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2月25日(土)≪ 映画を観る ≫ 「はやぶさ 遥かなる帰還」はノンフィクション作家で獨協大学特任教授である山根一眞の原作。JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打ち上げた小惑星探査機「はやぶさ」が、小惑星「イトカワ」に着陸し、大量の微粒子を地球に持ち帰る話。「イトカワ」は日本のロケット研究の先達である糸川英夫博士の名に因むもので、アメリカのMITによって1995年8月に発見されている。 半径160m、長径500mの小さな惑星イトカワに向けて「はやぶさ」が飛び立ったのは2003年5月9日。予定では2年後にサンプルを採取して地球に戻る計画だった。それが太陽電池の劣化や燃料漏れやイオンエンジンの不調などが重なり、一時は通信も途絶える。ところがエンジンを開発した企業の一社員とJAXAの研究者の涙ぐましい努力で、ボロボロになりながらも予定の5年後に何とか帰還する。 極めて科学的な内容だが、人間愛に溢れ、スリルに満ちた素晴らしい映画だった。主な出演者は渡辺謙、江口洋介、吉岡秀隆、山崎努、石橋蓮司、藤竜也。「はやぶさ」はイトカワに2度着陸しながら、予定した機能が作動せず、当初はサンプルの採取に失敗したと思われていたが、その後カプセルコンテナ内で大量の微粒子が発見された経緯がある。 最近の新聞によれば、微粒子の中にごく小さな「クレーター」状の穴があるものが見つかった由。これは宇宙を飛び交う極小の物質が衝突したと考えられるようだ。そして「はやぶさ」がもたらした成功は、「はやぶさ2号」打ち上げ計画の実現へとつながった。映画ではカプセルがオーストラリアに着陸したところで終わるのだが、参考までにその後の状況を記してみた。2月26日(日)≪ 契約、マラソン、お別れ会、温泉 ≫ 朝は珍しくパンを食べる。これは映画の帰りに買ったもの。業者が契約書を持参する前に、玄関や外階段の氷を砕く。一旦融けた雪が夕方からの寒さで再び凍り、危険を感じたためだ。契約は短時間で無事に済んだ。外に出て屋根の形状などを再確認。西側の屋根は冬の午前中にも関わらず、良く日が当たっている。そのため西側へのパネル設置数を増やすことにした。 その後テレビで「東京マラソン」を観戦。話題の公務員ランナー川内選手は給水に3度失敗して失速。2時間12分台で14位に終わった。代わって日本人トップに躍り出たのが無職ランナーの藤原新選手。2年前までJR東日本に所属していたが、駅伝中心の練習に飽き足らず、マラソンを目指して目下1人で練習しているとのこと。 そのハングリー精神で2時間07分48秒の好記録で2位(日本人1位)となり、ほぼロンドンへの切符を手中に納めた。奥さんと子供は奥さんの実家である富山で別に暮らしているそうだが、副賞の高級車や賞金をゲットして大喜びだったようだ。こんな選手もいたとは驚きだ。惨敗した川内選手が反省し、翌日に丸坊主になったのにも驚いた。さて、走友達の結果はどうだったのだろう。 午後、妻は友達とのお別れ会に行った。一緒に旅行したり観劇する仲良しだが、このたび望まれて再婚し遠くへ行ってしまうようだ。私は自分へのご褒美代わりに近所の温泉へ行った。確か日曜日の料金は800円のはずと思っていたのだが、26日は「フロの日」らしく390円で入れた。すっかり体が温まり、厚手の靴下の片方を忘れて来たのが愛嬌か。< 2月のラン&ウォーク > ラン回数:2回 ラン距離:15km ウォーク:111km 月間合計:126km 年間走行距離:169km 年間累計:378km これまでの累計:78、523km(地球2周到達まで残り1493km)今月は不整脈の手術でドクターストップ中です。
2012.02.29
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2月22日(水)≪ なぜ ≫ 午後、生命保険の小母ちゃん来宅。入院費請求に関する必要書類4種を渡す。その内容は 1)退院時の領収書 2)手術の同意書 3)治療計画書 4)退院証明書 だった。保険会社の請求書に記入して提出。支払われる金額は後日電話で連絡がある由。保険を「最新医療」が可能なものに変更していたため助かった。案外期待できるかも。 霊園の案内が届いた。宗派は問わない墓地みたいだ。我が家は父母の墓に「同居する」予定なので別に必要ないのだが、問題はこの案内が郵便で来たこと。なぜ私の名前と住所が分かったのか。「紋」はとある宗教の関係団体のものに酷似。さて、個人情報がどこから漏れたのか。 夕方「なぜSさんから見積書が来ないんだろう」と妻。そこで私の意見を言った。折角作った契約書がやり直しになったのは、業者にとって迷惑だったはず。変更するならもっと前にその機会があった。併せて前から危惧していたことを2、3話した。「だって、あの時何でも話して下さいとSさんが言ってたでしょ」と妻。おいおい、それとこれとは話が違うよ!2月23日(木)≪ 強風 ≫ 朝からの雪が雨に変わり、午後にはその雨も止み、夕方から暖かくなった。妻はあれから口を利かない。どうやら昨夜は眠れなかった模様。夜半から強風になる。2月24日(金)≪ 通院 ≫ この日も朝から強風。1カ月ぶりにいつもの内科へ行き、病院から託された「医療情報」をドクターに手渡す。測定の結果不整脈は出ていない由。念のため「ワーファリン」の効き目を検査。ドクターには入院時に見聞きしたことを話した。一つは不整脈手術を受けた人がペースメーカーをつけることになったこと。二つ目は再手術の可能性が70%と言われたこと。そして三つ目が入院以来血圧が高いことだ。少し強めの血圧降下剤を処方してもらい帰宅。 夕方、「Sさんの会社へ謝りに行って来た」と妻。「Sさん」とはオール電化を契約した業者のこと。明日「ソーラーシステム」に関する見積書を持参する由。ソーラーシステムの導入は長年の妻の夢だったようだ。その夢を叶えるためには一歩前進だが、肝心のことがまだ夫婦間で話されていない。2月25日(土)≪ エネルギー革命 ≫ 午前中に業者が見積書を持って来た。ソーラーシステムとオール電化との関係などについて詳細に尋ねる。思い切ってソーラーシステムとオール電化を実現したいが、業者には一旦引き取ってもらって妻と協議し、改めて返事することにした。「肝心のこと」とは代金をどう支払うかだ。 これにエアコンの更新も含め、ある金額を逆提案することにした。経費は家計から40%、私の管理する口座から40%、妻の分から20%、それぞれ分担することで合意。業者にはその金額で今回全ての工事をして欲しいとお願いした。業者も快諾し、3月末までに工事を完了してもらうことになった。 「オール電化」は夜間の安い電力料金を使って給湯などに充てる。これで限界が近づいていたお風呂の問題もクリヤーし、かつ今後はガス代が不要になる。一方「ソーラーシステム」では高い価格で電力会社に電力を売ることが可能になり、毎月の電力料金が不要になる。さらに地震などで停電しても、ソーラーが働くため日中は電気が使える。まさに我が家のエネルギー革命だ。 後はIHクッキング用の調理器具を揃える必要があるが、ステンレススチール製の器具は使用出来る由。かかった費用を償還出来るのは約15年後のようだが、将来子供達が我が家に帰って来ないと、どうなるか。考えればきりがないが、今回は老後の「夢」を買ったと思うことにしよう。その後、妻と映画「はやぶさ 遥かなる帰還」を観に行く。長くなりそうなのでこの話はまた明日。
2012.02.28
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2月19日(日)≪ ぶち壊し ≫ 畑から白菜9株を採り、うち8個は新聞紙にくるんで物置にしまった。畑に植えたままだと外側から凍って、次第に腐ってしまうからだ。物置も冷蔵庫状態だが、外よりは幾分マシ。凍った土をスコップで掘り大根1本を抜く。この冬は寒さが厳しいせいで野菜が高い。こんなご時世なので、体裁の悪い我家の野菜でも結構貴重な存在だ。 「オール電化」を頼んだ業者が来て、契約書を交わす。やれやれこれで一安心と思った時、「本当はソーラーをしたいんですけど」突然妻が言い出した。折角見積書を基にして工事内容が決まり、ようやく契約を交わしたばかりなのに、何故一から出直すようなことをするのか。 私は業者の前で妻を叱った。私の剣幕に業者も驚いたはずだが、彼は静かに「分かりました」と答えた。こうなると私も次のステップへ進むしかない。外へ出て、屋根の形と南北の方向を一緒に確認した。我が家の屋根は三角形の上、中央に換気のための小さな「小屋」が付いている構造。このためソーラーパネルは南側だけでは足らず、西側にも載せる必要がありそうだ。これも私が妻に話していたことだ。 業者は帰ったが、妻と私の間には気まずい空気が流れた。男は理詰めで考え、積み重ねて行く。だから業者も話し合いに基づいて手続きを踏む。いくら女が感性の動物と言っても、こんな重要なことをどうして簡単に覆すのか。それよりもっと大事なことがあるのだが、私は黙っていた。夕方の散歩時、目の前で黒い小さなものが飛ぶ。これが白内障の症状と言う「飛蚊症」(ひぶんしょう)だろうか。2月20日(月)≪ 保険金請求へ ≫ 第一現場の若者が喫煙時に小窓を開けるようになった。私が不整脈で手術したことで少し配慮をしたのだろう。入院中のレクチャーで聞いた話では、喫煙者本人は優秀なフィルターのため、煙の害を多少防げるようだ。ところが傍にいる人はまともに煙を吸い、有害物質を体内に取り込むらしい。 警備を担当している我が社は3月末でこのビルから撤退するが、清掃担当の会社は勤務時間を1時間減らされたようだし、役員を送迎している2台の個人タクシーは、最近使用頻度が減って困っていると聞いた。やはりオーナー会社の業績が振るわないためだろう。帰宅後、生命保険の担当者に電話し、先日入院・手術した際の保険金請求について尋ねた。提出に必要な書類を確認。2月21日(火)≪ 大丈夫かねえ ≫ 保険会社へ提出する資料4種をコピー。会社の上司から4月以降の通勤手段について聞かれた。7時から勤務するためには相当の努力が要る。その厳しさを上司にも知って欲しかったのだが、分かったかどうか。 夕方帰宅した妻が、かなりショックを受けた様子。聞けば財布が入ったバックを自転車の籠に入れたまま仕事をしていたとか。自転車を停めたのは道路端。良く盗まれなかったものだ。妻は勤務先から、後2年間働いて欲しいと言われたようだ。65歳の定年をさらに2年間延長し、果たして体力と頭の回転が追い着くのだろうか。 一方の私も後2年間、70歳まで働くことになった。過激な肉体労働に果たして持ち応えられるかどうか。何故そこまでして働くのか。それは体が動くうちは働いて、自由に使えるお金を貯めたいから。妻もきっと同じ気持ちだと思う。そして体が動かなくなったら、期限の途中で辞めても良いではないかとも。
2012.02.27
