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物質の本性を一般的に把握するには、現代人には比較的理解が難しい概念を構築する必要がある。 物質について記述するなら、第1に、その顕著な性質を問わなければならない。公正に探求するなら、物質とは、空間内の広がりである事実を発見する。 空間の占有が、感情や思考や意志に帰属するなどとは誰も考えないだろう。ある思考、例えば、偉大な人物の思考が、一般人の思考よりも、5平方ヤード(180センチメートル)ほど広い、などと発言したら、馬鹿者とみなされる。 つまり、広さの認識、いわゆる空間内の広がりを、人間の思考に適用することなど全くできない、ということがすぐにわかる。 物質にはもう1つ別の性質、すなわち質量がある。これについては、この連続講義の中で見ていくが、広さほど単純ではない。というのも、物質現象世界を観察するだけで直ちに、質量についてわかるわけでなく、空間的な広がりが認められるだけだからである。 さて、この空間内の広がりが通常3つの次元、つまり、高さ、幅、深さもしくは長さにより考察できることが知られている。物体が空間中に3次元的に広がっていることは当たり前で、明白な事実である。 従って、物質の最も明らかな性質とは3次元的な広がりである、という事実を認めなければならない。さて、空間的な性質を、思考に適用することはできない。従って、空間を満たす物質以外の何かが、宇宙に存在しなければならない、という事実が明らかになる。 何故なら、物質的な空間の中でさえも、空間的な広がりを伴わないプロセスや状態があるという事実を、人智学徒は理解しているからである。そして、それが、思考を生む「魂の経験」である。 さて、もし、空間中の物質の状態に接した場合と同様に、できるだけ公正に、「魂の経験」に接するなら、その存在なしでは、経験を全くもたなかったかのような、また別の性質を、魂のなかにすぐに発見できる。 そのような性質は必然的に認められ、つまり、「魂の経験」は時間の中で経過する、という性質である。 魂のなかの、感情、もしくは意志が、5ヤード(180センチメートル)の長さ、あるいは5平方ヤードの広さがある、とはいわないが、人間の思考、あるいは感情という、要するに「魂の経験」から生じる全ては時間の中で経過する、という事実を認めないわけにはいかない。 経験するためには、ある長さの時間を必要とするばかりでなく、ある経験は早く、別の経験は遅く訪れる。 要するに、「魂の経験」は、時間的な制約下にある。 さて、実際問題として、時間的な性質や空間的な性質は、人間の周囲を取り巻く事象や、人間自身の内部に至っても、あらゆる領域で交錯している。外界では、物体は、空間のなかに散りばめられ、時間のなかで相前後して起こり、生起するには、一定の時間を要する。 以上のような全てに関する超感覚的な真実へと到達する前に、次のような問いが必要となる。 では、空間は時間とどのような関係にあるのか? 以上の問いによって、この人智学の連続講義において、密かに、大いなる哲学の謎(比喩的にいうなら、この謎にぶつかり、無数の頭が砕け散ったが)に遭遇することになる。すなわち、いま時間と空間の関係へと到達した。 特別な哲学的な訓練を受けずに、哲学の謎といわれる、時間と空間の関係に遭遇したわけだが、そこに至る思考過程を十分に追跡することは、容易なことではない。しかし、少しでも追跡する努力があるなら、そのような思考がいかに実り多いものか、またもし、瞑想の中で行うなら、いかに、真理の探求に対して、自身を先に進めてくれるかがわかる。 出発点として、自身の魂の中で経験する時間を、例にとればよい。例えば、自分の魂の中での、時間の経験を自問してみる。少し明確に言えば、時計で知る得る時間について考察するわけではない。時計により、人間は、内的な経験を、外的な経過の推移と比較しているに過ぎない。 今、考察すべき「時間」とは、時計を見る等の他の外的な出来事全てを、心の中からすっかり追い出した場合である。魂の中で、純粋に時間的な関連がどのように現れるか、だけを考察する。熟考すれば、「時間」とは、次のようなものとして考えられる。 何か外的な知覚により、ある思いをかき立てられたときに、「時間」を把握する。 何かを見て、何らかの思い、もしくはアイデアが、魂の中に生じる。その思い、あるいはアイデアと自分の間の関係を詳細に調べるなら、次のような結論に達する。 「私が思考している間は、実際、私自身は思考そのものとなる。」 再度、時間を最後まで熟考してみれば、次のような結論に到達する。 「私が思考に没頭している間、私のなかの最奥の私は思考となる。」 もし、思考になると同時に、その最奥の私が「私である」という認識を持つなら、偏見を生む。 「私である」という認識は、私を、思考に明け渡している間は存在しない。思考に没頭する間、私という認識は、思考となる。特別の訓練を受けなければ、思考に没頭する間、思考になると同時に、何か別のものになることはできない。その時、人間は、直接与えられる思考や感情の中にいる。
2011年09月30日
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さて、人間の中で生じた4つのズレ、もしくは不整合のはじまりを調べてみる。 はじめに生じた乱れは、自我のアストラル体に対する卓越性と呼べる利己主義にあったことは確かである。 人間に対するルシファーの影響全ては、この乱れ、つまりルシファーの力が自我に与えられ、自我が、不純にも、思考、感情、意志を混同すると同時に、アストラル体に対するルシファー的な優越性を保持したことに始まった。 その結果、アストラル体自らが、今度は、エーテル体に対する優越性を獲得できるようになった。以上のように人間の中の全体のバランスが順々に崩れていった。 アストラル体にルシファーの影響による一撃が自我から加えられ、その一撃を、アストラル体が、エーテル体に伝えることで、エーテル体に対するアストラル体の優越性を獲得した。しかし、次の肉体に対しては、順々に進まず、エーテル体は、アストラル体の一撃を次の肉体に伝えない。 エーテル体への伝播は、まるで、ゴム球を打つのと同じである。ゴム球の表面を、ある程度の深さまで、凹ませることはできるが、押し戻される。従って、アストラル体のエーテル体に対する一撃による卓越性が生じるが、その一撃は、次の肉体に伝わらず、逆転する。 アストラル体に対して、今度はエーテル体が反発し、エーテル体が、アストラル体に対して優越性を主張するからである。この逆転のズレから生じる優越性については、前に述べた。次には、エーテル体に対する肉体の卓越性が続く。 すなわち、エーテル体に対する(アストラル体の一撃とは)反対方向の一撃が肉体から生じる。 なぜ、肉体が、反対方向へと打ち返せるのか? 肉体の一撃が何故生じるか、といえば、ルシファーが、自我からアストラル体を介して、エーテル体に一撃を打ち込むと同時に、肉体から、エーテル体へと、アーリマンが、反対側から打ち返すからである。 つまり、アーリマンによる、エーテル体のアストラル体に対する卓越性と、肉体のエーテル体に対する卓越性があり、反対側には、ルシファーによる、アストラル体のエーテル体に対する卓越性と、自我のアストラル体に対する卓越性あり、真ん中で、ルシファーとアーリマンが衝突する。 人間のなかの真ん中で、ルシファーとアーリマンが互いに対峙する。 従って、人間の中には、ルシファーとアーリマンが、真の本性をもって遭遇する中心点がある。 そして、ある時はルシファーの方向に揺れながら、アストラル体をエーテル体の中に限度を超えて押し込み、またある時は、アーリマンの力の衝動に従い、エーテル体をアストラル体の中へと過剰に深く打ち込む。 以上のような力学的な効果を、想定すべきである。 これらの悪魔の力の働きが、人間本性の至る所で、人間に実際に関係してくる、という事実に次の段階に気づくべきである。 エーテル体に対するアストラル体の卓越性、つまり、食物摂取と消化という物質的な過程という例外を除き、人間が、物質的な作用に遭遇することはない。この卓越性は、人智学徒に、物質、もしくは物質的実質と呼べる本性を、秘教的な観点から探求する必要性を感じさせる。次回の考察は、この問題から始める。
2011年09月29日
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キリストは、「人はパンのみに生きるにあらず」と言ったが、多くの人間は、その言葉を戯言のように捉えている。 キリストが嘘をつくはずがなく、考え違いをしているのは、人間であり、人間の知性である。 人間の知性ほど傲慢で、嘘つきのものはない。その証拠に、世界がどんどん悪くなっているし、天変地異が益々酷くなってきている。 この現実こそ、人間の知性の危うさを証明している。現在も飢餓で死んでいく者がいる。金持ちは、救える金があるのに、同胞を見捨てて自分だけの贅沢な暮らしを続ける。 まさに人間の知性の不完全さがなせる業である! 勿論、過去にも天変地異がなかったわけではないが、人類滅亡を予期させるような現在のような破壊的なものではない。戦争1つとってみても、現代のような核兵器を使うような愚かしい大量の殺人はなかった。 人類は、どうしてこのような愚挙ができるようになったのか? 人間はなぜ冷血動物になったのか? さて、以下の面白い記事をみつけたので紹介したい。 http://news.livedoor.com/article/detail/5886827/ 上の記事によると、人類は2つの理由で100年以内に滅亡すると主張する科学者がいるらしい。 その2つとは、人口増加と、消費依存症だという。 勿論、この科学者の主張を鵜呑みにすることはできないが、ある一面を言い当ててもいる。 それは、消費依存症の人間が増加すると、人口増加という統計学の基に、人間を選別しはじめ、間引きを考えるような知性を、人類がもつようになる、という点である。 消費依存症を経済の名の下に正当化し、消費依存症の生活を止めずに、知性が独り歩きしはじめ、その知性の奴隷と化すのである。 その現象は既に、実体経済を超えた貨幣の発行過多や多大な財政赤字に対する国民への税金徴収に現れている。 本来、人類は皆平等であるが、現実問題としては平等とはいえない生活を送っている。 他の生活の犠牲の基に、自分の欲望のままの生活、それも贅沢な生活をつくろうとする。 そこに安住の地を見いだすと、自分だけは特別な存在に思えるような知性をもつようになるという点にある。 そこで、キリストの発言を思い出してほしい! 人はパンのみに生きるにあらず。神々の言葉により生きる。 勿論、贅沢な暮らし自体を否定するわけではないが、同じ人類の犠牲の上にそれを築くのは行き過ぎといわざるを得ない。 では、一体、神々の言葉とは何だろうか? およそ、神々の言葉とは、人間の知性とは正反対の位置にあるものであろう。 なぜなら、人間の知性は同胞を選別するが、神々の言葉は、人類全体に対し共通に与えられ、選別しないからである。 なぜこの世に生まれてきたかを改めて考えてみる必要がある。 