全18件 (18件中 1-18件目)
1
他の全ての観照力を超えて、霊視力を引き上げるとき、ギーターにおいて、クリシュナは、最高の霊能力のように、ある瞬間、偉大な人間として姿を見せる。アルジュナの前にあった世界全てが、傍らのちっぽけな存在となるような偉大な人間として姿を見せる。 最高の霊能力としてクリシュナが現れた段階において、アルジュナの理解力は尽きてしまう。彼は、なおもただ見つめ、自分が見るものを、片言に話せるだけである。なぜなら、アルジュナは、この全てを見る術も、言葉で表現する術も、これまでの手段から身に付けていないからである。 クリシュナが、アルジュナの前に立つ瞬間、アルジュナの描写は、クリシュナに相応しいものである。というのも、この描写は、芸術的、哲学的関連において、人類に当時与えられた最も偉大な叙述の1つだからである。 アルジュナが、これまで見たことがなかったために、過去には決して語ることのできなかった言葉、そういう言葉によって、初めて語る言葉、語り慣れない言葉を、アルジュナが自らの深みから、偉大なクリシュナに見とれるなかで、明らかにされたものとして、取り出してくるからである。 「おお、神よ! 私は御身のなかに、あらゆる神々を見る(第11歌 15節以下)。あらゆる存在の群も見る。蓮華の玉座についた主であり、ブラフマンであり、天の蛇たちである貴方を、全てのリシ(聖仙)たちと、見る。多くの腕と胴体と口と眼を持ち、無限に形作られた貴方を、私は見る。 ブラフマン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 私は貴方に、終わりも、半ばも、始まりも見ることはない。おお、全能なる主よ! 私の前に、御身、あらゆる形態をもって現れ、宝冠をつけ棍棒と剣を持って姿を見せ、全方向に火炎を放って燃え上がる山のような、私は、貴方をそのように見る。 太陽の光輝が放つ火のように計り知れない偉大さに、眩くて見つめることができない。永遠の、最高の存在、最も大いなる善、遍(あまね)く万有のなかで、貴方は私に顕現する。貴方は永遠の法の守護者である。 久遠の、原初の霊として貴方は、私の魂の前に立つ。しかし、貴方は私に、初めも、半ばも、終わりも示すことはない。あなたは遍く無限である、その力は無限であり、その広がりは無限である。月のように、太陽のように貴方の眼は大きく、貴方の口からは供犠の火が放たれるようである。 私は灼熱する貴方を見る。貴方の熱が全てを暖めるのを見る。私は大地と天空の間に、貴方の恩寵を予感できる。貴方の力は、全てに漲る。貴方とともに私は立つ。そして貴方の恐ろしい姿が私の眼に示されるとき、三界(動物界、植物界、鉱物界)に生きる、どの天界もまた貴方のうちにある。 私は見る。貴方を讃えて歌う神々の全軍が貴方に向かう様を、そして私は合掌し、畏怖しながら立ち尽くす。全ての賢者と聖者の群が貴方の前で歓呼の声をあげる。賢者と聖者は、あらゆる讃歌で貴方を称える。 ルドラの神々、アーディティヤの神々、ヴァスの神々、サーディヤの神々の一切の神々、アシュヴィンの双神、マルトの神々、ならびに祖霊たち、ガンダルヴァたち、夜叉たち、阿修羅たちや、あらゆる聖者たちが貴方を称える。 ルドラ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A9 アーディティヤ神群 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%A4%E7%A5%9E%E7%BE%A4 ヴァス神群 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E7%A5%9E%E7%BE%A4 アシュヴィン双神 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E5%8F%8C%E7%A5%9E マルト神群 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A5%9E%E7%BE%A4 祖霊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E9%9C%8A ガンダルヴァ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1 夜叉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E5%8F%89 阿修羅 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 クリシュナ神の物語 http://www.k4.dion.ne.jp/~bhagavat/purana11.html 神々や聖者たちは、驚嘆して貴方を仰ぎ見る。多くの口、多くの腕、多くの脚、多くの胴体、多くの歯の並んだ多くの口を持つ、かくも巨大な体を前に、宇宙は慄き、私もまた震える。天を揺るがし、輝きを放ち、多くの腕を持ち、口を持ち、大きな燃え上がる眼のように働きを及ぼす貴方を、私は見る。 私の魂は震える。私は不動も安らぎも見いだせない。おお、私にとって、ヴィシュヌである偉大なクリシュナよ! ヴィシュヌ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8C 私は貴方の恐るべき内部を覗き込む。火にも似て、あらゆる時代の終わりのように、絶対的存在が働きかける如く、働きを及ぼす貴方の内部を覗きみる。 未知の方法で、私は貴方を見る。おお、私に、慈悲を! 神々の主、宇宙の住処(すみか)よ!」 そしてまた、アルジュナは、クル族の息子たちの方を指し示しながら、向き直る。 「王の勇者の群や、ビーシュマやドローナや、我々の最良の戦士たちと共に、クル族の息子たち全て、つまり全員が祈り、貴方の栄光に驚嘆しながら、貴方の前に平伏す。貴方を、すなわち、偉大なる存在の原初を私は知りたい。私に顕現し、私に啓示されるものが何か、私にはわからない。」 アルジュナのなかの本質が、客観的に現れるとき、アルジュナは、以上のように語る。
2011年06月30日
コメント(0)
もし、クリシュナの教えがサーンキヤ哲学に基づいていたという事実を知ったなら、ギーターのなかの、クリシュナの教えに従った多くの記述の箇所や、偉大なクリシュナが弟子に語る内容などがよく理解できるようになる。 クリシュナは次のように言う。 「お前のなかに生きている魂は様々な形態(プラクリティ)に結びついている。粗雑な物質体に結びつき、感覚器官に結びつき、マナスや、アハムカーラや、ブッディに結びついている。 (サーンキヤ哲学では、人間は、1.多元的源流、2.ブッディ、3.アハムカーラ、4.マナス、5.感覚器官、6.精微な身体(微細身)、7.粗雑な物質体、から構成される。) しかし、お前は、この全て(プラクリティ)を、外的な存在として、お前の周りを取り巻く「覆い」として観察する。もし、お前が魂の存在として、周囲の「覆い」から独立している事実を認識するなら、私(クリシュナ)がお前に教えようとする叡智を、多少は理解するだろう。 お前の外界への関係、すなわち、お前の宇宙への関係は、グナ(徳性)、つまりタマス、ラジャス、サットヴァ(という状態)により与えられている事実、つまり、通常の日常生活では、サットヴァを通じて、人間は叡智と善意に結びつけられ、ラジャスを通じて激情、情動及び自己への渇き(欲望)に結びつけられ、タマスを通じて怠惰、不活発、眠気に結びつけられる事実を認識しなさい。」 第1に、ある人間は、日常生活において、なぜに叡智と善意に情熱を注ぐことになるのか? その人間は、サットヴァにより示される基本性質に関係しているからである。 第2に、ある人間はなぜに外(物質)的な生活への歓びと渇望、すなわち、外的な生活現象における楽しみとともに日常生活を過ごしていくのか? それは、その人間が、ラジャスにより示される関係をもっているからである。 第3に、なぜに、ある人間は、日常生活においては、眠たげに怠惰に無気力になるのか? また、なぜに、肉体性に圧迫されているように感じるのか? 或いは、なぜに、元気を奮い起こして、肉体性を、瞬間ごとに克服する可能性を見つけないのか? なぜなら、その人間は、サーンキヤ哲学の概念の、タマスにより理解できる外的形態の関係をもっているからである。 賢者の魂は、タマスから自由にならなければならない。眠気と怠惰と無気力のなかに現れる外界との関係から自らを解き放たなければならない。あらゆる無気力、眠気、あらゆる怠惰を、魂から退けると、魂には、外界とのラジャスとサットヴァの関係のみが残る。 そして、激情や情動、自己に対する渇き(欲望)を取り除き、善意、共感、認識に情熱を注ぎ続けるなら、サーンキヤ哲学がサットヴァと呼ぶ外界との関係をもつようになる。 (このような状態の人間は、「ボーディ-サットヴァ」、つまりボサツ「菩薩」と呼ばれる。) 更に、いかなる善意や認識に対する愛着からも自由になると同時に、善意の、賢者として現れている確かな外的な顕現に対して、内面においても左右されずに、善意は当然の義務であり、叡智が決まったように注ぎ込まれるなら、サットヴァからも脱する。 以上のように3つのグナ(徳性)を脱したとき、あらゆる外的な形態との関係から解放され、魂において勝利し、偉大なクリシュナが、弟子を導くような魂の状態について、多少とも理解できるようになる。 では、偉大なクリシュナが、理想として弟子の前に置いた存在になろうと努めるなら、何が理解できるのか? そのとき、人間は外的な「覆い」(プラクリティ)を厳密に理解するのか? 否、外的な「覆い」(プラクルティ)については、既に理解したが、人間は、外的な「覆い」を超えて自らを高める。人間が3つのグナ(徳性)を脱したとき、理解する存在は、外界において多種多様に現れる形態ではなく、これらの外的な形態との関係でもない。 なぜなら、これらの外的な形態全ては、前世に属するからである。タマス、ラジャス、もしくはサットヴァという形態にとどまる限り、自然的な基盤と関係する外的な形態との社会的関係を獲得し、認識を身に付け、善意や共感という様々な能力を獲得する。 以上の形態全てを超えた際、人間は、前世の段階において、外的形態全てとの関係を脱ぎ捨てる。 そのとき、何を認識し、何が眼前に現れるのか? そのとき認識し、目の前に現れるものは、もはや形態とはいえない存在である。 では、形態を超える状態に到達する途上で、グナ(徳性)のなかで修得される全てから区別できる存在とは、どのようなものか? それは、つまるところ、人間が、自身の本質として認識する存在に他ならない。というのも、外界となる他の全ては、前世の段階で脱ぎ捨てるからである。 (人智学によると、人間の魂は、死後、肉体を脱ぎ捨て、欲界(地獄)に行き、エーテル体を脱ぎ捨て、更に、霊界(魂界)に行き、アストラル体をも脱ぎ捨て、最終的に、霊体だけ天国に行くという。 死後辿る経路を、天動説では、欲界の月、霊界の金星、下位神界「天国」の水星、上位神界「天国」の太陽というように記述している。 つまり、地球への転生によって、霊的器官を開発しないと、天国には到達できないわけで、地球を這いずり回る金銭を溜め込めば、それだけ霊的器官が開発できないので、地獄に留まることになる。月には魔物が棲むとされている。月を超えられるかが正念場のようである。) 以上の考察の意味から、人間のなかに認識できる自身の本質とは何なのか? その本質とは、クリシュナである。 というのも、クリシュナが、人間自身の最高存在の現れだからである。すなわち、人間は、最高の存在に向かって精進することで、クリシュナに対峙する。弟子アルジュナは、偉大な師であり、ありとあらゆる全てのなかに生きるクリシュナに対峙する。 そして、クリシュナ自らが、次のように語る(第10歌 20-39節参照) 「私は1つの山ではない、なべての山々のなかにあるとき、私は最も巨大な山である。地上に現れるとき、私は1人の人間ではない。宇宙期に一度だけ人間の指導者として現れる最高の人間の顕現であり、あらゆる形態における帰一の存在が、私、クリシュナである。」 以上のように、師クリシュナが、本質を現に明かしながら、弟子の前に登場する。同時にバガヴァッド・ギーターにおいて、圧倒的で、人間が到達し得る最高の存在が、理解させられる。また、弟子のアルジュナが、師のクリシュナに対峙することは、適切な段階を踏んだ秘儀参入を通じて、起こり得る。 その秘儀参入は、ヨーガの深い行において起こる。最高の存在が、人類進化から、どのように流出するか、それがいわば恩寵によって、いかに人間に与えられるか、ということも示される。以上の内容は、ギーターのなかに示されている。 この弟子アルジュナが、忽ち引き上げられた結果、彼はクリシュナをありありと眼前にみるが、このアルジェナが引き上げられたように、ギーターは、ある特定の時点、すなわちクリシュナと対峙する時点へと、秘儀参入者を導く。 もはや、クリシュナは血肉を備えた人間として、アルジェナに対峙しない。他の人間と同じような存在としてクリシュナを見るなら、クリシュナの本質は現れない。というのも、クリシュナの本質は、あらゆる人間のなかに存在するものだからでもある。 しかし、他の世界圏(動物圏、植物圏、鉱物圏)も、いわば人間の本質が分散されただけなので、他の世界のなかの存在全ても、クリシュナのなかにある。他の世界は消え去り、クリシュナが一なる存在として現れる。ミクロコスモスに対するマクロコスモス、日常的な小さな人間に対する人間本体のクリシュナが、1人1人の人間と対峙する。(このクリシュナとは、神秘学でいうアダム・カドモンである。) 上記のことが、恩寵をもって、アルジェナという人間を圧倒するとき、人間の理解力は、当初充分ではない。なぜなら、クリシュナが、本質を見せるとき、これは最高の霊視力を通じてのみ可能だが、そのときのクリシュナは、人間が通常見慣れている存在とは、全く異なって見えるからである。 (霊能者にいわせると、光の存在としてみえるらしい。内なる光の存在のようである。通俗では、霊光と呼ばれている。神社等にいって、参拝すると、見える人もいるそうである。 神社等にいって祈願する対象は、本当は、自分のなかにある、人間の本質のクルシュナであるようだ。 神社は、それを映しているにすぎない。サーンキヤ哲学でいうなら、プラクリティを祓っているわけである。魂の衣服を脱がしているわけである。 俗世を祓っているので、参拝というわけである。つまり、死後の魂の行く末のための教育をしているわけでもある。)