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2月17日(金)≪頼りない業者≫ 雪が降った。第1現場の巡回時、屋上の雪かきをした。軽い雪だが、滑ると危ないと感じたからだ。螺旋階段から塔屋の辺りがツルツルするのは特に気温が低いからだろう。立哨時には玄関先を雪かきした。この部分の担当は清掃会社だが、責任者が他の現場へ行っていて不在。管理会社の方に断り、そこも雪かきをした。出勤して来る社員の方が危険と感じたからだ。 病み上がりの雪かきは疲れる。悪いと思ったのか管理会社の方も、道具を持って手伝ってくれた。午後、住宅メーカーのリフォーム担当の人が「オール電化」の資料を持って来た。妻と一緒に話を聞いたが、態度は紳士的なのだがまるで要領を得ない。技術的なことがほとんど分かってないようだ。そして設置後の故障は直接メーカーへ言って欲しいとのこと。それだけでも契約することがためらわれる。2月18日(土)≪遠い世界の話≫ 前日電話があった設備会社が見積書を持って来た。Dさん紹介の人だ。こちらは「オール電化」の仕組み、設置する設備の詳細と品質、設置後のアフターケアなど非常に分かり易かった。住宅メーカー提示の設備より品質が良く、しかも低額。アフターケアも万全だった。会社の場所も確かめていたし、信用がおける人物と判断し、翌日に契約書を交わすことにした。 夕刻、ウルトラマラソン仲間である宮城UMCの新年会に行った。一週間の疲れが出たのか、会場へ向かう途中に頭痛。久しぶりの仲間との再会。T田さんとは約束通りのハグ。ブログを読んで心配してくれていたのか、皆「大丈夫?」と尋ねる。T田さんの横に座ったが、O川さんには「体調がまだ十分でないので、あまり飲ませないでね」と頼んでおいた。 会は前事務局長だったUさんの病状の報告から始まった。皆、シーンとして聞いていた。1人病気と戦い続けるUさんの心中を察すると辛いものがある。1人ずつ挨拶をすることになって、私は最初に手を挙げた。私も病気の話をするが、最初の方が雰囲気を壊さないだろうと判断したのだ。それからは各自の今年の抱負を聞いた。 ゴールする夫の姿を見て、今年初めて100kmに挑戦する人。長距離のトレイルレースに挑戦する人、250kmの長丁場に初めて挑戦する人。楽しそうに語る仲間の話が、私には遠い世界のことに思えた。昨年までは仲間の話の途中で「ヤジ」を飛ばした。それは私なりの激励の積りだったが、自分自身が十分走れたからそんなことも出来たのだ。 こんな体調になった今、とても「ヤジ」を飛ばす元気もない。私のジョッキにビールを注ごうとする仲間の手を、O川さんが止めてくれて助かった。「もう走るのは止めようかと思う」と話した時、Uさんから「何故走れるのに走らないのと言われた」とF田さん。それに恥じて再び闘志を燃やしたと72歳の彼。私と同学年のK村さんは手を骨折し、ドクターには走らないよう言われた由。 元気な若者が入会して活発な雰囲気になる一方で、高齢化する会員は次第にウルトラマラソンを走れなくなる。厳しいけれどもこれが現実だ。疲労が限界に達したのか、首と肩が苦しくなって来たため、静かに退散することにした。店の外まで送ってくれたAさんが泣いた。私の入院記を読み、一人手術室へ向かった時の記述を思い出し、「私も妻もさぞ辛かったろうに」と泣き崩れた。昨年果敢にモンブラントレイルに挑戦した彼は、とても心根の優しい人だ。 人生には色んなことがあるさ。そして最後は1人で死ななくてはいけない時が来る。そう思いつつ会場を去った。帰りのバスの中で仲間が作った文集を読んだ。昨年レース中の死亡事故で中止になった「川の道」に出たO川さんが、その無念さを晴らすためあの後盛岡から仙台の自宅まで約200kmを1人で走ったことを知った。それはいつか私が挑戦したい冒険だった。 果たして私が再び走れるようになるかは分からない。1ヶ月間走るのを止めれば、走るための筋肉がすっかりダメになり、元に戻すのに相当の時間がかかる。それに不整脈の再発が70%と高く、もし復帰出来たとしても、極度の偏平足から来る腱鞘炎や足底筋の障害の問題もある。ランナーに戻れる道は遥かに遠いのだ。夢を語る仲間の姿がやけに眩しかった。
2012.02.26
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2月15日(水)≪ 懸念 ≫ 第1現場に出勤して「引き継ぎノート」を見ると、同僚は私が断った現場への勤務を依頼されたようだ。家が遠い彼が、その厳しい勤務条件に耐えられるか心配だ。もしそこを断った場合は、折角勤めたばかりの我が社を辞めざるを得なくなる。何か良い方法はないかと思案。第2現場へ行くと、昔の上司がいた。彼は今、他の事業所の責任者に変わっている。全くの偶然だが、これは良いチャンスだ。 そこで事情を話し、何か適当な仕事がないか尋ねてみた。年齢の高い私の仕事はないが、私より3歳若い同僚ならちょうど今募集している仕事がある由。これは良かった。ただし、3月末までに埋まる可能性もあるが、1カ月半経ってもまだ希望者は出てないようだ。ひょっとしたら上手く行きそう。 帰宅後住宅メーカーへ電話。元々「オール電化」の話はこの会社からあった。それがなかなか見積りの話が進まない。業を煮やして、「今回は他の業者と見積り合わせをする」と話す。これまでは住宅メーカーの言いなりになって家の塗装などをやった。一般よりかなり高額だとは感じたが、しっかり監督してくれるのが安心。その安心料だと考えていたのだ。 夕方からパソコンがフリーズ。4時間経っても動かないまま。購入した電気店の跡取り息子が来てくれ、処置。夜、疲れが出て来た。体は徐々に慣れて来たが、色んなことが起きて緊張が解けないのだろう。2月16日(木)≪ 別れ ≫ 第1現場の「引き継ぎノート」を読むと、同僚は指名された現場への異動を受け入れたようだ。良くあの厳しい条件で承諾したと思う。彼は駅からその現場まで歩いて時間を測った由。30分かかったようだ。これで4月から別々の道を歩むことが決まった。この会社に勤めて間もない彼にとっては、きっと心細いことだろう。 だが、条件が厳しくなるのは私も同様。もう3年間勤めて、現場の雰囲気に馴染んでいるのは良いが、この現場の勤務は7時から。今より30分も早いのだ。そしてその時間に遅れないためには1km先のバス停まで歩き、途中で地下鉄に乗り換え、さらに駅から歩くしかない。今は比較的ゆっくり出来るが、朝の30分は貴重。冬の朝の厳しさが予想される。 それに労働の中身が違う。現在担当している警備員の仕事はさほど体を酷使しない。それが3時間の清掃ともなればかなりの運動量になるが、4月までに体調が戻ることを信じるしかない。この会社に勤めた最初の現場はかなり過酷だった。ただ、あれに耐えられたのは自分も若かったから。あれから歳をとって衰えた分と、今後の業務内容を合わせ考えると、多分大丈夫だと判断。 夕刻、住宅メーカーから電話。明日見積書を持参する由。きっとこちらの剣幕に驚いて書類作りを急がせたのだろう。大会社はともかく対応が遅くて困る。過去に何度も工事が遅れて、嫌になったことがあった。
2012.02.25
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≪ 息切れ、そして嫌な予感 ≫2月13日(月)退院後の初出勤。 医師には「退院後は普通の生活をして良い」と言われていた。だから退院早々に仕事を開始することに、抵抗はなかった。それに今回は4日間の休暇しか取ってないのだ。第1現場ではいつもよりゆっくり歩いての巡回。こちらはさほど重労働ではないが、さすがに体調は手術前とは違う。管理室と清掃の担当者にお礼の「どら焼き」を配る。 本部にいる直属の係長に電話をかけ、退院の挨拶と4月以降の勤務について希望を述べた。だが返事は「実は話があるんだけど」。これはあまり良くない話だと直感。前から気になっていたのだが、我が社を雇っている管理会社の職員の雰囲気がどことなくおかしかった。これはひょっとしてひょっとするかも。 第2現場でもお礼の「どら焼き」を配る。こちらは清掃なのでたとえ1時間でも警備よりはかなり疲れる。モップで床を拭くと息切れがする。それに声が出にくい。胸の奥の筋肉を焼き切る手術なので、やはり影響は大きいのだろう。いつもよりはゆっくりと動いて徐々に体を慣らして行く。それでも退院後2日後の肉体労働は辛かった。 帰宅後、区役所に電話して「限度額適用認定証」のことについて尋ねる。この制度は毎月一定額以上の医療費を支払った場合に適用されるが、仙台市の場合は3か月後に還付される由。これは入院だけでなく外来も含まれるようだ。もし再手術をするようであれば、事前に申請すると病院で減額されるそうだ。やれやれ、これで一安心。取り敢えずは3ヶ月後を待つか。 夜、走友会のD長老から電話。私の退院祝いと共に、前にブログに書いた「オール電化」に関して、安くて親切な業者の紹介だった。疲れ切った一日。いつもより少し早めに床に就く。≪ 予感当たる ≫2月14日(火) 気になっていたことを第1現場の管理会社の方に聞く。はっきりとは言わないが、4月以降のことに関して拙いことが生じたようだ。多分これは私達警備員にも波及すると感じ、引き継ぎのノートには、「4月以降の雇用契約に関して覚悟しておく必要がありそう」と書いた。これは夕方から勤務する同僚への警告みたいなもの。 第2現場へ所属の責任者が訪ねて来た。やはり第1現場の警備が4月から無くなる由。その事情について情報交換したが、守秘義務があるため書かないことにする。彼は私に70歳までは働いて欲しいと言う。4月からの勤務先候補として上げられた2か所は、通勤経路や勤務条件、業務内容の点から私には無理と判断。第2現場の清掃を3時間に延長してほしいと希望を出す。ここは他の事業所の管轄になるのだが、責任者に何とか頼んでもらうことになった。 勤務からの帰路、今日から2kmほど手前のバス停で降り、そこから自宅まで歩いて帰ることにした。主目的は運動のためだが、その分料金も安くなり一石二鳥。夜、Dさん紹介の業者から電話あり。近々話を聞くことになった。三重の長男が4月から東京へ転勤になると妻。次男も東京勤務なので、少しだけ安心出来そう。
2012.02.24
