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こんばんは、鎌田です・・・えっと、最近、テレビCMで「自分の名前を見つけよう!」ってやってるじゃないですか。さっき、ごはんを買おうと思ってスーパーに寄ったですよ。そしたら、箱ごと積まれて、いっぱいあったですよ。・・・別に、買おうと思ったわけでも「KAMATA」を探そうと思ったわけでもないんだけど・・・箱の中身、ぜんぶ確認したけど、ぜーんぶ「YOKOYAMA」と「SATO」だったですよこれじゃ、探しようがないじゃないか。。。kama・・・っていうか、「佐藤」はともかく、なんで「横山」だらけなんだ??
2014.05.31
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第25章】へもどる)かつての生徒であった中島からのハガキは、ただ「お元気ですか?」というだけの内容だった。しかし、郵便配達員さんの心遣いに運命的なものを感じた佐々木は、 中島に連絡をとり、数年ぶりに会うことにした。 所沢で待つ佐々木、小田切、鎌田の前に現れた彼女は、 当時よりいくぶん大人っぽくなったものの、 基本的に、以前と変わらぬ雰囲気だった。 中島は、浪人中であった。 偏差値70の有名大学付属高校に合格を果たしたものの、 中島はそれを蹴って、都立高校に進学した。 彼女の高校は、地域ではトップクラスのところであったが、 公立高校の限界か、多くの生徒が浪人する結果となる。彼女もまた、自分の愛する塾が崩壊し、勉強の場を失い、 現役での大学進学は成らなかったのであった。 所沢で、ひとしきりお互いの近況報告をし、 中島の現状を知った佐々木らは、 彼女に最大限の協力をすることを約束した。 「彼女の今の姿には、自分たちにも責があるやも・・・。」 佐々木はそう考えたのかどうか・・・。 程なく、愛夢舎で勉強する中島の姿が見られるようになった。ただ、彼女は授業に参加したわけではない。 「授業」は、受験勉強においては、その苦労をやわらげるための「麻薬」のようなものである。 「授業」で、楽しく、分かった感を感じ、理解のきっかけをつくり、あとは自分で復習、問題演習を繰り返す。 結局、得点力を伸ばすのは、自らの努力にほかならない。言い方をかえれば、授業を受けずとも、ひたすら問題集、参考書と向かうだけで、 十分学力は身につく。ただ、それには強靭な忍耐力が必要になるだけ。 中島は、ひばりヶ丘在住であった。にも関わらず、武蔵藤沢まで毎日のように足を運び、ほかの生徒と関わらないよう、奥の部屋でコツコツ勉強をすすめる。 佐々木、小田切らが授業の合間に様子を見に来て、まとめて不明点を質問する。家や図書館でもできそうな方法であるが、 中島にとって、佐々木らの見守る中で勉強すること自体が重要だったのかも知れない。だとすれば彼女の「時計」もまた、動き始めたと言える。 3月。 中島は浪人生活にケリをつけ、 大学に進学することになった。 と同時に、新たな先生、「中島先生」が誕生した。 どういうわけか、愛夢舎に通う生徒たちは教育関係の仕事に興味を持つようになることが多い。いつの頃からか、中島も塾での勤務を希望するようになっていた。 素養があるかという点と、授業ができるかという点は、また別の次元の問題だ。しかし「素養」という意味で言えば、 中島はある意味、佐々木らの教育理念を体感し、 誰よりも理解している一人であった。 中島は、愛夢舎初の時間講師として、 長く勤務することになった。また、これを皮切りに、 愛夢舎では時間講師の採用を行うようになっていく。 2008年に至るまで、 中島を含めて4人の時間講師が勤務してきた。 東京大学を卒業し、法科大学院に通いながら、 何年も司法試験の合格を目指す者。商社就職の内定を勝ち取った後、 卒業までの残りの時間を、人と接し、 自分を育てることに充てた大学4年生。そして、中島同様、 愛夢舎で受験勉強をすすめ、やはり学校教員を志望し、 大学入学と同時に勤務をはじめた卒業生。 タイプはそれぞれ異なったが、 佐々木が採用を出す共通点がある。 それは自らが夢に挑戦していること。 生徒に夢を実現することを語るのに、 自らが夢を持つことは、佐々木にとって最大のポイントである。 採用に至らなかった者も数多くいた。 一旦、愛夢舎の教育理念にあこがれをもち、 「こんな教育が理想だったんです!」と、 目を輝かせてやってくる。しかし、現実の姿を見ると、 「自分には、これは重すぎて、とてもできる自信がありません・・・。」と、 数回の見学で辞退していく。 佐々木の方から不採用を言い渡したことは、 実は、一度もない。 見ればみるほど愛夢舎が好きになっていく。そういう人たちが、講師として勤務に入る。 共通しているのは、夢を追う人たちであること。愛夢舎は、講師採用においても、来るものをこばまない姿勢をとっている。 ~【第27章 そして、彼は去っていった】につづく
2014.05.31
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こんにちは、鎌田です。今日は、まるで脈絡もオチもないハナシを、いくつか・・・【イメージ広告】今さら・・・っちゃあ、今さらなんだけど・・・。 テレビショッピング、あるいは、実演販売なんかで調理器具を紹介してることがあるじゃないですか。たとえば、フライパンとか、ミキサーとか、包丁とか。 それで、紹介しているフライパンでパンケーキ焼いたり、ミキサーでジュース作ったりしてみるじゃないですか。それで、出演者が試食してみるじゃないですか。「わぁっ!!!!おいしいっ!!!」「これはいいですねぇ!!!」・・・って、調理器具の宣伝か 【めんどくさい礼讃】以前にも書いたことがあると思うんだけど、僕は、「めんどくさい」は残していくべきで、「めんどくさい」を取り除いてきたから今の世の中、ロクなことがないと思ってますたとえば、回転寿司。回ってるのを無言でとるか、あるいは、ボタンをピッとやって注文するから、子どもたちは「人に話しかけてよいタイミング」をはかるのがとっても苦手で、その人が今なにをしてるか、まるで考えることなく、突然自分の都合で話しかける。あるいは、板さんに声を出してお願いするということを練習しないから、先生にハンコを押してもらうときにも無言で記録表を突き出してくるお店での注文なんて、めんどくさいほうがいいに決まってます。タイミングをはかって、自分の声でお願いする。そんなことできなくて、どうする。昨日の授業のときにある生徒が給食のカレーについてハナシを切り出した。なんでも、その子は給食のカレーライスというのはごはんの上にあらかじめカレーがかかっているものだと小学生の頃に思ってきたらしくてだから、別盛りが出てきたことに驚いたらしい。でも、カレーってちゃんとしたレストランで頼んだら別盛りですよね。カレーがかかった状態のカレーライスなんて、ココ壱とか、すき家とか、ファストフードのお店くらいでしょう。 あ、でも、煉瓦亭なんかの洋食屋もかかってるな・・・。大阪の「名物カレー」もかかってるな・・・。まあ、それはどっちでもいいんだけどね^^;とにかく、別盛りカレーのハナシをしてたら同じ教室の中学生がボソリ・・・。 「・・・別だと いちいちかけるのが、めんどくさい。」 もうね、白飯かきこんでカレー、飲めばいいじゃん カレーをかけるのすらめんどくさい彼ら、「そば屋」に行って、薬味を猪口に落としーの、おそばを箸さきでつまみーの、つゆにつけていただきーの、なんてなったら、もう「めんどくさい」の極地なんだろうか。世のおかあさんたち、食卓には、できるだけ「めんどくさい」おかずを、ぜひ!! 【コスパ】ゆうべ、ひとりの先生がエレキ・ベースの弾き方を教えてほしいと、授業後にベース持ってやってきた。最近買ったらしい新品のそれは「Cort」(コルト)とかいうブランドのヤツで、なんだかわかんないけど、とにかく、軽かった。「・・・軽いね。 ・・・これ、29800円くらい?」「いや、19800円です。」 ふーん、安物か・・・。 ・・・と思ったんだけど、ギターを弾く、他の先生も「コルトを買おうと思ってる」という。意外と人気があるようだ。ここのギターについて、ちょっと調べてみたんだけど・・・。 ・・・なんでEMGを2つ積んでて(81&85)4万円程度なの? ・・・最後のハナシは、ギター弾きにしかわかりませんねkama
2014.05.30
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第24章】へもどる)2003年秋。 鎌田が愛夢舎に加わって数ヶ月が経った。 前の会社を退職した鎌田は、およそ一ヶ月の充電期間を自ら設けて、実家で過ごした後、 夏期講習会から「塾講師」として復活した。いきなり、朝から晩まで一日7~8コマの授業、そして、彼の塾業界での「時計」が止まった夏期合宿と、あれよあれよという間に流れていき、 秋にはすっかり「塾屋」としての感覚を取り戻していた。 佐々木、小田切、鎌田の3人がそろったことで、 「当時の話」に花が咲くのも無理はない。 当時を知らぬ三輪が「へぇ~、すごかったんですね。」と耳を傾ける。そんな場面が授業後の校舎でよく見られるようになった。昔話の中で、当時の生徒の話題もよく出てくる。 当時の中学生も、もう大学生になっている年齢だ。ひとりひとり名前を思い出しながら、 話に花を咲かせた。 あるとき、郵便局から連絡があった。佐々木宛に一枚のハガキが来ているという。 夜逃げ同然の形で引っ越してきたため、 愛夢舎の住所は、以前の塾の関係者には知られていない。だが、ハガキの差し出し主は昔の生徒であった。 中島典子。佐々木、鎌田がひばりヶ丘で、高校合格まで面倒をみていた生徒である。(Zapping⇒⇒⇒【第10章 ひばりヶ丘黄金期】へジャンプ)その後、母体が倒産し、各校舎単位での経営となってからも、 元社長のそばで、彼女が高校2年生になるくらいまでは、ひばりヶ丘の塾に通い続けていたというウワサを聞いている。なぜ突然・・・。どうやって、愛夢舎の存在を知ったのか? 佐々木がまず思ったのは、 元社長が仕組んだ「罠」ではないか、ということだった。佐々木には塾の外部に「仲間」がいた。 佐々木と同時期に独立し、 同じように元社長のコンサルティングを受けながら塾経営をしてきて、やはり元社長との闘争に踏み切った同志たち。 聞けば彼らは、元社長の執拗ないやがらせに嫌気がさし、 結局示談金を支払ったり、 何の損害だか分からないが、「賠償金」という名目で金銭を支払ったりしていた。この部分については、佐々木だけが被害を受けていなかった。今頃、元社長は「佐々木からだけ、金を取れていない」と、キリキリ舞いしているかも知れない。 「佐々木はどこに行った?」と。そこで、なんらかの手段で今の所在を発見し、 中島を使って探りを入れてきたのかも知れない。まだしつこく追ってくるのか、あの男は・・・。一瞬そんなことを思った佐々木ではあったが、ハガキの主が、あの中島である。 誰よりも佐々木に懐き、自己をしっかりと持った、やけに大人びた中学生であった中島が、そんな姑息なことに手を貸すとは考えにくい。また、鎌田は元社長が実は「小物」であったことを知ってしまっていた。 塾で働いていた頃は、社員の掌握の仕方や様々な演出によって、なるほど「スゴイ人」であるように思っていた。 鎌田のみならず、働く全社員が「社長には逆らえない」と思っていたフシがある。しかし、塾を離れ、大手塾がひしめきあうような「業界」の中で過ごす中で、 元社長の卑小さがどんどん明らかになっていったのである。 業界内で、どれほど彼の名前が知られていないことか。また、知っている人がいたとして、どれほど「大したことないヤツ」として扱われていることか。どれほど業界内での影響力がないことか。所詮、町の小さな個人塾の塾長としての位置づけでしかなかった。 そこで、佐々木は郵便局に連絡をとって、ハガキを受け取ることにした。 真相はこうであった。 中島がハガキを出した宛先は、前の武蔵藤沢校であった。 当然そこに佐々木たちはもういない。 普通なら「転居先不明」で、返送されるはずであったが、配達係の郵便局員さんが、たまたま佐々木の名前に見覚えがあった。 「佐々木さんって、 確か別のところで塾をやっていたような・・・。」そこで、局員さんは親切心で、 「もしやお宅ではありませんか?」と知らせてきてくれたのであった。 なんという偶然。もし配達員がほかの方であったとしたら、ハガキが手元に届くこともなかったろう。もしその配達員さんが、 「佐々木圭」の名前を忘れていたとしたら、それはそれで、ハガキは返送されていただろう。 佐々木の言うことの裏づけのようであるが、これを偶然と呼べるだろうか。こうして、中島は「必然の運命」として、佐々木との再会を果たすことになった。 ~【第26章 先生】につづく
