全22件 (22件中 1-22件目)
1
演劇(後半) シェークスピアの時代の演技で、現代の新しい書き割り(舞台背景画)や照明の下に芝居を演じるなら、一般の観客は、既に現代の芝居に馴れ親しんでいるので、例えば、母親に連れられ、初めて芝居見物にきた16歳の少女だったら、シェークスピアのような演技をする役者の最初の科白を聞いただけで、次のような疑問を言うだろう。 「お母さん、どうしてあんなに叫んでいるの。」 実際、シェークスピア風の芝居は、叫び声で成立しているかのようである。酷く耳障りな叫び声である。しかし、耳障りな演技は、当時には必要だった。 今日の舞台ではなく、当時の素朴な舞台設定の中なら、耳障りな叫び声により、完成された演劇が可能となった。 上記の事実に反し、現代風の書き割りや照明を用いた舞台なら、科白だけでなく、内面的な態度においても、役者は、声のトーンを落とす必要がある。激しい耳障りな言葉の表現は避けるべきである。 役者は上記のような事柄を直接感じとる必要がある。感じとる中に、役者の芸術的能力、内なる芸術性が現れる。そして、正に、この感受のなかに、役者の秘儀参入法(神秘性)が見つけられる。 この感覚を血肉化して、何度でも、心の中に甦らせることができなければならない。繰り返しできたとき、瞑想法による秘儀参入を可能にするのと同じ方法で、この能力を次第に育てていくことが可能になる。 役者も人間なので、別の瞑想法も行うこともできるが、役者の瞑想法は、舞台上でなされるのが望ましい。演劇の上で秘儀参入を果たせば、日常生活上のあらゆる事柄に対しても、益々関心が広く、深くなっていくからである。そして、舞台が優れた役者を育てるからである。 人生における日常生活のどんな些細な事柄に対しても最大限に関心を寄せることができなければ、優れた役者にはなれない。 例えば、ハリネズミのおどけた姿を見て、一般人以上に関心を示せる人でなければ、良い役者とはいえない。 「あのとき、あの若い役人がどんな笑い方をしたか」を、私はよく覚えている。そのように、心から言える人でなければ、良い役者とはいえない。 また、化粧を落として、劇場から外に出た後で、色々奇妙な夢を見て、時には魘されるようでなければ、良い役者とはいえない。役者は家へ帰るとき、或いは舞台が退けた後で、例えばレストランなどに行くとき、色々な想念の中から次のような想いが生じなければならない。 「あの科白を語ったとき、脇の桟敷席で意地悪そうな女が柄つき眼鏡で、品定めするように、ジロジロ見ていたが、今思い出しても胸糞が悪くなる。」 「あの一番深刻な場面で、最上階の後方に座っていた女の子が、誰かにつねられてクスクス笑いをしていた。癪に障る!」 舞台上では、以上のことは、何1つ意識しなかったが、家へ帰って、椅子にゆったりと座り、本などを取り上げるとき、開いたページの上に、突然はっきりと、例えば「レミギウス・ノイトイフェル酒店」という字などが現れることがある。 大抵の人なら、以上のような経験があるだろう。はっきりと現れることはなくても、そのような経験があるだろう。道を歩いているときには何も見えなかったのに、後で、突然「レミギウス・ノイトイフェル酒店」という文字が現れる。 後になって、それが帰り道に見かけた商店の看板の文字であったことに気がつく。しかし、その通り道を通ったときには、その看板を見たことを意識しなかった。 もし、霊媒であったら、例えば、シュレンク・ノッチング教授の実験の対象にされたら、特定の皮膚の表面などに、「レミギウス・ノイトイフェル酒店」という文字を現出させただろう。 以上のような現象は決してまやかしなどではないが、皮膚上に現れるのは霊媒の場合で、普通の人間の場合には、開かれた本のページの上に、微かな幻影として現れる。その文字が無意識の中に存在していたからである。 心療内科医や心理学者のような専門家でない限り、通常は、上記のような事柄に注意を払うことはないが、芸術においては、上記のような異常な魂の法則をとり上げる必要がある。 優れた役者なら、舞台が終わった後で、脇の桟敷席にいた意地悪そうな女が、柄つき眼鏡でジロジロ自分を眺めていたことを思い出し、まるで悪夢に悩まされるような思いに囚われるようになる必要がある。 舞台上では気づかなくても、その意地悪そうな女の灰色のような眼や眉根をよせた表情や乱れた髪や眼鏡の柄を掴む強張った指が、はっきりと思い出され、悪夢のように立ち現れる。 以上のことは、役者が周囲を客観的に見、役を演じている間も、現実の中に生き、通常は注意する必要のない細部の事柄をも、舞台上で体験していたことを示している。 自分の演じる役に全て意識を集中しているにも関わらず、益々、無意識な領域が、全ての細部を鋭く観察していたことになる。 このような事実を、「舞台俳優の神秘的な秘密」と、私(シュタイナー)は名づけたが、舞台の幕が下り、劇場から日常生活に再び戻ったときに、今述べた無意識の働きが現れ、歪んだ思い出や、時には素敵な思い出が甦ってくることがある。 あるとき、素晴らしい体験をした。俳優のカインツが、舞台が終った後、悪夢にとりつかれながら、パーティに加わった。そのパーティで、あるロシアの女流詩人と出会った。この女性が好きになった彼は、それからはいつも彼女と一緒に、部屋に戻っていったり、舞台の後の悪夢を抱きながら、彼女と一緒に芸術家仲間のパーティに加わったりした。 その様子を見るのは、とても素敵だった。彼は大っぴらに振舞い。だから当然、周囲の噂の種になった。しかし実際は、周囲の噂を無視することで、彼は、舞台上で無意識に体験した事柄を、活き活きと甦らせたのである。 カインツは、平気で観客を軽蔑するタイプの役者の一人だった。合理主義によっては理解しにくい、このような特質こそ、演劇の本質を理解させてくれる。他の芸術と同様、演劇もまた想像力とイメージと霊視を通してはじめて、本質に迫ることができる。 演劇学校に、芸術的でない人物を講師として招くことがよくないのは、以上の点からも明らかである。そもそも、いかなる芸術も、主知主義や合理主義を受け入れることはできない。過去に何度も経験してきたことだが、文学史専攻の大学教授を演劇学校のような芸術学校の講師として招くときは最悪の結果になる。 演劇学校の中で必要な事柄は、芸術的なものによって、真に支えられる必要がある。人生全体で、芸術を生きれる人だけが、芸術について芸術を語ることができる。 (芸術家は、人生全てが芸術でなければならないということなのだろう。)
2011年03月31日
コメント(0)
「舞台芸術のエソテリズム(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 演劇(前半) 役者が特に大切にすべきことは、夢に対する特別な感受性を育てることである。 「夢の中に生きる訓練を積み、夢の中に現れる様々な形姿を想起して、夢の体験が次第に明確に意識できるようになるほど、舞台上でよい演技ができるようになる。」 上記は舞台芸術のための公理である。実際、上記の態度により、表面的ではなく、芸術的に自分の様式を確立できるようになる。 役者にとっての深い神秘性が始まる。夢の世界を理解し、進んで参入できれば、これまで十分に深く体験することのなかった日常生活上の営みの微妙な相違がわかってくる。これまでの日常生活の慌しさの中で感じられてきた事柄が別様に体験できるようになる。 例えば、5時にお茶をすることを考えてみる。その時間に、恭しげな式部官がワザとらしく冗談を語るときや、例えば女流舞踊家ミュラー女史が優美な振る舞いを示すときや、お茶に呼ばれても、普段は滅多に顔を見せない堅苦しい教授が、まるで義務でもあるかのように口ごもりながら、お世辞を言う場合とでは、内なる魂の在り様が異なることは明らかである。 上記のような日常生活上の様々な営みは、孤独の中で夢の体験を想起する場合とは異なった経験を示している。今は極端な例を挙げたが、上記のような経験上の微妙な相違を感じ取る必要がある。 日常生活の中で体験する1つの経験内容の意味を、内的に生き生きと感じ取れるようになる必要がある。まるで夢のように淡く現れる内密な生活体験の中に、完全に身を委ね、そのときの内なる魂の経過を、心を集中させて感じ取る必要がある。 以上のように、日常生活の慌しさの中に埋没している状態や、孤独な時間の中で夢を体験するときでも、その内なる魂の経過を、いわば神秘学的な修行の中で辿りなおすことは、舞台上での生き生きとした表現のための準備となる。 実際、舞台上である役割を生き生きと演じることができるためには、予め混沌とした日常生活の中での経験を生々しく把握する必要がある。以上のように、舞台上の役割を演じる準備をはじめ、益々、その役割を魂の中に深めていき、最後には自分の見た夢と同じくらいの身近さで、その役割を感じ取れるようにすべきである。 勿論、以上のことは全て、遙か彼方にある目標だが、その目標に向かって歩むことはできるはずである。 また、以上の準備に、正しい言語表現を結びつける必要がある。夢に見ることができるほどにまで、演劇上の役割や身近な関係を結ぶ一方で、曖昧な輪郭の中に、個々の台詞を融合させ、色彩豊かな言葉の響きの中で個々の役割や演劇全体を1つのものとして感じさせる必要がある。 夢が与えるイメージ全体の中に、個々の台詞が、融けこみ、まるで当然のように、言語から、上述したような方法で、表現が作り出される。以上の2つの方法を準備段階で並行して進ませる際に、個々の役割が生かされてくる。 従って、以上の意味で、役者や音楽家や歌手は、各々の自分の芸術への理解を通じて、共同で舞台芸術のために働くことができる。極端なことを言えば、ピアニストも眠りながら曲を演奏できる段階にまで到達すべきである。そのような段階にまで、当たり前に演奏できるようになる。 同時に芸術家は、自らの芸術を通じて、「天にまで高く歓声をあげたり、逆に死んだように、落ち込んだり」することもできなければならない。 とはいえ、「天にまで高く歓声をあげる」ことで、(「死んだように落ち込む」方はできるだけ避けるのが普通だが)、益々、頭でっかちになってはいけない。明白な意識をもって、自らを客観視できていなければならない。 以上述べたことは、現代の役者が意識して訓練すべきことである。シェークスピアの時代の役者たちは、以上のことを本能的に行っていた。なぜなら、当時の役者はイメージ豊かなファンタジーを持っていたからである。 この事実は、シェークスピアの台詞のつくりかたを見ればわかる。彼は、鮮明な夢の体験と同時に優れた言語形成力も共に持っていた。彼の作品を見ればわかるが、彼は、舞台上の左右や前後全ての役者の魂の体験を、台詞を通して表現できた。 彼は特別信じられないような感受性を発揮し、台詞で表現した。当時の舞台は、居酒屋を多少造り変えた程度の粗末なものだったが、その舞台で演じられる全てに対して、信じられないような感受性を発揮していた。 実際、シェークスピアは居酒屋の事情に精通していた。彼は、巷の畸人変人たちが信じているような「全くの孤独な男」などではなかった。彼は庶民生活に通じ、その経験をもとにして役者を舞台に登場させ、自らも舞台に登場した。
2011年03月30日
コメント(0)
