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月紀を再掲したので、地球紀も再掲したい。 シュタイナーの地球紀その1 魂の経験を出発点として、地球紀から、魂が経験すべきことを考察する。 地球の歴史に関する連続講義の中で、自らの魂への参入から霊視できたことは、マーヤ、もしくは大いなる幻想と呼ぶ外界の背後には精神的存在が立っている、という事実を示す一連の精神的な現象だった。 再度、自身に以下のように問いかけてみる。 人間の周囲を取り巻く全ての背後には精神的存在が認められる事実を、宇宙に対する理解という観点や物質的な身体を通して与えられる感覚から、どうやって知ることができるのか? これまでの探求の過程では、外界の直接的、及び外的な現象はさておき、その背後の真実への到達に努めることで、精神的存在を特徴づけてきた。その特徴づけは、自身の魂の中に参入した際に知るような、「喜んで犠牲を捧げる愛情」や、「与える徳」、「諦め」、あるいは「拒絶」などの精神で表現してきた。 実際、その特徴は、人間自身の魂の文脈から理解し、受容できる。言い換えれば、もし、幻想世界の背後で、真実を体現すると考えられる特徴や、物質的現象の背後の真の本性を理解したければ、次のような結論に至るだろう。 「真なる精神的存在や実在から成る物質世界は、背後の精神的存在の生命的な特徴、或いは性質を含んでいる。その特徴と性質は、人間が自身の魂の中で知覚できる特徴とだけ比較できる。」 もし、外界に熱として自らを顕現する精神的存在を特徴づけるなら、その真の本性を、例えば、「捧げられる犠牲」、「外界に流れ出す犠牲」というように特徴づけるのなら、外界の熱の要素を、精神的存在にまで辿ると同時に、その外的なヴェールを取り払い、外界の熱という特徴が、自身の精神的な本性と同じである、ということを示す必要がある。 先ほどの問いへの考察を続ける前に、また別の問いが必要となる。その問いとは、「幻想の外界の中に見られる全ては、本当に無のような中に消滅するのか?」というものである。 すなわち、「感覚による知覚や外界に対する理解のなかには、いわゆる真実、もしくは現実に相応する特徴や性質は何もないのか?」 次のような比喩を挙げる。 「例えば、水の塊、或いは、大海の中には、対流と呼ばれる内力が隠れているのと同じように、真実、或いは精神世界は、差し当たり、外界からは隠れている。」 従って、マーヤ(幻想)の世界は、水の表面の波動と比較できる。実際、大海は、海底から流れが湧き上がり、表面に波を生じさせる、という現象を示す。上記の比喩は正しく、水から流れが生じ、水力による波動が要因である、という事実を示す。 しかし、上記のような比喩が重要なのではない。広大なマーヤ(幻想)の領域に、「真実」は本当に存在しないのか?という更なる問いが重要である。 これまでの講義と同じように話を進めていく。魂の経験を出発点として、自身の魂に参入することでアプローチしていく。 「土星」紀、「太陽」紀、「月」紀としての進化を、精神的に辿った後、今、「地球」紀へと来た。従って、月紀と比べると、お馴染な、既に一般的とさえ言える、魂の経験から始めることができる。月紀では、魂の隠れた深遠、すなわち、人智学がアストラル体と呼ぶ領域の中に生じる現象を霊視してきた。 その領域では、「憧れ」が煌くのを感じると同時に、ある精神的存在の内部で、地球紀では人間に相当するが、「憧れ」がいかに作用するか、を霊視してきた。魂のなかの「憧れ」が、いかに像(イメージ)の世界に満たされ調和するか、ということも霊視してきた。 (月紀の人間は、地球紀の1つ上の位階の天使という精神的存在に相当する。会社組織に喩えれば、地球紀の人間を平社員とすれば、主任にあたる。つまり、月紀の人間は、2つの集団に分かれたわけである。1つが、地球紀の聖霊と呼ばれる善の天使と、もう1つが、地球紀の悪魔と呼ばれる悪の堕天使である。) 像(イメージ)の世界(プラトン風にいえば、イデアの世界)を、魂の内面の運動として理解できるようになった。その理解から、個々の魂の内面の小宇宙から、創造する世界の大宇宙へと、運動霊が介入し、継続する方法を発見した。 以上の魂の経験は、古代ギリシャ人には熟知されていた事実で、今日でも、その真相において究めて意味深いが、この魂の経験を出発点にする。この魂の経験は次のような言葉により暗示される。 「全ての哲学、すなわち、人間の知へと向かう全ての努力は、驚きや、感嘆から生じる。」 実際、この言葉は正しい。少なくとも、人間が思考し、学び、研究しようとするとき、自らの魂の中で生じるプロセスに注意を払うなら、誰でも、健全な認識に至る方法の起源が、「驚き」もしくは「感嘆」にあることを、既に発見しているだろう。 「驚き」や「不思議」から、学びの全過程が生じるが、それらは単調で、空虚で、無味乾燥な状態を高揚させ、生命を吹き込む。 では、魂の中に生じた知識で、「驚き」から生じなかった知識とは、どういう種類の知識なのか? そのような知識は、空虚と単なる自慢のための学者趣味に浸った知識に相違ない。「驚き」から学びが生じ、謎を解く中で経験する無上の喜びへと魂を導く過程だけが、「驚き」を超えた領域へと上昇させ、「驚き」に始まる魂の教育プロセスだけが、学びを高貴にし、内的な活力を与える。 実際、内的な感情に満たされていない知識がいかに無味乾燥であるかを感じ取れるようになるべきである。真の健全な知識は、「驚き」と、「謎を解く喜び」という文脈から生じる。これ以外の知識は、外側から獲得され、様々な基盤の上に分類され適用される。 しかし、「驚き」と「喜び」の感情に包含されていない知識は、いかに真剣であれ、実際には人間の魂から沸き上がって来るものではない。知識の中に生きる要素が醸し出す空気により生じる「アロマ(芳香)」は、「驚き」と、不思議を解く「喜び」から生じる。
2011年04月28日
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「復活祭の思想 高橋 巖:訳」の意訳 復活の思想 太古の時代に、秘儀に参入しようとする人は様々な段階の様々な行を修めた後、最後に「この上なく自由な人」、すなわち、頭に茨の冠を戴き、真紅の衣を纏い、身体の苦痛に耐えるクレストス(聖なる存在)(1)の前に連れ出された。1)クレストス(Chrestos)は、ブラヴァツキーによれば、後アトランティス時代の太古より崇められてきた「聖なる存在」の名である。(高橋氏訳) このクレストス(聖なる存在)の姿を凝視する人は、魂から、真実の人間になる力が湧いてくるのを感じた。老いたクレストス(聖なる存在)の身体の主要部から血が滴り落ちるのを見た秘儀参入者は、無力感を退け、人間的な弱さを抑え、心の内部に発する精神の勝利感を高めることができた。 上述のような苦痛を直視することは霊的存在の復活を意味している。苦悩を背負った人間の姿の前に立つ深い意味は、次の言葉に要約できる。 「お前は、多くの楽しみを人生に感謝できよう。しかし、お前が霊的認識を獲得できたのは、お前の苦悩のお蔭である。お前が苦悩のあまり破滅することなく、自分を引き上げる力を持てた為である。」 従って、古代の秘儀では、苦悩するクレストス(聖なる存在)の像が勝利するキリストの像に代わるようになった。キリストが高みより苦悩するクレストス(聖なる存在)を過去の姿として見下ろす。 この勝利する霊的なキリストを魂の中に、特に意志の力の中に持つ可能性を再び見つけ出す必要がある。この事が現在、明るい未来を開拓するためにはどうしても必要である。 単なる地上的な存在から、宇宙的な存在へと眼を向けることができなければ、上述した真なる復活の思想を理解することは不可能だろう。 近代的な思考は宇宙を、死体のような存在に変えてしまった。宇宙の星々の進化の中に宇宙霊の意図がどのように働いているか、を考えない。 キリストは人間の魂を、この宇宙霊と結びつけるために、人間の中に降りてきた。太陽として物質的=感覚的に、太陽として現象化する存在が、宇宙霊や宇宙の復活する霊の外的な表現である、と語ることこそが、キリストの福音の真の伝道である。 上述のように、今日、復活の思想を心に甦えらせるべきである。それを1つの内面的な祝祭にし、自身のために、肉体に対する霊の勝利を祝うべきである。 肉体に対する霊の勝利を祝うときにはじめて、キリストの本性に再びアプローチできる。
2011年04月28日
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人間は、外界から働きかける総計を、内部で色彩イメージに置き変える。個々のイメージ感覚を、内部では1つの全体感覚に統合する。1つ1つの感覚領域に注目するのではなく、1つ1つのイメージ感覚を加工することにより、内部に生きる1つの統一的知覚で満たすような全体感覚に統合する。 上記の感覚を、「内感覚」と呼べる。 通常の苦しみや喜び、激情や情動における内的な体験全てを、この「内感覚」が与えるイメージと融合できるので、正真正銘の「内感覚」と呼べる。 例えば、「内感覚」から、ある感覚を、暗く冷たい激情と呼べ、また別の感覚を、暖かく光に満ちた、明るい激情と呼ぶこともできる。 つまり、人間の内部は「内感覚」を形成する存在に、感覚作用を返(フィードバック)している。 従って、外界の個々の領域へと向けた多くの感覚に対して、魂を満たす上記のような1つの「内感覚」について語ることができる。 この「内感覚」は、個々の感覚器官とは関係なく、人間という存在全体を道具として用いる、という事実を、人智学徒は知っている。 この「内感覚」を、サーンキヤ哲学では、「マナス」と呼ぶ。 この「内感覚」を実質的に形作る存在が、サーンキヤ哲学では、「アハムカーラ」で、「マナス」は、「アハムカーラ」から展開する後の形態となっている。 従って、次のような結論に達する。 最初に「源流(アートマン)」、2番目に「ブッディ」、3番目に「アハムカーラ」、そして、人間内部に「内感覚」として見つけられる「マナス」である。 この「内感覚」を観察するなら、個々の感覚を取り上げ、個々の感覚による知覚が、「内感覚」のなかで互いに融合されることで、どのような想定(イメージ感覚)ができるか、を確かめればよい。確かめることができれば、この「内感覚」を明確に理解できる。 上記のような方法をとるのは、今日では、認識の方向が逆転しているからである。現代の認識の進展を眺めると、個々の感覚の差異から出発し、(外の)共通感覚へと上昇することを目指している。しかし、本質的な進化は逆になる。 宇宙の生成においては、「アハムカーラ」から「マナス」が展開し、次いで「原物質[Ursubstanzen]」が展開することで、人間の内部に、感覚として備わる個々の感覚の形成力が分化した。ただし、これは物質的な感覚器官(物質体の一部だが)ではなく、生命的な形成力として根底にある超感覚的な力である。 つまり、進化形態の階梯を降りていくと、サーンキヤ哲学の意味で、「アハムカーラ」から「マナス」へと至り、そして「マナス」が個々の形態に分化し、個々の感覚を構成する「原物質」と呼ばれる超感覚力を生み出す。 以上のように、個々の感覚を見る場合、魂が、この個々の様々な感覚に参加するので、サーンキヤ哲学が与えてくれる叡智を、人智学の学説の内容に対比することが可能である。サーンキヤ哲学は次のように語る。 「マナスが個々の様々な感覚の基盤となる宇宙力へと分化することで、魂は、個々の形態に参入する。」 人智学徒が知る通り、魂は、個々の形態とは区別できるが、魂が「マナス」のなかへと参入するように、魂が、個々の形態のなかへ参入することで、魂は、個々の形態の感覚力を通じて作用し、感覚力に組み込まれ織り合わされる。 感覚力と融合することで、魂は、霊-魂的な本質から、外界との結び付きを得て、外界を好むことができるようになり、外界から、喜びや共感を獲得できるようになる。 例えば、眼の視覚構成力は、「マナス」から分化した。過去の段階、いわゆる人間の物質体が今日のような形態を獲得していなかった頃(サーンキヤ哲学では、以下のようにイメージする)、魂は、眼の視覚構成力のなかに沈潜していた(眠っていた)。 今日の人間の眼は、確かに土星紀の段階において、既に、その素地を獲得していたが、当時の熱の感覚器官が退化し、今日の松果腺のなかに萎縮した後、ようやく発達した。 眼を発達させた力は、超感覚的には既に存在し、魂は、その力のなかに生きていた。 サーンキヤ哲学は更に語る。 魂が、以上の分化原理のなかに生きることで、魂は外界の存在に愛着をもち、外界の存在に対する渇きを生み出す。 感覚力を通じて、魂は外界と関わりを持つ。外界への愛着や外界への欲求が生まれる。魂はいわば、感覚器官を通じて、触覚を送り出し、外界と力的に関わりを持つ。様々な力の総体や、力の現象的な総体として捉えられた力的な関係を、人間は、アストラル体のなかで統合する。 サーンキヤ哲学は、「マナス」から分化した個々の感覚力の各々の段階における共同作用について語っている。 この感覚力(原物質)から、更にまた精妙な(霊的な)基本要素(微細身)が生じる。人間のエーテル体は、この基本要素から作られていると人智学徒は考えている。この基本要素は、比較的、後になってからの産物で、人間のなかのエーテル体のなかに見つかる。 つまり、以下のようにイメージできる。 霊的な展開(進化)に従って、「源流」、「ブッディ」、「アハムカーラ」、「マナス」、「感覚力(原物質)」、精妙な「基本要素(微細身)」が形成されてきた。 外界、自然界にも、上記の精妙な基本要素(微細身)は、エーテル体、もしくは生命体として存在している。例えば植物である。 サーンキヤ哲学の意味で、宇宙全体の進化の根底において、植物のなかでは、上から下へと、「源流」から下降してくる展開(進化)があるようにイメージできる。 植物の場合、全てが超感覚的存在のなかで起こり、そこから植物のエーテル、ないしは生命体のなかに生きる精妙な基本要素(微細身)へと濃密化してはじめて、物質界における現象(リアル)となるが、他方、人間の場合、現在の進化においては、高次の形態や原理が、「マナス」から既に物質的に顕現している。 (植物では、エーテル体から物質化しているが、人間は、マナスから既に物質化しているわけで、人間の方が、物質界に深く参入しているといえる。) 人間は、個々の感覚器官が外的に顕現しているが、植物では、後に発生した感覚実質が精妙な基本要素(微細身)やエーテル的な基本要素へと濃密化してはじめて生じる。更に、エーテル的な基本要素が濃密化して、粗雑な基本要素が生じる。物質界で遭遇する全物質は、この基本要素からできている。 サーンキヤ哲学の意味で、人間を、下から上への進化に従って、次のように分けることができる 粗雑な「物質体」、精妙な「エーテル体」、「アストラル体」(この表現は、サーンキヤ哲学では使わず、代わりに「感覚構成力体」という表現がされている)、「内感覚」、すなわち「マナス」、「アハムカーラ」、すなわち、人間個人の根底に存在し、個々の感覚領域を知覚する「内感覚」だけでなく、自らを個別の存在として、個を感じる原理。「アハムカーラ」は、この原理を生じさせる。 更に人間のなかに、素質として備えられている高次の原理がくる。すなわち「ブッディ」、東洋哲学では「アートマン」と呼ばれ、慣習化されている霊的な器官で、「アートマン」は、これまで特徴づけてきたように、サーンキヤ哲学では、霊的な「源流」として宇宙的存在と考えられている。 (「物質体」-「エーテル体」-「アストラル体」-「マナス」-「アハムカーラ」-「ブッディ」-「アートマン」の7つ。人間は現段階で、4つまで、つまりマナスまで獲得している。 マナスから後は、俗に3種の神器といわれる霊的器官のアハムカーラ、ブッデイ、アートマンで、これからの転生により獲得しなければならない。) 以上のようにサーンキヤ哲学では、いわば、人間の基本構成体が完全に描出されていることがわかる。
2011年04月27日
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外界においては、人間は、通常の表面的な意識を満たす、あらゆる像(イメージ)の認識を学ぶが、隠れた魂の領域である無意識から脈打って来る気分は、外的な事情によっては決して満たされず、人生の主体的で中心的な主題や根拠を切望する。 しかし、この主体的で中心的な人生の基盤を獲得するには、人生のなかの特別な出来事を探求するだけでなく、出来事全体に関与する普遍的な叡智を解き明かす哲学を手に入れないといけない。 (要するに、キリストがいった、「人はパンのみに生きるにあらず」、である。) 今日、魂の奥深くで生じる気分は、高次の意識への覚醒を求めるが、世界の中に生きる普遍的な叡智と交わるように求める。もし、この接触を行わなければ、何らかの対象への到達不可能な「憧れ」が、魂の奥底から生じてくる。 上記の意味で、普遍的な叡智を解き明かす哲学は、魂の奥底に生きる「憧れ」への1つの回答でもある。 世界中で生起している出来事の序章(要因)は、過去の時代にあり、魂の中にある「憧れ」の力を、今日生きる人々が、普遍的な叡智を解き明かす哲学により和らげようとする行為を考慮すると、特に、「憧れ」が脅威となり、消耗させようとするときに、それを和らげようとする力が、覚醒的な意識を超えた隠れた魂の領域(潜在意識)にあることは、別段驚くべきことではない。 もし、普遍的な叡智を解き明かす哲学が存在せずに、それを手に入れることができなかった過去の時代に、「憧れ」が脅威となっているような人物が生きていたなら、その人物が、「偉大な精神」であるが故に、普遍的な叡智に対する絶え間ない「憧れ」に苛まれ、かえって、人生の意味を把握する可能性から疎外されて来たはずである。 他方、今日(地球紀)では、像(イメージ)への「憧れ」を和らげ、絶望を沈黙させ、空虚を退治するような「贖い」が魂の中に滴り落ちている。過去(月紀)には、一連の像(イメージ)への行進が止むのを待ち望み、その像(イメージ)が益々大群となって居座るほど、かえって益々、それを待ち望むしかなかった。 例えば、ハインリッヒ・フォン・クライストという人物が友人に宛て、次のような文章を書き送っているのを見ると、その文章が、「憧れ」に埋没する魂の中に、自らを香油のように注ぎ出す人智学を手に入れることができなかった時代に生きていた人間のものであり、上記の心理がいかに表現されているか、がわかる。 ハインリッヒ・フォン・クライスト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88 「この地球上で幸せになりたいって? そんなことを言う奴がいたら、恥を知れ!とでも言いたい。全てが死で終わる場所で、目的に向かって努力するなんて、いかにも先が読めない、格式ばった人間がすることだ! 出会い、3度の春を互いに愛し合い、そして、永久に互いから逃げ出す。そもそも愛がないのに、そんな努力にどんな価値があるというのか? ああ、何か愛以上の、幸せ以上の、名声以上の、言語以上の、魂が夢想さえしないようなものはないのか! 世界の頂点にいるのが悪い精神だなんてあり得ない。人間には、何か不可解なものに過ぎない。人間だって、子供が泣いているとき、笑わないか? この無限の広がりについて少し考えてみろ! 無数の時間、各々が1つの生命、各々が、人間のこの世界のように、顕現した存在なのだ! ああ、静止した瞬間よ、教えてくれ、これは夢なのか? 