2014.05.30
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第23章】へもどる)2003年7月。 鎌田は7年近く暮らした「ひばりヶ丘」を離れ、 武蔵藤沢に引っ越した。 引越しには、佐々木、小田切、三輪がかけつけた。 数ヶ月にわたる相談を経て、 鎌田は佐々木と小田切の下に「返る」ことにした。(Zapping⇒⇒⇒【Kama Final 時間は動き出す】へジャンプ) 愛夢舎の経営状態は、佐々木から逐一聞いていた。 自分が行くことで、佐々木、小田切にはもちろん、 新人の三輪君にも負担をかけることになるのは分かっている。それでも、佐々木は何年経っても「ウチにおいでよ」と鎌田に言い続けた。 小田切と三輪も、鎌田が来ることになったことを知ったとき、普通に歓迎した。それが、鎌田を呼び戻す結果となった。 こうして、愛夢舎は専任4人体勢となった。一教場の学習塾に専任が4名。 企業人として、多くの学習塾の経営事情を見てきた鎌田にとって、それがどれだけ異常な状態であるか、 計算するまでもなく分かった。愛夢舎を続けていくには、愛夢舎が発展するしかない。 生徒が集まって、校舎を増やし、 先生も増え、みんなが幸せになる。そのために来てくれ。佐々木が鎌田に与えた問題は、とても難しいものだった。 このときから、 鎌田は頻繁に「時計が動きはじめた」という表現を使う。 例えば鎌田にしてみれば、やり残したその続きが始まった。 以前の塾にいた頃、実は鎌田は、自らが面倒を見続けた生徒を卒業まで送り出したことがなかった。新人として「ひばりヶ丘教室」に配属となり、およそ一年、受験生をはじめとする生徒を指導し続けたが、 受験直前、清瀬教室に異動となった。 次の年、清瀬の生徒の面倒を見てきたが、やはり受験直前で校舎が閉鎖となった。 小田切とともに新所沢で生徒指導にあたったときも、 夏を過ぎたと同時に、社を離れる結果となった。他の会社で活躍を続けても、彼の中の時計は当時のままであった。 愛夢舎に来ることで、その「止まった時計の針」が再び動きはじめた。 不思議なもので、動きはじめた「時計」は、愛夢舎全体を巻き込んだようである。佐々木と鎌田と、ふらりと立ち寄った店で、 大分昔、以前の塾で佐々木がお世話になった先輩との縁が戻る・・・。あるとき塾を訪れた方が「姉があの塾で大変お世話になったんです・・・」と、 実は昔の「よき時代の塾」の理解者であって、 佐々木らが「あの塾」の残党だということも知らず、 偶然のように、愛夢舎にその弟が入塾してくる。時は前後するが、近隣の中学校の体育祭に出かけると、小田切、佐々木が新所沢で指導していた生徒が、 教師として活躍している・・・。 ウソのような話であるが、 佐々木、小田切、鎌田が、 以前同じ塾で勤務していた頃の「時間軸」に戻ったかのように、 環境が酷似してゆく。一点違うのは、当時のようにベクトルが破滅の方向を向いているのでなく、発展のベクトルであったこと。そこから1年程度の期間で、 生徒は倍増することになった。 佐々木はよく言う。「世の中に『偶然』なんていうことはない。 必ず『なるべくしてなる』ものだ。」 鎌田が塾に「復活」して数ヶ月後、 愛夢舎は、さらなる「必然の再会」を果たすことになる。校舎を飛び越えて、 唯一、鎌田が自分で卒業させたと認識し、 佐々木が何年経っても、やはり気になり続けていた ある生徒との再会・・・。 ~【第25章 郵便屋さんの贈りもの ~なかじ】につづく
2014.05.29
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第22章】へもどる)1999年9月。鎌田は佐々木、小田切の残る倒産直前の「塾」を退職した。(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ)「塾」を離れた後、 彼は他の塾へ就職しようとは、微塵も考えなかった。前の塾以外で教えるつもりは、全くなかった。教育業界には残ろうと思った。そして、今度は「先生を指導する立場」に興味を持った。ひとりの講師が教えられる生徒は、せいぜい同時に数十人であろう。しかし、自分が10人の教師を育て、 彼らがそれぞれ10人の生徒を育てたら、 100人の生徒が育つことになる。そう考えた鎌田は、教育業界専門の人材サービス会社に就職したのだった。 全生徒数が50000名を超える、 全国チェーンの学習塾経営を中心とする、社員800名の総合グループ企業。(数値は当時のもの)その中で、鎌田は本社傘下において新規事業となった子会社の創立メンバーとなった。当時の社員はわずか5名。 親会社が大きいといっても、 鎌田が所属する子会社はベンチャー企業もいいところだった。 2003年4月鎌田は28歳になっていた。 会社は平均的な黒字経営が続くようになった。 社員も30名まで増えていた。ここに至るまで、 営業、人事、企画・システム開発ほか、およそ経理以外の全ての部門に関わり、会社の基礎を築いてきたのが鎌田だった。いざ会社が軌道に乗り、鎌田にはコンピュータシステム管理部門の責任者のポストが用意されることになった。 ただ、彼本人は、コンピュータ業務をしたいわけではない。あくまでも「教育業界」にいたかったのである。それに、ここに至るまで、会社の全部門を築いてきた。 地盤もでき、落ち着いたので、もう、平安に暮らしなさい・・・。 おそらく会社が用意したポストは、鎌田の功績を認めた上のものであったろう。これからは、もう少し楽をして、その代わり「管理業務」を中心にやってくれ、と。 鎌田は、この会社で自分がやるべきことが終わったことを感じていた。もう自分がいなくても、この会社は勝手に成長していく。 社員もどんどん増えていくだろう。 自分も、「このイスに座っていれば給料がもらえる」そんな役割を過ごせばよい。だが・・・。 過去に「塾」を辞めるにあたって、 鎌田には両親に頭を下げた経験があった。それゆえ、せっかく入った比較的大きめの会社での「安定」を、 簡単に捨て去ってよいものか。 前は「『自分のやりたいこと』なんて、勝手だ」と叱られた。自分にはまだ「自分のやりたいこと」を追う資格があるのだろうか。第一、今の会社に大きな不満があるわけではない。 仕事以外にも目を向けて、 楽に暮らしていけばいいじゃないか。 さまざまな葛藤が彼を襲った。 内臓に神経性の炎症を起こし、体重も激減した。 自分には、まだやり遂げていない、 他にやるべきことが残っている。だから、この数年間、 休日を返上して「出かけて」いったのではないか。まだ自分の中では「完結」していないのだ・・・、いや、何を考えている、この座を捨てるのは「愚の骨頂」だ、 誰がどう考えてもアホな行為だ、やめておくべきだ・・・ だが・・・。 あるとき、独身にも関わらず、 30歳にして都内にマンションを購入した同僚が、 酒の席で鎌田にぼやいた。「あ~あ、家、買っちまったしなぁ・・・。あと30年、これを続けなきゃなんねぇんだよなぁ・・・。」 28歳の鎌田は、迷いを断ち切った。 ~【第24章 そして彼らは集まった ~Reunion。時計は動きはじめた】につづく
2014.05.26
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第21章】へもどる) 2002年12月末。矢吹の辞意を受け、愛夢舎の面々は新しい講師探しに入った。学校教員や塾講師の採用活動を主業務としていた鎌田にも協力を仰いだ。(Zapping⇒⇒⇒【kama 9】初の『派遣教員』誕生 へジャンプ) 鎌田は鎌田で、自身の培ってきたコネクションを利用し、人材探しの一助を担った。鎌田は佐々木に、いくつかの募集手段を提案してみた。かつてのような大規模な採用活動は到底できない。 時間もない。 提案した鎌田自身も効果については半信半疑だったが、 佐々木が試した手法は、Webによる講師募集であった。 現在は関連のサイトが多く存在するが、 当時は数える程度しかなかった。 講師を目指す人にとって、それらがどれほど認知されているものか、 鎌田も大して期待はしていなかった。佐々木の書いた原稿がWeb上に公開された。 果たして、5名ほどの応募者が集まった。意外と効果があるもんだ。 佐々木以上に、鎌田が感心していた。 「応募」⇒「書類選考」⇒「試験」⇒「面接(複数回)」これが企業組織の一般的な採用までの流れであろう。しかし、愛夢舎では応募者に対して、これとほぼ逆の流れで採用活動を進めていく。すなわち、まず面接を行う。このときも同様で、それは時間がなかったからという事情からだけではない。数千人の応募者から採用者を絞り込む「新卒採用活動」。その中心となって数年の経験を積んできた佐々木にとって、 面接の重要さは、他の選考試験のどれをもはるかに上回るものであった。またそれは、人事専門企業に身をおき、毎年数千名もの学校教員志望者の面接を行ったきた鎌田にとっても同様である。 「人は結局、会ってみなければわからない」。 Webサイトに愛夢舎の講師募集記事が掲載されて間もなく、 佐々木は鎌田に一本の電話を入れた。 「ひとり、すごくいいヤツを採用したよ」。 新たに採用となった彼は、たまたまWebサイトの記事を見て、 愛夢舎に興味を持った理系の学生だった。 大学時代に、個別指導の塾でのアルバイトを経験した結果、 理系学生としては大変珍しい、塾業界への就職を第一志望としているという。また、すでに日本一の売上高を誇る大手進学塾の採用内定も獲得しているという。 「そんなヤツが、なんでまたウチみたいなところに・・・」 佐々木は不思議に思ったが、ともかく会ってみることにした。 同じ埼玉県内ではあるが、割と遠方に住んでいたため、 電車で武蔵藤沢駅までやってくることになった。 当時の愛夢舎は、武蔵藤沢駅からは、歩くと30分程度かかった。面接当日は、小田切が車で迎えに行くことになった。 写真も何もないので、どんな風体だか、分からない。「お互い、スーツを着ているはずだから、 声をかけあいましょう。」そんな適当な打ち合わせであったが、 小さな駅だから大丈夫だろうと、小田切は考えていた。それでも、スーツを着ている人が何人もいたら困るので、年齢は24歳、 大学まで長きにわたって剣道に打ち込んできた青年であるという予備情報を得て、 小田切は駅に向かった。駅に到着すると、果たしてそこにはスーツを着た青年が待っていた。長きにわたって「柔道」をたしなんできたような風貌のその男が、三輪卓也であった。 三輪を車に乗せ、愛夢舎に戻る間のわずかの時間で、 小田切は「コイツにしよう」と思ったという。そして佐々木もまた、三輪に会ってほんの10分程度で決めた。「この男にしよう」。 三輪本人は、愛夢舎をいたく気に入り、 大手塾の内定を蹴って、愛夢舎で働きたいと言う。 向こうは、株式上場を果たしている、最大手塾。こちらはできたてほやほやで、毎月の給料の保障すらままならない塾。なんでまた、せっかくの内定を蹴ってまで、リスクを冒すのか。三輪にしてみれば、これから発展するか衰退していくか分からない、しかし、発展するならば、自らの手で発展させていくことができる、そんな「成長の可能性」にひかれたようである。 彼はベンチャー志向型の人間だった。 佐々木からの電話を受け、三輪の採用確定を知った鎌田は、 他人事ながらほっとした。「体育会系の理系学生」。 一言でまとめても、評価すべきポイントは2つもある。 講師職といえば、「ホワイトカラーのブルーワーカー」なんて評されることがあるくらい、スーツ姿の見た目には想像できないほど、はっきり「肉体労働」であり、 根性がモノを言う。 体力自慢は大歓迎である。また、塾業界で徹底的に不足しがちな講師が、数学と理科、すなわち「理系講師」である。 例えば、大学生に対して「中学生にいずれかの教科を教えるとするなら、何がよいか」と尋ねれば、ほとんどの学生は「英語」と答える。 理系学生は、卒業後も研究職か技術を活かせる企業への就職を志望することが多いため、 教育業界では慢性的な人材不足に陥るのである。 三輪の採用確定によって、 彼がどのくらいの期間で戦力となり得るかにもよるが、とりあえず矢吹が退職することによるダメージは最小限にとどめられそうだった。 また、愛夢舎に「新しい血」が加わることにもなる。 佐々木、小田切をはじめ、 矢吹ほか草創期を築いた職員も含め、全員、前にいた塾で育った人材であり、 必然的に、仕事に対する考え方、手法など、ある程度同じ方向を向いていた。そこに、全く未知の三輪が加わることにより、どのような「化学変化」を起こすものか。 愛夢舎は、新たな方向に向かうことになるかも知れない。 ・・・それはそれとして、 矢吹退職の知らせを受けて、 鎌田は鎌田で思うところがあった。 ~【第23章 究極の選択】につづく
2014.05.25
