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今年印象に残った事件に26年ぶりに犯人が逮捕された名古屋の主婦殺人事件がある。犯人には人を殺しても周囲に気づかれないような孤立した人間を想像していたのだが、家庭と仕事を持ち普通に生活をしている女性だったことに驚いた。そうした女性だったから警察もあまり疑うことがなかったのだろう。あの世田谷一家殺人事件や柴又の女子大生殺人事件の犯人も案外まったく普通の市民として社会にとけこんでいるのかもしれない。また、続報がなかったり犯人が死亡していたりするのだが、東大前駅構内殺人未遂事件や滋賀のタワマン老夫婦殺人事件も気になる。いずれも犯人は中年といってもいい年代の男性で、背景には8050問題があるように思える。中年ニートの実態はよくわからないが、高齢の親が無職息子と同居しきれなくなり、別居した場合に、うまくいくこともあるが、困窮した子供が親あるいは無関係の他人に攻撃の矛先を向けることもある。それにしても、東大前駅構内殺人未遂の犯人が教育虐待を受けたことを犯行動機としていることに驚いた。親が子供に勉強を強要するのは普通のことでそれを問題行動のようにとらえるのも変なのだが、40歳をすぎたおっさんがいつまでも親がどうとかこうとかいっているあたりに異様なものをみる。異様といえば、ようやく安倍元総理殺害事件の犯人の公判が始まった。統一教会と政権党との癒着は昔からいわれていることであるし、ある時期までは反共宣伝に利用していたようなところがあった。犯人の境遇はまことに気の毒なのであるが、一方でとうに中年すぎた犯人がいつまでも親ではないだろうとも思う。統一教会と政権党との癒着は大問題であるが、一方で一度沈んだらうかびあがれない滑り台社会も問題なのではないか。事件ではないが参政党の躍進も案外と大きなことなのではないか。自民党の岩盤保守層を吸収したという面もあるのかもしれないが、SNSを通じて従来政治に見捨てられたと感じていた層の票をおりここしたという面もあるのではないか。識者はポピュリズム批判という視点から厳しい眼を向けるのかもしれないが、民主主義は本来ポピュリズムと表裏一体である。最後に今年の日本の出生数は66万人程度だという。66万人という数字は皆が100歳まで生きる静止人口で6600万人であり、まあ、全員が100歳まで生きるというのはありそうにないので、将来的な日本の人口は5000万人から6000万人くらいになるのかもしれない。居住可能面積の少ない日本ではそのくらいがちょうどよいかもしれない。人口≒国力でないことが今日の人口大国をみればわかるだろう。ところで、人口大国といえばナイジェリアなどのアフリカでは現在も合計特殊出生率は4とか5を超えており、人口爆発が進行中である。人口が増えれば職と食が必要になる。こうした国の為政者であれば、投資や援助だけでなく、移民を引き受けることを先進国に望むだろう。かつての日本も人口過剰に悩み、国策として南米に移民を送り出していた歴史がある。先進国で人口が減っていく中で、人類史の第二の出アフリカともいうような大きな移民の流れが地球規模で起きていく。こうしたことがもしかしたらあるのかもしれない。それでは、皆さま、どうかよいお年を…。鳩さん、ふぁみさん、tckynさん、曙光さん、ケルンコンサートさん、来年もどうかよろしくお願いいたします。
2025年12月31日
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性懲りもなくSFを読んでいる。今、読んでいるのは「ガニメデの優しい巨人」。宇宙人とのコンタクトというだけで最初は読む気がなくなりそうになった。宇宙人ねえ…最近では地球は奇跡の星と言われ、様々な条件が希少な確率で重なって生命が生まれ、進化していったとされる。広大な宇宙には人間以外にも知性を持つ生命がいそうなのだが、最近ではそうでもないともいわれる。こうなると、宇宙人テーマそのものも陳腐化しているのではないか。そう思って読んでいたが、この小説では宇宙人が人類や文明の発祥にかかわっているという話になりそうで、がぜん興味がわいた。適当に想像をふくらませるSFだから扱えるテーマだが、宇宙人が人類の発祥や歴史にかかわっているという想像は魅力的である。現生人類の歴史は20万年から14万年くらいだとされる。その頃の人類と今の人類は生物としてはそう違いはないだろう。その一方で歴史が始まるのはどんなにさかのぼっても5000年程度である。生物種としては同じ人類なのに、なぜ文明は生まれ、しかも、その進化のスピードは最近になればなるほど急速に進んでいる。宇宙人が人類に文明を教えたというのは神話にも痕跡があるのかもしれない。中国の神話には、火を教えた神、農業を教えた神というのがでてくるし、ギリシャ神話にもプロメテウスの火の話がある。神を人間以外のものであるとすれば、宇宙人という想像も膨らむ。そして日本神話にも天磐船というものがでてくる。天を駆ける磐でできた船だが、磐には金属も含まれるので、これは今でいえばUFOではないのか。そんなわけで、今では半分ほどを読んでいるのだが、読了したら感想を書いてみる。
2025年12月28日
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今も昔も様々な分野で兄弟あるいは姉妹そろって活躍しているという例がある。〇〇兄弟とか△△姉妹という例である。環境か遺伝かというのは議論になるところであるが、同じ親から生まれ、同じ環境で育った兄弟が同じ分野で能力を発揮するというのはありそうなことである。しかし、こうしたものは兄弟そろって活躍しているから話題になるのであって、実際には兄弟の間でも才能の格差のあるという例も多いだろう。聞いた話だが、ある高名な音楽家に二人の娘がいて、一方はその才能を受け継いで音楽家として成功し、一方はほとんど音楽とは無縁の生活をしている例がある。佐藤愛子の小説「血脈」でも、佐藤紅緑の才能を受け継いだのは長兄の八郎と末の愛子、そして芸者の息子で、八郎の弟は「兄貴が皆才能を吸いとってしまった」とぼやきながら自堕落で破滅的な生活を送る。なまじ同じ兄弟であるだけに才能の格差というものは残酷である。そしてこの遺伝、つまり持って生まれたものは幼少期よりも思春期以降により影響が強くなるという。