だったのだろう。そこからいよいよ登りが始まる。慎重に一歩一歩階段を踏みしめる。こんな運動は6月末の鳥海山桑の木湿原以来だが、あれはハイキング。泥んこ道に悩まされたものの、さほど高低差はなかった。だが今日は6時間の縦走。その間のアップダウンは相当のはず。 「ミヤマリンドウです」とYさん。可愛らしい花だ。「オヤマリンドウです」。名前は似てるが花は大きい。チングルマは既に咲き終えていたが、枯れた後の風車のような姿にはまだなっていない。「キンコウカです」の言葉には「キンコンカ~ン♪」とおどけてみたがYさんの反応はない。「春先に仙台から見える屏風の姿に魅せられたんです」と話したのを、「これはずぶの素人」と判断されたのかも知れない。 山岳ガイドも様々で、中には特定の女性と「おかま」みたいな言葉で話し続けるヤツもいた。余計なことはしゃべらないYさんは、却って山男らしくて良い。時々立ち止り、カメラで高山植物を撮っている。彼は「自然塾」を開いているようだが、きっとそのHPに掲載するのだろう。もうずいぶん歩いたように感じるのだが、まだ1つ目の山の途中。 前山の頂上で最初の休憩。リュックを下ろして水を飲む。相変わらず雲の流れが激しく、見えるのは100mほどの範囲だけ。今日の雲は太平洋から流れて来るもので、これが切れないと天候の回復は望めない由。長年の趣味であるウルトラマラソンも天候の影響を受け易いスポーツ。何せ距離が100kmもあると、結構天気が変わるのだ。だから雨や風との遭遇なんて当たり前。まして日を選べない登山ツアーの天候なんて、その時の運次第だろう。 「あれが上山、山形方面です」。杉ケ峰に向かう途中にYさんが叫ぶ。皆が振り返ると、一瞬雲の合間から山形盆地が見えた。結局はそれが唯一眼にした下界の風景だった。岩を踏みしめ、階段を登り、次のピークを目指す。清らかなアオモリトドマツ、ハイマツ、ナナカマドの姿。どれも背が低いのは、雪と猛烈な風で成長が遅いためだ。冬、この辺りは樹氷に覆われ、一面の銀世界と化すのだろう。<続く>
2012.09.04
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≪ 憧れの山へ ≫ 春先の晴れた朝、バス停から西の方を向くと、白く輝く山が見える。頂上付近は絶壁に近く、まるで雪の壁のようだ。あれが屏風岳と呼ばれる南蔵王の連山の一つであることは知っていた。だが峻厳そのものの雪の山は、長年私にとって近寄り難い山でもあった。 蔵王エコーラインを登って行くと、刈田岳へ登るのと逆方向、つまり宮城県側からみれば道路の左手に、南蔵王縦走コースの登山口がある。まだ有料道路の時代から車で何度か登ったが、走って登ったことも4度ある。その都度、路肩に何台かの車が停まっていた。その多くは、南蔵王を縦走する登山客のもの。一見なだらかに見えるが、実際はどんな山並みが連なっているのだろうと、想像するのが常だった。 その南蔵王縦走ツアーの企画を、ツーリスト会社のパンフレットで発見したのは1カ月半ほど前のことだ。「アップダウンのある稜線歩きを楽しみながら、南蔵王の屏風岳や不忘山と言った名だたるピークを踏みながら縦走します。クラスは中級Aで行程は11km。標高差970mで約6時間」とある。登山後の温泉入浴もあるし、これは良いと早速申し込むことにした。まだ体調が本調子ではなかったが、6時間程度の山歩きなら何とかなるはず。 申し込んだ後で、妻に行くかを尋ねた。彼女は初級の山は何度か登っているが、6時間以上の中級コースは未経験。最初は諦めた彼女が何を思ったか「自分も行きたい」と言い出した。「お父さんよりも私の方が元気だもの」と妻。「あのなあ、今の俺と比べてもしょうがないんだよ」と心の中でつぶやく。 学生時代から妻とは何度か一緒に山に登った。結婚してからも何度かは行ったが、それはハイキング程度のもの。この春の2度に亘る不整脈の手術後、体調は優れなかった私だが、山の経験は妻よりはずっと多く、基礎体力もある。妻の体力と技術に心配はあったが、ツーリストに妻の参加も伝えた。登山後の添乗員の話によれば、申し込み時に9人の客を断った由。いずれも健脚を誇っていたようだが、登山の経験はなかったようだ。それで6時間の縦走への挑戦は無茶と言うものだ。 この夏は連日猛暑地獄が続き、私はすっかり青空の下での登山を想い描いていた。だから「替え」の靴を用意するよう添乗員から連絡があった時はビックリ。だが良く考えれば、泥靴のままでバスに乗り込むのは失礼だし、温泉へ入る時も同様だ。それがツアーの常識なのだろう。それにしてもあれだけ続いた好天が、本当に崩れるものだろうか。 登山当日の朝、4時前には目覚めた。雨具も洗面具も持った。飲み水はお茶などペットボトル3本を確保。妻は4個のお握りも作った。塩鮭が2個で、梅干しが2個。お菓子もかなり袋に入れた。着替えや予備の靴を入れると25リットル用のリュックはパンパンに膨れ上がる。愛犬は散歩後裏庭に繋いだ。水はバケツに1杯。後は暑がりの彼が一日どう戦ってくれるかだ。 集合場所まで自転車で向かう。参加者は21人なのに大型バスなので、1人2席分とゆったりだった。高速道路に入ると、Y添乗員は自己紹介と各種の注意を始めた。