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境域の守護者の傍らを覚醒意識の状態で通過することが歴史的に全人類に課せられている現代では、前回述べたように、霊界のなかを、逍遙してみると、眠ったままの魂が自我およびアストラル体として境域の守護者に近づくのが益々一層見つけられる。 今日の霊能者に獲得できる重要な形象(光景)とは、覚醒状態では、境域の守護者に近づく力を持たないため、睡眠中に接近し、眠れる人間の魂の集団に取り囲まれた厳格な境域の守護者である。 その際、生じる光景を霊視すると、不可欠な大きな責任の芽生えとでも呼びたい道徳に結びつく考えへと到達する。上記のような睡眠状態のままで、境域の守護者に近づく魂たちは、人間が睡眠中にもつ意識(覚醒意識に比べて、無意識、もしくは潜在意識に相当する意識)をもって、霊界への参入や、境界域を踏み越えることを要求する。 数え切れないほど多くの厳格な境域の守護者の警告の声が聴こえる。 「お前はお前自身の救済のために境域を踏み越えることは許されない。お前は霊界への参入を許されない、お前は戻らなければならない。」 というのも、境域の守護者が、睡眠状態の魂たちの霊界への参入をあっさりと許すなら、睡眠状態の魂たちは、境域を通過し、今日の学校や教育や文明に与えられた概念とともに、霊界に参入してしまうからで、今日の人間が、ほぼ6歳から、地上生活が終わる死までの間に、成長していくべき概念や理念を、霊界へと持ち込んでしまうからである。 地上の概念や理念には霊界とは全く異なる特性があり、現代の文明や学校を通じて生じる概念や理念とともに、現代人の認識が獲得できたわけだが、現代人の概念や理念をもって霊界に参入すると、現代人は魂的に麻痺してしまう。 すると思考も理念も空虚な状態で、物質界に戻ってくることになる。もし境域の守護者が、睡眠状態の魂、すなわち現代の人間たちの多くの魂を、厳格に突き返さずに、霊界に参入させてしまうなら、現代人の魂が、再び帰還し、覚醒状態で戻ったなら、以下のような感情を抱くだろう。 「私は考えることなどできないし、もはや私の思考は、私の脳を把握できない、私はもはや考えることなく物質界を歩いて行くしかない。」 というのも、今日の人間があらゆるものに結びつけている抽象的な理念の世界とは、その理念とともに霊界に入っていくことはできても、その理念とともに出てくることができないからである。 (霊界に入った途端に、地上の理念を失ってしまう。つまり、無になって帰ってくるので、生まれたての赤ん坊と同じになる。) そして、今日通常思われている以上に数多くの魂が今日の睡眠中に実際に体験している光景を見ると、次のように言う。 「おお、これらの魂が睡眠中に体験している経験を、死後にも体験しなくてもすむよう、これらの魂たちを守ることに成功できたら!」 というのも、以上のように境域の守護者の前での体験の状態が充分に長く続き、今日の学校で受容され、人間の文明を通じて受け継がれ、保存される理念の下に、人間の魂が長くとどまるなら、魂は、眠った状態で生き続けるようになるからである。 人間の魂は死の門を通過して霊界に入っていくだろうが、地上での理念の力を再び次の地上生(転生)へともたらすことができなくなるだろう。今日のような思考とともに霊界に入っていくことはできるが、その思考とともに、また霊界を出て、戻ってくることができないからである。魂的に麻痺した状態で再び出てくることしかできない。 (地上での経験や認識は、地上でしか獲得できない。人間の魂は、地上の経験や認識を獲得するために、生まれてくる。 子供のとき全てが新鮮にみえ、やがて、それに馴れ、当たり前になるとき、あの世の感覚では、魂的に麻痺した状態といえる。全てを忘れないために、睡眠があり、魂をいわば活性化している。) 現在の文明は、長期にわたって育成されてきた霊的生活の形式に基づいているが、物質生活そのものは、霊的形式に基礎を置くことはできない。現代の文明はしばらく続いていく。 魂が、境域の守護者に対して、何らの予感もなく、いきなり覚醒し、麻痺してしまわないように、睡眠状態のときに、境域の守護者により拒絶される。もし、拒絶されないで、霊界への参入を続ければ、未来の地上生のなかで、知性も、人生における理念も示せない種類の人間が生まれ、思考や理念をもつ生命体は、地上から消えてしまうだろう。 地球は、病的で、本能的な人類を住まわせるしかなくなる。理念の力に導かれることのない、劣悪な感情や情動だけが人類進化のなかに蔓延るだろう。悲惨な形象(光景)が霊視者の前に現れる。それは以前描写したような、境域の守護者の前に、霊界に参入できないで佇んでいる魂たちの観察だけではなく、別の関連からも現れる。 以前、特徴を述べた、境域の守護者の前で眠っている人間の魂を観察できる逍遙の際に、今度は、西洋ではなく、東洋の文明に起源を持つ人類を見てみると、いわゆる東洋人から、西の文明に対する恐るべき非難のような霊の声が高まってくるのが聞こえる。 「見るがいい、このようなことが続けば、今日生きている人間たちが新たに地上に受肉して現れるときには、地球はもう荒れ果てている。 そのとき、人間たちは理念を持たず、本能のなかだけで生きる。お前たちも落ちぶれたものだ! お前たちが東洋の古代の霊性に背いたからだ。」 実際、人間の課題として、これまで霊界を描写してきたような観点こそが、強い責任の所在を明白に示せる。霊界の描写を聴きたい人たちにとって、霊界に対する、あらゆる重要な直接的体験に関して語ることのできる場所が、ここドルナハに必要である。 考察の限りを尽くし、論理を操る経験的な現代の科学性のなかに、霊的存在の微かな痕跡がある、という事実を示唆する力だけが見つけられる場所でなければならないというのではなく、ドルナハが、課題を実現する場となるのなら、霊界において歴史的に生じ、衝動として起こり、次いで自然的な存在のなかに入り込み、自然を支配する存在により、霊界が明らかにされていなければならず、真の体験や真の力について、霊界での人間の真の本質について聞くことができなければならない。 ここドルナハは、真の人智学の大学でなければならない。これまで描写してきたように睡眠状態の人間を厳格な境域の守護者の前に導いていく、今日の科学性の要請を前にして、今後、今日の科学性から退却することは許されない。 ドルナハにおいては、いわば(霊的な意味で述べるが)霊界に真正面から真に対峙し、霊界を経験する力を獲得できなければならない。 今日の科学理論の不十分さについて、論理を弄ぶような長弁舌を振いたいわけではなく、地上の学校において、通常、その末端として教育されている科学理論に人間が貫かれ、どのような状態で境域の守護者の前にやってくるか、に関して注意を喚起する必要がある。 このクリスマス会議に際し、上記のことを一度、真剣に自らの魂に対して認めたなら、魂のなかに力強い衝動を送り込むことができ、この衝動は、これらの魂を、今日の人類に必要な力強い働きへと導いていくことができる。 人間たちが境域の守護者に本当に出会うこと(覚醒状態で遭遇すること)ができ、文明そのものが、境域の守護者の前で耐えられる文明になるような次の受肉を見つけるための必要な働きへと導いていくことができる。
2011年02月28日
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「不慮の死について 高橋 巖:訳」の意訳 事故死(不慮の死)について 一体、不慮の死は何を意味するのか? 列車に轢き殺されるような外から暴力的に死へと追いやられる場合と、天寿を全うして死を迎える場合との大きな相違は、誰にでも容易に推測できる。 勿論、事故(不慮の)死は個々の場合で異なるが、ある観点を見つけることもできる。 「横死」とは一体何なのか? この問いに答えるには、地上生活からではなく、死の門を通過した霊魂が立つ彼岸から、死を見る必要がある。 今まで何度も述べてきたが、死者の(彼岸の)側から見ると、死とは、肉体を失った死者に、(死後も)生命が存続していることを教える最重要な出来事なのである。 死に直面したとき、人間は、死後にも自我という意識が存在することをはっきりと悟る。地上の生活では、幼児期にまで遡ることができる記憶が、自我という意識を与えてくれるが、死後から新たな誕生(転生)へと至るまでの間では、死に直面することが、人間に自我という意識を与えてくれる。 (この世での死は、あの世での誕生である。) それでは、不慮の死を遂げた人間が、その死をどうみるか? 彼岸から見ると、横死は、最大の影響をもつ経験であり、最大の知覚となる。奇妙に思えるが、この問題を探求していくと、次の事実が理解できる。 死後の霊界と地上の現界とでは、魂の体験に及ぼす「時間」の働きに大きな相違がある。とはいえ、地上での時間的な体験の中でも、死後における程の大きさではないが、死後の時間的な体験を想起させる場合がある。 例えば、1日のうちのほんの数時間内の短い経験が、数ヶ月、もしくは数年に及ぶ長い経験よりも、遙かに重要な意味をもつ場合がある。この世の、非常に短い時間内に体験した出来事が、人生に特別大きな影響を与えることもある。 そのような経験を、「忘れられない出来事だ!」と表現する。この単純な表現の背後には、上記に述べたような意味がこめられている。 さて、人間が、外界、つまり本質的に自分が属さない世界により、非常に短い時間内に、場合によっては一瞬の間に、自分の肉体が奪われたとき、その死の印象は、もし生きていたら、その後の数10年間に地上で経験したかもしれない経験内容よりも、遙かに豊かとなる。 事故死に遭遇せず、地上で生き続けた全ての人生経験と比較するわけではないが、死後から新しい誕生までの間に必要な自我という意識の力に関していえば、長い年月をかけなくても、一瞬のうちに、その力を得ることができる。 従って、横(事故)死の問題については、輪廻転生との関係を顧慮しないと、本当に納得できる説明にはならない。 死後の自我意識と死に直面した時の関係について、以上に述べた事実から、死そのものを知覚することが、死後の自我意識の強さ、集中力にとって非常に重要である、ということを理解すべきである。 (地上で長く生きられなくても、その分、霊界で長く生きることになる。若くして死を迎えれば、その状態で、霊界に生きることになる。喩えるなら、学校の進級と同じである。 量ではなく、質の問題で、長く生きることよりも、質の高い、道徳性の高い人生を送るかどうかにかかっている。それ故、古代ギリシア人は、いかによく生きるか、を考えるために哲学が必要だと考えたのである。 現代は、アンチエージングが流行しているが、いかに長く生きるかの物質的発想でしかない。犯罪をする老人や、利己主義な指導者というのは、いかに長く生きようが人生の落第者に変わりはない。生き恥を曝している自分に気づかないわけで、未浄化霊、浮遊霊と同じである。 いかに道徳的な生き方をするか、精神性を高めるか、の発想がないから、モラルハザードが深刻になり、無目的な人生を送り、自らの人生を切り開くことなく、専門家の誰かの意見や、破戒坊主などの宗教家の意見を焼き映すだけの無目的人生を続ける羽目になる。 人間は、1つの宇宙なのであり、その宇宙には自分特有の意識や創造力がある。それゆえ、古代ギリシア人は、「汝自身を知れ!」という課題の下に哲学を学んだのである。)
2011年02月25日
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第9講 人智学運動のための力強い重要な出発点とすべき講義の最終講を、次のように展開する。 人智学運動の衝動に従って、この連続講義により与えられた様々な観点と、内的につながりながらも、他方では、ある意味、感受力に応じて、とでもいえるような形で、未来を、特に人智学的努力の未来をも示唆できるように展開したい。 今日、世界を眺めると、確かに、既に数年来、極めて夥しい破壊的様相が現れている。更に、西洋の文明を破滅の淵へと導くような予感を生じさせる様々な力が働いている。従って、次のように言えるかもしれない。 「極めて様々な生活分野において、いわば外的な主導権を握っている指導者を直視すれば、これらの指導的立場の人間が恐るべき宇宙的な眠気にいかに囚われているか、気づく。」 上記の指導者たちはほぼ次のように考え、つい最近まで大抵の人間は次のように考えていた。 「19世紀までは、人類の理解力と知性に関しては、非常に素朴で子供染みていた。19世紀以降、極めて様々な分野に近代科学が到来し、今や、末永く真実として保存すべき知識が存在する。」 上記のように考える人たちは、実に途方もない高慢をもって生きていることになるが、残念なことに、そのことを自覚していない。上記の高慢な認識に対して、今日の人類の内には、上記のような大多数の人々の意見として示したような認識ではない、何らかの予感が現状の事態として現れることもある。 少し前、ドイツのヴォルフ事務所により企画された講演(1)を行うことができ、非常に多くの聴衆を得て、実際、人智学(アントロポゾフィー)がいかに求められているか、少なからぬ人間が気づいたわけだが、この講演の際、数多くの他愛のない敵対した声に混ざり、1つの声が発せられた。1)講演;1921年の秋冬と1922年の新年に、ベルリンのヘルマン・ヴォルフ及びユーレス・ザックスが、シュタイナーとの講演旅行を企画した。ベルリン、シュトゥットガルト、フランクフルト、ケルンその他の大都市において、シュタイナーは人智学の本質、人智学と科学、人智学と霊認識といったテーマについて語った(GA80として出版予定)。1922年ミュンヘンにおける不幸な暗殺計画の後、講演者の安全が保障されないことが明らかになった後、シュタイナーは、それ以上の公開講演の義務には応じなかった。 確かに、他の声に比べて取り立てて、内容的に思慮深いわけではないが、独特の予感を示す声である。その声とは、新聞の小記事で、ベルリンで行った講演が引き合いに出されていた。その新聞の論評というのは以下だった。 「このようなこと(ベルリンでの講演で述べたこと)を傾聴するなら、人間たちを今までとは異なる霊性へと駆り立てる何かが、地上だけでなく(ほぼ記事どおり引用する)、全宇宙において起こっている、ということに気づかされるだろう。 単なる地上的な衝動だけでなく、いわば様々な宇宙の力が、人間に、宇宙での一種の革命、すなわち、新たな霊(精神)性への努力という成果でなければならない一種の革命を要求していることがわかる。」 以上のような声があった。この声は実際注目すべきことである。というのも、人智学徒が、ドルナハから始める霊的な運動に与えるべき正しい衝動とは、ここ数日間の講義において、様々な観点から主張したように、地上で芽生えた衝動ではなく、霊界で芽生えた衝動でなければならないからである。 いま、人智学徒はまさに霊界からの衝動に従う力を発達させようとしている。従って、このクリスマス会議の期間中の夕方の講義において、歴史的進化のなかにあった様々な衝動について述べた。霊的な衝動を受け入れるために心を開くことができるように、述べた。 第一に、地上の世界へと流れ込むように、同時に、地上の世界そのものにとらえられてはならない霊的な衝動を述べた。というのも、正しい意味で、地上の世界が担った出来事は全て、霊界に起源をもっていたからである。 そして、人智学徒が地上の世界のために、実り多いことを成就すべき運命にあるなら、そのための衝動は霊界から取ってこなければならない。 上記のことは、このクリスマス会議から今後の活動のなかに、持ち帰るべき推進力が、いかに大きな責任と結びつくものであるか、を指摘せずにはおかない。 このクリスマス会議を通じて、人智学徒に大きな責任として結びつく衝動の傍に、数分ばかりとどまればよい。過去数十年間にわたり、霊界に対する感覚をもつ者は、幾人もの人物の傍を通り過ぎることができた。霊的に観察し、この霊的な観察から地球の人類に到来しつつある運命に対して辛い感情を覚えながら、傍らに滞在し続けた。 霊として可能な方法で、地上の同胞の傍を通り過ぎ、多くの人物を観察できた。睡眠中に、物質体とエーテル体を去り、自我とアストラル体とともに霊界に滞在するときに、多くの人物を観察できた。 過去数十年間にわたり、多くの人々の睡眠中の自我とアストラル体の運命の上方を、霊能者は逍遙するが、このような経験が既に、霊的な認識を獲得できる者に対しての責任の重さを指摘する経験への切欠となった。 入眠から起きるまで、物質体とエーテル体を離れていた魂が、過去数十年間から、しばしば境界域を守る守護霊へと近づいていくのが見られた。 この霊界への境域の守護者は、人類進化の経過にともない、極めて多種多様に人間の意識の前に登場した。 (霊界への境界域の守護者はドッペルゲンガーとして神秘学では名高い) 少なからぬ伝説や神話(最重要な事柄は、歴史的伝承という形ではなく、伝説や神話という形で維持されるのがよくある)が、過去において、様々な人物が境域の守護者と遭遇し、この守護者から、霊界への参入と、物質界への帰還方法が教えられたことを示している。 (スウェーデンボルグは特に有名である。その著に、境界域の守護者が登場し、ボルグを霊界への参入に導いたとある。) というのも、霊界への正しい参入には全て、どの瞬間においても物質界へと帰還できるという可能性が伴わなければならないからで、参入者は、夢想的な神秘家ではなく、全く実際的で思慮深い人間として物質界のなかに現実的にしっかりと両脚で立つ可能性をもっていなければならない。 結局のところ、霊界への参入を目指す何千年にもわたる人間の努力全てを通じて、境域の守護者に対して求められたのは、物質界への帰還方法だった。特に19世紀の最後の3分の1の時期には、覚醒状態のままで、境域の守護者まで達する人間はほとんど見られなくなった。