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こんにちは、鎌田です最近の、自習室前のパーテーションの様子です。非常勤スタッフのプロフィールを貼ってあります。自分が受けている授業の担当の先生はもちろん生徒たちもわかるけど、それ以外の先生や、チューターの先生については「・・・え?○○先生って、だれ?」・・・・・・となってしまっては、せっかくの先生たちの力も発揮されないので、特に、塾に入りたての子が質問するときに困らないよう、顔写真と、勤務している曜日、得意教科やその他の情報をこうやって掲示しているというわけです。この4月から、新しく4~5人の先生が増えています。去年から通っている生徒たちもまだまだ馴染んでいないようす。。。ほら、新人の先生たち!とっとと名前を覚えてもらって!!生徒たちが質問の行列をつくるようにならんとね!!!・・・ところで、「先生が増えている」といいながらも、実は、ウチも慢性的な「人手不足」。。。いや、授業が実施されないとか中途半端な指導になってるとか、そういうことではないですよ。逆に、高いクオリティの授業・指導をキープしようとすると「なんでもかんでもやってくれ」にはできないでしょ?最近、某ファストフード店では人手不足で営業できない、なんてことが起こってるようですね。ウチは、営業できないってことにはならないんだけど、まあ、新しいパワーを常に欲しているという意味において、人手不足です。 昨今の「人手不足」のニュースをみていたら、学生さんが「時給の良しあしではなくて、 自分のスキル向上につながる、 先々につながるようなアルバイトをしたい」とインタビューに答えていた。うんうん、みんなしっかり考えているようです。そしたら、塾のアルバイトはどうでしょう?自分たちで言うのもなんだけど、間違いなく、スキルアップになります。 ・・・ということで、こんなところで「求人」のおしらせ、っていうのはウチとしては極めて珍しいんですが愛夢舎で生徒指導にあたってみたい、というみなさん、ウチは、常時新規スタッフ募集中です。(講師職・チューター職・事務職)ご興味のある方はぜひ一度お問い合わせくださいませ。kama
2014.05.24
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。現時点で、全33章。各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第20章】へもどる) 2年の歳月が過ぎた。 2001年3月、「学習塾愛夢舎」の記念すべき第1期卒業生が巣立っていった。 不要な圧力から逃れた佐々木、小田切、矢吹の3人は、本来の「心」を取り戻した。これまでの出会いは「音楽」をきっかけとしたものであったが、矢吹もまた、かつて「音楽」に魅せられた者だった。 2001年4月には、企業人として活躍するようになっていた、かつての盟友・鎌田を加えて、「愛夢舎バンドライブ」を開催するに至った。佐々木、小田切にとっては、6年ぶりとなる「職場内バンド」であった。(Zapping⇒⇒⇒【Band 1】第1回 愛夢舎バンドライブ を振り返る へジャンプ) 2002年の冬。佐々木は鎌田との連絡を密にとっていた。もしかすると窮地に追い込まれるかも知れない。 矢吹は秋あたりから、鎌田に頻繁にメールを送り、自分の進退についての相談を行っていた。鎌田は第三者でありながら、愛夢舎に出入りしており、塾の様子を客観的に見ることのできる立場にあった。また、鎌田の当時の職は、大手から小規模まで、数多くの学習塾や私立学校の内部事情を知る立場にあった。矢吹が敢えて塾外の人間に相談をもちかけたのは、そのあたりが理由になるだろうか。ともかく、矢吹は鎌田に、「自分は愛夢舎を去るべきか否か、考えている」という旨をストレートに相談した。鎌田と佐々木の信頼関係は深く、それは矢吹も知っていたことであろうから、当然、鎌田に相談することが佐々木に筒抜けになることも分かっていたはずである。・・・鎌田を通して、佐々木に伝えて欲しかったのかも知れない。 佐々木は強い説得を試みなかった。愛夢舎をさらに発展させていく自信と使命感はあった。その発展のプランの中に、矢吹の名前をあったであろう。それでも、進退を考える者は、自分の人生の発展を考え、身を切るような思いで新たな道を切り開こうとしているのだから、その判断は何より尊重しなければならない。 佐々木は、自分の下で働く者に、いつでも同じことを言う。「他で頑張りたくなったら、自分を向上させたくなったら、いつでも遠慮せず、言いなさい。自分は止めない」と。 矢吹が去れば、愛夢舎の運営上、困ることは目に見えていたが、佐々木は同じように接したに違いない。矢吹は、2003年2月末、第3期卒業生を送り出すと共に、自らも愛夢舎を去ることを佐々木に告げ、佐々木もこれを快諾した。お互いの今後の発展を祈念して。 ~【第22章 そして彼は武蔵藤沢に降り立った ~Neo Blood】につづく 注.愛夢舎を去った矢吹は、現在某私立大学の事務職に就かれています。大学職員として忙しい毎日を送りつつ、ご家庭も持たれました。住所も近い小田切とは、仕事を超えた交友が続いています。
2014.05.24
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こんばんは、鎌田です・・・このはじまり、このところ「愛夢舎ヒストリー」の再掲載を中心にブログ更新をしていましたのでおひさですね~~~この4月からまた新しく、先生たちが増えていますでも、ウチはちゃんと生徒の前で「楽しく、わかりやすい授業」ができるようになるまでは教壇に立たせませんその結果、連夜の「練習」です。生徒たちが帰った後、22時からが彼らの「練習」の時間です。みんな、早く生徒たちに「伝えられる」ようになれるようにがんばれ~~~っ!!!!・・・ねむいやzzzkama
2014.05.23
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第19章】へもどる)2000年9月。「学習塾愛夢舎」が産声をあげた。もっとも、在籍する生徒は前の塾のままであったし、佐々木をはじめとするスタッフもまた同じままだったが、 校舎も移転し、心機一転したみんなの心は晴れやかだった。無論、いきなり経営状態がよくなるわけはない。 相変わらず、小田切や矢吹の収入は少なかったし、佐々木、小田切、矢吹の3人で授業後にトシエの手料理を囲む姿も変わらない。 だが、ベクトルの向く先は、確実に変わっていた。 新たな校舎の立地は、お世辞にも、良いと言えるものではない。以前の塾は、大通りに面し、 近くに複数の小中学校があった。それに対し、新しい愛夢舎は、幹線道路から外れた場所にあるだけでなく、 広い駐車場の奥に古びた一軒家を構えるのみで、 「そこにある」と知らない人にとっては まるで目につかない建物だった。 ところが、以前は チラシをまいても、生徒に呼びかけてもまるで集まらなかった生徒が、どういうわけか、自然と増えていく。生徒が友だちを見学に連れてくる。 保護者が、新たな保護者を紹介してくれる。 佐々木は、以前の塾での習慣から、 広告を作成し、新聞折込をすることにした。広告での反応はほとんどなかった。それでも、いわゆる「口コミ」で、生徒が増えていく。 佐々木は、広告の考え方を改めた。こんなにお金をかけて、フルカラーの折込をしても生徒が集まらない、むしろ、広告をまかなくても、来る人はやってきてくれる。ならば、ただひたすら、 自分たちの考えを伝える、それだけを、ただ・・・。 佐々木が作った新しい広告は、 B4の白い紙に、自らの思いをただひたすら、 紙一面びっしり、文字で埋め尽くしたものだった。これを、折込ではなく、 自らの手で、ポスティングしていく。初めは小田切も矢吹も その効果については疑心暗鬼であった。が、「ゲリラメッセージ」と佐々木が名づけたこのチラシを回を重ねて配っていくうちに、「毎回読んで、全部とってあるんです。」という家庭が意外なほどに多かったことが後々分かった。 新しい塾、 新しい気持ちになって、 余裕も出てきたのだろう。彼らは、趣味をたしなむようになった。 3人に共通する趣味、それは、 3人を結びつけたものでもあった。 音楽。 佐々木がドラムを叩き、矢吹はベースを弾く。小田切は、大の歌好きだった。前の塾が豊かだったころ、 佐々木と小田切は、イベントでバンド活動をしたことがあった。 また、バンドでもやってみたいな・・・。 佐々木は、定期的に連絡をとっていた鎌田に「バンド加入依頼」を出す。土日休みの仕事についていた鎌田はこれを快諾し、ギタリストとしてセッションに参加。 ひと月に1度、 2つ離れた駅のそばにあった練習スタジオに金曜の深夜、4人は集まり、 特に目的もなく、曲を演奏するようになった。 年が変わるころ、ある保護者の提案で、その企画が生まれた。2001年4月。「第1回 愛夢舎バンドライブ」が開催された。(Zapping⇒⇒⇒【Band.1 第1回 愛夢舎バンドライブを振り返る】へジャンプ) 以来、年に1度、 4月には「愛夢舎バンドライブ」が実施されるようになった。 ~【第21章 そして彼は去ることを決めた ~それぞれの発展のために】につづく
2014.05.23
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第18章】へもどる)2000年8月某日深夜。 佐々木、小田切、矢吹の3人は、トラックにコピー機や教材を積み込み、近所の「元・一軒家」に向かっていた。 佐々木が出した結論、それは、武蔵藤沢校を閉校・廃業とすることだった。 ただ、自分たちを慕って通ってくれている生徒や保護者に、迷惑はかけたくない。 この頃、生徒は創業当初の2倍程度、 20人まで増えていた。 決して多くはないが、気に入って通ってくれている彼らの面倒を見続けたい。 そこで佐々木は、現在の校舎は廃業とするものの、「同じ武蔵藤沢地区」に新たな塾を設立して、 通ってくれる生徒の面倒を引き続きみることにしたのである。 当時通っていただいていた全ご家庭からのご理解をいただいた。全ての生徒が、新しい塾に入塾してくれることになった。それどころか、新しい校舎を作るにあたって、 引越しの手伝いを申し出てくれる保護者さえあった。新しい校舎は、小田切と佐々木が中心になって探した。ビルのテナントでもよいのだろうけれど、 何しろ時間がない。さし当たって、テナントを改装するような費用もない。偶然か運命か。 広めの駐車場の突き当たりに、かなり大きめの一軒家が「貸しテナント」として入居募集を行っているのを見つけた。「うどん・そば屋」をやるのに向いているという。 佐々木と小田切は、さっそく内見した。 無論、ただの家だから、 教室として使うためにはそれでも多くの改装が必要であったし、 「うどん・そば屋」にも向いていなそうな様子だったが、 2人が出した結論は一致していた。「ここなら、いいんじゃないか?」 後から思えば、一軒家といえども、 塾として使うには非常に都合のよい物件であった。まず、広い。何十人もの人が一度に入れる家など、そうはない。 広めの庭も、駐輪場として最適であった。また、前が駐車場で、家に囲まれているわけではない。 佐々木をはじめ、小田切も矢吹も、 前の塾で鍛えられた授業力には定評があった。楽しく、分かりやすい。その代わり「声が大きい」ということも、特徴として出てくる。 住宅街のど真ん中では、到底彼らの授業は行えない。ここなら、本当に近くの家の方には迷惑であるかも知れないが、まあ、授業を行っても差し支えがない。「古めの家である」という点さえ気にならなければ、 塾としては申し分なかった。 そして、「家」であることを大きなマイナスと感じた者もなかった。なぜなら、例えば小田切については、 自分が通い続け、愛してやまなかったかつての「塾」も やはり「家」だったから。 新たな塾名は、相談する前から決まっていた。 前の会社と関係のない、本当の意味での佐々木たちの塾、「愛夢舎」は、こうして誕生した。 ~【第20章 愛夢舎バンド】へつづく
2014.05.22
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こんばんは、鎌田です・・・ただいま再掲載中の「愛夢舎ヒストリー」では去ったことになってますが、もちろん、いますよ~~~~。「ヒストリー」、今後の展開にご注目ください^^さて、「40万けろけろテスト」って、ワケのわからんタイトルですが・・・。1.当ブログ、みなさまのあたたかいご支援をいただきまして、40万アクセスを達成いたしました!日頃、アホな記事におつきあいいただいていらっしゃいます皆様、本当にありがとうございます2.まだ5月だから、ちょいと早いんだけど、ほら、今日は雨模様だったし、そろそろ「桜」卒業でもいいかな、って。当ブログ6月の背景、「けろけろ」に変更しましたよ3.いよいよ、明日から中学校の中間テストがはじまります。まずは、向原中学校から。(ホントは、ウチの「テスト対策」について 報告記事を書くつもりでおりました。 が、少々たてこんでしまって、 詳細を書くことができませんでした。ザンネン・・・・。 まあ、次回もあるので、 ウチのテスト対策の記事、書きますよ。)今回は、比較的テスト範囲はせまい。特に、数学においては、どの学年も最も点数のとりやすい「計算分野」。みんな、あとは、ちょっとしたミスとの戦いだ。全力で慎重になろう!!!kama