新潟出身の彼は大学時代から仙台で過ごし、大企業を辞めた後は農業法人を興して野菜作りに専念していたが、昨年の東日本大震災で被害を受け、今は添乗員の仕事がメインの由。今時珍しいユニークな若者。39歳の不思議な人生に、とても興味を抱いた私だった。 村田ICで高速を降りた後、私はリュックの中身を整理し始めた。バスに残すものと、縦走中も必要なものに分ける必要があるからだ。だが、リュックを開けてビックリ。中がびしょ濡れで水が滴っている。原因は妻がペットボトルのふたをきちんと閉めてなかったため。だが、彼女は悠然と新聞を読んでいる。「荷物の仕分けをして置いた方が良いよ」と私。「仕分けは得意だからね」と妻。「本当か~?」。またもや心の中でつぶやく。 蔵王エコーラインを蛇行しながら登るバス。窓ガラスを水滴が横切る。雨だ。これは嫌な展開になった。エコーラインを登り切り、山形との県境にあるリフト乗降所付近でバスは停車した。ここで最後のトイレ。菅生SAから乗り込んだ山形の山岳ガイドYさんが、登山前の準備体操を指導。リュック内で漏れた水はトイレで補充した。雨具も泥除けのスパッツも装着しての完全武装。雨は止んだが、気温が低い。いよいよ遥かなる南蔵王の縦走が始まる。<続く>
2012.09.03
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お早うございます。今日はこれから愛犬との散歩と朝食を済ませた後、南蔵王の縦走へと向かいます。未明火事騒ぎ(ものすごいサイレンの音)や、蚊侵入騒ぎなどがあって、あまり良く眠ってないのですが、現地に向かうバスの中で少し休むことにしましょう。では、行って来ます。帰宅は夜遅くになります。皆さまも良い日曜になりますよう。ではでは~。
2012.09.02
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猛暑の8月だった。仙台でも30度を越えた日が21日あったそうだ。しかも雨が降らないため、私は朝夕、庭と畑に水を撒き続けた。県内のダムの貯水量が減り、鳴子ダムはわずか3%とか。このまま雨が降らなかったらどうなるのか。全国的に野菜の値段が高騰しているらしい。雨が降らないため、葉物野菜の出来が良くないのだろう。 ブログ友よっちゃんさんのブログがようやく再開した。最愛の弟さんを亡くされ、哀しみに沈んでおられたのだと思う。しばらく閉ざされていたブログが3日ほど前に復活し、昨日からはコメント欄も開かれた。良かった良かった。少しでも元気になってくれれば嬉しい。昨日のブログには、彼女の家の庭に咲くタカサゴユリの写真が載っていた。 我が家の庭では、今バラが咲いている。花弁はさほど大きくないが、照り返す太陽の下で懸命に咲き続けるバラ。ノボタンも咲き始めた。これは鉢植えのせいか、直ぐに土が乾燥してしまう。そして純白のユリがちらほら。よっちゃんさんのコメントによれば、今頃に咲くユリはタカサゴユリだろうとのこと。へえ~っ、三重と仙台ではずいぶん離れているのに、同じ花が咲いてるんだねえ。しかもこの暑さの中で。 火曜日に歯医者に行った。取れてしまった金属の冠を、新しいのに取り替えた。先生も、先生の奥さんも、私が再び走り出したことをとても喜んでくれた。昨日は循環器内科を訪れた。薬が無くなったためだ。ドクターは私がランニングを再開したことをとても驚き、そして喜んでくれた。その足で整骨院へ向かった。走り出したことを報告すると、若い先生は「まだ筋肉に堅いところがあります」と一言。 彼によれば足の裏は案外鍛えにくい場所らしい。「青竹踏み」については驚かなかった彼も、「シャコ貝踏み」には驚いた様子。そこまでする人はいないのだろう。それにシャコ貝なんてこの辺では滅多に見られないもの。あれは沖縄では有名な「神の島」、久高島で獲った記念品。まさかそれが21年後に役立つとは。 四国の長女から手紙と写真が届いた。その中に孫の手紙も入っていた。夏休みの宿題は無事完成したようだ。上の孫は私が教えた神戸市垂水区にある「五色塚古墳」の研究。そして下の孫は「インスタントラーメン」の研究らしい。どちらもこの夏、歌の発表で大阪に行った際に見学したのをまとめたのだ。私の長年の趣味である日本古代史の研究が、孫の夏休みの自由研究に役立つとは嬉しいねえ。 先日ツーリストから電話があった。登山靴が汚れるので、バスの中で履く代わりの靴を用意することと、登山後に入る温泉の洗面具の用意についての注意だった。「へえ、こんなに天気が良いのに?」と不思議だったが、今夜から明日にかけて雨が降るようだ。明日は妻と一緒に南蔵王を縦走する予定。泥んこ道には慣れてるが、たまには乾いた山道を歩きたかったのだが。 天気予報によれば、今回の雨は大した量ではないらしい。たとえ「お湿り」程度でも、庭や畑の作物には恵みの雨になるはず。暑さに苦しむ虫は発芽したばかりの大根の葉をむさぼり、小さなトマトには芋虫が棲み着いて、中から果肉を齧っている。明日は早朝に家を出、帰宅は夜になる予定。どうやらブログはお休みすることになりそうだ。
2012.09.01
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