一見幼少期ほど生まれ持ったものの影響が強く、大きくなるほど環境に左右されそうなものなのだが、実態は逆らしい。才能の分野によっても違うのかもしれないが、子供に小さいころから勉強を教え、塾などにもかよわせ、有名中学に合格しても、その先、伸び悩むという子供がいる。さほど勉強の才能がなくとも、本人も周囲も無理を重ねれば、中学受験を突破できることがあるが、後で壁にぶつかり、そうなると子供の側には親に無理をさせられたという恨みだけが残る。こうしたものが後年の家庭内暴力などにつながる悲劇もあるのではないか。才能を発揮している〇〇兄弟にも、もしかしたら才能に恵まれない他の兄弟がいるかもしれない。単に才能がないということよりも、同じ家庭に才能に恵まれた兄弟がいる場合の方がおそらくはるかに辛い。相続の際によく親に余計に金をかけてもらった子供が特別受益者とされ、相続分が少なくなることがある。しかし、実は親から貰う一番大きな贈り物は出生の時にもらうもので、親が死んだ時に相続するものは、それに比べれば大したことはないように思う。それに今の世の中、教育費というものは不出来な子供ほどかかる。例えばであるが、不出来な子は塾や予備校にたっぷりとカネをかけ、私立大学、専門学校と就職が決まらない分余計に学校に通い、不安定で低所得な職に就いている。一方、才能に恵まれた優秀な子はすいすいと難関国立大学をでて高所得の職業についている。前者の教育費は後者の2倍を超える。こんな場合でも、不出来な子は相続の際には特別受益者となるのだろうか。かえって不公平のように思うのだが。
2025年12月26日
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年賀状を書いた。儀礼的な印刷だけの年賀状はやめたのだが、さて、近況を書くとなると迷うことが多い。よくメールなどをやり取りする人はよいのだが、そうでない人の場合には向こうの状況がわからないので、例えば脚をけがして今リハビリ中といったことを書いたとして、受け取った方はもっと重大な病気になっているかもしれない。逆に、相手が非常に幸せな状況にあるのだとしたら、こちらの方からのは不愉快な愚痴メールとしか思えないだろう。このあたりが若いころの年賀状とは違う。結局、年賀状の文面は幸福にも不幸にもふれないそっけない感じのものになってしまう。そしてまた若いころには膨大な先の時間があったし、あるような気がしていた。長いこと会わない友人であっても、いつか会うこともあるのかもしれない。いつか遠い将来でもいいからあえたらよいね…年賀状のやりとりにはそんな気持ちもあった。しかし、ある程度の年齢になると、今まで会っていないひととは、これからもおそらく会うことがないだろう。懐かしさはあっても、その懐かしい彼あるいは彼女は思い出の中にしかいない。今更あったところで、別々の人生の溝が埋まるものでもないし、境遇が違えば必ずどちらかに引け目がある。自分なんか、すごく引け目を感じやすい方なので、懐かしい友は思い出の中だけでよい。そしてこの頃年賀状じまいの文面も多い。わざわざ年賀状じまいなどと書くつもりもないのだが、こちらから出す枚数は控えめにしていくつもりだ。
2025年12月25日
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「杏っ子」を読んだ。作者の分身である主人公の出生から成人するまでの時期、詩人兼小説家となり娘が生まれその成長をみまもる時期、娘の不幸な結婚と破綻の時期と小説は概ね三つに分けられる。最後の部分は読んでいて辛い。生活力がなく次第に気持ちがすさんでいく男というのはいつの時代にもいそうであるし、そうした結婚は破綻するのがほとんどであるのだから。娘の杏子(杏っ子)の夫は写真家であり、小説家志望であるのだが、結婚してからは次第に写真の仕事も少なくなり、小説の方はさっぱり芽が出ない。自然生活は杏子の着物を売ったり、父である主人公からの援助頼みとなっていく。生活力がないだけではない。夫は酒癖が悪く、妻にも時に暴力を振るう。それでも、今の時代もそうなのかもしれないが、女の側にはなかなか別れる踏ん切りのつかない場合もある。杏子もそういう女の一人だ。この小説の読みどころは、杏子とそれを見守る父との関係であろう。二人の友人のような掛け合いがよく、夫と別れてからも杏子は不幸に沈むこともなく、父とともに颯爽と生きていく決心をする。これも父が財産のある人気作家だからであるし、当時は女性の自立など困難な時代でもあった。それにしても、震災の年に生まれた杏子は終戦時には22歳。このくらいの年代の女性には配偶者となる年代の男性が戦死したりして生涯独身を強いられた人も多い。たしかに大変な時代だっただろう。男の方も、せっかく戦地から復員してきても、時代の激変の中ですぐに職があったというわけでもない。地主は農地改革で土地を失い、軍人関係であれば職を失った時代である。そんな時代に杏子の夫のように、職探しをするわけでもなく、出版社に相手にされない原稿をせっせと書いていた人もいたというのが不思議だ。この小説はかなり事実に基づいているのだろうけれども、杏子の夫がその後どうなったかも気になるところである。杏子のモデルの室生犀星の長女の方はエッセイをかいたりしていて、よく名をみかけたのだが。
2025年12月24日
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労働者は祖国を持たないとマルクスは言った。けれども、今の時代、グローバル資本主義者にも祖国はない。だから彼らは税金逃れのための住民票を移し、それを知恵だと思っている。グローバル資本主義者は自分の儲けのためなら労働力の移動も大歓迎だ。かくして貧しい人口爆発国から先進国への人口移動が起きる。人手不足だ~少子化だ~日本は外国人労働力なくしてはやっていけない~マスコミも大合唱…。差別反対、多文化共生、ナチを思い出す~リベラルさんたちも大合唱…。けれども、労働力不足は全部の分野で起きているわけではない。待遇の低いところで起きている。昭和の昔、新聞配達は貧しい家庭の子供が家計を助けるために行っていた。保育士は若い女性が結婚までの腰掛で行うことが多かった。介護も主婦などが家計補助で行うことが多かった。いずれも、家計の担い手でない労働力ということで賃金が安く設定されていたのだ。やってくるのは外国人。労働力ではなく人間だ。彼らの価値観があり、宗教があり、夢もある。なにより低待遇の職種が嫌なのは日本人と同じだ。いつまでもその仕事をしないだろうし、彼らの子供は絶対にしない。むしろ高齢になれば介護の需要側にまわっていく。だから外国人の移民受け入れは人の集まらない低待遇の労働力不足の切り札になどならない。そして際限なく移民は増えていく。東アジアから南アジア、中東、さらには人口爆発継続中のアフリカからと。西欧の例をみてもそんなに時間はかからない。あと20年もすれば、日本の街角は米国のような多人種多民族社会になっていくだろう。今年の赤ちゃんで一番多い名前はムハンマド君だなんてね。