共通の土台がなければ、人間など一瞬たりとも生きてはいけない。人間を生かす土台、例えば、地球の環境を考えてみればよい。 地球の環境に比べれば、人間の知性ほど虚しく浅はかなものはない。 水や空気や太陽光が最適でなければ、人間は生きてはいけず、他の生物の犠牲の上の、適度な食糧がなければ、一瞬たりとも生きてはいけない。 そのような環境や、宇宙の秩序を生み出しているものこそ、神々の言葉である。 その言葉は、人間の心の奥底に眠っている。人類共通の土台である。 古代人は、星座をみて、人間の心の奥底に眠っている神々の言葉を聞いた。そして、神話として伝承した。そこから道徳が生まれた。 つまり、神々の言葉とは、人類共通の善意なのである。 善意とは、神々の愛であるから、人間は神々の愛なくしては一時も生きられない。 神々の愛とは、人間の知性ではなく、その反対にあるものである。 人間の知性が悪なのは、不完全であり、他を選別する利己主義にあるからである。自己を棚に上げて、他を評価する傲慢さが隠れている。 金持ちは、欲望のままに、贅沢をしながら生きようとする知性をもっているが、それは幻想にすぎない。 天変地異で全てを失わなくとも、死後全てを失い、ただ欲望だけが残されるからである。 死後までも贅沢な暮らしを続けるわけにはいかないからである。 死後、自己という存在は無くなってしまう。他者の心のなかにだけ残るものが、自己となる。生前に、自分が自己として行った行為のみが世界に残されるからである。 主体が客体にかわるのが死の真相である。180度世界が変わり裏が表になる。 それゆえに、再び、キリストの発言、つまり、「天は自ら助ける者を助ける」を思い出す必要がある。 この自らは、自己ではなく、自立を意味する。他に助けを乞うのではなく、他を救うこと、自他のわけ隔てなく、救うこと、欲望を克服すること、依存症を克服することにある。 自分を救うには、他者を助けることである。 そのために、お釈迦様は、八正道という質素倹約の自立した生き方を説いたわけである。 利己主義という欲望のために、善意を失ったらおしまいである。道徳という土台のなかに人間は生きなければいけない。
2011年09月28日
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人間は、悪魔の誘惑に屈し、人間の自我はアストラル体の中に飛び込んだが、ルシファーの力を接種したために溺れることはなかった。人間が受け取ったルシファーの力こそ、自我のアストラル体に対する卓越性だった。それは過剰な利己主義であり、人間の中のルシファー的な要素である。 しかし、そのルシファーの力は実際どのような性質のもので、人生のなかでは、どのように現れるのか? さしあたり、その力は、第1に、思考に、第2に、感情に、そして第3に、意志に現れ、それらを巻き込み、混同させる。第1の思考では、もしルシファーがいなければ、人間は、自分の内に知性をもち、知的な思考を所有する、というような愚かな利己主義に遭遇しなかった。 もし、ルシファーの影響を蒙らなかったら、思考は、外にあり、思考とは、眺めるものである、という真実を理解していただろう。 (客観視するということだろう。) 人間は、常に熟考し、思考が与えられるのを、そして、その思考の目的と意義が明らかにされるのを辛抱強く待っていたはずである。このようなことを、例えば著書「自由の哲学」の中では、前面にうちだした。本来なら、人間は、あらゆる思考を自分に結びつけて、自分のなかで、評価や意見を形成すべきである、などという考えを決して持つことはなかった。 神々の啓示とは無関係に、人間自身のなかで、評価を形成するなどは、人間のなかのルシファー的な性質に基づいている。そして、人間の知性全体を、自分の本性と見なす限り、間違いとなる。 「自分は知性を持つべきだ」と、人間に思いこませたのは、ルシファーの誘惑以外にはない。従って、この種のズレを通じて生じた知性を、現実(事実)を理解するための基準になどできない、ということが理解できる。 カールスルーエで行った連続講義の中で、知性に立脚する人に対して、次のような発言は全く理に適っていることを述べた。 「もし私が、ゴルゴダの秘蹟の構成部分として、キリストの復活を理解すべきであるのなら、私は自分の知性を放棄するしかない。何故なら、私の知性が告げる全ては、復活とは相容れないからである。」 以上のように19世紀の人間は発言する。19世紀の自由主義的な学校の神学者までもが発言する。しかし、ゴルゴダの秘蹟のような行為(この行為は、ルシファーの影響を蒙らず、全くルシファーの領域外にあり、ルシファーを征服する目的のために物質界に与えられたが)を、ルシファーに派生する知性などで把握できるわけがない。 ゴルゴダの秘蹟のような事柄は、人間の知性では決して把握できない、ということ以上に明らかなことはない。何故なら、人間の知性はルシファーの賜であり、ルシファーの働きに無関係なものは理解できるようになっていないからである。 以上の事柄の背後に、深い関連が横たわっているのがわかる。もし、ゴルゴダの秘蹟が人間の知性によって、理解可能なら、そもそも、ゴルゴダの秘蹟が起こる必要はなかった。ゴルゴダの秘蹟は、全く不必要だった。 何故なら、ゴルゴダの秘蹟の目的は、ルシファーの影響によって生じた人間のなかの乱れを元に戻すように均衡をもたらすことだからである。ゴルゴダの秘蹟が演じられたのは、知性によって全てを理解しようとする、人間の特異な傲慢さと高慢を癒すためだった。 人間が、今のような知性には限界があることに気づくことができるのは、ゴルゴダの秘蹟の理解に関わることである。私(シュタイナー)はしばしば、人間の認識能力には限界がある、という意見には異議を唱えてきたが、確かに、現在のような知性には限界がある。 1.肉体のエーテル体に対する卓越性 (a)感覚世界 (アーリマンにより起こされる) 2.エーテル体のアストラル体に対する卓越性 (b)感性 (注)(b)でルシファーとアーリマンが出会う 3.アストラル体のエーテル体に対する卓越性 (c)食物摂取の過程 4.自我のアストラル体に対する卓越性 (d)ルシファーにより起こされる
2011年09月28日
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人間にとって、楽園の外にいることが、最も大きな楽しみになった! いま、人生についての、上記の本当に不思議な事実に直面しているが、この不思議な事実を学び、知るべきである。 (天国よりも、地獄にいる方が好きな人間が多い、ということ。) そして、最後の第4の不整合へとやってきた。この第4の不整合には、自我とアストラル体が関係する。第4の不整合について、ルシファーは、自我のアストラル体に対する卓越性が生じるように、乱れを生じさせた。 第1から第4までみてきて、人間の構成体の関係のなかで、乱れがない部分に気づくだろう。それは、アストラル体の自我に対する卓越性であるが、それは存在しない。単純に、論理的に考えてはいけない。常に事実に対する観察に従って前進すべきである。 既に見てきたように、アストラル体とエーテル体の間には、第2の関係があり、そして、その逆の第3の関係があるが、アストラル体と自我には、アストラル体に対する自我の卓越性だけがある。 このことは、ルシファーの影響の介入前の、神々が意図していたアストラル体との正常な関係を、自我がもはやもっていない、つまり、本来、自我がもつべきだった関係よりも、自己中心的である、という事実を意味している。 自我のアストラル体に対する優越性は、ルシファーの影響によって起こった。 では、この第4の卓越性を生じさせるには、正確にいえば、一体何が起こったのか? この問いへの答えを理解するには、まず、自我とアストラル体の間の適切な関係に対する明確な理解が必要である。 自我とアストラル体の正しい関係について知る唯一の方法は、その関係を再構築してみることである。物質現象世界の中に生きる人間のなかでは、必然的に、ルシファーの影響を受けるため、自我とアストラル体の間の関係が秩序だったものになっていない。自我の卓越性が常に存在する。 いうなれば、人間は、本来よりも、より自己中になっている(粗雑な表現だが、このような表現が相応しい)。 さて、この連続講義の中で、人間の自我の本当の役割を見通せるように誘導する考察を積み重ねてきた。自我の正しく真正な関係は、人間が、賢明で精力的で、忍耐強い自己訓練に取りかかり、「驚き」、「敬虔」、「調和の感情」、「献身」という言葉の下に記述した性質を獲得したときに生じる。 そのとき、何の偏見ももたない観察者により、自我はルシファーの介入による影響を取り消し、打ち消し、真正なアストラル体との関係をもった、という印象が持たれる。 以上の、「驚き」、「敬虔」、「調和の感情」、「献身」の4つの魂の性質を、非常に高度に発達させることでのみ、元の正しい関係を取り戻すことができる。 では、その時、一体、自我はアストラル体との間に、どのような関係をもつのか? その正しい関係は注目すべきものである。著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」のなかの内容を注意深く読めば、理解が得られる。今日のような人間は、絶えず思考、感情、意志と密接に結びついている。 思考、感情、意志と無関係に、自我だけの状態を見つけるのは、外見的な覚醒意識には、簡単ではない。試しに、純粋に、自我だけを考察してみればよい。 ウンガー博士(人智学に関わった人物らしい)が、この思考、感情、意志から離れた自我を考えるように、私(シュタイナー)の友人に、何度も要求した際、その友人は勇敢にも、この自我だけの純粋な状態の把握に努力したが、ついには息切れしてしまった。 真の自我に到達することが、思考だけでも、非常に難しいことがわかる。まして、物質界の現実のなかで、実際に、絡み合った思考、感情、意志から、自我を分離するのは尚更困難である。通常、人間の魂は、思考、感情、意志そして、欲望とともに経験され、一瞬たりとも、それらから自我が離れることはない。 しかし、この分離こそ、これまで述べた4つの魂状態の経過により達成すべき状態である。思考、感情、意志の外に立てれば、自身の外にある、それらを眺めることができる。その時、自身の思考は、周囲の事物と同程度に、自身にとって無関係なものになる。 そのとき、もう、「自分が考える」、とは言えない。何故なら、そのときの思考は、自分とは関係なく、勝手に外で進行するプロセスのように見えるからである。それは感情や意志についても同様である。 (芸術家が、作品をつくるのは、この行為のためである。つまり、真の自我を発見するためである。) しかし、少し考えれば、思考、感情、意志から、自分を解放することは、いつかは達成すべき理想として自分の前に置くことができるが、実際問題として、あまりにも、それらに雁字搦めに捕らわれているため、究めて困難である、ということが認められる。 例えば、自分に次のように言い聞かせながら生きていくのは究めて困難であることが理解できる。 