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植物界のなかで、人間の感覚世界に属するのは、表面だけである。植物の魂や精神力は、表面的な視覚や味覚、臭覚として現れる背後にある。ただ、植物の場合の魂や精神力は、個々の人間に、魂、精神が宿るようには、個々の植物には宿っていない。 植物は、人間とは異なる。植物と人間とを同じように想像するなら、人間のなかの一本の髪の毛や耳たぶ、もしくは鼻や歯にも魂が宿っているように考えるのと同じ間違いを犯す。植物の場合、植物全体として魂を宿すようになっている。 従って、植物の場合は、種全体に移行して考えるときにだけ、人間と同じような魂の本性を霊視できる。また、植物以外の他の様々な生物の場合も同様である。精神(霊)的な方法で観察し、人間以外の生物が、ある意味で、一部なのか、全体なのか、注意する必要がある。 地上にあるような様々の植物全ては、人間のように、単独の存在ではない。植物は、全体の一部であり、植物全体として1つの体系を構成する。実際問題、部分が全体に属するように、様々な植物が属する全体について語るときにだけ、真実に到達できる。 人間の場合、即座に、歯、耳、指が属する全体を見ることができ、全体は物質として、肉体に属している。しかし、植物の場合には、1つの植物が属す全体を眼では見えない。眼のような物理的器官では、植物の全体(本性)を知覚できない。 何故なら、植物の全体(本性)に到達するには、人間が、精神の領域(霊界)に入っていく必要があるからである。植物界の魂(霊)的な本性に対する真実とは、植物の魂が、各々の植物を、いわば個々の器官としてもっていることにある。 実際問題として、地球全体でみても、それほど多いとはいえない魂たちが、いわば地球に集合し、人間が頭部に髪を生やしているのと同じように、植物魂が、個々の器官として植物を生やしている。 この植物魂を、植物の集合魂と呼ぶこともできる。植物に関する通常の視覚から生じる感覚を超え、各々の器官を、個々の植物に対応させれば、植物の全体の集合魂に到達できる。全体としては、7つの集合魂(植物魂)が、地球に属し、ある意味、地球の中心に、植物という存在の中心をもっている。 従って、地球を、物質的な球として捉えるのは十分でなく、7つの各々の植物魂の大きさは異なるが、精神的な中心を、全て地球の中心にもつ7つの球に、地球が浸透されているものと捉えるべきである。これら7つの精神的な植物の魂たちが、植物を地球の外へと駆り立てる。 逆に、根は地球の中心へと成長する。何故なら、根が、真に欲するのは地球の中心に到達することだからである。植物の根は、地球の中心をめがけて進むが、その途上に立塞がる他全ての地球の物質により、進行を阻止される。あらゆる植物の根は、植物が属する精神(霊)的な存在の中心がある地球の中心に到達しようと努力している。 人智学から、規定した原則、つまり、宇宙のあらゆる存在や被造物に関し、いつでも、その全体に到達できるという真実から、第一に、みている対象が、全体なのか、それとも全体の一部分なのか、を理解することが、非常に重要であることがわかる。 個々の植物を、物質性ではなく、魂を持つ存在として考える科学者たちもいるが、そのような科学者でさえも、1つの歯を1人の人間と呼ぶ以上に賢くはない。物質性で考える科学者も、全体と一部を解さない科学者も、どちらも同じ精神レベルにある。 霊的な観点が持ち出され、その中で植物が魂を持つ存在と見なされれば、そのような観点が、人智学的であると、多くの人は考えがちにある。しかし、本当は、科学の側からなされる霊的な話は、将来、全く何の価値ももたないようになるだろう。 上記のような話や著書は、全くの紙の無駄使いとなる。別々に切り離された植物の中に、個々の魂を探し求めることは、「人間から歯を抜いて、歯の中に人間の魂を探しましょう。」と言うのと同じである。 植物の魂が、個別の植物の中に発見できるわけがない。植物の魂は、最重要な中心を、地球の中心にもっていて、根は、中心に向かう。何故なら、植物の根は、植物という存在の最も精神(霊)的な中心に向かって絶えず奮闘するような作用をもつからである。 以上のような課題を考察する際に、今日の自然観の立場からなされる陳述に遭遇することがよくある。そして、そのような自然観は、真実への入り口近くにまでは、人々を連れていくことができるが、ただ、メフィストフェレスが、ファウストを「母胎」の領域に連れていくことができる程度で、つまり、真実から最も外側の入り口にまで連れていくことができるだけである。 というのも、今日の自然科学も、メフィストフェレスが、ファウストとともに「母胎」の領域に降りて行くことができないのと同じ程度に、人々を真の精神性へと招き入れることができないからである。メフィストフェレスが、ある意味で鍵を与えるように、自然科学も、鍵を与えるが、メフィストフェレスが自ら「母胎」の領域に入っていけないように、今日の自然科学も、真実へと入っていけない。 自然科学が、この連続講義で述べたような認識を獲得していたなら、真実への入り口にまで連れていくようなヒントを、現代人の認識に与える、というのは、ある意味で真実である。
2011年10月31日
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人体と特定の金属との関係の発見を学ぶ結果、既知の外的な経験から、部分的な効果が知られている物質が、治癒的な作用、つまり、人体に対する再生的、回復的な作用とともに認められるようになる。宇宙の各々の事物や存在の間に、様々な種類の関連や結びつきが発見されるだろう。 これまで述べてきたように、人間は、植物の種子の中にある治癒的効能が、根に含まれる治癒的効能とは、全く別様に人間と結びついている、という事実に気づくようになる。植物の根の中に発見できる治癒的作用は、人間の脳や脳に属する神経機能に微妙に関係している。 従って、実際、植物の根の中に発見できる作用をもつ物質の摂取は、脳と神経機能の中で起こるプロセスとある特定の関係を持つことになる。 そのため、精神(霊)を生かす人間の使命を遂行している、いわば物質的な道具の脳や神経機能に、物質的な側面から影響を与えたいなら、植物の根の中に生きている霊的な作用を、栄養摂取とともに遂行できる。 ある意味、上記のように食物とともに摂取する霊的作用を用いて、人間は考え、人間本来の精神(霊)的な仕事を遂行させている、と言ってもよい。もし、人間が、植物の根の霊性に由来する作用を、あまり摂取しなければ、むしろ、自分の脳や神経機能を使用せざるを得なくなる。 このことから、植物の根に由来する食物を多く食べると、客観的で、外的な霊的作用(霊力)が浸透し、働くため、魂や、精神(霊)的な存在に対する経験に依存的になりやすく、つまり、自身の脳や神経機能の独立性を放棄するようになることがわかる。 従って、もし、人間が、霊的、魂的に、独立性をもちたいと願うなら、植物の根の摂取を減らす必要がある。だからといって、特別な食事制限を推奨しているわけではなく、自然に関する事実について述べているだけである。 注意して欲しいのは、聞きかじりの知識だけで、実践し始めることである。全ての人間が、思考力を、外にある霊的存在から受け取らないで済ませられるほど進歩しているとは限らない。もし、思考力や感情力の補給を、自身の魂(精神)に委ねられるほど成熟していない人間が、植物の根の摂取を避けるなら、容易に催眠状態に陥るようになる。 人間の魂や精神が、客観的で、外的な植物の根の霊的な作用(霊力)から独立して、自身の内部だけで、思考力や感情力を発達させられるほどの精神力をもっていないからである。食事制限の問題は常に個人的な問題で、全般的には、当人の魂や精神の発達度や状態にかかっている。 根の脳との関係と同様に、植物の葉の中に生きる霊的な作用(霊力)は、人間の肺や肺の機能に属する器官の働き全てと同様な関係にある。例えば、呼吸器系が遺伝的な傾向、もしくは他の諸条件により、あまりに強力に働きすぎる場合のバランスの取りかたについての示唆(智恵)を、植物の葉を通じて発見できる。 呼吸器系が強く働きすぎる場合には、植物の葉に由来する食物を過度に摂取しないように勧めるのがよい。また、呼吸器系の強化を必要とするような人に対しては、葉に由来する食物を自由に食べるように助言するのがよい。 以上の霊的な作用は、宇宙の、つまり、自然のなかの特定の領域の中にある治癒力とも密接に関連している。何故なら、各植物のなかの根や葉などの部位は、人体の器官と特定の関係にあり、器官に対応する霊的な領域(器官)への治癒力を含んでいるからである。 以上のように、根は神経機能に対し、葉は肺の機能に対して、大いなる治癒力を含んでいる。 また、植物の花は、腎臓の機能に対する多くの治癒力を含んでいる。そして、種子は心臓に対し、心臓が血液の循環に対して、過度に強く抵抗している際に特別な形で働く作用を含んでいる。逆に、血液循環に対して、心臓が容易に屈服しているなら、種子よりもむしろ果実、つまり、成熟した種子の中にある作用を用いるとよい。 自然界のなかで、人間が、周囲の自然へと足を踏み入れるときに、人間の感覚に対して、自然が自らを現す姿は、実際、単なる表面にすぎない、ということを考慮するなら、結果として得られる示唆(智恵)とは次のようなものである。 まとめ 根→脳 葉→肺 花→腎臓 種子→血液の循環 果実→心臓
2011年10月28日
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どうも最近、NHKの大河を起点として、「坂の上の雲」を書き換えようとするような不穏な空気が流れているような気がする。 司馬氏は、この世にいないので、反論する立場を与えずに、批判するのは、卑怯千万なやり方といわざるを得ない。 このような動きを非常に残念に思う。 司馬氏も乃木大将を戦略的には無能だったが、現場を鼓舞する精神的な支柱であったことは一応認めている。あのような損害を出してまで続けられたのは乃木だからこそ、できたわけで、乃木でなければ、とっくに日露戦争は負けていただろう。 しかし、問題は、あのような損害を出してまで、日露戦争をする必要性があったのかどうかという点にある。 このことは、当時の状況を知らなければ、何も語ることはできないので、結果論からいえば、ロシアの南進を抑えることができ、ロシア帝国の滅亡につながる役割を果たしたことになる。 ロシアの台頭を恐れていたのは、日本だけではなく、英国も恐れたので、日英同盟が締結されたことに疑いの余地はないだろう。 実際、日英同盟はバルチック艦隊の壊滅に十分な働きをしたし、ロシア帝国の滅亡、つまり革命に対して、資金的にも重要な役割を果たしている。 個々の戦術の前に、大局的にみて、ある意味、ロシア包囲網ができていた点を考えないといけない。 当時の西洋は、遼東半島、朝鮮半島を制する者がアジアを制するという雰囲気があったように察せられる。だからこそ、英国も清を懐柔し、ロシアも不凍港を得て、勢力を広げようとしたわけである。 日英同盟の背景を探れば、英国がいかに野心的であったかがわかるし、日露戦争の区切りのいいところで、米国が出てきたのは、裏で英国が裏工作していたことがわかる。 決して表に出ずに、他にやらせて掠めとるのが、バイキングの血を引き継ぐ、英国王室の昔からのやり方といわざるを得ないだろう。 英国が日本を誉めれば誉めるほど、裏に隠れるわけで、一石二鳥の誉め殺しである。 このような外交裏舞台を知らずして、戦術を語ることは全くの無意味といわざるを得ない。 さて、司馬氏の坂の上の雲には、司馬氏自身が、太平洋戦争の学徒動員で、ノモンハンまでいかされ地獄の目に遭わされた体験から、日本人はなぜこのような無謀な戦争へと駆り立てられてしまったのかの反省を元に書いた、と自身で記している。 そして、一応の答えが、乃木大将の神格化にあった、と結論できたので、徹底的に乃木を人間化したのである。 「主の名を妄りにとなえてはならない」 この戒めは、十戒にもあるように、人間の最も大切な徳目である。 軍人を神格化したために、日本は対米戦に巻き込まれたと、司馬は結論づけたのである。 そのために、司馬氏は「坂の上の雲」を書いた。 軍人は表に出るべきでないと結論づけたのである。それは、自身が、ノモンハンでソ連と戦った体験から出ているものである。一種の教訓なのである。 戦場で戦った経験のない者が、戦術を語ることは机上の空論といわざるを得ない。 軍人が表に出てはいけないという似たようなことは、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎も述べている。 いま、歴史街道という非常にマニアックな雑誌を読んでいるが、あまりに酷いので呆れてしまった。 司馬批判を具体的にあげると、「1.坂の上の雲の原典が、「機密日露戦史」にあるとし、酷評し、司馬が酷評した「参謀本部編纂の明治さんじゅう78年日露戦史」を、編纂要綱という不名誉なことは記述しない方針を認めながらも、この書に勝るものはないと独断と偏見で、断定している。」 編纂要綱がある時点で、史料の価値があるといえるのだろうか、しかも勝ると断定している。「2.明治天皇がほとんど描かれていないと批判」 明治天皇を描くことは、日本社会では非常に困難で、ましてや文筆家は社会的地位を失う恐れがある。「3.後に軍神とされた橘周太の記述が少ないと批判」 軍人を軍神化することを嫌っていた司馬が、軍神化された人物を好んで書くわけがなく、橘某の知名度、つまり軍神化は認知度が低く、太平洋戦争の影響を考え、乃木だけに絞ったのだろう。 「4.乃木を愚将と貶めたと批判」 それこそが、坂の上の雲の目的である。乃木の人間化の意味を批判者は全く理解していない、要するに、自衛隊をクビになり世間を賑わせた戦争オタクと同じなのである。「5.五万の兵を投じた第一次総攻撃の失敗は乃木の判断にないと批判」 乃木の判断が、失敗を招いたことは事実といわざるをえない。 更に乃木は判断を誤り、死闘を続けた末、203高地の占領に至らずに、児玉が駆けつけてようやく攻略の道筋をつけたのは、坂の上の雲と同じで、要は批判者は乃木を主観的に捉え擁護し、司馬は神格化の衣服を破る記述をしている点で、異なるわけで、結局、批判者は、司馬の意図がわかっていないだけである。 批判者は、司馬氏の気持ちが全く理解できていないのである。 作者の気持ちを理解することなく、著作を改ざんすべきではない。司馬は、太平洋戦争の誤りを日露戦争に求めたのである。この点を抜きにして戦術がどうたらこうたら語るのは瑣末で無意味である。 