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2月11日(土)退院日1)新聞紙などリサイクル資源を取りまとめて集積所まで運ぶ。これは子供会の資金源になる。2)服用する薬のリストを作る。これは病院から渡された種類が多いため、朝夕に分けて記入。当然飲 み違いを防ぐための工夫。3日分として処方された利尿剤は捨てた。体重が順調に減少していたから だ。いくら病院からもらっても、不必要な薬はなるべく飲まない方が良い。3)運動に関する受け止め方が妻と私とでは違っていた。私は徐々に運動の強度を上げて行けば良いと 思っていた(事実、技官はそう話していた)のだが、妻は執刀医が話していた「出来れば1ヶ月間は 運動しないように」との言葉の方に重きを置いていた。ただし運動はしなくても、肉体労働者である 私は、運動と同じくらい体を動かすことにはなるのだが。ここは妻の意見を入れて、1ヶ月間は走ら ないことに決めた。4)私が受けた「高周波カテーテル心筋焼灼術」を受けた患者の再手術の可能性は、普通20~40% と言われているのだが、何故私の場合は70%と言われたのか不思議だ。執刀医は私が長い距離を走 るランナーであることを知っている。そのため「脅し」でそう言ったのだろうか。謎だ。5)この日の夕方から、早速愛犬との散歩を開始。これもリハビリのうち。6)夜はまだ緊張が解けないせいか、ゆっくり眠れなかった。2月12日(日)1)朝夕1kmずつ愛犬と散歩。2)これとは別に休ませてもらった職場へのお礼の「どら焼き」を買いに、往復4kmをゆっくり歩 く。心臓が少々ドキドキする。やはり病み上がりを実感。3)胃の調子が悪い。これは一度に大量の薬を飲んだせい。胃薬も処方されているが、夕食後の服用。 これを自分の判断で薬の量が多い朝食後に変えようと思う。(通院中の内科でも過去に同じようなこ とがあり、医師の許可を得たことがあるため)4)妻が早めのチョコレートをくれた。(バレンタインデーは2月14日)私は「お返し」にどら焼き を妻にも上げた。5)今日は「いわきサンシャインマラソン」に多くの走友が出ている。私はチップと共に、「参加賞が 欲しいと」とメモを入れて郵送した。後日Tシャツが「着払い」で送られて来た。う~む。6)この日から「マックス爺の不整脈入院記」を執筆開始。最終的には11回の長編になった。7)この日の夕食は、薄味を意識した料理になった。妻に感謝。6日ぶりに焼酎の水割りでささやかな 「一人退院祝い」。8)入浴時の体重は66.2kgに減少。これは入院前よりも少ない。やはり利尿剤は不要だった。9)夜、韓国歴史ドラマ「トンイ」を観る。この夜も安眠出来ず。
2012.02.23
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≪ 温室から現実へ ≫ 2月11日土曜日。建国記念日の朝は5時に目が覚めた。まだ室内は暗く、読書は出来ない。このためトイレ前の照明で本を読んでいた。それを観た看護師が、食堂の照明を点けてくれた。5時55分体重測定。利尿剤を用いたせいか67.4kgにまで落ちた。血圧は143/104/66で、体温は35度ちょうど。 7時30分、退院に備えて荷物の整理。7時40分から15分ほどベッドでまどろむ。8時。病院での最後の食事。いつも通り少なめのご飯、白菜とネギのみそ汁、もやしと絹サヤのお浸し、玉子と白菜と小松菜の煮物、冷や奴。最後までヘルシーさに徹した内容だった。食後に血圧降下剤1錠と、不整脈予防剤4錠を服用。 8時40分、胸部レントゲン写真撮影。部屋に戻ると同室のZさんが退院の支度を終えていた。9時過ぎにI看護師に領収書を見せ、9時15分に退院後、自宅で服用する薬を受け取る。Zさんのベッドが片づけられ、他の部屋から新しい患者が引っ越して来た。この人もこの病院が長いせいでYさんとは顔なじみ。早速お互いの病状について話し出した。 昨夜ICU(集中治療室)に1泊したXさんはまだ戻らない。きっと部屋に帰ったら、メンバーが変わったことに驚くのではないか。これで4泊5日の病院生活ともお別れ。ナーステーションでパソコンを操作していた執刀医に手術のお礼と退院の挨拶を述べる。「次は外来でお会いしましょう」。若く真面目な彼は、直ぐさま仕事に戻った。 外来では、朝から夕方まで診察し続けるO医師。そして入院患者に対しても長時間手術を担当する彼。一度「食事を摂る時間があるんですか?」と尋ねたら、黙っていた。まだ彼の笑顔を見たことがない。ドイツで最新の技術を習得した彼は、不整脈の手術ではかなりの実績を積んだよう。体力がある今は、治療を最優先させているのだと思う。 贅沢だがバスではなくタクシーで帰ることにした。温室のような病院から一歩外へ出ると極寒の世界。ここで体調を崩したら、折角手術で治癒した意味がない。だが、タクシーの中はタバコの臭いが残っていた。心臓にとっては最悪な環境だが、これが現実の世界なのだ。家に着くと、愛犬がクンクン私の匂いを嗅ぐ。5日ぶりの再会だった。 妻と挨拶を交わし、病院からもらった「病気と食事」関係の小冊子を渡す。手術した日、帰宅する妻に「手術の同意書」を渡した。それを読んで彼女は初めて不整脈と手術の重大さを知ったと思う。それまで私は正確な症状について話してなかったし、彼女もさほど関心を寄せなかった。「これからは出来るだけ薄味にしないとね」。妻は妻なりに何かを感じたと思う。 その夜、私は思い切って妻に話した。不整脈の原因となったことについてだ。妻にも妻の言い分があるようだが、「これからはお父さんの顔をちゃんと見るようにするから」と彼女。独身時代を含めれば46年近い付き合いだが、その間には愛憎や不信なども含めて色んなことがあった。そしてこれから死を迎える日まで、さらに色んなことが起きると思う。だが今回の入院が、お互いの老後をより健康で安らぎに満ちたものに変えるきっかけになれたら嬉しい。 さて、この入院記は病院でのメモに基づいた。だが、睡眠不足や緊張や手術後の朦朧とした意識の中でのメモのため、一部に記憶違いや時間のずれがある。そしてこのブログは退院後の疲労と戦いながら書いたため、錯覚した部分もあった。だがそれはさほど問題ないはず。長々と書き綴った入院記は私のプライバシーそのもので、不快な点も多くあったことだろう。それでも読者の役に立てる部分があれば嬉しい。 長年の走友である香川のTANさんが、このシリーズを読んでいると書き込んでくれた。偶然にも奥様が不整脈のため入院し、私と同じような手術を受ける予定だそうだ。私と全く同じ症状かどうかは分からないが、何かの参考になれば嬉しい。「入院記」は今日で終わるが、この続きについても少々記しておきたい。このため明日からは「激動の退院記」を書く予定だ。根気良く最後まで付き合って下さった読者各位に、この場を借りて御礼申し上げたい。<完>
2012.02.22
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≪ 暗転 ≫ 15時頃、所属走友会のF会長がひょっこりと訪ねて来た。初めての見舞客とは嬉しいが、何も出すものがない。有難いことに会からの見舞い金と個人としての見舞い金をいただく。彼は高校の4年後輩で、ざっくばらんに話せる人。地震のこと、仕事のこと、病気のこと、新年会のこと、会員の病気のことなどを話した。病気療養中だった最長老のAさん(88歳)が、5月の「仙台国際ハーフマラソン」の2kmの部に出場すると言う嬉しい話も聞けた。 15時20分、同室のXさんが手術から戻った。彼は不整脈で1度手術をしているが、1カ月検診の当日病院で倒れた人。その2、3日前に不調になったものの、検診日まで我慢していたようだ。奥様が小声で私に話す。「今日の手術はスタッフが万全でなかったみたいで、ペースメーカーを入れることになるんですって。大変だわ~」。 病院から渡された資料には、手術後不調になったら早めに来院するよう書かれていた。自分の判断で我慢したのが最悪の結果を招いたようだ。入院後2冊目の本は吉村昭著の「関東大震災」。手術日の朝に読み始めてから、数万人の焼死者が出た「被服廠跡の惨事」まで読み進んだ。16時15分、外は夕日。 16時40分、退院のための請求書が届く。料金は56万円。全額自己負担だと180万円の巨額で、手術代だけでも165万円になる。最初の外来で、私は主治医から入院費用は約10万円と聞いていた。このため10万円を予め預けたのだが、とんでもないことだ。院内のATMは17時まで。慌てて差額を引き出し会計で支払う。キャッシュカードは本来自分の小遣い用なのだが、たまたまお金が入っていただけのこと。 窓口で「限度額適用認定書」のことを尋ねた。「今回は適用されません」とのつれない返事。それはそうだが、私が聞きたかったのは「支払った後でも制度が適用されるかどうか」だった。「それは市役所に聞いて下さい」と、またも冷たい。部屋に戻ってベテラン患者Zさんに尋ねると、支払いは遅れるが適用される由。だから彼らは悠々としていた訳だ。これは高額医療の場合、国の補助で負担が軽減されるシステム。もし後2回も再手術になれば大変なことになる。 18時10分、「最後の晩餐」のメニューは少なめのご飯、ホッケの焼き物、もやしの味噌汁、人参、ゴボウ、きのこのきんぴら、春雨入りの野菜サラダ、小さなシシトウ。この間に手術を終えたばかりのXさんの容態が急変。食事は摂れず、「寒い」の連発。冷や汗が出るようだ。看護師を呼ぶと血圧は50台まで下がり、体温も低下した模様。 18時35分、ストレッチャーに乗せられ、酸素ボンベをつけて手術室へ逆戻りした。顔色が真っ青だった。この後、20時10分に奥様だけが部屋に戻り、Xさんは結局仮のペースメーカーを装着され、ICU(集中治療室)で1泊することになった由。不整脈の手術を受けた患者の中には、こんな結果になる人もいると分かりショックだった。 18時53分、3種類の薬を服用。19時過ぎの血圧は1回目が155/108/61で、2回目が149/107/62。手術で不整脈は消えたが、血圧は依然として高いまま。準夜の看護師はSさん。20時15分の体温は35.8度で、血圧は160/108/61。21時に消灯したが眠れない。Xさんの容態の急変を目の前で観たせいか。<続く>
2012.02.21