夜、仰向けになって見る2枚の菩提樹の葉の間には、その先見性において、人間の思考が捉え、言葉で表現できるよりもずっと豊かな見通しが広がっているではないか。 よし、何か善い行いをしよう。そして、その行いにより死のう! 人間は既に無数の死のうちの1つを死に、そして、未来にもまた死ななければならない。まるで、1つの部屋から別の部屋に行くようなものだ! ほら見てごらん、僕には世界が大も小もなく一緒くたに箱詰めされているように見える。」 以上の文章に表現された「憧れ」は、この人物を促し、友人に宛てた、以上の手紙を書かせた。この精神の主クライストは、その「憧れ」に対する充足を、現代の魂が、精力的な理解力をもって人智学にアプローチするような形では、まだ見つけることができなかった。 この精神の主は、いま(1911年)から1世紀前に、友人のヘンリエッテ・フォーゲルをはじめにピストルで撃ち、次に自身を撃って自殺し、生涯の幕を閉じ、今は、彼の亡骸が葬られた、ヴァンシー河岸にある寂しい墓の下に眠っている。 クライストが表現した「憧れ」について以上のように読み解けるのは、特筆すべき天啓である。正に「贖い」、カルマの行為というべきだろう。 それは、今まで述べてきた、拒否された「犠牲」への意志が、「憧れ」へと変化させられた事実を、すなわち、運動霊による「憧れ」の緩和や、その最終的な充足に向けた衝動や、「憧れ」が、地球という「贖いの惑星」上で充足へと達成される事実をよく表現している。 いま、この焦点の定まらない「憧れ」を、飾り気のない表現に変え、また、この切なる望みを体現し、悲劇的な行為を注ぎ出した魂を思い出させる出来事を述べることは特筆すべきカルマの解消である。 この男の精神が人智学徒の前に立つとき、その魂の奥深くに生きる精神の全体性において、人間を地上以外の領域へと連れ戻す精神的存在の生きた体現である、ということに、人智学徒なら、気づくだろう。 クライストが意義深い表現で、記述している「憧れ」は、自分を超えた領域に横たわる精神的存在の探求を人間に強い、実際に人間が経験でき、もし、彼が自身の生命の糸を未成熟なまま断ち切らなかったら、後に理解できるものである。 彼は、「個人や人類を導く精神的存在」の最初のページに記述されている存在を発見したのではないだろうか? そこで、クライストの作品「ペンテシレイア(ベンテジレーア)」(アマゾーンの女王ペンテシレイアとアキレスの血みどろの戦いに関するギリシャの伝承に基づいて書かれた凄惨な悲劇)について考察する。 ペンテシレイア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B7%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%A2 ペンテジレーア http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=32358 http://kik-i.jugem.jp/?eid=10 「ペンテシレイア」の中には、ペンテシレイア自身の地上的な意識では推し量れない遙かに多くの表現の記述がある! もし、ペンテシレイアの偉大な魂が、地上的な意識をもって包含できるよりも遙かに無限の広がりを持っている、という事実を仮定しなければ、その特殊性において、ペンテシレイアを理解することは全く不可能となる。 従って、劇中に芸術的な形で、ペンテシレイアの魂の奥底の無意識を引き込む状況が生起する。このようなわけで、クライストがアキレスのために設定するような一連の出来事が、高次の意識から検分される可能性は阻止しなければならない。 もし、阻止しなければ、その悲劇の重大さを経験できなくなるだろう。ペンテシレイアは、アキレスによって囚われの身となるが、アキレスの方がペンテシレイアの囚人である、と思い込まされる。そのため、「彼女のアキレス」という表現となる。覚醒的意識の中に生きる像(イメージ)は、無意識の中へと投げ入れられる必要が生じる。 また、ハイルブロンのカティーの中で表現されているような状況では、特に、カティーと、シュトラールのヴェッターとの間の特筆すべき関係は十全たる覚醒意識の中で、人間には気づかれることなく、低次の意識が役割を果たし、魂の奥深いレベルに潜む、その間を行き来する力により遂行される。 上記の状況を目の当たりにすると、世の中の重力や引力といった通常の力の内部に横たわる精神的な本性を感じ取る。世界の力の内部に横たわる(魔物の)存在を感じ取る。 例えば、カティーが愛する人の前に立つ場面では、意識下に何が生きているかを、そして、それが、外界の中に生きる惑星の引力として無味乾燥に言及される力と、どのように関係しているのかを見る。1世紀前には、透徹し、苦闘する魂でさえ、意識の深層レベルにまで潜入できなかったが、今日では可能になっている。 悲劇「ホンブルグの王子」(1810年に書かれたクライストの最後で偉大な作品)も今日では、1世紀前とは異なる形で感銘を与える。人間が達成する全行為を理性に帰属させようとする現代の抽象的な思想家たちに、作中のホンブルグの王子のような人物、すなわち、一種の夢の状態で、偉大な行為や最終的な勝利へと導く行為を成し遂げた人物を、どのように説明するのかを問いたい。 実際、王子は、覚醒的な意識から勝利を達成したわけでも、高次の意識という意味では特に秀でた人物でもなかった、ということを、クライストは記述している。というのも、王子は後に、死に直面して、メソメソと泣くことを、はっきりと示している。 王子が力を発揮できたのは、 彼の魂の奥深くに生きていた「憧れ」を途方もない意志の努力によって引っ張り出してきたときだけだった。 人類にとって、「月」紀の意識から残る遺産は、抽象的な科学では解き明かせない。その遺産は、多くの側面を持つ繊細な概念や、柔軟で緩やかな輪郭を持った精神的な現象を把握できる概念、いわゆる、人智学により獲得されるような概念から導く必要がある。偉大な概念は中庸的で、通常の概念を、自らに結びつける。 以上のように、今日の魂の中で経験する状態は、宇宙全体に結びついているという事実を人智学が示すことが理解できる。また、魂の中での経験が、事物の精神的基盤に対する概念を形成する、ということも理解できる。 更に、地球紀に先立つ月紀の時代に「憧れた」が、月紀ではなく、現代の地球紀になってから与えられる「贖い」を達成できるようになった、という事実も理解できるようになる。 過去の時代の人間たちの心が「憧れた」対象とつながる方法を見つけられず、当時の世界は、「憧れ」を癒す対象を与えることができなかったが、地球紀の現代人には、「憧れ」に対する「贖い」を見つけ、与えることができるという点で、当時の人間に対する一種の賞賛が生じる。 全ての人生は、全体のなかの1面であるという事実、そして、過去の人類の運命が既に遙か昔に必要としていたような精神的な運動に、今日の人間が人生を捧げることができることを思えば、当時には与えられなかった「贖い」を求める人物たちに対する、ある種の畏敬の念が生じて来る。 (求めても得られないものを求めるという意味で、月紀の人間は、まるで、ドンキホーテである。) 従って、人智学を、人類の「憧れ」に対する救済を担うものとして指し示すことができる。クライストという「憧れ」に満ちた人物が、悲劇的な死を遂げてから1世紀経つ今日(1911年)は、荒廃しながら、悲惨に満ちた人間たちが長い間探求してきた叡智を、人智学が与えることができる、という事実を知るのに適した日である。 ドイツの偉大な詩人が亡くなって百年経った記念日だからこそ、彼の「憧れ」に対する「贖い」として、以上のような人智学的な思想を胸に抱くことができる。
2011年04月23日
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ここで、人間の魂に対応する気分を考察することで、月紀という、この宇宙進化の段階で達成された精神の発展に関して考察できる。 「憧れ」が行き詰まり、もはや、いかなる種類の変化も経験できなくなったときの状態が、いかに苦痛に満ちたものであるかを知らない人など皆無である。 それは、耐え難い状態、「退屈」と呼ぶべき状態に陥る。 通常生活では、「退屈」という表現を、表層的な意味だけに用いるが、「退屈」には、様々な段階がある。偉大で高貴な本性の中にも、外界の中では満たされないような「憧れ」として、高貴な本性自身が表現する「憧れ」が生きるが、「退屈」の中には、そのような高貴な本性にも影響を及ぼすようなレベルの「退屈」も存在する。 この高貴な「憧れ」を満足させる方法として、「変化」以上に良いものがあるだろうか? それは、この「憧れ」を感じる存在たちが、新しい存在たちとの関係を絶えず求め続けていることからもわかる。「憧れ」の耐え難い苦しみは、新しい存在の集団との絶えず変化する関係により、しばしば克服される。 以上のように、「地球」が、「月」という進化状態を通過する間、「退屈」という一種の荒廃状態に陥ったが、運動霊の到来により、「憧れ」に埋没した存在たちの生命の中に、変化や運動、すなわち、新しい存在たちや状況との絶えまない更新関係がもたらされる場面が霊視できる。 ある場所から別の場所への空間中での移動という物質的な「運動」は、これまで述べてきた広義の「運動」のうちの1つの側面に過ぎない。別種の「運動」を経験するのは、例えば、朝、目覚めたとき、夢という魂の中にある思考内容を、自分のなかだけに留めず、誰か他の人に話すときの気分などである。 以上のように、人間は、多様性や変化、いわば、人間が経験する中の精神的な運動を通し、「憧れ」の中にある一面性を克服する。外的な空間中に存在する「運動」は、変化に付随する特定の能力の1つに過ぎない。 例えば、太陽と向き合っている惑星について考えてみる。もし、その惑星が、太陽との関係において常に同じ位置にあり、全く静止していたら、一面性の中に固定されてしまうだろう。その惑星は常に同じ面を太陽に向けることになる。 しかし、運動霊が来て、その惑星を、太陽の周りを周回するように導き、位置に変化をもたらす。位置の変化は、変化の一種に過ぎない。運動霊が宇宙における位置の変化を生じさせるとき、「運動」という一般的な現象の中の特別な形態が生じる。 運動霊が、運動や変化を、宇宙に導入したことで、また別の存在が到来した。 進化する全宇宙の多様性の中に、運動霊、人格霊、叡智霊、意志霊等々の形で、霊視してきた事実は、空気や気体の精神的な基礎を形成するように放射される叡智の方向に沿って、「徳」が流れることで、物質という形態もまた与えられ、存在する、というものだった。 「憧れ」へと変容した意志と共に運動する精神的な存在(運動霊)の中に、人間が、「像(イメージ)」として知る別の存在を霊視できる。この存在は、人間にはいまだ思考の本性だとは知られていない。この存在は、夢を見るときに持つ像(イメージ)により視覚化できる。 流動的で移り変わる夢の像(イメージ)の中に、「憧れ」として生きる意志が、運動霊によって、他の存在に関係づけられることで、別の像(イメージ)を生じさせる。ある存在が別の存在の前に立たされるとき、前者が後者に完全に帰依(依存)することは不可能だが、それは、前者の存在の中に自身の自我が生きているからである。 しかし、その問題の前者は、まるで夢の像(イメージ)のような別の移り変わる像(イメージ)を受け取ることができる。 以上のように、魂のなかに、像(イメージ)の潮流(対流)とも呼べるような現象が生じる。言い換えれば、この月紀という進化期の間に、像(イメージ)の意識(形象意識)が生じた。 (形象意識とは、霊視能力のことでもある。現代人は、この潜在意識の上に、顕在意識があるために、顕在意識の方が明るいので、覚醒時、潜在意識はいわば眠っているが、訓練して、眠っているときの夢をみる意識を、開発すれば、霊視できるようになる。) そして、人間は、現在の地上的な自我意識なしに、この月紀という進化期を通過したことから、人間は、今日、自我を通して達成すべき意識を欠いている自分を想像しなければならない。 (覚醒意識を保ったまま、潜在意識にも到達できるようになるべきである。簡単にいえば、相手の心を読み解けるようにならないといけない。) 当時、人間は、統合的な宇宙の中に存在し、織り込まれていたが、一方で、「憧れ」の経験に比較できるような苦悩が生きていた。 ある意味で、苦しみとは、地上に現れる苦しみの条件を考慮しなければ、詩人(ゲーテ)が述べるように「憧れを知る者だけが私の苦しみを知る」というような詩の意味に他ならないことが想像できる。 魂の表現としての苦しみや痛みが、人間の本性の中や、人間の進化に結びついた他の存在たち(魔物たち)の本性の中に入り込んで来たのは、「月」紀の進化期だった。 他の存在に結びつかなければ、空虚となった内的な自我が、「憧れ」に苛まれる内的な自我となり、運動霊の到来以降、治癒的な慰めに満たされることになったが、それは運動霊の活動を通して、他の存在たち(魔物たち)の本性の中に注ぎ込まれた像(イメージ)を意識する形でなされた。 もし、上記の出来事が生じなかったら、人類以外の「月」紀の存在たちは、「月」の本性ともいえるが、その魂の中に「憧れ」以外は何も存在しない空虚な存在となっただろう。けれども、像(イメージ)という慰めが、孤独と空虚の中に滴り落ち、多様性で満たし、追放と非難から、その精神的存在たちを解放した。 以上のような事実を真剣に受け止めるなら、地球が「月」紀の進化状態にあったときに発達した魂の奥底に横たわる気分と、「地球」紀の進化状態下に魂のなかに層を成し、現代人の意識の奥深くに横たわる気分の両方を把握できる。 上記の2つの気分は、あまりにも魂の奥深くに横たわっているために、海底を循環している海水が、海面に波を生じさせるのと同じように、気づかれることなく活動を始め、意識の中へと現れて来る。通常の自我意識の表層下に、表面へと押し寄せる可能性をもつ魂の奥底に根ざした気分(対流)がある。 では、この隠れた魂の領域(対流)が表面に現れて来る現象は、何を意味するのか? この魂の無意識的な領域の宇宙的な発生を一度理解したなら、魂の奥底から生じ、感じとられる魂の気分とは、「月」紀の進化期に導入されたが、「地球」紀になって初めて、人間に浸透した気分を克服するものであることがわかる。「月」紀と「地球」紀との相互作用を把握すれば、「月」紀から「地球」紀へと精神的にもたらされた気分とは何かを説明できるようになる。 これまで述べてきたように、荒廃を緩和するためには、像(イメージ)が絶えず浮かび上がる必要があった、という点を覚えておくべきである。この点に留意すれば非常に重要で意義深い概念に至るだろう。 「憧れ」の渇望と空虚の苦しみの中の魂は、 次から次へと生じる一連の像(イメージ)によって満足させられ、苦悩から生じる「憧れ」を、調和の中に保つという概念に到達するだろう。 幾つかの像(イメージ)が生じ、しばらく留まった後、魂の奥底で再び「憧れ」が目覚めると、運動霊が新しい像(イメージ)を生起させる。すると、新鮮な像(イメージ)がまたしばらく存在するようになるが、結局は更に別の像(イメージ)への「憧れ」が新しく生じてくる。 この隠れた魂の領域の側面について、重要なことは、絶えず新しい像(イメージ)により、「憧れ」が満たされても、この際限なく続く繰り返しの流れに終わりはない、という事実である。 この際限のない過程に介入できる唯一の方法とは、際限なく続く像(イメージ)の流れの中に、像(イメージ)以外の何かが参入することで、その何かとは、現実として、「憧れ」を「購える」ものである。 言い換えれば、「地球」が惑星として体現した進化状態では、運動霊の活動から導かれる像(イメージ)が「憧れ」を満たすが、そのような状態は、「救済」の段階と呼ばれる状態により代償されなければならない。 実際、これから見ていくが、過去の「地球」の体現である「月」紀が、「憧れの惑星」と呼ばれるのと同様に、この「憧れ」は無限に続き、決して終わらない経過を通してのみ満たされるが、この流れには「贖い」が必要なので、「地球」紀は「贖いの惑星」と呼べるだろう。 人間が人生を通して、地上的な意識の中で生きるとき、この意識は、ゴルゴダの秘儀による「贖い」の行為を、人間の魂の前にもたらす。 「憧れ」に対する「贖い」を絶えず生じさせる気分が、魂の奥底から生じてくる。それはまるで、魂の表面には通常の意識の波があり、その下の、「隠れた魂の領域」という海底には、「憧れ」の形を取って、魂の海底岩盤が生きているかのようである。 供儀を遂行しようと飽くことなく熱望しているかのような「憧れ」を満たしてくれる宇宙的な存在は、ただ無限に続く像(イメージ)の繰り返しによる慰めではなく、最終的に満足させてくれる存在である。 地上に生きる人間として、上記の魂の気分を実際に感じ取ることができる。この気分は人間が経験できる最良のものである。実際、地上に生きる人間の中で、今日、「憧れ」を感じる人たちが、特に、近代において、人智学的な運動に参加している。
2011年04月23日
