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よく4世紀頃の日本の様子が分からないことを指して「空白の4世紀」と言う。3世紀は中国の史書三国志の中の倭国(含邪馬台国や卑弥呼)に関する記述があり、いわゆる魏志倭人伝と呼ばれる部分がそうだが、何と他国の本に書かれているので分かる。また古事記や日本書紀に書かれており、またそれを証明する物的証拠が見つかり、例えば埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣「金錯銘鉄剣」に刻まれた銘文から、雄略天皇くらいからはそれなりに実証が可能であるし、不正確ではあるが第10代崇神天皇くらいからは実在が認められそうになっているので、まあ5世紀位からは不正確ではあるが、それなりに想定が可能である。なので間の4世紀が「空白の4世紀」と呼ばれるのであるが、本当に空白なのだろうか?僕は古事記や日本書紀が書かれた時代には、天皇家や各地の豪族には(口述かもしれないが)記憶は残っていたのだと思っている。では何故文書として残っていないのか?よく言われるように文字が無かったからなのか?そんなことは無いと思う。世の中、交易があれば数字や文字は必ず必要になる。例えば昨年の交易では米1俵が鉄(素材)3枚だったものを、2枚にされたら大変である。それは何らかの形で残しておかないと駆け引きができない。なので記録は残すはずである。また、交易の相手も素性のしれない相手とやり取りするのは難しい。相手の素性を知ったり、あるいは身分保障をするには何らかの記録が必要である。交易をする本人が行けば、あるいは顔を知った仲介者がいれば良いのだが、遠い海を隔てて行き来する場合には無理がある。なので恐らくは何らかの「符牒」を使ったと思う。しかもそれは何らかの形で記録しておかないと、息子や孫には伝わらない。いやもっと簡単な方法が有る。交易先(中国)が既に文字を持っているのだから、それを使えばいいのである。だから庶民は字は知らなくても商人や役人は知っていただろう。どうして学者先生は幕末のジョン万次郎のことからそれに気づかないのだろう?つまり学問として文字や数字が必要な場合も有るが、本当に必要なのは商売上の理由だろう。またよく魏志倭人伝から「邪馬台国の位置」を読み解く場合に、距離を間違えたとか方角を間違えたとか言う学者がいるが、机の上で考えて議論する学者先生はそんなばかな議論をするかもしれないが、当時の商売人や渡航者にとっては、距離や方位は実務的な話で有り間違えるはずは無い。せっかくの交易品が行く先不明では破産するだけである。なので記録の仕方は現代とは違うかもしれないが、ちゃんと正確に記録したはずである。例えば数値は縄の結び目等で表したのではないだろうか?そろばんと同じである。縄目の位置で数値を表し、例えば指の数つまり1~5は直接表示し、片手を超える6以上は縄目の位置をずらすなどの工夫をすれば、結構な数値を表現できる。現代とは表現方法が違うだけで、必要に迫られて作られた方法は有ったのだろうと思う。話は戻って、では空白の4世紀は何故古事記や日本書紀には書かれていないのか?多分政治的な理由だろうと思う。1つ目は「過去の日本が中国の冊封体制下であったことを認めたくなかった」からである。卑弥呼の時代は、恐らくは邪馬台国は中国の冊封体制下にあったのだろう。2つ目は天皇家に権威を与えたかったからであろう。恐らくは継体天皇以前は、各豪族を含めた天皇家の中でも争いが続き、記録には残せない色々な大人の事情が有ったのだろうと思う。よく歴史を勉強していると、大海人皇子と大友の皇子が争った壬申の乱が皇位継承争いの最古の例として挙げられているが、古事記や日本書紀を読んでいると、表面化していないだけで似たような例は多い。例えば雄略天皇の前後はメチャメチャである。雄略天皇は允恭天皇の第5子であるが、前の天皇安康天皇は允恭天皇の第3子であり、安康天皇は允恭天皇の皇太子軽皇子を殺し、その奥さんを奪い、天皇になった。日本書紀には軽皇子が暴虐を振るう悪者として書かれているが、その奥さんを奪った時点で安康天皇が怪しすぎる。安康天皇は雄略天皇と中蒂姫命(なかしひめのみこと)を結婚させるが、中蒂姫命はその前に大草香皇子(仁徳天皇皇子)と結婚しており眉輪王を生んでいる。安康天皇はその眉輪王に殺されるのである。雄略天皇はこの眉輪王による安康天皇事件の際に兄2人を殺している。雄略天皇は何故か事件の裏に兄達がいると疑って問い詰め、黙っていた所を殺す。そして雄略天皇の兄と逃げた眉輪王の2人をかくまった円大臣の屋敷で焼き殺すのである。争いはさらに続き、雄略天皇は従兄の市辺押磐皇子を狩りを装ってだまして殺す。人々は雄略天皇のことを恐れて「大悪の天皇」と呼んだらしい。雄略天皇の後を継いだ清寧天皇は雄略天皇の第3子である。皇位継承の際に有力候補であった星川皇子を(大伴室屋大連と東漢掬直を使って)殺している。清寧天皇には子が居なかったので、なんと隠れていた前述の市辺押磐皇子の子が後をつぐ。