サーンキヤ哲学においては、ヴェーダとは事情が異なる。伝承されたサーンキヤ哲学が最初に登場したとき、この哲学には一元説とは正反対だった。もし、サーンキヤ哲学を比較するなら、ライプニッツ(6)の哲学と比較できる。6)ライプニッツ:Gottfried Wilhelm Leibniz 1646-1716 1714年のフランス語による小論(原文は無題)である『単子論(モナドロジー』を参照のこと。 サーンキヤ哲学は多元論的な哲学である。人間に向かって現われる1つ1つの人間の魂や神々の魂は、サーンキヤ哲学においては一元的な起源まで追求されずに、個々の永遠によって成り立つ魂として、少なくとも、出発点は一元性には求められない魂として受容される。 魂の多元論がサーンキヤ哲学において現われてくる。個々の魂1つ1つの独立性が特に強調され、個々の魂は宇宙において、個の存在と本質のなかに完結して進化する。 魂の多元論に言及しているのは、サーンキヤ哲学における、プラクリティ性と呼ばれるものである。これを現代の物質という言葉で現わすことはできない。この言葉は唯物論的な意味を持つからである。 しかしサーンキヤ哲学においては、プラクリティは実質的な存在という意味ではなく、魂の多元性に相応し、同時に一元性に帰せられない。 サーンキヤ学派 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE 第1に魂の多元性が存在し、超物質的な基盤とも呼べ、宇宙を空間的、時間的に貫いて流れる源流(座標)が存在し、魂は、そこから外的に存在するための要素を取り出す。魂は、この超物質的な要素をまとう必要があるが、この要素は、魂の一元性に還元されることはない。 (魂をエネルギー、プラクリティを3次元空間とし、エレメントを空間内の座標と考えると理解できる。) サーンキヤ哲学を詳細に研究すれば、主として現われてくるのは、超物質的なプラクリティ性である。サーンキヤ哲学では、魂の個別性に関してはあまり言及していない。個々の魂は、現実に存在する物質的な基盤と絡み合いながら結びつき、物質的な基盤内部で様々なプラクリティ性を獲得することで、魂自らを、様々な形態として外に向かって表出する。 魂は、まるで個々の存在であるかのように、永遠性から派生した基本的な多元性のプラクリティ性を身にまとう。この基本的な超物質的要素のなかに、魂が表現される。この基本的な要素の多様性により、魂は様々な形態をとる。以上のような超物質的な形態の研究が、特にサーンキヤ哲学において現われてくる内容である。 この超物質的要素の、いわゆる原初的な形態は、魂が最初に沈潜する一種の霊的な源流のように現われる。人類の進化の最初期に注目すると、この超物質的な要素が、いわば分化していない源流から得られ、更なる進化を遂げるために魂が沈潜してゆくべき多元的な源流を獲得できる。 つまり、多様的な形態として現われてくる最初の表出は、一元性に派生しない多元的な源流であり、進化の出発点にある霊的な実質である。 更にサーンキア哲学に登場するのは、魂が個的に身にまとうことのできる第2の多元的な源流のブッディ[Buddhi]である。 ブッディという多元的な源流の霊的実質をまとった魂を考えるとき、その魂の表出には、多元的に波打ち遍くブッディとしての源流が、多元的な基本的要素と同時に存在する。魂が、最初の多元的に波打ち遍く基本的要素の源流を越えると、第2に生じるブッディに包み込まれる。 魂は第3の形態をとることで、益々個的になることができるが、この第3の存在はアハムカーラ[Ahamkara]である。 アハムカーラは、多元的な超物質的な基本的プラクリティであるウルマテリエ[Urmaterie](原物質)が、更に一層低次に形成されたものである。つまり、プラクリティである原物質、その次の第2の形態であるブッディ、そして更に第3の形態であるアハムカーラがある。 第4の形態は、マナス、また第5の形態は感覚器官、そして、第6の形態は、精微な身体(微細身)、そして最後の第7の形態が、周囲にある物質的要素である。 以上のように、サーンキヤ哲学による意味づけを展開できる。上位には霊的な源流の超感覚的要素があり、この要素が次第に濃密化していくことで、周囲の粗雑な物質的要素となる。人間の粗雑な肉体も、物質的要素から構築されるが、この物質的要素のなかにある超感覚的要素に至る。 その中間にあるのは、例えば、感覚器官を構成する実質で、エーテル体、もしくは生命体を構成する精微な身体(微細身)である。(要するに、人間は宇宙と同じような階層構造をなしているというわけである。学術的にはフラクタル構造で、簡単にいえばタマネギやレタス、キャベツ構造である。ロシアの玩具のマトリーシカである。) サーンキヤ哲学の意味では、上記の7つの形態は、全て魂の覆い(衣服)である。既に最初の超物質的な源流に由来する霊的実質すら、魂の覆い(衣服)にすぎない。 魂は、超物質的なプラクリティの内部にある。サーンキヤ哲学者が、ブッディ、アハムカーラ、マナス、感覚体、微細身、粗雑な物質的要素を研究するとき、それらは、魂が自らを現わす、一層粗雑な覆い(衣服)のこと、いわば、魂が演じる舞台なのである。
2011年03月29日
コメント(0)
「無題 高橋 巖:訳」の意訳 大天使 人智学者個人のカルマにとって特別に意味があるのは、ミカエル衝動が深く、そして集中的に働きかけるようになることである。既に何度も述べたように、ミカエルは19世紀の70年代末に地球の時代霊としての働きを始めた。 その前はガブリエルの支配する時代だった。この支配は身体の遺伝力と関係があった。ガブリエルの衝動は人間の肉(物質)体に深く働きかけるが、ミカエルは人間の霊(精神)体に深く働きかける。ミカエルが宇宙の叡智の管理者であることを考えれば、この事実は理解できる。 しかし、ミカエルの衝動は強力である。その働きは霊(精神)体(自我)から人間全体に及ぶ。ミカエルの力は人間の霊的部分(精神)に働きかけ、霊から魂に働きかけ、エーテル体-肉体にまで働きを及ぼす。 この超地上(天)的な力は、カルマ的な関連の中に常に働いている。高次のヒエラルキア存在(天使)たちは、人間と共に、人間の傍らで働くことで、カルマを形成する。 従って、ミカエルの力は人間全体に働きかけ、第一に、人間のカルマに特別深く働きかける力でもある。ガブリエルの力は人間の本質的なカルマに、全くとはいわないが、比較的わずかしか働きかけない。 ミカエルの力は人間のカルマに深く働きかける。集中力をもって人智学運動の中心に立っている人は、20世紀末に再来(転生)する。そのとき、他の人たちと結び合うだろう。多くの人との絆によって、地球を、地球文明を、崩壊から最終的に救済しなければならないからである。 以上が、或る面では心に重圧を加え、他の面では心を高揚させる人智学運動の使命なのである。この使命に眼を向けなければならない。 従って、以上のような立場にいる人智学者は、他の人たちよりもカルマを厳しく体験する必要がある。人智学協会の参加者は、先ずカルマを他人よりも厳しく体験するように定められている。もしこの厳しい体験の傍らを素通りし、自分のカルマを安易に体験しようとするなら、カルマはどこかで復讐する。 人智学者はカルマの体験においても人智学者でなければならない。カルマを安易に体験しようとすれば、カルマは身体上の病気となって、身体上の災難となって報復する。人生のこの微妙な関係に眼を向け、微妙な関係を通して別の事実も見えてくる。この微妙な関係を洞察することが、本当に霊的な洞察力を獲得するための準備となる。
2011年03月25日
コメント(0)
ヴェーダ哲学を理解するなら、第1に、次のような事実を魂の前にとどめておく必要がある。 「ヴェーダ哲学の出発点は、人間自身のなかの本質的な自我で、自我は究めて深遠な(神的)存在であり、人間が通常の生活において、第1に把握するものは、この自我の一種の表現、もしくは刻印であり、本質的な自我の深遠さ(神的存在)を、魂の奥底から、次第に引き出してくることが自らを展開させる、という事実である。」 ヴェーダ哲学の説く高次の自我は、人間のなかで、まるで微睡むかのように安らいでいる、この高次の自我は、現代人が、直接知り得る存在ではないが、人間のなかで働いているものであり、この高次の自我の完成を目指して、人間は進化していく。 ヴェーダ哲学によれば、いつか人間が、自らのなかの高次の自我として生きる神的な存在に到達した暁には、この高次の自我は、あまねく全てを包括する宇宙の自我と1つとなり、この高次の自我とともに、全てを包括する宇宙の自我のなかに、完全に安らぐだけでなく、この宇宙自我と1つの存在であることに気づくという。 人間がこの宇宙自我と1つである、というのは、人間は、その本質と同時に、二重の形で、この宇宙自我に関係している、ということである。身体的に息を吐いたり吸ったりするように、ヴェーダンティスト(ヴェーダ哲学者)は、この人間の自我の宇宙的自我に対する関係を、例えば、次のようにイメージする。 「息を吸ったり吐いたりするように、内部に吸い込んだ空気(大気)を外の普遍的な空気(大気)の一部として、外には普遍的で、包括的な、全てを貫いて生き、活動する(宇宙的な)自我があり、その宇宙の精神(霊)的な自我の観察に身を捧げるときに、この(宇宙的)自我を吸い込む。」 この(宇宙的)自我を感じ取る毎に、人間は、この自我を霊的に吸い込み、魂のなかに取り込む。あらゆる認識や知や思考や感情は、霊的な呼吸である。この自我は宇宙的自我の一部であり、宇宙的自我との生命的なつながりをもち、人智学徒は、魂のなかに取り込む、この自我をアートマ(アートマン)と呼ぶ。 アートマ(吸気)は、吸い込まれても、普遍的な空気(大気)からは切り離すことのできない空気(大気)の一部のような存在である。 上記のようにアートマは人間のなかにあるが、全てを統べる宇宙の自我からは切り離すことができない。身体で息を吐くように、魂にも三昧という呼気があり、三昧を通じて、魂は、自らの持つ最良のものを、祈りのように、自我に向け、捧げる。 人智学徒が呼ぶブラフマ(ブラフマン)は、魂による呼気で、霊的な呼気である。すなわち、吸気と呼気に相応するアートマとブラフマは、人間を、全てを統べる宇宙自我への参加者にする。 同時に宗教でもある一元論的-霊(精神)的な哲学が、ヴェーダ精神(ヴェーデントゥム)として、現われてくる。このヴェーダ精神は、普遍的な、宇宙を貫いて支配し活動する、一なる宇宙の本質と1つである自我であり、最内の、最高の存在のなかに安らぎを得る、人間を至福にする感情に花開き結実している。 ヴェーダ精神による、人間と宇宙の同一性の関係、人間が大いなる霊的な全宇宙のなかに存在することを、ヴェーダ精神は語るが、厳密にいうなら、「ヴェーダ」は、既に言葉という意味であり、言葉が言葉を語るというのは文脈においてはおかしいが、与えられた言葉ヴェーダによるヴェーダ的なイメージから、ヴェーダは、あらゆる存在を統べる一なる存在から吐き出され、人間の魂を、最高の認識への完成形態として、自らのなかに受容できる言葉である。 ヴェーダの言葉を受容するとともに、自我のなかの、あらゆる存在を統べる最良部を受容すれば、個々の人間の全自我を統轄する宇宙的自我と関連しているという意識が獲得できる。ヴェーダが語るのは、いわば神の言葉である。 ヴェーダは、宇宙を貫いて生き活動する創造的な原理に人間の認識を高めながら、人間の認識のなかに生まれるような神の言葉である。従って、ヴェーダとして書かれた内容は、神的な言葉とみなされ、ヴェーダに精通した者は、神的な言葉の所持者とみなされた。 神的な言葉は、精神(霊)的な形で世界にやってきて、ヴェーダからなる書物のなかに置かれた。ヴェーダからなる書物に精通した者は、宇宙の創造的な原理に加わった。
2011年03月24日
コメント(0)
「アストラル界の特質 高橋 巖:訳」の意訳 アストラル界 今日の唯物主義の時代にはショックであっても、否定できない真実に触れておきたい。これまで何度も強調してきたように、現代は益々物質界の意識の中で、物質界の性質、特質の中で生活するようになっている。 従って、現代人は、議論するときには、自分の意見に反対の人間をやっつけようとするか、さもなければ馬鹿だと思っている。しかし、アストラル界ではこのようなことにはならない。 アストラル界の住人なら次のように言うだろう。 「私なら他の意見などにかまったりしない。」 アストラル界には、絶対の寛容が支配している。或る意見が生産的であれば、その意見が他の意見を追い払う。他の意見を自分の意見と同じように尊重するが、意見そのものが相互の闘いを通して、自然と黒白をつける。 霊界へ次第に参入していく者は、霊界の上記の習慣に従う必要がある。霊界の第1領界であるアストラル界には、今述べたような慣例が支配し、アストラル界への参入者にも霊界の上記の習慣が働きかけている。 この世の生者にとっても、上記の習慣が働きかけることは必要なことである。この世を益々調和的なものにしていくために、物質界は益々霊界の模造となるべきである。人智学徒は物質界の生活をアストラル界の生活であるかのように生きてみる必要がある。 地上に2つの教会を同時に同じ場所に建てることはできないが、意見に関してなら、2つの意見が異なるときに、この世のためにどちらがより生産的であるかに関して、互いに作用させ合うことはできる。一番生産的な意見は、アストラル界でも同じように、きっと勝利を得るだろう。 霊力が働いている領域では、このアストラル界の特質が物質界の中にまで及ぶことが可能である。その領域は教育の場という偉大な領域である。この領域でこそ、「物質界を益々アストラル界の模造にする」ための人智学運動を発展させなければならない。 物質界のことしか考えずに、1つの意見だけを通用させ、他の意見をもった人を全て馬鹿にちがいない、と思っている人には、ショックを与えることになるが、内的に絶対的な寛容が、意見と意見の間を支配していることが人智学的な世界観の持ち主にとっては、次第に当然となっていく。 この寛容は、結論を説教するようなものではなく、人間の魂に根を下ろすようなものとして考える必要がある。アストラル界の住人は人間社会のように他の相手と争うことは決してない。 「よろしい、君はそうしたまえ。私は私のやりたいことをやる」、と言うだけである。 上記のような考え方に馴染んでいけば、それだけでも実際的な知識を少し身につけたことになる。人間の霊界への参入過程が闘争を生むような騒がしい形で生じると思ってはいけない。内的に、内密な形で為されるからである。 以上がわかれば、アストラル界の住人がもっている感情を、自身の感情にしていくことに希望がもてるようになる。 霊界とは以上のような形で次第に眼前にひらけてくるものなのである。
