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地球創造の太初から響いてくるエロヒムの言葉(モーセ創世記1章.31)を理解し、キリスト衝動により、このエロヒムの言葉を理解し、キリスト衝動の理解を通じて感じ取れる理念を、これから先も更に、魂に作用し続ける贈り物として受け取ってほしい。 そして、人類の進化に対するキリスト衝動が意図した転換点を、同時に人智学的な精神(霊)的潮流の出発点とみなして欲しい。この精神(霊)的潮流を通じて、自らのうちに、完全な自己認識へと到達できる可能性を認識できるという理由からも、この精神的潮流を人智学的な叡智にして欲しい。 人間が自身の魂のなかで本質的に作り上げるべきものを、自分と外の自然との間で演じられる問題として観察する限りは、まだ完全な自己意識には到達できない。人智は、人智学的叡智の認識に到達できず、人間は、人間の魂のなかの認識に到達できない。 世界(宇宙)が、マーヤーに没しているように見ることは、神々が人間に準備した問題で、人間の魂の問題、すなわち、高次の自己認識の問題である。これは人間が、人間のなかで、自ら認識すべき問題である。また、これは人智学の問題でもあり、人智学を通じてはじめて、人間のなかで人智学として認識できる叡智を感じ取ることができるようになる。 人智学の運動に参加しようと決心するとき、キリスト衝動(意志)として感じ取るものは、最高の種類の謙虚さでなくてはならない。それは、自ら、次のように言い聞かせるような謙虚さである。 「人間の魂の問題を飛び越えて、神々の最高の歩みのなかに一気に入り込みたいと思ったなら、容易に謙虚さが消え去ってしまう。謙虚に代わって容易に高慢が現れ、虚栄心が容易に起こる。」 人智学協会が、この高次の道徳的領域における出発点でもあるように願いたい。 最高の存在たちを受け入れるときに、高慢、虚栄心、功名心、不誠実のかたちで、神智学運動のなかに容易に忍び込んできたものを、人智学協会が回避するように、人智学協会が、出発点において、マーヤーとともに形成すべきものを、人間の魂そのものの問題とみなすことにより、克服できるように願う。 人智学協会を人間の最深の謙虚さの成果とすべきである。というのも、超感覚の、霊性の領域に赴き、聖なる真実のなかに参入するときに必要な最高の誠実さは、この謙虚さから湧き出てくるからである。 従って、「人智学協会」という名称をも、真に慎みをもって、真に謙虚に理解し、自ら、次のように言い聞かせるべきである。 「神智学という名称が、不遜さ、虚栄心、功名心においてなおも引き起こしているものを克服するように、謙虚さという印(シルシ)と標語のもとに、神々と神々の叡智を、慎ましく仰ぎ見るとき、人間と人間の叡智を責任を持ってとらえ、敬虔さ(謙虚さ)をもって神智学に近づき、責任をもって人智学に参入し、神智学の不完全な叡智を克服するように願う。」 人智学は、謙虚さにより、神的存在や神々へと導くだろう。そして、人智学を通じて最高の意味で謙虚に真に人間自身の内面を見ることを学び、特に、厳しい自己教育と自己陶冶のなかで、あらゆるマーヤーとあらゆる錯誤に対して、あらゆる格闘を自身のなかに見るとき、青銅の銘板に書かれたような「人智学」の叡智が、上方に掲げられることを願う。 特に人智学を通じての自己認識を、自己に対する謙虚さを求め、最高の誠実さをもって、人間の魂のなかに自己認識が確立しているときにのみ、真実は花開き、真実に基づいた建物を建てることができることを強く促すように願う。 あらゆる虚栄心は何に由来するのか? あらゆる不誠実は何に由来するのか? これらは自己認識の欠如による。 真実は何から生まれるのか? 神々の宇宙(世界)と神々の叡智に対する混同のない謙虚さは何から生まれるのか? これらは真の自己認識、自己教育、自己陶冶からのみ生まれる。 人智学運動を通じて流れ出し、脈打つ叡智が、これらのために役立つことを願う。この理由から、この人智学運動の出発点となる連続講義を行った。この連続講義が、差別問題を超え、この運動とともに、西洋の地平から、東洋的な思考も把握し、東洋の彼方を超えて、更に拡げてゆくことができる、ということを証し示すだろう。 人智学的な方法で、謙虚に把握し、自己教育し、自らの魂のなかで、自己教育と自己陶冶への意志を強めよう。人智学徒が謙虚さをもって、叡智を手がけるなら、人智学は有益な結果に至るだろう。そして、どの個人にも、どの人間社会にも癒しを与える目的へと到達するだろう。 そのために、このエロヒムの言葉「見よ、全ては極めて良かった」が語られる。この言葉を、この連続講義の最後の言葉としたい。魂のなかに、この言葉を、これからの時代に携えていくことができる人たちがいれば、人智学運動のために、ここ数日間集った意味があり、この人智学運動のなかの実りある光となるだろう。 常に人智学のもとに集い、今、講義の終わりに際して残したい言葉、最後の瞬間における理念として魂の前に置くべき「謙虚」という言葉、そして「自己認識」という言葉を、正しい礎にできるように願う。 (エロヒムの言葉「見よ、全ては極めて良かった」という全肯定というべき自己認識から、なぜか、漫画の元祖天才バカボンのパパの「これで、いいのだ!」という科白を思い浮かべるのは私だけだろうか?)
2011年07月29日
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クリシュナは、ギーターで語られているように、アルジュナに教えを授けた後に、今度は、ルカのイエス少年のなかに受肉するために現れる。従って、12歳のイエス少年のなかで、アジアの究めて重要な[2つの]世界観(宇宙観)、すなわちゾロアスターの自我とクリシュナの霊我が結びつき、完全性が実現する。 (クリシュナとゾロアスターと仏陀の三位一体の創造行為が、聖杯の伝説だと思われる。) そのとき、神殿で導師たちに語りかけているのはゾロアスターだけではない。ゾロアスターは、自我から語り、ゾロアスターは、かつてクリシュナがヨーガを(アルジュナに)告知した手段で、更に一段階高めたヨーガについて語り、30歳にまで成長していくために、クリシュナの力やクリシュナと1つになる。 ゾロアスターとクリシュナが1つになり初めてキリストにより所有できた完璧な肉体性が得られる。このように人類の様々な霊的な潮流は合流している。ゾロアスターとクリシュナの合一により、ゴルゴタの秘跡が起こるとき、人類の最も重要な師たちの共働、及び霊的な生活の統合がなされる。 パウロがダマスカスを前に、上記の合流の出現に遭遇するときに現れるのはキリストである。キリストが纏う光輝(エーテル体)はクリシュナのものでもある。キリストが、更に働きかけを続けるため、魂の覆いとして、クリシュナを受け入れたので、輝きを放つエーテル体のキリストのなかに、かつて崇高なギーターの内容であった叡智全ても含まれる。 キリストが語ったとされる、新約聖書の啓示のなかに、バラバラに散らばっているとは言え、太古のクリシュナの教えに由来する多くの教義も見つけられ、この古いクリシュナの教義は、新約聖書により、全人類の要件となった。なぜなら、キリスト自身は、本質的には、人間の自我や人類には属さず、高次ヒエラルキア(天界)に属するからである。 しかし、同時にまたキリストは、人間を取り巻く物質的存在や、人間にとっては、ルシファーの誘惑を通じて現れるマーヤー(幻想)のなかの覆いから、まだ分離していない太古の時代にも属している。人間の進化全体を振り返って見れば、太古の時代にあっては、霊と物質の間には厳密な区分がなく、物質が、まだいまよりも霊的で、霊も、まだ外的な顕現を表していた。 サーンキヤ哲学において現れるプルシャとプラクリティの厳格な区別と排除を退けるような力が、キリスト衝動(意志)のなかで、人類に歩み寄ることで、キリストは人間の自発的なしかも神の創造のための指導者になる。 更に次の問いが思い浮かぶ。 人間自身の魂の罪によって、マーヤー(幻想)が自明のものとして見える事実を認識したなら、人間の魂が、マーヤー(幻想)を切り捨てて逃げることなど許されるのか? 否である。なぜなら、魂の罪から生じたマーヤーを、魂自身が切り捨てるなどというのは、宇宙(世界)における霊(神)への冒涜(ぼうとく)に等しいからである。つまり、人間の魂自身が、マーヤーというヴェール(覆い)を、物質の特性に負わせたことに相当するからである。 (自分が出した糞は、自分で処理すべきである。自分が出した糞が汚いから、誰かに捨てろといっても、宇宙では通用しない。) むしろ、物質を、マーヤーとしている認識を、自らのなかで克服し、再び宇宙(世界)との和解を望むべきである。人間を取り巻く宇宙から、人間に向かって響いてくる言葉は、以下のものである。 「この宇宙は、エロヒム(神々)の創造であり、創造の最後の日に、『見よ、全ては極めて良かった』(7;モーセ創世記1章.31)と、エロヒムはみなした。」という言葉から、エロヒムは、非常に満足した、ということがわかる。7)モーセ創世記1章.31;「神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」http://www.genji54.com/japanese%20classical%20lit/JapaneseGenesis.htm エロヒムのこの満足は、もし、クリシュナの教義だけが存在するなら、この満足は、将来、成就するカルマである。というのも、カルマの成就なしには、宇宙には何も生じないからである。 もし、クリシュナの教義だけが永遠に存在したなら、地球進化の最初に、エロヒムが、「見よ、全ては極めて良かった」と満足した神々の顕現(開示)である周囲の物質的存在に対して、「それは良くない、そこ(カルマ)から逃げなければならない!」という人間の判断が対立する。 つまり、これは、人間の判断を、神々の判断よりも上位に置くことになるので、進化の出発点に、秘密として書き置かれた上記の言葉(モーセ創世記1章.31)を理解しなければならない。この秘密の言葉を理解すれば、人間の判断を、神々の判断の上位に据えることはない。 人間の魂に、付着する罪全て(カルマ)から逃げ回って、自然にいつか消えていくことを待ち望んでも、少なくとも、エロヒムの創造を誹謗するという罪が唯一残るので、結局、地球のカルマは成就すべきもので、未来においては、その全てが、人間の魂に襲いかかってこざるを得ない。とどのつまり、カルマは成就せざるを得ない。 以上のように、神々と人間との対立が起こらないようにするため、キリストは、この世界(宇宙)に現れた。 人間が、この世界(宇宙)と和解した結果、人間が、ルシファーに対して誘惑の力を克服する術や、そのヴェール(覆い)を突破していく術や、神々の顕現の真の姿を霊視できるように、人間を神々の顕現の真の姿へと導く調停者キリストを発見し、キリストを通じて「見よ、全ては極めて良かった」という太古のエロヒムの言葉を理解する術を学ぶことができるようになるために、キリストは、この世界(宇宙)に現れた。 決して、宇宙のせいにすることが許されない罪を、人間自身の責任とすることを学ぶために、人間はキリストを必要としている。キリストに従えば、その他の罪も全て、人間から取り去られる。この罪はキリストを通じて、人間から取り去られなければならない。(神秘学では、このことを、人間はキリストにおいて死ぬと表現する。人間は神から生まれ、キリストにおいて死ぬ、と表現される。更に、秘教学的キリスト教では、そして、聖霊により復活する、と付け加えられる。) この罪意識が、道徳的な感情に変化すると、更に新たな面からのキリスト衝動(意志)を与える。同時に、この罪意識のキリスト衝動への変化は、人間に、高次の魂であるキリスト衝動(意志)がクリシュナ衝動(意志)に覆われることが不可欠であった理由を示す。 以上のような議論を、単なる1つの理論として、日常のなかに受容する概念や理念の総計のなかに埋没させることを望まない。以上のような議論を、是非、特別な新年(1913年1月1日、ケルンでの講演)の贈り物とでも思って受け取って欲しい。
2011年07月28日
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更に、人智学徒は、もう1つの真実を知っている。 「高次の世界において神の力は開示され、人々が、善き意志を高めるもとに平和が広がる」(『ルカ』2章14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」)という福音書の言葉の正しい解釈を知っている。 この平和と愛の報せは、ルカのイエス少年が誕生する際、ルカのイエス少年のアストラル体のなかに、仏陀が、すなわち当時既に、ゴータマ・ブッダとして、最後の受肉を完遂させ、完全な霊性にまで上昇した存在が介入することで、鳴り響く。 ルカのイエス少年のアストラル体のなかに、地上におけるゴルゴタの秘跡の出現まで進化していた仏陀が自らを開示することにより、平和と愛の報せが鳴り響く。 以上のように、神秘学の基礎から人類に与えることのできるキリスト=イエスの本質を、眼の前に据えた。 パウロは、秘儀参入者にも関わらず、当時の人間にとっても、できるだけ理解しやすい概念で語らなくてはならなかった。パウロは、今日よく知られた概念が理解できるような人類を前提とすることができなかった。 パウロのインスピレーション(霊聴力)の完成は、実際、恩寵(神の高次の力)により引き起こされた秘儀参入を通じて呼び起こされた。パウロは古代の秘儀における正しい行を通じて到達したのではなく、復活したキリストが、ダマスカス(シリア)への途上で、パウロに恩寵を与えることによって到達した。それ故に、この秘儀参入を、恩寵(キリスト)により起こされた秘儀参入と呼びたい。 ダマスカス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%B9 パウロは、このダマスカス現象(『使徒行伝』9章,1-6)に直面することで、次のような真実を知った。 「ゴルゴタの秘跡において復活した存在(キリスト)は、ゴルゴタの秘蹟以来、地球の領域に結びついて生きている。」 パウロは復活したキリストを認識(識別)した。 使徒行伝 9章 http://www2.ocn.ne.jp/~seien/study/k-shito9.1-9.htm http://blog.livedoor.jp/cs_illust/archives/1264290.html このダマスカスでの秘儀参入以来、パウロは、この復活したキリストを告げ知らせた。なぜパウロは、キリストを霊聴できたのか? この問いに答えるには、少しばかり、ダマスカスでのこの種の霊聴現象に参入する必要がある。というのも、それが全く特別な種類の霊聴現象だったからである。 秘教学的な事実について、実際に、少しでも学ぼうという気持ちがないと、霊聴現象全てを、単純に混同し、例えば「平和のメッセージ」の著者(6)のように、パウロの霊聴現象を、後の聖人たちに現れた他の超常現象から区別できずに、混同してしまう。6)「平和のメッセージ」の著者:ヴィルヘルム・ヒュッベ・シュライデン Dr. Wilhelm Huebbe-Schleiden 1846-1916 シュタイナー『わが生涯』(1923-25 GA28 32章)及び連続講義『人智学協会との関係と人智学運動の歴史や条件』(Dornach 1923 GA258 第6講)、シュタイナー『書簡集 第2巻』(Dornach 1953)参照。小冊子の題は "Die Botschaft des Friedens" 1912年6月19日ハノーファー(ハノーバー)で神智学協会のために行われた講演。Leibzig 1912 人智学協会 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%82%BE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E5%8D%94%E4%BC%9A この著者は秘教学的事実について決して学ぼうとはしない人たちの1人である。 この霊聴現象は、何だったのか? なぜパウロは、このような方法で、キリストを知覚できたのか? ダマスカスの前で、パウロに現れたキリストを、なぜパウロは、復活したキリストである、という確信が持てたのか? この問いは、また別の問いへと誘導する。キリストの本質全体が、ヨルダン河でのヨハネの洗礼の際に、ナザレのイエスの肉体のなかに降臨し、完全に入り込んでいくことができるためには、何が不可欠だったのか? という問いである。 (人智学では、ヨハネの洗礼により、イエスの肉体に、キリストは降臨し、受肉したとされる。) さて、先ほど、次のように問うた。キリストの本質が降臨する肉体を準備するためには何が不可欠だったのか? 復活したキリストが、パウロに現れたほどに、魂に濃密に現れることができるためには何が必要だったのか? ダマスカスの前で、パウロに現れたキリストの光輝(エーテル体)とは一体何だったのか? 以上の問いに答えたいなら、以前述べた事実に、幾つかの補足を付け加える必要がある。以前述べた事実とは、2人のイエスのうちの、ルカのナータン系のイエスのなかに入っていったアダムの魂は、いわば姉妹魂だった、というものだった。 この姉妹魂は魂界にとどまった。この姉妹魂はルカのイエス少年のなかに受肉した魂でもあった。しかし、厳密にいえば、この魂が物質体に受肉したのは、このときが初めてではなく、過去にも一度、既に預言的に受肉したことがあった。 このとき既に、この魂は聖なる秘儀の使者のように現れた。この魂は、秘儀において交流を持ち、いわば秘儀のなかで育み養われ、人類の進化における重要時に派遣された。 しかし、この魂は、エーテル体のなかにだけ出現できた存在なので、厳密な意味では、太古の霊視に限り知覚できた。実際、太古の時代には霊視が存在していた。つまり当時、このアダムの姉妹魂は、人々に見られるために、物質(肉)体にまで降る必要がなかった。 とはいえ、この魂は、秘儀のなかの神々の衝動(意志)により派遣され、地球進化において重要事項が為されるべき時には常に、地球の人類進化の内部に繰り返し、実際に出現した。けれども、この魂は太古には(物質体に)受肉する必要はなかった。太古には、霊視が存在したからである。 この魂は、以前述べたポストアトランティス時代の、第3文化期(エジプト-カルディア)から第4文化期(ギリシア-ラテン)へと移行する際に、この霊視が消滅し、遙か将来に克服(獲得)すべき能力になったときはじめて受肉する必要性が生じた。 このとき、いわば太古の顕現の補足としての受肉、もはや霊視がなくなった時代に対応するための受肉を引き受けた。このアダムの姉妹魂は、クリシュナのなかに、いわばただ一度だけエーテル体として受肉し、今度は、物質的にも、眼に見えるようになるために、姿を現さなければならなかった。 クリシュナの次に、この魂は、今度はルカのイエス少年のなかに受肉した。以上の事実から、次のような問いが理解できる。 クリシュナがなぜ、超人のように語るのか? なぜクリシュナは、人間の自我にとって最良の師であるのか? なぜクリシュナは、自我の克服を示すのか? なぜクリシュナは、崇高な魂として現れるのか? という問いに対する答えを理解できる。なぜなら、以前の講義のなかでも述べたが、クリシュナは、人間の肉体に対する受肉まで下降しない魂として現れたからである。(クリシュナの時代、つまり、大体、紀元前4千年辺りでは、特定の霊能者だけに、エーテル体のクリシュナがみえた。やがて、時代を経るに従って、一部の秘儀参入者を残して、人類は、異族婚のために、霊能力を失っていった。 古代ギリシアの哲学者たちは、秘儀参入者の末裔である。ソクラテスがなぜ、神々との対話を重視したのか、プラトンがなぜ、イデアを説いたのか、アリストテレスが、なぜ、アレクサンダーを東へと導いたのか、全ては、秘儀参入の叡智の継承にある。 すなわち、ギーターに残るクリシュナの言葉を伝えるためである。やがて、人類が、全て霊的に盲目となったときに、クリシュナは、キリストとして、イエスの肉体に降臨し、新しい言葉を人類に伝える。 そして、人間として、神は死に、物質体に死をもたらし、エーテル体として、かつてのクリシュナのように復活する。つまり、クリシュナのときに人類の集合的な魂と、キリストのときの個別的な人類の魂への進化のとの間に、集団から個別へと、堕落した人間の自我に、調停をもたらしたわけである。 神々と悪魔の天界の集団的な闘争から、個々の人間の地上での個人的な利己主義との闘いに引き継がれたのである。神々と悪魔のハルマゲドンの闘いは、人類1人1人の人生の苦悩との戦いに転じていき、勝利を治めた者には、エーテル体で復活したキリストが霊視できるようになる。人間1人1人の人生後に行われる審判が、最後の審判である。)