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≪ 退院後の諸注意 ≫ 食堂へ行く。前から気になっていた「AKB総選挙」の掲示があったからだ。これは数十人いる9階(循環器内科及び心臓血管外科)のスタッフの中から、A「明るく」K「患者さん思いの」B「美男美女」ナンバーワンを選ぶものとか。私は迷わず手術後の意識朦朧の中で、スプーンでスープを飲ませ、おかずを食べさせてくれた看護師さんの名前を書いた。私にとっては彼女こそが天使だった。 8時朝食。少なめのご飯、野菜の煮物、ジャガイモの味噌汁、湯豆腐。毎回どの食事でも容器にはふたがついて、暖かいのを食べられるのが嬉しい。この朝から不整脈の発生を抑えるアミオダロン4錠の服用開始。術後の後遺症もあるようだし、薬の副作用もあると渡された資料にあった。ゴミを捨てに行ったついでに排便。外は小雪に変わっていた。 8時45分、胸部レントゲン写真撮影。体重は69.15kgで血圧は150/115と、依然として高目。ただ脈拍数は63と安定。9時35分、退院後に服用する薬について薬剤師から説明を受ける。同室のYさんへの回診は、「その後代わりはありませんか?」と簡単なもの。彼は心臓にステント(血管を拡張するための管)が1本入っているそうだが、今回は数日後にバイパス手術を受ける由。 その際の口呼吸に備えて、管を吹いて肺活量を高める練習。その音がブオーブオーとまるで尺八のようだ。彼は最初の来院から数えて11年目のベテランで、同じく窓際のZさんは10年目。ステントが既に7本入っているそうだが、古くなったものから交換する必要がある由。2人とも「限度額適用認定証」のお陰で、命を存(ながら)えていると笑う。彼らは胸部血管外科の所属。 H看護師が心電図計を装着に来る。午前中にシャワーを浴びれるようだ。入院の請求書は4時過ぎに持参するので、今日中に支払って欲しい由。ただし院内のATMは5時までなので間に合うかどうか。彼女に医学部創設構想について聞いたが、話はその後進んでない由。これ以上診療科を増やすのはどうかと言うのが彼女の意見。案外常識的だ。 M医師から退院後の説明を受ける。話の内容は次の来院日の件、通院しているM医院への「診療情報提供書」の件、ほどほどの飲酒は良いが、喫煙は不可であること、傷口の処置の件、再発率の話などで、次回の予約票などをもらった。12時に昼食。エビピラフ、ワンタンスープ、野菜のお浸し、杏仁豆腐、牛乳と初メニューのオンパレードだった。血圧降下剤のニューロタンを服用開始。 前日と同じ講師から退院後の運動に関するレクチャー。1週間の入院で筋肉は30%落ちる。このため退院後の最初の1週間はウォーミングアップで2kmの速歩程度までにし、2週目はこれを2セット。脈拍や血圧が安定した3週間目からは、2日毎に3kmのジョギングも可能で、距離は徐々に延ばすことが大事。走れない期間は軽い「スクワット」や「爪先立ち」も良いとのこと。 何か事故があった場合は、この病院で心臓のカテーテル手術を受けたことを救急隊に伝えると、必ずここに運ばれて来る「保証付き」。そしてここにいる患者の何割かは、必ず戻って来るそうだ。なかなか現実は厳しそう。同室のXさんが奥様に付き添われて手術室へ行った。彼も不整脈の手術を受けたが、1カ月検診日に病院で倒れそのまま入院したそうだ。やはりそんな危険性があるんだねえ。 14時15分。私は早速点滴装置を押しながら、9階の廊下を歩くことにした。廊下には5mごとに印がついている。これを10往復で1km。時間は30分かかったが、3周目には膝に痛みが出た。やはり筋肉は使わないと衰えるのが早い。初日泊った「処置室」からは、いびき男の猛烈ないびきが廊下まで響き渡る。やはり1人のまま置かれたようだ。<続く>
2012.02.20
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≪ 深夜の焦り ≫ 12時に昼食。病院の食事は規則正しい。メニューは少なめのご飯、鶏肉の海苔風味焼き、葉物野菜とキノコの煮物、バナナ、牛乳。この朝は新聞が買えなかったため、誰かが捨てた地元紙を読む。15時頃、心臓のカテーテル手術をした患者を対象にした「栄養教室」が食堂で開催され参加。参考資料として、心臓病、高血圧、糖尿病毎の小冊子をもらう。どれも成人病として共通する部分があるためとのこと。 講師は男性の技官で、栄養や食事の基本的な話から始まった。カロリーの摂り過ぎ、塩分の摂り過ぎなどに注意し、1日3回の食事でいつ何をどう摂るかと具体的な内容。不整脈に良くないのは、1)体が脱水症状になること 2)脈拍が上がり過ぎることだそうだ。アルコールはほどほどなら良く、休肝日も必要とのこと。ただ、たまに飲むのは心臓に負担をかけて良くないみたい。 血栓の発生を防ぐワーファリンの効果を妨げる3つの食品は1)納豆 2)クロレラ 3)グレープフルーツとの説明があったが、正しくはグレープフルーツではなく青汁であることを教えた。グレープフルーツが阻害するのは一部の血圧降下剤の場合だけなのだ。病院食の薄味にも案外慣れたため、家でも何とか薄味で行けそうな気がする。 病室に戻ると心臓の手術に200万円かかったと言う話にビックリ。翌日は夕刻までに入院経費を支払う必要があったからだ。慌てて看護師に聞いてもらうと40万円~60万円の間とか。保障金として入院時に10万円を預けているが、差額がどうなるか心配だ。多分病院内のATMで1度に引き出せる金額は50万円のはず。「限度額適用認定書」と言う制度があることを初めて知る。 家から持参したポンカンを食べる。血圧は128/80/67と安定。これは手術のお陰で下がったのだろう。脈拍数も67だと不整脈も出ていないはず。手術の2日後に不整脈が出たと言う人もいるみたいだ。私のように「持続性不整脈」の場合の再発生の確率は70%と高いため、なおさらのこと心配になる。なお体温は36度で、全く心配はない。 18時夕食を9階の食堂で摂る。メニューは少なめのご飯、鮭の香味焼き、キャベツ、キュウリ、ミニトマトの野菜サラダ、白菜の入った味噌汁。ところが食事中に、点滴装置へ血液が逆流しているのを発見。病室に戻って看護師を呼ぶ。これは血圧が上がったためとのこと。だが19時の血圧は123/89/63と、さほどでもない。体温は36度。暫くして血液の逆流は治まった。やれやれ、これで一安心だ。 2月10日金曜日の深夜0時53分。息苦しくなって目覚める。強い動悸を感じ、胸の奥には痛み。これは多分不整脈が再発したのだろう。それとも手術が失敗したのかと暗澹たる気持ちに。色んな情報を得過ぎて、精神状態も不安定なのだ。「ホルター」の記録紙に時刻を記入し、症状欄にチェック。0時58分点滴装置を持ってトイレへ。夜はまだ長い。マスクをして再び就寝。 入院4日目は5時45分に起床。胸に弱い痛みがあるものの、鼓動は治まった感じ。洗顔、ひげ剃りに続いてトイレ。2日ぶりに排便があった。体重はホルターも入れて69.1kg。かなり顔が丸いと感じたのはこのせいか。血圧は143/111/62。不整脈もない感じで、指先から測定する体内酸素量も正常だった。 D看護師が体重の増加に驚いて再測定を指示。ホルターを外してみたが、それでも1.5kg以上増えていた。後刻聞いた話だと、入院後ずっと点滴を続けていたための影響で、利尿剤で強制的に排出する必要がある由。それにしても若い看護師さんはどの人も石鹸の香りがして良い。それに肌が白くて肌理(きめ)が細やかだ。<続く>
2012.02.19
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≪ ドクターの話と新しい相棒たち ≫ 深夜も1時間毎の検温があり、30分毎に目が覚める。結局寝返りは禁止で、少しの間姿勢を少し斜めにするくらいだった。2月9日木曜日。入院3日目の朝を迎える。手術後16時間はほぼ同じ体勢でベッドに横たわっていたことになる。6時過ぎに測定した体重は67.5kg。8時尿道から管を抜き、術後初めてのトイレへ。薄い血が混じり、泡立った尿が少量出た。その後は車椅子で腹部と胸部のレントゲン写真に向かう。 病室に帰ると妻がいた。8時15分。9階の食堂で執刀したO医師から、妻と共に話を聞く。手術日ではなく、その翌日に家族が話を聞くケースは滅多にないと思う。ただこの時間までに妻が来院するには、相当の苦労があったと思う。O医師によれば手術後に不整脈は出ていないが、不整脈の期間が長かった患者の場合は再手術を受ける可能性が約7割もある由。 このため当分の間不整脈を抑える薬を服用すること。今後の健診は1ケ月後、3ケ月後、半年後、1年後に行う必要があること。今後心拍数110までの運動は可能だが、出来れば1ヶ月間は運動はしない方が良いことを指示された。1カ月検診の前にはホルター(長時間心電図計)を着けに来院する必要があることも別途聞いた。 妻はアセロラジュースを置き、代わりに洗濯ものを持って帰宅した。病室内で朝食。小さなパンが2個、バナナ、野菜サラダとトマトスープが食べたものの全て。寝てばかりいるため、ボリュームもカロリーもさほど必要ないのだろう。点滴の管を腕から外してもらい、着替えをする。手術着を脱いで驚く。いつの間にかT字帯(ふんどし)が外され、スッポンポン状態だったのだ。 そして両脚には親指の部分だけが開いた白いストッキング。これは脚のむくみを予防するためのものだろう。下着を着けてパジャマを着、再び点滴装置を装着。そのままの姿で荷物を整理した。財布はちゃんと引き出しの中にあった。脱がされたT字帯はビニール袋に入れられ、ロッカー内にあった。折角の「記念品」だがストッキングと合わせてゴミに出した。 4人部屋の1人が、「昨夜は眠れなかったよ」と他の2人に話す。「どうも済みません。私のいびきでご迷惑をかけて」と言うと、「やってましたね」とその人。何せ1時間毎に看護師が入室するし、いびきは聞こえるはで眠れなかったのだろう。今度は私が「加害者側」で、「被害者」は今日が2回目の不整脈手術の当日のようだ。後の2人は10年以上この病院に通院している「ベテラン」のようだ。 H看護師から今日の行動範囲は9階のトイレと食堂のみで、出来るだけ病院で出されたものを食べるよう注意された。外はまたまた小雪。私のベッドは廊下側のため、景色が見え難くなった。10時20分心電図の検査。ホルターを胸部に取り付けられ、「行動表」を手渡される。これは食事、トイレ、起床の行動をした時間と、めまいや動悸や胸痛などを感じた時間をメモするもの。 10時。濡れガーゼで2日ぶりの清拭。蒸しタオルだと気持ちが良いのだが、こんな小さなガーゼでは「気休め」程度だ。カテーテルを挿入した肩の部分は看護師が、股のつけ根部分は自分で清拭。手術時の出血を抑え、管を固定する粘着テープの痕が紫色に変色している。またカテーテル挿入部には、しこりと痛み。無残な姿だが、まあこんなもので済んで良かったと思う。 昨夜眠れなかったXさんは、ストレッチャーに乗せられて手術室へ向かった。傍にはピッタリと奥様が付き添う。一方窓際のベテラン患者YさんとZさんは雑談に花を咲かす。夏はこの病院が花火大会の最大の観覧席になる由。だがZさんは1度も観たことがないと言う。発作で入院するのは、寒さの厳しい冬と言うのがその理由。心臓病の特徴をまた1つ学んだ。<続く>
2012.02.18
