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とは言えども、はいそうですかと入試の制度が来年からガラッと変わることは期待できない。今までの共通一次試験やセンター試験を統括していたのは独立行政法人だ。結局公務員がやっているうちは新しいものは生まれない。それは彼らの能力がないとか先見の明がないとか、そんな問題ではない。試験自体が彼らの収入減になっているから、その既得権益を手放したくないだけだ。だから制度も内容も変わることはなく、今まで以上の日本の発展は望めないとも思う。しかしながら、来年から始まる大学入試共通テストにも勿論のように独立行政法人が絡んでくるが、各大学に個別の試験改革を明確に求めているのも事実だ!そこで各大学がどのような試験を導入するかを注視したい。これからはそこに大学の『質』が顕著に現れることになる。これが10年も続けば、もう大学はこれまでのネームバリューで経営していけるような時代は終わる。「なんや!一流大学とか言われてたけど、一皮むいたらこの程度かい!しょ~もない!」といって受験生が離れていく時代がくる。その先には「学力って何なん?」「入試って何なん?」という今まで目を向けられなかった、あるいは故意にその議論を避けてきた問題に各大学がぶち当たる。その問題に個性あふれる独自の答えを出すことのできた大学が一流大学と呼ばれるようになるだろう。
2020.01.31
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入試ではかるのは学力だろうと思っている人も多いかも知れない。 しかしそれは違う。 でもそれに気付いている人は少ない。 それも仕方ないことだ。 が、仮にも教育に携わっている人間は少なくとも気付いていないとおかしい。 これからの入試は少なくとも3個のポイントをはかるものになっていく。 ひとつはもちろん学力。 次は人間性。 最後は潜在能力だ。 それをはかれない学校はさっさと閉鎖して、税金の無駄遣いを削減すればいい。
2020.01.29
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マークシート方式や、暗記勝負の試験はAIに採点をさせる。 もちろん各問題に正解はひとつとなるように設定しながらも、知識的な類似解答や思考的に惜しい解答についてはしっかり部分点を設定し、その学生の努力や理解度を明確に点数化する! 学校教育が相対評価から絶対評価に移行してもう何年も経過しているのに、入試がまだ相対評価であることがそもそも間違っている。 この部分点方式を、入試を絶対評価に移行ささる導入段階としていけばよいのだ。 そして論述問題は人間が人間の目と感覚を持って対峙していけばよい。 無論これにはある意味想像を絶する労力がかかるが、それが嫌というならもう学校を運営していく資格なんか微塵もない! 学生諸君もそんな学校は自ら願い下げなければならない。 そんな学校に合格といわれて喜ぶ時代はとうに終わっている。 鎌倉時代のある人物が『愚者に誉められることを恥とせよ!』と言ったが、まさにその通りだ。
2020.01.28
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それらの問題を解決するためにまず必要なのは、入試制度の改善だ。いつの時代も入試はイノベーションの後を追いかけてきた。それはもう仕方がないことだと思う。しかしここ20年ほどはそんなことと関係なく、入試の効率だけを追い求めてきてしまった。もっと厳密に言うと、いかに楽に入試の採点をするかに心血を注いできたのだ。それで受験生の何を評価してきたかというと、ほんの表面的な学力だけだ。前述したようにそれも必要な場合がある。しかしかがら、それ以外の能力や学力をしっかり見極める試験制度がもう必要な時代にきているのだ。そもそも受験を管理している人達が学力試験の重要性を正確に認識できているのかどうかが甚だ疑問だ。職業柄センター試験が始まって以来の少なくとも英語と国語は全て解いてきた。で、常々思うのが「この試験で何を評価してんの?」という疑問だ。勿論、英語と国語(古文・漢文を含む)の学習量と理解度を推しはかることはできる。つまりそれは広義的には大量の情報処理能力を推しはかっているのだ。再三申し上げるがそれも必要な場合はある。しかしながらもうそれは人間が担当しなくてもいい領域になる時代に入ってきている。