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隠れた魂の領域に関する事実を明らかにするために、いま、子供を例として挙げる。7、8歳辺りの年代の子供の経験を仮定してみる。例えば、実際には、やっていないのに、やったと責められ、なんらかの不条理を経験する。 子供は、不条理な出来事に対して特別に敏感である。子供がやったことにし、子供を責めることで、事を収めるのが、周囲の大人たちにとっては都合がよかったとする。実際、子供は、このようなやり方や不条理に苦しめられることに対して非常に敏感である。 しかし、若い生命のなかに、過去の不条理な経験が、深く食い込んだ後、年を経るに従い、その魂の経験に、更に上層が付け加わることで、少なくとも日常生活の意味では、人生とは、過去の不条理な出来事などは忘れてしまうものである。 恐らく、上記のような出来事は、二度と生じないだろう。しかし、その子供が若者となって、例えば15、16歳のときに、学校で、新たな不条理を経験する場合を仮定すると、幼い頃に経験しなければ、魂の奥底に眠っていたはずの波打つ苦悩が目覚め始める。 問題の若者は、子供の頃に経験した思い出が作用している事実も知らず、実際、その思い出とは全く別の考えや概念を形成する。もし、子供の頃の出来事が起こっていなかったら、例えば、家に帰って、涙を流し、幾らかの不満を言ってから、やがて立ち直るだろう。 ところが、子供の頃の出来事のために、魂のなかで何が起きているかについては、その若者が知っている必要はないことを特に強調したいが、まるで静かに見える海面下に、絶えず底から波動が打ち寄せている現象と同じように、子供の頃の出来事が、その若者の魂の表面下に働きかける。 もし、子供の頃の出来事がなければ、多少の涙や不平や愚痴で終わったはずの出来事が、若者の自殺という結果をもたらす! 以上のように、魂の隠れた深みにある精神的存在(苦悩)は、最深のレベルから表面へと上昇し、その役割を果たす。魂の深みのなかに支配する重要な力は、本来の姿で表面へと上昇する際に、「憧れ」という意義深い表出となるが、それでも、精神的存在(苦悩)の本質に対しては、無意識のままに留まる。 人智学徒は、上述の力が、外界の中でもつ名前を知っているが、漠然としていて比喩的な表現である。何故なら、その命名は上辺だけの複雑な関係を意味する表現で、意識の中までは考慮していないからである。そこで、有名な現象を挙げてみる。 故郷に住む人間はあまり感じないが、故郷から出た人間の中には認められるような精神的現象で、いわゆる「ホームシック」と呼ばれる感情である。もし、ホームシックの真の要因を探求するなら、その現象が基本的には各々の人間により異なる、という事実がわかる。 ホームシックとは、ある人にとっては、特定の苦悩で、別の人にとっては、また別の特定の苦悩である。例えば、家で聴いた親しみ深い物語に憧れる人もいるが、本当は家を恋しがっているだけかもしれない。個人の中に生きている「憧れ」は、取り留めの無く儚いもので、 何の方向性もない望みである。 また、別の人は、故郷の山や、漣を見るときには、よく遊んだ川に憧れる。以上全ての異なる性質は、魂の中で、しばしば無意識に働いているが、「ホームシック」という言葉で括れる。そして、ホームシックは、何千もの異なった形で演じられるが、一種の「憧れ」として記述される精神的現象を表現している。 更に漠然しているのが「切望」だが、それは恐らく、人生においては、最も人を苦しめる感情として生じる。通常、「切望」と、「憧れ」との関連に気づかない。 では、 この「憧れ」とは何なのか? 以前、「犠牲」を捧げることを望みながら、諦めなければならなかった精神的存在たちの気分に、「憧れ」を関連づけることで、「憧れ」が一種の意志であることを示唆した。そして、この「憧れ」を検証するときには常に、それが、「ある種の意志である」、ということが分かる。 しかし、それはどのようなタイプの意志なのか? 「憧れ」とは、決して成就され得ない意志、もしくは意図なのである。というのも、もし、成就されたなら、「憧れ」でなくなってしまうからである。つまり、「憧れ」とは、実現され得ない意志で、「憧れ」を、「決して成就されない意志」というように定義する必要がある。 従って、「犠牲」が拒絶された精神的存在たちの気分に関して、次のようにすれば、幾分特徴づけられる。 人間の魂の隠れた深みにおいて、「憧れ」として感じ取れる「苦悩」は、これまで述べてきた太古の時代から受け継がれてきた叡智として、自身の中に留まっている精神である。人間が、別の性質を、別の太古の進化段階からの遺産として受け取ったのと同じように、「月」の進化段階から受容するのは、魂の深みに見つけられる「憧れ」の精神的形態、すなわち決して成就されない意志の精神的形態、いわゆる未完の意志である。 月紀と呼ばれる進化期の間に、捧げられた「犠牲」が差し返されることで、 抑制され、阻止された意志を持つ精神的な存在たちが創造された。その精神的存在たちは、意志を抑制し、自身で保持しなければならなかったために、非常に特別な状況に置かれた。 もし、以上の出来事を感じ取り、経験したいなら、自身の魂の状態の中に参入する必要がある。というのも、思考だけでは、以上の状態に到達するには、全く充分ではないからである。 意志を捧げることができた存在は、ある意味、犠牲を生じさせた相手の存在と1つに結ばれることになる。以上の出来事について、1つに結ばれ、犠牲を捧げる存在の中に、いかに自身が生き、織りなすか、という経験、すなわち、犠牲を捧げる存在がいることで、いかに自身に充足感と幸福を感じるか、という経験を、人生の中でも感じ取れる。 (恋の成就に近いニュアンスか?) しかし、いま述べている出来事は、宇宙的な存在を含む高次の存在たちへの犠牲である。高次の存在たちに犠牲を捧げる存在たちは、喜びの中で上方を見上げるが、そのため、高次の存在たちにより差し返された「拒絶された意志」、すなわち「憧れ」は、もし「犠牲」が完遂できたら、叶っていた結果とは、内的な気分、すなわち内的な魂の内容において、決して同じではない。 なぜなら、もし、犠牲を捧げる存在たちが、捧げられた高次の存在たちから、犠牲行為を許されていたら、その行為は、高次の存在たちの一部になっていたはずだからである。従って、比喩表現を用いるなら、もし、地球やその他の惑星が太陽への供儀を許されていたら、太陽と1つに結ばれていただろう。 しかしまた、もし、地球他の惑星が、太陽への供儀を許されなかったなら、太陽と、地球他の惑星は、分離したままで、捧げた犠牲を返され、自身の中に保持し続けることになる。 もし、以上に述べたことを一言で把握するなら、宇宙という総体の中に、何か新しい存在が導入されている、という事実に気づく。その新しい存在は、何か別の方法では表現できない、ということを明確に理解すべきである。 つまり、自身の中に生きる全てを、別の存在に捧げようとする存在たち、すなわち、宇宙的な存在に、自身を捧げようとする存在たちは、その供犠が受容されなかったときは、その犠牲を自身の内に担うように導かれる。 以上の新しい存在が、「エゴ」、もしくは「自我」と呼ぶような存在で、それは後に「エゴイズム」として、あらゆる形態において現れるが、そのようなエゴが煌くのを恐らく感じるだろう。 (漢字の「私」の、「禾」とは穀物の穂先で、「ム」は、抱え込む、という意味で、「私」とは、穀物の穂先を抱え込んだ、という意味になる。カインは、穀物を神に捧げたが、拒否されたという、聖書の俗説を連想させ、カインの血族が、エゴをもつ人類の祖であることを示しているようでもある。ちなみに、カインの血族は、後のフリーメーソンにつながる。) 以上のように、進化の中に流れ込んだ新しい存在が、犠牲を拒否された存在たちのなかで、遺産として生き続けるのを感じ取れる。「憧れ」の内に、たとえ最弱の形であるとはいえ、エゴイズムが稲妻のように光り、また、「憧れ」が、宇宙の進化の中に忍び込んで来るのが霊視できる。 以上、「憧れ」に身を任せる存在たち、つまり、自身のエゴイズムに屈服する存在たちが、もし、何か別の存在が介入しなければ、その存在が、ある意味、一面性の中へと、いかに突き落とされ、埋没するかを、すなわち、自身の中だけに生きるように仕向けられるかを、霊視できる。 (いわば、失恋状態の欝のなかに埋没するようなニュアンスか?) では、供儀を許された存在について考察する。この存在は別の存在の中に生きる。すなわち、犠牲を捧げた存在の中に永久に生きる。供儀を許されなかった存在は、自身という存在の中に生きるしかない。従って、そのような存在は、他の存在の中で、この場合、高次の存在だが、経験できた体験全てから排除される。 実際、その問題の存在たちは、進化の過程から排除され、一面性へと突き落とされ、消えてしまうだろう。もし、一面性を取り除くために、進化の過程に介入するような存在が生じなかったら、消滅する。この「存在」とは、一面性への宣告や追放を、阻止し、介入する新しい(救いの)存在である。 「土星」紀での意志霊や、「太陽」紀での叡智霊と同じように、「月」紀では、上記の新しい存在の、運動霊が出現するのが霊視できる。いま、「運動」という言葉により、空間中での運動をイメージし、表現するわけではなく、思考過程や精神に関連した「運動」に言及する。 「思考(精神)の運動」という表現を、自身の「思考の流れ(移り変わり)や流動性(心)」で表すなら、誰でも知るが、この表現からでも、「運動」を、もし包括的に把握するなら、空間中の位置の変化という、物質的な「運動」は、本来の精神的な「運動」、つまり「心」の1つの側面に過ぎない。 運動霊が、心の存在である事実を理解する必要がある。もし、高次の存在に対して、多数の人間たちが自らを捧げ受容されるなら、その高次の存在は、多数の人間たちの中にある全てを表現するが、それは、高次の存在が、差し出された犠牲全てを受け入れるからで、その1つの高次の存在の中に生き、その中で多数の人間は満たされる。 しかし、もし、多数の人間の犠牲が拒絶されたなら、拒絶された人間たちは 自身の中で生きざるを得ずに、決して満たされない。 (永遠の鬱状態といえる。) 満たされないとき、運動霊が来て、自身に依存するしかなかった存在たちを、他の全ての存在との関係へと導く。このとき、運動霊を単なる位置の変化を生じさせる存在として考えるべきではなく、運動霊は、ある存在を別の存在との新しい関係に絶えず導く運動を生じさせる存在である。 (喩えるなら、失恋し鬱状態に埋没し自殺しかねないところに、慰め役がやってくるようなニュアンスだろう。)
2011年04月22日
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少々脱線することを覚悟の上で、せっかくのコメントを戴いたことを生かしたいために、シュタイナーが説いている人智学での「月紀」を再掲したい。ついでに、意訳も改善したい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ シュタイナーの月紀その1 人智学徒は、人類の宇宙観に対する困難な側面に関して、ある程度だが、 外的、感覚的な世界の顕現の背後に横たわる精神的な真実を追求してきた。兎角、人間は、感覚的な世界の中で見る対象の背後に精神的な存在が特徴的な形態をもって実際に立っている、という本当の事実は、外見だけでは理解できないということを、生活の中で頻繁に経験する。 しかし、人智学を学べば、外観の背後には、本当に、精神的な活動や精神的な性質や特徴が存在している、という事実を認識するようになる。例えば、通常の生活のなかの暖かさや、熱、或いは火というような性質をもって現れる対象は、人智学(霊)的にいえば、精神(霊)的な存在の「犠牲」の表現である、という事実を理解している。 また、空気(大気)として遭遇する対象が、本質的には、それが精神(霊)的な存在であるという事実は、現代人の概念の中では、理解できないが、空気(大気)の中には、人智学徒が、特定の宇宙的な存在により与えられた「徳」が認められる。 更に、水の中に認められる精神(霊)的な表現は、人智学徒が、「諦め、拒絶」である。 (精神的な存在の「犠牲」が、火になり、「徳」が空気もしくは風になり、「諦め、拒絶」が水になる。) 古代の宇宙観(簡単に触れるだけにする)においては、当然、外的、物質的な対象の内にある精神的な存在は、直感され、認識された。この証拠は、現代人が日常的に使うスピリット(エキス)という言葉、今日ではアルコールを含む酒などに対しての特有な表現で用いるが、この言葉が、揮発性の高い物質を特定表現している事実にみることができる。 人智学者は、「スピリット」よりも、むしろ「スピリッチュアル(精神的存在)」と言うが、外的な感覚世界の人間は、「スピリッチュアル」という言葉を、精神(霊)的な事実、もしくは超感覚的存在にはほとんど適用しない。 例えば、ミュンヘンの「精神(スピリット)主義者協会」に宛てられた手紙が、「精神主義者協会」があまり知られてなかった為に、「スピリット」のせいで、「アルコール飲料協会」本部に届けられたことがあった。 今回は、地球という惑星の進化が、「太陽」から「月」まで進展したときに生じた重要な変容を霊視していくことで、現代とは全く別の種類の精神(霊)的な発達に関して考察する。 以前の太陽紀の講義で取りあげた「拒絶という行為」から始める。以前、精神的存在たちが「拒絶」あるいは「差し控える」という行為の中で、「犠牲」を意志という精神的存在、つまり「意志霊」たちの捧げる行為として認識し、その「犠牲」を受け取る機会を「諦める」精神(霊)的な現象を見た。 ある精神的存在(意志霊)たちが、意志を生む精神的実体を捧げたいと望む一方で、その存在たちよりも、高次の精神的存在たちが、受け取るのを「差し控える」という行為により、この意志受容の拒否を霊視すれば、人智学徒は、意志霊が、自らを、自分たちよりも、高次の精神的な存在たちに捧げたいと望んだが、拒絶され、捧げたいと望んだ自分のままに留まるを得なかった、という概念に容易に上昇できる。 従って、宇宙史的な文脈では、いわゆる自分たちの最奥の存在の中に安らいでいる意志を、献身的に捧げる準備ができているにも関わらず、許されないため、自分たちの内に、意志を留め置かなければならない精神的存在たちがいる。 あるいは、別の表現をするなら、意志霊たちは、犠牲が拒絶されたことで、もし犠牲を捧げることが許されていたなら、生じていた高次の存在たちとの、ある種の結びつきを確立できなかった。 聖書の中で、カインがアベルに立ち向かう場面は、この「拒絶された犠牲」の意味を幾分強調した形だが、擬人化し、歴史的な象徴となっている。 意志霊と同様に、カインも、犠牲を神に捧げたかったが、神の喜ぶものとはならず、拒絶された。一方で、アベルの犠牲は、神に受け取られた。 ここで注目すべき点は、犠牲が拒絶されたことを知ったときのカインの内的な経験である。この出来事に対する最高度の理解へと至るには、通常の生活の中だけで意味を持つ概念を、いま述べているような高次の領域に持ち込むべきではない、という事実をはっきりさせておくことである。 「犠牲の拒絶」は、(カインの)欠陥や悪行によるもの、とするなら、間違いとなる。高次の領域では、通常の生活において知るような罪や贖いには言及できない。すなわち、犠牲を拒絶した高次の存在たちの観点から見なければならない。言い換えれば、高次の存在たちは、犠牲の受容を差し控えただけでなく、犠牲を譲り渡した。 太陽紀に特徴づけた魂の雰囲気の中には、欠陥や失敗を示すものは何もない。むしろ、「諦め」や「拒絶」の行為は、あらゆる偉大で意味深い内容を包含している。とはいえ、犠牲を差し出した存在たちの中に、極めて微かな反発であっても、犠牲を拒否した高次の存在たちに対する反発めいた気分が、確かに生じるのも人智学徒は感じ取れる。 従って、上記の反発の気分が、例えば、カインのように、後の時代になって、人類の前に提示されるときは、増幅された表現で提示される。カインの中に見つけられるような全く同じ(反発の)気分を、「太陽」から「月」への移行(変容)期に発展した存在たちの中に見つけることはない。 犠牲を拒否された存在たちの間に、反発の気分が生じるといっても、カインに比べれば微々たる程度にすぎない。 信頼できる方法により、この気分に参入するには、太陽紀の講義でも行ったように、自身の魂の中に参入し、自分の魂の中の、どこに、そのような気分を見つけられるか、そして、どのような魂の状態がそのような気分、つまり、犠牲が拒絶された者たちの中に醸し出された気分に気づかせてくれるのか、と問う場合である。 自分の中にある、上記の(反発の)気分は、すなわち、地上的な人間の生に次第に近づくことになるが、実際、その気分の不確かさや、同時に、苦しみ、もしくは苦痛として、どの魂にも馴染み深いが、この気分に関しては、公開講演「魂の隠れた深み」の中でも取りあげるつもりである。 シュタイナー著書「魂の隠れた深み」 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/430924159X.html どの魂にも馴染みがある上記の気分、もしくは態度は、魂の隠れた深みを支配し、恐らく、その気分があまり苦しみを生じさせないときは、表面に向かって現れてくるが、人間はしばしば、この気分の周囲を巡っているだけである。 高次の意識の中では、人間は、この気分を、そのまま気づくことなく担っている。「ただ憧れを知る者だけが、私の苦しみを知る」という詩人(ゲーテ「ウィルヘルム・マイスター」)の詩を思い起こさせる。 Nur wer die Sehnsucht Kennt,Weiss,was ich leide (ただ憧れを知る者だけが、私の苦しみを知るのです) http://blog.goo.ne.jp/kayachalle55/e/aa1b6cd316b43ea5df3fd47ca738336c http://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/mig.htm 上記の詩は、漠然としているが執拗な魂の苦痛、同時に苦しみの感情を伴う苦悩をよく捉えている。この詩は、上記の魂の気分が「憧れ」を意味することを表現している。その詩は、魂が何かを熱望し、それに向かって苦闘するだけでなく、人間の魂の中に、絶えず「憧れ」を生む要因として、既にその気分が存在している事実を指摘している。 「土星紀」と「太陽紀」の進化期において、精神的に生じた出来事の中に(秘儀)参入するならば、現代人は、魂の特別な状態、すなわち、人間の魂が、高次の努力に向けて舵を取り、苦闘し始める際に現れる魂の状態に着目する必要がある。 以前、太陽紀の講義の中で、「諦め」や「犠牲」の本性を、自身の魂への(秘儀)参入により描くことで明らかにした。「喜んで与えること」或いは「自身の自我を進んで諦めること」とでも呼べるような精神状態へと発展し、その状態から生じるような叡智から、人間が何を達成できるか、を見てきた。 太古の状態から、進化してきた地球の状況に近づくほど、現代人でもまだ経験できるような魂の状態に似た状態に遭遇するようになるが、魂が地上的な肉体の中に挿入されることで、魂の表面下深くに流れる隠れた魂の領域上に、最上層のように、通常生活の魂全体の営みが横たわる、という事実を明確にする必要がある。 この隠れた魂の領域がある、という事実に気づかない人がいるだろうか? 人生は、隠れた魂の領域が存在している、ということを充分に教えてくれるはずである。
2011年04月21日