2011年06月29日
コメント(0)
宇宙のなかに流転する存在、すなわち生成と消滅、誕生と死、勝利もしくは敗北が、外的世界に現れ、様々な形態として流転していくなかに、普遍な、永遠の、持続の存在が顕われている。宇宙を正しく観ようとするなら、無常から永遠の存在へと参入して行かなければならない。 この教えは、既にサーンキヤ哲学を通じて、すなわち、全ての無常のなかの不滅性に関する叡智のなかや、死の門が背後で閉ざされるとき、敗北した魂も勝者の魂も、神の前にあっては同じである、という事実に対する理性を通じて、姿を現す。 更にクリシュナは弟子アルジュナに、別の方法でも、日常の観点を超えて、魂を導くことができると語る。その方法とは、ヨーガである。魂が敬虔になるのは、魂の進化の別の面である。 サーンキヤ哲学には、霊視力に照らされるか、もしくは照らされない理念の能力を、現象から現象へと進む先に適用する、という面がある。 もう一方のヨーガには、外界から全ての注意を逸らし、感覚の門を閉ざし、外界について語る理性と知性を閉ざし、日常生活のなかでの経験としての思い出全てに対し門を閉ざし、自らの内部への参入の行により自身の魂のなかに安らぐものを取り出し、最高の存在と予感できる存在に魂を向け、帰依の力により自らを高めようと試みるような面がある。 このような面から、ヨーガを通じて人間の魂は、益々高次へと上昇する。第一に肉体的な道具を用いるときに到達できる高次の段階に至り、第2に、肉体的な道具から自由になり、いわば肉体の外で人間を成立させている高次の段階に生きる。 以上のようにヨーガの導師は、日常の生活とは全く異なる形態へと上昇して生きていく。生活における現象と活動は霊的になる。益々一層、自身の神性に近づき、自身の存在を宇宙へと拡大し、人間を神へと拡大し、自身の存在の個的な限定をなくし、ヨーガを通じて一切全ての存在へと上昇しながら生きていく。 ギーターのなかでは、偉大なクリシュナの弟子に、この高次の霊界に昇っていくための何らかの手段が知らされる。第一に、通常の日常世界での人間の行為を区別し、日常生活から解き放たれた状況は偉大で、この状況をもってギーターが、この区別を論究してみせる。 アルジュナは、血縁者たちと闘わねばならない。これは彼の外的な運命で、彼の働きやカルマは、この状況において直接行うべき行為の総計である。この行為において、彼は外的な人間として生きる。 そこで、偉大なクリシュナは、彼に教える。 「人間の行為は、自然(宇宙)の進化と人類の進化の外的な経過のなかで必然的に生じるので、人間は行為してはじめて知恵者となり、神的な永遠や普遍性と結びつく、しかし賢者は、行為からも自らを解き放たねばならない。」 賢者も行為するが、賢者には、同時に、行為に対して傍観者となる要素も必要である。行為に関与せずに、行為の結果を為すように、行為の結果が生じるまま委ねる要素も必要となる。 (傍観者というか、観察者というわけである。自然や宇宙の進化の観察者と同時に、人間の進化の、精神という意味だが、観察者にならなければいけない。) 自らの行為に対して、あたかも、別人が行っているかのように傍観者となり、その行為がもたらす喜び、もしくは悲しみにも心を動かされないことで、賢者となる。いわば偉大なクリシュナは、弟子アルジュナに次のように言う、 「お前が、パーンドゥの息子たちの側に立つにせよ、敵対しているクルの息子たちの側に立つにせよ、お前は、パーンドゥ族からもクル族からも、賢者として、自らを解き放たなければならない。」 「お前がなすことが、お前を動揺させなければ、例えば、お前が、あたかもパーンドゥの1人であるかのようにパーンドゥの行いを為すか、もしくはクルの息子の1人であるかのように、クル族の行為をなし、ついには、全ての行為を超えて立ち、自身の行為により動揺しなければ、お前の魂は、賢者となる。 お前が自身の行為に対して、風から護られた場所で、静かに燃え、外力に触れられない炎が燃えるように生きるなら、お前の魂は、自身の行為により動じることが少なく、自らの行為の傍らに内的に静かに生きるなら、お前の魂は賢者となる。 そのとき、お前の魂は、自らを、お前の行為から解放する。そのとき、お前の魂は、もはや、自らの行為がどんな結果をもたらすかなどを問うことはない。」 というのも、自らの行為がどのような結果になるか、ということは、狭く限定された魂だけの問題である。 人類や宇宙の進化の経過に沿って、要求される行為を為すなら、その行為が、恐ろしい結果に通じるか、或いは、祝福的な結果に通じるか、または苦しみに満ちた結果に通じるか、或いは喜びに満ちた結果に通じるかには一切関わりなく、行わなければならない。 以上のように、自らの行為を超えること、ギーターの状況でいえば、自分の手や手にある剣が、何をしようと、口で何を語ろうと、動じることがなく、直立することを目指して、偉大なクリシュナが、弟子アルジュナを導いていく。 以上のように、偉大なクリシュナは弟子アルジュナに人類の理想を示す。人類の理想とは、次のようなものである。 「私は私の行いを為すが、行為するのが私であれ他の者であれ、私は私の行いを見つめる。私の手を通じて起こることや、私の口を通じて話すことを、私は、まるで岩が、山から谷底へと、転がり落ちる現象を見るように客観的に見る。 そのように私は、私の行いに対して直立する。私が様々なことを知り、認識し、宇宙に対する様々な概念を自らのなかで形成できたとしても、私は、これらの概念とは、別の区別される存在として直立し、私のなかには確かに認識した対象と、私とが結びついて生きているが、まるで、別の人間が、それを認識するように眺める。 このとき、私は私の認識からさえも自由となる。私の行いから自由になることができ、私の知識、私の認識から自由になることができる。このように賢者の高い理想が、人間の魂の前に置かれる。 そして、遂には、この理想が、霊的な存在にまで上昇するとき、魔神(デーモン)たちが来ようとも、聖なる神々が来ようとも、全ては、私が外に見る存在となる。私を取り巻く霊界といえども、そこで起こる全てから自由に、私は直立する。 私は眺め、私は関与するが、同時にまた関与もしない。つまり私は私の傍観者となったからで、私は私の道を行く自由を獲得する。」 以上がクリシュナの教えである。
2011年06月28日
コメント(0)
例えば、古代では、自らのなかに神のインスピレーション(霊聴力)を感じ、当人の認識や行為の際、外界が感覚を通じて与える情報や、脳に結びついた知性が語る内容に従う決定を拒み、神の言葉にだけ耳を傾け、神が語る内容の預言者となるような人物の場合、「神の子」と呼ばれた。 ヨハネの福音書では、第1章の冒頭で、上記のような古代の人物たちが、「神の子供」と呼ばれている。 (しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、[神の子供]とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。[ヨハネ1:12-13] But as many as received Him, to them He gave the right to become children of God, even to those who believe in His name, who were born, not of blood nor of the will of the flesh nor of the will of man, but of God. 「神の言葉を受け入れた人々、すなわち、キリストという名を信じた人々は、「神の子供」と呼ばれた。このような人々は、血縁からくる霊能力ではなく、肉体を通じての感覚や脳に結びついた知性ではなく、神から生じる預言者である。」と意訳できる。) 本質は、上述のような重要な名が表現される場合、他一切は全て無視された。つまり、例えば、次のような2人の人間に遭遇したとする。1人は感覚を通じて、世界を自らに作用させ、脳に結びついた知性で世界について熟考する普通の人間であり、もう1人は神の叡智が言葉として輝き湧き出るような人間であったとする。 すると、古代人の心情の意味では、次のように語られる。 前者に対しては、「こちらの人間は人間である、彼は父と母より生まれ、肉により生み出された。」と語られる。 もう1人の神的存在の告知者(預言者)であった人間の場合は、感覚や脳に結びついた知性で世界を観察する最初の人間のように、通常の伝記で記述されるような表現は考慮されなかった。通常の伝記を書く表現などは、後者の場合、愚かしい。 というのも、後者の人間が、肉体をまとっているのは、副次的なもので、当時の人々が注目していた本質ではなく、後者の人間の肉体は、いわば他の人間に姿を表すためにすぎないからである。従って、次のように語られる。 「神の子は肉により生まれない。神の子は純潔に、霊より直接生まれた。」 すなわち、「神の子」に重要なことや、人類にとって価値があることは、霊に由来する、という事実にある。 古代には、この事実だけが強調された。ある秘儀参入の弟子たちにとって、高次の人間の性質(要素)をもつような重要な人物に対して、通常の日常的状況ばかりを記述するような通俗的な意味での伝記を書くことは、最大の罪であった。 いまでも、まだ僅かに、古代の心情の幾らかを残している人間には、今日、例えばゲーテ伝として書かれている内容などは究めて馬鹿げたものに思う。 さて、古代の人類が、上述したような感受性や感情を持って生きていた事実を想像すると、魂の内部に主としてマナスが生きている「マヌ」のような人間は滅多に現れない。そのような人間が登場できるまで非常に長期間待ち続けなければならない、という感情に、古代人が浸されていたことも理解できる。 現代の人類の進化段階において、人間の最深の本質として生き、自らの魂を高次の世界へと上昇させてゆくことのできる隠れた秘密の作用に関して予感でき、通常の人間の場合にはただ素質として存在するものが、非常に稀な条件において、たった一度だけ人間となり、つまり時代の変革期に登場し、他の人間たちの指導者となり、あらゆるマヌたちよりも高次の本質に従って、どの人間のなかにも素質として存在するが、外(物質)的な人格としては、ある宇宙進化期にただ一度だけ出現し、人間になる、という事実を見据て概念を作り出す場合に、クリシュナの本質にアプローチできる。 クリシュナは人類全体の存在である。クリシュナは、人類がもつ1つの素質と解される。しかし、クルシュナは抽象的存在ではない。今日、現代人が、人類一般について語る場合、抽象論者として語る。 通常、全くの感覚世界に囚われている今日では、現代人にとって、抽象的存在は普遍的な人生として語られる。人間一般について語る場合、もはや生きた存在ではなく、死んだようなぼやけた概念が持たれる。 クリシュナを、一般の人間と同じように語る人たちは、今日、クリシュナについて語る際に現れる抽象的な理念と、クリシュナを同一視しない。 クリシュナのような存在は確かに、その特質に従い、あらゆる人間のなかに素質として生きているが、1人の人間として、どの宇宙紀にも1度出現し、人間の口を通して語る霊的存在と見なせる。 ただし、このクリシュナのような存在において重要なのは、外的な肉ではなく、「精微な身体(微細身)」でもなく、「感覚器官」でもなく、「アハムカーラ」及び「マナス」でもない。この存在において重要なのは、「ブッディ」や「マナス」のなかの、大いなる普遍の宇宙的実質、宇宙を貫いて生命的に活動する神的存在と直接関わり合う霊的器官である。 アルジュナの偉大な師クリシュナのなかに発見できる霊的存在は、人類の指導のために、時代の節目に出現した。クリシュナは最高の人間の叡智や、最高の人間性を教え、しかも、それを、自身の本質として教え、逆にまた、どんな人間の性質のなかでも親和性をもちながら、琴線に触れるように教える。 (すなわち、クリシュナは、キリストである。) なぜならクリシュナの言葉のなかの全ては、どんな人間の魂のなかにも見つけ出せる素質だからである。 以上のように人間は、クリシュナを仰ぎ見ることで、同時に自身の最高の自我[Selbst]を見上げてきた。しかし同時に、別の存在も見上げる。クリシュナとは、別の人間として立つことができ、別の人間のなかで、クリシュナが、まるで別の存在のように感じる。人間の素質という点においては、クリシュナと同じだが、やはりクリシュナとは別の存在を同時に尊敬する。 人間は、クルシュナと同時に別の存在、神が人間に関わるように、クリシュナと関わる神も見上げる。 クリシュナと弟子アルジュナとの関係を、以上のように思い描く必要がある。すると、ギーターから発せられ、響いてくる基調音を感じられる。 すなわち、いかなる魂をもとらえ、いかなる魂のなかにも響くかのように鳴り響き、いかなる魂も、偉大なクリシュナの教えに耳を傾け、憧れや親しみを感じないなら自責の念に駆られるほど親しく人間的な基調音を感じることができる。 他方で、激情も熱狂もなく、平静に、気高く聡明に、全てが現れてくる。なぜなら、どの人間の性質のなかにもある神性、すなわち、人類進化のなかで、神的な-人間の本質として、一度肉体をもって現れる最高の存在が語っているからである。 これは、この教えは、何と崇高であることか! この教えは実に崇高で、バガヴァッド・ギーター、つまり「崇高な歌」という名を担うに相応しい。これまでの講義で既に話題にのぼった偉大な教えが、崇高な言葉や、崇高な状況から現れてくる。
