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太陽が体現するイメージを、霊感(インテュイション)の中に、想像すれば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の前に立つときに経験する感情が生じる。 「最後の晩餐」は、かつて「太陽」紀に生じ、後世へと伝えるために選ばれた「存在」たちから反射され、返された全「太陽」の内容である。その内容は、魂により把握されるが、犠牲を捧げる「存在(意志霊)」、与える徳の「存在(叡智霊)」、魂を暖める喜びと光に満ちた荘厳さの「存在(時間霊、火の霊)」とともにある。 以上全ての太陽紀の「存在」は、特に「地球」のために、同時に、裏切り者によって拒絶される可能性とともに、設えられた。 「地球」上に再現された「太陽」紀の「地球」は、上記のように経験できる。外的、知性的な方法ではなく、真に芸術的方法で感じるなら、「地球」の精髄を反映する偉大な芸術作品の中に、真の太陽の推進力を経験できる。 次に、「最後の晩餐」を見るとき、「キリスト」がいかに「太陽」の環境から育ってきたか、ということを知ると同時に、しばしば語ってきた事実をも理解できる。 もし、「火星」にすむ精神(霊)的存在(火星人)が、「地球」にやってきて、地球で遭遇する全てが理解できなくても、レオナルドの「最後の晩餐」をみつけ、自分の魂のなかに作用させたなら、その存在(火星人)は、「地球」の使命を理解できるだろう。 火星の住人は、「太陽」が、「地球」の内部に隠されている事実を理解できる。人智学徒が語ることのできる、地球のなかの太陽の重要性について、火星の住人には明らかとなるだろう。その火星の住人は「地球」の意味を理解し、「地球」にとって重要なものを知るだろう。 火星人は、次のような結論に到達するだろう。 「この最後の晩餐は、宇宙のどこかで起こったことであり、地上の片隅だけで意味をもつものではない。もし、この中央の人物と、それを取り巻く人物たちとの関係から絵画の色彩として、鑑賞者に向かって流れてくる行為全てを、本当に表現できたなら、太陽上での叡智霊の与える徳という経験が、この中央の人物による「Do this in remembrance of me.私の記念として、このように行いなさい」(☆)という言葉の中に木霊している事実を感じとれる!」 (中央のキリストが、叡智霊で、12人の使徒が、大天使に相当する。) 最後の晩餐 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90_(%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89) 最後の晩餐には、未来における過去の保存がある。上記のキリストの言葉を理解するには、人智学徒が、秘儀参入から学んできたように、全宇宙の歴史的経緯から、真相を把握する必要がある。 ここで指摘したかったことは、第一級の芸術的な創作行為が、宇宙全体の進化に関連しているという事実である。 次の太陽紀PART2の講義では、「月」紀の精神(霊)的な「存在」に対する観点へと進むために、「太陽」紀の精神(霊)的な「存在」に対する観点から、「キリスト存在」を理解することが重要となる。(☆)「私の記念として、このように行いなさい」 参考)http://www.koshien.net/FR/JIROKOIKE/KANTOGEN/200403.html 以上のサイトを参考にすると、キリストの言葉は以下のように要約できる。キリスト=イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げ、パン(肉体)を裂き、「これは、あなたがた(大天使)のための私(叡智霊)の体(徳)である。私の記念(宇宙史)としてこのように行いなさい」と言った。また、食事後、杯(霊魂)もパンと同じようにして、「この杯(光)は、私の血(与える徳)によって贖える新しい契約である。飲む度に、私の記念として、このように行いなさい」と言った。だから、「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む毎に、主(キリスト)が訪れる(復活)まで、主(イエス)の死(人間の死)を告げ知らせなさい(イエスの死を知る者は、死後、キリストに出会うこと)。」 つまり、キリストは、太陽紀に起こったことを、地球で再現し、このキリストの行いを使徒たちを通じて知らせ、キリストの行いのように自己犠牲を行えば、死後、復活したキリストに出会い、祝福され、自らの魂も復活するようになる、というわけなのであろう。 生前のキリスト=イエスの行為を知る者だけが、死後、キリストを霊視できるわけである。)
2011年05月31日
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「太陽」の領域(空間)は燃える熱と犠牲の煙という外に向かって注ぎ出される贈り物から成立している。 外縁には光の創造者である「大天使」がいて、「太陽」上で過去に生じていた事象を反射している。「時間」が経つと、最終的に、犠牲の煙(時間)が光(空間)として差し返される。 では、「大天使」は何を保持したのか? 「大天使」は、過去に生じていた事象を保持したが、その事象は、「叡智霊」の贈り物である。「大天使」は贈り物を受け取った後、それを反射し、戻したが、その反射の行為により、以前には「時間」だった贈り物を、「空間」として返した。 「時間」を「空間」として反射し、戻すことにより、「大天使」たちは自身が「時間霊(アルヒャイ)」として受け取っていた贈り物を返した。つまり「大天使」は、原初の天使たちとなる。というのも、「大天使」は、過去から存在していたものを後の未来にもたらしたからである。 「大天使」とは原初(アルヒャイ、「時間霊」)の御使いたちである! 秘儀の真の知識から、以上のような「言葉」が再現される。この「言葉」が太古の伝統の中で生じ、パウロの弟子であるディオニシウス・アレオパギタの学院を通じて、人智学徒にまで伝えられた、という経緯を思い出してみるのは素晴らしい。 ディオニシウス・アレオパギタ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%AE%E3%82%BF/ 偽ディオニシウス・アレオパギタ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%AE%E3%82%BF この言葉が、人智学徒の心のなかに、深く刻印されたために、この言葉を記した書とは別に、この言葉の意味を再発見し、原初の意味が再起してくることは、素晴らしいことである。この言葉は、人智学徒を、大いなる尊敬の念で満たす。 同時に、秘儀の叡智に参入するための太古の聖なる秘密の学院に結びついているようにも感じる。この太古の伝統が、自らの魂の中に流れ込んでいるかのようであるが、人智学徒は、自身の責任で、その古い伝統とは別に、同じ知識を獲得し、人智学による理解から把握している。 人智学徒に伝えられてきた太古の表現形式のなかにある叡智の雰囲気を経験できる人なら、たとえその伝統に気づかなくても、精神の内にある時間霊の影響下に置かれていることを感じとる。人類の進化全体に結びついているという素晴らしい感情や、上述の事実に関する確かさの感情が生じる。 「大天使」たちは、原初の意味を元型として保持している。地球の過去の状態上に存在していた事象は何であれ、後の時代にも繰り返されるが、後で現れるときには、常に何か別の事項がつけ加えられる。従って、ある意味、現在の「地球」上に見つけられる中にも、「太陽」の存在に遭遇する。 (歴史は繰り返すが、過去とは若干異なる部分が加わる。これはカオスのストレンジアトラクターの軌跡と同じである。また、現在の太陽の作用は、地球のなかにある過去の太陽の影響を通じて受けているともいえる。月の影響による潮の満ち引きは、現在の月というよりは、地球のなかにある過去の月の影響を多大に受けているという。) 人類が発達すべき、以上のイマジネーション(霊視)、すなわち、以上の感覚が与えるのは、犠牲を捧げる「意志霊」のイメージと、その供儀を受け取る「調和霊」のイメージ、そして、その供儀から放射される煌き「叡智霊」のイメージや、空気(空間)のように拡散する供儀の煙「時間霊」のイメージ、更に、原初に生じたものを後の時代のために保存するアルヒアンゲロイ(大天使)から反射する光のイメージである。 (上記のイメージから連想されるのは、契約の箱「アーク」や、神輿である。契約の箱や、神輿の上に乗っている鳥は、ケルビム「叡智霊」のイメージである。台座は、トローネ「意志霊」のイメージで、台座を担ぐことは、台座の下敷きになるので、犠牲を意味する。ここから人柱が生まれたのだろう。 翼のような装飾は、アルヒャイ「時間霊」のイメージで、箱や神輿を金で覆うのはアルヒアンゲロイ「火の霊」のイメージだろう。つまり、契約の箱や神輿は、地球の太古の姿の、太陽をイメージしたものである。だから、日本の祭りは、太陽神を祀る秘儀参入法が元型なのであろう。そもそも、日本は、太陽の本という意味であるし、ヤマトとは、「ヤハウエ神の民」という意味だという。 例えば、祭りの掛詞の「ワッショイ」は、ヘブライ語では「主の救いが来る」という意味になる。また、「ワッショイ」の逆読みの「ショイワ、セイヤ、ソイヤ」は、「主の贈り物」という意味になる。だから、祭りというのは、宇宙の歴史を直に体験し、魂の経験を通じて、宇宙の歴史を教える行事なのではないかと思う。 以下、参照のこと。 http://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/200702020000/) 「太陽」に対する霊視から生じる感情が、人類の魂の中に呼び起こすイメージは、「太陽」紀に行われた神の創造に関連した全事象に対する理解である。 いま、自らの魂の状態から描写した太陽の環境は、以前、物質的な表現を通して「神秘学概論」で達成した記述を、精神(霊)的な観点から提示する。そして、いま、キリスト存在として、「地球」上に現れた存在が生まれるのは、この太陽の環境からである、という事実を理解できる。 キリスト存在が「地球」にもたらした贈り物を理解するには、「太陽」内部の霊的実質に向けて、宇宙光が反射され、この光によって、太陽内部は、浸透され、「与える」という慈悲を生じさせる徳の概念が、照らし出されるが、この徳の概念を、自らのものにしなければならない。 もし、今述べたようなイメージを掲げ、このイメージをイマジネーション(霊視)へと変容させ、キリスト存在が、地球へともたらし、体現した本質を理解するなら、キリスト衝動という精神(霊)的存在を深く経験できるだろう。 人間の魂の中に眠るボンヤリとした暗示(刻印、徴候)が、このイメージの表現により現出され、「地球」上に再現できることを感じ取るとき、このキリスト存在の暗示(刻印、徴候)が理解できるようになるだろう。 「太陽」上の事象が、ある「存在」の魂の中に集積され、完全に濃縮され、後に再び前面へと現れることを想像してみる。 この「存在」は地上に現れ、意志霊トローネの調和霊ケルビムへの犠牲となって、煙、すなわち光を生じさせた時間霊アルヒャイを創り出し、叡智霊キュリオテテスの与える行為の元型である、与える徳から、賦活する慈悲の精髄を受け継ぎ、魂のなかの熱と輝く光が、宇宙から反射されるように火の霊アルヒアンゲロイの働きを行った。 (つまり、キリストは、地球に、霊的な太陽をもたらした。) 「太陽」上の全事象がたった1つの「魂」の中に濃縮され、その「魂」が、全事象を「地球」に受け渡す様がイメージできる。「太陽」上の全事象を反射し、返すと同時に、後に残る「地球」のために、全事象を保持する意図を持った者たちが、その「魂」の周りに集まる。 太陽の中心には、犠牲を与える存在がいて、この「存在」の周りには、犠牲を受け取る存在がいる。太陽のイメージのなかに結びつけられるのは、地上の存在へと置き換えられた「犠牲」を受け取る可能性と、この犠牲を拒否する可能性である。 人間に慈悲を呼び起こすために、与えられる犠牲全ては、拒否されるか、もしくは受け取られるかのどちらかである。
2011年05月31日
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地球を、現在の状態のままでなく、過去の時代に生じた事象が現在にも再度流れ込んで来ているものとして想像すべきである。 人智学徒は実際、過去の事象の影響が現在にも生じている事実を知っている。現代人が生きる現在は、人智学でいうポスト(後)アトランティス時代の第5文化期だが、第3文化期である古代エジプト-カルディア時代に生じた出来事が、現代にまで流れ込んで来ている。 (余談だが、いま巷で有名になっているマヤ文明でも、現在が第5文明であり、マヤ文明の解読から、次の第6文明がはじまるのが、2012年12月12日、もしくは21日といわれているが、人智学では、もっと遅く、2030年辺りといわれている。 新しい文明がはじまるには、古い文明の破局がはじまるわけで、それは恐らく、物質文明の終焉だろう。物質文明は、古代ギリシア文化-ローマ文明からはじまったが、ようやく終わりを迎え、その前の古代エジプト-カルディア文化に似たものだが、新しい文明としてはじまるわけである。人智学では、ロシア文化と名づけられている。) 第3文化期に生じた出来事が再び出現し、反射される。それは、「太陽」紀に生じた、与える行為と受け取る行為の再現でもある。 以上のように、「叡智霊(キュリオテテス)」を「太陽」紀の譲与者、「大天使(火の霊、アルヒアンゲロイ)」を受容者と見なすことができる。このような意味から、特筆すべき真相が生じてくるが、それを正確に思い描くには、「太陽」を、譲与される贈り物が中心から放射してくるような内的に閉じた天体としてイメージする必要がある。 中心から外側の周辺へと、贈り物が放射され、周辺に到達すると、再び反射され、中心点へと戻るような閉じた天体である。「大天使(アルヒアンゲロイ)」たちは、自分たちが受け取った贈り物を、天体の表面の内側から再び反射する。 天体の表面の外側を想像する必要はない(何も存在しない)。天体の内側の中心から外に向かって送られる贈り物を想像すべきだが、それは「叡智霊(キュリオテテス)」から与えられる。その贈り物は、あらゆる方向へと放射され、「大天使」により、受け取られ、再び、中心へと反射され、返される。 空気(空間)中へと反射し、返される贈り物とは何なのか? 再び反射される「叡智霊(キュリオテテス)」による贈り物とは何なのか? 再度、源泉(中心)へと向けられ、放射される叡智とは何なのか? それは「光」である。 「大天使(火の霊、アルヒアンゲロイ)」たちは光の創造者でもある。光は、外的な幻想の中に現れる存在ではない。光が生じる場所ではどこでも、「叡智霊(キュリオテテス)」による贈り物が、人間に向けて「大天使(アルヒアンゲロイ)」により反射されている。光の背後にいる存在は、「大天使」たちである。 従って、溢れる光線の内部には、「大天使(火の霊、民族霊、アルヒアンゲロイ)」たちが隠れている。人間のところへと来る溢れる光線の背後には「大天使」たちが隠れている。光を流出する「大天使」たちの能力は、「叡智霊」たちが、「大天使」に向けて放射する譲与の徳から生じる。 以上のように、「太陽」のイメージに到達できる。従って、つぎのように想像できる。 