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≪ 空白の時間と天使 ≫ 11時45分、ストレッチャーが病室を出た。1階のエレベーターホールへ降りた時、「Aさん頑張って~!!」と言う声がした。看護師のHさんに確かめると、声の主はやはりW主任とのこと。私はHさんからWさんが長く手術室に勤めて現在主任であることや、2人のお子さんがいることも聞いていた。あの横柄なW主任が、手術室に向かう私にエールを送ったのだ。私も寝た切りのまま右手を振った。 12時15分、検査室で注射を打たれる。局所麻酔と聞いていたので手術中も意識はあるのだと思っていた。ところがそれ以降の記憶が全く無い。きっと予め病室で飲んだ薬との相乗作用なのだろう。精神安定剤と聞いていたが、ひょっとしてあれは手術前の異常な興奮を抑えるためと、前夜眠っていないことを考慮しての、強い睡眠薬だったのかも知れない。 私が受ける手術は2時間ほどかかると聞いていた。だとすると12時半ごろには手術に入り、午後の2時半頃には終了したはず。気がついた時、私は4人部屋に寝ていた。ようやく「いびき男」から解放されたわけだ。だが薬の影響か、まだ暫くの間意識はもうろうとしていた。留守中に荷物が移動していたが、財布のことが気がかりだった。引き出しに入れたのは良いが、鍵も一緒だったからだ。 妻が病室にいたのは分かった。彼女が来院した際執刀医には会えず、翌日の8時にもう一度来るよう言われたようだ。私は妻の手を握り、彼女は家に帰って行った。ホームヘルパーとしての仕事を持つ妻は、なかなか自由な時間を作るのが困難。だから入院の準備も私が1人で行い、手術室へも1人で向かった。もし手術中に事故が生じても、最悪の場合妻が立ち会えないことを覚悟していた。 私の口と鼻は、簡便な酸素マスクで覆われていた。準夜勤務の看護師Hさんの話では、手術中に呼吸が浅くなったための措置とか。感染を防ぐための抗生物質点滴液が腕に刺されている。術後10時間ほどは寝がえりも打てない絶対安静だそうだ。このため尿道には排尿のための管。これはまるでロボットではないか。 1時間毎の体温測定と血圧測定の都度目が覚める。胸の長時間心電図装置は術後の鼓動の変化を逐一記録中。この日初めての食事を摂ったのは多分18時30分以降のはず。手術の4時間後と決まっているからだ。もちろん寝たままの食事。小さなお握り2個を自分の手で食べる。横になったままなのに、良く喉を通るものだ。 スープは彼女が1口ずつ飲ませてくれた。メインのおかずは珍しく肉みたいで、それもカツのような味と感触だった。「悪いですね」と言うと、「看護師ですから」と彼女。食後は歯を掃除して再び眠った。ナースコールしたのは3日目の深夜0時15分頃。長時間我慢していたのだが、どうしても耐え切れず姿勢を変えたくなったのだ。 Hさんが何か堅いものを背中に差し込んだ。朝になってみたら、それは寝がえりを助ける角度のついたボードだった。疲労の絶頂にあったHさんを深夜病室に呼んだが、どこか不機嫌そうな雰囲気を感じた。それでも身動きの出来ない私にとって、彼女は天使そのもの。あんな風にスプーンで食べさせてもらったのは、記憶のない赤ん坊時代以来ではないか。ありがとうねHさん。<続く>
2012.02.17
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≪ ああ不整脈 ≫ 昨年の5月末にK内科で指摘された私の不整脈だが、その端緒は4年前の健康診断時ではなかったかと思う。その年、私は7月半ばから10月半ばまでかなり激しい肉体労働をやった。ビルの解体作業に先立ち、機密文書を全て裁断する仕事だった。1個30kgもある段ボール箱を大型の裁断機まで持ち上げ、中の資料を裁断するのがその内容。 クリップ、輪ゴム、ファイル、プラスチックや金属部分などの不用品を、丹念に資料から取り除きながらの面倒な作業。汗が流れっ放しの猛暑、物凄い重量、粉じん、騒音、時々室内に紛れ込む排気ガス。そんな室内での長時間残業。補助者が良くさぼる人だったため、パートの私に大きな負担がかかった。私の責任感がそうさせたのだろうけど。 ビルを解体する日が迫っているため、残業に次ぐ残業。あの重労働が私を疲労困憊状態に陥れた。そんな中で8月初旬に参加した「薬莱山とお足マラニック」では、ランの途中に体調に異変が生じ、ゴール後の温泉では深刻な痙攣に襲われた。8月末の「立山登山マラニック」も同じような体調で臨み、難関の八郎坂で20回ほどふらつき、うち8回は山道に倒れた。今考えれば自分への過信があったと言わざるを得ない。 あの無理が心臓を傷めるきっかけになったと思う。その年の健康診断で心電図を撮ったが、明確な異常は出なかった。ただ、医師が「どうもおかしいな」と首をひねっていたのを覚えている。問題は昨年の大震災後だ。妻の異常な不安が私の精神状態にも影響した。正確に言えばかなり強いストレスが私の心臓に衝撃を与えた。 さて不整脈にも色々あるようで、ほとんど症状が出ない軽いものから、不整脈が持続し常に心臓がバクバク状態のものまで「ピンキリ」だ。私の場合は薬では不整脈を抑えることが出来ず、却って強い副作用が出た。このためドイツで最新の技術を習得した医師がいる専門病院での手術を勧められた訳だ。 正常な脈拍時とは異なる「異常な信号」が不整脈の原因で、この信号の回数が多いほど心臓に負担をかける。私の場合は就寝中も動悸が激しいことがあった。こうなると心臓は休めないために、強い疲労感を残す。これを解決するためには「異常な信号」を発信する個所を突きとめ、高電圧で焼き切る「高周波カテーテルアブレーション(心筋焼灼術)」を行うのが今回の手術だ。 ただ手術が1度で終わるとは限らない。異常な信号が2か所から出ていれば2度の手術、3か所あれば3回の手術を要する。20~40%の人が、複数回の手術を受けるのが実態のようだ。また「手術に伴う合併症」が出る危険性もあり、患者は医師から事前に説明を受け、同意書に署名する「決まり」になっている。 私には医療事故に伴う裁判に備えての「抜け道」のようにも感じた。可能性のある合併症として心筋梗塞など重篤な疾病が15種ほど示されているが、患者は全面的に医師に身を委ねるしかない弱い立場。ここまで来て署名を拒むのは困難だ。手術室に向かうため薬を2錠飲み、ストレッチャー(寝台車)に身を横たえる。きっと今夜は長い夜になるのだろう。<続く>
2012.02.16
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≪ 眠れない夜、そして手術へ ≫ 電話の帰りに売店に寄った。夕食の量では足らないためパンでも買おうと思ったのだが、既に閉まって誰もいない。仕方なく部屋に戻って読書。夜勤看護師のSさんが血圧測定に来る。1度目は上が144、下が113で脈拍は82。まだ興奮が治まってないようだ。2度目の測定では、上が132で下が107、脈拍は93だった。 同室者のいびきは相変わらず凄い。血圧測定後は本格的な睡眠に入ったようだ。椅子に座って司馬遼太郎の「ある運命について」を読む。短編小説や評論みたいな文章もあるが、これは基本的にエッセイ集なのだろう。司馬の人間に対する洞察は鋭くて的確。相当人物への関心が深いみたいだ。その時代に生きた人の特性や風土の違いにも観察が及ぶ。この本は10日間ほどかかったが、とうとう読了した。 20時45分に疲労を感じて就寝するも、23時45分には目が覚めた。入院第2日目の2月8日(水)0時10分、S看護師が点滴液の交換に来た。いびきがうるさくて眠れないことを訴える。日中私が恐れていたのはこのことだった。本来なら手術に備えて十分な睡眠が必要なのに、眠れない苦痛。点滴の器具を引きづりながらトイレに向かう。 眠れないまま、今回の入院記をどう書くか考える。そのうちに再び眠り、3時03分に目覚めてトイレへ。4時頃3度目のまどろみに入り、5時58分館内放送で目覚めた。合わせて5時間ほどのきわめて浅い眠りだった。体重は66.6kg。血圧は1回目が158/109/脈拍数65。2回目が151/109/脈拍数75。依然として高いのは睡眠不足のせいもあるだろう。 一方、同室者はこの後も眠り続け、結局日中と合わせて10時間は眠ったと思う。「う~む、寝る子は育つ」か。トイレから戻ると、窓の外には小雪が舞っていた。S看護師による体温測定では36.1度。8時半から検査があるためこれ以降は水を飲まないよう注意された。経食道心エコー検査時に、誤嚥の原因になるためのようだ。もちろん朝食はない。 8時40分検査室へ移動。検査に先立ち、ゼリー状の麻酔液を飲む。ドロリとした喉の感触が気持ち悪く、味も良くない。それを小分けにして4度ほど飲み下す。これは管を飲み込む際に、喉の異物感を和らげるのだろう。続いて麻酔スプレーをが口内に噴射される。頃合いを見て、O医師が少しずつ食道に管を挿入し始めた。 最後に「ゴックン」することを促され、それ以降は吐き気を我慢。ちょうど良い位置に管が止まり、検査の始まり。至近距離から心臓の様子を探るこの検査が終了したのは9時10分。途中に聞こえた「きれいだね」の声は、心臓内に血栓がなかったことを意味するのだろう。「予定通り手術しましょう」。O医師が私に告げた。いよいよ「まな板」に乗るのだが、順番は私が一番最後だ。 1人目の「いびき男」が手術から帰ったのが10時30分。2度目の手術のせいか、意外に早かった。心電図の波形がきれいだったと言うことは、手術が成功して不整脈が消えたことを意味する。2人目の「怖がり男」も既に検査室に入っている。日勤の看護師がHさんに変わっていた。下着を全て脱いでT字帯(ふんどし)をつけ、手術着に着替える。いよいよ本番が近付いた。<続く>
2012.02.15
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≪ 同室者 ≫ 同じような怒りを処方箋薬局でも経験したことがある。中堅どころの薬剤師が、やはり人を馬鹿にしたような口調で応答したことがあった。怒りがこみ上げ、「普通の言葉で話してくれ」と言ったら、彼女は私の剣幕に驚いて謝った。そんなことを指摘されたことが無かったのだろう。私は一連の内容を葉書に記し、薬局の本部へ送付した。あの薬剤師も今回の看護師も中堅職員。プロフェッショナルな職業柄、つい本音が出たのだろう。 怒りの対象であるその看護師に、下腹部を曝す。明日の手術に備えての剃毛で、私は初めての経験だった。職業とは言え、剃る方のW看護師にとっても嫌な気分だと思う。だが右肩と右の鼠径部(股の付け根)の2か所からカテーテルを心臓まで差し込み、不整脈の根源を焼き切る手術のため、治療上欠かせない「儀式」なのだ。 次いで胸に「長時間心電図装置」を取りつけ、腕にはヘパリンナトリウムの点滴。これは血栓が生じないよう血液をサラサラにする薬みたい。それらが終わったころ師長が挨拶に来た。これは珍しい。まるで旅館の女将と驚いていたら、彼女は同室者にお礼を述べた。どうやらお菓子などをナースステーションに届けたみたいだ。ははあ、だから私への対応とは違っていたのかと納得。でも私は金品を届ける気持ちは毛頭ない。そんなことで態度を変える方がおかしいのだ。 さらに師長は言う。「急患が入ったため病室が塞がってしまって済みません」。この部屋は本来「処置室」の由。それで電話はあってもロッカーがなかった訳だ。私は窓際の使用していない暖房装置の上に、必要な荷物を広げた。ロッカーがないのだから、これで許してもらおう。やがて室内に物凄い音。同室者がベッドに横たわるなり眠り始めたのだ。 轟音は彼が放ついびき。何せ巨体なので音も強烈。さっきまでIフォーンの画面を眺めていた彼が、今はまるで猛獣に変身している。彼が不整脈の2度目の手術であることは、先月の外来時に知った。だから何もかも慣れていて、手術前日の緊張もないのだろう。だが私は何故か嫌な予感がしていた。 向かいの病室からは「手術が不安だ」とか「タバコが吸いたい」と声が聞こえる。この人も同じ不整脈で明日は2番目の手術。いびきの主がトップバッターで、私が最後と決まった。手術に備え指輪を外して財布に入れた。手術では高電圧で患部を焼き切るため、金属を身に着けないよう申し渡されていた。準備が一段落した後は極力読書に没頭。 窓の外にはT大の医学部が見える。私が勤務した50年前は附属病院の本館も含め、ドイツのゲッチンゲン大学医学部の建物を模した明治時代の木造建築だった。先日亡くなった作家の北杜夫もそこで学んだ。それが立派な高層建築群に変わっている。その奥にはかつて精神神経科の「独房」があり、さらに私達が学んだ高校があった。今はそれらの全てが消え去り、まるで新しい街になっている。 夕食のメニューはカレイの煮物、野菜の煮物、白菜のお浸し、そしてアラメ(海藻)の味噌汁。どれも薄味で、ご飯はいつもの半分ほどの量。6時半ごろ自宅に電話し、妻に明日の手術の順番を教える。最初に「俺だけど」と告げたら、妻は「オレオレ詐欺」と間違え、「どなた様ですか?」と聞いた。子供の声は絶対忘れないのに、自分の夫の声を簡単に忘れるものだろうか。<続く>