2011年06月24日
コメント(0)
さて、そもそもクリシュナとは一体何者なのか? この問いは非常に興味深い。既に、折に触れて、色々な所で述べたが、古代おいては、命名法や名づけ方が現代とは異なっていた、という事実に熟知していなければ、クリシュナが何者なのか、という問いも理解できない。 現在の命名法は根本的に、究めて恣意的(自分勝手)である。というのも、例えば、市民的な名前の、ミュラー、もしくはシュルツという名前を知っても、結局はその人の性格までも、多くを知ることはない。また、ある人が、宮廷顧問官か、枢密顧問官等の職種名であっても、誰しも認めることだが、結局、その人について多くを知るわけではない。 つまり、以上のような社会的な序列等の名称を知ったところで、この人物について多くを知るわけではない。更にまた、ある人を、「閣下」、もしくは「猊下」と敬称を付けて呼ぶべきか、あるいは単に「様」と呼ぶべきかを知ったとしても、やはり、その人物について多くを知るわけではない。 要するに、以上の呼称全ては、当の人物について多くを語るわけではない。そして、今日呼んでいる他の名称についても、とりたてて多くを意味しているわけではないことは、容易に納得できる。古代では違っていた。 サーンキヤ哲学の名称や、人智学的な独自の名称の両者を出発点として、次のような考察を試みる。 サーンキヤ哲学の意味では、人間は、「粗雑な物質体」や、「精微な身体(微細身)」、もしくは人智学的な名称の「エーテル体」や、「規則正しい感覚器官」、もしくは人智学での「マナスと呼ばれる霊的器官」や、「アハムカーラ」等々から成立している、という事実を既に述べた。 (サーンキヤ哲学では、1.多元的源流、2.ブッディ、3.アハムカーラ、4.マナス、5.感覚器官、6.精微な身体(微細身)、7.粗雑な物質体である。) いまは、その他の高次の霊的器官を考察する必要はない。なぜなら一般的には、それらがまだ形成されていないからである。しかし、将来いずれかの受肉において現れ、姿を見せる人間を考察するなら、次のような結論に到達する。 人間は互いに異なっているため、ある人間の場合には、「エーテル体」のなかに将来現れる霊的器官が強く現れ、また別の人間の場合は、「規則正しい感覚器官」のなかにある霊的器官がより多く現れ、第3の人間の場合には、「マナス」が、第4の人間の場合は「アハムカーラ」が多く現れる。 人智学の用語で言うなら、ある人間は、「感受魂」の作用が優勢に働き、別の人間は、「悟性魂、もしくは心情魂」の作用が優勢に働き、第3の人間は、「意識魂」の作用が前面に出ていて、第4の人間は、「マナス」等によるインスピレーション(霊聴力)が与えられ、それが働きかけている、となる。 これらは、一人の人間が霊的器官形成を示す全体の発展段階により与えられる差異である。この差異から、人間の本質が示唆される。 現代では、容易に区別できるという理由から、上記に示した意味で表せる本質に従って、人間に対する命名を、選択することはない。 というのも、今日、人類に広く行き渡った心情では、例えば、現在の人類の進化段階において、人間が到達し得る最高の進化段階は、「アハムカーラ」の兆候を微かに示す段階であると説くなら、誰もが、自分が、究めてはっきりと「アハムカーラ」を本質として表している、と信じて疑わず、その段階に達していない人間の場合は、低次の器官が優勢である、と説くなら、その段階の人間の気持ちを傷つけるだろう。 古代では違った。当時、人間は、本質において名づけられた。特に、ある人物を、他の人類から引き上げ、指導者の役割も与える場合、その特徴を与えた本質を考慮する形で、名づけられた。 古代では、自らのなかで「アハムカーラ」を体験し、「アハムカーラ」を、個人的な要素として後退させ、真に包括的な意味で「マナス」を発現させ、外力のために、「マナス」をよく働かせた人間が存在した。 古代の人類の進化の法則に従って、上記のような人間は、滅多にいなかったが、偉大な律法者であり、大民族の指導者でなければならなかった。 古代の人々は、上記のような人物を、他の人間と同じ名で呼ばずに、その突出した本性に従って、「マナスの担い手[Manas-Traeger]」と呼び、他の人間を、「感覚の担い手[Sinnes-Traeger]」と呼んだ。 古代の人々は、「この人は、マナスの担い手だから、マヌ[Manu]だ!」と言った。 従って、古代の命名法に向き合うなら、人間を成立させている霊的(生理的)器官のうち究めて突出した器官、すなわち、当人のしかるべき受肉のなかに現れている霊的器官に従って、その人物を特徴づける本質を、命名のなかに見つける必要がある。
2011年06月23日
コメント(4)
今度は逆に、全面的にヨーガを通じての進化を求め、いわば世を捨て、外界からの認識一切を退ける魂を考察する。 そのような魂は、「宇宙がどのように成立しているか、などの経験など、私にとっては何になるのだろう。私は全てを、自身から求めたい。自らの力を開発することで前に進みたい。」と考える。 このような魂は、自らの内部では、暖かく感じるかもしれないが、しばしば、何か自分のなかに閉じた、自足しきった様子で、登場する。このような魂は、このような状態が長い間は続かず、結局、このような魂は孤立に曝される。 このような隠遁状態になった魂が、高次の魂(精神)生活を目指し、世界へと歩み出て、あらゆる場所で世界の現象に遭遇しても、世界の現象全てが、自分に何の関わりもないと考え、世界の素晴らしい顕現に、よそよそしく対峙し、理解せずに、孤立を感じるなら、ヨーガへの全面的な帰依もまた、悲惨な運命となる。 しばしば、上記のような魂に遭遇する! 上記のような、あらゆる力を、自身の進化に用い、まるで一切共有は御免だ!とばかりに冷淡にも無関心に同胞の傍らを通り過ぎるような人たちに、よく遭遇する。このような魂は、自分は世界とは無関係に感じるが、このような魂は、他の魂にとっては極端に利己主義に思える。 以上のような関連に注目してはじめて、世界観から運命を感じとれる。また、ギーターやパウロの書簡のなかにも見つけられる偉大な世界観の表明の背景に、この運命が姿をみせる。 ギーターやパウロの書簡の背後を、わずかに覗き見れば、運命となる存在が直接人間を見つめているように思える。パウロの書簡から、どのような運命が人間を見つめているのか? パウロの書簡においては、魂が、キリスト霊との結び付きを見つけ、正しく理解したキリストの復活を、自らの魂のうちに受容するときに魂にもたらされる、いわゆる信仰の正しさからくる魂の進化による至福が、外(物質)的な無価値な営みに屈することはない、という事実が示唆されている。 パウロの書簡から、この事実に向き合うなら、他方で、自身のなかへと魂が追い返されるのを感じる。このとき、魂は外的な営みから遠ざかり、信頼できるのは正に恩寵と信仰の正しさだけであるように感じる。 次いで外的な営みが来るが、それは世界のなかに現実にあり、それが無いと考えることで、遠ざけるわけにもいかない。この世界において、外的な営みに遭遇する。そしてまた、運命は、途方もない大きさをもち、人間に向かって鳴り響く。このように事態を把握するときにだけ、人類への啓示の強大さが目の前に現れる。 さて、以上の人類への2つの啓示、バガヴァッド・ギーターとパウロの書簡は、外見的には互いに全く異なっている。この外見的な違いが、これらの作品のどの部分においても魂に働きかけてくる。 バガヴァッド・ギーターに驚愕するのは、少し前に議論した理由だけでなく、偉大な力強い詩として、人間を魅了し、どの詩節からも、魂の気高さに向かって輝きを放ち、クリシュナ、もしくは弟子のアルジュナの口から発せられるなかに、人間の日常的な体験や、あらゆる熱狂的な経験や、激情や、魂を動揺させる全てを超越して存在する霊的原理を感じるからである。 ギーターのほんの一部でも、魂に作用させたなら、魂の平安や清澄、もしくは平静や冷静、すなわち落ち着きへと、叡智の気分のなかに引き入れられる。ギーターを読むことで、人間性がまるごと高い段階に引き上げられるように感じる。 ギーターのなかの崇高で神的な存在を、正しく魂に作用させたいのなら、人間的な性質から、自らを自由にしなければならない。 パウロの書簡は、ギーターとは全てが異なっている。詩としての言葉の崇高さに欠け、ギーターの冷静さすら欠けている。パウロの書簡を手に取り、魂に作用させると、パウロの書簡から、すなわちパウロの口から、起こった出来事に対する熱狂的な憤激の様子が、読者に向けて吹きつけてくるのを感じる。 時折、その語調が酷く喧しく思えるほどである。宣伝者とも思えるパウロの書簡では、様々な出来事が非難され、咎められ、罵られる。キリスト教の偉大な概念に対する恩寵や律法性、またユダヤ教とキリスト教の違いや、復活等が述べられ、いわば哲学的に定義づけようと欲しながらも、どの文にもパウロの特性が入り込み響いているため、哲学的にならない語調で述べられている。 どの文からも、パウロの興奮や、義憤を感じられ、キリスト教の最高の概念について、彼が個人的に関係し、この理念の宣伝者だという印象を受ける。 パウロの書簡において、様々な教区民に書いている内容を読むとき、パウロに酷似した個人的性格をもつ心情が語る、というようなことは、ギーターを読む場合には、生じ得ない。 パウロは述べる、「我々が、いかにキリスト=イエスを支持した!か、を思い出しなさい。我々が、誰にも苦労をかけずに、誰にも苦労をかけないために、いかに日夜働いたか。」 上記の発言は、非常に個人的である! 個人的な息吹がパウロの書簡を貫いている。ギーターにおいては、素晴らしく純粋で、人間を超えた超人的な領域と境を接し、時おり超人的領域であるエーテル領域に参入する内容が発見できる。 外的に見ても、顕著な違いがあるため、次のような結論に至る。 かつて、運命の力に満ち、ヒンドゥー教に世界観の合流を与えた偉大な歌ギーターを通じて、気高く純粋で、平静な、個人的でない、熱狂と激情とは相容れない叡智が、ヒンドゥー教徒たちに与えられた。 一方、キリスト教の原典のパウロの書簡から読み解ける内容は、全く個人的で、激情に溢れ、平静さを欠いた性格を持っているが、このような性格を認めないなら、究めて盲目的な偏見となる。真理の前に、心を閉ざし、上記の事実を認めずにいるのではなく、この事実を理解し、正しい意味で把握することで、霊的な認識に到達できる。 従って、上記の対比を、青銅板(教訓)として、次の考察の前に掲げておく。既に注視したように、ギーターのなかでは、クリシュナによってアルジュナへの重要な教えが与えられた。
2011年06月22日
コメント(0)
