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ロラン・バルト
が亡くなって 40
年経っていた。その 40
年の間、ぼくは何をしていたのだろう。 20
歳で初めて読んだが、わからなかった。お経か呪文のように後生大事に、憧れ続けてきたが、ある40年経っても、わからないものはわからないということがあるということがわかったような、気だけする。
先日、
二十代の友人がバルトを読むことの「快感」をネットのどこかに書き記しているのを見て、嫉妬して図書館で借りた。
全面的な存在
絶対的である
重さはまったくない
重さのない濃密性(P 267 )
11 月 15 日
― 胸がはりさけそうになったり、いたたまれなくなったりして、ときおり、生がこみあげてくる(P 53 )
自殺 交通事故で突如去った ロラン・バルト 。彼が書き溜めていた、いや「書き溜める」なんていうことをバルトがしたとは思えない。しかし、数百枚のカードは整理されてあったらしい。
死んだら、もう苦しまなくなる、なんて、どうしてわかるのか?(P 252 )
11 月 24 日
わたしが驚く ― ほとんど心配に(不安に) なる ― のは、じつはこれは喪失ではないということだ(わたしの生活は混乱していないのだから、これは喪失のようにかたることはできない)。 そうではなくて、傷なのだ。愛する心に痛い思いをさせるもの。(P 67 )
1978 年 7 月 18 日 バルト の死から二十年近く経って、一冊の書物として編まれていた。そこには、まさに「エクリチュール」が、何の脈絡もない呟きとしてあるように見える。
それぞれの人が、自分なりの悲しみのリズムをもっている。(P 166 )
11 月 12 日
きょう ― 私の誕生日だ ― 、病気なのだが、そのことを彼女に言えない ― いう必要がもうない。(P 48 )
1978 年 6 月 9 日いつの日にか、おなじ場所で。
けさ、サン=シュルピス教会の奥まで入った。建物のなかにいると、ただ広漠とした建築に陶然となる。―わたしはすこしのあいだ腰をかけ、無意識に「お祈り」のようなものをする。マムの写真の本がうまく書けますように、と。そして気がついた。わたしはいつも子供っぽい「欲求」によって前へ前へと引っぱられ、いつも願いごとをし、なにかを望んでいる、ということに。いつの日か、おなじ場所に腰をかけ、目を閉じ、なにも願いごとをしないようになろう‥‥。ニーチェが言っていた。祈るのではなく感謝するのだ、と。
そのようなことを喪はもたらすはずではないだろうか。(P 141 )
1979 年 9 月 15 日 やはり、 バルト は、 バルト で、ぼくは、ぼくだった。いつの日にか同じ場所で、ぼくには感謝することができるだろうか?
とても悲しい朝がある・・・・・。(P 248 )
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