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随分前から、西洋と東洋の融合が、精神世界ではいわれている。シュタイナーも、来るべき水瓶座時代の大事業が、東洋と西洋の叡智の融合であることを述べていたようである。 私的には、東洋と西洋の融合といえば、鈴木大拙を思い出す。 鈴木大拙については、以下のホームページが参考になるだろう。 http://tantra-yoga.org/touyousei.htm そのホームページには以下のやりとりがある。『「火に入って焼けず、水に入って溺れず」と臨済は説法でいうが、「水に入っても溺れないというのは、先生、どういうことでしょうか」と。それに対して大拙先生は何の躊躇もなく自然に、しかも単純にはっきりと「それは溺れるということだ」』 この大拙の答えが、私には、どうも腑に落ちないものだったが、シュタイナーの講義を学ぶことで、この腑に落ちない答えの意味に気づいた。 臨済宗では、以下の説法が有名だが、この説法も神秘学を学べば、意味が明らかになる。 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり」 この意味は、脳が得た分別知ではなく、魂の感覚能力を育成せよ!ということである。簡単にいえば、知識を獲得するのではなく、知識を自己教育に役立てろ、ということである。 この意味は、この世が外の世界で、あの世が内の世界であること、つまり内と外の関係から、わかる。 外に仏に出会うのでは、自分の内に仏がないことになり、だから、仏に外で出会うのは、自分が仏でない証拠なのである。だから、自分が仏なら、外で仏に出会うことはない。要するに、まだ未熟者であるから、外の仏を食べて殺す位に、自己教育、鍛錬せよということになる。 殺せという表現の意味も現代人には難しいが、外にある仏という事実を吸収しなさいということに解釈できる。瞑想や座禅では、内観なので、恐らく「殺す」というニュアンスが的確なのだろう。 また、外の死は、内の生になるわけでもある。 要するに、自分のなかにないものが、外に現れている、というわけである。 だから、人生で遭遇することは、自分のなかにないもので、それは自分にとっては必要だから、神様が遭遇する機会を与えてくれている、ということになる。 さて、問題の、水のなかに入っても溺れず、というのは、肉体にある感覚に頼るなということである。 溺れるとは、肉体が溺れることで、肉体の生命感覚に囚われるから溺れるわけである。肉体の生命感覚とは、起きているときの覚醒意識を土台にして成り立つので、脳の分別知に他ならない。 つまり、脳の分別知という悪を知ることで、その悪である分別知を克服しなさい、という意味になる。 人間は便利な頭をもち、人生を生きる上で、判断と思考を与えてくれるが、人生から学ばなければ、かえって頭は障害となる。同様に肉体も生きる上で必定だが、肉体に囚われてしまえば、生もそのまま死になってしまう。 死を超えるには、死とともにある生も超えなければならない。 だから、溺れるという感覚を掴み、その溺れるから抜け出せ!ということなのだろう。 溺れるから抜け出すには、溺れることから逃げるのではなく、溺れる感覚を掴まないといけない。溺れる経験がどうしても必要なのである。 溺れるという事実を、自分のなかに取り込んで、殺し、克服しなければいけない。 そこで説いていることは、概念や知識ではなく、経験や体験である。つまり実践や行動である。 まずは、焼かれて、溺れてみなければ何事も始まらない。 その悪しき経験を糧にして自らのなかで善導しなければ、何事も救えないのである。 被災した経験がなければ、被災者を救えないのと同じだろう。 まずは被災してみなければいけない。同情では疑似体験にすぎない。 臨済宗の態度は、あくまで真剣である。 だから、人間は皆、死を超えるために、死を経験する必要がある! 大拙も日本人の欠点として以下のように述べているが、昨今益々この欠点が甚だしくなっている。 「日本人のただ感傷性に富むこと、人に引きずられてゆくこと、自主的に物事に対する考え方をもたぬこと、理智力の十分に発達していないことなど」。 大拙と同様に、大拙を紹介している上記のホームページにも、現代の日本人の精神性の欠如を問題としている。 特に「日本人へ啓蒙すべきこと」という題で述べられている内容は秀逸である。 そこでは、現代の日本人の特徴は以下に要約されている。 「何かを決める時、好悪とか感傷性によって決めるのである。物事の善悪ではなく、感情的な好き嫌いだけ、下らない感傷性によって決めることで、それは決して物事の正鵠(せいこく)を射ることはできない。いつも的外れ、out of pointなのである。自分の幼稚さ(無明)と無能さを同時に相手に知らしめていくだけである。およそ理知的な人間はそのような事に関わらないであろう。下らない感傷性のことだからだ。」 そして、結論として以下を述べている。 「貧困し、荒廃している日本人のエスニシティーとは、父権の威厳を奪い、生命を奪う倫理観の希薄とも言えるのである。そういう大人社会が、子供を容赦なく苦しめ、不満のはけ口をふさいでいく。寂寥(せきりょう)たる子供たちの心には、埋め尽くせない風穴がぽっかりと開く。そこは決して温かくはなく、冷たい風が吹き込むところだ。そこにはごみも塵も吹きだまる。その吹きだまりは、次第に心の歪みを生む。それが結果的に犯罪の目を生起させている」 この著者は父権と述べるだけにとどまっているが、父権とは、高度な秩序性である道徳であろう。人類を滅亡から守るのは、道徳しかないだろう。現代の日本人で道徳の大切さがわかるものは少ないので、天変地異が起こって、全てが失われてみてはじめてわかるのだろう。 それは、官僚の操り人形の全く父権のない総理大臣をみればわかる。 父権は、少なくとも好悪の感情から決断するものではないだろう。日本人が好き嫌いや欲からくる自己主張をはじめてから、どうも、日本人らしくなくなってきたように思える。同時に父権が失われていった。 昔でも、「糞親父」という言葉があるぐらい、父親が嫌いな日本人は沢山いただろうが、子供から文句でも言われれば、嫌いな父の子に生まれてきたお前が悪いというのが普通だった。嫌いな感情を自分で始末しなければ、父親とは和解できない。 カルマからいえば、嫌いな父親の子に生まれるからこそ、人生の意味がある。 結婚だって、共に地獄の苦しみを味わうからこそ、結婚の意味がある。 現代では、父親が子に阿る。子は傲慢になる。社会に出てから、厳しさを知るという悪循環になってしまう。父権が奪われるわけだ! 父親というのは、やはり、夢を与えるために、身を持って、守るべき道徳を教えるものである。嫌われても叱る根気が必要である。それが父権の役割である。 礼儀作法等は家庭教育の一環だった。社会に出てからでは遅いから、家庭で祖父母が主体となって家系の伝統を受け継いだ。家系の伝統が、系図という単なる紙切れになり、品格も糞も金銭でやりとりされる成金が生まれてきた。 そして学歴などという誰でも勉強すればつく知識を有り難がり、知識量の多さを尊ぶ変な風潮が生まれた。知識とは本当は、自己教育に役立てるもので、知識をどう活用するかが問題だ。知識を克服し、捨てることに意味がある。 人間の心が理解できない獣が知識を詰め込んでも、百科事典や辞書やコンピュータ以下である。 昔は、総理大臣には少なくとも品格が求められた。自分の好き嫌いは度外視して、判断された。嫌いで憎たらしい奴でも、国民のためなら、自分が我慢して、責任ある地位に置いた。官僚たちは、憎くて嫌いな総理に付き従った。 国家が父権という精神の大切さ、天皇制の意味を重んじていた。 平和であれば、奴隷でもいいのだろうか? 安全なら、家畜でもいいのだろうか? 米国や中国に馬鹿にされても、へらへらしておべっかを使い、貢物までやる始末。内心では馬鹿にされているとも知らずに、もし逆の立場だったら、どうなのかを考えればすぐにわかる。 現代には自由意志がない。自由に対する自立心や厳格さが皆無なのである。だから父権もなくなってしまった。独立自尊の精神を失った国家は奴隷国家となるしかないだろう。 国民全体に独立機運がなければ、独立など絵に描いた餅にすぎない。
2011年08月30日
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前回まで、もし、通常、知識と呼ばれる人間の思考が、世界の事実に入って行くなら、達成すべき魂の段階的な状態(気分)について考察した。そして、「献身」と呼ばれる魂の第4の状態へと至った。 「驚き」にとらえられ、世界の事実に対する「敬虔(謙虚)さ」を学び、世界の現象との叡智に満ちた調和の中で自らを認識することを学んだ魂が、思考を通じて、更に上昇することにより、「献身」の状態として表現できる領域へと、入っていかなければ、叡智には到達できない。 この「献身」の状態には、思考の不十分さに何度でも向き合うような決意を持って、努力することで到達できる。例えば、次のように表現できる気分を、魂の中で喚起し、強化するように努める必要がある。 それはまるで、絶えず次のように自分に言い聞かせるようなものである。 「私の思考が、真実に対する知識をもたらすことを期待すべきではない。私の思考に期待できる唯一のことは、私を教育することである。」 (知識により、自己を教育しなければいけない。) 最重要なのは、この考え、つまり、「自らの思考が、自身を教育する」という考えを、自身の中で発達させることである。もし、この観点を、人生の指導原則として取り入れるなら、一見して、思考から得られる結論とは全く異なった結論へと導かれる場合が非常に多い、という事実に気がつく。 人智学徒のなかで、哲学者のカントについて徹底的に研究した人はそんなにいないだろう。徹底的に研究する必要もないが、ただここで、カントの最重要で画期的な仕事である著書「純粋理性批判」の中に見つけられる多くの証明が、問題にされている命題を肯定するためや、逆に、その命題を否定するためにも用いられる、ということに言及したい。 例えば、次のような命題を取り上げてみる。 「世界には時間的な始まりがある。」 このような命題に対して、カントは、同じページの裏側に「世界は永遠の昔から存在している。」という命題を載せる。それから、彼は、これらの命題が正反対であることを知りながら、両方の命題を証明するのに有効な証拠を集める。そして、カントは世界には始まりがあることも、ないことも同じ方法で証明する。 彼は、このような論理展開を「二律背反」と呼び、この方法により、命題が相矛盾した結論に到達するのを見て、人間の認識能力の限界を証明した。そして、もし、彼が思考によって、外界にある事実との何らかの客観的な調和に到達できれば、当然のことながら、彼は正しい魂の状態へと至る。 思考、あるいは概念に磨きをかけることで、もしくは世界の中での経験を、思考を用いて洗練すると言ってもいいが、これらによって真実に到達できる、という信仰にとらわれている限り、カントのような人物がやって来て、ある特定の命題と、その正反対の命題が両方とも問題なく証明できることを示してくれても、人間の犯す思考の間違いに気づかない。 というのも、もし、人間の思考が常に間違うというのが本当なら、人間が思考により、真実に到達することなどできるわけがないからである。 一方、もし、人間が何か決定的な判断を下すべき状況下で、思考は、事実に関して何らの結論にも導かないということを学んでいれば、つまり、もし、思考を、自身がより賢明になるための方法、言い換えれば、叡智に対する自身の自己教育の方法と見なすように忍耐強く自己教育していれば、ある命題と、その正反対の命題が証明される、ということが、真実への到達の障害になることは全くない。 何故なら、直ちに次のような事実、つまり、いくら概念を洗練させても、人間の思考は、事実の断片でさえも全く導かないという事実を用いることで、自身を自己教育する際に、その事実が、完全なる自由をもって人間が活動できる理由となる、という真実を見つけることができるからである。 (つまり、人間の思考が間違いを含むことで、人間が、その間違った思考から自由になれる、ということも意味している。だから、人間は思考を常に捨てて、事実に向き合える可能性が得られる。 勝海舟は、今日は、かく思うが、明日は、どうかわからない、と言っているが、これは横井小楠も同じことを言っていたので、海舟は、横井を誉めている。「君子豹変する」の本来の意味。) もし、人間の思考が絶えず、事実により自然に改善されたら、概念を練り上げ、思考することが、完全な自由のなかで、自己教育する方法を提供することはなかっただろう。 もう一度繰り返すと、概念を洗練させることが、効果的で独立した自己教育の方法を提供できるのは、人間の思考が、事実の干渉によって一切妨害されないからに他ならない。 (勝海舟は、「理屈は死んでいる。世間は生きている。」という格言も残している。思考に現実を当てはめようとしても無理である。思考を現実に当てはめなければいけない。人間が犯しやすい間違いは、意見を尊重し、事実を無視することである。 例えば、原発事故を起こして原発が安全でないことが判明しながらも、なお原発を続けようとする愚挙である。現実をみようとしない馬鹿であろう。もっと酷い事故が起こったらどうするのだろうか? チェルノブイリを教訓にしていたら、福島事故はなかったはずである。 思考に頼る輩は何度も同じ間違いを犯す。なぜなら、間違いを正そうとせずに、自己教育を怠るからである。すると、魂はどんどん退化してしまう。霊能者が霊視すると、そのような魂は角が生えるようである。だから鬼となる。)