2020.01.27
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これを言い出したら他の教科も危なくなる。つまりこれから急速に入試の制度や方法についての本質が問われる時期に入ってくるのだ。勿論ただ暗記するだけで勝負をする入試を完全に否定するわけではない。その能力が問われる職種も存在する。多大な資料を見て一瞬で理解する能力は時として必要だ。そしてこれからはその多大な情報を、記憶することなく常に持ち歩き、簡単に取り出すことができる環境がさらに加速する。それをAIと競っても人間には勝ち目はない。だからといって我々人間がAIに負けるわけではない。AIではできない、人間ならではの部分で勝負をかければいいだけた。それができない人たちは、AIやITに使われるだけの人間になってしまう。「それで何か問題でもあるの?」という人もいるかもしれないが、それでは我々が人間であるアイデンティティを失いかけない。
2020.01.26
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昨年発売された翻訳機!3万円前後で購入可能で、英語以外の言語にも対応できる。電気屋で試させてもらったが、かなりストレスなく会話が可能。しかもまだ4G対応なので、これが5Gになるとどうなるのかと考えてもちょっと想像がつかない。ヘタすれば人間と会話するより素早いラリーが続くと思う。そしてその後間もなく同じ性能を有した機種で2万円前後の価格も製品もでてきた。時代の流れとして、おそらく数年後には同じ性能・能力をもったアプリなんかが普及して、そのうちほぼ無料でスマホひとつでどんな国の人とも会話できるような時代がくることを想像しない人はいないのかも知れない。そうなると、昨今騒がれている英語教育は、その方法論を飛び越えて、もうその必要性自体が問われる時代も間近に迫ってきていることも容易に考えられる。そらぞうだ!be動詞だ一般動詞だと文法と格闘しなくても、その機会の有効で効率的且つ実践的使用方法を学校でまなんだ方が絶対に早い。そうなれば学校の英語の先生をみんなクビにして、生徒全員にその機械を配布すればいい。莫大な額の税金を節約できる!福祉をもっと充実させたり、消費税を8%に戻せたりするぞ。
2020.01.24
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話を本題に戻す。今回のセンター試験の英語のシステム変更のバタつきの大きな原因は数点ある。ますはマークシート方式の試験でその学生さんの英語力を余すことなく図れるのかという問題である。まあこれに関しては他の科目にも当てはまるのだが、やはり語学という教科の特性上それは一番問われることであろう。とはいえ他の民間試験も多くの場合同じ方式を採用しているので、あまり問題改善が見込めるとは思えない。ということは、やはり試験それ自体や採点の簡素化を目指したと考えるのが自然だ。特にセンター試験のリスニングは毎年何らかの問題を起こしているので仕方ないと言えば仕方ない。そしてそれらの裏に隠されている大きな要因として、私は翻訳機の登場があるとにらんでいる。
2020.01.23
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これらの質問に、中学3年生~高校3年生までの人なら全部答えることができて当然だが、それ以上の年代の人たちのほとんどはその範疇にない。 学生という立場から遠のけば遠のくほど、その必要はないのだ。 社会人となった場合、それぞれの分野のエキスパートになるわけだ。 なのでその分野の知識に熟知していればいい。 それ以外の知識は他の人に任せればいいのだ。 魚屋さんは魚の知識が豊富にあればいい。 乗法公式なんて無用の長物なのだ。 それでも興味があって勉強を続けて居たり、あるいは学生の頃に強烈に記憶した成果として覚えていても問題は勿論ない。 また魚屋さんが魚の知識を得るには、語学力・理科の生物の知識、あるいは地理の知識なんかが役に立つことも勿論ある。 でも学生時代に勉強した全ての知識をもれなく駆使する必要はないのだ。 なぜなら、学校で勉強する教科というのはツールとしての性質があるからだ。 そのツールのどれを選択するかは、それこそその人の自由なのだ。 だから、中学・高校と6年間勉強したからといって日本国民全員が絶対英語に堪能である必要はないと断言しておく。 興味を持って学習する、あるいは必要となって話せるようになることを目標に努力をする人だけが堪能になればいいだけの話だ。
