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一方、 ビクトリア・グスマン は、 サンティアゴ・ナサール を殺そうと待ち受けているものがいることを、自分も娘も知らなかったと断言した。しかし、彼女は年を取るとともに、彼がコーヒーを飲みに台所に入って来たときには、二人ともそれを知っていたことを認めるようになった。五時過ぎに、ミルクを少し恵んでほしいと言って訪ねてきた女からそれを聞いたのだ。その女はさらに、動機や待ち受けている場所さえも教えたのだった。 「あたしは人には知らせなかったと、どうせ酔っぱらって言ったことだと思ったものだから」 と彼女はわたしに言った。ところが、 ディビナ・フローラ は、わたしがその後に訪問した折、そのころには母親はすでに亡くなっていたのだが、次のように告白した。彼女の母親は、心の奥底では サンティアゴ・ナサール が殺されることを願っていたため、彼に何も知らせなかったというのだ。一方、 ディビナ・フロール が知らせなかったわけは、当時の彼女は、自分では何一つ決められないおどおどした小娘にすぎなかった上に、死人の手を思わせる、冷たくこわばった手で手首をつかまれたとき、怯えきってしまったからだった。 (文庫版 P17)
どうでしょう、誰が今生きていて、冷たい手で手首を握ったのは誰なのか、お判りでしょうか。
引用に出てくる 「わたし」
が誰かというのは小説の最後にならないとわからないのですが、まあ、解説にも書かれていますので言いますが、30年後に事件を調べ直している 「マルケス」
自身と目される調査員です。
というわけで、上の引用は出来事から30年たって 「真相」
を描こうとしている男の 「記録」
というのがこの作品の骨格ですが、最初からその骨組みがリアルにわかるわけではありません。
読んでいると、30年という時間は、事件の当事者たちにも流れていて、描写される場面、場面に、微妙な 「ずれ」
を引き起こします。おそらく、その 「ずれ」
が読むスピードにブレーキを掛けているのでしょうね。どうしてもゆっくり読む、あるいは読み返しながら進むほかない読書ということになります。
結果的に、いったい何が明らかになり、何が謎として残っているのか、不思議な困惑がわだかまるのですが、それがこの作品の 「強さ」
なのだと思いました。
整理して解き明かすことのできる 「出来事」
などというものはありえないし、今、この時も、そのような混沌の瞬間を生きているということですね。実に堂々たる 「わからなさ」
です。愉しんでみませんか?(笑)
それにしても、文庫版表紙のデザインはかっこいいですね。今も、この装丁で販売されていつのでしょうか。
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