2011年02月24日
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「エーテル体について 高橋 巖:訳」の意訳 エーテル体 人間は、この世においては、肉体を通して地上の事物と結びついているが、光や音や生命が織りなす「エーテル体」は地上の事物だけでなく、宇宙の事象とも結びついている。 人間の魂が霊界から、この世に生まれてくるとき、予め既に地球外の宇宙の中で、その人間のために、エーテル体を合成する様々な力が用意されている。 特に唯物論時代には、高慢と思い上がりから、親は、自分たちだけの力で子供が産まれるものと、信じている。唯物論が普及するにつれて、親だけで子供が産まれるものと信じる人が益々増加するだろう。 しかし、地上の人間は、霊的存在が降りてくることのできる切欠(空間)だけを用意する。親がやれることは、果てしない宇宙の彼方から、エーテル体が地上に降りて来れるような場所を提供することだけである。 上記のエーテル体は、肉体と同じように合成された存在である。人間の肉体を、頭、腕、手、胴他というように、解剖学者や生理学者が教える全ての知識の中に見ている。しかし霊的に見ると、この肉体はエーテル体に貫かれて、輝いている。 肉体は空気を呼吸するが、エーテル体は光を呼吸する。光を吐き、その光を人間(自我)に分け与えると、人間は、その光を受容し、生きていく。エーテル体が光を吸うと、自分の中で光を消化し、その光は失われ、暗くなる。 そして、その暗さの中へと、宇宙の音階を奏でる宇宙音響を取り込み、更に宇宙生命を取り込む。肉体が、空気中の酸素を吸収し、炭酸ガスに変えるように、エーテル体が光を吸収し、闇に織り込むと、光は色彩となって輝き出る。 エーテル体を霊眼で見ると、波立つ多彩な輝きとなって現れる。 (エーテル体のオーラ) エーテル体は光の軌道を通って人間の肉体に結びついてくる。この光の軌道を作っているのは、星々の位相(配位)である。 しかし、上記について詳しく述べることは、今はまだ不可能である。光の軌道について述べるには、人間の道徳水準をもっと高くしなければならない。なぜなら、光の軌道と宇宙の音階を通って、エーテル体が人間の肉体に入ってくる秘密を、もし現代人が知ったなら、恐ろしい方法で悪用しようとするからである。 この秘密を人間の低次の衝動が、自分のものにするとき、子孫全体に対する無制限の権力が親に与えられる、という可能性が潜んでいる。従って、光の軌道と宇宙音階の軌道の秘密は、これからも長い間封印され続けるだろう。 ただ特別の条件下でなければ、この秘密について少しでも知ることは許されない。人間のエーテル体は肉体とは異なった道を歩む。 死の門を通過した後もなお、数日間、人間はエーテル体を保持するが、再びエーテル体を宇宙へ返さなければならない。エーテル体はただ、宇宙の中で像(イメージ)のような存在となり、死後から新しい誕生にいたるまで、人間の人生のために存在し続ける。 死後も存在し続けるだけでなく、エーテル体は、様々な条件下に、様々な形で、宇宙に組み込まれる。 不慮の災難で夭折した人と、高齢まで生きた人とでは、組み込まれ方も異なる。しかし、境界域の彼方の霊界に眼を向けるなら、若い死も、老いた死も、宇宙的な関連全体の中では、共に各々大きな意味をもっている。 なぜなら、エーテル体は、死後もなお生き続け、各々の形で霊として働き続けるからである。エーテル体に関する考察を深めていけば分かるように、人間は誰でも、基本的には皆同じ年齢である。 肉体的には早くに死去する者もいるし、長く生き続ける者もいる。しかし霊的に見ると、基本的には皆一様に歳をとる。 (昔の数え年は、エーテル体を基本にしていたようなので、皆一様に歳をとった。エーテル体が、時間を生み出しているようで、いわばタイムマシンといえる。 つまり、人間はエーテル体というタイムマシンに乗って地球に転生してくるといえる。エーテル体は、光を吸収しているので、アインシュタインの相対論の時間の概念も、理解できる。 アインシュタインは、相対論をわかりやすく解説する喩えとして、ある人、例えば、熱いストーブの上にいる場合には時間が長く感じられ、他の人、恋人といる場合には、時間が短く感じる、という発言をしているが、これはまさしくエーテル体の記憶について述べている発言ともいえる。 アインシュタイン本人は、エーテル体を否定するために、相対論を提唱したのだが、代わりに、相対論そのものの特性が、エーテル体の性質を示すことになるわけである。 一時期、タイムパラドックスを使ったドラマなどが流行したが、物質的には、不可能で、なぜなら、物質的には、過去は存在しないからであるが、エーテル的、つまり、光の映像的には可能なので、人間は夢のなかで四六時中タイムスリップをしているわけでもある。 亡くなった故人や伝説の英雄とも会えるわけだ! 恐らく、将来の自分にも会っているはずだが、自分とはわからないだけだろう。) 早く死ぬと、肉体は早く崩壊するが、逆に、エーテル体は宇宙のために生き続ける。そして正に若くして死んだことで、そのエーテル体は、遅く死ぬときとは異なる機能を宇宙のためにもつ。人間として肉体とエーテル体の中で生きる年月を全て数え上げれば、全ての人間は皆ほぼ同年齢となる。 この世で肉体を通して行う事柄と、エーテル体を通して、死後もなお霊界で行う事柄とを全て合計すれば、全ての人間は皆ほぼ同年齢となる。
2011年02月23日
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昨年(1922年)の大晦日に人智学徒にもたらされた出来事(ゲーテアヌムの火災)を、歴史的な光(叡智)のなかに見ても、苦悩が癒えることはない。 全体と調和するように設置された建物(ゲーテアヌム)の演壇の上に最後に立つ機会が与えられたときの聴衆の眼差しや魂の眼差しを、地上から、意志や叡智や霊的な宇宙の光を表している星々の領域へと、私(シュタイナー)は導こうとした。 あのときも描写したように、中世において、弟子たちを教えていた魂の持ち主たちのなかの、少なからぬ人数の導師たちが、当時は人智学徒として、その講演に立ち会っていたことを知っている。最後の言葉を語った1時間後に、私(シュタイナー)は、ゲーテアヌムの火災のため呼ばれた。人智学徒は、昨年の大晦日の夜に、ゲーテアヌムの火災の傍らで過ごした。 以上の内容を語るだけでも、人智学徒全員の心や魂の前に、名状しがたい感情が湧き起こる。しかし、人類の進化における聖なる存在が奪いとられたときでも、いわば物質的存在が消滅した後も、なお霊(精神)のなかで、物質が供犠として捧げられ、霊のなかで作用し続けることを誓った者もいた。 そして、ゲーテアヌムの災厄から1年目を迎える現在のこの瞬間に、ここ(ドルナハ)に集い、次のように述べる機会が与えられた。 「物質的な像、物質的な形態を通して、ゲーテアヌムとともに物質的な視覚の前にも置かれ、ヘロストラトス的行為により、物質的な視覚から奪いとられた魂を、人類を前進させる進化の波を通じて、更に精神(霊)において担っていくことを、人智学徒全員が誓うなら、その魂は、我々とともに常にあるという正しい気分を持つ。」 かつてのゲーテアヌムには、苦悩がこびりついている。今日の記憶のなかでは、誰もが魂のなかに担っている最善の神的存在の前で、かつてのゲーテアヌムのなかに、その外的な形態として現れた霊的な衝動に忠実であり続けることを誓うときにだけ、ゲーテアヌムの建築により人智学徒に課せられた精神に相応しい存在となるだろう。 かつてのゲーテアヌムは、人智学徒から取り上げられた。このゲーテアヌムの精神は、人智学徒が真に誠実で率直であろうとするなら、もはや取り上げられることはない。 人智学徒の愛したゲーテアヌムから炎が燃え上がった1年前の、あの時点からまだ間もない、この真に厳粛な時間、この瞬間に、単に苦悩を新たにするだけでなく、苦悩から脱し、かつて10年間にわたり、この場所に建設する機会を与えてくれた、神的な精神に忠実であり続けようと誓うなら、このゲーテアヌムの精神が奪われる畏れはほとんどない。 このような内なる誓いが、誠実に、率直に、心から溢れ出し、苦悩や苦難を、行為の衝動へと変化させることができるなら、そのとき、悲しい出来事をも祝福へと転じていくことができる。そうすることで苦悩が和らぐことはないかもしれないが、苦悩から脱して、その精神(霊)における代償行為への推進力を見つけ出さずにはいられない。 以上のように、言いようのない悲しみで満たした、あの恐ろしい火焔を振り返ることができる。 しかし、いまは、自身のなかの最善な神的存在に誓って、心のなかの聖なる炎を感じよう。人類を前進させる進化の波を通じて、この聖なる炎の意志を担い続けることにより、ゲーテアヌムのなかに意図されていた宇宙的な計画を、この意志の炎で霊的に照らし暖めなければならない。 この瞬間、1年前のほぼ同じ時刻に、私(シュタイナー)が語った言葉を、いま深めつつ繰り返そう。あのとき、ほぼ以下のようなことを語った。 「私たちはいま大晦日を生きている。私たちは、宇宙の新たな年を迎えて、いままた生きなければならない。」 ゲーテアヌムがなおいまも、人智学徒のもとにあり、上記の激励を今、この瞬間に新たにできるなら! 苦悩は生まれなかっただろう。 しかし、もはやゲーテアヌムは、人智学徒のもとにはない。もはや、ないからこそ、上記の激励の言葉を、現在のこの大晦日の晩に、その何倍もの力をこめて発する機会が与えられる。 ゲーテアヌムの魂を、宇宙の新たな年へと担っていき、新たなゲーテアヌムのなかに、かつてのゲーテアヌムの肉体に相応しい記念碑を打ち立てるべく努めよう。 人智学徒の心を、人智学徒が様々な精神的な要素へと委ねていかなければならなかった、かつてのゲーテアヌムに、結びつけてくれますように! 人智学徒の心を、このゲーテアヌムの精神(霊)や魂に、結びつけてくれますように! 自身のなかの最善の存在へと、上記の誓いとともに、単なる新年へと生きていくだけでなく、力強く意志し、霊を担い、魂を導きながら、(神々が企図する)宇宙(計画)の新たな年へと生きていこう。 かつてのゲーテアヌムへの追憶のなかで、人智学徒は身を起こし、私(シュタイナー)を迎えてくれたように、いま、かつてのゲーテアヌムへの追憶のなかに人智学徒は生きている。 今こそ、立ち上がり、人間の本性を象る像のなかに見つけることのできる最善の力とともに、ゲーテアヌムの精神において、更に活動し続ける、という誓いの証(あかし)を建設しよう。 人間の魂を、神々の魂に結びつける意志に従い、人智学徒が意志できる限り、この意志を持ち続け、この神々の魂に精神において誠実であり続けよう。ゲーテアヌムで、人智学を探求した人生のあの時、あの瞬間に、神々の魂に対する誠実を、その精神から追求した。 そして、いま、この神々の魂への誠実を守ることを理解すべきである。 (外から、奪われることにより、奪われたものに対する内からの創造性「精神性」が発揮される。光を奪われれば、内部に光をつくろうとする。生物の原理は、ここにあるように思う。 神々を怨むのではなく、その配慮に感謝すべきなのである。火を奪われたなら、心に火を灯せばよい。)
2011年02月22日
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「魂の復活 高橋 巖:訳」の意訳 キリストの復活 現代人は、自らの直接的な体験を通してキリストを見つけることが必ずできるようになる。 しかし、現代人にキリストを見つけることができるのは、絶望と無力感を、自分の中に再び見つけたときである。 慢心に陥ることなく、自身の能力を反省し、完全な無の感情に襲われることが、キリスト衝動の前提に必須となる。 「私は、自らの自我の中に高次の神的な自我を見つけた」、と立派な神秘家たちは語るだろう。そして、この発見こそがキリスト教である、と言うかもしれないが、そんな発見はキリスト教ではない。 キリスト教はアンゲルス・シレジウスの次の詩句の上に存在すべきである。 「ゴルゴダの十字架は、もし、それを、お前の内(精神)にも立てなければ、お前を悪から救うことはない。」 上記の詩句がどれほど真実であるかを、日常生活の個々の場面から感じとることができる。そして、その個々の場面から無力感の体験を通して、更には、無力感からの復活にまで到ることができる。 例えば、特に現代では、次のように思えれば、とても幸せだろう。 「自らの魂の奥底に真理は潜在する。従って、真理に憧れ、常に真実を語ろうとする。」 しかしまさに真実を語ろうと願い、努力するときこそ、神的な真理を前にして、無力感に到る道を一歩踏み出すことができる。 真に真実を語ろうとしているのか、反省するとき、きっと非常に奇妙な体験をするだろう。 詩人シラーは上記のことを感じ、次のように表現した。 「魂が語るとき、ああ、語るのはもはや魂ではない。」 内なる魂の真実が言葉になったとき、既にその真実は麻痺させられている。それは言語の中では、まだ完全に殺されてはいないが、既に麻痺させられている。 言語を本当に理解している者は、ただ一つの事物だけを表す固有名詞が、この事物に対する唯一の正しい表現である、という事実を知っている。 一般化された表現を用いはじめるとき、それが名詞であれ、動詞であれ、形容詞であれ、もはや真実を完全に語るものではない。基本的に一言一言語るごとに、真実から遠ざかっていく。 この事実を知ることこそが、真実なのである。 「いかなる主張も、お前を真実から遠ざける」 以上のように告白することから、復活への道を歩み始める。 繰り返し語ってきたが、人智学においては、「何を語るかは、それ程問題ではない。」 なぜなら、語ることは、上述した無力感に陥ることでしかないからである。 大切なのは、どのように語るか、なのである。 次のことを試行してみればよい。私(シュタイナー)の著書を通しても試みることができる。 全ての事柄を様々な視点から特徴づけ、1つの事柄の色々な側面を知ろうとするときにだけ、事柄の本質に近づける。 (一般論や抽象論を述べることくらい虚しいものはない。それは実現不可能なことを述べているにすぎないからで、単なる理屈にすぎない。具体論を語るなら実現可能性も高まるが、だからといって、人間がやることに間違いがないとはいえない。 画一的な見方に統一するのではなく、多面的な見方に包括していくのがよいということなのだろう。)
2011年02月21日
