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四番目は『修羅界』。『阿修羅』という言葉をご存じの人も多いと思うがこれが語源となっている。阿修羅とは元々古代インドの神様の名前で、戦いの神であり、戦いを好む神であるといわれている。仏教でいう『修羅界』とは、自分が優れていることを他人に誇示したい状態を言う。それは同時に他人が劣っていることを証明することを同意である。また厄介なのは自分を良く見せるために善人や人格者のふりや謙虚な姿勢すらみせることもある点だろう。しかし連中を見抜くのはまた簡単なことだ。本心は行動にでる!!その人の言葉は耳に残したままで行動を見ればいい。そこにズレや矛盾があればそいつの生命状態は修羅だ。そして畜生界の連中と同じく、自分より明らかに優れている者には極端に弱い。だから近づこうともしない。距離をとって陰口をいうのも特徴だ!みなさんも見のまわりの人たちをよく観察してみるといい。もちろん自分自身もだ。
2024.08.31
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三番目に低い生命の状態(境涯)は『畜生界』。これは強き者にはひれ伏し弱き者には容赦なく襲いかかる性質、または目先の利害にとらわれて理性が働かない状態を示す。愚かさの真骨頂ともいえる。よく人間以外の動物を「畜生」なんていうこともある。確かにそうかも知れないが、案外人間の方が「畜生」であるような気もする。理性や良心を忘れ去り、自分の利益のためには平気で他者を傷つけたり殺害したりできる。つまり戦争の首謀者は畜生だといえるのかもしれない。私の知る限りでは、この畜生の境涯で生きている人間のほとんどが「自分は正しい」と思い込んでいる連中だ。そんな連中を黙らせるには、連中より強い力や立場でねじ伏せれば簡単だ。・・・しかしそれをするとこちらまで畜生道に落ちるような気がしてほとほと嫌になる。それともうひとつ!畜生道に落ちている連中は、極度に孤独を嫌う!!!ひとりでは生きられない弱者中の弱者であることも特徴だ。何をされても言われても全く反応せずに無視し続けるのも有効だ。もちろんこれも私の私見ではあるが、、、。
2024.08.30
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二番目に低い生命の状態(境涯)は『餓鬼』だ。常に飢えや乾きに苦しんでいる状態とされている。よしんば食べ物や飲み物を手に入れても手の中で火に変わってしまい口にすることができず、その飢えや乾きが満たされることがない。またこれは物欲に飢えている様を示す場合もあり、手に入れても手に入れてももっと欲しいと思う状態や、一度手に入れたものを手放すことを極度に嫌う状態を言うこともある。物欲が抑えられない小さな子供を卑しめてののしる言葉として使われることもある。
2024.08.29
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一番低い(ストレートな言葉を使うと「最低な」)生命の状態・・・それを『地獄界』と釈迦は表現した。『地』とは地面に這いつくばるほどの苦しく過酷な状況を、『獄』はその状態に縛られて抜け出せない状況を意味する。十数年前に話題になった絵本の題名は、そう『地獄』だ。生きているときによくない言動をしていた者は死後地獄に落ちてどんな目に遭わされるのかを描いている。生きたまま舌を抜かれたり、皮を剥がれたり、釜茹でにされたり、切り刻まれたり・・・そして死ぬことはできないで永遠にそれらの苦しみを味あわされ続ける・・・といった内容だ。我々はこの言葉を知らず知らずのうちに日常生活で使っているが、今一度その意味を考える必要があるのかもしれない。
2024.08.28
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その人のそのときの(または持って生まれた)精神(または生命)の状態を知ることで、冷静に自己分析ができるようにとこの10段階を釈迦は示したともいわれている。ちなみにフロイトの心理学ではこれを9段階、ダンテはその『神曲』の中で同じく9段階に分けたと聞いているが、やはり10段階に分けた釈迦はすごいのだと思う。ではこの十段階を紹介させてもらう。仏教ではこのそれぞれの段階を『界』と呼び、これから紹介する内容を『十界論』と言ったりもする。では・・・低い段階から紹介しよう。みなさんは人間の一番低い生命状態を何というか想像ができるだろうか?もちろん皆さんが聞いたことのある言葉だ。十数年前にはその言葉が題となった子供向けの絵本が出版されて様々な意味で話題になったこともあった。
2024.08.27
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釈迦が言う幸せの定義も私には少し難しい。平たく言うと「何事にも左右されない穏やかな心理状態に至ること」と解釈できる。そしてその境地に至った人を仏(ほとけ)と呼ぶとのことだ。つまり、仏(ほとけ)とは釈迦1人のことを示すのでない・・・といことだ。確かに、我々は何があってもいつも穏やかな人を「仏様のようだ」と言うことがある。それが女性ならときには「菩薩様」なんて比喩することもある。さらに釈迦はその仏の境地・境涯のことを知るためにそれ以外のことも知る必要があると思い、人の心の状態を10段階に分けて説明した。
2024.08.26