2011年08月26日
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相変わらず、国民不在の、自分たち、利己主義ばかりの政治が続いている。このような政治家には、我欲で耳が閉ざされていて、何を言っても無駄なので、神秘学的な教訓を述べることに留める。 古の教義のなかに、厳然たる遺言というべき教えが残されている。 それは、「蒔いた種は刈り取らねばならない」というものである。 さて、多くの現代人は、宗教家でさえも、死後の世界がなく、輪廻転生など存在するわけがないと思っている。 もはや思っているというよりも、思い込んでいるというべきである。 しかし、もし、そのようなものが存在しないのならば、誰がどうみても、世の中が不公正で、不公平で、不平等で、矛盾ばかりであるということに、知らない振りをするしかあるまい。 多くの現代人は、不平を述べているが、その要因は、世の中の矛盾にある。 その矛盾を回避するために、「たまたま運が悪かっただけだ!」とか、 「そのうち、いいこともあるさ」と、他力本願になるしかない。 挙句の果てには、「どうして自分ばかりが貧乏くじをひくのだろうか」と悩みまくって、鬱病にはまることになる。 勿論、安易なカルマ論により、「それは、あなたが過去に犯してきた罪にあるのだ!」としたたかに上から目線で語ることだけは避けなくてはならない。 それでは、完全なる自己否定につながるだけだからである。 そもそも、そのような考え方、捉え方をしているのも、その本人の思い癖でもある。そのような思い癖をなくすために、そのような経験をしているわけでもある。 単純な例を挙げて申し訳ないが、もし、アニメの巨人の星の主人公、星飛雄馬が、野球などに全く興味がなく、巨人の星なんかどうでもよい人物であったなら、父親の星一徹が課す試練は、まさに虐待であり、その虐待からいかに逃げ出すかを考えていただろうし、酒ばかり飲んで暴力を振るう父に嫌気がさして、非行に走り、暴走族かなんかになっていたかもしれない。 この例はあくまで漫画の話だから、単なる喩えにすぎないが、父親との共通の目標である巨人の星が成立してこそ、星飛雄馬は、過酷な試練を受け入れ、憎き父親と特訓を重ねるわけである。 つまり、父一徹は、飛雄馬に試練を課すことに変わりはないが、その試練を、飛雄馬がどう受け取るかによるわけで、巨人の星というアニメの成立する余地がある。 父一徹は、本当はよくないのだが、野球に対する自分の未練や後悔を息子にぶつけるわけである。現代人によくみられる親馬鹿である。ぶつけられた息子の飛雄馬はたまったもんではないが、それに素直に応えることで、最後は、父親を救うことにもなる。 あくまで、この例は漫画の話だが、人生には、このような人間ドラマが確かに存在し、カルマとは、そのような関係を前世から継承していることをはっきりと証し、最後は、矛盾を解き放つものである。 共に試練を乗り越えることで、魂は関係を深め、完全なものとなっていくのは、確かである。 さて、そこで、今度は漫画ではなく、シュタイナーの著作「輪廻転生譚」から、現代人の警笛として、シュタイナーが霊視した実在の人物の輪廻転生を書いてみる。 マルクスとエンゲルス 8,9世紀の今日のフランス北東部の、当時はまだ統一国家が建設されていなかったので、比較的小さな社会のなかでの出来事である。 その地方に精力的な性格により大きな財産や土地を所有していた人物がいた。その男は、当時としては、非常に秩序だった組織的な方法で、財産と土地を管理していた。 彼は自分の目的をよく知り、冒険心に富んでいた。 彼が、後にマルクスになる人物である。 彼は自分の財産で兵士を雇い、小規模な出兵をし、様々な分捕りをした。 彼が留守の間に、彼よりは冒険家ではないが、精力的な別の人物が、彼の所領地と全財産を乗っ取った。この別の人物が、後にエンゲルスになる人物である。 当時の人々は、自分の故郷でうまくいかなければ、見知らぬ土地に移ることをしなかったので、乗っ取られた、後のマルクスである彼には身寄りがなく、後にエンゲルスとなる人物は、沢山の兵士を抱えていたので、交戦する可能性もなく、仕方なく、出兵に出た支持者たちとともに、かつての自分の土地で、農奴になった。 かつて、領主になった者が、農奴になると、特に権力に対して批判的な見解を抱くようになる。彼らは、樹木の生い茂った地方で、夜になると集まって火を焚き、領土を奪い取った者に対する陰謀を巡らした。 後にマルクスとなる彼は、仕事の時間以外の余生を、いかにして領土と財産を取り戻すかという計画を練ることに費やし、領土の強奪者を憎んだ。 (第三者からみれば、後にマルクスになる彼が行ってきた様々な略奪を、この人生において、いっぺんにやられただけであるが、彼は、略奪者を非常に憎んで陰謀を巡らすのである。) さて、この2人が死の扉をくぐり、死と転生の間に霊界で可能なことを全て行い19世紀に、マルクスとエンゲルスとして転生した。 (この前世から考えると、マルクスを財政面で支援したエンゲルスの前世の略奪への購いがみられる。マルクスにとっては、エンゲルスの支援は当たり前のものと感じている面もみられる。 エンゲルスは、マルクス死後の理論を受け継ぐことで、前世の財産と土地の略奪が、理論に変わっていることで購われていることがわかる。死後も、あの世から、エンゲルスを指導していたのかもしれない。 また、前世から、マルクスの理論が、略奪に対する陰謀論を元にしていることがわかる。) ペスタロッチ 紀元前1世紀の南欧に、後のペスタロッチとなる奴隷監督人がいた。古代では、奴隷制度は一般的なしきたりで、当時は、過酷なものではなく、奴隷監督人は、教養ある人間で、重要な人物だと思えば、奴隷にも学問を教えた。 奴隷たちに仕事を分配し、世話をすることを職とするのが奴隷監督人で、この人物は、非常に温和で、奴隷たちの生活を改良するために自分のできることを全て行った。 この人物には、苛酷で乱暴な上司がいた。この上司に彼は従わなければならなかったため、奴隷たちの間に怨みが生じた。 この奴隷監督人が死の扉を通過し、死と転生の間の時期に、生前に職務を通じて結ばれた人々に取り囲まれ、特に、彼の上司に強く結びついた。 当時のしきたりに従って、彼は意に反することでも上司に従わなければならなかったが、そのことと、また奴隷監督人と奴隷との関係からも、深いカルマの関連が築かれた。 9世紀に、後にペスタロッチとなる奴隷監督人は、中部ヨーロッパに女性として転生した。カルマの結びつきから、男性として生まれ変わった、かつての上司の妻になった。素晴らしい夫婦仲ではなかったが、前世の関係からカルマとして生じた夫婦関係だった。 9世紀の転生での、この上司は、住民たち同士が非常に親密な村に住んでいたが、彼は村の役人にも関わらず、下役で、皆から殴られていた。 その村の役人は全て、かつて奴隷であった人々の生まれ変わりであったことが、霊視により明らかになる。かつての上司は下役になり、かつての奴隷監督人を通して行った残虐な行為がカルマとして成就する。 彼の妻となった、かつての奴隷監督人は目立たぬ静かな生活を送りながら、彼女の夫であるかつての上司の不満にカルマの成就として苦しんだ。 しかし、カルマ全体が、成就したわけではなく、カルマの一部が成就したことがわかる。 9世紀の転生で、かつての奴隷監督人と上司のカルマの関係は、彼女が、今の夫となることで、かつての上司の残忍さを通して、心魂のなかで経験したものの均衡をとった。 かつての奴隷監督人であったこの女性は、ペスタロッチとして次に転生し、かつて奴隷であり、次に村に集まって地上生を共にした人々は、ペスタロッチに子供を預けて、教育を依頼した。 ペスタロッチに見られる慈悲と教育の熱意は、前世で2回ともにすごし、経験、体験した人々に対するカルマの成就だったのである。 (このペスタロッチの輪廻転生のなかのカルマの関連は比較的わかりやすいので、抜き書きした。特に、悪辣な上司が、次の転生では、哀れな下役になることがわかりやすい。) さて、いまの政治であるが、ダメな民主党だけをみていても、カルマの関連がすでに現れている。 小沢下ろしを第一に表明した野田が、小沢に支持を頼むところなど、節操がなさすぎである。よってたかって小沢外しをした連中が、小沢に助けを請うとは、誰がみても、あまりに虫がよすぎる話だろう。 つまり、自分のことしか頭にないことが見栄見栄なのである!! そのうち、天罰が下るので覚悟しなさい!!! 自分で蒔いた種は、自分で必ず刈り取らなければいけなくなるのですよ。 国民を苛める者は、今度は、自分が苛められることになるのですよ。
2011年08月23日
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しかし、自分を、事実との叡智に満ちた調和の中に置くことは簡単にはできず、自然になるものでもない。もし、容易に第3の状態に到達できたなら、ルシファーを通じて、現代にやってくる誘惑を経験することも、今までずっと経験してきたということもなかった。 というのも、善悪の区別とか、知識の獲得、あるいは知恵の実を食べる、といったようなことは、もっと後になってから、はじめて人間に到来するように、世界の神々の導き手たちにより計画されていたからである。 人間の堕落は、あまりに早く善悪の違いに関する知識を、自分で持とうとした点にあった。ルシファーの誘惑により、本当はもっと後に、人間に与えられるはずだった知性を早めに持ちたい、と人間が思うようになったことが重要な点である。 この重要な点から導かれる唯一可能な結果とは、人間の不完全な知識である。本来人間のために神々が意図した真の知識に対する、この人間の不完全な知識の関係は、通常の出産に対する早産の関係に似ている。 古代のグノーシス(叡智)では実際に、上記の表現が使われたが、この表現の正しさが人智学により理解できる。古代の賢者は次のように言った。 「この世への受肉を通して、人間が携えていく人間的な知識全ては、本当は早産した未熟児である。何故なら、人間は、叡智へと一歩一歩導くはずだった経験全てを体験するまで待てなかったからである。」 人間は、時間が経過するのを待つべきだった。そうすればその間に、人間は特定の魂の気分や状態を一層益々成熟したものにできたはずで、叡智が、自ずと人間に到来していたはずだからである。 人間は、今でも、この原罪を絶えず犯し続けている。何故なら、もし人間が、この原罪に対して潔白なら、様々な真理を、できるだけ早く獲得することではなく、むしろ真理の理解のためには、できるだけ自分を成長させることに関心を向けるはずだからである。 もし、次のように言ったら、現代人には、いかにも奇妙に聞こえるだろう。 「君はピタゴラスの定理を知っているね。けれども、もし、直角三角形の直角を挟む二辺の二乗の和が他の一辺の二乗に等しい、という真理の隠された意味を更に深く理解したいなら」 或いは、もう少し簡単な例を取り上げれば、次のように言う場合である。 「3の3乗が9に等しい、という真理を、完全に理解できるほど成熟するには、君の魂は、まだ様々な経験を体験しなければならない。