2025年12月23日
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合計特殊出生率の人口置換水準はおおむね2.07だといわれる。この数値を下回ると将来的に人口は減少に転じる。いまや欧米だけでなく、韓国や中国、インドや東南アジアの国々までこの数値を下回るとなると、人類全体でも人口は減っていくような印象を受ける。しかし、世界全体をみると、まだまだ人口爆発ともいえる現象が続いているところがある。アフリカの国々が多いのだが、その他の地域もある。人口大国でみると、ナイジェリアが4.48、パキスタンが3.60といった具合で、日本が1.20、中国が1.99ということを考えると、人口が減少する国がある一方で、急激に増えている国もあるわけである。人口爆発が起きている国は貧しい地域が多い。どんどん子供が生まれ、どんどん成長していけば、彼らも生きるための職を得なければならない。日本もそんな遠くない昔、人口過剰に悩んだ時期があり、満州開拓団や南米移民など国策として労働力を送り出していた。人口爆発国も同様に、労働力を海外に送り出そうとしているのではないか。西欧などはすでにアフリカ系の移民が相当に目立っていて、街の風景は米国と変わらない多人種社会になっている。これからは欧州以外にもアフリカなどの人口爆発大国からの移民受け入れ圧力のようなものが広がってくるように思う。様々な問題について人はよく右とか左とかいった区分をしたがる。しかし、こうした外国人からの移民の受け入れについては、右とか左とかといった区別はあまり意味ないように思う。右が内外、左が上下で区分するということはよくいわれる。民族や国家の伝統を重視するのが右、経済的階層の上下に着目するのが左といえばよいのだろうか。ただこの内外、上下というのは同じ軸ではない。社会主義理論が席巻していたときには「労働者は祖国をもたない。宗教はアヘンである」といった言説が幅を利かせていたので、左≒外といった図式はあてはまった。しかし、社会主義理論を離れれば、民族や国家の伝統を重視しながら経済政策では左というのもありうる。また、一方で、民族や国家の伝統には冷淡なのだが、階層差は是正の必要なしという考え方もある。今だけ金だけ自分だけの新自由主義である。これからの時代、国際移民の流れ、つまり長い目で見れば人口爆発地域から人口減少地域への移民を促進していく主体は自身の利益を最大限にしていこうとする新自由主義者、もしくはグローバル資本家達なのではないのだろうか。
2025年12月22日
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個室サウナ死亡事件はわからないことだらけだ。しかし、わからないと思うのは、そういう個室サウナなど利用したこともなく、どういうものなのか見当がつかないということもあるのかもしれない。夫婦一緒に利用していたというのだから、温泉施設のサウナなどと違ってプライバシーは固く保護されていたのだろう。一般のサウナのように、従業員がマット交換などで入ってくることもないに違いない。ただ、サウナというのはあの個室で完結するのではなく、シャワーがあり、水風呂があるのが普通で当該施設にも当然、そういうものがあったはずだろう。だとすればそうした空間自体のプライバシーを保護すればよいのであって、サウナ個室の出入りを管理する必要はない。つまり一番わからないのは、なぜサウナ個室がドアノブ方式だったのかということだ。今まで行ったことのあるサウナ、もちろん温泉施設の一般的なそれなのだが、ドアノブ方式というのは一度も見たことはない。全部、内側から推せば開くようにできていた。もし、ドアノブ方式のサウナなどがあれば、それだけでもきっと怖いと思う。サウナはその性格上、急な体調不良が起きやすい。内から簡単に開くというのはサウナ中の事故を防ぐために当然のことだと思っていた。本件ではドアノブが、それも二つともが壊れていたというのも不思議だ。それだけでも、とんでもない不運なのに、非常ベルの電源が切れていたとか、従業員がいなかったとなると、いったいどのくらいの確率なのだろうか。それとも、そうしたことがこういう個室サウナでは往々にしてあることなのだろうか。これも不思議だ。報道では、熱源の上にタオルがかかっていたのが火災の原因という報道もあるのだが、サウナに閉じ込められたら、熱を防ぐためにタオルをかけるのは普通に考えることなのではないのだろうか。
2025年12月21日
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今朝のテレビで中国人観光客が日本への観光旅行を自粛して中国国内の観光地に行っているという報道があった。それ自体は目新しいニュースでもないのだが、驚いたことに中国国内には日本の京都、北海道、鎌倉などを模した観光地があり、なかには日本でいえば富士塚にあたるようなミニチュアのなんちゃって富士山まであるという。富士山はともかく、鎌倉などは自販機や中の飲み物も日本と同じもので、そこに行けば日本の街並みと変わらない。これに比べると千葉県にある東京ドイツ村などはいったいあのどこがドイツなんだろうか…と思う。さらに、このニュースには続きがあって、最近の反日の風潮を反映して、こうした観光地はあっというまに日本の観光地から韓国の観光地に衣替えしているという。東京ドイツ村みたいに最初からなんでこれがドイツなんだろうといったものであれば、一日でフランス村になってもイタリア村になっても驚かないが、ああいった本格的な観光地で、あっというまに日本が韓国になるというのも驚きだ。そしてもう一つ、実感したのは、今の中国は都市と地方との格差、国内の格差はあるにしても、多くの人が観光旅行を楽しめるほどに豊かな国になったのだということだ。ネットでも韓流ドラマだけでなく、今の中国の中産階級の日常を描いたドラマも配信されている。今の中国を見て途上国だという人はいない。何年か前にも反日騒ぎがあって、あの時には反日デモが巻き起こった。あの頃に比べたら、今の中国国内は冷静なようにみえる。貧しい自国へのいら立ちも豊かな日本への反感も、もはや過去のものなのかもしれない。