2014.05.21
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第17章】へもどる)元社長による経営コンサルティングが始まって数ヶ月が経過した。 ひと月に1度、元社長は校舎を訪れる。そして3時間、佐々木と話をしていく。しかし、話の中に塾の運営を革命的に変化させる内容は、 佐々木には感じ取れなかった。 仮にも、自ら始めた小さな塾を10年で10校舎にまで広げ、「時代の寵児」のように言われた元社長である。 会社運営経験のなかった佐々木にとって、コンサルティング契約を提案してきてくれたときには、 非常に頼りがいのある存在だと思った。 周囲からの疑問の声もなかったわけではないが、それに勝るだけの信頼が、元社長にはあった。 だから、佐々木は思った。「自分が、話の内容を理解しきれていないだけだろうか」。 だとしても、結局運営向上に直結しないコンサルティングのために、ひと月あたり50万円を支払っているのは、どうなんだろう・・・。 同時期に独立し、同じようにコンサルティングを受けている元同僚に話を聞いてみた。いつぞやのコンサルティングでは、じっくり話を聞いた後、「もっと売上をあげるためには どうすればいいか、分かるか?」と元社長に聞かれた。 「いいえ、(だからコンサルティングを頼んでいるんですけれど・・・)」と答えた彼に元社長は答えたそうだ。「まず、もっと働け」・・・と。それで50万円・・・? コンサルティング契約の一部として、 各社(塾)が行う企画・イベントの運営を担うという条項があった。 例えば、従来の塾で恒例となっていた夏期合宿。その運営を担ってくれるというのであれば、これは助かる。元社長の主催する企画会議に、 当時教務部長であった矢吹が出席した。ところが、校舎に戻った矢吹は、釈然としない顔で佐々木に報告した。「まず僕らに『企画書を作れ』って言うんですよ。で、パンフレットやポスターを『作れ』とも・・・。」 独立した社長たちは、元々佐々木の同僚であった。 同じエリアで開業しているわけではないから、商売敵ということでもないし、 佐々木はお互い情報交換をして、協力体制を築いていこうと考えていた。ところが、どうも彼らの自分に対する態度がよそよそしくなってきた。何か気にさわることでもしただろうか・・・。 ある月のコンサルティングの場で、ひとりの元同僚の名を挙げ、元社長が「そういえばアイツ、 佐々木のところの営業妨害をしようとしてるようだぞ、 気をつけろ」と耳打ちした。 寝耳に水とはこのことか。なぜ自分が攻撃されねばならないのか。 その疑問が解けたのは、数ヶ月経ってからのことであった。 機会あって詰問した佐々木に、元同僚本人は、こう語った。「営業妨害?そんなこと、考えるわけがないじゃないですか。それより、佐々木先生こそ、 小田切先生を使って ウチの生徒を引き抜こうとしたっていうじゃないですか。だから『お前もやり返してやれ』とは言われたんですけれど・・・。」 だいぶ、事の真相が見えてきた。そういえば、昔からおかしなところは多々あった。 社員が減給に次ぐ減給で、生活に困っている状態だったのに、なぜあの頃の社長は、それでも高級外車に乗っていられたのか。なぜ定期的に本部に顔を出す社長の母親が、 会社の通帳を持っていたのか。毎年夏になると社員が草むしりをしていた新所沢の空き地は、なぜ今でも彼のものなのか。さまざまな研修に参加する社員から、必要以上の参加費を徴収していたが、その金はどこにいったのか・・・。 前の会社が崩壊を迎える何年も前から、元社長個人に数億円の負債が発生していたことが判明したのは、 佐々木が「真実」を見出した頃だった。 佐々木は考えた。このまま月に50万円のコンサルティング契約を結んでいても払えるはずがない。だいたい、現時点で払えていないのだから。そして、その内容も、どう考えてもいい加減である。 自分だけならともかく、このまま小田切、矢吹を奴隷のような状態にしておくわけにはいかない。 佐々木は、コンサルティング契約の解約を願い出た。 元社長の態度は一変した。違約金や滞納費、合宿やスキー旅行など、 未実施の企画立案の放棄についての、他塾への損害賠償など、 意味のよくわからない、数百万円の支払いを要求された。 なんだ、これは。もはや、恐喝ではないか。 ただの口約束であればよかったが、そこは初めから仕組まれた罠であり、 完全に敵わないとは限らないものの、 争うには相手に分がある状況に、佐々木は追い込まれた。 後日談であるが、ケースこそ違えど、 巧妙な書類の取り交わし、あるいは書類の隠滅、 本人以外の名義による手続きなどにより、 法的に争った場合には自分自身に被害が及ばないような手はずを整えることに関して、 元社長は非常に巧みであった。法律は「法的に正しい者」を守るのであり、それは必ずしも「人道的に正しい者」を守ることにはつながらない。 彼によって自己破産に追い込まれた者、精神疾患に追い込まれた者、「法で裁けないなら、もう殺すしかない」と、自暴自棄の状態に追い込まれた者・・・。 被害者は後を絶たなかった。 佐々木は手段を講じあぐねた。 言われたとおりの金額を払って終わりにするのも、釈然としない。 自分たちは、コンサルティングに関しては何一つ恩恵にあずかっていないのだから。 第一、そんな金額、払えるわけがない。 今ですら、借金をかかえながら生活をしているのに。 でも、佐々木は塾と小田切・矢吹、そして自分の家庭を守らねばならない。 彼は覚悟を決めた。 ~【序章 夜逃げ】 【第19章 「廃業」と「本当の始まり」】につづく
2014.05.20
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第16章】へもどる)2000年3月。 長く佐々木を支えてきた女性職員が退職した。 初めから予定された退職であった。 佐々木独立当初より、年度末までの勤務と定まっていたのである。これで、第3期の大学新卒者は、全員「塾」を去った。 後任者は決まっていた。小田切である。 これによって、愛夢舎の草創期を築き上げた、佐々木、矢吹、小田切のトリオチームが形を成した。 わずかずつではあるが、 運営に追い風が吹いてきた。 一旦広まった悪い評判は、なかなか消えないものである。 佐々木が独立するまでに、大分長く「評判の悪い塾」の歴史を築いてきてしまっていた。「金もうけ主義の塾だ」と言われたこともあった。 前任者たちが、校舎周辺の美化に無頓着であったため、 雑草が伸び放題になり、近所の方からお叱りを受けたこともあった。 佐々木は誠心誠意、そうした悪評をひとつずつ崩していった。 自らが草むしり、掃除にいそしみ、「新たな塾」となった自分たちの考え方を丁寧に語っていった。以前は会社の指令により、 教室長は一枠最低2時間、 一週間に12時間以上の保護者面談を実施することが義務付けられていた。 面談の場を借りて、商品販売を行うためである。佐々木は、こうした「押し売り」にも見える、機械的な面談もやめた。 徐々に保護者の中からも、「手伝ってあげるよ。 佐々木先生、一生懸命だからさ。」と、 校舎美化などに協力を申し出てくれる方も現れた。誠意の積み重ねは、人に伝わるものだと感激した。この頃の保護者の方に対して、佐々木は未だ「恩人」と感じている。 生徒数も、少しずつではあるが、増えていく兆しがみられた。 矢吹も小田切も、非常識とも思える安月給で働いた。 特に小田切は、実家住まいであることを自ら理由とし、「コンビニエンスストアで働く高校生でも、もう少し稼ぐであろう」というような収入で勤務した。 そんな献身的な彼らに、わずかながらできることとして、 勤務時間終了後、トシエの手料理を囲み、テーブルで遅めの夕食をとる3人の姿があった。 ただ、どういうわけか、 自分たちの頑張りの割りに、 経営状態、生活状況は、 全く楽になっていかない。 その原因は明らか。 毎月発生する、 元社長への「コンサルティング費用」の支払いであった。 独立当初の生徒数は、わずか8名。 光熱費のほか、もちろん、校舎の家賃も発生している。これに対して、コンサルティングの費用は、 一ヶ月あたり50万円。 小学生でも分かる計算だ。全生徒の月謝を合計しても、コンサルティング費にすら到底追いつかない。いわんや、自分たちの給与など・・・。 佐々木は自問自答を繰り返した。そして、あるときをきっかけに佐々木は思った。「様子がおかしい・・・」。 ~【第18章 欺瞞、真実、そして 闘争】につづく
2014.05.19
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第15章】へもどる)佐々木は独立し、新たな自分自身の会社として「武蔵藤沢校」を継続させることにした。 ところで、現在では会社法が改正されているものの、 当時は「有限」であっても、会社を新たに興すには、いくばくかの資本が必要であった。こうした『ジリ貧』状態の中で、 佐々木にその資本があったはずもない。 佐々木は佐々木で、恥をしのんで、実家の財産を切り崩していた。また、人生のパートナーとなるべき人の援助もあった。小規模な塾としての再出発を果たした武蔵藤沢校の新たなメンバーに、一人の女性が加わった。 2000年1月1日、佐々木は結婚。 公私で佐々木を支えてきた女性は、「トシエ先生」と呼ばれるようになった。 さて、校舎と教室長は存続したが、それ以外のスタッフは未定である。 会社組織が解散したと同時に、社員もフリーの状態になったのだから、 講師が各校舎での業務を続けるかどうかは、本人の意志で決めていくことになる。 佐々木は、自分以外に2人のスタッフを雇うことにした。一人は、ここまで共に働いてきた、 武蔵藤沢校の講師としてキャリアを積んだ女性職員。 彼女こそ、 鎌田の同期採用内定者40名の「最後のひとり」であった。 もうひとり。 武蔵藤沢校にやってきたのは、 1年前に佐々木が育てた矢吹であった。 彼は佐々木という人間の理念に共感し、フリーとなった今、その元にやってきたのであった。 実は、このとき、 退職して既に3ヶ月が経った鎌田にも、佐々木は声をかけた。一緒にやらないか、と。だが、この頃鎌田は、塾ではないが教育人材に関わる企業に既に就職しており、(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ)勤務をはじめて2ヶ月程度が経過したところであった。さすがに入った会社を2ヶ月で退職するわけにもいかない。これまで経験することのなかった「企業人」としてのスキルを磨き、いつか、ともすれば数年後には合流するであろう意志のみを確認し、その場での再会はならなかった。ただ、その後、別の場に身をおきながらも、 部分部分で鎌田は愛夢舎の運営の協力を続けていた。 小田切は、と言うと、こちらはこちらで、佐々木と共に新たな塾を築き上げていく意志が強かった。しかしながら、 自分の所属していた新所沢校舎には、まだ生徒が通っている。 小田切も校舎を譲りうけての独立を勧められたひとりであったが、それは断り、一旦、新所沢校はひばりヶ丘校舎を運営することになった新会社の運営するところとなった。これに伴って、小田切自身もその会社の一員となったのであるが、佐々木とともに武蔵藤沢での塾運営にあたることは、この時点でほぼ固まっていた。 全生徒数8名で「愛夢舎」の塾運営はスタートした。 ~【第17章 逆向きのベクトル ~塾の成長と追い込まれる生活】につづく
2014.05.18