何故ならば、数学の法則が、今日見られるような形で、現代人の前に現れるように意図した、この世界の法則(神々)と、君自身とが調和するときにだけ、君は、その真理の深さを、誤解なく完全に理解できるからである。」 現代人はただ大声で笑うだろう。 しかしまさしく、人間は今でも原罪を犯し続けている。 何故なら、現代人は、様々な知識の理解には、あらかじめ一定の経験を積む必要があるという事実を無視し、自分がいまだ到達していない段階で全てを理解できると錯覚しているからである。真理の探求には、どんなに厳密で正確な思考でも、実際問題としては、どこにも到達できない、という意識に支えられることが必須である。 以上の点に気づくことは、今話している魂の第3状態に属する。正しく判断するために人間がどんなに努力しても、何らかの間違いが常に忍び込んでくる。正しい判断は、その発見に乗り出す時ではなく、一定の成熟度に達して、その判断の方が到来するのを待つときに、つまり、正しい判断が到来するように、自身の魂を成熟させるために骨を折るときに、結果として来るものなのである。 正しい判断の方から到来する場合、判断は事実に即したものとなる。正しい判断をみつけるために闇雲に努力しても、決定的で誰もが満足のいく判断へと到達するのは期待できない。自身の持っている全注意力と思考を、自身の成熟のために傾注し、正しい判断を受け取るために十分に成熟したときに、自身に流れ込んでくる啓示から正しい判断を受け取るような形での到来を期待できる。 以上のような関連から、全く奇妙な経験をすることがある。既成の判断力を持って早合点をすれば、当然、以前述べた例のように、川に落ちて死んで引き上げられた死者は、溺れたように思う。 しかし、叡智を学び、人生の経験を積んで成熟すれば、一般的な思考の正しさなどは全く重要でなく、個々のケース毎に事実に当たらなければならず、そうすれば事実そのものが自らを明らかにし、評価を下す、という真実を知るだろう。 以上が真実であることを、人生において絶えず経験する。 1つの例を取り上げる。誰かがあなたに発言する。あなたには、その発言とは別の観点があり、その誰かの発言を、間違いに思う。しかし、その誰かの発言も、あなたの発言も両方とも間違っている可能性もある。つまり、ある観点からすれば、両方の判断が正しく、しかも両方とも間違っている可能性もある。 第3の段階にある魂にとっては、誰かが、他の誰かとは、全く異なる観点を持つという事実は、何ら決定的ではなく、何の意味もない。それは単に、各々が自分の意見という狭い尖塔の上に立っている事実に過ぎない。 一方で、叡智を学べば、常に自分の判断を保留する。自分の判断が正しいと思っていても、決して意見の対立に巻き込まれることなく、判断を保持したまま待つだろう。一歩退き、自分の意見の正しさを、いわばテストする。 代わりに、誰かが、今日意見を述べ、2ヶ月後に、正反対の意見を述べた場合、この2つの意見の対立に巻き込まれなくなる。この2つの意見のなかにある事実だけを見て、その事実のイメージを、自らの魂に作用させれば、このような意見に対し、反対する必要性を感じなくてすむ。その2つの意見が互いに矛盾し、対立するからである。 意見に対する正しい評価は、外界のなかでなされ、人間にはない。外界のなかで正しい評価がなされたとき、賢者は判断しはじめる。意見の対象自体が自ずと明らかにする評価に委ねる、という叡智がなければ、ゲーテが、どのような方法で、自然科学を研究したか、が理解できない、というのは興味深い事実である。 ゲーテは、次のような興味深い観察を行った。この観察については、著書「ゲーテの自然科学論集解説」でも読めるが、次のようなものである。 「本当に、外界の現象に関しては、人間側で、判断を下し、仮説を立てるべきではない。何故なら、現象とは、事実であり、正しい方法で、現象のイメージを受け取ることができるほどに成熟してさえいれば、現象自身が自らの考えを表明するからである。」 真の判断に至るには、部屋の片隅に座って、ああでもないこうでもないと心の中で考えながら、正しいと思われることを捻り出せるかどうかの問題ではなく、むしろ自身を成熟させることで、真の判断が、事実そのものから湧き出て、自分へと到来するかどうかの問題なのである。 人間の思考に対する関係は、対象についての判断を、思考に行わせるのではなく、むしろ、対象が、思考を通じて、自分を表現できるような道具でなければならない。 以上が、第3の魂の状態である、自分を対象との調和の中に置くという意味である。 この第3の段階が経験された後でも、思考が、自分の足で立つことは許されない。次に来るべき状態は、人間が真理に至るために達成しなくてはならない、ある意味で最高の魂の状態である。その状態は、「献身」、あるいは「信仰心」と名づけることができる。 第1の「驚き」、第2の「敬虔(謙遜)」、第3の「世界の事象との叡智に満ちた調和」、第4の世界の行く末に対する「献身」の段階を、通過しなければならないが、それらは、決して思考を見捨てるわけではなく、それらと並行して、常に思考を継続すべきである。ただ、これらの段階を経験しない思考の行き着く先は、(人間が考える)正しさであっても、(神々の与える)真実ではない。 これまで、「驚き」から、「敬虔」、「世界現象との叡智に満ちた調和」に続き、「献身」と名づけた段階に、人間の魂は上昇するところまで述べてきた。最後の第4段階については、まだ解説していないが、次から述べることにして、今回はここで終わる。 以上の段階全てを、心に留めると同時に、一方で、最初に投げかけた問いの、「人智学に反対するために、なぜ、反対者は、自分をひたすら知的に演出するのか?」についても再考する。 今回は、以上の問いをもって終わる。次回から、この問いに対する答えへと進む。
2011年08月23日
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NHKが嘘ばかり流し、虚言を偶像崇拝させるので、世の中の人々が他力本願になり、自分の魂を自分で開拓しないばかりか、眠らせたまま、誰かにやってもらう依存心ばかり増加し、ついに、死んでは、浮遊霊となり、生者に憑依して、欲望を遂げようとする悪霊が跋扈しては、益々、自然環境が破壊され、天変地異が起こってくるので、そろそろ、NHKの嘘報道を退治しなければならない時かもしれない。 バタフライ効果ならぬ、NHK虚言報道で、ゲリラ豪雨という天変地異が引き起こされている。 実際、環境の人工放射性物質濃度や放射線被曝量を上げたのは、NHKらが嘘の原発安全報道をおこなったせいである事実が挙げられる。 さて、NHKは、先日、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」というNHKの報道姿勢責任を丸投げしていた番組をやっていた。 だから、その趣旨に沿って、 是非「日本人はなぜ放射線被曝増加へと向かったのか」という番組をやるべきである。 なんでも、先日の日刊ゲンダイによると、NHKは電力会社の大量の株をもち、株主であるという。福島事故に対する隠蔽報道も、このような株主の立場を抜きにして、語ることはできないだろう。 つまり、原発安全報道は、自分たちの利益のために、事実を歪めて報道していたわけなのである。 結論からいえば、かつての太平洋戦争へと日本人を向かわせたのは、自己保身故のNHKの虚偽報道にあり、いまの放射線被曝増加へと向かわせたのも、虚偽報道にあるという責任は免れないだろう。 報道を売り物にしている報道機関が、株主の立場から、虚偽放送を行うのは、インサイダー取引きに相当するのではないのか? 天下の公共放送が聞いて呆れる。 風評被害の風評の素は、NHKの原発安全放送と、電力会社の株主の立場であろう。 株式の公正取引違反に抵触しないのか? 金融庁がなぜ問題としないのか、問題である。 昨今、報道の中立性が著しく犯されている。新聞は政府の意向に沿って書かれ、評論家は、政府の意向に従って虚言を述べる。 そして、誰もその責任をとろうとしない。 悪のマッチポンプを繰り返している。それが酷くなり、ついにはゲリラ虚言放送である。 自分たちの報道姿勢を問わずに、過去の人物だけを悪者にする。全てを死んだものになすりつける。 これでは、大本営の悪霊たちが仕返しにくるのも間近であるだろう。 悪霊にとりつかれる前に、NHKを売却して、多額の除染費用を捻出すべきだろう。
2011年08月21日
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久しぶりに早起きしたら、NHK教育の「こころの時代」という番組で、大般涅槃経の解説をやっていた。 一部正しいこともいっているが、あまりに曲解しすぎていて閉口してしまった。 唯物的思想に染まっていることを全く自覚していない解説者の愚かさに呆気にとられてしまった。 その解説者は知ったかぶりの弊害が大きいように思われる。 「八正道を実践せよ!」と言葉ではいいながら、何も実践していないことがわかる。 表題からしておかしい! 「誰でも仏陀になれる」という表題である。 確かに、誰でも仏陀になれるというのは、仏陀になった存在からすれば正しいし、仏陀になるように定められて誕生した魂の意味においては正しい。 しかし、仏陀になったわけでもないのに、今生において仏陀になることを定められて誕生したわけでもない魂が、仏陀の状態になれるというのは、明らかな嘘といわざるをえない。 仏教の経典がそんなに平易に語られては重みも修行の意味自体も何もなくなる。 この大般涅槃経は、仏陀になった魂が、仏陀になる可能性がある菩薩に語るものとなっているようであるから、魂の段階を厳密に理解して、説かなければならない。 唯物論だと、魂の段階に関する厳密さがみえないので、「誰でも」という安易な形で語ってしまう。 現に、この経典のなかで、「誰でも仏陀になれるのなら、修行の意味がないではないか?」と菩薩が、仏陀に疑問をぶつけているが、釈迦は、自分が仏陀になった経緯から、菩薩には、まだまだ、転生が必要であると説いているわけである。 唯物論に染まった解説者は、人生が物質的に一回限りという先入観を信じているので、このような魂の段階と、修行の意味が理解できないでいる。 唯物論から語る解説は、生兵法は怪我の素と言わざるを得ない。 仏陀になってもいないのに、誰でも仏陀になれるなどというのは、御利益信仰のもので、たわけたことをいうな!といわざるを得ない。 仏陀でもないのに、そんなことをいってはいけませんよ! ほんと!! 第一、仏陀の意味すらもわかってないのではないか? ある程度、修行して、霊能力を開花させた人間なら、仏陀の意味がわかるだろう。 NHK教育はとんでもない嘘塗れの報道といえる。このような顕教をやるから、密教は秘密のものとならざるを得なくなる。 厳しい修行をしたからといって、仏陀になれるものでもない。 仏陀になるように運命づけられた限りない輪廻転生を続けて耐え忍ぶしかないわけで、唯物論で勉強しても、分別知がつくだけで、何にもならないばかりか、かえって、お経の意味を浅薄にしてしまうのは非常に残念である。 かといって、お経を崇拝の道具にすることもよくない。 この大般涅槃経は、パウロの書簡と非常によく似ているばかりか、バガヴァッドギーターのクリシュナの教えにもよく似ているようにみえる。 お経だけを読んでいて知識をひけらかすのはよくない。かえって、唯物論で考えれば考えるほど分別知がついて煩悩に迷わされるばかりである。 第一、仏陀になりたい、という欲も煩悩である。誰でも仏陀になれるというのは、そのような欲を誘導するものである。 つまり、仏陀になりたいという欲こそ、仏陀には必要のない欲で、そのような欲こそ退治すべき煩悩である。 パウロ書簡のパウロは、霊言を下ろす人もいれば、霊言を解釈する人もいて、また、病気を癒す人もいて、それらの人たちが共同して働き、能力を高めることを、神は喜ぶといっているわけで、各人の魂には、各人の人生に対する働きがあり、魂に必要な能力の獲得と課題がある。それは神様により予め定められている。 そのことを、このお経は、アートマンは仏陀というような、いわゆるモノとして存在するわけではないといっているわけである。 人間全てのなかに存在する精神の本体としてあるという意味で、どの人間にもあり、どの自然のなかにもあり、宇宙のどの一部にもあるものである。 部分が全体となって、アートマンとなり、仏陀となるわけで、どの存在も欠かすことができない働きのことである。 つまり、どのような人間にも特権があるわけでないというわけで、学問に王道なしである。特権があるとすれば、他の誰でもなく自分だけの自分の人生という意味で、自分の人生は、自分で経験し、解決しなければいけないことであろう。 だから、どんな人生も修行になり、どんな苦悩も癒されるものとなり、だから、苦悩や煩悩は最終的には、仏陀の道につながるということで、苦悩や煩悩から逃げてはいけませんよと説いているわけで、自分が救われることを望むのではなく、自分で救うことを考えなさいというわけだろう。 お経を読まなくても、どんな教えにも共通の教えなので、自然と意味がわかることが、霊能力の本体である。 お経を読むのではなく、お経が、共通の教えを語るのに、耳を傾ければよいと思う。 NHK番組も、毒を流すが、毒がなければ、毒消しもないので、ある意味、功罪相半ばするといえるかもしれない。 しかし、このような偶像崇拝から依存心が膨らみ、悪魔の新興宗教団体が生まれ、悪霊がどんどん蔓延ってくるのは、非常によくない現象である。 お経だけが、言葉だけが一人歩きし、悪魔がどんどんやってくる末法の世である。