「この世に、私が生きている間ずっと、そいつは私にぶらさがり、くっついてくる。そいつは、私が一緒に成長した仲間であり、私の幻影なのだ! 私の思考、感情、意志の全てが、私と共に歩む。 私は、思考し、感じ、意志するものではなく、私の自我のなかの本当の私なのだ! 私は、私が携える3つの袋のようなものと共に歩む。1つの袋には思考が、もう1つの袋には感情が、そしてもう1つの袋には意志が詰まっている。」 (本当の私とは、御釈迦さんが生まれて説いた「天上天下唯我独尊」の意味なのだろう。本当の私は、自我のなかの純粋な混じり気のない私である。天界にも、地獄にも通じた1つの自我という宇宙の意味。) この3つの袋理論を実際に自分のものとしない限り、ルシファーの影響の介入前の、神々によって本来意図されていた状態から、今日の思考、感情、意志との関係に至った自我に対して、いかなる正しい考えにも到達できない。 人間は、本来、自分(自我)を眺めるように神々から運命づけられたのであって、自分(自我)の中で生きるように意図されてはなかった! では、元来、誘惑とはどのような性質のものか? できるだけ通俗的に記述してみる。 ルシファーが人間の自我に近づいてくる。本当は、自我を、純粋性の中で保持すべきだったが、その自我に対し、ルシファーが次のようなことを言った。 「おい人間! たった1つのちっぽけな『私』という中心から辺りをうろつくだけで、他のものをただ眺めているだけなんて、全くつまらないじゃないか。そこから、お前のアストラル体の中に飛び込んだら、もっとずっと楽しい思いができるぞ。 お前にその力をやろう。そうすれば、お前はもう、お前の自我と一緒に突っ立って自分の幻影を眺めている必要はない。お前は、お前の幻影の中に浸れるぞ。 だが心配ない、お前が、その中で圧倒され、溺れたりしないように、オレ様の力を提供しようではないか。」 (この悪魔の囁きは、聖書では、悪魔がイエス=キリストを誘惑する場面として記載されている。 1.眺めているのではなく、楽しい思いをしろ→石をパンに変えるよう命じたらどうだ、の誘惑 キリストは、人間はパン「物質」だけで生きているのではない、神々により生かされている、と応えた。 2.アストラル体のなかに飛び込んでみろ→神の子であるなら、飛び降りてみろ、の誘惑 キリストは、親である神々の愛に背いてはならない、と応えた。 3.力を提供しよう→私にひれ伏すなら、地上世界を与えよう、の誘惑。 キリストは、神々から離れては彷徨い行き場を失うだけで、神々の愛があってこそ永遠に生きられる、と応えた。)
2011年09月27日
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どうも日本の政治が混迷ばかりで立ち行かない。まず経済が国家の柱で資本なのに、税金ばかり徴収して政府は贅沢をやめようとしない。 とどのつまり、官僚改革をやらずして、何も進むわけがない。 財政支出を削減せずに、財政再建ができるわけがない。 改革といえば、昔から質素倹約で、間違っても増税ではない。 江戸幕府が倒れるときでも、外債に頼ることをせず、つまり借金だけはしなかったので、明治維新がうまくいったわけだ! 政府が人民を苦しめて国家というものがあろうか? 神様が子供である人間を苦しめることがあろうか? 全くこの国はおかしくなってしまった。 さて、現代の大本営というべき財務省がいい気になって小泉改革という詐欺をやりながら、飽き足らずに国家を私服化している。 なんでも、聞くところによると、勝海舟の遠い親戚にあたる人物が幅を利かせているらしい。 勝家は、海舟の子の小鹿が慶喜に養子を出して廃嫡されたはずであるから、勝の血が残っているとすれば、娘婿の系統だと考えられるが、そんなことはどうでもいい。 あの勝が、勝家を一代で終わらせたのは、自分の名を利用されたくなかったからだろう。 まぁ、しかし、野田傀儡総理が、正心誠意などと、理解もできていない文言をいわされた姿はみていて非常に情けなかった。これが一国の総理かと思うと、武士の名は廃れ、日本も非常にお粗末な小国になったものである。 人気取りもいい加減にしてくれよ! なにが、正心誠意だ! 糞食らえ!! 今日で、勝海舟のファンをやめさせていただくぜ! 英雄気取りで、政治をやるのはやめてくれ。他人の褌で相撲をとるな!! それが正心誠意というものだ! 海舟だかなんだかでてきたとしても、人民を苛める奴なら、そんな奴はダメな奴だ! そこいくと、曹洞宗はいいこという。 釈迦に出会えば釈迦を殺せ、ってね。
2011年09月26日
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さて次に、エーテル体とアストラル体の間の関係にうつる。 エーテル体と、アストラル体の関係についてもまた、正しく適切な浸透がみられず、エーテル体によるアストラル体に対する卓越性が現れている。このアストラル体に対するエーテル体の卓越性は、超感覚(霊)的な認識能力がわずかでもあれば、すぐに容易にわかる。 もし、アストラル体に対するエーテル体の卓越性がなかったなら、他にもあるが、人間が涙を流すことはなかった。もし、泣いている人、すなわち、眼の腺組織から、奇妙な塩辛い液体を分泌しているのを観察すれば、超感覚的な認識能力が多少ともあれば、エーテル体のアストラル体に対する過度な活動があることにすぐに気づくだろう。 エーテル体の優越性のため、アストラル的な経験を、十分にエーテル体の活動の中に刻印できない。アストラル体に対するエーテル体の卓越性が、エーテル体をして、逆に(下位の)肉体の方に働きかけ、涙を流させる、という事実のなかに表現できる。 (天使たちは泣かないようである。) 人間のなかの全ての腺組織からの分泌過程についても同じことが言える。腺組織の分泌は全て、エーテル体のアストラル体に対する卓越性に依存している。そのバランスの乱れの影響が、肉体にまで及ぶとき、様々な腺組織からの分泌現象として表現されるに至る。 もし、不規則性がなく、アストラル体がエーテル体に合致していたら、腺組織が働くときにも分泌は起こらず、アストラル体の活動は、腺組織の内的な運動や活動の中に充分に組み入れられていた。腺組織は何も分泌せずに、アストラル体の機能全体は、エーテル体の中で果たされ、いかなる物質の分泌も生じなかった。 以上のように、ルシファーの影響の凄まじさが、秘教的な観察から明らかになる。もし、ルシファーが世界秩序に介入しなければ、人間は、例えば汗をかくことなどできなかった。発汗に伴って生じる活動の代わりに、対応する器官の内部で、アストラル体の活動を、そのまま消耗し尽くす活動と運動が生じ、腺組織からは、全く何も排出されなかっただろう。 以上、第2点として、アストラル体に対するエーテル体の卓越性を書きとめる。 奇妙な性質と外観を呈する感覚世界が、第1の卓越性、つまり、肉体のエーテル体に対する卓越性に帰すなら、この第2の卓越性、つまり、エーテル体のアストラル体に対する卓越性は、人間の気持ち、もしくは感性の原因と見なす必要がある。 何故なら、人間の普遍的な感性は、このエーテル体のアストラル体に対する卓越性から生じるからである。この卓越性が、主観的な表現となる。 (人間は泣くことで悲しくなるともいえる。汗をかくことで、感情が高まる。) さて、第1、第2の次の卓越性について言及するにあたり、次の第3も、これまでのような順番で、図式的に考えるなら、容易に次のような卓越性を想定するだろう。 肉体のエーテル体に対する卓越性と、次に、エーテル体のアストラル体に対する卓越性について説明したから、今度はアストラル体の自我に対する卓越性の番である。 以上のように、純粋に容易に、知識的な基盤の上から、その図を完成させようとするだろうが、そのような方法では、正しい結論には至らない。第1、第2、第3と順番通りに辿ることはできない。実際、秘教的な真実に関する情報を受け取り、自らの知性により図式的に引き出した結論は、事実とは常に全く異なる、ということが、次のような内容からわかるだろう。 知的な方法で、神の思考を辿っても何にもならない。ある段階まではたまたま正しくても、長続きしない。 さて、実際は、第3の不整合として、これまでとは逆の卓越性、つまり、アストラル体のエーテル体に対する卓越性を取りあげる必要がある。そして、この卓越性は、今までの3つの中で最重要である。 というのも、完全な唯物論的な観点から、人間を考察するとき、多くの唯物論的な著書の中で描かれているように、人間を、他でもない大いなる消化装置として、食べ、消化し、吸収することで身体を構築する一種の機械として、その卓越性から、思い描けるからである。 実際、唯物論的な観点から書かれた書のなかには、上記のように記述された人間が見つけられるが、せいぜい、食物を摂取し、処理し、筋肉や骨、腱等に分配する大いなる消化装置程度の認識である。 人間のなかの感覚世界の知覚という第1の不規則的事実を介して、また人間の身体に対する全般的な感性のなかで、様々な腺組織からの分泌過程の経験という第2の不規則的な事実を介して、人間の真の本性全てから目を逸らし、人間を単なる栄養摂取の観点からだけ考察し、口から入った物質が血液中に吸収されるまでに起こる過程を調べあげるなら、アストラル体のエーテル体に対する卓越性の究極の物理的な表現である物質的な過程に遭遇する。 物質現象世界を、精神(霊)的な観点から考察するときには常に、あらゆる感覚的な現象の背後に精神(霊)的な事実を見るべきである。感覚が受け取れるのは、せいぜい外観だけである。 従って、栄養を摂取し、消化するという、全ての粗雑な物質的な過程の背後に、精神(霊)的な生命力を探さなければならない。そして、これらの精神(霊)的な生命力は、アストラル体のエーテル体に対する卓越性の中に発見できる。この卓越性は、通常の物質的な生命プロセスの中に表現されている。 不思議な結論へと至ったが、しっかりとこの点に注目すべきである。明確にすべきことは、唯物論がしばしば人間と見なすもの、ほとんどの人々にとって、人生の主要な関心事であり、心配事であるもの、つまり栄養摂取と、身体の様々な器官への栄養供給は、アストラル体のエーテル体に対する卓越性が、ルシファーの影響によって、人間のなかにもたらされたに過ぎない、という事実にある。 もし、ルシファーがいなければ、もし、ルシファーが、人類進化の初期に、アストラル体とエーテル体の関係を変化させなかったら、人間は、今日行うように、食べることも、消化することも、食物に働きかけることもなかったはずである。 唯物論の立場から見て、人間に関する主要事項は、ルシファーの活動の所産なのである。何故なら、ルシファーの活動により、人間のなかの、アストラル体とエーテル体の間にズレが生じた結果に他ならないからである。 ルシファーを通じて、アストラル体は、過剰な活動を持ったため、エーテル体に対する卓越性を達成した。この優越性はルシファーの仕業で、この優越性から、粗雑な物質的な栄養の受容者になるという結果がもたらされた。 というのも、人間は物質的な栄養を受け取るように、神々に定められていたのでなく、栄養摂取を必要としないような一種の存在になるように意図されていたからである。この事実は、ルシファーの誘惑により、人間の「楽園追放」が生じた、という聖書のなかの素晴らしい表現のなかに見つかる。 何故なら、「楽園にいる」ということは、人間が他でもない、精神(霊)的な存在である、という事実、そして、物質的な栄養を必要としない、ということを意味しているからである。人間は、食物を摂取し、消化するように促されることで、2重に罰せられている。 というのも、聖書の中で象徴的に語られているように、人間に最も大きな喪失と嘆きを課したとされる、上記の出来事が、つまり、楽園からの追放を通して、物質的な食物摂取を必要にさせた出来事が、ほとんどの人間にとって、人生で最も強烈な楽しみの1つになっている!からである。