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第14章】へもどる)1999年8月。 長野県志賀高原において「夏期勉強合宿」が実施された。 8泊9日で行われ、 高速道路のサービスエリアで、 講師が大声で怒鳴り散らす「軍隊式指導」、しかし、その効果の高さは参加した者にしか分からない。その場所に、鎌田もいた。 入社して3年、結局鎌田は毎年合宿にスタッフとして参加し、 残り少ないメンバーにおいて、当時の合宿の精神とシステムを誰よりも把握するうちの一人となっていた。すでに業務の引継ぎや身辺整理を終え、この合宿を成功させることが、彼の最後の仕事であった。その鎌田は、日程の途中、5泊6日の日程で合宿を終え、 一足早く志賀高原を去る小学生とともに、業務を終えた。 渾身の力を出し切り、合宿スタッフでは事情を知るわずか2名の講師に別れを告げ、 鎌田は生徒とともに東京に戻った。 彼を見送った講師のひとりが、小田切であった。東京の各校舎は、夏期休業中であった。 鎌田は最後に、佐々木、小田切をはじめとする仲間たちに一通一通、直筆の置手紙を残し、誰に見送られることもなく、ひっそりと社を去った。(Zapping⇒⇒⇒【Kama.1 先生を育てる】へジャンプ) 鎌田が去った後、いよいよ会社は、崩壊への秒読みに入っていった。もはや、各校舎には、 業務が成立しうるギリギリの人員しか残っていなかったため、 以降に退職を申し出た者は、いわく「損害賠償を請求する」などと、脅迫じみた説得で残留を承認させられる結果となった。もう、辞めることすらできなくなったのである。 それでも、会社を去るものはいた。もっとも、円満退社は不可能な状況である。 辞意を似たことをほのめかすと、脅迫説得が即座に入る。合意による退社が不可能であるなら、 残る手段は「逃げる」ことのみだ。どのみち、立て替えた出費の返金はもちろん、 退職金はおろか、 何ヶ月も遅れている給料の支払いも見込めない状況である。「円満」であろうが「逃亡」であろうが、大した違いはない。そう考える者がいても、それを責めることができようか。 残るメンバーは、両手の指で数えられるくらいにまで減っていたが、突如行方をくらます者がポツリポツリとあったのである。 週に1日でも休めば、どこかの校舎で授業ができないという事態が起こる。佐々木も小田切も、校舎間を飛び回った。 社長は、ついに会社組織の解散を決定した。 実質的な「倒産」であったが、 「倒産 ⇒ 廃業」とするかどうかは、残ったメンバーに委ねられた。まず、会社組織は解体される。 自動的に、社員は職を離れることになる。 残るのは、まだ生徒の残っている「校舎」である。そこで、現在の各校舎長を中心に、その校舎を譲り受けることができる。その後は「校舎」がひとつの組織となって、 運営を続けるもよし、廃業させるもよし。もちろん、校舎を引き受けることなく、 組織解体とともに、その場を離れてもよし・・・。 結局、残ったメンバーは、生徒を見捨てることのできない、 誰よりも「先生」らしい「先生」たちであった。 社長からのこの提案に、真っ先に応じて校舎独立を決意したのが、 武蔵藤沢校の教室長であった佐々木であった。 結局、組織は5つに分裂した。佐々木を含めて、社長業に就くのは初めての者のみで、 登記から経営手法から、何から何まで初めてのことであり、 不安に思う新社長も多かった。 そこで、元社長の提案により、 当分の間、各会社の経営コンサルタントとして、 元社長が参加することになった。 一定の費用を元社長に支払い、コンサルティング契約を結び、ひと月に1回、会社の経営状態を診断してもらう。そして運営向上のための相談を行い、経営に反映させていく。ほかの4人の新社長同様、佐々木もまた、 元社長とのコンサルティング契約を結んだ。 こうして、武蔵藤沢校は、その実体を残した。佐々木が教室長であることや、 以前からいた先生が講師として残ったのには変わりがなかった反面、「愛夢舎」という新しい組織がこの校舎を運営していることは、あまり公にされなかった。 そしてまた、この「仕組み」に、 大きな罠がしかけられていることに気づいた者もいなかった・・・。 ~【第16章 「愛夢舎」】につづく
2014.05.17
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第13章】へもどる)ついにその時が来た。数々の経費立て替えを繰り返し、自身の生活も切り詰めるだけ切り詰めた。 仕事も頑張った。 何とか、一人でも、新しい生徒に来てもらおうと、 少ない予算の中で、印刷業者を値切りに値切り、 全校舎・全部門の広告を自分ひとりでデザインし、 果ては印刷業者の会社にまで出向き、 一緒に原稿作成までした。 三週間以上、1日2~3時間の睡眠時間で会社に寝泊りし、 家に帰るのは着替えのためだけの生活を続けた。 勤務状況管理のためのタイムカードも、どうせ会社に「住んで」いるんだからと、 勤務時間に合わせて打刻するのが馬鹿らしくなって、 午前3時とか4時とかに打刻し、 人事部の立場であった、盟友のはずの佐々木から、 「そんなヤケっぱちの仕事でいいのか」と叱責される場面もあった。矢吹をはじめとする新人の生活は保障しなければならない。そこで会社は、新人メンバーへは提示額どおりの給料を支給し、その分、キャリアの長いメンバーの給料を切り詰めた。もはや、借金をするほかなかった彼は、消費者金融に手を出した。 当時、残っているメンバーのほとんどが、いくばくかの借金を背負っていたが、返せる見通しは立たなかった。それでも頑なに、彼は仕事を続けた。 「いい加減、辞めなさい」という両親の説得は数年にも及んでいた。 何しろ入社前から、 「お前が選んだ会社はおかしい」と言い続けてきたのだから。それすらも「俺はこれに命がけなんだ、やりたいことなんだ!」と はねのけ続けた。 校舎に行けば生徒がいる、仲間がいる、だから・・・。ある日、姉から電話があった。 大変なんだって?ちょっと待ってなさい、ダンナが話したいって言っているから。そう言って姉は1年前に結婚した夫に電話を替わった。 「ああ、どうも。色々話を聞いたんだけどね。キミさぁ、自分の暮らしもマトモにできてないんでしょ?お父さんとかお母さんに迷惑かけてさ、それで『自分のやりたいこと』とか言うの、違うんじゃない?間違ってるよ、キミは。」 返す言葉がなかった。これまで身内に同じようなことは何度も言われてきた。それをはねのけてきたのは、親だから、姉弟だからという「甘え」であった。 義理の兄とは言っても、元々は「他人」である。その「他人」に、「第三者」に、 分かっていたはずの、でも決して意識はしたくなかった事を、ズバリ、なんの逃げ場も用意されることなく、突きつけられた。 できれば、同期で「最後まで残った一人」になりたかった。 最後まで、生徒と、仲間と一緒にいたかった。でも、これ以上は、やってはいけないのだ。自分は「辞めなければならない」のだ。 1999年9月- 夏期合宿を最後に、鎌田は退職する決意を固め、辞意を表明した。 消費者金融からの借金は数十万円にのぼり、返済する目処もなく、 両親に頭を下げ、詫びを入れた。 数ヶ月遅れで振り込まれた最後の給料は、10万円を下回っていた。 ~【第15章 「別離」と「再出発」 ~独立の決断】につづく
2014.05.15
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第12章】へもどる)1998年。塾は、完全な経営難に陥っていたが、それでも新卒採用活動は続いていた。もちろん、規模は縮小されていたが、新人を採用するという方向は転換しなかった。 窮地に追い込まれたサービス業が、なんとか再起をかけてとるべき方法論の一つに、「規模の拡大」がある。どうせ現状のままであれば破綻は免れない。そうであるなら、例えば塾であるなら、 新校舎をいくつか出店し、そこでの「復活劇」にかけるのである。ダメだったとしても、結果は出店しなかったときと、さほど違いはない。この期に及んで新卒採用を続けるのには、そんな「一発大逆転」を狙う意図があったのかも知れない。 ジョブ・ローテーションにより、佐々木は人事部長になっていた。もっとも、こんな状況下である。 直接利益を生むことのない人事部での業務のみで過ごせるはずがない。 複数の校舎を行き来し、忙しく授業を行う中での採用活動であった。小田切に課せられた人事関連業務は少なかった。 小田切の運営する新所沢校は、数少ない「赤字ではない校舎」だったから。 会社の再起をかけるにあたって、 小田切の校舎はひとつのカギとなるはずであった。入社してまだ2年目の鎌田であったが、 本部校舎での教務主任、ピンチヒッターとしての教室長を歴任し、キャリアは積み重なってきていた。しかしながら、やはり校舎の経営不振に陥り、たったひとりで清瀬教室に勤務する日々が続いていた。 彼もまた、採用内定者の教育担当者として、職務を割り当てられた。 何しろ、再起をかけた新人内定者であるから、 教育を施し、即戦力以上の戦力に育て上げる必要があった。やはり数十名の内定者を出し、残っているメンバーで彼らの教育にあたった。 (この時点で、鎌田の同期は、彼を含めて2人のみとなっていた。) 数ある入社前研修の中で、特に鎌田が相談役を担当したのが、 学力試験の対策に関してであった。大学生にとって、例えば授業の技術などは、 練習を繰り返すうちに身についてくる。 学生が苦労するのは、自身がかつて勉強したはずの学科知識を取り戻すことであった。 1年以上にわたっての専門内外の教科指導経験を通じ、小田切同様、5教科を完全に指導できる講師に成長していた鎌田の元に、 内定者からは「どうしたらこの教科ができるようになるか」 度々相談の電話が入った。 内定者の中で、特に頻繁に相談してくる学生がいた。 彼は日本史専攻であるため、社会の知識は大変素晴らしかった。また、学生自分に塾でのアルバイト経験があり、 模擬授業を観覧した際、鎌田は思わず「うまい!すごい!」と褒め称えた。その反面、理系教科を苦手としており、 鎌田は彼に勉強の指導を行うこととなった。 彼は、人事部長たる佐々木自身が直接面接を行い、 強力な戦力となる人物として、採用内定に踏み切った学生であった。サッカーを趣味・特技とし、かつてJリーグのチームにスカウトされたこともあるという。 名前は矢吹和宏。 彼は後の愛夢舎設立に大きく貢献することとなる。 ~【第14章 崩壊 ~こうして彼は戦線離脱した】につづく
2014.05.13
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別に、「聖人」きどりしたいわけじゃなくて・・・こういうの、ホントに大っキライです(某駅前、駐輪禁止区域?・・・にて)kama
2014.05.12
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第11章】へもどる)生徒は減少の一途をたどり、 塾を運営していく資金が殆どない状態が続いていた。 小田切は、生徒に受験させる模擬試験の代金を、自分で支払った。 一人や二人ではない。100人近い生徒の分を、である。コンビニエンスストアには、 毎日のように「自腹」でプリントをコピーする鎌田の姿があった。佐々木は、何十人分もの野外教室の参加費を、自分で支払った。 再び模擬試験の時期になった。 今度は、残っている社員みんなでカンパし合って、なんとか費用をかき集めた。 中には、自分の所属校舎までの電車賃すら支払えず、みんなに少しずつ小銭を借りて、なんとか校舎にたどり着く職員の姿もあった。そんな「先生」たちの苦労も、 一旦はまってしまった歯車から脱出するには力が足りなかったようだ。赤字は増え続けた。 自分たちは、減給されている。 親元ならいざ知らず、大半の人間が一人暮らしをしている。もはや自分の生活を成り立たせるのも危うい。その上で、数々の経費を立て替える-いや、返ってこないことは初めから覚悟の上であるから、「身銭を切る」と言った方がよかろうか。 一日三回の食事をとることもはばかられ、食事の回数を減らす。内容も、できるだけ安価で済むよう、 「ソースを使わず、塩だけで食べれば、スパゲッティは安くあがる」、 「米だけ炊いて、校舎に持っていっている」なんていう情報交換もなされた。 抜け出す方法はなかったのか? 実は、あった。その場に残っている誰もが知っていた。 「会社を辞めること」である。 実際、去って行く社員はいた。ただ、それは全盛期に社員が抜けていったときと、事情が違った。「もはや去る以外に生活していく方法がない。」その状況に追い込まれた者から、泣く泣く去って行く状況であった。 冷静に考えれば、自分たちのしていることがどれだけ馬鹿らしいことか、 分からなかったわけではなかろう。 仮にも自分たちは「働いている」のだ。にもかかわらず、働けば働くほど、どんどん自分たちの生活が窮地に追い込まれていく。 何かプラスがあるのだろうか。いや、きっとないであろう。 他の仕事がないわけでもなかろう。 早く退職して、やり直した方が良いのではなかろうか。そう考えようと思えば、考えられたはずである。しかし、やはり残り続けた。なぜか。 答えは、もはや誰にも分からなくなっていた。 ~【第13章 わずかな期待 ~4番目との出会い】につづく
2014.05.11