2012.02.14
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≪ 怒り ≫ 9階の「病室」に案内された私は、あることをきっかけに怒りがムラムラと湧き上がった。昼間病院の食堂で食べた「和定食」の内容があまりにも貧弱だったからでもないし、室内が汚れていたからでもない。怒りの対象は私をこの部屋に導いた看護師の態度だった。入院初日、翌日に早速手術を受ける患者の不安を全く考えていない彼女の姿勢。 その前に先ず驚いたのは、この「病室」にはロッカーがないことだった。着て来たジャンバーは仕方なく床に紙袋を敷いて、その上に載せた。洗面具や筆記用具は取り敢えずテレビの台のすき間に入れた。財布は小さな引き出しにしまい、鍵をかけた。持参した果物はテレビ台の下の狭い空間に無理して突っ込んだ。だが脱いだズボン、シャツ、帽子、マフラーを置く場所がない。仕方なくスポーツバッグの中に押し込んだ。 そこまではまだ我慢が出来た。だがW看護師の言葉遣いに私は思わずかっとなった。年長者に対するものではなく、まるで認知症の老人に対するような口ぶり。確かに彼女は看護師と言うプロで、毎日大勢の患者を相手にしている。今日入院して来た爺さんはパートの警備員。そんな態度が言葉の端々に見え隠れしていた。だが、同室のもう1人の入院患者に対する言葉遣いは、まるで違うのだ。 渡された資料は今後の治療計画や予定表など厖大なもの。中には6ページにも及ぶ「問診票」もあった。これがまた面倒な項目が多い。子供の住まいや自分の宗教などが本当に必要な情報なのか。それに外来時に記入した項目を、再度書かされる。W看護師は入院当日、つまりこの日の予定を矢継ぎ早に説明した。それは良いのだが、患者としては何を優先させたら良いのかが分からない。 何とか書き終えて血圧測定した時には最高血圧が160、最低血圧が120ほどに上がっていた。「ずいぶん高いですね」彼女が言う。「そうだね、相当頭に来たからね」私は開き直って答えた。翌日の手術に備えて入浴しておく必要があるのだが、その時間が迫っている。「入院案内」の持参品には、「洗面具」とはあったが、せっけんやシャンプーのことは書かれてなかった。仕方なくお湯を被り、タオルでゴシゴシ擦った。 狭い浴室には、老人の患者と若い看護師もいた。自分では洗えない人を手伝っていたのだと思う。手術を終えた患者の腕には紫色のあざ。血管に注射した際の失敗だと、その人が言う。W看護師の態度が少し変わったのは、私が入浴から戻って以降。私は問診票の「どんな診療を望むか」の項目に、「誠実で謙虚な医療」と書いた。また「前職」の欄には、41年間勤めた仕事と地位を書いた。きっとそれを読んだのだと思う。 尋ねられた「病院への希望」に対しては、「良心に基づいた医療を望む」と答えた。まさか見栄えのしない爺さんから、そのような答えが返って来るとは思ってもみなかったのだろう。プロが自分の職業や地位に誇りを持つのは良い。ただ、どんな人にも同じように誇りがあることを、狭い世界に住んでいると気づかなくなるのだ。<続く>
2012.02.13
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≪ プロローグ ≫ 今回の入院の話をこんなことから書き始めて良いのかどうか分からないが、私は今大いなる感動と若干の責任を感じていることを先ず記しておきたい。私のブログは1枚の写真もない味気ないもの。それも連日4千文字を超える長文だ。おまけに私はブログ友のコメント欄にも滅多に書き込みをしていない。つまり誤解を恐れずに言えば、私自身にとっては文章を書いて公表することが目的で、ブログを通じて「積極的に」友人を得ようとは考えていないのだ。 「楽天ブログ」では、最近様々な機能を捨て去った。このため誰が私のブログを訪れてくれたのかの手掛かりがなくなった。多分「足あと機能」がなくなったことで、「自動巡回システム」も消えたはず。そうなると日々のカウント数は「純粋に私の文章を読みに来られた方」に限られたとも言えるだろう。 若干のブログ友達の他に訪ねて来て下さるのは、所属走友会の仲間か、ウルトラマラソン仲間の宮城UMC所属の方か、全国の走友だと思うのだが、今回の入院中には私が日記を書けないことを分かっていながら、毎日何十人もの人が訪れてくれていた。それだけは日毎のカウンターで分かるのだ。空白の日記を観に、果たして毎日何十人もの人がわざわざ来てくれるものだろうか。 自分勝手な想像になると思うが、ひょっとしてこれは私の健康状態を心配してのことかとも思う。そう考えると感謝以外の何物でもないし、それだけに自分の書く内容にはより責任を持たないといけないと感じる。たとえ無味乾燥のブログであっても、出来る限り心を込めた文章を目指す気持ちがさらに強まった。 書き手としては、日々どのようなテーマを選び、自分の能力の範囲でどう表現するか。それが一番の苦しみであり、少しでも納得出来た場合は密かに喜んでいるのが実態だ。今回のテーマは私個人の病気というプライベートなものであり、それをどこまで赤裸々に書けるか、また読者の役に立つ情報を提供出来るか、そして読者に最後まで飽きずに読んでもらえるかがポイントになると思う。 ドクターの指示によって、後1カ月は走れない。このため日常の労働、散歩、通勤などで体を動かすしかないが、その余ったエネルギーをこの「日記」に全てぶつけてみようとも思う。かなり長文になる可能性があるが、できれば最後までお付き合いいただければ嬉しい。また専門家ではないため、ひょっとして医学的に間違ったことを書く可能性がある。そのことを連載の最初にお断りしておきたい。<続く>
2012.02.12
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皆さん今日は~!!2月7日(火)の午後に入院し、予定通りその翌日に不整脈の手術を受けました。この間のことは麻酔が効いてたため全く覚えてないのですが、無事手術は成功したようです。その後の経過も順調で、お陰様で本日2月11日(土)の午前中に退院できました。 留守中にたくさんの励ましをいただきました。また心配して毎日のように探訪下さった方も大勢おられたようで、こころから感謝申し上げます。今回の手術は成功しましたが、私が受けた手術は2割から4割の方が再手術を受ける可能性があるようで、まだ油断が出来ないのです。いつもは無鉄砲な私も、暫くは慎重に行動したいと思っている次第です。 今回は4泊5日の短期間でしたが、何かの参考になればと思い、入院時の記録を書き記したいと考えています。今後ともどうぞよろしくお付き合いいただければ幸いです。先ずは心からの感謝を込めて、退院のご挨拶まで。
2012.02.11
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入院の準備は全て整った。昨夜から雪ではなく雨になった。それだけ気温が高いのだろう。夕刻、さる電気屋から荷物が届いた。妻が先日購入したパン焼き機が不調で、2度とも上手に焼けないことをメーカーに伝えると、改めて新品のものを届けてくれたのだ。粉をこねる小さな「羽根」は、結局焼いたパンの中に食い込んでいたようだ。 今朝もいつもの時間に目が覚めた。きっと体内時計がちゃんと作動しているのだろう。電気とテレビを点けて布団の中で聞きながら、再び眠った。起きた時は6時過ぎで、外はすっかり明るくなっていた。まだまだ寒いけど、着実に春は近づいているように思う。裏庭には小さなフキノトウが5個、顔を出している。 雨の中を愛犬と散歩。いつもなら凍てついた道を注意しながら歩くのだが、今朝はその心配もない。この雨で、かなりの雪が融けるだろう。だが、今夜から再び寒気団が南下するらしい。帰宅して妻と一緒の朝食。いつもは出勤の早い私1人で食べるのだが。朝から連続ドラマ「カーネーション」を観、新聞も残らず読めた。 病院から渡された「入院手続き」を最終チェック。明日の手術に備えて、いつも飲む「ワーファリン」は今朝は服用を中止する。これは血液をサラサラにする薬だが、明日は出血が直ぐに止まった方が良いからだ。薬を止めてそんなに急に効果が現れるのか分からないが、ともかくそれが執刀医の指示なのだ。 全ての準備を終えて、自室でパソコンを開く。走友T田さんからは励ましのメール。人に隠れての好意は誰しも真似が出来るものではない。暖かい心の持ち主であるT田さんならではのもの。来週の土曜日には宮城UMCの新年会が開催されるが、無事手術が成功して退院したら、「ハグ」してくれるそうだ。お掃除の婆ちゃんのハグ話も嬉しかったが、男同士のハグも案外良いものだ。 「じゃあ、行ってくるからね」。そう玄関から呼びかけて、妻は仕事へ出かけた。ホームヘルパーと言う職業のため、なかなか時間が自由にならない妻。その妻とも朝食後にしっかりと握手した。明日の手術時間が不明だが、妻が来院出来るのは午後の3時頃になってから。その事情は、今日入院したら看護師とドクターに伝える積り。 私のブログへは、昨夜もたくさんの方から励ましのメッセージが書き込まれていた。皆さん、本当にありがとうございます。大した手術でもないし、こちらは4泊5日の短期で帰宅出来る楽な患者の身。3冊持った本も、多分読みかけの1冊しか読めないようにも思う。そして無事帰宅したら、またブログを再開したい。 「入院日記」を書くために、筆記用具もバッグに入れた。読みたくもない、知りたくもないことだろうけど、ひょっとして誰かのために役立つかも知れないと思ってのこと。妻との日常、体調の不良や自らの老化など、ブログには相応しくないテーマだろうが、私は敢えてそのことを書きたいと思う。なぜなら人生には必ず最後があるからだ。 死に向かう不安や孤独や哀しみなど。それは誰もが必ずいつかは遭遇するもの。今から折にふれてその準備をしておけば、いざという時にさほど困らないのではないか。人生には覚悟が必要。それを妻や子供に話すことはないが、じっくり自分の胸の中で考えるのも悪くはない。折角入院という機会を与えられた今回は、病院とはどんなところかしっかり観察したいと思う。 皆さんご機嫌よう。再びこの場でお会い出来る日までさようなら。では行って来ますね~!!