顕宗天皇と仁賢天皇である。いやなんというか、相続争いがすごい。壬申の乱との違いは戦争の規模の大きさだけで、内容は変わらない。だから4世紀にもこの手の争いが続いていたのだと思う。だから歴史が無かったのではなく、書けなかったのだと思う。天皇家の相続争いだけならば、雄略天皇の前後のように恥ずかしいけれども書こうと思えば書ける。でも周囲の豪族が関わる係争は、それを学習した周囲の豪族に利用されて収拾がつかなくなる。例えば北条氏が源氏一族を利用して比企一族や三浦一族を滅ぼしたように。では書けなかった歴史はどうなったのか?それが神話と言う形で残されているのだと思う。分かりやすい例を付け加えるならば、稻羽之素菟もそうである。「因幡の白ウサギ」ではない。古事記には「因幡の白ウサギ」とは書いていない。「稻羽之素菟」である。因幡風土記は現存せず、出雲風土記には載っていない。日本書紀にも載っていない。それを後世の知恵の有る人が「因幡の白ウサギ」としただけである。理由は大人の事情?日本書紀に載っていないのは子供向けのおとぎ話だからと言う説も有るが、他の神話に比べて子供向きとは思えない。登場キャラクターが子供向けなだけで内容はむしろ難しい。例えば何故舟を使わずに鰐の頭を踏んで島まで渡るのか?何故兄者達はウサギをだましてしまうのか?単なる意地悪?大事なお姫様の所に行くのにそんな暇があるの?無視して行くのが普通では?ツッコミ所は多い。僕はこの話は4世紀頃に有った菟狭津彦命(うさつひこのみこと)と和邇氏の先祖の争いを大人の事情で神話にしたものだと思っている。風刺好きな人ならば菟狭津彦命から素菟を、和邇氏から鰐を連想するだろう。菟狭津彦命は初代宇佐国造である。宇佐神宮の傍には首塚が有り、都城付近の人々の首が埋められている。それは宇佐神宮の神官(実際は神宮の護衛官だと思う)が都城に攻め込んで、大勢の人を殺したらしい。(但しお断りしておきますが、この首塚の戦いは720年頃なので、 この戦いが「稻羽之素菟」の元になったのではありません。 そのずーっと前の景行天皇の時代にも、 宇佐付近の人は景行天皇に熊襲が悪いことをしていると密告して、 景行天皇は現在の西都市の高屋に都を築き日向(都城を含む)をせめています。 僕はさらに前にも両者は戦っていたのだと考えています。 大昔のその頃の戦いが「稻羽之素菟」の元になったのだと思います。)都城は鰐塚山の麓である。何で「鰐塚」山なのか?恐らくは古代にはここに和邇氏の祖先がいたのではないかと思っている。なので鰐の塚(墓)山?日本でワニ(サメのこと)料理を食べるのは岩見をはじめとした山陰地方と宮崎だけ。和邇氏の本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町)で、祖先は天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)とされているが、お父さんの孝昭天皇は欠史八代の一人で実在が不明な天皇。和邇氏は上記のように大和国が本拠地だが、山陰から大和まであちこちに「和邇」の地名が残る。例えば有名なのは摂津国和邇や山城国和邇で、琵琶湖湖畔には今でも和邇の地名が残る。つまり、元は都城辺りにいた一族が北上して奈良まで上って来たのではないか?その途中で菟狭津彦命と戦った。勝ったり負けたりして。その戦いは相当に後世まで続き、その言い伝えが「稻羽之素菟」ではないか?ただ、和邇氏は天皇を輩出した名家であり、古事記編纂時まで子孫が残っており、また宇佐八幡宮が弓削の道鏡事件の際に重要な役割を果たしたように宇佐も皇室と縁が深くそれ(両者の争い)をストレートには書けなかった。なので、神話にしてオブラードに包んで残したのでは?また、僕は卑弥呼は天照大御神で狗奴国王は弟の須佐之男命なんだと思っている。天岩戸は亡くなった卑弥呼の塚で行われた壱与への女王位の引継ぎで、岩戸の中が卑弥呼であり、岩戸から出て来たのが卑弥呼そっくりの壱与で、「鏡に映った卑弥呼様のようだ」と言うのが大人の事情で神話になり、邪馬台国の首長達に非難された須佐之男命は新羅に追放され、再度戻って来た際に出雲の国を切り開いたのだろうと思う。だっていやしくも天皇家が指示して書き始めた国の歴史が、単なる神話のはずが無いから。大人の事情を汲みながら、少しぼかして書いただけだと思う。それにより、魏志倭人伝の時代には中国の属国だったと言う事実は無くなり、しかも神話の時代から天皇家は続いていると言う権威の設定ができるのだと思う。だから古事記や日本書紀を書いた時代までは、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代の記憶は残っており、それを素直にかけなかったので神話にした。これが事実だと思う。それは日本書紀の崇神天皇65年秋7月の記載を見ても分かる。(原文) 六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。 任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。