2011年08月21日
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国民無視の政治が続いている。 とある有名なブログをみていたら、以下のような記事を目にした。 江田五月法相が、15日のBS11の番組収録で、菅直人政権の支持率が低迷し続けた理由について「菅首相が(社会の)ストレスの受け手にされてしまった」と述べ、首相が正当に評価されていないとの見方を示した。 菅政権の実績についても「成果とまでいかなくても方針をしっかり示した」と評価してみせた。その一方で、昨年の参院選で首相が唐突に「消費税10%」を掲げたことについては「ちょっと肩に力が入りすぎた。そのツケは随分、大きかった」と振り返った。 首相の人柄に関しては、「人をねぎらうのが上手ではない」と指摘。首相退陣後の新体制について「民主党が新代表をきっちり政権を支える政党になっていくことが大切だ」と強調した。 江田氏は収録終了後、記者団に対し、大連立に関して「大連立もあり得るが、無原則、無限定ではなく、例えば震災復興とか、何のための大連立かをはっきりさせればいい」と話した。 以上が、この国の国民の代表とされる人間(獣?)の発言である。 クリーン政治をうたいながら、外国人から献金を受け、知らなかったと国会で嘘をつく総理大臣。 クリ-ン政治といいながら、献金灰色塗れの自民と同じ嘘つきばかりで、マニフェストすら嘘の羅列。 民主主義の基本である公約は一体何処にいったのだろうか? 民主党はマニフェストと呼んでいたが、そのマニフェストはどうなったのだろうか? 「歳出削減は、官僚たちの抵抗に遭いできませんでした。かえって官僚たちの天下りを優遇してしまいました。その挙句、原発事故などの人災を起こしてしまいました。」 「景気対策は、経済オンチなために、混迷を深めさせてしまいました。円高に右往左往するばかりで、財務大臣は、財務官僚のいいなりで、増税しか頭にありません。」 「米軍基地移転や日米外交にたいしては全く非力で無力でした。かえって中国や韓国との信頼関係を失い、米国にも愛想を尽かされてしまいました。」 「高速道路無料化や子供手当ては絵に描いた餅でした。」 「農家の個別所得保障は、思いもよらなかったばかりか、海外にいわれるままTPPに突っ走り農家を怒らせてしまいました。」 「マニフェストは政権に居座るために掲げただけで、やはりなにもできませんでした。選挙は負け続けるので、新しい国民騙しのマニフェストをつくろうと思います。」 国民を馬鹿にするのも本当にいい加減にしてほしい! マニフェストが実行できなければ責任をとるといった党首は何処へ行ったのか? 人間のクズしかいない。自己保身のためなら、平気で嘘をつき、国民を欺く。太平洋戦争の戦犯たちとどっこいどっこいだ!! 思う存分に地獄に堕ちるがいい。せっかくの修行の場を汚し、魂を清めようともせずに、かえって腐敗堕落させる連中などの発言などは、聞く耳をもたない方がよい。第一、醜悪な顔つきをみればわかる。 さて、このような獣たちは、地獄に堕ちればよいが、その巻き添えを食う国民が増加するのは問題である。 興味深い、そのブログには、以下のような一種の認識障害とも思える、症候群を挙げている。あ)自他認識障害症候群(人がやったことも自分がやったように錯覚する、知ったかぶりする)い)意味逆転化症候群(何ごとも意味を逆転して考えてしまう)う)本末転倒症候群(何でも主従が逆転して考えてしまう)え)のぼせ上がり症候群(すぐに勝ったと思いのぼせ上がる)お)いすわり症候群(年取ってもいつまでも居座りたがる)か)カメレオン症候群(自分のいる職場や立場に応じて意見がどんどん変る)き)お調子者症候群(何でもどんな意見でも賛成してしまう)く)恍惚症候群(何でも達観し、別世界を生きてしまう) 以上の症候群をまとめると、自他認識ができていないことがわかる。一種の自律神経失調症に近い。とにかく、公私混同が激しい傾向にある。 太平洋戦争の上層部に多い特徴も、この自他認識障害にある。そのブログには、続けて、日本のマスコミの錯誤を誘うような報道を挙げている。 日本人には、よく、「もし、自分がタレントの誰かだったら、どうする」というような虚言がみられる。 単純な例として、「もし、金持ちになったら、豪邸に住む。」という類のものだ。要するに、非現実的な妄想である。例えば、タレントでもないのに、タレントになった気持ちで、私なら、結婚しないで、金持ちの愛人になるというようなものである。 このような精神は、幼稚なものに多い。子供がいう分なら、かわいいとも思うが、大の大人がいうべき発言ではない。 人間は各自、自分の人生を送るために生まれたのであり、誰かの人生を送るためではない。だったら、その誰かになって生まれてこなければいけないわけで、その誰かでない自分の人生は、自分でないから、自己否定することになる。しかも、その誰かの人生の中身を正確にみたわけではない。 このような会話を続けても無意味なばかりか、虚言癖がついて、かえって、惨めになるだけなのだ! 一般庶民のなかでは、特に責任をもたされるわけではないので他愛も無いものだが、責任ある地位に就くような人物が、このような虚言を話すのは、非常に無責任で、危うい危険人物といわざるを得ない。 大連立などの虚言自体が、民主党の掲げたマニフェストが虚言の最たるものだと、自己否定しているわけである。虚言で、虚言を否定しているわけで、虚言に変わりないばかりか、虚言が一人歩きをはじめる。 すなわち、これが風評被害の実態である。 民主党は公約を少しでも果たそうと努力したのか? 否、全く努力の姿勢がみられないどころか、自民党と同じことをやりはじめた。だったら、政権交代するなよ!とほとんどの国民は思っている。騙されたと思っている。 騙したくせに居座ろうとしている。民主党という表面は何処かに消え、自民党と同じことをやる。公私混同や、自他認識障害が生じてしまうわけである。 このような人間とは思えない腐敗堕落した精神の持ち主たちは、国民に被害を被せておいて、自分たちこそ被害者だとのたまうのである。 呆れ果ててしまったよ! これでは、無間地獄に堕ちるしかない。 虚言を吐いてはいけません。特に責任ある地位の政治家が虚言を吐くようでは、この世は本当に真っ暗闇になりますよ。 もはや、政治家のいうことなど、誰が聞く耳をもつだろうか。
2011年08月17日
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しかし、「驚き」の後には、別の状態が現れるべきである。その状態とは、思考がもたらす全てに対する「尊敬」というべき状態である。 「驚き」の後に、敬虔ないしは尊敬の気分が続かなければならない。思考の領域に入ってくる理念を、「尊敬」の眼差しで見つめずに、「尊敬」とは無縁の思考は叡智には到達できない。 世の中を不注意にも、軽い足取りで、いわば踊りながら、思考を、絶対に進めるべきではない。「驚き」の気分を通過した後、宇宙に対する「尊敬」の感情の中にしっかりと根を張る必要がある。すると、叡智への本当の道が、今日科学と呼ばれている唯物論と、正面衝突する段階に到達する。 例えば、実験室で、実験装置の前に立って、物質の分析を行い、化合物を合成過程に従って合成する科学者に、次のように言ってみる。 「そのような驚きも、尊敬もない態度では、真実の探求は全く望めない。勿論、鮮やかな思考を創出し、思考を、頭の中で1つにまとめることはできるだろうが、それでは単なる上辺だけの事実に関わるだけである。 あなたは、この世界のなかの事象に、敬虔さも尊敬の気持ちもなく向かっているが、本当は、牧師が、祭壇の前で感じるのと同じ敬虔さと尊敬の感情を持って、実験装置により起こるプロセスの前に立つべきである。」 今日では、そのように言われた科学者は、何と言うだろうか? 恐らく、言った者を、あざ笑うだろう。何故なら、今日の科学の立場からいうと、尊敬が、真実や知識と関係するような事実が、理解を超えることだからである。あるいは、あざ笑わなくても、次のように言うだろう。 「実験装置により起こっているプロセスに対しては、確かに知的な情熱を感じるが、私の情熱は、個人的な関心事であってはならない。私の情熱は、真理の探究と何らかの関係を持つべきである。私のような知性を持つ人間を、洗脳などにより無理に信じ込ませることなどはできない。」 続けて、次のように言ってみる。 「事象の性質、もしくは、事象そのものに関する探求には、必ず尊敬の念を伴わなければならない。探求の対象に対する尊敬の感情を満たすことなく、思考を一歩でも先に進めるべきではない」 すると、あなたは、今日の科学者の目からみれば、単なる愚か者と確実に思われるだろう。 さてところが、ある種の「尊敬」の感情へと到達し、この「尊敬」の感情を経験した後、思考を無理に先に進めるなら、やはり無へと至り、またしても先には進めなくなる。確かに幾つかの発見があり、また、「驚き」と、「尊敬」という、叡智への2つの必須の段階を通過しているため、正しい知識を持ち、明確で、堅固に確立した多くの観点を獲得しているかもしれない。 しかし、以上の多くの観点をもっていても、まもなく不確実さの中へと不可避的に落ち込んで行くしかない。というのも、「驚き」と「尊敬」を経験した後、第3の状態が魂の中に定着する必要があるからで、この第3の気分とは、この世界の法則との叡智に満ちた調和の中に、自分を感じる状態として言い表せる。 この第3の感情には、思考の無価値さ、無意味さ、を洞察することでしか到達できない。 思考の正確さに頼ると、思考の結果を肯定すべきか、否定すべきかの問題に終わらず、以前紹介した、パンの数を正確に数えた少年と同じ間違いを犯すことを、繰り返し何度も感じ取る必要がある。 少年が自分に「僕の計算は確かに正しいが、僕は自分の、この思考の正しさに依存せずに、事実に従う。自分を、周囲の現実に調和させなければならない。」というように言い聞かせていたら、思考の正確さよりも、高次元に位置する村の習慣、すなわち、5個のパンにつきパン1個をおまけに付けるという事実を見つけていただろう。 つまり、ある問題が真実かどうかを知るには、自分自身が外界へと出て行くべきで、正確な思考などは、その代わりとして何の役にも立たない、という事実を見つけていただろう。 (人間は、外界に適応すべきで、人間の思考を外界に適応しようとすると、錯誤に陥る。つまり、理論は跡付けにすぎない。現場主義を優先すべきである。)
2011年08月17日