「太陽」という天体の中心では、「叡智霊」たちが、「土星」から受け継いできた遺産、すなわち、「意志霊(トローネ)」による「調和霊(ケルビム)」への犠牲行為に対するイメージの中に参入している。この犠牲行為に対して、共感することで、「叡智霊」は、自身の内実、すなわち、譲与の徳という形で、浸透する叡智を自発的に放射するように促される。 この譲与の徳は、時間に浸透されているため、送り出された後、再び反射されるが、そのため、人智学徒のイメージのなかにあるのは、源泉、つまり中心へと反射し、返される徳により、内側が照らし出された天体である。 いま想像すべきイメージは、外に向かって輝くのではなく、内に向かって輝く「太陽」である。この内に向かって輝く太陽により、新しい事象が生じるが、それを次のように記述できる。 「叡智霊」が「太陽」の中心で、犠牲を捧げる「意志霊」について共感し、自身の存在を、遙か彼方の周囲へと放射する。そして、「叡智霊」が放射した譲与の叡智は、天体の表面で、「大天使」に受け取られ、再度、光の形で戻る。 そのような繰り返しにより、全ての存在が次第に益々照らし出されるようになるが、「大天使」が反射し、返す光から、「叡智霊」が受け取るものとは何か? 大宇宙への贈り物として捧げたのは、「叡智霊」自身の存在、すなわち、「叡智霊」のなかの最奥の存在である。それが、「大天使」により反射されて戻ってくる。つまり、「叡智霊」自身の存在が、外から、再び、「叡智霊」へと戻ってくる。 従って、「叡智霊」は、大宇宙全体にばら撒かれた自身の内的存在が、光として、つまり、自身の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見る。 そして、今や、内と外とが2つの対極として、魂の前に立ち現れる。「時間」の前と後が、自ら変容し、内と外になり、空間が生まれる! 「叡智霊」により与えられた授与の徳という贈り物から、「時間」を通じて、「太陽」上で空間が生じる。「土星」紀では、空間とは、単なる寓意(比喩)的な意味しか持たない存在だった。しかし、「太陽」上には、実際の空間が生じたが、それでも2次元的に過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけである。 実際には、内と外の2つの極は、「土星」紀の終わりには既に現れていたが、「太陽」上での空間の創造に際し、再度、その過程が繰り返された。 (「意志霊」から「調和霊」への自己犠牲と、その行為に共感し、「叡智霊」から「大天使」への譲与と反射の創造過程は、数学でいうフラクタル画像作成のパイコネ変換に表記できる。) もし、「土星」において、犠牲を捧げる「意志霊」が「時間霊」を生じさせた出来事をイメージしたのと同じように、「太陽」上の全ての出来事をイメージしなおすなら、(現在の太陽のような)光からなる天体を思い描いてはいけない。というのも、「太陽」上の光は、現在のように、外に向かって放射せず、内に向かって反射(放射)していたからである。 「太陽」を、内的な閉じた空間の天体としてイメージする必要がある。「太陽」の中心では、「土星」のイメージ(事象)の繰り返し、つまり、ケルビムの前に跪「意志霊」と、「意志霊」が自身の存在を捧げる「調和霊」という翼を持つ存在たちの行為がある。 (太陽の中心には、熱「エネルギー」のやりとりがある。人間の自我も同じである。) 加えて、犠牲の共感の中に浸る「叡智霊」が生じる。今、想像できるのは、犠牲(「意志霊」の犠牲の火)の中に横たわる煌きが、「叡智霊」の自己犠牲へと変容するイメージだが、その自己犠牲の物質的な表現は、犠牲行為の間、捧げられ、煙として生じる空気(空間)である。 従って、次のようにイメージするなら、完全に霊(精神)的な宇宙構造を獲得できる。 ・「調和霊(ケルビム)」の前に跪き、犠牲を捧げる「意志霊(トローネ)」・「太陽」の中心では、「意志霊(トローネ)」の犠牲のイメージを前にして祈りを捧げる叡智霊の合唱・「叡智霊(キュリオテテス)」の献身は犠牲の煙のイメージとなり、あらゆる方向に広がり、外へと流出し、周辺で雲へと濃縮する・「大天使(アルヒアンゲロイ)」が煙の雲から生じる・周辺から、犠牲の煙という贈り物が光の形を取って反射し、返される・「太陽」の内部を照らし出す光・「叡智霊(キュリオテテス)」の贈り物が差し返されることで、「太陽」の領域(空間)が創造される。
2011年05月30日
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さて、もし、「太陽」紀に現れ、「土星」紀を通じて、既に存在していた霊たちに加わった「叡智霊(キュリオテテス)」たちの特徴とはどのようなものか?と問うなら、次のように答えられる。 『「叡智霊(キュリオテテス)」たちは、はっきりとした特徴として、与える、授ける、恩寵を行使するという徳をもっている。』 もし、「叡智霊(キュリオテテス)」という存在の定義を見つけるなら、宇宙における偉大で、大いなる譲与者であろう! トローネを偉大な犠牲者と呼んだのと同じように、キュリオテテスは、偉大な譲与者であり、その贈り物を授ける存在から宇宙は織りなされ、生かされている。何故なら、「叡智霊(キュリオテテス)」は、自身を宇宙の中に注ぎだし、最初に秩序を創出した存在だからである。 「太陽」上での「叡智霊(キュリオテテス)」の影響とは偉大なる譲与である。つまり、「叡智霊(キュリオテテス)」は自身を、その周囲に向けて与える。 しかし、もし、外的な観察として顕れる事象を、高次の認識で捉えるなら、「太陽」上では何が生じるのか?と問うだろう。 「太陽」を外的に見れば、「神秘学概論」の中で記述した事象が観察される。「土星」の熱に加え、「太陽」は、空気(空間)と光からも構成される。しかし、「太陽」は熱だけでなく、空気(空間)や光からも構成されている、と言うなら、例えば、地球の景色に対して、遠くに灰色の雲が見える、と言うのと同じである。 もし画家なら、上記の景色から得られる印象の通り、灰色の雲を描くだろう。しかし、その雲に実際近づいてみたら、実は虫の大群である場合もある。実際、遠くでは、灰色の雲のように見えた存在は、無数の生命である場合もある。 遠く離れた場所から、「太陽」紀について霊視する際も、上記の地球の景色と似たような状況にある。遠くから見ると、「太陽」は空気(空間)や光からなる天体に見える。しかし、接近して見れば、もはや空気(空間)と光からなる天体ではなく、「叡智霊(キュリオテテス)」による授与という大いなる徳が現れてくる。 空気(空間)を、外的で物質的な性質に従って記述するなら、空気(空間)の真の本質を見つけることはない。物質的な性質は幻想(マーヤ)であり、外的な顕現に過ぎない。宇宙においては、空気(空間)の存在の背後には必ず、贈り物を授与する「叡智霊(キュリオテテス)」の行為がある。 織りなし、働き続ける空気(空間)は、大宇宙の霊による授与という徳を顕している。空気(空間)の真の本質を霊視できる人だけが、空気(空間)の真の要素を知覚でき、実際、「叡智霊(キュリオテテス)」が贈り物を周りに与え、空気(空間)が「叡智霊(キュリオテテス)」から周囲へと流出している真相を知っている。 以上のように、神秘学者が、「太陽」は空気(空間)からなっている、と述べる際、本当は、背後の存在について語っていたことがわかる。人智学徒は、外的に、空気(空間)として現れるものは、実際は、「叡智霊(キュリオテテス)」たちが、自身の存在を周囲へと流出させている活動である、ということを知っている。 ところが、この段階で、超感覚的な認識の前に、「太陽」上での顕著な出来事が出現する。この出来事を理解するためには、「譲与」という徳に対しての正確な考えを、自らの魂の経験の中から想像できなければならない。 これまで記述してきたような、供儀の気分の中での知覚や認識を、自らの魂のなかに浸透できたときに持つ感情を、再度、創出してみる。上記のように魂のなかに浸透できた知覚や認識は、特別な感情を起こさせる。 それは科学的な思考ではなく、非常によく似た経験としては、芸術分野において見つけられる。芸術分野では、1つの独立した実体を、世界に提示するために、色彩や形態の表現方法を習得する必要がある。 上記のような贈り物を与える能力を持った存在を特徴づけるなら、この贈り物に結びつくのは生産性、創造性といえる。というのも、与える行為そのものが創造的な活動だからである。芸術的な思考が世界に治癒をもたらすものと感じ、芸術作品の形で提示するなら、与える徳のもたらす果実を正しく理解できる。 では、芸術家の心の中にある創造的な思考が、物質の中にいかに顕現するかについて考察する。つまり、この創造的思考とは、空気(空間)の背後の精神(霊)的な存在なのである。空気(空間)がある場所には、創造的な活動がある。 この生きた創造行為が「太陽」上で生じたことで、空気(空間)と創造的な活動は関連している、という事実を霊視できる。 (人間の思考は、呼吸による大気の吸収にあると、神秘学では考えられている。酸素欠乏症に陥ると、思考能力が落ちるのは、その証拠といえるだろう。地球の大気の酸素と窒素の割合は、人間の思考のためにあるともいえる。) また時間霊が、「土星」上で誕生したので、「太陽」上にも「時間」が存在していたことがわかる。「時間」は「土星」から「太陽」へと到来し、「太陽」紀にも「時間」は存在していた。「叡智霊(キュリオテテス)」による原型的な「与える」行為が存在したことで、「土星」上では決して生じることのない可能性が「太陽」上には存在した。 では、もし、「時間」が存在しなかったら、「与える」行為はどうなっていたか?を考察する。 つまり、与える行為は、与える側と受け取る側の両方から成立するので、「時間」がなかったら、「与える」行為もなかっただろう。受け取る側なしに、与える行為は考えられない。従って、与える行為は、与える側と受け取る側の2つの行為から成立している。 受け取る側がなければ、与える行為は何の目的もなくなってしまう。「太陽」上では、与える側は、受け取る側に対して、非常に特別な関係にあった。「太陽」上には既に時間が存在しているので、「太陽」の周囲へと送り出される贈り物は「時間」の中に保存される。 「叡智霊」たちが贈り物を注ぎ出すとき、それは「時間」の中にとどまる。時間のなかにとどまった贈り物を、受け取る側がいなければ、与える行為は成立しない。叡智霊たちの与える活動との関係から、「時間」経過の後に、受け取る側が生じる。 「叡智霊」たちの与える行為は、受け取る行為の前に起こり、与える行為は、後の受け取る行為とは、「時間」を介して結びついている。 上記に対する正確なイメージを得るには、自らの魂の経験から再考する必要がある。例えば、理解、もしくは、思考の形成のために必要な努力を想像してみる。ある思考を形成した次の日、前日の思考を、再び心の中に思い出すためには、心の中を空にする必要がある。 心のなかを空にすることで、昨日形成した思考を、今日受け取る。「太陽」上でも状況は同じである。過去において与えられた贈り物は「時間」のなかに保存されたままとなり、後になって受け取られる。 では、この受け取る行為にはどのような意義があるのか? 与える行為の原型である「叡智霊」の存在と同様に、受け取る行為もまた「太陽」上の行為、もしくは出来事だった。受け取ることが、与えることと異なっているのは、時間的な(前後の)意味だけである。受け取る行為が起こるのは後になってからである。 与える行為は、「叡智霊」から生じるが、では、何が受け取るのか? 受け取る行為が生じるには、受け取る存在が必要となる。「土星」上でのトローネによるケルビムへの犠牲が「時間霊」の誕生へと導いたのと同様に、「太陽」上における叡智霊(キュリオテテス)による宇宙的な授与が始まったことで、「大天使」、もしくは「アルヒアンゲロイ」と呼ばれる「火の霊(民族霊)」たちが生じた。 「大天使」とは「太陽」上で受け取る者たちである。しかし、「大天使」は、非常に特別な形で受け取る。というのも、「大天使」たちは、「叡智霊」から受け取る贈り物を自分のために保持するのではなく、鏡が受け取った像を反射するのと同じように、贈り物を反射する。 以上のように、「太陽」上の「大天使」たちは、過去において与えられた贈り物を受け取る使命を持っているが、そのために、贈り物は保持され、「大天使」により、再度、後の「時間」に反射される。従って、「太陽」上には、過去の与える行為と、未来の受け取る行為が存在しているが、この受け取る行為とは、過去において与えられた贈り物を投げ返す、反射する行為である。
2011年05月27日
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実際、淡々と自己を諦める、という気分を魂の中に注ぎ込むなら、高次の認識形態を与える存在へと到達できる。自己犠牲の精神を創造できない人は、高次認識も達成できない。 では、この自己犠牲という態度の正反対は何か? それは自己の欲求や、自己主張である。自らの思考の中に自らを無くすこと、自らの欲求で、自己を主張することが、魂の経験のなかのもう一方の極で、自己犠牲に対する大いなる対極である。 もし、真の認識を達成し、自身を叡智で満たしたいなら、この自己主張は致命的となる。日常生活では、自己主張は一般的に先入観や偏見として知られ、先入観や偏見は高次の洞察を絶えず破壊する。 実際、いま記述している自己犠牲への能力を思考の中で強化する必要があるが、それは、自己犠牲を強化した感覚だけが、高次世界に向けての歩を進めることができるからである。高次の世界では、自己を捨てる能力、少なくとも、そのような魂(精神)的な気分を経験できなければならない。 科学的な知識や日常的な思考だけでやっていくなら、高次の認識に到達できない、という事実を強調しておきたい。通常の科学や日常的な思考は、これまで現代人が受け継ぎ、もしくは涵養してきた経験や感情や思考のなかで、自己が創出してきた日常の人間的な欲求を通じて働く、ということを明確にしておく必要がある。 自己の欲求により、間違った方向へと導かれる可能性が生じるが、実際、この領域では、錯覚が非常に多い。例えば、次のような反論があるかもしれない。 「人智学が提示する様々な知識の側面を受け入れるべきと言われても、既に自ら考えたことに一致しなければ、何1つ受け入れるつもりはない、証明されてもいない知識を受け入れるつもりはない。」 勿論、証拠もなしに知識を受け入れるべきではないが、人智学が提示した中から、既知のものだけを受け取るなら、一歩も前に進むこともできない! 超感覚的な能力を持ちたいと願うなら、既に証明された知見を受け入れるだけでは物足りない。超感覚的な能力を持ちたいと願うなら、あらゆる自己の要求から自由でなければならず、宇宙から自分へと来る全ては、「恩寵」という言葉でのみ表現できる、という事実を予め知っておくべきである。 超感覚的な能力をもつ人は、あらゆる知見が、人智学により照らし出された「恩寵」から来る事実を見通している。 では、「恩寵」から来る事実を解き明かす超感覚的な認識に到達するには、どうするべきか? 既知の知見全てを、脇に追いやることにより、それは可能となる。通常、現代人は、自分の判断がある、と考えている。しかし、通常の自分の判断とは、先達が既に考えたことであったり、自己の願望を刺激するものだったり、もしくは、その他の既知のものをただ新しくするに過ぎない。 判断を自分でするかどうかが問題なのではない。判断を自らで行使していると主張できる人たちは、自らの偏見に自分が隷属的に結びつけられている事実に気づいていない人たちなのである。もし、高次の認識に到達したいなら、自己の要求全てから脱却していなければならない。 魂は空虚でなければならず、空間も時間も対象も事象もない、隠れた秘密の世界から受け取れるイメージを静かに待つことができなければならない。顕現、もしくは悟りとして提供され、照らし出される全てのイメージに遭遇するための気分を自らのなかに醸成されるのを待たずに、高次の認識を獲得できる、と決して信じるべきではない。 人間に近づいてくる全て、何かを与える他でもない「恩寵」として「来るもの」を、待っていられるのは、上記のような魂の空虚の気分の中だけである。 では、そのような高次の認識は、どのように自らを現すのか? 十分に準備できたとき、「恩寵」として来るものは、どのように現れるのか? それは、精神(霊)的な世界から、人間に遭遇するために到来する贈り物に対する祝福(歓迎)の感情を通じて自らを現す。その存在いかんに関わらず、もし、人生において、恵みに満ち、人間を、その高次の認識で満たすような、人間の前に立つ、その「恩寵」を記述したいのなら、その表現方法は次のようなものに限られる。 「それは、人間に恵みを与え、何かを与える贈り物として、人間に経験させるために、やって来る。」 恵みを注ぎ出し、降り注ぎ、与え、提供する能力を、主な特徴として構成される存在の本性を把握するには、トローネのケルビムに対する犠牲のイメージを自分のものとする必要がある! いま、トローネによるケルビムへの供儀の意味を理解する存在がやって来ることを霊視してみる。その存在は、トローネの犠牲を理解する能力を、自らの贈り物、恵みとして、周囲に注ぎ出し、与える能力に変化させる存在である。 例えば、薔薇を見て、喜びに満たされ、薔薇を「美しい」存在として眺めることで、祝福の感情を経験するだろう。いま、薔薇とはまた別の存在を想像して欲しい。それは、ケルビムに対するトローネの犠牲の意義を理解し、自らもつ特性を、周囲に捧げる存在であり、与えるという精神の中で、全てを与え、世界の中へと注ぎ出す存在である。 もし、人智学徒が、そのような存在を想像するなら、それは、「神秘学概論」の中でも記述したように、「土星」紀の間に知られるようになった精神(霊)的存在たちに、「太陽」紀の間に、加わった「叡智霊(キュリオテテス)」たちである。