2020.01.22
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ツールなのだから、まずは高得点を目指す。 目指す過程で頭脳を鍛える。 それでいい。 なのに「入試の英語を学校で勉強していて、実際に英語を話せないのはおかしい!」なんてことをこれ見よがしに言う人が多いのには呆れてしまう。 とりあえずそんな連中に反論をしておくが・・・ ならば中学数学を駆使してあなたは今生活をしているんやね? 関数や三平方の定理を使っているんやね?もちろん三角形の合同条件と相似条件は言えるよね?乗法公式も解の公式も言えるよね? 中学理科を駆使して生活してるんやね?日食と月食の違いを端的に説明できるんやね?安山岩と玄武岩の違いが分かるんやね?鉄が酸化するときの化学式を書けるんやね?銀河系と銀河の違いを説明できるんやね? 中学地理を理解して生活してるんやね?北回帰線と南回帰線の違いを知ってるんやね?地球に大陸がいくつあるか知ってるんやね?領海と排他的経済水域の違いを説明できるんやね? 中学歴史を把握して生活してるんやね?白村江の戦いについて端的に説明せきるんやね?南北朝時代は実際には何年続いたか知ってるんやね?戦国時代って何時代か知ってるんやね? 中学国語を熟知してるんやね?三大随筆の作品名・作者名・成立年代を全部言えるんやね?格助詞と副助詞の違いを分かっているんやね?カ行変格活用動詞を全て挙げられるんやね? どない?
2020.01.21
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特にこの最後になるセンター試験をバタつかせたのは英語の試験制度だ。 当初は民間の英語能力試験のスコアを入試に反映させることに決定していたのだが、文部科学大臣のある意味不用意な発言が発端となり元に戻った。 ここで今回浮き彫りになったのは、各高等学校が生徒たちにどのように英語を教えていたかということだ。 試験の制度が変わったから、不利だ有利がと言い出す人間が多かった。 まあ学生さんはそれを言っても仕方ないし、先生たちもある程度仕方はないと思う。 しかしここで浮き彫りになったのは、やはり学校で教えているのは試験のツールとしての英語だという事実だ。 しかし私はそれも否定はしない。 だって試験のツールとしての教科は他にもたくさんあるからだ。 どの教科だってその学生さんのとり方ひとつで試験のツールになる。
2020.01.20
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本日、2020年1月18日、最後のセンター試験が始まった。1990年(平成2年)に始まって、30年の歴史に幕を閉じるときがきたのだ。センター試験の前は共通一次試験(正式には大学共通第1次試験)と呼ばれていて、1979年(昭和54年)から1989年(1月実施なので厳密には昭和64年)までの11年続いた。その違いをざっくり言うと、共通一次はその点数によって国立大学の合否を決定するもであったのに対して、センター試験は私立大学にもそれを適応できる点であった。まあ、私に言わせれば、2つの試験はマークシート方式を採用しているという点では完全に同類である。また今年はその試験の在り方、特に英語に関して政府の方針が二転三転したことでも知名度を上げてしまった。これはひとえに文部科学省の試験対策のスピード感の悲しいまでの遅さが要因であると言わざるを得ない。しかしながら目線を変えれば、ここ数年で世の中の流れの進歩、あるいは変化の早さが著しいことにも言及しなければならないだろう。
2020.01.19