(意訳) 65年秋7月に任那国(恐らくは金官加羅つまり魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国)が 遣蘇那曷叱知を派遣して朝貢してきた。 任那は筑紫の国を去ること2000余里。 筑紫の国の北の海を隔てて鶏林(新羅)の西南に在る。魏志倭人伝に書かれた狗邪韓国から伊都国までの経路を意識した記載になっている。つまり日本書紀を書いた編者は魏志倭人伝を読んでおり、その内容を意識していると言う事である。そして常識的に考えれば、日本の歴史を書くに際して魏志倭人伝を参考にしているのであれば、そこに書かれた事と今(日本書紀を書いた時)の日本と魏史倭人伝の内容を結び付けて考えるのは当たり前で有り、現に何とか神功皇后と卑弥呼を関連付けようとして失敗している。何故失敗しているかと言えば、天皇家以外の豪族の中に真実の歴史が残されており、その存在を無視できなかったからだろうと思う。なので仕方なく神話の形で残したのだろうと思う。だから空白の4世紀は歴史が無かったのではなく、大人の事情で書けなかったのだと思う。
March 25, 2024
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2022年5月28日に、BIOSパスワードの解除の備忘録その3:EEPROMショート法について実験してブログに書いた。BIOSパスワードの解除の備忘録その3:EEPROMショート法について実験したEEPROMショート法はBIOSの設定やパスワードを保存しているEEPROMを、システムが読む邪魔をして誤動作を起こさせるのが目的なので、EEPROMの特定の端子をショートさせていたが、その性格上不安定で、うまく行く場合と行かない場合があり、満足のいくものではなかった。実はほぼ上手くいく方法も有るらしい。それはEEPROM内のデーターを読み出し、特定のソフトで改変して、改変後のデーターをEEPROMに書き戻す方法である。この方法ならば確かにうまく行くと思う。ただ、この方法でやったとか、どうやるかと言うのは人には話せないしブログに書けない。何故なら法令に反しているから。法令では知的財産であるプログラムを逆アッセンブルしたり改変することを禁じている。なので、まぁ見ている人は少ないのでお巡りさんに見つかることは無いと思うけれど、見つかったら罰せられる可能性が有るので、人には言えないし書けない。なので僕は書けないのである。じゃぁEEPROMショート法は大丈夫なのか?これは大丈夫である。何故なら法律で禁止されているのは「プログラム」であって「データー」ではないから。そもそも逆アセンブルも改変もしていないし。この理屈はプログラムを包丁、料理人をユーザー、データーを料理に例えれば分かりやすい。確かに料理(データー)は料理人(ユーザー)が包丁(プログラム)を使って作る。しかし、包丁を作るメーカーは料理を作っているわけではない。料理はあくまでも料理人が作り、その技能や料理は料理人の財産である。従ってプログラムの場合も、プログラムそのものはメーカーの物だが、それを使ってユーザーが入力したパスワードや設定値は、プログラムを作成したメーカーも知りえないユーザーの物つまり財産である。なので現にメーカーは「管理者パスワードを忘れた場合はメーカーでも対応できない」と言う。しかしBIOSのプログラムを逆アセンブルしたり改変すればいけない。(こっそりやる分には、赤信号を無視して渡るのと同じで見つからなければ良いのかもしれない)なので、今回法律には引っかからない方法(逆アセンブルも改変も自分ではやらない)で、BIOSをいじくる実験をしてみた。扱うのはあくまでもデーターだけでプログラムは一切触らない。(ただそのせいで管理者パスワードは解除できない。 でもWindows11はインストールできるので僕ら低レベルアマチュアには十分)今回実験に使ったのはこのパソコン。新品が買える裕福な人ならば買わないと思う、色々と問題が有るパソコン。でもCPUは古いとは言え、4コア8スレッドのCOREi5-8250Uでメモリーも8GB有る。なので僕のお小遣いの上限額である5000円は少し超えたが、頑張って買った。電源を入れるとパスワードの入力を求められる。えー!お先真っ暗だよと思ったが、僕は逆に勇気が出るタイプなのでOK。どうするか。まずはBIOSを開いて中を見るしかない。この手のパソコンは上手くいけばUBUNTSU(無料のLINUX)が使える場合が多い。なのでUSB起動のUBUNTSUを使ってみた。動いた。こんな感じ。ここまで来ると、写真に書いているように「systemctr reboot --firmware-setup」で、BIOSが開ける。但し見るだけで多くの設定は管理者パスワードのせいで変更はできない。まずはパスワードの状況を見てみる。おぉー!一番上を見ると管理者パスワードがEnabledになっており、グレーアウトつまりいじくれない。