2011年07月27日
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パウロは、秘儀参入者として知っていた叡智全てを、彼の生きていた時代には人類に伝えることはできなかった。しかし、パウロの書簡を、自らの魂に作用させたなら、パウロ書簡が外聞されている知識よりも多くを、魂の奥底で語っていた事実が洞察できる。 つまり、パウロは、各々の教区に対して話すために、各々の教区の知性を考慮しなければならなかった。そのため、パウロ書簡のなかには、明らかな矛盾のように見える記述もある。しかし、深部へ参入できたなら、実際、パウロのなか全てに、キリストの本質、すなわち、キリスト衝動(意志)が発見できる。 では、ここで、人智学徒が、ゴルゴタの秘跡の成立(生命を得ること)を、どのように叙述したかを思い出してみる。時代の経過に沿って、事実、2人のイエス少年がいたために、マタイ福音書と、ルカ福音書から、2つの異なったキリスト=イエスの若き日の物語(4)があることを、人智学徒は知っている。4)2つの異なったキリスト=イエスの若き日の物語:シュタイナー『個人と人類を導く霊の働き』(1911 GA15 第3講);『ルカ福音書』(Basel 1909 GA114);『マタイ福音書』(Bern1910 GA123);『イエスからキリストへ』(Karlsruhe 1911 GA131)参照。 パウロ書簡の意味に沿って、外的に言えば、「肉、すなわち物質(遺伝)的な血筋によるなら、イエス少年は、2人とも、ダビデの家系に由来し、1人はナータン系、もう1人はソロモン系の出で、2人とも、ほぼ同時期に生まれた」ということになる。 マタイ福音書のイエス少年のなかに、ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が再受肉している事実を、人智学は発見し、そして、ルカ福音書が叙述する、もう1人のイエス少年には、特にゾロアスターのように高度に進化した自我が、当初、受肉しなかった事実を強調した。 ルカ福音書のイエス少年のなかには、本質的に、地上の人間進化には入っていかなかった自我が生きている。 この点において、正しいイメージに至るのは少々困難である。とはいえ、いわばアダムのなかに受肉した魂、つまり著書「神秘学概論」(5)の意味で、アダムと呼ばれる存在に受肉した魂が、聖書において楽園における堕罪として象徴的に叙述されているルシファーの誘惑に屈する様子を思い描いてみる。5)シュタイナー『神秘学概論』(1910 GA13)の「宇宙進化と人間」の章(259頁)参照。 上記のイメージに加え、アダムの身体に受肉した魂の傍らに、当時受肉せず、物質体に入り込まず、魂のままの霊的な人間を思い描いてみる。 人類進化のなかに、物質的な人間が発生する前の、後に、2つに分かれる1つの魂があることを想像すればよい。共通の魂のうちの一部が、後裔となってアダムのなかに肉化することで、この魂が、受肉へと入っていき、ルシファーに屈服する。 他方、アダムのもう一方の魂、いわば姉妹魂となるが、賢明な宇宙の統治者により、この魂が受肉するのはよくないと予見された。この魂は、魂界にとどめ置かれ、人類の受肉のなかに生きることなく、魂界に引き留められた。 この魂とは、秘儀参入者だけが交流できる。従って、この魂は、ゴルゴタの秘跡以前の進化において、自らのなかに、自我の体験をもたず、なぜなら、自我は、人体のなかへ入る受肉を通じてはじめて体験できるからである。 故に、この魂は、受肉せず、ルシファーの影響を受けなかったので、土星紀、太陽紀、月紀を通じて獲得できた全叡智をもっている。この魂は、人間の魂に可能である大凡全ての愛をもっている。この魂はいわば人類が、人類進化の受肉の経過において、自らのなかにもたらし得る罪全てに対して無垢でもある。 この魂は、つまり、外に、人として出会うことはできず、太古の霊視者(見者)たちにだけ知覚できた魂なのである。この魂は、霊視者たちにより知覚された。この魂とは、いわば秘儀のなかで交流できた。 以上のように、人類進化のなかに、というより上に、当初は、霊としてのみ知覚できた魂、すなわち、1人の前人、いわゆる超人を有している。 (この超人が、アダム・カドモンで、人間として受肉した一方のアダムの魂を、エヴァと呼んだのだろう。すると、聖書の蛇の勧誘により、エヴァが知恵の実を食べた出来事の意味がわかる。) この超人の魂が、ルカ福音書のイエス少年のなかに、通常の自我の代わりに受肉した魂である。バーゼル講義(『ルカ福音書』〔GA114〕)を憶えていれば、そのとき、既に述べたが、この魂は、自我に似た魂であり、イエスの肉体のなかに入り込むときには、1つの自我のように働きかけるのは勿論だが、この魂が示す全ては、やはり他の通常の自我とは異なる。 バーゼル講義で、既に、ルカ福音書のイエスが生まれてすぐに、母にも理解できる言葉で話せた、という事実を強調した。ルカのイエスの場合、似たような事実が他にもあった。また更に、ゾロアスターの自我が内に生きていたマタイのイエスが、12歳まで成長したことを、人智学徒は知っている。 ルカのイエスも成長したが、こちらはとりたてて人間的な認識や学問を持たず、神の叡智と供犠の力を自らのうちに担っていた。ルカのイエスは成長しても、外的にも、人間的な学習能力を特に示さなかった。 ゾロアスターの自我は、マタイのイエスの肉体を去り、ルカのイエスが12歳のときに、ルカのイエスの肉体を所有した。この瞬間は、ルカ福音書の12歳のイエス少年について、「両親が彼を見失ったとき、彼は神殿の賢者たちの前で教えていた」、という記述により暗示される。 更に、人智学徒が知ることは、このルカのイエス少年が、12歳を過ぎてから、自らのうちにゾロアスターの自我を担って30歳までに達した時点で、今度は、ゾロアスターの自我が、ルカ-イエスの肉体を去り、魂の「覆い」の性質全てを、降臨したキリストが所有するという事実である。 キリストは、高次ヒエラルキアの超人なので、ルカ-イエスの肉体は、誕生から12歳まで、前人的な叡智や神の愛の力に浸透され、次に12歳から30歳まで、ゾロアスターの自我により、多くの受肉や秘儀参入を通じて獲得された叡智全てに流入され、浸透され、キリストのために準備され、ようやく、人間の肉体に受肉できる。 このキリストの自我が、人類のなかに入ることができるためには、どのような肉体が必要だったのか、という問いに対する理解を試みることで、キリスト存在に対する正しい解釈や畏敬、すなわち正しい感情全般が得られる。 このキリスト存在に関して近代の聖なる秘儀から得られた叙述のなかに、多くの人たちが発見した事実は、キリスト存在がゾロアスターの自我を内に宿さずに、通常の人体に受肉したなら家族のように親しく、人間の身近にいるように様々に思い描かれ多くの人が敬うキリスト=イエスとは別の、いわば親密にもみえず、人間らしくもない存在になっていただろう、ということだった。 キリスト=イエスが、あらゆる宇宙の領域からの様々な作用から創造された、と人智学の教説から述べることで、人智学は非難された。このような人智学への非難は、単なる人間の認識の怠惰や、感受性と高次の感情へと上昇しようとしない怠惰に由来する。 最も偉大な存在の最大、最高を、幾らかなりとも、自らの魂に近づけるために不可欠な、内的な感情や感受性の強度を獲得すべく、魂を大いに刻苦勉励して把握しなければならない。このように最初の感情は、キリストの自我を、以上のような人智学の光(叡智)のなかで観察するときにだけ高められる。
2011年07月26日
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人類進化全体の生成を通じて、様々に展開していく魂の運命について、パウロ書簡のなかに、非常に明確で深遠な説明が見つかる。 東洋的な思考が、まだ獲得できた叡智と、パウロにおいて、即座に素晴らしく明瞭に現れてくる叡智には、根本的な違いがある。既に指摘したが、クリシュナにおいては、魂の外側(プラクリティ)の形態変化から抜け出る方法を発見することにかかっている。 しかし、プラクリティは、魂とは疎遠で、魂の外にとどまっている。サーンキヤ哲学のような東洋的な進化のなかでは、東洋的な秘儀参入のなかですら、あらゆる努力は、物質的な存在から自由になること、すなわち外に拡がる自然から自由になることを目指す。 というのも、外に拡がっている自然は、ヴェーダ哲学の意味ではマーヤー(幻影、仮象)として現れるからである。外の全てはマーヤーであり、ヨーガはマーヤーから自由になることが基本となる。 既に提示したことだが、ギーターにおいては、人間が、為し、行い、欲し、考える全てや、欲求や思考の対象となる全てから自由となり、外面性全てに、魂として勝利することが求められている。「行為、営みを、いわば自身から切り落とし、自らのうちに安らぎ、自身のうちで自足せよ」、というわけである。 以上のように、クリシュナの教えの意味で、進化を願う人間の念頭にあることは、根本的に言って、いつかは、パラマハンサ(覚者)[Paramahamsa](2)になることで、すなわち、あらゆる物質的な現象から離れ、この感覚世界のなかで、行った行為全てに打ち勝つような、高次の秘儀参入者になることで、純粋に霊の存在のなかに生き、感覚を克服して、もはや再受肉への渇望がなくなり、感覚を発端とし習熟した営み全てに、もはや関わりを持たなくなった秘儀参入者になることである。2)Paramahamsa(パラマハンサ)とはサンスクリット語で「至高の白鳥」を意味し、白鳥が水とミルクを飲み分けることから、世間のなかにあって真理を実現した覚者のことを 呼ぶのに古くからインドで使われてきた言葉。 つまり、マーヤーから抜け出すこと、この世界の至る所から向かってくるマーヤーに勝利することである。 しかし、パウロにおいては異なる。パウロの場合、クリシュナのような東洋的な教えに向き合ったなら、魂の深い奥底から、次のような言葉が喚起される。 「お前を外で取り巻いている全て、お前が、かつて外で行った全てからも、お前は抜け出して進化したいと思っている。 お前は全てを置いていきたいのか? 全ては神の御業ではないのか? お前が抜け出そうとしている全てが、実は神霊により創造されたものではないのか? お前が、抜け出そうとしている全てを軽蔑するなら、お前は、神の御業を軽蔑しているのではないのか? 神の顕現や、神の霊が、いかなる場所にも生きているのではないのか? まずお前自身の営みのなかに愛し信仰し帰依し、神を示そうと、なぜ、しないのか、それでいて、神の御業に勝ち誇るつもりなのか? パウロは、実際、以上のように語ってはいないが、パウロの魂の奥底で働いている、以上の言葉を、自身の魂の奥底に書き記すのが良い。というのも、以上の言葉には、人智学徒が、西洋的な啓示として知っている重要な神髄が表現されているからである。 パウロも、人間の周囲を取り巻くマーヤー(物質世界という幻想)について語る。確かに、「マーヤー(幻想)が人間の周囲を取り巻いている!」と言える。 しかし、次のように問うべきである。 「このマーヤーのなかには、本当に、神の顕現がないのか? 全ては、神霊の御業ではないのか? 全てに、神霊の御業があるという真実を理解しないのは冒涜ではないのか?」 以上のような、新たな問いが加わる。 「なぜ、これがマーヤーなのか? なぜ人間は、周りにマーヤーを見るのか?」という問いである。 西洋の哲学では、全てがマーヤーなのか、という問いだけにとどまらない。なぜ、マーヤーなのか、を問う。 この問いから、人間の魂、すなわち、プルシャの中心にまで参入できる答えが生じる。かつて、人間の魂が、ルシファーの威力に屈したので、人間の魂は、全てをマーヤーというヴェール(仮想)を通して見る。すなわち、人間の魂は、あらゆる存在の上に、マーヤーというヴェール(仮想)を、魂として拡げる、という答えが得られる。 では、人間が、マーヤーを見るという事実は、何に対する罪なのか? 何に対する罪でもない。人間がルシファーの威力に屈しなかったら、人間の魂に対して、真実の姿を現すだろう。マーヤーとして現れるのは、人間が、マーヤーとして拡がっている存在の根底を見ることができないからである。 つまり、魂がルシファーの威力に屈したことが原因であり、神々が与えた罪ではなく、自らの魂の罪なのである。 「お前の魂は、世界をマーヤーにしてしまった。お前が、ルシファーに屈服したせいである。」 以上のような、人智学な最高の理解から下降し、「感覚は欺かないが、判断は欺く」(『ゲーテ自然科学論文集』第5巻349頁)というゲーテの言葉に一直線に到達できる。 俗物や狂信者たちは、ゲーテや、ゲーテのキリスト教を思いのままに論難するがよいが、それでも、やはり、ゲーテは、自分は究めてキリスト教的な人間の1人であると言うだろう(3)。なぜなら、「感覚は欺かないが、判断は欺く」という言葉に辿り着くほど、ゲーテは、魂の奥深い本質のなかでキリスト教的に考えているからである。3)ゲーテのキリスト教への思いは、フリードリヒ・フォン・ミュラー相手のゲーテの発言に関連している:「私がどんなにキリスト教を尊敬しているか、あなたはご存じでしょうか、恐らく、ご存じないでしょうね。今日、一体誰が、キリスト自身が意図したようなキリスト教徒だといえるのか? もしかすると私だけかもしれませんよ。あなたは私を異教徒だと思っているけどもね。」この発言は1830年4月7日の『フリードリヒ・フォン・ミュラーとの対話』(C. A. H. Burkhardt 編 Stuttgart 1870)に見られる。 魂が、真実を見ずに、マーヤーとして現れるのは、魂の罪である。東洋哲学では、単純に、神々の行為として捉えられるものが、西洋哲学では、魂の奥底へと生じるルシファーとの大いなる闘いへと転じられる。 ギーターを代表とする東洋哲学を正しく観察すると、東洋哲学は、まさに以上のことにより、ある意味、唯物論にみえ、マーヤー(幻想)という霊性を認識せず、物質から抜け出そうとする。 たとえ、まだ萌芽でしかないために、現在のようなタマス時代には見誤られることがあっても、パウロ書簡を、貫きながら、脈打ち、未来において、全地球上に拡がってゆくものは、キリスト衝動の西洋哲学による魂の教えである。 マーヤーの特殊な性質に関して、以上を理解する必要がある。キリスト衝動を理解してはじめて、人類進化の歩みのなかで、肝心な事実を深い意味で理解できる。人類進化のなかの肝心な事実を理解できてはじめて、パウロが、人類の祖アダムについて語るとき、パウロが何を言っているのかが理解できる。 「人間の魂は、ルシファーに屈服したために、一層益々、物質(肉体)のなかに巻き込まれてしまった。すなわち、人類の祖アダムは、物質界の誤った体験に巻き込まれてしまった、という意味に他ならない。」 神の創造として、外にある物質は、本質的に良いものである。物質世界で起こることは、本来、良いことなのである。人類進化の経過のなかで、物質界での魂の体験は、次第に益々(精神的に)貧しくなっていく、なぜなら、人間の魂が、最初にルシファーの威力に屈したからである。 従って、パウロは、キリストを第2のアダムと呼ぶ(『コリント人への手紙1』15章 45)、なぜなら、キリストはルシファーの誘惑を受けずに、物質界に登場し、人間の魂の指導者にして、友人だからで、キリストは、人間の魂を徐々にルシファーから引き離し、キリストとの正しい関係に導く。 コリント人への第1の手紙 http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/1corinth.htm 「アダムにあって全ての人が死んでいるのと同じように、キリストにあって全ての人が生かされる。」 (ルシファーにより、物質界では、魂は外しかみなくなり、貧しくなっていく、魂の表層から発達したのが、現代の覚醒意識である。ルシファーにより、アダムは外へと誘導されたが、キリストがやってきて、魂の外側、つまり覚醒意識に死をもたらし、魂の奥底、潜在意識の内側に目を向けさせる。 外側に向かえば、死しかない。分裂、破壊、闘争の結末が待つ。すでに、精神分裂症が蔓延している。再度、外へと向かう分化の働きを、内側に転じること、魂の外側を魂の内側の核に向けさせ、自己犠牲の精神に向かわせることが、調和、共通の精神なのだろう。 この意味から、大和魂の意味がなんとなくわかるような気がする。切腹というのは、外に向かいすぎて、分裂しないための、魂の働きなのかもしれない。)
2011年07月23日