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御馴染みのNHKの太平洋戦争の考察である。 日刊ゲンダイには、NHKだって当時戦争賛美していたはずなのに、よくいえるよ!とあった。 タイムマシンでもあれば、当時のNHKと論戦させたいものである。 日刊ゲイダイのいいたいところは、太平洋戦争だから批判できるわけで、現在の馬鹿政権には批判できないじゃないか、というわけである。 全くその通り、ゲンダイのいうことは正しい! 福島原発事故を起こした東電上層部の失態や経産省官僚と癒着し、ヤラセまでして、原発建設を上回る金額の巨額の税金を補助金として受け取り、原発事故の責任全てを国民に丸投げしていることを少しでも報道したのだろうか? 現在のNHKだって、当時のNHKと変わりないじゃないか? 日刊ゲンダイのいうことはごもっともである。 全くどいつもこいつも、悪徳霊能者のようで、さながら映画トリックである。 「お前ら、はっきりくっきり、まるっきし、お見通しだぞーっ!」 とでもいいたい気持ちである。 太平洋戦争時の上層部の無能さは問題にするが、現在の上層部の無能さは覆い隠す。 太平洋戦争の上層部の馬鹿さは笑うが、現在の上層部の馬鹿さには押し黙る。 なんのための太平洋戦争の考察だろうか? NHKの上層部も、太平洋戦争の上層部と同じくらい間抜けですよ! といいたいのだろうか? 責任を現場に丸投げして、自分たちは贅沢な暮らしや利権確保をしている。 NHKが扇動報道したから、日本人は戦争に向かったんです。勿論、他のマスコミも同じです。 いままた、増税を扇動しているNHKです! 数10年後に、日本人はなぜ増税に向かったのか、という番組をやり、与謝野の馬鹿さを笑うのでしょうね。 財務省と経産省の利権獲得競争のため、米国債の購買や利権企業や官僚天下りのための、増税という爆弾が落とされたと、知っていたくせに、さも知らなかったかのように国民を欺くのでしょう。 この国では、水戸黄門やサザエさんが長寿番組になるわけである。この国では、水戸黄門やサザエさんが、現実に存在すると思う地球人がいる。 という宇宙人も実際に存在すると思うのが、この国の人間である。 日本人が戦争に向かうのは明白である! そのように追い込んだ連中が現に存在しているからである。 「増税しないとね。国家財政が危ないのですよ! だから、国家のために多額の税金を納めましょうね。でないと、企業も外国に出て行くんです。」 と同じように、当時も、 「国のために戦わないのは非国民ですよ! 外国が攻めてきたら、皆殺しですよ! あなたの家族なんか、皆、路頭に迷うんですよ。だから、あなたが兵隊になって守らなきゃいけないんです。」 といっていたのだからね。 この国の人間は非常に洗脳しやすいものだ!と缶コーヒーを飲む悪魔が笑っていることだろう。そのとき、NHKは悪魔の広告、広報媒体となっているだろうね。
2011年08月16日
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先日、池上彰の番組で、「米国の創造博物館」を紹介していたが、そこで紹介されている内容があまりに曲解しすぎていて、呆気にとられてしまった。 勿論、進化論は間違いである。唯物論を背景にした進化論は、唯物論でのみ成り立つ概念である。 コンピューターでいえば、ソフト論を忘れた、ハード論でしかない。 その創造博物館は、聖書を基本にしているらしいが、聖書の解釈が唯物的なので、進化論を基本にした創造論でしかない。 秘教を学ばないと、聖書は正確に解釈できないことを見落としてしまっている。 シュタイナーの人智学を学んでいる人なら、創造博物館の馬鹿げた展示が、現代人の間違った知性を代表していることがすぐにわかる。 聖書の間違った解釈こそ、脳でしか考えない、知恵の実を食べた現代人の特徴といえる。 進化論は、人間の肉体だけを問題にする限り、現代人からみて、現代人を最終の姿とする現段階では正しいものともいえるが、将来の人間の姿が想定されていないし、精神の内容については、全く無視してしまっている。 つまり、進化論では、少なくとも、現在のサルがなぜ人間に進化しないのか、という疑問と、人間の脳を、脳自身でみてなぜ改良できないのか、という疑問には答えられない。 脳科学により脳が進化してきたとするのなら、なぜ、脳は自分の脳をみることができないのか?という永遠の矛盾に陥ってしまう。 全くアホらしい!! 脳科学では、人間の脳の知性がどこからくるのかも理解できない。 あらかじめ宇宙に知性がなければ、人間が知性を獲得することなど不可能である。 宇宙をみて、人間が知性を獲得したのなら、あらかじめ宇宙に知性がなければ、人間は知性などもてるはずがないだろうし、現在のサルのように永遠にサルでなければおかしい。 さて、では、人間の脳がどうして知性をもてたのだろうか? 秘教では、人間の脳は、宇宙の構造と相似であることがわかっている。宇宙の出来事は、人間の脳に反映され、宇宙の出来事をそのまま写し取れる構造になっている。 さて、ここに、神々の創造の偉大さがある。 聖書を唯物論で解釈すると、なんでも宇宙は7日でできたとされるらしい。馬鹿をいってはいけない。7日でできるのなら、その7日という「時間」を予めつくっていなければおかしい。 神の創造に手抜きがあるはずがない。 神が初めに「時間」を創造しなければ、7日という概念も生まれるはずがないわけで、その7日も、現代人が認める現在の地球の自転の周期であるはずがないのだ! 現代人は滑稽にも、地球の自転の7周で世界がつくられたと信じているわけだ! 人智学によると、この7日は、時間の「日」ではなく、「日」、つまり「デイ」の元型の「デウス」の意味であるとわかっている。 「デウス」とは、神の数なのである。 つまり、世界は、7柱の神々でつくられている、という意味である。それはシュタイナーの講義を読めばわかるが、天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使の7柱の神々のことであろう。 シュタイナーの土星紀、太陽紀、月紀、地球紀の講義を読めばわかる。 智天使、熾天使が抜けているが、主に上記の天使が、世界創造を行い、上位の智天使、熾天使は、主に天界を司るので、地上の世界が、智天使、熾天使に捧げられていると考えればわかる。 天使は主に月領域、大天使は金星領域、権天使は水星領域、能天使は太陽領域、力天使は火星領域、主天使は木星領域、座天使は土星領域に住むことが、神秘学ではいわれている。 7つの天使が、7つの曜日になり、7つ毎に進化が展開することがいわれている。決して、7日ではない。そもそも、「時間」は、権天使の創造から生まれる。 権天使の別名は時間霊、時代霊である。古代エジプトでは、トート神とも呼ばれ、自我だけの存在なので、目だけで表された。エジプトのピラミッドの叡智の目である。 世界は7日でつくられた、というような単純な誤解が非常に多いのはなんとかしないといけないと思う。 有名な、アダムとエバについても、単なる肉体の人間として唯物的に捉えてしまっている。蛇についても、神経組織の意味であることをしらない。蛇とは、神経組織の脊柱、脊髄を示すものである。 蛇に唆されて知恵の実を食べたとは、脊柱、脊髄の神経組織から、脳が生まれたことを意味している。だから、知恵の実とは、人間の脳のことだろう。 このようなことが、聖書のなかの深い意味に隠されている。 以下のサイトをみれば、蛇と呼ばれる意味がわかるだろう。 脊髄の内部構造 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%84%8A%E9%AB%84/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/81306024000746/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gray663.png 脊髄の構造をみれば、蛇と呼ばれる意味がわかるだろう。医学の象徴である、「アスクレピオスの杖」も、この人間の脊髄を象徴化している。 そもそも大体、叡智とは、現在も生きている知性のことで、過去の死んだ知識ではない! だから、現在でも、通用しなければおかしい。現在でも、7柱の神々により、この世界はつくられている。現在進行形である。 生命の樹も、人間の神経組織を現わしている。霊魂が、肉体から離れるときに、霊視力のある霊魂は、人間の神経組織を、生命の樹として霊視できるそうである。 人間は皆、神々から、生命の樹、いわばその苗を与えられている。生命の樹を育成し、愛や平和を実らせ、感受できるような神経組織を生み出さなければならない。 神経は、磨くほど、神を経るものとなる。神経細胞は、原始的で単純な細胞なので、神々の作用をじかに受けやすい。複雑になるほど、神々とは離れる。 絶えず、真実を探していけばいくほど、神経は、単純化され、神々に近づく。 逆に外の表面ばかりに目を奪われて、覚醒意識ばかり発達させて、分別知を身につけても、生命の樹から、知恵の実ばかりを食べていることになる。 早熟の知恵の実を食べても、かえって腹を壊すだけで、生命の樹は益々衰退してしまう。 知恵だけでなく、愛と平和の実を熟させるほどに、生命の樹を充分に育成しなければならない。 「ソクラテスの魂の配慮」とは、この生命の樹の育成のことにある。 知識馬鹿の現代人は、行動することを知らない。もはや知識は死んでいる。生命の樹は生きているのである。 さしずめ、創造博物館を、古代人がみたら、お笑い博物館になるだろう。これでは、嘘の唯物論的科学の方が信憑性が高いと思われても仕方がない。それが悪魔の巧妙な手口なんだけどね。
2011年08月14日
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久しぶり映画をみた! といっても映画館ではなくレンタルである。 巷はなんだか終末が近づいている雰囲気がするので、終末を題材にした映画をみてみたいと思ったからである。 そこで、2012年と、懐かしの宇宙戦艦ヤマトだが、アニメでなく実写版のものをレンタルしてみた。 感想論からいうと、はっきりいって、とてつもなく物凄くガッカリした! それほど期待もしないでみたのだけど、やっぱりがっかりだった!! 特撮やCGについては凄いのだろうが、なんだか、スターウォーズで見飽きたというか、見慣れているので、アニメのヤマトが実写になったという点だけがよかっただけだった! 2012年については、アルマゲドンを彷彿とさせる臭さと、もうヤマトに関しては、ヤマト1と2がごちゃ混ぜになって、なんだか、あぁ、あの場面ねという感じでまた、臭すぎて最悪だった! ガミラスにより放射能に汚染されてしまった地球といわれても、東電により放射能に汚染されてしまった日本の方が、あまりに現実的なので、なんだかなぁ?という感じが一塩であった。 放射能除去装置があるのかないのか、最後まで意味がわからなかったが、放射能自体よりも、放射能汚染を真剣に考えず、原発推進してしまう現代人の方が、ガミラスよりも、遥かに問題に思えてきて、ガミラスよりも、現代人の方が悪いじゃないか、とも思えてきたりした。 2012年にしても、結局、最後は、金持ちかいというアホらしい展開だし、離婚した夫婦が、また結婚するなんて、だったら離婚すんなよ、というなんだか、どうでもいい展開に思えたりした。 それに量子物理学者が、まったくそれらしくないのが、もうなんだか、ガリレオの湯川教授も理論と実験が混じってて胡散臭いが、せいぜい、トリックの何処かヌケてるぷっつり学者の上田教授のように描くなら、非常識さ丸出しで、まだなんとかリアリティは保てる。 あまりにガッカリして、こきおろすのも悪いので、よかった点は、2012年は大統領役の昔メルギブソンとの刑事役がハマリ役だった名前を忘れてしまったが、黒人俳優がよかった。 そして、ヤマトは、真田役の柳葉敏郎は、アニメそっくりだった。斉藤役もアニメとはぜんぜん体格が違うが、違う意味でいい味だしていた。 アニメの印象が強すぎて、ツッコミどころ満載だったのが、本当にガックリである。 2012年もなんだか、アルマゲドンでもう勘弁という感じで、どうもなんだか、世紀末映画の典型パターンを何度もみせられたような気がした! ヤマトの特撮は、まぁよくできていたとはいえるが、動きが早すぎて、みるのが大変だった。スターウォーズを意識していたようだが、宮崎アニメの動きにしてほしかったね。 隊員の制服は、やはりアニメを忠実に再現してほしかった。下半身が、ジーパンみたいな感じで、なんだよねぇ、って感じで、スタートレックみたいで、ダサさ炸裂でした。 軍の戦闘シーンなんかは、やはり、2012年の方が細かさの点で、一枚上手だった。ヤマトは、ゲームレベルのノリで、お手上げって感じでした。 しかし、とりあえず2本とも最後まではみれたので、まぁ、満足です。バラットという、クレヨンしんちゃんの実写は、途中でみるのやめたくらいですから。 アニメの実写化は、ストーリーを新しいものにしないとちょっと辛いともいえる。 次にやるとしたら、ガンダムだろうけど、ヤマトをみた感じでは、ちょっと無理っぽい感じがする。 私としては、ヤマトよりも、ハーロックの方が、パイレーツオブカリビアンが流行っているし、よかったのではないかとも思う。 ヤマトというのは、太平洋戦争中の、日本人の行き場のない思いを象徴しているのだと思う。どうして戦争になってしまったのか、どうして、負けがわかっている戦争に出ていき、死ななければいけないのか、なんのために闘ったのか、という行き場のない空しさを、日本人の武士道の潔さで表現した、架空の美学なので、残念ながら、実写化はあまり相応しく感じなかった。