米国が出てこなければ、日本は負けていただろうし、実際、損害は日本の方が大きく、勝ったのに戦費のツケが、つまり財政難が、太平洋戦争まで続くのである。 米国がグッドタイミングで出てきたところに英国の底力と嫌らしさ、情報収集能力をまざまざとみせつけられる。ロシアへの勝利は、日本ではなく、米英が欲しかったのである。ロシアを黙らせるのが米英の目的だった。 それに、英国は、日本海軍とのつながりも深かったのである。明治維新の背景には、薩摩に加担した英国外交が背後にある。 勝海舟は、薩摩が英国を後ろ盾にして、攻め寄せるなら、慶喜を仏国に亡命させて、仏国と英国を戦わせようとしたくらいである。そのために、小栗らを仏国に斥候させたわけだ! 江戸無血開城のために、英国公使に海舟が面会にいったのは、慶喜が降伏しているのに、国際法に違反して、江戸を攻めるなら、慶喜を仏国に亡命させ、仏国をして、英国を攻めるというようなことを談判にいったのだろう。 英国公使が海舟に会わなかったのはそれを知っていたからで、勝は根気よく待って、会ったらしい。その後、西郷が呼び出されて、江戸総攻撃をやめさせたわけである。つまり英国は、国際法に基づいて、薩摩を支援しないばかりか、もし、慶喜を亡命させたら、薩摩が敵になるとでもいったのだろう。 勿論、英国公使は海舟の張ったりであることなど見抜いているが、恐らく、海舟の祖国を思う気持ちに打たれたのだろう。 「あんたら英国がやっていることは、慶喜(西郷)を亡命させて、仏国(薩摩)をして祖国の英国(江戸)を攻めさせることですよ!」 海舟が政治は正心誠意というのは、ここにある。人間の良心を動かすことである。 自分のしている過ちに気づかせることである。 兵は詐道なりとは、孫子にあるところだが、兵を妄りに動かすのは愚将のやることである。 幕末の幕府官僚ならば、兵を動かすことなく、つまり日清、日露戦争をすることなく、外交同盟を結んでいたように思われる。明治は二流の人物だけが残ったのが日本の不幸でもある。 つまり、日本海軍があまり批判されずに、陸軍だけが批判されるのは、海軍のなかに英国のスパイがいた証拠でもあるだろう。もし、海舟が生きていたら、スパイと知っていて、利用しただろう。 そのようなことを考えずに、やれ陸軍が無能だ、海軍が無能だと、日本人同士で争えば争うほど、欧米のいいカモといわざるを得ない。欧米の血筋は、バイキングであることからわかるだろう。 乃木大将は、平和のためなら、自分が汚名を着ることぐらい屁とも思わないように私には思える。 きっと乃木大将は、戦勝で浮かれ気分でいる人たちをみて、途方に暮れていたように思える。明治天皇への殉死の意味は、世間の浮かれ気分さを嫌悪してのものだろうと私には思える。 生きていれば、金銭や名誉に目が眩んだ馬鹿な部下に担ぎ出されて、明治の西郷のようになっては、次の天皇にも迷惑がかかる恐れもあるだろう。 それは薩摩に下野した西郷とどことなく被るような気もする。西郷は自分が西南戦争に担ぎ出されるとは思ってもみなかったのだろう。否、思っていたからこそ、下野して、一切を大久保に譲ったのである。自分が防波堤になろうとしたのだろう。しかし、暴発してしまう。 本当の軍神とは、死んでから平和をつくるものである。孔明のように。 戦の神にされるほど不名誉なことはないだろう。 一流の小説家は、自分の小説が後世にどのような影響を残すかを理解して書くのである。 一時の金銭のために書くのは野暮で滑稽この上ない。 現代の金銭に目が眩み悪魔に魂を売るマスコミこそ害悪はなく、地獄をみるだろう。 それにしても日本人は小さくなったものである。もはや欧米の奴隷である。 西洋の過ちを気づかせることができるのは東洋をおいて人類には他にないのだよ! 民主主義の多数決の論理からいっても1%の金持ちに主権がないのは明白である。
2011年10月28日
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さて今、「神の」音楽により創造された全ての中で最も素晴らしいものについて考察する。それは次のような方法からアプローチできる。今日では、言葉、例えば、単なる母音、「あ」でもいいが、「あ」を発音するとき、この「あ」という音を通して、ある形態が生じる。 (例えば、「あ」は、阿吽の呼吸の「阿」にあたる。クラドニ図形では、「あ」は円になる。「あ」と発音すると、人体はアルカリ性の傾向になることがヨガからわかっていて、暑いときに、「あ、暑い」と発声するのは、血液を表面に出して、熱を外に出す働きが考えられる。発汗とともに、水分と熱が奪われて、人体を冷やす効果が生じる。) 人間の発音と同じように、宇宙の「言葉」を通じて、ある形態が、宇宙の中に生じた。宇宙のなかに生じた全ての形態の中で、最もかけがえのない存在が正に人間なのである。人間が、神の「言葉」で「話された」ことで、原初の状態で人間が創造された。 人間はまさに「神々が話し賜うた!」存在である。 今日、人間の言葉を通して、空気のなかに形態が生じるように、人間界は、「神」の「言葉」を通じて、形態を獲得した。人間こそ、神々が語った全ての形態のなかで最も秀でた存在である。当然、当時の人間の聴覚器官は、今日の状態に比べて、遙かに高度で、無限の可能性をもち、複雑なものだった。 かつての最高度の聴覚器官は、今日では縮み、萎びて、現在のような人間の耳になった。今日の人間の聴覚器官は、脳の中のほんの限られた深さに達する外的な感覚器官だが、かつては、人間全体の中に広がっていた。 人間とは「神」の「言葉」の発声そのものであり、「人間」という発音の通り路(媒体)は、人間全体に浸透し進んだ。人間は、最高度な聴覚器官を通じて(精神的に)創造された。将来、人間が、再び高次の霊界へと上昇するときには、非常に小さな、痕跡となった耳を持つようになるだろう。現在の耳の意義と目的は、完全に過去の存在となるだろう。 (人間は耳から生まれたといえる。耳といっても、神の言葉を聞く器官である。現在の人間にも、聞くことが大事なのは、いうまでもない。音だけでなく、心や精神を聞くことが重要である。) 耳は退化の途上にあるが、耳を補完する器官として、今日では、いわば種子のような状態にある喉頭が代わりに、益々美しく、完成へと発展していく。そして、喉頭の完成状態において、「神々」が、「神々」の創造物である人間を、宇宙の中に話し、創造したのと同じように、人間が、自分の復元として、宇宙の中に、人間を発声し、創造するようになる。 以上のように、宇宙の経過は、ある意味で反復される。現在、目の前の人間を考察するなら、進化プロセスのなかで、下降期にある器官を霊視する必要がある。そして、耳のような聴覚器官を取り上げる場合、その中の小さな骨にみられるように、既に、骨物質が凝縮に達していることがわかる。 現在の耳は、いわば退化の最終段階にある。現在のような聴覚は消滅していく一方で、人間は精神界へと発展していく。そして、人間を精神へと導く橋が、現在、上昇期にある器官なのである。感覚に対する物質界と精神界とは、補完のような関係にある。 感覚に対する物質界は下降期にある器官において、精神界は上昇期にある器官において、自らの存在の意味を知らせる。 精神性と物質性の関係はどこでも同じである。人間の前に立ち現れる世界全体の中で、この生成し、死滅するものを、なんらかの方法で追跡できる。宇宙の他の事柄に対しても、以上のような考えを適用することが重要で、そこから多くのことがわかる。 例えば鉱物界でも、進化の上昇期にあるもの、今日では、まだいわば種子の段階にあるものを発見できる。それは水銀である。水銀は、将来、より高い完成へと進む変容を遂げる金属である。金属としての水銀は、あらゆる物質が物質になる前の精神(霊)的な存在のときにもつ全ての力を、まだ完全には失っていない。 水銀の霊的本性に属する力は、本質的にまだ精神(霊)的な状態にとどまっている。そして水銀は、将来、霊的な力を、宇宙の前に差し出し、据えるようになる。水銀は将来新しい形態を取る。このように水銀は、鉱物界において、人間の喉頭、もしくは、ある意味、喉頭に接する器官や、肺に対応する器官といえる。 水銀以外の他の金属、例えば銅は、進化の下降期にある。銅は、未来では、宇宙の中に放出すべき精神(霊)的な力を、もはやもたない金属として、益々崩壊し、宇宙の塵として、崩れ去るしかない金属として、自らを現す。 以上のように、将来、益々探求の対象となるような宇宙的な関連性について、数例を示した。人間は、更に自然の幾つかの領域の中で、生成プロセスと消滅プロセスとの間の関係を探求し、物質的な実験や試行を通じてではなく、イマジネーション(霊視)的な認識を通じて、特定の金属と人体中の特定の器官との関係の発見を学ぶようになる。
2011年10月27日
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恐らく、今回の連続講義の中で、人間がいかに複雑な存在で、真の本性に近づくには、非常に多くの面からの考察が必要になることについて、ある結論に到達できた。 そして、その結論は、超感覚(霊)的な探求の支援の下で、太古の昔から今日までを振り返ると同時に、未来においては、人類へと来るべき栄光(霊的器官)を見通しながら、人間の進化の全プロセスを学ぶときに到達できる全ての結果の中でも特に重要なものとして位置づけられる。 今回の連続講義の中で、人間が、叡智を獲得する能力を、既に述べたプロセスから自己教育するとき、すなわち、人間の魂が、叡智を求める努力の中で、「驚き」、「敬虔」、宇宙の事象との叡知に満ちた「調和」、そして最後に、宇宙のプロセス全体に対する「献身」として特徴づけられる魂の状態の中に入っていくときに、獲得できる認識に注目した。 思い出して欲しいが、もし、人間の魂が、上記の雰囲気、もしくは状態に入っていくなら、人間の認識能力が、人間の周囲の至る所にある2つの逆方向へのプロセス(生成と消滅)に対する知覚へと徐々に上昇できることについて説明した。 人間は、周囲にある生成と消滅の区別を学ぶ。人間は、ことあるごとに生成するプロセス、つまり将来、完成に至るプロセスに関わり、また、徐々に衰退し、消滅するプロセスに遭遇する。人間は、事物を、宇宙の生成領域、もしくは消滅領域のどちらかに存在するものとして知覚する。 特に、人間の喉頭が、将来、真の霊的な器官となり、今日とは全く異なる器官として呼ばれるようになることを指摘した。喉頭は、今日では、魂の内的な気分や状態を、話し言葉として外界に伝えるだけだが、未来では、魂自身の人間性全てを伝えるようになる。 すなわち、喉頭は、未来では、人間の精神(霊)性全てを産み出すために使われる生殖器官となる。 現在の人間が、喉頭の支援の下に、心の中で思うことなどを言葉により表現するのではなく、自身の自我を世界に提示するために、喉頭を使うようになる時代がやって来る。言い換えれば、人間の繁殖が、喉頭という器官と密接に関係するようになる。 さて、「人間」という、この複雑な「小宇宙」の中には、以上のように、今のところは、種子にすぎないが、将来、高度の完成域に達するような器官に対して、逆に、徐々に衰退し、消滅していく別の器官も存在している。 この喉頭の対極が聴覚器官である。 この聴覚装置が少しずつ消え去るのに比例し、つまり、次第に退化するのに比例して、喉頭は、次第に完成され、重要なものになる。この事実の重大性を推測できるのは、人智学徒が、アカシャ年代記の助けをかりて、人類の遙か過去を振り返った際の探求から、過去の聴覚器官を発見し、聴覚に対する概念を構成できる立場にあったからである。 人間の聴覚器官を、原初の形態まで辿るとき、人間の霊的本性に対する認識に向けて、大いなる視界が新たに開ける。というのも、現代人がもつ現在のような聴覚器官は、原初の形態のいわば陰影以下のものであるからである。 今日の人間の耳は、単なる物質界の音や、物質界のなかで、自らを表現する言葉を、音として聞くだけにすぎないが、その耳は、かつて人間の中に流れ込んだ全てを聞いた聴覚器官の最後の名残(退化した姿)にすぎない。というのも、今日の人間の耳が、地上の音楽を聞くように、太古では、宇宙の音楽、天球の音楽が、聴覚を通じて、人間の中に流れ込んでいたからである。 (太古の人間は神々の言葉を聞けたようである。) 今日、人間が言葉に音を着せて表出するように、過去の時代には、神々の「世界」の「言葉」、つまり、ヨハネ福音書が告げる「ロゴス」、すなわち神の「言葉」が、天球の音楽を纏っていた。今日の現代人の聴覚に、人間の言葉や地上の音楽が流れ込むのと同じように、太古の言葉の意味で、人間の聴覚と呼べる霊的な器官に、天空の音楽が、精神(神)界から流れ込んだ。 (この能力を、「インスピレーション」と、シュタイナーは呼んでいる。芸術家が、創作能力のことをよくインスピレーションを感じたと表現するのと似ている。) 天球の音楽の中に、神々の精神が語る言葉があった。今日、人間が、人間の言葉や歌、発する音などにより、空気を、音響という形態へと運動させているように、神々の言葉や神々の音楽が、あらゆる形態を生じさせていた(いる;現在進行形だが、現代人は聞けないから)。 (微量の波動の周波数を捉えて、音に変換することで、自然界の微量な波動を音にする研究も最近出てきた。古代人は、このような音の源泉も聞き分けたのだろう。 西洋人と比較して、日本人の脳は、虫や鳥の鳴き声を、言語領域で、情報統合しているというから、日本人の脳にはまだ古代人の聴覚器官の名残があるのかもしれない。日本人に比較的遺伝的な霊能力が残っているのは、日本人が比較的同族婚を行う文化に要因があると思われる。 対して、西洋も一部には残っているが、混血が多いので、すみやかに霊能力が失われていったのだろう。科学者に混血が多いのが特徴的でもある。)
2011年10月26日