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前回は、薔薇十字の師弟の会話を描写したが、そのような場面に似た幾つかの場面に関して、霊やアストラル光のなかにだけ作り出せる記憶とともに、人間の魂は存在する。 しばしば暗黒{の時代}として描写される時代を振り返り、それから現代に目を向けると、今日の基調となっている魂の雰囲気が得られる。 しかし、以上のように見ても、19世紀後半の3分の1の時代から可能となる霊的な開示から、人々の心のなかに、再び、霊的な形で人間に語りかけようという深い憧れが立ちのぼってくる。この霊的な方法は、単なる抽象的な言葉を、自らに言い聞かせるのではなく、様々な徴(しるし)から包括的に、霊的に言い聞かせることを必要とする。 1年前に焼失したゲーテアヌムの建物の形状(フォルム)は、上記のような徴(しるし)として、現代の人類に語りかける使命を持つ霊的存在たちのための言葉、いわゆる言語のような形態をもっていた。 ゲーテアヌムの建物の演壇から、聴衆へと、理念を語りかけ、真に、一種の形状(フォルム)の徴(しるし)としての、この言語形態のなかで、霊的な方法が語り続けられるはずだった。同時に、全く新しい形状(フォルム)として、古代の叡智を再び思い起こすことができる本当の方法が、ゲーテアヌムとともに存在していた。 ゲーテアヌム http://www.t3.rim.or.jp/~u-minami/class/sinbiosis/ecorojiron/shutiner/anumu/anumu.html 秘儀に参入しようとする者がエフェソスの神殿のなかに歩み入ったとき、以前の講義で述べた立像に眼が向けられ、実際、立像は、次のような心の言葉で、語りかけた。 「宇宙エーテルと1つになりなさい。するとお前は高次のエーテルから地上を見るだろう。」 上記のように、エフェソスの秘儀参入の弟子が、高次のエーテルから地上を見た。そして、ある種類の神々(悪魔)が、この光景を妬むようになった。 それでも、ゴルゴタの秘蹟前の数世紀間、大胆な人々は神々の妬みに抗して、太古の聖なる人類進化の年月から、エフェソスの火災まで働きかけてきた天の力を弱まった状態ではあるが、継続していき、弱まりながらも作用させることができるような可能性を見つけていた。 人智学徒の秘儀参入の場であるゲーテアヌムが完成していたら、西側に入っていくことで、心の眼は、やはりエフェソスの立像に向けられただろう。ルシファー的な力の存在とアーリマン的な力の存在の間に据えられ、内的に、神を担い、2つの魔的な存在を調停している宇宙的な存在として、「汝自身を知れ」という要求を、人間は、エフェソスの像のなかに見つけただろう。 そして、ゲーテアヌムの列柱や台輪の形状に注目すれば、それは演壇から発し、霊的な理念のなかへと翻訳するように継続してゆく1つの霊的な言葉を語った。更に、その言葉は、彫塑的に形成された形状に沿って響いた。 ゲーテアヌムの上部のドームは、霊眼からアプローチした人類進化の場面を見るようだった。霊視できる者にとっては、エフェソス神殿の記憶を、このゲーテアヌムにも感じ取り、見つけることができた。 けれども、ゲーテアヌムを、霊的な生の改新の拠点にしていかなければならなかった丁度そのときに、エフェソスの焼失と同じような手段で、またもや松明が、このゲーテアヌムに投げ込まれたとき、かつてのエフェソス神殿の記憶は実に苦痛に満ちたものとなった。 人智学徒の苦しみは非常に深く、その苦しみは筆舌に尽くし難いものだったが、人智学徒を襲った悲惨や悲劇に妨げられることなく、霊界のための営みを続けていくことを決意した。 というのも、心のなかで自らに次のように言い聞かせることができたからである。 「エフェソスから燃え上がる炎を見れば、いまだ人間には自由がなく、良き神々や悪しき神々の意志に従わなければならなかった時代の、『神々の妬み』が炎の中に書き込まれているのが見えた。」 現代において、人間は自由に向けて組織されている。1年前の大晦日、ゲーテアヌムを焼き尽くす炎を見た。赤い火焔は天へと燃え上がった。暗い青から、赤みがかった黄色の炎の筋が、ゲーテアヌムにおさめてあった金属の楽器から発し、あまねく拡がり、炎の海となり、その内部には、様々な色彩を帯びた炎が、メラメラと燃え上がっていた。 炎の海の内部の多彩な炎を見たとき、苦悩の魂に語りかけてくる霊的な言葉を、「人間たちの妬み[Der Neid der Menschen]」という霊的な言葉に、読み取る必要があった。 人類進化において時代から時代へと語りかける霊的な言葉は、上記のような最大の災厄のなかですら、一字一句とも洩らさず語り続けられている。 いまだ人間が不自由な状態で、神々を見上げ、不自由な身から自らを自由にしなければならなかった時代の最大の災厄を表現する言葉、すなわち「神々の妬み」と書かれているのが見えたエフェソスの最大の災厄から、人間が自らのうちに自由の力を見つけ出すべき現代の炎のなかに、「人間たちの妬み」、と書き込まれたゲーテアヌムの災厄まで、いわゆる霊的な進化の一筋の糸がつながっている。 エフェソスには神々の像が、ゲーテアヌムには人間の像があった。それは人類の代表者キリスト=イエスの像で、このキリスト像において、人智学徒は、それと一体化しながら、極めて謙虚に、認識の上で上昇しようとした。 かつて、エフェソスの弟子たちが、今日の人類には、もはや完全には理解し難い当時の特有の方法で、エフェソスのディアナ(アルテミス神殿)において上昇したのと同じように、上昇しようとした。 ディアナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
2011年02月18日
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「夢とエーテル体 高橋 巖:訳」の意訳 夢のしくみ 現代人が見る夢は、どこか混沌とした様を示しているが、その夢の中には、これまでの人生体験が様々な形で現れている。とうの昔に忘れてしまっていたことが、様々な変化を遂げ、夢となって再び現れる。 生活の場においては注意することもなく過ぎ去ったように見えた事柄でさえも、夢の中に浮かび上がる。体験した当時の時間の前後関係もまた様々に混ざり合って現れる。 この夢の様子を注意し観察すると、1つの全く不思議な特徴が見えてくる。つまり、夢の内容として現れてくる全ては、本質的には、3日以内に体験した事柄と、どこかで結びついている。 例えば、恐らく、25年前に体験した事柄を再び夢に見る。多少は変化しているが、25年も前の体験がこの上ない生々しさで、再び現れてくるのを体験するだろう。 よく観察してみれば、常に次のような発見が生じる。 「この夢の25年前の出来事の中には、エドゥアルト君も参加している。」 つい最近、何処かで、たとえ非常に微かでも、エドゥアルトという名の友人の言葉が耳に入ったか、もしくは、その言葉を読んだかした出来事に気づくだろう。 たとえ、その出来事がどんなにつまらない体験でも、夢の中に取り込まれた遠い過去の思い出は、3日以内に体験した出来事と結びついて現れる。以上の、2日、3日、4日というような日数は勿論、大凡でしかなく、夢での体験を、当時の体験とは全く違った形で自分の内に担っていることによる。 人間は知覚を先ずアストラル体と自我の中に受け容れる。知覚された体験内容は、はじめは意識と直接結びついている。体験してからまだ3日以上経っていない事柄は、少なくとも3日以上経っている事柄よりも、集中した形で感情に働きかけている。 普段は、以上のことを意識していないが、常に最近の経験を集中した形で感情に働きかけている。なぜ、そうなのかと言えば、知覚や思索を通じてアストラル体と自我の中に受容した事柄全ては、エーテル体、更には肉体にも刻印づける必要があるからである。 以上の刻印づけには2日、3日、4日を要する。従って、体験がエーテル体と肉体に刻印づけられるまでには、2晩か3晩は睡眠を重ねる必要が生じる。なぜなら、睡眠を重ねたときにはじめて、体験が少なくともエーテル体の中にしっかりと根づき、決して失われることのない記憶内容となるからである。 本質的に、アストラル体とエーテル体の間では、体験の刻印のために絶えざる相互作用、いわゆる一種の内的な闘いが生じている。以上の闘いを通じて、意識的に体験した内容が身体の物質要素をも変化させる形成力となって働きかける。 4日か5日経つまでに、感覚体験をエーテル体と肉体の中にいわば記入する。すなわち体験を刻印することで、知覚体験が完全な所有物となるまでには、3日か4日は待つ必要がある。 以上の刻印により、非常に重要なことが生じる。人間の真の本性は、基本的に、自我とアストラル体でしかあり得ない。 エーテル体を、人間の所有物と言うことはできない。物質万能の時代の人間は、傲慢にも、エーテル体、特に肉体を自分の体であると思い込んでいる。 しかし、肉体とエーテル体は本質的には宇宙に属する存在である。従って、3日、4日経って、自我とアストラル体の中で体験された経験がエーテル体と肉体とに委ねられるとき、体験はもはや人間だけに属するものではなく、宇宙に属するものとなる。 本質的に、世界との係わり合いの中で得た体験は、3日の間だけ、自分だけのものと考えることができる。3日か4日後になると、体験内容を宇宙の中に書き記すことにより、宇宙の中に存在させ、(肉体やエーテル体とともに)神々の所有物となる。
2011年02月17日
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「神智学とダーウィン 高橋 巖:訳」の意訳 ダーウィンの進化論 現在重要な2つの文化的な潮流が存在している。ダーウィンの中に、1つの文化的な潮流が見つかるが、既に、その潮流の最盛期を通り越している。いまだ発端にある2つ目の文化的な潮流は、トルストイの中に見つかる。 現代の多くの人間が、ダーウィン主義によって究極的な真理の1つを発見したように考えている。多くの現代人が、人間の意見は変わりやすい、とは思っていない。ダーウィン主義の最重要な概念が「進化」という概念であり、進化が自然生活においても、精神生活においても、当てはまる筈なのに、人間の意見や認識が進化していくとは思っていない。 そこで、ダーウィン主義を現代人の狭い視野の下ではなく、高次の観点に立って考察してみる。しかし、そのためには時代を遙かに遡る必要が生じる。 今日の人間は、意識的な人間活動を過大に評価している。例えば、芸術や技術を考察するとき、人間の意識的な創作活動が、独自に生み出したものと考え、宇宙の中には、芸術や技術の活動が存在しているとは考えてもみない。 建造物が生まれるには、第一に、建築家の精神の中に、思考内容として生きなければならない。そして建物が建てられたとき、建築家の思考内容が物質化されて存在する。 しかし、上記のような物質化された思考内容は、宇宙の中にも存在する。偏見に囚われずに、天体の規則正しい運行を考察すれば、宇宙という建造物の根底に1つの普遍的な思考内容が存在する事実に気がつくだろう。 天文学者なら、いわば宇宙建造物である天体の運行という建物を、数学他の法則により理解しようとするが、天文学者が思考を通して把握する法則が、宇宙の構造の中にあらかじめ含まれていなければ、一体、どうやって法則を見つけ出せるのか。 自然のどの部分を調べてみても、人間が意識的に思考により理解しようとする法則等が、既に思考内容が現実化して存在するものであり、周囲の全ては既に思考内容が体現して存在している、という事実に気づくはずである。 しかし、機械という概念は、ジョルダーノ・ブルーノやパラケルススの時代には、まだ存在していなかった。人間の文化は、当時はまだ、機械という概念を作り出せなかった。 ジョルダーノ・ブルーノ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E パラケルスス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B9 機械とかメカニズムとかいう概念は、もっと後になってから理解されるようになった。時代が経過する中で、人間の知性は、まず霊を、次に魂を、次に生命を理解し、もっと遅くなってから、メカニズムという概念に到達した。 さて、人類の進化の過程においては、理解とは逆のプロセス(経過)が生じた。霊、魂、生命、機械の概念の順に理解した後、これらの概念を、外的な事物に適用するようになると、はじめに機械の概念を周囲の世界に適用した。機械の概念を適用したのは17世紀である。 哲学者デカルトがメカニズムという概念を動物界に適用した。彼は動物と無生物とを区別しないで、動植物界全体を自動機械のような存在として考察した。当時、魂と霊の概念を個々の存在に適用できず、機械の概念を自然に適用するしかできなかった。 デカルト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88 従って、植物、動物、人間を無生物より高次の存在と見ることは、デカルトにはできなかった。外なる世界では、どんな存在も機械にみえるからである。この時代の影響は現代にまで及んでいる。今日でも人々は機械の概念を外界に適用しようとしている。 従って、人間は機械にすぎない、という主張もなされる。 次いで偉大な発見者たちが現れ、産業界では技術開発が進み。人間の知性は個々の生物に眼を向け、物理的、技術的な関連の下、理解するようになる。18世紀にはまだ、動物や植物の共同生活を機械的には理解できなかったが、19世紀には、成し遂げられた。 本質的なのは、進化にはなく、様々な存在が同類である、ということにある。進化はダーウィン主義の特質ではない。進化論は常に存在していた。アリストテレスも、ヴェーダ哲学も、ゲーテも、進化を論じた。 既に19世紀初頭にも、ラマルクの進化論があった。ラマルクは動物世界が不完全な存在から完全な存在へと、人間にまで高まっていく、と考えていた。 ラマルク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF しかし当時のラマルクの進化論は、決して有名にはならず、ラマルクは理解されなかった。19世紀の中葉になってはじめて、進化論を機械的な方法で理解するようになった。 そして次に、少なくとも仮説として、物質的な人間と他の物質的な生命体とが、同じ物質仲間である、と論じられるようになった。その頂点に位置するのがダーウィン主義なのである。 19世紀中葉の生活状況が示しているのは、人類が機械的な思想を我が物とし、機械的思想を動物界、植物界にも導入するようになったという事実である。生物同士の機械的な生存競争として表現される、この思想は、19世紀中葉の全く特異的な当時の人々の生活状況に由来している。 ダーウィンは、理論を構築する上で、他に、マルサスの理論から最大の影響を受けた。人口の増加と食料の増加に関するマルサスの理論は、外(表層)的な生存競争こそが揺るぎない原理である、とダーウィンに思わせた。 マルサスによれば、人類は食糧を確保する可能性の枠を遙かに超えて人口を増やし続ける、という。食料の増加はゆっくりと算術級数的に1‐2‐3‐4と(直線的に)増えていくのに対して、人口の増加は幾何級数的に1‐2‐4‐8‐16と(曲線的に)増えていく、という。 もし、マルサスの仮説が正しいのなら、この増加率の相違が生存競争を生じさせるのは明らかである。以上が非情なるマルサスの法則である。 19世紀前半に、マルサスが、自分の法則から、論理的な結論を引き出し、文化を促進する共同生活の可能性、よりよい生活を人間に提供する可能性を求めたのに対して、ダーウィンは次のように述べた。 この法則が人生を支配するなら、様々な場所で生存競争が生じるのは当然である。 従って、ダーウィン主義から明らかになることは、人間は、自身から出発し、自分にあてはまることを、外なる自然に持ち込んでいるという態度である。 19世紀当時の人間生活の形成原則となった「万人に対する万人の戦い」という、全く機械的な法則が、ダーウィンの理論となって、再び現れている。 以上は、自然科学の研究上、生存競争の原理が有効ではない、と言いたいのではなく、この原理を外界に適用する必然性がない、と言いたい。 