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第10章】へもどる)1998年度-。 歯車が完全にかみ合っていなかった。 塾は経営不振に陥り、 生徒数は減少の一途をたどっていた。 減るのは職員だけではない。先生が減れば、生徒も減っていく。どこからおかしくなってしまったのか、 誰にも判断ができない状態に会社は陥っていた。 一時は「西武池袋線最強」とまで言われた新興急成長企業は、みるみるうちに生徒減少の波に飲まれていった。 しかし、校舎は自社ビルで運営しているわけではない。 確実に毎月の家賃が発生する。 生徒が減っていくとはいえ、自分を含めた職員も、こうして会社の売上で生活している。なんとか生徒を増やし、健全な状態戻さねばならない。ほぼ同時期に「ひばりヶ丘」、「清瀬」、「新所沢」の各校舎で教室長を務めていた佐々木、鎌田、小田切の3人は、 一様に危機感を覚えていた。 何しろ教室長は、校舎運営責任者であり、ということは月々の校舎の収支報告を行う立場である。 月末になると、ひと月の月謝収入を計算する。そこから校舎運営費(家賃・光熱費・電話代ほか)を引く。さらに自分の給料と校舎で働く職員の給料を差し引いていく。この単純な計算の結果、金額に余りの出る校舎は、もはやほとんどなかった。打開策として会社が指示したのは、各家庭からの売上単価を上げることであった。もちろん、生徒が増えればそれでよい。しかし、増やすためにはPRが必要である。 PRにも経費が回らないとなると、とりあえずそのための経費を集めねばならない。月謝の値上げはあまりに露骨であるため、それ以外の部分での売上アップを教室長は至上命題として課せられることになった。 例えば、塾のグッズとして文房具を販売する、ひとりの生徒に、できるだけ多くの授業を受講してもらう、 野外教室への参加を、強制に近い形で勧誘する。 結果は言うまでもない。悪評が悪評を生み、どうすることもできないまま、 生徒減少に拍車をかけるのみとなった。 次にとった対策は、減給である。まずは運営責任者たる教室長が、減給処分となった。それだけではない。 今となっては生徒に受験させる模擬試験ですら、 注文するだけの経費が回せない。プリントを配ろうにも、コピー代金を会社が出してくれない。 つくづく「先生」という職業は因果なものである。 模擬試験を注文するのに会社が費用を出さないとなったとき、 「先生」はどうするか。 決まっている。「自分が代わりに支払う」のだ。 誰が強要したわけではない。 会社の方針でもない。 会社の方針は「注文できない」という、ただそれだけのことだから。 しかし、少ないながらも自分たちの授業を受けにきてくれて、わずかではあるかも知れないけれども、 自分たちに期待してくれている、そんな生徒を裏切るわけにはいかない。 それが「先生」である。 「会社が出してくれないので、 模擬試験は受けられません。」そんなこと、かわいい生徒たちに口が裂けても言えるだろうか。 「コピーをさせてもらえないから、 授業は教材なしでやります。」そんなことができるだろうか。 ・・・できるのかも知れない。 「仕事人」として、あるいは「労働者」としてならば。 生徒の受験を目前に校舎を去った「職業講師」ならば。 しかし、この状況に至るまで、佐々木が、小田切が、鎌田が、 他の数少ない仲間が残ったのはなぜか。 「生徒がいるから」。「労働者」ではなくて「先生」だから。それだけである。 ~【第12章 借金】につづく
2014.05.10
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第9章】へもどる)1997年から98年にかけて、 「ひばりヶ丘教室」は佐々木、鎌田のタッグによって運営された。2人とも、根っからの講師であったわけではなかった。むしろ、実際に働くようになるまで、講師職に興味のなかった2人であった。 「ひばりヶ丘教室」は本部校舎ということもあり、その他の校舎から講師が出張して授業を行うこともあったし、小田切ら、本部勤務を主とするスタッフの出入りも多かった。 (運営本部スタッフは、夜になると授業を担当することもある。) 当然のように、ひばりヶ丘は情報の集中地になり、そこに拠点をおく佐々木、鎌田は、さまざまな指導法やノウハウを吸収していくことにもなった。 1998年、鎌田は清瀬教室の教室長となり、 新たな生徒たちの面倒を見ることとなった。佐々木は、人事部長として、本部異動となった。 「ひばりヶ丘教室」から若干離れた場所に移った2人が、それでも気になっている生徒がいた。彼女は、英語の学習に行き詰ると、自分の通う教室の先生にではなく、 運営本部に直接やってきて、 佐々木に指導を仰いだ。 数学や国語については、清瀬教室に電話をかけ、 鎌田に指導を仰いだ。 「職業」として講師を務める以上、そこに私情を挟むことはない。どの生徒も分け隔てなく指導する。ただそれでも、完全に均等な面倒見になるとはいえない。 中には彼女のように、積極的に先生につきまとう生徒もいて、 指導機会という面で言えば、ただ先生の指示を待っている生徒に比べれば圧倒的に増えるのは当然である。 意識してか無意識のうちにか、彼女は「自分にとって『使える先生』」を決めていたようである。彼女こそ、分け隔てなく先生に接するのではなく、 利用する先生を限っていた。だから、彼女に利用されることは、先生としては自信につながり、 一層指導に熱が入る。 利用されない先生は、寂しい思いをすることになる。「先生の使い方」の大変上手い生徒であった。彼女は自分の納得のいくことであれば、先生の指導に従順に従った。 納得いかない場合には、反発するのではなく、ただそれを無視することにした。 彼女に言うことを聞かせられない先生は、どうすれば自分の指導に従ってもらえるのか迷うことになり、そうなると、もはや主従が逆転してしまう。その意味では、彼女は『厄介な生徒』であったのかも知れない。 彼女は、佐々木、鎌田、小田切らには絶対の信頼を寄せていた。 特に、佐々木に関しては、 受験校の選択から勉強計画の立案、イベントへの参加や運営に至る面まで、 彼女に与えた影響は大きかった。 やがて高校受験のシーズンになった。 彼女の第一志望校は、近隣の都立高校であったが、 先に「併願校」として、首都圏の最難関私立高校を受験することになった。 各校舎で本命視されてきた、 早稲田、慶應系列高校などを狙う彼女以外の生徒は総くずれしていった。 そんな中、2月11日、 本部で業務にあたる佐々木、鎌田の元に電話が入った。 高校での合格発表掲示を見るために渋谷まで行っていた彼女からの連絡であった。 普段より少し嬉しそうな、それでもいつものようにあっさりとした物言いで、「あ~、受かりました~」とだけ、彼女は言った。 私立高校の中でも難易度が極端に高いといわれる英語の試験に対して、 佐々木が講じた対策。 過去10年分の出題を徹底分析して、出題される図形問題のパターンを読みきった鎌田の数学指導と、もはや奇跡としか言いようのない、古文の出典題材丸ごと的中。そして、彼らの指導に忠実に従い、膨大な学習量をこなした彼女の努力が、 塾全体で、この年一番の合格実績として、実を結んだ。 中島典子の「私立 青山学院高等部 合格」は、 激務に追われる佐々木らにとって、清涼剤となった。が、しかし、 彼女は結局、青山学院への進学は辞退。 当初の希望であった都立高校へ進学することにした。 ~【第11章 塾の終焉 ~逃れられない魔の歯車】につづく
2014.05.09
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (【第8章】へもどる)この塾では、現場の活性化を図り、人材育成の停滞を避けるため、「ジョブ・ローテーション制度」を導入していた。ひとつの現場、ひとつの職種に固定し、その人材が成長を止めることを避けるため、 原則一年ごとに、本人の希望に基づいて別の職場・職種に異動していく制度である。 1997年4月、 大学新卒者として入社した鎌田は、 本部校舎「ひばりヶ丘教室」の教務主任に配属された。 教室長・佐々木のパートナーとして、同じ現場で勤務することになったのである。 以降、1999年に至るまで、佐々木、小田切、鎌田の3人は いくつかの現場を転々とすることとなった。 勤務を開始して程なく、春期講習会に突入した鎌田は、いきなり「塾の洗礼」を浴びることとなった。学習塾業界では、夜遅くまでの勤務が一般的なため、午後からの出勤が通例であるが、この塾の講習会では、全員午前9時から授業を担当することになる。 特に、授業・生徒指導の責任者たる職が「教務主任」であるため、 鎌田の担当授業は最も多かった。そもそも「講師」という職種に全くの魅力を感じていなかった彼であったが、 四の五の言う暇もなかった。そして、小田切らとともに、連日に及ぶテスト作成のための徹夜作業である。大学を出たての身で、右も左も分からない状態であったが、「とにかく、徹夜してでもやらなければ」という現場の切迫した状況だけは分かった。 鎌田の同期は、次から次へと会社を去っていった。過酷と言うには、あまりに過酷すぎる労働条件である。彼が社会人となってわずか2ヶ月。 5月のゴールデンウィークが明ける頃には、20人いた同期社員がすでに半分近くまで減っていた。多くの先生でにぎわっていたひばりヶ丘教室も、 夏休みが明ける頃には、佐々木と鎌田、1人の女性社員の3人のみになっていた。ただ、この3人で運営をしていた時期、 少人数体制で一致団結しての仕事は、佐々木と鎌田の深い連携を生んだと言える。しかし、それも長くはなかった。 次から次に社員が去っていき、ついには清瀬教室の教室長が、 唯一の校舎配属職員とともに去ることになった。つまり、校舎はガラ空き状態になる。 塾で働く者にとって、教え子が無事に進学を決め、 卒業するまで見届けることは最も大切なことの一つである。そこまでの苦労も、教え子が受験を乗り越え、 巣立っていくのを見て、ようやく報われる。しかるに、清瀬教室は卒業まで あと3ヶ月たらずの受験生を残し、ガラ空き状態・・・。 全員にとって苦渋の選択であったに違いない。しかし、誰かが行かねばならない。 選ばれたのが鎌田であった。佐々木らの働きかけもあり、 鎌田は「ひばりヶ丘教室」の生徒を佐々木ひとりに託し、清瀬の後始末をするため、教室長として赴任することになった。 翌1998年、 4期目の大学新卒者が入社し、 一時は新人の活躍に期待が集まった。しかし、状況は一緒だった。次から次へと職員は去っていく。 もはや、鎌田の同期は、たった5人しか残っていなかった。 ~【第10章 ひばりヶ丘黄金期 ~個人技の成せるもの】につづく 参考:1997年以降、3人のジョブ・ローテーション【佐々木】 ひばりヶ丘教室 教室長 ⇒ 本部人事部 部長 ⇒ 武蔵藤沢校 教室長【小田切】 狭山ヶ丘教室 教室長 ⇒ 本部教務部 運営課課長 ⇒ 新所沢校 教室長【鎌田】 ひばりヶ丘教室 教務主任 ⇒ 清瀬教室 教室長 ⇒ 本部営業部 広報課 ⇒ 新所沢校
2014.05.08
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第7章】へもどる)年度末が近づいた。すなわち、新卒者の大学卒業が近づき、 同時に鎌田の勤務開始が迫ってきた。この年の内定者は、はじめは40名ほどいた。しかし、いざ勤務が始まったときに残っていたのは、およそ20名だった。 新卒内定者へは、半年以上の期間をかけて入社前研修が行われた。学生対象であるから、研修は土曜と日曜を使う。ひと月に4日程度。 「教習所」のように「研修簿」が用意されており、 入社までの期間に全ての項目を習得することが、内定者に課せられた。習得すべき項目は50以上におよび、ひと月4日程度の研修では、到底追いつかず、 研修日にあてられた日以外にも、 個人的に、インストラクターとなる職員と約束を取りかわし、 研修に赴くことが必要であった。まして、鎌田の場合には9月からの研修参加。 他の内定者に3ヶ月ほど遅れている。 急ピッチでの習得が必要となった。 この年、佐々木と小田切は採用チームに加わっていた。 佐々木は、本部校舎である「ひばりヶ丘教室」の教室長として勤務していたため、 出入りする内定者とは必ずと言ってよいほど顔を合わせた。その流れから、模擬授業の指導などを中心に行うことが多かった。また、小田切は校舎配属ではなく、 運営本部・教務部運営課において課長職にあり、 進路指導関係の研修ではアドバイザーとして参加した。 研修期間を経ていくうち、鎌田が2人と出会う機会が出てきた。 内定獲得まで、2人と会ったことはなかったが、 塾のパンフレットの写真で顔だけは知っていた。 鎌田にとって、2人の第一印象は、「怖そうな人」であった、2人とも。 それまで会った職員は、やけに明るくニコニコ笑っている人が多かったが、 佐々木は何かこう、真面目な人という印象であった。小田切に至っては、 研修の際に内定者どうしが意見交換をしているとき、「・・・あのさぁ、それって、意味、なくねぇ?」と不機嫌そうにボソっと口をはさんでくる。その場の空気は凍りつく・・・。 (今にしてみれば、不機嫌でもなんでもなく、それが自然体であったようであるが) 3人が急激に接近したのは、12月に行われた「スキー研修」のときであった。きっかけは、やはり「音楽」であった。 何かのはずみで「おっ、キミも音楽、やるの?」と共通の話題が生じ、盛り上がった。 鎌田については、音楽は「やる」どころの話ではない。 一時はプロミュージシャンや音楽大学進学すら考えたことがあるくらいである。 年度末。当初の「採用内定者」は半数までに減っていた。鎌田が内定者に加わった9月以降、研修の過酷さと実際の勤務への不安から、 毎月のように辞退者が発生した。また大学卒業が危ぶまれ、 合意の上、内定取り消しとなる者もいた。例の「研修」が修了せず、入社を断念する者もいた。 実は、採用予定人数は初めから20名であったことを鎌田が知ったのは、 数年後のことであった。 応募者数千名からの選抜のみならず、さらに採用者を厳選すべく、 研修期間中にひそかに選抜が行われていたのである。 残った本採用者は、当初会社が期待した「優秀な人材」であったはずであり、いずれも即戦力として各校舎および運営本部へと配属されていった。 3名の新入社員が、いきなり教室長に抜擢された。 1名の新人が社長秘書に抜擢された。 鎌田を含む残りの新人も、要職に配属されていったのである。 ~【第9章 ジョブ・ローテーション ~繁栄あるいは衰退へ】につづく