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人間が、神界に属したときの過去の遺産からの進化ではなく、現在のように物質的に前進する進化に属するのは、物質の背後にあり、血液を通じて物質の中に、自我が注ぎ込まれるせいである。 ルシファーや、アーリマンは、進化のある段階を克服せずに進化から取り残されることで、人間の世界にやってきた。 (堕天使悪魔は、落第生といえる。いわば落第した先輩なので、始末に終えない。) これまで述べてきた事実全てを注視すれば、地球進化のはじまりにおいて、明らかに人間が共通のもの、いわゆるルシファーとアーリマンを1つに結びつける悪徳を持った、ということが理解できる。堕天使たちは、血液の中に、共通する悪徳を、はじめから持っていた。 というのも、もし、人間の血が、人間のために神々が意図したままのものだったら、人間の血は、形態霊の純粋な霊的な放出だったはずだからである。形態霊は、人間の霊的な血と一緒に、人間の中に生きていただろう。 人智学徒の多くが知っているように、形態霊とは他でもない、聖書に記述された七柱のエロヒムのことである。ミュンヘンでの創世記に関する連続講義で述べた事実全てを思い出せば、もし、人間が、霊的な血を当初予定されていた状態に保持していたなら、人間は七柱のエロヒムを自分の中に感じていたはずである。 人間は、内にある自我が七つの霊的な構成要素からなることを感じていただろう。 七つの構成要素のうちの1つが主神であるヤハウエ、もしくはエホバに相当し、他の六神は、さしあたり人間にとっては下位に位置する神だっただろう。 (ヤハウエとは、日本でいうヤオロズの神、八幡神のことに思われる。) 人間が、自我の内で感じた上記の七重性、つまり、内における七柱のエロヒム、もしくは形態霊による高次の状態は、現在の人間が大変な苦労をして獲得しなければならない七重の本性で、本来(ルシファーの影響をうけなかった)なら、自然に自発的に人間の内に生じさせていたはずのものだった。 人間の血がルシファーの色に染められたため、自分の内に、上記の七重性を再び受容できるようになるまで、成熟するのに必要な充分なインテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)的な霊的実質を、神経、筋肉、骨から流出するために非常に長い間待つ必要性が生じた。 現在では、次のような抽象的な命名法で、霊的な実質を認識できる段階にようやく到達したにすぎない。 「肉体から自我に働きかける霊的な人間の本性、同じくエーテル体から働きかける霊的実質、アストラル体から働きかける霊的実質、自我(ヤハウエ、もしくはエホバ)からの霊的実質、マナスあるいは霊我、ブッディあるいは生命霊、そして、アートマンあるいは霊人から働きかける霊的実質等の人間の本性、である。」 (1.肉体、2.エーテル体、3.アストラル体、4.自我、5.マナス、6.ブッディ、7.アートマン) もし人間の進化の途上で、ルシファーの介入がなかったら、人間は、現在のように、特別1つの霊的な器官の自我だけをひときわ輝かせ、他の6つの構成要素を目立たなく、暗くするようなことは、決してなかっただろう。 地球進化の初めに、自我以外の構成要素を目立たなくし、暗くした反面、自我が特別明るくなった理由は、すなわち、輝くような光に満ちた自我性をもつようになった真の理由は、自我が(ルシファーにより)濃密な物質性の中へと追い立てられた事実にある。 そのため自我は、特に個別性、特に孤立した個別性に対して明確な意識に到達できたが、もし、この個別性に到達できなかったら、絶えず自分の七重性を感じていたはずだった。 このように、もし人間の血が当初のまま、霊的な状態、つまり天国にとどまっていたなら、初めから七重の特質を持った自我へと到達していた真実を理解できる。しかし人間は、ルシファーの介入を受けることで、唯一の、孤立した性格を持つ自我へと至り、その自我を、人間という存在の中心に位置するものとして認識し、感じるようになった。 (人間を七色の虹に喩えるのは、以上の真実からきているのかもしれない。そういえば、子供にときに、レインボーマンという戦隊ヒーローがいたことを思い出した。) 従って、当初予定されていた霊的な形態での血は、人間が、自分たちを普遍的な1つの人種であると感じるように、1つにまとめ、社会的な方向で働けるような認識を含んでいた、という真実が理解できる。 当初予定されていたように、七柱のエロヒムが人間の自我の中に顕現していたなら、1つの人種としてまとまっていたはずである。ルシファーの人間への贈り物の意図は、人間が、自分を特別な個人として感じると同時に、その自立性の中で、自分を普遍的な1つの人類種から、別人種として切り離すことにあった。 (ルシファーは、人類を分断させ、互いに闘争しあうことを画策した。ルシファーは、人間の自我に働きかけ、互いを分断させ、離反させ、自分たちの目的を果たそうとしている。俗にいわれる、悪の宇宙人とは、ルシファーとアーリマンのことだろう。ルシファーがグレイで、アーリマンがレプタリアンという感じかもしれない。) 宇宙は、人間が、地上においては、ルシファーの働きを通じて、益々独立する傾向を持つようになる一方で、七柱のエロヒムを通じて、自分を、人類全体の一部とし、その一員として益々感じる傾向を持つようになるような形で、進化プロセスを辿っている。 以上のことが道徳の面で、そして人間が進化していく上で、生活全体に関して、どのような結果をもたらすかについては、次回から述べたい。
2011年10月21日
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血液は、物質へと浸透し、血の実質として、迸り出る。そして、今日知られているような傾向をもつようになった。本当は、物質化した瞬間、精神(霊)的な存在へと返るべき血の霊的な実質が、今では、人間の自我以外の他の部分へと迸り出る。 血液は、人間のなかの様々な作用により変容を遂げながら、人間の全組織を満たした。血液は、例えば、肉体のエーテル体に対する卓越性やエーテル体のアストラル体に対する卓越性等々の中に浸透していきながら、神経物質や筋肉物質等々に変化する。 以上のように、ルシファーは、本来霊的だった血を、過剰な物質性へと追いやった。そもそも、血は、神々によって発現すると直ぐに物質的に消滅するように意図されていたにも関わらず、ルシファーは、血液として粗雑な物質性へともたらした。 以上は、ルシファーが物質の中で遂行した1つの直接的な行為である。ルシファーは血を物質化させた。 しかし、血以外の他の構成要素に対しては、せいぜい不整合をもたらしたにすぎない。ルシファーがいなければ、血は、今日のような血液にはなっていなかった。前にも述べたように、物質性を帯びる間際まで、つまり発生段階まで進み、直ぐに元に戻るような精神(霊)性の中に存在していたはずである。 物質としての血液はルシファーが創り出した。人間の自我は、血液の中に、物質的な表現をもつが故に、地球上では、ルシファーの創り出した血液に結びつけられる。 以上の意味から、アーリマンが、自分より前にルシファーがいることで、人間に接近できるようになったので、次のような結論に達する。 「血液は、ルシファーがアーリマンのために投げてよこしたものだ! だから、血液を介して、その両者が、人間に近づく。」 ルシファーやアーリマンにより、人間の原初の感情が、血液を、地上における財産のように見なすようにさせたのは、当然のように思える。つまり、堕天使たちは、人間の血で刻印された契約書をもち、(ゲーテの著作での)ファウストが自分の血で契約書にサインすることに、堕天使たちが大いに価値を置く、というのは当然のように思える。 (人間の血を求める行為は堕天使由来のものといえる。印鑑やサインを自我の証明にし、求めることは、堕天使由来のもので、ある意味、吸血鬼の行為ともいえる。信頼しているのなら、そもそも、印鑑やサインなどの証明は求めないからで、全ては神々のもので、人間が所有などできないからである。) 何故なら、血液は完全にルシファーに属するものだからである。血液以外の他のものは、なんらかの神性を有している。ルシファーは、血液以外の他のいかなるものの中にも、安住することはない。インクでさえ、ルシファーにとっては、血液よりも、神聖なものである。 人間の血液こそ、ルシファーの要素なのである。 (この秘密が曲解されて、間違った新興宗教等に、輸血禁止というような弊害をもたらした。そもそも人間の血液自体が、悪魔のものなので、そこには他人も自己もない。この差別意識そのものが、悪魔のものであることがわかる。 考えてみれば、人間の差別意識は、血液に由来している。血液型から性格診断するのも、一種の差別といえ、血縁関係を尊重するのも、差別である。そもそも血液が悪魔のものなので、優劣を問う意味がなく、優秀も劣等も糞もないはずである。自分の顔が汚れていながら、他者の顔の汚れを馬鹿にするものである。) 人智学では、人間が、2つの存在、つまり、感覚器官、腺組織、消化器官系統を持つ存在、そして、神経、筋肉、骨を持つ存在であることが知られている。その2つの存在に関与する両方の作用により、人間は、粗雑な物質性(所有欲)を負わされ、ルシファーの影響による働きを通じて、血液が供給され、物質的形態を取る。 人間が、物質的な存在である限り、人間は、ルシファーの完全な血液の産物である、という真実は、唯物的な科学でも、明らかである。人間の中の物質性は、血液によって栄養補給される。人間の肉体全ては、本当に、変化した血液に他ならない。 (肉体の機能損失が生じると、輸血が必要になることからわかる。) 物質性の観点からいえば、骨、神経、筋肉の全ては、変化した血液に他ならない。人間とは実際血液であり、血液から形態を取ることで、人間は、いわば歩くルシファー・アーリマンの存在なのである。人間は、いつでも、自分とともに、ルシファー・アーリマン存在を持ち歩いている。 (人間の欲望は、悪魔のものといえる。人間は悪魔を飼っている。人生において、いかに悪魔を退治し、欲望を克服するか、が人間の役割といえる。)
2011年10月20日
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人間に生じるべきだった唯一の感覚による知覚とは、霊的な自我に対する知覚であり、人間のために物質界に意図されていた唯一の霊的実質とは、物質になる瞬間に輝く霊的な形態の血だった。 従って、もし、楽園の人間のままだったら、人間は、地上において象徴的に、自我を表現するように運命づけられ、その自我のなかで、イマジネーション、インスピレーション、インテュイションを発現させ、成長させ、それらからなる純粋に精神(霊)的な存在に対する意識が与えられ、霊界から、その霊的な自我を見下ろしていただろう。 そして、この自我の輝きの中で、「私はある。何故なら、下方の私が、私を通して、地上の存在に至ったからである。」と感じられただろう。 以上は非常に不思議なことだが、真実である。 人間は(現在のように)地上ではなく、地球の周囲に生きるように神々に意図されていた。人間は、上の図8のように、地球の周囲(a)に生き、人間の反映を、地上に創出する(b)と同時に、この反映を通じて、自我が再び照り返すことで、「下方に私のシルシ(存在の証)がある。」と感じるように意図されていた。 現在のように、人間は、地上の自我と一緒に、骨や腺組織、新陳代謝組織等々を持ち運ぶようには、ましてや、「その存在を私である。」というような馬鹿げた判断を下すようには意図されていなかった。 (現在のような所有意識がなかった。考えてみれば、自分の命も自分のものではない。ただ宇宙の現象の一部を授かっているだけである。) 以上とは全く異なる自我が生じるべきだった。人間は、地球の近傍に生きながら、霊的な血の、霊的な形態の輝きのなかで、地球にシルシ(存在の証)と象徴を沈め、自分の存在を次のように感じたはずである。 「私は、そこに私の杭、つまりシルシ(象徴)を打ち込み、刻印する。それは私に、自我意識を与える。何故なら、私は、私となった自我とともに(その中で、私は過去の地球である土星、太陽、月を経てきたが)、地球の外の全世界の中に漂うことができるからである。 その存在に、いま、私という(地上の)自我が加わる。私は、自分自身を、下方にある地球上に刻印することで、自我を知覚する。自我の知覚から、常に、私は、血の輝きの中で、私が何者なのか、を読みとることができる。」 (地球の衛星のような存在といえる。人間が、記念碑などを、残すのは、このような名残のようである。記念碑など、土地に目印を残すことで、人間は、記憶を学んだようである。かつては、人間に記憶はなく、目印の土地にいくことで、過去の体験を思い出したそうである。 このことから、例えば、記憶喪失の人が、思い出の土地にいくなどして、記憶を蘇らせることが考えられる。考えてみれば、自己を記憶できるのは、肉体という土地に自分の行動という目印を残しているからともいえる。 肉体を土地とすれば、長さの単位が肉体に基づき、空間の基本が感覚器官に基づく意味がわかる。 従って、死後に、肉体を失えば、一種の記憶喪失となり、自分の行動だけが残るので、それを自己同一視するしかなく、自分の行動に統一性や秩序、永続性がないと、それもやがて失われていくので、自我意識はなくなってしまう。 だから、死後も、自分の命を残すには、できる限り、秩序ある道徳に沿った行動が求められるわけである。) 以上のように感じるべきだった。従って、人間は、本来、現在のような、肉と骨からなる身体をもって、地上を歩くのではなく、地球の周囲を周りながら、いわば、下方に自分を刻印(記入)することで、自分であること、つまり、自我に気づくように意図されていた。この事実を見過ごすなら、人間の本性に対する真の知識を持つことはない。 (人間が自分のものにする際に、自分の名を記す行為に、その名残があるといえる。) そこにルシファーがやって来た。そして、人間に、自我を感知するだけでなく、アストラル体も、つまり、地球の過去の転生である月の上で、人間が獲得した全て、すなわち、思考、感情、意志を、自我と同様に(自分のものとして)感じるようにした。 以上のように、自我は、もはや純粋なものではなく、別のものが混入した。このことから、人間が、物質の中に降下する必要性が生じた。楽園からの追放とは、物質の中への下降を意味する。というのも、血は、一瞬の輝きとして、再び精神(霊)性の中に受け取られるのではなく、物質的な実質、つまり血液となったからである。
2011年10月19日