しかも一番下を見るとHDDパスワードがかかっており、何故かDisabledなのにHDDは使えない、何故だろう?(何故かNVMeは使える)ここでHDDパスワードの項で「User+Master]を選ぶとNVMeまで使えなくなった。と言うことは、このDisabledと言うのは「使えない」と言う意味なのだろうか?分からない。次にセキュアブートの項目を見てみた。えー?セキュアブートがDisabledになっている!じゃぁWindows11はインストールできない?実はなんと問題なくインストールできた。後から出てくるが、UBUNTSUの特殊な命令に「MOKUTIL]と言うのが有り、これでセキュアブート関係をいじくれるのだが、この命令で調べると公開鍵はちゃんと残っていた。Windows10やWindows11がセキュアブートを有効にしないとインストールできないのは、確かに悪い改造Windowsを排除すると言うのは有るんだけれども、それ以外にインストールに必要な鍵(昔のWindowsで言えばプロダクトキー的な物)がここに含まれているからなんだと思う。だからだと思うのだけれどもインストールできた。(違うかなぁ?僕レベルでは分からない)次にBOOT順位を見てみた。(最初に写真を撮るのを忘れていたので、申し訳ありませんが、 この写真はUBUNTSUやWindows11インストール後のものです。 UBUNTSU無視でお願いします。)うーんこれもいじくれない。ところが実はUBUNTSUには特殊な命令「efibootmgr」が使えるようにできる。この命令のHELPはこんな感じ。これらの命令を駆使すると、ブート順位や有効や無効を変えることができる。今はウインドウズブートマネージャーが一番上で有効になっているが、これを順位を下げて無効にして、USBHDD(Windows11インストール用)を一番にしてみる。写真に書いた通り、ウインドウズブートマネージャーを最初は無効にしようと思ったんだけれど、Windows11インストールに支障が出ては困るので、決意が揺らいで有効にしてしまった。この状態でHDDはダメだったけれどもNVMeは有効にできたので、SSDを取り付けて、USBHDD(Windows11インストール用)から立ち上げてWindows11をインストールした。するとこんな感じ。デバイスマネージャーにCPUが8個も並ぶと高性能なような錯覚がしてうれしい。8個でうれしいのだから、AMDやXeonのように32個も並ぶとうれしいだろうなぁ。まぁこんな感じでUBUNTSUでBIOSをいじくってみました。プログラムはいじくっていません。データーだけ。なので僕の所有権の有る範囲だけなので、また実験だからOKかなぁ。
March 22, 2024
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3月7日はわの会のイベントで大船の玉縄地区を歩きました。大船は鎌倉時代は関東の産物等を運び出す港が有った所で、鎌倉は砂浜で港が造れなかったので、海の波による洗掘の影響を受けない川岸が選ばれて、この辺が穀物等の主な出荷場所だったそうで、大船の地名は「粟船」から来ているのだそうです。大船駅に集合したら、大船観音がお迎えをしてくれました。今回のルートは下の地図の通りで玉泉寺・龍寶寺・久成寺等を廻ります。最初は玉縄首塚ですが、途中に大船軒の本社が有りました。この建物は1931年建立で、由緒ある建物です。大船軒って何で有名なんだろう?って思っていたら、国鉄の駅弁で有名な会社で、日本で最初に駅弁にサンドイッチを提供して、サンドイッチを日本に広めた会社だそうです。また僕的に「そうだったのか!」と思ったのは、この会社は「鎌倉ハム」の会社で、僕はお歳暮でよく長崎のおじさんやおばさんに鎌倉ハムを送っていたのを思い出しました。親不孝者の僕は長崎の実家に帰らずに横浜に居たので、両親の面倒を見てもらう親戚の叔父さん叔母さんに鎌倉ハムを送っていたんです。玉縄首塚は1526年に安房の里見実堯が攻め込んで来た時に、北条氏氏時が迎えうった際に亡くなった甘糟氏約30名の首を埋めた塚で、右手にはかっては榎が有り、甘糟榎と呼ばれていたらしいのですが、今では枯れて代わりにタブの木が植えられています。傍らには玉泉寺の影響なのか、お地蔵様が6体おられます。次は玉泉寺なのですが、途中の玉縄小学校に寄ります。この小学校の校章は由緒ある校章で、かってこの学校は龍寶寺境内に有ったらしいのですが、この地域(植木)は新井白石の領地で、校章は白石の位牌の「竹に雀」に基づく物だそうだ。中央の「玉縄」の字がうまく図案化されている。ここを過ぎて玉泉寺に着く。本堂左手に欲張り地蔵が有る。欲張り地蔵はどんな願いでもかなえてくれると言われる地蔵で、お願いをする時には泥団子を7つづつお供えして7日間お願いする。そして願いがかなったならば、米粉の団子を7つづつ7日間お供えするのらしい。その脇には天道から地獄道までの六道輪廻が書かれた地蔵が有る。インドの世界観で,すべての衆生が,死ねばその生(しよう)の業(ごう)に従って輪廻転生(りんねてんしよう)するという6種の世界。