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イラク戦争のさなか、幼い三人きょうだいが空爆で死んだ。その墓標に誰かが書いた「お父さん泣かないで。私たちは天国で鳥になりました」切ない言葉が、フリーのビデオジャーナリスト 綿井健陽 (わたい・たけはる)(33)の胸を突いた。 綿井は、2003年の開戦後1年半にわたってイラクを取材。膨大な映像から今年4月、戦火の中の家族を描くドキュメンタリー映画を作った。 ジャーナリストはその現場に何故行くのか、という問いにはいろいろな答があるでしょう。しかし彼らがそこでしか写す事のできない映像や写真、あるいは、そこで実際に見て書かれた記事や打電された電文の中で真実を伝えようとしてきたことは共通しているに違いないと思います。
題名は墓標から 「リトル・バーズ(小さな鳥たち)」 とした。 泣くのはいつも弱い者。そんな、戦争への怒りを込める。 開戦が不可避になっていた2003年3月11日未明、撤退を始めた日本の新聞、テレビと入れ替わるように、綿井は陸路バグダッドを目指した。
「爆弾を落とされる側」から報告したかった。 紛争地報道で実績はある。だが、いつにない不安に身を硬くしていた。バグダッドは真っ先に空爆の標的になるだろう。市街戦も予想された。
「無謀だろうか」揺れる綿井を、ベトナム戦争報道で名をはせた新聞記者の言葉が支えた。「一国の崩壊に立ち会えれば、記者冥利(みょうり)に尽きる。」 サンケイ新聞の 近藤紘一(こんどう・こういち) 。
1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)が陥落し、戦争が終わる。国外へ逃れる人々で恐慌状態の中、近藤はこの言葉を自分に言い聞かせ、現地からニュースを打電し続けた。綿井が3歳のときだ。
「【四月二十八日夕 サイゴン発】クレジットを打ったあと、しぜんに文章がでた。『サイゴンはいま、音をたてて崩壊しつつある。つい二ヶ月、いや一ヶ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている……』」(「サイゴンから来た妻と娘」=文芸春秋刊=から)
近藤はサイゴン特派員時代、ベトナム人と再婚し、妻の実家に転がり込んだ。妻も再婚で11歳の娘がいた。市場に近い下町での暮らしが、記事に「人のにおい」を吹き込んだ。妻子を連れて帰国、「サイゴンから来た妻と娘」で大宅壮一ノンフィクション賞を受けた。だが、86年に45歳で早世する。
綿井は長じて、戦争と人間を活写した近藤のルポに感銘を受ける。インドシナも訪ね、ジャーナリズムの世界に導かれていった。
2003年3月20日未明。米軍の空爆で戦争は始まった。米地上軍がバグダッドに迫る。市内から警官が消えた。制服を脱いで一般市民にまぎれたのだ。大統領宮殿が制圧された4月7日、綿井は中心街の広場から日本のテレビに向けて中継リポートをした。「フセイン政権がいま、音をたてて崩壊しつつあります」ここ一番の場面で使ったのは、28年前の近藤の言葉だった。
開戦時、バグダッドには約20人の日本人フリーランスがいた。綿井と同じホテルに 村田信一 (むらた・しんいち)(41)がいた。炎上する大統領宮殿に向けてシャッターを切った。元自衛官。最前線で銃撃戦を撮るのが生きがいだった。いつしか「撃った撃たれたは戦争の一部」だと気づく。銃後にも膨大な光景があるのだ、と。
村田の脱帽する一枚が、米UPI通信の 酒井淑夫 (さかいとしお)(99年没)がベトナムで撮った「より良きころの夢」だ。酒井は繊細だった。「無残な死体や、瀕死(ひんし)の負傷者がどうしても写せない」と悩んだ。一歩引いた目線で本領を発揮する。砲撃のやんだ雨期の戦場、つかの間の眠りに安らぐ米兵の写真は、68年にジャーナリズム界最高とされるピュリツァー賞を受賞した。ベトナム戦争が終わって30年。「泥と炎」と形容された戦場から、報道写真やドキュメンタリーの多彩な群像が生まれ出た。 (ニッポン人脈記・2004・朝日新聞)
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