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前回の内容から、今、「人間の進化は、高次の精神(霊)的な存在達と、どのような関係にあるのか?」という疑問に対する答えを発見する。 これまで、一方で、感覚、腺組織、消化機能を持つ人間が、ルシファーの影響を通じて存在するようになった経緯を見てきた。他方でまた、ある意味、ルシファーの影響に帰するが、人間に対する上記の第1の作用が、そのまま消滅すべき運命をもちながら、時間の中に存在するように定められているのに対し、第2の作用は、人間の本性を、永遠性と持続性において救出し、人間性を未来へともたらす。 従って、人間が第1の作用(感覚、腺組織、消化機能を持つ人間)をもったとき、人間は、高次の精神(霊)的な存在性から本当に脱落したが、その釣り合いをとるために、第2の作用(神経、筋肉、骨を持つ人間)の受け取りを通じて、再び精神(霊)的な存在へと少しずつ上昇の歩みを進めている。 しかし今、不思議なのは、イマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(神通力)的な霊的実質の分泌が、物質的なプロセス(破壊的なプロセス)を通じてしか生じない、ということである。 もし、神経、筋肉、骨が絶えず崩壊せずに、そのまま継続するものだったら、人間は、上記の精神(霊)的実質を放出できなかっただろう。というのも、精神(霊)に輝きを与え、燃え立つ機会を与えることができるのは、物質の破壊と衰退だけだからである。 もし、以上述べてきたように、神経、筋肉、骨が衰微し、最終的には死の中で破壊されなかったら、人間は、永遠に、地球上の存在性のなかに縛りつけられ、未来へとつながる更なる進化に参加できなかっただろう。 現在の人間はまるで石のように硬化し、未来に向けての進化が不可能になっただろう。人間のなかの一方の作用と、他方の作用の間に働く力とは、2つの作用を、互いに均衡を取りながら支え合い、バランスするような力である。 そして今、上記の2つの作用の間に、いわば、それらを仲介するものとして、ある霊的な実質を発見する。その実質については、一般向けの講演で何回も述べてきたが、上記の2つの作用との関連ではほとんど言及してこなかった。 その2つの作用の間にある霊的な実質とは血液である。 血液は、上記の2つの作用との関連においてもまた「特別な液体」なのである。というのも、既に見てきたように、神経物質他の元になる霊的実質として、これまで学んできた全ては、単にルシファーの影響を受けた働きの結果から、なっているにすぎないが、血液の場合には、血液の霊的実質自体がルシファーの影響を被っているからである。 もし、ルシファーの影響がなければ、肉体、エーテル体、アストラル体は、現在とは別様に互いの中に働きかけ合っていた、という事実を理解し、霊的な観点からいえば、それらは純粋に超感覚(霊)的な関係だった。ただ後になって、過去に被ったルシファーの影響から、物質に働きかけ、自分の中に物質を取り込み、物質を現在のような状態にした。 だから、神経、筋肉、骨の霊的な実質は、人間の構成体が不規則に組み合わさっているという事実に負っている。 本来なら、超感覚的な関係である霊的実質に対し、ルシファーは影響を及ぼせない。というのも、人間が、自らの構成体をずらし、混乱させた結果として、霊的実質から、物質が生じたからである。人間が、ルシファーが接近してきた場所、つまり4つの各構成体間に不整合を生じさせた。 ところが、血液という物質、もしくは血液の霊的実質に対しては、ルシファーは直接働きかけることができる。 人間は、血液に関しても(血液は特別な液体だが)、神々が本当に意図した状態にはなく、つまり、ルシファーの影響のため、本当の人間の血のありかたでないことを、血液という物質的な実質自体が示していることがわかる。というのも、血は本来あるべき姿とは全く異なった存在になったからである。 「そんな馬鹿な!」と思うかもしれないが、それは真実である。 物質の起源について以前述べた事実を思い出してほしい。精神(霊)的な形態が、一種の境界、もしくは限界に達した後、分解し、分散するときに、物質が生じ、つまり、砕け散った(霊的な)形態が物質として現れる、という事実を、そのときに述べた。 地上の物質とは以上のようなものだが、直接生じるのは、実際には、鉱物界だけである。何故なら、鉱物界以外のその他の物質は、その際、介入してくる別の条件に捉えられることで変化し、改造されるからである。ところが、血の実質は、特別なありかたをする霊的な実質である。 血の霊的実質も、本来は、ある限界まで達するように定められていた。 例えば、図8の(a)には、血液の実質といえる、純粋に精神(霊)的な形態の放出があり、(b)で、その力が使い果たされるものとイメージして欲しい。 さて、元々備わっていた傾向により、血液の霊的実質は、空間中に分散し、噴霧されるようにはなっていない。図8の境界(b)で、ごく僅かに物質になり、再び、血の霊的実質そのものの中、つまり精神(霊)的な存在の中に投げ返されるはずだった。 血液は、本当は、上記のようなものだった。もっと雑な表現をすれば、血は、いわば繊細で微かな表皮のような物質を形成する、つまり、物質になりかけの半物質(エクトプラズム)状態にまで至るはずだった。 血は、常に精神(霊)的な存在から、一瞬のうちに打ち出され、微小な物質として知覚可能な程度にまで物質化してから、再び精神(霊)的な存在へと逆転し、その中へと受け取られるべきものだった。 絶えず精神(霊)から、うち寄せてきては、また戻っていくような傾向を、本来の血はもっていた。血は、物質の中では、永遠の光の煌きのように神々に企図されていた。血は、本当は、全体として精神(霊)的存在であるように意図されていた。 もし人間が、地球進化の始めに、自我を、形態霊だけから受け取っていたなら、血は、上記のようなものになっていただろう。というのも、血が上記のようなものだったら、人間は、上記のような血での一瞬の点火により創り出される光の煌きのような半物質的な崩壊を通じて、自我を経験していたからである。 上記のような血の煌きの中で、人間は「私である」という自我を経験していただろう。本当の血は、人間が自我を知覚するための器官となるべきで、人間のもつ、唯一の感覚による知覚であったはずである。ルシファーの影響なしに全てが起こっていたなら、血以外の他の器官は存在せずに、人間は、神々の「支配する意志」と1つになって生きていただろう。 人間のために、神々が意図した唯一の感覚による知覚とは、次のようなものだった。 「血の霊的実質の外への一瞬の輝きと同時に、内への精神(霊)性への一瞬の反射の中で、自我が知覚されることである。色を見、音を聞き、味を知覚するかわりに、本当は『支配する意志』の中で生き、いわば、その中で泳ぐべきだった。」 人間のために、神々が意図したものは、人間が、純粋なイマジネーション、インスピレーション、インテュイションの存在として置かれている精神(霊)界から、地球上、もしくは、地上の周辺にいる、自分に所属する対象を見下ろし、「私は、あの対象の中にいる。」というように感じるのではなく、「私は、私に属する精神(霊)的な血が、下方の地上で、一瞬、物質になるのを見る、それから、私に向かって反射し、輝くなかに、私は、私を知覚する。」というように感じることだった。
2011年10月18日
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さて、前回述べた人間が放射(放出)する霊的実質全ては、一体どうなるのか? 人間から放射(放出)される全てを全体として考えてみれば、それは、実際、人間が物質界に対して行使する影響の総体となる。何故なら、人間が何をするにしても、放出する際には、運動を行うからで、つまり、骨格や筋肉システムを運動させることになる。 そればかりでなく、ただ横になって考えているときにも、インテュイション(神通力)的に知覚可能な霊的実質を放射している。要するに、人間は、いかなる活動に従事するときにも、活動により、この精神(霊)的な実質を物質界に送り出している。 以上のように、人間のなかの霊的実質は絶えず人間から物質界へと移行している。実際、もし、以上に述べたような放出プロセスが生じなかったら、地球が進化の終りに達したときには、その後に何も霊的実質が残らなくなってしまう。その後に何も残らず、ただ、粉々になった物質が塵のように宇宙空間へと散って行くだろう。 しかし人間を通じて、地球の物質的なプロセスから、何かが拾われ、救い出され、普遍的な宇宙の中で霊的実質として生き続ける。そして、それは、人間のなかのインテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)を通じて、生じる。 以上のように、人間は、物質界が自らを新しく構築するための根拠を与える。人間は、いわば物質界のために建築材料を提供する。この霊的実質こそ、地球の物質部分が死体のように引き裂かれ、打ち砕かれるときにも、地球全体の魂、もしくは全体の精神として生き続ける霊的存在のことである。 それは、個々の人間が、死の門を通過し、魂、もしくは精神(霊)的な本性が生き続けるのと同じである。人間は、個人的な魂を、死の門を超えても担っていくが、地球は、人間のイマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(神通力)から放出される霊的実質を、次の進化段階の木星紀へと担っていく。 人間の内にある、前回に述べた二種類の作用が、大いに異なっているのは、この点にある。感覚で知覚し、腺組織から分泌し、栄養摂取と消化を行う作用は、捨て去られる運命にあり、すなわち、時間的な存在で、消滅する存在である。 他方の作用の、神経や筋肉や骨が存在する結果として、生じる霊的実質は、地球に取り込まれることで、地球は存在し続けることができる。 さて、今、人間という存在全体において、大いなる謎として、眼前に立ちはだかるものへとやって来た。そして、それは、本当に謎であるが故に、人間の知性では把握できず、むしろ、魂により信じられ、その深みへと到達できる秘密である。 その秘密は完全なる真実である。 人間が、周囲に流出する霊的実質は、はっきりと2つに大別できる。1つは、宇宙の普遍的存在が、いわば依存するインテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)である。宇宙はそれらを受け取り、飲み込む。 2つ目は、宇宙が受け取らず、逆に拒否するインテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)である。宇宙の普遍的存在は、次のような言葉で表せるほど、その2つ目に対して、はっきりとした態度をとる。 「私は、人間が出した1つ目の(善なる)インテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)は利用できる。私は、それらを吸収し、木星へともたらす。」 しかし、宇宙に受け取られなかった(悪なる)インテュイション(神通力)、インスピレーション(霊聴力)、イマジネーション(霊視力)、つまり、宇宙の普遍的存在には拒絶され、受け取りを拒否された霊的実質が、2つ目のものである。 その2つ目のものは、宇宙のどこにも受け入れられずに放置され、宇宙の中に(精神的状態だが)とどまり続け、解体されない。以上のように、人間が放出するものは、2つに大別でき、宇宙が喜んで受け取るものと拒絶するものである。 宇宙は後者(2つ目のもの)を喜ばず、放置するので、そこに取り残される。 では、取り残された霊的実質は、どのくらい、そこにとどまるのか? (俗にいう浮遊霊のことか、仏教でいう執着心か) 放出した人間自身がやって来て、放置された霊的実質を破壊できる種類の流出を行い、自分で破壊できるような時が来るまでである。一般的に、宇宙が拒絶した霊的実質を流出した人間以外には、誰もそれを破壊できない。 ここに、カルマの働く仕組みの一端があり、カルマの働きの中で、宇宙が拒絶したイマジネーション(霊視力流出の霊的実質)、インスピレーション(霊聴力流出の霊的実質)、インテュイション(神通力流出の霊的実質)に再び自分で向き合わなければならない理由がある。 何故なら、宇宙が拒絶した、それらを自分で破壊し、消滅させなければならないからである。宇宙は、思考において正しく、厳正で、感情において美しく、道徳的に善良で健全な流出だけを受容する。宇宙は、それ以外の他全てを拒絶する。これこそ宇宙の大いなる秘密であり、謎である。 (要するに、善なる永遠の行為は、宇宙に受け取られ、次の地球の転生をつくるものに使われるが、善でない悪の行為は、宇宙に拒絶され、自らで処分しなければならない。環境に対するゴミ問題に置き換えて考えるとよいだろう。 悪の行為を行うと、その悪の行為を自らで破壊するまで転生を続けないといけないから、半永久的に天国にいけないで、彷徨う羽目になる。俗に悪霊が憑いてまわるが、自分で、正しい行為を行って、除霊するしかない。) 偽りの思考は何であろうと、醜い感情は何であろうと、悪徳は何であろうと、宇宙に拒絶されるので、拒絶された場所に、それ以上あるべきでないなら、人間が自分で、それらを消し去らなければならない。消し去るために必要とされる(善なる)思考、感情、意志、もしくは行いをもって為さなければならない。 宇宙に拒絶された霊的実質は、消し去られるまで、いつまでも、放出した当人の後についてくる。従って、宇宙が、人間とは全く無関係な自然法則から成り立つという主張、もしくは、人間とは中立的な自然法則により表現できるという主張が真実でないことがわかる。 人間の周りに広がる宇宙(感覚により知覚でき、理性により把握できるが)は、その中に全く別の力をもっている。宇宙は、悪徳、醜悪、偽りを激しく拒み、はねつけ、同時に、真実、善、美を、自分の中に受け入れる。 宇宙の力(道徳)による審判とは、定期的に下されるだけでなく、地球進化全体を通じても、作用し続ける。 (古代エジプトでは、最後の審判について、ヒエログラフに記載しているようである。最後の審判とは、人間の死後に行われる、当人の人生の善悪に対する審判である。 古代エジプトでは、人間の全行為が、心臓に記述されているものと考えられ、勿論、霊的な意味で、死後、人間から、心臓を取り出され、天秤にかけられ、天に召されるための翼の重さと比較されることが描写されている。 その審判を行うのが、太陽神ラーであり、心臓と翼を比較するために代筆をする時間の神トートである。時間の神トートは、人間のなかに心臓とともにいた神ともいえる。人間の思考、感情、意志を動かしていた本体なので、全てを記述しているわけである。 現代の裁判の弁護士ともいえる。古代エジプトでは、時間が、人間を支配していることが理解されていたといえるわけである。 最後の審判により、天国に召されるなら、問題はないが、大抵の人間は、罪を犯しているので、悪霊、つまり悪い霊的実質がついてまわるわけで、怪物に食べられることになり、その怪物を退治するため、つまりカルマを解消するために、再び転生しないといけないので、新しい肉体が必要になるわけで、それが伝承されて、ミイラになるわけである。 つまり、エジプト人がミイラをつくったのは、悪霊と戦い、カルマを解消するためであることが、シュタイナーの講義からわかる。ミイラとは、人間の肉体のことである。SF的に考えるなら、遺伝子操作をしていたとも考えられる。)
2011年10月17日