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もうこれから私のことを『病ンデル将軍』と呼んでくれていい!そしてこのブログを読んでくれている皆さんは、程度の差はあれ仲間だ。我々は人種でいえば『根病ンデルタール人』だ。このブログは『病ンデルセン童話』だ。それをしっかり自覚して楽しく人生を歩んでいこうではないか!ただ私はだれよりも深く病んでいて、深い闇の中にいる。なのに私は今日もしっかり前に歩を進め、闇の中でも視力を失ってはいない。病みの向こうに何があって、闇の向こうに何を見つけることができるのかを確かめてやる。ある詩人が謳った。「俺たちの行先は真っ暗闇と決まっちゃねぇ。だけどなんだか、夕焼け見るとまた泣けてくる」と。泣く必要なんかない。闇の中であっても心の中に光を持てばいい。その光はだれにも奪うことはできない。「闇にかくれて生きる」と歌われた妖怪人間たちは、「早く人間になりたい」と言いながら、最後は闇の中で命を全うする道を選んだ。それはだれより心が健やかであって、だれよりも心の中に強い光を持っていたからだ。些細な外的要因でいともたやすく崩れ去る「健やかさ」しか持ち合わせないくせに「自分は健やかだ」と思い込み、だれかに与えられたほんの微弱な光しかないのに「自分は光側だ」と思い込んでいる連中に何を言われてもどう思われても痛くもかゆくもない。そんな連中は群れ集まって震えながら生きていけばいい。さあ『根病ンデルタール人』諸君よ!私と共に、明日も陽気に明るく前進していこうではないか。
2020.01.18
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さて、話を私自身に戻そう!私は『病み』で『闇』ある。これは自覚も他覚もある。しかしながら他覚が甘い。みなさんの想像を駆るか超えた段階まで『病んで』いて、みなさんの思っている数億倍もの『闇』に生息している。それが私という人間なのだ。そんな私にとってほんの少しの『健やか』さや、ほんの少しの『光』は十分に致死量だ。それを私に浴びせたり、求めたりすることは絶対にやめていただきたい。そしてこのブログにも『健やか』さや『光』を求めてはいけない。どうか私の『病み』や『闇』を楽しんでもらいたい。みなさんにとっての未知の世界を堪能していただきたい。
2020.01.17
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もちろんいくら他覚が必要だといっても、批判のための批判や、感情的な非難中傷は完全に馬耳東風で構わない。微塵も耳を貸す必要はないし、全く心に留める必要もないし、落ち込む必要なんて全くない。ただしそうでない場合は陽気にどっぷりそれにひたってみるのもいい。意外と新たな自分に出会えたりするかもしれないので、人生は面白い!
2020.01.15
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無論その可能性には負の部分も存在している。それを抑制するのは他覚であることが多い。つまり自分以外の人からの指摘・忠告・助言である。それらが自分の自信のある部分や、反対に自信のない部分に向けられると、ときとして怒りの感情が出てきてしまうこともある。その気持ちも分からないことはない。しかしそれらと対峙する勇気だって必要なのだ。それらの指摘・忠告・助言に従う場合は、その後のあなたの言動にはそれを言った人にも責任が生じる。それらが的を得ていない場合は「君の言う通りにしたのにこの結果だ!どうしてくれる?」と詰め寄られても仕方がない。それらを人に向ける場合は責任が生じるという覚悟を持って言葉を発しなけらばならないのだ。反対にそれらに従わない場合は、「それ見たことか!」と言われないように自分自身が責任を持たなければならない。ただどちらの場合であっても、その人間の可能性の負の部分を抑制する効果はある。なので案外他覚は大切なのだ。
2020.01.10
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簡単に言い換えれば、自分も他人も知っている自分、自分が知っていて他人が知らない自分、自分が知らないのに他人が知っている自分、自分も他人も知らない自分、となる。これらは記述の順番に、一番上が『健やか/光』側であり、下になればなるほど『病み/闇』側になると思われがちだが、それが違うのだ。どれもその人のアイデンティティだ。そしてどの段階にも長所もあれば短所もある。長所ばかりの人間はいないし、短所ばかりの人間もいない。短所があればこそ、それを乗り越えようと心がけて努力をする。それが新たな長所をもたらすことも少なくない。大切なのは短所を短所として認識する勇気なのかもしれない。それは同じく長所を長所として認識することの勇気の必要性も浮上させる。そしてまたこれらのどの段階にもその人の可能性が秘められている。