ダーウィン主義万能の時代を眼の前にするとき、次のような結論に達する。 「確かに機械的な思考を発達させなければならないが、この思考は個別の存在のなかの生命、魂、霊を理解する段階にまでは達していない。まず、宇宙生命に関するジョルダーノ・ブルーノの思想を個別の存在に適用することを学ぶべきである。そうすれば周囲の世界を洞察し、そこに霊の働きを見ることができるようになるだろう。」 今日、人類は、機械の概念を個別の存在に適用できるようになった。未来においては、生命、魂、霊の概念をも個別の存在の中に見つけるようになるべきである。機械的に思考する生物学者の眼で植物を見るだけでなく、生命の高次の段階へ昇っていく科学者の様々な概念をもって、見なければならない。 魂と霊の概念にまで上昇すべきである。魂と霊の概念は、既に古代の様々な時代の中で生み出された。魂と霊の概念を、今日の人間一人一人に適用することを学ぶべきである。 さて、ここで、この時代に属する1人の学者について触れておきたい。その人物は次のように書いている。 「地上を生きる全ての生命的な存在は、創造主によって生命を吹き込まれた、ある原形態に由来する、と私は考えている。」 以上は、外界を機械的に理解して、生命と霊の理解までには到らなかった学者の発言だが、創造主を謙虚に受け容れている。上記の学者はダーウィン主義を代表する過激派とは異なっている。 言語についても、ヘッケルは、著書『生命の奇蹟』の中で、全ての言語が機械的な原理から生じたことを洞察するように求めているが、上記の学者は次のように述べている。 「言語はあらゆる種類の事物や性質に一定の特徴を与え、単なる感覚的な印象からは決して生じえない思考経過を呼び起こす素晴らしい霊的な機械である。」 彼は、機械的に生じたものは言語にまでは到らない、しかし、このことを理解するのは未来の課題である、とも述べている。 以上が機械的な思考により世界を征服しようとした時代の学者の言葉なのである。 ヘッケル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB 上記の学者が、感性から語った言葉は、ダーウィンの進化論に関して、神智学者が受け容れられる立場を示している。彼は人類の進化についての壮大な展望を与え、ダーウィン主義が、生命の概念に、人類を導く一(初)段階にすぎず、魂と霊の概念の適用へ導く一(初)段階にすぎない、という事実を、神智学者に示している。 現代人が機械的な科学をもっているように、未来の人類は、生命と魂と霊の科学をもつようになる、というのが神智学の観点だとすれば、この神智学の観点は今述べた学者の立場とも一致する。 事実、上記に引用した言葉は、伝統的な偏見から自由になれないダーウィン主義者の言葉ではなく、正しくチャールズ・ダーウィン自身の言葉に他ならないからである。 (モノマネはよくないということである。真実は、独力でみつけるべきである。)
2011年02月16日
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リーマンショックに発した世界的な景気低迷が続いている。リーマンショックは、経済版の原発事故といえる。金儲けという欲望の暴走である。懲りない悪党は、いまだバブルの再来を目論んでいる。 懲りない悪党に対して、民衆のストレスは極度に高まり、民主化という名の下の暴動に発展してきている。悪党は、この機に乗じて、更なる野望を画策している。 世界はいま、油断ならない非常に危ない状況にあると思う。 さて、日本も相変わらず無知無能蒙昧の菅政権が続き、景気には不菅症となり、悲菅的にならざるを得ない状況でもある。 ともかくも、いまやることは景気の活性化しかない!! 景気の活性化を図るには、大胆な変革、もしくは抜本的改革が必要というお題目を唱えるだけでは愚の骨頂である。 一歩議論を進めて、市場の質的転換が必要なのである。市場の価値観の転換である。 キリストは、人はパンのみに生きるにあらず、というような重要な発言を残している。 いま、市場は、需要と供給のみに依存するものにあらず、というべきであろう。 将来の展望のない創造力を失った企業こそ、これまでの成功が忘れられずに、発展途上国を求めて、海外へと進出しようとしている。 もはや、その行き着く先は、軍事兵器という人殺しの何者でもない製品や商品、及び軍隊というサービスで、これまで以上の利益をあげようと市場を求めて彷徨う死神やゾンビである。 このような企業の将来は、モンスターという吸血鬼になる運命にある。 アダムスミスは、市場には、神の見えざる手が働くといったが、それは市場に関わる人間の精神の意味での神であり、バブル経済が到来してからは、利潤追求という欲望が動機であり、神ではなく、結局のところ、悪魔の見えざる手ではないのか。 この悪魔の見えざる手を、神の見えざる手へと変貌させなければならないように思う。 考えてみれば、戦後の日本社会ほど、安全で、安心で、安定していた社会はなかっただろう。このような安全、安心、安定という土台が完備されてこそ、モノが売れ、フォード式の非芸術的な大量生産、大量消費がなされたわけである。 孔夫子は、衣食住足りて礼節を知る、といったが、戦後の日本人は、どこか礼節を知って、衣食住を満たしているというか、太平洋戦争で全てを失った日本人には、礼節しか残されていなかったのかもしれない。 昨今、バブル経済とともに、治安は悪くなり、太平洋戦争の焼け跡からの復興精神は何処かに消滅してしまった感がある。 私の家系では母方の祖母だけが存命だが、便利になったものだ!と、10年前は感嘆していたそうだが、いまでは教育が悪い!と愚痴っているそうである。 つまり、モノが売れなくなったのは、日本人の精神性の転換にあるように思う。 そこで、以下のことを提案したいように思う。 エコポイント制度を、福祉ポイントにして、景気の活性化を行う政策がよいと思う。 高齢化社会に順応するために、高齢者に優しい商品やサービスに対して、エコポイントのような、ポイント制度をつくるのがよいと思う。そして、高齢者用のシルバーポイントと呼ぶ。 また、育児にもポイント制度を活用し、育児に対しての商品やサービスにもポイント制度をつくり、育児用のゴールドポイントと呼ぶ。 そして、防犯や防災にも、ポイント制度を活用し、防犯や防災の商品やサービスには、ブロンズ(銅)ポイントと呼ぶ。 以上の、福祉ポイントのオリンピック景気対策を早急に行うべきだろう。 つまり、市場を、失った日本人の精神にあわせ、取り戻すことが必要に思う。 市場に、安全、安心、安定という人間の精神を取り戻し、神の手をつくりだすことが肝要なのだ! ポイントについては、エコポイントのように何かに還元するものでもよいが、それだと財源が必要になるので、税金から還付される方式にしたらどうだろうか? ポイント分が、必要経費として申告でき、確定申告により還付できるものにすれば、税金を払っていない者は除外できる。また、蓄積ポイントが高くなった人には、表彰制度を確立するのもよいだろう。皇室の行事に参加できるというような待遇もよいだろう。 ゆくゆくはこの福祉ポイントが、貨幣に変わるような国内だけの通貨になれば面白いと思う。 日本は世界一の火山国であり、地震国である。これからも多くの天災が起こるだろうから、天災を経済に結びつければ、不況知らずとなるのではないか?というような構想が思い浮かんだ。
2011年02月16日
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物質体、エーテル体という人間の本質に続いて、弟子には、人智学徒がアストラル体と呼ぶ人間の第3の本質が示された。 弟子がはっきりと理解できたことは、このアストラル体は、呼吸のための、人間の生体組織のなかの気体全てや、気体状態全てに対する動機(命令)を含んでいる、という事実である。 けれども、人間が死の門を通過してから後も、長期間にわたって、地上的な存在が、気体状となって、いわば騒ぎたてたり、霊眼には、地球の大気圏の現象のなかで数年にわたって、死者たちのアストラル体が騒ぎ立てるのを感知できるが、やはり地球も、地球の周囲も、アストラル体のいわば騒ぎに対して、その騒ぎを解消すること以外、何もできない。 というのも、アストラル体の制御を指導できるのは、第3(下級三隊)ヒエラルキア(位階)に属する、アルヒャイ(権天使、時霊)、アルヒアンゲロイ(大天使、火霊)、アンゲロイ(天使、薄明霊)といった存在たちだけだからである。 弟子の心を深くとらえながら、導師は次のように語った。 「お前がお前のなかに鉱物界を取り入れ、鉱物を変化させ、人間界として加工できるのは、お前が、物質体を従わせる、セラフィム(愛霊)、ケルビム(調和霊)、トローネ(意志霊)の力の一部だからである。 お前のエーテル体は、いまの段階では動物だが、お前は第2ヒエラルキア(位階)のキュリオテテス(叡智霊)、デュナメイス(運動霊)、エクスシアイ(形態霊)の霊たちの一部でもあり、お前が液体要素のなかで活動できるのは、お前が地球の一部ではなく、このヒエラルキアの一部であることに由来する。 そして、お前が気体(空気)状態の成分のなかで活動できるのは、お前が地球の一部ではなく、アンゲロイ(薄明霊)、アルヒアンゲロイ(火霊)、アルヒャイ(時霊)というヒエラルキアの一部であるからだ。」 この教えを十分に伝授された後、もはや、弟子は自分を地球に属する存在とは感じなかった。弟子はいわば、自らの物質体、エーテル体、アストラル体から出て、自分を、鉱物界を通じて、第1ヒエラルキア(位階)に結びつけ、地球の水(液体)状を通じて、第2ヒエラルキアに結びつけ、大気圏を通じて、第3ヒエラルキアに結びつける力を感じた。 (この教えを系統化したのが、生命の樹である。古代人は生命の樹を使って、医術を教えた。その事実がいまでは、ヒポクラテスが、プラタナスの樹の下で教えたという伝承に変わってしまった。このような曲解を生じさせたのは、悪魔の仕業である。) そして、自分の内に担っている熱的要素を通じて、自分は地上に生きている、という事実が明らかになった。同時に、薔薇十字の弟子は、自分のなかに担っている物質的な熱を、地上的な人間の本質に感じた。 更に一層、弟子は、魂や霊の熱を、物質的な熱と親和性をもつように感じるようになった。そして自分の物質的な内容、エーテル的な内容、アストラル的な内容が、固体、液体、気体状態を通じて、神的な存在とどのように関連しているか、に関して、後の人間は次第に誤解していくが、弟子は良く知っていて、真に地上的-人間的存在が、熱的な要素である事実を知っていた。 薔薇十字の弟子に、熱的要素と、人間-地上的存在の関連に関する秘密が明かされた瞬間に、弟子は自分の人間性を、霊的な存在に結びつけることを知った。 また、薔薇十字の導師たちが住んでいた質素な住居に、弟子たちが入るには、わざとらしくない、不思議に思うような方法で、ある準備(心構え)をすることで、気づかされた。ある者はある方法で、また別の者は別の方法で、表面的には偶然のように見える方法を準備をした。 「お前は、独力で、お前の霊性が宇宙的-神的な存在と結びつく場所を探さなくてはならない」、という事実に気づかされるような、準備(心構え)をさせられた。 (師と同じ方法ではなく、自分独自の方法を編み出せということなのだろう。) 今述べた教えを、弟子が受け取ったとき、弟子は導師に次のように言うことができた。 「私は今、地上で得られる最大の慰めを受けて、あなたのもとから去ります。なぜなら、あなたは私に、地上の人間は、熱のなかに、本当の要素を持っていることを示されました。そのことで、物質を、魂や霊に結びつける可能性を、あなたは私に与えてくださったからです。私は、いまはまだ硬い骨や、液体の血液、気体の空気に対する呼吸のなかに、魂をもたらすことができません。熱のなかに私は魂をもたらすことができるだけです。」 以上の言葉を残して、最高の静寂とともに、当時の教えを受けた弟子たちは、導師たちのもとから去っていった。導師の表情の静寂さは、弟子に対して、大いなる慰めの成果を表していたが、この師の表情から、天の言葉を語ることのできる穏やかな弟子の眼が徐々に育っていった。 以上のように、15世紀の最初の3分の1まで、深い魂的な教えが根底にあった。勿論、外(資料)的な歴史が伝える史実には隠匿されていたが、人間の魂に自身の本性を宇宙的-霊的な存在の領域に結びつけ、感動させた教えの伝授が行われていた。 上記の霊的な雰囲気は、前世紀(19世紀)までの経過とともに消え去っていった。上記のような雰囲気はもはや、現代の文明のなかにはない。そして、以前描写したような事実を秘儀参入として見た場所(神殿)の上に、外面的な、神と離れた文明が広がった。 (悪魔による、神の隠匿といえる。日本の神話では、天照の岩戸隠れといえる。人間たちは、神から離れ、競争し、お互い戦い憎しみあうようになり、神をも畏れぬような文明を築いたので、神様は隠れてしまった。早い話、悪魔が人間を使って隠してしまった。)
2011年02月15日
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「「セフィロト」について(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 「生命の樹(セフィロト)」について(後半) もし、例えば、16のアルファベットを数え上げ、覚えても、それだけでは、あまり読書の役には立たない。 同じようにケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクトという10個のセフィロトを数え上げ、覚えても、古代ユダヤ人にとっては、A、B、C、D、E、F、G、H等々と文字列を並べる幼児と同じにみえるだろう。 アルファベットを数え上げ、覚えるだけでなく、その文字列の意味を読めなければならない。改めて考えてみると、字母となる文字数はたったの25か26なのに、この僅かな文字から、なんと多くの書物がこれまで書かれてきたことか。 例えば、カール・マルクスの『資本論』を手にとってみれば、そこには26の字母しか存在しない。その26の字母が、各々無数に組み合わさり、この書物を壮大な思想の構築物として組み立てている。 アルファベットだけを知る人間が、「資本論」を手にとり、この書に書かれている26の字母を読めても、その字母が配列の順を各々変えて並んでいるだけで、内容を理解できなくなる。 同じように、古代ユダヤ人にとって、10個のセフィロトは字母にすぎなかった。但し、古代では字母を、現代のような1文字ではなく、複数文字の単語として表していた。 やがて字母がヨーロッパに伝えられたとき、字母となる単語(言葉)の意味は失われた。 従って、古代ギリシア文化が古代ローマ文化に移行したとき、非常に重要な結果が生じた。古代ギリシア人はAを「A」ではなく、「アルファ」と呼んだが、「アルファ」という言葉は「霊的な人間」という意味だった。Bは、ベータという言葉で、「家」の意味だった。 以上のように、どの字母も単語(言葉)と意味を持っていた。古代ギリシア人は字母と単語(言葉)を区別しなかった。ところが古代ローマ人になると、もはやアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ等々ではなく、全く抽象的にA、B、C、D、E、F、G等々と呼んだ。 以上のように、古代ギリシア文化が古代ローマ文化に移行したとき、ヨーロッパは壮大な文化の下痢を起こした。以上のような壮大な下痢症状の中で、文化の中の霊的本性を失った。 以上のことは、古代ユダヤ文化の場合、特に大きな意味を持っていた。古代ユダヤ人が最初の字母である「アレフ」を書き記すとき、「アレフ」という単語(言葉)で、「人間」を意味づけした。どの字母も感覚世界の言葉を示していた。 ところがケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクトは、霊的な字母のためにだけつけられた名称(言葉)だった。霊界の中でだけ読める単語だった。 