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釈迦、お釈迦様、我々は仏教の始祖のことをそのように呼ぶが彼は釈迦族の王子であった。名はゴータマ・シッダルタ。王子様だけに最上の贅沢もできて彼の言うことを聞かない者はいなかったので様々な我儘も言えた。そのうち彼自身自分にできないことはないとさえ思うようになった。しかし、そんな彼にどうしようもできないことが起きる。最愛の母親の死だった。その深い悲しみを克服せんがため、彼は死から人々を救う方法を模索しはじめた。そして間もなく王子の身分を捨てて修行僧となった。その後様々なことを経験した末に命をも落とさんばかりの修行を経て、全ての人々が幸せになれる方法を考え出すことに成功した。これを別の言葉で『悟りを開いた』とも言った。
2024.08.25
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本能のおもむくままに生きて基本出たとこ勝負!!その勝負に勝っても驕ったり喜んだりもしない。またその勝負に負けても恨み言を言わずに結果を静かに受け入れる、、、たとえそれが死であっても、、、。動物たちはそれが故に必要以上に他者を傷つけたり殺したりもしない。もちろん捕食のためや縄張り争いなどの例外はあるが、人間ほどではない。執着を捨てよ!それを説いたのは釈迦だ。釈迦は全ての生きとし生ける人たちを幸せにする方法を考え続けた。そして至った結論がそれなのだ。
2024.08.24
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ある意味カメ吉は生きることにさえ執着をしていないようにさえ思える。成り行き任せの出たとこ勝負!!例えばあの夏の灼熱のアスファルトの上で私が見つけていなかったら、おそらく命はなかった。いや、他の誰かに救出された可能性もゼロではないがそう高い確率ではないだろう。厳しい自然界でそれで生き残っていたのだからたいしたものだとも言える。しかしよく考えてみると、カメ吉だけでなく多くの動物が我々人間ほど生きることに執着していないのかも知れない。
2024.08.22
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よくよく考えるとカメ吉は本当に待ってくのノープランで生きている。暑い日には暑さと共に、寒い日には寒さと共に、心地よい日は心地よく生きている。食事だってそうだ。なるべく朝と夕方に適量の食べ物を与えるようにしている。毎回食べ物が水槽に入ったことを確認するとゆっくりと水面に浮かぶそれを口にいれる。しかしこちらの都合で1日回の日もあれば、先日は2日間食べ物を与えてやれなかった日もあった。それでも何事もなかったかのように水槽で過ごしている。ここまでくると、ノープランというより何の執着もないといった方が正しい表現かもしれない。
2024.08.21
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やはり春先は気持ちよく私が水槽の中につくった小さな島で日向ぼっこをしていたカメ吉だったが、この猛暑の中ではそれもできないでいた。
2024.08.20
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今年はそんなカメ吉と過ごす2回目の夏をむかえた。昨年にも増した酷暑だ。冬眠から覚めた春先は水槽の中で気持ちよさそうに過ごしていたカメ吉もさすがにこの暑さにはまいっているようだ。水槽は家の東側に設置してあるので、正午以降は日影になる。それでも午前中の日差しがきついので、水槽の南が側の側面の全部と上面の半分を簾(すだれ)で覆って日影を作っている。その上水温もチェックはしているのだが、日差しや温度以外の何かが熱くて水の中にいてもダラっと伸び切って元気のないときもある。
2024.08.19
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またまた暗い内容になってしまいましたね・・・でもまぁ事実は事実ですからお伝えできてよかったと思います。また次回から「かめきち」の話に戻ります。
2024.08.18
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それを考慮すると、オリンピックが平和の祭典だったのは古代オリンピックで、近代オリンピックに至っては名ばかり・・・と言わざるを得ない。また経済面とフィジカル面で優位な白人が貧困国の他民族に圧勝することを楽しむという過去から受け継がれた残酷な側面もある近代オリンピックは、今一度見直されなければならない岐路に立っていると言えるだろう。とはいえそんな側面をものともせずに競技に打ち込む全世界の人たちは賞賛に値する。そんな人たちがしっかり友好的な交流を続けることで世界に平和をもたらす祭典にオリンピックがなる日を期待する。
2024.08.17
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さてここでオリンピックの起源についても触れたいところだが、話がさらに横道に入ってしまいそうなのでやめておくことにする。で、話を本題に戻す。このように誰かの命を奪う行為を娯楽としてきた経緯を踏まえて、今のオリンピック・近代オリンピックが1896年から始まった。それに対して、紀元前9世紀頃にはじまったとされる古代オリンピックには『聖なる休戦』というものがあった。簡単にいうと、オリンピック開催期間はいかなる理由があろうとも戦争を休戦するというものだ。この期間は最初は1か月ほどだったが、最終的には3か月になったと言われている!