バガヴァッド・ギーターのなかに、与えられる哲学的詩篇全体の意義を正しく評価するには、バガヴァッド・ギーター、もしくは、それに類する世界文学の作品に記述されている内容が、単なる理論でなく、人類の運命であるように感じることができなければならない。 人類にとって、バガヴァッド・ギーターの世界(宇宙)観は運命(宿命)である。 これまでの議論において、第3のヴェーダの他に、2つの世界観、すなわちサーンキヤ哲学とヨーガが姿を現したが、この2つの世界観に正しく注視するなら、この2つの世界観が、人間の魂にとって、運命(宿命)であることを、究めて繊細な精神的な意味で指し示す。 (ここで使われている「運命(宿命)」という言葉は、神々の人類進化計画というようなニュアンスだろう。) 知識や理念による認識、魂(精神)的な生活(営み)が表れてくる世界の様々な現象に対する洞察力、或いは霊視力という形で人間に与えられる全てを、サーンキヤ哲学の概念に結びつけることができる。 また、知識から生じる認識や、科学的な形で理念のなかに表現できる世界観のうち、一般的な人間のために、この現代に残る知的な遺産を、たとえそれがサーンキヤ哲学よりも遥かに霊的に低い位置にあるとしても、霊的な原理による世界観の認識のようにみなすなら、次のような結論に達する。 サーンキヤ哲学の世界観に対して魂のなかに運命として感じ取れる叡智は、この現代においてもなお運命として感じ取れる。 とはいえ、現代において、運命として感じ取る者は、サーンキヤ哲学のなかの世界観に、ある意味、全面的に帰依するような、サーンキヤ学者、あるいはサーンキヤ哲学者と呼ばれる人たちだけだろう。 では、サーンキヤ哲学者は、どのように世界観と向き合うのか? 魂において、どのように感じとるのか? 結局のところ、この問いには、経験的に答えられるだけである。ある魂が、ある世界観に、全面的に帰依するとき、これまで特徴づけてきた意味で保持されてきた世界観を持つことに全力を尽くすとき、魂に何が起こるかを知る必要がある。 このとき、魂は、世界(宇宙)の様々な現象の形態の1つ1つにまで参入でき、宇宙のなかに、力として姿を現し、宇宙のなかで、形態として流転する全てに対し、究めて豊かな理解力をもつことができる。 ある魂が、サーンキヤ哲学の世界観を運命と感じることで、宇宙に帰依するなら、ある受肉において、自分の能力とカルマを通じて、霊視力の獲得いかんに関わらず、特に理知性をもって世界の様々な現象に精通する機会だけを見つけ出すなら、魂の方向性は、いかなる場合にも、魂(精神)生活全体の、ある種の怜悧さに通じていくだろう。 更に、魂のなかの気質の様(状態)によっては、このような魂は、世界の様々な現象に対して満足できない皮相的な性格を帯びるか、もしくは、現象から現象へと歩んでいく知性に対して、全般的に無関心、不満足といった性格を帯びるようになることがわかる。 学者的な手法だけで、自らの魂に刻印づけた知識でアプローチすれば、現代でも多くの魂が感じることのできる怜悧さや、魂を襲う不毛さや、心情のなかの不満足などの全てが、魂の前に現れてくる。 このような魂は、自分でもわからずに、自らを荒廃したように感じる。全宇宙を手に入れても、自らの魂については何も知らず、何も感じず、何も感受せず、何も体験できない、空っぽのままだとしたら、一体、自分は何を持っているのか! そのような魂は、宇宙の全知識を詰め込みながら、自身の中は空虚である、というのは非常に辛い運命となるだろう。これは宇宙の現象を失っているような、魂の内部において、自身の価値となり得る全ての喪失のような状態だろう。 ある種の博識さ、抽象的な哲学を携えて、登場する多くの人たちのなかに、上記の描写があてはまる。以上のような魂が、自足せず自らの空虚を感じながら、多くの知識に興味を失い、悲しげに、人々の前にやってくる。 もしくは、抽象的な哲学を携えてやってきて、神性や宇宙論、人間の魂の本質に対して、抽象的な言葉で、情報を提供するような人物と遭遇すると、次のように感じる。 「この人物は、頭でっかちだ! 心(感情)がない、心情が空っぽだ!」 以上のような魂に遭遇すると、薄っすらと寒い風が吹いてくる。サーンキヤ哲学への帰依は、自身として失われた存在、自ら何も持たず、その個に関して、宇宙を何も持たないように習慣づけるような運命となる可能性がある。
2011年06月21日
コメント(0)
崇高な歌バガヴァッド・ギーターのなかで、直接的に、この転換へと導かれる。クリシュナによるアルジュナへの教えのなかに、もはや血に結びついた太古の霊視をもたない人間が、不動の永遠の存在に向かい、いかに上(高次)へと突き進んでいくべきか、を示すような形で導かれる。 しばしば人類の進化の重要な転換として人智学徒が観察してきた出来事が、この教えのなかで姿を現す。以上のように、この崇高な歌は、人間が事物から観察してきた本性を描き出す地図となる。 このバガヴァッド・ギーターにおいて特に人智学徒を惹きつける点は、人間の道(進化)について強く訴えかけるような表現と、無常に対する永遠への人間の道(進化)について、直接的に語られる方法にある。 当初、アルジュナは深い懊悩に満ちていた。この光景は、御者の語りから想像できる。なぜなら、その物語が、盲目の王ドリタラーシュトラの御者の口から発しているからである。 アルジュナは懊悩を抱え、立っている。彼は、クル族や彼の血縁の者たちと闘いながら、自らを見つめ、自問する。 「自分は、父たちの兄弟の息子たちという、わが血縁の者たちと闘う運命なのか? 我々のなかには、近親者に対して武器を振るう宿命にある英雄たちがいる。そして、向こう側には、我々に対して武器を振るう宿命にある賞賛すべき英雄たちがいる。」 彼は魂の深刻な苦悶を感じる。「この闘いで勝利できるのか? この闘いでの勝利が許されるのか? 兄弟に向かって剣をあげることが許されるのか?」 偉大な師クリシュナが、アルジュナの前に進み出て、次のように語る。 「第一に、思考しながら観察することで、人間の生に眼差しを向けるがよい。そして自身の今の生の状況を見るがよい。お前が制圧するクル族出身の者たちの肉体のなかに、すなわち無常な形態のなかに、自らを表現する永遠の魂的な本性が生きている。 お前の戦友たちのなかには、外界の様々な形態のなかに、自らを表現する永遠の魂が生きている。お前たちは闘わねばならないが、お前たちの霊的原理がそのように望み、お前たちの宇宙的法則や、人類の外的な進化の法則が、そのように望んでいる。 お前たちは闘わねばならない。ある時代からまた別の時代への転換を示す瞬間が、それを望んでいる。けれども悲しむには及ばない。なぜなら、変転する形態が変転する形態と闘うはずはない。どの形態が他の形態を死へと導くといえるのか、死とは何で、生とは何であるのか。 形態の変転とは死であり、生でもある。そして勝者となる魂も、死へと赴く魂も同じで変わりがない。サーンキヤの思考による観察が導く無常な形態に対峙する永遠の魂に対し、この勝利や死とは、どれほどのものか。」 アルジュナが、自らの存在の最内奥で、魂の苦悶に埋没することがあってはならない、今アルジュナを闘いへと招喚する義務だけに仕えさせたい。なぜなら、闘いに巻き込まれるような無常から、彼が勝者であろうと敗者であろうと生き続ける永遠性へと、彼の眼差しを向けさせなければならないからであり、そのような理由が壮大な形で、アルジェナの苦悩の状況から描写される。 以上のような独特の形で、崇高な歌バガヴァッド・ギーターのなかに、重要な人類の進化上の出来事に対する無常と永遠の衝突音が、大きな音として響き渡る。抽象的思考による把握ではなく、出来事に対する感情を自らの魂のなかに作用させるなら、正しい方法で参入できる。 クリシュナの教示を次のように考察するなら、正しい参入法である。 「クリシュナは、アルジュナの魂を、無常の網のなかに絡め取られてしまう段階から上昇させようとしている。たとえ、この無常が、勝利と敗北、もしくは死を与え、死を被るように、直接の人間の魂にとっては苦悩に満ちた形で出現するとしても、そのような全ての無常に対し、魂自らが、崇高と感じる至高の段階へと上昇させようとしている。」 以上のように、崇高な歌バガヴァッド・ギーターにおいて現れてくる東洋の哲学に対し、かつて次のような発言が真実であることが理解できる。 「この東洋の哲学は、太古にあっては、同時に宗教でもあった。そのうちの1人が、たとえ高度の賢者であっても、究めて深い宗教的情熱が不足することがなく、或いはまた感情的な宗教を信仰して生きる素朴な人間であっても、叡智に欠けることはなかった、という意味において、哲学と同時に宗教であった。」 以上のように、偉大な師クリシュナが弟子の理念を捉えるだけでなく、直接弟子の心情のなかに働きかけた結果、弟子は無常を眺め、変転に苦悩しながら、あらゆる変転や苦悩や苦痛を超え、弟子の魂を、聳えさせる高次の世界へと上昇させてゆく様子が感じとれる。
2011年06月17日
コメント(0)
最高の師は弟子に次のように語った。 「霊的原理を、外的な覆いから探し求め、進むがよい。サーンキヤ哲学の形態、すなわちグナの叡智に精通し、進むがよい。サットヴァ、ラジャス、タマスに関して最高の霊性から最も粗雑な物質までの観察を通じて進むがよい。 理性に則り進み、不変な、一なる存在を確信するがよい。サーンキヤの叡智に通じれば、お前は思考を通じて、永遠へと到達するだろう。 しかしまた、サーンキヤの叡智に通じる他に、お前は、魂の帰依から出発することもできる。その場合、お前はヨーガを通じて段階を追って進み、あらゆる形態の根底にある霊的原理へと突き進む。 お前は二つの面から、永遠の存在に近づくことができる。宇宙(世界)を思考しながら観察するサーンキヤの叡智を通じて、あるいはまた、ヨーガを通じて、アプローチできる。 両者はお前を、偉大なヴェーダの師たちが一なるアートマン-ブラフマンと名づけた存在へと導くだろう。外に生きると同時に魂の内にも生きている存在、一なる存在として宇宙の根底にある存在へと導く。 お前は、永遠の存在に向かって突き進むことができる。サーンキヤ哲学を通じての思考と、ヨーガを通じての帰依を歩むことで可能となるだろう。」 以上のように、人智学徒は太古の時代を霊視できる。当時はまだ、『血はまったく特製のジュースだ』という著作に示したように、血を通じて人間の本性に霊能力が結びついていた。しかし、人類は、進化に伴って徐々に、血に結びついた霊的原理から、血に結びつかない霊的原理へと前進して行った。 しかし、種族や民族の血縁関係のなかで自然に獲得されてきた霊的原理との関係が完全に失われてはいないので、血縁関係から、もはや血縁関係が支配しない時代への移行に際し、新たな方法や新たな指針が与えられる必要性が生じた。 血縁関係が支配しない時代への新たな方法への移行にあたり、人類を導くのが、崇高な歌とされたバガヴァッド・ギーターである。ギーターは、クル族とパーンドゥ族出身の王族の兄弟の後裔たちが、互いに闘う様子を物語る。 人智学徒は、ギーターの内容が明らかな過去の時代を霊視できる。古代インドの人間の智慧と行為が、叡智の意味でまだ存在していた時代である。 クル族出身の盲目の王ドリタラーシュトラのなかに、古い時代から新しい時代へと入り込んできた1つの境界線を認識できる。ドリタラーシュトラの御者との対話を霊視すると、彼は闘争側の一方に立ち、他方には、古い時代から新しい時代への過渡期にあるが故に、彼の血縁でありながら闘争状態にある者たち、つまりパーンドゥの息子たちが対峙している。 パーンドゥ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5 御者は、盲目の王に語る。ギーター(マハーバーラタ)に王が「盲目」と叙述されている理由は、充分に意味深い特徴的な表現である。というのは、この種族のなかでは、霊的原理(霊能力)が受け継がれず、物質性に染まっていたからである。 この盲目の王に御者は語る。 「あちらのパーンドゥの息子たちのところで、霊的原理として後世に伝わるべき叡智が生じていますが、その叡智を、こちらに移行していくべきです。」 更に、闘争者たちの代表であるアルジュナが、偉大な人間の教師であるクリシュナから、何を教わったかを御者は語る。 御者は次のように語る。 「クリシュナが弟子のアルジュナを教導する方法は、サーンキヤや、ヨーガを用いて、人間の思考や魂の帰依を発達させ、かつての偉大な人類の師たちがヴェーダのなかに書き残した叡智へと上昇し、永遠性へと到達するものです。」 血縁関係から抜け出した新たな時代における人類の偉大な師クリシュナを通じて、その哲学的かつ詩的な言葉のなかに、壮大な教えが語られる。 太古の時代から、なおも何か別の叡智が輝きを発してくるのが霊視できる。著書『血はまったく特製のジュースだ』の根底にある考察と同様の考察を用いれば、いかに、人類の進化が血縁関係の時代から発し、後の細分化へと至ったか、そして、同時に魂的な苦闘がいかに変化してきたか、が示される。 『血はまったく特製のジュースだ』 (シュタイナーの人智学的医術その478を参照してください。 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201104060000/ 人種・民族の混血 「歴史を遡っていくと、どの民族の場合にも正確に指摘できる決定的な意識の転換期が存在する。その転換期とは、古い伝統が生命を失い、家系の血を通して生きてきた根源的叡智が消え、民族が新しい文化的段階に入っていった時点である。どの民族も、この転換期を意識し、古い伝説の中に記している。 転換期前の部族たちは閉鎖的に生きていた。同一の血族同士の間で結婚することが当然で、この習慣はどの人種、民族の中にも見られた。人類にとって決定的な転換とは、この原則が崩れ、別の血が別の血と混じり、同族婚が異族婚に移行した時点である。 同族婚は家系の血を保持し、代々、部族、民族に流れてきた同じ血を個々の成員の中に伝える。異族婚による新しい血の混入は、これまでの種族の生活的原則を崩壊させる。どの民族の中にも、遅かれ早かれ、現れてくる異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした。 太古には一種の薄明るい見霊能力が存在し、そこから神話、伝説が生じ、そして、この見霊的意識は、丁度混血が現在の明るい意識を生んだように、同族の血を純粋に保つことによりはじめて可能であった。この事実は神秘学にとって計り難いくらい重要である。 論理的思考が異族婚とともに発展したことは、今のところ奇異な主張とみなされるが、やがて科学的にも実証されるようになるだろう。その端緒は既に作られている。異族婚によって生じた混血は、それまでの見霊能力を失わせた代わりに、人類の意識を更に一段と高い進化段階へ引き上げた。」)