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感覚活動、腺分泌、そして消化活動のなかに遭遇するのは、霊的形態の分解プロセスの特別な表現そのものである。それらは、霊的な形態の破壊プロセス、もしくは、物質として現れる霊的形態の射出として、一般的に記述できる特別なプロセスである。 ところが、また神経の活動や筋肉の活動、そして骨の強さや働きとなると話は全く異なる。以前、骨格には、物質となったイマジネーション(霊視力)が存在し、筋肉には物質となったインスピレーション(霊聴力)が、そして神経には物質化されたインテュイション(神通力)が存在する事実を示した。 そして今、更に進んで、一般向けの人智学講演では、一部として記述できる真理について、より完全に記述できる段階にきた。 人間が、死の門を通過し、荼毘に付し、もしくはその他何らかの方法で徐々に、肉体が朽ち果てるとき、骨格はバラバラに崩壊する。しかし、骨格が物質的な意味で崩れ去るとき、イマジネーション(霊視力)が後に残り、イマジネーション自体は失われない。 イマジネーション(霊視力)は、人間が、死の門を通過し、カマロカ(欲界)、もしくはデーヴァ界(神界)に入るときにもなお、人間の本質の内にある霊的な実質の中に残る。充分に経験を積んだ秘儀参入者には、イマジネーション(霊視力)は、人間の骨格に似ているようには見えないが、あまり訓練を積んでいない秘儀参入者に作用させると、実際に、骨格と外観上の類似性をもつように見える。 (骸骨のように死者がみえるのは、低級の霊能者である。) 人間の死が骸骨のイメージで表現される事実が正当性をもつのは、以上の理由による。本当のイマジネーションのイメージは未体験だが、未体験故に、骸骨のイメージではなく、正しい超感覚的な認識に遡ることができる。 そして、このイマジネーション(霊視力)に、更に、物質的な意味で、筋肉が朽ち果てるとき後に残るインスピレーション(霊聴力)が結びつけられる。筋肉の後には、インスピレーション(霊聴力)が残る。 筋肉とは、実際、インスピレーション(霊聴力)の表現にすぎない。筋肉という物質の中に浸されたインスピレーション(霊聴力)なのである。人間が死の門を通過するとき、インスピレーション(霊聴力)が残る。それは大変興味深い事実である。 そしてまた、神経自体が崩壊プロセスを辿った際、崩壊した神経から死後に残されるのはインテュイション(神通力)である。以上全ては、アストラル体、およびエーテル体の実際の構成要素である。 人智学では、人間が、エーテル体を完全に放棄しないことが知られている。死の門を通過するとき、エーテル体からのエキス(精髄)を携えていくが、そのエキスが全てではない。エキスとは別のものを発見できる。 人間は、生涯を通じて、神経を携えていくが、この神経とは、インテュイション(神通力)が崩壊した物質に他ならない。人間が神経を担って、この世を生きるのは、神経が組み込まれている人体の場所において、インテュイション(神通力)が必ず存在し、その精神(霊)性を、外にむかって周囲に、絶えず一種のオーラのように放射するためである。 従って、死の門を通過するときに携えていくエキス(精髄)だけが問題になるのではなく、神経が崩壊するにつれ、外に向かって送り出されるインテュイション(神通力)についても考察しなければならない。人間の中では、常に崩壊プロセスが進行している。 人間は絶えず新たに造り直される必要がある。神経の場合は、特に、他のどの場所よりも耐久性を持つように対処されているにも関わらず、つくりなおされる。インテュイション(神通力)により唯一知覚可能な、絶えざる流出が、神経では起こっている。 従って、物質的な神経が細分化するに従い、精神(霊)的な実質(インテュイションにだけ知覚可能な実質)が、その場所から、絶えず放射されている、と言ってもよい。このことから、人間が、物質的な神経を使用する限り、つまり、神経を使い果たし、破壊する限り、物質現象界にとっても、意味をもつことがわかる。 人間は、実際、物質界にも大いに意味をもつ存在である。何故なら、人間から、いかなる種類のインテュイション(神通力)的に知覚可能な霊的な実質が流出するかは、どのように神経を使用するか、にかかっているからである。同様に、筋肉を使用するときにも、インスピレーション(霊聴力)によって知覚可能な霊的実質が流出する。 インスピレーション(霊聴力)により知覚可能な霊的実質の流出は、繊細な差異が無限に広がる運動の経過の中で、人々を絶えず物質界へと定着させる(この言葉では、不明瞭だが、他に適当な言葉がない)ような形で生じる。霊感を受容した霊的実質が、人間から物質界へと流出する。 そして骨から、イマジネーション(霊視)的に知覚できる霊的実質が流出する。骨には非常に興味深い事実が存在する。超感覚(霊)的な探求の結果を、過剰に供給するためではなく、本当に興味深い事実として、上記の意味をもう少し拡張させると、この骨の崩壊に伴う放出を通じて、人間が行く場所に、イマジネーション(霊視)により知覚可能な精神(霊)の像を後に残す。 人間が居た場所にはどこでも、非常に繊細な影絵のような像が後に残る。それらは、物質界の一般的なプロセスの中に受け取られるまでの間、霊視により知覚可能な像として、まるで個人の骨格から放たれた繊細な影絵のような像として、霊視的に存在する。 例えば、自分とは気が合わない人物が以前住んでいた部屋に入ったときに、時として感じる不愉快な気配は、このイマジネーション(霊視)的な像のためである。その気配は、概して、人間が残したイマジネーション(霊視力)による。 一種の影の像という形でも、人間は、出会う。別の人が部屋に残した影のような像により、落ち着かない気持ちになるほど不安を感じやすい人は、超感覚(霊)的な能力に関して、未開発であるとは言えない。超感覚(霊)的な能力を持つ人が進んでいるのは、他の人が本能的に感じ取るものを、イマジネーション(霊視)的な像として可視化できる点にある。
2011年10月14日
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これまでの講義での、色々込み入った考察の末に、物質をどのように図式化すべきか、また、物質をどのようなものとして考えるべきか、ということに対して、1つの概念を得た。物質とは、分解し、バラバラに崩壊した精神(霊)的な形態としてイメージすべきものである、ということを発見した。 続けて、人間が、いかに物質の存在性の中に囚われているか、つまり、分解し、分散した精神(霊)的な形態が、地上の人間の中に浸透し、人間の本性の霊的存在を満たした背景について語り、また全ての物質的な存在に関する究極的で本質的な事実、つまり、「楽園からの追放」として美しく表現されてきた事実について更なる考察を進めるように促した。 すなわち、「楽園からの追放」という事実により、人間が地上の物質に浸透されるようになったプロセスについて考察した。前回述べた事実を、単なる人間の思考や概念から辿るのではなく、少しでも、深い意味に立ち入りながら辿るなら、「人間とは、本当は、ある種の二重の存在である」、という考えを持つはずである。 以前、ルシファーの影響を通して、感覚による知覚が人間のなかに挿入された事実を、つまり、感覚からの様々な知覚を、地上の人間が受け取った事実を述べたときに指摘した事実を思い出して欲しい。 当初人間のために神々が意図した知覚は、本質的には、ルシファーの影響からの地球に属する感覚による知覚ではなく、そのなかに隠れている「支配する意志」との一種の密接な共生であった事実や、今日のような耳で聞き、目で見る等の感覚器官で知覚する過程が、ルシファーの直接的な影響によるものである、という事実を示した。 それから、もっと内面的なプロセス、例えば、腺組織からの分泌過程として、肉体の中に現れる涙等の排泄物質が、先に述べた人間の4つの構成体の間に見られる不整合を通じて生じた事実について示した。 そして最後に、栄養摂取や消化という人体における通常の日常の活動の起源を、エーテル体の活動に対するアストラル体の活動の卓越性(この卓越性もルシファーの影響によるが)に関連づけた。 以前の考察では、以上のような結論が得られた。 人間の中で生起する粗雑な物質過程(栄養摂取と消化、腺組織からの分泌、感覚による知覚)全てが、ルシファーの影響に帰す事実を見てきた。前回は、別の観点から、神経物質と呼べる霊の崩壊が、そして、筋肉の物質や骨の物質も、ルシファーの影響によるものである事実を示した。 では、人間における二重の存在性について、もう少し考察してみる。 (陽と陰で、陽が物質、陰が霊といえる。) これまで、感覚による知覚、腺組織の活動、そして有機的な新陳代謝過程全体が、ルシファーの影響による一方の作用であり、そしてまた、人間の神経や筋肉・骨格システムの存在そのものが同じくルシファーの影響による他方の作用である事実を見てきた。 以上の2つの作用をうける人間、つまり、感覚、腺、消化過程という一方の作用をもつ人間と、神経、筋肉、骨という他方の作用をもつ人間との間には、どのような関係があるのか? 人間の本性と密接に組み合わされ存在している、上記の2つの作用をうける人間には、いかなる宇宙的な使命が想定されているのか? 今、上記の疑問について熟考するなら、容易に(それほど神秘主義でなくとも)、次のような結論に到達するだろう。 すなわち「感覚や腺組織の活動、もしくは新陳代謝システムに関係する全作用が、常に変容し、過ぎ去った過去に属する」という結論である。 上記の作用を、ただ表面的に見るだけでも、それらの活動が、人間の中で演じられた後、消え去ってしまうものである、という事実を理解できる。感覚や腺組織、新陳代謝活動全ては、人間が過去として置き去りにしていく活動である。 上記の事実を心の中にはっきりと思い描いてみる。上述の有機的な活動が演じられる際に、永続的で、永遠の目的が達成されるわけではない。上述の過程が、人間を、人生の中に(物質的に)閉じこめているという事実に気づくには、周囲を少し見廻して、科学や毎日の生活が教える知識を学ぶだけでよい。 上述の観点から言えば、人間は栄養摂取や消化等のための単なる装置にすぎない。人間は、いつまでも変わることなく、ひたすら回転する車輪のようなものである。 様々な特別な食べ物や飲み物に対する繊細な感覚を、毎年、毎度、機会ある度に発達させることが、人間の本性を特別に一歩前進させる、というようにでも考えない限り、「食べて、消化する」という、いつまでも続く単調な作業が、人間の進化にわずかでも貢献するようにはとても思えない、という主張を認めるしかない。 栄養摂取や消化等の活動は、同じ方法で何度も繰り返される。人間である限り、栄養摂取と消化活動を繰り返し遂行しなければならないが、だからといって、そのために何か永遠に価値あるもの、そのような永遠の価値を夢想するような思想家をも想像することさえ困難である。 また、腺組織からの分泌も、それが起こった瞬間、その作業を果たし終える。そのような活動は、肉体の生命活動全体にとっては、それなりの重要性をもつが、だからといって、永遠の価値を持つわけではない。 また、感覚による知覚も同じである。何故なら、感覚の印象とは、やって来て、去って行くからである。ほんの2、3日前に受け取った感覚の印象が、いかに微かでぼんやりとしたものになっているかを、つまり、記憶が、現在の感覚による知覚の完全さと斬新さとは全く異なっているのを考えてみればよい。 感覚による知覚とは、それを直接経験し、観察するときには、しばしば非常に美しく、人生に喜びをもたらすこともあるが、永遠の価値を持つものではない、という事実を確かに認めざるを得ない。 恐らく、幼少期に受け取った感覚、もしくは、もう少し大きくなった子供のときに受け取った感覚の印象のなかで、そのときからそっくりそのまま失われずに継続して、いまでも同等の価値をもつものがあるだろうか? 当時、目や耳に入ってきた光景や音全ては、今どこにあるのか? 記憶とは本当に微かなものである! 感覚や腺組織、消化機能を持つ人間が、それらの活動の故に、永遠の価値を持つわけではない、という事実を熟慮するなら、以前、一般化した方法で表現した概念(この短い連続講義では、わずかに示せるだけだが)、すなわち、「崩壊し分散する(霊的)形態、分解し、分散し、噴霧される(霊的)形態についての概念」と、この活動を容易に結びつけることができる。 これらの活動の中に、崩壊した(霊的)形態が噴霧されるとき、つまり、粉砕された(霊的)形態、すなわち物質が、肉体の中に打ち込まれるとき、感覚による活動や腺分泌、すなわち新陳代謝活動が生じる。 このような事実から明らかなのは、これらの新陳代謝活動を通じて、崩壊し、分解する(霊的)形態、すなわち粉々に分解する霊的な形態が、新陳代謝活動と関係する、ということである。
2011年10月13日