2024.08.16
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マリーアントワネットの演出・・・みなさんはあれをどのように感じただろうか?私は半分ゾッとして、残りの半分は「やっぱりな!」と思った。オリンピックの開会式のセレモニーの内容は一部の関係者しか知らない極秘事項だ。もちろんそれは企画の段階からなのだ。その一部の関係者があれをヨシとしたのだ。テレビやインターネットで全世界に流れることを前提としてだ。なぜヨシとしたのか?それは処刑が娯楽や楽しみのひとつであるからだ。
2024.08.14
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奇しくも今回のオリンピックでフランス人(一部の人たちであろうと思うが・・・)ギロチン処刑が、娯楽またはお祭り感覚の一環であることを世界に知らしめる自体が起こったことはご存じであろうか?そう!開会式のあの演出だ。
2024.08.13
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いやいや、それでも西洋白人社会のそれは他の追随を許さないほどの娯楽性がある!10世紀前後にどのような公開処刑が行われていたのかについては、映画【ブレイブ・ハート】を参考にしてほしい。あのラストシーンは史実に基づいている。15世紀から17世紀までの実に200年間も続いた『魔女狩り』は有名だ。魔女なんていないのに突然1人の女性に魔女の嫌疑をかけて公開拷問の末に公開処刑するのだ。ギロチンに至っては大衆の面前でおこなうことを前提に作られている!そして落とされた首を使って、実験やゲームをおこなっていたというから驚きを隠せない。
2024.08.12
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1878年に発表されたヘンリー・ジェイムズ作『デイジー・ミラー』なんかは特に顕著だ。舞台は1800年初頭のローマ。ヨーロッパ人青年とアメリカ人女性の恋愛を描いた作品だ。この物語の中では当時のローマ(特にコロッセオ付近)の衛生状況を描き出している。生き物(人間を含めているかどうかは作品中からは読み取れない)の死骸がそのまま放置されて病原菌がまん延しているのだ。つまりは1800年代初頭までは、そこで何らかの命のやり取りが続いていたと考えられる。しかしまぁ1800年代初頭はローマ以外の他の地域や国々でも、殺害を娯楽とする風潮は歴然と残っていたので、これに関しては全世界的なものだったと考えるべきであろう・・・もちろん日本も例外ではない!
2024.08.11
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またこれらに関しては有名な映画の題名にもある隠された意味があることにも触れていきたい。『ローマの休日』だ!原題は[Roman Holiday]である。英語学習を進めている学生諸君は何か疑問を抱かないだろうか・・・この題名を英語として訳すなら、[A Holiday in Roma]となるのが普通だ!なにのなぜ[Roman Holiday]なのか・・・実は[Roman Holiday]は慣用句で、「他人を犠牲にして得る娯楽や利益」といった意味がある。そう、古代ローマのコロッセオのことが由来しているのだ。またコロッセオで殺し合いが行われていたのはいつまでか・・・という話には諸説あるようだが、ひとつの文学作品がそのヒントを教えてくれている。
2024.08.10
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リンチを含めた人殺しを娯楽とする白人社会の文化はかなり以前から続いている。有名なローマの『コロッセオ』もそうだ。西暦80年に完成したといわれる円形闘技場だ。当時の皇帝が民衆の人気を獲得するために娯楽を与える目的で約10年がかりで建設された。そこで大人気を博していたのは[殺し合い]という競技だった。最初は猛獣を戦わせていたのだが、そのうちに民衆はより強い刺激を求めるようになり、やがてそれにこたえるために人間が投入された。もちろん闘牛のように人間が猛獣を倒す競技もあったが、やはり一番人気が人間同士の殺し合いだったとうわれている。ある記録によると、100日間で殺された猛獣は約9000頭で、剣闘士と呼ばれた人間は約3000人だとされている。単純計算で16分に1頭の猛獣が、48分に1人の人間が、大勢の観客の目の前で殺されたことになる。だたこれは本当の単純計算で出た数値で、[殺し合い]という競技が24時間ぶっ通しで続けられたと想定した数値だ。コロッセオには証明設備が無かったことから行われたのは日中と想定される。朝8時から夕方6時までの10時間だけ競技が行われたとすれば、1分30秒に1頭の猛獣が、5分に1人の人間が殺されたことになる。そして観客はそれを楽しんでみていたのだ!!