2011年06月16日
コメント(6)
これまで述べてきた他の2つの精神的潮流との、サーンキヤ哲学の関係を思い浮かべる必要がある。 今日の西洋の東洋学者たちの多くや、イエズス会士ヨゼフ・ダールマン(3)の記述ではなく、これまで述べてきた3つの精神的潮流の形成当時は、人類進化の原初の(霊能力)状態はもはや存在しなかったため、古代インドの様々な分野には、異なった人々が生きていた現実を思い浮かべなければならない。 3)ヨゼフ・ダールマン:1861-1930 著作『叙事詩にして法律書としてのマハーバーラタ』(ベルリン1895)225ー233頁参照。 http://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3 古代インドの北東地域の人々は、サーンキヤ哲学で与えられるような表現を感じる性質をもっていた。そこから西の人々は、ヴェーダ説の意味での表現を感じる性質をもっていた。 つまり個々の霊的な表現は、古代インドの様々な地域における様々な人間性から発し、後になって、ヴェーダ説論者により手を加えられ、統合された結果、今、人智学徒たちの前に姿を現すヴェーダのなかには、サーンキヤ哲学から多くの霊的原理が挿入されていることがわかる。 既に述べたが、ヴェーダ、サーンキヤの後に、第3の精神的潮流であるヨーガが登場する。なぜなら、原初の霊視が、時代とともに、徐々に消滅し、高次の霊界への新たなる参入方法を探す必要性が生じたからである。 サーンキヤ哲学は、正統な科学、いわゆる外的な形態を表現する霊的な科学であり、いわゆる外的な魂の覆いという形態と、更には、人間の魂との相互関係を把握する叡智なので、本質的には、ヨーガの体系とは区別される。 例えば、高次の霊界に到達するには、魂はどのように進化してゆくべきか、という課題に対して、ヨーガが指針を与える。 例えば、いま問題にしている時代よりも比較的後の時代に、サーンキヤの外的な形態に対する観察による一面的な進化を望んだのではなく、ヴェーダのなかに、恩寵に満ちた光明(叡智)により根源的に与えられていた叡智を再び展開させるために、魂を上昇させるには、どのように振舞うべきか、と問う場合に、崇高な歌(バガヴァッド・ギーター)として、クリシュナが弟子のアルジュナに与える叡智のなかに、その答えが得られる。 アルジェナのなかの古代インドの魂は、次のような言葉で表現できるような、魂の振る舞い、いわゆる進化が必要であった。 「お前は外的な形態のなかに世界を見て、サーンキヤの叡智に浸透されるとき、お前は個々の形態がいかに源流から展開し、下降してくるかを見る。同時にお前は、いかに様々な形態が入れ替わり立ち替わり移り変わっていくかも見る。 お前の眼は、形態の発生と消滅を追い、お前の眼は、形態の誕生と死を辿る。もしお前が、形態から形態へといかに移り変わり、形態がいかに生じ滅するかを徹底的に考え抜くなら、これら全ての形態のなかに、自らを表す存在を感得するだろう。 お前が徹底的に省察するなら、霊的原理が指し示されるであろう。全ての形態のなかに生き、内部で変転し、あるときは、サットヴァに従い、あるときは他のグナに従い、様々な形態と結びつくが、これら様々な形態から、自らを解き放つ霊的原理も指し示されるであろう。 徹底的な省察により、様々な形態に対して、不変で普遍な永続性が、お前に指し示されるだろう。確かに物質原理も不変性を一時的にもつが、いまお前が見ている様々な形態は不変ではない、それらは生成し、生じまた滅し、誕生と死を通過していく。 しかし、霊的原理は永遠に不変である。お前の眼を、これに向けるべきだ! お前が、この霊的原理を体験するには、この霊的原理を、お前のうちにも周りにも、お前と1つであると感じながら体験しなければならず、お前は、お前の魂のなかに眠っている力を呼び起こす必要がある。 お前は、霊的原理への敬虔な態度をもって始め、特定の行を用いることで、眠っている様々な力の開発に導くヨーガに帰依しなければならない。」 行(仏教) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C_(%E4%BB%8F%E6%95%99) 弟子はヨーガを通じて段階を追って上昇していく。霊的原理への敬虔な崇拝が、魂を進化へと導く道である。 様々に変転する形態の背後には、一なる存在の霊的原理が生き、それは、かつて恩寵に満ちた光明によりヴェーダが告げ知らせた存在だが、いまはヨーガを通じて、あらゆる形態の変転の背後に探求すべき存在として、魂を再発見に導かなければならない。」
2011年06月15日
コメント(0)
人智学徒は、自身の魂の中に、宇宙に人間の自由を誕生させるために、神々が敵対者を創出したという事実を、究めて正確に作用させるようにして欲しい。 さて、次のような反論が十分考えられる。 「私は今まで、神については、もっとましな意見を持っていた。神々は必ずしも悪を創造しなくても人間の自由のための舞台を創造できるように考えていた。一体どうして、神々が、悪なしに人間の自由を、世界の中にもたらせなかったのか?」という反論である。 例えば、次の逸話を思い出して欲しい。世界があまりにも複雑すぎると考えたスペインの王様は、「もし、神様が、世界の創造を自分に任せてくれたら、もっと遙かにシンプルにしていただろう」と言った。このスペインの王様のように、人間は、その知性の弱さ故に、世界はもっとシンプルにできたはずだ、と考えるが、賢明な神々は、世界の創造を人間たちには任せなかった。 人智学の観点から見ると、以上の状況を、遙かに正確に特徴づけることができる。例えば、台を必要としている人に、「柱を立てれば、台の代わりになるじゃないか?」、と誰かが助言するケースを想定してみる。助言された人は、「いや、柱のほかにも方法がある! なぜ、柱なのか?」と助言を拒絶する場合もある。 あるいはまた、例えば、建設中に三角定規を使いながら、「どうして三角定規には3つの角しかないのか? 神様は3つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と不平をいう作業者もいるかもしれない。 つまり、神様が、悪や苦が生じる可能性なしに、自由を創造できた、と言うのは、三角定規は3つの角を持つべきではない、と言うのと同じ位ナンセンスである。3つの角が三角形に属するのと同じように、自由は、霊的な存在たちの側からなされた「諦め」により生じた悪の可能性に属している。 これまで述べてきた内容全ては、神の「諦め」に属している。というのも、神々は、「犠牲」の受け取りを「諦める」ことで、不死のレベルに上昇した後、悪を善に導き、戻すために、不死から進化を創造したからである。以上は、この「諦め」という手段を用いてなされた。 神々は、自由の可能性を与える悪を回避しなかった。もし、神々が悪を抑え込んでいたら、世界はもっと貧弱で単調になっただろう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許すことで、悪を善へと導くのに必要な力をも同時に獲得しなければならなかった。そして、この善導は「拒絶」や「諦め」の結果として、獲得できる能力だった。 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を写し出すために、常にイメージやイマジネーション(霊視力)として存在している。太古の進化に言及すると同時に、「犠牲」や「徳」の概念に、「諦め」の概念を付け加えることで、幻想に対峙する真実に到達するための更なる一歩を踏み出せる。 宗教は、上記のようなイメージや概念を提供する。従って、聖書を基礎とした宗教もまた、「犠牲」や「諦め」、あるいは「犠牲」の拒否といった概念にアプローチできる。例えば、聖書のアブラハムの物語では、自分の息子を「神」に、犠牲として捧げようとするが、「神」は 父祖の犠牲を受け取るのを差し控える。 もし、この「差し控える」という概念を、自らの魂の中に取り入れるなら、既に述べた瞑想によるイメージもまた自らの魂から呼び起こされる。かつて、私(シュタイナー)は、アブラハムの犠牲が受け入れられ、イサクが犠牲になっていたら、という仮定について示唆した。 もし、「神」が、イサクの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族全体が、地球から取り除かれていただろう。「神」は、地上のヘブライ民族の領域を諦めることで、自分の影響が及ぶ範囲から除き、自分の外の領域にすることで、アブラハムに由来する全てを贈り物として与えた。 もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れていたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を、自身の中に組み入れただろう。犠牲になったイサクは「神」と一緒にいることになっただろう。しかし、「神」は、アブラハムによるイサクの犠牲を放棄し、進化全体の流れが、地球上では独自に展開するのに委ねた。 太古の父祖アブラハムにより提供された意味深い犠牲のイメージを通じて、全宇宙的な諦めや犠牲の概念が、人間の魂の中に呼び起こされる。 高次の存在による「諦め」もしくは「犠牲」の別の例を、地球の歴史の中にも見つけることができる。既に以前触れた、レオナルドダビンチの絵画「最後の晩餐」に再度言及することになる。 いま、「地球」と太陽霊「キリスト」という双方の本質的な意味を、同時に目の当たりにする場面を思い描き、その絵画が持つ完全な意味の中に参入してみる。 そして、「もし、私が死の供儀を避けたいと欲したなら、天使の大群を 呼び出すことができないということがあろうか?(それとも、私が父に願って、天使たちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか)。」(マタイ26章53節)という福音書のなかのキリストの言葉を思い出してみる。 諦めや拒絶により、「キリスト」は命令できた安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、人類の前にもたらす拒絶の最たる偉大な例は、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、キリストの領域に入って来ることを許す行いである。 もし、キリスト=イエスの中にある本性を知りたいなら、キリストの中に、「犠牲」を諦めなければならなかった存在たち(ケルビム)、すなわち、「諦め」という本性をもつ存在たち(ケルビム)の反映を霊視できなければならない。 「キリスト」は、神々が、「太陽」紀に、自身の敵対者たちを、その拒絶行為を通じて呼び出したように、もし、ユダが、自分の敵対者として行動することを許さなかったら生じた出来事を拒否した。宇宙の全体の作用に対する敵対者たちの出現という出来事が「地球」上において、ダビンチの絵画「最後の晩餐」として、絵画的に繰り返されるのが霊視できる。 絵画のなかでは、12人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者として立つユダと一緒にいるのが見える。人類にとって計りがたい価値をもつ存在が、進化に入ってくるために、「キリスト」自身が敵対者を、自身に対立する位置に置かなければならなかった。
2011年06月13日
コメント(0)