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では、ルシファーの影響によって何が生じたのか? 崩壊し分裂する精神(つまり物質)が、いわばイマジネーション(霊視力)の中に噴出した! その結果、現在の物質現象世界に立つ人間の骨格システムができた。骨格システムとは、物質により隅々にまで満たされたイマジネーション(霊視力)の人間なのである。人間のなかの物質面は、高次の真の霊的な人間には属さない。 人間のなかの物質面は、ルシファーの影響を通して、もし、その影響がなければ、単なるイマジネーション(霊視力)であった人間のなかに打ち込まれた。このような発言は全く馬鹿げたものではないので、過去には、簡単に人間のなかを通り抜けることができた霊的な時代があった事実を思い描く必要がある。 その後、イマジネーション(霊視力)が寄り集まった上に、隅々まで、現在のような骨格をつくる物質で満たされてしまった。今日では、人間を通り抜けることはできずに、骨にぶつかってしまう。しかし、太古では、人間は霊的なので、透明で通過できたが、その後の時代になって、通り抜けられなくなった。 また、運動霊によって人間の中にもたらされた内面的な力等は、筋肉の物質により隅々まで満たされた。そして、インテュイション(神通力)として知覚される予定だった霊的な力等は、神経の物質で満たされた。 以上全ての物質(崩壊)力等を超えたときにはじめて、超感覚(霊)的な能力に到達できる。 例えば、人間のエーテル体はほとんどが超感覚(霊)世界に属する。今日の人間のエーテル体は、ほんの僅かな程度において物質に過ぎない。その物質とは、唯物論では、全く考慮の対象にもならないような種類の物質で、神経を構成する物質よりも、更に繊細な物質を生じさせるエーテルの非常に細かな噴射、もしくは噴霧として現れる。 (おそらく、気功のことだろう) 従って、現在の人間は、本当の人間の本性とは異なり、大変な粗雑化の過程を経てきた。というのも、もし、人間が神々の目的のなかで当初意図されていたような(霊的な)形態であれば、人間は骨など持っていなかったからである。 骨のかわりに、”イマジネーション(霊視化)された”超感覚(霊)的な骨格から構成される形態をもち、運動の道具として奉仕する筋肉ではなく、内面的な運動の道具として、超感覚(霊)的な実質をもっていただろう。ところが、現在の人間の運動には、至る所で筋肉が介入する。 運動霊により、人間に与えられた超感覚(霊)的な運動は、いまでは、筋肉の中の物理的な運動になってしまった。そして、叡知霊により与えられたインテュイション(神通力)は、人間の感覚器官をつくる神経になってしまった。神経は、インテュイション(神通力)の中に、いわば詰め込まれた。 (「神経」という言葉が、本来の神通力、つまり霊感、直観を彷彿とさせる。) 従って、解剖学の教科書のなかの、骨格の記述をみれば、次のような結論に至る。 骨格とは、元々は、純粋なイマジネーション(霊視力)として、神々に意図されていたものが、ルシファーとアーリマンの影響により、あまりにも粗雑化されたため、今日では、折れ、ヒビ割れする凝縮した硬い骨になった。 本来のイマジネーション(霊視力)は、現在のように硬く、堅固とした骨格となった! (硬い骨格となったため、アーリマンの重力の作用を受けるようになった。) しかしそれでも、物質現象世界には、いかなるイマジネーション(霊視)の世界の反映も見つけることができない、とはいえない! 骨格とは本当は何なのか?を知るなら、骨格の中にイマジネーション(霊視)の世界の表現を発見する。 (骨格は、霊界の象徴である。骸骨が、霊界や冥界のシンボルなのは、骨格の構造のなかに、霊界の意図が読み取れるからである。秘密結社が、骨格や骸骨をシンボルにするのは、霊界を読み解くという目的を意味しているからであろう。) 従って、人間の筋肉の絵を見るときには、次のような結論に達する。 人間が筋肉をもつとは、全く不自然な絵であり、人間の内面的真実を示すものではない。 そもそも、筋肉とは、「見る」ものではなく、本当は、精神(霊)的に「聞く」べきものである。 従って、現実には、事態は次のようになっている。 超感覚(霊)的な過程による音響のような律動的、波動的な本当の運動に全く属さない筋肉が混入した。従って、筋肉を除けば、視覚ではなく、音楽の流れる運動のように、聴覚で聞くべきものである。 人間のインスピレーション(霊聴力)は、本当は、「聞く」べきものである。そして、人間の筋肉として描くべき本当のものは、物質の中で硬直化したインスピレーション(霊聴力)なのである。 最後に、人間の神経へと到達した。人間の神経は、見るものでも、聞くものでもなく、本当は、唯一、全くの精神(霊)的な方法で知覚すべきものである。宇宙的な観点から言えば、本当は、純粋な精神性の中で唯一把握すべきものが、視覚という眼に見える形で存在するという事実の中には、完全な歪みが見られる。 神経とは、物質が注入された、いわば精神の鞘といえる。本当は、インテュイション(神通力)として知覚すべき神経を物質として眼前に見る。楽園からの追放とは、単に、次のことを意味している。 「人間は、元々は、精神(霊)界、つまり楽園にいたが、そこでは、イマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、及びインテュイション(神通力)から構成されていた。すなわち、人間は完全に超感覚(霊)的な存在だった。」 (イマジネーション「霊視力」、インスピレーション「霊聴力」、及びインテュイション「神通力」は、秘教学では、三種の神器といわれる。) 「そしてその後、人間は、ルシファーの影響を通じて、自ら引き起こした条件により、崩壊する精神、つまり物質が、自分の中へと侵入するのを許した。物質とは、人間自身を満たすものだが、本来の霊的な人間に属するものではない。 人間は、物質を、自身のなかに(いわば荷物として)担う。そして、物質を担うが故に、人間は、物質的な死を被らなくてはならない。実際、物質的な死その他多くの事象の原因が、人間が物質を担う点にある。」 (徳川家康が、人生とは、重き荷を背負って歩くものだ、というようなことを述べているが、そのまま、人生とは、物質という重き荷を背負って歩くものといえる。) 従って、人間は、精神(霊)的な状態から離脱したことで、物質として、つなぎ止めているルシファーたち(人間のエゴ)に対して勝利を収めるまでの間だけ、この物質的な状態のなかで生きざるをえない。何故なら、物質とは、絶えず分解し、粉々に崩壊する性質のものであり、本当は、骨格中の物質が、イマジネーション(霊視)の力により、つなぎ止められているだけにすぎないからである。 (イマジネーションの力に悪が混入し、物質がつなぎとめられているわけで、イマジネーションの力を純化し、真のものにすれば、そのまま悪である物質的な破壊力が消滅する。悪を背負って、善に転化すること。人体内の免疫現象に帰着できる。) 骨の破壊(物質)力が、骨の形成(霊)力を上回るようになると骨は生命を担うことができなくなる。 (重荷を背負いすぎると立てなくなるのと同じ。金持ちになればなるほど、精神が崩壊するわけである。というか、精神が崩壊するので、金持ちになる。 これは、自分で作り出さずに、金銭を払うことで、本来の能力を開発せずに怠け、怠惰になっているわけで、それが習慣化すると、楽して生活を求めるために、精神が腐敗し、堕落する。 それ故、キリストは、金持ちは、天国「神界」にはいけない、と述べた。この世に生まれたのは、能力を開発するためで、そのためには苦労がつきものなのである。使わない能力「創造力」は消滅する。) 筋肉や神経についても同じことがいえる。骨や筋肉や神経の中の物質が、イマジネーション(霊視力)、インスピレーション(霊聴力)、インテュイション(神通力)を圧倒する瞬間に、人間は、物質体を放棄しなければならない。 (人間が老いるということは、物質的に富みすぎて、創造力や形成力よりも、破壊力が増すことを意味する。要するに、現代風の言葉でいえば、脳が硬直するのである。) 物質力と、霊力との関係のなかに、物質的な死とルシファーの影響との関連がある。次回からは、これまで述べてきた事実に続いて、悪徳その他(病気等)がどのようにして、この世に存在するようになったのか、を示す。
2011年10月12日
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しかし、心の中に次のような疑問が湧いてくる。 ルシファーの影響による人間の構成体の不規則な関係から、ルシファーの影響が人間の中に入ってこなかったら、人間はどうなっていたのか、という疑問が生じる。 多くの異なる側面から、現在の人間となった事実を語ってきたが、上記の疑問との関連では、何が起きたのか? もし、ルシファーの影響がなければ、今日持つような神経を人間は持つことはなかった。 というのも、人間を構成する4つの構成体の不規則な結合を通じて、神経物質という特別な物質形態の獲得が生じるからである。もし、ルシファーの影響がなければ、人間は、神経と同様に、骨も筋肉も持つことはなかっただろう。 要するに、これまで、ルシファーの影響により、精神が注ぎ込まれた形態を通じて、様々な種類の物質が生じるのを見てきた。様々の物質(筋肉、神経等)は、いずれもルシファーの影響なしには存在し得なかった。 では、更に人間における物質的な側面とは一体何なのか? という疑問が生じる。 外界で遭遇するような人間とは、ルシファーの影響による結果である。何故なら、ルシファーの影響がなければ、今日の意味での神経も筋肉も骨もなかったからである。唯物主義では、ルシファーがつくった人間以上のものは記述できない。従って、唯物主義は、最も著しい程度において、ルシファーの弟子であり、それ以上のもの全てを拒絶する。 (ソクラテスの「無知の知」を単なる無知を知ることと曲解している現代人がいるが、ソクラテスが述べたのは、上記の、人間の知識では、神の創造には到達できないことを示したのである。なぜなら、人間の知識は、悪魔の産物であって、神のものではないからである。) では、次のような疑問を投げかける。 もし、人間が楽園にとどまっていたなら、どうなっていただろう? 次回、更に上記の疑問に対する探求を進めることができるように、比較的、易しい概念を用いて、もしルシファーの影響がなければ、人間がどうなっていたか、の簡単なスケッチをしてみる。もし、この影響がなければ、地球上における人間進化のなかに、形態霊の影響により生じるものがあった。 というのも、形態霊は、人間に働きかけてきた霊的なヒエラルキア(位階)に属する存在たちの中で、最後の存在だったからである。さて、この形態霊たちは、全く空間的でない、純粋に超感覚(霊)的な形態を創造した。その場合の人間は(非常に粗いスケッチだが)、外界をみる眼には見えず、どんな外界に対する感覚でも知覚できないものだった、と考えられる。 何故なら、純粋に魂(霊)的な形態は、外面的な感覚には知覚不可能だからである。その場合の人間は、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中で記述した内容と一致している。それは、イマジネーション(霊視)的な認識として述べられている内容と一致している。 人間とは、形態霊により創造された1つの「イマジネーション(霊視)」、つまり、外界をみる感覚的な性質とは無関係の、純粋に超感覚(霊)的なイマジネーション(霊視)的存在だった。 上記のような霊視的な人間の概略を、絵を用いて描くなら(以下の図5参照)、形態霊が、イマジネーション(霊視的)人間として創造したイマジネーション(霊視)的な図が得られる。しかし、同時にまた、以前に働きかけていたヒエラルキア(位階)存在の創造的な働きのなか、人間の中に存在し続けた力等にも浸透されていたはずである。 形態霊以前に浸透していた力等を、図の中に記述するが、はじめに、運動霊からの内面的な運動が、人間の中に残され、浸透されているように描く(図5の2)。運動霊による、内面的な運動は、著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の中で、「インスピレーション(霊聴)による認識」という言葉で記述した能力により現れる。 何故なら、人間の内面的運動は、唯一、インスピレーション(霊聴)として知覚できるからである。この事実は、第一に、イマジネーション(霊視力)から構成された完全な人間が過去に存在し、現在も存在しているはずである事実(図5の1)、そして、また第2に、内面的な運動、すなわちインスピレーション(霊聴力)を、人間がもつはずである事実(図5の2)を意味している。 そして、第3に、叡知霊が与えた力等が、インテュイション(神通力)なのだが、これはある意味、他の存在全てを満たす確かな内容となったものである。従って、上図(図5の3)に、インテュイション(神通力)、つまり、直接関係する神々(霊的存在たち)を記述しなければならない。 そして、第4に、人間全体を、宇宙から現出する存在として、また意志霊の働きによる結果として、卵の形をしたオーラに包まれた人間(図5の4)を見ることになる。 超感覚(霊)的な認識だけがアプローチできる内容により構成された人間の本来の超感覚(霊)的な性質とは、図5に記述したような存在だっただろう。空想のように思われるだろうが、図5のイメージが真の人間なのである。 象徴的に言えば、図5のイメージが、楽園にいる人間であり、今日の人間のように物質から成立しているのではなく、全体として超感覚(霊)的な本性を持つ人間である。 (とてものこと、人間の知識では到達できない内容だ! 図5をみてもわからない。しかし、瞑想等で、大きな光の球をみることはあるようだ。 人間の知識でも、遺伝子操作等で、神々の創造に到達できるような錯覚があるが、霊が分散する場所、つまり霊媒をかえているだけにすぎず、人間の間違った知識で、物質体を変えているので、その分、ハンデを背負うことになるだろう。 臓器移植問題等でも、生着しても、せいぜいもって5年だろう、5年間に、精神の向上がみられなければ臓器移植して生き永らえても、魂の能力の上で変わりはない。医学上の倫理的な問題については、ソクラテスの魂の配慮を重んじるべきである。 反省のないものに、何度機会を与えようとも、同じ結果に終わるばかりでなく、無駄な金銭と労力を費やすだけである。根本は、本人の意志、自主性の問題である。 自分に与えられた人生に、代替はきかない。自分の代わりに誰かに生きてもらうことは、自己否定になる。なぜ、臓器を失ってしまったかの反省が必要である。)
2011年10月11日