業によって趣き住む所なのでこれを六趣(ろくしゆ)ともいうが,六道は悪趣ともいって苦の世界である。すなわち天道,人(にん)(間)道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道をいい,このうちとくに畜生道,餓鬼道,地獄道を三悪趣(さんなくしゆ)(三悪道)という。六道の苦を脱するのが仏教の解脱(げだつ)である。ここに来る途中の玉縄首塚の脇に6体の地蔵様がおられたが、ここのと同じだろうと思う。玉泉寺には、ここを開いた小林若狭の父と一族の墓が有る。これを見て、横浜市の教育委員会ってウソばっかり書いているなと思った。横浜市教育委員会は、やぐらは鎌倉時代の物で室町時代には無いと言っているけれど、これってやぐらと同じじゃん。まぁ、色々と有るのだと思うけれど先生方って変だと思う。<後日追記>写真に書いた「室町時代までやぐらが有った」のが普通の解釈のようなので訂正します。どうも僕が話を聞いた方が誤って説明されたのか、僕が聞き間違えたのか、話は逆のようで、やぐらは鎌倉時代から室町時代までの鎌倉で、横穴墓内に五輪塔等を設けて法華堂形式に造られた横穴墓を言うのだそうです。なので上の写真は「やぐら」で合っています。なお、同様の物は吉見百穴のように鎌倉以外でも見られるのですが、鎌倉以外の地域の物はやぐらとは呼ばず、単に横穴墓と呼ぶのだそうで、つまり「やぐら」と言うのは鎌倉だけのローカルな「呼び名」であって学問的には横穴墓。何か結論がでたような気がする。今になって思い出したけれども、九州特に熊本の玉名には同様な仏様を祀った横穴墓が多く、あれはやぐらとは呼ばないもんな。つまり「呼び方」の違いだけなんだな。参考までに玉名の「玉名石貫ナギノ横穴古墳」の写真。入口はすごく立派。鎌倉のやぐらよりもずっと洗練されている。そして重要なのは入口は赤く塗られており、装飾古墳である。この古墳(横穴墓)は6~8世紀の横穴墓を室町時代に「改修」したものらしくて、中には千手観音まで祀られている。名前が違うだけでやぐらと同じ機能。と言うか鎌倉のやぐらはせいぜい法華堂なんだけど、ここのは本堂に近い。屋根まで有る。鎌倉のやぐらと大きく違うのは、どうも「火葬」ではなく「風葬」?だったらしいこと。手前の屍床は舟形である。ここに死者を寝かせたらしい。何故「舟形」なのか?ここは熊本=肥後なんだけれども、肥前=長崎には精霊舟が今でも残っている。さすがに海を汚染すると言うことで現代では車が付いた船を町中で引いているが、諫早付近ではちょっと前まで舟に供物(さすがに死者は無理)を乗せて実際に海に流していた。(僕のお婆ちゃんが無くなった時にはみんなで海まで船を担いで行き、 泳ぎの達者な従兄たちが沖まで船を曳いて行った。)日向=宮崎の西都原古墳では舟形埴輪が出土しているし。九州は海人族の国だったんだな。後日追記終わり。それはそれとして付近の家々を見ると桜が咲いている。この付近の桜は玉縄桜と呼ばれており、大船フラワーセンターでソメイヨシノとオオカンザクラの交配により生まれた桜で早咲きの桜。次は龍寶寺。龍寶寺は玉縄城主第三代城主北条綱成が山居と言う所に建てた瑞光院に始まる。秀吉の小田原攻めの際には、北条氏勝は玉縄城に籠城して死を決意していたが、家康の名を受けた時の龍寶寺住職良達などの説得により無血開城したそうである。そう言えばNHK大河でやっていたなぁ。ここには何故か源実朝の位牌が有る。鶴岡八幡宮で公暁により切られた実朝の首が七騎の侍たちの手によりここに運ばれ、追手より逃れたと言う伝説が有り、それにより寺に置かれた物らしい。そのせいで門前には実朝ゆかりの槐(えんじゅ)の木が約百本植えられているそうである。本堂は下の写真だが、中に入れず実朝の位牌は見えなかった。龍寶寺の境内には旧石井家住宅が保存されている。石井家は後北条時代の地侍で、近世は名主をしていたらしい。下の写真奥の車は何だろう?立派だ。よほどの家だったんだろう。龍寶寺の西側には玉縄城址が有る。この城址の貴重な資料と歴史的な品々(よろい等)が境内の玉縄歴史観に有る。中に入ると昔のお姉さん?が説明している。でも僕は急いでいたので自分で見て廻った。中央に玉縄城とその周囲の模型が有った。実はわの会のメンバーはここには入って来なかった。僕だけこっそりと入ったので急いで廻ったのである。壁には玉縄城の詳細が展示されていた。玉縄城は、江戸城、川越城と共に関東3名城と呼ばれていたらしい。写真を右クリックして出るメニューを使うと別タブで拡大できるので説明文が読める。龍寶寺内には北条三代の供養塔と新井白石碑が有る。時間の都合(歴史館を見るのに忙しかった)で白石碑の写真は撮影していないが、室鳩巣(むろきゅうそう)の撰文なのだそうである。龍寶寺を出てしばらく歩くと玉縄城址が見える。本当は本丸はもう少し右手かもしれない。龍寶寺入口には龍寶寺と玉縄城の説明文があったので、参考に載せる。一度玉縄城址を歩いてみたいと思うが、今日は時間が無いので後日一人で歩こうと思う。