2011年09月26日
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人間をつくる本性のどの構成体も、他の構成体に正しく適合せずに、どれも不整合である。もし地球進化の初めに、ルシファーの影響が入り込まなければ、人間をつくる全構成体は、互いに全く異なって配置されていたはずである。 この点について明らかにしたい。すなわち、ルシファーの影響が、人間の4つの構成体間のつながりに不整合をもたらしたことによる、特別で、重要な結果について示したい。 以上の事実について、できれば図表のように書き出しておくと便利である。 最初に、肉体と、そこに挿入されているエーテル体の間の関係について取りあげる。もし人間の進化を司る神々によって本来意図されていたように、エーテル体が肉体に完全に規則的な形で統合されていたなら、人間は、周囲全体に(そもそも、未経験なので、的確な言葉を見つけるのは難しいが)、「支配する意志」の絶えざる流れや滴り、を経験していたはずである。 規則的な形で統合されていたなら、人間は、至る処に多様な「意志」を感知していたはずである。何故なら、人間は、目や耳その他の器官を、周囲の世界に意識的に向けるに従い、「意志」の働きの中に、一定の差異を認識できていたはずだからである。 人間の感覚器官全てが多様性をもち、多くの新しい方法で、流れる「意志」を経験する可能性を提供していただろう。もし、神々により意図されていたような方法で、エーテル体が肉体に適合していたなら、起こっていたはずだった。 しかし、いわゆる生まれつき霊視できずに、ルシファーの介入により生じたことは、エーテル体が完全に肉体の中におさまらず、いわば、肉体の一部を自由にさせ、肉体には浸透していない部分をもつ実態となった。その結果、肉体は、ある観点から言えば、本当は、持つべきでない過剰な活動をもつことになる。 従って、人間の肉体の中には、地球進化を司る神的で、精神(霊)的な存在たちの本来の意図に従っていれば、あり得なかったエーテル体に浸透されていない部分(闇)が存在する。そして、肉体がエーテル体に適切に浸透されていない場所(闇の部分)において、現在の(物質的な)感覚器官が発達するに至った。 人間の感覚器官が現在の形態を獲得したのは、以上のような事情による。従って、卓越した生命活動が完全に排除され、純粋に物質的活動の非常に特徴的な現象を、人間のあらゆる感覚器官の中に発見できる。 例えば、カメラの暗箱にみられるような純粋に物理的な作用と比較できる部分が、眼の中にも存在する。その部分は、エーテル体の全般的な浸透から取り残された一部のようなものである。 また、耳のなかの、まるで迷宮のような一種のピアノの鍵盤がおさまったような不思議な内耳についても、眼と同じことが言える。そこでは、エーテル体は、まるで押し戻され、浸透されずに、純粋に物質的な性格を持つ機能がある。 以上が、人間の感覚と呼べる起源である。また、色彩に対する経験は、エーテル体が視覚器官に適切な形で浸透せずに、純粋に物質的な過程で進行する、という事実に基づいている。どの感覚に対しても同様に、エーテル体に対する肉体の卓越性が見られる。 肉体の卓越性を、第1の結果として記述できる。肉体とエーテル体の間には、肉体のエーテル体に対する卓越性と言えるような関係がある。この卓越性が存在しなければ、今日のように、周囲に広がる感覚世界全体を見ることはなかっただろう。 肉体の卓越性がなければ、周囲の世界に対する人間の関係全てを、流動し、波動し、支配する「意志」として知覚しただろう。もし、この肉体のエーテル体に対する卓越がなければ、受動的にではなく、自分の手を延ばすように、能動的に、周囲の世界を感じていたはずである。 高次の秘教的な観察から、実際明らかになる、究めて興味深い事実とは、すなわち、感覚世界全体は、エーテル体の浸透を妨害されるような状態にある感覚器官が、純粋に物質現象的な世界のための場所を、人間のなかに提供することに依存している、というものである。 (物質界は、幻想であるというのは、霊界が、物質界に入ることを妨害することで、成立していることを意味している。)
2011年09月21日
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これまでの講義から、人間の肉体と、人智学で、感覚界と呼ぶ世界との間に相関があることが理解できる。人間の物質体が、以前述べたように、外に広がる感覚世界のなかに認識できる意志の性質を持つ実体と同じものからなることを理解した。 秘儀参入者は、外にある感覚世界にも、人間の物質体の中にも、同じく、活動し、支配する「意志」を発見できる。従って、同等という意味において、人間の肉体は、外的な感覚世界の一部である、と言ってもよい。 続いて、感覚世界の背後に、「生成し消滅する世界」が横たわり、その世界の中には、「叡智」が、つまり、活動し、支配する「叡智」として描写できるような本当の世界が発見され、そして、人間のエーテル体は、本当は「叡智」の実体からなっている、ということについて述べた。 (物理学の素粒子論では、物質現象の背後には、調和振動子による生成、消滅の数理的世界が想定されている。理論的には、人智学の内容を、素粒子レベルで解き明かしていることになる。シュタイナーは、既に1920年に述べているので、量子力学が誕生する前になる。) さて、人間のエーテル体と肉体には、更に、他の霊的器官が組み込まれている。すなわち、その中にあるアストラル体と自我である。というのも、人智学では、地上で遭遇する人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の集結点からなるからである。 さて、多分難しいかもしれないが、一度、上記の知識を把握すれば、現象世界、特に、人間自身の本性を理解する上で大いに役立つことがわかる。肉体、エーテル体、アストラル体、自我が、ある集結点で合流し、1つの全体へと統合された、という仮定について、ようやく受け入れる準備ができた。 ところが、超感覚(霊)的な認識能力の獲得者が、人間本性の4つの構成体がどのように組み合わされているかを観察するなら、それらが「不整合」もしくは「不規則」な形で統合されているという印象(この印象の考察が重要であることが後にわかる)を持つ、という事実がある。 現在の人間の中の、上記の「不整合性」、もしくは「不規則性」が、なんらかの段階で入り込んだような形で統合されている印象が見受けられる。 このように、人間の4つの構成体に対する霊的な探求から、ある時点で、いわゆる乱れが生じたため、当初の形で統合されていない、というような結論を導くのは注目すべき事実である。 さて、ここでまた、宗教的な第1級の資料の中に、もし、正しく理解すれば、深い意味が込められた真実を知る機会が得られる。というのも、上記の「不整合」と表現した内容が、聖書のなかに、ルシファーが人間を誘惑する言葉として、素晴らしい表現で、記述されているのを発見できるからである。 ルシファーは言う。 「お前たちの目は開かれ、お前たちは善悪を区別するようになる。」 この言葉の中には、究めて深い真実がある。単なる「眼が開かれる」という意味に理解すべきではない。目は人間の全ての感覚を代表している。もし、ルシファーの言葉を正しく理解するなら、次のようになる。 「お前たちの全ての感覚は、神々に従うのとは異なる形で働くようになる。」 ルシファーの影響により、人間の感覚は、神々に従うような形とは、異なる形を取るようになった。今日の人間にとって、人間の感覚の本質的な機能を表現するのは究めて困難である。 ルシファーを通じて、人間本性を形成する4つの構成体の間に「不整合」が入り込まなかったら、人間の感覚機能が、どのようなものだったか、を明らかにすることは、馬鹿げたことに思うかもしれない。何故なら、人間の本来の正しい感覚機能とは、これまで人間が経験してきたものではない、という事実を信じるのはほとんど不可能だからである。 「人間の目は、何のためにあるのか?」と問うなら、「何だって、勿論、見るためだ!」という以上に自然で明白な答えがあるだろうか。そのような意味で、「目は見るためにあるのではない」、などと言う人間を馬鹿呼ばわりすることには、確かに正当性がある。 しかし、現実に、地球進化の初期に遡れば、人間の目は、本来、見る能力に起因せず、現在の見る能力に起因するのは、ルシファーの誘惑によるものであることがわかる。それはつまり、次のような経緯がある。 人間のもつ視覚能力は、眼を通じて、外に進出し、いわゆる物体にまで到達するようには意図されていなかった。神々の本来の目的に合致した形で、全てが進行していたなら、人間の視覚能力とは、自分の目を意識することで、外的な事物を見るのではなく、人間自身の目を経験し、感じとるはずだった。 つまり、本来の人間は、目そのものの活動を意識するように発達すべきだった。しかし、現在の視覚能は、目そのものに対しての意識をもたない。人間は、眼の活動により生じる視覚に対して、つまり、周囲の外的な事物に対しての意識だけをもつ。 本当は、対象に到達してから、「見る」という視覚行為に関与するのではなく、もっと早い段階から関与し、既に、目の中で、眼そのものを意識すべきなのである。本当は、眼の活動そのものを感じないといけない。 目の場合、眼そのものの経験は、特別に秘教的な発達を遂げた人でなければ、今日ではほとんど不可能だが、手に関しては可能である。少なくとも、手で何かを掴んでいる感覚、もしくは、特に目的もなく、自由に手が動いている感覚をもてる。 自由に手を動かしている場合には、手自身の実際の動作を意識できる。しかし、視覚だけに注意を向けても、何も意識できない。このような実態が、今日の人間の特徴である。 最初から、このような実態が意図されていたわけではない。神々が意図していたのは、目や耳、もしくは、いずれかの感覚器官に注意を向ければ、以前述べた、支配する「意志」を知覚し、実際に、支配する「意志」の中を泳ぎながら、耳その他の器官への特別な影響の形に従って、その事実を認識する、というようなものだった。 このように、人間の目に関する経験は、あらゆる点で、人間の手に関する経験に類似したものになるはずだった。 例えば、何か物を掴めば、力の入れ方や、物のへこみ方により、硬いか柔らかいかを知覚できる。また、実際、いつでも手の動作に対する意識をもっている。目についても、手のようであるはずだった。エーテル体が肉体に正しく適合しているうちは、可能だっただろう。 もし、正しく適合していたなら、人間は目を知覚し、目と「支配する意志」との関連を直接感じ取れただろう。 (要するに、生まれつき霊視力をもっていたのだろう。) しかしながら、現在、エーテル体が肉体に正しく適合していない、という重要な事実に気づくべきである。ただ、この事実は、人間の中に見られる「不適合」の1例に過ぎない。