2011年03月23日
コメント(2)
古代インドの精神の奥底を考察する。あまり重要でないものを度外視すると、まずインドの遠い太古の時代から、いわば三つのニュアンスを帯びた精神的潮流が湧き上がってくる事実が霊視できる。 既に最初期のヴェーダ(2)において姿を現わし、次いで後のヴェーダ文学において更なる発達をみた精神的潮流(後に特徴づけるが)は、ある意味、一面的で非常に明確な精神的潮流である。2)ヴェーダ:Vedaすなわち聖なる「知識」は、サンスクリット語で著された、ヒンドゥー最古の宗教的文書の全体を指し、当時は超感覚的な秘儀の源泉が体験されていた。膨大な文献であり、かつて、その内容(テクスト)は口頭によってのみ伝えられていた。多種多様な伝承は主として、サンヒター[Sanhita]、ブラーフマナ[Brahmana]、アーラニヤカ[Aranyaka]、ウパニシャッド[Upanishad]に分類される。しばしば、サンヒター(「本集」の意)の四つの部分が簡略化され四つのヴェーダとみなされる。これは歌詠、祭詞、呪句の集成であり、これらのうち、最古の歌と讃歌の主集成がリグ・ヴェーダである。 サンヒター http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%92%E3%82%BF%E3%83%BC ブラーフマナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8A アーラニヤカ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%83%A4%E3%82%AB ウパニシャッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89 リグ・ヴェーダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80 更に、サーンキヤ哲学(3)における第2の精神的潮流が姿を見せるが、この潮流もまた明確な精神的な方向性をもっている。そして最後に現われる潮流は、第3のニュアンスをもつ東洋の精神的潮流がヨーガである。3)サーンキヤ哲学:サーンキヤ(数、列挙の意)経典(スートラ)は5世紀になってようやく書き留められたが、この体系の起源は「マハーバーラタ」と同様、仏教以前に遡る。その創始者カビラは紀元前800年から500年の間生きたとされる。 サーンキヤ哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE カビラ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%A9/ マハーバーラタ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%BF ヨーガ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC 以上、魂の前に、いま3つの究めて重要な東洋の精神的潮流が置いた。すなわちヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、ヨーガの流れである。 カビラのサーンキヤ体系として現われてくる精神や、パタンジャリのヨーガ哲学(4)やヴェーダにおいて現われてくる精神は、明確なニュアンスを持つ精神的潮流であり、この明確なニュアンスを持つが故に一面的だが、その一面性において、その偉大さを示す精神的潮流である。4)ヨーガ哲学:ヨーガ(くびき、結びつけることの意)として統一される禁欲と沈潜の道は、すでにヴェーダとマハーバーラタにおいても存在していた。紀元前150年頃、パタンジャリが八段階の道の実修法と伝統をヨーガ・スートラにまとめた。 パタンジャリ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AA バガヴァッド・ギーターのなかには、上記の3つの精神的潮流全てが調和的に浸透している。ヴェーダ哲学が語り得たことが、バガヴァッド・ギーターからも輝いてくるのがわかり、カピラのサーンキヤ哲学が与えることができた精神的潮流をバガヴァッド・ギーターのなかにも見つけることができる。 例えば、上記の3つの精神的潮流が寄せ集めのように現われるのではなく、あたかも、元々は合体していたかのように、3つの分岐のように調和的に1つの生命体として流れ込む事実がわかる。 バガヴァッド・ギーターの偉大さは、この東洋の精神的生活には、1面においてはヴェーダから、第2の面ではサーンキヤ哲学から、第3の面では、パタンジャリのヨーガからの流入が見られることを、包括的な形で叙述していることにある。 ヴェーダ哲学の流れは、究めて明白な意味において、考えられ限りの究めて霊的な哲学的な一元論(モニスムス)である。精神(霊)的な一元論は、その後ヴェーダンタ(5)において完成を見る。5)ヴェーダンタ:ヴェーダンタ(ヴェーダの目標、終極の意)が最初に表出されたのは、バーダラーヤナ(紀元前200頃)のブラフマ・スートラであり、主にウパニシャッドに基づき、ヴェーダの教理に体系的な構成を与えた。この体系はシャンカラ(788-820)によって最重要な註釈を与えられた。
2011年03月22日
コメント(0)
連日連夜恐怖心を煽るような報道がなされているので、神秘学からみた「災害等の事故死」に対する見解を、再掲したい。 「不慮の死について 高橋 巖:訳」の意訳 災害等の事故死(不慮の死)について 一体、不慮の死は何を意味するのか? 列車に轢き殺されるような、外から暴力的に死へと追いやられる場合と、天寿を全うして死を迎える場合との大きな相違は、誰にでも容易に推測できる。 勿論、事故(不慮の)死は個々の場合で異なるが、ある一定の観点を見つけることもできる。 「不慮の死」とは何なのか? この問いに答えるには、地上生活からではなく、死の門を通過した霊魂が立つ彼岸から、死を見る必要がある。 今まで何度も述べてきたが、死者の(彼岸の)側から見ると、死とは、肉体を失った死者に、(死後も)生命が存続していることを教える最重要な出来事なのである。 死に直面したとき、人間は、死後にも自我という意識が存在することをはっきりと悟る。地上の生活では、幼児期にまで遡ることができる記憶が、自我という意識を与えてくれるが、死後から新たな誕生(転生)へと至るまでの間では、死を通過することこそが、人間に自我という意識を与えてくれる。 (この世での死は、あの世での誕生である。) それでは、不慮の死を遂げた人間が、死を通過したときはどうなのか? 彼岸から見ると、不慮の死は最大の影響をもつ経験であり、最上の知覚なのである。奇妙に思えるが、この問題を探求していくと、次の事実が理解できる。 死後の霊界と地上の現界とでは、魂の体験に及ぼす「時間」の働きに大きな相違がある。とはいえ、地上での時間的な体験の中でも、死後における程の大きさではないが、死後の時間的な体験を想起させる場合がある。 例えば、1日のうちのほんの数時間内の短い経験が、数ヶ月、もしくは数年に及ぶ長い経験よりも、遙かに重要な意味をもつ場合もある。この世の、非常に短い時間内に体験した出来事が、人生に特別大きな影響を与えることがある。 そのような経験を、「忘れられない出来事だ!」と表現する。この単純な表現の背後には、上記に述べたような意味がこめられている。 さて、人間が、外界、つまり本質的に自分が属さない世界により、非常に短い時間内に、場合によっては一瞬の間に、自分の肉体が奪われたとき、その死の印象は、もし生きていたら、その後の数10年間に地上で経験したかもしれない経験内容よりも、遙かに豊かとなる。 不慮の死に遭遇せずに、地上で生きられた全ての人生経験と比較するわけではないが、死後から新しい誕生までの間に必要な自我という意識の力に関していえば、長い年月をかけなくても、一瞬のうちに、その力を得ることができる。 従って、不慮の死の問題については、輪廻転生との関係を考慮しないと、本当に納得できる説明にはならない。 死後の自我意識と死を通過した時の関係について、以上に述べた事実から、死そのものを知覚することが、死後の自我意識の強さ、集中力にとって非常に重要である、ということを理解すべきだろう。 (進級に喩えるならば、飛び級で進級したような霊界での誕生を生むようである。地震や津波は、地球の怒りであり、人類を代表して、自らを犠牲にして、その怒りを受け入れたことになる。この犠牲は、地球や人類全ての生命に愛情を与えた行為になる。仏教的にいえば、執着心が無の状態といえるだろう。)
2011年03月18日
コメント(4)
次いで、個人文化の第3の千年が始まる。この第3の千年のなかに、別の形で、古代ギリシア精神が作用を及ぼしている事実を見て取れる。例えば、ラファエロ(Raffaello Santi 1483-1520)、ミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti 1475-1564)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinchi 1452-1519)、といった芸術家たちを見るときに、上記の事実がわかる。 ラファエロ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3 ミケランジェロ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3 レオナルド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81 第3の千年においてはもはや、第2の千年の文化におけるように、古代ギリシア精神がキリスト教とともに生き続けるのではない。第2の千年のように、古代ギリシア精神を、歴史的に偉大で、外(物質)的に観察される精神としては受容しなかった。 第3の千年では、人間は直接古代ギリシア精神に向かう必要性が生じる。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの偉大な芸術作品を、再現するように、自らに作用させると、古代ギリシア精神が次第に意識的な方法で受容できる事実を見つけることができる。 第2の千年には、精神的潮流は、無意識に受容できたが、第3の千年においては、一層、意識的に受容する必要が生じる。 この古代ギリシア精神を、世界観として意識的に受容できる事実を見つけることができる。例えば、トマス・アクィナス(Thomas von Aquino 1227-1274)が、自らの哲学を形成する際、キリスト教の哲学から流れ出す精神を、アリストテレスの哲学の精神と融合せざるを得なかった。 トマス・アクィナス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%82%B9 古代ギリシア精神は、トマスによっても意識的に受容され、その結果、意識的な形で、古代ギリシア精神とキリスト教が哲学的な形態をとって合流した。ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルドの場合は芸術的な形態をとって合流した。 以上の動向の全体性を通じて、精神的生活を貫き更に上昇した精神的な潮流、すなわちジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno 1548-1600)、ガリレイ(Galileo Galilei 1564-1642)における、ある種の宗教的な敵対的存在が現われる。 