龍寶寺を後にして貞宗寺に行こうとしたら、ここでつまづいた。どうもお葬式をやっているみたいで入れないのである。ガイドさんも諦めて、仕方ないので次の久成寺に行く事になった。その道すがら、ガイドさんが関東武士団の略系図を見せてくれた。えぇー!NHK大河鎌倉殿の13人に出てくる人間はみんな遠い親戚じゃん!まぁこの時代は、5代遡ればみんな親戚と言うのが普通なのかもしれない。最後は久成寺。開基の梅田尾張の守秀長は元は小田原北条氏家臣なんだけれども、この寺は徳川と縁が深い。また、写真は撮るのを忘れたので写真はネットから借用するが、源実朝を暗殺した公暁を殺した長尾定景の墓と言われる石塔が有る。この碑に書かれているように、定景は上杉謙信の祖先なんだよね。定景は元は大庭の家臣だったらしく、一時は北条氏に殺されそうになったけれども、三浦に助けられて三浦の家臣になったらしい。それで三浦義村に言われて公暁を討ったのか。義村って色々と考える人だったんだな。これで玉縄の探検は終わったけれども、先に書いたようにいつか玉縄城址に行く事にしよう。
March 17, 2024
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去年の11月頃に長野県の篠ノ井塩崎と言う所で、アマチュアの林部直樹さんと言う方が、国土地理院の起伏図を眺めていて、川柳将軍塚古墳と言う、これまで「円墳」だと思われていた古墳が実は前方後円墳だと気づき、それが長野県の3番目に大きい古墳だと言うことになると言われてニュースになった。下にその時の長野朝日放送さんのニュースの映像をお借りして載せる。本当だ!確かにきれいな前方後円墳だ!今までどうして分からなかったのだろう?答えは簡単で、それを調べるツールが今まで無かったからである。それが今では世の中が進歩して、無料で使える便利なツールができたのである。これは使うしかないなと思った。さっそく使ってみた。国土地理院のホームページからその地図(起伏図)を開いてみた。最初は「富士山」が表示される。富士山って本当にきれいな山なんだなと思う。綺麗な円を描いて広がっている。ここからは通常のgoogleMapなどと同じ操作で日本各地を任意の拡大率で見られる。やっぱり僕は古墳が好きなので、最初は世界遺産の大仙古墳。おぉー!見事!左下の履中天皇陵は同形でちょっと小さいが、全く同じ向きである。右下の大きい方は御廟山古墳。宮内庁は応神天皇の陵墓としているが、自信が無くて参考陵。だって応神天皇陵は別に有名なのが有るもの。これです。真ん中の下向きの前方後円墳がそう。ちなみに左側の上向きの古墳は(お父さんだとされている?)仲哀天皇(岡ミサンザイ)陵。右斜め上の古墳は応神天皇の奥様の仲津姫命の前方後円墳。大仙古墳と応神天皇陵の周濠を見ると銅鐸そっくりなのが分かるが、実は僕がいつも主張している横浜市金沢区の富岡八幡宮も銅鐸の形をしている。山そのものは何回かの地震で壊れて、特に左下の円墳部は八幡宮部分が壊れているが、昔の海岸線だった右側の直線部を見ると分かるように、銅鐸が左側に倒れた形をしている。僕はこれは昔の武蔵国久良岐郡の領主の御先祖様のお墓(前方後円墳)であり、御諸別王(みもろわけのみこ)のお墓ではないかと思っている。何故なら「富岡」は「登美丘」に通じ、皇室に縁の深い地名だからである。「登美丘」は奈良の神武天皇が東征したおりに金色の鳶が弓の先にとまった地で、大嘗祭が最初に開かれた地であり、富岡八幡宮の神楽はここで祭祀が開かれていた名残?僕はそう思っているからである。付近には「鳥見塚」と言う地名が残り、かってここで捕らえられた白雉が皇室に献上され、それが古書に残っているらしい。<後日追記>奈良の富岡のWikiを見ると下のように書いている。 登美ヶ丘は、学研奈良登美ヶ丘駅南方一帯に広がる新興住宅地。 その名は古代・中世に見られた大和国添下郡北部の地名「鳥見」に由来し、 鳥見は「登美」や「迹見」、「登弥」などとも書かれた。 鳥見については、『和名抄』に添下郡四郷の一つとして記される「鳥貝郷」 (訓は「止利加比」〈トリカヒ〉)の誤写という説や、 鳥飼部を二字化した鳥部(とべ)からトビ、トミへと変化したとの説がある。 また日本書紀には、皇軍と戦った長髄彦が飛来した金色霊鵄の光により戦意を失って敗れ、 それ以来「長髄邑」が「鵄邑」と呼ばれ、それが訛って「鳥見」になったとあり、 添下郡の鳥見はその鵄邑伝承地の一つとなっている。なんか恐ろしいくらい関係が有りそうな気がする。なお、御諸別王は崇神天皇の子のうち、垂仁天皇に負けて東国に向かった豊城皇子の孫で、上毛野氏や下毛野氏(北関東の群馬県と栃木県南部を合わせた領域が領地)の祖先である。久良岐郡が成立した際(武蔵国造の乱)には他に3つの荘が有ったらしい。(次の3つ。 