2025年12月19日
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ミスフィンランドの女性のつり目ポーズが問題になっているという。まあ、ああいうかっこうをすれば仕方ないのかもしれないけど、あのミスフィンランドってそんなに美人にも見えないし、若い子のわるふざけなどほっておけばという気もする。東洋人イコールつり目というイメージがあり、だからそういうポーズは東洋人差別なんだといわれれば、そんなものかという気がするくらいだ。ところでこの東洋人イコールつり目というと思い出す漫画がある。ずっと昔で記憶もさだかでないのだが、親戚の家あるいは近所の家でよくみせてもらった「フイチンさん」という漫画だ。名前もフイチンなんてへんてこりんだし、絵もあまりかわいくない。ただフイチンさんは中国人の少女で、笑ったりすると極端なつり目になるのがインパクトがあった。こんな漫画も今復刻すれば差別だと物議をかもすのだろうか。後年になって、フイチンさんの単行本になったものを見たことがあるが、この漫画には中国人だけでなく、日本人やロシア人もでてきて、中国人はだいたいつり目に描かれていたが、日本人とロシア人は丸い目のかわいい顔に描かれていた。事実はどうか知らないが、日本人はつり目といえば他の東洋人であって、自分たちは別につり目だとは思っていない。それに昔の美人画や人形にあるように、ややつり目気味の切れ長な目はプラスイメージはあってもマイナスイメージはない。そもそもなのだが、差別と騒ぐのは差別があるはずだということを前提にしているからではないのか。だから日本でも黒人差別は問題になるが「白人差別」は問題視されることはない。サイボーグ009の復刻やリメイクができないのは、黒人キャラ008の誇張されたビジュアルが問題だという話があるが、002の高すぎる鼻は問題視されない。そういう意味で考えると東洋人は差別される存在なのだろうか。米国では東洋系は優秀で金持ちというイメージがあるというし、名門大学でも東洋系の学生が席巻している。古代を考えても5世紀には中国人ですでに円周率を7桁まで突き止めた学者がでている。今度のつり目騒動もあまり騒がなくてもよいのでは…と思うのだが。
2025年12月18日
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一年間に訪日した外国人観光客が4千万近くになったという。浅草でも、鎌倉でも、東京タワーでも…外国人が多いなと思っていたが、あらためて数字で裏付けられた感じである。そうしたことを反映して、こうした観光地では、お土産は当該観光地の土産というよりも日本土産といったものが多くなっている。そもそも最近では、日本人の国内旅行で食べ物以外の土産を買うというのは少なくなったのではないか。昔は国内旅行の記念で、よく名所の名前の入ったこけしや人形の置物をガラスケースに並べている家があったが、今時、こういうのはあまりないのではないか。かつては定番のようになっていた北海道土産の木彫りの熊などもあまりみなくなっているように思う。それでも、海外旅行になると、記念の品を買って家に飾ることは多い。外国人観光客もそれと同じで、やはり日本情緒のある扇子や箸、小物などを買っていくのだろう。日本では観光といえば、温泉観光が重きをなしている。しかし大浴場文化というのは、欧米人には非常に抵抗があるようで、箱根でも、温泉を利用した温水プールでは欧米人をかなりみかけても、大浴場ではほとんどみかけない。どこまで実現性があるか不明だが、日本の温泉文化を世界遺産にという動きがあるようなのだが、これも観光客誘致へのテコ入れを考えているのだろうか。昔、英国のバース(bathの語源)を訪れた時、温泉が湧いているのだが、それを利用した温泉施設というのは特になく、かわりにそこにあったという古代ローマの浴場が映像で紹介されていた。大浴場は古代の遺物であり、今、そういうものに入りたいとは思わないのだろう。外国人観光客については集中しているところとそうでないところとの差が国内観光客以上に極端のように見える、にぎわうところは本当に混雑といってもよい様相を呈しているが、寂れているところは廃墟となったホテルが並んでいるばかりのところもある。
2025年12月17日
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かつては紅白歌合戦といえば、今年流行った歌を聴きながら一年を振り返るという趣があった。流行歌というものがあって、大ヒット曲はよほどの世捨て人でない限り、ほとんどの人が知っていたし、それも、春には春らしい曲、梅雨の季節には雨の曲というように季節ごとにそれらしい歌があった。なんであんなに多くの人が流行歌を知っていたのだろうか…と考えてみると、流行っている曲は商店街なんかでがんがんかかっていたように思う。もしかしたら著作権なんか今よりもずっと緩やかだったのかもしれないし、当時はヒットの目安はレコードの売り上げ枚数だったので、宣伝もかねて流していたのかもしれない。要するに大ヒットとなればいやんなっちゃうくらいにあちこちから聞こえてきたのである。そういった「今年のヒット曲」が消えたのがいつごろからなのだろうか。収入がレコードやCDの売り上げではなく、ライブの収入などになってから、だれでも知っているヒット曲がなくなったのかもしれない。曲だけでない。国民的人気番組というのもなくなったようだ。今年の大河ドラマは視聴率ワースト二位だったというが、番組の内容だけでなく、多くの人が大河ドラマというだけでそれをみるという時代でもなくなったというのが大きいのかもしれない。まあ、確かに少女漫画のようだった「光る君へ」は画面の美しさで時々見ていたのだが、今年の大河は見る気にはなれなかった。多くの人が見る、聴く、楽しむ…そうしたものがなくなって、各自がネットやスマホで好きなコンテンツを楽しむという時代になったことは流行語にも反映されている。今年の流行語大賞であるが、ノミネートされた言葉も多くは知らないものばかりであった。また、知っているものも「みゃくみゃく」や「国宝」は固有名詞だし、流行語とはちょっと違うのではないかと思った。個人的には「オールドメディア」など面白いと思うのだが、これは逆にオールドメディアしか見ていない人にはなんのことだかわからなかったのではないか。結局流行語大賞は総理の言葉に決まったのだが、これはいつぞやの米百俵と同様に政権への忖度としか思えない。流行語大賞はそろそろ曲がり角なのかもしれない。