2012.02.07
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昨日、新年会へ行く前に畑の白菜を採った。雪に埋もれ、連日の低温に表面が凍った葉はちぎって捨てた。次に大根を抜こうとしたら畑の土が凍っていてダメ。仕方なく大小2本のスコップを持参。小さい方のスコップで掘ろうとしたら、曲がってしまうほど堅い。大きなスコップで必死に掘り、何とか引き出せた。 これだけ雪が被さり、土が凍った畑は初めてだ。1本目は小さ過ぎたため、2本目を掘る。こちらはまあまあのサイズだった。いつもと違って土の上じゃなく、地中に延びる種類だったから凍らずに済んだが、そうでなければ中まですっかり凍っていたはず。野菜が高い今年の冬は、我が家の貧しい野菜も結構貴重な存在だ。 今日は入院前の最後の勤務。第1現場では同じ病院で手術したことのある運転手さんに話を聞いた。病室内は上着が不要なほど暖かいこと。テレビを観るためカードを買うが、暇なため結構お金がかかったこと。手術と麻酔の方法など参考になった。やはりテレビは観ずに本を読むことにした。引き継ぎ簿には代行してくれる方へのメッセージを記し、管理会社の職員に挨拶して退去。 清掃担当者の休憩室に顔を出し、明日から入院する旨挨拶。「無事退院したら誰もいないところで抱きしめてやるからね」。72歳のお婆ちゃんが皆の前で宣言。「嬉しいね。それを励みにして手術台に上るよ」と私。可愛くてとても機知に富んだこの婆ちゃんは大好きな人。そんなことを堂々と言う人は他にいない。ご主人も心臓の手術をした経験があるため、きっと手術前の患者の心境が良く分かるのだと思う。 第2現場へ行くと、責任者から思いがけないものを手渡された。何と7名の同僚からの見舞金だった。「そんなことをしなくても良いんだよ」と言いつつも、有難く皆の好意をいただくことにした。掃除の仕事をしている小母さん達には、経済的に恵まれた人はほとんどいない。1人にすればわずかな金額かも知れないが、現場の意見を取りまとめてくれた女性責任者の気持ちが嬉しかった。 帰宅して昼食を済ませ、自室でパソコンを開いてビックリ。何と大勢の人が私の入院に関して、昨夜のうちにメッセージを残していてくれたのだ。ネットの世界だから実際に会ったことのある人は少ない。それでも心配して書き込んでくれた気持ちがありがたく、嬉しい。明日からいよいよ入院。メモをチェックしながら、持参すべきものをスポーツバッグに詰めている。昨夜は何故か夜中の2時半から目が覚めていたが、今夜は安心して眠ろうと思う。
2012.02.06
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今日は所属走友会の総会&新年会の日。集合場所まで歩いて行くのですが、足元は凍って覚束ない有様。それに歩いて行ったことがないため、どれくらい時間がかかるか心配でした。そんな訳で、途中で走ったりしながら何とか時間までに着こうと頑張りました。マイクロバスが待っていました。車中には大勢の仲間達。 だけど何人かの人が遅れて来ました。先に着いた人の中でも、折角だから走って会場に向かおうとする人が出ました。足元がどうか心配でしたが、人それぞれの練習方針がありますものね。私が仲間と会うのは忘年会以来。その前から会ってない人も多いのです。 会場に着いて、部屋に集合。総会が何時から開催かちゃんと伝わっていなかったためか、最初に温泉に入りに行った人が多かったようです。ほとんどの人が集まった段階で総会の開始。昨年度の活動結果報告、会計報告に監査報告が承認。次いで平成24年度の活動方針と予算案が承認です。最後が役員の選出。今回は若手のH郷さんが事務局員に加わりました。よろしくね、H郷さん。 新年会が始まる前に急いで温泉へ。湯船から名取川と山に積った雪を観ながらの温泉は最高です。そして再び会場へ。F田会長の挨拶、そしてK山長老の乾杯の音頭で懇親会へ突入。火曜日の入院を控えた私は、極力飲まないよう注意していたのですが、やはり美味しいお酒の誘惑には勝てなかったようです。 ビールに各地の銘酒。フランス・ボルドーのワイン。注がれたものは皆飲み干しました。これではアルコールに弱い私は、たちまち酔っ払ってしまいます。宴の途中から各自の挨拶。私は火曜日から入院することを伝えました。この日、心に残ったのはEちゃんの言葉。レースに固執していると思っていた彼女が、今1人で走っている時が自分を振り返る良い機会になっているのが嬉しいとのこと。 これは意外でした。そしていろんな経験を通じてそのような心境に達したことを、私も嬉しく感じました。S村さんが私のブログを読んで、強く心に残ったことがあると話してくれたのも嬉しいことでした。誰がどんなことに関心を持っているかは分かりませんが、誰かが何かに注目していることが分かり、書く内容も決しておろそかに出来ないと感じた次第です。 S田夫妻の華麗な挑戦にも驚きです。夫婦で同じ趣味を持ち、共に前進出来たら最高ですよね。T脇さんの怪我も少々驚き。そして若手のO友さんの結婚のニュースには皆が喜びました。それぞれに事情がありますが、自分なりの目標を目指して頑張っている姿は尊く、昨年はベテラン組が駅伝大会で入賞したのも素晴らしいことでした。 私はまだ退院後の予定が立てられない状況ですが、それでもランニングを頑張ろうと思っています。5月の「仙台国際ハーフマラソン」には、かなりの会員が参加する予定のようなので、取り敢えずそれに照準を合わせようと思います。すっかり酔っ払って帰宅しましたが、その後は愛犬との散歩、夕食の準備、風呂の掃除と、いつものように頑張った私です。
2012.02.05
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節分の夜は太巻きずしを食べた。そして、殻つきピーナツは妻が播いた。玄関に播いた豆は、愛犬がバリバリと殻ごと食べた。私は薄い焼酎の水割りで酔っ払った。その顔を観て妻が言う。「すっかり爺さんの顔になったね」と。「そらそうだ。男は婆さんの顔にはならないよ」。私は答えた。週末の金曜日は疲れがドッと出て、僅かの酒にも酔っ払う。それもまた良し。 今朝の気温が何度だったのか知らない。でも窓ガラスが凍結していたため、マイナス4度にはなっていたと思う。ゆっくり起きて愛犬と散歩。道路は凍って危険。いつもの散歩道も、大部分の雪が融けないままだった。帰宅して朝食の準備。朝も残った太巻き寿司を食べた。妻はその材料でちらしずしを作った。朝食後に新聞を読んでから玄関を掃き、自室と2階のトイレを掃除する。 今日は観たい映画があった。前回予告編を観た「日本列島いきものたちの物語」だ。中村征夫など動物や自然が専門の写真家達が撮った作品で、ナレーターは黒木瞳、ゴリ、長澤まさみなど。妻に話したら、案の定興味がなさそうなので1人で行った。雪道をマウンテンバイクで慎重に進む。だが、途中で財布を忘れたことに気づき、一旦引き返す。 妻に頼まれた買い物を最初に済ました。駅前のスーパーでリンゴを2袋。今季リンゴは品薄のようだ。それからショッピングモールで昼食。頼んだのは讃岐うどんの大盛りと天ぷら2種、いなりずし、お握りを各1個。時間の調整はバッチリで、チケットを買って指定のシアターへ行くとちょうど入場開始。今日が初日の映画だが、ホール内は案外閑散としていた。 登場する動物は知床半島のヒグマ。北海道ではその他にキタキツネ、襟裳岬のアザラシ、タンチョウヅル。本州では青森県下北半島のニホンザル。これは最北端のサルだ。他に六甲山のイノシシも。小笠原のマッコウクジラ、屋久島のニホンザルとニホンシカ、沖縄のサンゴ礁と色鮮やかなクマノミ。普段見ない動物の姿も珍しいが、日本列島の自然の見事さに目を見張る。 成長する子供を追っ払うヒグマのお母さん。雪の中で命を落とす本州最北のニホンザル。どちらも厳しい姿を見せつけられた。小笠原諸島の映像は居眠りしていて観損じたが、幕末にはこの周辺までアメリカの捕鯨船が来ており、明治になってから日本に帰化したアメリカ人の子孫が今でも住んでいることは知っていた。世界自然遺産に指定されてから、さらに人気は高まったようだ。 屋久島の厳しい自然にも驚いた。台風の時期には鉄砲水が激流となって沢を下り、犠牲になるニホンザルもいる。ここでは個体数が多いため、ボスの地位を巡っての争いが激しいようだ。プロの写真家が撮った映像は、やはり見応えがあって感動した。帰路古本屋に立ち寄り、吉村昭の小説(歴史もの、ドキュメントなど)を3冊購入。さて、来週病院にはどの本を持参しようか。 帰宅すると妻が待ち構えていた。住宅メーカーが来てリフォームを勧められた由。一つはソーラーシステムで、もう一つはオール電化。後何年生きられるか分からないが、何百万円かけて「元」が取れるかどうか。オール電化くらいならまだ何とかなるだろうが、正確な費用は見積もりを取らないとダメと答えた。 その後、私が抱いた疑問点をメーカーの担当者に電話で質(ただ)す。事前調査を兼ねた来宅は、私の退院後にしてもらった。妻も長年の夢が叶いそうで上機嫌だが、オール電化の方が「かかあでんか」よりはマシかもね。こうして立春の一日が終わった。
2012.02.04