横渟屯倉(よこぬのみやけ) - 武蔵国横見郡、現在の埼玉県比企郡吉見町 橘花屯倉(たちばなのみやけ) - 武蔵国橘樹郡御宅郷、 現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近 多氷屯倉(おほひのみやけ) - 武蔵国多磨郡(たまぐん:のち多摩郡) 現在の東京都あきる野市)つまり武蔵国造の乱の結果4つの荘が朝廷に献上されたのならば乱は関東全域にわたっており、それならば何故久良岐(主に横浜東京湾沿い)が朝廷の領土になったのかと考えれば、久良岐は関東北部勢力が欲しがった港が有った為で、北部勢力が攻め込んで来て領地化し、港を入手したかったからだと考えている。現に鎌倉時代でも畠山重忠は、元は秩父付近の領主だったのに金沢区付近まで勢力を広げ、北条氏や三浦氏とぶつかって、それが元で北条氏に滅ぼされている。今の東京湾とは違い、当時は利根川もずっと西側に有り(徳川家康が今の位置にした)、東京湾沿岸は湿地帯で、港を造るのに適した地域ではなかったから。現在の春日部あたりに貝塚が有るのは、その辺まで海が迫っていたからである。また、北条氏も同様に鎌倉には港は造れなかったので、金沢に領土を広げて、金沢北条氏を置き、貿易につとめていた。なお、武蔵国造の乱とは『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条に記載されている。同条によると、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したらしい。上毛野君小熊がからんでいることから、久良岐も元は上毛野君の祖先の御諸別王の領地の一つだったのではないかと思っている。でも何も証拠が残っていないので僕の想像でしかない。でもこの国土地理院の起伏図を見てみると、(地震で形が崩れているけれども)もしかしたらと思うのである。まぁそれはそれとして他の場所も見てみた。次は埼玉古墳群。国宝の金錯銘鉄剣が出土したのは上部円墳の右に有る前方後円墳(稲荷山古墳)である。ここの古墳は向きもそろっており、形状が綺麗。同じ関東の千葉の富津の古墳群。僕は約1日をかけてここの古墳をほぼ全て廻ったんだけど、京都や奈良も古墳がたくさん有るけれど、千葉の方が「数だけは」多いんだよなぁ。最後は有名な箸墓。左下の前方後円墳が箸墓である。中央上は崇神天皇陵。中央下は景行天皇陵である。右下の山は三輪山で出雲の事代主命の祀られている山である。そうなんですよ。箸墓は事代主命の奥様である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のお墓。そして纏向遺跡は昭和の中頃まで「大田遺跡」と呼ばれていたんです。出雲の太田田根子がここに住んでいて、三輪山の出雲の事代主命を祀っていたから。これらの事実を考えれば、ここ(纏向)は出雲の都だと思うのだけれども、近畿の偉い人達の陰謀で、無理やりこじつけで名前を「纏向遺跡」に変えられたのである。その根拠になる垂仁天皇のお墓はここには無く、遠い北の方にあるのに。政治って恐ろしい。彼らは出雲は島根県に有るからと言うのだけれども、大国主命は島根県の出雲に居た時に2回もお兄さん達に殺され(そうになり)、お母さんに助けられて須佐之男命の元に逃げて、その娘のスセリヒメと結婚して、須佐之男命の元から逃げる際に「新しい国をつくれ」と言われて逃げたので、その新しい国がここなんだと思うのです。お兄さん達を攻め滅ぼしたのだから島根の出雲が大国主命の出雲だと主張する人もいるけれど、それでは「新しい」国ではなく、元の国なので島根の出雲は大国主命の国ではないと思う。まぁそんな空想が、この地図を眺めていると楽しくできるので、この地図はおすすめです。試してみると良いと思います。
March 12, 2024
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邪馬台国の所在地が全国あちこちに比定され、現在に至るまで定まらないのは、学者先生が魏志倭人伝をちゃんと読まないせいだと言うのが僕の持論である。例えば国の規模を示す場合に、戸数を「戸」と書いたり「家」と書いたりしているし、文法的にも、不彌國までは、「東南陸行 五百里 到伊都國」のように、「方角」+「動詞」+「距離」+「到達地」と言う書式で書いているのに、投馬國と邪馬台国は「南至投馬國 水行二十日」のように、「方角」+「目的地」+「動詞」+「距離」と言う書式で書くなど明らかに使い分けているのに、そう言う陳寿のこだわりと言うか、几帳面さを正確に論じている学者はいない。同様に古事記や日本書紀でも同じように言葉を使い分けているのを論じている学者は少ない。それどころか自分が理解できないのを、古代の人達が未熟なのだと馬鹿にする始末である。例えば古事記では「天(アメ)」と「空(ソラ)」を使い分けているが、その違いを論じている学者は少ない。でも今日岩波新書の「古事記の読み方(坂本勝著)」を読んで、やっぱりちゃんと研究している優秀な先生もいるんだなと思った。先生は、現代人は頭上に広がる空間を「空(ソラ}」と呼んでいるが、古代ではソラとは別に「アメ」と言う言い方が有ったと説いている。本居宣長は古事記伝で「天は虚空の上に在って、天神たちの坐します御国なり」と説明し、古代では「天翔ける」と言うことはあっても「空翔ける」と言う例はないと言っていると、坂本先生は書いている。