ジョルダーノ・ブルーノ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E ガリレイ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4 にもかかわらず、至る所に、古代ギリシア的な理念や概念が、特に自然観と関連して浮上してくる事実が見つけられる。この精神的潮流は、古代ギリシア精神の意識的な吸収である! しかし、この(個人的な)精神的潮流は、古代ギリシア精神より、前には遡れないが、あらゆる魂のなかに、例えば学識があり、高い教養を身につけた人間だけでなく、極めて素朴な人間にいたるまで、古代ギリシア精神とキリスト教が意識的に合流して入り込んだ精神的生活が広がり、生きている。 大学から農民の小屋のなかにまで、キリスト教的イメージを伴った古代ギリシア的イメージが、概念とともに受容された。 19世紀になると、ある独特な精神が生じ、根本的に、この精神を形成し、行なうには神智学、もしくは人智学が適任である。いかなる力強い潮流が生じるかは、個々の現象において見つけられる。 バガヴァッド・ギーターという素晴らしい詩篇がはじめてヨーロッパで知られるようになったとき、この詩篇の偉大さが示す深遠な内容を意味する精神により心が奪われる出来事が見つけられる。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトのような深い精神の持ち主が、バガヴァッド・ギーターを知ったとき、自分が目にした最も深遠な哲学的な詩篇である、と言い得たのは忘れがたい出来事である。 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88 フンボルトは、バガヴァッド・ギーターを、太古の聖なる東洋から響いてくる偉大な精神の歌として知ることができたので、長生きした甲斐があった、という名言(1)を発することができた。1)ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの名言;Wilhelm von Humboldt(1767-1835)1823年6月21日のシュレーゲル宛の手紙及び1828年3月1日ゲンツ宛の手紙。 いまだそれほど広範囲にわたっていなくても、19世紀において、古代東洋から多くの叡智が、まさにこのバガヴァッド・ギータから、ゆっくりと流れ込んできた、という事実は、非常に素晴らしい出来事である。 というのも、このバガヴァッド・ギーターは実際、古代東洋から伝わってきた他の文献のような存在ではないからである。他の文献は、東洋的な思考と感情を、様々な観点から告げるのを常としている。 ところがバガヴァッド・ギーターには、東洋のあらゆる様々な方向の思考や感性や感情や観点の合流が現われてくるところが重要点である。
2011年03月16日
コメント(0)
「自由の本質 高橋 巖:訳」の意訳 自由の本質 人智学運動は、擬似神秘のような不可思議な存在を求めているのではない。このようなことは人智学運動の出発点として、既に19世紀の90年代の初めに試みた研究からも読み取れるはずである。 当時、現代の社会認識にとって必要と思われた事柄を、著書『自由の哲学』の中で包括的に論じた。この『自由の哲学』を読めば、人智学を擬似神秘主義に思えるはずがない。 けれども、この著述の中で展開した人間の自由に対する考えと、近代文明から生じた、今日の自由の衝動、もしくは自由に対する知性的な概念との間には大きな相違が認められる。 一般社会での自由の概念の例として、ウッドロー・ウィルソンの場合を取り上げてみる。彼の考え方は現代文化の特徴をよく示している。ウィルソンは真実、心の底から、現代の政治生活のために自由を求めていた。 ウッドロー・ウィルソン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3 しかし彼の説く「自由」とは何なのか? それは次のような彼の考えから明らかである。彼によれば、船が自由に航海できるのは、船の構造が風向き、海流他、航行中の周囲のあらゆる条件によく適応できたからであると考える。 従って、船を先へ進めるには、風や波から生じる力による障害がどこにも生じないようにする必要がある。同じように、人間の生活を自由にするには、生活環境から来る力に逆らわずに、どこからも障害が起こらないようにすることなのである。 ウィルソンは人間の自由な生活を機械の部品とも比較した。つまり機械も自由に働くには、組み込まれた部品が、どこからも妨げられず、機械の中で自由に働けるような構造をもっていなければならない、と考えた。 いま、ただ1点だけを述べたい。上記のような環境への適応の正反対を行うときにだけ、人間の自由が語れる。海上の船を、風や波に最高の形で適応させる方法が人間の自由なのではない。 周囲から来る力の働きなどにかまうことなく、風や波に逆らって、グルグルまわったり、立ち止まったりする船でこそ、人間の自由と比較できる。 ウィルソンの自由観の根底には、世界に対する全く機械的な思考が隠れているが、今日の現代人もまた、ウィルソンのような考え方を唯一可能な考え方だと錯覚している。 ウィルソンのような考え方は、近代になって表面に現れてきた主知主義の産物である。 著書『自由の哲学』の中で、ウィルソンのような考え方にも批判を試みた。近代人の主知主義は人間の出発点となるべき問題をあまりにも考えずにきた。 人間の本性を深く洞察するなら、次のように述べるはずである。 「人間は生まれたときに予め定められていた通りの存在だけにとどまらず、生活を通して、それ以上の存在にもなることができる。」 人間の自由は、生まれたときから与えられているものではない。自由は、自分の中から目覚めさせることによってはじめて可能となる。
2011年03月15日
コメント(0)
古代ギリシア時代にはじめて、個人(パーソナリティ)が生じてくる。この個人的な精神の誕生が、この三千年(紀元前1千年~紀元2千年)の精神的生活の独自性でもある。 前回は、古代ギリシア時代の有名な人物の名を単に挙げたのではなく、個々の人物に影響した精神的生活のイメージを示唆した。個人(パーソナリティ)とは、三千年紀(紀元前1千年~紀元2千年)に出てきた問題である。 個人が精神的生活に参加する要求を持つことで、個人が精神的潮流を通じて、内なる慰め、希望、安らぎ、内なる至福を見つけ、精神的潮流がはじめて個人として意味を持つようになる。 比較的近年までは、主として興味の対象は、個人から個人へと歴史的に経過する限りの精神であったため、三千年紀以前(紀元前1千年以前)にあった(包括的な)精神に対しては、それほど深く徹底した理解を獲得していなかった。 近年になってから理解できる個人的な精神の歴史は、古代ギリシア精神(ギリシアの覆い)とともに始まり、紀元前千年と、それに続く紀元千年の転換期(紀元元年)に、キリスト=イエスという偉大な存在に結びつく精神が入ってくる。 (人間の魂の歴史的進化を知れば理解できる。つまり、紀元前千年前の人類の魂は、まだ神々たちを感じとることができ、いわば共生していたが、次第に地上への覚醒意識を獲得するにつれ、地上の知性を獲得していくに従い、神々を感じとることができなくなり、神々を感じとれるのは、伝承として秘儀参入法を獲得した秘儀参入者の祭祀や族長のみに限られ、それらの権力者を通じて、民衆に伝えられるようになり、やがて、東洋では形骸化し、西洋でも秘儀の場が失われ、西の秘儀参入者が東征することで、東にもたされてきた。 西では神々は没落し、もはや影だけの存在となり、次第に神々は人間の姿をとるようになり、いわば神は死んで、人間となり、東では、西の秘儀の教えが受け継がれ、自然のなかに直接神々を感じ取れていたときに、西と東の中間点に、キリストが降臨したわけである。 西では、キリストは人間の姿をした神として捉えられたが、東では、一部の秘儀参入者の預言者にはまだ神々を感じる能力があったので、キリストを人間としては捉えることができずに、太陽の存在だった。西ではキリスト教、そして、東では預言者を発端とした多くの宗教が生じてきたのは、人間の魂の歴史的進化を知れば理解できるだろう。 また地球に拠点を置く堕落した神々である悪魔は、西には科学を与え、キリストをただの人間にし、歴史から抹殺しようとし、東には、悪魔を神とする新興宗教や様々な教義を与え混乱させてきた。) 紀元前千年から、古代ギリシア精神がもたらした精神が突出している。この古代ギリシア精神は独自性をもって突出し、このギリシア精神の出発点には秘儀が存在した。 この秘儀から流れ込んできた精神(しばしば指摘したように)は、あらゆる分野の偉大な詩人や哲学者、芸術家たちに入り込んでいった。というのも、正しい形でアイスキュロス(Aischylos von Eleusis 紀元前525頃-456 劇作家)、ソフォクレス(Sophokles von Kolonos 紀元前496-406 劇作家)、エウリピデス(Euripides von Salamis 紀元前480頃-406 劇作家)を理解するには、その源泉(原点)を秘儀から流れ込んだ精神のなかに探す必要があるからである。 アイスキュロス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9 ソフォクレス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9 エウリピデス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%87%E3%82%B9 ソクラテス、プラトン、アリストテレスを理解するには、彼らの哲学の源泉を、秘儀のなかに探さなくてはならない。ヘラクレイトス(Heraklit von Ephesos 紀元前540頃-480 哲学者)のような傑出した人物については、秘儀を語る以外には全く語ることはできない。ヘラクレイトスについては、著書『神秘的事実としてのキリスト教』という書物のなかで、彼がいかに秘儀に立脚していたかを読み取ることができる。 ヘラクレイトス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9 更に、紀元元年からの次の千年とともにキリスト教的な衝動が精神進化のなかに流れ込み、この第2の千年とともに、キリスト教が次第に古代ギリシア精神を受け容れ、古代ギリシア精神と一体化する、というように精神的潮流が経過していく状況を見ることができる。 この第2の千年全体を通じて、古代ギリシア精神から生きた伝統、活力ある生活全般のなかにもたらされた(個人的な)精神と、力強いキリスト衝動が一体化していく、という経過を辿る。 従って、大変ゆっくりと徐々に、古代ギリシア的な叡智、古代ギリシア的な感情、古代ギリシア的な芸術家精神がキリスト衝動と霊(精神)的に結合していく様子を霊視できる。以上が第2の千年の経過である。
2011年03月15日
コメント(0)
菅政権の無能さで、どんどん被害がひろがっているように思える。ただでさえ、緊急時で国会が停止しているのに、枝野しかでてこずに、菅は一体何をしているのか? 丸投げ状態なのかと思われる。 最悪なのは、福島原発事故を第2のチェルノブイリ事故にしてしまっていることである。 クリントンが、原発の冷却水を届けたから大丈夫のようなことをいっていたようだが、まるっきり逆の展開になっている。 ライフラインが寸断され、とにかく輸送がとまってしまっている。輸送が命なのに、輸送が止まってしまっている。 これ以上、菅政権が続くと、日本崩壊も時間の問題だろう。 経団連の利己主義者たちが招いた地震といえる。 国家や国民を省みずに、利益だけを追求してきた大企業に鉄槌がくだったのだろう。 巷では、老害石原が知事立候補したせいで、地震が起きたといわれている。 戦後最悪というか、日本史至上最低の無能トップとして、菅は記憶されるだろう。 菅が総理になる前の過去にはもはや二度ともどれない。
2011年03月12日
コメント(5)