2025年12月16日
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室生犀星の「杏っ子」にはかなり具体的な関東大震災の描写がある。実際、モデルとなった作者の長女は震災の四日後に生まれているので、ほぼ実体験を反映しているのだろう。そしてまた、そこには朝鮮人虐殺の描写もある。震災の混乱は人々の不安に火を付け、どさくさに紛れての殺人はあちこちであったのだろう。福田村事件も最近映画化され注目されているのだが、他にも歴史の闇に埋もれている事件があるのかもしれない。この長女出産の前にはもちろん結婚があり、その前には故郷での不遇の幼少期がある。元下級武士の私生児として生まれ、赤ん坊の時に養子に出されるのだが、当時はこうした貰い児はけっこうあったのだという。養親も慈善でやっているわけではなく、引き取るときには金も貰うし、将来の給料や扶養もあてにしていた。主人公は長じて裁判所の給仕として勤めるのだが、給仕とてそれなりに学力がないと採用されないだろう。女の子ならともかく、男児を養子にする場合、不出来な場合には金にならないこともあったのではないか。裁判所の給仕から「文士に化けた」とだけ記述されていて、主人公が文士になった経緯についての記述はない。交友のあった小説家が実名ででてくるのは面白いところなのだが、文士になった主人公が不遇な出生を克服して、知的中産階級としての生活をするようになる。当時としては令嬢のシンボルだったらしいピアノを娘に習わせたりもする。今でも、途上国では小説家という職業は存在しないという。職業的な小説家が生まれるためには相当数の字が読めて、本を金を出して買う人々がいなければならない。佐藤愛子氏の「血脈」で佐藤紅緑が豪邸を建てたり競馬馬を買う描写があるが、大衆人気作家と主人公では違う。戦前の文士ってなんでそんなにお金があったのだろうか。主人公が自宅をたてようとした場所として木原山という地名が出てくる。これも消えた地名で、大森のあたりの高台をいうらしい。東京には住居表示にない地名でも山のつくところが多い。高い建物が多くなると、土地の高低はあまり意識しないのだが、昔は今以上に高台を意識していたのだろう。「杏っ子」を読みながらこんなことを考えている。
2025年12月15日
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年齢とともにSFとかファンタジーとかを受け入れにくくなっている。それはそれで仕方のないことなのかもしれないけど、世の中全体を見ると、そのSFやファンタジーを受け入れる年齢がぐんと上がってきているように見える。アニメでは異世界転生ものが流行っているのだが、その想定する視聴者というのは、どうやら大人年齢が対象のようだ。そのため、こうしたアニメでは放映終了後の高額なCDセットも収益源になっているらしい。そういえば、ファンタジーの最たるものがゲームだろう。あまりよく知らないのだが、ゲーム世界という異世界で自らを強力にするアイテムを買うために、現実のお金を何万という単位で課金する人もいるという。これをやるのはもちろん大人なのだが理解できないお金の使い方だ。ただある年齢に達するとゲームがつまらなくなる時期があるようだ。実生活が忙しく、現実世界に何の利益にもならないゲームが無駄に見えてくるということもあるのかもしれないが、年齢に伴う感性の低下もあるのかもしれない。一定年齢を過ぎるとSFやファンタジーを楽しみにくくなるのと同じだろう。かの父親に殺害された元農水次官の息子は、一般人の給料以上の額をゲーム課金につぎ込んでいると自慢していたという。ある時期まではソシャゲが外部とつながる場であり、自己実現の場でもあったのであろう。ただ、彼にもやはりゲームがつまらなくなる時期が来たのではないか。俺の人生はなんだったのかと号泣し、父にあたっていたという。もう数年前の事件なのだが、親の立場で考えても、そして子の立場で考えても辛い事件であった。※あまり楽しめなかった「月は無慈悲な夜の女王」の次は、室生犀星の「杏っ子」を読んでいる。やはりこちらの方が興味深く面白い。
2025年12月14日
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最近、不法在留者の強制帰国に際して、子供にも帰国を強制することに疑問の声があるという。子供は日本に生まれ、日本になじみ、そして日本語を母語として暮らしているのに、帰国を強制するのは非人道的ではないかとするものである。こういう論調にはいくつか疑問がある。子供にとって一番非人道的なことは親と引き離すことであり、不法在留の場合に両親だけ帰国させて、子供を残すのは問題ではないか。だいたい子供の生活支援はどうするのか。かといって、両親の在留を認めるとなれば不法滞在者は子供がいる限り帰国を強制できないことになってしまう。そもそも両親とも外国人であるのに、子供の母語が日本語だけということはあるのだろうか。外国生まれ、外国育ちの日本人の子供も大勢いるが、日本語に不自由しているという話は聞かない。母語をマザータングというように、親は自分の母語で子供を養育するのが普通だからであろう。ごくまれに永住を前提に子供を外国語だけで養育している家庭もあるのかもしれないが、そういう場合でも、両親とともに帰国すれば家庭の中では普通に会話できるし、本来の母語は帰国後に覚えていけばよいのであって、それほど非人道的な困難があるとも思えない。両親が不法滞在者であるため、家族で帰国しなければならない。日本語しかしゃべれず、日本にもたくさんお友達がいる。可哀そう…と子供がからむと情緒的になりがちなのだが、子供だっていつまでも子供ではない。欧州では社会になじめない移民の子供たちが成長して犯罪グループに入り、治安悪化をもたらしている場合もあるという。そしてまた、考えてみれば、両親の都合で、仲良しの友人たちや大好きな学校と別れなければならない…そうした経験をする子供は日本国内にいる日本人の子供でも普通にいるではないか。