2024.08.08
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歌詞の詳細はまた各自で調べてほしい。ネットで検索すればすぐに見つかるので・・・その歌詞に出てくる『奇妙な果実』とは、白人たちにリンチで殺されたあげく首吊り状態で木に吊るしあげられた黒人の死体のことなのだ。そんなに遠くない昔、アメリカの特に南部で頻繁に行われていた事実だ。当時の資料として残っているものには、その死体の写真の裏に住所と名前を書いて絵ハガキみたいにして父親に送ったものがある。吊るされた死体の写真の横には「パパ、今日のバーベキューだよ!」と書かれてある。当時の白人たちは「これはいいアイディアだ!」と言って、それらの写真を本当に絵ハガキにして土産物として販売までしていた。これはほんの一例で、白人たちはこの何千年もの間でリンチや公開処刑を娯楽やお祭りとして楽しんできた。
2024.08.07
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まぁ勿の論で、『誤審』『疑惑の判定』の数がダントツで多いのは日本だ。あと、フェンシングでジョージアの選手が、そしてサッカーでモロッコ代表チームがそれぞれ審判側から不利な判定・判断をされて試合に負けている。なぜか?端的にいうと、嫌われ者で正直者の国が勝てない仕組みになっているのだ。といっても嫌っているのは昔とは違ってほんの一部の人間だ。ただ情けないのがそんな連中がオリンピックの主催・運営側にいるのだ。それとオリンピックに資金を出している連中の中にもいる。逆にいうと、『誤審』『疑惑の判定』を受けない国を探せばこれまた一目瞭然だ。白人至上主義の国々だ!全員とは言わないが、白人が差別をするのは黒人と相場は決まっていた。しかし最近それがおおっぴろげにできない風潮が世界的に広まっている。だからといって黒人への差別が無くなっているのかといわれれば残念ながらそうではない。一言で黒人への差別・・・というが、非難中傷といった生やなしいものではない!!みなさんは《奇妙な果実[Strange Fruit]》という歌をお存じだろうか?
2024.08.04
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ちなみに皆さんは先の東京オリンピックでの『誤審』または『疑惑の判定』といわれるものが何件あったかご存じであろうか?0件である。すごい! と思った人!確かにすごいことなのだが、ひるがえって考えれば当たり前のことでもあるのだ。昨今はVR判定というのも使える。だから判定に異議があった場合VRで検証することによってお互いが納得できる結果を出した。だから『誤審』『疑惑の判定』がゼロなのだ。もちろん今回のパリオリンピックでもVRは機能している。しかし『誤審』『疑惑の判定』が後を絶たない!なぜか?それは不利益を被った国を調べてみたら明らかになる。
2024.08.03
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しかしながらここ数回のオリンピックにおいてはもう『平和の祭典』という言葉は聞かれなくなった。その原因のひとつはもう世界は平和とは言い切れない状況だからだ。それまでも小さな紛争は世界各国で続いていたが、今は大きな戦争が複数継続中だ。そしてもうひとつは、オリンピックは人種差別の場でもあることに世界中の人々がうんざりしてきているからだ。「え?オリンピックで人種差別? ありえない。」と思う人も少なくないと思う。しかし残念ながらそれはあるのだ!例えば『誤審』や『疑惑の判定』である。今回のパリ・オリンピックではすでに多くの『誤審』や『疑惑の判定』が起こっている。誰かが「誤審ピック」と揶揄したらしいが、まさにその通りだ。今回の開催地がパリということで、私はずっと前から「今回も誤審や疑惑の判定が多いんやろなぁ~。」と思っていた。
2024.08.02
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2024パリオリンピックも各競技が行われ、オリンピックに付き物の悲喜こもごもの物語が今回も描き出されている。しかし悲しいことに今回のオリンピックでは新たな問題が深刻化しているようだ。SNSによる選手への誹謗中傷だ!いつも言うことであるが、誹謗中傷をした者はその対象者よりも上の立場になっていると勘違いしている。なぜならその連中は一度でも祖国の代表になってことなんてない人間だからだ。もうそろそろ世帯的にSNSの世界の在り方を本気で見直さなければならないときがきている。私が子供のときは『オリンピックは平和の祭典』と言われていた。さまざまな国の人たちがスポーツを通して友好を深めて人間の本質的素晴らしさを世界中に示してくれるのがオリンピックなのだ。実際、後世に語り継がれるべき物語を数多生み出してきた。
2024.08.01
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