2011年09月16日
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実際に、「現在のような自分から脱却すべきである」、と言えるような段階にまで到達しないといけない。「献身」を達成したことで、かなりの進化段階に既に到達したことになるが、今度は、自己愛を完全に排除しなければならない。 したがって、常に、次のように感じないといけない。 「私は、自身を脇へと追いやらねばならない。何故なら、もし、私が、そうしなければ、私の中に、確かにある間違いや、些末さや、偏見や、共感や反感を、完全に締め出すことができないからで、これらを捨て去らなければ、高次の世界への上昇を、正しく行う可能性を失うからである。」 少しでも間違いがあれば、超感覚的な認識を可能にするために、高次の世界から、自分のなかに入ってくる流れに、妨害的な作用が混入することになる。これらの生命力(作用)は、肉体とエーテル体に流入するが、間違い等が多ければ多いほど、それだけ多くの妨害的なプロセスが居座ることになる。 睡眠中、無意識である限り、つまり、超感覚的な世界へと上昇できない限りにおいて、意志や叡智の世界からの流れが、肉体やエーテル体に入り込まないように、善き神々が、守ってくれる。しかし、超感覚的な世界へと、(唯物的な覚醒)意識を持ち込むなら、いかなる神も守ってはくれない(何故なら、善き神々の与える保護は、人間から、覚醒意識を取り上げているという事実にあるからである)。 (唯物的な概念の土台となる覚醒意識をもったまま霊界に参入すると迷うことになる。例えば、唯物論では、人間の死を、無のように捉えているが、そのような無の概念を持ち込むと、霊界を否定することになるので、自分が参入している世界がわからなくなる。 例えば、外国では通じない母国語を、外国に持ち込むようなものである。母国語をいくら話そうとも、外国では理解されないわけで、かえって身振りや手振りの動作の方がまだ理解されやすい。つまり、知識よりも、行動の方が、有用である。) 従って、全ての偏見や共感や反感等々を自分で取り除かなければならない。これら全てを、直ちに自分から締め出さなければならない。 何故なら、もし、まだ何らかの自己愛や個人的な欲望を持っていたら、あるいは、まだ個人的な見地から判断を下す習慣をもっていたなら、それら全てが、高次の世界へと上昇する過程において、健康に(つまり肉体とエーテル体に)害を及ぼす可能性をもつからである。 自己愛を克服することが、昇天には重要であることをはっきりさせておくことが非常に重要である。 (逆説的にいえば、自己愛や個人的な欲望をなくすために、人間は、この世に繰り返し生まれる、輪廻転生を行い、愛を深める修行を行っているわけである。そもそも、好き嫌いは、自己愛や個人的な欲望から生じるからである。好き嫌いをなくさないと天国にはいけない。 前世のエゴから、今世の自分が生まれるようである。大抵の人が自己中心的なのは、前世のエゴをひきずっているからで、そのエゴを克服するために、今世の人生が与えられているわけである。 シュタイナーは、前世を想像したければ、自分の嫌いな面を思い描けばよいといっている。その嫌いな面をもった人物が、自分の前世なのである。 嫌いな面を克服するために、生まれてきたわけで、克服できないと、天国にはいけないからで、いつまでも輪廻転生を続けることになる。神秘学では、そのような存在を、「地を徘徊する蛇」と評しているが、浮遊霊、不浄霊のことである。) そして、日常生活では、自分の肉体とエーテル体に対する影響力を人間が剥奪されているという事実や、人間の思考が、肉体とエーテル体の中に居ながら、それらを現実的に(事実として)把握するような形で関わりをもたず、何の効果も及ぼせず、従って、身体等の現実(事実)に対して、いかなる判断も形成できないという重大な真相を感じ取るのは比較的容易だろう。 ところが、夜眠ると、自らの思考力が生命力となり、影響を及ぼす可能性もある。あらゆる間違った思考が、肉体とエーテル体に破壊的に作用する可能性がある。もし、夜の睡眠中に(覚醒)意識をもつと、そのようなことが目の前で展開されるだろう。 その時、感覚世界は、「支配する意志」の海のように見える。そして、その背後には、この「意志」を貫いて、高低差をもって、うねる大きな波へと駆り立てる叡智(その1つ1つの波は、絶えず生成と消滅の過程や、生と死のプロセスを引き起こす)、すなわち、現象世界を構築する叡智が現れる。 以上が、最終的に、秘儀参入者が、覗き見る真の世界、すなわち、支配する「意志」と「叡智」の世界である。そして、後者の「叡智」の世界は、絶えざる誕生と絶えざる死の世界でもある。それが、現象界の奥底にある霊的な世界なのである。 上記の事実に気づくことは非常に重要である。というのも、もし一度、この事実に気づけば、本当に、更に大いなる高次な「献身」へと到達する方法を発見するからである。何故なら、自身が絶えざる誕生と絶えざる死の中に織り込まれている、と感じると同時に、個々の行いを通じて、自身を、生成、もしくは消滅に結びつけている、という真実を知ることになるからである。 その時、「善」が、単なる、個人の領域で、良いとか、好きとか、共感を満たす、とかいうような皮相的なものでなくなる。善とは、個々のものではなく、全体としての世界にとって創造的で、常にどこでも、生成し存在へと至る世界に属するものである、という事実を知るだろう。 そして「悪」に対しては、死と衰退のプロセスを至るところに現に流出するものとして感じ始める。そのとき、悪とは、現象世界を、大股で歩く破壊的な死の天使としてみえ、そして、善とは、大小問わず、宇宙的な誕生をもたらす創造者としてみえるような新しい世界観への重要な移行を果たすだろう。 そして、人智学は、善の世界と悪の世界とは、単に外的な幻影の中(幻影の中、人間は判断力を持って、善悪の前に立ち、一方は人間を喜ばし、他方は苦しませることを見つけるだけだが)に出現するような世界ではなく、善の世界とは創造的な世界であり、悪とは大鎌を持って世界を闊歩する破壊の天使の世界である、という事実を、感じ始めるとき、人智学を通じて、人生全体としての観点が深められ、新しい意識を、内に目覚めさせることができる。 そして、人間が悪い行いをする度に、破壊の天使の助力者として、自身が、この大鎌を持って死と衰退のプロセスに荷担する。精神的な源泉(霊界)から、受容できる考えは、人生全体の見方を強化するような影響力を持っている。 この霊的な生命力は、人類が現在受容できつつあるもので、将来の進化へと携えて行くものである。そして、人類は本当に、そのような生命力を必要とするようになる。これまでは、善き神々が人間のために配慮してきたが、ポストアトランティス時代の第5期(現代)においては、運命や善悪は、次第に益々人間自身の手に委ねられるようになる。 従って、善悪の意味を知り、世界の中で、一方は創造、他方は死を施す存在としての認識が是非とも必要となる。
2011年09月15日
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とあるホームページをみていて、地震について考えてみたいと思った。現在、ネット上で流れている地震に関する話は、大体、以下のものである。 1.人工地震兵器説 2.従来の地殻移動に伴う地殻変動説 3.太陽の黒点活動による電磁波の強弱に起因する説 などである。どの説も部分的説明にすぎないところで、類似している。 これらの説に一石を投じる意味で、昨今の地震について、人智学から解き明かしてみる。勿論、2の地殻変動説に異議を唱えるものではなく、補則するものと考えてほしい。 そもそも、地殻変動がなぜ起こるのかに言及していない部分に焦点をあてたい。 以前のこのブログを見てもらえば、地球はかつて正四面体であったことがわかる。 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201101210000 正四面体とは興味深い図形で、脳の松果体の形も似ているという。松果体にはメラトニンの生成機能があり、概日リズムを制御していることが明らかになっている。 古代エジプトでは、時間の神トートが崇拝され、ピラミッドの象徴になっていた。 つまり、地球の概日リズムを制御している本体は、この正四面体構造にあるのではないか?と思うわけである。地球の自転は、結果的に、見かけ上、概日制御の基準になっているにすぎないように思う。 で、地震の発生と、この地球の正四面体構造に言及する。 とある以下のホームページを参照すると、 http://quasimoto.exblog.jp/15439870/ 昨今の地震発生地域と、シュタイナーが説く正四面体の図形上の位置がほぼ一致する。 例えば、以下の地震地域と、 以下のシュタイナーの描いた図 では、コーカサスを頂点とする一辺にほぼ群発し、 また、以下の太平洋地域での地震では、 と、以下のシュタイナーの描いた図 では、日本、コリマ山、南極を頂点とする三角形上に群発していることがわかる。 つまり、地震とは、地球の松果体というべき正四面体構造により起こる概日リズムの制御ではないか?と思うのである。 昨今の地震の群発は、地球の1日のリズムが変わる兆しではないかと思うのである。 古代人は、このことをよく知っていて、コーカサスを取り巻くように、古代エジプト人や古代ギリシア人は、神殿を建てて、1日の感謝や祈願を行っていたのではないか?と思うわけである。 だから、暦を決めることは、神々と交流できる王族の特権だったのではないか?と思うわけである。 つまり、地震が頻発しないように、暦を改める必要があったのではないか?と思うわけである。 だから、正四面体の4つの頂点のコーカサス、コリマ山、日本、南極には、古代の神殿があったはずで、実際、コーカサスには、太陽崇拝のガルニ神殿があり、ノアの箱舟が流れ着いたとされる有名なアララト山がある。 次にコリマ山だが、メキシコの地という意味では、アステカの太陽神殿がある。メキシコ周辺には、インカ帝国もあり、神殿の一大拠点といえる。 そして、わが日本だが、いわずもがなの伊勢神宮がある。「イセ」、「イシ」は、ヘブライ語では、「主や、救い」という意味を表すそうで、日本には古代からの神殿伝説が残り、天皇は、古代からつながる家系でもある。 さて、問題は南極だが、現在は極寒冷の地域だが、かつては温暖であったことが伝説として残っているので、恐らく、南極には数々の神殿が残っている可能性がある。 