2011年05月26日
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現代生活における犠牲の概念が何と結びついているか、つまり、意識的に犠牲を捧げる行為は、自らの意志に反してまで犠牲を捧げるとは考え難い。もし、仮に自らの意志に反して犠牲を捧げるなら、そのような圧力を感じたからで、強制に違いない。 すなわち、土星紀の供儀は強制ではなかった。土星では、供儀を捧げる存在から、当然の行為として、供犠が流出する。もし、外的な強制や、見返り等の期待なしに、内的に供犠を促されるのを感じて、犠牲を捧げるなら、愛と至福を経験するだろう。 愛と幸福で輝く感情を表現するなら、「犠牲を捧げ、愛に浸透されれば、幸福で輝く」というような感じである。外的な熱という幻想の中の、宇宙の犠牲の輝きが人間に近づくのを、自らの魂から経験できる。 この世界の、熱が存在する処はどこでも、その背後の基盤に、霊-魂的な存在がある、という事実を把握できるときにだけ、熱(エネルギー)の真の本性を理解できる。 熱とは、犠牲の喜びを通じて活動する精神(霊)的存在である。熱を、自らの魂への参入法から経験できる人なら、物質的な熱(エネルギー)という現象、つまり幻想の背後に存在し、隠れている真相へと到達できる。 さて、もし、「土星」紀から「太陽」紀へと進むなら、現在の太陽ではなく、太古の「太陽」に関するイメージを獲得するために、その概念に対しての基礎づけを行う必要がある。「太陽」紀の場合も、「神秘学概論」の中で記述した文章は、外的な表現に過ぎない。 「太陽」は、熱に、空気と光をつけ加えることで、熱を高次化させたが、「太陽」上で、熱に加えられた空気と光の本性を理解するには、「土星」紀の参入時に、「意志霊」による犠牲の輝きの知覚のために、熱を超えた領域の探求が必要であったのと同様に、空気と光の本質として、道徳的な事象を探さなければならない。 「太陽」上の空気と光に関する概念、表現、感情に到達するには、霊-魂的方法で、自身の内部で経験できるイメージを探求するときだけである。 空気や光の背後にある道徳的な感情は次のような方法で魂の経験として記述できる。いま、真の犠牲行為を観察する。 土星紀の講義の中で記述したように、トローネがケルビムに供儀を捧げるイメージが人間の魂を深く感動させ、そのイメージが、魂を無上の喜びによって活性化させるような場合である。 もし、そのような犠牲を捧げる存在を観察したなら、もしくは、魂を目覚めさせ、活性化させるような、上記のイメージについて想像するなら、魂は何を感じるのか? もし、生命に満ちた感情を持っているなら、もし、犠牲行為の中で感じる喜びを前にして、無関心で立っていられなければ、この犠牲行為を目の当たりにすれば、深い眠りからの目覚めを経験するだろう。 犠牲から生じる無情の喜びを見守ることは、この上ない美しい行為であり、魂の中で生じ得る最も美しい経験であることを、魂の中で感じるだろう! また別の経験も生じる。それは完全に身を委ねるという態度である。実際、もし、その犠牲が、観察する魂の中に、完全な献身から、それを見つめたい、というような憧れを生じさせなかったら、すなわち、自己犠牲の気分を与えなかったら、例えば、沈黙した一片の木(物質)となっただろう。 上記のように自らを諦める「無我」について考察する。それは自己犠牲として変容した行為である。能動的で意識的な自己犠牲を熟考することで、自らを委ね渡すことや、自らをなくすことや、自己を忘れること等に対する親和性を作り出せる。 もし、以上のような気分、もしくは、少なくとも、それについての示唆もしくは残響をつくりだせなければ、犠牲に対する綿密な理解へと本当に至る、ということは決してないだろう。
2011年05月25日
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土星紀の講義から、「地球」の創造に先立つ3つの進化段階をそれぞれ記述するのは究めて難しいことが分かるだろう。その記述には、まず宇宙的な進化の中でも、遠く離れた未知の状態にまで至るのに必要な概念や思考を構築する必要がある。 既に指摘したように、「土星」紀やそれに続く「地球」の進化期に関するいかなる記述も、例えば、著書「神秘学概論」の中の記述等だが、全体的で包括的なものはない。 「神秘学概論」を書くに当たり、現代のなかで身近で手近な概念から導出した図式等の衣装を着せることで満足しなければならなかったが、それは、その本が読者にとって理解可能で、かつ、過度にショッキングにならないように意図したものだったからでもある。 著書「神秘学概論」の中で与えられた記述は、不正確ではなく、図式的にいえば、幻想、もしくはマーヤの中に浸されている。真実に到達するには、幻想の中を努力しながら進む必要がある。 例えば、「土星」は、現代人が知る地(固体)、水(液体)、あるいは空気(気体)として知る要素ではなく、熱(エネルギー)だけから成り立っている、と記述でき、この記述が、今日の意味での限界の範囲内で、正しい。 (今日の表現を用いるなら、土星は、空間も時間もなく、エネルギーだけから成っていたようである。ということは、人間の自我も、土星のように、エネルギーだけからなっている。) 同様に、空間に言及するには常に図式的な記述を必要とするが、土星紀の講義の中でも見てきたように、「土星」上には時間さえも存在しなかった。「土星」上には、少なくとも現代人の言葉の意味での「空間」は存在しなかった。 しかし、一方で、当時、初めて「時間」が存在するようになった。従って、仮に自分を「土星」紀の状態の中に置く場合、空間のない領域の中にいることになるが、この土星状態を、自らの魂から、思い描くなら、単なるイメージに過ぎないことを明確にしておく必要がある。 もし、「土星」紀の「領域」の中に参入できても、大気として記述できるほど濃密な空間はなかった。「土星」にあるのは、熱さと冷たさ、だけだった。実際に、「土星」の領域から出たり、入ったりすることはできなかった。 土星にあるのは、熱い状態と冷たい状態の間の変化という経験だけである。超感覚的な能力をもつ人でさえ、「土星」紀の中に身を置く想像をする際に、経験するのは、空間のない、熱を感じたり、感じなかったり、という印象だけである。 しかし、以上の印象は「土星」状態の外的な覆いに過ぎない。というのも、神秘主義でいう火の熱は、精神(霊)的な基盤のなかで実体を現すが、既に見てきたように、「土星」上で実際に生起していたのは精神(霊)的な行為や出来事だったからである。 以前、「土星」上で生じているのは、どのような種類の精神(霊)的行為なのか、という主題に関するイメージを形成した。そして、述べてきたのは、「意志霊」のトローネが犠牲行為を遂行したイメージだった。 以上のイメージは、人智学徒が「土星」上で生じた事象を振り返る際、「土星」上に見るのはケルビムとトローネから流出する供儀である、ということを意味している。 トローネからケルビムへと供儀が流出するが、外から見たとき、これらの犠牲行為は熱として現れる。従って、熱の状態とは供儀の外的、物質的表現である。実際、宇宙の中で、熱を知覚する際には、どこであれ、熱は、その背後に立つ精神(霊)的存在の外的な表現なのである。 熱は幻想であり、熱の背後には、精神(霊)的存在たちによる犠牲行為という事実がある。従って、熱を正確に特徴づけるなら、「宇宙の熱とは、宇宙的な供儀、宇宙的な犠牲行為の表現である」と記述すべきである。 また、トローネたちが犠牲行為をケルビムに捧げるときには、「時間」と呼ばれる存在が同時に生まれる、ということも見てきた。既に触れたように、「時間」という現代の言葉は、土星紀の事象には、それほど適合していない。 ここでいう土星紀の「時間」は、今日感じるような「前」や「後」というような抽象性をまだ包含していない。「時間」は、「人格霊」、あるいは「時間霊」とも呼ばれる精神(霊)的存在が外的に置かれることから始まった。 「時間霊」は、太古の「時間」の表現であり、トローネとケルビムの産物である。とはいえ、時間的な側面を持った存在たちが「土星」上で生まれたのは、犠牲行為があったためである。 熱の背後に立つ存在を本当に理解するなら、「土星」紀は熱(エネルギー)から構成されていた、と言うべきで、外的、物質的な概念だけを適用すべきではない。熱という言葉が、物質的な概念からきているが、土星紀の熱は物質ではなく、「魂の」道徳的な経験、すなわち叡智に満ちた経験から導かれる概念を適用すべきである。 自ら所有し、自らで持ち、その自身でさえ、喜んで捧げる、という意味を想像できない人は、熱を知ることができない。必要なのは、魂の観点から、自身を捧げ、意識的に自身を諦めるという意味に対する理解に到達することである。 言い換えれば、自身の最良のものを世界の治癒のために与え、自分のために取っておくのではなく、全宇宙という祭壇の前に捧げることについて想像できなければならない。もし、以上全てを生きた概念として、自らの魂に浸透する感情として把握するなら、それは、熱の顕現の背後に立つ存在に対する理解へと少しずつ自身を導いていくだろう。 (道徳力を磨くことで、宇宙の背後の道徳的な存在に到達することができる。つまり、よく生きるとは、道徳力を獲得することにある。)
2011年05月24日
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人智学徒の努力につけ加える必要があるものがあれば、何であれ、最終的には与えられるだろう。人智学徒のイマジネーション(霊視)に必要でないものは消え去るだろう。もし、上記のようなイメージの中に浸るなら、実際、「土星」の霊(精神)的存在の活動が、人智学徒を、霊(精神)的存在へと導くだろう。 もし、勇気や叡智に満ち溢れた存在を特徴づけるような試みを受け入れることができたなら、魂が頼るべきものは、理性により形成された概念とは、かけ離れた種類のイメージである、ということが分かるようになるだろう。 知性的な概念が存在するようになったのは、宇宙の歴史からいえば、最近である。いずれにしろ、知性的な方法で「土星」にアプローチすべきではない。知性的に方向づけられた人たちとは異なる、素朴な超感覚的な能力から描出する人の心の中で、土星が展開する、ということの意味を理解すべきである。 知性的な人の心の側面から、適切に土星を理解することは不可能である。そのような例を示すために、いま、アルバート・シュヴェーグラー(1819-57年)の「西洋哲学史」(シュトゥットガルト、1848年)を取りあげる。 この本は、かつて学生たちの試験前の勉強に好まれたものだが、当時もはや、哲学から魂が取り除かれたことにより、その本は、なんの役にも立たない代物となっていたが、後の改訂版で、若干の改訂を受けてはいるが、初版の重要な内容は完全には失われていない。 その本はヘーゲル哲学の観点から見た哲学の歴史書である。従って、シュヴェーグラーの「西洋哲学史」は、それが書かれた当時の哲学像を知るにはよい題材で、ヘーゲル哲学の優れた参考文献となる。 今、その本のヤーコブ・ベーメに関する短い章を読むと、シュヴェーグラーのような知的な哲学者が、ヤーコブ・ベーメのような精神に直面するときには、全く無力であったことを知ることができる。幸いにも、彼はパラケルススを取りあげていないが、もし取りあげていたら、パラケルススについて相当に酷い文章を綴っていただろう。 では、シュヴェーグラーがベーメについて何を綴っているか読んでみる。彼はベーメの心の中にある1つのイメージを見つけた。そのベーメの心の中のイメージは、宇宙の初期の「土星」のイメージではなく、地球紀に素朴な形で繰り返され、夜明けを迎えた「土星」のイメージだった。 この「土星」のイメージは「地球」紀で繰り返されたものである。シュヴェーグラーがベーメの中で遭遇したものは、知性を通じては理解できない、言葉やイメージでしか記述できない精神(霊)だった。後の地球に繰り返した「土星」を把握するような純粋に知的な方法では、「土星」の認識に失敗するしかない。 つまり、それは、土星をまるで全く理解できない、というよりも、もし、通常の、無味乾燥な哲学的論理にしがみつくだけなら、土星を、全く把握できない、ということを意味する。 重要な点は、通常の知性を超え、自らの魂を向上させる、ということである。通常の知的な能力でもまだ、シュヴェーグラーの「西洋哲学史」のような優れた作品を作り出せるが、だからこそ、並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神と遭遇するときは、かえって逆に完全に立ち止まってしまう。 以上、「土星」紀に関する考察の中で、「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に、(自らの魂から)参入してきた。「土星」紀を振り返ると、「意志霊(トローネ)」たちが自らを「調和霊(ケルビム)」に捧げることで、「時間」創造のイメージが生じたが、この後の講義でも、「土星」紀への参入により到達した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」紀や「月」紀についても同じ参入を行っていく。 「時間」とは犠牲から生じたもので、「時間霊」として生きる「時間」から成立しているが、「太陽」紀の間に、いかに、「土星」紀全てが変化していくのか、そして、「土星」から「太陽」、そして「月」へと進むとき、宇宙における他の力強いプロセスがいかに生じるのかを見ていく。