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人間は、外界から働きかける総計を、内部で色彩イメージに置き変える。個々のイメージ感覚を、内部では1つの全体感覚に統合する。1つ1つの感覚領域に注目するのではなく、1つ1つのイメージ感覚を加工することにより、内部に生きる1つの統一的知覚で満たすような全体感覚に統合する。 上記の感覚を、「内感覚」と呼べる。通常、苦しみや喜び、激情や情動において、内的に体験する全てを、この内感覚が与えるイメージと融合できるので、正真正銘の「内感覚」と呼べる。例えば、ある感覚を、暗く冷たい激情と呼べ、また別の感覚を、暖かい、光に満ちた、明るい激情と呼ぶこともできる。 つまり、人間の内部は、内感覚を形成する存在に、作用を返している。 従って、外界の個々の領域へと向けた多くの感覚に対して、魂を満たす上記のような1つの感覚について語ることができる。 この感覚は、個々の感覚器官とは関係なく、人間という存在全体を道具として用いる、という事実を人智学徒は、知っている。この「内感覚」を、サーンキヤ哲学では、「マナス」と呼ぶ。この「内感覚」を実質的に形作る存在が、サーンキヤ哲学では、「アハムカーラ」で、「マナス」は、「アハムカーラ」から展開する後の形態としている。 従って、次のような結論に達する。 最初に源流(アートマン)、2番目にブッディ、3番目にアハムカーラ、そして、人間内部に「内感覚」として見つけられる「マナス」である。 この「内感覚」を観察するなら、個々の感覚を取り上げ、個々の感覚による知覚が、「内感覚」のなかで互いに融合されることで、どのような想定ができるか、を確かめてみることで、この「内感覚」を明確に理解できる。 上記のような方法をとるのは、今日では、認識の方向が逆転しているからである。現代の認識の展開を眺めると、個々の感覚の差異から出発し、(外の)共通感覚へと上昇することを目指している。しかし、本質的な進化は逆になる。 宇宙の生成においては、「アハムカーラ」から「マナス」が展開し、次いで原物質[Ursubstanzen]が展開することで、人間の内部に、感覚として備わる個々の感覚を形成する力が分化した。ただし、これは物質的感覚器官(物質体の一部だが)ではなく、超感覚的な(生命)形成力として根底にある力である。 つまり、進化形態の階梯を降りていくと、サーンキヤ哲学の意味で、アハムカーラからマナスへと至り、そしてマナスが個々の形態に分化し、個々の感覚を構成する超感覚的力を生み出す。 以上のように、個々の感覚を見る場合、魂がこの個々の様々な感覚に参加するので、サーンキヤ哲学が与えてくれる叡智を、人智学の学説の内容に対比することが可能である。サーンキヤ哲学は次のように語る。 マナスが様々な感覚の個々の宇宙力へと分化することで、魂は、個々の形態に参入する。人智学徒が知る通り、魂は、個々の形態とは区別できるが、魂がマナスのなかへと参入するように、魂が、個々の形態のなかへ参入することで、魂は、個々の形態の感覚力を通じて作用し、感覚力に組み込まれ織り合わされる。 感覚力と融合することで、魂は、霊-魂的な本質から、外界との結び付きを得て、外界を好むことができるようになり、外界から、喜びや共感を獲得できるようになる。 例えば、眼の構成力は、マナスから分化した。過去の段階、いわゆる人間の物質体が今日のような形態を獲得していなかった頃(サーンキヤ哲学では、以下のようにイメージする)、魂は、眼の構成力のなかに沈潜していた。 今日の人間の眼は、確かに土星紀の段階において、既に、その素地を獲得していたが、当時の熱の感覚器官が退化し、今日の松果腺のなかに、萎縮した後、ようやく発達した。 眼を発達させた力は、超感覚的には既に存在し、魂は、その力のなかに生きていた。 サーンキヤ哲学は更に語る。 魂が、以上の分化原理のなかに生きることで、魂は外界の存在に愛着をもち、外界の存在に対する渇きを生み出す。 感覚力を通じて、魂は外界と関わりを持つ。存在への愛着や存在への欲求が生まれる。魂はいわば、感覚器官を通じて、触覚を送り出し、外的な存在と力的に関わりを持つ。様々な力の総体や、力の現象的な総体として、捉えられた力的な関係を、人間は、アストラル体のなかで統合する。 サーンキヤ哲学は、マナスから分化した個々の感覚力の上記の段階における共同作用について語っている。 この感覚力から、更にまた精妙な(霊的な)基本要素(微細身)が生じる。人間のエーテル体は、この基本要素から作られていると人智学徒は考えている。この基本要素は、比較的後になってからの産物で、人間のなかのエーテル体のなかに見つかる。 つまり、以下のようにイメージできる。 霊的な展開(進化)に従って、「源流」、「ブッディ」、「アハムカーラ」、「マナス」、「感覚実質」、精妙な「基本要素(微細身)」が形成されてきた。外界、自然界にも、上記の精妙な基本要素(微細身)は、エーテル体、もしくは生命体として存在している。例えば植物である。 サーンキヤ哲学の意味で、宇宙全体の進化の根底において、植物では、上から下へと、源流から下降してくる展開(進化)があるようにイメージできる。 植物の場合、全てが超感覚的存在のなかで起こり、そこから植物のエーテル、ないしは生命体のなかに生きる精妙な基本要素(微細身)へと濃密化してはじめて、物質界における現象(リアル)となるが、他方、人間の場合、現在の進化においては既に、高次の形態や原理が、マナスから物質的に顕現している。 人間は、個々の感覚器官が外的に顕現しているが、植物では、後に発生した感覚実質が精妙な基本要素(微細身)やエーテル的な基本要素へと濃密化してはじめて生じる。更に、エーテル的な基本要素が濃密化して、粗雑な基本要素が生じる。物質界で遭遇する全物質は、この基本要素からできている。 サーンキヤ哲学の意味で、人間を下から上への進化に従って、次のように分けることができる 粗雑な「物質体」、精妙な「エーテル体」、「アストラル体」(この表現は、サーンキヤ哲学では使わず、代わりに「感覚構成力体」という表現がされている)、「内的感覚」、すなわち「マナス」、「アハムカーラ」、すなわち、人間個人の根底に存在し、個々の感覚領域を知覚する「内感覚」だけでなく、自らを個別の存在として、個を感じる原理。「アハムカーラ」は、この原理を生じさせる。 更に人間のなかに、素質として備えられている高次の原理がくる。すなわち「ブッディ」、東洋哲学では「アートマン」と呼ばれ、慣習化されている存在で、「アートマン」は、これまで特徴づけてきたように、サーンキヤ哲学では、「霊的源流」として宇宙的存在と考えられている。 以上のようにサーンキヤ哲学では、いわば、人間の基本構成体が完全に描出されていることがわかる。
2011年04月21日
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地球(後半) 石灰岩系の大地を、超感覚的な霊眼で眺めれば、それが地上において動物たちを独立させている源である事実がわかる。髪が頭皮に拘束されているように、植物は大地に拘束されているが、動物は大地から自由な動作を行う。 石灰岩系大地による力の放射は、動物に対して、場所の移動というよりも、むしろ自立した形態形成のために働いている。植物は根を大地の中の、地球の中心に向けて延ばし、次に根の反対にある部分を外へ向けて延び広げる。その姿を見ると、植物の基本形が、大地に組み込まれている事実がわかる。 植物の複雑な形成過程については、複雑な記述が必要だが、単純な記述でも大筋において変わりない。植物は自立していない。基本的に自らを収縮させ大地に組み込み、外へ延び出るときには、そこから自らを広げ、あらゆる方向に輝く光に照り返す。 以上の植物の形態をよく知るためには、大地と植物との深い位置関係を考察することが大切である。勿論、動物の「基本構造」をなす、水平に位置する背骨や大地に立つ肢体には、大地に適応する働きを見つけることができるが、その形態は大地から切り離され、独立している。 月から地球へ流れてくる月光の輝きは、思考生活に作用するが、その同じ思考形成力が動物の形態を作り出している。動物の中の没形象的な意志の働きは、日光を反射する月光の中ではなく、直接、日光の中に生きている。 動物を大地から独立させる働きは、月光の輝きを通して漂ってくる。そもそも地上の動物を形成する働きは、全て月から流れてくる。多様な動物が多様な形をとって現れるのは、月が黄道獣帯を通過することから生じる。 月が牡羊座、牡牛座、双子座に位置することで、各々が異なる形成力を動物に対して働かせる。月の多様な形成力により、古代の夢想的な叡智が予感したような黄道獣帯と動物形姿との間の興味ある関連も生じる。 地球の周辺で霧のように消えてしまうかもしれない上記の形成力を、地上に取り込むのは、石灰岩系から流出する力なのである。地球上の鉱物はラジウム(放射線)を放射するだけでなく、多くを放射するが、粘板岩系は植物的な働きを大地に引きとめ、石灰岩系は特に動物形姿を生じさせる月の作用力を取り込む。 この意味での石灰岩系の働きは、様々な生体部の中にも見つけることができる。例えば、骨格形成の傾向が強い人がいる。これは頑強な骨格をもっているという意味ではなく、骨格以外の身体部においても石灰質を沈殿させる傾向が強い、という意味である。 石灰質が過多な人と石灰質が不足な人がいる。勿論、過多とか不足とかと言っても、微妙な違いであり、似たような処置を要する次元での相違なのだが、この相違は大きな意味をもつ。石灰質が過多な人は概して賢く、細かい概念を的確に用いることができる。 とはいっても、人間の本性を、唯物的に説明するつもりはない。石灰質を体内に沈殿させるかどうかは、その人のカルマに関係する。大切なのは、霊の創造的な働きは、物質成分も作り出す事実にある。 前世により特に賢くなるように素質づけられている人や、優れた数学者になる素質をもった人は、死から新しい誕生(転生)までの間に、石灰質を沈殿させる力を、霊-魂的に発達させる。 死から新しい誕生(転生)までの間、賢くなろうとするなら、自分の中に石灰質を沈殿させようと願い、逆に、意志力を発達させようとするなら、粘土質や片麻岩系質を沈殿させようと願っている。 物質成分は、霊的な存在に関連づけるときにだけ正しく理解できる。石灰岩系岩石は、動物的な形姿を生じさせるだけでなく、思考内容を内に形成する為の物質的な基礎も生じさせる放射作用をもっている。外には多くの動物形姿があり、内には多くの思考形態がある。 (内の)思考形態は、霊的な存在に転化された(外の)動物の形姿なのである。動物界は同時に理解力の世界である。外の動物界が、人間内部に投影され、動的な思考形態となって出現したものが理解力である。 外なる動物界が、その形態を獲得するために、石灰岩質を必要とするように、人間が賢くなるためには、内部に精妙(霊的)な石灰質の沈殿を必要とする。勿論、限度を越えてはならない。石灰質を限度以上に体内に沈殿させるなら、賢さを、自分から分離し、賢さを、再び自分のものにできなくなる。 以上の点を熟考してみると、鉱物の成分が、人間、動物、植物の生命に大切な意味をもっていることがよく分かる。以上に述べたように、石灰質は形成の働き、内的に確固とした人間にする働きをする。 一方、粘土質や粘板岩質は、石灰の固定化傾向に対抗し、人間を流動化し、植物化する働きをする。人間は、本質的に、石灰岩質と粘板岩質との相互作用から生じる。 結晶片岩には、水晶、石英を生じさせている珪素が含まれている。水晶、石英が発する放射作用は、人間の中にもある。もし、人間が、この作用だけを発揮したなら、生まれる前や、死から新しい誕生(転生)の間にまで遡ろうとする危険に曝されるだろう。 結晶片岩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%99%B6%E7%89%87%E5%B2%A9 石英や水晶は人間を、現在の人間であることから引き離し、生まれる前の存在に戻そうとする。この働きに対抗するのが炭素の働きである。人間は炭素を多様に多量に含んでいるが、勿論、今日の科学は、この炭素を外から、物理化学的に考察するだけである。 炭素の真の働きは、人間を人間の状態に保つ働きである。炭素は、人間の住み家である。人間は炭素の家に住んでいるが、一方で珪素が、その炭素の家から人間を追い出し、炭素の家に入る前までに連れ戻そうとする。 (中世では、炭素を「賢者の石」と呼んだ。) 従って、人間の内部で、炭素と珪素も絶えず戦っている。生命は、炭素と珪素の戦いの中にある。もし、人間が植物界のように、もっぱら炭素だけから成立するなら、大地に拘束され続け、超地上的な生き方を全く知り得なかった。 以上の事実を知ることができるのは、珪素のお蔭である。この事実が分かれば、医薬としての珪素が見えてくる。人間があまりにも強く炭素への傾向をもつことで病気になるとき、例えば代謝系と結びついた病気の場合、(炭素を抑える)珪素系の薬を摂る必要がある。 特に代謝によって生み出された成分が、人体の周辺部(皮膚に近い部位)、もしくは頭部に沈殿しているときは、珪素が優れた薬効を示す。 以上の事実を見通すことで、自然認識と霊的認識の両方を働かせ、物質の中に霊の働きを求め、逆に霊の働きの中に物質を再び求め、霊の働きの創造性を前提にできたとき、人間という生命が理解できるだけでなく、その生命機能が妨げられたときに、どう対応したらよいかも理解できるようになる。
2011年04月20日
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「粘板岩系と石灰岩系(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 地球(前半) 地上の環境に着目すると、様々な地表が現れている。ドルナハの近くの土地は石灰質だが、南に行くと、粘板岩が目立つ。 そこで、第一に、2つの主要な地質、この辺りで見ることのできる石灰岩、特にジュラ紀系の地質と、石灰岩系の地質ほどには緻密な構造をもたない粘板岩系の地質を取り上げてみる。 ジュラ紀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A9%E7%B4%80 粘板岩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%98%E6%9D%BF%E5%B2%A9 中央アルプスで見かける粘土質や片麻岩や雲母片岩などを考察する。この粘板岩系の岩石と石灰岩系の岩石は非常に重要な対極をなしている。 一般に地学では、岩石を鉱物の法則に従って考察していて、地球が、全体として統一体である事実を考慮していない。 地質を調べる際には、どんな金属や鉱物が含まれているかを調べるが、現在、その場所に生きている動植物や人間のことなど、ほとんど全く無視している。そのような態度は、あたかも、人間を、骸骨だけから考察するのと同じである。 人間の骨が筋肉や神経や血液等なしに、単独で存在することは有り得ない。同様に、大地も植物、動物、人間等なしに、単独で存在することもない。 従って、現代の地学の研究は、はじめから上記の真相に向き合わずにいることになる。 そこで第一に、地球に属する粘板岩系の岩石に着目すると、外から見ても繊密な石灰岩系の岩石とは異なるが、その相違は、著書『神秘学概論』の中で述べたような観点から見ると、人間や動物や植物との関係にまで、つまり地球に属する魂的な存在や霊的な存在と、岩石との関係にまで遡ることができる。 人間の意志を知るには、骸骨からは、結局何も理解できないように、地球に内在する、霊的、及び魂的存在に対する役割を知らなければ、粘板岩系、石灰岩系の土地についても何も理解できない。 上記の意味で、粘板岩系の土地と植物、石灰岩系の土地と動物との間に深い関連が認められる。 とはいえ、粘板岩系の土地に植物が生えている場合でも、空間的な意味で、植物が常に粘板岩系の土地と1つになっていなければならない、というものでもない。それは、親指を動かそうとする際に、脳を基にした親指を動かす思考内容が、親指と1つになる必要がないのと同じである。 空間的に深く関連して、1つになることが問題ではなく、いわゆる物理化学的な研究だけでなく、著書『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』や、『神秘学概論』で述べたような霊的な研究によっても、粘板岩系の土地に対する認識が大切である。 粘板岩の中に含まれている力が生きた植物と深く関連している。植物が生長するには、植物の物質体と生命体(エーテル体)だけが現れている。物質体と生命体(エーテル体)は植物の中にあるが、植物のアストラル的な働きは、地球を取り巻くアストラル大気として存在する。 植物は自らの中にアストラル体はもっていないが、地球はアストラル大気に取り巻かれている。植物の開花を結実するプロセスには、アストラル性が共に働いている。地上の植物界全体がもつ統一的なアストラル体は、個々の植物の中には入らず、入っても開花から結実へと移る時期だけで、本質的には植物の上を雲のように漂い、花を咲かせ、実を実らせるように促している。 粘板岩系の岩石から発する放射力がなければ、その土地に展開される生命体は崩壊してしまわざるを得なかった。粘板岩系には、地球全体を生命体にしようと努める努力全てがある。大地と植物との関係は、全体として、人間の頭髪と頭皮の関係に似ている。 地球という生命全体を支えるものは、粘板岩系の岩石から発する放射力である。 上記の事実は、いつか、自然科学的にも裏づけられるだろう。人間は肉体とエーテル体をもつが、その組織全体の根底には、同じ組織体をもつ植物が働いている。 事実、人間を、一種の植物と見なすことができ、動物的な、人間的な部分は、植物的な人間の上に乗っているともいえる。 そこで、健康な、または病気の人間に、粘板岩系の鉱物を処方すると、外から、粘板岩系鉱物の作用を認められるだろう。特に、過剰な植物に基づく異常が認められる場合には、粘板岩系の鉱物で治療するのが一番よい効力を与える。 粘板岩系の鉱物の放射力が、人間の中の植物を、正常な状態にする。粘板岩系の鉱物の放射作用により、抑制しなければ、人間のなかの植物は、宇宙空間の中へ育ち過ぎてしまうだろう。 一度、上記の観点から、地球の生きた地学や地理学を研究すべきである。地球の骸骨に相当する岩石構造を、地質学的に研究するだけでなく、地球の物質だけでなく、生命的な存在、いわゆる魂的-霊的な存在も研究すべきである。 さて、全植物は、太陽の作用とも密接に関連する。太陽の作用は、熱や光としての太陽光線、いわゆるエーテル的や、物質的な作用だけでなく、熱と光の中に組み込まれた霊的で、魂的な作用もある。この霊的-魂的な作用が、粘板岩系岩石と対応する。 地球上での粘板岩系岩石の特定の形での分布と、地上の植物の多様的な形成とは関連している。上記に述べたように、空間的な場所は、問題ではない。従って、植物が生長するための土壌には、粘板岩系岩石が必須であるというわけではない。 粘板岩系岩石の放射力は、様々な流れ、特に磁気の流れに担われている。地上に様々に流れる粘板岩系の放射力により植物は生きている。逆に粘板岩系だけが強力に作用する場所では、植物はよく育たない。植物の本質的な力があまりに強力な形で大地の中に引き入れられると展開できないからである。 粘板岩系岩石が強力に作用する場所では、植物を大地に閉じ込める力が支配しているので、植物が生長し、自らの宇宙的な(展開)力を現すことが、全くできないからである。 粘板岩の秘密は、著書『神秘学概論』の中で述べた意味で、地球と太陽が一体であった時代にまで遡るときにだけ解明できる。その時代に地球の内部に粘板岩系の岩石が用意された。今日の地球の形態が出来上がっていたのではなく、その形態が用意された。 地球がまだ太陽という生命を所有していた当時、地球の物質部は、繁茂する植物生活を営む段階にまで達した。地球紀を、月紀、太陽紀まで遡るとき(月紀、太陽紀は、地球の過去の進化期だが)、その太陽紀の生活は、植物もしくは動物を発達させていなかった。 今日の植物は、太陽紀という生命進化期には存在していなかったが、当時の地球が、一種の植物的な生命体を営んでいた。当時の植物的な存在から、一方で植物界が生じ、他方で、植物界に対する形成力が、粘板岩系の土壌として硬化した。 粘板岩系土壌は、地球の植物的存在として、取り出された地球の知性である。
2011年04月19日