「人間関係の本質 高橋 巖:訳」の意訳 人間関係の真理 今日の人間にとって大切なのは、善き人間として安住の地を得、隣人愛の思想を他者に伝えたいなどを望むことではない。社会プロセスの中に生き、悪しき人類と共に悪しき人間にもなれる才能を発揮できるということが大切なのである。 悪しき存在になることが大切なのではなく、克服すべき社会秩序が、一人一人に、悪い存在になるような生き方を強いているからである。 人間がどんなに善良な存在であるか、という幻想を抱いて生きたり、指をしゃぶり、綺麗にして、他の人間よりも、自分の方が清らかである、と思い込んだりするのではなく、社会秩序の中にあって、幻想に耽ることなく、醒めていることが必要である。 なぜなら、幻想に耽ることが少ないほど、社会の健全化のために協力し、今日の人間を深く捉えている睡眠状態から目覚めようとする意気込みが強くなるからである。 それには、今日公認されている科学に内在する弱くて投げやりな、麻痺状態になった思想に巻き込まれずに、人智学の与える、エネルギーに満ちた、追力ある思想を身につけることが、大きな助けになる筈である。 今から凡そ18、9年前に、ベルリンの労働組合の会館で、今日の科学はブルジョワ(資本家)の科学なので、科学を、そのブルジョワ(資本家)的要素から解放するように努めなければならない、と述べたことがある。 プロレタリアート(労働者)の指導者たちは、このことの本質を全く理解しなかった。プロレタリアート(労働者)の指導者たちは、自分たちが受け継いだブルジョワ(資本家)的科学が絶対である、と確信していた。 真理は、真理だが、社会主義者たちは一方では唯物史観の立場をとりながら、この真理が都市社会の発展と深く関連していることに気づいていない。 プロレタリアート(労働者)の指導者たちは、プロレタリアート(労働者)の衝動や情動について語りはするが、科学を、全くブルジョワ(資本家)的に考えている。 ブルジョワジー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AF%E3%82%B8%E3%83%BC プロレタリアート http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88 上記のように述べるなら、多くの人は以下のように応える。 「しかし、真理は、真理にかわりはない。」 確かに、例えば化学、物理、数学などの特定分野の真理は、ブルジョワ(資本家)的な方法でも、プロレタリア(労働者)的な方法でも、真理に変わりはない筈である。 ピタゴラスの定理は資本主義社会にも社会主義社会にも真理として通用する。しかし、そういうような真理が問題なのではない。 大切なのは真理が特定の枠組みの中に収まっている、ということにある。この枠組みの中にとどまるなら、その内部のなかでは真理である。 しかし都市社会において、有用で便利に通用する真理がある一方で、ブルジョアジー(資本階級)からは顧慮されていないが、多くの人間が認識できる他の真理もある。 従って、化学や数学の真理が、真理として通用する、という事実が大切なのではなく、このような真理の他に、これらの真理に先んじて、正しい光を当てる真理もあり、そのような真理により全く別様の印象を、従来の真理に与えるような真理もある、という事実があり、このような事実から、ブルジョワ(資本家)科学とは異なる拡大された学問の地平の上にも、新しい科学が立てられる、ということが大切なのである。 この問題は真理の質にさえ影響を及ぼす。確かに大学の化学の教授たちには、目立った変化を及ぼすことはないだろう。実験室での化学の教授たちは、自分たちが真理を考えるのではなく、方法論が真理を考えている、という事情をよくわきまえている。 (自分の専門分野を超えようとはせずに、専門家に徹することだろう。) しかし同じ思考で、歴史や文学史を対象にするとき、つまり経済生活から人間を引き出して、精神と国家の様々な問題へと向かわせるなら、直ぐに、上記の事実が問題になる。 今、現代人が所有している歴史はブルジョワ(資本家)的な陳腐な物語にすぎない。哲学他の学問も同様である。ただ多くの現代人は、以上の事実を感じずに、客観的な科学だと思い込んでいる。 (歴史や文学史は権力者の都合の良いように記述された物語にすぎないということなのだろう。偽ユダヤ人たちによる聖書を用いた創作物語を語らされているわけである。) 学問研究が、自主管理を取り戻し、これまで、私(シュタイナー)がしばしば語ってきた社会の三分節化が現れるときにだけ、精神生活は健全な生活が営めるようになる。
2011年03月11日
コメント(4)
前々から言われていた通りの地震が、日本だとは?以下必見。http://quasimoto.exblog.jp/i18/
2011年03月11日
コメント(0)
シュタイナーの人間の精神(魂)の歴史的進化の講義は、前回で終わったが、今回からは、古代アトランティス時代から受け継がれてきた精神(魂)の回復(進化)法のバガヴァッド・ギーターの人智学的解説と、太陽霊キリストが、人類にもたらした新たな精神(魂)の回復(進化)法を記録したパウロの書簡の人智学的解説を要約して記述する。 いわば、前回は、魂の診断法のための講義で、今回は、魂の治癒、回復法の講義と考えて頂きたい。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 今日(1912年)、狭義の意味での人智学協会を設立するための、いわば出発点に立っている。このような機会に、人智学徒の問題の重要さと意義を再度思い起こすべきである。人智学協会が新たな文明のために模範すべき姿は、神智学として営んできた活動とは確かに、原理的には区別すべきではないかもしれない。 それでも、人智学という新たな名称をつけるのは、神智学徒の魂に、誠実や尊厳を思い起こさせるためであり、この誠実と尊厳をもって、この精神的潮流の内部で活動していきたいがためである。 これから述べる連続講義の主題も、上記の観点から選んだ。1つの主題を、人智学徒の問題の出発点として論義するが、この講義は、人智学徒の精神的潮流、特に現代の文化生活に対する重要さと意義を示唆するのに、極めて多種多様な意味で相応しいものとなるだろう。 一見かけ離れたものに見える2つの精神的潮流、すなわち一方は、偉大な東洋の詩篇バガヴァッド・ギーターのなかで語られ、他方は、キリスト教の基礎固めに親密に関係した使徒パウロの書簡において語られている、2つの精神(霊)的潮流が、1つに組み合わされる事実に、驚く者もいるだろう。 バガヴァッド・ギーター http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC パウロ書簡 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD%E6%9B%B8%E7%B0%A1 第1講義は、導入として、一方の偉大な詩篇バガヴァッド・ギーターに関連する精神や、他方のキリスト教の出発点に設立されたパウロ主義の精神が、いかに現代に入り込んでいるか、を指摘すれば、この2つの精神(霊)的潮流の親密さを、良く認識できる。 とはいえ、現代の精神的生活は、比較的それほど昔でもない時代とも、大きく異なり、また、少し前の近代の精神的生活とも異なっているという事実から、神智学、もしくは人智学的な精神的潮流を、現代の精神的生活が必要としていることがわかる。 比較的近年の人間が、現在の精神的生活へと飛躍した時代、バーゼル、及びミュンヘンでの連続講演で強調したように、紀元前1千年から、まだ終わっていない紀元2千年までの3千年紀に、キリスト教的な精神的潮流に、いかに浸透され、貫かれ、一体どう関わり合ったか、を考察する。 少し前、今日の神智学、もしくは人智学的な精神的潮流について認知されずに、精神的な潮流自体を語ることができなかったときに、精神的生活の真っ只中にいた人間は、精神的潮流に対して、自らにどう言い聞かせたかといえば、次のように言い聞かせていた。 「現代に入り込んできている精神的潮流は、本質的に、キリスト紀元元年に先行する1千年前以降にせいぜい探究された精神であるにすぎない。」 というのも、紀元前1千年よりも前には、いわば個人(パーソナリティ)としての人間が、精神的生活に意味を持ち始めることがなかったからである。 紀元前1千年以前の精神的潮流には、遙かに大きく力強く、人類を照らし出す精神が存在し、個人(パーソナリティ)や個といった精神が、精神的潮流の根底から際立って映し出されることがなかった。 現在のような狭い意味ではなく、紀元前千年の後半に加えられた精神を振り返ると、すなわち古代エジプト、あるいは古代カルディア-バビロニアの精神的潮流を振り返ると、いわば、人々が互いに関連する精神的生活が展望できる。 古代ギリシアの精神的生活においてようやく、個人や個の精神が突出し、眼前に、いわば霊(精神)的な生命力をもって登場し、始まった。偉大な、力強い教え、宇宙の遙か彼方にまで達する力強い精神の展望を、古代エジプト時代や、古代カルディア-バビロニア時代に見つけられる。 古代ギリシア時代においてはじめて、個々の(精神的な)人物、すなわちソクラテス(Sokrates von Athen 紀元前496-399)やペリクレス(Perikles 紀元前500頃-429 アテネの政治家)、フェイディアス(Phidias 紀元前500頃-423 アテネの有名な彫刻家)、プラトン(Plato von Athen 紀元前427-347)、アリストテレス(Aristoteles von Stageira 紀元前384-322)、といった個人(パーソナリティ)的な精神を見ることができた。 ソクラテス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 ペリクレス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9 フェイディアス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9 プラトン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3 アリストテレス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9
2011年03月10日
コメント(0)
「四大霊について(後半) 高橋 巖:訳」の意訳 四大元素霊について(後半) 合理的な考え方をする人に、シルフとか、レムール(サラマンダー)とか呼ばれる四大元素存在などが存在するはずがない、と言われたら、次のような、一見奇妙で、逆説的な返事しかできないかもしれない。 レムレース http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9 「あなたに、見えないのは、四大元素存在を認めることのできる認識器官が発達していないからで、例えば、蜜蜂なら、すなわち蜜蜂の集合魂なら、シルフやレムールの存在をよく知っている。 四大元素存在たちは、はっきりとわかる特に動物界と植物界とが触れ合う場所に、全てではないが、ある一定の触れ合いが生じる関係下に現れる。 牛が草を食むときでも、動物界と植物界の触れ合いが生じるが、いわば進化における正規のプロセスの中で生じる、一般的な触れ合いである。 蜜蜂と花との触れ合いは、宇宙の進化という意味では、人間が想像するのとは全く異なる場面である。 なぜなら蜜蜂と花は、生体組織という面においては、遙かに隔たっているが、お互いの生命環の最初と最後に出会うことで(勿論、秘教学徒にとってだが)実に素晴らしい力を作り出しているからである。」 上記の触れ合いは非常に微妙な観察を語ることにもなるが、蜜蜂他の昆虫が花蜜を吸うときに常に現れる独特なオーラの覆いを見れば、大きな感動を誘う。蜜蜂の花の蜜を吸う独特な体験は、蜜蜂の咀嚼器官の中だけの触れ合いではなく、蜜蜂と花の間で交される味覚の交流は、小さなエーテルのオ-ラとなって、霊界にも拡がる。 蜜蜂が花の蜜を吸うたびに、上記のような小さなエーテルのオーラが超感覚的に現われ、その度にオーラを求めて、四大元素存在たちがやってくる。オーラに、いわば養分を見つけるからである。 以前、別の機会に述べたことだが、「人智学徒の語る四大元素存在とやらは、どこからくるのか?」という問いに答えるのは簡単である。 機会さえ与えれば、いつでも、どこからでも、現れるからである。例えば、或る人間が、悪い感情を周囲に流すとき、その悪い感情は、その人の周囲に生き続け、生物が餌を求めるのと同じように、その悪い感情を求めて待機している存在たちを引き寄せる。 清潔な部屋に蝿はいないが、色々食べ残しがあると、直ぐに蝿が現れる。超感覚的存在についても同様なことが言える。養分を差し出すだけでいい。 例えば、花の蜜を吸う蜜蜂は小さなエーテルのオーラを拡げる。すると、それを養分とするような四大元素存在たちがやってくる。 どこかの木々に蜜蜂の群れが集まり、とび立っていくようなとき、蜜蜂たちの体内のいわば味覚体験が一杯漂っているような場所では特に四大元素存在が集まってくる。 蜜蜂の群れはエーテルのオーラに包み込まれているが、それだけでなく、シルフやレムールたちも紛れ込んでいる。互いに異質な領界が触れ合っているような場所に、以上の四大元素存在たちが現れて、実際に活動している。 四大元素存在たちは、上記に述べたような精妙なエーテルのオーラが生じるとき、ただその場所にいるだけでなく、いわば満腹感をもって存在しているだけでなく、空腹感にもつき動かされ、蜜蜂たちを、しかるべき場所へと導く。そのようにして、蜜蜂たちの指導者となっている。 人間の認識が、上記の四大元素存在たちのことを知る必要に迫られるのは、それ程遠いことではないだろう。 (四大元素存在とは、かつてアリストテレスが唱えた四大元素のことで、通称は、精霊や妖精と呼ばれている。精霊や妖精は、霊体がなく、善悪の道徳観がないので、規律や統制が働かない。)