古代ユダヤ人はアレフ、ベト等々の外なる物質世界のためのアルファベットと、10個のセフィロトという霊界を理解するためのアルファベットとを持っていた。 例えば、ケテル・ケセド・ビナーと綴れば、「霊界における至高の力が自由に叡智を生じさせる」という意味だった。 (ケテル「至高の叡智」、ケセド「自由」、ビナー「知性」) コクマー・ゲブラー・マルクトと綴れば「叡智が生命力の霊たちを生み出し、地上で働かしめる」という意味だった。 (コクマー「叡智」、ゲブラー「生命力」、マルクト「大地力」) 以上のように、10個の霊的な字母を通じ、一種の霊学を学んだ。 ところが、西暦1、2世紀の古代ユダヤ人は、以上の内容を知っていたのに、その後の古代ユダヤ人は散り散りになり、世界中に分かれ別れになっていった。ラビの下で学ぶ弟子のことをカカミムと言うが、カカミムたちはセフィロトを学んでも、どう読むのか正確には分からなくなっていった。 従って、12世紀にも、ホド・ケセド・ビナーとケセド・ケテル・ビナーという2つの命題を巡って、大論争が生じたくらいだった。 ところが、中世の半ば頃に、ライムンドゥス・ルルスという人物が現れ、非常に重要な教えを説いた。しかし、もし、現代人が、ライムンドゥス・ルルスに関する書物を読んだら、その馬鹿げた内容に大笑いするだろう。大抵の書物には、次のように記されている。 「このライムンドゥス・ルルスは、10個の言葉を各々紙片に記し、その紙片を、博打を打つように(現代風にいえば、カードゲームをするように)、ごちゃ混ぜにして並べ、その結果を書き記し、そこから色々な知恵を引き出した。」 ラインムンドゥス・ルルス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%82%B9 けれども、上記の記載内容には深い思想が込められていた。彼は、現世的なアルファベットでは真理を探究できず、通常の思考法で解釈しても役に立たず、まるで賭博に使うルーレットのように不確かな結果しか出てこないので、逆に、不確かな10個のセフィロトを使い、通常の思考法から除外した組み合わせが示す新しい言葉の解読法を学ぶ必要がある、と考えた。 彼は著述の中で以上のように述べている。そのためのイメージとして、霊的なルーレットを廻すように、セフィロトの各文字を記した紙片を混ぜ合わせ、そこから超感覚的な開示を読みとろうとした。 さて、古代ギリシアにおいては、既に霊的なアルファベットが存在したが、アリストテレスとアレクサンドロス王の時代には、古代ギリシア語による10個の概念も作られた。 今日でも、上記の10個の概念は、「存在」、「特質」、「所有」というような10個の単語として、論理学の授業で活用されている。上記の概念は、人類史上の興味深い事実だが、古代ギリシアの彼方のアジアでは、セフィロトの樹により、霊界の出来事が学ばれた。 西暦1、2世紀頃の人間は、古代ギリシアやローマ等において、アリストテレスの生命の樹によって霊界の読み方を学んだ。しかし次第に、上記の両方の樹(西洋のアリストテレスの樹と東洋のセフィロトの樹)の内容は忘れられ、ただ10個の概念を数え上げ、覚えることができるだけになってしまった。 (現代では、この生命の樹のことを、ヒポクラテスの木として、単なるプラタナスという植物の樹と解釈して、骨董品のようにして大事に飾っているが、古代人がみたら苦笑するような喜劇だろう。 例えば、「現代人は、我々が、プラタナスの樹の下で、講義をしたとでも解釈しているようだ。なぜ、学院の建物「神殿」があるのに、わざわざ、そんなことをする必要があるのか? 植物学を教えたとでも思っているのかな? 無知にもほどがある。」と言うだろう。) そして、今、はじめて、人智学徒により、霊界を読み解くために、10個のセフィロトが用いられるようになるべきである。もし、霊界が読み解けなくなれば、次第に人間は、人間について何も知ることができなくなってしまうだろう。 古代ユダヤの賢人がゲブラー・ネツァク・ホドと綴り、書いたり、語ったなら、それは「生命力が腎臓の中で夢を孵化する」という意味にとることができた。 (ゲブラー「生命力」、ネツァク「運動、克服」、ホド「生殖力、共感」) そして、それは、「人間の中の霊的な人間が夢の内容を生じさせる」という意味でもある。 19世紀後半から、次のようなことがよく行われるようになった。テーブルが置かれ、その周りに何人か、例えば8人が席を占め、両手を広げ、外側の指が隣の人の外側の指に触れるようにし、テーブルの上に置く。 すると、テーブルが振動し始める。その8人はテーブルが床を叩く音の数を数え、その数から字母を取り出す。 以上は心霊術の集まりなのだが、このとき何を期待しているのか。この心霊術に集う人々の信じるところは、人間がいくら頭で考えても、深い認識には達しない、真の認識はどこか別のところから来る、というものである。 (日本人の会議も、どこかこのような心霊術に似ている。) 以上のような考え方に対して、ゲブラー・ネツァク・ホドが語るのは、次のようなことである。 霊界を認識しようと思っても、霊たちを見ることはできない。霊は身体を持たないので、見ることも聞くこともできない。だから、上記のような人たちは、テーブルを身体に見立て、霊たちを、もう少し分かりやすい存在にしている。 ついでに述べておくと、上記の心霊術の場合には、ごく一般的な事柄しか現れてこない。いずれにしろ、テーブルを取り巻く人たちは、霊が現れ、聞ける存在になることを期待しているが、そもそも、その人たち自身も、霊ではないのか。 自分の中に霊を求めるなら、テーブルを通して現れる霊よりももっと遙かに偉大な霊に出会うことができるはずである。 人間は人間らしく、自分の肢体、自分の声、特に自分の思考力を用いなければ、霊的な夢を体験することもできないだろう。 勿論、テーブルが踊り始めるのも、周りに座っている人たちの無意識の力がテーブルに働きかけているからだが、人間が、自分の中の霊的な人間を語らせようとしなければ、決して、高次の無意識の声に耳を傾けることはできない。 (わざわざ外に求めるのではなく、既に自分のなかに存在する、自分の中の霊的存在に耳を傾ければよい。でないと、現代の唯物思考の典型のように、古代人が、わざわざ外に出て、プラタナスの樹の下で医学教育をしたと錯覚し、プラタナスの樹を崇拝し、偽者の宗教を信じてしまうのと同じである。 現代人は、ヒポクラテスが何を教えたのか、よりも、ヒポクラテスが教えた史実をありがたがっている単なる愚かな収集家へと益々堕落してしまうだけではないのか? 死体を集めても生命は生まれない。医学はもはや死体同然なのかもしれない。悪魔に騙されていることも知らないのだろう。 人間としてのキリストの研究も大切だが、霊としてのキリストを理解しない限り、人間という存在はみえてこないのだから。)
2011年02月12日
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「「セフィロト」について(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 「生命の樹(セフィロト)」について(前半) 古代のユダヤの問題についていえば、いまだ究極の問いが残されている。すなわち「セフィロト(生命)の樹」に関するものである。古代ユダヤ人は、このセフィロトの樹の中に究極の叡智を組み込んだ。 その叡智は人間と宇宙との関係を示していた。これまでも述べてきたように、人間は、眼に見える存在だけから成立しているのではなく、エーテル体、アストラル体、自我という眼には見えない超感覚的存在からも成立している。 古代人は本能(生まれもった霊能力)から、既に上記の事実を知っていた。しかし、その古代の知識は、現在は完全に失われてしまっている。従って、現代人は、ユダヤ的な生命の樹ともいえるセフィロトの樹を、空想の産物にすぎないと思いこんでいる。 この認識は大きな間違いである。 そこで今回、古代ユダヤ人が、このセフィロトの樹を本質的にはどのように考えていたのか、を明らかにしたい。 古代のユダヤ人は次のように考えていた。 「人間は宇宙の中に立っている。宇宙の様々な力が周囲の至る処から人間に働きかけている。第1に3つの力が人間の頭に働きかけ、第2に、3つの力が人間の中央部、つまり胸部及びその血液循環に働きかけ、なお第3に、3つの力が人間の下半身や四肢の手足に働きかけ、最後に10番目の力が大地から人間に働きかけている。」 以上のように古代のユダヤ人は、10の力が外から人間に働きかけているように考えていた。 でははじめに、宇宙の最も遠い場所からきて、人間の頭部に働きかけ、球形の宇宙と同じように、人間の頭部を丸く形作っている3つの力を考察してみる。 この3つは最も高貴な性質の力である。後のギリシア表現を使えば、「至高の天界」からきて、人間の頭を宇宙の模像として形成する力である。 (人間の脳は天空の模造「複製」であると、シュタイナーは説いている。脳のスパーク「ニューロンの情報伝達は、天空の星々の輝きと同一視されるという。) さて、すぐに、古代ユダヤの概念を紹介するが、ただ提示するだけでは、理解できないような概念である。実際 古代ユダヤ人の叡智の結晶ともいえる、このセフィロトの10の概念のうち、第1のセフィロトの概念(ケテル)が、後世恐ろしく乱用され、悪用されてしまった。 当時、権力を手に入れた人間が、その権力の象徴を、いわゆる権力を表現する言葉を、権力機構の中に取り込んでしまった。民族を支配する権力を獲得し、権力を自分の子孫に委ねた人間は「王冠(ケテル)」の所有者だった。 王冠(ケテル)という言葉は、古代では、人間の霊性に贈られる至高の存在の表現にだけ用いられた。王冠を被ることを許された者は、秘儀に参入して、至高の叡智を獲得した人間に限られた。王冠は至高の叡智の象徴だった。 霊界から人間の中に降りてきた全ての超人間的な働きを示す総括概念だった。王たちが好んで王冠を戴いたのは、当然だった。勿論、全ての王たちが賢明だったわけでも、天上からの至高の贈りもの(叡智)を身につけていたわけではない。 にも関わらず、どの王も、この象徴を頭に戴いた。従って、本来の意味と、後に乱用された結果とを、一緒くたにすることは許されない。 この王冠、人間の頭上に降りてくる至高の霊の贈りものを、古代のユダヤ人は、「ケテル」(王冠)と呼んだ。 (「鳩」や鳥類で現すこともある。神道では3本足の八咫烏で表すようである。烏帽子がその象徴である。神社「神殿」という、神々との交信の秘儀参入の場に入るときには、烏帽子を被るのは、古代の風習が形骸化したものだろう。) 人間の頭部は、王冠(ケテル)の他に、2つの別な力も必要とした。この2つは、右と左からやってきた。右の耳を通して入ってくるものは、「コクマー」(叡智)と呼ばれ、もう一方の側(左)からくる力は、「ビナー」(知性)と呼ばれた。 古代のユダヤ人は、叡智と知性を区別した。現代人は、知性的な人なら全て賢い、と思っているが、古代では異なった。 知性の持ち主でも、この上なく馬鹿げた、愚かなことを考える人もいるわけで、この上ない愚かさを非常に知的な形で考え出すこともある。 古代のユダヤ人はコクマー(叡智)とビナー(知性)、つまり、古代では、叡智と知性とを、非常に早くから区別していた。 以上の考え方は、古代のユダヤ人が人間を全宇宙の一分肢であると強く意識していた事実を示している。 でなければ、セフィロトのような教えは創られなかっただろう。人体においても、肝臓が血液の循環から脈管を、つまり人体環境から自らの力を得ているように、人間全体も宇宙環境から自らの力を得ている、と考えた。 (八咫烏を表す烏帽子は、目にはみえない「黒の」3つの力を表現したものと考えられる。古代では、神殿は秘儀参入の場であるので、参入者は、3つの力を獲得したので、それが後に形骸化し、烏帽子のような表現形態となったわけである。日本文化を研究すると、古代ユダヤの思想がみえてくる。) さて人間の中央部に働きかける3つの力を考えてみる。中央への力は、上から降りてくるのではなく、環境の中で共に生きている。 中央への力は、太陽の輝きの中で、風や雷雨の中で生きている。古代のユダヤ人は、中央への3つの力を「ケセド、ゲブラー、ティファレト」と名づけた。今日の表現に置き換えれば、ケセドは「自由」、ゲブラーは「力」、ティファレトは「美」といえる。 さて、ゲブラー(力)は心臓に働きかける。ドイツ語では、断固とした態度を、心臓の働き(Herzhaftigkeit)というように、魂の力も肉体の力も、人間の心臓が命令したものである。 従って、古代ユダヤ人によれば、人間が呼吸をし、空気が心臓の中に流れてくるとき、外から空気の物質力が入ってくるだけでなく、霊的な力のゲブラーも入ってくると考えられた。 現代人の言葉でいえば、ゲブラーとは生命力を意味する。ゲブラーと並んで人間の自由であるケセドも中央では生き、また一方では、人間の形姿を通して地上で最も美しい力のティファレトが現れている。 古代のユダヤ人は次のように考えた。 「心臓の鼓動を聞けば、人間の中に入ってくる生命力(グブラー)が感じられる。右手を伸ばすと、自分が自由(ケセド)な存在だと感じられる。筋肉を伸ばす度に、自由(ケセド)の力が入ってくるように感じられる。右手より優しく動かすことのできる左手は、人間が美(ティファレト)の実現を可能にする。」 従って、上記の3つの力、ケセド(自由)、ゲブラー(生命力)、ティファレト(美)は、人体における呼吸、血液循環、繰り返される運動に関わる全てに対応する。睡眠と覚醒の交互の転換もティファレトに属する。睡眠-覚醒も運動である。人間は、昼と夜との相互運動を意識と共にしている。 さて、人間は植物のように一箇所に止まることなく、場所を移動できる。動物とも共有する、この移動力を、古代ユダヤ人は「ネツァク」と呼んだ。ネツァクは大地に固定された立場の克服を意味する。ネツァクは「克服」である。 さて、人間の重心は人体の中心にある。人体を一点で支えられる場所は、覚醒時はやや上方に、睡眠時はやや下方にあるが、この人体の中心は、人間の場合、生殖活動も生じさせる。この生殖活動に関わる部分を、古代ユダヤ人は「ホド」と呼んだ。 いまホドを「共感」と呼ぶ。 以上のように、セフィロトの順番が進むにつれ、その意味を表す言葉は、次第に人間的になってくる。 ネツァクは外的な運動、空間内の運動や空間の克服を意味するが、ホドは内的な感情、内的な運動を意味する。外界に対する内なる共感は、全てホドである。 次に九番目の「イェソド」だが、これは本質的に人間が立っている場所を意味する。従ってイェソドは「土台」なのである。人間に土台があるのは、外からやってくる力のお陰である。 人間は外からくる力のお陰で、大地と結びついた自分を感じる。人間が大地に立てる力がイェソドであり、土台の意味である。 最後に大地の力が人間に働きかける。周囲を取り巻く力(エーテル力)ではなく、大地そのものの力(物質力)は「マルクト」と呼ばれた。つまり人間が働く場、または外なる地上界の力である。マルクトは「場」である。 しかしマルクトにぴったり当てはまる表現を見つけるのは困難である。「国」とか「領域」とか、でもよいが、これらの言葉は全て乱用されているので、古代のユダヤ人が感じたマルクト、つまり、人間に対する大地の本質的な働きを、現代語に置き換えることはできない。 そこで次のように考察してみる。人間の中心から下に大腿骨が左右についている。大腿骨が膝までくると、膝蓋骨がある。以上の骨には、ネツァク、ホド、イェソドの力全てが働いているが、骨が空洞になっているのは、大地の力のマルクトが作用しているからである。 この骨を空洞にする力が、古代のユダヤ人の言うマルクトなのである。 以上のように、セフィロトの樹について語るなら、人間という存在に到達する。上記の力全て、つまりケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクトを、古代ユダヤ人は10のセフィロトと呼んだ。 人間は、上記の10のセフィロトにより、高次の霊界と結びついている。ただ10番目のマルクトだけは、大地に沈んでいる。従って、マルクトは、肉体をもった人間の生きる場所である。 そして、人間の周囲を霊的な人間が取り巻いている。下では大地の力(マルクト)として、次いで大地に近い周囲から働きかけてくるネツァク、ホド、イェソドが霊的な人間(作用)である。次いで血液の循環や呼吸に働きかける力のケセド、ゲブラー、ティファレト、そして、頭部に働きかける最も高貴な力のケテル、コクマー、ビナーがある。 以上のように、古代ユダヤ人の考える人間は、全側面において宇宙と結びついている。人間の超感覚的な成分である霊的な人間を、以上のように考えてきた。 では、改めて、次のような問いを考える。 以上のように、宇宙との関係が明らかになった場合、古代ユダヤ人は、この10個のセフィロトで本質的に一体どんな目標に到達しようとしたのか? 実際、古代ユダヤの学徒なら誰でも10のセフィロトを学習しなければならなかったが、ただ10のセフィロトを数えあげ覚えただけではない。もし数えあげ覚えただけだと考えるのなら、間違ってしまう。 以上のように述べてきた10のセフィロトを数え上げ覚えることが、重要な内容だったわけではない。セフィロトの樹とは何か、という問いに、以上のような回答で答えるのなら、幼児にも簡単に謎が解けてしまう。 現代人はセフィロトの樹とは何か、と問うことだけで満足している。その場合、上記に説明したような事柄が含まれていれば満足する。もしそれだけなら、人間との関係が無視されてしまい、ただ10個の言葉と色々な空想的な解釈とがつけ加えられるだけとなる。 古代ユダヤの学園では、上記で終わりではなく、当時の意味での学問を古代ユダヤの学徒と同様に学ぶには、上記より遙かに多くを更に学ぶ必要がある。