さて、人智学徒が知っている事実は、「太陽」から「月」への移行に際し、空気の状態が水の状態に濃縮した、ということである。 水は、「月」上で、はじめて存在するようになり、「太陽」紀には水はなかった。「太陽」紀に集積する雲(煙)の中に霊視できた「拒絶された犠牲」が、圧縮されるに従い、水となり、「月」紀の間に、「月」の海として現れた。 以上を考慮すれば、先に提示した疑問(永遠の誕生による結果とは何か?)を解くことができる。水は「諦め」から生じる。実際、水は、「諦め」そのものなのである。 (永遠の誕生により水が生まれた。) また、水とは本当は何なのか?という疑問に対しても、非常に特殊な精神(霊)的概念を獲得できる。しかし、次のような問いも生じる。 もし、ケルビムが諦めなかったら生じた状態(時間に依存)と、提供された犠牲から自由になったときに生じた状態(永遠)との間には相違があるのか? この違いを何らかの方法で表現できるか? 勿論、その相違は表現でき、それは、「諦め」の結果が「月」紀の間に生じた、という事実によって現される。 もし、一部のケルビムが諦めず、拒絶せずに、もたらされる犠牲を受け取っていたら、イメージ的に言えば、自身の中に犠牲の煙をもつことになっただろう。つまり、犠牲の受容は、犠牲の煙の中に表現されただろう。 では犠牲を受け取ったケルビムが、いま様々な行為を遂行することを仮定する。 犠牲を受け取ったケルビムの行為を、外的に表現すれば、自己変容する空気の雲として現れただろう。捧げられる犠牲を受け取ったケルビムの行為は、外的には、空気という形態の中に表現されただろう。 しかし、ケルビムは、捧げられる犠牲を拒絶することで、死ぬ運命から退き、不死の中に入っていった。一時的な存在から退き、継続のなかへと入っていった。拒絶された犠牲はまだとどまっているが、拒絶されなければ、犠牲を吸収した力から、いわば解放される。 捧げられた犠牲は、拒絶されればもはやケルビムの傾向や衝動に従う必要がない。何故なら、ケルビムによって、犠牲は解放され、差し返されたからである。 では、この解放された犠牲に対して何が起こるか? ケルビムとは別の存在たちが独立できるようになる。この別の存在たちはケルビムの近くに霊視できるが、もし、ケルビムが犠牲を受け取っていたら、その指導下にあっただろう。しかし、犠牲は、もはやケルビムの内にはなく、独立したものとなっている。 犠牲が独立することで、「諦め」とは正反対の現象が起こる可能性が生じる。つまり、別の存在が、その独立し、注ぎ出された犠牲を自身へと引き寄せ、その内部で活動するようになる。この別の存在とは進化に取り残された存在たちである。 従って、進化に遅れ、取り残された存在は、ケルビムによる拒絶行為の結果による。進化に遅れ、取り残された存在たちを生み出したのはケルビム自身である。ケルビムは、犠牲を拒絶することで、「進化に取り残される」可能性を生じさせた。 ケルビムによる犠牲の拒絶を通じて、犠牲を「諦め」ずに、自身の欲望や希望に身を委ねながら、犠牲を自己の表現へともたらす存在たちが、犠牲を自分のものにする可能性と、他の存在たちと同じように、独立した存在になる可能性を得た。 以上のように、「太陽」紀の進化から「月」への移行に際し、ケルビムが不死になると同時に、他の存在たちが、自身の中で、ケルビムの継続する進化から、自身を分離する可能性、実際、不死なる存在から自身を完全に引き離す可能性が生じた。 以上のことから、ルシファー的存在たちが、進化に遅れ、取り残された深い理由を探求するなら、ルシファー的存在を、進化から遅らせた責任は、その究極的な要因を語るなら、ルシファー的存在たち自身にはない、という事実もまた理解できる。 上記は、人類が、把握すべき最重要事項である。もし、ケルビムが「犠牲」を受け取っていたら、ルシファー的存在たちが、進化から取り残される可能性はなかった。何故なら、ルシファー的存在が、この「犠牲」の中に体現するような機会が生じなかったからである。 ケルビムの「諦め」こそが、ルシファー的存在たちが独立するための前提条件だった。宇宙の賢明なる導きは、神々の敵対者となる存在が生じるように命じる。もし、神々が、自身から自由にならなかったら、敵対する存在たちが、神々に敵対することは不可能だった。 あるいは、もっと簡単に表現するなら、神々は、もし、「土星」から「太陽」への移行後も、それまでと同様な創造行為を続けていたら、神々に敵対してまで、自身の主体性から行動する自由な存在たちは決して誕生しなかった、という事実を見通していた。 全宇宙の中に、自由な存在を創造するためには、神々は、時間に左右される全事象の中で、自分たちに敵対する反抗者たちによる抵抗に遭遇する可能性を与えなければならない、という事実に気づいていた。 全ての支配者が神々自身だけだったら、敵対者が生じることは不可能だった。もし、神々が全ての「犠牲」を受け入れていたら、神々にとって、全ては非常に容易だった。何故なら、全ての進化が、神々の思い通りになっていた、という事実が想像できるからである。 しかし、神々は、自分たちの思い通りにしないことに決めた。神々は、自分たちから自由な存在たち、自分たちに反抗できる存在たちを望んだため、神々は、「犠牲」全てを受け取らずに、神々自身の「諦め」を通じ、敵対者たちが、「犠牲」を受け取るという事実を通じて、反抗者になるように定めた。 以上から、悪の起源は、いわゆる悪の存在たちの中ではなく、「犠牲」を拒絶することで、世界の中に悪をもたらせる存在たちを通じて、悪が生じる可能性をはじめて与えた善なる存在たちの中に探す必要がある。
2011年06月10日
コメント(0)
では、犠牲を拒むケルビムを生じさせる要因とは何か? いま究めて困難な課題へと近づいた。長い瞑想過程を経た後ではじめて、これから考察すべき概念を把握できるようになるだろう。 これから提示する概念は、長い瞑想後にはじめて、その概念下に横たわる真相を発見するための鍵となる。 これまで述べてきた「諦め」とは、「土星」上で生じたことを人智学徒は知っているが、同じく「土星」紀に生じた「時間」の創造と結びつけられる。「土星」上で「時間霊」アルカイとともに最初に「時間」が生じたことや、「土星」以前には、「時間」は存在しないので、時間を語ることには意味がない、ということを述べた。 さて、「太陽」紀の中でも、「土星」上の出来事の繰り返しが生じるが、とはいえ、「土星」紀の「時間」創造から、時間は継続し、「継続」、「存続」という概念が、本質的な「時間」のなかに包含されている。 アカシャ年代記の中で、「太陽」や「土星」について語られる内容のなかに、「時間は継続的である」という表現を検証するなら、時間は「土星」紀に創造され、「太陽」上にも存在している事実が霊視できる。 さて、もし、「土星」と「太陽」に関する全ての条件が、これまでの「土星」と「太陽」の講義の中で特徴づけたような形で続いていたら、「時間」は進化の過程の中で生じた不可分な構成要素のうちの1つとなっていただろう。進化のなかの全事象から、「時間」の要素だけを取り除くことができなかっただろう。 これまで見てきたのは、「時間霊」アルカイが「土星」上で創造され、「時間」が、宇宙の全事象の中に埋め込まれた、という事実である。従って、「土星」以後の進化に関するイメージや想像全ては、「時間」の中で捉える必要がある。 もし、宇宙で生じた出来事が、これまで提示してきた「犠牲」を捧げるトローネや「徳」を与えるキュリオテテスから構成されているなら、全ては「時間」を前提としなければならない。「時間」に左右されない存在は何もなかっただろう。 全ての生成や全ての消滅、つまり、時間に関係する全存在は、時間に左右されることになった。 「犠牲」を拒絶したケルビムの拒絶理由は、「犠牲」の拒絶により、この「犠牲」の煙の中に含まれる性質による拘束から脱するためだった。さて、「犠牲」の煙の中に含まれる性質の中には、特に「時間」と同時に、生成と消滅の経過がある。 従って、「犠牲」の拒絶全体の中に横たわるものとは、「時間」という条件を超えて成長するケルビムの能力なのである。「犠牲」を拒絶したケルビムは「時間」を超えて前進し、もはや「時間」に左右されない。 以上のように、「太陽」進化の様々な条件は2つに分割され、第1の条件は「犠牲」や「徳」として「土星」から直接継続する「時間」に左右され、第2の条件は、「時間」から外れ、「犠牲」を拒絶したケルビムの指導下で、自らを「時間」から引き離すことで、生成と消滅の過程を被ることのない永遠、すなわち永久が誕生する。 この現象は特筆すべきことである。すなわち、「太陽」の進化の中で「時間」と永遠が分離した地点へと到達できる。「太陽」紀のケルビムによる「断念、諦め」により、その進化期の間に生じた条件の結果として、永遠が生じた。 例えば、人間が「拒絶」と「諦め」を引き受け、自身の魂の中に参入すれば、ある種の効果が魂の中に生じるのが霊視できるのと同じように、ある種の神的、精神(霊)的な存在たちが「犠牲」と「徳」の遺産を拒絶したことで、永遠と不死が「太陽」上で生じるのを霊視できる。 「土星」上で時間が誕生した霊的現象を霊視したように、魂のなかの、ある種の状況を通じて、「太陽」進化の局面から、時間が引き剥がされるのが霊視できる。以下の事実には注意を要するが、永遠は「土星」紀に既に準備され、永遠が始まったのは、実際には「太陽」紀ではない。 しかし、永遠の誕生という霊的現象を、概念の形で表現できるほど明確に霊視できるのは、「太陽」紀である。人間の語る概念と言葉は、「土星」紀にも存在していたという事実を十分に特徴づけできるほど正確ではないので、時間からの分離により誕生した永遠を「土星」上ではほとんど知覚不可能である。 「太陽」紀の霊視から、人智学徒は、「太陽」紀における神々による「拒絶、諦め」と、不死の達成という両方の意味を知るようになった。 では、永遠の誕生による更なる結果とは何か? 著書「神秘学概論」を読めば(とはいえ、その中の記述には、ある意味で、幻想のヴェールがかかっているが)、「月」紀が「太陽」紀に続き、「太陽」紀の終わりには、全存在の条件が一種の黄昏である宇宙的なカオスの中に沈められ、再び「月」として現れる、という事実が理解できる。 「犠牲」の出現を、再び「熱」として現在、見ることができるが、「太陽」上で、「熱」となった「犠牲」も、「月」上では外(物質)的な「熱」として現れる。「太陽」では、「徳」であった霊的現象は、大気、もしくは空気として、「月」上に再び出現する。 「諦め」や、「犠牲」の拒絶もまた継続する。「諦め」と呼んだ「太陽」上の霊的現象は、「月」上で生じる全ての現象の中にも存在する。 実際、以上のことは、真実である。つまり、「太陽」上で「諦め」として経験できた現象を、「太陽」から来て、「月」上にも存在する全てのなかの作用と考えても、外(物質)的な世界の中に存在する作用とは異なるものとして考える必要がある。 「太陽」上での「犠牲」は、外的なマーヤ(幻)の中では、「熱」として現れ、「太陽」上での「与える徳」は「大気」、あるいは「空気」として現れ、「諦め」は、「液体」あるいは「水」として現れる。 「水」は、外的、つまりマーヤ(幻)であり、もし、「拒絶」と「諦め」という精神(霊)的な基盤をもたなかったら、「水」は存在していなかった。この世界の中で、「水」の存在の背後には必ず、神的な「諦め、拒絶」がある! (日本には、「お互い水に流す」という、諦めを意味する格言があるのは興味深い。お互い、過去の経緯を水に流すことで、永遠の関係を形作るわけでもある。) 「熱」が幻想で、背後には「犠牲」が存在するのと同じように、「大気」、もしくは「空気」も幻想で、背後には「徳」が存在し、物質としての「水」は外的には、単なる物質的な幻想で、真の存在は、ある存在たち(ケルビム)が別の存在たち(トローネ)から受け取ることができた「犠牲」の「拒絶」の反映なのである。 水は、霊的現象下に「諦め」が横たわるときに、この世界の中を流れることができる。
2011年06月09日
コメント(0)
人間が自由を獲得する一方で、同時に、自らのアストラル体の中に、欲望や衝動や情熱をもつが、これらを高次から駆り立て、常に人間を低次へと引きずり下ろそうとするのは、ルシファー的存在たちによる。 もし、アストラル体の中にあるルシファー的存在たちの力を通じて、善から迷い出て、悪になる能力を持たなかったら、人間は、(神々から離れ)自由に行動することや、自由意志、もしくは選択の自由と呼べる資質をもつこともできなかった。 従って、人間の自由は、ルシファー的な存在たちに負っている、という結論に到達できる。 ルシファー的な存在たちは、人間を正しい道から外れさせるためだけに存在している、という一面的な観点では不十分である。むしろ、ルシファー的な存在たちの背後にある人間の進化に対する妨害行為以外の副次的影響を、善いものとして、それなしには、現在の人間としての価値を達成できなかった事実を考える必要がある。 とはいえ、ルシファー的な存在たちや、アーリマン的な存在たちの背後の副次的影響と呼べる作用の根幹には、深い意味で霊的な存在が横たわっている。既に「土星」上で、その存在に遭遇したが、その存在を霊視するのは究めて困難であるため、いかなる言語でも、その存在を特徴づける言葉を見つけるのが非常に難しくなっている。 とはいえ、もし、いままでに記述したような「諦め」、もしくは「断念」という概念の考慮により、「太陽」紀の出来事へと歩を進めるなら、その存在を明確に特徴づけることができる。というのも、人間に対して、悪魔的な存在たちが、宇宙全体の進化から遅れたことによる影響の根幹には、高次の存在たちの側での「諦め」、もしくは「拒絶」があり、悪魔的存在たちは、そのなかに横たわっているからである。 人智学徒たちは、「太陽」上で、次のような出来事が生じるのを霊視できる。トローネ(意志霊)がケルビム(調和霊)に供儀を捧げたことを既に述べた。以前、見てきたように、トローネ(意志霊)は、供儀を「土星」紀の間だけではなく、「太陽」紀の間にも捧げ続ける。 トローネ、つまり、意志霊は、「太陽」紀でもまた、ケルビム(調和霊)に供儀を捧げる。