2014.05.05
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、「愛夢舎ヒストリー」を、序章から再掲載しております。現時点で、全33章。各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第6章】へもどる)1996年9月、 当時大学4年生の鎌田昌典は、 本部校舎である「ひばりヶ丘教室」の一室に、 他の新卒内定者3名と座っていた。この年で3年目となった大学新卒者採用は、年間を通じて数千万円のコストを投じ、コンタクトをとる学生も数千名。とても開業10年目の会社とは思えない規模になっていた。そうまでして「よい人材」がほしかった。一般企業同様、この塾では5~6月には次年度採用内定者を決定していた。 3年目となったこの年は、採用人数枠を拡大し、それまでの2年を準備期間とするならば、 本格的な新卒採用の初年度であったと言える。 6月までに内定を勝ち取った学生は、すぐ「入社前研修」に参加する。いかにして経験値のない学生を「即戦力」とするか。 組織が出した結論は、大学卒業までの期間に育てるということだった。育てる過程で、脱落者は、やはり出る。たかが月に4日間とはいえ、ほぼ丸一日拘束され、 高度な内容の研修を受けるうちに、内定を辞退する者、 他社へ流れていく者-。 「強い理念」だけではつなぎとめられない人材もいるのは、当然のことであった。 6月時点での内定者は、8月になると事前に定めた予定数を4名下回った。この補充として行われたのが「9月内定者採用活動」である。鎌田をはじめとする4名は、この「補充メンバー」であった。 鎌田が9月内定に回ったのには、わけがあった。それまで鎌田は、全く別の業界への就職活動を続けていた。目指していた業界とは、マスコミ業界-特に、音楽業界であった。 あらゆる業界の中でも、テレビ局、レコード会社などのマスコミは、 特に採用活動の時期が早かった。 大学3年時の冬に本格化し、4年生になる頃にはほぼ終了してしまう。 鎌田は3年生時から就職活動を開始していたものの、競争率数千倍という難関になかなか門が開かず、ほぼ全社が採用活動を終了する5月になって、活動に行き詰った。 対象の業界を少し広げてみよう。そんなことを考えながら、6月、 鎌田は母校である高校に赴き、社会科教員のタマゴとして、教育実習を行った。 「とりあえず取れるものは・・・」という程度に教員免許取得のための授業を受講していたので、 教育実習に参加するも、別に教師になりたいわけではなかった。しかし、実習を終える頃には「教える仕事」についての考え方が少し変わっていた。 悪くないかも知れない、と。 夏休み。マスコミ以外の業界も・・・と考えたものの、さて、どの業界を見ようかという段になると、特に思い当たらない。とりあえず、色々な業種の企業が集まる「合同企業説明会」に参加してみた。 正確に言えば、鎌田は既にある企業からの内定を得ていた。ただ、滑り止め程度に試験を受けた金融系のその企業には、ほとんど興味はなかった。 「本当にどこにも決まらなかったときには・・・」その程度で考えていた。 新宿で行われた企業説明会では、ひやかし半分で色々な会社のブースに顔を出してみた。どの業界にも食指が動かないまま、会場内をうろついていたとき、「どうですか?ウチの説明を聞いてみていただけませんか?」と声をかけてきた女性スタッフがいた。 「烏合の衆」ともいうべき会場内において、妙にさわやかで明るく、 場慣れしている雰囲気もあり、 特に断る理由もなく案内された会社の説明を聞いた鎌田は、ブースを去るときには、会社見学の申込をしていた。 佐々木同様、鎌田もまた、塾業界に全く興味のなかった人間である。さらに言えば、 鎌田は「塾」という産業に対して否定的なイメージしか持っていなかった。「塾は受験戦争を引き起こした諸悪の根源だ。」そんなことまで考えていた。 実は、彼自身は学習塾に通ったことがなかった。中学生の頃、成績上位であったことから、どこからどういう風に情報が流れたものか、 自宅に学習塾から電話があり、「無料でいいから通ってほしい」という勧誘につきまとわれた。そんな経験からも、塾に対してはマイナスのイメージしかなかった。それなのに、なぜ? 鎌田にとってこの塾は、彼のイメージする塾とは全く違っていた。「勉強がすべてではない」と言い切る姿勢、「人格教育をもって『生きる力』を育てるのです」という力強い、自信に満ちた説明。 彼は文系学生であったが「何かを創りたい」という欲求が強かった。 音楽業界を志望したのも、何かを産みたかったからであった。 彼がこの塾との出会いで思ったのは「『人』を育てるって、究極じゃないか?」ということだった。 かくして、鎌田は遅ればせながら9月、 1997年度新卒採用内定者のメンバーに加わった。 ~【第8章 そして彼らは出会った ~学生の混乱と企業の思惑】につづく
2014.05.05
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第5章】へもどる)設立10年が経過した。そもそも個人経営の小規模組織である。 新たな職員の補充は、基本的にアルバイトからの正社員登用に限っていた。ある意味、正社員の必要性に乏しかったとも言える。現在でさえ、多くの学習塾は、 運営の大半をアルバイトが担っている。大手になればなるほどその傾向は強く、それは数値的な経営戦略によるものであるが、一つの校舎に正社員は1人か2人。 彼らはほとんど授業を担当せず、では誰が授業を行うのかというと、それが学生アルバイトである。 人件費を最低限にとどめられ、経営効率は良い。 佐々木、小田切の勤務する塾でも、当初は同様の形をとっていた。もっとも、それは経営戦略の上でのことではなく、卒業生の中に「教えてみたい」という意志を持ったものが多かったということからの結果であったが。当時、塾の講師というアルバイトは、時給の高さゆえに人気のある職種であった。 特に佐々木・小田切の勤務する塾では、 講師個人への期待値と負担が大きかったためか、 他塾と比較しても厚遇であったし、さらに独特の強い理念があったため、勤務希望者は多かった。アルバイトの学生が、新たに優秀な学生を紹介、勧誘するなどして、 雑誌媒体での募集とあわせると、比較的労せず、人材補給がなされていた。 しかし、「優秀な人材」というのは、この時点では、「類まれなる『個人技』を発揮できる人材」を超えるものではなかった。「その先生にしかできないこと、ほかの人間にはマネのできないこと」が塾内をはびこっていた。それはそれで良いことなのかも知れないが、 「企業」という観点において考えるならば、 彼らが現場を離れれば『個人技』もなくなるわけで、 決して将来が明るいとは言えない。 そこで、塾を「大規模な株式会社」として将来存続させるための「マニュアル」が必要とされた。つまり、極端に言えば、「そのとおりに実践すれば、 誰もが『優秀な人材』になれるであろう手本」の作成である。 と同時に、人材補充についても、思いつきであってはならない。 出店および経営拡大の計画に則った採用活動の必要性がここに発生する。そして、「マニュアル」が完成したあかつきには、誰もが優秀になれるはずだから、ここで必要な人材とは「ひたすらマニュアルに従う者」である。これまで発展に導いてきた『個人技』は、マニュアルに逆らう、ひいては企業の方向性に対する反骨精神であるとされ、むしろ排除される方向に傾くのである。 こうして、組織は大学新卒者を対象とし、本格的な企業としての採用活動に乗り出した。 1994年。まさに、佐々木が中途採用者として門を叩いた年のことであった。仮に採用方法を大学新卒者対象に切り替える決定があと半年早ければ、 佐々木の入社はなかったに違いない。そして、もしそうであったなら、小田切との出会いもなく、今の愛夢舎は存在しなかった。 さて、1994年より始まった「大学新卒者採用活動」は、はじめは手探り状態であり、年を追うごとに進化していった。 何しろ、新卒者を相手にどのような活動をするべきか、また、内定を出したはよいが、『個人技』を持たない学生をいかに育ててゆくか。 採用活動そのもののマニュアル化も同時に行わねばならない状況となった。翌1995年の採用活動は、昨年得た経験を元に、より本格的なものとなった。 本部組織内の人事部のみでなく、一部の職員によって採用・教育チームが編成された。 大学求人、新卒者向け就職誌への記事掲載、ダイレクトメールの発信、合同企業説明会への参加ほか、 募集の方法も多岐に渡るようになった。塾現場において、生徒からの評価が高い講師を中心に、 新人講師育成のための教育プログラムも構築されていった。 徐々にシステムが確立し、マニュアル化が進行していくが、 採用・教育にあてるコストも膨大なものになりつつあった。 『個人技』の排除と、高コストを投じての新人採用・・・。その向かう先が見通せた者は、社長を含めて、誰もいなかった・・・。 ~【第7章 彼は遅れて来た ~3期新卒採用】につづく
2014.05.05
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ご用意いただくお野菜はタマネギ1.5個、ジャガイモ2個、ニンジン1本でございます。野菜を切り分けます。さて、タマネギから炒めます。鍋にサラダ油をひき十分熱した後で、弱火~中火にてこげないように、かきまぜる手を休めることなくじっくりいためてまいります。ギリシャの古代哲学者、アリストテレスにして我々は「目的論」を存在論の中に見出すことができる。彼のいうところの「可能態(dynamis)」と「現実態(energeia)」の概念である。変化や消滅、生成の正体としての「可能態」と「現実態」。たとえば、樫の木があるとしてその「実」は「現実態」。つまり、今ある姿である。そして、いずれ実がなるであろう「木」は「可能態」。「木」は形相であり、「実」の質量中に潜在している。「A」は(B)という目的をもち、やがて「B」になる。「B」は(C)を目的として、「C」へと達する。最後にたどりつく「Z」は、最終目的であり「完成態(entheleceim)」である。「完成態」はそれ以上の可能性をもたず、質量がない、いわば「純粋形相」である。「純粋形相」は、質量をもたないがゆえ、変化もしなければ動きもしない。しかし、ほかのものはみなここを目指して変化するのでアリストテレスは、この純粋形相を「不動の動者」と呼ぶ。みずからは動かず、しかし他の者を動かす。タマネギは、炒めれば炒めるほどカレーの味が奥深くなっていくんでございます。全体がキツネ色になるほどじっくりいためますとカレーになんともいえない甘みとコクが広がりましてどんなにスパイスで辛くしても、甘みのあるおいしい仕上がりとなります。逆に、炒めが不十分ですとトゲのある仕上がりになってしまいますのでタマネギを炒めるのは、最も大切なことでございます。「可能態」を「現実態」から引き出すためには目的論に従い、努力と研鑽が必要である。お肉を炒めてまいります。今回は牛肉を具材の中心に使っていきましょう。つづいて、ほかのお野菜ニンジンとジャガイモを炒めてまいります。ヘーゲルの「弁証法」は対話によって「らせん」状に思考が上昇していくことをモデルとしている。「定立(these)」と「反定立(antithese)」が一致するときそれはより高次元で合わさり、それが「発展」である。