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クリシュナの教示は、1人の人間(アルジュナ)に向けられるが、結局、ヨーガの主(導師)が手本として示すような魂の向上法を獲得できるまでに成熟した者には誰にでも向けられる。このとき、太古の人類へと次第に遡っていくように指示され、クリシュナの教えの意味、つまり精神(霊)性において、この太古の時代へと、修行者は、再び立ち返ることが要求される。 太古の人間は、まだ現代のように、それほど個性をもたず、どの人間にも、同じ教えと指導で良いことが前提となった。 パウロは、人間1人1人の個性が現れた時点、すなわち特別の能力や天分を備えた個性の違いが実際に出てきた時点の人類に対峙していた。もはや、どの個々の魂のなかにも、同じ教義を注ぎ込める見込みがなくなり、全人類の上に、不可視的に君臨する存在を示唆しなければならなかった。 この特別な能力と天分を備えた個性の相違のなかにはないが、どの個性のなかにも、共通項として存在するものがキリスト衝動(意志)である。キリスト衝動(意志)とは、人類の新たな集合魂のような存在だが、人類自身により、意識的に求められるような集合魂でもある。 (キリスト衝動、すなわちキリスト意志とは、無常のなかに、常に変わらない永遠を求める共通項の意志ともいえる。つまり、愛は、不変で、永遠ともいえる。) 上記の真相を明らかにするために、クリシュナの数名の弟子たちが、霊界ではどう見えるか、また、自らの内奥にあるキリスト衝動(意志)に心動かされた数名の弟子が、霊界ではどのように見えるかを、霊視により描いてみる。 クリシュナの弟子たちは、ヨーガの主(クリシュナ)から分け与えられた同じ衝動(意志)を、各々自らのなかに燃え上がらせている。霊界(あの世)では、同じ衝動(意志)をもつ人なら、物質界(この世)では別人でも、非常によく似ている。つまり、霊界では、同じ指導が行われたのである。 対して、キリスト衝動(意志)に心動かされた弟子たちは、肉体を去り、霊界にあっても、個人個人が特別の個性や、異なった霊力を備えている。従って、霊界でも、ある人にはある仕事、また別の人はまた別の仕事というように異なった責任を負っている。 個人個人が、いかに個性的であろうとも、個人の魂のなかに、衝動(意志)を注ぎ込む指導者は、キリストで、個人個人の魂のなかにあると同時に全ての上に浮かぶ存在でもある。魂が肉体を去ったときにもなお霊界には様々な教区がある。 他方、クリシュナの弟子たちは、魂がヨーガの主(クリシュナ)から導きを得ると、一元的な存在となる。しかしながら、人類進化の意味とは、魂が益々多様になっていくことなのである。 従って、クリシュナは、パウロとは別の方法で語らざるを得ない。クリシュナは、基本的に、ギーターで告げ知らせるように、弟子に語る。パウロは、それとは異なった話し方をする。 パウロは、本質的に、どの人間にも語りかけるので、個人個人の成熟度に従い、様々な受肉段階において顕教にとどまるか、もしくは秘教に入り、更に秘教的なキリスト教にまで、自らの魂を高めていくかどうか、ということが、個人個人の進化の問題となる。 キリスト教において、人間は更なる進化を重ね、秘教的な高次の叡智にまで到達できるが、クリシュナの教えとは、また別の出発点をもつ。クリシュナの教えでは、自らの魂が、人間として受肉している地点から出発し、あくまで1個人として、魂を高める。 (一子相伝という意味だろう。ただし、子ではなく、弟子だが。つまり、一弟子相伝となる。) キリスト教では、更なる進化の道を歩む前に、キリスト衝動との関係を獲得すること、すなわち、キリスト衝動を第一の出発点として、そこから他の全ての進化へと向かう。 クリシュナへの霊的な道を歩むには、クリシュナの指示を守らなければならないが、キリストへの道は、どの人でも歩むことができる。キリストは、人間であれば誰でも秘儀との関係を獲得できるように、全ての人間のために秘儀をもたらしたからである。 しかし、ゴルゴダの秘蹟は、外的な死として、物質界で成就されたので、最初の第一歩は物質界で生じる出発となる。キリストの秘儀は、この事実が本質である。 キリスト衝動の世界史的な意味に通じるなら、様々なキリスト教的な信仰の告白から出発する必要は全くなく、現代においては、キリストに敵対する立場からでも、もしくはキリストに対して全く無関心な立場からでも、出発できる。 現代のような精神生活から、真に与えられる経験のなかに深く参入する際に、唯物論の矛盾や愚昧さえ見抜ければ、特に信仰の告白を最初の出発にしなくても、純粋にキリストへと導かれる。 従って、「ある教団は、特別なキリスト信仰の告白から出発している」、というように、外部の人間に言われたなら、酷い中傷とみなせる。 というのも、問題は、特定のキリスト信仰の告白にはなく、様々な精神生活のなかの条件にあり、すなわち、回教徒であれ、仏教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、ヒンドゥー教徒であれ、あるいはまたキリスト教徒であれ、いかなる人間も、キリスト衝動が持つ意味を、人類進化全体として、理解できるからである。 (キリスト信仰と、キリスト衝動とは異なる。キリスト衝動は、相手を赦す寛容精神にあるが、キリスト信仰は、救われたいという欲望が残るからである。 自分にとって必要なこの世での経験が、神から与えられているので、この世から救われたいとする信仰は、神を裏切ることになるわけである。救われたいという依存心ではなく、自分のなかのキリスト衝動を発揮して、自力で救わないといけない。 つまり、キリスト信仰は人間なら当然の話であり、わざわざ告白、証言して、自らを高みにおく必要などない。告白や証言は、神にすべきである。証言よりも実行に重きがおかれる。結局「なすべきことをなせ」ということなのだろう。) しかし同時に、上記は、パウロの見解と叙述全体の最深部を貫いている正体であり、この点において、パウロは、まさしく、この世においてキリスト衝動を最初に告知し、先導する個性をもっていた。 サーンキヤ哲学が、形態変化、すなわちプラクリティとの関連に、いかに取り組んできたかを、述べるなら、パウロは、意味深い、自身の書簡の根底にある全てにおいて、まったくもってプルシャ、すなわち魂を扱ってきたと述べることができる。
2011年07月22日
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パウロは次のように言う(コリント12章1-30)。 「兄弟たち、霊界について、是非知っておいてほしい。あなた方が異教徒だった頃、誘われるままに、真実を語れない偶像の下に連れて行かれたことを覚えているだろう。 あなた方に、はっきりと言っておく。神霊により語る人は、誰も『イエスが神から見捨てられた』とは言わないし、また聖霊によらなければ、誰も『イエスが主である』とはいえない。 さて、異言(霊言)の天分には様々なものがあるが、異言を与えるのは同じ霊である。仕事は様々だが、与えるのは同じ主である。働きも様々だが、全ての働きのなかの力は、同じ神からくる。 1人1人に働く霊の告知は、全体の益となるためである。ある人には、霊によって、叡智を語る力が与えられ、別の人には、同じ霊によって、知識が与えられる。 また、ある人には、同じ霊により信仰が、ある人には、同じ霊により、病気を癒す能力が与えられる。ある人には、奇跡を行う能力が、ある人には預言の能力が、ある人には霊を見分ける能力が、ある人には異言の能力が、ある人には異言を解釈する能力が同じ霊により与えられる。 これらは、全て唯一の霊の働きであって、霊が望むままに、1人1人に分け与えてくれる。 なぜなら、1つの身体でも、多くの器官から成り、これら多くの器官が全て一緒になって1つの身体を形作るが、キリストの場合も、この身体と同様だからである。 ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、奴隷であれ、自由民であれ、人間は皆、人類という1つの全体のために、霊により洗礼を施され、人間は皆、1つの霊を分け与えられている。 例えば、足が、私は手ではないから、手のように働く身体の器官ではない、と言い張っても、足は、やはり足という働きの身体の器官に変わりはない。たとえ耳が、私は眼ではないから、身体の視覚器官ではない、と言い張っても、耳は、やはり身体の聴覚器官である。 例えば、全身が眼だけだったら、聴覚はどこにあるのか? 全身が聴覚だけなら、嗅覚はどこにあるのか? そこで神は、神が良いとするままに、各器官を、人間の身体に、1つ1つ特別に配置し働きを与えた。もし、1つの器官しかなかったら、身体はどうなるのか? 多くの器官があって、1つの身体となる。眼が手に、「お前はいらない」、ということは許されない。頭が足に、「お前はいらない」、ということも許されない。むしろ、身体のなかでは、一見して、貧弱な器官が不可欠で、あまり注意を払わない器官が特に重要なことが明らかになる。 神は、人間の身体を組み立て、人間には取るに足らないと思える器官に意味を与えた。身体が分裂せずに、調和的に共同して働き、互いに気づかうためである。そのため、1つの器官が損なわれれば、全体が共に損なわれ、ある器官が健康であれば、全体が共に歓呼の声をあげるのである。」 続けて、パウロは、コリント人たちに向かって次のように言う。 「あなた方は、キリストの身体をもち、あなた方皆が、キリストの身体の器官を形作る。そして、神は、各々の教区に、ある人々を、使徒として置き、また他の人々を、預言者として置いた。 第3の人々を、教師として、第4の人々を、奇蹟による癒し手として、第5の人々を、助力をする者として、第6の人々を、教区の統制をもたらすために、第7の人々を、異言(霊言)のために置いた。 例えば、神は、全ての人々を、使徒とされるのか? 神は、皆を、預言者とされるのか? 神によって皆が教師、皆が癒し手、皆が異言を語らされるのか? あるいは皆が異言を解釈させられるのか? 否、様々な恩寵の賜物(天分)が共同して働くのが正しく、それが多ければ多いほど、一層、神は良いとされる。」 それから更にパウロは、1人1人の個人のなかにあり、また教区全体においても働き、ちょうど身体の力が、身体の各器官を集め結びつけるように、教区のなかの個々の成員を集め結びつける力について語る。 パウロが、キリストという身体の様々な器官として存在する人類に向かって語った以上に美しい教義を、クリシュナといえども、1人の人間アルジュナには語ってはいない。更にパウロは、身体が、個々の器官を統一しているように、様々な個性を統一するキリストの力について語る。 1人1人の個人のなかに、どの個性も生命力のように生きることができるが、同時に、全教区全体のなかで、再現し、生きる力を、パウロは力強い言葉で特徴づける。 「私は、あなた方に、他のどの道よりも高次の道(精神性の向上、進化)を示したい。 私が人間の舌、もしくは天使の舌を用いて、霊から(異言を)語っても、愛が欠けていたら、銅鑼(どら)や鈴による騒音と同じである。 私が預言でき、あらゆる秘密を明らかにし、あらゆる宇宙の認識を伝えることができても、また、私が完全な信仰を身につけ、山をも動かせたとしても、愛が欠けていたら、無に等しい。 また、私が霊の賜物(霊能力の天分)全てを分け与え、自身の身体を捧げ、全霊で燃やし尽くそうとも、愛が欠けていたら、全ては無駄となる。 愛は常に存在し、愛は寛容であり、愛は妬みを知らず、愛は驕らず、愛は自惚れを知らず、愛は礼儀を知るものを損なわず、愛は利益を求めず、愛は唆されず、愛は誰も恨まず、不正を喜ばず、真実だけを喜ぶ。 愛は全てを包み、全ての信仰に流れ込み、全てを望み、全てを耐え忍ぶ。 愛があれば、愛は決して滅びない。預言は、成就すれば消滅し、霊(異言)から語っても、人間の心に訴えかけることができなければ、霊(異言)は止み、知識も尽きれば、廃れる。 というのは、人間の認識は不完全で、預言も不完全だからである。 完全なものが現れたら、不完全なものは消え去る。 私が子供であったときは、子供のように話し、子供のように考え、子供のように感じた。私が、大人になると、子供の世界は消え去った。 今、人間は、鏡のなかに、ぼんやり映る輪郭しか見ることができないが、いつの日か、顔と顔とを向き合わせるように、(自分のなかの)霊を直に観るだろう。今のところ、人間の認識は不完全だが、いつの日か、自身が、どのような存在であるか、完全に知るだろう。 さて、自身(人間界)のなかに、いつまでも残るものは、信仰、希望、愛である。そのなかで、一番優れているものは愛であり、愛は上位(神々の世界)に置かれる。 なぜなら、いずれ、あなた方皆に、霊の賜物(霊能力)が、もたらされるにせよ、預言(霊能)者も、愛を一番に求めなくてはならないからである。 というのも、異言(霊言)は、人間の言葉ではなく、神の言葉だからである。預言は、霊(神々)の秘密(愛)なので、(愛を一番に求めないと)人間の言葉として、聴き取ることができないからである。」 (人間の本性は、宇宙の愛からなり、愛を灯すことで、自らの愛をみることができる。「汝自身を知れ!」とは、「愛に目覚めろ!」という意味にある。フィロソフィ「哲学」という本来の意味は、知を愛するのではなく、「愛を知れ!」という意味に思えます。) 以上のように、パウロは、異言(霊言)の本性を述べている。パウロは、異言(霊言)を語る者は霊界に連れ去られ、神々の下で語る、と述べている。 「預言を語る者は、人間の世界を、教化するために、戒めるために、慰めるために、語るが、異言は、ある意味、個人を愛で満たし、預言は、教区民たちを教化する。 あなた方皆が、各自で、異言を語るよりも、愛を一番とし、預言する方が遙かに重要である。教区民の理解のために、異言を語る者が、語られる異言を、(愛をもって)自分で認識できなければ、異言を語るよりも、預言する方が優れている。 兄弟たちよ、私が異言を語る者として、あなた方の前に来ても、私の異言が、預言や教えや啓示として、どのような意味をもつかを、あなた方に言わなければ、私は、あなた方にとって何の役にも立たない! 声音が、愛によって秩序づけられ、明瞭に聞こえなければ、私の異言は、笛やツィターの騒音と同じである。ツィターや笛が、愛を奏でる音を出さなければ、ツィターや笛の演奏に、愛を感じることはできない。また、喇叭(らっぱ)が、無秩序で不明瞭な音を出すなら、闘いの支度をする気にもなるだろう。 ツィター http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%BF%E3%83%BC あなた方も、愛により秩序づけられた明瞭な言葉を、異言に結びつけることができなければ、これと同じで、全ては、単なる雑音として宙に向かって語られることになる。」 以上のパウロの発言は、様々な霊の賜物(天性の能力)が、各教区の成員たちに分け与えられ、各教区の成員は、個性を発揮して共同して働かなければならないことを示している。同時に、パウロの教示が登場する人類進化の時点においては、根本的に、クリシュナの教示と区別しなければならない。
2011年07月21日
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いま、クリシュナとアルジュナの関係をありのままに思い描いてみる。クリシュナは、アルジュナに、ヨーガの主(導師)としてのクリシュナに出会うために、いかに魂を段階的に上昇させていくことができるかの明解な指示を与える。 これに対して、パウロ書簡の特に重要な箇所、すなわち、ある教区民があることが真実かどうか、パウロが教えたことに対して、あることが正しい見方かどうかを、パウロに向かって問いかける箇所を思い浮かべてみる。 すると、パウロが与える教示は、その重大さや様式性、更に芸術性においても、崇高なギーターのなかに発見できる教示に全く匹敵する。しかし同時に、ギーターとは全く異なる調子(トーン)も発見でき、全く異なる種類の魂の感情から語っていることがわかる。 このパウロの教示とは、人間の集団のなかに存在する様々な個人の天分(才能)が、いかに共同して働くべきかを、コリント人たちに向かって書いている箇所(『コリント人への手紙1』12章)に相当する。 クリシュナはアルジュナに言う。 「お前は~であらねばならない。~のことを為さねばならない。そうすればお前の魂は、一段一段上昇していくだろう。」 パウロはコリント人たちに言う。 「あなた方のなかの1人は、~のような天分を持ち、また別の1人は、~の天分を持ち、また別の3人目の人は~のような天分を持つが、皆が、1人の人間の身体のなかの各々の器官のように共同して働けば、霊的にも1つの全体を生み出し、霊的にもキリストに浸透される全体を生み出す。」 つまり、パウロは、事象を通じて共同して働く人間たち、つまり人類全体に照準を定めている。そして、パウロは、天分でもある「異言」の能力が現れる重要な機会に、多数へと向かう。 では、パウロ書簡のなかに見つけられる、この「異言」とは何なのか? 「異言」とは、太古とは異なる新たな方法で、しかも覚醒意識をもちながら、現代人に再び現れてくる太古の生まれつきの(遺伝的な)霊能力の名残に他ならない。 (「異言」とは、覚醒意識をもちながら行う霊媒である。神霊に憑依されながらも、自分を失わない霊媒である。自分を失うかどうかは、覚醒意識の有無に関わる。覚醒意識を失うと、現代人は、耐えられず、睡眠状態になる。通夜の寝ずの番などが、この訓練ともいえる。) つまり、「異言」は、人智学における秘儀参入法のなかでいう、現代におけるインスピレーション(霊聴力)までの到達で、いわば、現代人が、明瞭な覚醒意識を日常の知性の感覚や知覚に結びつけるのと同じように、明瞭な覚醒意識をインスピレーション(霊聴力)に結びつけ、一致させることに相当する。 古代では、事情は異なっていた。当時、秘儀参入者は、まるで高次の霊たち(神霊)の道具のように語り、高次の霊たち(神霊)は、秘儀参入者の霊(精神)的器官を用い、高次の事柄を、秘儀参入者の舌を通じて言い表していた。 当時は、当人には全く理解できない高次の事柄を語ることができた。高次の霊たちのいわば道具が直接理解できない報せが霊界からやってきた。コリント人たちへのパウロの「異言」は、この太古の霊媒が生じたものである。 (現代人の異言は、覚醒意識をもったまま行うものとなる。太古は、2人三脚で異言が行われた。神言を降ろす霊媒と、神言の内容を解釈する、いわば書記「審神者」である。 現代では形骸化して、政治家と官僚の関係になったともいえる。右翼体制か左翼体制かは、政治家が優勢か、官僚が優勢かで判別できる。左翼体制は、書記長が出てくるわけである。もし、日本に天皇制がなかったら、左翼体制になっていただろう。 左翼、右翼の分類は、歴史上は、フランス革命からきているが、本来の意味は、天使の翼にある。従って、天界に秘密があり、天界の闘いが起源なのである。) 当時、何人かの人が、上記のような「異言」の天分(能力)を得る状況になった。当時、秘儀参入者の何人かは、霊界から、高次の事柄を告げ報せることができた。 (日本の天皇などは、これの名残に思える。) さて、「異言」のような天分を、人間が持つとき、「異言」を通じて啓示される内容は、いかなる状況においても霊界からの報せであった。それでもやはり、ある者の発言と、別の者の発言が異なる場合もあった。霊界という領域は多様だからである。 ある者は、ある霊界の領域から、別の者は、また別の霊界の領域からインスピレーション(霊聴力)を与えられる状況もあり、啓示が全く一致しないこともある。覚醒意識をもって、霊界のなかに赴くことができてはじめて、一致を見つけることができる。 従って、パウロは次のように警告している。 「異言を語ることのできる人たちがいて、異言を解釈できる別の人たちもいる。両者は右手と左手のように協力して働かなくてはならない。異言を語る人の言うことを聴くだけではなく、異言の天分は持たないが、各々が、様々な霊の領域から降ろしてきた異言を解釈し、認識できる人の言うことにも耳を傾けなさい。」 以上のようにパウロは、教区の人々が共に働くことで実現する高次の事柄の伝達を奨励している。 パウロは、この「異言」と結びついて、書簡として語る。既に述べたように、パウロ書簡は、ある関連においては、ギーターよりも素晴らしく、その力強さにおいては、以前議論した点とはまた別の点で、ギーターの告知に匹敵し得るほど素晴らしい内容である。
2011年07月20日