2011年08月07日
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では、人間の思考が、決定を下すのに無能であるなら、つまり、人間の思考が確かな導き手でないなら、一体、どうやって、人間が疑いと無知の中に沈み込んでいくのを救うことができるのか? というのも、事実、様々な事柄に対して経験を積み、思考に関して深い関心を持てば、どんなことも証明もできるし、逆に反証もできる、という事実を知るからである。従って、人間の思考では、どんなに洞察力のある哲学でも、思考から先の問題を提示できない。 何故なら、正論も反論も、思考により知的に理論づけることが問題なくできるからである。思考上では、全てに証明も反証もできる。このような関連から、日常生活において、しばしば究めて興味深い観察を行うことができる。 全ての理論が証明も反証も可能である事実を感じ経験するような魂の進化段階にまで到達しながら、この世界の奥に潜む精神(霊)的な存在を受け入れるまでには十分に成熟していない人物と知り合いになると、その人物が、非常に興味深く思える。 私(シュタイナー)が、かつて遭遇した人物のなかに、そのような魂の在り方を顕著に示しながら、人智学が提供できるような叡智を、まだ把握できるまでには至らない人物がいたが、ここ何週間にもわたって何度も、その人物を思い出さずにはいられなかった。 その人物は、哲学が言及する命題は、証明も反証もできる、という事実を究めて明確に認めることができる段階にまで達していた。その人物とは、数週間前(1911年12月27日)に亡くなったウィーン大学教授で、類い希な能力と知性を持った男、すなわち、ローレンツ・ミュルナーのことである。 彼は、あらゆる知識体系や思想に対する可能な証明を、大いなる明晰さを持って引用できる大変な才能を持っていたが、同時にまた、全ての矛盾の指摘もできた。そして、彼は常に厭世主義の態度を示した。彼が、かつて、次のような、かなり恐ろしい発言をするのを聞いたことがある。 「あらゆる哲学は、実際、よくできたゲームに過ぎない!」 その思考ゲームにおいて、彼の心のなかの素早い閃きや活動を目にするような場面は度々あったが、同時に、彼が何1つ全く認めていないため、彼に全幅の信頼をおくことができない、という事実を知るのは非常に興味深い。 誰かが、ある観点について否定的な意見を述べたら、彼は大喜びで、その観点を肯定するために、可能な限りの知識体系を、2、3日前に彼自身が無情にも完膚なきまでに論破していた証明さえも持ち出した。 彼は興味深い心の持ち主の1人であり、実際、ある意味、近年における最重要な哲学者の1人であった。彼が、そのような心の在り方へと導かれていった過程もまた大変興味深い。というのも、ミュルナーは、哲学史上の熱心な探求者であると同時にカトリックの神父でもあったからである。 彼は、長年ウィーン大学の教授職にありながら、カトリックの良き神父のままでいたい、という熱心な願望を常に所持していた。彼はカトリックの考えにドップリと浸っていた。同時に、このことが、彼には、外界の中に見つける単なる思考ゲーム全てが、ある種の宗教的な熱情により実り豊かにされた思考方法に比べて、ちっぽけに見える、という効果を及ぼした。 ただ、以上の事実にも関わらず、彼のカトリック主義は、彼の懐疑主義的な立場を越えてゆくことを可能としなかった。彼はあまりにも偉大だったために、単なる教条主義的なカトリック主義の段階に留まることはできなかったが、同時に彼のカトリック主義が、彼の中であまりにも大きな位置を占めていたために、神智学的な叡智の把握へと上昇できなかった。 人間が、叡智にアプローチするのに必要な態度を、実際に研究できる段階にまで到達した、ミュルナーのような魂を観察することは、途方もなく興味深いものである。というのも、ミュルナーのように有能で、知的な人物が、全くはっきりと、彼の思考では、叡智には近づけない、という事実を自覚していたからである。 遙か古代ギリシア時代の昔には、健全な心が、いつの日か叡智に到達することを望むなら、何を持ってはじめるべきか、を知っていた。当時の次のような言葉は、現在でも有効である。 「人間の全ての探求は、驚きから出発すべきである!」 以上の言葉を、完全に前向きの姿勢で受け取るべきである。実際、真実に到達しようとする魂の中には、驚きの状態が最初に存在しなければならない。真実を探求しようとする魂は、驚きと畏敬の念を持って宇宙の前に立つ必要がある。 この古代ギリシア人たちの表現力を理解できれば、真理の探究へと向かうときの出発点が、世界の事実に対する驚きの気分や感情であれば、その他の条件が何であろうと、その様子は丁度、地面に種子を蒔いて、地面から植物が生長する様子に喩えられることが実感できる。 人間が、驚きからではなく、例えば、若い頃に、好きな教師がいて、しかるべき哲学の原則を叩き込まれたからとか、或いは、成長過程において、しかるべき哲学の原則を学ぶ習慣になっていたために、つまり純粋に環境の影響から、哲学者になった、というような場合とは、全く話が異なる。 また、現代では、哲学の試験をパスするのが最も易しい、ということも良く知られているが、要するに、哲学研究の出発点には、「驚き」とは全く別のものが多種存在する。しかし、「驚き」以外の出発点から、何らかの知識に至っても、それは、種子から植物が育つのではなく、新聞紙で、植物を作るのと同じである。 以上の比喩は適切である! 何故なら、世界の謎に取り組む機会を待ち望む真の知識全ては、「驚き」という種子から生長するからである。人間は、無限に賢い思想家になれるし、過剰な知性に苦しむことすらあるが、もし、驚きの段階を全く通過していなければ、全く何も生まれて来ない。 「驚き」からはじまらない知識体系が巧みに考え出したアイデアなどが提供されると、間違いなど何も含まれていないようにみえるが、その間違いのなさが必ずしも真実へ導くとは限らない。考え始める前に、実際、思考を働かせ始める前に、「驚き」の経験が絶対に必要である。 驚きの状態抜きで働かされる思考は、単なる思考の遊び以外のものではない。真の思考全ては、驚きの気分に由来する。 しかし、それだけでは十分ではなく、一歩先に進むべきである。「驚き」の気分から、思考が発するときでも、もし、当人が、カルマにより鋭い機知や賢さの持ち主になるように予め決められ、直ちに、その賢さを自慢し、自論に満足すると同時に、自慢と満足な自論のみの展開に全てのエネルギーを使うなら、当初、感じた「驚き」はもはや、当人を支援することは全くない。 (研究者のなかには、自論を展開することにだけ生きがいを見いだし、権威主義者に成り下がる者も少なからずいる。) 何故なら、もし、驚きが魂を捕らえた後、更なる思考過程において、「思考」以上のことをせず、思考を超えなければ、叡智へと到達することはないからである。人間は無思慮になるべきであるとか、思考は有害であるとかを言っているわけではない。 以上のような意見が、人智学徒の中で広がることがよくある。「驚きから始まるべきである」、という言葉だけで、思考は悪であり、有害であると考えがちになる。真実には到達できずとも、思考しはじめ、人間のなかの7つの原則等などを評価できるようになった段階で、思考を停止する理由は何もなく、思考を継続すべきである。
2011年08月05日
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人間の周囲の世界では、外(物質)的な科学が支配的なため、何らかの知識を持ち出すとき、常に次のように語るのを聞く。 「正しい思考を働かせ、正しく判断すれば、知識(真実)へと到達する。」 最近(1911年12月27日)、私(シュタイナー)は、正しく論理的な判断を行えば間違いなく真実(知識)に至るという上記の仮定には、いかに大きな誤りがあるかを示すために、非常に簡単な例を紹介した。 論理の正確さが、必然的に真実に導くわけではないことを示すために、その話を、もう一度したい。 ある村に、少年がいた。彼の両親は、いつも彼にパンを買ってこさせていた。彼は必ず10クロイツ持って行って、代わりに6個のパンを持って帰ってきていた。そのパン1個を買うと、2クロイツになるが、彼は必ず10クロイツで6個のパンを買って帰ってきた。 その少年は算数が得意でなく、自分がいつも10クロイツ持って行き、パン1個2クロイツなのに、10クロイツで6個のパンを家に持って帰ることが、どうしてできるのか、わざわざ解明しようとは思わなかった。ある日、1人の少年が別の地方から里子として、その家に連れてこられた。 その少年たちは、大体同年齢だったが、里子の少年の方は、計算ができた。里子は、彼の義兄弟が10クロイツ持ってパン屋に行く様子を見ていた。そして里子は、パン1個が2クロイツであることを知っていたので、里子は、計算のできない少年に言った。 「君が持ち帰るパンは、5個のはずだ!」 里子は計算が達者で、実際、里子の論理は完全に正しかった。パン1個は2クロイツするから、10クロイツでは、パンは5個のはずである、と里子は論理的に考えた。ところが、1つ多い6個を、計算のできない少年は持って来た。 計算の達者な里子は言った。「おかしいよ! パン1個2クロイツなら、10クロイツ持って行ったら、10割る2は5のはずだ! 6個持って帰れるはずがない。どこかおかしいよ! 1個くすねたのか?」 ところが、次の日もまた、計算のできない少年は、6個のパンを持って帰ってきた。もうおわかりだろう、その地方では、パンを5個買うと1個おまけに付けるという風習があった。従って、5個分のお金で6個のパンを受け取ることになる。パンを必要とした家庭には、その風習は大変結構だった。 里子は、正しく筋道をたてて考え、里子の考えに間違いはなかった。しかし、この正しい思考は現実とは一致しなかった。この例のように、正しい思考が必ずしも真実に至るとは限らない。何故なら、真実自らが、正しい思考に合わせることなどないからである。 この例から、意識的に熟考した論理的思考をもってすれば正しい結論には到達できるが、その結論を、現実に照らしあわせた場合には、完全な偽りとなることを、はっきりと理解できる。このような例は、常に起こる。 結局、純粋な思考を通して得られた証明というのは、決して現実を測る物差しにはならない。 例えば、外界に関して原因と結果を、無理に結びつけようとして、とんでもない間違いを侵してしまう可能性もある。1つ例を挙げてみる。 川の土手を誰かが歩いている。その人が、ある地点にくると、土手の淵を越え、川の中へ落ちるのを、あなたが遠くの方から目撃する。あなたは、その人を助けようとして、そこへと急ぐが、その人が川から引き上げられたときには、既に死んでいた。 さて、あなたの前には死体がある。あなたは、その人は溺れて死んだと、当然、目撃者の立場から言うだろう。あなたは、自らの発言を立証しようと、有り触れた方法で証明しようとするかもしれない。例えば、「恐らく、その人が川の中に落ちた場所に石ころがあった」とでも言うだろう。 確かに、石ころに躓いて川の中に落ち、溺れたという言い分は、至極、自然の考えである。その人が川の土手に行ったときに、石に躓き、川の中に落ち、溺れて死に、引き上げられる。その人は溺死以外の別の可能性は考えられないと思い込む。 さて、このような例でも、溺死とは限らない。あなたが、石に躓き川の中に落ちて溺れ死んだ、というような原因と結果のつながりにとらわれなければ、実は、その人が川に落ちたときには、既に心臓発作に襲われた結果、たまたま川の淵を歩いていたので落ちた、という真相を見つけることができる。 落ちたときには既に死んでいた、というのが真相である。心臓発作後に、その人の身に起きたことが、たとえ生死を左右する出来事でなくても、死という同様の結果となる。このように、一連の出来事から、問題の人間が滑って川の中に落ちて溺れたというような結論が全くの間違いで、現実に一致しない、ということがわかる。 何故なら、死んでから落ちたのであって、落ちた後に死んで、引き上げられたわけではないからである。このような、捻じ曲げられた結論が、今日の科学文献の様々な箇所に見つかる。ただ、それらには気づかない。第3者が態々調査しなければ気づかないほどである。 (論文には通常、論文のレフリーがいるが、第3者ではなく、論文作成の関係者であることもあり、特定の分野にはオーソリティが限られるので、非常に問題となっている。) 以上のような失敗は、もっと複雑で微妙な原因と結果の関連において、絶えず頻繁に繰り返されている。以上のような例を述べることで、人間の思考が、実際に、現実に関して何らかの決定を下すには全く無能であることを示唆した。