2025年12月13日
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日本は人手不足だから外国人労働力の導入は避けられないという議論がある。そうであるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、外国人労働力については「来てほしかったのは労働力だったが、やってきたのは人間だった」という言葉がある。人間であれば、それぞれの生まれ持った地域の文化を背負ってやってくるのだし、国によっては宗教が文化の核となっている地域もある。「宗教」といっても日本人の考えるそれとは重みが違う。もちろん今の日本にも様々な宗教があるが、宗教摩擦というようなものはほとんど起きていない。それは日本にはもともとわが仏尊しといったところがあり、仏教宗派同士の反目はないし、神仏習合の伝統もある。ただ多くの外国人がやってくればそうもいっていられなくなるのではないか。海外旅行の際だけ気を付ければよかったような行為が、国内でも「冒涜だ」と言ってとんでもない反発を買うかもしれない。ロビンソンクルーソーは無人島生活の部分だけが有名なのだが、実は物語はまだ続いていて、その中に、未開民族を迷信から救うために、酋長を拘束して目の前で彼らの崇める神像を燃やす場面がある。迷信から解放してやるというのは善意なのだが、相手からすれば余計なお世話だろう。宗教の中には偶像崇拝を嫌うものもある。そんな国からやってきた人々の中には、なにげに偶像崇拝の好きな日本人を迷信から解放してやろうなんて思う人もいるのかもしれない。実際に留学生による仏像破壊事件もあったようだし…。外国人労働力の流入というのは、いわゆる上澄み層の少数の外国人がやってくるのとは違う。それぞれの地域の宗教や思想をもった人々がやってくるのである。軋轢もあるだろうし、もとからいる日本人への影響もあるだろう。ある意味、古代に多くの渡来人がやってきたのに、匹敵するような影響があるのかもしれない。
2025年12月12日
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地名の変遷と歴史的地名が消えてゆくことに警鐘をならした本である。たしかにこの本で説くように明治以降の近代化、戦後の急速な都市化の中で多くの地名が失われていった。育ったところは農村から急速に住宅街に変貌していったところなので、学校の地域分けで使われる地名と住居表示の地名が全く異なるのが不思議だった。住居表示はどこにでもあるような〇〇という地名に番号がついているだけだったのに、地域分けの地名は今思い出しても結構個性的だった。同様に、住居表示とは別に住民の間では古い町名が使われているケースは多く、中には旧町名が小学校や交差点に名残を残している場合もある。例えば目黒の蛇崩などは面白い地名なのだが、昭和7年の目黒区誕生を契機に住居表示から消えたという。同様に品川区の蛇窪という地名も住居表示からは消えている。新しい地名は全国どこにでもあるような平板なものが多いのに比べ、消えた方の地名は個性的で想像力をかきたてるものが多いような気がする。そうはいっても、自分の住む土地がよい場所であってほしい、さらにいえば資産価値も高くあってほしいと思うのは人情だろう。趣があっても読みにくい地名や画数の多い地名は不便だし、〇〇新田とかといった田舎臭い地名も嫌だ。蛇なんていう字も避けてほしい。そうした要望もあって消える地名のある一方でブランド地名は拡散していく。軽井沢の区域が広がっていったのは有名だし、平成の大合併でも日光とか伊豆といった観光地として有名になっている地名は歓迎されたようだ。東京の銀座の区画も当初の銀座と呼ばれた区域からは随分と広がっているという。また、ブランド地名でなくとも、繁栄した都会を創造させる丸の内とか大手町といった地名も全国的に人気だ。中には、外堀の向こうなのに丸の内とか、城下町でもないのに大手町といった歴史を無視したものもあるようであるのだが。地名には古い歴史を持つものもある。最古の書物である古事記や風土記にも今に伝わる地名がでてくるし、特に常陸国風土記には行方(なめかた)など今につたわる地名がけっこうでてくる。この時代にすでにあったということは弥生時代にまで遡るものなのかもしれない。便利ということだけでなく、古くから伝わる地名というものはもっと尊重すべきなのではないか…それは過去にその土地で暮らした多くの人々の思いがこもっているものなのかもしれないから。そんなことも考える一冊であった。
2025年12月11日
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SFには適した年齢と時期というものがあるのかもしれない。今の年齢はSFとか異世界冒険小説というのには入り込めなくなっているし、この小説が発表された1960年代ならともかく現代の感覚では月は穀物生産の拠点になるという設定も荒唐無稽にすぎるように思う。ただ、逆に今の感覚だからこそわかる部分もある。自我を持つコンピューターのマイクの存在だ。主人公のよき友人であり、相談相手である彼のような存在は小説発表当時には空想科学だったかもしれないが、AIが実用化されている今日では身近になっている。そしておそろしいことにAIも日々進化していて、スマホに入っているAIに俳句を作らせてみたら、下手な人間よりもよくできた俳句がたちどころに解説付きででてくる。最近では、AIが自我を持ち始めたなどということをいう人もいて、そうなればますますSFの世界に近づいてくるわけである。いくら科学が発達してもできそうもないものがある。時間旅行と生命の創造である。前者はともかくとして、後者については、生命科学的存在の生物は作れなくとも、自我を持つ存在を生きているというのであれば、自我を持つAIの創造は生命の創造のようなものなのかもしれない。そんなことも考えさせられる小説である。