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「シュタイナーの霊視した太古の地球と人間(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の地球と人間(後半その2) ずっと後になって、空気(気体)が生じた。同時に、太陽光線も次第に大地にまで、光を投げかけるようになった。 この段階において、地球は、人間にとって重要な発展の段階に達した。以前の人間は水中に沈み、霧の中へ上半身を突き出すだけだったが、この段階の、地球の濃縮化を通して、「水の人間」は更に形態を濃縮させ、硬い骨格を形成するようになった。 そして、人間の上半身も変化し、新しい状況に相応しい形成がなされた。以前は不可能だった新しい身体機能である「呼吸」をはじめた。 肺が形成されはじめ、以前は上半身で光を受容し、下半身までには光の作用は及ばなかったが、肺の形成により、人間は、再び光を暗い意識の中で感じとれるようになった。 下半身にまで差し込んでくる光を、神の力として感じるようになり、この移行期の人間は、自分に向かって輝いてくる存在が、2つの部分に分かれている事実を感じた。空気も働きかけてくるからである。 以前は、光だけが作用した。肺の形成により、空気も自らの中に入ってくるようになった。 当時の人間は次のように語るだろう。 「以前、私の上方にあった光の力が、今、呼吸するのに必要な機能を私に与えてくれた。光は私にとって、呼吸となった。」 以上のように、当時の人間は感じたが、肺の形成により、人間に流れ込んでくる光と空気は、2人の兄弟のように感じられた。 光と空気(大気)は一組となった。 人間の中に流れ込む地球の空気(大気)は、人間に、新たな体験をもたなくてはいけない、というお告げでもあった。 光だけの人間は、誕生と死を知らなかった。以前の光だけの人間は、光輝く灼熱の雲としての自分が変化したとき、まるで衣裳変えと同じものと感じた。誕生とか、死とかを感じることがなく、自分は永遠であり、誕生と死は単なる通過儀礼に過ぎない、と感じた。 はじめて呼吸すると同時に、誕生と死が意識されるようになった。空気(大気)は兄である光から、自らを分裂させた弟なのである。 そして、この分裂によって、空気(大気)は、光と結合していた人間を2つに分裂させ、人間に死をもたらした、と当時の人間は感じた。 (いわゆるカイン「光」だった人間が、アベル「空気」という死を知る人間となったといえる。カインは、土「地球」を耕すというのは、光を意味し、アベルは、羊「動物」を飼うというのは、呼吸を意味することで連想できる。 ちなみに、「カイン」という名前の意味は、「私は得た」で、「アベル」という名前の意味は、「気息、空虚」であるというから、各々、「光(叡智)」と「呼吸」の意味に近い。) では、「自分(の意識)は暗い存在だが、永遠の実在と結びついている」、という人間の意識を、誰が一体消してしまったのか? それは人間の中に呼吸を通して流れ込んだ空気(大気)、すなわちテュフォンである。テュフォンとは空気(大気)の呼吸という意味である。 テューポーン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%B3 (台風のタイフーンは、テュフォンからきているという。「大地の呼吸」という意味である。) 古代エジプト人の魂が体験したのは、太古では同じであった輝きが、光の放射と空気の呼吸とに分裂した事実だった。そして、この宇宙的な事件は、テュフォンもしくはセトと呼ばれる空気(大気)の風によるオシリスの殺害として、象徴的に描かれた。 セト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%88 オシリス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%B9 (セトは、アベルの代わりに生まれた弟でもある。オシリスは古代エジプトで有名な神で、人類の祖アダムを意味し、後のキリストを意味する。) オシリスとテュフォンをめぐるエジプト神話の中には、壮大な宇宙的事件が隠されている。古代エジプト人は、自分の弟(空気)と仲の良い、太陽からやって来た神を、オシリス(光)として感じ取った。テュフォンは空気の呼吸であり、人間に死をもたらす神だった。 (つまり、テュフォンは、空気を我が物にする呼吸を意味する。生きるために、空気を独り占めにしたので、死という罪が生じたというわけである。) この神話の中に、宇宙の進化の様々な事実を、人間の内面的な認識の中で繰り返されている最も意味深い1つの例として見ることができる。 上記のように、太陽と月と地球の三位一体の成立過程が、神話の中に映し出されている。全ては、古代エジプトの秘儀参入学の学徒に意味深いイメージとして伝えられた。 (光から闇が生じ、光と闇から音響「水」を通じて、空気(大気)が生じるという三位一体の創造である。)
2011年04月19日
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「シュタイナーの霊視した太古の地球と人間(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 太古の地球と人間(後半その1) 太古の人体は、光の形姿で、光の働きを直に受けていた。精妙な光の人体には、エーテル体やアストラル体、幼い自我だけでなく、地球と結びついた高次の霊的存在たちもまた、受肉できた。 人間は、いわば高次の神霊たちの手足で、その神霊たちから支配を受けていた。その項の地球の壮麗な様子を述べることは、非常に困難である。光輝く地球が、見事な色彩の戯れを生み出しながら、輝く雲に包まれている様を思い浮かべる必要がある。 太古の地球を、もし旅することができたなら、灼熱の光輝く部分が互いに波打ち合い、熱の海の中にいることを感じただろう。その熱の海の中では、今日の人間になるべき存在の全てが霊的存在たちにとりまかれ、極まりない多様な輝きを外へ向けて放射していた。 外には地球コスモスが多様な姿で現われていた。内には光に織りなされた人間が、神霊存在と1つになって、明るい姿を外へ向かって輝き出していた。 当時の人間は、この地球コスモスという光の母胎と、まるで、臍の緒のようにつながっていた。同じ共通の宇宙母胎の中で、「光の植物」である人間たちは、地球が纏う光のマントと1つになって生きていた。 この精妙な、靄のような植物の姿の人間は、母なる地球の臍の緒にぶら下がり、母なる地球全体の恵みを受けていた。今日の胎児が母の胎内で育まれているように、当時、萌芽状態の人間は、遙かに精妙な形で、育まれていた。 この状態が太古の地球における人間の生き方だった。 次いで太陽が、極めて精妙な成分とともに、地球から分離しはじめた。高次の太陽存在たちも人間のもとを去った。現在の太陽に含まれる全成分が地球を離れ、ただ粗雑な成分だけを後に残した。その結果、霧は水になるまで冷却され、以前の霧の地球は「水の地球」に変わった。 中心には、根源の水が存在し、まだ大気には包まれていなかった。その水からゆっくりと周囲に濃厚な霧が生まれ、次第に精妙化していった。 このような当時の「水の地球」は、まだ固まらず、周囲では霧が次第に精妙化し、高次の領域にまで立ち昇っていた。以上が、かつての地球の姿だった。 地球は次第に変化していった。人間もまた自らの灼熱の輝く空気体を、濁った水の中に生かす必要が生じた。かつて光の満ちた気体の中でいわば光の空気体として存在していたように、水の中で水の身体となって、生きなければならなかった。 しかし人間が水の形姿をとるようになっても、全身がなったのではない。身体が完全に水の中に沈み込んだのではない。 この時期は、人体の形成過程での重要期である。地球の中心は水からなり、人間も部分的には水の存在だったが、周囲の霧圏(領域)にまでつきぬけていたので、人間は半ば水で、半ば蒸気の存在だった。 水中にある下半身では太陽光を受けることは不可能だった。水が厚い層を成し、太陽光を通過させなかった。しかし、その光は霧の中には届いたので、人間の下半身は、光を奪われ、暗い水の中で生き、他の部分は光に貫かれた霧の中に生きていた。 (現在では、人魚伝説となっている。) これから詳しく述べる事情により、水は人間から奪い取られずに存在し続けた。 地球は、はじめから灼熱し光輝いていただけでなく、音響も発していた。その音響は地球の中にとどまったので、光が外へ出ていったとき、内では水が暗くはなったが、音響に充たされ、今日の物理学の音響に対する実験により知見できるように、音響により、水に形態が与えられていた。 (音響は、いまでは言霊と呼ばれる存在に、音響による図形形成は、クラドニ図形の実験などでわかる。) 音響は形成力をもつ。音響を通して、様々な部分が分節化され秩序づけられる。この音響の形成力こそが、水から人体をつくり出した。人体形成は、地球の中にとどまり続けた音響の作用によるものだった。 音響が地球全体に鳴り響き、人間の形姿が生じた。 (ここでいう音響は、「言葉」でもある。言葉から、人間の形姿が生まれた。) 光は、人間の、水からつき出た部分にのみ達することができた。人間の下半身は水の形姿として、上半身は外光に曝された霧の形姿として存在したが、太陽とともに立ち去った存在たちは光を通して、この上半身の霧の形姿と結びつくことができた。 まだ太陽が地球と結合していた頃の人間は、太陽の母胎の中にいる自分を感じていたが、太陽が分離した時期は、太陽の存在たちが光を通して人間のところまで降りてきて、自らの力を人間の中に浸透させた。 とはいえ、太陽の分離以後も、地球にとどまり続けた中には、将来、地球が自ら引き離さなければならない力、つまり月の力も、まだ存在していたことを忘れてはならない。 太陽が分離したとき、いわば「植物人間」が「水の地球」の中に次第に沈んでいかなければならなかったが、当時の人間が、魚の形姿を獲得した段階にあたる。今日の魚は、勿論、当時の人間の姿の退化した形態を示しているが、かつての人間の生き残った姿でもある。 例えば、金魚を考えてみる。金魚は幻想的な植物の意識形態をもち、活発な動きを示しているが、悲しみの感情も含んでいる。なぜなら光が水から奪われたからである。光が奪われたことから深い、深い憧れが生じた。 (金魚が鮮やかなのは、光に対する憧れの表現であるという。深海魚ほど、光鮮やかなのは、光に対する憧れなのかもしれない。) 水のなかに、光が存在しなくなったので、光への憧れが呼び起こされた。太陽がまだ完全には地球から分離していなかった時期の人間は、上半身がまだ太陽段階にあり、下半身が魚の形に固まったまま、光に貫かれていた。 (生物は、切り離されれば切り離されるほど、切り離された対象に憧れ、自らでそれになろうとする。光と切り離されたために、光に憧れ、自らが光となろうとする。 神秘学では、忍耐力が、創造性につながると説いている。例えば、貧しい生活をすればするほど、金持ち、もしくは、自分が通貨の代わりになろうとするのと同じである。) ところが下半身が闇の中に生きていたときの人間は、低次の人間本性を示すようになった。なぜならその下半身で、月の働きを受けていたからである。 現在の月のような熔岩にまで凝固していなかったときの月は、黒い暗黒の力を発揮していた。当時の月には、最も劣ったアストラル的存在だけが降りられた。しかし人間の上部の霧の形姿の、いわゆる頭部には外から光が輝き入り、形態を作り出した。 以上のように人間は低次の部分と高次の部分から成り立っていた。 人間は泳ぎ漂いながら、この霧の大気を移動した。地球の濃密な霧の大気はまだ現在の空気ではなく、靄が立ち込めているような状態なので、太陽光が浸透しなかった。熱は浸透したが、太陽光が照らすのは表面だけで、地球の大洋は暗いままだった。 この大洋の中に、後に月となって分離する力が働いていた。光を通じ、神々も地球に作用した。従って、下には神々の存在しない、神に見捨てられた、いわゆる水のマントがあり、音響の力だけが働いていた。 そして周囲を太陽の働きのおよぶ靄が取り巻いていた。人間は靄の姿をとって水面上につき出、霊界から働きかけてくる光と愛の存在の仲間であり続けた。 では、なぜ暗黒の水の中心にまで音響世界が働きかけたのか? それは高位の太陽霊の1柱が地球にとどまり続けたからである。ヤハウエ、もしくはエホヴァと呼ばれる霊である。ヤハウエだけが地球にとどまり、自らの本質を音響として、「水の地球」に鳴り響かせた。 しかし、その一方で、最悪の力も「水の地球」の中で成分となりとどまり、恐ろしい力を発揮し、人間の靄の部分は益々下降し、かつての植物形姿から次第に両棲類が生じた。後世の人類よりも遙かに深い所に立っていた、この形姿を、神話は龍として、人魚として、大蛇として描いている。 光の仲間である人体上部は、低次の本性に打ち克ち、下に落下しなかったので、ミカエルとして、龍の殺害者である聖ゲオルクとして描かれている。また龍を伴ったジークフリートの姿も、勿論、形を変えた、当時の2つに分かれていた人間の姿を表現している。 ドラゴンスレイヤー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC 地球の上層部に、また人間の上半身に熱が浸透し、炎の龍を形成した。けれども、その上に聳えているエーテル体は、太陽の働きを受けていた。 旧約聖書は、当時の人間の姿を、両棲類でもある「誘惑する蛇」の姿として描いている。こうして、最も低次な力(月の力)が、外へと投げ捨てられた時が近づく。 (医学のマークであるメリクレウス「アスクレピオス」の杖の2匹の蛇は、当時の上半身が太陽の光「白」で、下半身が月の音響「黒」であった人間を象徴化している。 上部の翼は、高次の存在、真ん中の剣は、ミカエルの龍「蛇」退治の剣で、人間の自我、つまり、意識の発展を意味しているのだろう。日本だと、スサノオの草薙の剣になる。メリクレウスの杖は、通称、生命の木と呼ばれている。) 幾度も大きな破局が地球を襲った。秘教学者にとって、玄武岩形成は、月が地球から分離したときに地球全体を襲った浄化作用の亡骸なのである。それは地球の水が中心で次第に濃縮し、硬い鉱物に変わっていった時期でもある。 地球は月の分離により濃縮され、上部は、重たく粗雑な成分を下部に委ねた。 (沈殿現象と同じ) 上部は依然として水分をわずかに保っていたが、濃縮が進むにつれ、重い成分を下部に委ね、次第に今日の空気が生じた。こうして地球は、次第に中心部に硬い鉱物を形成し、その周囲を水が取り巻いた。 はじめはまだ霧が太陽光線を遮っていたが、霧の成分が下部に委ねられることで、上部は益々成分を稀薄なものにしていった。
2011年04月19日
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人智学の学説の意味で語る叡智は、既に古代のサーンキヤ哲学においても語られている。人智学で語るような発展段階を、1つ1つに分けずに、いわば1つの霊的な水流のように未分化のままに時空を満たしながら、過去に存在し、現在も存在し、未来の宇宙にも存在するような、あらゆる形成を引き起こす永遠の存在を、サーンキヤ哲学は、(実存の)最高の形態(フォルム)と呼んだ。 霊人(アートマン)とは、サーンキヤ哲学においては永遠から永遠へとみなされる実質の形態である。例えば、次のように語ることができる。 かつてミュンヘンで行った人智学的な「創世記」の理由づけに関する連続講義を考察する。地球進化の出発点においては、地球の進化に必要な全ては、霊的な存在や霊的な実質として存在していたが、サーンキヤ哲学は、上記の実存や源流について語ってきた。 宇宙の他の全ての形態が、形而下的にも、形而上的にも、展開してきた源流について語ってきた。今日の現代人は、この最高の形態を考慮するには至っていないが、今、述べたように、将来、考慮することになるだろう。 この源流から展開してくる、人間の次の形態として、上から2番目の構成部として知られる存在をみる必要がある。それは、人智学徒が、「生命霊」と呼んでいる存在で、或いは東洋的な言い方では、「ブッディ」と呼ばれる存在である。 人智学の学説でも、人間は、通常の生から、将来、この「ブッディ」を発達させるものとしている。しかし「ブッディ」は霊的な形態原理として、他の超人的な存在たちには常在し、存在していたが故に、初期形態として、根源的な源流から分化してきた。 サーンキヤ哲学の意味では、魂の外にある現存の最初の形態から、実存の「ブッディ」が生じる。 この形態原理の更なる進化に注目するなら、第3の形態として、サーンキヤ哲学の意味で、「アハムカーラ[Ahamkara]」と呼ばれる存在が登場してくる。「ブッディ」が、分化原理のいわば境界に位置し、ある種の個別化を第一に暗示するのに対し、「アハムカーラ」という形態は既に完全に個別化され出現する存在で、「アハムカーラ」について語るなら、次のような想定が必要となる。 『「ブッディ」が、独立した、本質的で、実質的な形態故に、世界のなかで個別的に存在する形態へと下降しながら、「アハムカーラ」が生まれる。』 上記の進化(発展)に関してイメージするなら、実質的な源流として、均質化した水が、沸騰するが、個々の、完全な水滴までには分離されずに、まるで共通の源流から小さな波頭(水の山)のように少し隆起し、底の部分は、源流として共通するような形態、というような想定が必要だろう。 上記のような形態が「ブッディ」と言える。更に、上記の波頭が水滴へと、独立した球体へと分離すると、「アハムカーラ」という形態となる。 この「アハムカーラ」、つまり既に個別化された形態を、更に1つ1つの魂の形態が、ある種濃密化することで、「マナス」と呼ばれる形態が生じる。 ここで、人智学徒が用いる名称に対して、ある種の不均一と呼ぶべき問題が生じてくる。人智学の学説に従えば、人間の進化を上から下へと辿ると、「生命霊」もしくは「ブッディ」の後に、「霊我」、つまり「マナス」を置く。 この人智学的な命名は、今日の現代人の進化段階にとっては、正当で、この連続講義を進めていくなかで、正当な理由を見ていくが、人智学では、「ブッディ」と「マナス」の間に「アハムカーラ」を入れずに、人智学の概念では、「アハムカーラ」と「マナス」を一致させ、これを一緒に「霊我」と呼ぶ。 太古の時代においては、上記を区別するのが正当だった。その理由をいまは暗示するだけにしておくが、後日、更に述べる。当時、[アハムカーラとマナスをわけること]が正しかったのは、この時代において理解できるように語るならば、今日の人智学による重要な特徴づけ、すなわち一方ではルシファー原理の影響、他方ではアーリマン原理の影響から来る特徴づけを、当時はまだ与えることができなかった為である。 上記の特徴づけが、サーンキヤ哲学には欠けていた。上記の両原理を眺められなかった当時の状況では、「ブッディ」と「マナス」の間に、この「アハムカーラ」という個別化する形態を加えることが正しかった。つまり、サーンキヤ哲学の意味で、「マナス」について語るなら、シャンカラチャリヤの表現の意味で、「マナス」として語られる存在と、厳密に同じ意味で語っているわけではない。 シャンカラチャリヤの表現の意味では「マナス」と「霊我」を同一視できるが、サーンキヤ哲学の意味では厳密にいえば、できない。しかし、サーンキヤ哲学の意味で、「マナス」の本質とは何なのか、を厳密に特徴づけることができる。 ここで、人間が、感覚世界、すなわち物質的な生活に、生きている現実を出発点とする。物質的な生活では、第一に、感覚で環境を知覚し、触覚器官の手足により掴み、または歩行し、更には話す等を通じて、物質的環境に逆に働きかける。 人間は感覚を通じて環境を知覚し、物質的な意味で、触覚器官を通じて環境に働きかける。サーンキヤ哲学でも、全く同様に語られている。 しかし、人間は感覚によって環境をどのように知覚するのか? さて、人間は、眼で、光と色や、明るさや闇を見、物の形も見る。また耳で音を知覚し、臭覚器官で匂いを、味覚器官で味を感じ取る。どの各々の感覚器官も外界の特定の領域を知覚する。視覚は色彩と光を、聴覚は音を等である。 感覚と呼ぶ、いわば人間という存在の門を通して環境と関わり、環境に、人間の内面を開くが、個々の感覚を通じて、アプローチするのは、環境の特定の領域である。 さて、人間が、内部に、感覚が志向する様々な領域を統合する原理を持つことが、日常の言語からも、わかる。例えば、暖色や寒色という言語は、さしあたり、その場の状況に対する単なる比喩にしかならない。すなわち、感情の冷たさと暖かさを、視覚という感覚を通じて、色彩の明暗として知覚する。 つまり、暖色や寒色を語る場合、ある種の内面的な親和性の感情から、感情とは全く異なる感覚が知覚する色彩の明るさや暗さに適用する。以上のように表現するのは、内部のある種の視覚が、熱感覚により知覚される対象と融合しているからである。 繊細な感覚の人や鋭敏な人なら、ある音を聞けば、ある色彩を内的に思い浮かべる。従って、繊細で鋭敏な感覚の人は、赤の色彩イメージを呼び起こす音、もしくは青の色彩イメージを呼び起こす音を語ることができる。 つまり、人間の内部には、個々の感覚領域を統合する、個々の感覚領域から、1つの全体を形成する魂の何かが生きている。 感覚が鋭敏であれば、個々の感覚を更に統合できる。例えば、ある町に行けば、黄色い町のイメージが生じ、また別の町へ行けば、赤い町のイメージが生じる。また別の町は白、もしくは青、というように感じる人もいる。