2011年08月04日
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先日、NHKの未解決事件という番組をみたが、恐らく、多くの視聴者が思ったことだろうが、真犯人探しが主題なのかと期待してみたが、捜査のミスが主題で、なぜ、未解決という失敗に終わったかというのが主題だった。 その期待は裏切られたが、ある意味逆に、捜査の問題点が理解できてよくわかった。 一言でいって、捜査ミスは、警察上層部と、現場との乖離にある。 現代の日本をダメにしている一因の官僚の無能さにも、この現場を理解しようとしない、上層部の思い上がった態度にあると思う。 警察の上層部なのに、現場視察もできないとは、開いた口が塞がらなかった。当時、本部長だった人物の発言をみて、その人格の思い上がった態度が即座にわかった。しかも、その後の反省会もなかったようである。なんのための上層部なのか、馬鹿らしい。失敗の事実すらも検証しない。もはや地獄に行くだけである。 このような人物が上層部にいる限り、現場の努力は残念ながら全て無視され、無駄なものとなる。それは、太平洋戦争中に、重要な情報を現場があげてきたのを、ことごとく無視した大本営と同じであろう。 弱点が大本営にあるのだから、米軍も赤子を捻るようなものだったのだろう。だから屈辱的な裁判まで行われたわけである。大本営を戦犯にすることなどは米軍には容易だったのだろう。どんな国であっても、祖国の裏切りに対しては、敵であっても裏切りで報いるものである。 なにしろ、現場に赴いて、事実すらも確認しようとしないくらいなのである。もはや目隠ししているのと同じである。現場にすれば、上層部も一枚咬んでいるのではないかというような謀略をも思わせるものがある。 恐らく、何の苦労もなく、責任の重い地位についたのであろう。だから、事実を発見することを馬鹿にし、事実に対しての賢明な努力や真剣さに欠けてしまうのだろう。少なくとも、机の上で、事実をみることはできない。できるとしたら、事実と直接コンタクトできる霊能者しかいないだろう。 明治維新のときの勝海舟などは、必ず自分で事実を確認しにいったという。身が危ないからと制止されても、事実が確認できなければ、何の方針もたてられないといって、危ないところでも平気に確認にいったようである。しかも、単独である。仰々しく大人数でいくからおかしなことになる。 生死を賭けるような努力をせずに、事実がそうやすやすと姿を現すわけがない。命懸けで現場視察しなければ、事実など現れるわけがない。 江戸時代の家康にも逸話が残っている。家康は、単独で、よく庶民の家に碁を打ちに言ったという。碁を打ちにいくことで、庶民の心情を視察したのである。三代家光も、お忍びでよく、江戸の町に出たという。 1人でいくので、周囲の者が、将軍にもしものことあればと、何度も諌めたのを無視して出て行ったという。ついに、ならず者が現れ、裏門から出ていく将軍を投げ飛ばして行ってしまった。 そのことを将軍が、周囲の者にいったところ、だからいわんこっちゃないと、ある家臣が進み出て、これからは、1人で外出するようなことはないように、と言って去ったのを聞いて、将軍は、さては、あやつめの仕業だったかと覚ったが、何の罪も咎めなかったという。 組織の失敗は、本当は、一番上が責任をとるべきなのに、中間職が自殺に追い込まれているのも、警察官僚の非情さを感じさせた。 この思い上がった態度は、教育や研究において権威主義としても現れてきている。 この思い上がった態度が、自分たちの都合を優先させることで、現場にある事実を覆い隠し、蓋をしてしまうのである。 福島原発事故などもそうである。東日本震災を単独で視察した政治家はいたのだろうか? 手と足を、神様が与えてくださったのに、それを動かして、事実を捉えようとしない。頭だけで足りると思っている。しかも、その頭の知識も既に古びた記憶のゴミでしかない。偶像崇拝この上ない。 事実を捕まえようとせずに、古びた知識の上に胡坐をかいている、このような人間は一体いつの時代に生きているのだろう。現代に生きていても、過去に生きているのと同じである。 地獄から、自力で天国に向かうための能力をつけるために、いま生きて、事実を探しているのである。人間は、神様に、生命を与えられ、生かさせていただいている! もし、事実そのものに人格があれば、「おいおい、せっかく出てきてやったのに、無視するとは、一体どういうことなんだ!」と、怒り心頭になるだろう。 「せっかく、人間に未来を与えてやろうと思っているのに、がっかりさせるなよ」 「どうやら現代人は、神様が伝えようとする大切な事実よりも、自分たちの思い込みを優先させる連中なのか、それなら、こっちからお断りで、この広い世界で、せいぜい迷うがいいや。」 というように、自然霊である妖精たちがあざ笑っているだろう。 人間は失敗から学ぶしかできない。失敗から学ばなければ、いつまでたっても同じ失敗を繰り返すだけである。 人間の間違った思考を、偉大な事実に当てはめることはできない。神々のつくった偉大な事実を超えることなどできないからである。そして、事実こそ、人類の未来を切り開く幸福のメッセージなのである。 事実を糧にして、人類は、魂を磨いてゆかねばならない。そのようなことは古代人には基本事項だった。 古代の叡智を学べば、現代人がいかに傲慢で、思い上がっているのかがわかる。 現代人に一番かけているのは、事実に対する命懸けの探究心や、真実にたいする誠実な態度である。事実や真実に対して、どんな人間も平等で、いかに努力したかの姿勢に委ねられる。 人間は、事実に適合すべきであって、事実を思考に組み込むべきで、思考を事実にあわせようとするのは人間の無駄な徒労で、大きな罪であり、災いを生むだけだろう。 お釈迦様も、覚るのが大事なのではなく、覚ろうとする姿勢が大事なのだとおっしゃっている。資格などは、単なる紙切れで、資格とは、能力や姿勢の確認のためにあるといえるだろう。 坊主で金を稼ぐ奴はいるが、本当の坊主はいない。キリスト者であると公言する者はいるが、本当のキリスト者はいない。この世での生計をたてるのに精一杯で、あの世での生計は考えられない。論語読みの論語知らずは巷に溢れている。 なにしろ高僧が脱税するくらいである。信長がでてきて焼き討ちした方がマシではないのか? 書を売って金を稼ぐなどとは、快川和尚も、ビックリだ! 生きているのに既に魂は死んでいる。 正しいことを保証すること自体は嘘になる。だから、人間は、神がいると思われる正しいほうに自分を合わせることで絶えず進んでいくしかない。そのアンテナが良心だろう。
2011年08月03日
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しかし、また別のもう1つの(2つ目の)方法がある。 道徳的な理想と呼ばれる荘厳さや崇高さや、その圧倒的な偉大さに対する感情を発達させ、人間が、自身の魂の中を覗き、道徳的な理想が世界のなかに意味するものを、しばらくの間でも認識できたとき、別の2つ目の方法が、人間の前に明かされる。 道徳的な理想の偉大さ、崇高さに対して敏感であることは、全般的に、健康な人間の本性に属している。外の宇宙のなかに顕現した栄光と美により人間の魂のなかに喚起される至福の感情と同じように、道徳的な理想に関して圧倒的な力で働く感情を、人間は発達させることができる。 (宇宙や自然をどのように受け取るかが、人間を健康にするか、病気にするかの要因となる。道徳的理想を、魂のなかにつくりあげるなら、人間を健康にする。) 自らのなかに道徳的な理想とその目的に対する愛や情熱の火を灯すなら、人間は、本当に道徳的理想に到達できる。そのとき、大いなる感情のなかの熱が、魂を満たす。 しかし、同時に、ある想いが生じる。その想いは、人間を通じて、宇宙が顕現する、という既に述べた考察から自然に生じる想いとは異なる。道徳的理想という崇高な概念をもつことで、強烈に体験できる想いが続いて生じる。 その想いは、次のように表現できる。 「いまのような人間の、お前は、お前の心の中に生じさせることのできる気高い道徳的理想から、なんと遙かに遠く隔たっていることか! お前が行う、もしくは行うことが可能な全てをもってしても、お前の前に、お前が置くことができる道徳的理想の偉大さに比べれば、お前は、なんとちっぽけで、取るに足らない存在であることか!」 上記のように感じられないのは、自分の理想に比べて遙かに自分を小さな存在に感じないことで、当人自体が、惨めにも小さな心しかもちあわせていない、ということを意味している。 (東洋哲学でいう「小人」のことになる。) なぜなら、自分の道徳的理想を前にし、自分の不十分さを感じるようになることが、まさしく、感じた人の心や魂が成長した証だからである。それから、また別の想いが魂の中で、夜明けを迎える。それは、人類へと、しばしばやってくる想いである。 人間の内で、道徳的な理想を今までより、更に輝き、強く、活力あるものにするため、自分の持てる勇気や全力を発揮する、という決意である。 また道徳的理想に対して、自分が不十分であるという想いは、その性質上、人間の魂の中に、余りにも確りと根づくために、確固として根付いた想いに、まるで自分が打ち砕かれるように感じると同時に、他方で、感覚の世界の中に、自分がおかれていることで、その外見的な側面においては、神に意志された存在という、余りにも力強い感情を持つが故にこそ、かえって、自分が神から疎外されているように感じる、ということも起こる。 そのとき、恐らく自身に次のように言うだろう。 「私は、この世界のなかに、外見的な存在として立っている。私が、自身を外見的な存在と思うとき、私は、自分に次のように言い聞かせる。 『お前は、神が意志した世界の合流点だ! お前は神が意志した存在だ! お前は神に似た姿をしている!』 それから、私は内を見る。神が私の心に刻み込んだ理想を、私の内に見いだす。そして、その理想は、確かだが、私の内に、神が意志した力のはずである。」そのとき、同時に、自分が不十分な存在であるという感覚が、自分の魂から湧き出してくるのを感じる。 以上が、人間が、この世界と、自分自身を観察する際に辿る2つの方法である。 1つは、自分を外から眺めて、神が意志した本性の中に、素晴らしい祝福の感覚を体験する。 もう1つは、自分を内から眺めて、神に疎外された魂に対する圧倒的な悔恨の感覚を体験する。 もし、心が健全な状態にあるなら、上記の2つの方法に関して、次のような結論に至る。 「人間を、いわば濃縮された宇宙の抽出物として、世界の中心に置いた力を放出する神的な源泉(源流)と全く同じ源泉から、人間の自分の心に刻み込まれている道徳的な理想もまた湧き出して来るはずである。」 どうして、以上の2つの方法は、互いにも、遙かにかけ離れてしまったのか? 実際、上記の問いこそが、人間という存在の大いなる謎である。 もし、この自責の念が、人間の魂の中に生じなかったなら、もし、これまで述べてきたような不調和が、はっきりと系統だった知覚として、もしくは、ボンヤリとしてはっきりしない感じでも、多少とも意識的に感じられなかったら、神智学のようなもの、もしくは哲学さえも存在することはなかった。 というのも、全ての深い想いや思考、探求といったものは、魂のなかの、この不調和の経験から湧き出してきたものだからである。 すなわち、神に意志された人間と、神に疎外された人間との間に、何があるべきか? これが、全ての哲学の基本的な問いである。 この問いは無数の手法で定式化され、規定されてきたが、全ての人間の思考の根底に横たわっているものである。 一体全体、人間の外的な本性の疑いもなく祝福された魂の様相と、同じく、内的な本性の疑いもなく疎外された魂の様相との間に橋を架ける可能性を見いだす方法というものがあるのだろうか? 偉大で崇高な存在に対する問いに対して、人間の魂が価値ある方法で考察できる段階にまで上昇するため、取ることができる方法について語らなければならない。というのも、この方法を辿ることで、多くの誤謬の源泉を見つけだせるからである。