2011年02月10日
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「世界問題 高橋 巖:訳」の意訳 世界問題(1921年8月28日当時) 11月に開かれるワシントン会議の結果に世界中の関心が集まっている。西洋列強のこの会合の議題として、軍縮と太平洋問題が挙げられているが、真剣に考えているのは後者だけであり、前者は一種の道徳的な装飾品と思わなければならない。 事実、北米、英国、日本という、今日(1921年)の世界史が依存する3大強国の視線は、太平洋に集まっている。太平洋問題の何に関心が向けられているかを調べてみると、その関心の中心になっているのが経済問題であることが分かる。 経済上の利益に見合った軍縮を行うか、その利益に応じた軍縮を行うか、しか考えられないでいる。各国の国益に応じて、経済問題も対処していかざるを得ず、他の問題は経済活動の光の下でしか扱われざるを得ない。 しかし、欧米の思考方式は、欧米各々の歴史に沿ってもたらされたまま変わらない限り、アジアでは、この上ない抵抗を受けることになるだろう。 ロンドンの英連邦会議での南アフリカ連邦首相スマッツの発言は、多くの人々にとって大変重要なものだった。彼は、「未来の政治はもはや大西洋や北海ではなく、今後の半世紀間は太平洋に眼を向けなければならなくなるであろう」、と語った。 しかし、太平洋の経済問題が重要視され、この方向で為される西洋人の行動は、アジア人の意志と衝突するにちがいない。ほぼ50年前から始まった世界経済は内的に益々発展していき、様々なアジアの民族をも活動圏内にひき入れることになるだろう。 けれども、民族に現存する相互理解に対する様々な条件に、更に別の条件が加わらなければ、決して良い結果をもたらさないだろう。 アジアの様々な民族の信頼を得ることができず、共に経済活動を行うことはできないだろう。純粋に経済上の地盤だけでは、或る程度までの信頼しか得ることはできない。 アジア人の魂をつかむことができなければならない。でなければどんなつき合いも、アジア人たちの不信感によって覆いをされてしまうにちがいない。 以上のように考えると、今日の世界問題は最大の到達目標をもたざるを得なくなる。西洋人は数世紀の間、アジア人の不信感を呼び起こすような考え方や感じ方を行ってきた。 これから、アジア人が、西洋の科学とその技術成果をどれ程知るようになろうとも、アジア人の心をひきつけず、反発させるだけであろう。同じアジア人仲間である日本人の中に西洋文明への傾斜を見るとき、日本人を真のアジア精神の背教者と見做すだろう。 アジア人は、内的な魂の生活の豊かさに比べて、西洋文化を低次のものと見做している。物質的進歩の点で立ち遅れていることに注意を向けない。ただ魂の努力だけを見る。そして、この努力の点では東洋人の方が西洋人よりも優位に立っていると思っている。 西洋人のキリスト教に対する態度も、東洋人の宗教体験の深さにまで達しているとは見ていない。この点で今、東洋人の知るキリスト教は、東洋人にとっては宗教的唯物論でしかない。そして、キリスト教体験の真の深さは今、東洋人の眼の前には現れていない。 西洋の様々な民族が、魂のなかのこの対立を、世界政治の見方の中に取り入れなければ、解決不可能な問題の前に立たされてしまうだろう。この対立を考えることを感傷的だと思い、実際家には関係のないことだと思う限り、人々は世界政治を混沌の中へ追い込んでしまうだろう。 これまでは夢想家のイデオロギーにすぎないと思ってきた事柄の中に、実践力を認めることを学ばなければならない。 西洋は、この発想の転換ができる筈である。これまで、西洋の本質の外側だけが発達してきた。東洋人が理解せず、決して理解しようとしないことを、西洋人は達成した。しかし、西洋人が達成した、この外側は、これまで、その本質を現さなかった(魂の)内力から生じたものである。 この内力を発展できなければならない。西洋人が、自らの魂の内力を発達させた時には、物質生活上の進化だけでなく、精神生活の上で東洋人にとっても世界的な価値を示すような成果をあげられるだろう。 以上のような主張に対して、次のように応じることもできる。 「野蛮なアジアに比べれば、西洋には内面化した深い心情があり、高次の文化がある。」 上記の発言は確かに正しいが、そんな表面上のことではなく、西洋人が深い魂の本質を発達させることができる、ということが大切なのである。 しかし、これまでの西洋の歴史は、魂を公的な社会生活の中には持ち込まないよう、仕向けてきた。東洋人の魂は、子供のようにみえるかもしれない。皮相的でさえあるかもしれない。 しかし、東洋人は、この魂をもって公的な社会生活を営んでいる。ここで述べている対立は、倫理上、善か悪か、ということとは無関係である。同様に美しいか醜いか、芸術的か非芸術的かということとも関係はない。 この対立とは、東洋人が外なる感覚世界の中でも、内的な感性や精神を共体験しているのに対して、西洋人が世界と向き合うときには、魂を内部にしまい込んだままにしている、ということにある。 (西洋人は裸になるのを畏れるということか?) 東洋人は感覚を働かせ生きるときにも精神を発揮する。しばしば悪しき精神をも発揮するが、精神であることには変わりない。西洋人は内面生活ではいかにも精神と密接に結びついているとしても、感覚生活は、この精神を逸脱して、機械的に考え出され、秩序づけられた世界に向かって努力していく。 従って、この傾向を続ける限り、西洋人は東洋人のために、精神的な思考や感性を身につけようとはしないだろう。 もし、西洋人が、精神的な思考や感性を身につけようとするのなら、もっぱら自分自身の魂の要求から行うだろう。決して、アジア問題が動機となることはない。 しかし西洋の物質文明は、西洋の中だけにとどまり続けることに満足できないところまで達した。その内部で、西洋の人々は自身の人間性が内的に空虚になり、荒廃していく、と感じさせられている。 西洋人の魂は存在全体の内面化を達成するために、精神的な生活態度を求めて努力しなければならない。でなければ、進歩の現段階に立つ自分を本当に理解しているとは言えない。 この努力は西洋が現代という時代により要求されている事柄なのである。それが時間的に、世界政治上必要となった東洋への眼差しと一致しているにすぎない。 魂の生活を改革する意志がなければ、これ以上の人類の進歩は不可能だということに西洋人が気づかない限り、時代の大きな課題について救いがたい幻想に陥り続けるだけだろう。 東洋人が魂の偉大さと呼ぶ存在の前に、西洋人が立たされるとき、魂が羞恥心に震えないでいられるだろうか? 西洋人が物質上の成果の補足物として、古代東方の精神性や魂の遺産を受けとろうとするのは、錯覚でしかない。西洋人が自分の科学、技術、経済能力を真に人間に相応しいものにできる精神内容は、西洋人自身が自分の中で発展できる能力から来なければならない。 多くの人が「光は東方より来る」と語った。しかし外の方からやって来る光を、内なる光が受けとらなければ、光の知覚にならない。 魂のない世界政治は魂のあるものにならなければならない。確かに、魂の発達は人間の内密なる要件である。内面化された魂の生活から生じる人間の行為は外なる世界秩序の一端でもある。 アジア人がヨーロッパ人から学ぶ商業主義は、東洋においては退けられる。精神内容を開示する魂こそが、信頼を送り込むことができる。 (シュタイナーが、差別主義者とよく誤解される発言がみられる内容といえる。単純にいえば、西洋の科学はあまりに進み過ぎてしまったので、それを制御する西洋的な道徳観念が必要であることを、説いているにすぎない。 西洋から生じた西洋の問題は、西洋で解決すべきである、という提言に思える。あえてアジアや東洋を持ち出したのは、アジアや東洋を巻き込んで、責任転嫁をしようとしている欧米の上層部の態度を戒めるためといえる。 シュタイナーのこの願いは西洋の上層には届かずに、結局、2度の世界大戦を起こし、現在でも、西洋と、アジアは、相変わらず対立したままである。現段階では、シュタイナーの悲痛な叫びとなっている。いま欧米は悪魔の掌中にあるように思える。)
2011年02月09日
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13、14世紀、特に15世紀以降、真の薔薇十字の教えを授かるには、特に霊的な道を歩まなくてはならなかった。というのも、薔薇十字の神殿は、外の物質的な体験からは深く隠されていたからである。真の薔薇十字会員の多くは神殿の訪問者だったが、いかなる外の物質的な視界からは、この神殿を見つけだすことはできなかった。 しかし、穏やかな目の輝きをもち、神々の言葉を聴ける人には、叡智や神聖な行為の隠者のような薔薇十字会員たちを、導師として見つけることができ、修行へと赴いた弟子たちもいたはずである。 以上は偽りを述べているのではない。また、単なる喩え話を述べたわけでもない。全くの真実を述べている。 以上述べた時代に本当に重要な真実を述べている。穏やかな眼の輝きのなかに、天の言葉をきける能力が獲得されたとき、その弟子は、薔薇十字の導師(マイスター)を見つけだした。 その後、14、15世紀の中部ヨーロッパでは、極めて質素な環境の、極めて慎ましい関係のなかで、弟子たちは、薔薇十字の独特な人物たちに出会った。 薔薇十字の導師たちは、内面を神に満たされ、霊的な神殿となった実在である。名高い伝説においては、聖杯への到達として描写されている接近が困難なのと同じように、実際、接近が困難な霊的神殿と、内面的に関わり合っていた人物たちである。 以上のような薔薇十字の導師と、その弟子との間に起こったことを霊視すると、地上を歩みながら、語り合った幾つかの神々の叡智を示す内容を、近代的な表現だが、聞き取ることができる。その教えは、深く具体的だった。 薔薇十字の導師は、孤独のなかで、導師を探し、見つけ出すことに身を焦がした弟子により発見された。このとき、弟子たちが、神々の言葉を語りながら、穏やかに見つめる導師の眼を見ると、弟子は慎ましく、例えば、次のような教えを受け取った。 「見るがいい、わが息子よ、お前自身の本質を! お前は、外的で物質的な眼で見る肉体を担っている。地球の中心が、可視化する力を、この肉体に送っている。この事実がお前の肉体、すなわち物質体だ! だが地上にあるお前自身の周囲を見るがいい。お前は石を見る。石は石として地上にあることを許されている。石は地上に馴染んでいる。石はある形態をとると、様々な地球の力により、この石の形態を維持できる。 結晶をみなさい。結晶は自らのなかに、その形(フォルム)を担っている。結晶は地球により自身の本質を維持する。お前の物質体は、自身では維持できない。お前の魂が物質体を去れば、地球は物質体を破壊し、地球は物質体を塵(土)にもどすだろう。 地球はお前の物質体に対しては、いかなる力も持たない。地球は、驚くべき形態を与えられた透明な結晶という構成物を形成し維持する力を持つが、お前の物質体を維持する力は持たない、地球は、物質体を塵に返さねばならない。 お前の物質体は、高次の霊性の一部だ! お前の物質体の形(フォルム)と形態(ゲシュタルト)は、セラフィム(愛霊)、ケルビム(調和霊)、トローネ(意志霊)の一部なのだ! この物質体は地球の一部ではなく、この物質体は、お前にさしあたり接近できる最高の霊力の一部なのだ! 地球は物質体を破壊できるが、決して物質体を組み立てることはできない。 また、お前のこの物質体の内部には、お前のエーテル体が宿っている。いつか、お前の物質体が地球に受け取られ破壊に向かう日が来るだろう。そして、お前のエーテル体は、宇宙の広がりへと解消していくだろう。 確かに宇宙の広がりは、このエーテル体を解消できるが、組み立てることはできない。エーテル体を組み立てることができるのは、デュナメイス(運動霊)、エクスシアイ(形態霊)、キュリオテテス(叡智霊)の中級三隊(第2)のヒエラルキア(位階)に属する神的-霊的存在たちだけである! お前に、エーテル体があるのは、高次の存在たちのお陰なのだ! お前は地球の物質的素材を、お前の物質体と同化させるが、お前のなかにある力は、お前の内部で地球の物質的素材を、物質体の周囲の物質的存在とは異なるものに変化させる。 お前のエーテル体は、お前の内部にある液体や水全てを動かす。お前の内部を巡り、循環する液体は、お前のエーテル体の影響下にある。 お前の血をみなさい。この血を液体として、お前の血管のなかを巡らせているのは、エクスシアイ(形態霊)、デュナメイス(運動霊)、キュリオテテス(叡智霊)の高次の存在たちなのである。 お前は物質体だけ人間(段階)である。お前のエーテル体は、まだ動物(段階)であるが、ただし第2ヒエラルキアの指導の下に霊化された動物(段階)である。 」 以上、不十分な言葉だが、要約して述べていることは、弟子が、穏やかな眼のなかに、天の言葉を聞きとった導師の長い教えの内容である。
2011年02月09日