ジャガイモとニンジンは、炒めるときには一緒にいためます。そうすることで、牛肉から染み出た肉汁をそれぞれのお野菜が吸収しなおかつ、お互いの味わいが反応し別々にいためたときよりも深い味わいになりますのよ。これらを一緒の鍋に入れ、さらに炒めて参ります。弁証法においてはより高い位置で「合」となったものにはまた新たに「反」が生まれ、またさらに高い位置で合わさり、発展が続いていく。ここで、お水を入れましょう。紀元前6世紀のタレースは「万物の根源は『水』である」とした。ここで、根源というのは「arthe(アルテー)」のことでアルテーとは、「第一原因」というほどの意味。水というのもH2Oのことではなく、もっと素朴な根源的な水であるがお水は水道水で構いません。しかし、はじめのところで、余分な油をとりのぞきましょう。また、「あく」はこまめに取り除きます。お野菜が柔らかくなるまで沸騰したままゆでていきましょう。ここで、フォンド・ヴォーとさらに炒めタマネギを加えます。プラトンは、イデア論を唱えた。現実として実在するものは、イデアのコピーでありタマネギを完全にペースト状にするのは大変な時間と火加減が必要でございますよね。最近では「イデア」は、コピーが目指すところの「完全形」であり人間のイデアは「神」である。じっくり炒めたタマネギが市販されておりますので大変重宝いたします。ジョン・ロックは人間の心を「何も書いてない板」すなわち「Tabula rasa(タブラ・ラサ)」と位置付けた。この白紙の状態に「経験」を通じて書きこまれるのが「観念」である。外的経験によって観念を得る能力が「感覚(sensation)」であり内的経験によるものが「反省(reflection)」である。カレールーは、お好みのものをご使用ください。本格インドカレーをおつくりになるのでなければ市販のものを組み合わせて使うことでさまざまな味わいを楽しむことができます。今回は、「バーモントカレー」、「2段熟カレー」「こくまろ」の3種類をミックスして使ってみましょう。このルーの配分によってだいぶ味わいが異なりますので研究のつもりで、どうぞお楽しみくださいませ。ここで、ローリエの葉を加えます。また、チャツネも加えることで、味わいがかなり深まります。仕上げとして、バターを加えます。あとは、ぐつぐつ煮込んでいきましょう。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」では「超人思想」が語られる。バックの「カモメのジョナサン」にもみられると分析されるがカモメの「ジョナサン・リヴィングストン」は「なぜ他のカモメは『飛ぶ』ことを当たり前としてそれを省みることもせず、より『良く』飛ぶことを目指さないのか」という思想をいだき、そのために集団を追放されるが結果的に、世界最高速のカモメとなり新たな世界に進んでいくのであるがカレーは、ここで出来上がっております。しかし、ここから先じっくり煮込んだりあるいは数時間寝かせたりそういう時間をおくことによって味が深まっていきます。ジョナサンは新たな領域にすすんでいくそれはニーチェが示したツァラトゥストラと同じ道を暗示させその道を見出したものが「超人」でありそのために理性に従うのが実存主義へとつながっていく。すなわち実存主義とははいおいしいカレーのできあがりでございます。ごはんが少々さめた頃にカレーをかけるのがおいしくいただく「コツ」でございます。kama注1.敬愛する筒井康隆先生のショートショート 「亭主調理法」になぞらって、2つの文章がまざっちゃった体で書いてみました。注2.GWで時間があったので マジメにカレーを作ってみました。おいしい~~~っ!!注3.哲学史の部分の説明不十分な部分、 カレーの作り方についての説明が足りない部分は 文字数の問題もそうですが、 この文章があくまで「パロディ」であることをご理解いただき、 ツライ批判はご勘弁くださいませ。
2014.05.03
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第4章】にもどる)2人は、年下の小田切が、 年上の「新入社員」佐々木を迎える形で出会った。お互いの第一印象は悪かった。それぞれが相手を「いけすかないヤツ」と感じた。 それまで長きに渡って「塾」の空気に慣れ親しんできた小田切は、 理屈では説明のつかない「塾の文化」が体に染み渡っていた。「学生のアルバイトなのに、なぜ勤務時間を超えてまで、そんなに働くのか」、 「なぜ、新しい発想・提案が必要なのか」、 「なぜ、塾の先生がスキーを教えるのか」、 「なぜ、『講師』が経営管理までするのか」・・・。改めて問えば、いずれも答えに窮する疑問である。 当然のことだ。答えなど、はじめから、ない。しかし小田切は10年近くその空気を吸い続けてきた。 彼にしてみれば、全てがそもそも疑問の余地などない、「当然のこと」であった。 これに対し、アメリカという「自由」、「個人」、「契約」の土地で、 多くの異国民と関わってきた佐々木には、アメリカ的な、ビジネスライクな発想があったのかも知れない。自分の能力を提供することを条件に、会社と個人が契約する。これが西洋における「雇用」である。 留学担当として契約している自分が、授業をしたり、 他部署の雑務をこなしたりする不自然さ。これもやはり説明に窮する。ただ、この塾では、理念にひかれてそこに居る人間の割合が極めて高かったため、 勤務時間が終了し、 普通にタイムカードを打刻して帰宅する、そんな佐々木に対しての視線は冷たかった。 何も悪いことはしていない。何の違反もない。残っている仕事もない。 理由などないが、でも周囲の視線は語っていた。「この男はなぜ帰るのだ?」そして、その視線を送る者には、やはり説明はできないのだ。 「なぜ帰ってはいけないのか」と。 授業のみならず、経理や教材作成ほか、きわめて経営に近い場での経験を多く積んだ小田切は、 若くして老練な雰囲気を持っていた。 多くの経験を積むことで、年齢に不相応な職務スキルと、その結果としての貫禄を身につける者が多いのも、この塾の職員の特徴であった。あるとき、新人・佐々木のタイムカードの打刻処理に、 「それではダメだ」と、小田切は叱りに近いアドバイスを与えた。 佐々木は、簡単に言えば、「カチンときた」。「何だ、この人は?」これが、佐々木にとっての小田切の第一印象であった。そんな2人であったが、時を経ずして、職場内で最も仲の良い2人となる。 2人とも、音楽が好きであった。 音楽が2人をつないだ。程なく、「塾の空気」に順応した佐々木は、 留学事業に固執することなく、生徒指導にいそしむようになり、いつしか「誰よりも働く社員」になっていた。これも、簡単に言えば「塾のセンセイ」の仕事に「ハマった」。そうなると、勤務が深夜にまで及ぶことは当たり前となり、 少しでも睡眠時間をとりたいところだが、 音楽好きの2人は、深夜からカラオケに通った。 朝まで歌って、太陽が昇った頃に仮眠をとって、 間もなく出勤する。そんな日も少なくなかった。学生の頃にバンド活動においてドラムを担当していた佐々木と、 幼少の頃、ピアノを習っていた小田切は、 職場内でバンド活動も行うようになり、さらに結びつきが深まったのかも知れない。 生徒参加型のスキーイベントでは、2人が中心となってバンド演奏も披露した。お互いの第一印象からは想像し得なかった仲のよさ、信頼関係であった。 表面的なタイプも全く異なっており、 新しく入社した講師から見ると、なぜ2人の仲が良いのか分からなかったかも知れない。一つだけ言えるのは、 2人は全職員の中でも群を抜いて多趣味であり、 遊びが好きであった。 ~【第6章 大規模な新卒採用】につづく
2014.05.01
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~14年目の今年、「原点回帰」をテーマに、 「愛夢舎ヒストリー」を、 序章から再掲載しております。 現時点で、全33章。 各記事の一番下に、 次章へのリンクがあります。どうぞお楽しみください~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~(【第3章】にもどる)そもそも「学習塾」という産業は何十年も前から存在した。しかし、昔のそれは「一部の生徒が最難関の学校に進学するために通うもの」という印象が強く、「塾=スパルタ式」なんていう図式が世間のイメージにあったかも知れない。これに対し、近年の学習塾は、「学校の補佐的な存在」果ては「学校の代わり」などというイメージまでがつき、ほとんどの生徒が通うものと、その位置づけが変わってきた。こうした、あらたなイメージの学習塾産業は「新教育産業」と呼ばれることがある。 小田切が通い、佐々木が入社した塾は、1983年に創業、 3年後の1986年に法人化し、「株式会社」となった。学習塾業界においては、決して老舗ではなく、むしろ「新参者」として数えた方がよかった。ただ、「新参者」でありながらもその勢いは強く、 創業当初の校舎であった一軒家は、「運営本部」として校舎としての機能を廃止し、ひばりヶ丘駅前のビルテナント(3~5階独占)をはじめとして、 各駅のそばに次々に校舎を展開、 会社となってから10年後には、西武池袋沿線に10校舎を展開する規模に成長した。どの塾においても、「成績を上げる」ことは、塾としては当然のことであり、そのほかの点で独自性を出し、他塾との差別化を図るのが一般的な戦略であった。この塾は「生きる力を育てる『人格教育』」を歌い文句にしていた。 当時の広告には、こんな文句がある。『これだけははっきりさせておきたい。 我々は「成績を上げればいい」と思ってやっているわけではない。 君たちは将来様々な問題にぶつかる時がくる。人間としての実力が問われる時が来る。 いずれ一人で立ち向かわなければならない。我々がその時のために、 今、授けておきたい力がある。その力とは、自分自身の直面した多くの体験から 幸せに生きる術を「自ら学びとる力」である。我々は塾生の「学ぶ力」を伸ばしている。』この理念にもとづき、年間の学習カリキュラムの中に、キャンプや釣り、スキーや地引き網漁体験学習ほか、多くの体験型学習が組み込まれていた。 今でこそ、野外教室や体験学習を行う塾はめずらしくないが、 当時としては画期的であったと言える。さらに、こうした体験学習を全て教科学習に結び付けているのが特徴であった。 例えば、キャンプの場合、生徒は現地集合。どうやってそこまで行くのかは、生徒が自分たちで調べる。食事も自炊。こうした中で、情報を集める力が身につき、それは教科学習にも役立つはずだと考える。この教育の賜物か否か、新参の塾にしては進学実績は素晴らしかった。 中心となる生徒は高校受験生であったが、全国最難関とされる開成高校をはじめ、国立大学付属高校、早稲田・慶應系列、青山学院・中央・明治・法政・日本ほかの有名大学付属高校、 公立最上位高校ほか、名だたる有名難関校への合格者を毎年輩出した。 どうしても「進学塾」としての色が濃くなり、入塾を考える生徒にとって敷居が高くなってきたため、 1994年には全く好対照の塾として「補習塾」という位置づけの別名の塾を立ち上げた。この塾では「過去は問いません。私たちはゼロからはじめますから」をモットーとし、 勉強に対して苦手意識を持つ生徒のために、補習的な内容を指導することにした。 大変なのは、働く講師たちである。 進学塾部門では、首都圏最難関校を目指す生徒を指導し、 補習塾部門では通知表がオール1の生徒を指導する。さらに、野外教室では(これも指導の一貫と考えるので) 講師たちはインストラクターとなり、スキーや釣り、飯ごう炊飯などを指導する。ただ勉強が得意なだけでは、到底勤まらない。 講師は講師で、研鑽の日々である。しかしながら、理念にひかれるのは生徒だけではない。大人だって同じである。この塾に自分の考える教育像を見る講師は少なくなく、ほかの塾に行けば、あるいは自分自身で家庭教師でもやった方が余程ラクで、 収入的にもワリが良かろうに、チャレンジ精神旺盛な高学歴の講師が集まる結果となった。講師は講師で、とどまるところを知らず、次々と新たな試みを繰り広げた。アメリカのネバダ州立大学、レイクランド大学などと提携を結び、 塾に通う生徒を対象に短期留学企画を立案したりもした。 佐々木が「自分の仕事」と見出したのが、まさにこの短期留学事業であり、 生徒として、講師として、塾の理念を体現してきたのが小田切であった。 ~【第5章 そして2人は出会った。】につづく参考:1998年当時 校舎一覧 進学塾部門 : ひばりヶ丘教室、清瀬教室、狭山ヶ丘教室、武蔵藤沢教室、狭山市教室 大学受験部門: ひばりヶ丘校、狭山市校
2014.05.01
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