2011年05月21日
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土星紀の初期まで来ると、全体像の中に顕著な変化が生じることに気づく。別のヒエラルキアに属する存在たちが、時間のない麻痺した「意志霊」の無限の勇気からなる海の中に入り込み、活動するようになる。 時間の不在が明らかになる瞬間、他の存在たちの活動に気づく。勇気からなる無限の海の内部の何らかの存在に気づくが、それは不明瞭な意識によるので、まるで、経験しなかったかのような印象を与える。 この広がりの中に何かが点灯するが、それは稲妻の素早い発光というより、微かな明かりである。それは、最初の区別を明らかにする光だが、明るい印象ではない。 別の方法から、以上の理解に努めるべきである。例えば、次のようなことを想像してみるのもよい。 自分よりも多くを知る人物に遭遇すると、「この人物は何と知的だろう!」という感情を抱く。この人物が多くを語り続けるほど、この感情は強くなり、「この人物は賢い、非常に多くを経験している、だから、賢明なのだろう」と思うようになる。 更に言えば、この人物は魅惑的なオーラを発散しているかのような印象を起こさせる。例えば、この魅惑的なオーラの要素が無限に促進されることをイメージしてみる。すると、勇気の海の中に雲が現れ、その中に、稲妻の光というよりは、煌くような放射が見える。 以上から、全体として、想像できるのは、「意志霊」の内部で活動する存在で、流体として放射するような叡智の存在である。つまり、人智学徒は、超感覚的な知覚による「調和霊(ケルビム)」という存在に遭遇する。「調和霊(ケルビム)」とは、勇気の海に流入する叡智の存在である。 さて、いま記述した存在以外に、周囲には何もない。実際、これまで強調してきたように、空間も時間もないので、「周囲」もあるとはいえない。だから、存在するのは、「そこに」それがあるという認識だけである。 以上のようなイメージしかなく、上記に表現した、点灯というイメージも正確ではなく、どこか瞬間的な煌めきというより、燃えるような輝きに近い。というのも、全事象が同時に生起しているからである。ある瞬間に何かが存在し、別の瞬間に消滅する、というわけでもなく、全てが同時に起こる。 とはいえ、「意志霊」と「調和霊」との間には結びつきがある、というような感情を持つ。互いに関係しているという感情が意識できる。そして、「意志霊」のトローネが、自身を、調和霊(ケルビム)に捧げる、という事象を意識できる。 以上が、「土星」紀に遡り霊視する際に得られる最終的なイメージである。「意志霊」が「調和霊」に供儀を捧げる、というイメージを受け取る。それより先は、宇宙がまるで静止し、沈黙しているかのようである。 「意志霊」による「調和霊」への供儀という経験の程度に応じ、自身の魂から何かが絞り出、浮上してくる。この現象を、言葉で表現するなら、「意志霊」から「調和霊」にもたらされる供儀から「時間が生まれる」、と表現できる。 しかし、この「時間」は、現代人がいつも話題にしているような抽象的な時間ではない。土星紀の「時間」は、独立した存在である。この時点で初めて、「はじまる」という表現が可能になる。土星の「時間」とは、完全に「時間」から成る独立した存在である。 土星紀に、「時間」だけから成る存在が生じるが、この存在は「人格霊」で、人智学徒が、ヒエラルキア存在の中の「アルカイ」として知る存在である。「土星」では、「アルカイ」とは「時間」の存在なのである。人智学徒は、「人格霊」を「時間霊」、すなわち「時間」を司る霊としても表現した。「人格霊」は霊として生まれてくるが、実際には、完全に「時間」から成る存在である。 「意志霊」による「調和霊」への供儀、すなわち「時間霊」の誕生に与ることは非常に重要である。「時間」が生じた後はじめて、「土星」の状態、つまり、現在の地球上の人間の周囲の存在に似た、土星紀の周囲の存在を語ることができる。 「土星」での周囲の存在、いわゆる熱の要素と呼べる存在は、「意志霊(トローネ)」による供儀の煙であり、「時間」を生じさせる要素である。常に、「土星」は熱の状態として存在する、と言ってきたが、熱の状態とは、土星紀の地球であり、土星状態を、熱で表現できる。 というのも、現在、地球の周囲にある全要素の中で、「土星」紀にも存在していたのは、熱だけだからである。熱は「意志霊」が「調和霊」に捧げた犠牲から生じた。この事実はまた、火の霊(精神)的本性を示している。 火や熱をみたり、感じたりする場所では、当たり前のように、習慣的に、現代人が考えるように、火や熱を物質的に考えるべきではない。むしろ、火や熱は、今日においてもなお「意志霊」による「調和霊」への供儀なのである。 現代人は、周囲の熱の精神(霊)的な要素を霊視できなくても、実際、それは真実である。熱の顕現の背後に立つのは、「意志霊」の供儀である、という真実に到達するには、以上の霊視に通じる他はない。 著書「神秘学概論」の中では、読者を刺激し、反発させないように、土星紀の外的な状態だけを述べたが、それでも反発を招いた。現代の科学的な知識内でしか考えられない人は、この著書を全くのナンセンスと見なした。 次のような精神的事象が、実際、何を意味するのか、ということを考察すべきである。 ・土星紀は、土星の最奥の存在、すなわち、根底として、「意志霊(トローネ)」に属する存在たちをもち、「意志霊」は、自身を「調和霊(ケルビム)」に捧げた。 ・「調和霊」への「意志霊」の供儀により生じた煙から、「時間」が生まれた。 ・「時間」の誕生により、「アルカイ」、あるいは「時間霊」が生じた。 ・現代人が知る熱は、「意志霊」による供儀の外的な表現、反映である。 ・従って、外的な熱は幻想(マーヤ)である。もし、真実を知りたいなら、熱の顕現の背後には、「調和霊」の前に捧げられる「意志霊」の供儀がある。 イマジネーション(霊視)能力の発達は、薔薇十字的な秘儀参入の第2段階に相当する。このことは著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」やその他でしばしば触れている。人智学徒は、健全なイメージから世界に対するイマジネーション(霊視力)を形成する必要がある。 以上から、思考を、想像力が浸透したイマジネーション(霊視力)へと変容できる。以上に述べた事象を例として取り上げることができる。 トローネ、もしくは「意志霊」は完全な献身をもって「調和霊(ケルビム)」の前に跪くが、それは卑屈な感情ではなく、献身的な感情から生じる。 強さと勇気に基づき、喜んで供儀を捧げようとする「意志霊」たちは「調和霊」の前に跪き、捧げものを差し上げる。「意志霊」たちは、泡立ち、燃え上がる熱として供儀を送り出すため、供儀の炎から立ち上る煙は、翼をもった「調和霊」に向け燃え上がる! 人智学徒は、以上のような精神的な事実を描写できる。この供儀から生じるものは、まるで人間が空気中に向けて発した言葉が、「時間」という存在になるような感じで、以上のような精神的事実全体から、「時の霊」、もしくは「アルカイ」が生じ、現れる。 以上のように、「アルカイ」を発生させるイメージは、非常に力強い。いま、魂の前に置かれた、このイメージは、隠れた叡智の領域へと益々深く参入できるようなイマジネーション(霊視)にとって、究めて強い効力を持っている。 イマジネーション(霊視)から受け入れたイメージを、上記のように、変容させることは、人智学徒が成し遂げるべき課題である。たとえ形成されるイメージが原始的であり、擬人化され、翼をもった人物という形で描写されても、その表現自体は重要ではなく、問題ではない。
2011年05月20日
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今日の人間には、深淵を前にして、その恐怖に打ち克つためには、2つの可能性がある。第1の確立された方法は、福音書の理解、すなわちゴルゴダの秘儀の理解に通じる方法である。 福音書を真に理解し、福音書に関して、現代の神学者が叙述するような方法ではなく、内面的な経験の最奥にある本質を吸収し、深淵の中に、まるで一点から広がる勇気の感情、すなわちゴルゴダの供儀を完成させた存在と一体となることを通じて、守られるような感情を持つことで、空虚を完全に満たす方法である。以上が第1の方法である。 もう1つは、福音書ではなく、人智学の真正な理解により精神(霊)界に参入する方法である。勿論、人智学でも可能である。常に強調していることは、人智学徒のゴルゴダの秘儀に関する考察は福音書から始まるのではない、ということである。 その理由は、たとえ福音書が存在しなかったとしても、人智学徒は、ゴルゴダの秘儀を発見するからである。このことは、ゴルゴダの秘儀が生じる「以前」には不可能だったが、今日可能になったのは、精神(霊)界を、精神(霊)界の象徴から把握可能にするような存在(キリスト)が、ゴルゴダの秘儀を通じて、物質界にやって来たからである。 この来訪は、宇宙における聖霊の存在、すなわち宇宙的な思考による世界の統治と呼べるような出来事である。とはいえ、人間にも、準備ができていなければならない。 恐怖を呼び起こすような空虚に直面するときでも、福音書、或いは人智学を携えているなら、道を失ったり、無限の深淵の中に飛び込んだりすることはないだろう。 もし、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(また、それに続く著作)の中で紹介した準備を経て、この幽鬼的な空虚に近づき、精神(霊)界に参入するなら、そこで生じる全てが、人間の感情を痙攣させ、思考を飲み込むが、そこで、動物界、植物界、鉱物界の存在たちとは全く異なる存在たちに遭遇するだろう。 「土星」という存在、そこには雲も、光も、音もないが、その土星に親和し、適応するなら、人間は、土星存在たちを知るようになる。実際、人智学の命名では、「意志霊」、あるいは「トローネ(座)」と呼ばれる存在たちを知るようになる。 具体的な事象として知るようになる「意志霊」たちは、いわば波打つ勇気の(感情の)海から構成されている。人間には、最初、想像しかできなかった存在が、超感覚的能力(霊能力)によって、具体的な「存在」となる。 例えば、海の中に泳いでいる情景をイメージしてみる。キリスト存在と1つになり、キリスト存在により支えられている精神(霊)的存在の感情の中に浸され、泳いでいる情景である。海水ではなく、無限の虚無という広がりを完全に満たす、波打ち、流れる勇気の力で構成される海の中である! それは、ただの無関心で原始的な感情の海ではない。その海では、勇気の感情として記述できるような、あらゆる可能性と多様性が、その海を泳ぐ人間にやって来る。その海から認識できる存在は勇気から構成された存在たちだが、その海では全く個別化されている。 意志霊たちは、完全に勇気から成立している。とはいっても、そこで遭遇するのは、勇気だけでなく、具体的な意志霊の存在である。肉体からなる人間と同様に、具体的事象でありながら、肉体ではなく、勇気からなる存在たちに遭遇する、というのは確かに不可思議な現象のように思われるだろうが、実際、そのような体験をもつ。 「意志霊」のような精神(霊)的存在に遭遇すると同時に、「土星」にも言及できる。というのも、「土星」こそ、勇気から成る「意志霊」により表現される天体だからで、それが「土星」の本性なのである。 土星は、球形ではなく、6つの角も4つの角も持たない。全く空間的要素にあてはまらない。従って、「土星」には「境界」が見つからない。もし、土星内を「泳ぐ」ようなイメージをもつなら、「土星」は海面のない海といえるだろう。その代わり、土星内のあらゆる場所、あらゆる方向に、「勇気霊」、もしくは「意志霊」に遭遇する。 上記のような認識には直ぐに到達できないが、土星状態については、後の講義のなかでも説明する。というのも、いまは、「土星」、「太陽」、「月」という順番で説明しているが、本当は、逆の順番、つまり実際の超感覚的な方法で知覚される順番の、「地球」から「土星」に向かう方向に進む説明のほうがわかりやすいからである。 しかし、今は、順番をそれほど重要とみなさずに、「土星」、「太陽」、「月」の順に特徴づけを行う。 超感覚的な観点に特徴的なのは、少しずつ、慎重に、その認識に到達するように細心の注意を払わなかったら、究めて想像が困難な事象が生じてくることにある。というのも、その困難な事象とは、「ある存在がなくなる」ことで、同時にその存在は、通常の想像力と密接に結びつくからである。 つまり、「ある存在がなくなる」とは、「空間という存在がなくなる」ことにある。 例えば、「~の頂上で」、「~の下で」、「~の前で」、「~の後ろで」、「右へ」、「左へ」と泳ぐ、というような、実際、空間に関連した表現がなくなる。「土星」においては、空間的関連は全く意味をもたない。「至るところで」という表現も「同様」に意味をもたない。 また、更に重要なことは、「土星」の最初期に参入する際には、「時間もなくなる」ことである。つまり、後も先もなくなる。当然、今日の人間には想像が究めて困難となる。というのも、ある考えは別の考えの前、もしくは後に現れるというように、今日では人間の考えも、時間の中を流れているからである。 とはいえ、時間の欠如は、感情を通じて把握できるだろうが、この感情は混乱を生じさせる。 思考や記憶の生起を可能にする能力や、行動の意図を可能にする能力が麻痺し、まるで固定軸のようになったものと想像すると、経験が固定され、もはや、経験に触れることができないように感じる。 この状態では、「過去」の経験は、時間のある「時点」において生じた、とは言えない。経験は、時間に結びつき、時間とともにあるが、完全に固定され、もはや触れることができない。時間が意味をもたなくなり、全く存在しないからである。 従って、次のような問いは無意味となる。 「ところで、地球の過去の「土星」、「太陽」、「月」の状態について記述したが、「土星」の前は何だったのか?」 土星の「前」の状態を問うことは無意味で、土星を超えては、時間は存在しないので、時間との関連を示す表現なしに参入しなければならない。時間的に超えることのできない「土星」という、まるで閉じた箱の中の世界にいる状況と似ている。 思考は、土星で終着点となる。超感覚的な能力も同様である。通常の思考は、超感覚的能力よりも前に終着点を迎え、それほど遠くまでは辿れない。イメージで表現するなら、思考する脳が凍りついてしまうようなものだろう。 もはや時間を含まない意識に対するイメージにアプローチするには、上記の麻痺状態の知覚が限界である。
2011年05月19日