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この連続講義により、2つの重要な人類の記録、ギーターとパウロ書簡を、魂の前に通過させた。限られた講義日数のなかで、できる限りの非常に短い特徴づけにすぎないが、この2つの重要な人類の記録である崇高なギーターとパウロ書簡が成立するためには、人類進化にどのような衝動(意志)が流れ込む必要があったかを見てきた。 恐らく更に重要な理解は、ギーターの精神と、パウロ書簡の精神の間に根本的な相違を示すことである。 ギーターにおいては、クリシュナが、弟子アルジュナに与える教えが、人類に向かって現れてくることを既に述べた。このような教えは、1人の弟子に与えられなければならない。というのも、ギーターのなかから、人類に向かって現れてくるような教えは、根本的に言って、秘密の教えだからである。 次のような反論もあるだろう。 「ギーターのなかに、これらの教えをみつけることができるから、他の人間にもアプローチできるはずである。」 ギーターが記された時代では、それは不可能だった。これらの教えが、他の人間の耳にも達していたわけではなく、当時、以上の秘密の教えは口頭による伝授の対象だったからである。 古代では、師は、しかるべき教えを伝える弟子の精神的な成熟を見通すことに心を砕いていた。弟子の精神的成熟に常に目を向けていた。 現代では、いかなる形であれ、一旦、白日の下に公開された教義や教説については、古代の状況とは全く異なり、秘密の教えという形は不可能である。霊(精神)的な教えが、ある意味、公開される時代に生きている。 もはや現代には、さもいかなる神秘学も存在しないかのようにみえ、例えば、神秘学の内容を、印刷させないとか、普及させない、というように内密にしておくことで、神秘学を温存させておくことができないようにみえるが、この現代においても、充分に神秘学は存在している。 例えば、フィヒテ(1)の知識学は、誰もが印刷された書を所有できるにも関わらず、秘密の教義となっている。1)フィヒテ:Johann Gottlieb Fichte 1762-1814 『全知識学の基礎と輪郭』(Jena1794)参照。 フィヒテ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%86 結局のところ、ヘーゲルの哲学も、精通する人が究めて少なく、秘密の教義となるような多くの手法を内に有している。現代では、中世の多くの学問が、秘密の教義にあてはまる。 フィヒテの知識学、もしくはヘーゲルの哲学は、秘密の教義となるように非常にシンプルな手法を持ち、大抵の人間が、最初の数ページを読めば理解できずに眠くなるように書かれている。 ヘーゲル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB そのような手法により、上記のような学問が、自ずと秘密の教義となる。現代では、多くの人々が知っているものと信じている他の多くの学問も同様である。人々は、実際、その学問の本当の意味を知らない。 多くの人々に知られないことで、中世の多くの学問は、秘密の教義となる。結局のところ、ギーターのなかに発見できるような事柄も、たとえ、印刷により究めて広汎に知られるようになっても、秘密の教義となる。 というのも、ギーターを、今日手にする人のなかには、ギーターを人間としての自分の内面の進化に関する偉大で圧倒的な啓示として捉える人もいるが、単なる興味深い文学作品として見る人もいて、ギーターのなかに表出される概念や感情は、人によっては、単なる陳腐なものに変わるからである。 なぜならやはり、ギーターのなかには、真実があると、何者かが言っても、表面上、自分とは、かけ離れている内容を、例えば、ギーターの言葉を用いて、自分の魂のなかに表現する術を心得ていても、ギーターのなかの真実を、その人が本当に、その人のなかで消化し理解し尽くしたものと信じるわけにはいかないからである。 以上のように、秘密の教義は、高次の内容を含むが故に、多くの点で、白日の下に晒すことから守られている。 このギーターのなかで、詩的に完成されている教えは、ある1人の弟子が、その教えを通じて、魂のなかで上昇し、ついにはヨーガの主クリシュナとの出会いを体験したいと思うときに自ら実行し、体験すべき教えである。 つまり、ギーターは、偉大な師が1人の弟子に向ける個別的な(特別な)教えなのである。 上記の観点から、パウロ書簡の内容を、観察してみる場合は、事情が異なる。パウロ書簡では、全ては教区(民)全体の問題で、根本的に、多数に向けられた教えであることがわかる。 というのも、クリシュナの教えの本質の究めて内密な神髄に注目するなら、次のような結論に至るからである。 「クリシュナの教えを通じての体験を、アルジュナは、個別の魂の厳しい孤独のなかで、自ら体験する。そして、アルジュナが、孤独な魂の巡礼として、クリシュナと出会うためには、この教えにある方法を、原初の顕現(啓示)や原体験へと立ち返って発見できるときだけである。」 クリシュナが与える教えは、1人1人、個別的に、どの人間にも与えられる必要がある。 キリスト衝動を通じて、世界に与えられたパウロ書簡のなかでの啓示(顕現)は、ギーターのクリシュナの教えとは全く異なる。 キリスト衝動は最初から、全人類に向けられた衝動と考えられ、ゴルゴタの秘蹟は、アルジュナのようなたった1つの魂にだけ価値を持つ行いとして成就されたわけではなく、地球進化の起源から終わりまで、全人類を考え、あらゆる人間のために、起こった。 ゴルゴダの秘蹟の成就は、最大規模として生じるべき共通事項である。従って、パウロ書簡の文体は、既に特徴づけた相違点を度外視しても、崇高なギーターとは、全く異なっている。
2011年07月19日
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しかし、次のような反論も充分に想像できる。 「クリシュナにおいて、人間性の最高の理念、最高の完成が、見せられたとき以上に、圧倒的な存在などあり得るのか?」 クリシュナよりも高次の存在がいる。そして、その高次の存在は、最高の人間性を獲得すべきときに、タマスとラジャスに対抗するだけでなく、霊の(魔物)勢力にもはじめて対抗し、人間側につき、人間に浸透しなければならない存在である。 それがキリストなのである。 (いわば、コンピュータに喩えるなら、ウイルスに対する、ウイルス対策ソフトのような存在か) クリシュナの表現にだけ最高の存在を見て、更に偉大な存在を見ないのは、当人自身の問題である。 キリスト衝動(意志)が、クリシュナ衝動(意志)に優れる点は、クリシュナ衝動(意志)の場合、クリシュナに受肉した霊的存在が、クリシュナの一生を通じて受肉した面にも現れている。クリシュナは、ヴァスデーヴァの息子として生まれ、成長する。 ヴァスデーヴァ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1 クリシュナの生涯を通じて、クリシュナとして知られる最高度の衝動(意志)が受肉し、体現される。当時、ルシファーやアーリマンとの対峙は、ようやく始まったばかりで、例えば、以下の事実は、人智学の神秘劇にも描写し、未来の人間には、魂のなかに把握できるが、人間側に立つために受肉する衝動にとっては、受肉する肉体(物質)性が、衝動(意志)よりも遙かに小さくなければならず、ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が受肉する肉体でさえ直接受肉できずに、この肉体が最高度の進化に達した、すなわち、この肉体が30歳に達したときにだけ受肉できた。 従って、キリスト衝動(意志)は、生涯全体に渡り受肉することはなく、人生のなかの最高度に成熟した期間にだけ受肉する。従って、キリスト衝動(意志)はイエスの肉体に3年しか受肉しなかった。キリスト衝動(意志)が高次なのは、誕生のときから、受肉していたクリシュナ衝動(意志)のように、人間の肉体のなかに直接受肉できなかった点にも現れている。 このクリシュナ衝動(意志)に対するキリスト衝動(意志)の卓越については、更に述べていかなければならないが、今までに特徴づけられた内容からも、理解し感じ取れ、それは実際、人間の前に現れてくる偉大なギーターとパウロ書簡との関係にも似ている。 すなわち、ギーターの全体描写は、過去の多くの時代の成果ゆえに完全で、パウロ書簡は、未来の完全で、包括的な時代への最初の萌芽なので、遙かに不完全だった。 以上のように、宇宙の進化プロセスを呈示するなら、確かにギーターに対して、パウロ書簡の不完全さ、非常に重要な不完全さを、無視してはならず、この不完全さを認めなくてはならない。ただ、なぜ、このような不完全さが存在するのかも理解しなくてはならない。
2011年07月15日
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人間1人1人の個別な(個的な)魂が存在する。この個別の魂について、サーンキヤ哲学では、「個別の魂としてのプルシャは、外的な形態に対して、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つのグナ(徳性)の関係にある」、といえるだけである。 しかし、様々な外的形態に、魂が触れられることはない。プルシャは、様々な形態の背後にあって、魂に注意を喚起させる存在で、例えば、クリシュナが、ヨーガの主(導師)として教授する内容は、この絶えざる魂への注意を喚起する方法である。 クリシュナは、個別な魂の存在を示唆するが、この魂が、その性質によってどうであるか、という認識を、眼前に現すわけではない。いかに魂を進化させるか、という導きを最高とし、外的な形態の変化は、魂自体の変化ではなく、単なる余韻(副作用)にすぎない。 そして、この余韻を、次のように発見する。 人間が、ヨーガを通じて通常の魂の低次の段階から高次の段階へと上昇しようとするとき、人間は、外的な営みから自由になる必要があり、外的な行為や認識から、自らを解放しなければならず、人間は、自身の観察者となる必要がある。 その際、外的な行為や認識に打ち勝って、高次となった魂は、内的に自由な状態となる。通常の一般人の場合は、上記のように内的に自由な状態となる。しかし、秘儀参入して、霊視的になった(見霊者となった)人間の場合は、上記の状態にとどまらず、外的な物質には対峙しない。 外的な物質は、それのみでは、マーヤー(幻影)である。外的な物質が現実(リアリティ)に映るのは、自らの内的な物質(肉)体の道具(器官)を用いる人だけである。 では、秘儀参入者には、物質の代わりに何が現れるのか? 古代の秘儀参入を、霊視力を用いて、目の前に導出すると、ヨーガによる秘儀参入者を迎える存在が現れる。日常の一般人の魂には、物質、つまりプラクリティが対峙するが、ヨーガを通じて、秘儀参入へと進化してゆく魂に対峙するのは、アシュラ(阿修羅)たちの世界や、デーモン(魔物)の世界で、秘儀参入者が闘わねばならないのは、アシュラ(阿修羅)界である。 物質は抵抗し、アシュラ(阿修羅)や闇の勢力は、人間の敵となる。しかし、これら全ては、本質的には、魂の余韻(副作用)のなかに存在するので、いわば魂のなかから、微かな存在が見え、感受し始める。 デーモンたちや、アシュラたちとの闘いに入るときにはじめて、魂は、自身を霊的に知覚する。 秘儀参入者の魂に向かってくる、上記の小さな規模での闘いを、人智学用語では、物質がその霊性をもって現れるときに、霊視できる霊的な存在として表す。アーリマンとの闘いとして知られる闘いが、秘儀参入する際の魂に、小さな規模で、向かってくる。 (この闘いが、ハルマゲドンの闘いのことだろう。) 秘儀参入者は、上記のような闘いを把握することで、自身の魂のなかに参入できる。すると、以前は単なる物質的な霊にすぎなかった存在が、巨大に成長し、魂は、強大な敵に直面する。このとき、自らの魂が、自らの魂の余韻に対峙し、個別の魂は、広大な宇宙においてアーリマンの王国に対峙する。 ヨーガにおいて闘う相手は、アーリマンの王国の最低次の段階である。しかし、人智学の意味での秘儀参入による魂の観察では、アーリマン勢力やアーリマンの王国との闘いにおいて、アーリマン自身と対峙する。 サーンキヤ哲学では、外的な物質が優勢になるときの魂と、この外的物質との関係を、タマス状態として認識している。ヨーガを通じての秘儀参入は、タマス状態のなかだけでなく、ある種のデーモン(魔物)の力、参入者には、物質がデーモンの力に変わっていくのが観えるが、この魂のなかのデーモンの力に対する闘いのなかにいる。 人智学の意味においては、魂の関係が、単に物質のなかの霊性に対峙するだけでなく、純粋に霊的な存在、いわゆるアーリマンという存在に対峙する魂が霊視できる。 サーンキヤ哲学に従えば、ラジャス状態においては、物質と精神が均衡を保ち、一方から他方へと揺れ動く、あるときは物質、あるときは霊が上位になり、あるときは物質、あるときは霊が下位になるといった具合である。 以上のような関係を、秘儀参入に導くなら、古代のヨーガの意味では、直接、ラジャスの克服の、サットヴァへと通じていくだろう。人智学徒にとっては、まだサットヴァには通じず、別の闘い、すなわち、ルシファー(悪魔)の存在との闘いが始まる。 人智学徒の考察では、サーンキヤ哲学で、暗示されるプルシャが、目の前に立ちはだかる。プルシャを暗示するだけでなく、プルシャは、アーリマンとルシファーに対する戦闘地域のなかに立つ。魂の余韻が、魂の余韻に対峙する。 遙か太古の展望のなかでは、プルシャは、サーンキヤ哲学に現れる。サーンキヤ哲学では、魂の深奥にある、いまだ分離できない、アーリマンやルシファーとして、魂の本質のなかに入り込んでいる余韻に参入する際、物質-実体との魂の関係が、サットヴァ、ラジャス、タマスとして得られるだけである。 人智学の意味において、上記の事物を観察するとき、魂はアーリマンとルシファーとの間で格闘しながら激しく活動している。この状況の完全な把握は、キリスト教によりはじめて観察できる。サーンキヤ哲学の古い教説では、プルシャは、いわば手つかずのままであった。 キリスト教では、プルシャが、プラクリティを纏う際に生じる関係を描写できる。キリスト教の時代の、秘教的なキリスト教の根底にある叡智に参入し、プルシャに進入すれば、魂の本質とアーリマン的な余韻とルシファー的な余韻という三重の存在に注目することで、これらの関係を特徴づけることができる。 以上の魂のなかの格闘に従って、魂の内的な関係に注目できる。到来すべき移行は、第4文化期の魂の内部に含み置かれた、ゴルゴタの秘蹟によって刻印される移行である。 では、一体当時に、何が起こったのか? 第3文化期から第4文化期への移行の際に起こったことは、単なる形態変化により特徴づけられる変化だったが、特に[ゴルゴタの秘蹟による魂への刻印の移行期に起こったこと]は、プラクリティから、プルシャへの移行により特徴づけられ、次のようなものである。 「人間の魂の内面性において、プラクリティから、プルシャが、完全に解放される過程(プロセス)を感じる移行だった。」 人間は、血の絆(きずな)から分離されるだけでなく、プラクリティ、すなわち、あらゆる外面性から解放され、魂の内部において、改良される必要性が生まれ、この内部に、キリスト衝動(意志)が入ってくる。この過程(プロセス)は、地球全体の進化のなかに、登場し得た最大の移行でもある。 このとき、魂の物質への関係において、いわゆる、サーンキヤ哲学でいう、サットヴァ、ラジャス、タマスにおいて、いかなる状況であったのか? という問いが生じるだけではない。 このとき、魂はヨーガを通じて、タマスやラジャスを超えて高まるには、タマスやラジャスを克服するだけでなく、アーリマンやルシファーに対して闘わなければならなく、魂は、自らの本質に身をゆだねる。 このとき、一方で崇高な歌バガヴァッド・ギーターとして、古い時代に人間に示された叡智と、他方で、新時代のために欠くことのできない叡智とを、どうしても互いに対決させる必要が生じてくる。 崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて、上記の対決に直面させられ、人間の魂そのものが示される。魂は、肉体性や「覆い」のなかに宿っている。肉体性や「覆い」を特徴付け、絶えざる形態変化のなかにある。 魂の生きる有様そのままに、魂は通常の状態においてはプラクリティのなかに編み込まれ、プラクリティの内部に生きている。ヨーガにより、魂は、覆われているプラクリティから、自らを自由にし、克服する。そして霊の圏内に到達し、「覆い」から自らを完全に自由にする。 キリスト教やゴルゴタの秘蹟が、はじめてもたらした叡智を、ギーターの叡智に対置できる。キリスト教やゴルゴダの秘蹟では、魂が自らを自由にするだけでは十分ではない。 というのも、魂が、ヨーガを通じて自由になれば、魂は、クリシュナの姿を目にでき、クリシュナは、その威力全てをもって、魂の前に立つが、そのクリシュナは、アーリマンとルシファーが、後に猛威を獲得する前のクリシュナだからである。 ギーターのときはまだ、以前描き出したように、崇高な姿を見せたクリシュナの傍らの左右に、アーリマンとルシファーが立っていたが、クリシュナの善き神性が、それらを覆っていた。人間がまだ物質のなかに下降していなかったので、太古の霊視では、善き神性で覆うのが可能だった。 しかし、もはや覆うことはできなくなった。魂が、ヨーガを遂行するなら、魂はアーリマンとルシファーに直面し、これらとの闘いを受け入れなければならない。そして、魂は、タマスやラジャスのみならず、アーリマンやルシファーを打ち負かしてくれる盟友を持つときにはじめて、クリシュナの傍らに身を置くことができる。 この盟友がキリストである。 以上のように、英雄クリシュナが登場した当時、プルシャが、プラクリティから、いかに自らを解き放ったか、もしくは、プルシャが、プラクリティのなかで、いかに暗くなっていったかが霊視できる。 他方では、魂が、自らの本質に身をゆだね、闘いに曝される圧倒的な有様や、ゴルゴタの秘蹟が起こった時代に、魂のなかにだけ見えるようになる存在が霊視できる。
2011年07月15日
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サットヴァ時代には、最高の魂へのヨーガの歩みを、叡智に満ちながら語ることができた。 新しい叡智として世界に登場した知性、つまり、人間内部における、魂に対する霊の勝利は、ラジャス状態から叙述できるものだった。人類史にとっては、非常に意味深く、この知性を最初に叙述する者は、全情熱をもって叙述する。 「私は、その叡智に関わった。キリスト衝動(意志)の顕現(啓示)に対峙したとき、私は、誰にでもわかるように、震え慄いた。」 このとき、その叡智は、個人的(パーソナル)に、パウロに近づいてきた。そのとき、パウロははじめて、過去数千年を通じて作用する叡智を、前にした。そのとき、パウロは、この叡智を前にして、魂のなかのあらゆる力が、個人的(パーソナル)に関わらずにはいられない、というほどだった。 従って、パウロは、バガヴァッド・ギーターにおいて見られるような哲学的で、叡智に満ちた明確な概念で叙述せず、キリストの復活として叙述すべき内容を、直接、個人的(パーソナル)に関わり合うように叙述した。 以下のような問いが考えられる。 キリストの復活が、パウロの個人的(パーソナル)な体験であるべきではなかったのか? キリスト教が、究めて個人的(パーソナル)に浸透し、灼熱させ、突き動かすようであるべきではなかったとでもいうのか? この問いには、以下のような回答だけが与えられる。 キリスト事件を最初に叙述する者は、個人的(パーソナル)にのみ、叙述できた。 ギーターにおいては、ヨーガによる高次の霊界への上昇に主音を置いていることがわかる。その他は、単に付け足しとして触れられるだけである。なぜか? クリシュナは指導に際し、特別な弟子(アルジュナ)に関わらなければならないからである。クリシュナが関わるべきは特別な弟子であり、霊との関係から、外に感じる他の人間ではない。ここでクリシュナは、弟子が、なるべき人間を描写し、弟子を益々高次に、霊的な存在にしようとする。 ギーターは、魂を、一層益々円熟した状態へと、一層、印象深い美のイメージへと通じていく叙述である。従って、ギーターの結末になってはじめて、魂を、美へと上昇させて生きることへの魔的なデーモンと聖霊との対立が生まれ、硬化が生じる。 ギーターの結末においてはじめて、新旧の対立が、魔的なデーモンと聖霊との対立のなかに置かれるのがわかる。 硬化して、物質として現れる存在、物質のなかに生き、死と同時に滅びる物質の特性を信じる存在は、全てデーモン(魔物)である。とはいえ、デーモン(魔物)のような存在は、説明のためにだけ叙述され、偉大な師が、真に関わるべき存在ではなく、師は、何にもまして、人間の魂の霊化に関わらなければならない。 ヨーガに対立するデーモン(魔物)の存在について、ヨーガは単なる付け足しとして語っている。 パウロは、第一に、暗黒の時代の幕開けにいる人類全体と関わらなければならなかった。パウロは、この暗黒の時代が、人間の生活に引き起こす全てに着目しなければならなかった。パウロは、この普遍的な闇の時代に、人間の魂のなかの小さな植物のように、キリスト衝動(意志)を対比し、甦らそうとした。 パウロの場合、パウロが与える叡智により、打ち負かされるべき、あらゆる可能な悪徳が、唯物主義として繰り返し指摘される場所に、明白に現れているのがわかる。 パウロが与える叡智とは、人間の魂のなかで、小さな炎として、ようやく燃え始め、個人性(パーソナリティ)に担われた感情の顕現(啓示)として、意気揚々と、発する言葉のなかに表出してくる情熱が存在するときにだけ、力を獲得できるものである。 ギーターとパウロ書簡の叙述は、以上のように、非常に異なっている。ギーターにおける清澄さ、無私の叙述に対し、パウロ書簡においては、個人性(パーソナル)が言葉のなかに入り込む。この相違が、一方ではギーターに、そして他方ではパウロ書簡に、基調(トーン)や様式を与えている。 いずれの作品においても、各々に、どの行においても、現れてくる。