2025年12月10日
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いろいろな場所を検索すると心霊スポットという言葉にヒットすることがある。埼玉にある〇〇湖はもともとは農業用水用の池で、その後はボートや釣りのできる観光地になっていたのだが、今、検索すると心霊スポットと出てくる。この間、その〇〇湖に行ったのだが、夕方ということもあって、人も他にいなかったため、たしかにそんな雰囲気があった。ただそうした話がでてくるのは、湖岸にある二つの廃墟となった建物の印象が強いのではないか。単なる空き家と違い、ホテルのような大きな建物が廃墟化しているという状況は、なにか西洋の怪談にでてくるような荒れ果てた古城を思わせる。それが湖面に写っている様子はそれっぽい雰囲気抜群だ。ああいった廃墟ホテルや建物というのは、撤去するなりなんなりできないのだろうか。世の中には、心霊スポット好きよりもそうでない人の方が多い。普通に湖の景色を楽しむためにも不気味な廃墟は似合わないように思う。そうした廃墟ホテル群といえば鬼怒川温泉を思い出す。ホテルの窓が骸骨の眼窩のように並んでいるのをみると、いくら渓谷の景色がよくても、なんとかならないかと思う。団体向けの温泉旅館が多かったものが、社員旅行、町内会の旅行などの社会的需要が減少するにつれ、寂れていったのだろうか。それとも、周囲に見どころのない温泉しかない観光地ではインバウンド需要をとりこめなかったのだろうか。どうも西洋人の感覚では入浴はトイレと同様にプライベート空間という意識が強く、大浴場には抵抗があるのだという話をきく。これから人口が減少していくにつれ、空き家だけではなく、ホテルやオフィスビルなどの大型建物の廃墟も増えていくことだろう。そうした建物は解体するなり、リフォームして再利用するなりできないものなのだろうか。あちこちに不気味な廃墟ばかりになり、心霊スポットが増えていくような未来は望まないのだが。
2025年12月09日
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台湾は日清戦争後に日本の領土となったが、それまではアヘンと疫病が蔓延し、剽悍な未開民族と大陸からの流れ者しかいない島だったという。だから台湾割譲の際、清国代表はあんな島を得たことを日本は後悔するに違いないと言ったという。今では日清戦争は中国近代史の中でも重要なこととされ、中国半植民地化の悲惨はそこで深化したとされている。それまで「眠れる獅子」と呼ばれていた清国は「眠れる豚」と呼ばれるようになった。アヘンや疫病の対策がその後どういいうふうに行われていったかについては膨大な資料があるのだろう。ともかくとして、アヘンの害も疫病も落ち着き、ダムや学校、保健所などもできていった。未開民族についても霧社事件のようなことはあったが、時代背景が違うとはいえ、オーストラリアなどであった原住民迫害のようなことはきかない。戦前の日本の侵略行為を肯定するものではないが、植民地経営としての台湾統治は、ゴム園経営のためのオランダのインドネシア統治などに比べると、現地の人々にとってはましなものだったのではないのだろうか。独立後も台湾は発展し、今では先進国といってもよいレベルに達している。これは大陸と同じ民族である中国人によってなしとげられたものだ。香港やシンガポールも発展しているが、中継貿易としてではなく、実際に製造業で世界に伍しているあたり、より価値が高いように見える。今では、治安がよく、食べ物もおいしい台湾はもっとも行きやすい人気の海外旅行先になっている。中国の歴史の中では日清戦争の敗北と台湾割譲は屈辱的な出来事なのかもしれないが、今の豊かに発展した台湾をみれば見方も変わるのではないか。もちろん今の台湾の人々は大陸中国と一緒になる気はまったくないのだろうけど。
2025年12月08日
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昨日の日記で昭和時代の思い出を書いてみた。都市化のスピードは驚くほどで、ちょうど地方からどっと人々が東京にやってきた時期で、そしてやってきた人々は一戸建ての住居を皆求めたので、子供の頃はあちこちで工事をやっていた。最初に家がたったのは野原、そして次は畑、最後は田んぼだったのだろう。家を建てるにはまず土台を作らなければならない。工事中の砂利山があっちこっちにあって、その砂利山は子供の格好の遊び場所でもあった。砂利山の上を駆け回って忍者ごっこをやったり、ときには砂利山をかき回して気に入った石を集めたり…今なら考えにくいのだが、工事現場には子供はけっこう自由に立ち入ることができたのだった。全く酷い話なのだが、工事が終わって入居前の家、使われる前の土管に入って遊んだこともある。そうそう、砂利で土台を作る前だろうか、重りを地面に打ち込んで固める作業も何度もみたことがある。ヨイトマケである。たしかに大勢の男に交じって真っ黒になって働く女も覚えている。あのヨイトマケの唄にあるような母親も実際にいたわけである。そんなヨイトマケを見たのは小学校の低学年くらいまででその後は機械化されていったので、クラスに「ヨイトマケの子供」がいたという記憶はない。もしかしたら、上の学年にはそうした子もいたのかもしれない。好き好んで貧乏な親はいない。苦労をしたくて苦労をするという人もいない。しかし、戦争やその後の混乱で、苦しい生活を余儀なくされたひとは昭和30年代くらいには大勢いた。そういう親を見ながら、親を少しでも喜ばせてあげよう、いつかは親に楽させてやろう…そう思って勉強に励んだ子供もいたことだろう。いやけっこういたのではないか。「親ガチャ」なんていう言葉を弄んで自分の勉強嫌いを親のせいにしている今の人々から見れば、ヨイトマケの子供なんてのは理解できないのだろうな。
2025年12月05日