2011年04月15日
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人間の進化(後半) 第1の人生(前世)と第2の人生(来世)の中間には、死後の生活が営まれている。第1の人生における内的な器官が、死後に変容(メタモルフォーゼ)を遂げ、第2の人生では、外へ向かって開かれる。 内へ向かって活動していた存在が、次の人生においては、外へ活動を向ける。 比喩的に言えば、手にはめた手袋を裏返してはめるのと同じである。生命の変容(メタモルフォーゼ)は、個々の器官がそれぞれ作り変えられるだけでなく、全体が逆転する。 (正しく四次元世界である。アインシュタインは、三次元空間に、時間を含ませて、四次元時空間を提案したが、それは、ミクロやマクロの世界でしか、あてはまらない。なぜなら、ミクロやマクロの世界は人間の思考力でしか捉えられない世界だからである。 記憶力があれば、四次元時空間を概念として構築できるが、物質的な肉体では直接体験できない。物質世界は三次元を超えられないからである。というよりも、生死を超えれば、人間は現に体験しているし、進行中なのである。先祖を遡った全体験の一断面が、現人生ということになる。 だから、ある人生で、他者を殴れば、その逆体験の他者から殴られる体験が、次の人生で、遂行されるわけである。四次元を通過した時点で、ある人生の逆体験が必然的に生じるからである。 自ら蒔いた種は、自ら刈り取るように、四次元世界がつくられているからである。三次元空間のなかでは、カフカの小説のように不条理と感じられるのは、四次元世界を想定していないからにすぎない。 簡単にいえば、ある人生で、貧しいのは、他の人生で裕福だったからである。いまの人生で金持ちなら、次の人生では、貧乏になる。問題は、金持ちか貧乏かにあるのではなく、その体験から何を得たか、なのである。) 内が外へ、外が内へと逆転する。頭と、それ以外の身体を、対立する存在と見るとき、例えば、眼は、前世では、腹部のいずれかの器官(肝臓等)だった。前世の器官の作用が逆転し、現在の眼になり、外界の残像を産出する能力を獲得した。 では、一体、残像を産出する眼の能力は、何に由来するのか? 眼の生命活動としての役割について考察する。眼の生命活動は、残像が証明している。残像は、眼の働き(生命活動)を、しばらく内部で持続させることで生じる。 では、なぜ眼は働き(生命活動)を内部で持続できるのか? 単純な例を挙げる。手に、絹糸の束を握ると、絹糸の束のなめらかな感触が残る。 絹糸の束を手にとる度に、以前の感触が甦る。眼も同様で、残像は、手のこの再認識と似ている。残像を生じさせるような内的な生命活動は、一種の再認識である。 眼の場合、再認識する対象は、外界に存在する。前日にみた同じ人と、翌日出会う場合、再認識する対象の、その人は外界に生きる存在である。 現在の人生で眼となった前世の生体内部の器官にも、眼の生命活動の残像形成力に相当する、なんらかの作用が働いている筈である。ただ、前世での能力は、内へ向けられ、内部で何かを再認識しているに違いない。 体内の何かの再認識とは、思い出す(記憶)能力に他ならない。従って、眼に変容する前の、前世での内臓の器官の作用は、記憶力でなければならない。 以上のように単純化して語ることは、誤解を招くことになるかもしれないが、一般に、外に向けられている全感覚器官は、内臓の中に対応する記憶器官をもっている。そして、内臓の内的な器官は、同時に記憶器官としても機能している。 外界の中で、人間は再度、眼前に現れる対象を見る。眼に対応する、かつての前世での内臓の器官に現在相当する器官は、眼が伝達する情報を再認識として思い出す。従って、例えば、音を耳できくとき、耳に対応する体内の臓器は、その音を(前世の記憶として)思い出す。 以上のように人間全体は、器官を内へ向けて開くことで、記憶器官になっている。人間全体が記憶器官になっている。 しかし、今日の科学的立場は、次のように反論するだろう。 眼が産出する像は、視神経へ移され、視神経でつくられる。視神経以外は、記憶にとっては、四輪車につける五つ目の車輪のようなものでしかない。 上記のような科学的立場での考え方は間違っている。知覚内容は、視神経以外の他の生体部へと移っていく。神経ではなく、内へ向かう働きをする器官が、記憶と直接関係しているのである。 (上記の話が真実なら、内臓の働きが衰えると同時に、記憶力が衰えることも明らかになる。逆に、内臓の働きが活発ならば、記憶力もよいといえる。) 人間全体が記憶に奉仕しているが、各々の器官は、記憶に関しても、各々特殊化されている。 近代科学は、物質の精神性を考慮しないので、内部の様々な器官が、頭脳よりも記憶に深く関わっている事実を理解できない。 頭脳は、それ以外の他の生体器官によって受容される、様々な表象内容だけを提供している。 以上の点で、近代科学は、中世の一面的な禁欲主義を継承しているとも言える。なぜなら、物質界の霊的な側面を知ろうとせず、軽蔑し、否定し、無視しようとしているからである。 近代科学によると、眼他の感覚器官が、知覚内容を受け取ると、それは神経系に伝えられ、更に曖味模糊となっている器官(海馬)に伝えられる、ということを前提にしている。 しかし、上記の記憶の概念は間違いである。 知覚内容は、感覚器官から、他の身体部分へ伝えられ、生体の様々な器官が、その刺激に応えることによって、記憶が生じる。 そこで、頭部と、その他の身体部分との重要な対応関係に着目する。その対応は、まず時間的関係の中に現れる。 例えば、今日、夕食の時間に、きちんと食事をとったとする。生体は、明日も、同時刻にきちんと食べることを求める。しかし頭部は、別の時刻になる。今日、食事した成分が、頭部に摂取されるまで、頭部は、7日待たなければならない。 頭部は、例えば日曜日に生体が摂取した養分を、次の日曜日まで待たなければ受け取ることができない。7日前に生体に摂取された成分が、7日の周期を経て、再び別次元の頭部で繰り返される。つまり、物質が精神に変わるまでには、1週間を要する。 生命の変容では、前世においては7倍もの長い時間を要した出来事(プロセス)が、現世での人生では、数時間の中で繰り返される。その際、内臓の器官が、空間的に機能を進化させるだけでなく、プロセスを逆転させることで、変容を遂げる。 時間的には、頭部系は、他の生体の7倍待ち続ける(遅れる)ことになる。 実際、近代科学が考えるほど、人間は単純な存在ではない。人体の様々な器官は非常に複雑な組織である。人体を研究しなければ、人間が宇宙のどんな運動に参加しているかも研究できない。 従って、近代科学をみれば、近世初頭以来の天体運動の研究は、人間に対する認識を排除し、抽象的に論じられてきた、と言える。 宇宙の運動を研究して、人間と関連づけることが、天文学にとっての緊急な課題である。勿論、それには、近代科学とは、違った観点を導入しなければならない。 ゲーテは、ベニスのユダヤ人墓地で、割れた羊の頭骨を見つける僥倖に遭遇し、人間の頭骨が背骨の変容だ、と直観した。彼は羊の頭骨を1つ1つに分けることで、人間の背柱の椎骨が頭蓋骨に変容したものと考えた。 近代科学は、この観点を受容し、比較解剖学者カール・ゲーゲンバウアー(1826~1903)の興味ある観察や仮説を、高く評価しているが、本質的には、ゲーゲンバウアーはゲーテの直観を曖昧にさせてしまった人物である。 ヴュルツブルク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF#.E5.87.BA.E8.BA.AB.E8.80.85 ゲーゲンバウアーは、背柱の椎骨と頭蓋骨の個々の部分との正しい対応関係を明らかにできるとは思っていなかった人物である。彼がそのように思ったのは、彼には、逆転の思想が持てなかったからである。従って、頭蓋骨全体が脊椎に似ている、としか言えなかった。 実際は、頭蓋骨の形は、死から再生(転生)までの期間、人間に働きかける力によって作られる。従って、他の骨の形とは本質的に異なり、逆転した形になっている。この逆転を考察する必要がある。 例えば、人間の上部や頭部を図式化して考えれば、全作用が外から内へと向かっている事実がわかる。また、頭部以外の他の人体部も図式化すると、全作用が内から外へ向かっている事実がわかり、作用が生体内に留まっている事実がわかる。 上記のように、人間は頭部を通して、外界と関わり、頭部以外の他の生体部を通して、人間内部(精神)の営みと関わっている。 抽象的な神秘家は次のように述べる。 「お前の内面を見つめよ。そうすれば外界の本質が見えてくる。」 しかし、上記のような言い方は、抽象的思考に由来し、現実とは一致しない。外界から働きかけてくる全作用を内的に考察しても、外界の本質はわからない。もっと問題を深化させ、自分を二元的な存在と観じ、頭部とは全く別の生体部から、内面の世界を甦らせなければならない。 大切なのは、24時間内に生じるプロセス(経過)と、次いで7日後に生じるプロセス(経過)を取り上げることである。なぜなら、観察の対象を、内的に受容できるには、7倍の時間を必要とするからである。 しかし、上記のように受容したもの(記憶)が、再び新しく生まれるには、7年が必要なのである。7年後に、はじめて、再び(魂の)表面に甦る。しかも、逆転した形である。 人智学協会が1901年頃に始まった後、忍耐強く7年間待ち、更に14年間もの間、表面に現れてくるもの(精神)を待ち続けていた理由は、ここにある。 (外界のプロセスが記憶として残るには、7日間かかり、その記憶が蘇るのは7年間かかるという話なのだろう。シュタイナーは7年毎に人間が成長することを説いている。)
2011年04月14日
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「逆転の思想(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 人間の進化(前半) 著書『神秘学概論』を通読すれば、宇宙の進化を人間に関係づけて素描していることに気づくだろう。土星紀の進化から、太陽紀、月紀を通って、地球紀にいたるまで、先ず土星紀においては、人間の感覚能力の最初の萌芽が作られ、宇宙の進化が同時に人間の進化と結びつけて追求している。 今日の自然科学でも、宇宙と人間を、2つの互いに無関係な存在として考察せずに、進化を両者の相互関係の中で考えている。宇宙の特性や作用や運動などについて語るときは、両者の関係を徹底して考慮する必要がある。 そうするには、人間を、相応しい観点から考察する必要がある。自然科学は、人間の本質の解明を、もっとも不得手としている。 自然科学は、人間の身体の形態が他の生物の形態から次第に進化してきたとし、従って、胎児において、この形態が(母胎内で)短期間に繰り返される、と述べる。 人間を、他の様々な動物の頂点に立つ存在と考え、動物性を考察し、動物性に見つけられる全てから人間(の概念)を組み立てる。 つまり、人間以外の存在を考察し、次いで、人間のなかに最後の終着点があり、その終着点で、人間以外の動物的な存在が終結し、人間(の概念)に到る、と述べる。人間自身を、その本質から考察するのではない。 人間自身から考察するのは、今日の自然科学にとっては、非常に不都合なのである。従って、自然科学では、人間という存在の真実が見えてこない。 今日、本当に必要とする考察は、人間の本質という問題を考える際に、ゲーテの自然科学的考察、特に彼の色彩論の考察を参考にすべきである、ということである。彼の色彩論の中には、今日とは全く異なる自然科学的考察方法が用いられている。 その色彩論の冒頭では、既に、いわゆる主観的な色彩や生理学的な色彩が取り上げられ、人間の眼が、周囲をどのように捉え、生命的な体験をもつか、単純に眼が外界に曝されている間だけの持続する体験だけではなく、どのような作用が後まで続くか等が詳しく探求されている。 例えば、特定の赤い色面を見た後で、素早く白い色面に眼を向けると、緑色の残像が見える。つまり眼は、ある意味、直前に体験した印象の下にある。 いま、緑色の残像が何故生じ、その原因は何かを調べるのではなく、体験後も、眼がその体験の余韻を保ち続ける、という一般的な事実について考察したい。 人体の周辺に対する体験を眼はもっている。眼は人体の外側についている。眼の体験は、限られた時間内、余韻を残している。その後は、体験が消滅し、体験の影響なしに、他の体験へと向かう。 そこで今度は、人体の特定部に位置する器官の現象ではなく、人間全体と関係した現象を考察する。 先入観をもたずに観察すれば、この体験もまた、眼の体験と共通することに気づく筈である。人間全体の体験は、眼が色を体験するのと同じように、1つの体験をもつ。その時の余韻は、何ヶ月経っても、何年経っても、記憶像として現れてくることもある。 全体としての現れ方は、眼の体験とは、少し異なるが、記憶像が眼の残像と似ているという事実を否定できないだろう。 では、以上の2つの現象は、どのように関連しているのか? 上記の問いに対して、現代の自然科学的な考察方法では答えることができない。なぜなら、この考察方法には、「変容(メタモルフォーゼ)」という普遍的な意味を理解できないからである。 変容(メタモルフォーゼ)は、人間の場合、1つの人生の中で完結するのではなく、輪廻転生の過程の中で、はじめてはっきりと現れてくるからである。 そこで人間全体を考察するために、人体を頭部、胸部、代謝系腹部-肢体部の3つに分けるのではなく、頭部系とその他の生体部分との2つに分けて考察する。 頭部を考察する際、頭部が人間の進化全体と関連する事実を知るべきである。頭部は、人体のなかでは、後期の変容(メタモルフォーゼ)であり、その働きは、頭部以外の生体の変形である。 頭部ではなく、といっても勿論、全てが頭部の働きに結びついているが、他の生体部の中での作用(生体の物質的な成分ではなく、作用そのもの)は、死から新たな誕生(転生)までの全ての中で、変容(メタモルフォーゼ)を遂げて、次の人生(転生)の頭部になる。 (つまり、前世の頭部以外の部分、つまり胸部や腹部や四肢が、次の来世の頭部になる。簡単にいえば、手や足を頻繁に的確に動かした前世をもつ魂は、来世で、賢い頭をもつ。現場で労働するほど、実力社会での組織の上層部に出世するのと同じ、ともいえる。) かつての前世の頭部以外の生体の変容(メタモルフォーゼ)が、後の来世の頭部なのである。この変容(メタモルフォーゼ)の相互関連の理解には、次のことに眼を向ける必要がある。 頭部以外の生体に属する、例えば、肝臓、もしくは腎臓と、頭部系組織とを比較すると、本質的な相違に気づく。 すなわち、頭部系組織以外の器官は、内へ向いている。腎臓を例にとると、その活動は全て、人体内に向けられ、排泄作用まで考慮されている。この臓器を、頭部の器官、例えば眼と較べてみると、正反対な形を示している。 眼は外に向いている。そして、外との相互関係の中での体験が、人間内部で意識化され、理解される。以上のように頭部の器官は、他の生体の器官とは対極的な形を示している。 頭部以外の生体の器官は、内部へ向け、頭部の器官は、外へ向けて開いている。
2011年04月13日
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古代インド人の崇高な詩であるバガヴァッド・ギーターは(既に以前述べたように)フンボルトのような人物たちに、「人類の最重要な哲学的詩篇」と呼ばれた。崇高なギーターに参入できる人は、このような命名に賛同するだろう。 この連続講義にあたっては、更に、ギーターの高度に芸術的な美点についても指摘できる。けれども、差し当たり、その根底にある叡智や力強い思考や、この詩篇を育てた力強い宇宙的認識を讃え広めるために、この詩篇は生み出されたが、この宇宙的認識に注目することで、この詩篇の意義が、眼前に現れてくるようになるべきである。 ギーターの認識の基礎となっている叡智に着目することが特に重要なのは、実際、この詩の本質、特に思考内容や認識内容に関する全てが、前仏教的段階の認識を伝えるからである。 すなわち、次のような結論に到達する。 偉大なブッダを取り巻き、ブッダを育てた霊的な地平線の特性が、ギーターの内容を通して示される。つまり、ギーターの内容を魂に作用させるとき、前仏教的な時代の古代インド文化の霊的形成を霊視できる。 ギーターの思考内容は3つの精神(霊)的潮流の合流であり、生命的で、生きた存在として、ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガの3つの精神的潮流を互いに融合しただけでなく、まるで生きているかのように、互いを織り込み、従って、これら3つの精神的潮流は、ギーターから、全体として現れてくる。 1つの全体として、太古のインドの思考や認識の霊的な流出として現れてくる叡智は、偉大な素晴らしい叡智であり、巨大な霊的な叡智の総和で、まだ人智学(霊学)にアプローチできない現代人は、このような叡智や認識の深みに対する、何らかの観点を獲得する可能性がないので、疑いの目を向けるしかない。 というのも、通常の現代的手段では、いま述べているギーターの叡智の深みのなかには参入できないからである。せいぜい、かつて人類が夢見た美しい夢とみなすことができるだけである。単なる現代的な見地から、この夢を賛美できるかもしれないが、この夢にとりたてて認識の価値が置かれることはない。 人智学を自らの魂に取り入れたなら、ギーターの深みを前に驚き、次のような結論に至るだろう。 「人間の精神(霊)が、霊的な認識方法を徐々に制覇していくことで、再度、獲得できる認識に、太古の時代の人間は浸透されていた。」 以上の如く、過ぎ去った時代に、現に存在した太古の洞察力への賛嘆の念が生じる。この洞察力を、宇宙の内容から再発見でき、その真実を確認できるが故に、賛美できる。この太古の洞察力を再発見し、その真実を認識しながら、驚嘆するだろう。 「いやはや驚くべきことだ! 太古の時代に、人間がこれほどの霊の高みに飛躍できたとは!」 さて、太古の時代では、人類は特にまだ霊視の名残が魂のなかに生きていたことにより、洞察力という恩恵を受けていた。しかも特別な修行により達成された霊的な秘儀参入者だけが、霊界へと通じていたのではなく、古い霊視の名残が、理念や認識の形で生み出した太古の科学というべき知性に一般人もある種の形で浸透されていた。 現代人は、今日、伝えられる内容の正しさを知るには、古代人とは全く別の理由が必要である。太古の時代では、人間の本質に関わる精緻な分別が、別の手段で獲得されたことを理解する必要がある。古代の人間は、知り得る内容から、直接、精緻で、明確な概念を取り出した。 