芸術的な完成は、成熟したときにはじめて、美を達成するが、始まりにあるときは、何か混沌とした形で現れている。 では、なぜ、芸術作品は、成熟を必要とするのか? ギーターの力強い冒頭に注目するとき、この問いに答えてくれる。この冒頭の特徴は既に述べたが、親族たちの軍勢が、戦闘において対峙している様を見た。戦士たちが対峙するが、勝者と敗者は血縁関係でなければならない事実も見た。 いま、ギーターで語られる背景は、霊視力と結びついていた古い血の親和性(同族婚)から、まさに近代を特徴づける血の分化や混合(異族婚)への移行の転換期である。人間の外的な身体性の変化と、その結果生み出される認識の変遷や変化に関わらなければならない。 人類進化のなかに別種の混血が、血のなかの別の意味が登場してくる。古い時代から新しい時代への移行を研究するなら、小著『血はまったく特製のジュース(液汁)だ!』を思い出すが、次のような結論に達する。 古代の霊視は、いわば種族の内部だけに、血がとどまる事実に結びついていた。新たな時代では、種族の混合や混血に由来することで、古い霊視が滅ぼされ、物質(肉)体に結びついた新たな認識が到来した。 ギーターの冒頭で、外的な、人間の姿に結びついた叡智が示される。サーンキヤ哲学は、このような外的な形態変化を好んで観察し、サーンキヤ哲学について、既に述べたので、その背景だけにとどめるが、魂は、多数の形態の背後に存在し、サーンキヤ哲学という一種の多元論を見た。 近代のライプニッツ哲学を、サーンキヤ哲学に比較できる。私たちがサーンキヤ哲学者の魂の立場になって考えると、次のように想像できる。 「ここに、魂があるが、この魂は、周囲の体の外的な形態との関係において、サットヴァ状態か、ラジャス状態か、もしくはタマス状態のなかに現れる。」 以上のように、魂の形態を、この哲学者は観察する。この形態は変化する。重要な変化は、エーテル体の別の使用のなかに現れ(日常体の利用)、もしくは、上記に特徴づけたような血縁に関する移行により現れる変化にある。 移行により、外的な形態の変化が伴う。サーンキヤ哲学を用いた観察により触れることができるような、魂の内部の変化はない。古いサットヴァ時代から新たなラジャス時代への移行の境目に、クリシュナが立っているが、この移行の際に、考慮すべき変化に注目したいなら、外的な形態変化だけで全く充分なのである。 この移行期に考慮すべきものは、外的な形態変化である。 時代の移行期には、常に外的な形態変化が考慮されてきた。ペルシァ時代からエジプト時代への移行期の外的な形態変化は、エジプト時代からギリシア-ラテン時代への移行期とは異なっていたが、それでも、やはり1つの形態変化に違いはなかった。 原始インド時代からペルシァ時代への移行も、また異なるものだったが、やはり形態変化にとどまった。また、古代アトランティス時代から、ポストアトランティス時代へと移行が完了したときも、形態変化だった。 転換期の移行は形態変化だった。従って、サーンキヤ哲学の法則を拠り所として、この形態変化を追求でき、すなわち、形態変化のなかに、人間の魂は充分に具現し、形態変化自体は、魂そのものには、影響を与えないので、魂、すなわちプルシャは手つかずのままに、形態変化だけを追求できる。 以上のように、サーンキヤ哲学の概念と同時に、サーンキヤ哲学を通じて、特徴づけることができる独特の種類の変化を獲得できる。しかし、この形態の変化の背後には、プルシャが存在している。
2011年07月14日
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人智学では、現代は、暗黒の悪徳、つまりカリ・ユガの時代とされている。叡智が失われて、暗くなっているからである。学問や哲学は、もはや、人間や、人生の意味を照らし出さなくなってしまったからである。 ただ家畜のように生き、死ぬからである。 三種の神器のなかに、マナの壺というものがある。マネー、つまり、お金の語源となったものだが、この壺から、取り出して使ってもなくならず、かえって益々増えるものという言い伝えがある。 お金は、使えばなくなるが、お金の本来の意味は、社会的な信用である。交換社会では、交換するものの基準、つまり信用が重要なのだから、お金に、本来の信用があれば、使えば使うほど、益々、増えていくものとなるわけである。 この信用を、つまり貨幣換算が、自由に変化するのが、変動相場である。20世紀の人類の罪の1つは、信用を変動相場にしてしまったことだろう! それは、いまや、米国政府が信用を回復するには、デフォルトするしかなくなった事情からもわかる。 しかし、信用だけでは、本来のマナの壺の意味ではない。 使ってもなくならず、かえって増えるものとは、よくナゾナゾに出される問いだが、その答えは、人間の「能力」なのである。 人間は、能力を開発するために、生まれてきたといってもよいだろう。 どんな能力を開発するかは、自由で、個人の意志に委ねられている。 そこがややこしいところでもあり、また素晴らしいところでもある。 かのソクラテスが、魂の配慮ということを述べている。 それは、「人は身体や金銭のことよりは、魂が出来るだけ優れたものになるように配慮するべきである」というものである。 私は、この意味を、人間の能力と捉えている。能力を高めるには、トラブルが一番である。しかも、なるべく独力で解決するのがよいだろう。 しかし、現代人の多くは、独力を回避し、他人さえも利用しようとする。 それでは、何のために生まれてきたのか、わからない。他人を利用するのも能力のうちだが、他人がいなければ、はじまらないので、もはや、自分を失ってしまう。 第一、人間は皆平等であるという原則に反し、利用すれば、利用されるので、忽ち闘争へと発展してしまうわけである。 この状態が、家畜なのである。何のために、脳があるのか、何のために思考能力があるのか、宝の持ち腐れであろう。 さて、このような現代人の特徴を、遙か昔の古代では既に、カリ・ユガの時代として予言されていたことは、非常に驚きである。 以下のウィキペディアから抜粋する。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%AC 支配者に関して 1)支配者は理性を欠くようになり、不公平に税金を徴収するようになる。 2)支配者はもはや崇高であることや、被統治者を保護することを義務だと思わなくなる。彼らは世界にとって危険な存在となる。 3)人々はコムギやオオムギが主食であるような地域を探し、そこに移住を始める。しかしその一方で、彼らは自分たちのものを好んでいるので、そのために自分たちの生活を犠牲にする。 人間との関係 A)七つの大罪や復讐が普通に行われる。人々はお互いに強い憎しみをあからさまに示すようになる。 B)法は忘れ去られていく。 C)人々は正当化できない殺人について考え始め、そしてそれが悪いことだと考えなくなる。 D)性欲は社会的に容認されるものと見なされ、セイ(性)行為こそが人生において最も必要なことであると考える。 E)善意が衰えていき、犯罪が飛躍的に増加する。 F)人々は直後に破るためだけに誓いを立てる。 G)人々は酒と薬物に溺れる。 H)男は自分たちの仕事のストレスが大きいことを自覚し、仕事から逃亡するためひきこもる。 I)グル(導師)はもはや尊敬されなくなり、彼らの弟子たちは師を痛めつけようと試みる。彼らの教えは侮辱され、カマ(官能的な欲望)の信奉者は全ての人間から心の制御を奪い取る。 J)バラモンは学ばれることも尊敬されることもなく、クシャトリヤは勇敢ではなく、ヴァイシャは公平でなくなり、シュードラは正直でなく、彼らの義務や他のカーストに対して謙虚でなくなる。 以上だが、驚くほど、現代人の特徴を言い表している。 1)などは、いまの菅政権である。 2)などは、北朝鮮、中東、アフリカの独裁国、アメリカ、中国、ロシアが当てはまりつつある。 3)は漠然としているが、「コムギ、オオムギ」を「快楽」に置き換えれば、意味が通る。つまり、快楽を求めて移住するが、日常の生活を離れることはできないので、それを犠牲にする、という意味になる。 A)の7つの大罪とは、「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」である。「復讐」とあわせて、現代人の特徴がよくわかる。 B)の法とは、一般的に、道徳である。道徳よりも金儲けを現代人は優先している。 C)の正当化できない殺人の端的な例は、自殺だろう。自殺は列記とした殺人だが、自分の命を自分が所有しているという錯覚が、現代人の特徴なので、悪いことだと考えなくなる。つまり殺人を、あれこれと理屈づけして、正当化するようになる。 D)性欲を刺激する媒体が、社会に氾濫している。道徳よりも金儲けが優先されるせいである。つまり、現代人は、中身よりも外見を美化すること、つまり嘘、偽りで、他者を騙すことに力を注いでいるわけである。 E)は、もはや現代人の特徴で、代名詞となっている。犯罪が増発しているので、あれこれ理屈付けして、犯罪とみなされない現象までおきている。例えば、東電の事故など。 F)は、契約だが、もはや破るためのものになっている。例えば、原発の安全神話や、原発事故のストレステストなど。「想定外」としている事故をどうしてテストできるのか、不思議でもある。事故の元となる原発をつくらなければよいだけである。事故にならないものをつくるのが技術の基本である。 G)は、もはや現代人の代名詞。薬物に溺れるのは、魂を磨かずに、依存心がいかに大きいかを現している。 H)については、古代書に、既にニート、引き篭もりが記述されているとは驚きである。 I)は、新興宗教や教育崩壊のことだろう。 J)は、社会規律や社会風紀の乱れのことだろう。 これらは、ギーターと関係の深いマハーバーラタに書かれていることなので、人智学でいうポストアトランティス時代の第3文化期後期、もしくは第4文化期初頭の話なのだろう。 だとすると、古代アトランティス時代が、約1万年前に終焉したので、大体、1つの文化期が2千年続くとすると、約3千年前の話となる。つまり、3千年後の予言をしたことになる。 そこで、カリ・ユガの時代はいつまで続くのか、が問題だが、シュタイナーは、年月は、次第にはやく経過するようになるようなことをいっているので、マハーバーラタのときの換算では、43万2000年であっても、それは当時の人間の意識を土台とした換算なので、現代人の、覚醒意識による換算とは異なるわけである。 ちなみに、シュタイナーは、20世紀以後に、カリ・ユガの終焉がみられるようになるともいっている。 つまり、次の水瓶座のアクエリアスの時代の始まりが、カリ・ユガの終焉に思われる。大体2030年頃に思われている。 その救世主であるカルキは、クリシュナの化身だが、人智学でいうなら、キリストであり、既に、エーテル体で、地球上に現れ、活動しているというわけで、霊的器官を開発し、霊視能力を手に入れた現代人、つまり覚醒意識を断念し、捨てた現代人には、白馬に乗って現れるのがみえるのだろう。 恐らく、生命の樹が、実は、人間の神経組織だったように、この救世主は、将来、人体のなかにできる新しい神経組織なのではないか?と思われる。 今のところ、私は、心臓のなかに、新しい神経組織ができるのではないか?と予想している。 心臓を制御できると、人間は感情を制御できるようになるらしい。逆にいえば、感情の制御が不得手の人間は、心筋梗塞に罹り易いわけである。 また心臓は、人体のなかの、生命の樹でいう上方の枝や葉の、つまり手足を動かす源に思えるからである。脳は、生命の樹でいえば、下方の根にあたるからである。心臓でなければ、生命の樹の位置からすれば、生殖器かもしれない。
2011年07月13日
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クリシュナが、弟子のアルジュナに「この宇宙樹を、人間の眼に見えるようにする力(霊能力)は、諦め、断念にある」(第15詩-3参照)ということを明言することで、次のようなことが示唆される。 バガヴァッド・ギーター http://www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/gita/gita_top.html?=gita_body.html 「人間は、人類進化の遥かな経過のなかで獲得した認識、以前の講義で、特徴づけた認識(現代の覚醒意識)全てを諦め、断念することで、太古の叡智へと帰還できる」、という示唆である。 以上の示唆は、栄光に満ち、偉大なクリシュナが、いわば先払いとして、1人の特別な(個別の)存在の弟子アルジュナに与える叡智で、他方において、クリシュナは、第4文化の日常体利用のために、全人類から、日曜体を取り上げた。これがクリシュナの本質である。 では、クリシュナが1人の特別な弟子アルジュナに与える叡智は、どのような形態をとるべきだったのか? その形態は、サットヴァ認識となる必要があった。クリシュナが弟子に、このサットヴァ認識を徐々に与えるほど、その認識は叡智に満ち、澄み渡った、冷静な、熱狂を離れた形となる。 しかし、その叡智は、古代に啓示された(顕現した)認識で、崇高な者、すなわちクリシュナが語り、それから1人の特別な弟子アルジュナが答える言葉としては、驚くばかりに、外から人間へと迫ってくる。 以上のように、クリシュナはヨーガの主(導師)となる。クリシュナは人類の太古の叡智へと立ち返らせ、霊を覆っている魂を、サットヴァ状態へと次第に克服しようとし、物質(肉)体のなかに下降していない太古の清浄な状態の霊を、弟子の目の前に導き出そうとする。 以前、披露したクリシュナとアルジュナとのやりとりでは、以上のように、クリシュナはただ霊だけの存在として、現れている。 クリシュナの出現により、人間の魂にとっては、太古の霊性の時代の最後の時代が終焉を迎える。太古の霊性の時代の出発点では、完全な霊の光が外に霊視でき、その後の時代に、人間が自立するため、物質(肉)体への自我の下降が起き、そして、そのような霊性の時代の終焉が訪れる。 ポストアトランティス時代の第4文化期の到来により、霊の光が下降した際、一種の相互関係、すなわち、霊と外的な魂との間が、ラジャス状態となった。ちょうど、この時期にゴルゴタの秘蹟が起こった。 (古代アトランティス時代の終焉に、大洪水の破局が起こり、これは大洪水といっても、徐々に起こったようである。大気中に蒸発していた水分が、次第に分離してきたという。つまり、古代アトランティス時代は、ミストサウナのような大気の状態だったようである。 そして、ポストアトランティス時代がはじまり、第1文化期がマヌ「ノア」によるインド文化、第2文化期がゾロアスターによるペルシャ文化、第3文化期がヘルメス「トート」によるエジプトとモーセによるカルディア文化、そして、第4文化期がギリシア哲学者たちによるギリシア文化とラテン文化。 現代は、第5文化期のカリ・ユガ「悪徳」の時代 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%AC) では、この時代の人間の魂を、サットヴァ状態として描写できるか? 否、この時代に属する魂は、サットヴァ状態では描写できなかった。サーンキヤ哲学の用語を用いるなら、ラジャス状態として描写すべきである。ギーターのような清澄さからでなく、個人的な、様々な感情から、パウロは書簡に描写した。 パウロは、ラジャス状態から語った。テサロニケ書や、コリント書や、ローマ書の言葉の数々が、ラジャスとして、脈打つのを感じる。怒りの気分のように、しばしば個人的な気分の特徴を帯び、パウロ書簡から脈打ち、ラジャス状態から、身をよじるように発せられる言葉が感じとれる。 つまり、ラジャス状態が、パウロ書簡の形式と特徴である。パウロ書簡は、ラジャス状態で登場してきた。一方で、バガヴァッド・ギーターは清澄で、個人的気分を離れ、現れた。没落してゆく時代の最高の精華だからである。 しかし、バガヴァッド・ギーターは没落した代償を、1人の人間(アルジュナ)に与え、高次の霊的な生活へと導く。クリシュナは最高の霊の精華を自分の弟子に与えなければならなかった、なぜならクリシュナは人類に対して、古い認識を殺す必要があったからで、蛇の頭を踏み砕かなければならなかったからである。 このサットヴァ状態は自ずと没落した。サットヴァ状態は消滅し、サットヴァ状態で語る者も、もはやラジャス時代には、古い物事だけしか語ることができなくなった。新たな時代の出発点に身を置く者は、当時の標準となったラジャス状態から語る必要があった。 人間の本性が、器官及び物質体を道具として用いる認識を欲求したことで、個人性(パーソナリティ)が人間の本性のなかに引き入れられた。この個人性が、パウロ書簡から語りかけている。この個人性が、パウロ書簡のラジャス的な要素である。 以上のように、この個人性(パーソナリティ)が、外から物質の闇として、入り込んでくる全てに対して、怒りの言葉を轟(とどろ)かせ、パウロ書簡においては、しばしば、怒りの言葉が轟いてくる。 更に、パウロ書簡では、バガヴァッド・ギーターのように、厳格な形で、叡智に満ち、鋭い明晰さでは、語ることはできない。バガヴァッド・ギーターのように叡智に満ちた形で語るには、人間が外的な営みから自由になり、クリシュナと合一する霊のなかへと、勝ち誇りながら上昇できるような特徴を人間の魂がもつ場合に限られる。
2011年07月13日