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「シュタイナーの霊視した太古の地球と人間(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の地球と人間(後半その2) ずっと後になって、空気(気体)が生じた。同時に、太陽光線も次第に大地にまで、光を投げかけるようになった。 この段階において、地球は、人間にとって重要な発展の段階に達した。以前の人間は水中に沈み、霧の中へ上半身を突き出すだけだったが、この段階の、地球の濃縮化を通して、「水の人間」は更に形態を濃縮させ、硬い骨格を形成するようになった。 そして、人間の上半身も変化し、新しい状況に相応しい形成がなされた。以前は不可能だった新しい身体機能である「呼吸」をはじめた。 肺が形成されはじめ、以前は上半身で光を受容し、下半身までには光の作用は及ばなかったが、肺の形成により、人間は、再び光を暗い意識の中で感じとれるようになった。 下半身にまで差し込んでくる光を、神の力として感じるようになり、この移行期の人間は、自分に向かって輝いてくる存在が、2つの部分に分かれている事実を感じた。空気も働きかけてくるからである。 以前は、光だけが作用した。肺の形成により、空気も自らの中に入ってくるようになった。 当時の人間は次のように語るだろう。 「以前、私の上方にあった光の力が、今、呼吸するのに必要な機能を私に与えてくれた。光は私にとって、呼吸となった。」 以上のように、当時の人間は感じたが、肺の形成により、人間に流れ込んでくる光と空気は、2人の兄弟のように感じられた。 光と空気(大気)は一組となった。 人間の中に流れ込む地球の空気(大気)は、人間に、新たな体験をもたなくてはいけない、というお告げでもあった。 光だけの人間は、誕生と死を知らなかった。以前の光だけの人間は、光輝く灼熱の雲としての自分が変化したとき、まるで衣裳変えと同じものと感じた。誕生とか、死とかを感じることがなく、自分は永遠であり、誕生と死は単なる通過儀礼に過ぎない、と感じた。 はじめて呼吸すると同時に、誕生と死が意識されるようになった。空気(大気)は兄である光から、自らを分裂させた弟なのである。 そして、この分裂によって、空気(大気)は、光と結合していた人間を2つに分裂させ、人間に死をもたらした、と当時の人間は感じた。 (いわゆるカイン「光」だった人間が、アベル「空気」という死を知る人間となったといえる。カインは、土「地球」を耕すというのは、光を意味し、アベルは、羊「動物」を飼うというのは、呼吸を意味することで連想できる。 ちなみに、「カイン」という名前の意味は、「私は得た」で、「アベル」という名前の意味は、「気息、空虚」であるというから、各々、「光(叡智)」と「呼吸」の意味に近い。) では、「自分(の意識)は暗い存在だが、永遠の実在と結びついている」、という人間の意識を、誰が一体消してしまったのか? それは人間の中に呼吸を通して流れ込んだ空気(大気)、すなわちテュフォンである。テュフォンとは空気(大気)の呼吸という意味である。 テューポーン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%B3 (台風のタイフーンは、テュフォンからきているという。「大地の呼吸」という意味である。) 古代エジプト人の魂が体験したのは、太古では同じであった輝きが、光の放射と空気の呼吸とに分裂した事実だった。そして、この宇宙的な事件は、テュフォンもしくはセトと呼ばれる空気(大気)の風によるオシリスの殺害として、象徴的に描かれた。 セト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%88 オシリス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B9 (セトは、アベルの代わりに生まれた弟でもある。オシリスは古代エジプトで有名な神で、人類の祖アダムを意味し、後のキリストを意味する。) オシリスとテュフォンをめぐるエジプト神話の中には、壮大な宇宙的事件が隠されている。古代エジプト人は、自分の弟(空気)と仲の良い、太陽からやって来た神を、オシリス(光)として感じ取った。テュフォンは空気の呼吸であり、人間に死をもたらす神だった。 (つまり、テュフォンは、空気を我が物にする呼吸を意味する。生きるために、空気を独り占めにしたので、死という罪が生じたというわけである。) この神話の中に、宇宙の進化の様々な事実を、人間の内面的な認識の中で繰り返されている最も意味深い1つの例として見ることができる。 上記のように、太陽と月と地球の三位一体の成立過程が、神話の中に映し出されている。全ては、古代エジプトの秘儀参入学の学徒に意味深いイメージとして伝えられた。 (光から闇が生じ、光と闇から音響「水」を通じて、空気(大気)が生じるという三位一体の創造である。)
2011年02月07日
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「シュタイナーの霊視した太古の地球と人間(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の地球と人間(後半その1) 太古の人体は、光の形姿で、光の働きを直に受けていた。精妙な光の人体には、エーテル体やアストラル体、幼い自我だけでなく、地球と結びついた高次の霊的存在たちもまた、受肉できた。 人間は、いわば高次の神霊たちの手足で、その神霊たちから支配を受けていた。その項の地球の壮麗な様子を述べることは、非常に困難である。光輝く地球が、見事な色彩の戯れを生み出しながら、輝く雲に包まれている様を思い浮かべる必要がある。 太古の地球を、もし旅することができたなら、灼熱の光輝く部分が互いに波打ち合い、熱の海の中にいることを感じただろう。その熱の海の中では、今日の人間になるべき存在の全てが霊的存在たちにとりまかれ、極まりない多様な輝きを外へ向けて放射していた。 外には地球コスモスが多様な姿で現われていた。内には光に織りなされた人間が、神霊存在と1つになって、明るい姿を外へ向かって輝き出していた。 当時の人間は、この地球コスモスという光の母胎と、まるで、臍の緒のようにつながっていた。同じ共通の宇宙母胎の中で、「光の植物」である人間たちは、地球が纏う光のマントと1つになって生きていた。 この精妙な、靄のような植物の姿の人間は、母なる地球の臍の緒にぶら下がり、母なる地球全体の恵みを受けていた。今日の胎児が母の胎内で育まれているように、当時、萌芽状態の人間は、遙かに精妙な形で、育まれていた。 この状態が太古の地球における人間の生き方だった。 次いで太陽が、極めて精妙な成分とともに、地球から分離しはじめた。高次の太陽存在たちも人間のもとを去った。現在の太陽に含まれる全成分が地球を離れ、ただ粗雑な成分だけを後に残した。その結果、霧は水になるまで冷却され、以前の霧の地球は「水の地球」に変わった。 中心には、根源の水が存在し、まだ大気には包まれていなかった。その水からゆっくりと周囲に濃厚な霧が生まれ、次第に精妙化していった。 このような当時の「水の地球」は、まだ固まらず、周囲では霧が次第に精妙化し、高次の領域にまで立ち昇っていた。以上が、かつての地球の姿だった。 地球は次第に変化していった。人間もまた自らの灼熱の輝く空気体を、濁った水の中に生かす必要が生じた。かつて光の満ちた気体の中でいわば光の空気体として存在していたように、水の中で水の身体となって、生きなければならなかった。 しかし人間が水の形姿をとるようになっても、全身がなったのではない。身体が完全に水の中に沈み込んだのではない。 この時期は、人体の形成過程での重要期である。地球の中心は水からなり、人間も部分的には水の存在だったが、周囲の霧圏(領域)にまでつきぬけていたので、人間は半ば水で、半ば蒸気の存在だった。 水中にある下半身では太陽光を受けることは不可能だった。水が厚い層を成し、太陽光を通過させなかった。しかし、その光は霧の中には届いたので、人間の下半身は、光を奪われ、暗い水の中で生き、他の部分は光に貫かれた霧の中に生きていた。 (現在では、人魚伝説となっている。) これから詳しく述べる事情により、水は人間から奪い取られずに存在し続けた。 地球は、はじめから灼熱し光輝いていただけでなく、音響も発していた。その音響は地球の中にとどまったので、光が外へ出ていったとき、内では水が暗くはなったが、音響に充たされ、今日の物理学の音響に対する実験により知見できるように、音響により、水に形態が与えられていた。 (音響は、いまでは言霊と呼ばれる存在に、音響による図形形成は、クラドニ図形の実験などでわかる。) 音響は形成力をもつ。音響を通して、様々な部分が分節化され秩序づけられる。この音響の形成力こそが、水から人体をつくり出した。人体形成は、地球の中にとどまり続けた音響の作用によるものだった。 音響が地球全体に鳴り響き、人間の形姿が生じた。 (ここでいう音響は、「言葉」でもある。言葉から、人間の形姿が生まれた。) 光は、人間の、水からつき出た部分にのみ達することができた。人間の下半身は水の形姿として、上半身は外光に曝された霧の形姿として存在したが、太陽とともに立ち去った存在たちは光を通して、この上半身の霧の形姿と結びつくことができた。 まだ太陽が地球と結合していた頃の人間は、太陽の母胎の中にいる自分を感じていたが、太陽が分離した時期は、太陽の存在たちが光を通して人間のところまで降りてきて、自らの力を人間の中に浸透させた。 とはいえ、太陽の分離以後も、地球にとどまり続けた中には、将来、地球が自ら引き離さなければならない力、つまり月の力も、まだ存在していたことを忘れてはならない。 太陽が分離したとき、いわば「植物人間」が「水の地球」の中に次第に沈んでいかなければならなかったが、当時の人間が、魚の形姿を獲得した段階にあたる。今日の魚は、勿論、当時の人間の姿の退化した形態を示しているが、かつての人間の生き残った姿でもある。 例えば、金魚を考えてみる。金魚は幻想的な植物の意識形態をもち、活発な動きを示しているが、悲しみの感情も含んでいる。なぜなら光が水から奪われたからである。光が奪われたことから深い、深い憧れが生じた。 (金魚が鮮やかなのは、光に対する憧れの表現であるという。深海魚ほど、光鮮やかなのは、光に対する憧れなのかもしれない。) 水のなかに、光が存在しなくなったので、光への憧れが呼び起こされた。太陽がまだ完全には地球から分離していなかった時期の人間は、上半身がまだ太陽段階にあり、下半身が魚の形に固まったまま、光に貫かれていた。 (生物は、切り離されれば切り離されるほど、切り離された対象に憧れ、自らでそれになろうとする。光と切り離されたために、光に憧れ、自らが光となろうとする。 神秘学では、忍耐力が、創造性につながると説いている。例えば、貧しい生活をすればするほど、金持ち、もしくは、自分が通貨の代わりになろうとするのと同じである。) ところが下半身が闇の中に生きていたときの人間は、低次の人間本性を示すようになった。なぜならその下半身で、月の働きを受けていたからである。 現在の月のような熔岩にまで凝固していなかったときの月は、黒い暗黒の力を発揮していた。当時の月には、最も劣ったアストラル的存在だけが降りられた。しかし人間の上部の霧の形姿の、いわゆる頭部には外から光が輝き入り、形態を作り出した。 以上のように人間は低次の部分と高次の部分から成り立っていた。 人間は泳ぎ漂いながら、この霧の大気を移動した。地球の濃密な霧の大気はまだ現在の空気ではなく、靄が立ち込めているような状態なので、太陽光が浸透しなかった。熱は浸透したが、太陽光が照らすのは表面だけで、地球の大洋は暗いままだった。 この大洋の中に、後に月となって分離する力が働いていた。光を通じ、神々も地球に作用した。従って、下には神々の存在しない、神に見捨てられた、いわゆる水のマントがあり、音響の力だけが働いていた。 そして周囲を太陽の働きのおよぶ靄が取り巻いていた。人間は靄の姿をとって水面上につき出、霊界から働きかけてくる光と愛の存在の仲間であり続けた。 では、なぜ暗黒の水の中心にまで音響世界が働きかけたのか? それは高位の太陽霊の1柱が地球にとどまり続けたからである。ヤハウエ、もしくはエホヴァと呼ばれる霊である。ヤハウエだけが地球にとどまり、自らの本質を音響として、「水の地球」に鳴り響かせた。 しかし、その一方で、最悪の力も「水の地球」の中で成分となりとどまり、恐ろしい力を発揮し、人間の靄の部分は益々下降し、かつての植物形姿から次第に両棲類が生じた。後世の人類よりも遙かに深い所に立っていた、この形姿を、神話は龍として、人魚として、大蛇として描いている。 光の仲間である人体上部は、低次の本性に打ち克ち、下に落下しなかったので、ミカエルとして、龍の殺害者である聖ゲオルクとして描かれている。また龍を伴ったジークフリートの姿も、勿論、形を変えた、当時の2つに分かれていた人間の姿を表現している。 ドラゴンスレイヤー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC 地球の上層部に、また人間の上半身に熱が浸透し、炎の龍を形成した。けれども、その上に聳えているエーテル体は、太陽の働きを受けていた。 旧約聖書は、当時の人間の姿を、両棲類でもある「誘惑する蛇」の姿として描いている。こうして、最も低次な力(月の力)が、外へと投げ捨てられた時が近づく。 (医学のマークであるメリクレウス「アスクレピオス」の杖の2匹の蛇は、当時の上半身が太陽の光「白」で、下半身が月の音響「黒」であった人間を象徴化している。 上部の翼は、高次の存在、真ん中の剣は、ミカエルの龍「蛇」退治の剣で、人間の自我、つまり、意識の発展を意味しているのだろう。日本だと、スサノオの草薙の剣になる。メリクレウスの杖は、通称、生命の木と呼ばれている。) 幾度も大きな破局が地球を襲った。秘教学者にとって、玄武岩形成は、月が地球から分離したときに地球全体を襲った浄化作用の亡骸なのである。それは地球の水が中心で次第に濃縮し、硬い鉱物に変わっていった時期でもある。 地球は月の分離により濃縮され、上部は、重たく粗雑な成分を下部に委ねた。 (沈殿現象と同じ) 上部は依然として水分をわずかに保っていたが、濃縮が進むにつれ、重い成分を下部に委ね、次第に今日の空気が生じた。こうして地球は、次第に中心部に硬い鉱物を形成し、その周囲を水が取り巻いた。 はじめはまだ霧が太陽光線を遮っていたが、霧の成分が下部に委ねられることで、上部は益々成分を稀薄なものにしていった。
2011年02月07日
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「シュタイナーの霊視した太古の地球と人間(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の地球と人間(前半) 地球が太陽や月と一体化していた根源状態に眼を向けてみる。根源状態には、動物も植物も鉱物もなかった。地球は、萌芽状態の人間だけから成り立っていた。 太陽紀と月紀には、既に動物と植物の萌芽も存在していたことは事実で、地球の根源状態には、動植物の萌芽も含まれていたが、まだ眠れる萌芽に過ぎず、実際に何かを生み出すことのできる状態にはなかった。 太場が地球から分離しはじめたとき、後に動物となる萌芽(動物の前身)が活動しはじめ、太陽が完全に地球から離れ、地球と月だけが一体化していたときに、後に植物となる萌芽(植物の前身)が活動しはじめた。 やがて、月が地球から分離しはじめたときから、次第に鉱物の萌芽(鉱物の前身)が生じてきた。以上の歴史的事実を、前提として話を進めていきたい。 かつての地球を霊視してみる。まだ太陽や月と一体化していたときの地球は、巨大な広がりをもったエーテル状の存在だった(人智学では、古土星紀と呼ぶ)。その中で、人間の萌芽が活動し、動物-植物-鉱物の萌芽はまだ眠っていた。 人間の萌芽には、まだ眼はなかった。眼があったとしても、地球を外に見ることはできなかっただろう。以上の地球の姿は、見霊能力のある人間にだけ過去の地球の姿として現れてくる。 これから述べることは、その頃、もし、宇宙空間の一点に立って眺めたら、見えるような仮定の話である。古土星紀においても、肉眼では何も見ることができなかった。 当時の根源状態での地球は、一種の靄でしかなく、いまでいう、「熱」としてしか感じられない存在だった。この根源的なエーテルの靄の中から、次第に光輝く霧の球が形づくられたが、その球なら、肉眼でも見えただろう。 もし、触角のようなものを働かせ、その中に入っていけば、熱せられたパン焼き竃の中のような空間だっただろう。この霧の塊は、やがて輝きはじめた。 出現した輝く霧状の球の内部には、上記に述べた萌芽が全て含まれていた。勿論、上記の霧や靄は、今日の霧や雲ではない。固体成分や液体成分は全て、その中に溶け込んでいた。非常に透明な靄の輝きの中に、後の金属、鉱物等の全てが存在していた。霧状の球は熱と光からなる透明な靄だった。 このような状態を考察してみる。この霧状の球は、エーテルの霧から生じた輝くガス(気体)状で、次第に明るくなっていった。ガスが濃縮するにつれ、光は益々強烈な輝きを増し、まるで巨大な太陽のように、宇宙空間の中で輝いていた。 地球が太陽と一体化して光輝き、宇宙空間に光を投げかけていた頃の光は、根源状態の人間だけを地球に生存させていただけでなく、人間の進化と結びついて存在していた、肉体をもたない天使や大天使、更には人格霊という高次の霊たちも、光の充満する中に生きていた。 