古代の叡智は、霊的な事実に対しても、外的な感覚的事実に対しても、明確で正確に適用できる概念である。 以上のように、場合によっては、今日の現代人の、太古とは明らかに変化した認識に対して用いられる表現を変化させるだけで、太古の時代の認識も理解できる可能性が生じる。 人智学的な叡智の営みにおいて、次のような事実を示そうと試みてきた。すなわち、現代の霊視的な認識でも、霊人(アートマン)という領域に到達できる霊能力を獲得できる方法を、人智学は示してきた。 初期の人智学の告知においては、秘教学から直接取り出した方法を用いて参入することは稀で、特に東洋では、ギーターの時代から、今日までの長い伝統を経て伝えられてきた、通常用いられる名称や概念や雰囲気を用いる方法が採用されてきた。 従って、人智学の初期の形に、現代の秘教学的な研究を付け加える必要があるが、この古い初期の形の伝統として守られてきた古い概念、特にサーンキヤ哲学が用いられていた。ただ、東洋でさえ、このサーンキヤ哲学が次第に別種の東洋思想によって変形されていったように、人智学の初期の告知においても、人間の本質に関する等他の秘密について語られた。 そのような秘密に関する事実は、特にヴェーダの叡智や他の古代インドの叡智として、8世紀における偉大な改革者、シャンカラチャリヤ(1)により用いられた表現で叙述された。(1)シャンカラチャリヤ(通常シャンカラ 紀元後788-820):インドの重要な叡智の教師。ヒンドゥー教ではシヴァの化身として崇拝される。仏教の敵対者。バガヴァッド・ギーターを含む重要な宗教的文書の注釈者であり、古典となったヴェーダ体系の確立者。 シャンカラチャリヤ http://www.kitaokataiten.com/cyberbook/shankara.htm 人智学運動の初期において、どのような表現が選ばれたかについてはかまわず、ギーターの叡智や認識の基礎を得るために、いまはむしろ太古のインドの叡智の宝とは何か、ということに注目してみる。すると、いわば、古代の科学を通じて、特にサーンキヤ哲学を通じて獲得される叡智に現れてくる。 サーンキヤ哲学が人間の本性と性質をどのように観ていたかについて、最も理解できるのは、第一に次のような事実に注目する場合である。 すなわち、人間の全存在の根底には霊的な核心がある、という事実である。この核心を次のように述べて、魂の前に導き出した、 「人間の魂のなかに眠っている力がある。未来の人類の進化に伴って益々はっきりと現れてくる力がある。」 最高の力として第一に仰ぎ見られ、人間の魂を導いていく最高の霊的な核心は、「霊人(アートマン)」と名づけられる存在である。人間が、いつか「霊人(アートマン)」の段階まで上昇したときも、人間は自分のなかに魂として生きる核心を、「霊人(アートマン)」から常に区別できる。 それは今日の日常生活における最奥の魂的な核心と、この核心を覆う、アストラル体、エーテル体(生命体)、及び物質体とを区別できるのと同じである。 上記の後者の体を、いわば「覆い」とみなし、人智学徒が今日の人類の発展段階において、感受魂、悟性もしくは心情魂、意識魂と3つに大別し、区別しているように、魂と、「覆い」とを区別できる。 本質的な魂は、将来、その発展段階において、現在の感受魂、悟性魂、意識魂に対応する相応しい区分が与えられるだろうが、現在の魂と、人智学徒の言葉で「霊人(アートマン)」と呼べる段階に達した場合の「覆い」との性質を区別できる。 将来のいわば人間の霊-魂的核心を包む「覆い」、つまり「霊人(アートマン)」は、確かに将来、人間にとって有意義な存在となるだろう。広大な宇宙においては、ある存在が目指し進化していく到達段階は、常にその存在と共にある。 人類が、いつの日か、自らを包むことになる「霊人(アートマン)」の実質は、いわば大いなる宇宙のなかに常在し、現に今も存在する。人類より上位の他の存在たちは、いつか人類が形成する「霊人(アートマン)」という「覆い」を今日既にもっている。 宇宙には、人類にとっていつか「霊人(アートマン)」が生じてくる実質が現に存在する。
2011年04月12日
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「 高橋 巖:訳」の意訳 人智学 現在、人智学が人類に伝えることのできる事の中で、何が最重要なのか。それは現代人が特に渇望している事である。一番誤解されるのは、上記のような問いに対する回答である。 そこで先ず、人智学と人智学協会との明確な区別が必要になってくる。なぜなら人智学が人類に伝えようとする事は、新しい認識や真理だからである。 しかし「協会」は、特に現段階(1912年)においては、会員になんらかの特定の真理の確信を義務づけることはできない。 「人智学者はどんな信仰をもっているのか?」、という問いほど無意味なものはない。 上記の問いが無意味なのは、特に「人智学協会」に属する人間を、「人智学者」と呼ぶ場合である。その場合、上記の問いは、共通の信条や教義を、協会として持つことを前提にしているが、その前提が間違いだからである。 協会が、規約の上で、共通の教義を信じるような瞬間が来たら、協会は、協会でなく、宗教団体になってしまう。 次のような問いなら意味をもつ。 「人智学を学ぼうとする人は、どんな人たちなのか?」 その答えは、「霊的な問題を学ぼうという衝動をもつ人たち」である。この衝動は教義ではない。なぜなら、自分で発見できない何かを求める態度こそ、宗教団体ではない協会が持つべき共通の姿勢だからである。 また、次のような問いは、上記の回答とは別に、生じる。 「人智学は一体、人類に何を伝えようとするのか?」 その答えは、次のようになる。 「人智学は、これまで人類に伝えられてきた全ての偉大な霊的真実と同じような真実を、ただし現代人の心情に深く、有意義に働きかけるような形で伝える。」 では人智学の伝える真理のどこに新しさがあるのか? それは、いわば現代人が必要とする最も切実な2つの真理を、現代人にも納得できるような形で、魂にアプローチできる、という点にある。 その2つの真理とは、輪廻転生とカルマである。人智学徒が、今日、真剣に認識しようと努力している真実は、輪廻転生とカルマである。 人智学によって、ヨーロッパ文化の中に、高次の世界へ参入する可能性を、基本的に新しい形で与えた、と言うことはできないが、ヤーコブ・ベーメや、スウェーデンボルグ、またはヤーコブ・ベーメのような神秘家たちの存在を知る人は、人間が通常の感覚世界から高次の世界へ高まることができるという立場が、ヨーロッパの中に存在していた事実を知っている。 キリストについて語るときにも、人智学運動にとっての本質は、輪廻転生とカルマの真理を前提にしたとき、はじめて見つけることのできるキリスト理解にある。 従って、次のような結論に達する。 現代人にとって人智学との関係は、なんらかの前提から、輪廻転生とカルマを認識内容として受容できるようになる段階から始まる。 以上が人智学の本質である。輪廻転生とカルマの問題に正しく向かい合えば、他全ての事実は、程度は人により異なるが当然のように派生してくる。
2011年04月11日
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さて、クリシュナは、ある時代から別の時代へと生きていくべき弟子に、魂を調和するには、魂は、3つの精神的潮流全てから、何かを受容する必要があることを示した。 クリシュナの教えのなかに、ヴェーダ的な一元説と同様に、サーンキヤ論の本質や、ヨーガの本質をも正しい形で発見できる。 更に、これから述べるバガヴァッド・ギーターについて知り得る全ての背後に存在する叡智とは、何なのか? その背後に存在する叡智は、例えば、これまで述べてきたようなクリシュナの告知である。そこには、いかにも、創造原理を内包する創造的な宇宙言語が存在する。 人間が話すときも、その際の発音が、空気に浸透し、空気を波打たせ、揺らせ、活動させるように、宇宙言語は、宇宙の全ての事物を、波打たせ、揺らせ、活動させ、存在を生み出し秩序づける。 以上のように、ヴェーダの原理は、宇宙全ての事物に吹き渡っている。ヴェーダの原理を、人間の認識から、人間の魂生活のなかに受容しなければならない。 「働きかけ、活動する創造の言葉が存在し、働きかけ、活動する創造の言葉が、ヴェーダという古文献に再現されている。」 「言葉は宇宙を創造する存在である。ヴェーダ(言葉)のなかには、この言葉が顕現している。」 以上が、クリシュナの教理の第1部である。 人間の魂は、上記の言葉(ヴェーダ)が、いかに形態という存在のなかで生きるか、を理解できる。個々の形態という存在が、霊的な法則に則り、霊-魂を表現している様を、人間の認識が理解することにより、人間の認識は、形態という存在の法則を知るようになる。 (宇宙言語を認識すること。) 宇宙の形態に関する法則的な存在の形成に対する宇宙法則と、その作用に関する教理が、サーンキヤ哲学であり、クリシュナの教理の第2部である。 (宇宙言語の文法を認識すること。) またクリシュナは、弟子に、あらゆる存在の背後には、創造的な宇宙言語が存在する事実をはっきりと理解させ、人間の認識が個々の形態を認識でき、宇宙法則を自らのなかに受容できることを、弟子に理解させる。 ヴェーダのなかやサーンキヤのなかに再現された宇宙言語や宇宙法則を、クリシュナは弟子に啓示した。 更に、クリシュナは、再び、宇宙言語の認識に加わることができるように、弟子の1人1人を高次の世界に導く方法について語る。すなわち、ヨーガを語る。 従って、クリシュナの教えは三重になっている。すなわち、クリシュナの教えは、宇宙言葉と、宇宙法則と、霊界への敬虔な帰依に関する三重の教えなのである。 言葉、法則、そして三昧は、魂が進化を遂げる際の糧となる3つの流れである。この3つの流れは、常に、何らかの形で人間の魂に作用する。 とはいえ、これまで述べてきた事は、人智学により、新しく開発された方法で、この3つの流れを求めなければならない、ということだった。時代が異なれば、3つに形成された宇宙観も、究めて異なった形で人間の魂にもたらされる。 クリシュナは、宇宙言語や創造言葉や、存在の形成や、魂の三昧による深化、つまりヨーガについて語った。クリシュナが太古に語ったヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガの3つが、現代に、別の形をとって再び姿を見せる。 現代には、一層、具体的な形で、活力を持った方法として現れるべきである。それは、創造する神的な言葉が、実際に受肉し、地上を巡り歩いたと考えられた存在のなかに現れた。 ヴェーダは、当時は、抽象的に人類にもたらされた。ヨハネ福音書が語る神的ロゴス(言語)は、生きている創造の言葉そのもの(キリスト)である! (キリスト信者でも、キリストとイエスを混同して用いている者が多いが、キリストとは、イエスに受肉した太陽霊であり、宇宙言語なので、正確にはイエスとは異なる存在である。イエスをして、キリストが語ったわけで、イエスが父というのは、キリストのことで、太陽霊、つまり宇宙言語のことになる。イエスはあくまで子である。神秘学でいうなら、イエスは聖杯で、キリストは血である。) 当時、サーンキヤ哲学として、すなわち宇宙の形態の法則的な把握として現れてきた文法は、歴史的事物に置き換えられ、古代ヘブライの啓示によれば、パウロが、「律法」と呼ぶものである。 律法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E6%B3%95 そして、第3のヨーガが、パウロが説いた、復活したキリストへの信仰として現れる。クリシュナにおいては、ヨーガだったが、パウロにおいては、律法に変わるべき信仰なのである。ただし具体的な存在であるキリストに移行した信仰である。 以上のように、このヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガという3つの組は、後に、太陽として登って来る存在の曙光(預言者)のような存在である。 ヴェーダは再び、キリストという直接的な存在のなかに姿を現す。今度は、イエス=キリストとして、具体的に生き、歴史の展開のなかに現れた。太古のように、空間と時間の彼方に、抽象的な形で、自らを注ぎ出すのではなく、1つの個として、実際に生きた言葉として現れた。 宇宙法則は、サーンキヤ哲学として、物質的な基礎、いわゆる実在的存在が、どのように粗雑な物質へと下降して形成されていくか、を示すことで、自らを現す。 宇宙法則は、古代ヘブライの律法論のなかに、すなわちモーゼの教え(ユダヤ教)全てのなかに姿を見せる。パウロが、この古代ヘブライの律法を指す場合、パウロは、太古のサーンキヤ哲学をも指している。 パウロが復活した者への信仰を示す場合、彼は、ヨーガとして、太陽が曙光を放ち輝かせる者を示す。 上記のような独特な形で、ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとしての本質的要素が現れ、成立する。ヴェーダとして現れてくる本質は、現代では新しい形で、具体的な姿をとり、生きた言葉として現れている。 ヴェーダという、この宇宙言語により全てが創造され、ヴェーダなしには、何ものも生成せず、創造されず、ヴェーダは、時の流れとともに肉となり、生きた言葉として存在する。 サーンキヤは歴史的記述として、エロヒムの世界から、いかに現象界や粗雑な物質世界が生成したか、ということを法則的に記述するものとして現れる。 ヨーガは、パウロにおいて、「私ではなく、私のなかのキリスト」(3)という言葉に変化する。すなわち、キリストの力が、魂に浸透し、その力を受容するとき、人間は神性の高みへと上昇する。3)「私ではなく、私のなかのキリスト」:ガラテア人への手紙II-20. 以上のように、宇宙の歴史のなかに、統一的な計画が存在し、太古の東洋が準備を整え、パウロ的なキリスト教のなかで、注目すべき具体的な形をとって現れてくる叡智は、古くは、抽象的な形をとって存在していた、ということがわかる。 更に見ていくが、バガヴァッド・ギーターという偉大な詩篇と、パウロ書簡との関係を把握することにより、極めて深遠な秘密、すなわち、霊的な支配による、人類の全体教育と名づけられる秘密が明かされるだろう。 太古の叡智の新しい出現を、近代において感じ取る必要があるが故に、近代は、単なる古代ギリシア精神を超えて、古代ギリシア精神が成立する前の、ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとして現れてくる叡智に対する理解を育てる必要があった。 ラファエロが芸術に、トマス・アクィナスが哲学に、というように、中世の偉人が古代ギリシア精神に立ち戻らなければならなかったように、現代においても、現代が達成しようとする精神と、古代ギリシア精神よりも更に遡り、古代の東洋の深みにまで入り込んでいく叡智との間に、意識的な宥和が生まれなければならない。 様々な精神的潮流を素晴らしい調和的な統一のなかに見るとき、古代東洋の叡智の深みを残らず現代人の魂に近づけることができる。素晴らしい統一のなかに、古代の叡智は姿を現す。フンボルトが言うように、最も偉大な哲学的詩篇であるバガヴァッド・ギーターにおいて、調和的な統一を表す古代叡智が出現する。 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88
2011年04月08日
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「四大霊について(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 四大元素霊について(後半) 合理的な考え方をする人に、シルフとか、レムール(サラマンダー)とか呼ばれる四大元素存在などが存在するはずがない、と言われたら、次のような、一見奇妙で、逆説的な返事しかできないかもしれない。 レムレース http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9 「あなたに、見えないのは、四大元素存在を認めることのできる認識器官が発達していないからで、例えば、蜜蜂なら、すなわち蜜蜂の集合魂なら、シルフやレムールの存在をよく知っている。 四大元素存在たちは、はっきりとわかる特に動物界と植物界とが触れ合う場所に、全てではないが、ある一定の触れ合いが生じる関係下に現れる。 牛が草を食むときでも、動物界と植物界の触れ合いが生じるが、いわば進化における正規のプロセスの中で生じる、一般的な触れ合いである。 蜜蜂と花との触れ合いは、宇宙の進化という意味では、人間が想像するのとは全く異なる場面である。 なぜなら蜜蜂と花は、生体組織という面においては、遙かに隔たっているが、お互いの生命環の最初と最後に出会うことで(勿論、秘教学徒にとってだが)実に素晴らしい力を作り出しているからである。」 上記の触れ合いは非常に微妙な観察を語ることにもなるが、蜜蜂他の昆虫が花の蜜を吸うときに常に現れる独特なオーラの覆いを見れば、大きな感動を誘う。蜜蜂の花の蜜を吸う独特な体験は、蜜蜂の咀嚼器官の中だけの触れ合いではなく、蜜蜂と花の間で交される味覚の交流は、小さなエーテルのオ-ラとなって、霊界にも拡がる。 蜜蜂が花の蜜を吸うたびに、上記のような小さなエーテルのオーラが超感覚的に現われ、その度にオーラを求めて、四大元素存在たちがやってくる。オーラに、いわば養分を見つけるからである。 (恐らく、霊視すると以下のようにみえるのだろう。以下はフラクタル画像である。 華厳経における花の意味 http://nichigetu.b-tama.com/photo02.html) 以前、別の機会に述べたことだが、「人智学徒の語る四大元素存在とやらは、どこからくるのか?」という問いに答えるのは簡単である。 機会さえ与えれば、いつでも、どこからでも、現れるからである。例えば、或る人間が、悪い感情を周囲に流すとき、その悪い感情は、その人の周囲に生き続け、生物が餌を求めるのと同じように、その悪い感情を求めて待機している存在たちを引き寄せる。 清潔な部屋に蝿はいないが、色々食べ残しがあると、直ぐに蝿が現れる。超感覚的存在についても同様なことが言える。養分を差し出すだけでいい。 例えば、花の蜜を吸う蜜蜂は小さなエーテルのオーラを拡げる。すると、それを養分とするような四大元素存在たちがやってくる。 どこかの木々に蜜蜂の群れが集まり、とび立っていくようなとき、蜜蜂たちの体内のいわば味覚体験が一杯漂っているような場所では特に四大元素存在が集まってくる。 蜜蜂の群れはエーテルのオーラに包み込まれているが、それだけでなく、シルフやレムールたちも紛れ込んでいる。互いに異質な領界が触れ合っているような場所に、以上の四大元素存在たちが現れて、実際に活動している。 四大元素存在たちは、上記に述べたような精妙なエーテルのオーラが生じるとき、ただその場所にいるだけでなく、いわば満腹感をもって存在しているだけでなく、空腹感にもつき動かされ、蜜蜂たちを、しかるべき場所へと導く。そのようにして、蜜蜂たちの指導者となっている。 人間の認識が、上記の四大元素存在たちのことを知る必要に迫られるのは、それ程遠いことではないだろう。 (四大元素存在とは、かつてアリストテレスが唱えた四大元素のことで、通称は、精霊や妖精と呼ばれている。精霊や妖精は、霊体がなく、善悪の道徳観がないので、規律や統制が働かない。)