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更にもう1つ比較的難しい概念を提示しないといけない。その概念は、この講義のはじめに述べた概念に関連している。そのとき、魂や精神の中では、外面と内面を区別する必要があると述べた。さて、それは次のように空間的な次元と対比できる。 つまり、空間的な次元全て、実際、次元が存在する空間はどこでも、ある一点から広がるものとして捉えることができるが、その一点が「内面」であり、その他全ての空間が「外面」である、というように対比できる。 (数学的にいえば、多面構造体や、ファイバーバンドルのようなもので、曲率やテンソルを使って記述できる。) 2次元に対しては、直線は内面だが、その他全ては外面となる。従って、空間とは、精神がバラバラに分解することで、物質へと移行するときに、物質とともに存在するものである。 さて、次のような事柄に対する理解は究めて重要である。物質への精神の崩壊が次のように起こるものと想像できる。 「精神は、分裂と破壊をもたらす、いかなる種類の外的な障害物にもぶつかることなく、自ら壊れ、崩壊する。」 精神の破壊は、いわば無の中で生じるものと想像できる。もし、精神が、無の中へと崩壊していくなら、鉱物が生成する。従って、実際、はじめに精神自らが分解する。その時、鉱物が生じるが、宇宙では、生物は、混じり気のない無垢のままでは生じない。 次に、精神から、ある崩壊プロセスが生じ、既に準備されている世界に移行する場合を考える。例えば、無の中ではなく、既に分解し存在するエーテル体の中へと分解していく場合である。既に述べたように、精神が無の中へと展開していくなら、結果は鉱物となるが、既に分解し存在しているエーテル体の中に展開する場合もある。 その場合、既に精神が分解し、準備され、同時に存在する物質やエーテル体のなかへと、精神は分裂し、押し入る。精神は、「無垢」の世界ではなく、エーテル体の中で分解され、物質となる。この場合には植物が生じる。 さて以前、エーテル体への過度の異常な浸潤性について述べたことを覚えているだろう。アストラル体の過度のいわば、アストラル体がエーテル体を行き過ぎた浸潤性について霊視した。そして、アストラル体の過度のエーテル体への浸潤性は、人間に重く圧し掛かるルシファーの影響のせいであると述べた。 しかし、更に別の浸潤性を発見した。物質体の、エーテル体に対する卓越性も霊視した。実際には、こちらの方が先に霊視できた。 さて、しばらくの間、このように酷い形で組み合わされた人間の4つの構成体の間に発見できる関係、つまり、ルシファーの完全な影響による間違った結合に注目してみる。そのような関係から、物質が存在する場所では、肉体の卓越性により撹乱されたエーテル体と遭遇することになる。 つまり、精神は、単純に、あるがままのエーテル体の中へと分解し、分散していくのではなく、エーテル体とはいえ、物質により抑圧された条件にあるエーテル体の中に移行することになる。そのようなエーテル体の中に精神が移行するとき、神経物質が生じる。物質体により抑圧されたエーテル体の中に、精神が流入するときに(動物の)神経物質が生じる。 さて、今まで、三段階の物質について見てきた。第1に、感覚世界の中で遭遇する通常の鉱物、第2に、植物の中に遭遇する物質、第3に、人間と動物の生体の中に遭遇する物質だが、この第3の神経物質は、エーテル体と肉体の間に不規則性が存在することで生じる物質である。 宇宙の中に存在する多種多様の物質を生じさせる様々の条件を数え上げるなら、一体どれだけ必要か、一度考えて欲しい! 以前、ルシファーの影響により、多くの不規則性が生じることを見た。例えば、アストラル体が、エーテル体を超える不規則性と、その逆の場合を霊視した。この種のアストラル体とエーテル体の不規則性の中に精神が移行するとき、筋肉物質が生じる。 以上が、神経や筋肉を構成する物質が、他のいかなる物質とも比較できない、奇妙でユニークな外観を呈している理由である。神経物質も筋肉物質も、どちらの場合も、上記で述べたように複雑な形で物質が生じているからである。 例えば、熔けた金属を空気中に射出する場合と、水中に射出する場合や、また、しっかりと固まった物質中に射出する場合とでは異なる結果が得られる事実を考慮するなら、実際、精神が崩壊する際に、どのような現象が生じるか、を思い描くのに役立つだろう。 以上の場合と同様に、複雑な過程から様々な種類の物質が世界中に生じる。以上のように述べてきたのは、主に、これらの事実を根底から探求するには、日常から遙かに遠い、存在の深みへと降りていく必要性を示すためである。 例えば、物質の更なる深い根底へと導く条件について、つまり、自我が、利己性において、アストラル体を抑圧する場所で生じる不規則性について考えてみる。この条件の中に、精神が噴射され、分散していくと、結果として、骨を構成する物質が生じる。 以上全てからわかるように、結局のところ、精神から物質が生じるときに、どのような条件下で、精神が噴射され、移行するかにかかっている。いま述べたことを、たとえ個々の概念を、細部にわたって辿ることができなくても、注意しておいて欲しい。 以上の要点については理解できるだろうが、結局、分裂し、分散する精神としての物質が、いつどこで生じるかを理解しなければならない。分解する精神に抵抗する何かが既にある可能性もある。 つまり、様々な条件と抵抗が生じるのに従って、精神は、異なる物質の中へと噴射される。以上のようにして、様々の形状を持つ物質、つまり、神経や筋肉、植物などを構成する物質が生じる。
2011年10月07日
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アップルコンピュータの2人の創業者のダブルステーブの1人のジョブスが亡くなったのが、いま巷で話題である。ジョブスという名の通り、さぞ仕事人間だったのだろう。 私はアップルユーザーではないので、残念ながら、ジョブスの偉大さはあまり理解できないが、アップルコンピュータを全く使ったことがないわけではなく、学生時代に、論文を書くときに僅かながら、使ったことが思い出される。 当時は、まだワープロ全盛の時代で、当時ウインドウズはまだなく、ユニックス(UNIX)が研究機関にようやく導入された時代で、少なからず手書きの論文もあるなか、見栄えよく印刷して論文を出すのなら、数式の出力ができるソフトが必要とされた。 多くは、テフ(TEX)と呼ばれるソフトが多用されたが、文法を覚えるのが億劫であったため、アップルの数式エディター(マスタイプだったと思うが)は、ワープロ感覚で書け、非常に重宝した。だから、一時的な、にわかアップルフリークとはいえる。 当時の日本人の大半は、コンピューターは計算道具という認識が大きく、それはNECの98(キューハチ)の使い勝手の悪さを代弁しているようでもあった。またパソコンの値段も高価で、一般人の誰もがもてるようなものでもなかったし、パソコンを使いこなすだけの必要性もなかったようで、ほとんどゲーム機と化していたようだった。 当時の風潮からいえば、アップルのマウスによるヴィジュアライズされた操作は非常に画期的で、主にクリエイター関係の間で、使われていたようである。当時のアップルユーザーは、阪神ファンと似て、アップルを批判しようものなら、その十倍もの反論をうけることを覚悟しなければいけないほど、宗教がかっていた。 当時のアップルユーザーは、ユーザーというよりも、アップル信者というべきだった。だから、ジョブスは教祖のような存在だったのだろう。そのジョブスがアップルをやめて、ネクストをたちあげてから、アップルは衰退したが、再度ジョブスが入って、アップルは復活したわけで、もはやジョブズはアップルの代名詞ともいえる。だから、ジョブスを失ったアップルはやがてまもなく衰退するだろう。iPhone5が出せなかったのがその証拠である。 確かにアップル信者にとっては、ジョブスは神だったかもしれないが、コンピュータを扱う数理研究者にとっては、アップルの使いやすさはそれほどでもなく、ウルフマンのマセマティカ(数学ソフト)の方が、マセマティカ馬鹿を生み出すほど画期的だった。 全くアップル信者でない私にとってはアップルが興隆しようが衰退しようがどうでもいいことだが、ジョブスの秘密主義のせいで、ケチで有名なビルゲイツが、アップルをパクって、ウインドウズを出して、億万長者になったのは、非常に残念に思われる。 だから、ジョブスの秘密主義のせいで、地獄にいくケチな金持ちを増やしたことは間違いないだろうし、ジョブスは若くして世を去り、カリスマ化されたため神話化されるが、ビルゲイツは誰からも嫌われていくだろう。 嫌いなビルゲイツのつくったウインドウズを眼の前にして、これもまた嫌いなコンピューターを相手に日常生活を送りながら、世界をネットワークでつなげる一端に加担していかなければならない自分とは一体なんなのか、気がついてみれば、嫌いなものにすっかりと取り巻かれている環境が、いかにも不思議に思う今日この頃である。 嫌いなものに取り囲まれているからこそ、神秘の世界に思いを馳せていることが、その代償なのだろう。そうやって、人間はバランスをとるのだ!
2011年10月07日
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さて、では、形態霊の活動の更に先にある働き、すなわち、形態霊が創造する非空間の内面的な働きを超えた働きは、どのように表現できるのか? 意志、叡智、運動、形態を超えて、魂のなかの活動が更に先へと進むときに、何が起こるのか? それが問題である。もし宇宙のなかのあるプロセスが、形態形成にまで進み、その形態が全体としてまだ魂や精神の領域にあり、非空間にあるとき、つまり、このプロセスが、この超感覚的な形態形成にまで進んだときには、次の段階は、そのような形態の崩壊が生じる。 この形態崩壊は、超感覚(霊)的な認識で明らかになる現象と正確に一致する。形態霊の影響下で創造された形態は、ある程度まで発展するが、それから、バラバラに分解する。もし、この崩壊した形態に着目するなら、形態の崩壊を通じて生じるものは、まだ超感覚的な形態だが、その超感覚的な形態が、感覚的、空間的な物質へと移行する。 すなわち、崩壊し分解した不可視の形態が、物質なのである。 宇宙の中で生じる物質は、神秘主義者にとっては、破壊され、分裂し、粉々に崩壊した形態以上のものではない。もし、例えば、チョークが、実際、不可視の眼にみえないもので、この特徴的な六角柱構造(チョークの形は6種類ある)を想像しながら、金槌で、そのみえないチョークを多くの細かい破片に壊れるように上手に叩けば、眼にみえない形態を破壊したことになる。 チョーク http://www.aoikokuban.co.jp/know_chalk03.html 種類は「焼き石膏製」の円すい形、円柱形、六角すい形、六角柱形と「炭酸カルシウム製」の 円柱形と六角柱形の合計6種類。 みえない形態を、破壊する瞬間、見えるようになると想像できれば、物質の起源を描写できる。物質とは、形態にまで発展し崩壊した、バラバラに分解し内部崩壊した精神なのである。 物質とは、精神の廃墟である。この定義の把握は途方もなく重要である。従って、物質とは本当は精神なのだが、崩壊した精神なのである。 物質が崩壊した精神である事実を熟考する際、恐らく次のような疑問をもつ。 「もし、物質が崩壊した精神であるのなら、結晶のような美しい空間的な形態が現実にもあり、その結晶は、まさに美しい空間的形態だが、そのような物質も、『崩壊した精神』になるではないか。」 そのような疑問に対しては、下図により説明する。 例えば、水が滝になって落ちている様子を思い浮かべる(図3のa)。ただ、その様子は眼にみえない。次に、(b)に流れを妨げる障害物を(b)に置く。水が、(b)にぶつかると、水滴(c)となって砕け散る。 今、思い浮かべた滝は眼にはみえないが、砕け散った水滴は眼に見えるものと想像する。そうすれば、この粉々に飛び散る水滴の中に、物質の起源がイメージできる。しかし、下方(b)にある障害物を考慮に入れないようにすべきである。何故なら、障害物は、実際には存在しないからである。 もし、(b)の障害物が存在するなら、障害物自体が既に物質であると仮定する必要がある。従って、次のように考えるべきである。 (超弦理論のM理論のイメージと被る。滝が、超弦で、障害物が、D-ブレインという膜になる。ちなみに、腫瘍のできかたも、この精神崩壊に似ている。超弦理論を用いて、腫瘍の形成を記述できるかもしれない。) 物質はそのような障害物なしに(精神的に、つまり、超感覚的に)存在する。物質は、非空間の運動の中に存在する。非空間の運動のなかに形態をつくる行為がある。何故なら、運動は形態に先行するからである。従って、運動霊の行為に浸透されていないものはない。 この運動や形態は、終には、消耗し、内部崩壊する地点へと至る。物質の起源は、魂や霊的な流出現象として把握する必要があり、その原動力(エネルギー)には限りがある。魂や霊的形態は、いわば、そのエネルギーが尽きる水準にまで到達し、それ自身へと差し返され、崩壊し、断片へと分解する。 従って、物質のあるところはどこでも、次のような結論に達する。 「物質の背後には、活動の限界に達し、内部分裂した超感覚(霊)的な存在が横たわっている。しかし、分裂する前は、まだ内面的で、精神的な形態を保っていた。崩壊分裂後のその精神的な存在は、分裂し分散した廃墟の中でも働き続ける。」 精神的な存在の働きの強いところでは、分裂し、分散した後も、その精神的な形態の輪郭が継続し、形態が描く線の中に、精神的な形態の輪郭の名残を辿ることができる。その精神的形態のなかに結晶の起源がある。 結晶は、結晶自身の形成力により、精神的形態だった当初の方向性を、その後も保持し続けるが、ただ物質が出現する方向とは、正反対の方向性を持つ精神的な形態の再構成されたものなのである。 (精神的形態は、負のエネルギーに換算できる。) 以上に記述したのは、超感覚(霊)的な認識から、明らかになる水素(原子)についての究めて大凡の姿である。水素(原子)の起源は、無限の彼方から突進してきた光が消耗し、崩壊分裂し、流体のようになった物質である。 ただ、水素原子を記述するには、その線が自身を通り越し、そのためにその形態が保持されたかのように描かなければなりません。 (この描写は、量子力学の波動関数による水素原子の電子の基底状態の記述と酷似している。負のエネルギーによる、パウリの排他原理を2乗関数として正規化し用いた統計的記述である。) 超感覚的な観察者には水素は、上記のように見える。水素のなかには、宇宙の無限の彼方からやってきて、終にはバラバラに飛び散る眼にみえない不可視の光がある。要するに、物質は、破壊された精神と呼べる。 物質は本当に精神に他ならないが、分解状態にある精神なのである。
2011年10月06日