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クリシュナは、没落していくポストアトランティス時代の第3文化期の英雄である。伝説では、クリシュナが第3文化期の最後に登場したことを語っている。正しく理解すれば、伝説の通りとなる。クリシュナは、古い認識を殺し、曇らせる者でもある。 クリシュナは外的に出現し、目的を達する。登場以前の、人間の周囲を取り巻いていた、サットヴァ認識のような叡智を、暗くする。 しかし、バガヴァッド・ギーターでは、このときのクリシュナは、どのように描かれているのか? このときのクリシュナは、奪った叡智に対する、いわば調停として、すなわち、日常の人間性にとって失われた叡智に対して、ヨーガによって、いかに上昇していくことができるか、という指針を、1人の人間(アルジェナ)に与えた。 以上のように、クリシュナは、世界のなかの古いサットヴァ認識を殺す存在であると同時に、ギーターの結末においては、失われた認識が、後世の人間たちに、現れてくるように、再び導いて行こうとするヨーガの主(導師)でもある。 現代人が、外的に、日常の衣服のように身につけている知識を克服し、打ち負かし、太古の霊(精神)状態に戻るときにだけ、獲得できる古代のサットヴァ認識へと、クリシュナは再度、人類を導く。 以上は、クリシュナの二重の行為だった。クリシュナは世界史の英雄として振る舞う一方で、古い認識の象徴である蛇の頭を打ち砕き、物質(肉)体に宿ることを、人類に強いる。物質(肉)体のなかでだけ、自我は自由で、すなわち自発的な自我が獲得できる。 対照的に、クルシュナ以前、人間の自我を成立させていた全ては、外から放射されていた。クリシュナが世界史的な英雄として出現し、状況を一変させた。クリシュナは、人間にとって、魂への帰依や沈潜という、内的な発見のために、かつて失われた叡智を再現する存在だった。 以前、このクリシュナは、人智学徒が、自らの魂に作用させたギーターの場面において、壮大に姿を現し、アルジュナに、自身の本質として姿を現した存在である。ただ、このときは、アルジェナの内からではなく、外から見られ、始まりも、終わりもなく、外のあらゆる空間に広がっているように見られた。 上記の関係を更に詳しく観察すると、ギーターのある箇所に、そうでなくとも既にギーターの偉大で、力強い内容に驚嘆させられるが、この驚嘆が更に再現不可能になるほど大きくなるような箇所に至る。 その箇所とは、現代人には、説明不可能な箇所で、すなわち、クリシュナが、アルジュナに、アシュバッタの樹(菩提樹)、つまりイチジクの樹の、「根を上に向け、枝を下に向けている」、という性質を述べて、明らかにする箇所(第10詩の冒頭)である。 この箇所で、更に、クリシュナはアルジュナに、「この菩提樹の葉の1枚1枚が、ヴェーダの書の頁に相当し、この菩提樹が一体となって、ヴェーダの叡智をもたらす」、と述べる。この箇所は独特である。 では、一体、この箇所は、どのような意味をもつのか? 「根を上に、枝を下に向け、一枚の葉が束になって、生命の大樹としてヴェーダの内容をもたらす」という示唆は? さて、この問いに答えるには、太古の認識へと参入し、太古の認識が、どのように作用していたかを、はっきりと理解しなくてはならない。現代人は、いわば物質的な感覚器官を通じて、伝達される今日の認識を知るだけである。 たった今示した太古の認識は、エーテル体のなかで獲得された。人間が、まるごとエーテル体であったわけではなく、物質体のなかにあったエーテル体のなかで太古の認識が獲得された、という意味である。 太古の認識は、エーテル体の組織化により獲得された。 いま、その認識が、まるで目の前にあるように考察してみる。エーテル体のなかで、古代人が感じたように、蛇により認識するとき、現代人には、認識できない対象が世界に存在する。 現代人が日常生活で、自然に振舞うとき、周囲の多くの対象を知覚するが、いま、世界を観ている現代人を考察してみる。その観察する現代人が知覚できない対象がある。 それは脳である。 現代人は、観察する際、自分自身の脳を見ることができない。このような事態は、エーテル体のなかで観察できるようになれば、不可能でなくなる。エーテル体での観察では、日常では、見えない新たな対象が出現する。 つまり、自分の神経組織が知覚できる。とはいえ、例えば、今日の解剖学者が神経組織を知覚するように(物質として)知覚するわけではない。神経組織は、解剖学者が知覚するように見えるのではなく、「いま、まさに、自分のエーテル的な性質のなかにいる」、というような感情をもった知覚なのである。 人体の上部を見れば、全ての器官に通じる神経が、上部の脳のなかに集まっているのが霊視できる。そのイメージは次のような感情をもたらす。 「これは上部に、上へと伸びていく根を持ち、下部全ての四肢のなかに、枝を降ろしていく樹である」、という感情をもった知覚である。 しかし、実際、その菩提樹は、皮膚の内側にあるような小さな存在ではなく、巨大な宇宙樹のように感じる。根は遥か遠方の空間の彼方へと伸び、枝は下へと向かう巨大な宇宙樹である。 つまり、エーテル体での認識をもつ古代人は、自分を蛇と感じ、いわば自分の神経組織を対象として見て、「神経組織は、遥か遠方の空間の彼方まで根を伸ばし、下に向かって枝を生やしている巨大な樹である」、という感情を持つ。 (エーテル体の感覚器、つまりチャクラを開花させると、自分の神経組織が、菩提樹のようにみえるという。御釈迦さんが菩提樹で悟りを開いたというのは、このエーテル体の感覚器、つまり太古の認識を獲得したという意味である。 また、このエーテルの感覚器を、蛇と呼び、秘儀参入者も、蛇の象徴で表わし、古代エジプトの像には、蛇が象徴としてよく用いられているのは、このエーテルの感覚器を覚醒させたという意味でもあろう。 エーテルの感覚器では、人間の脊柱が、蛇にみえるようである。医学の象徴でもある「アスクレピウスの杖」は、エーテルの感覚器でみた、人間の神経組織、つまり宇宙樹、菩提樹のことだろう。 「ヒポクラテスの樹」も、この宇宙樹のこと、つまり菩提樹のことなのだろう。 つまり、ヒポクラテスは医学を教えるときに、瞑想法を用い、自分のなかの神経組織を霊視させたのである。現代人は、外にある樹だと錯覚しているわけで、本当は、人間の内にある樹なのである! 生命の樹とは、人体の神経組織のことである!) 以前の講義で、「人間は、ある意味、逆転した植物である。」と述べた(1)ことを思い出して欲しい。1)シュタイナーの連続講義『神殿伝説と黄金伝説』(1905年5月29日ベルリン GA93)、『キリスト教の秘儀』(1907年2月16日ライプツィヒ GA97)その他を参照のこと。 バガヴァッド・ギーターの上記の奇妙な箇所を理解するには、以上のような全てを考慮する必要がある。以上のように、今日のオカルティズム(秘教学的認識)の根底から、新たな方法で再起し、覚醒しなければならない、太古の叡智が現れるので、驚きを感じる。 このとき、この生命の樹が明るみに出す叡智を体験する。その樹の、葉のなかに成長する叡智、すなわち、外から放射してくるヴェーダの叡智を体験する。 ギーターの驚くべきイメージが、いま、目の前に現れる。そのイメージは、根を上に、枝を下に伸ばし、叡智を含んだ葉を持つ樹、そして樹に巻き付いた蛇である。このイメージを既にみたことがあるかもしれないが、蛇の巻き付いた生命の樹のイメージが、目の前に姿を現す。 (何度もいうが、医学の象徴は、人間の神経組織のことである。そもそも、2匹の蛇が杖の周りにトグロを巻いた奇妙な図を、意味深い理由もなく、医学の象徴に選ぶのは現代感覚ではあまりにグロテスクだろう。 また、この生命の樹には、DNAの二重螺旋構造の意味も見え隠れしているように思える。霊が二重螺旋のダンスを踊ることで、DNAから、神経組織がつくられるようにみえる。 天照の岩戸隠れは、岩戸の前で、踊ることで、笑いが起き、天照が出てきたという神話だが、この神話も、生命の樹を表現しているのではないかと思う。 天岩戸 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8) 以上のような太古の事物に目を向けると、全てが意味深いものとなる。エーテル体の感覚器をもつと、この根を上に、枝を下に向けた樹が、目の前に姿を現す。この樹は、天国の樹とは逆の方向を向いているように感じる。 このイメージには、深い意味がある。というのも、天国の樹は、人間の樹とは反対の進化の方向性、すなわち、太古の叡智とは反対の、クリシュナより後の、古代ヘブライを経てキリスト教へと入っていく進化の方向性をもつからである。 (天国の樹は、人間の樹とは、進化の方向としては、逆さまである。人間の樹は、神から人間に進化した歴史が刻んであるが、天国の樹は、人間から神に進化する未来の歴史が刻んであるからである。 つまり、人間の樹は、神という霊から、人間という物質的な神経組織がつくられた進化図、いわば設計図で、天国の樹は、物質的な神経組織を、再び、霊的に浄化していく、つまり、3種の神器をつくっていく設計図というわけである。) 以上のように、ギーターの、この箇所には、太古の叡智への特別な示唆も与えられている。
2011年07月12日
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古代の人間に関して、次のような喩えを用いることができる。 古代人は、日常の日常体をもち、この日常体の内部に、更に精妙で霊的な、日曜体をもっているように描ける。 日常体を用いて、古代人は、日常の体験に対処し、エーテル体だけから構成されている日曜体を用いて、認識し、古代の学問を育成した。 例えば、現代人が、日常体を用いて、学問をつくり、宇宙から叡智を授けられる際に、日曜体を全く用いない、という認識方法は、古代当時の人間を驚かせるほど、現代人と、古代人とでは、大きく異なり、現代からみれば、古代は全く逆であることが確認できる。 では、日曜体と日常体の全状態で体験するような当時の古代人にとって、その体験は、一体どのようなものだったのか? この古代人の全状態の体験、すなわち、魂の奥底の力による認識は、例えば、サーンキヤ哲学を完成させたが、現代人の認識とは全く異なっていた。現代人は、学問を身につけようとするとき、頭で思考し、知性を捻出しなければならないが、古代人は、全く異なっていた。 叡智を獲得したときの、古代人は、自分が、まるでエーテル体のなかにいるように感じた。といっても、現代人のような物質的な頭部のエーテル体には、ほとんど刻印(記憶)せず、むしろ、頭部以外の他の部分に多く刻印されているエーテル体のなかにいるように感じた。 古代人は、頭部以外の他の部分のエーテル体で、現代人よりも遥かに多く思考していた。頭部のエーテル体は人体では最も劣った部分である。古代人は、まるで自分はエーテル体で思考し、思考の際、物質(肉)体から上へ抜け出るように感じていた。 知識や認識の形成の瞬間、更に、古代人は次のように感じた。古代人は、自分が、本当は、地球と共に1つの全体であると感じた。 日常体を脱いで、日曜体を纏うとき、古代人はあたかも、様々なエーテルの力が、自分の本質全体を貫いていくような感情を持った。様々なエーテルの力が、両脚と両足を貫き、このエーテルの力が、ちょうど両手と両腕を貫く力が、胴体で結びつく現代人と同じように、古代人を、地球に結びつけるような感情をもった。 古代人は、自らを、地球の一部と感じ始めた。古代人は、エーテル体のなかで思考し、知性を獲得するのを感じながら、他方で、自分はもはや地球から切り離された人間ではなく、地球の一部であるように感じた。 古代人は、自分の本質が地球の中に食い込んでいくのを感じた。つまり、古代人が、日曜体を纏い、いざ認識という際に、内的な体験全体が、完全に変化した。 では、この古代の第3文化の時代が衰退し、そして新たな第4文化の時代が始まったとき、何が起こったのか? このとき起こった出来事を理解したいなら、古代の命名法に少し感情移入してみる必要がある。古代では、これまで述べてきた体験の際に、古代人は、「自分のなかで蛇が活動し始めた」、と言った。 つまり、古代人の本質は地中へと伸びていった(下図)。 古代人は、自分の物質(肉)体を、活動の本質的な基盤とは感じていなかった。古代人は、自分が蛇のような突起を、地中に伸ばしていくように感じ、頭は地中から突出したように感じた。このまるで、蛇のような存在を、古代人は「思考者」と感じた。 従って、古代人のその様子は次のように描写できる。エーテル体は蛇の体のように地中に伸び、そして物質的部分は、地面の外にあり、古代人が認識し、知性を獲得する際には、地中に入り込み、エーテル体で思考する。 古代人は、「私のなかで蛇が活動している。」と言った。古代では、認識とは、いわば、「私のなかの蛇を活動させる」、もしくは、「私は蛇を感じる」ことであった。 では、新たな時代が始まるため、すなわち新たな認識が到来するために、何が起こったのか? 古代人が、両足と両脚を通じて、その本質を地中に伸ばしていくように感じた瞬間が、もはや不可能となった。また、それに加え、エーテル体のなかの感情は死滅し、物質的な頭へと移行した。 この古い認識から新たな認識への移行の際の感情を正しく描写するなら、「人間は足に傷を負うが、自分の体で、蛇の頭を砕く」となるだろう。すなわち、「頭を持つ蛇が、思考器官でなくなる」、という表現になる。 (地中深く浸透していったエーテルの思考器官を失い、日曜体を失う。⇒足に傷を負い、蛇の頭を砕く。) 物質(肉)体、特に、物質的な脳が、(エーテル体の)蛇を殺すことがわかる。そして同時に、「蛇は、人間から、地球との一体感を奪いとる」、つまり「人間の踵に噛みつくことで、人間に復讐する。」 人類の体験が別の形態へと変わるような移行期では、古代から入り込んできている知性は、新たな時代に到来する知性とは、いわば戦闘状態となる。というのも、事象は、共有するものだからである。 いわば、息子が長生きし、父親も存命なのと同じだが、息子は父に由来する。第4文化の時代のギリシア-ラテン時代の特性が現出するが、まだ当時の人間や、民族のなかには第3文化のエジプト-カルデア時代の特性が入り込んでいた。 進化が入り混じり経過していくのは当然である。しかし、新たに上昇していく存在であると同時に古きに由来する存在として、共存し生きる存在は、もはや、古い時代の知性には、よく理解できない存在となる。古き者は新しき者を理解しないからである。 新しい存在は古い存在に対して抗い、古い存在に対し、自らの生命を主張しなければならない。すなわち、新しい存在が現れるが、先祖がなおも、自らの特性を持って、古い時代から子孫のなかに入り込み、新しい存在を、一緒に生み出さなかった先祖が同時に存在する。 第3文化の人類の時代から第四の文化の時代への移行は、以上のように特徴づけられる。 従って、1人の英雄が登場しなければならなかった。蛇を殺し、蛇によって傷つけられる体験を意味深く示すと同時に、古い時代から新たな時代へと、自分の近親者のなかの特性を引き継ぎ、輝く存在に、対抗しなければならなかった、いわば人類の指導者が必要となる。 全人類の世代が体験する出来事を、最初に1人の英雄が、非常に大きなスケールで体験する形で、人類は、進化していかなければならない。 この転換期に、蛇の頭を殺し、第3の文化期において、意味をもつ存在に対抗した英雄は、一体誰だったのか? 人類を古いサットヴァ時代から新たなタマス時代へと導き出したのは誰だったか? それはクリシュナであった! その英雄が、クリシュナであったという事実は、東洋の伝説(1)により、はっきりと示すことができる。1)東洋の伝説:太古のインドの神々と英雄たちの伝説は紀元前500年から紀元後500年の間にいわゆるプラーナ文献に書きとめられた。膨大な18篇のプラーナ文献は全インド神話を含む。プラーナ文献の多くはヴィシュヌ神とその様々な化身に捧げられている。ヴィシュヌ-クリシュナ伝説はバガヴァッタ・プラーナで語られる。 プラーナ文献 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%96%87%E7%8C%AE その伝説ではクリシュナは、神々の息子とされ、マハーデーヴァやデーヴァキーの驚異の息子として登場する。つまり、クリシュナは、新しい叡智をもたらす。 デーヴァキー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%AD%E3%83%BC 先の比喩を続けるなら、クリシュナは、日常体のなかに知性を求めさせ、日曜体、すなわち蛇を殺し、新たな時代へと入り込んでくる自分の親族に抵抗しなければならない。 このような人間は、未知の、驚くべき存在である。従って、伝説は、幼子クリシュナの誕生のときに、既に周囲は驚異に満ちていたことや、クリシュナの母の弟カンサが、幼子クリシュナの命を狙ったことを語っている。 幼子クリシュナの叔父のなかに古き特質が入り込んでいるので、新しい叡智をもたらし、第3文化の時代を終わらせ、外的な人類進化のために、古い関係を滅ぼす目的をもつクリシュナは、抵抗し、抗わねばならない。 クリシュナは、古代のサットヴァ時代の守護者であるカンサに抵抗しなければならない。そして、クリシュナを取り巻く、重要な驚異のなかで伝説は語る。 巨大な蛇カーリが、クリシュナに巻き付いたが、蛇の頭を踏みつぶすことができた。蛇はクリシュナの踵を傷つけた。このような伝説には、オカルト(秘教学)的な事実を直接再現する表現がみられる。実際に、このような伝説は、直接、事実を再現している。 ただし、外的な説明に囚われてはいけない。このような伝説を理解するためには、正しい場所で、正しい認識との正しい関連において、伝説を捉えなければならない。
2011年07月11日
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ゴルゴダの秘蹟の真実に注目するなら、キリスト衝動(良心、もしくは善意)に関する関係全体を、サーンキヤ哲学で御馴染みの名称で表せる。つまり、次のように要約できる。 ゴルゴタの秘蹟以前の、あらゆる方向から霊の光に照らされている魂を霊視し、このあらゆる方向から魂を照らす霊的な関係全体に注目するなら、その霊性(霊の光)が、魂を輝かせ描き出すような霊的な関係全体は、サーンキヤ哲学の名称に従えば、サットヴァ状態に見える。 このサットヴァ状態に対して、ゴルゴタの秘蹟以後実現した魂の状態を、外から霊視すると、あたかも、その内部の奥深くに、霊の光が隠されているかのように、すなわち、魂が、霊の光を隠しているかのように見える。 霊眼には、ゴルゴタの秘蹟以後、キリスト衝動のなかに内包されている霊の光は、魂に覆われているように見える。 特に現代では、人間が外的に体験し、知覚する全てに関し、霊(の光)との関係を見ない。 現代人が、外的な知性や活動において、携わっている関係を、霊視すれば、魂の内部の奥底に隠され、輝きが全く弱々しく、小さな炎のキリスト衝動が、魂の他の内容に覆われている様子が見て取れ、その状態を、ゴルゴダ以前のサットヴァ状態に対置してみればよい。 すなわち、現代人の魂の状態は、霊と魂の関係において、前キリスト的なサットヴァ状態に対する、タマス状態である。 以上のサーンキヤ哲学の意味において霊視するなら、ゴルゴタの秘蹟は人類の進化において何を行ったのか? 霊の顕現に関しては、ゴルゴダの秘蹟は、サットヴァ状態をタマス状態へと変化させた。人類は、この変化により、進化するが、ある意味、人類はいわば、深く転落すると言えるかもしれない。ゴルゴタの秘蹟を通じてではなく、自らを通じて、転落する。 ゴルゴタの秘蹟以前は、あらゆる方向から、力強い光が魂を照らし、益々一層、炎を燃え立たせていたが、ゴルゴダ以後、その光は、小さな炎として魂のなかに現れ、人間の魂を進化させていくとはいっても、益々一層、闇のなかに沈み込んでいく人間の性質も同時に作り出す。 しかし、現代人の魂と霊の関係におけるタマス状態が、ゴルゴタの秘蹟のせいではない。ゴルゴタの秘蹟が起こることで、遥かな未来に、今度は、人間の内から、蘇り、復活を遂げ、再現されたサットヴァ状態が、タマス状態から実現されるはずであるからである。 サーンキヤ哲学の意味においては、サットヴァ状態とタマス状態の間にはラジャス状態があるが、このラジャス状態は、人類進化に関しては、丁度、ゴルゴタの秘蹟に相当する時期の人間の魂に特徴づけられる。 霊の顕現に関して、人類自らが他ならぬゴルゴタの秘蹟を巡る数千年のうちに、光から闇へ、サットヴァ状態からタマス状態への道を通っていく。 人類の進化を更に厳密に観ていきたいなら、次のような結論に達する。 人類の進化の経過を、以下のような線分a-bで示すなら、ゴルゴタの秘蹟以前の、大体7、ないし8世紀頃までは、人間の魂の進化段階は、まだサットヴァ状態にあった。 次いで、ゴルゴタの秘蹟が起こる時代が始まり、更に次の時代、ゴルゴタの秘蹟後の大体15、16世紀頃の時代が始まり、明らかに、タマスの時代が始まる。 以上のように、魂の状態は、推移した。人智学の用語を用いるなら、ある霊の顕現のために、人間の魂が、いわばサットヴァ状態にあった時代は、カルディア-エジプト時代に一致する。ラジャス状態にある魂が、ギリシア-ラテン時代に、タマス状態にある魂が、現代に相当する。 人智学では既知の通り、ポストアトランティス時代のなかで、いま特徴付けたカルディア-エジプト時代が、第3の文化期で、ギリシア-ラテン時代が第4、現代が第5の文化期である。人類の進化計画とでも呼べる推移に従い、ポストアトランティス時代の第3文化期から第4文化期に、いわゆる外的な顕現の消滅が生じ、キリスト衝動を燃え立たせるための人類への準備がなされた。 しかし、人間の魂の進化の推移は、現実にはどのように起こったのか? さて、第3の文化期であるカルディア-エジプト時代の人間の霊(精神)の関係が、後続する時代とは、どのように異なっていたかを明らかにするなら、この第3の文化期の時代では、エジプトにせよ、カルディアにせよ、インドにせよ、全ての国々や地域に住む人類には、まだ太古の霊視力の名残をもっている状況にあった。 すなわち、当時の人間は、現代人のように肉体の感覚器や脳に結びついた知性の支援だけで外界を見ていたのではなく、少なくとも、睡眠時と覚醒時の間の状態において、エーテル体の感覚器官を用いても外界を見ていた。 (現代人でいう、夢をみている睡眠状態に相当する。) 当時の人間を思い描くなら、当時の人間にとって、現代人のような感覚器官や脳に結びついた知性により、自然や世界を観ることは、当時体験した状態のうちの1つにすぎない。このような体験状態において、当時の人間はまだ知識を自分で形成できず、いわば事物をただ観ていただけだった。 (現代人も、夢のなかで、知識を形成することは困難である。) まるで事物を、空間において並列的に、時間において順に、そのまま体験していた。当時の人間が、知識を獲得するには、現代人のように、人工的でなく、魂の奥深くにあるエーテル体の力が、自然に、自ずと現れ、認識できるように作用する必要があった。 すなわち、サーンキヤ哲学という、驚くべき知識体系として、現れた全ての叡智も、上記のような(エーテル体による霊視的な)認識から生じてきた。このような観察から、ヴェーダの知性として継承されてきた叡智全てが、ただ、この知性は、サーンキヤ哲学よりも古い時代のものだが、生じたことがわかる。 つまり、当時の人間は、日常とは異なった体験状態に到達すること、もしくは、非日常的な体験状態への移行を感じることで、認識を獲得していた。当時の人間にも、現代人のように、目で見、耳で聞き、通常の知性で物事を追求する、いわば日常的状態があった。 しかし、この日常の、見て、聞いて、知る、いわば知性は、外的な、実際的な要件の考慮にだけ用いられた。現代のように、この日常の能力が学問や認識に用いられることなどは、全くなかった。当時の学問や認識には、人間の魂の奥底にある本質を活動させ、日常とは別の状態として現れてくる力が用いられた。 (古代アトランティス人は、この本質を、「タオ」と呼んでいたそうである。現代にも、老子の出典として残っている内容は、古代アトランティス人が、人間の本質である、「タオ」から叡智を獲得していた遺産といえる。ギーターの文脈からいえば、クリシュナになる。)