2011年08月03日
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実際、人間は、2つの側面から世界を見上げることができる。1つ目の側面は、例えば、素晴らしく美しい日の出を思う場合で、以下のような観点を見いだす。 太陽が夜明けの黄金の中から、まるで誕生したかのように、視野に入ってくるのを眺め、太陽の輝きがどのように地上に広がるかを見るとき、1年のサイクルの中で、魔法のように地上に生命を芽生えさせる太陽の光の力と熱について思い、深い感情を持って、自らの魂のなかへと沈みこむ。 また沈む太陽に心を奪われ、夜の闇へと黄昏が深まり、無数の星々が天上に輝く日没を思いながら、夜の星空への驚きをもって、瞑想の中に自分を沈める。 以上のように自然を思うとき、人間の魂は、深い恩恵に満ちた概念へと上昇する。かつてゲーテが次のような言葉で美しく表現した想いに似た概念へと上昇する。 「我々が、驚嘆すべき星々の世界を見上げるとき、栄光と驚異に満ちた全宇宙の進化過程について考えるとき、結局、我々を取り巻く全宇宙の中に、我々の面前に広がる全ての栄光は、それを称賛する人間の魂の中に映し出されるときにだけ意味を持つ、という感情へと導かれる。」 以上のゲーテの言葉を通じて、周囲を取り巻く大気(空気)が、自分の中に入ることにより、人間は自分という存在を形成し、構成するという想いに到達する。 空気は、人間の中で辿るプロセスにより、人間という存在を作り上げるために、人間は、空気を呼吸できるようになる。 つまり、人間は、この空気との結合過程や循環法則の産物であり、また、ある意味、人間は、人間の感覚世界を構成する全世界の産物であり、更に人間の視覚だけでなく、聴覚の音の世界や、その他の人間の開かれている感覚へと流れ込んでくる世界の産物である、という考えに到達する。 以上の全感覚世界を、人間は、自らの内に包含する存在として、外界という外の感覚世界に向き合う、というような感情へと到達する。 人間は、周囲にある世界の合流点としての自分を感じる。そして、自分に次のように言い聞かせる。 「私の周りに広がる自然をもっと注意深く観察し、全感覚をもって知覚し、瞑想するなら、私は、外界のなかに見つけ出せる全てが、人間という驚くべき形態へと結晶化することで、外界全ての真の意義が、最良の形で人間として充足され、完結するのを見る。」 そして、以上の事実を悟る段階にまで本当に到達したなら、その種の基本的な(霊)能力をもっていた古代ギリシアの詩人により、次のように表現された感情がやってくる。 「驚くべき多くのものが生きて動いている、しかし、その驚きの中で、一番の驚きは人間だ!」 つまり、人間の中には、外界に現れた全てが、共存し、流れている。外界全ての一面性は、人間の中で多様性に変わる。(宇宙全ての力が、例えば、天体の作用が、人間のなかで統合される。つまり、人間のなかには、土星の作用、太陽の作用、月の作用、火星の作用、水星の作用、木星の作用、金星の作用、その他の黄道十二宮の作用などがある。以上の事実から、天体の占術が発祥したのだろう。) 感覚の世界について深く考えると、その真ん中に、人間が感覚を持った存在として立っているのがわかる。そして、人間の中には、世界の他の全ての事物が包含されている。何故なら、世界を正確に調べれば調べるほど、人間の中で、宇宙全ての1面が合流し、1つの全体へと統合されるのを詳しく知るようになるからである。 その時、大いなる世界に向けて、宇宙の全てが人間の中で合流するのを見ながら、上述の感情を発達させるに従い、深い至福の感情を持つようになり、次のような想いが、自身を満たすようになる。 すなわち、「神に意志された人間」という想いが生じる。 神々の行為と目的が、全宇宙を創り上げ、長い間に全宇宙から合流し、神々が宇宙のまさに中心においた最も大切な仕事が人間であり、つまり人間の中で1つになれた影響と働きを、神々が注ぎだしたという事実を、人間は、本当に感じ取ることができる。 以上の観点から、感覚の世界と人間との関係を深く思考するなら、次のような結論に達する。 「人間は神の意志によりつくられた。」 また、続けて、 「神々によりつくられた人間の耳の驚くべき構造に比べて、人間のつくる楽器とはいかほどのものか? 耳と同様に、本当は、神々の楽器である喉頭の驚くべき構造と比べてみたとき、人間の楽器とはいかほどのものか? 世界のなかの多くの事物が、驚きと称賛を呼び起こす。そして、もし、世界の中に立つ人間を見るときに、この感情が呼び起こされなければ、それは、人間が、人間という驚くべき構造全てにおいて、人間自身を知らず、学ばなかったからにすぎない。」 以上のような想いに身を委ねるなら、また次のような想いが、本当に心の中に生じる。(声紋から個人を特定する音響学が発達してきている。人間の声の微妙な周波数を解析すると、年齢もわかるらしい。近い将来、天体との関係も明らかになるだろう。 秘教学では、人間の成長と、天体の関係を記しているからで、人間は、月、金星、水星、太陽、火星、木星、土星と、7年×2周期で成長していくことが知られている。土星支配成長期を越えると、大体70歳で、中間期の35歳が、太陽支配成長期である。) 「人間が存在するために、神々や精神(霊)的な存在たちは、何という無数の驚くべき行いを遂行したことか!」 以上が、人間が世界を考察する方法の1つである。
2011年08月02日
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前回で、シュタイナーのギーターとパウロ書簡に関する講義は終わった。ギーターは、古代アトランティス時代の人間の魂の回復法、つまり、神々の宇宙進化計画に、いかに適合するか、の教えであったが、古代アトランティス時代は洪水により破局し、我々の新しいポストアトランティス時代がはじまった。 新しいポストアトランティス時代の初期では、前時代の教義のおさらいとでもいうべき、教えの繰り返しが行われ、クリシュナのギーターとして残っているわけである。 しかし、古い教えそのままでは、人間は、環境に適合できなくなり、益々、神々の進化計画から逸脱し、月紀の堕天使悪魔のように、人類も陥ってしまうために、キリスト自らが、クリシュナ、釈迦、ゾロアスターらがつくった聖杯イエスの肉体に降りてきて、人間の魂の調停者となったわけである。 人間は、自然から学ばなければならない。自然の奥に潜む神々の叡智を獲得しなければならない。 以上が、神々の人間に対する幸福のメッセージである。 自然の叡智を、人間の魂に組み込めば、人間の魂は、神々の魂のように、躍動でき、天国の住人になる。そのために、人類は、何万回となく、輪廻転生を続けてきたのであり、これからも、続けなければならない。 というわけで、続けて、シュタイナーの精神世界の講義を以前行ったが、改めて再度、要約したい。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ この連続講義では、日常生活における通常の経験から、人間の最も崇高な関心事である神々との関係への橋を架けることと、そうすることで、毎日の生活と、人智学が人間の魂や精神のために与える叡智との間に新しい接点を見いだすことが目的となる。 というのも、人智学が与えることができる叡智を完全に吸収するほど、人間の感情や意志の中へ、そして、人生の様々な出来事や状況との遭遇時に必要な力(キリスト衝動)の中へと、叡智が、次第に流れ込んでいくからである。 また、高次の世界から、現代社会に流れ込んでくる叡智により学ぶことが可能になった人智は、人類にとって不可欠で、もし、人智学と名づけられる、その叡智のメッセージが、現代になかったら、比較的短期間のうちに、人間は、人生のなかで、あらゆる自信や精神の平静さや、人生に必要な心の平和全てを失うことになるだろう。 しかし同時に、この人智学のなかの精神の流れは、人間の思考、感情、知覚のなかの2つの異なった精神の流れを明確な衝突へともたらすこともよく知られている。思考と感情のなかの1つの流れとは、何世紀にもわたり準備され、現在までに人類を完全に捉えたか、もしくは近い将来に間違いなく捉えようとしている流れである。 人智学徒は、以上の流れを、広義な意味で、唯物論的な観点と呼ぶが、この流れは、人智学と共にもたらされる流れのなかの精神的世界観、すなわち思考の方向性に対して戦いを挑む。近い将来、この2つの思考の方向性の間で生じる衝突は益々顕著になっていくだろう。 その上、その戦いは、自分がいまどちらの方向性の思考と関わっているのかを知るのがしばしば困難な形で戦うことになる。というのも、例えば唯物論的な思考の傾向は、明らかにわかるような形で現われるわけではないからである。 それは、様々な方法で仮装する。精神主義的な仮面を被った唯物論の流れが、沢山存在することになる。どこに唯物主義が潜んでいるのか、どこに真の精神の流れが認められるか、を知るのが非常に困難な状況になるだろう。 私(シュタイナー)は最近行った2つの連続講義のなかで、以上の関連において、様々な例をあげ、正しい結論に至るのがいかに困難であるかを示そうとした。1つ目の連続講義の目的は、もし今日、世界に蔓延している思考や思想に身を委ねるなら、容易に人智学的な世界観の熱心な反対者になるということに対する警告にあった。 つまり、「どのような形で、人智学の反対者になるか」、というプロセスを示した。そして、続く2つ目の連続講義において、「人智学が、どのように擁護され、実現されるか」、という主題に移った。 様々な方面から明らかになっていく衝突を、全て明らかにできたとは、少しも思っていない。私の目的は、人智学的な世界観に対する驚くほど沢山の異論が、全く明白で正当な根拠をもって、唯物主義の流れの完全な引用である、という事実に対する警告にあった。 現代には、人智学にひたすら全力で反対しかできない者がいる。同時に、その者たちは、現代の不真面目な人間に該当するわけでもない。その者たちは、正直であり、真実の熱心な探求者でもある。 私(シュタイナー)は、ここで、人智学に反対して持ち出される根拠全てに対しておさらいしたいとは思わないが、ただ、現代の思考習慣そのものから、そのような根拠が導き出され、確立してゆくプロセスだけは示唆したい。 現代では、人智学に徹底して反対することも完全に可能である。しかし、人智学に反対し、狙い撃ちにするために、様々な理屈を引っ張り出して来る者が現れるとき、次のような問いが生じる。 その問いとは、「一体全体、どのような道筋を辿って、そのような立場に立つのか」、というものである。 例えば、ある者が、魂のなかの本来の基本的傾向から人智学を受け入れ、その後、現代科学が、唯物論的な根底から教えることができる全てを、そのある者が、身につけるようになったものと考察してみる。そのような人物は、急進的に人智学に反対し、反証するだろう。 しかし人智学に反対するには、第一に、魂の中に、ある特別な立場を誘起しなければならない。すなわち、純粋に知的な立場をとらなければならない。後に述べる、これとは、ちょうど正反対の魂の状態について知れば、この意味がもっとはっきりとわかる。 いまここでは、今日の科学の全ての成果に精通する人間が、その知性だけに自身を委ねるなら、その人間は、急進的に人智学に反対することになる、という簡単な記述だけに留めておく。今は、更に議論するのは控えて、この講義の主題に対し、新しい面からアプローチできるように、もう1つの思考の方向、精神の流れを取り上げてみる。
2011年08月01日
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