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もし、「自我」を真の意味において把握し、肉体を、まるで目の前に置くような形で、自らの魂の前に置くことができたら、或いはまた、視覚により感覚を通して知覚できる外的世界、すなわち雲や山等の周囲の物質世界の中に、肉体が依存し、栄養を必要とし、養分を見つけるのと同様の意味で、自我が依存する環境を発見するのに努めるなら、あるいは、もし、肉体に関する内容を知るのと同じ意味で、「自我」に関する本質的内容を発見するのに努めるなら、今日においても、人間の周囲に、不可視的に浸透する宇宙のイメージ、もしくは記録媒体へと到達できるが、それは、「土星」紀の宇宙と同じ状態の存在である。 言い換えれば、「自我」を、自身の世界として知ろうとするなら、「土星」紀の世界に似た世界を想像できなければならない。この世界は魂のなかに隠れている。つまり、その世界は人間にとっては感覚を超えた世界なのである。 実際、現在の人間の進化段階においては、「自我」に対する知覚を担うことは不可能である。それは境域の守護霊によりヴェール(覆い)がかけられていることで、隠された状態になっているが、それは、そのようなイメージに曝されることに耐えるためには、ある一定の段階までの精神(霊)的な進化を必要とするからである。 実際、現代人が最初に獲得すべき能力は、土星紀が提示するようなイメージを霊視できることにある。何にもまして、どうすれば一体、土星紀のような宇宙を現実として経験できるのか、という主題に対してのイマジネーション(霊視能力)を形成しなければならない。 すなわち、感覚から知覚できる全てを、思考から取り除く必要がある。同様に、人間の内面(精神)の世界は、魂の内部のいわば潮の満ち引きからつくられるので、感覚による外力の作用を捨て去らなければならない。 外界に存在する対象に対する思考を消し去り、思考自体も全て解消する他はない。感覚を通じての知覚全てを外界から取り除かなければならない。つまり、内面の世界に影響する魂や思考活動を消去しなければならない。 (要するに、魂の表層の感情のやりとりを除くことか?) 以上の瞑想を行った後、もし、思考の根本を把握するときに到達すべき魂の状態、魂の表層意識を完全に取り除き、本体の人間だけが残るイメージを形成できたなら、今度は、周囲に口を開けている底なしの空虚、すなわち無限に続く無の恐怖に耐えることができなければならない。 周囲を完全に恐怖で満たすような環境を経験できなければならないが、同時に、自身の存在に対する内面的な堅固さや確立により、恐怖の感情を克服できなければならない。 以上の魂のなかの2つの傾向、すなわち、無限に続く空虚への恐怖と、その恐怖の克服なしには、土星紀がいかに宇宙の基盤の根底をなしているかを暗示するような、いかなる経験も不可能となる。 以上に性格づけた2つの経験を自身で発達させることは滅多にない。また、このような状態に関して記述された書物等を発見することもほとんどない。勿論、何年にもわたって超感覚力を用いて探求してきた者は、この2つの無限の深淵を前にしたときの恐怖やその克服の経験については知っているが、書物や出版物の中に、その内容を示唆するものはほとんどない。 私(シュタイナー)は、上記に関して、ある洞察力を得る目的で、図りがたい空虚を前にしたときの恐怖が表現されている最近の文献を調査してみた。一般に哲学者は究めて賢いので、物知り顔で、概念に関しては述べても、恐怖を抱かせるイメージについては触れるのを完全に避けている。 従って、哲学の文献の中に、この問題に関して記録されている内容を見つけるのは容易ではない。発見できなかった文献について話すつもりはないが、ヘーゲル派の哲学者カール・ローゼンクランツの雑誌の中に、このような経験の残響のようなものを発見できた。 カール・ローゼンクランツ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84 この雑誌の中で、ローゼンクランツが、ヘーゲルの哲学に没頭しているときに経験した非常に親密な感情を記述している。彼自身では、全くそのような体験とは知らずに、雑誌の中に載せている、ある注目すべき文章に遭遇した。 ローゼンクランツにとって明白だったのは、ヘーゲルの哲学はヘーゲルによる「純粋存在」の理解に基づいている、ということである。ヘーゲルの原則である「純粋存在」については、19世紀の哲学の文献の中では、非常に皮相的な概念が多く語られてきたが、実際、それは究めて貧弱にしか理解されていない。 19世紀後半の哲学が、ヘーゲルの「純粋存在」に対して理解していることは、牛が1週間ずっと飼い葉を食べ続けてきたときの日曜日について理解しているのと同程度である、と言ってもいいくらいである! 「純粋存在」というヘーゲルの概念やその思考プロセスではなく、「純粋存在」という状態そのものは、上記で定義づけたような恐怖が流れ込むような恐ろしい空虚と全く同じではない。空虚と同じではないが、ヘーゲルの「純粋存在」の全空間は、人間が経験できない特質、つまり、「純粋存在」に満たされた無限の色彩をもっている。 カール・ローゼンクランツは、かつて、この状態を、存在以外の内容を全くもたない宇宙的な空間の広がり、という恐ろしく、気を滅入らせる冷酷な状態として経験した。 宇宙の根底にある存在を把握するには、その存在を、概念で述べたり、思想をつくりだすだけでは不十分である。魂のなかで、土星紀を特徴づける無限の空虚に直面したときに経験するイメージを呼び起こすことの方が遙かに重要である。 そのとき、魂は恐怖の感情を、たとえ単なる恐怖の暗示に過ぎないとしても、把握する。例えば、山頂のような高い場所での眩暈の感情、確固とした足場もない深淵の縁に立つときの感情、あるいは、自分ではどうしようもない力に圧倒されながら振り回されるときの感情の再現により、この土星状態を超感覚的に霊視するための準備ができる。 以上のような感情が、最初の段階、すなわち第1の感情である。次に、足下の大地だけでなく、視覚、聴覚、触角等の周囲の空間中に存在する全てが失われる。そして、不可避的に、あらゆる思考を失い、一種の朦朧、或いは睡眠状態に沈み込むが、そこでは何も認識できない。 あるいはまた、あらゆる感情の中に浸り、しばしば克服できない眩暈の状態に捉えられ、死の状態に落ち込むことしかできなくなる。
2011年05月18日
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昨年(1910年)の考察を更に進めていくなら、これまで述べてきた概念とは別の考え、あるいは観点をもたないといけない。というのも、仮に宇宙全体の進化を前提としない限り、人類が残してきた福音書やその他の精神(霊)的な文献に記載されている内容を理解するには、充分ではないからである。 昨年の考察から、宇宙全体の進化を、現在の地球が、「土星」、「太陽」、「月」という状態を通過し、現在の「地球」という状態を取るに至ったことを記述してきた。この宇宙進化の基本的原則にしばしば言及するなら、それらが人類の進化に関する秘教的な観察にとってもまた、非常に重要であることを知るだろう。 著書「神秘学概論」の中に記述した「土星」、「太陽」、「月」、「地球」の進化段階に関する解説を読めば、そこに記述した内容は、所々詳しくは述べたが、全体としては単なるスケッチに過ぎないことを認めるだろう。 著書「神秘学概論」では、ある観点から描いた単なるスケッチに過ぎないので、また別の観点からも宇宙の進化を説明できる。というのも、現在の地球の状態が、地上の詳細な内容を途方もなく豊かに提供するのと同じように、「土星」、「太陽」、「月」の状態もまた、記録すべき無数の詳細な内容をもつことが当然だからである。 つまり、宇宙全体の進化の詳細に関する大まかなスケッチや概要を描くことは、常に可能である。従って、今回の連続講義では、著書「神秘学概論」とは別の面から進化の特徴を描いてみることになる。 いま、宇宙全体の進化の解説の由来は、一体何かと問うなら、いわゆる「アカシャ年代記」への参入に由来する、ということを人智学徒なら知っている。宇宙進化の経過の中で一度生じたことなら何であれ、アカシャ実質と呼ばれる精妙な精神(霊)的実質の中に刻印された記録媒体を用いて、ある程度読みとることができる。 (DNAの塩基配列から、現在の遺伝子情報を読み解くのと同じである。) かつて生じた全事象が残した刻印から、かつてどのように存在していたのかを聞き取ること(霊聴)ができる。物質世界では、一般的に、近くにあるものは、詳細に明確にみえるが、遠くになるに従い、ぼやけてくる。 超感覚的な能力で過去を振り返るときも同じように、時間的に、現在に近い事象が、遠く離れている過去に比べて、正確な姿で現れてくる。例えば、「土星」や「太陽」の状態は、「地球」や「月」の状態に比べて、不明確となる。 では、一体、何故過去を振り返る必要があるのか? 何故、現在から遙かに遠く離れている時代の追跡を重要と考えるのか? 「何故、人智学者たちは、そんな大昔の出来事を今さら持ち出すのか? そんなことに関わる必要は全くない。現在進行中のことが沢山あるのだから。」という反論があるかもしれない。 しかし、そのような反論は間違いである。何故なら、時間の流れの中にかつて生じた事象は、今日でも、形(状態)は変われど、その営みを続けているからである。土星紀に存在した事象は、その時代だけ、もしくは、その時代のためだけにあるのではない。当時起きた事象は、現在まで影響を及ぼし続けている。 とはいえ、過去の事象は、人間をとりまく物質世界の中では、外的存在との関係から、ヴェール(覆い)をかけられ、見ることができない状態となっている。実際、遙かに昔の「土星」紀に生じた事象は今日ではほとんど見ることができなくなっている。 しかし、「土星」紀は人類にとっては今でも重要である。何故重要なのか、を考えるために、自らの魂に参入することから、次の例証を、イメージ(瞑想)してみる。 人間の魂の最奥の核は、「私」と呼べる存在として、魂のなかにある事実を人智学徒は知っている。人間という存在の最奥の核である「自我」は、今日の人間にとっては、実体がなく、知覚できなくなっている。 「自我」が知覚不可能になっていることは、いわゆる「現代的な」心理学の中で、魂に関して語られる内容を見れば推測できる。現代の心理学では、自我の構成要素に関する考えや、或いは、実際、自我の存在に関する考えすら持たない。 私(シュタイナー)は、19世紀のドイツ心理学において、「魂なき魂理論」という表現が徐々に使われるようになった事実に注意するようにしばしば言ってきた。ヴィルヘルム・ヴントの世界的に有名な大学は、ドイツ語を話す地域だけでなく、心理学について語る場所ならどこでも、大いなる尊敬を集めてきが、その大学が「魂なき魂理論」を流行らせた。 ヴィルヘルム・ヴント http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%88 この「魂なき魂理論」は、魂の特質を記述するにあたって、独立した魂の実存を前提としない。代わりに、あらゆる魂の特質が最初に一種の焦点に集まる。いわゆる、「自我」の中へと集合する。いまだかつて魂に関する理論のなかで、これほどの愚考はない。 しかし、今日の心理学は完全に「魂なき魂理論」の影響下にある。つまり、今日(1911年)では、この概念は世界中でもてはやされている。将来、現代を研究する文化歴史学者は、一体何故、「魂なき魂理論」のような理論が19世紀から20世紀に至るまで心理学の分野における最大の成果とまで見なされるようになったのか、ということを調査するようになるだろう。 以上のようなことを述べたのは、「現代的な」心理学が、「自我」、すなわち人間の中心に関して、全く不明確なのを指摘したかったからである。
2011年05月17日
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太古の叡智は、当時は、現在とは異なる別の手段によって獲得されたが、当時は1つの叡智として存在していた。 霊眼を、特定の太古の時代に向けるとき、この叡智に目がとまる。更に、それに続く時代に目を向ける。古代ギリシア時代において様々な時期の霊的内容として通常紹介される叡智を霊視する。更にまた、古代ギリシアに続く時代の、つまりローマ時代や、またキリスト教中世の時代においても、同様に霊視する。 続いて、人智学が人類の原初の叡智[Urwissen]に劣らない何かを再現する時代になるまで、古い文化が近代まで与えてきた叡智を霊視する。このような全ての叡智を見渡すと、次のような結論に至る。 これらの時代にはしばしば、原初の叡智に対する単なる予見さえもが欠落していた。すなわち、時代を経るに従い、宇宙的な存在の壮大な領域に対する認識、いわゆる超感覚的で、包括的な太古の認識に代わって、単なる外的で物質的存在に対する認識が脚光を浴びるようになってきた。 実際のところ、三千年にわたる進化の意味合いとは、太古の原初の叡智の代わりに、物質的で物理的な場の外的な知性が益々一層、場所を占有するようになった、ということだった。 そしてまた、古代ギリシアの哲人の時代にもまだ、あえて、「物質的領域にだけ残っていた」ともいえる幾許かの太古サーンキヤの叡智の余韻が残っていた、という事実が霊視できるのは興味深い。 本質的な魂に対しては、アリストテレスはなるほどまだ幾らかの古代の叡智の遺産をもっていたが、その遺産はもはや、完全な明晰さという点で古代のサーンキヤの叡智と一緒に並べられるものではない。 アリストテレス自身はあまり言及していないが、彼のなかにはまだ、人間の魂的本質と、粗雑な物質体との分類(1)が見つけ出せる。1)人間の本質の分類:アリストテレス『デ・アニマ(魂)』、特にII冊1-3章;アイセティコン[Aisthetikon]は魂の感覚によって刺激され感受する領域;オレクティコン[Orektikon]は魂の欲望領域;キネティコン[Kinetikon]は魂の運動領域;ディアノエティコン[Dianoetikon]は魂の思考領域。 ただ、魂と、物質体の分類をする際、アリストテレスは、魂の領域として分類しているが、サーンキヤ哲学では、それらが、魂の覆いにすぎないことを語っている。人智学徒には、植物魂が、サーンキヤ哲学の意味での精妙な生命的基本要素(微細身)と一致することがわかっている。 (人智学でいう、エーテル体のことである。) アリストテレスは、魂の領域を考えているが、単に魂と肉体との間の関係、つまりサーンキヤ哲学でいうなら、魂の覆いに対するグナの特徴を述べている。サーンキヤ哲学でいうなら、アリストテレスの与えた特徴づけは、魂の覆いの形態を与えていることになる。 次いでアリストテレスは、感覚領域のなかにまで延びる魂の領域を、すなわち人智学徒がアストラル体と呼ぶ存在に対し、魂的な原理としての分類を与える。つまり彼はもはや、魂を、肉体からはっきりとは区別していない。 アリストテレスにとって、魂は、既に肉体的形態をとった存在のなかに沈み込んでいるからだが、彼は魂の領域としてアイセティコン[Aisthetikon]を区別し、更に魂のなかを、オレクティコン[Orektikon]、キネティコン[Kinetikon]、ディアネティコン[Dianoetikon]という領域に区別する。 (古代ギリシア語には無知なので、アリストテレスが命名した魂の領域を、どのように読んだらいいのか不明だが、あえて日本語風に読めば、[Aisthetikon]は、イセコン「伊勢魂」、[Orektikon]は、オレコン「己魂」、[Kinetikon]はカネコン「金魂」、[Dianoetikon]は、ダイノコン(大魂)という感じかと思える。 それぞれ、「伊勢-イセ」は、「救い」という意味で意識、「己-オレ」は、「自分」という意味で欲望、「金-カネ」は、「回り、巡り」という意味で運動、「大-ダイ」は、「五芒星形」という意味で星のことで、思考のイメージが浮かぶ。) 上記はアリストテレスの意味における魂の諸領域だが、アリストテレスにおいては既に魂と魂の覆いとが明確に区別されていない。 