これら多くの神殿は、地震により破壊されてしまったが、恐らく、それは古代人が想定していたものとも思える。なぜなら、神殿による太陽神崇拝を怠ると、地震が発生することを知っていたので、太陽神崇拝を怠らないように、地震が頻発するものと想定される場所に、わざわざ神殿を建てたのだろう。 だから、地震により滅びるときは、神殿もろともに滅びるわけである。 神殿が滅びることで、神殿には同時に、地球の新しい時代、時を告げる神々が代わりつつあることを知らせる役目があったのではないのか、と思うのである。 暗黒の19~20世紀がすぎ、新しい21世紀がはじまり、大きな時代変化が起きようとしている。地震に備えるには、神殿に行き、感謝することが重要なのだろう。 神に感謝することで、人間は1日を終えてきたからである。 さて、では問題は、人間の活動と地震は連動するのか?というところにある。 その答えは、1の人工地震兵器説と3の太陽黒点活動の電磁波説にあるように思う。 この人工地震兵器説は、上述したホームページの著者が紹介しているもので、そのホームページに、興味深い以下の内容がある。 「ある研究者によれば、この地帯の地震は、日本→カリフォルニア→チリ→ニュージーランド→インドネシア→日本と周期的に起こるのだという」 この周期性のなかに、地球の時間の創造性を感じさせる。日本から発した地震が、正四面体の三角形の一辺を巡って、また日本に戻るわけで、正四面体を構成する他の3つの三角形の辺との周期の相違性から、地震が生まれると考えられるからである。 例えば、正四面体の各頂点にある神殿から波を発生させると、他の3つの頂点にある神殿から返ってくる波の相違により、地震が発生するのではないか、と考えられるからである。 その相違を相殺するために、地震が起きているのではないか? と思うわけである。 つまり、正四面体構造は、地震を起こすことで、地球の1日の時間帯(温度変化)の歪みを調節しているのではないか、というわけである。 だから、地球の反響構造をなるべく正四面体に沿った形に、温度変化から想定して、調整すれば地震は起こらなくなるのではないか? と思うわけである。 全くのトンデモ仮説になってしまっているが、山彦の音の反響に喩えると、わかりやすい。 山彦は山の神さまといわれ、日本では「ヤッホー」と叫ぶのが通例となっているが、余談だが、私は、この「ヤッホー」は、「ヤハウエ」から派生しているのではないかと思っている。 正四面体は、みようによっては、山の形にもみえる。正四面体の構造がつくられるときが、時間の基準になっているのではないか?と思うのである。ちなみに、正四面体を、プラトンは基本図形と呼び、火の元素霊の形態に求めた。 だから、時間を知りたいときは、正四面体の山にむかって、「ヤッホー」と叫び、その反響を測ることで、時間の基準を得ていたのではないか?と思う。 また、現代物理統計学では、時間の逆数を、温度と数理的に変換することで、統計的な秩序をもたらすパラメータにしている。 古代人の神殿は、現代人の時計に相当するものだったのではないか? というわけなのである。 だから、現代人の時間感覚の統制がとれなくなると、地震が発生しやすくなるのではないか、と全くのトンデモ仮説を思わせてしまう。 太陽を拝む時間が1人づつズレていくと、それらのズレが増幅し、地震となるというのは、バタフライ効果を彷彿とさせるトンデモな複雑系の話になってしまう。 確かに現代人からみればトンデモ話だろうが、地震が起こると、「山の神様の祟りだ!」といって、昔の人が、山の神様を信仰しなおす風習や伝承が、このような仮説を根拠にすれば、理解できる。再度、信仰することにより、1日の生活時間を時間調節し、共有したわけである。 この仮説によると、規則正しい生活をする地域には地震が少ないことになる。 人間の松果体と地球は、正四面体構造を通じて、つながっているのではないか? 信じるか信じないかは、あなた次第!
2011年09月15日
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客観的な現象世界では、叡智が支配する領域はいかなる場所でも、真に支配するので、その働きの影響が、現実として現れる。叡智の働きの影響が、現実から遠のき後退する際に、死のプロセスが始まる。「支配する叡智」が現象の中に流出する領域では、生命が生成される。 以上述べたことを、以前描いた下図のように整理できる(図1参照)。 感覚世界を見るとき、最初、対象を線分a-bのAとして見る。それから、感覚世界の背後にあるB、つまり「支配する叡智」の世界を見る。人間のエーテル体の実質は、この世界から取り出された。 (エーテル体とは、科学的には、真空のエネルギーというべき微小な振動であろう。現代物理学の場の理論では、一応、数式で表現できる。弦理論で表現したのが、超弦理論である。真空のエネルギーにも、構造や条件を求めると、11次元になるようである。) 従って、人間が、外にみる「支配する叡智」を、人間のなかのエーテル体の中にも見る。「献身」に到達した人間は、肉体の中に、単に感覚として現れる情報だけでなく、「意志」をも見る。何故なら、感覚世界の背後に、「支配する叡智」を見るからである。 以上は全くの事実である。不思議にも、もし、「献身」を達成していたなら、別の人間に遭遇し、その人を見るとき、その顔色が、赤味を帯びていようが、黄味、もしくは緑色を帯びていようが、単なる赤とか、黄、もしくは緑という色彩で捉えることはない。 「献身」に達したなら、例えば、薔薇色の頬の成長をみて、そこに、「支配する叡智」を読み取る。当人の中に生き、織りなす全ての生命力が、頬の薔薇色の色彩を通じて、射し込んでくる。薔薇色の頬に注目するなら、薔薇色の頬の人は健康にみえるだろう。 「献身」に達した人間は、「支配する叡智」を見る霊視的な方法で接する。さて、以前の図1に戻り、この図のなかの内側の円に示される人間の肉体は、感覚世界Aの「意志」の世界から取り出された。 一方、外側の破線で示される円は、人間のエーテル体で、「支配する叡智」の世界、つまり世界Bから取り出された。 従って、上図(図1)に示すように、人間の周囲に広がる「支配する叡智」の世界と、人間のエーテル体、そして、周囲に広がる「意志」の世界と、人間の肉体は結びつきを持っている。さて、日常生活において、人間は、上述の関連について知ることはない。 霊視力がないからである。上述の関連は常に存在するが、影響を及ぼすことができない。 それはなぜなのか? 実際問題として、意見の形で展開する思考や判断は何であれ、日常生活のなかの事実にとっては、それほど有害ではない。通常の日常生活での覚醒状態では、善き神々により、人間の思考が、事実にあまり悪い影響を及ぼさないように配慮されている。 善き神々は、肉体やエーテル体に悪い影響を行使する本物の思考力を取り上げてくれる。もし、そのような思考力を取り上げなかったら、人間にとって、非常に深刻な状況となっていた。再度強調すれば、もし、神の思考が、物質界で行うことを、人間の思考が、人間界で行えたなら、人間が、間違った思考をもつ度に、死のプロセスを、身体のなかに呼び出していただろう。 間違った思考をする度に、身体が少しずつ干からびてしまい、人間は終いに全滅する! 人間の思考が、事実へと働きかける力をもっていたなら、人間が嘘をつく度に、脳の対応する部分を焼き尽くすので、人間の脳がすみやかに消滅してしまう存在であることがすぐに理解できる。 善き神々が、人間の魂から、エーテル体や肉体に働きかける本物の思考力を取り上げた。しかし、常に、働きかけないようにするわけにはいかない。何故なら、もし、魂から、肉体やエーテル体に一切影響を及ぼさなければ、体内の生命力がすぐに尽きてしまうからである。 体内の生命力が尽きると、人間の寿命は非常に短くなってしまう! 人間の魂の中には、この連続講義で見ていくように、肉体やエーテル体の中に絶えず繰り返し流れ込んでいく生命力が含まれている。この生命力の流入は、夜、寝ている間に起こる。疲れを癒すために必要な生命力が、夜、自我とアストラル体を通じて宇宙から流れてくる。 魂のなかに生命力が流入することで、意志の世界や叡智の世界と、人間の肉体やエーテル体との間の実際の生命的な関連が生じる。 すなわち、寝ている間、アストラル体と自我は、意志や叡智の世界の中に吸収され、叡智の世界からエーテル体のなかへ、意志の世界から肉体のなかへと流出する霊的実質(生命力)を引きつける中心点を構築する。 この中心点の構築は、夜、睡眠中に生じなければならない。というのも、もし、人間が昼起きているように、覚醒意識を持ったまま、意志や叡智の世界のなかに居たなら、人間の魂のなかに流入すべき生命力を引きつける奇妙な装置(中心点)を、その世界の中に作り出すことになるからである。 その時、支配する「叡智」と「意志」の世界から、人間の自我とアストラル体が送り込む生命力によって、逆に、肉体とエーテル体に、途方もない障害が打ち立てられる。 (精神のメンテナンス中に、意識をもつと、人間の誤った意識により、身体に障害が起こる。腫瘍なども、この障害のせいである。だから、熟睡が健康に一番よい。) 上述のように、善き神々は、肉体やエーテル体に、正しい力が流れ込むべき夜には、人間の魂が、肉体やエーテル体に居ることができないように準備した。人間がもし意識を持って、意志と叡智の世界に居ながら、人間の間違った思考により、エーテル体や肉体をダメにできないように、善き神々は、眠っている間の人間の意識を愚鈍にした。 秘儀参入者が、霊的な認識への途上にあって、高次の世界へと上昇するときに、大いなる苦痛を経なければならない理由は、上記にある。もし、高次の世界への参入を、本当に熱心に取り組むなら、必ず大いなる苦痛をもたらすだろう。 人間が、外的な現象世界から、高次の世界へと上昇するために、夜眠っている間の生活を、どのように利用できるか、について、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」に、記述した。 人間が、霊視(イマジネーション)の世界から、睡眠中の潜在意識に参入する際、いわば、知識や経験により覚醒意識をもちこもうとするとき、自身を後退させることで、肉体やエーテル体にとって障害となる全てを、覚醒意識から間違いなく締め出すことが重要になる。 高次の世界への上昇に際して、自身を完全に正確に熟知することが、絶対に必要である。一般に、人間は、自身を熟知するとき、自分を愛することをやめる。真に、自己認識を持ち始めるとき、自己愛は終わりを告げる。 もし、覚醒意識の中から、自身を排除するなら、自己愛を克服する必要がある。自己認識を達成できていない人にとって、自己愛は常に存在する。何故なら、自分を愛していないと想像するのは幻想であり、人間は世界中の誰よりも、自身を愛しているからである。
2011年09月14日