2011年03月09日
コメント(0)
「四大霊について(前半) 高橋 巖:訳」の意訳 四大元素霊について(前半) 秘教学的な立場から考察すると、現代人の眼からは隠されているが、宇宙の進化の中で一定の役割を演じている存在がいる。霊眼で眺めても、その存在の中には、人間における「霊」のようなものを見つけることができない。その存在は、本質的に肉体と魂からなる存在である。 これまでの考察から、上記のような存在の一大集合体を、人智学徒は知っている。すなわち動物である。動物も肉体と魂の存在である。しかし、上方へ向けて、集合魂もしくは集合自我と関わりをもち、その集合自我は既に霊的性質をもった存在である。 個々の動物は肉体と魂の存在だが、高次世界にも、動物という存在が継続し、霊性と結びついている。 その様子は、今までにも、よく挙げた例だが、例えば、ここに、壁があるとする。壁に10箇の穴をあけ、10本の指を、その中から出す。 壁の外の人には、壁のうちの人が見えなくても、壁からでる10本の指を見れば、その指の振る舞いが、壁の背後の人により、生じていることがわかる。個々の動物と集合自我との関係も、以上の例と同じである。 集合自我は霊界に存在し、個々の動物は、次第に、この霊界の集合自我の中へ移っていく。同じ形態をもつ様々な動物は、同じ集合自我と関係する。 従って、物質界では個々の動物となっている部分が、すなわち肉体と魂の存在で、この存在がアストラル界へと継続している霊的な存在は、度外視されている。 しかし、物質界での動物と同じ肉体と魂だけの存在ながら、物質界では不可視の存在もいる。 その存在たちを、神智学では「四大元素霊(エレメンタルガイスト)」と呼んでいるが、この名称ほど不適当なものはない。 本当は、霊をもたぬ魂だけの存在なので、むしろ「四大元素存在(エレメンタルヴェーゼン)」と呼んだ方がいい。 では、なぜ、その肉体が見えないのかは、後で述べる。とりあえずは、人間の下位に立つ肉体と魂の存在である、とだけ述べておきたい。 勿論、上記の四大元素存在は、現代のような啓蒙の時代には否定されている。現在のような進化段階に立つ人間には知覚できない存在だからである。上記の存在を知覚するには、見霊意識を一定の水準にまで進めなければならない。 知覚できないからといって、上記の存在の働きがないわけではない。むしろ、上記の存在の働きは非常によく知覚できる。存在自体が知覚できないだけである。 さて、この四大元素存在は、霊的な空間の中では様々な姿をとっている。「自然霊」とも呼ばれているが、他にも実に様々な名前がつけられている。名前はどうでもいい。 先ずは、ありのままに、見霊者の眼には、どう映るかを述べる。 四大元素存在は、実に様々な場所に、異なる姿で存在している。例えば、植物がなにも生えず、生物も棲まないような地下、例えば、資源が埋蔵されている鉱山の奥深くへ行くと、そのような存在たちに遭遇する。 そのような場所に行き、金属や岩石を持ち上げてみると、まるで蜘蛛の子を散らすように四散する四大元素存在の奇妙な様子が眼に入る。 (宮崎アニメに出てくるようなイガイガの虫のような存在か?) もの凄い数でかたまりうずくまっていたのが、地面を取り除かれると、一気にはじけ散る。面白いことに、はじけ散るだけでなく、次第に体が大きくなっていく。とはいえ常に人間以下の大きさである。 コボルト、グノームなど、色々な名前がつけられているが、この存在の特徴は 姿が見えないだけでなく、道徳的責任をとらせることもできない。この存在たちの行為は、自動的(オートマティック)なのである。 コボルト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88 とはいえ、例えば、人間の知性と似ていなくはないが、それどころか人間よりも「機智」に富んでいるので、四大元素存在と遭遇する人は、色々な悪ふざけをやりたがる四大元素存在の機智の特徴を知ることができる。 鉱夫は一般的に良い自然感覚をもっているが、炭鉱夫というよりも金属採掘の鉱夫には、上記のような経験をもつことがよくある。
2011年03月08日
コメント(0)
人智学徒の魂には、以下のように語られるだろう。 「お前たちの心情や心の在り様から、お前たちが聞き取れる声を、認める勇気をもてるかどうかを、お前たちに試そう。」 かつて、ゲーテアヌムを焼き尽くした燃え上がる炎を見たときから、1年目を迎えた今日、外で炎が燃え上がっていた、その1年前でさえも、この仕事の継続は妨げられず、以下のようなことをもたらした。 物質的なゲーテアヌムが立ったときも、人智学徒は既に活動していたが、物質的なゲーテアヌムは、いま、世界へと出ていく人智学徒が、共に理念として受け取るべき霊的なゲーテアヌムの外的な象徴(シンボル)となった。 そして、ドルナハに礎石を据えた。この礎石の上に建物を築いていかなければならない。人智学徒の集団において、広い外の世界のなかで、一人一人により成し遂げられる働きが、1つ1つの石となるような建物を築いていかなければならない。 今、次のような精神の働きを眺めると、これまで述べてきた、境域の守護者の前に佇んでいる現代の人間たち、霊界への参入を拒まれなければならない人間たちに対する責任が意識される。 1年前に降りかかった出来事について、この上なく深い苦痛と悲しみを感じる以外、決して何も思い浮かばない、というのは確かなことである。しかしながら、次のような事実を心に刻みつけておくべきである。 「世界においては何事も、ある一定の偉大さに到達したものは全て、苦しみから生まれる。」 苦しみから、力強く輝かしい人智学協会が生まれるように、人智学徒の苦しみが成就するように、努力すべきである。 以上を目指して、この連続講義のはじめに語った言葉のなかに沈潜したが、その言葉をもって、このクリスマス会議を終えたい。 新しい年の始まりのためだけではなく、霊的な生に帰依し、霊的な生に満ち育むために献身する宇宙紀元の始まりのためにも、聖夜のクリスマスとすべきクリスマス会議をここに捧げる。 人間の魂よ! お前は四肢のなかに生きる 宇宙空間を貫き 霊の海のうねりのなかでお前を担っていく四肢のなかに 魂の深みに 霊を思い出せ そこに知らしめす 宇宙創造存在のなかで 自身の自我は 神なる自我のうちにある かくてお前は真に生きる 人間という宇宙存在のなかで なぜなら高みの父なる神は 存在を生み出しながら宇宙の深みで知らしめすのだから。 セラフィム、ケルビム、トローネよ 高みより響きわたらせよ 深みに反響(こだま)するものを それは語る 「神より生まれる」 元素霊たちがそれを聴く 東で、西で、北で、南で どうか人間がこれを聴くように 人間の魂よ! お前は心臓と肺の鼓動のなかに生きる 時のリズムを貫き お前を自身の魂の本質を感じることに導く 鼓動のなかに。 魂の均衡のなかに 霊を思え そこにうねる 宇宙生成行為は 自身の自我と 宇宙自我を 1つにする。 かくてお前は真に感じる 人間の魂の働きのなかで なぜなら巡るキリストの意志は 魂を祝福しつつも宇宙のリズムのなかで知らしめるのだから キュリオテテス、デュナーミス、エクスシアイよ 東より鼓舞せよ 西によって形作られるものを それは語る 「キリストにおいて死ぬ」 元素霊たちがそれを聴く 東で、西で、北で、南で どうか人間がこれを聴くように 人間の魂よ! お前は休らう頭のなかに生きる 永遠の奥底からお前に 宇宙思考を明かす頭のなかに 思考の静寂のなかに 霊を観よ そこでは神々の永遠の目的が 宇宙存在の光を 自由な意志のために 自身の自我に贈る かくてお前は真に思考する 人間の霊の奥底で なぜなら霊の宇宙思考は 光を懇願しつつ宇宙の本質のなかで知らしめるのだから。 アルヒャイ、アルヒアンゲロイ、アンゲロイよ、 おお、深みより請い求めよ 高みにおいて聴かれるものを それは語る 「聖霊により甦る」 元素霊たちがそれを聴く 東で、西で、北で、南で どうか人間がこれを聴くように 紀元の初めに 宇宙の霊の光が 地上存在の流れに歩み入った 夜の闇が蔓延(はびこ)っていたが 真昼のように明るい光が 人間の魂を照らした 光、それは貧しい羊飼いの心を暖める 光、それは聡い王者の頭を照らす 神的な光よ キリストの太陽よ 暖め給え 私たちの心を 照らし給え 私たちの頭を 私たちが心の底から 目的を定めて導いていこうとするものが 良くされるように 以上のように、人智学協会のための礎石を据えたときの暖かい心を担っていこう。この暖かい心を、世界への力ある、治癒力となる働きかけへと担っていこう。今、全員が目的意識をもって導いていくものが頭を照らし、その助けとなるだろう。 以上を全力で決心したい。その光に相応しく自己を示せば、そこから意志された行為の上に良き星が知らしめすことがわかる。この良き星に従いなさい。神々が、この星の光によって、人智学徒をいずこに導いていくか、見てみたい。 神的な光よ キリストの太陽よ 暖め給え 私たちの心を 照らし給え 私たちの頭を!
2011年03月07日
コメント(0)
「歴史徴候学から見た悪の問題(下) 高橋 巖:訳」の意訳 悪の本性(下) 悪の本性の話をしたのは、厭世的になるのではなく、覚醒のため、力強い行為を伴う衝動を目覚めさせるためである。このことを理解するために、ここで具体的な問題を取り上げてみる。 意識魂時代の人間の本質的な衝動の1つは、他者への関心を深めることにある、と述べた。この関心は、地球紀の進化の残りの時代にとっては、必須だが、特に4つの点において重要である。 第一に、未来へ向かう人間は常に隣人を別の眼で見るようにならなければならない。今日の人間は、既に意識魂の時代も5分の1が過ぎたのに、紀元四千年紀の意識魂が既に習得していなければならないような隣人への接し方をまだもとうとしていない。 (端的にいって、落第に近い) 今日の人間は、お互いに相手の最も大切な部分を見落としている。相手のことを全然見ていない。この点では、これまでの転生を繰り返す間に芸術によって身につけてきた事柄を、まだ充分に生かし切っていない。 芸術からは実に多くを学ぶことができる。これまでも「芸術の発展から学べること」について、色々と示唆してきたが、今回取り上げている「歴史象徴学」を学ぶほど、ほとんどあらゆる分野において、芸術的創作や芸術鑑賞とが今日頽廃してしまっていることを、否定できなくなる。 ここ10数年の芸術行為全ては、はっきりと頽廃期の中にあることを示している。これからの芸術活動にとって最重要な事柄は、教育を通して、本来の芸術的な観点を獲得することにある。 どんな芸術も、人間をより深く、より具体的に認識するように促している。勿論、各々の文化の中で、その方法は様々である。 例えば、絵画や彫刻の芸術的形式に沈潜したり、音楽や詩の中に息づいている内的な運動の本質に沈潜したりして、芸術を本当に内的に体験してみるなら(今日では、芸術家自身がしばしば内的な体験を行っていないが)、人間の本性が見えるようになる。 これまでにも、人間の本性について述べてきた。例えば、人間の頭部は、芸術的な観点を獲得した者の眼を過去に遡らせる。丁度、夢が、外的生活の残滓を表すのと同じように、現実の事物を見通せる者にとっては、全ての外的な現象は、霊的存在の装い(衣服)となる。 人間の霊的な原像を、人間の形姿の中に見ることを学ぶ必要がある。未来になるほど、人間は透明な存在になっていく。そして、人間の頭の形や歩き方も、現代人とは違った眼や、違った関心をもって、見られるようになる。 肉限で見る人間は、真なる霊的な、超感覚的な真実に対して、あたかも画用紙に描かれた絵が、元のモデルに相当する関係と同じである。上記のような基本的な感情をもつときだけ、人間の自我を理解できる。この基本的な感情を大切に育てる必要がある。 (外見は、内面の鏡にすぎない) 人間の容姿は、いわば人間の永遠なる霊的、超感覚的存在を映し出す像である。