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田舎育ちではないのだが、故郷が田舎だった頃のことは覚えている。やってきたのは三歳になったばかりの時だ。新築住宅が並び、家の前ではコンクリートの階段工事の最後の仕上げをしていた。玄関から外に出ると、ずらりと同じような家の屋根が並んでいる。三歳の記憶があるというのも変なのだが、あの光景は絶対に作られた記憶などではない。この家に来た時、いつの間にか外に出て家の前でわあわあ泣いていたんだよ…母から何度も聞かされた話だ。住宅の区画は我が家のあたりだけで、後は畑や雑木林、そして家の前には一面の田んぼが広がっていた。田んぼの向こうはやはり雑木林で毎晩フクロウの声が聞こえてきた。やがて小学校に入ると、クラスの半分くらいは農家の子だった。そんな農家の子の家に行くと、薄暗い昔風の民家で、ものすごく広いのに驚いた。毎月といってもいいくらいに転校生がやってきて、炭鉱離職者の子などもいたように思う。家の前の田んぼは突然大規模な住宅工事がはじまり、それが完成すると、またもや転校生がやってきた。勉強ができなかったので、中学受験は考えもせず、当然のように近くの公立中学に入った。中学受験組は移住者の子が多く、農家の子たちはほとんど公立中学で一緒だったが、その頃には農家の子たちのほとんどが資産家の令嬢令息になっていった。考えてみれば東京育ちというものの、原宿も六本木もほとんど知らない。新宿の駅は巨大なダンジョンのようで、たまに行くとしょっちゅう迷っていた。神田の本屋街に行こうとして、神田駅で降りて、どこにも本屋なんてないのではないかと思ったこともある。中学生まではそんなものだ。高校になり、電車通学するようになると、行動範囲は広がる。その頃には、少し郊外に行くと、ひな壇のような宅地造成地をよくみかけた。山道だったものが住宅街になり、あたらしい駅にはなんとか台とかなんとか丘というよい名がつけられた。一戸建ては当時の憧れでそういうところの瀟洒な家は憧れだったのだろう。まあ、そんな時代もあったということです。
2025年12月04日
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今の時代は少子化が大問題とされ、少子化対策という名目で様々な給付がなされている。こうしたものが少子化対策として効果があるのだろうか。答えは否である。少子化の原因は未婚化であるのに、少子化対策なるものは既に結婚をしている人に対する給付だからである。つまり本気で少子化対策をするのであれば、結婚を促進する対策を行わないと無理ということである。もう一つ…日本では極めて少ない非婚の母であるが、そういう選択をしにくい状況があるのであれば、それを取り除くという方策もあるのだが、議論のあるところであり、ここでは考慮から外す。結婚を促進する…そんなことがはたして可能なのであろうか。若者の雇用を安定させ、収入を上げる。それは確かに結婚を促進するかももしれない。昔も今も結婚というものは独り立ちし経済的に自立できるようになってからするものとされているのだから。しかし、どうもそれだけではないだろう。結婚というものに対する考え方が、しなければならないものから縁があればするものに変化してきている。結婚をしないという人生がそれだけで不幸なんて考える人は今ではあまりいない。ましてやいつまでも独身でいる男性を変に思うという感覚もなくなっている。昭和の昔は会社の中で、まともに仕事をしている男がいい年をして独身というだけで変わり者のように見るところがあった。そう考えると、どうもこの未婚化というのは不可逆な潮流で、どうしようもないのではないかと思う。少子化を何とかするというよりも、少子化を前提にして社会設計していくしかないのではないか。そして、そうした社会の変動は既に始まっているのかもしれない。今では専業主婦を当たり前だなんて考える人はいないし、高齢者が働くのも当たり前になっている。そうだとしたら、必要なのは多くの人々にとって働きやすい環境づくりをしていくことなのではないのだろうか。子育て世帯に何万円の給付とかいうバラマキ政策はかえって国民の間の分断を生み、やがては非子育て世帯の不満が爆発するのではないか。統計的に見ても子育て世帯は決して低所得ではない。むしろ結婚をし、子供を育てる余裕のある世帯なのでかえって裕福である。ましてや誰が望んでいるのかわからない私立高校の授業料無償化や大学授業料の無償化などは、当の子育て世帯というよりも、教育機関そのものを救済するために行う愚策だとしか思えない。
2025年12月03日
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どうもよくわからないニュースというものがある。政府は理系人材の確保に向け学部構成が文系主体の私立大を対象として理系拡充への改革を後押しするために一校当たり最大40億円程度の支援を行うという。理系人材が不足するというのであれば、どういう分野のどういう人材が不足するかを考え、そのための方策を考えるべきだろう。当たり前なのだが、理系の才能や能力は誰にでもあるわけではない。また、理系に分類される学部であっても、入試は数学なし、卒業生のほとんどは専門とは関係ないところに就職しているという例もある。文系主体の私立大というのが具体的にどういう大学をいっているのかは不明だが、そうした大学に新たに理系学部ができたからといって、理系の能力のある学生が集まるとも思えない。今でも少子化の中で、学生集めに苦労し、経営危機に陥っている大学は多い。この一校当たり最大40億円程度の支援というのも、実質は、理系人材の確保ではなく、経営困難に陥っている文系主体の私立大学の救済ではないか。こんな想像をする。学生の集まらなくなった大学が、不人気の学部を縮小して、一応理系に分類される情報なんとか学部とか環境なんとか学部を作る。定員は少なくなるので、学生集めは少し楽になる。もちろん入試には難しい数学問題は出さない。そうしたところを出た学生が「理系人材」になるとも思えない。本当に理系人材の確保を考えるのであれば、今ある大学や高専の施設充実の方が急務であると思うし、さらにいえば国立大学の理系に関しては授業料を昔のように安くする政策を行った方が効果がある。そしてもちろん教育だけの問題ではなく、社会の中で理系人材がきちんと処遇されるようなことも重要だ。
2025年12月01日
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