アリストテレスは、魂の領域を分類したものと信じているが、サーンキヤ哲学では、魂は、分割できない本質、つまりモナドとして把握し、アリストテレスの魂を細分化する分類を、魂の覆いの原理、いわゆるプラクリティ原理のなかへと、つまり、サーンキヤ哲学では、魂(プルシャ)の外へと移行していた。 モナド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89 つまり、魂においては、アリストテレスでさえ既にもう、サーンキヤ哲学のなかに発見する太古の叡智への追想を語れるような状況にはない。しかし、物質的(マテリアル)な領域においてはまだ、アリストテレスでも、3つのグナから表される状態が反映する原理を語る術を心得ている。 特に、彼が色彩のなかの光と闇について語るときがそれにあたる。彼は次のように言う。 「自身のうちに闇を多く持つ色彩と、光を多く持つ色彩と、その中間に位置する色彩がある。」 アリストテレスの場合、次のような発言がそれにあたる(サーンキヤ哲学のプラクリティに相当する)。 「青や菫色を帯びる色彩の場合、闇が光を凌いでいる、闇が光を凌ぐことで、色彩は青、もしくは菫色になる、更に、両者の間に均衡が保たれることで、色彩は緑、もしくは黄緑色になり、光が闇を凌ぐとき、色彩は赤色、もしくはオレンジ色になる。」 サーンキヤ哲学においては、上記の3つの状態は宇宙(世界)観を全体的に包括する原理となる。霊が自然より優勢なら、サットヴァが得られる。 アリストテレスは、色彩について語るときにはまだ、上記と同じ特徴づけを行っている。彼は次のような言葉を用いてはいないが、次のように言っているのと同じであろう。 「赤と黄赤は光のサットヴァ状態を示し、緑は光と闇に関して均衡のラジャス状態を示し、闇が優勢である青と菫色は、闇に対しての光のタマス状態を示している。」 アリストテレスは、もはや以上のような表現を用いないが、まだ太古のサーンキヤ原理は存在している。つまり、アリストテレスが以上のような表現を用いなくても、サーンキヤ哲学における、霊的な宇宙(世界)状態の把握により表れる思考方法が、当時、まだ入り込んでいた。 つまり、アリストテレスの色彩論のなかに、古代のサーンキヤ哲学の余韻が認められる。しかし、現在、このような余韻すら失われてしまった。今日(1912年)、外的な領域における色彩の世界の、サットヴァ、ラジャス、タマスというような三つの状態を表出する輝き(叡智)を体験するのは、ゲーテが行った色彩論の厳しい論争のなかである。 というのも、色彩の世界を、サットヴァ、ラジャス、タマス状態へと分類する古代のアリストテレス的分類法が埋葬された後、ゲーテにより再び、同じ分類法が現れるからである。今日いまだ現代の物理学者たちには、ゲーテの色彩論は、謗りを受けているが、ゲーテの色彩論は、霊的な叡智の原理から引き出されたものである。 今日(1912年)の物理学が、色彩論においてゲーテを認めなくても、物理学の立場からすれば正しいかもしれないが、逆に、色彩論においては、今日の物理学は、まさしく善良な神々から見放されていることを意味するだろう。今日の物理学の観点からは当然のことで、物理学はゲーテの色彩論を罵ることができる。 しかし隠された(オカルトの)原理と結びつけ、今日の真の科学を導出するなら、ゲーテの色彩論を支持する他はなくなるだろう。というのも、再度、現代の科学文化の最中から、かつての古代サーンキヤ哲学による霊的原理として、当時優位であった原理が浮上するからである。 例えば、なぜ数年前に、私(シュタイナー)が、隠された(オカルトの)原理に基づいた物理学から、ゲーテの色彩論の真価を、再評価させることを課題としたかが理解できるだろう。というのも、サットヴァ、ラジャス、タマスという三つの状態に従って色彩現象を描くことで分類するゲーテの手法が、全くの事実に即した表現法だからである。 以上のように、新たな手段によって研究され、霊的な闇から、新たな精神史のなかへと霊的な原理が出現するように、現在とは全く別の手段を通じて、かつての人類に獲得されていた叡智が現れてくる。 このサーンキヤ哲学は、前仏教的で、実際、仏陀の伝説を、いわば眼の前に、手に取るようにありありと見せてくれるような叡智である。なぜなら、古代インド的な教義が、サーンキヤ哲学の祖はカピラだと語るのは正しいからである。 カピラ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%A9/ 仏陀は、カピラヴァストゥ(2)のカピラの居住地で生まれ、この出生は、仏陀がサーンキヤ学説から育ってくることを示唆している。偉大なサーンキヤ哲学を初めて集大成したカビラがかつて影響を与えた場所に、誕生するように、仏陀が、自らを置いたのである。 2)カピラヴァストゥ:インド北部、ヒマラヤの麓に位置する。この場所は19世紀に、ネパールのPadeire村付近で考古学者たちに再発見された。 カピラ城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%A9%E5%9F%8E
2011年05月16日
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サーンキヤ哲学では、人間が、過去、現在、未来において、実質的な魂として、外的な自然原理を、いかに身に纏うか、その際、自然のもとでは、外的な存在、可視的な存在だけでなく、不可視的な存在に至るまで、自然のあらゆる段階が理解され、その様子が描出され、前回述べた「マナス」、「アハムカーラ」等の形態として区別していた。 あらゆる形態、すなわち粗雑な「物質体」から、上位は「源流」に至るまで包括するプラクリティのなかに、プルシャ[Purusha]と呼ばれる霊-魂的な存在が生きている。ただし、この霊-魂的な存在は個々の魂のなかに「モナド」的に表わされるので、個々の魂の「モナド」は、この物質的(マテリアルな)原理であるプラクリティが、「物質的」といっても、今日の唯物論的な意味ではないが、始めも終わりもないと考えられるのと同様に、いわば始めも終わりもないものと考えられる。 サーンキヤ哲学は、つまり、魂の多元論[Pluralismus]をイメージしている。 魂がプラクリティ原理のなかへ沈んでいく様子は、魂を包含していた最高の「源流」という分割できない形態から、粗雑な物質体への受肉へと下降展開していき、それから今度は逆行を始め、粗雑な物質体を克服した後に再び上昇発展していき、再び「源流」へと帰還しながら、自由な魂として、純粋なプルシャへと入っていくから、すなわち、サーンキヤ哲学は、「源流」から、自らを解き放つ、という魂の多元論である。 以上のような認識を自身の魂に作用させると、サーンキヤ哲学という太古の学問の根底にある叡智が、魂による参入法により、今日、再度獲得すべき叡智であることがわかる。更にサーンキヤ哲学の意味では、魂が各々の形態原理といかに関係し、その方法へのアプローチも存在していることがわかる。 例えば、魂は、完全な独立性を、ブッディの内部で可能な限り保つ限り、ブッディよりも、魂が優勢に働く状態で、魂はブッディと結びつくことができる。また逆の場合もある。魂が、まるで眠ったような状態、投げやりで怠惰な形で、独立性を覆うと、その覆いの性質が全面に出てくる。 魂の独立性が覆われるような性質は、粗雑な物質から構成される外界の物質的自然においても当てはまる。例えば、いま人間観察を行う。 霊-魂が表面に出ているような人は、霊-魂の顕現に対して、粗雑な物質体を通じて伝えられる動作や身振りや、眼差しが、後退する。 もし、そのような人が、目の前に立っていたなら、その人の動き、身振り、眼差しのなかに、霊-魂の顕現を感じ、例えば、「この人は、霊-魂が前面に現れている。霊-魂が生きるために、物質的原理を用いている。」と言うだろう。 そのような人間は、物質的原理に負けることなく、物質的原理に対する勝利者なのである。 魂が、外的な覆いの原理を打ち負かす状態はサット-ヴァ状態である。このサット-ヴァ状態については、ブッディ、またはマナスに対する魂の関係にも、精妙な要素(霊)や粗雑な要素(物質)から成る身体に対する魂の関係にも、語ることができる。 というのも、魂がサット-ヴァのなかに生きる、と言うとき、これは、魂を覆うものに対する、魂のある特定の関係、もしくは霊的原理の自然原理に対する関係、またプルシャ原理のプラクリティ原理に対する関係を意味するに他ならないからである。 しかしまた、逆に、粗雑な物質体に打ち負かされている人間が霊視できるが、この状態について、道徳的な性質を付与する必要はなく、サーンキヤ哲学の意味における純粋な特徴づけであるが、いわば自らの物質体の負担の下に歩み、沢山の肉を付け、物質体の物質的負担が、自らの振る舞いに影響を与え、外的な物質体のなかに、魂を表現したくても、成す術を知らない人も存在する。 魂の顕現通りに、顔の筋肉を動かすとき、サット-ヴァ原理が支配する。顔の脂肪の塊が、特定の相貌を刻むとき、魂的原理が外的物質的な覆い原理に圧倒され、このとき魂は、自然原理に対するタマスの関係のなかで生きる。 そして、サット-ヴァ状態のように、魂が優勢でもなく、タマス状態のように、外的な覆いが優勢でもなく、両者が均衡を保つときは、ラジャス状態として語られる。以上の3つの状態は、特に重要な3つのグナ(徳性、基本要素)[Guna]である。 つまり、プラクリティの個々の形態や、分けられない源流の最高の原理から、下は粗雑な物質体に至るまでの特徴づけを区別する必要があり、サーンキヤ哲学は、いわゆる、覆いの原理に対する1つの特徴づけである。 覆いの性質のなかのどんな形態であるかに関係なく、魂の覆いに対する関係を特徴づけるべくサーンキヤ哲学がもつ叡智を、この[覆いの原理の]特徴づけから区別すべきである。この特徴づけは、サットヴァ、ラジャス、タマス、という3つのグナの状態によって与えられる。 今、いわば以上のような認識が深く入り込んでいく叡智を自らの魂の前に導出してみる。あらゆる存在に対して、上記の3つの状態から、包括的な特徴づけを与えることができた、古代の認識による科学(サーンキヤ哲学)が、あらゆる存在の秘密をいかに深く覗きみていたか、を見ていく。 ここでまさしく驚きが魂に近づいてくる。この驚きについては既に述べたが、次のように思う。 「人類の進化史において最驚嘆すべきことは、霊の隠れた暗い深みから今日人智学のなかに再び現れてきた叡智が、既に太古の時代に存在していた!」
2011年05月13日
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では物質世界上にある真実とは何なのか? 物質世界上に唯一真実として存在するために、立ち止まり、「ここに真実がある!」と言えるものは何か? それは、人間の世界にある「死」であり、他の自然領域のなかの「死」ではない。地球の進化過程の中で生じる歴史的な出来事を理解するには、高次の精神(霊)的な元型へと上昇する必要がある。しかし、ゴルゴダの出来事だけに関しては当て嵌まらない。ゴルゴダの秘儀に関しては、直接、物質世界に属する。 上述した内容の別の面もまた明らかで、それは途方もなく興味深いものである。今日では、ゴルゴダでの出来事は真実でないとされ、外(物質)的な歴史では、この出来事を歴史的な事実と認めるのが不可能である、という言論を聞くのは非常に重要である。 大きな歴史的事実の中で、ゴルゴダの秘儀ほど、外的、すなわち歴史資料的な確認方法での証明が困難なものはない。ゴルゴダの秘儀に比べれば、外界における人間の進歩にとって重要なソクラテス、プラトン他の古代ギリシア人たちの存在に関する歴史上の議論がいかに容易であるか、を考えてみればよい。 「ナザレのイエスが実際に生きていた」という事実は歴史的根拠(証拠)から主張できない、という、ある程度正当な発言を、多くの人がする。しかし、この発言を正当化する否定的な歴史的根拠(証拠)も存在していない。 いずれにしろ、他の歴史的事実を取り扱うような形で、ゴルゴダの秘儀という事実を扱うことはできない。 この外的な、物質世界上で生じた出来事が、超感覚的な領域における事実と同じ特徴、つまり、いかなる外(物質)的な方法でも証明できない、という特徴をもつのは、特筆すべき事実である。超感覚的な世界を否定する多く人たちが、同時に、ゴルゴダの秘儀という出来事を(この出来事は超感覚的な出来事ではないが)、把握する能力を欠く人たちでもある。 ゴルゴダの秘儀という出来事が、真実であることは、その出来事が与える影響により確かめられるが、超感覚的世界を否定する人々は、ゴルゴダという真の出来事自体が、歴史的な意味で実際には起こらなかったとしても、その出来事の影響が充分に生じ得ると推測する。 唯物論者たちは、ゴルゴダの影響を、社会学的な状況の結果として説明するが、宇宙的な創造過程を知る者にとっては、「キリスト」という背後に立つ力無しで、「キリスト教」の影響が生じた、と考えるのは、畑に種を植えなくてもキャベツは育つ、と言うのと同じようにあまりに自信過剰な考えである。 自信過剰な考えを更に進めれば、福音書の著作に携わった各個人にとっても、ゴルゴダの秘儀という歴史的な出来事を、歴史的な証拠に基づく歴史的な事実として証明する必要もなくなり、というのも、ゴルゴダの秘儀は、外(物質)的な観察から知覚可能な証拠を残すことなく生じたからで、全くの空想である、と言うこともできる。 では、実際、直接的な目撃者でもある、ヨハネの福音書の著者を除く福音書の著者たちが、どうやってゴルゴダの秘儀という出来事を確信するようになったのか? 当時の彼らには、ゴルゴダの秘儀に関する伝承や書物以上のものは存在しなかったが、歴史的な書物等から確信したわけではない。確信へと至る状況に関しては、著書「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」(1)の中でも概説したが、彼らが「キリスト=イエス」の実在を確信したのは、天体の配置を通じてだった。 1)西川隆範訳『神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 というのも、彼らは、大宇宙と小宇宙の関係について非常に熟知していたので、もっていた知識から、今日でもそのような知識を獲得できるが、天体の配置を通じて、世界史における重要な転換期を算出できたからである。 彼らは、「星座が、このような配置のとき、『キリスト』と呼ばれる『存在』が『地上』に生きたはずである」と知ることができた。つまり、マタイ、マルコ、そしてルカの福音書の著者たちが、歴史的な出来事に対する確信を得たのは、天体の配置からだった。 彼らは、福音書の内容については、超感覚的能力(霊能力)により獲得したが、地上で起こった様々な出来事への確信は、宇宙における天体の配置から引き出した。いまでも、天体の配置に関する知識をもつ人は、福音書の著者たちを信じることができるだろう。 福音書の歴史性に対する反論は不正確である、という証明は割に合わない仕事である。はじめに人智学者として、全く異なる基礎である、魂への洞察を通して得られる基礎知識の上に立っている、という事実を明確にしておく必要がある。 上記に関連して、今回の連続講義を通じて確立しようとした事実に対する理解に注意を促しておきたい。それは、人智学が語る事実の一面だけを取り出し、その一面に対して正しい反駁を加えることで、事実を傷つけ、無用にしようとしても、不可能である、ということである。 人間は、自分たちの知識に従って、いくらでも正しい反論ができるが、それにより人智学が否定されることはない。例えば「神智学」の講義の中で、次のような比喩を挙げた。 