人間の姿や動作が永遠なる存在を映し出している事実がわかれば、その姿や動作が、内的に人間を熱くしたり、或いは冷たくしたりする。 (フィードバックされる。鏡をみることで、容姿が整えられる。人の振り見て我が身を直せ、ということだろう。) 一番いけないのは、熱さも冷たさも感じられず、熱エーテルが、内的に体験できなくなることである。人と人との間の高められた関係を、熱エーテルの体験が表すようにならなければならない。 第2に、人間と第3ヒエラルキアの天使、大天使、人格霊との関係を、人間の中に感じとるようになる必要がある。そのためには、言語に対して、これまでとは異なる態度をとる必要がある。言語は、既に発展の最盛期を過ぎ、抽象的な存在になってしまった。 言語を通じて、この上なく不誠実な態度の波が地球全体に打ち寄せている。言語の表現が、もはや文字通りの意味で正しいかどうかの問題ではなく、人間の魂のどの領域から発せられた言葉なのか、が問題なのである。 言葉の表現を、言葉通りに受け取るだけで、霊の根源から発せられているかどうか、を感じとれなくなっている人は、言葉を駆使し、どんな外的な叡智をも語れるようになっている現実を理解できずにいる。 (詐欺師が横行する現代の特徴は、言葉の表現を、そのまま受け取ることにある。言葉の表現上では、どんなことも可能だが、現実には不可能なことが多い。) 大切なのは、言語を通して、発している人間の本性を見ることである。言語の中に、身振りや行為を捉える必要がある。 人間が語るとき、真相は、超感覚的、霊的存在の中にまで参入し、第3ヒエラルキアである天使、大天使、人格霊に従属している。 上記の真相を、言語の表現の中に見つけることができなければ、この時代は完結できず、紀元二千年紀は最後まで発展を遂げることができない。 言語を通して、人間の魂の声が聴けるようになると、これまでとは全く異なる社会的な共同生活が可能になる。まさに悪の力、いわゆる多くの悪の力が変化させられる。 話の中に、人間の魂を聴きとることができるようになると、或る独特の色彩的な感情が湧き起こってくる。人々の交流が、色彩的な感情の中で、国際的に理解し合えるものになる。人を見て熱を感じたら、その人の話す言葉を聴くことで、感じた熱が色に変わる。 第3に、感情表現を身近に体験するために、言葉に耳を傾けるだけでなく、自らの呼吸の中に相手の感情の様子を体験できる。前に述べた地球進化の未来では、人間の呼吸は、相手の感情生活により左右されるようになる。 相手次第で呼吸が速くなったり、遅くなったりする。そのような呼吸を通して、相手がどんな人間なのかを感じとる。未来の社会共同体の中では、非常に深く、互いに関係し合うようになる。 呼吸と感情との関係は、ポスト(後)アトランティス時代の第6文化期から第7期にまでに深められていく。 (人智学では、現在は、ポストアトランティス文化期の第5文化期に相当する。) 第7期には、これから述べる第4点が達成される。すなわち、人類共同体に属する人は、互いに(表現が汚いが)相手を咀嚼するようになる。食事を味わうときに似た内的体験を相手から受けとる。意志領域での人間は、互いに咀嚼し合う必要がある。 未来では、感情の交流の際に、互いに呼吸を交わす必要が生じる。言語の理解には、互いに色彩として感じ合う必要が生じる。以上のように相手を本当に見ることを学んだとき、相手の自我を本当に知るようになる。 以上のような力全ては、内的=魂的であり、これらの力が完全に育成されるのは、次の木星紀、金星紀、ヴルカン(ウルカヌス)星紀になってからである。しかし、上記の全てに対して魂的=霊的に向き合うことは、既に地球紀の人間にも求められている。 今日の時代の恐るべき破局への転換は、上記に述べた事柄に対する人類の反抗の結果でもある。「人類は、国民ごとにまとまるべきである」、という安易な原則を全世界に押しつけるような事実は、社会的な特定の利益全てが、未来においては、くまなく全体に帰依し、還元されるように克服されなければならないというような事実に対して、人類が反抗している現れである。 (世界統一政府をつくろうとする秘密結社がいる。自分の思い通りになる世界をつくろうとする悪魔の企てに他ならない。この野望は、個人レベルで生きる上では大切だが、公的には認められない。公的には、人類を超えた神々のものだからである。) 今日生じている問題は、神が望んだ人類進化の方向に対する反抗である。いわゆる「悪の秘儀」のための土台を作るなら、人類の反抗に眼を向けなければならない。実際、悪は人類の進化を促進させる際の様々な副作用である。 かなり遠くまで行かなければならない機関車が、傷んだ線路の上を通り、その線路を更に破壊した結果、先へ進めなくなる。 意識魂時代の課題は、目標へ向かって進化すべきである、と意識することなのだが、現在のところ、目標への道は傷んだ線路の上にしかない。 「良い」線路を敷くまでには、まだまだ長い時間が必要である。現在は、傷んだ線路を良い線路と交換しないように、人類が反抗し、色々と工作している最中なのである。
2011年03月04日
コメント(0)
「歴史徴候学から見た悪の問題(上) 高橋 巖:訳」の意訳 悪の本性(上) 近世史を一種のシンボル(徴候、顕現)学として捉えることは、通常の歴史的事実を、その背後に潜む真実が顕在化した徴候(シンボル)と考える態度に値する。 すなわち、歴史に潜む真実を、外的な知覚対象から取り出そうとする態度である。通常の歴史的事実とは、外なる知覚世界の中に認められる事柄だが、それを真実とするのではなく、その背後に存在する真実の開示として見る。 上記の態度が超感覚的な要素を前提とするのは当然である。歴史的な考察を通して、超感覚的存在の真の性格を語るのは、容易なことではない。 なぜなら一般に、人間は歴史上に現れる思想や理念を、即に超感覚的存在だと思っているからである。しかし、地上の世界に現れる感覚や悟性や感性の対象が超感覚的な存在なのではない。 勿論、歴史徴候(シンボル)学への試みに際し、全ての徴候(シンボル)を同価値にみなすことはできない。事件の背後の真実に到達するためには、ある徴候に特別の価値を置き、他の徴候を軽視する、ということもある。 これまでも、多少なりとも重要な徴候を近世史の中から取り上げてきたが、これからは、その背後に存する超感覚的な存在に眼を向け、若干の性格づけを行う。 とはいえ、その本質的な特徴については、既に性格づけを行ってきた。なぜなら意識魂の文化の時代に入ったということが、すなわち意識魂の発達が意識できた、ということは、超感覚的な働きの1つの本質だからである。1つ、というより、これが本質である。 しかし、以前述べたように、意識魂の内的作業を補足すべき、もう一方の極として、霊的な、超感覚的世界からの働きを求める傾向が、人間の中に存在していなければならない。超感覚的世界からの新しい働きかけと遭遇することなしに、人間の意識が進化を遂げていくことは、不可能である。 以上のことをよく心に刻みつける必要がある。…… 現在、生きている意識魂の時代の中で「悪」について語るとき、心を震憾させられずに語ることはできない。悪の問題を語ることは意識魂時代の最も深い秘密に触れることだからである。 (意識魂時代とは、人智学では、ポスト「後」アトランティス時代の古代ローマ以降を指す。) 今日の現代人は、いまだ悪の本質を充分に理解しているとはいえないが、近代における全ての、いわゆる秘密結社の中で、悪と死は秘儀の問題として繰り返し語られてきた。 事実、死と悪とは、現代人の意識の中では、互いに深い関連をもった2つの概念なのである。 従って、次のような問いを投げかけてみたい。 「人類の進化にとって、死は何を意味するのか?」 現代科学にとって、死とは生命の終わりにすぎず、これまでも、その立場から、植物、動物、人間の死が取り上げられてきた。 しかし、人智学の立場から言えば、宇宙の中に特定の作用や特定の衝動が働いており、特定の作用や衝動なしに、人間が死ぬことはできない。 では、人間に死をもたらす宇宙の作用とは、一体全体、死に対する以外にも、別の働きをしているのか? なぜ、そのような問いを持ち出すのか、といえば、人間に死をもたらすのは、この力の副作用にすぎないからである。 例えば、線路の上を列車が走るのは、少しずつ線路や車輪を削り破壊するためである、とは言えない。にも関わらず、列車は少しずつ線路を消耗させていく。列車は線路を消耗せざるをえないが、線路の消耗が列車の走る目的ではない。 以上の喩えと同じように、人間に死をもたらす宇宙の力が、人間に死をもたらすことを目的としている、とはいえない。それは本来の課題を果たすときに伴う副作用にすぎない。 では一体、人間に死をもたらす力の本来の課題とは、何なのか? それは、人間に意識魂の能力を完全に与えるという課題である。意識魂の時代と死の体験とは、霊的に深い結びつきをもっている。その際、問題なのは、人間に意識魂の能力を与えることであり、意識魂を与えることではない。 (意識を与えているのは、生と死の移り変わりがあるからである。3次元空間を、3次元から理解するには外から眺める必要がある。 つまり、4次元から見る必要があるが、それには、3次元を抜け出ないといけないわけで、その4次元軸が時間にあたるが、静止した状態でないと、認識できないわけで、人間は時間を得るために、逐次死んでいる。 1秒前の自分は既に記憶のなかにしかない。つまり、現在の意識をもつには人間自身がタイムマシンにならざるを得ないわけである。スポーツのなかで、作戦変更や判定のために、小休止するのと同じと考えればよいだろう。 これと同じで、人生経験を蓄積し、魂に意識として焼き付けるには、死が必要なのであろう。睡眠は死の親戚である。) 勿論、著書『神秘学概論』で述べたように、死をもたらす宇宙の力は以前から人体に働きかけてきたが、意識魂の時代には、特に、死をもたらす宇宙の力が、人間の魂に働きかけてくる。死の力が魂に働きかけることで、これからの進化の過程の中で、意識魂の能力を完全に開花できるように促す。 さて、同じような形で、「悪の力」についても語ることができる。悪の力も、人間社会の中で、他人に対して悪しき行為をするように人間に働きかけるのが目的なのではない。そのような働きかけは、副作用にすぎない。 死の力が宇宙に存在しなければ、人間の意識魂の能力を発達できないように、悪の力が働かなければ、霊我、生命霊、霊人の力を、人間が発達できない。 霊我、生命霊、霊人という神的存在になるための力(三種の神器)を受けいれるのは、意識魂の働きなのだが、それを可能にするには、意識魂の時代に、死の力を(西暦三千年紀の半ばまでに)完全に自身の魂の本性と結びつけることができなければならない。 人間は、実際、死の力により、意識魂の能力を自身の魂に結びつけることができる。しかし、同じような方法で、悪の力を、自身の魂の本性と結びつけることは容易にはできない。 宇宙における悪の力は、次の木星紀に至ったときにはじめて、現在の死の力を受け入れるような方法で、受け入れるようになる。現在は悪の本質の僅かな部分だけが人間に働きかけている。 悪の力に深く関わっていこうとするなら、この力の外的な結果に眼を向けるのではなく、悪の本性の有り様を探求しなければならない。 今、この問題に触れるとき、前にも述べたように、心を震撼させることなしに語ることはできない。それには最大限に真剣な態度で臨まなければならない。人間の中の悪の本性と遭遇するなら、社会の中の悪行ではなく、悪への傾向を心の中に見つけなければならない。 各人の中に現れる、悪の傾向が生み出す結果ではなく、悪への傾向を生むそのものに眼を向けなければならない。そのときはじめて、意識魂の時代に悪への傾向がどんな人間の中に現れるのかを、問うことができる。 そして、この問いへの答えは、いわゆる「境域の守護霊(霊界の門番)」を通りぬけ、人間の本性を本当に知ることができたときに獲得される。そのとき、意識魂の時代になると、全ての人間の無意識の中に、悪への傾向がある、ということが分かる。 霊界への境域(門番)を通り抜ける人は、意識魂の時代を生きる全ての人が、無意識の中に、悪への傾向をもっていることを経験させられる。その傾向が、悪しき行為を生じさせるか否かは、全く別の事情による。 では一体、この悪の傾向を生じさせる力は、何を求めているのか? 宇宙の中に、この悪の力が存在するのは、人間を犯罪者にするためではない。それは意識魂を通じて霊的な生活を営もうとする傾向を、人間の中に生じさせるためである。 悪の力は宇宙の中に働いている。人間はそれを受けとり、霊的な生活を体験し得る力の種を、自分の心の中に植える。意識魂の次元で、霊的生活への突破口を切り開く。 もし、悪への傾向を、人間が受けとらなかったなら、これからの文化を実らせる霊性を、宇宙から受けとろうとするような意識魂の衝動すらもつようにはならなかっただろう。