この世にある熱、あるいは火として存在する全ての実質は、上記の供儀の中にある、という事実もまた見てきた。 さて、 もし、アカシャ年代記を遡って霊視するなら、「太陽」紀の間に、上記の出来事とは何か別の出来事が生じたことに気づく。トローネたちは、犠牲を捧げ続ける。犠牲を捧げるトローネを霊視すると、多くのケルビムたちに向かって犠牲が上昇していくが、その犠牲から、ケルビム自身の中に流れ込む熱を受け取るのが霊視できる。 しかし同時に、多くのケルビムたちが別の行為を行う。つまり、一部のケルビムは、犠牲を拒絶し、犠牲に与らない。この事実に気づくことで、これまでの講義の中で述べてきた人間の魂の中への参入から生じたイメージを完全にできる。 太陽のイメージの中には、犠牲を捧げるトローネ、そして、犠牲を受け取るケルビムが霊視できるが、また、犠牲を受け取らずに、ケルビムに向かって突き進んでくる犠牲を反射するケルビムも霊視できる。 以上の出来事を、アカシャ年代記の中に辿っていくのは途方もなく興味深いことである。つまり、「太陽」紀に、アルヒアンゲロイ(大天使)により「太陽」の最外殻から光の形で反射される供儀の煙が立ち上るのを霊視できるが、それは、キュリオテテス(叡智霊)が「与える徳」が、熱という犠牲の中へと流れ込むことに依存している。 しかし、上記とはまた何か別の出来事も霊視できる。それは、「太陽」の領域内部で、全く別の出来事、つまり、アルヒアンゲロイ(大天使)により、光として反射されることもなく、ケルビムにより受け取られずに あたかも逆流する供儀の煙のようなものが生まれ、「太陽」の中には、上昇する犠牲と、下降する犠牲から生じる供儀の煙、すなわち、受け取られる犠牲と、拒絶され戻される犠牲が存在するようになる。 自らの魂への参入による実際の「太陽」領域の中の上記のような精神(霊)的な雲のイメージへの遭遇は、以前の講義のなかで、外と内と呼んだ領域として霊視できる。つまり、外と内という領域を、「太陽」上の2つの次元の別々の層として発見できる。 以上のように、太陽の中央には犠牲を捧げるトローネと、高次には供儀を受け取るケルビムと、そして、供儀を受け取らず、方向転換させて元に戻すケルビムたちを霊視できる。一部のケルビムが供犠を方向転換させ戻すことを通じて環状の雲が生じ、その周囲には反射された光源を霊視できる。 地球の過去である「太陽」のイメージをまるで生きているかのような生命体として想像すると、上述した「太陽」の領域は、まるで宇宙球のようだが、領域の外には何も想像できないため、せいぜい、アルヒアンゲロイ(大天使)までの広がりしか持たない空間である。 その中心では、受け入れられた供儀と拒絶された供儀との間の遭遇(境界)から、輪が形成される。受け入れられた供儀と拒絶された供儀から、「太陽」内部では、「太陽」という実質全体の分化、多様性とでも呼べるような構造が生じる。 もし、上記の「太陽」を外(物質)的なイメージに準えるならば、それは、現在の土星、つまり、周囲に環をもつ天体と比較できる。集積する犠牲の塊は中心部に引き寄せられ、外側に取り残される犠牲は環の形を取るように命じられる。以上のように、「太陽」は、拒絶された犠牲の潜在力を通して2つに分割される。
2011年06月08日
コメント(0)
内的な、精神(霊)的な方法を通じて、何か精神(霊)的な成果を達成しようとするなら、第一に、自らの衝動や欲望の抑制を学ばなければならない。そして、物質界の中では、よく食べ、栄養が行き届くことによりエネルギッシュになり、強くなるのに対し、精神(霊)界で、何か意義のある成果を達成するには、断食を行い、衝動や望みを抑制するか、もしくは、諦めることが必要となる。以上は霊的な法則であって、主義主張や推奨ではない。 偉大で、精神(霊)的な成果に向けた準備への努力には必ず、欲求や衝動を捨てることが含まれている。欲望や衝動が少ないほど、自分に降りかかる人生に身を委ね、様々な期待を望むのではなく、むしろカルマが、投げかけるままに物事を受け取ることができるようになる。 カルマと、その結果を受け入れることが可能になるほど、つまり、人生において、欲求や衝動から達成したいと期待したことを諦め、平静に振る舞うほど、益々精神(霊)性は強くなる。以上のことが特に顕著なのは、例えば、思考活動である。 例えば、欲望に満たされ、好きな食べ物や飲み物ばかりを摂取する教師や教育者が、学生(生徒)に向けて語る言葉には、精神(霊)性があまりなく、説得力がなく、学生(生徒)の一方の耳から入り、他方の耳から出ていく、という事実が明らかになるだろう。 そのような教師は、生徒(学生)の問題に思うかもしれないが、常にそうであるとは限らない。人生のなかの高次の意味を理解し、慎みをもって生き、生命の維持に必要なだけ食べ、特に、運命が与える出来事を意識的に受け入れるような教育者は、自分の言葉に大きな力をもつことに徐々に気づくようになる。 精神(霊)性の高い教師(教育者)を一目見るだけでも大きな効果がある。実際、そのような教師(教育者)が、学生(生徒)を見る必要さえない。そのような教師(教育者)は、生徒(学生)の近くに居て、生徒(学生)を勇気づけるような考えを持つだけでよい。 そのような考えを言葉で表現する必要はなく、言葉で表現しなくても生徒(学生)には伝わる。全ては、欲望と衝動を抑制できずに、強く望むような期待に対して、諦めと断念を行使できるかの程度にかかっている。 諦めや断念は、精神(霊)的な活動では正しい方法であり、高次世界の中に、精神(霊)的な結果を導く。諦めや断念に関して、多くの過ちに遭遇する。たとえ諦めたつもりでいて、外的には諦めに酷似しているように見えても、本心からではなく、つもりでは、正しい結果に導くことはない。 通常の物質生活にも禁欲主義、すなわち、苦しみを自らに課す教義があるが、そのような自らに課す苦悩は、多くの場合において、自己陶酔、もしくは自己満足のため、つまり、苦しみよりも大きな欲望を抱いているか、もしくは、何か別の欲望を成就するために選択している可能性がある。 間違った禁欲主義の場合、自己否定は効果的ではなく、それは精神(霊)性に根ざした諦めを伴うときにだけ自己否定が意味をもつからである。すなわち、創造的な諦めや創造的な断念という概念を理解する必要がある。 創造的な諦め、もしくは断念を、魂の中で実際に経験できる。その経験には、日常生活から遙かにかけ離れた認識が究めて重要である。超感覚的な認識をもって初めて、人類の進化において、一歩先に進むことができる。というのも、「太陽」紀から「月」紀に移行する進化の過程において、創造的な諦め、もしくは断念が生じたからである。 「太陽」紀から「月」紀への移行時、諦めに似た出来事が、高次世界の存在たちのなかで生じたが、それは「地球」の進化過程に結びついた存在たちによるものだった。この出来事を理解するためには、再度、「太陽」紀の進化を考察する必要がある。 しかし、その前に、人智学徒には既に知られている存在だが、現在に至るまで、ある意味で謎めいて見える存在に注意を向けてみる。 上記のように度々指摘してきた存在は、進化の過程で後に取り残された存在にまで遡れるような進化の先行者たちである。実際、ルシファー的な存在たちが地上の人間の中に介入しているのを人智学徒は知っている。 度々指摘してきたように、ルシファー的な存在たちは、「月」紀に達成可能な進化段階に到達できなかったため、地球紀では、人間のアストラル体に侵入できるようになった。 この講義の中では、よくちょっとした喩えを用いてきたが、上記の意味を喩えるなら、なにも落第するのは学生だけでなく、偉大な宇宙の進化の過程のなかでも、宇宙的な存在たちが、ある進化段階に到達できず、下位の他の存在たちの進化段階に介入することがある。 以上の比喩のように、ルシファー的な存在たちは「月」紀において後に取り残され、「地球」上で人間たちに介入している。 表面的にみれば、ルシファー的存在たちにはどこか欠陥があり、本来なら達成できた進化段階を達成できなかったのだから、進化のなかの弱者に違いない、と安易な考えをもつかもしれない。 しかし、上述の安易な考えは間違いで、もし、「月」上において、ルシファー的な存在たちが進化から取り残されなかったら、現在の人間は、自由を獲得できず、決断を行うための独立した能力を発達させることは不可能だった。
2011年06月07日
コメント(0)
土星紀、太陽紀の2回の講義の中で指摘したのは、宇宙のなかの物質的な現象の背後には精神(霊)的な存在が横たわっている、という事実だった。熱や空気(空間)の物質的現象の背後に霊視できる精神(霊)的な真実を特徴づけようとした。 物質的現象の背後の霊的存在に対する特徴を伝えるために、現状の進化から遙かな過去にまで遡った。また、物質的な宇宙の根幹をなす精神(霊)的存在を記述するため、自らの魂の経験に参入した。いずれにしろ、霊的存在を特徴づけるには、それに用いる基本概念を取ってこなければならない。言葉だけでは不十分で、明確なイメージが必要となる。 いま言及すべき精神(霊)的な真相は、人類が経験する現在の過程から、つまり、今日の人間の知見から遙かに隔たった領域に横たわっている、という事実を見てきた。従って、この霊的な真相を理解するには、滅多に見つけだされることのない状況、一般に、現代人の魂や精神では、理解するのが困難な状態を呼び起こす必要がある。 これまで、外的、物質的な火や熱の顕現からは遙かに遠く離れた精神(霊)的な熱や火の状態の根底にある性質を探求する必要性を見てきた。確かに、「土星」紀の間に「調和霊(ケルビム)」に捧げた「意志霊(トローネ)」による犠牲を、火や熱の本質と同一視するなら、今日の人間にはまるで御伽話のように聞こえるに違いない。 しかし、真相を語るなら、現代人の前に、外的、幻視的に熱、もしくは火の状態で現れるものは、土星紀で生じた犠牲から構成されている、という結論に至る。 同様に、空気(空間)、もしくは大気と呼ばれるものの背後には、非常に遙かなる霊的存在が、自身の存在を献身的に注ぎ出す、与える徳が横たわっている、という事実を、以前指摘した。ひと吹きの風の背後、空気(大気)の流れの中に存在するのは、霊的存在である。 外的、物質としての知覚は、実際には、幻想、マーヤに過ぎない。幻想から精神(霊)的な真実へと進んだときにだけ、正しい思考を獲得できる。火や熱や空気(空間)は、鏡に映った人間の像の中に人間が存在しないのと同様、真実としては存在していない。 つまり、鏡に映った像が、本質的には幻影なのと同様に、物質的にみえる火や熱や空気(空間)は幻影であり、鏡に映している本体と同様に、背後にある存在が真実である。真相を探し求めると、物質的な火や物質的な空気(空間)ではなく、霊的な「犠牲」や、霊的な「与える徳」となる。 太陽紀に、「与える徳」が、「犠牲」に付け加えられる事実を霊視したとき、「土星」から「太陽」へと上昇した。地球の第2の体現である太陽の中に霊視できるものは、本当の人間の魂の進化状態へと、一歩近づける出来事である。 再度、幻想の世界に対抗する真の世界に属する概念を導入する。それには、人間の進化の実際の状況を考察する前に、ある特定の概念を獲得する必要がある。 この概念に以下のようにアプローチする。外的な生活の中で人間の行為、もしくは達成の結果は、一般に当人の欲求や衝動からもたらされる。人間の行為には、単なる手の動作であれ、偉大な行為であれ、その活動の背後には欲求や衝動がある。ある人物を、行為や達成に導くものは、欲求や衝動からの作用により起こる。 例えば、一般的に、例えば、治癒や恩寵をもたらすような社会的に重要な行為は、強い欲求や衝動が必要で、社会的にあまり重要でない行為は、弱い欲求や衝動のせいである、と考えがちだろう。行為の結果や到達度は、自己実現の強化にかかっているものと考えがちである。 もし、自らの欲求さえ強化できれば、何か重要なことが達成できる、と考えるなら、物質的な生活に関する限りの意味で、正しいに過ぎない。ある地点を超えれば、この考えは間違いとなる。驚いたことに、人間が遂行できる超感覚的行為、特に、霊界に関連した行為は、欲求や衝動という自己実現の強化に依存しない。 確かに、人間が生きる物質界では、行為の達成度は自己実現の強化に依存している。つまり、多くを達成しようとするなら、多くの努力が必要となる。しかし、精神(霊)界では異なり、むしろ、物質界の逆となる。 精神(霊)界では、偉大行為をなし、偉大な結果をもたらすには、自己実現の強化を必要とするのではなく、むしろ、ある種の身を引く自己犠牲、諦めが必要である。些細で、純粋に精神的な事項に関しても、この仮定に則って精神(徳性)を高めることができる。 切なる望みを働かせ、それに没頭するのではなく、自らの意志を抑え、欲望を抑制し、欲求を満たすことを諦めることで、精神(霊)的な成果を達成できる。
2011年06月03日
コメント(0)