『ある少年が家族のために朝食用のロールパンを買いに村に通っていた。その村では、ロールパン1個が2クロイツァーであったが、その少年はいつも10クロイツァー貰い、パン屋から沢山のパンを持ち帰っていた。ここで注意すべきことは、彼は算数が得意ではなかったということである。 少年は、ロールパンの購入について、あまり深く考えていなかった。あるとき、少年の家族に養子が来た。彼は少年の代わりに、パン屋にロールパンを買いに行くように頼まれ、その養子は算数が得意だったので、次のような計算を行った。 「10クロイツァー持ってロールパンを買いに行く。パン1つは2クロイツァーで、10÷(割る)2は5だから、家に持ち帰るのは5個のはずだ!」 ところが、家に帰って袋を開けると、6個のパンが入っているのに気がついた。そこで、彼は「これはおかしい!10クロイツァーで6個も買えるはずがない。計算は正しいから、明日は5個だろう!」 しかし、次の日も彼は10クロイツァーで6個のパンを持って帰った! 勿論、計算は正しいが、その計算は現実には対応していなかった。というのは、その村では、10クロイツァー分のパンを買うと、おまけにもう1個のパンをもらえるので、5個ではなく、6個のパンを受け取る習慣になっていたからである。計算は正しいが、現実には対応していなかったわけである。』 以上のように、人智学に対する最も批判的に考え抜かれた反論は、(論理的に)「正しい」かもしれないが、全く異なる原則の上に立つ霊(精神)的な真実とは何の関係もない可能性もある。上記のような顕著な例は、数学的に正しい事項と実際に真実である事項との間の相違を理論的に示している。 以上のように、人智学徒の努力により、マーヤ(幻想)の世界は、霊(精神)界の真実へと導かれ、回帰していく、という事実が示された。この過程が示した事実とは、火とは「犠牲」であり、空気(大気)という元素は「流れ、与える徳」であり、あらゆる液体(流体)は、「諦めと拒絶」の結果である、ということだった。 そして、地球紀では、上記の3つの真実に4つ目の真実を付け加えた。それは、土、あるいは固体という元素の本性とは、「死」であり、真の存在である宇宙的な目的からの分離である、ということだった。 (生命体の死から鉱物が生まれる。石油や石炭の生成からわかる。微生物に浄化能力があるのは、微生物の死から、鉱物が生まれるからである。) この分離状態が始まったとき、「死」が、マーヤ、あるいは幻想の世界の中に、1つの真実として入ってきた。神々は、何らかの形で、この物質的な世界に下降し、マーヤ、あるいは幻想の世界である物質界の中で、真の本性において「死」を理解しない限り、決して、「死」について知ることはなかった。 以上が、これまで議論してきた概念に付け加えたいものである。地球紀でもまた、真の概念(後に述べるが、マルコの福音書に記述されている事実を根本的に理解するのに必要な概念である)に関する明晰な理解を獲得するには、規則正しい瞑想を通じて、真の概念を繰り返し、自らの魂に作用させることによる。というのも、マルコの福音書を理解できるのは、最も意義深い宇宙的な概念の中に礎石を置くときだけだからである。 (有名な葉隠れの書には、武士道は死ぬことにみたり、とあるが、各々の死を発見することが、哲学の主題なのであろう。つまり、人は、生きるために死に、死を発見するために、生を謳歌する。 生と死を経験することで、人類は覚醒意識を制御できるようになる。自動車の運転に、アクセルとブレーキが必要なように。地球は、覚醒意識の教習所ともいえる。)
2011年05月12日
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人間よりも下位の存在や、また上位の存在たちにとっても、「死」について語ることに意味はない。だからといって、「キリスト存在」と呼ばれる存在の、地上における最重要行為が無効になることはない。実際、「キリスト存在」に関しては、ゴルゴダの秘蹟(復活という死に対する生の勝利)が、宇宙の全ての出来事の中で最重要であった事実を見てきた。 では、この死に対する勝利はどこで遂行されたのか? 高次の世界で行われたのか? 高次の世界では断じてない! なぜなら、鉱物や植物、そして動物の領域の中に言及できる低次の存在たちに関しては、死について語ることができず、これらの低次存在たちの真の存在は、感覚世界を超えた高次の世界の中にあり、高次の存在たちは、死ではなく、変容(メタモルフォーゼ)を語るだけに限られるからである。 生の切断面とも呼べる「死」が生じるのは、人間だけである。人間が「死」を経験できるのは、物質的な文脈(世界)の中だけである。 もし、物質世界の中に全く入って行かなければ、人間は決して「死」を知ることはなかっただろう。というのも、物質世界に入って行かない存在は、「死」について何も知ることがないからである。他の世界の中に、「死」と呼べるものはない。他の世界にあるのは「変容(メタモルフォーゼ)だけである。 もし、「キリスト」が「死」を経験するなら、物質世界に下る以外にはなかった! 何故なら、「死」を経験できるのは、物質世界だけだからである。 以上のように、人間の歴史的な発展において、高次の世界の真実が、マーヤ(幻)の中で、驚くべき形で働いている事実を霊視できる。歴史的な出来事に関して正しい思考を行っているのなら、確かに出来事は物質的な領域の中で起こっているが、その源泉は精神世界の中にある事実に気づくはずである。 上記の事実は、あらゆる歴史的な出来事について言える。ただし、ただ1つの出来事を除けば! というのも、ゴルゴダの出来事に関しては、物質世界上で生じたが、その出来事に対応するものは高次の世界の中に存在していないからである。確かに、「キリスト」自身は高次の世界に属し、そして物質世界へと下って来た。 しかし、他の全ての歴史的な出来事に関して存在する元型は、ゴルゴダで成し遂げられた出来事に関してだけは存在しない。ゴルゴダの秘儀は物質的な領域の中だけで生じた出来事だった。 人智学は、上記の証拠を提供することになるだろう。例えば、次の三千年紀にわたって、ダマスカスにおける出来事に対する新しい知見が多数発見されるだろう。この点についてはしばしば言及してきたが、パウロがダマスカスで霊視したように、人間は、将来、アストラル界上のエーテル形姿の「キリスト」をみる霊能力を発達させるだろう。 高次の能力を通してキリストを知覚する経験は、次の三千年紀を通じて次第に発達していくが、それは20世紀から始まる。いまから将来にむかって、これらの霊能力は徐々に現れ、次の三千年紀を通じて、多くの人々により身につけられる。 多くの人々が、「高次世界に参入することで」、「キリスト」は現存するという事実、すなわち「キリスト」は生きていることを知るようになる。多くの人々が「キリスト」を知るようになるが、それは「キリストが今生きている」からである。 多くの人々は、今「キリスト」が生きる様を知るようになるだけでなく、むしろ、パウロと同じように、「キリスト」が死に、復活した、という事実を確信する。しかし、この復活の基礎を、高次の世界ではなく、物質世界上で経験しなければならない。 もし、人智学によって、今日の「キリスト」自身の発達が成し遂げられる過程と同時に、人間の能力が発展する過程を理解するなら、人間が死の門を通過していくときに、ダマスカスでの出来事に与るのを妨げるものは何もない。何故なら、そのとき、「死」は人間の世界に最初に輝き込む「キリスト」の顕現として現れるからである。 今日、肉体の中に居ながら、以上の出来事に備える人たちは、死と新しい生(転生)の間の生活においても、以上の出来事を経験できる。けれども、死に直面したときに、この出来事の経験に備えない人たち、すなわち今回の受肉において、「死」を全く理解しない人たちは、死後と新しい生(転生)の間の生活においても、「キリスト」に関して現在生じている様や、更に次の三千年紀を通して生じ続ける事柄について、何も知ることができない。 ゴルゴダの秘儀に関する「死」に対する準備を怠る人間は、死後、再び受肉の機会を待たなければならない。再び地上に戻る際、更なる準備をする必要がある。ゴルゴダにおける死や、その死から生じた発展は、「キリスト」が、地上で展開するために必要で、この事実を理解できるのは、肉体の中に居る間だけである。 高次の生活にとって唯一重要な事実は、肉体のうちに把握する必要がある。一旦、肉体の中で理解したなら、高次の世界の中でも働き続け、益々育成される。しかし、まず肉体の中で理解する必要がある。ゴルゴダの秘儀は、高次の世界の中では決して生じず、高次の世界の中にも元型をもたない。 ゴルゴダの秘儀は、物質世界の中に完全に限定される「死」を包括する出来事である。従って、ゴルゴダの秘儀を理解できるのは物質的な文脈(世界)の中だけである。地上にいる人間の1つの使命は、この物質世界に受肉して、このゴルゴダの秘儀の理解を達成することなのである。 従って、直接的な真実を示すような重要な存在を、物質世界上に見つけた、と言うべきである。
2011年05月11日
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地球紀の講義は、当初、幻想(マーヤ)の物質世界の中に幻でない真実があるのか? という問いと、また、その内部には、真実に相応するものがあるのか? という問いから始めた。 自らの魂のなかへの参入に際して、これまで提示してきた概念を深く考察してみる。 最初に述べた内容は、今回の講義で取り上げる概念は複雑なものである、ということだった。従って、講義の内容を、知的に受容するのではなく、瞑想すべきである。 瞑想したときにはじめて、自らの魂により明らかになる。 「死」の概念、すなわち土(固体、鉱物)に関係する精神的な特徴を取り上げる。その特徴は実に注目すべき側面を示している。人間が人生でみつける「死」以外の他の概念に対しては、人間の周囲に広がるマーヤ(幻想)の物質世界の中には、いかなる真実も発見できず、ただ真実は、根本的に精神的な存在の中にだけ発見できる。 しかし、いま確認できたことは、マーヤ(幻想)の領域において、自らを「死」として特徴づける精神的存在がある、という事実だった。その存在は、宇宙的目的から分離され、本当は精神的な領域の中に存在すべきものだった。 つまり、本来の目的や意味から、切り離され、マーヤ(幻想)の中に閉じこめられた。その存在は、本当はマーヤ(幻想)の物質世界にあるべきではなかった。マーヤという広大な幻想の領域全てを通して発見できるものは偽りと錯誤だけである。 しかし、マーヤの中でも、真実に相応する何か、つまり、真実としての意味づけを行う精神的存在から、切り離された瞬間、切り離されたものが、「破壊」と「死」を被る現象を霊視できる。まさにここに、大いなる真実がある。 すなわち、「死は、マーヤ(幻)の世界の中で、唯一、真実として自らを現している。」 「死」以外の他の全ての顕現に対しては、背後に存在する真実へと到達する必要がある。「死」以外のマーヤ(幻)の中に生じる他の全ての顕現は、背後に真実が横たわっている。ただ、「死」に関してだけ、マーヤ(幻)の中において真実として霊視できる。 すなわち、マーヤ(幻)の領域全体を通じて、「死」だけが真実である。 従って、もし、至る領域に広がる普遍的なマーヤ(幻)の中から、偉大な宇宙の原理へと向かうなら、人智学にとって最重要かつ最適切な帰結とは次のような命題である。 すなわち、マーヤ(幻)の世界において、真実として存在するのは「死」だけである。 上記の命題は、別の面からもアプローチできる。例えば、人間の周囲を取り囲む別の領域に属する存在たちに関して考察する。次のように問うことができる。例えば、鉱物は死ぬのか? 「鉱物が死ぬ」と言うのは、人智学者にとっては意味がない。なぜなら、「切り取られた爪は死んだ」、と言うのと同じだからである。爪は、爪だけで正当性をもつ存在ではなく、爪は身体の一部であり、爪を切れば、爪は身体から切り離され、身体と共にあった生命から引き離される。 身体が死ぬのは、人間自身が死ぬときだけである。同じ意味で、人智学からいえば、鉱物は死なない。なぜなら、鉱物は、爪が身体の構成要素であるように、大きな宇宙の構成要素に過ぎないからである。鉱物が破壊されたように見えても、それは爪が身体から切り取られ、切り離されるのと同じように、大いなる宇宙の身体から引き離されているに過ぎない。 鉱物の破壊は死ではない。なぜなら、鉱物は、鉱物だけで生きる存在ではなく、むしろ、鉱物を1つの構成要素とする大きな身体内に生きているからである。 もし、ここで植物の本性に関する講義を思い出すなら、植物もまた独立の存在ではない、ということがわかる。植物もまた地球の構成要素だが、鉱物が大きな宇宙の身体の一部であるのと同じ形ではない。 人智学的な観点から言えば、個々の植物の生命について語ることには意味がなく、むしろ、地球という身体から、植物について語るべきであるが、それは、植物が、地球の身体の一部になっているからである。植物の死に関しては、指の爪を切るのと似ている。 指の爪が死ぬ、と言うことはできない。植物についても同様である。何故なら、植物は、地球全体に等しい大きな身体に属しているからである。地球は1つの生命体である。地球は春になると眠りにつき、植物という器官を太陽に向けて送り出す。秋には、再び目覚め、植物の種子を、地球内部に受容することで、精神的に植物を地球のなかに取り戻す。 従って、植物を、個々別々の存在として見るのは無意味である。たとえ個々の植物が枯れても、総体としての地球生命体が死んだわけではない。同様に、髪が白くなっても、人間は死なない。白い髪を、何らかの自然的な方法で、たとえ黒く(有色に)できなくても、人間は死なない。 人間は勿論、植物とは異なる立場にあるが、白い髪を黒い髪に戻すことに地球を喩えることができる。地球という生命体が死ぬことはない。萎れる植物としてみえる現象は、地球の表面で生じている過程にすぎない。植物は萎れるが、それでも、真の意味で植物が死ぬと言うわけではない。 動物もまた、人間の死と同じ形で死ぬのではない。なぜなら、個々の動物は真の意味では存在しないからで、動物の自我である集合魂が、超感覚的な世界の内部に存在する。動物の真の本質、すなわち真の存在は、アストラル上において、集合魂として存在する。個々の動物は、その集合魂から濃縮されて現れる。動物が死ぬと、それは集合魂の構成要素として、別の動物に置き換えられる。 従って、鉱物、植物、動物界において、遭遇する「死」は、見かけ上のもので、「死」の幻想に過ぎない。人間だけが真の意味で死ぬ。それは、人間(の魂)が個別性を発達させ、肉体の中に下降するまで進化しているからである。 人間は、肉体の中で、地上的な存在性を担うことにより、真実になろうとしている。死に意味があるのは、地上に存在している間の人間だけである。 上記の意味を把握すると、「人間だけが実際に死を経験できる」といえる。更に言えば、人智学的な探求から学べるように、人間だけが、本当に死を克服できる。死に対する真の勝利が可能なのは、人間だけである。 なぜなら、他全ての存在たちにとっては、死は見かけ上に過ぎないからで、本当に存在していないからである。もし、人間性を越えて、高次のヒエラルキア存在たちにまで上昇するなら、高次の存在たちも、人間的な意味において、死を知らない、ということがわかる。 真の死、すなわち物質的な領域における死を経験できるのは、物質世界上から、何かを吸収できるような人間だけである。人間は、物質的な文脈(経験)の中で、自我意識を発達させる必要があるが、それは、「死」なしには見つけられない。