2011年07月08日
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既に以前の講義で指摘したことだが、冷静で、調和がとれ、熱狂や情動から離れた、真に智慧あるバガヴァッド・ギーターの本質を、自らの魂に作用させる場合と、多くの点で、個人的な情熱や意図や見解をもち、ある種、扇動的で、宣伝的な意味を含み、時おり騒々しく怒りっぽいような印象を与えるパウロ書簡の支配的な本質を、自らの魂に作用させる場合とでは、魂の受け取る印象は非常に異なる。 同時に、その精神(霊)的な内容をも作用させる場合、ギーターでは驚くほど芸術的に完成された完全な形を獲得するが、その形は、詩的に啓示され、また哲学を表現する完全さは、これ以上は想定できないほど完全である。 対して、パウロ書簡では、しばしばぎこちない表現がみられ、時おり不器用とも思える表現に直面するので、深い意味を引き出してくるのは究めて困難となる。 以上の大きな違いにも関わらず、ギーターでは、東洋の世界(宇宙)観の調和が主音となって響くようにみえるのと同様に、パウロ書簡では、キリスト教における重要な主音が、キリスト教の発展にとって、調和の位置を占めるようにみえる。 パウロ書簡のなかにみえるのは、復活や掟と呼ばれるものに対する信仰の意味や、恩寵の作用や、魂、もしくは人間の意識のなかのキリストの誕生他の多くに関するキリスト教における根本的に重要な真理である。 以上全てが、このパウロ書簡から、キリスト教の叙述として、繰り返し、発せられるように構成されているのがわかる。 パウロ書簡の場合、全てがキリスト教に関わっている。同じように、バガヴァッド・ギーターでは、全てが自らの行為から自由になることに関わっている。ギーターは、直接の行為から、自らを解き放つことや、事物の観察や、魂への沈潜や、高次の霊界への魂の上昇や、魂の浄化などに関わる。 要するに、パウロ書簡を、ギーターの意味で語るなら、クリシュナとの一体化へと至る偉大な真理に関わるように構成されているのがわかる。 いま特徴づけた表面的な事項全てが、ギーターとパウロの背後にある2つの霊(精神)的な啓示の比較を究めて困難にしている。単なる外面的な比較では、純粋さや冷静さや叡智の点で、パウロ書簡よりも、バガヴァッド・ギーターを高く評価せざるを得ない。 しかし、外面的な比較が、一体何をもたらすのか? 外面的な比較は、美しく、素晴らしい花を咲かせ、完全に成長した植物と、その傍らにある植物の種子とを比較し、完全に開花し素晴らしい花を咲かせた植物の方が、目立たずに陳腐な植物の種子よりもずっと美しい、と言うのに似ている。 つまり、素晴らしく美しい花を咲かせた植物の傍らに置かれた植物の種子からも、いつか、もっと美しい花が咲き、もっと美しい植物が成長する、という事態もあり得る。従って、ある程度成長した植物と未成長な種を並置して、直接比較するのは、正しい比較とはいえない。 バガヴァッド・ギーターと、パウロ書簡の比較も、これと同じである。 バガヴァッド・ギーターに現れるのは、熟し切った果実のように、何千年にもわたって成長し、智慧ある成熟した芸術的表現を発見し、ついには壮大なギーターのなかに、長い人類進化の上に、見事に結実した美しい表現である。 対して、パウロ書簡には、全く新しい将来成長していく種子があり、未来に向かって進化が何千年も経過し、この種子が、益々一層成長し、生成するものに、預言的に目を向ければ、完全な意味で、自らの魂に作用させることができる。 以上を考慮するときにだけ、正しい比較ができる。そうすると、将来、成長し、偉大となる叡智が、最初は、目立たない姿で、人類の魂の深みから、キリスト教が混沌と湧き出てくるように、パウロ書簡のなかに、一度現れる必要があったという事実について、はっきりと理解できる。 全人類の地球での進化について、パウロ書簡の真の意味を知りたいのなら、バガヴァッド・ギーターの表現に置き換える必要がある。また、バガヴァッド・ギーターの美と叡智と内的形態の完成に関して、完全な作品という点で評価するなら、パウロ書簡の表現を用いるべきである。 つまり、バガヴァッド・ギーターとパウロ書簡において明らかになる2つの世界観を比較したいなら、第一に、次のように問う必要がある。 この2つの世界観に共通で、その違いが問題となっているものは、一体、何なのか? 問題となっている世界観について、歴史的に見通せる洞察力(霊視力)を用いるなら、それは、人類の進化のための自我の成長にある。人類の進化のなかに、自我の成長を追求してみると、次のような結論に至る。 キリスト教以前の時代には、人間の自我は独立していなかった。まだ人間の魂の隠された奥底に根ざし、自身で進化していく可能性には達していなかった。 自身の性格を持ちながら進化していくことは、人智学徒が、「キリスト衝動」と呼んでいる衝動が、自我のなかに投げ込まれることで可能になった。 ゴルゴタの秘蹟以後、人間の自我のなかにあり、パウロの「私でなく、私のなかのキリスト」という言葉のなかに表現できる存在は、それ以前には、自我のなかになかった。 しかし、ゴルゴタの秘蹟より何千年も前、既に秘儀参入者は、省察しながらキリスト衝動に近づいたが、その時代に、その後キリスト衝動が人間の魂のなかに組み込まれることによって起こる自我の育成が、ゆっくりと準備された。特に、その準備は、クリシュナの行いとして、表現できるような形で準備された。 ゴルゴタの秘蹟以後、人間が、キリスト衝動として、自身のなかに探し求めるべき存在、「私ではなく、私のなかのキリスト」というパウロの表現のなかに、意味を見つけられる存在を、人間は、ゴルゴタの秘蹟以前には、外に向かって探し求めなければならなかった。 ゴルゴタの秘蹟以前は、あたかも宇宙の彼方から、啓示のように到来する存在のように探し求めなければならなかった。時代を遡れば遡るほど、この外的な啓示は一層輝きに満ち、人類に鼓舞を生じさせた存在だった。 つまり、ゴルゴタの秘蹟以前の時代では、外から、人類に対して、ある種の啓示があった。例えば、太陽の光りの輝きが、外から対象を照らす際に、人類への啓示を生じさせた。いまも、光が外から対象物に当たり、対象物を描出するように、霊的な太陽光が、外から人間の魂に当たり、人間の魂を照らし出していた。 ゴルゴタの秘蹟以後、人間の魂のなかの、キリスト衝動として、つまり霊的な太陽光としての作用を、次のように喩えることで比較できる。 霊的な太陽光は、内部から光を放ち、自ら輝く天体を、まるで人間の中にみるのと同じである。 以上のように事態を観るなら、ゴルゴタの秘蹟という事実が、人類進化の重要な境目となり、このゴルゴタの秘蹟が、人類進化の1つの転換期となることがわかる。そして、この関係全体を、象徴的に以下の図のように描くことができる(図)。 左図の円を、人間の魂とすると、左図では、霊の光が外のあらゆる方向から人間の魂へと向かってくる。ゴルゴタの秘蹟が起こった後、右図のように、魂は自らのなかにキリスト衝動をもち、キリスト衝動のなかに含まれる光を自分から発する。 キリスト衝動以前の魂は、あらゆる方向から照らされることで輝く滴のように現れる。ゴルゴタの秘蹟以後の魂は、キリスト衝動を受け入れる状態となったとき、内的に輝き、自らの光を放射する炎のように現れる。 (つまり、ゴルゴダの秘蹟以前は、人間は、善意、もしくは良心や道徳を外に求めていたが、ゴルゴダ以後は、人間の内に求めるようになった。 キリストが降臨する以前は、マヌ、ゾロアスター、モーセ等の預言者は、道徳を外に求めていた。つまり、いまでいう天体観測である。キリスト以後は、キリストが、人間の内側に、道徳を復活させるようにゴルゴダの秘蹟を行ったので、人間は、内に求めるようになり、独自の知性をもつことになった。 そして、外には、暗黒の時代が訪れた。ゴルゴダ以前は、人間の内に暗黒があった。内と外が逆になったので、紀元前と、紀元後という西暦もかわるわけである。)
2011年07月07日
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共同利益社会 古い権力社会が、交換社会に移行したように、今日では、人間の魂の進化の奥底から来る意志が、この交換社会を、特に経済の地盤の上で、新しい社会に変えようとしている。 なぜなら交換社会は、次第に自分の中に、精神生活を、取り込んできたことにより、自由な精神生活を不自由にし、社会から疎外し、そして社会をも、単なる経済社会にしてしまったからである。 たとえ過激な社会主義者が、そのような単純な経済社会を求めようとも、今日の人類の極めて強い内的な意志が、交換社会を、特に経済の領域で、私(シュタイナー)が名づけた「共同利益社会」へと移行させようとしている。 この名称には、多少の問題もあるが、とにかく新しい社会形態に対する名称である。新しい形態に対しては、一般に適切な名称を日常語の中から見つけ出すのが困難である。交換経済は「共同利益社会」へ移行すべきである。 現代では個人の生活圏が益々地球上に広がり、同時に事態が益々多様化して現れるようになった。狭い地域内での経済であった古い国民経済に代わり、世界経済の時代になると、文明世界の大半で、別の場所での生産物を消費するようになる。 しかし、そうなっても、人間の理念や人間の魂の基調は、この世界的要求に追いつけず、世界経済を可能にする様々な制度に従って世界経済を運営するのに大忙しになっている。 では、どのような条件の下なら世界経済は可能なのか? 以前、講演で述べたように、未来へ向けて新しい社会秩序を形成する必要性を充分に理解し、つまり古い暴力利益社会や現在の交換利益社会の代わりに、「共同利益社会」を形成する必要性を理解したときにはじめてその可能性が見えてくる。 (中略) この「共同利益社会」という、未来の国家が求める社会形態は、国際問題との関わりにおいて、どのような存在になるべきか? 経済生活との関係における国際問題はどうあるべきなのか? いま、理解できることは、世界は世界経済を求めているのに、その世界経済の中で個々の国民国家が個々別々に分かれて存在しているということである。 個々の国民国家は各々の歴史的な成立条件の相違を別にすれば、一緒に生活している人々の利己主義から生じるものにより、纏まりを見せている。最も高貴な民族性の表現である文芸や、芸術その他の中にさえも、利己主義から生じる想像力があり、それが民族の様々な集団を結びつけている。 さて、民族のなかの様々な集団が、世界経済の全領域中に入り込む。それは19世紀の間に益々強力に入り込み、そして20世紀初頭に頂点に達した。言い換えれば、かつての古い暴力社会を想わせる色々な利害関係が、これまでの国家間を支配していたが、次第に交換社会の原則が国際社会の中で優勢になり、20世紀の初頭にその最盛期を迎えた。 他の様々な国家に商品を提供したり、他の様々な国家から受容したりという、各々の国家の生産活動や、消費活動は、全て各々の国家の利己主義により決められ、各々の国家の利害関係だけにより支配されてきた。 国家の相互関係はもっぱら通商の原則だけにより決められてきた。それは商品の循環に関する交換社会の支配の原則に従っていた。 しかし現在、単なる交換社会の原則だけではどうにもならない段階に来てしまった。そして「何とかしなければならなくなった」ことが、今度の世界大戦の破局(第1次世界大戦)を惹き起こした主要な原因だった。 後から次第に明らかになってきた事は、世界経済が求められる一方で、世界経済に関わる各々の国家が世界経済を促進せずに、関税その他によって門戸を閉ざし、世界経済の成果を自分だけのために利用しようとしてきた事実だった。 この事実が(第一次)世界大戦の破局を招いた。たしかに様々な別の原因も働いていたが、破局を招いた主要な原因の1つは、このことだった。 単なる交換社会の原則とは異なる原則に従って、広範囲に亘る経済行為を行えるようにすることが、国際社会にとっては何よりも必要である。「共同利益社会」においては、個人が経済の全領域、商品の消費と生産と循環とに関心をもって働くことが必要になるが、各々の個別国家にも他国に対する真実の関心をもとうとする意志が働いていなければならない。 民族間に「偶然の市場」に似たものを形成するのではなく、民族相互の真に内的な理解を育成することが大切なのである。 (中略) 法の分野においても、自由な精神との結びつきが必要である。 (中略) しかし、抽象的な形で精神について語るだけでは、そのような理解を求めることはできない。精神を本当に徹底して自分のものにしなければ不可能である。精神とは本来、苦労して手に入れるものである。この事実を現代人は理解しようとしない。 多くの人々が、物質中心の社会的な要求に、精神が働きかけねばならない、と語っている。しかし、ただ精神に訴えかけることしかできずにいる。そのような大半の人々は、自分が善意で語り、自分が充分に社会道徳を身につけている、と思っているが、しかし次の点を一度よく考えてみる必要がある。 「確かに、我々は精神を既に所持している。しかし、我々が今日、世間に訴えかけようとしている精神は、既に所持している、この精神のことなのか? もしそうなら、現在の状況に我々を導いた精神を、再確認しろ、と訴えかけていることになる。 我々は、この同じ精神によって、新しい状況へ到達できるのだろうか? そんなことはできない。今は新しい精神こそが必要なのだ! しかし新しい精神を手に入れるには、それなりの努力が求められる。そして政治や経済から独立した精神生活の中でそのような努力がなされねばならない。」 一体世界経済は、どのように営まれるべきなのか? 世界中の人々が経済生活を個別的な方法で形成していくと、相互の間に精神的、法的な関係が生じる。必然的にそうならざるを得ない。各々が個別的な方法で行う精神的、法的な働きは、他の人々の経済生活を理解するための手段でもある。 それが本当に世界経済を営むための手段になる。そのような手段を作れないときには、いつでも国家が世界経済の中に割り込み、世界経済を国家の利害関係のために利用しようとするだろう。他国に対する理解なしに利用しようとするので、どうしても不調和が生じないわけにはいかない。 それでは、そのような世界経済はどうしたら本当に生じることができるのか? 国家の精神機構や法機関が経済を支配しないときにだけ、それが可能となる。なぜなら個々の経済構成体は個別的な方法しかないからである。それを精神的に理解するときにだけ、一般性、統一性へと到達する。 そのとき、地球上の全ての土地においても、この理解の輪を拡げることができる。地球が様々な地域の個別性の拘束から解放されるには、この一般性、統一性の理解が必要である。 さて、人間精神は、客観的な理解力を発達させながら、様々な国民の相互理解を可能にさせることができるが、人間の消費要求もまた、国家の枠を超えていく。その要求は国家的ではなく、国際的である。ただその国際性は精神の国際性の対極に位置している。 精神の国際性は理解を通してなされ、他の国民性を、愛をもって理解しようとする。既に述べた意味で、国際性にまで人間愛が拡がる必要がある。しかし、利己主義もまた国際的である。ただしその利己主義は、世界の生産体制が共通の精神的理解、共通の精神的統一性から生じるときにだけ、有益な国際性に到達できる。 民族的利己主義からでは、共通の利己主義に基づく共通の消費体制を作り出すことはできない。従って、いま述べたように、共通の愛から生じる精神が、精神的観点から生産体制を支配できる。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上が、シュタイナーの人間回復、つまり魂を向上させる社会の在り方に対する考えである。 現代の日本を考えてみると、政治、経済、精神が、政治経済を牛耳る一部の既得権益を所持する特権階級により支配され、政治、経済、精神までも決められているといってよいだろう。 福島原発事故は、その最たる例である。経団連と官僚の癒着をみれば、安全であるはずの原発事故が、深刻な事故を誘発した原因をみることができる。 本来、復興の指揮をとるべき精神生活が皆無なので、従来のような政治経済崇拝の新興宗教的な体制が、官僚の下に指揮されているわけで、既得権益を守るための増税しか思い浮かばないのである。 このままでは、人間は、獣になり、万人による万人の闘いと移っていかざるを得ないだろう。 このようなときこそ、人々の自主的な精神生活が鍵を握る独立自尊しかない。地獄のなかで、何をするのかが、人間の本性に思われる。
2011年07月06日