日本の祭りは、太陽崇拝なので、太陽霊を祭るキリスト祭となる。キリストを人間イエスとして祭るのが、西洋のキリスト教だとすると、日本の祭りは、イエスに降臨した太陽霊である天照大御神そのものを祀る祭りといえる。祭りの手段や方法が異なるだけで、太陽崇拝に変わりはない。 また、日本人を、大和民族、つまり、ヤハウエの民である、聖書に記されたユダヤ人とするなら、契約の土地は、日本列島になる。日本の古代の邪馬台国で、有名なのは卑弥呼だが、日の巫女とも読める。例えば、以下のホームページは興味深い。 卑弥呼-郡国の女王から大ユダの女王まで http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage10.htm 日の巫女といえば、太陽神(霊)の神託を受ける者で、霊能者といえる。神秘学では、霊媒という。例えば、以下のホームページのなかに、巫女と審神者の違いなどが載っているが、古代では、2人が1組になって、交霊術を行っていたようである。 巫女と審神者 http://natural-magic-school.seesaa.net/article/14850213.html 1人が霊媒になり、もう1人が霊媒に降臨した霊の位階、つまり霊格を判断するわけである。低級な霊を降ろしてしまったら、低級な霊を退散させ、霊媒を救えないといけないので、審神者は熟練を要したようである。秘儀参入の場合は、導師が、審神者になり、弟子の霊媒を指導したようである。 そのような交霊術、神秘学でいう、いわゆる秘儀参入法が形骸化し、祭りとなり、その祭りも形骸化し、政治となったのであろう。霊媒が、王となり、審神者が書記(祐筆)であり、現代社会では、霊媒が政治家で、審神者が官僚となる。 さて、話を元に戻して、日本人をヤハウエの民、ユダヤ人とするのなら、君が代をヘブライ語で解釈した次のブログによる意味は非常に興味深い。 「君が代」に秘められたユダヤルーツ http://judea.naritacity.com/journal_japan_080215.asp 「君が代は」は、「クム」「ガ」「ヨワ」となり、「立つ、または起き上がる」「相手を誉め称える」「YHWH(ヤハウエ)」というヘブライ語の意味になり、「立ち上がって神を誉め称えよ!」と解釈できるという。 つまり、君が代を斉唱するときは、立ち上がって、ヤハウエ神(太陽神)を誉め称えることが正解といえる。 次に、「千代に八千代に」は、「チヨニ」「ヤ」「チヨニ」で、「シオンの民」「YHWH(ヤハウエ)」「シオンの民」というヘブライ語の意味になり、「シオンの民、ヤハウエ神の選民」と解釈できるという。 「細石の」は、「サ」「ザレ」「イシノ」で、「喜ぶ」「残された選民」「人類を救う」というヘブライ語の意味となり、「人類を救う残された選民として喜べ」と解釈できるという。ちなみに日本人の姓にイシノ(石野)や、イシ(医師)という言葉があるように、イシ(石)は、ヘブライ語では、「救い」を意味するようである。 以上、君が代の歌詞の前半は、 「立ち上がって神を誉め称えよ! シオンの民、ヤハウエ神の選民 人類を救う残された選民として喜べ!」となるという。 続いて、「巌となりて」は、「イワ」「オト」「ナリテ」で、ヘブライ語の意味は「YHWH(ヤハウエ)神」「証、予言」「成就する」となり、「神の証(予言)が成就した」となるという。イワ(岩)も、イシと同じで、日本人の姓に用いられるが、ヘブライ語では、「神」の意味であるという。 そして最後の「苔のむすまで」は、「コカノ」「ムーシュマッテ」で、ヘブライ語では、「全ての場所」「語られ、鳴り響く」となり、「全ての場所に語られ、鳴り響く」という意味になるそうだ。 以上から、君が代の歌詞は、 「立ち上がって神を誉め称えよ! シオンの民、ヤハウエ神の選民 人類を救う残された選民として喜べ! 神の証(予言)が成就し 全ての場所に語られ、鳴り響く」となるという。 君が代の歴史的経緯によると、君が代は、『古今和歌集』、『和漢朗詠集』にあったといわれ、それは以下のような歌詞だったという。 『古今和歌集』 我君ハ 千世子やちよに さざれ石升 い尤保と成て 苔乃む寿まで 我君は 千世子やちよに 沙ざ礼石乃 いは不と成て 苔升む寿まで 『和漢朗詠集』 きみが代は 地よねやちよ子 沙々礼いしの いはほとなりて 古家憲む寿まで これらを、以下のヘブライ語解釈、つまり、 「クム」「ガ」「ヨワ」「チヨニ」「ヤ」「チヨニ」「サ」「ザレ」「イシノ」「イワ」「オト」「ナリテ」「コカノ」「ムーシュマッテ」から、比較すると、 『和漢朗詠集』の方が、ヘブライ語解釈に近い、特に、「コカノ」が、「古家憲」の部分と、冒頭の 『古今和歌集』では、「キミガヨワ」が「ワガキミワ」と逆読みになっているところである。 以上のように、恐らく、古代では、君が代は、祭りのときに、斉唱されたのではないか、とも思えてくる。 つまり、君が代は、ユダヤの民に、キリストという太陽霊が、地球に、人類を救いにくるという救世主到来の預言の唱なのではないか、ということである。 だから、全くの仮説にすぎないが、更に推測を進めると、シナイ山で、モーセに啓示した、太陽霊の到来が伝承されて、君が代になったのではないか、とも思えてくる。 ちなみに、完全なこじつけだが、シナイは、日本語の「死なない」とも取れ、死なない山だから、不死山、つまり富士山とも妄想できる。実はこのようなこじつけは、日本のお札(さつ、貨幣)の絵柄のなかの富士山が湖に映る姿が、実はシナイ山ではないか、という都市伝説にもある。 シナイ山は、別名ホレブ山とも呼ばれ、日本語でいう、「滅ぶ、荒れる」になる。また、シナイは、「棘のある木」が語源で、また、「燃えているのに焼けていない(死んでいるのに、死んでいない」という意味ももつという。シナイは剣道の竹刀(しない)をも思い起こさせる。 また、モーセも、日本語の「もさ」、つまり「猛者」とも読めるし、「おさ」、つまり「長(おさ)」とも読める。また「申(もう)す」とも読める。モーセは、ヘブライ語の意味では、「子」や「引き上げる」という意味がある。 「子」は幼(おさな)いに通じるし、「引き上げる」という意味は、川に流れていたモーセを水から引き上げた出来事にちなんでいる。この出来事は、日本の童話、桃太郎を思い起こさせる。また日本では、村長を「おさ」と呼ぶ風習もある。 日本には、ヤオロズの神、つまり八百万の神がいるといわれているが、実は、耶蘇(ヤソ)の神、ヤオの神、つまり、ヤハウエ神のことではないかとも思うのである。 なぜなら、ヤハウエは、YHWHで、ヤハ、ヤオ、ヤホと呼べる。日本人が、山に登り、「ヤッホー」と叫び、反響を楽しむ行為は、「ヤハウエ」の「ヤッホー」からきているのではないかとも思われる。 つまり、ヤハウエ神が、ヤソ、ヤハとなり、八幡(やは)で当て字され、ヤホロスとなり、八百万のヤオロズになったのではないかと思うわけで、これは、1つの神ヤハウエが、各個人々に分化し、1つが、八百万に分かれたという歴史的経緯を現し、神秘学でいうなら、集団自我が、個人の自我に分かれたことを意味するのではないか、と思われる。 また、モーセ、つまり、長(おさ)という集団自我が、各構成員の個人の自我にわかれていく経緯を示しているようにもみえる。その伝承方法が、祭りなのではないか、というわけである。 もし、日本人が聖書でいわれるユダヤ人であるなら、日本列島が約束の地カナンとなる。そこで、カナン(クナーアン Canaan)を日本語読みにすると、艱難、困難、観音という言葉が思い浮かぶ。 約束の地カナンは、艱難、困難、観音の地ということになる。日本列島ほど天変地異の多い土地はない。それは、シュタイナーも述べているが、地球を、火山帯を一辺とする正四面体とすれば、日本列島が頂点にあたるからである。 つまり、天変地異が多いということは、人間の力ではどうにもならない土地という意味でもある。逆に言えば、神様の統治する土地なので、神様が大家さんで、神様が許可しなければ住めない土地となる。そのような困難な土地に住む日本人は、天変地異から守られているわけで、約束の土地とは、日本列島なのではないかというトンデモな仮説がなりたつように思えてくる。 もし、このトンデモ仮説が正しければ、天照大御神はキリストであり、神武天皇は、モーセなのかもしれない。 神武天皇の正式名称は、「カム・ヤマト・イワレ・ビコノ・スメラ・ミコト」であるという。ヘブライ語に訳すと、「サマリア(スメラ)の皇帝であり、ヘブライ民族から誕生した神の選民を集めた開拓者」だという。 つまり、モーセのことに他ならない。 ちなみに、「とんでもない」とは、ヘブライ語では、「ゲシェム?マ・ピトム!」というらしいが、「ゴメン、マッピラ」、つまり、真っ平御免となる。 信じるか信じないかは、あなた次第!
2011年06月02日
コメント(17)
シュタイナーの太陽紀を要約していて、祭りの意味が理解できてきたので、まとめてみたいと思う。 祭りとは、宇宙進化、つまり過去の地球である太陽紀を、魂のなかから蘇らせる(瞑想)行為なのではないかと思うからである。 つまり、現代の祭りは、古代の秘儀参入者たちの秘儀参入法の伝授が形骸化したものではないかと思う。 では、シュタイナーの太陽紀のなかにも書いたが、日本の神輿は、そのことを非常に象徴化している。端的にいえば、太陽崇拝である。 シュタイナーの太陽紀の内容は大体以下のようである。1) 「調和霊(ケルビム)」の前に跪き、犠牲を捧げる「意志霊(トローネ)」2) 「太陽」の中心では、「意志霊(トローネ)」の犠牲を前にして祈りを捧げる叡智霊の合唱3) 「叡智霊(キュリオテテス)」の献身は犠牲の煙となり、あらゆる方向に広がり、周辺で雲へと濃縮する4) 「大天使(アルヒアンゲロイ)」が煙の雲から生じる5) 周辺から、犠牲の煙という贈り物が光の形を取って反射し、返される6) 「太陽」の内部を照らし出す光7) 「叡智霊(キュリオテテス)」の贈り物が差し返されることで、「太陽」の領域(空間)が創造される。 以上の太陽紀の出来事をイメージ化したのが、神輿であると思われる。 例えば、「調和霊(ケルビム)」のイメージは、神輿の鳥(鳳凰)で、「意志霊(トローネ)」のイメージは、神輿の台座で、台座を担ぐことで、人間は犠牲になるから、神輿の鳥に対する自己犠牲の精神の表明でもあり、それが、火(エネルギー)の本性でもある。 神輿には、巴紋があるが、巴は、三種の神器の勾玉(玉)からきていると推察できる。玉は霊の象徴であり、3つ巴は、三位一体を象徴化するものであろう。要するに、霊たちの創造活動の象徴化である。太陽紀から、巴紋の意味を推測するなら、調和霊、意志霊、叡智霊の活動を象徴化したものだろう。 神輿の金箔等の装飾は、「大天使(アルヒアンゲロイ)」の光を象徴化したものなのだろう。提灯をつけている神輿もあるが、煙と同時に明かりをも象徴化しているもので、また、提灯は、シュタイナーの説く、叡智霊と大天使とのやりとりのイメージとして、閉じた領域の太陽の象徴化に最も適しているものにも思える。 シュタイナーは、人間の魂も、宇宙と同じ構造をもっているといっているが、だから、神輿は、人間の魂の再現化でもある。人間の肉体が、人間の魂という神輿を背負っているというわけである。 また、祭りのときの、掛け声が更に、興味深い。 日本語のヤマト言葉は、ヘブライ語で解釈すると、意味がわかるそうで、ヤマトは、ヤハウエ神の民という意味になり、ヤマト民族は、ヘブライ民族で、ユダヤ人であるとも解釈される。モーセの十戒を記したトーラは、虎(トラ)の巻に解釈できるし、ヤマト言葉とヘブライ語の類似点がいくつも見つけられる。 祭りの掛け声は、「ワッショイ」、「ソイヤ」、「エッサ」などであるが、ヘブライ語と考えると、「ワッショイ」は、「主の救いが来る」という意味になり、「ソイヤ」は、「ワッショイ」の逆読みの「ショイワ、セイヤ、ソイヤ」で、「主の贈り物」という意味になり、「エッサ」は、「運ぶ」という意味になるという。 つまり、神輿は、「主の救いがくる」象徴であり、また「主の贈り物」で、人間は、神輿を「運ぶ」運命にあるというわけである。 神輿を、人間の魂とするなら、魂は、「主の贈り物」で、人間が運ぶものであり、主の救いを実現させるものであることがわかる。 では、主の救いとは何かとなるが、単純に考えて、全体が救われることであり、どんな存在をも救うものであると考えられるので、魂の浄化、つまり、主から与った魂を掃除して、主に返すということになる。 単純にいえば、使ったものは、元通りにして返すということなのだろう。魂でいえば、生まれたままの状態にして、返すことになるわけであろう。自分のものにできるのは、経験だけなのだ! ちなみに、日本語では、よく逆読みが行われるが、逆読みは、この世からあの世へのメッセージと神秘学では解釈されている。日本語ではないが、例えば、アヴェマリヤの、アヴェは、AVEで、逆読みすると、EVAで、エヴァになる。つまり、アヴェマリヤとは、現世のマリヤに、エヴァ(天界)に帰れという意味になるという。 人間は、神様から魂を与って、生まれてくるが、綺麗に洗って最後には返しなさいという意味で、死後、魂は天界に帰るものなのだから、現世にあるときも、そのことを忘れずに、自己犠牲の精神で、励みなさいという道徳的な意味にも解釈できる。 従って、祭りとは、人間の輪廻転生を表出する芸術的行為と解釈される。
2011年06月02日
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1
![]()

![]()