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2月に入って、プロ野球各球団のキャンプが一斉に始まった。我が東北楽天のキャンプ地は今年も沖縄の久米島。今シーズンのキャッチフレーズは「ともに前へ」。選手もファンも一緒になって、大震災からの復興を目指そうとする気持ちが伝わる。早速「アーリーワーク」と言って、夜明け前からトレーニングを開始しているようだ。 だが少々心配な点は、久米島でのキャンプが2週間で終わること。その後キャンプ地を変えるようでもなさそうなので、他チームと練習試合を重ねる積りなのだろう。昨年はリーグ5位に終わり、選手達も満足出来なかったと思う。強力な補強はされてないが、岩隈の抜けた体制でも十分力を発揮してほしいと願っている。 田中マー君はタレントの里田まいさんとの婚約を発表した。今年は球団を引っ張るエースとして活躍するだろう。3月までには結婚するようだが、結婚を機会にさらなる飛躍を遂げて欲しい。星野監督も就任2年目の今年は黙っていないだろう。徹底的に選手を鍛えて、「鬼監督」と嫌われるくらいになって欲しいと思う。 さて今日2月3日は節分だから、明日は立春になる。今朝の最低気温はマイナス7度より下だったと妻が話していたが、確認はしていない。この朝、予定通り早番勤務の引き継ぎを行った。来週の入院に備えてのことだ。約1時間で6年間に気づいたことを伝授した。多少まだ心配な点はあるが、何とか業務を代行して欲しいと思う。よろしくね、Sさん。 第2現場では今日も雪かきをやった。そして来週の火曜日に入院することも仲間に伝えた。昨日の大雪がどうなっているか心配だったが、積雪が多いと思われるいつもの山道を避け、今日は1年ぶりに街中を走って帰った。やはり心配した通りで、すっかり乾いている道路はほんのわずかで、融けてビショビショになっている個所、ツルツル滑る日蔭など様々だった。それでも何とか無事帰宅。これが入院前の最後の帰宅ランになると思う。 午後からは日が差して来た。空が明るいのも久しぶりのこと。明日からは気温が上がるようだ。暦通り、少しずつ春が近づいてくれると嬉しい。台所には「太巻きずし」の材料が並んでいる。殻つきピーナッツも買ってある。今夜は豆まきをすることになりそうだ。病院ではテレビも点けず、のんびり過ごそうと思っているのだが、果たしてどうなるか。
2012.02.03
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強い風が吹きました。昨夜のことです。妻は風の音が気になって、あまり良く眠れなかったようです。今朝は雪が降り出しました。これでは走って帰るのは無理。そう判断して、今日は確定申告に行くことにしました。本来はもう少し後なのですが、仙台では既に始まっています。仕事の帰りに寄れば、案外楽なのです。 ところが書類が1つだけ不備でした。妻の「源泉徴収票」です。前から準備して欲しいと頼んでいたのに、「まだ来てない」の一点張り。例年だと妻の職場からは12月の末に届き、私の職場からは1月末に渡されます。そのことを話しても、「記憶にない」と言い張る妻に、「それなら職場に聞いて」と私。 職場に確認したら、「既に渡してある」と言われたそうです。もう一度探したら、当然ですがちゃんと出て来ました。これで勇躍会場へ。思ったほど人が来てないのは大雪のせいかも。やはり「作戦」は成功でした。待っている間に3個のお握りをペロリ。私はどんなところでも食べられます。順番が来て書類のチェックから始まります。 「医療費控除」は私と妻の分に分け、さらに月別に集計していたため、内容も調べずに「合格」。これにはビックリでした。今回は会社で「年末調整」をしなかったため、各種保険の控除も行います。と言っても、収入は年金と僅かの給与所得だけなので至極簡単。全部で20分ほどで済みました。今回も若干の「還付金」があったのが嬉しかったです。 帰宅すると、妻がパンを焼いてました。今回はイースト菌も新しいので上手く出来そう。そう言っていたのに、出来上がったものは半分以下の大きさ。暫くカタログとパン焼き機を見比べていた妻が、ようやく原因が分かったようです。何と粉を練るための小さな「羽根」がないための失敗ですが、部品は確かに見た覚えがあるそうです。 「お父さん、羽根知らない?」と聞かれても、私は見たことも触ったこともありません。「源泉徴収票」と言い、「パン焼き機」と言い、妻の記憶力減退には困ったものです。何だか認知症が心配になって来ましたが、定年を延長してもう1年間働くそうです。「おいおい大丈夫なの~?」。口から出かかりましたが、家庭平和のため心の中だけに留めました。 今日は思わぬ大雪。第2現場でも雪かきをしたのですが、自宅でも13cmほど積っていたので、早速スコップを持って作業開始です。来週火曜日からの入院を前に、今日は気になっていた確定申告を済ませて一安心。明日の朝は、私の休暇中の代務者と早番勤務の引き継ぎをする予定です。これが無事終わると、後の心配は手術だけですかね。やれやれ・・。
2012.02.02
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≪ 地名の不思議 ≫ 突然ですが、次の言葉からあなたは何を思い浮かべますか? 火 木 粟 黍 箒 湯または魚 蓑 豊 総 越。これでピンと来た人は相当勘の良い人です。それならこれはどうかな? 科野 毛野 淡江 稲葉 道奥。まだ分かりませんか~?これらは全て旧国名の原型ではないかと、私は密かに考えています。 火の国 木の国 「あわ」の国 「きび」の国 「ほうき」の国 「いゆ」または「いお」の国 「みの」の国 「とよ」の国 「ふさ」の国 「こし」の国 「しなの」の国 「けぬの」の国 「あわうみ」(おうみ)の国 「いなば」の国 「みちのく」の国です。でもどこか変だと思いませんか。皆さんが知ってる名前とは少し違いますものね。 国の名前の起りは、多分上記のようなものだったのではないでしょうか。それはごく普通に見られるものの名前です。少し説明すると「火」は火山で、「越」(こし)は都から見て山を越して行く遠い国。「豊」は豊かな土地で、「総」は立派な土地かな? 淡江(おうみ)は淡水湖のことで、道奥(みちのく)は文字通り道の奥。つまり最果ての地でしょうね。 ところが奈良時代のある時、「国の名前はおめでたい意味を持つ漢字2字で統一するよう」定められます。これでは漢字1文字の国は困ります。そこで火は肥前(今の長崎、佐賀)と肥後(熊本)に分かれます。本来の意味は雲仙岳や阿蘇山のような火山がある国だったのですが。樹木が生い茂る「木の国」は無理して紀伊国に、「粟」は阿波国、「黍」(今でもキビ団子が有名)は吉備に変わった後で備前、備中、備後に別れます。人口が増えると税を取り易くするために国を分割したのです。 「箒」は伯耆国(鳥取)、「湯」または「魚」は伊予国、「蓑」は美濃国。確かに美しく変身した気がします。「豊」は豊前(ぶぜん:福岡、大分)と豊後(ぶんご:大分)に「総」は上総(かずさ)下総(しもふさ:共に千葉)、越は越前(福井:後に若狭国、加賀国が分離)、越中(富山:後に能登国が分離)、越後(新潟)に分かれて2文字表記になります。 科(しな)の木は、その樹皮を加工して布を織りました。きっと科の木がたくさん生えていた土地だったのでしょうが、信濃国に変身です。稲葉は因幡国(鳥取)へと変わりましたが何だか意味不明ですね。問題は淡江。これは2つありました。琵琶湖と浜名湖です。今は海水が入り込んでいる浜名湖も昔は淡水だったのですね。 都から近い淡水湖の国を近江(「ちかつおうみ」滋賀)、遠い方を遠江(とおつおうみ=とおとうみ静岡)と呼ぶことにしたのですが「2字」の制約から「淡」が外れてしまったのです。毛野(けぬの)は草深い原っぱの意味ですが、上野(かみつけぬの=こうづけ群馬)、下野(しもつけぬの=しもつけ栃木)とこちらも「毛」が抜けます。2つの県をつなぐJR「両毛線」の名前の由来はここ。鬼怒川(きぬがわ)も昔は「けぬがわ」と呼ばれていたようです。 最後の道奥ですが、多分お隣の日立(お日様が出る国)が常陸(ひたち)国と名前を変えたため、その奥にある国と言うことで陸奥国へと変わったのでしょう。しかし常陸が何故「ひたち」と読むのかは分かりません。ひょっとして「陸」には「立つ」の意味があるのかも知れませんね。 ついでに沖縄のことも記します。琉球は中国から見た名前です。中国は沖縄のことを「大琉球」、台湾のことを「小琉球」と呼んだこともあるのです。沖縄自身は昔から「おきなわ」と呼んでいたようです。日本の古い文献には「阿児奈波」島(あじなは)の名前があります。きっとそのころの日本人には「おきなわ」が「あじなは」と聞こえたのでしょうね。 「レキオ」は西洋人が琉球の音を聞いた表記で、「うるま」は「うるわしい土地」の意味を持つ沖縄の古語です。「果てのうるま=はてうるま」が変化したのが波照間(はてるま)島や鳩間(はとま)島です。平成の大合併で沖縄本島に「うるま市」が誕生しましたが、由緒ある名前の復活は、文化遺産の保存の点からも良いことだと思っています。
2012.02.01
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