2011年04月07日
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現代にヨーガとして語りかけてくる精神的な潮流は更に異なっている。ヨーガは魂的な要素に直接向かいあう。この魂的な要素に直接向かい、直接、霊的な生活において、人間の魂を把握する手段や方法を探求する。 上記のように、ヨーガは、宇宙のなかに位置する点から、魂的な要素を、より一層、高次の段階へと上昇させる手段や方法の探求である。前回述べたように、サーンキヤ哲学は、魂の外的な覆いの考察であり、ヨーガは、高次の段階へと魂の内的な体験を導いていく方法である。 従って、ヨーガへの帰依は、次第に高次の魂の力を覚醒させることにあり、日常生活にはみられない魂の活動であり、高次の段階に向かうに従い、魂が明らかにする能力に習熟していく。 従って、ヨーガは霊界への参入法や、外的な形態から魂を解放する方法や、外界とは独立した内部の魂的生活への参入方法である。サーンキヤ哲学の対極がヨーガである。 ヴェーダ哲学にまだインスピレーション(霊聴力)を与えていた太古の時代とは異なり、恩寵のように上から到来するインスピレーション(霊聴力)がなくなった時代に、ヨーガは大きな意味を獲得した。 ヨーガは、人類の後期に属する魂たち、つまり、もはや魂自らの顕現能力がなくなり、低次の段階から、高次の霊的な存在を目指し上昇していく必要のある魂に用いられた。 以上のように、太古の古代インド時代において、3つの明確なニュアンスの違いを持つ精神的潮流が現れてくる。ヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、そしてヨーガの精神の流れである。 今日現代人は、上記の3つの精神的(霊的)な潮流を、再び相互に結びつけるよう呼びかけられている。これら3つの潮流を、魂と宇宙の深い奥底から、正しい形で現代のために取り出してくることが必要である。 上記の3つの潮流全てを、人智学のなかにも見つけることができる。著書『神秘学概論』のなかの第1章の、人間の構成や睡眠と覚醒、生と死に関する記述として試行した内容を熟読すれば、今日の意味でのサーンキヤ哲学と呼べる内容が獲得できる。 更に、土星から現代までの宇宙の進化について述べた内容を熟読すれば、現代風に表現されたヴェーダ哲学を獲得できる。 そして、人間の進化が取り上げられている最後の章を熟読すれば、現代のためのヨーガが表現されている事実に気づくだろう。 以上のようにヴェーダ哲学、サーンキヤ哲学、ヨーガとして、古代インド精神から輝きを発してくる、3つの明確なニュアンスの違いを持った精神的潮流を、現代において生命的な形に結びつけなければならない。 従って、詩的に深遠な形で、3つの方向の合体のような精神的潮流を含むバガヴァッド・ギーターという驚くべき詩篇もまた、究めて深遠な形で、現代の琴線に触れるはずである。バガヴァッド・ギーターの深い内容に釣り合うような自身の精神的な志向を求める必要がある。 今日の精神的潮流は、全体だけではなく、個別的にも古代の精神的潮流と相通じる部分がある。 著書『神秘学概論』においては、事実を事象そのものから引き出してくる試みに気づいた読者もいるだろう。歴史的な資料を基に記述している箇所は、その著書のどこにもない。 著書『神秘学概論』で語られている事実を本当に理解できれば、土星紀、太陽紀、月紀に関する、いずれの主張に関しても、歴史的な資料等の情報から語られたなどと考えることはできない。 著書『神秘学概論』に記述された事実は、真実から引き出されたものである。しかし、奇妙にも、この著書により現代に刻印(記述)された事実が、決定的な部分において、古代から現代に響いてくる事象と共鳴し合う。 上述した事実についてはささやかな証拠がある。ヴェーダのなかのある特定部において、宇宙の進化について読めば、例えば、次のような言葉がある。 「太初、闇は闇に覆われていた(1)。全ては分離し難い1つの流れであった。力強い排出が生まれ、全てが熱に浸透されていた。」1)闇は闇に覆われていた:リグ・ヴェーダX-129. 有名な創世の歌。 さて、古代の土星の構造(土星紀)に関して、事象そのものから引き出された事実とは何か? すなわち、熱の実質としての太古の土星の実質に関して、上記のように語られている事実を振り返ってみれば、人智学で述べている、いわば、最新の事実と、ヴェーダの土星に関する記述で語られている事実が調和し、響き合っているのが感じとれる。 また次の箇所も興味深い。 「それから、最初に、意志が生じた。意志は、思考の最初の種子であった。存在と非存在との関連である。この関連を、意志は、思考のなかに見つけた。」 更にヴェーダを考察すると、意志の霊たち(座天使)に関して、人智学では斬新的な形で記述している事実に気づく。現代において人智学が語る全てに関して、太古の事実との共鳴を求めているのではなく、自然と調和的な共鳴が生じている。 というのも、人智学では、真理の探求がなされ、しかも真理は、人智学独自の基盤に立って探究されているからである。 さて、バガヴァッド・ギーターにおいて、いま特徴づけを行った3つの精神的潮流の、いわば詩的な称揚が姿を現す。世界史の重要な瞬間において(古代においても重要だが)、もたらされるのは、クリシュナ自らがアルジュナに伝える偉大な教えである。 この瞬間は重要である。それは古い血の結束が緩む瞬間だからである。バガヴァッド・ギーターに関して、この連続講義で述べる全体において、常に強調されていた事実を思い出すなら、血の結束や民族の連帯、もしくは種族の連帯が、太古の時代においては特別な意味を持っていた事実や、そして次第に、その意味が弱まっていった事実に気づくだろう。 著書『血はまったく特製のジュースだ』(2)で語られている内容を思い出して欲しい。2)『血はまったく特製のジュースだ』:1906年10月25日の講演に基づく単行本(1982ドルナハ)。「現代における超感覚的存在の認識と今日の生活にとっての意味」(GA55)に所収。 この血の結束が緩むことにより、バガヴァッド・ギーターのなかに、一挿話として含まれているマハーバーラタのなかに描写されるような大きな闘いが起こる。2人の兄弟の後裔、つまり、血縁者たちが、精神の方向性に関して、互いに別れていき、以前、血が与えていた統一性が解消する様を、この詩のなかに見ることができる。 この統一性の境界において、闘いが生じる。この際、血の結束は、霊視的な認識に対しても意味を失い、闘いを境として、後の霊的な変性が生じる。古い血の結束に意味を認めない人たちにとって、クリシュナは偉大な教師として登場する。 クリシュナは、古い血の結束から抜け出した新しい時代の教師だった。クリシュナが教師となる様子を、次の講義で特徴づけていく。けれども、以上に特徴づけしたバガヴァッド・ギーターが示す3つの精神的潮流を、クリシュナが、教えのなかにどのように取り入れていたかを、述べる。 生命的な統一のなかで、クリシュナは精神的な潮流を弟子に伝える。弟子は、どのような立場にあったのか? 弟子は、父を見上げる一方で、父の兄弟を他方に見上げる。従兄弟同士は、もはや親密ではなく、互いに分離していた。別の精神的潮流が、一方の家系と、他方の家系をとらえていた。このとき、弟子アルジュナのなかで、魂が大きく揺れた。 「血の結束を通じて、保たれていた統一がなくなると、どうなるのか?」 精神(霊)的生活がもはや以前のように、古い血の結束の影響の下に流れていくことができないなら、どうやって精神(霊)的生活のなかに魂を据えることができるのだろう? 全てを破壊してしまうしかない、アルジュナは、そう思った。事態は変わっていかなければならないという事実、事態は変わらずにはいられないという事実が、偉大なクリシュナの教理の内容である。 (『血はまったく特製のジュースだ』で語られる内容とは、太古の霊能力は、同族婚により保持されてきたが、やがて、その霊能力が暗くなるにつれ、この暗い意識を、人智学では月の意識と呼ぶが、新しい意識が必要となったという。 新しい意識は、現代の昼の覚醒時の意識の萌芽で、この意識は、異族婚により生じたという。同族婚は、魂の内をみる霊的な意識を生じさせ、異族婚は、魂の外をみる現代の意識を生み出してきたという内容らしい。 皇室が代々近親婚だったのは、霊能力の保持にあったものと思われる。天皇は代々祭祀家系で、神との対話には霊能力が必須で、神と対話を行ってきたからである。) (以下は、あるホームページからの抜粋である。)++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 人種・民族の混血 「歴史を遡っていくと、どの民族の場合にも正確に指摘できる決定的な意識の転換期が存在する。その転換期とは、古い伝統が生命を失い、家系の血を通して生きてきた根源的叡智が消え、民族が新しい文化的段階に入っていった時点である。どの民族も、この転換期を意識し、古い伝説の中に記している。 転換期前の部族たちは閉鎖的に生きていた。同一の血族同士の間で結婚することが当然で、この習慣はどの人種、民族の中にも見られた。人類にとって決定的な転換とは、この原則が崩れ、別の血が別の血と混じり、同族婚が異族婚に移行した時点である。 同族婚は家系の血を保持し、代々、部族、民族に流れてきた同じ血を個々の成員の中に伝える。異族婚による新しい血の混入は、これまでの種族の生活的原則を崩壊させる。どの民族の中にも、遅かれ早かれ、現れてくる異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした。 太古には一種の薄明るい見霊能力が存在し、そこから神話、伝説が生じ、そして、この見霊的意識は、丁度混血が現在の明るい意識を生んだように、同族の血を純粋に保つことによりはじめて可能であった。この事実は神秘学にとって計り難いくらい重要である。 論理的思考が異族婚とともに発展したことは、今のところ奇異な主張とみなされるが、やがて科学的にも実証されるようになるだろう。その端緒は既に作られている。異族婚によって生じた混血は、それまでの見霊能力を失わせた代わりに、人類の意識を更に一段と高い発展段階へ引き上げた。 (外国人同士の結婚では、聡明な子が生まれるという噂が現にある。特に、人種の坩堝といわれる米国社会が、20世紀の新しい文明の担い手であったことでも理解できる。また逆に日本人に、霊媒師が多いのは、同族婚が多く、特徴的なのが皇室である。日本文化が閉鎖的で特殊なのは、同族婚にあるのかもしれない。同族といっても、昔に比べれば、異族婚に近いが。) 今日の覚醒時の日常意識は、転換期前の古い見霊意識から発展してきた。しかし今日、現代人は、この発展段階を再び引き上げ、祖先返りするのではなく、かつての見霊能力を新しい形式の中に復活させようと努めるべきである。(P86-P87) 」
2011年04月06日
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「四大霊について(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 四大元素霊について(前半) 秘教学的な立場から考察すると、現代人の眼からは隠されているが、宇宙の進化の中で一定の役割を演じている存在がいる。霊眼で眺めても、その存在の中には、人間における「霊」のようなものを見つけることができない。その存在は、本質的に肉体と魂からなる存在である。 これまでの考察から、上記のような存在の一大集合体を、人智学徒は知っている。すなわち動物である。動物も肉体と魂の存在である。しかし、上方へ向けて、集合魂もしくは集合自我と関わりをもち、その集合自我は既に霊的性質をもった存在である。 個々の動物は肉体と魂の存在だが、高次世界にも、動物という存在が継続し、霊性と結びついている。 その様子は、今までにも、よく挙げた例だが、例えば、ここに、壁があるとする。壁に10箇の穴をあけ、10本の指を、その中から出す。 壁の外の人には、壁のうちの人が見えなくても、壁からでる10本の指を見れば、その指の振る舞いが、壁の背後の人により、生じていることがわかる。個々の動物と集合自我との関係も、以上の例と同じである。 集合自我は霊界に存在し、個々の動物は、次第に、この霊界の集合自我の中へ移っていく。同じ形態をもつ様々な動物は、同じ集合自我と関係する。 従って、物質界では個々の動物となっている部分が、すなわち肉体と魂の存在で、この存在がアストラル界へと継続している霊的な存在は、度外視されている。 しかし、物質界での動物と同じ肉体と魂だけの存在ながら、物質界では不可視の存在もいる。 その存在たちを、神智学では「四大元素霊(エレメンタルガイスト)」と呼んでいるが、この名称ほど不適当なものはない。 本当は、霊をもたぬ魂だけの存在なので、むしろ「四大元素存在(エレメンタルヴェーゼン)」と呼んだ方がいい。 では、なぜ、その肉体が見えないのかは、後で述べる。とりあえずは、人間の下位に立つ肉体と魂の存在である、とだけ述べておきたい。 勿論、上記の四大元素存在は、現代のような啓蒙の時代には否定されている。現在のような進化段階に立つ人間には知覚できない存在だからである。上記の存在を知覚するには、見霊意識を一定の水準にまで進めなければならない。 知覚できないからといって、上記の存在の働きがないわけではない。むしろ、上記の存在の働きは非常によく知覚できる。存在自体が知覚できないだけである。 さて、この四大元素存在は、霊的な空間の中では様々な姿をとっている。「自然霊」とも呼ばれているが、他にも実に様々な名前がつけられている。名前はどうでもいい。 先ずは、ありのままに、見霊者の眼には、どう映るかを述べる。 四大元素存在は、実に様々な場所に、異なる姿で存在している。例えば、植物がなにも生えず、生物も棲まないような地下、例えば、資源が埋蔵されている鉱山の奥深くへ行くと、そのような存在たちに遭遇する。 そのような場所に行き、金属や岩石を持ち上げてみると、まるで蜘蛛の子を散らすように四散する四大元素存在の奇妙な様子が眼に入る。 (宮崎アニメに出てくるようなイガイガの虫のような存在か?) もの凄い数でかたまりうずくまっていたのが、地面を取り除かれると、一気にはじけ散る。面白いことに、はじけ散るだけでなく、次第に体が大きくなっていく。とはいえ常に人間以下の大きさである。 コボルト、グノームなど、色々な名前がつけられているが、この存在の特徴は 姿が見えないだけでなく、道徳的責任をとらせることもできない。この存在たちの行為は、自動的(オートマティック)なのである。 コボルト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88 とはいえ、例えば、人間の知性と似ていなくはないが、それどころか人間よりも「機智」に富んでいるので、四大元素存在と遭遇する人は、色々な悪ふざけをやりたがる四大元素存在の機智の特徴を知ることができる。 鉱夫は一般的に良い自然感覚をもっているが、炭鉱夫というよりも金属採掘の鉱夫には、上記のような経験をもつことがよくある。
2011年04月05日
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はっきりと理解すべきことは、人智学者には、ヴェーダ哲学や、サーンキヤ哲学が語る内容は、これまで述べてきた一元性と多元性の形で現れてくる、という事実である。なぜなら、太古の霊視がまだ少なくとも、ある程度のレベルまで存在していた、太古の時代に、上記の哲学が完成をみたからである。 ヴェーダとサーンキヤ哲学の内容は異なった形で成立した。 ヴェーダは、根源的な、まだ生まれつきの素質のように原人類のなかに存在するインスピレーション(霊聴力)に基づき、当時の人間が、当時の人間の本質全体から準備を行う以外の、作為で獲得しようとしたりせずに、神的な自我からくるインスピレーション(霊聴力)を平静に受容するように促した。 サーンキヤ哲学の成立においては、事情が異なる。当時は既に、いわば、今日の現代人と似たような認識状態で、ただし今日では、生まれつきの霊視力が獲得できていない違いがある。 当時のサーンキヤ哲学は霊視力から獲得できた。サーンキヤ哲学は、霊視的な科学として、インスピレーション(霊聴力)の恩寵により上から与えられたものだった。今日の科学を探究するように、当時も探究されていたが、霊視力がまだ身近な当時の人々によって探究された科学だった。 従ってサーンキヤ哲学も、本来、魂的な要素に関しては、いわば手つかずのままに残った。サーンキヤ哲学は以下のように語る。 「サーンキヤ哲学は、魂が自らをはっきりと超感覚的外的なプラクリティとして顕現するなかに研究できるが、それは魂が、外的なプラクリティを身に纏うような形で現れてくる様々な霊的要素(状態)にすぎない。」 従って、宇宙において現れてくる様々なプラクリティ状態(形態)から作り上げられた体系を、現代人が科学のなかに、自然現象の総体を見つけ出すのと同じように、見つけ出す。ただ、サーンキヤ哲学においては、自然現象のなかの超感覚的な事実観照に到達するまで観察される。 サーンキヤ哲学は、霊視力により獲得されたが、魂の様々な外的なプラクリティ状態(形態)に関する科学にとどまり、魂的な要素にまでは参入しない古代の科学である。魂的な要素は、ある意味研究されないままだった。 ヴェーダに没頭した人は、徹底して自らの宗教的な生活が叡智に溢れる生活と1つであると感じる。サーンキヤ哲学はいわば古代の科学であり、魂が自らを刻印する様々なプラクリティ状態(形態)に関する認識である。この認識に加えて、サーンキヤ哲学の信奉者においては、魂の宗教的な帰依も成立する。 この魂的な要素自体よりも、それが、いかにプラクリティ状態(形態)のなかに組み込まれていくか、という超感覚的な事実が、サーンキヤ哲学において追求される。 サーンキヤ哲学では、魂が自身の独立性を守ることが多いか、それとも、物質のなかに沈み込むことが多いか、ということが評価される。確かに、物質のなかに沈み込むが、物質的な形態のなかで自らを魂的な要素として保持するような魂的な要素が扱われる。 以上のように、外的なプラクリティ状態(形態)のなかに、魂は沈みこんでいるが、自らを魂的な要素として告知し開示する場合の魂的な状態を、サットヴァ-要素[Sattva-Element]が生きていると評価する。 (肉体よりも魂的な志向性が強い、つまり、この世の執着よりも、あの世の属性が強い、いわば朱に交わっても朱に染まらず、天国の教えを説く魂を、ボーディ-サットヴァ「菩薩」と呼ぶ。) 外的なプラクリティ状態(形態)のなかに沈み込んでいるが、いわばプラクリティにより覆いつくされ、逆らわない魂的な要素を、タマス-要素[Tamas-Element]が生きていると評価する。 そして、魂的な要素が、外的なプラクリティ状態(形態)といわば平衡を保つ場合は、ラジャス-要素[Rajas-Element]が生きていると評価する。 サットヴァ、タマス、ラジャスという3つのグナ(構成原理[Guna]、徳性ともいう)は、サーンキヤ哲学における本質的な特徴の1つである。
2011年04月01日
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