2020.01.09
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同じくもうひとつ大切なことは、『病み/闇』側と『光/健やか』側は瞬時に入れ替わることだ。これは自覚の方向を変える、あるいは自分自身を異なる目線で見ることで可能になる。『病み/闇』側だと思っている人間にも、スポットライトの当たる瞬間や心の穏やかなときだってもちろんある。反対に『光/健やか』側だと思っている人間にも、心が病んで目の前が真っ暗になることだってあるのだ。そしてどちらも確実にその人自身である。それを自覚して受け入れて認めることには時として勇気のいることであるが、最初の心のハードルさえ飛び越えればあとは簡単だ。自分を過大に褒めたたえる必要もないが、自分をコテンパンに卑下する必要だって実はそんなにない。これは他人に対しても同様だ。心理学の祖といわれるフロイトは、1人の人間の人格を4つに分類した。自覚もあり他覚もある自分。自覚はあるが他覚はない自分。自覚はないが、他覚はある自分。そして自覚も他覚もない自分だ。
2020.01.08
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ほとんどの人は、自分がいる場所が住みやすい場所だと思っているがそれが大きな間違いだ。そして反対に他人がいる場所の方が住みやすい場所だと思うことも大きな間違いなのだ。『住めば都』ではないが、今自分のいる場所を安住の地とし、他所を羨まないことが重要だ。もちろん目標とする地が他にあり、そこにいくための努力をすることは否定しない。それで人生を切り開くことだって往々にしてあるからだ。ただ羨むことは危険だ。羨みは嫉妬につながり、嫉妬は残虐性を呼ぶことがあるからだ。それができない感覚の行き着く先は、究極、殺し合いであり戦争である。そして殺し合いや戦争から利益を得る連中は、うまくその感覚を利用するのだ。自分を認め自分のいる場所を認める。そして他人を認め、他人のいる場所を認める。つまり自覚と他覚に寛容性を持つことが大切な時代に世界はすでに入っている。
2020.01.07
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自分が『病み/闇』側、あるいは『健やか/光』側のどちらかの答えは出ただろうか。出たとすれば次の質痕がある。果たしてその判断は正しいと思うか?・・・である。その判断の自覚と他覚は一致しているだろうか?もちろん私は『病み/闇』側だ。しかも『病み』は末期的でステージでいうとレベル5を通り越している状態である。『闇』もかなりの漆黒だ。1ミリ前も見えない状態の闇だ。これは自覚はある。ただ他覚に関しては。まだまだ甘いと思うことが多い。彼ら彼女らが思っているよりはるかに病んでいて、どん底の闇に生息している。しかし程度の正確さはともあれ、正確にそれを認識してくれている人たちには助けられているし感謝もしている。厄介なのは私が『健やか/光』側と思っている人達だ。「目ぇ見えてんのんか?」「どこをどう解釈すればそう判断できるねん!」と本気で思ってしまう。またそれよりも厄介なのは、なんでこっち(『健やか/光』側)に来ないの?と思っている人達や、言ってくる人たちだ。
2020.01.06
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他覚症状があるのに自覚症状のないことを指摘しないケースが多いのは、ひとえに人間関係の維持が目的であることがほとんどだ。それでも指摘する場合は3つのケースが考えられる。ひとつはたとえ人間関係が崩れたとしても、その人のためを思って知ってもらいたいと願っているとき。次はただ言いたいだけの場合。この場合はほとんど何も考えずに言葉を発していて、もともと人間関係が壊れてもいいと思っている、あるいはそれをも考えていないことが多い。そして最後は、ただその人をバカにして陥れたい場合。あるいはそれを言うことで自分の立場が上であることを示したい場合だ。一番最後の場合は幼い子供の時期に多くみられるので、いい大人になった場合はまあ考慮しないでいいと思う。しかしそれ以外の場合は、ある程度真摯に耳を傾けることも大切だ。といっても、なかなか生身の人間がそれをすることは難しいこともある。ところで先の質問にたいする皆さんの答えはどうであろうか?すなわち、あなたはどちら側ですか?との質問の答えだ。自分自身がどちら側であるのかの自覚は確立しているだろうか。