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あるブログによると、江戸っ子が宵越しの銭を残さなかったのは、火事が多発するためと、銀行のような貯蓄機関がなかったせいであるという理由が述べてあり、火事が多発しても、何度も復興を成し遂げたのは、江戸市民のエネルギーが残っていたからと精神論で締めくくってあったのだが、それでは官僚の書く非現実な優等生の机上の作文と変わりなく思え、どうにも納得がいかない。 第一、どこから、そのエネルギーがくるのかに言及していないのと、エネルギーがあっても、いかにも、銭がなければ絵に描いた餅だろう。エネルギーだけで復興できるのなら、東日本大震災だって、とうに復興できているはずである。 そこで、江戸っ子が、なぜ、宵越しの銭を残さないのか、のもっとましな理由を考えてみたい。日本人の貯蓄好きは、もはや世界的に有名である。 いまのような日本人の貯蓄好きな気質が江戸時代には果たしてなかったのだろうか? もし、現代で、江戸っ子のように、宵越しの銭を残さない生き方をしたら、どうなるだろう。高い税金を払える職にでも就かなければ、生活保護者になるしかない。 つまり、江戸っ子が嘘をついていなければ、逆説的にいって、江戸っ子が宵越しの銭を残すことを心配しなくてもいいほど、貯蓄せずに暮らしていけるほど、社会福祉が充実していたか、もしくは、江戸っ子は、裕福な暮らしを望まなかった、ということになる。 しかし、そもそも銭を使うことは、裕福な暮らしをしたいからで、江戸には、有名な吉原があった。つまり、江戸時代の庶民の金銭感覚を紐解かないとわからない。 江戸時代の資料は、明治維新のときに、ほとんどが焼かれたか、焼失してしまい、外国の資料しか残っていないらしく、それらの資料からは、日本の江戸時代ほど恵まれた生活はないと絶賛されていたらしい。 戦国期に宣教にきたザビエル、フロイスも、当時の日本人を絶賛していることから、現代からみた戦国期ですら、賛美されていたので、ひょっとすると、昔の日本の方が、福祉が充実していた可能性が高い。 ザビエル、フロイスらの宣教師は、有力な大名や、信長を利用して、布教の後ろ盾としたが、あまりにも仏教の浸透が凄まじかったので、一部を除き、豊臣、徳川政権の弾圧に遭い、結局、布教を断念してしまう羽目になる。 ザビエルの布教のエピソードに面白いものがある。 「布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を『大日』と訳して『大日を信じなさい』と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと『大日』の語をやめ、『デウス』というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は『デウス』と呼ばれることになる。」 人智学からいえば、デウスを「大日」と訳すのはあながち間違いとはいえない。デウスとは、英語のデイ、つまり「日」からきていて、実は、太陽のことである。 大日は、仏教の大日如来の意味だろうから、太陽神であり、キリストのことになる。つまり、間違っていたのはイエズス会であり、宣教師である。日本での布教が成功しないのも当然だろう。 さて、話を元に戻し、江戸時代の社会福祉を改めて考えてみる。 江戸っ子の宵越しの銭を残さないという気質が本当のものなら、江戸の暮らしは、ある程度、福祉が充実していたのではないか、と思う。 しかし、勝海舟などの伝記を読むと、幼少期に非常に貧乏したことが書いてあるから、福祉は充実していても、決して、暮らしが裕福とはいえなかったようである。どうやら、暮らしは貧乏だが、相互扶助がうまく機能していたので、ある程度、銭がなくても暮らしが成り立っていたのだろう。 つまり、江戸時代の人々は、裕福な生活を望まなかった、という精神性に負うところが大のようである。 この精神性をつくったのは、どうやら仏教なのではないか?と思う。 それはこのブログによく訪問していただいている忠武飛龍さまのコメントから推測したものである。仏教が、江戸時代の人々の復興精神を担っていたのではないか?と思う。 また、復興精神だけでなく、必要なときに、社会福祉への費用を出したのも、仏教の教団だったのではないか?と思う。 つまり、江戸時代の財政の一端を仏教が担っていたのではないか、早い話、現代の銀行業務のようなことを、仏教教団が行っていたのではないか?という推測に至ったのである。 だから、日本人であるなら、何某かの教団に属さなければいけないわけで、日頃から、寄付をして、何かあったときには、教団から財政支援してもらえる体制が整っていたのではないか?と思うのである。 それが現代に至り、形骸化して、宗教教団は、非課税になっているのではないか?という推測が生まれる。 例えば、戦国時代に、信長がキリスト教を支援したのは、他の有力大名の仏教に寄付した財政を揺るがすためなのではないか?とも思える。敵対する浅井、朝倉氏を滅ぼすために、背後の比叡山を焼き討ちしたのは、財政支援を絶つためだったのではないか、と思う。 それは、大名の長男は家督を継ぐが、次男以下は、他家に出されるか、坊主になるというしきたりにも現れているように思う。つまり、坊主になって、大名、つまり長男が寄付した財政を管理する役目を負うことを意味する。 有力大名の背後には、仏教教団があり、仏教教団を介して、財政等の社会福祉政策が行われるので、だから、日本の場合は、政教分離の原則が成立しない風土がある。 だから、この風土を逆手にとって、国家財政を再建するには、宗教団体に社会福祉費を捻出させるか、非課税をやめて、増税するのがよいのではないか、と思う。 そうすれば、江戸っ子のように、宵越しの銭は残さない生活が送れるのではないか、と思うのである。 キリストも、金持ちは天国にはいけないといっているわけで、教団が、金をもっていたら、教団全員が地獄行きになるわけである。 教団に寄付する人も、坊主が贅沢をするために、寄付しているわけではない。社会に役立てて欲しいために、寄付するのである。成仏するということは、自分の寄付した金が、多くの人々を救い、社会のためになるからに他ならない。
2011年10月05日
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では、この魂の拡張と収縮の中に何が生きているのか? もし、この魂の運動のなかに生きるものを少しでも考えてみるなら、真理に近づくことになる。その中には、感情、思考、意志が、全くの精神的な形で生きている。 それらは、まるで、運動の形態に沿って、滑らかに流動する水(液体)のようだが、全くの精神的存在である。 さて、魂の経験全体を実感するには、更にもう1つ別の性質が必要になる。魂の中に、思考、感情、意志が生きている、と言った。しかし、基本的には、思考よりも、意志の方が本質的である。 というのも、この魂の経験が、あるときには素早く働き、またあるときには緩慢に働く、という事実を考えてみるなら、その運動を与えるのが正に意志そのものである、という事実がわかるからである。 意志を刺激すれば、思考や感情よりも、魂に素早い働きを与えることができる。意志が怠惰なら、魂の経験全ては、ゆっくりと働く。すなわち、魂の経験を広げるためには、人間は、意志を必要とする。 従って、魂のなかには、順番に、第1に意志があり、次に、感情と思考のなかから生じる全て、つまり、魂の経験の中にある全てがあり、そして、この全てを、叡智として把握できるが、それから、魂の運動、つまり、拡張と収縮があり、そして運動の表現として現れる形態がある。 意志、叡智、運動、形態は、究めて正確に区別できる。これらは、魂の経験を織りなし、その中に生きている。 この連続講義が僅かの期間しか続けられない、というのはいかにも残念である。もし、長く続けられたら、意志を根底とし、叡智と運動と形態とを含む経過が、自身の魂の経験の中で生じている、という事実を正確に証明でき、かつもう少し充分に述べることができたはずである。 さて、以上に魂の経験として挙げた一連の内容が、人間より上位に位置する、異なる位階に属する霊的な存在(天使)のために順次に与えられた名前、つまり、意志霊、叡智霊、運動霊、形態霊というように、素晴らしい形で対応しているのが人智学からわかる。 人智学では、人間の魂の経験を、天使の位階で提示することで、これらの霊的な存在たちを、不意をついて、命名という一箇所に記述し、集約した。人智学は本当に、天使たちを、命名法のなかに捉えた。天使たちは、人間の内面的な魂の経験の中に、非常に奇妙な形で、つまり、全く非空間的な活動で、自らを表現する。 そして、たとえそれ以上のことがわからなくても、少なくとも、この重要な4つの位階の霊的存在たちの重要な性質に対する最初の概念、すなわち、天使たちは、空間的な存在ではない、という事実を確認できた。 以上のように、形態とは、非空間的な形成力を意味している、という事実を知った。この事実は非常に重要である。 従って、形態霊により創造された形態について語るなら、それは空間中の外的な形状ではなく、意識のみの存在で、魂の経験過程から把握できる内面的な形態形成を念頭に置いている。 あらゆるものが時間のなかで経過する。時間なしには、天使たちを想像することさえできない。先に描いた図は、物質にとっては、何の重要性もない。従って、天使たちを思い描くなら、魂の経験の中にとどまり、非空間的な時間的な形態として想像する必要がある。 意志霊は、現在の地球紀の前の土星紀上で、叡智霊は太陽紀上で、運動霊は月紀上で、形態霊は地球紀上で最初に現れた事実を考えるなら、形態霊の純粋に内面的な性格に着目する必要がある。形態霊によって人間は地球上で創造されたが、そのときはまだ、人間は、不可視の眼にみえない形態だった。 人間が誕生した当時は、不可視の形態だったことは、以前述べた聖書のなかの素晴らしい表現と一致する。人間の地上における進化のはじめに、形態霊により初めて与えられたのは、空間的な形(物質)ではなく、不可視の眼にみえない形だった。 そして、同時に、人間自身のみならず、外界の中で遭遇し、感覚から知覚できる全ての外的な事物もまた、内面的精神の外的な表現以上のものではなかった、ということを心にとどめておくべきである。空間中のあらゆる外面的な対象、もしくは物質の背後に、人間自身の魂の中に生きる存在と似た霊的な存在を見るべきである。 ただ、勿論、物質の背後にある霊的存在に対して、外的な感覚では遭遇できない。それらは、外的な感覚が提供する認識の背後にある。
2011年10月04日
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例えば、眼の前のチョークが、「ある思い」を駆り立てる場合を考えてみる。その時、もし、チョーク以外の他全てを排除し、チョークだけを知覚することで刺激された「思い」に没頭するなら、自身の最奥の存在は、そのチョークの「思い」と1つになる。 このチョークの「思い」を把握するときに、突然、昨日見たチョークを思い出す。直接的な知覚により与えられたチョークの「思い」を、昨日経験したチョークと比較すると、今日観察したチョークと自分は完全に1つだが、昨日のチョークを自分とは同一視できない、ということに気づく。 後者は記憶像であり、いつまでも、記憶像としてとどまる。今日のチョークとは本当に1つになったが、昨日のチョークは、外的な事物となった。今日観察されたチョークは、今日の自分の内的な存在と同一視できるが、記憶像は、後に振り返ってみるもので、前者と比べると客観的で外的な存在である。 そして、以上のことは、現在の経験を除き、人間が魂の中で経験する全てについて言える。現在という「時間」はさしあたり、人間のなかで内的な存在になっているが、経験した過去、つまり、いわば脱ぎ捨てた過去全ては、既に人間の外にある。 以上のプロセスについて、イメージするなら、「思い」を抱く現在は、例えば、蛇に喩えられ、外に出した過去は、脱ぎ捨てられた蛇の皮に喩えられる。そして、蛇が2度3度と脱皮するように、幾らでも多くの思考を脱ぎ捨てることができる。 (お釈迦さまも似たようなことを述べている。) 脱ぎ捨てた思考は、今現在の内面性に比べると外的な事象になっている。そのような思考のプロセスは、記憶を辿ることができる時点からずっと、当初は、内的な存在であった思考を、絶えず外的な思考にしてきた作業を意味している。 例えば、今、もっているチョークの思いを、次の瞬間には、本当に、外的な事物にしてしまう。そして、自分自身は、何か別の対象に移っていく。つまり、人間は、絶えざる外面化の過程に従事している。人間は、永遠に自分の内で何かを創造し、そして、それを過去へと置き去りにする。 人間がもつ最奥の存在は、脱ぎ捨てられた皮のように、直ちに外的な事物になる。人間の魂の活動は、内面を絶えず外面にするため、自身というなかの精神的な過程の中で、真に最奥にある内面と外面とを区別できるという事実から成り立っている。 常に、魂は、自身の存在のなかにいるが、そこでは2つの面、すなわち第1に、真の内面、第2に、外面化された内面を区別しなければならない。 さて、この魂の区別の過程、つまり内面の外面化により達成される過程こそ、実際に魂の経験内容を与えるものである。何故なら、この内容を熟考するなら、自分が思い出せる幼児期の最初から経験してきた全てを自分の魂と呼べる、と理解できるからである。 自分の経験全てを忘れてしまった人は、実際、自分の自我を失ってしまう。 (経験内容を忘れると、認知症になる。) 従って、記憶を後にしながら、それでも、記憶を絶えず脱ぎ捨てられた皮のように保持できるという事実の中や、その可能性の中に、魂の経験の現実性が横たわっている。 さて、この魂の経験の現実性は、あらゆる形で形成されている。では、魂が、ある瞬間には、その他の瞬間とは、いかに異なって形成されるか、を観察してみる。例えば、美しい星空の夜に出かけ、ベートーベンの交響曲を聴きにいったとする。 そのような瞬間に、広大にひろがる魂の経験領域を、自分の内面と一致させる。星空の下から暗い部屋の中に足を踏み入れるとき、この広大な魂の経験領域は、突然縮んでしまったかのようになる。そのときには、2,3の思いがあるだけである。 交響曲を聞き終わり、魂の経験領域は、交響曲の思いに、縮小してしまう。そして、家に帰って眠るとき、魂の経験は、朝起きて、自分を、まるで鳥が羽毛を立てるように広げるまで、収縮している。以上のように絶えず魂の経験を再構築している。 もし、魂の経験内容を描写するなら(本来描けるのは空間であって、時間ではないので、象徴的に描くという意味である)、多くの異なった形に描くことができる。 以下の図において、魂の経験は、(a)では縮み、(b)で広がる。魂の経験はありとあらゆる形を取ることを想定する必要がある。(c)には常に魂の経験内容がある。 (上図では、「運動形態」としたが、原文では、「形態」である。「運動」による「形態」と考えてほしい。) 上図のように不可視の魂を可視化し、象徴的に表すことで、魂の収縮と拡張に気づく。魂の経験は、交響曲を聴いているときの方が、単調な音を聞いているときよりも豊かとなる。そのように魂の経験内容は、外に向けて広がり、そしてまた内に引きこもる、つまり、拡張し収縮する、といえる。 (量子力学のヒルベルト空間を用いた観測論にも似ている。) ただ、魂をこのように表現するときには、いかなる空間的な性質も混入することは許されない。この拡張と収縮の間に、あるものが疑いなく存在する。そのあるものとは、内面的な精神の働きである。 内面の精神的な働き! すなわち、魂の経験内容とは、この運動なのである。 ただ、運動といっても、空間中での運動ではなく、時間のなかでの運動を考える必要がある。そして、この拡張と収縮が、形態を与える。 以上のように、魂の運動と、その外的な表現としての形態が存在する。しかし、空間的な形があるわけではない。この形態とは、空間上ではなく、拡張し、収縮する魂の時間的な性質を意味している。
2011年10月03日
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