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先日、ある番組をみていて、反原発運動家というよりも、市民科学運動家というべき人物の特集をやっていたことに、そういえば、シュタイナーが、既に予言めいたことを述べていたことを思い出し、その要点について、まとめてみたいと思ったので、以下に再度、要約してみたい。 「人間関係の本質 高橋 巖:訳 」より 科学の未来 現代人にとって大切なのは、この世界に安住の地を得るために、善き人間のように振る舞い、隣人愛の思想を多くの人々に伝えたい等を望むことではない。 それとは逆の、悪しき人類と共に社会プロセスの中に生き、悪人にもなれる才能を発揮することが大切である。 悪人になることが良いわけではなく、克服すべき社会秩序が、その構成員一人一人に、悪人にもなれる才能を発揮するような生き方を強いるからである。 人間とは、どんなに善良な存在であるか、というような幻想を抱いて生きようとしたり、指をしゃぶってでも、綺麗にして、他の人間よりも自分の方が清らかである、と考えたりするのではなく、悪しき社会秩序の中にあっても、幻想に耽らず、醒めていることが必要である。 なぜなら、幻想に耽ることが少ないほど、社会という生命体の健全化のために協力し、現代人を深くとらえている一種の催眠状態から覚醒しようとする意気込みが強くなるからである。 それには、今日公認されている科学に内在する弱くて投げやりな、いわば催眠状態となっている麻痺の思想に巻き込まれず、人智学の与えるエネルギッシュで、探求力をもつ思想を身につけることが、大きな助けになってくれる筈である。 今(1988年)からおよそ18、9年前に、ベルリンの労働組合会館で、今日の科学はブルジョア(資本支配)科学なので、科学を、そのブルジョア(資本支配)的要素から解放するように努めなければならない、と述べたことがある。 プロレタリアート(市民運動)の指導者たちは、このような本質を全く理解していない。指導者らは自分たちが受け継いだ科学が絶対的である、と確信している。 確かに、受け継いだ科学の真理も真理に違いないが、社会主義者たちが、唯物史観の立場をとることで、この真理が、市民社会の発展と深く関連していることに気がついていない。 指導者らは、プロレタリアート(市民運動)のスローガンや情念については語るが、全く市民的に考えている。 以上のように述べると、きっと多くの人は次のように反論するだろう。 「科学の真理は、普遍的真理である。」 確かに、例えば、化学や、物理学、もしくは数学などの特有の真理は勿論、市民運動的な方法でも、資本支配的な方法でも、真理である筈で、ピタゴラスの定理は、資本主義社会にも、社会主義社会にも通用する。 しかし、そのような真理が問題なのではない。大切なのは真理が、特定の枠組み(分野)の中に収まっている、ということが問題なのである。真理が、ある枠組み(分野)の中にとどまるなら、そのなかでは真理である。 市民社会には有用で、簡便に通用する真理がある一方で、資本支配者からは全く考慮されずに、認識できる他の真理もある。 だから、化学や数学の真理が、その枠組み(分野)のなかで、真理である、ということが大切なのではなく、そのような真理の他に、その真理に予め正しい光を当てる他の真理もあり、この他の真理によって、全く別様の意味を、従来の真理に与える、というようにして、科学が、従来の資本支配的な科学とは異なる拡張した学問の地平の上にも立てることができる、ということが大切なのである。 この問題は真理の質にさえ影響を及ぼす。確かに、例えば、大学の化学の教授たちなどは顕著な変化を遂げることはできないだろう。実験室での化学の教授は、自身に由来する(霊的な)思考法ではなく、化学的方法論と呼ぶべき(唯物論的な)思考法を用いている、という事情をよく弁えているからである。 これと同じような(唯物的な)思考法を用い、歴史や文学史を対象にするとき、つまり日常の経済的な生活から、人間を取り出してきて、精神や国家のなかの様々な問題へと向かわせるとき、直ぐに、真理が問題になる。 現代人が、今所有している歴史は、陳腐な市民的な物語にすぎない。哲学他の様々な学問も同様である。ただ、現代人の多くが、この事実を黙認し、客観的な科学だと信じ込んでいる。 学問や研究が、自主管理を取り戻し、私(シュタイナー)がよく語った社会有機体の三分節化が現れるときにだけ、精神(霊)的な生活において、健全な生活を営むことができる。 「近代社会主義思考の思想形態」 ドルナハ 1919年2月21日より シュタイナーは、唯物論的な真理は、唯物論のなかで成立すると述べているのだろう。シュタイナーは、あえて唯物論的支配の道具としての科学を、ブルジョア科学と呼んでいる。 人類は、このブルジョア科学とは異なる科学、それは古代には叡智であった科学が蘇らなければいけないといっているのだろう。 それには、現在の一部の特権階級が全てを支配し搾取する政治経済中心の社会構成を、人体のように、三分節化する必要があると説いている。 そこで、三分節とは、何かを以下に要約したい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以下、次のホームページより引用し書き換えた。 http://roseandcross.kakurezato.com/page030.html 社会の未来 社会有機体三分節化の基本理念 精神生活と法生活、及び経済生活の望ましい在り方は、これまで厳格に統一国家として形成されてきた社会を三分節化された社会有機体に変えるときにのみ実現できる。法治国家に必要な全ての制度は民主的な議会の中で管理される。 これに反して精神活動は全て、この政治的、法律的な組織から切り離され、自由に自主的に管理される。他方、経済活動も政治組織から切り離され、経済自身の在り方や、経済自身の条件から、実際知識と専門能力に基づいて自主的に管理される。 今日の主題に移る前に、始めに序論として、社会有機体三分節化の基本理念を要約して述べる。昨日は人間の社会の生活要求が三つの基本要素から生じること、つまり、社会問題が、精神問題と国家=法律=政治問題と経済問題の三つから成立していることを説明した。 近代社会の発展過程が洞察できれば、この三つの生活要素、いわゆる精神生活と法律=国家=政治生活と経済生活が次第に混沌とした状態で現代へと到り、もはや相互に区別のつかないものになってしまっていること、そして、この混沌とした状態の中から現代の社会悪が生じていることが理解できる。 このことを十分に深く理解するなら、未来の社会の中では、公的生命としての社会有機体が、公的精神生活の(特に教育制度における)自主的な精神管理と、政治=国家=法律関係の自主管理と経済生活の完全に自主的な管理に分節化すべきであることがわかる。 現在は国家という唯一の管理体制が、生活のこの三要素を統合している。従って、今日、社会の三分節化について語る場合、即座に誤解が生じてしまう。人々は次のように反論する。 「精神生活のための自主管理と、法律上、国家上、政治上の生活のための自主管理と、経済生活のための自主管理とを要求するのは、文化会議と民主的政治議会と経済議会という三つの議会を求めるのと同じだ!」 上記の反論は、社会有機体三分節化の理念を全然理解していないことになる。この三分節化の理念は、近代における人類社会の発展過程の中で、歴史的に生じた様々な要求を本当に真剣に受けとめるものである。 そして、この様々な要求を、この要求は、既にスローガンになってしまっているが、三つの言葉に要約できる。しかし、スローガンを使って現実を表そうとする場合には、これら三つの言葉の中に、歴史的に正しい意志が含まれていることを知っていなければならない。 その三つの言葉とは、人間生活のなかの自由への意志であり、民主主義への意志であり、そして社会共同体を形成しようとする意志である。この三つの要求を真剣に受け止めるならば、それら三つの意志を唯一の管理体制の中に1つにまとめて押し込めるわけにはいかない。なぜなら、そうすれば、必ず一方が他方を妨害するようになるからである。 例えば、民主主義を全ての生活分野に適用しようとする人は、次のように反論するだろう。 「国民議会や国民投票の中で生かされる民主主義においては、1人の成人が別の成人と同等の地位に立って、決定を下すことができる。民主主義の地盤の上では、成人した1人1人の判断によって、どんなことでも決定され得るのだ!」 この反論に対して、社会有機体三分節化の立場は、次のように語る。 「たしかに人生の中には、自らが関わる生活分野として、各々の成人が、各々の民主的な意識から同等に発言するように求められている。すなわち法律、国家、政治の分野がそれである。しかし民主主義を真剣に受けとめ、政治を、完全に民主化するなら、精神分野と経済生活を、その民主的な管理体制の中に組み込むことは、どんな場合にも決して許されない」。 民主的な管理を行うには、何らかの議会が必要になる。けれども、そのような、民主的議会が精神生活という、教育活動をも含めた領域の事柄を決定することは決して許されない。後で詳しく取り上げるが、いまは、導入として、次の点を指摘するだけにしておく。 社会有機体の三分節化は、自主的な精神生活を求める。特に公的な場所において、学校その他の教育施設において、そのことが言える。何を、どのように教えるべきかは、何らかの国の命令によって決定すべきではない。 実際に教育に携わる人たちが、教育活動の管理者であるべきである。言い換えれば、小学校低学年から最高の教育過程に到るまで、教師は何をいかに教えるべきかについて、政治的、経済的な権力から独立して、自主的に決定しなければならない。 それは独立した精神団体の内部で決める事柄なのである。そして教育活動全体、更には精神生活全体の共同管理者であるための時間もなお残せるような範囲内で、個々の教育者は授業のための時間を費やすべきである。 後で、精神生活の自主性のためには、個人の精神的な在り方を全く新しい基盤の上に置かなければならないということを述べたい。また偏見が行き亘っている今日、とても信じられないことだが、次の事柄が可能でなければならないことも明らかにしたい。 すなわち、精神生活の自主性を通じて、精神生活が、国家生活や特に経済生活に対しても実りある働きかけを行うようになる、ということである。自主的な精神生活だけが、灰色の理論や世間知らずの学者的な見方から離れて、実生活の中に働きかけ、経済生活にも役立ち得るような認識を与えてくれる。 まさに、精神生活の自主性を通じて、精神生活は実生活に役立つものとなる。判断力のある全ての成人の判断が支配的であってはならない。議会主義によって精神生活を管理しようという考えは、排除しなければならない。 精神生活においても民主的な議会が支配すべきであると信じる人は、社会有機体三分節化の方向を根本的に取り違えている。
2011年07月06日
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今度はクリシュナが弟子に語りかける。 「私は恩寵をもって、お前に私の姿を現した。私の最高の本質が、お前の前に立っている。私の全能により、お前の前には、輝きつつ、測りがたく、捉えがたく、不可思議に、私は出現する。お前が、いま私を見るように、かつて他の誰も、私を見たことはない。 私の恩寵により、いまお前に与えられている力をもって、お前が私を見るように、ヴェーダのなかの内容が、私を告げることはなかった。私に与えられた供物も、かつては私に届くことはなかった。 これまでは、神々への布施も、探究も、決して届くことはなかった。儀式も私に届くことはなかった。烈しい懺悔でも、今のような姿の私を、すなわち、お前が人間の形で、私を見ているようには、これまでは見ることはできなかった。 偉大な勇者よ!私の恐ろしい姿を見ても、怖れてはならず、心を乱してはならない。怖れを離れ、気を楽にして、再び、お前は私を見なさい。お前のよく知っている、この私の姿を!」 さて、サンジャヤは盲目のドリタラーシュトラに、更に間接的に語る。 クリシュナが、アルジュナに、以上のように言うと、はかり難い、初めも終わりもない、あらゆる力よりも高い存在が、消滅し、再度、クリシュナは、人間の姿で現れた。怯えていた者を、親しみやすい姿で、落ち着かせようとするかのように。 アルジュナは言った。「人間の姿の貴方を再び見て、私は落ち着きを取り戻し、再び、もとの私に戻りました。」 するとクリシュナは言った。「私が、お前に見せた姿は、本来見ることが困難な姿なのだ。神々ですら、その姿を見たいと憧れている。ヴェーダも、私の姿については告げず。懺悔によっても、布施によっても、供物によっても、何らかの儀式によっても、私の姿には到達できない。 いかなる手段によっても、お前が見た姿で、私を見ることはできない。あらゆるヴェーダから自由に、あらゆる懺悔から自由に、あらゆる布施、供物、あらゆる儀式から自由に、彼方へと歩むことを知る者だけが、ただ私だけを敬い、目を向ける者だけが、私の真の姿を見ることができ、認識でき、私と全く1つになることもできる。 おお、パーンドゥ族出身の私の息子よ! 私が促すように行い。私を敬い愛し、世界を超え、あらゆる存在に愛情深き者、そのような者は、私へと至る。」 いま、ギーターが語る宇宙の秘密の前に立っている。この秘密は、血に結びついた古い霊視力が途絶え、人間の魂が、永遠や、不変に至る新たな道を模索しなければならなかった、人類の意味深い時代に告げられたという意味がある。 この秘密が人智学徒に明かされる。人間が観照しながら、自身から自らの本質を生み出したとき、人間にとって危険になり得る全てを、このギーターの啓示のなかに同時に感じ取れる。真の自己認識により、自身の本質について語る、魂の奥底にある人間の本質、および宇宙の秘密を捉えるなら、自らの前に最大の宇宙の謎を置くことになる。 しかし、この宇宙の謎を置くことが許されるのは、自身の本質に対して、謙虚に敬うことができる場合に限られる。この宇宙の謎に近づくためには、いかなる理解力も充分とはいえない。正しい感情こそが不可欠である。 ギーターが語りかける宇宙の秘密に、謙虚に近づくことのできない者には、明かされない。謙虚に敬うことが感じ取れてはじめて、その秘密を完全に把握できる。 人類の進化のある段階において、この宇宙の秘密を、その出発点から、ギーターのなかに、いかに発見できるか、更に、ギーターにおいて、示される秘密を通じて、いかに、その秘密を、別の形、つまり、パウロの書簡のなかに遭遇するような別の形で、再び照らし出し、人間の魂に作用させるかを、本連続講演を進めながら扱っていく。
2011年07月05日
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人間は、1つの大いなる宇宙の秘密の前に立っている。秘密に満ちているのは、その秘密が理論的内容をもつからではなく、この秘密を正しく把握できるときに、人間のうちに沸き起こる圧倒的な感情のせいである。 ギーターは秘密に満ちている。かつての宇宙の存在が人間的感情に向かって話したものとは、また別の話法を用いなければならないほど、あらゆる人間的な感情に向かって、秘密に満ちている。 クリシュナは秘密を語る。クリシュナが、アルジュナの耳に、次のように響かせる。 「私はあらゆる世界を滅ぼす時間でもある。私は人間たちを滅亡させるために現れた。お前が闘って、彼らを死に至らせなくても、つまり、お前がいなくても、敵対している向こう側の戦列に加わっている戦士たちは皆、死を免れない。 だから、恐れずに立ち上がれ! 敵を打ち負かす栄誉を獲得せよ! 待ち受ける勝利と支配を享受せよ! 向こう側の戦士たちが倒れ討ち死にしても、殺したのはお前ではない。お前が戦士たちに死をもたらす前に、戦士たち全ては、私によって既に死んでいる! お前は単なる道具となれ、単に手を下し、闘う者となれ! ドローナ、ジャヤッドラタ(デーヴァヴラタ?)、ビーシュマ、カルナその他の者たちを、私は殺し、彼らは既に死者となっているが、今、お前が改めて彼らを葬るのだ! ドローナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8A カルナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A 戦士たちは、私によって殺され、マーヤ(幻想)のなかで死に倒れるとき、死という現象における私の働きが外へと発揮される。お前は殺しなさい。私の行為は、一見、お前により生じたように見えるだろう。 慄いてはならない! お前は、私が前もって為さなかったことは何も為すことはできないのだから。闘うがよい! 戦士たちは、お前の剣に倒れるだろう、私が既に殺したからである。」 (このように要約すると、クリシュナが殺人を肯定しているように思えるが、ギーターの内容が、古代であることに注意すべきである。当時の人間の死は、現代とは全く異なっていたということを考慮しないといけない。 現代のように、人間の魂は、肉体のなかに完全に入っていたわけではなく、半ば抜け出ていたという。現代でいうなら、睡眠中の夢をみる浅い睡眠状態に似た状態だったようで、現代のように、家族といえども、古代と比べれば、全くの個人的なアカの他人に近い魂の状態ではなかったのである。 つまり、古代では、近親婚しか認められなかったのは、古代の人間の魂の状態に起因するわけで、クリシュナは、人間の自我の発展のために、つまり、現代の人間の死の意識を獲得させるために、古代人の近親同士の争いを導いたわけである。) ギーターでは、クリシュナのアルジュナへの指導により、パーンドゥの息子たちのもとで起こる全ての出来事は、まるで御者がドリタラーシュトラに語ったように記述される。 ギーターという詩は、「クリシュナが、アルジュナに、次のように語った」、というような直接の話法ではなく、「ドリタラーシュトラの御者サンジャヤが、盲目の英雄のクル族出身の王(ドリタラーシュトラ)に、次のように語った」、という風に記述される。 サンジャヤは、以上の内容を全て語った後、更に次のように言う。 「アルジュナは、クリシュナの言葉を聞いたとき、合掌し、震えながら、敬いの言葉を、クリシュナに返す。ドモリながら、クリシュナの前に畏怖し、深く敬礼しながら、アルジュナは次のように言った。 『世界が貴方を称え、歓喜し、畏敬の念に満ち、貴方に心服するのももっともである。羅刹(ラークシャサ)という霊たちが、愕いて四方八方に逃げる。聖なる群は皆、貴方の前に身を屈める。ブラフマーよりも尊い最初の創造者にどうして平伏さないことがあろうか。』 羅刹天 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E5%88%B9%E5%A4%A9 人間は、宇宙のなかの1つの秘密の前に立っている。アルジュナは、自身の本質をまざまざと眼前に見て何を思うのか? アルジュナは思う。 『自分のなかの、この本質は、ブラフマーよりも高次に思われる。』 ブラフマー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC アルジュナは、いま1つの秘密の前に立っている。というのも、このように人間が自分の本質に語りかけるときの言葉は、通常の生活のいかなる感情、感受性、理念、思考や、理解のためにも用いられないような言葉であると解さなければならないからである。 というのも、生活のなかで、どんな風であれ通常持つことができる感情を、このアルジュナの言葉でいうなら、これほど人間を大きな危険に陥れることはないからである。日常生活での感情を、このアルジェナの言葉に近づけ、奇妙とも思わず、最大の宇宙の秘密と感じなければ、些細な疾患の兆候、いわゆる狂気、誇大妄想となるだろう。 クリシュナ、すなわち人間のなかの自身の高次の本質に対して、通常の日常の感覚で近づけば、人間は、狂気、誇大妄想に陥る。 「御身神々の主よ、貴方は無限であり、貴方は永遠であり、貴方は最高の者である。貴方は存在であると同時に非在(無)でもある。貴方は神々のうちで最も上位で、神々のうちで、最も古い。貴方はありとあらゆる宝のうち最高であり、貴方は、知者であり、意識されるなかでは最高の存在である。 貴方は全てを包み、貴方のうちには、ありとあらゆる姿が全てある。貴方は風、火、死、永遠にうねる宇宙の海、貴方は月、貴方は神々のうちで、最高の存在、貴方は名そのものであり、始祖である。貴方は、神々のうち最高であり、貴方は崇められねばならない。 貴方には、千回の崇拝よりも、多くの崇拝が相応しい。貴方は、あらゆる方向から崇拝されなければならない。貴方はいつか人間がなり得る全てである。貴方は、あらゆる力の総体が、いつか一つに漲るほどに力に満ちている。 貴方は全てを成し遂げ、同時に全てである。貴方を、はやまって友人とみなし、貴方の驚くべき偉大さを知らずに、私が、貴方をクリシュナや、ヤーダヴァや、友と、軽率に、親しげに呼んだなら、また、自らの弱さゆえに、貴方を正しく敬わなかったら、散策、或いは休息時に、究めて神聖な時、もしくは究めて日常時に、貴方が一人もしくは、他の存在たちと共にあるとき、私が正しく貴方を敬わなかったら、私は貴方の計り知れない偉大さにお詫び申し上げる。 宇宙の父である方よ! 宇宙を動かし、宇宙のなかで動く方よ! 貴方は他のどの師をも凌ぐ、並ぶ者なき優れた師であり、この三界(動物界、植物界、鉱物界)の全てに比類がない、貴方の前に私は平伏し、貴方の恩寵を乞う。 あらゆる世界に顕現する主よ! 私は貴方に未知なものを見て、畏怖し、震える。どうか、貴方の(本来の)姿を示して下さい。おお神よ! お慈悲を、神々の主よ、あらゆる世界の原初である方よ!」 人間の本質(クリシュナ)に、人間が語りかけるとき、人間は、1つの秘密の前に立つ。
2011年07月04日
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