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もし、次のステップを正しく理解するなら、次のような問いを自らに投げかける必要がある。 「一体どうやって感覚世界のなかの叡智を獲得できるのか?」 その答は単純で、人間の感覚器官によってである。耳により、音の世界の叡智を獲得し、眼により、色や形の世界の叡智を獲得する等々である。人間は、感覚器官の仲介により、感覚世界を知る。 日常的な通常の方法で、この感覚世界に向き合うなら、感覚器官の印象を受け取り、判断を形成するが、「献身」を学んだなら、第一に、自らの魂の感覚を通じて印象を受け取る。そして、対象から向かって活動的な「意志」が流れこむ様子を感じる。 「献身」を学んだなら、まるで対象とともに「意志」の海の中を泳いでいるように感じる。そして、目の前の対象の中に、「意志」を感じる地点まで至ったときの自身の魂の進歩が、自然と、次のより高い段階へと駆り立てる。 というのも、「献身」へと続く前段階の全てを、肉体と同様に、肉体の背後にあるエーテル体で、これまでとは逆に、すなわち、最終的に獲得する「献身」の段階から、その前の「敬虔」の段階、そして、最初の「驚き」の段階を通じて、対象と共に成長するのを学ぶことになるからである。 肉体、つまり感覚器官をもちながら、エーテル体で、活動的な「意志」の中で、対象と共に成長する。「献身」の状態にある人間は、視覚や聴覚、臭覚等々の感覚から、「意志」が、直接、自分の中に流れ込むのを感じる。 そのとき、自分が、対象と直接対応しているように感じる。物質的な眼の背後には、エーテル体の眼があり、物質的な耳の背後には、エーテル体の耳がある。自身のエーテル体の感覚に次第に益々浸透され、活動的な「意志」へと参入するなら、肉体が感覚世界の事象とともに成長するように、エーテル体も成長する。 エーテル体の感覚器に浸透されるとき、自分が全く新しい世界をみていることに気がつく。そのとき、新しい世界は、感覚から出現する対象を通じて、「意志」へと到達したときよりも更に大きな変貌を遂げている。 エーテル体が世界の事象と共に成長するとき、事象が、人間の発想や概念や思考の中にあるような形のままにとどまらない、という印象を持つ。事象は、人間と関係を持つやいなや、変化を遂げる。 (量子論のハイゼンベルグの不確定性関係を彷彿とさせる。) 魂のなかで「献身」の気分を既に経験した人が、樹液に満ちた緑の葉を見る場合を想定する。いわば魂の眼を、目の前の緑の葉という対象に向ける。即座に、この水々しい葉を、今あるような姿にとどめることができないことに気がつく。 つまり、その植物の葉に参入する瞬間、葉のなかに、葉自身を越えて成長する力(作用)を感じる。いかに葉が、自らのなかに、何か全く違ったものになる可能性を持つか、という変容力(作用)を感じる。植物の中では、上の部分ほど成長し、葉が、ついには、色彩豊かな花や、花弁に変わる。 植物全体は、本当は、一枚の葉が変化したものに過ぎない。このような事実を、ゲーテの自然に対する研究から学べる。 ゲーテの研究から、葉を観察するなら、葉がいまだ完成せずに、葉という形態を越え、成長しようとする背後の形成力を理解できる。要するに、緑の葉以上の印象を与える。その緑の葉は、観察者を刺激し、葉のなかに発生し、成長する生命(変容)力を感じるようになる。 以上のように、自身のなかにも生命(変容)力の発生や成長を感じながら、文字通りに、植物の緑の葉と共に成長し追体験する。 では今度は、枯れて乾燥した木の皮を観察する。枯れた木と共に成長を追体験するなら、死の感情に圧倒される。枯れた樹皮のなかに、現実の形態以上の生命力はなく、それ以下の物質力を見る。もし、その樹皮を外見だけで捉えるなら、称賛もでき、喜びも発見できる。 いずれにしても、死んで、物質となった樹皮の中に、自らの魂を、まるで収縮させたり、刺激したり、死に対する考えで満たすような生命力を見ることはない。 エーテル体が成長する際には、宇宙の発展や発生や生成の感情、もしくは衰退や消滅の感情を必然的に生じさせる。宇宙のあらゆるものは、いずれかの側面において自らを現わす。「献身」の段階に到達し、更に次の段階に進んだなら、例えば、人間の喉頭に注意を向ければよい。 喉頭は、進化の初期段階の、将来発達する未完な器官のように見える。喉頭が自ら告げる内容から、喉頭がまるで植物の枯れた果実ではなく、種子のように感じる。喉頭自らが明確に与える表現から、人間進化の途上で、喉頭が完全に変容するときが、つまり、喉頭の本性は、今は単に言葉をしゃべる機能だけだが、将来いつの日か、人間そのものを誕生させる機能をもつときが来ることを知る。 喉頭は未来の誕生のための器官、未来の生殖器官なのである。 現在、人間は、喉頭の機能により、言葉を発するが、将来、人間そのものを発生するように進化していくいわば種子なのである。喉頭は、霊的な観察者に自らの存在を明らかに告げる際、将来、人間を生み出す生殖器官となることを表現する。 人体のその他の器官は、遙か昔に、進化の絶頂期を過ぎ、将来、もはや人間の生体の中には存在しないことがわかる。上記のような観点から、宇宙のあらゆる場所には、成長と生成をする一方で、他方では消滅するような現象を、同時に見る必要性を感じる。 生成と消滅の両方を、未来へと続くプロセスとしてみることができる。(現代物理学の素粒子論のなかの、場の量子論も、生成と消滅を演算子として数学的に捉え、素粒子を表現している。) エーテル体と宇宙との統合を達成するとき、人間の周囲に発生する生命や、死、もしくは衰退が、互いに絡み合っているのを発見する。この霊的な透視力の獲得については、この先、非常に厳しい試練に耐えなければならない。 というのも、「献身」の段階に達したなら、周囲に遭遇する、自身の存在を告げる個々の対象に対して、いちいち、生成される生命の感情と、その逆の死の感情が同時に生じるからである。感覚世界の背後の存在全てが、自分は、この2つの基本力のうちの一方から、この世界にやってきた、という事実を知らせるからである。 以上のように、人間が見る世界は、神秘主義の言葉でいえば、「生成し消滅する世界」と呼ばれる。従って、感覚世界に向かう際には、生成と消滅の世界を覗き見る。そして、その背後には、「支配する『叡智』」が横たわっている。 意志の背後には叡智がある! いま、あえて「意志」を、「叡智」と述べた。というのも、人間の想像の中に表現される叡智は、大体において、生命活動の表現でなく、単なる死んだ思考の叡智だからである。生命活動をもつ意志の背後を霊視するときに、獲得できる叡智は、対象と1つになっている。
2011年09月07日
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「献身」とは、真理の探究を直接行うような心の状態ではなく、事物から流れ出てくる事実の啓示を通じて、真理を求めると同時に、その啓示を受容できるほど自らが成熟するのを待てるような心の状態である。 判断や意見を即座に形成する傾向のある人は、どの段階でも、即座に真理に到達しようとする。 一方、「献身」は、様々な真理へと、強引に押し入ろうとはしない。「献身」では、むしろ自身を自己教育により高め、世界の事物から真理が啓示として流入するように、自身の人間という全存在を満たす成熟段階へと到達するのを静かに待つことを求める。 (「急がばまわれ、急いては事を損じる。」という諺を彷彿とさせる。) 忍耐が、自己教育において、益々、先へと進めてくれることを知りながら、忍耐強く働くことが「献身」の気持ちに適う。 では、この「献身」がもたらす効果について考察する。 思考をもって、「驚き」から「敬虔(謙虚)」へ、そして事実(現実)との叡智に満ちた「調和」の中で、自身を感じることへと進んだ後、ついには「献身」の態度へと到達したとき、何を達成するのか? それは次のようなことである。 「この世界に生き、植物の素晴らしい緑を観察し、その変化する花の色を称賛するとき(評価するのではなく、対象自身が何者であるかを明かすようにさせる)、あるいは空の青さや金色に輝く星をじっと眺めるとき、もし、本当に、この『献身』を学ぶことに成功していたなら、感覚世界の全ての対象が、変容体となり、自らの魂から取ってきた言葉以外では言い表せないような言葉が、感覚世界の中に現れる。」 (シュタイナーは、宇宙言語、もしくは宇宙語と呼んでいる。聖書のロゴスのことである。) 以下の図1の線分a-bが、人間の視界に広がる感覚世界を示すものとする。cに立って、眼前にベールのように広がる感覚世界を見る。線分a-bは、聴覚に働きかける音や、視覚に働きかける色や形や、その他の感覚器官に働きかける匂いや味や、硬さや柔らかさ等々で、要するに感覚世界全体を表わす。 通常の生活では、人間は感覚世界の中に立ち、対象に対して、判断力を適用する。このような判断力から、科学全てが生じた。人間は感覚世界に関して、様々の方法を用いて、その支配法則を探求する。 しかし、これまで述べてきた内容からわかるように、そのような手続きからは、人間を、真理の世界へと導くことはない。何故なら、人間の判断は、真実の導き手ではなく、真理の世界へと到達できるのは、ただ「驚き」や「敬虔(謙虚)」他の道筋を辿りながら、自らの思考を自己教育に用いる方法のみだからである。自己教育により、魂が、「献身」の状態に到達したなら、感覚世界は、変化し、全く新しいものとなる。そして、感覚世界の真の性格について、何らかの知識を得るなら、感覚世界のなかの真の存在を発見することが重要となる。 では、この「献身」の感情と態度を、かなり高度に発達させた人間が、水々しく輝く緑の牧草地を見渡す場合を想定する。一見しただけでは、個々の植物のどんな色も見分けることはできない。全体が新鮮な緑の様相を呈するだけである。 もし、「献身」の態度を、高度に発達させていたなら、牧草地を見れば、「調和」の感覚が内に生じる。この「調和」の気分(停滞したような調和ではなく、活力のある調和だが)を感じるように促される。それは静かにゆったりと流れる水に喩えられる。 このような光景が、魂の前に魔法のように出現する。そして、それは、味覚や臭覚他のあらゆる感覚知覚に対しても同様に現れる。その光景は、魂の中に、必然的に内的な感動や活動的な感情を呼び起こす。 全ての色や音等が語りかける。そして、それらは、判断や意見などではない、内的な感動や生命的な活動をもって問いかけ、自ら答えるような形で語りかける。 要するに、「献身」に達した人に対しては、感覚世界がいわば仮面を脱ぎ捨て、「意志」という言葉でしか言い表せないような本性(叡智)を、自ら明らかにする場面が訪れる。感覚世界の事物全ては、力強い「叡智」の流出である。 特に、次の点に注目して欲しい。多少なりとも高い「献身」の段階に到達した人は、感覚世界の至る所に、「支配する『叡智』」を見つける。「献身」の性格をたとえわずかでも、自らの中に発達させたなら、例えば突然向こうから、吃驚するような色の奇抜なファッションで来る人を見たときには苦痛を感じる。 「献身」に達した場合、外から近づいてくる存在に対して、内的な感動や活動を必然的に経験する。あらゆる対象に内在する「意志」に敏感であると同時に、この「意志」を通じて、全世界と1つに結ばれているように感じる。 