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明治9年(1876)3月、政府は廃刀令を発布し士族から刀を取り上げようとしました。
そして8月には士族たちに支払っていた俸禄を停止し、、代わりに5~14年分の俸禄額面の公債証書を発行して、その利子のみ支給するという方策を打ち出した。
これは士族への俸禄が政府予算の3割に達し、財政的にも負担不可能な事態に陥ったからだとか。
旧藩に代わって明治政府が支払っていた俸禄も、いよいよ士族そのものを廃止しなければ、政府財政が崩壊する寸前までになっていました。
度重なる武士集団に対する明治政府の施策は、当然士族達の積もり積もった不満を爆発させる事になりました。
幕末の攘夷思想は秋月にも影響を及ぼし、磯淳、宮崎車之助らは、政府の施策を非難し、周囲の士族達と図って決起の機会を窺っていました。
そんな中に東京の大橋陶庵の塾に学び、萩の前原一誠らとも親交のあった益田静方がいた。
益田を中心とした秋月の急進派達は、萩・佐賀の同士達と連絡をとりあい、一方熊本・柳川・久留米の同士達とは宮崎車之助らが連絡にあたっていました。
そのうち、秋月の急進派は「秋月党」を名乗り、いつしか、熊本の敬神党、萩の前原党、そして秋月党の三角同盟が成立。
明治9年(1876)10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする200名ほどの集団「敬神党(神風連)」が、鎮台のあった熊本城や県庁などの役所建物を襲撃し、知事と鎮台司令長官を死傷させた。
秋月からは宮崎伊六・車之助の宮崎兄弟と、蒲池作之進の3名が応援並びに情勢視察に派遣されたが、彼らは緒戦の敬神党の勝利を見てただちに秋月へとって返したので、秋月党では熊本の勝利に沸き返り、続く挙兵に向けて気勢が上がった。
しかしこの乱は、その日の内に熊本鎮台軍により鎮圧されてしまいました。
秋月の乱もまもなく政府軍により鎮圧されたそうです。
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