また形態霊、運動霊、叡智霊、更にはトローネ(意志霊)からケルビム(調和霊)、セラフィム(愛霊)に至る高次の存在までも、この光の充満する中で生きていた。地球はあらゆる位階の存在たちの住む宇宙体だった。宇宙の中に輝く地球の光は、光だけにとどまらず、後に地球の使命となるべき、愛の力でもあった。 光は愛の力を自分の最重要の要素として担っていた。従って、物質光だけが放射されたのではなく、光には愛の力が加わっていた。 この事実をイメージすることは、現代人には非常に困難である。現代人は、太陽を、ガス(気体)状の球で、光を発している、と考えている。このような唯物的な太陽のイメージが、現代人の心を支配している。例外なのは秘教学徒だけである。 今日の書物での、太陽に関する記述を読んでみると、大半の人々の心の糧となっている書物の中でも、太陽の本質については何も語られていないことに気がつく。人間の本質を、まるで死体として記述するような形で記述している。 そのような死体が、人間であるという記述が正しいのなら、確かに、天体物理学の太陽に関する記述も、太陽である、と言えるだろう。 しかし、死体について語っても、人間の最重要な本質(霊魂)を語ったことにならないように、太陽について述べる天体物理学者が、たとえスペクトル分析を通して太陽の内なる成分を見つけ出していても、それだけでは太陽の本質について語ったことにはならない。 太陽の外面的な姿しか記述できていないからである。太陽光線全てを通して、太陽を居住地とする高次存在たちの力が、地球に居住する全ての存在にまで流れ込んでいる。その太陽光線とともに、愛の力も同時に働き、地上で人から人へ、心から心へと流れている。 太陽は決して物質光だけを地上に送ってくるのではない。最も熱い、最も烈しい愛の感情が、たとえ眼には見えなくても、太陽光線の中に存在している。そして、同時に、トローネ(意志霊)、セラフィム(愛霊)、ケルビム(調和霊)、並びに太陽に居住する全てのヒエラルキア(高次)存在たちの力が、地球に流れ込む。 高次存在は、光以外の体をもつ必要がない。今日の太陽の中に存在する一切は、当時(太古)はまだ地球と結びついていたから、高次の存在たちも全て地球と結びついていた。高次存在は、今日でも地球の進化と結びついている。 高次存在の中で最下方に位置する人間は、当時(太古)、地球の新しい子として、萌芽の状態で存在していた。そして、高次存在たちにより担われ、育まれ、その膝もとで生きていた(エデンの園)。当時の人間は、極めて精妙な体をもっていた。 それは精妙な霧か蒸気のような形の、光に貫かれたガス体だった。規則的な形をした雲を考察すればよい。 上に向かって開いている杯のような姿で、内からの光により、滅多に顔を見せない雲の姿は、まるで堅苦しい教授が、口をもぐもぐさせながら、内面の魂の在り様(心の底)とは全く異なる、つたないお世辞を言うのと同じ光景である。 当時の人間は、まるで恥ずかしがりやの雲のように輝いていた。暗い(潜在)意識をもちはじめた当時の人間たちは、今日の植物と同じ意識をもっていた。 とはいえ、今日の植物とは異なり、杯の形をして輝き、熱を発した霧状の塊だった。はっきりした境界はなく、地球全体ともはっきりと区別できなかった。
2011年02月04日
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魂の雰囲気は、既にペルシア戦争直後の時代以来、古代ギリシアにおいては、本質的に、この「神々の妬み」の作用に満ちていた。そして、その後のマケドニアの時代では、「神々の妬み」が霊的な雰囲気となって地表面を覆っている、という事実を完全に意識して、全てが行われたが、神々と人間との誤解に抗って、勇敢に、大胆に行われた。 そして、「神々の妬み」に満ちた雰囲気のなかに、世界に実現できる最大の愛を為せる神の行為が下降してきた。 その神の最大の愛の行為に、古代世界の、いわゆるヘラス(ギリシアの古名)、マケドニア、古代アジア、北アフリカ、南ヨーロッパにおける「神々の妬み」の現れであった雲のイメージを付け加えたときにだけ、ゴルゴタの秘蹟を正しい光(叡智)のなかで洞察できる。 この暗雲に満ちた雰囲気のなかに、奇しくも暖みを与え穏やかに光を放ちつつ、ゴルゴタの秘蹟を通じて流れ出る愛が入り込んでいく。 当時、神々と人間との間に生じた事柄は、現代の人間が自由な時代においては、当時よりも下位の物質的な生活において生じざるを得なかった。キリストを一人の人間として描写できる。 古代では、秘儀を考えるとき、当時の人間は、地上で次のように語った。 「人間の認識、人間の叡智は、秘儀のなかに居場所を持っている。」 人間が神々の下にあったとき、秘儀参入者は次のように語りあった。 「我々が秘儀のなかに参入していくと、我々は人間の供犠を見いだす、そして、この供犠を捧げる人間よって、神々(叡智)は理解される。」 結局、エフェソスの火災とは、古代の秘儀の本質が次第に消滅していく時代の始まりだった。古代の秘儀の消滅が至る所で、例えばヒベルニアの秘蹟のように壮麗に存続されてきた様子を、以前述べた。ヒベルニアの秘儀では、遙か彼方のパレスティナにおいて、ゴルゴタの秘蹟が物質的に生じたのと時を同じくして、祭祀より、この秘蹟が祝われていた。 当時の人々は、ゴルゴダの秘蹟を、パレスティナとヒベルニアとの間の霊的な中継(テレパシー)から知った。物質的な中継(言い伝え)からではない。とはいえ、やはり、物質界における秘儀の本質は、次第に一層衰退していった。 秘儀参入の外的な居場所、いわゆる神々と人間との出会いの場所(神殿)は、次第に、意味を失っていった。紀元後13、14世紀には、ほぼ完全に失われた。というのも、例えば、聖杯への道を求める人間は、霊的な道を歩む術を理解する必要があったからである。 エフェソスの火災より前の古代には、神殿での秘儀参入という物質的方法で参入できたが、中世には霊的な方法で参入する必要があった。
2011年02月03日
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「キリスト衝動の現在 高橋 巖:訳」の意訳 現在のキリスト衝動 最近も、はっきりと述べたが、地球の未来、特に人間の未来は、自ずと下降線を辿っていく。人類も地球も、本質的には頽廃している。 地殻が既に破滅の過程の中にあることは、誠意ある地質学者なら承認せざるを得ない。しかし現在は、特に人類そのものが、物質力を通して破滅の過程を辿っている。 従って、頽廃に抗して働く霊的な衝動を真剣に生かそうとしなければならない。人智学徒が、はっきりと意識すべき事実は、地球の進化の最盛期は既に過ぎ去ってしまった、ということである。 地球を更に進化させようとするのなら、益々真剣に霊的な内容を受け入れようとしなければならない。 そのような現在の状況における、非常に深刻な事態は、人類をとりまいて、特定の霊的存在たちが働いている、という事実である。15世紀中葉以降、この存在たちは益々力を強めてきた。 先ず、人間の意識の深淵に働く意志と非常によく似た衝動の力を強めた。現代人の生活の中に非常に強力に働いている、この目に見えぬ存在たちは、日常の意識にとっては、無意識的にしか働かぬ人間の意志力とよく似ている。 この問題は決定的に重要である。1914年の今度の戦争が勃発したとき、この問題を特別強烈に意識した。その時までに生じた歴史上の事実を考えたら、不可能としか思わないような事件がヨーロッパ社会に襲いかかったのは、一体、何故だったのか? と問いかけざるを得なかった。 1914年の大戦開始を決定づける事件には、ヨーロッパのたった30人から40人の人々しか関わっていなかった。そして、この人々の大半の精神状態は大変混乱し、曇ったものだった。1914年の7月末から8月末にかけて、ドイツで最重要な決断がなされたとき、その決定を下した人間の意識はすっかり曇らされていた。 そして、その時代から何年もたった今日にいたるまで、指導者たちは同じ意識状態を持ち続けている。この事実を、人智学的に考えるとき、この曇った意識こそが、まさにあの意志的存在たちが人類にとりつくための通路であったことに気づかされる。 一体この存在たちは何ものなのか? ミカエルと龍との戦いは、本質的には、人間の知性、もしくは理性の中で行われる。ミカエルはその敵の群を地獄へ追い落とすのではなく、人間の頭の中に追い込む。 従って、人間の魂の中に、ルシファー衝動が生き続ける。既に述べたように、今日の人間の知性は、本質的に、ルシファー衝動そのものなのである。 (神の子というよりも、悪魔の子に近い。進化的にいえば、666までが、悪魔の子で、悪魔の子を知った後で、777に意志するとき、神の子となるといえる。 つまり、自分のなかの悪に気づき、その悪を善に転化し、克服する勇気が必要である。人間誰しも自分には甘く、身内には甘い。しかし、この甘さを克服しない限りは、悪の子を脱することもできない。) そして、ミカエルの行為とは、人間理性の曇りをとり去ることなのである。そこで先に述べた意志に似た存在たちだが、この悪の存在は、本来人間よりも低次の存在である。 ミカエルにより追い落とされた龍たちが上から降りてきて、人間のイメージ形成能力にとりつくとすれば、この悪の存在たちは下から昇ってきて、人間の意志力にとりつく。それはアーリマンの国からやってきた存在者たちである。 アーリマン(魔王)の手下たちが今述べた暗い意識を通路として働いている。 今日、人間として、以上の事実を見過ごすことは許されない。そして、この事実とキリスト衝動の必要性を根本的に認識することとは、不可分の関係にある。 一体、キリスト衝動がどこに働いていないのか、先ず、その事実を認識しなければならない。既に述べたように、キリスト衝動は意識の(魂の)中間層である心情に働きかけている。 従って、アーリマンの働きは、人間が本当に自らにキリスト衝動を作用させれば、この中間層には下から働きかけてくることができない。 同様にルシファーの働きも上から、中間層にまで達することは不可能なのである。全ては、この点にかかっている。 キリスト-ルシファー-アーリマンの三位一体を知ることができなければ、今日の世界状況は決して理解できない。 (ルシファーがテーゼ、アーリマンがアンチテーゼ、そして、キリストが、ジンテーゼであろう。完全体キリストには、ルシファーが欠けても、アーリマンが欠けても、ダメで、全てが必要なのである。 一方の頬を「ルシファー」により打たれたなら、他方の頬を「アーリマン」に差し出しなさい。そのとき、キリストの均衡が生じる。)
2011年02月02日
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第8講 今日(1923年)、人智学徒は、苦痛に満ちた記憶から生じる徴(しるし)のなかに立っている。そして、第8講の内容を、この苦痛に満ちた記憶の徴のなかに据えたいように思う。 丁度いまから1年前、人智学徒の建物のなかで、行った講義(1)は、いまでも人智学徒の記憶にもあると思うが、地上の自然における様々な関係からはじめ、霊界や霊界を歩む星々からの開示(顕現)へと到達する流れを解説した。(1)講義:1923年12月31日ドルナハでの講義。『人間と星界の関係 人類の霊的な聖体拝領』(12回の連続講義、1922 GA219)所収。 その際、人間の心や魂を、本性に従い、また人間の精神(霊)を、地上的存在からはじまり、星々の広がる世界だけでなく、星々の世界を通じて、霊的な存在を、宇宙の進化として映し出している存在にまで参入するときに見いだされる存在に関係づける必要があった。 そして、その講義の直後、火災により、人智学徒から、奪われた講義室で、私(シュタイナー)が黒板に描き出した最後の図は、人間の魂を、高次の霊界まで上昇させてゆくことを目的としていた。 あの晩の火災焼失により、ゲーテアヌムの建築物が その全本質を通じて捧げられる存在に直接結びつけられた。従って、あのとき結びつけられた存在について、第8講では、ちょうど1年前に行われた講義の続きのように述べていきたい。 エフェソスの火災以前の時代においては、秘儀が話題になるとき、幾らか秘儀について心情的に理解していた人たちの話は全て以下のようなものだった。 「人間の智慧や叡智は、秘儀のなかに居場所(安住の地)を持っている。」 古代、世界の霊的指導者たちの間で秘儀のことが話題になるとき、つまり超感覚的世界において秘儀について話されたとき(あえて次のような超感覚的世界から下の感覚的世界をみているような比喩的な表現を用いるが)、その話はほぼ次のようなものだった。 「供犠を捧げる人間と、我々神々が出会うことのできる場所を、人間は秘儀のなかに拵える。供犠のなかで人間は我々神々を理解する。」 というのも、実際、上記の話は、古代世界における一般的な認識だったからである。古代世界を支えている全ては、秘儀参入の場において、神々と人間たちが出会い、生じる事実に関連している、ということは、古代人の一般的な認識だった。 外的な歴史にも受け継がれてきた、言葉がある。実際、歴史的な伝承からも、人間の心に感慨深く語りかける言葉があるが、このような言葉が特に感慨深く語りかけるのは、全く特殊な出来事から形作られ、人類の歴史のなかへと書き込まれるような、霊(精神)においては、ほんの一瞬、青銅のような、文字としてみえるときである。 霊眼を、ヘロストラトスの行為によるエフェソスの火災に向けるとき、このような言葉を常に見ることができる。その火焔のなかに、神々の妬み[der Neid der Goetter]という言葉を見いだすことができる。 とはいえ、古代から受け継がれ、今描写したような古代の生活のなかに見つけだされる数々の言葉のうち、この「神々の妬み」という言葉は、この物質界では最も恐ろしい言葉の1つに思う。古代にあっては、物質体を持って、地上に現れる必要のない超感覚的存在として生きる全てが、神[Gott]という言葉で表され、極めて様々な種類の神々が、区別されていた。 人間のなかの、内的な最奥の本性に則って、人間を生み出し、時代の推移に応じながら送り出し、人間と結びつき、外なる自然の壮麗さ、極めて細やかな現象を通じて、人間に感じ取られ、人間の内部に生きる感情を通じても感じ取れる神的-霊的存在たちが、妬み深くなることはあり得ない、のは確かである。 けれども、古代では、「神々の妬み」という言葉から、何か非常に現実的な存在が意味されていた。人類が進化した時代を、エフェソスの頃まで追求すると、秘儀参入を通じて、善良な神々が、比較的進化した秘儀参入者に、多くを喜んで与え、秘儀参入者は、自分のものとしたことがわかる。 というのも、次のような結論に到達すれば、的を得るからである。つまり、善良な人間の心と、善良な神々の間には、秘儀参入において、益々堅く結ばれた親密な関係があったため、人間が善良な神的存在へと益々一層近づくことが、ある種の他の存在、いわゆるルシファー的、アーリマン的な神的存在たちの魂の前に現れた。 そして、人間に対する「神々の妬み」が生じた。精神を希求する人間が悲劇的な宿命を辿るとき、古代には、その悲劇的な宿命が「神々の妬み」と関連づけられて示されてきたが、歴史のなかでは、この事実を繰り返し、聞くことになる。 古代ギリシア人たちは、この「神々の妬み」という事実があることを知っていた。そして、人類の進化における外的な出来事のうち少なからず、その由来を、この「神々の妬み」に求めてきた。 そもそもエフェソスの火災と共に明らかになった事実とは、人間の更なる進化に対して、妬みを抱く神々、すなわち超感覚的存在たちがいる、という事実を意識するようになったときにだけ、人類は、ある意味霊的に、更に進化できるという事実である。 この事実は、結局、エフェソスの火災に続き、アレクサンダーの誕生にも続く、と言うこともできる。つまり、全ての歴史に、特別な色合いを添える。 そして、上記のこと、つまり、ある種の神々の妬みに満ちた世界を見通すことはまた、ゴルゴタの歴史を正しく理解する一部分でもある。
2011年02月01日
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