以上のように、感覚世界は、いわば無限の多様性を持つ「意志」の海になる。そして、もし、この事実が理解できなければ、周囲に広がる感覚世界が、閉鎖的な仮面を被るか、もしくは深い覆いを身に纏い始める。 「献身」に達した心は、感覚世界のなかの事物という表面の奥にある本性を見聞きし始める。そして、見聞きするのは、流れる「意志」である。 (現代物理学では、負のエネルギーを数学的に算出しているが、負のエネルギーとは、物質を前提として、二元論から、物質がゼロになる極限を一元的に想定し、基準にしているので、このシュタイナーが説く「流れる叡智」を想定していないため、負のエネルギーという奇妙な換算値が現れる。 よくよく考えてみれば、金持ちが、大金を使いはじめて、貧乏になり、それでも浪費癖がおさまらずに、使い続けると、無一文という段階をすみやかに越えて、今度は負債者になるのと同じで、物質が、エネルギーを消耗し続けると、金持ちが負債者になるように、理屈でいえば、作用が反作用となって、反物質が、負のエネルギーにより生成されるようになる。 つまり、物質は本性ではなく、仮想であり、本性は、金持ちの浪費癖のような、物質をどのように制御し、変換する作用にあるわけで、この世界を作り出しているのは作用であり、つまり神々の意志そのものであることに気がつく。人間も皆、神々の子供なので、同じように意志をもち、この意志の扱い方で、世の中も成り立つ。) ここで、ショーペンハウアーの読者の興味のために述べると、彼は、この「意志」を、ある一面的な方法で、つまり音響の世界に関して言い当てた。彼は音楽を、多様な「意志」の働きとして記述した。 (音響からわかるように、全ては「意志」の波動から構成される。) しかし、本当は、「献身」を学んだ人にとっては、感覚世界の全てが「意志」である。 さて、感覚世界のあらゆる場所に、この「意志」の感知を学んだなら、更に先に進むことができる。もし、「献身」を学んでいなければ近づけない感覚世界の背後の隠された秘密へと参入できる。
2011年09月06日
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では、事実の干渉により妨害されないとは一体どういう意味なのか? つまり、概念を自由に洗練するに際し、逆に、事実は、どのような妨害をなし得るのか? もし、人間の思考を、神の思考と対比してみれば(この対比は、純粋な仮説だが、仮説にとどまらないことが後にわかる。)、どのような妨害が生じるかを、多少なりとも思い描ける。というのも、神の思考が、事実と関わりをもたないことなど考えられないからである。 神の思考が事実とは関係ないなどといえるはずがない。 神の思考は(まだ純粋に仮説だが)、常に事実に介入し、事実に影響を及ぼす、としか考えられない。このことから、人間の思考が、ある間違いを犯すとき、それは単なる論理的な間違いであって、それ以上に悪いものでなく、後に、自分の間違いを悟るとき、その間違いを正せる、という結論に必然的に導かれる。 そのとき同時に、自身の自己教育として、なんらかのことを成し遂げたことになる。人間は、間違いを正すことで、賢くなる。 一方、神の思考ではどうか? 神の思考が正しくなされたなら、創造が行われる。逆に、間違いがなされたなら、破壊が生じ、何かが消滅する。 つまり、人間が、もし、神の思考を行えるなら、間違った概念を持つ度に、ある破壊が生じ、例えば、はじめに、自身のアストラル体の中に、次にエーテル体の中に、そして最終的に、肉体の中にも破壊が生じるだろう。 もし、人間が、能動的な神の思考を行えたなら、つまり、もし、人間の思考が、事実と何らかの関係を持つなら、間違った概念を持つことは、思考者自身の内部を刺激して、身体のどこかに死へのプロセスや、硬化のプロセスを生じさせる結果となっていただろう。 つまり、身体を破壊しないために、人間は、できる限り、間違わないようにするしかないことがわかる。何故なら、もし、数多くの間違いを犯せば、その結果として、身体が破壊され、硬化し、干からび、粉々に崩れ落ちることになるからである。 実際、もし、人間が、間違った考えを事実へと変換できたなら、すみやかに身体が粉々に砕けるのに気づくだろう。 つまり、人間が実際に、自分を現実的な存在として維持できるのは、人間の思考が、何ら事実に働きかけることがないということ、すなわち、人間の思考が現実にならないように、事実に干渉しないように、人間が守られている、お蔭である。 このように、人間は、次から次と間違った考えを持てる。もし、後に、間違いを訂正するなら、それにより、自分を教育し、より賢くなり、自分の間違いのせいで、自分が荒廃することにはならない。 以上のような考えと同時に、自分を道徳の力により、益々強化するに従い、「献身」の意味を次第に理解できるようになる。そして遂には、人生の決定的な瞬間において、外的な事物に対する知識や理解を獲得する希望を持ち、思考に依存しない段階にまで到達できる。 以上のことは、一見奇妙に聞こえ、思考を捨てることなど不可能なように思える。 一体全体、思考への依存を拒否することなどできるのか? 確かに、厳密にいえば、思考への依存を拒否することなど不可能だが、ある条件下では可能となる。現象界の中に、人間として組み込まれているので、現象界の出来事に対して、いつでも判断を保留するというわけにはいかない。直ちに判断し、意見を形成しなければならない。 すみやかな判断と意見の形成に対しては、この連続講義の中で、その理由を見ていく。人間は、生きながら、活動しなければならず、いつも事実の深層へと参入するのを待てるわけではない。すみやかな判断が必要とされる(但し、判断や意見が正しいと認める際は、十分注意するように自己教育すべきである)。 つまり、人間は絶えず、まるで肩越しに振り返りながら、人間のもつ最も鋭い知性を働かせることで、正にそのような知性こそ、非常に不確かな地盤の上を歩いていることになり、どこまでも間違いを重ねる可能性があるということを心に留めておく必要がある。 以上は、自惚れの強い人には厳しい言い方になる。自惚れの強い人は、何らかの事柄に対して、自らの意見が決定的であるかどうかを疑う必要があるなら、いかなる結論に到達するのも不可能であると考える。 周囲をちょっと見廻せば、非常に多くの人が、何らかの意見に対して、「しかし、私はこのように思うが。」というように、自分の意見を述べる必要があると考えているのに気づく。もしくは、「私は好きじゃない!」とか、「私は好きだ!」と即座に自分の意見を述べる。 人生を、安易な自惚れで生きることに満足しないようにするには、この種の態度を捨て去る必要がある。事実へと、内(精神)的な生活の進路を取りたいなら、安易な自惚れを捨て去る必要がある。安易な自惚れを捨てるには、次のような言葉で特徴づけられる態度を養成する必要がある。 「勿論、私は自分の人生を生きなければならず、それは、私が判断を下し、結論を出す必要があることを意味している。だから、私は、人生における実践を必要とする限りにおいて、私の判断力を行使しようと思う。 しかし、私は、私の判断を、真理の把握に使おうとは思わない。私は、どこまでも注意深く下した判断を、いつでも、ある程度の疑いをもって振り返る。」 しかし、通常の方法で判断を下せなければ、一体どうやって真理に対する考察へと至るのか? 既に以前、真実は、事物そのものに語らせるようにすべきであること、つまり、事物自身に、事物の秘密を告げるようにすべきであることを述べた際に、正しい心の持ち方も示唆した。世界の事物に対して受動的な態度をとり、事物自身に自らの秘密を語らせることを学ぶ必要がある。 もし、上記のことができたなら、非常に多くの間違いが回避できる。上記のことができた素晴らしい人物の例としてゲーテがいる。彼は真理の探究の際、自らの勝手な判断を許さず、事物そのものに、自らの秘密を語らせるようにした。 さて、ここで、単純明快な例を取りあげる。いま2人の人物がいて、1人は判断を行い、もう1人は事物に自らの秘密を告げさせる。前者が1匹の狼を観察し、その特徴を記述するが、他に、狼に似た動物がいるのを見て、その動物の特徴も記述する。このような記述を通じて、前者は「狼」という一般概念に到達する。 上記の考えを進めれば、次のような結論に至る。 「現実には、個々の多くの狼がいるが、自分が心の中に描いた「狼」という一般概念は存在せず、世界には個々の狼がいるだけである。」 このような人物は、個々の狼だけが問題であり、心に抱いた一般概念としての狼は、何ら現実ではない、というような安易な意見を述べる。 このような結論を導く人物の中に、自分で判断し、意見を形成する人間の驚くべき例を見つけることができる。 では一方、事実そのものに自らを語らせる後者の場合はどうか? 後者は、個々の狼の中に見つかり、全ての狼を等しく特徴づける不可視の特徴について、どう考えるか? 後者は、次のように言うだろう。 「狼を羊と比べてみる。ただ私は、この比較については判断しない。事実に語らせるだけである。」 さて、後者の人物が、目の前で、狼が羊を丸ごと食べるのを見る機会をもった場合を想像する。後者の人物は、面前で、その出来事を見て、次のように言うだろう。 「羊として、以前走り回っていた物質は、今は、狼の中にあり、狼に吸収された。」 このような事実を見るだけで、狼の本性を知るには十分である。何故なら、外的な感覚により追求が可能ならば、他に何も食べるものがなく、狼が、羊しか食べなかったなら、狼のなかで進行する新陳代謝の結果、徐々に、狼のなかには、羊という物質しかない状態に至るに違いない、という結論に容易に導かれるからである。 しかし、実際問題、狼は羊になることは決してなく、いつまでも狼のままである。事態を正しく評価するなら、狼が羊を食べても羊にならないという事実は、狼の中の物質部分(いまは羊由来の物質)が、いわゆる「狼」という全体を構成するもの、と考えてきた知識は間違っていることを、はっきりと示している。 (狼という物質存在が、羊を食べれば、羊という物質存在になるべきだが、羊にはならず、狼のままであるから、羊という物質が、何かに変えられなければならない。つまり、羊を狼に変えているのが、狼の本性である。) 外的な事実の世界が教える通りに見るなら、それは、狼のなかには、物質的な実質の他に、何か別の、人間には見えないが、何か最高度な事実の存在が明らかになる。 そして、この最高度の事実の存在が、狼が羊しか食べるものがなく、狼のなかの単に感覚的に知覚可能な物質全てが、羊に由来するようになったときにも、羊にはならず、狼のままでいることを可能にする存在である。 判断することと、事実が自ら教えるのに委ねることとの間に明解な線を引いて区別することは時として困難である。しかし、その違いを一度把握し、判断を実際生活上の面に限定して用いる一方で、事実へと近づくために、世界の事物が教える事実に従うという態度を取るなら、少しずつ「献身」の意味を明らかにする魂の状態へと到達できる。
2011年09月04日
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