2011年03月03日
コメント(5)
現代の文明を過去の文明と比べてみれば、かつてのあらゆる文明には、第一に超感覚的世界や神々へと上昇してゆく概念や理念、すなわち、産出し、創造し、生み出す世界へと上昇していく概念や理念が存在した。 第2に、上記の世界を仰ぎ見るなかで、特に神々に属する概念とともに、人間は地上世界を見下ろし、神々にふさわしい概念と理念で、今度は、地上の世界も理解できた。神々に相応しく、神々に値するよう育成され、以上の理念とともに境域の守護者の前にやってくると、境域の守護者は、次のように言った。 「お前は、(境界を)通過できる、地上生の間に、物質体のなかに、既に超感覚的世界に方向づけられた霊的な器官を、お前は超感覚的世界のなかへと携えていけるからだ。 この器官のお蔭で、物質的-感覚的な世界に帰還するときにも、超感覚的世界を見ることで麻痺させられない力が、お前に残されるだろう。」 今日の人間は、時代の精神に従って、物質的-感覚的世界にだけ適用できる概念と理念を発達させている。これらの概念や理念は、計量可能なもの、測定可能なもの等を扱うが、神々を扱うことはできない。 上記の概念や理念は神々の理解には相応しくなく、神々の理解に値しない。それ故に、神々に値せず神々に相応しくない理念の唯物主義に陥ってしまった魂には、雷のような声が轟きわたる。眠りながら境域の守護者の近くを通りすぎようとするとき、雷のような声が轟く。 「境域(感覚界と霊界との間の境界領域)を越えてはならぬ! お前はお前の理念を、感覚界に対して誤って用いた。それ故、お前はお前の理念とともに感覚界にとどまらねばならない。魂が麻痺したくないなら、お前は、その理念とともに神々の世界に入ることはできない。」 以上のような事柄について理解できなければならない。以上の事柄について、あらゆる思考を駆使するのではなく、以上のような事柄によって、心情を貫き、浸透させ、厳粛な人智学協会のクリスマス会議から持ち帰るべき正しい魂の気分(傾向)に至るために、理解できなければならない。 というのも、人智学徒が持ち帰る他の全てにもまして重要になる魂の気分(傾向)とは、ドルナハにおいて、霊的な認識の中心を生み出そう、という確信を与える気分だからである。 ですから、今日の午前、ここドルナハにおいて育成されるべき1つの分野、すなわち医学分野のために、ツァイルマンス博士(2)が、次のように述べた内容は、非常なる真実味をもって響いた。 「今日の通常の科学の側から、ここドルナハにおいて、医学のための基礎固めとすべき知識へと橋を架けることはできない。人智学の地盤の上に、医学として育つ知識に関して、人智学の論文が、現代の臨床的な要求にも耐え得ると自負するように述べるなら、人智学の本質的な課題をもってしては、決して特定の目標に到達できないだろう。なぜなら、『新薬なら、現在の医学で間に合っています。』といわれるからである。」2)ツァイルマンス博士:F. W. Zeylmans van Emmichoven ツァイルマンス ファン エミヒョーベン 1893-1961 医学博士、オランダの医師、著述家、オランダ地区協会事務総長。とくに『ルドルフ・シュタイナー 伝記』(シュトゥットガルト1961)を著した。 しかし、重要なのは、医学のような生命の実践分野に、人智学を取り入れることである。このことを、ツァイルマンス博士(2)の切望と私(シュタイナー)は解した。というのも、この目標に対し、彼は、「今日、医者になった人間は、自分を医者になった、と言うが、新たな世界の一角から、新たなる衝動を与える知識を切望している。」と語った。 将来、疑問の余地なく、医学の分野においての基礎固めを、ここドルナハから実行していくべきである。人智学のなかに胚胎されていた数多くの分野が活動してきたように、今、また人智学の協力者であるヴェークマン博士(3)とともに、人智学から形成される医学体系を、人類は必要とし、将来の人類のための医学体系が、人智学より築かれなければならない。3)イタ・ヴェークマン:Ita Wegman 1876-1943 医学博士、チューリヒ大学で研究、診療の後、1921年アーレスハイムに臨床医療研究所(現在イタ・ヴェークマン・クリニック)を設立。1923年クリスマスから1935年まで一般人智学協会理事会書紀、自由大学医学部門の長。1924/1925年、シュタイナーの主治医及び『精神科学的認識による治療芸術拡張のための基礎』(GA27)をシュタイナーと共著。 同様に意図すべきことは、祝福に満ちた活動を行っているアーレスハイムの臨床医療研究所との緊密な関係を、ゲーテアヌムとの密接な結びつきとして、できるだけすみやかに近い将来確立することである。そうすれば実際、アーレスハイムの成果が人智学の真の医学的な基礎固めの体系を形作っていくだろう。これが、ヴェークマン博士自身の意図でもある。 アーレスハイムの臨床医療 http://www.swissinfo.ch/jpn/detail/content.html?cid=7333706 さて、ツァイルマンス博士は、医学分野のために、将来、ドルナハの理事会が、課題とすべき分野における人智学的活動を指摘した。この活動分野の事情が、今後わかってくるだろう。 ただし、次のようには望まないで欲しい。 「アーレスハイムに、まずオイリュトミーを持っていこう。オイリュトミーを見れば、人智学について何も知らなくても、オイリュトミーが気に入るだろう。オイリュトミーが気に入り、多くの人がやってくれば、オイリュトミーの根底の人智学を知り、人智学にも興味をもつかもしれない。」 あるいは、「最初に、薬の実効性を示せば、多くの人が薬を買うだろう。薬を買えばいつか、その薬の根底に人智学が潜んでいることを知り、人智学にアプローチするかもしれない。」 以上のような手法を、不誠実とみなす勇気を持たなくてはならない。以上のような手法を不誠実とみなす勇気を持ち、内的な嫌悪感を覚えてはじめて、人智学は世界へと通じる道を見つけることができる。この点において、将来、ここドルナハが、狂信や熱狂でなく、誠実や、真理への愛のなかで堅持すべきものとは、真理への努力である。 真理への努力によってこそ、過去数年に、かくも甚だしく働いた夥しい不正を、改善してゆくことができる。 軽々しい思いではなく厳粛な思いをもって、人智学協会設立に通じた、このクリスマス会議を終わらなければならない。けれども、クリスマスに、ここドルナハで起こった出来事から、もはや厭世(ペシミズム)を持ち帰る必要はなくなった。 確かに人智学徒は毎日、悲惨なゲーテアヌムの廃墟の前を通っているが、例えば、このクリスマス会議のために、丘を登り、廃墟の傍を通り過ぎた、どの魂のなかにも、このクリスマス会議を通じて、ゲーテアヌムが、ありありと目に見えるように、心のなかでの理解を通じて、次のような思いが起こってきたように思える。 再建されつつあるゲーテアヌムからの真の精神的な生活として、将来の人類の恵みのために、勤勉や帰依を通じて、是非とも生み出すべき霊的な炎が、必ず出現する、という思いが起こってくる。 人智学上の課題を行う勇気をもって、ここドルナハから出かけて行くほど、人智学徒の集いによる、このクリスマス会議において、希望に満ちた霊の行進のように進行したことを、一層よく聞き取ることになる。 というのも、退廃した文明や学校とともに今日ある人間が、境域の守護者の前で眠っている魂をもつというような、これまで描写し、しばしば目にもできる光景が、感受性のある人智学徒たちには存在しないからである。 やはり、状況によっては、次のような勧告を要するものもある。 「お前が、霊の国からの声を聞くためには、この声を自ら認め、発展させる強い勇気を持たなければならない。お前は目覚め始めているが、勇気の欠如により、眠ってしまっている。」 勇気を出すように勧め、勇気による目覚めへと勧告する声が、現代の文明生活における人智学徒たちのための変容である。人智学徒でない人間には、次のように聞こえる。 「霊の国の外にとどまるがいい。お前は理念を単なる地上的な対象に誤用した。お前は、神々に値するような、神々に相応しいような、どんな理念も集めなかった。それ故に、お前は、物質的-感覚的世界に再び帰還する際、麻痺せざるを得ないだろう。」
2011年03月02日
コメント(0)
「私たちにとっての死者 高橋 巖:訳」の意訳 死者 今から30年以上前にゲーテに関する本を書いたが、資料や文献に基づいた他の学者的な手法で書いたのではない。もともと、私(シュタイナー)にとっての関心の的は、私が問題とする領域に関して、ゲーテが現代人に何を語ろうとするか、を表現することだった。 ゲーテを研究するのは、死んだゲーテのところに行くためではなく、ゲーテの遺産を通じて、生きたゲーテと遭遇する方法を見つけるためである。 死者も生者と変わりないという事実や、現に死者が生者の世界にまで働きかけている事実や、ただ肉体を纏いながら行動している生者に対して、死者は(肉体をもたずに)霊として一緒にいる点だけが異なる事実等を前提として、今も生者の魂に語りかけるゲーテに出会う方法を見つけようとした。 では一体、キリスト教共同体は本当に死者と生活を共にしているのか? 確かに利己主義的な「不死への信仰」は存在しているが、それが悪いというのではない。なぜなら人智学により、この世の生者とカルマ的に、何千、何万の糸で現在も結びついている死者たちに遭遇する方法を見つけることができるからである。 この地上に生じる出来事には、生者たちの衝動だけが働いているのではない。死の門を通過した後の人間も、この世への働きかけをやめてはいない。 人間は完全に覚醒しているわけではなく、部分的にしか覚醒していない。知覚し、イメージするときの人間は覚醒しているが、感情を働かせるときの人間は夢見心地(夢を見るとき)の(主観的な)意識でいる。 人間の感情は、夢見心地と同程度の意識水準の中で営まれている。更に、意志を働かせるときの人間は、完全に睡眠状態である。夢を思い出すことはできるが、通常の覚醒意識においては、腕を動かすときの意志が、どのように働いているか、を知ることはできない。 人間は、感情の中では夢見状態で、意志の中では眠っている。 さて、感情と意志とを働かせているとき、その周囲を霊界が取りまいている。ただ通常の覚醒意識では、霊界が見えないだけである。霊界から知覚と思考によって、人間は引き離されている。知覚し、思考し、物質界を享受するとき、死者たちが、地上の人間の間を往き来している。 人間は、人生を生き、死の門をくぐる。死の門をくぐってもまだ地上の生活との結びつきを失わない。様々な糸が、死者から地上の存在にまで通じている。生者とカルマ的に結びついている死者たちが、感情や意志に働きかけなければ、生者は感情を持つことも、意志を働かせることもできない。 現代人は、一般的に、死後、もはや何も残らないものと信じている。失われることのない過去の生活の数々の経験を、生き生きとした形で肯定することを教えるのが人智学である。 (先祖供養は、死者との糸を強化することにつながるようである。感情や意志は霊界からくるので、感情が安定せずに、意志が薄弱なのは、先祖や死者との霊的なみえない糸が弱いともいえる。 素粒子物理学でいうなら、例えば、電荷は、本来、無限大の地をもつが、周囲の電場により、遮蔽されているので、有限値をもつという繰り込み理論により、実測値が計算できるが、また、原子核を結合していると考えられているグルーオンなる仮想粒子の作用は、単体なら非常に微弱だが、集まると増幅するという摂動論で実測値が求められるが、以上のような現象と同じように感情や意志を考えればよいだろう。) 人間が成長を遂げるのは、この地上だけではない。死の門を通った後も、人生を豊かにし、叡智を深めていく。この事実を人間は深く実感すべきである。 この世の出来事についての意見を聞くべき賢者は、死者である、ということを、将来、人間は理解するようになるだろう。 現在、人間は意識魂を形成中である(意識魂については、著書『神智学』を参照のこと)。その次に来る文化は霊我を形成する。 霊我は、死者が、この世を生きる人間の助言者になることなしには、決して形成されない。
2011年03月01日
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1