2020.01.05
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さて、ここで皆さんに伺いたいのは・・・皆さんはご自分が『健やかなる』『光に満ちた』方にいると思いますか。それとも『病み』で『闇』の側にいると思いますか。どちらだとの自覚がありますか?・・・だ。人間だれしも他人のことはよく見えても、自分のことはあまり見えない。実際物理的にも我々は永遠に自分の姿を直接自らの肉眼で直視することはできないのだ。あるいは第三者の目線で、客観的に、俯瞰で自分を見ることができれば問題はないが、それはかなり難しい。そこで重要なバロメーターになるのは他人の目である。だから意外に我々が思っている以上に他覚は重要なのだ。ただもどかしいのは、我々は他覚症状に気付くことはやはり難しく、かといって他人がいちいちそれを自分に言ってくれることも非常に稀なケースだという事実だ。
2020.01.03
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人類は今まで自分と異なる人間を大衆の面前に引きずり出し、なぶり殺しにしてきた。映画『エレファントマン』では、醜い風貌に生まれた青年ジョゼフ・メリック(字幕ではジョン・メリックとなっている作品もある)が被っている覆面をわざわざ公衆の面前ではぎとるシーンが描かれている。あのシーンでのジョゼフの叫び声にはこの世にはこれ以上の悲しみや悔しさはないと言わんばかりの感情が込められている。あれが現実だ。彼を群衆から引きずり出して、その覆面をはぎ取った連中におそらく罪悪感はない。それどころか、人間のふりをして人間の中に混じっている化け物の正体をあぶりだした英雄気分であろう。そう、それが彼らの正義なのだ。いくらジョゼフが「僕は人間だ!」と叫んでも、その声、その気持ち、その悲しさや悔しさは彼らの耳にも心にも届かない。正義の心がそれを寄せ付けないのだ。ちなみにこの映画は実話をもとにしているというのだからさらに心が痛む。
2020.01.02
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ウルトラマンで言えば35話の『怪獣墓場』でこの問題に触れている。ある宇宙ロケットが地球に向けて帰ってきていた。そのロケットは図らずも怪獣墓場と呼ばれるエリアを通過してしまう。そこは様々な惑星から放り出された怪獣がただただ漂っているだけの宙域だった。不幸なことにそのロケットはその中の一匹の怪獣を地球に連れてきてしまう。もちろん地球人はその怪獣を攻撃する。怪獣という理由だけでだ。その怪獣は街を破壊するわけでも人類に危害を加えるわけでもなく、ただただ空に向かって悲しく吠えるだけだった。それでも人類は攻撃をする。攻撃隊の1人が「もしかしたら怪獣墓場に帰りたいのではないか?」との疑問を抱く。その言葉を聞いたもう一人の隊員が言う。「あんなに暗くて寒い場所に帰りたいなんて・・・そんなことがあるのか?」と。『光に満ちた』『健やかなる』場所に暮らす者は、もちろんそこが安住の地だと思っている。つまりその自覚がある。しかしながらそれが他の全ての者に該当すると思うのは思い上がりだと言うしかない。自分たちと全く異なる場所を安住の地している者もいることに目を向けていないのだ。自分が他人の立場を考えすに物事を考えていることへの自覚がないのだ。他人のことは良く見えていても、自分のことは見えないのが世の人の常であり、ある意味しかたのないことでもある。幸い物語の中ではその怪獣は望む場所に帰してもらうことができた。しかし実際はそんなことはあり得ない!
2020.01.01
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