2011年05月10日
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では、次のように、まるで自分が体験したかのように想像してみる。 「犠牲」を捧げられるべき高次の存在たちがいるが、「犠牲」を送り返す。犠牲行為を行おうとした精神的存在たちの中に「憧れ」が生じ、次のように感じる。 「もし、私が犠牲を与えられたら、私の中の最良の犠牲が、捧げた存在たちの中で生きただろう。実際、私自身が、あの存在たちの中に生きていただろう。けれども、私は、あの存在たちにより排除された。私はここにいる、そして、高次の存在たちは向こう側に立っている!」 しかし、犠牲を拒否された存在たちの中では拒絶された犠牲から生じる「憧れ」が、高次の存在たちに向かって煌めくが、犠牲を拒否された存在たちは、運動霊によって、高次の存在たちに近づけるような地点へと、多くの異なった側面から、変化を与えられる。 そして、犠牲を拒絶された存在たちを取り巻く、高次の存在たちから受け取る豊かな像(イメージ)により、その存在たちの中に留まる拒絶された「犠牲」(エゴイズム)に、均衡と補償が与えられる。 以上のように、犠牲を捧げようとした存在たちと、犠牲を拒絶した高次の存在たちとの間に1つの関係が創出される。その新たな関係により、捧げた犠牲が差し返された為に満たされなかった「憧れ」が、あたかも「犠牲」が受け取られたかのように補償される。 もし、高次の存在たちを象徴的に太陽として視覚化し、そして、犠牲を捧げようとした存在たちを、ある1つの惑星の集合体として視覚化するなら、上述した意味を明確にできる。 いま、その惑星の存在たちが、犠牲を高次の天体、つまり太陽に捧げることを仮定する。しかし、太陽はその犠牲を差し返し、犠牲は、捧げた存在たちのなかに留まる。これらの存在たちは、その孤独と隔離の中で憧れに満たされ、運動霊が、その惑星を、高次の存在たち、つまり太陽の周りを巡る周回へともたらす。 運動霊により、犠牲を自身の中に保持する存在たちにとって、高次の存在たちに向けた犠牲の直接的な流出の代わりに、太陽の周りを巡る動きへと、犠牲を間接的にもたらすことで、高次の存在たちとの犠牲の新しい関係が可能になった。 それは、深い「憧れ」が、1つの大きな達成により克服されるのではなく、一連の部分的な満足を徐々に経験することで慰められるのと同じである。人間の魂全体が、一連の部分的な満足によって、少しずつ慰められる。 月紀の講義で、以上のことを非常に正確に記述した。高次の存在たちとの内的な絆を感じられない精神的存在に、外から来る像(イメージ)が代替物として生じる現象を霊視してきた。これら代替物による満足は、そのような精神的な存在が、部分的な満足を獲得していく方法を示している。 しかし、捧げられるように意図された犠牲が、高次の存在たちの中では、低次の存在たちの中に留まったときに取る形態とは異なる形態を取ったという事実は否定できない。なぜなら、高次の存在たちが、実際に、形態に対する必要条件を意図するからである。 上記を、イメージ的に想像できる。もし、ある惑星全体が、「太陽」の中に流れ込み、「太陽」が拒絶しなかったら、この惑星には、「太陽」がその惑星の流入を拒絶していたら生じていた条件とは異なる条件が「太陽」として、生じていただろう。 すなわち、犠牲内容の変容は、起源から犠牲を除外する犠牲の拒絶を通して生じる。 また次のような精神的現象を考察する。 喜んで犠牲を捧げようとした存在たちが、真の目的を達成するには、捧げた犠牲が受容されることで、本来、その受容を感じることだったが、拒絶されたので、自身の内に保持せざるを得なくなった。 もし、上記の存在たちの経験を、自らの魂のなかで、甦らせることができたなら、「宇宙的存在から、ある一部が、自らの本質的な意味により、また偉大な宇宙の目的から、除外された出来事」と呼ぶ現象を経験するはずである。 上記の現象を、絵画的なイメージで語るなら、犠牲を拒絶された存在たちは、実際、別の場所で目的を達成できた犠牲を自身の内に保持した結果、その犠牲は、宇宙進化の過程から、排除される。 もし、以上に表現した出来事を、上記のような現象に関して、知性では理解できないので、知性ではなく、感情で把握するなら、普遍的な宇宙の進化プロセスから引き離される、という事実が、どういうことなのかが経験できる。 犠牲を拒絶した高次の存在たちにとっては、自身から遠ざけた、というだけに過ぎないが、別の存在たち、つまり犠牲を拒絶され、自身の中に留まる存在たちにとっては、宇宙的な起源からの逸脱という刻印を、自身が担う。 (故郷を失った異邦人のような気持ちか?) 宇宙的な起源からの逸脱として、自身が外れたことを示すような存在がいる。もし、以上の出来事を詳細に理解するなら、もし、起源からの逸脱が、自身の中に潜むような存在に関するイメージを、自らの魂のなかに深く参入し、適用するなら、その存在は、「死」である、ということが分かる。 宇宙における「死」とは、犠牲を拒絶されたために、自身の内に保持せざるを得なかった存在たちの内部で生じた現象に他ならない。 以上のように、進化の第3段階で見つけた「諦め」と「拒絶」から、高次の存在たちにより拒絶された犠牲が、「死」となる現象へと進んで来た。そして、「死」の真の意味とは、本来の場所に存在せず、本来の場所から排除され、逸脱した状態である、という事実に他ならない。 人生において「死」が具体的に発生する際にも同じ原則が当てはまる。 幻想(マーヤー)の物質世界に取り残される死体を見れば、死体になった肉体が、「死」に直面することで、死という自身の唯一の真の意義を、他の高次の自我やアストラル体やエーテル体に付与するが、その肉体だけは、(霊界から)拒絶され、自我や、アストラル体や、エーテル体から引き離され、排除され、物質世界に置き去りにされる物質だけから構成されるのがわかる。 すなわち、人間の肉体は、高次の存在であるエーテル体や、アストラル体や、自我なしには意味をもたない。 死の瞬間、肉体は意味を失う。肉体は、意味づけしていた(生命的な)源泉から排除される。死に際し、もはや感覚では知覚できない叡智が、大宇宙の中で、自らを開示する。宇宙の高次領域における宇宙的存在たちが、捧げられた犠牲を拒絶し、投げ返した為、肉体という犠牲は、「死」を免れないものとなった。 なぜなら、「死」とは宇宙的な実存、もしくは宇宙的な存在の真の目的から、除外される、という現象だからである。 (つまり、物質からつくられるエゴイズムは「死」を免れないものとなった。エゴイズムは宇宙には受け入れられないために、人間は、地球紀において、エゴイズムを解消しないといけない。前世のエゴイズムを、来世の自我として持ち越し、解消することが、人生の目的である。 ちなみに、死後、人生の審判をうける。そこで、エゴイズムを吟味される。エゴイズムが大きいほど、宇宙には受け取られないので、自身で処理しなければならずに、苦悩は大きくなる。つまり地獄にいくことになる。 これは、人生において他者に対して行ったことが、死後、自分に返ってくる。人生の主観と客観が、死後、逆転し、例えば、人生で、誰かに迷惑をかけたら、死後、宇宙に拒絶されるから、その迷惑が自分にかえってくる。 簡単な喩えでいうなら、宇宙には清掃屋はなく、地球で処分するしかない。自分で出したゴミは、自分で処理するしかないわけで、前世のゴミは、来世で処分しないといけない。そのための地球である。) 以上のように、宇宙における第4の要素と呼べる「死」に到達した。もし、純粋な意味において、火が、「犠牲」であるなら、火、もしくは熱が生じる背後には(第1の要素の)「犠牲」が横たわっている。 地球の周囲に空気(大気)として広がっている背後に、(第2の要素として)「贈与」、もしくは「徳の付与」を霊視できる。 次に「流れる水」、すなわち「流体」という第3の要素を、精神的な「諦め」もしくは「拒絶」として特徴づけるなら、第4の土(固体)の要素は、「拒絶」を通して、本来の意味から排除された「死」として特徴づけられる。 もし、土(固体)の要素がなければ、死はなかった。「死」は、具体的な形態において、流体から固体が生じる過程を示す。それはまた、ある意味、精神的な過程をも反映する。 例えば、池に氷が張る際の、水が固体になる過程を想像する。水から氷への転移が生じるのは、水としての意味を、実際に水に与えている実体を、水から引き離すことによる。この過程の中には、固体になる、つまり、土になる、という精神的な表現がある。 (水は死んで、氷になる。) 4大元素の特徴に関して言うなら、実際、氷は土(固体)である。水は、液体の特質をもつからである。自らの目的や意味から分離されることは、「死」と呼ぶべき第4の要素であり、「死」は土という第4の要素の中で自らを開示する。
2011年05月06日
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では、「驚き」の起源とは、何なのか? 「驚き」、すなわち、外への「驚嘆」が、魂の中に生じるのは何故なのか? 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、人間が、その性質を有する存在や、事物、もしくは事実の前に立つことで、「不可思議な喜び」を感じるからである。この「不可思議さ」が、「驚き」や「驚異」に導く最初の要素である。 しかし、人間は、「不可思議」全てに、「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。「不可思議」に対する「驚き」を体験するのは、同時に、自身との関係を感じられる場合である。この感情は次のように表現できる。 「この不可思議な物、もしくは存在の中には、いまだ自分の一部にはなっていないが、自分の一部になるような何かがある。」 人間が「驚き」や「驚愕」で、受け取る際、「不可思議」であると同時に、自身との関係を感じる。 「(不可思議なものに対する)驚き」という言葉は、「(雷に打たれたような)驚愕」という言葉と関係する。知覚可能な関係性が見つけられない「驚き」という現象に、何かが付け加えられる。しかし、その何かが単なる思い込みである場合もあるが、少なくとも、その思い込みの責任は当人にある。 その「不可思議」を、自身との関係に結論づけない限り、拒絶や反発から、その「不可思議」を与える物、もしくは出来事に近づくことはない。 例えば、唯物論的、もしくは純粋に知的な概念に基づいて行動する人たちは、嘘もしくは間違いの直接的な証拠がなくても、何故、他者が「驚き」と認識している対象を否定するのか? (超常現象などであろう。自分が体験したわけでもないのに、他者の体験を、安易に否定する唯物論者は多い。) 今日では、哲学者でさえ、目の前に広がっている物質世界の現象に基づいて、ナザレのイエスの中に受肉したキリストは、死者から甦らなかった、という証明が不可能であることを認めざるを得ない。 この主張に対する反論は可能だが、いかなる反論であれ、論理的な意味を満たさない。今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既に認めている。 なぜなら、唯物主義の側から頻繁に持ち出される反論、例えば、キリストが死者から甦ったように、甦った人をいままでに見た者がいない、というような反論は、論理的には、魚しか見たことがない者は、鳥は存在しないと結論づける主張と同レベルにあるからである。 ある存在がいる、という事実に基づき、別の存在がいない、ということを、論理的に首尾一貫した方法により導き出すのは不可能である。同様に、物質世界の中での経験に基づくだけでは、ゴルゴダの出来事は、ただ「驚き」として記述するしかなく、何も導き出せない。 もし、誰かに「奇跡」としてしか記述できない出来事について語り、語られた人物が「私には理解できない」と言っても、この人物は、「驚き」について反対しているわけではない。何故なら、その人物にとって真実と思うような知識に対する学習の場合は、同様に「驚き」を出発にするからである。 その人物は、その奇跡と記述された内容が、自身の内部で反響することを求めている。ある意味で、その人は、自分に伝えられることを精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能とは信じられず、自分との関係にも思わないため、その奇跡の出来事の受け入れを拒否する。 自身では、「驚き」の概念に到達できるが、「驚き」や「驚愕」が生じるには、古代ギリシア哲学の観点から言えば、人間が何か「不可思議」なものに直面し、同時に、それとの関係を知っているように認識できる必要性を認めなければならない。 さて、ここで、以上の概念と、前回、魂への参入から理解できた概念との間に橋を架けてみる。 以前述べた事実は、喜んで犠牲を捧げる精神的存在たちがいること、そして、ある存在たちが、捧げられた犠牲の受け取りを拒み、その犠牲が、捧げた存在たちに返ることで、進化のなかに、ある発展が与えられたことだった。 以前、差し返される犠牲の中に、「月」紀という進化期における重要な要素を認めた。実際、ある存在たちが、高次の存在たちに「犠牲」を捧げ、後者が、「犠牲」を差し返したことが、「月」紀という進化期の最重要な側面であった。 「月」紀の存在たちの「犠牲」の煙が高次の存在たちに向かって立ち上るが、その高次の存在たちは犠牲を受け取らずに、その「犠牲」の煙は、犠牲を捧げようとした存在たちの方へと導かれ、返された。 「月」紀の存在たちに関して特徴的なのは、高次の存在たちの元へと送り届けようとした「犠牲」が、自身の中へと突き返される気分を感じたという点にある。 確かに、「月」紀に見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、叶わずに、「犠牲」を送り出した存在たち自身の中に残されることで、拒絶された犠牲を差し出した存在たちの中に、「憧れ」へと向かう能力が生じた、という現象だった。 実際、魂の中で「憧れ」として経験する全ての中には、「月」紀の上で生じた遺産、「犠牲」が受けとられなかった存在たちの遺産が、今なお人間のなかに存在している。 「月」紀という進化期と、その精神的な気分を、精神的な観点から理解すれば、それは当時、犠牲を捧げようとしたが、高次の存在たちが、その受け取りを差し控えた為に、「犠牲」が受容されなかった存在たちがいた、という事実により特徴づけられる。 「月」紀の特徴的な気分の背後にある事実は、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、「拒絶された犠牲」である。 そして、地球紀のカインもまた、自分の犠牲が受け取られなかった経験をもつが、地球紀における人類進化の出発点を示すカインの「拒絶された犠牲」は、カインの魂を捉えることで、「月」紀の進化の基本原則の繰り返し、として現れる。 「月」紀の状態にある精神的存在たちの場合と同じように、そのような「拒絶」とは、「憧れ」を生み出す悲しみや痛みを、人間のなかに生じさせるような起源である。 以前、「月」紀上に運動霊が到来したことで、「犠牲」とその拒否により、ある精神的存在たちの中に生じた「憧れ」との間にバランス、もしくは矯正が生じた、という事実を霊視した。 運動霊により、少なくとも、「犠牲」が拒絶された精神的存在たちの中に生じた「憧れ」がある程度満足させられる可能性が創出された。
2011年05月02日
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