うーん正しいと思った。例えば現代人にとっては「風雨」と言うのは単なる自然現象だが、古代人にとっては神威の現れで、その根源は「空」ではなく「天」だったのである。何故なら雨が水であるならば、雨が降る水源が空に有るのならば空に川や湖があるのか?いやどう見ても頭の上には川も湖も無い。ならば雨はどこからくるのか?それは神々が降らすので天から来るのだと古代人は理解していたのだろうと思う。まぁ現代人は自然現象を科学的に理解しているので、その気持ちは理解できないかも?そう言う事を理解しないと魏志倭人伝は理解できず、いつまでたっても邪馬台国は分からない。学者先生にはそう言う研究をして僕ら庶民に分からせるような発表をして欲しいと思う。もう一つ例を挙げるならば、古事記や日本書紀には「根の国」と「黄泉の国」と「常世の国」と言う死者が関わる国が有る。Wikiの「根の国」を見ると以下のように書かれている。 根の国(ねのくに)は、日本神話に登場する異界である。 『古事記』では「根之堅洲國」(ねのかたすくに)・「妣國」(ははのくに)、 『日本書紀』では根国(ねのくに)・「底根國」(そこつねのくに)、 祝詞では根の国底の国・根國底國(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。 根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が 『古事記』にある(大国主の神話)。 しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としていると書かれている。間違っている。と言うか、もしかしたらちゃんと分かっているのに誤解を与える書き方である。大国主の神話では(何となく地下のような気はするが)地下とはどこにも書いていない。ちゃんと古事記原本を見てみよう。(原文) 爾八十神覓追臻而矢刺之時自木侯漏逃而云可參向須佐能男命所坐之根堅州國必其大神議也(意訳) (2回も殺された大国主命は母に助けられて生き返ったが) それでも八十神(大国主命の兄達)は行方を探し求め追って行き、 八十神が矢を向けた時木の股を潜り抜けて逃げました。 そこで、御母の命は言いました。 「須佐能男命が行かれた根堅州国に向かい参り、必ず大神に相談しなさい。」この後に大国主命は須佐能男命から試練を与えられて、スセリヒメに助けられて、「蛇の部屋」や「ムカデとハチの部屋」及び「火がつけられた野原」の試練をクリアーするが、須佐能男命が眠っている所をスセリヒメと共に逃げ出す。ここにWikiで書かれたように「黄泉平坂」が出てくる。(原文) 寢大神聞驚而引仆其室然解結椽髮之間遠逃故爾追至黃泉比良坂遙望呼謂大穴牟遲神曰 其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬 而意禮為大國主神亦為宇都志國玉神而其我之女須世理毘賣為嫡妻 而於字迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理 而居是奴也故持其大刀弓追避其八十神之時每坂御尾追伏每河瀬追撥始作國也(意訳) 寝ていた大神(須佐能男命)はそれ(2人が逃げる時に持っていた天詔琴が大音響で鳴った音) を聞いて驚き、(2人が垂木に結んだ須佐能男命の髪が引っかかって)部屋を引き倒しました。 2人は須佐能男命が垂木に結はれた髪を解いている間に、遠くまで逃げてしまいました。 2人を追いかけ、黄泉比良坂まで来たところで遥かに望み、大穴牟遅神に叫びこう告げました。 お前は持ち出した大刀と弓矢でお前の庶兄弟を坂の峰に追い詰めて倒しまた川の瀬に追い詰め 屈しさせ、大国主の神となり宇都志国玉の神となり私の娘須世理毘売を正妻とし、 宇迎能山の山本(現在の鳥取県西伯郡南部町倭らしい)の地の底の岩に巨大な宮柱を立て、 高天原に届く千木が立つ宮に居れ。それが奴の国だ」 このようにして、大刀と弓を持って八十神を追い立て坂の峰ごとに追い詰めて倒し 河の瀬ごとに追い詰めて屈しさせ、ようやく国を作ったのでした。つまり、Wikiは「根の堅洲国」が地下に有り、そこは「黄泉平坂」の上方にあると解釈し、書いているのである。しかし根の堅洲国が地下の国とは限らない。ただ「根の」なので地下の可能性は有る。でも地下ならば何故黄泉平坂の上?でも「天」と「空」の違いと同様に、「空」のように現実的に死者を埋める「根の国(つまり地下)」又は「根の堅洲国」と、現実ではなく想像の世界の「天」と同様に「死んだ人の行く死後の世界」である「黄泉の国」を書きわけているような気がする。もしそうならば根の国は地下で黄泉の国は(物理的な位置ではないので)黄泉平坂の上で良い。どう言うことかと言うと、須佐之男命の根の堅洲国がイザナミが死んだ時にイザナギが行った黄泉の国と似ているのである。イザナギはイザナミを求めて、髪(みづら)に刺していたクシに火をつけて中に入る。つまりイザナミの居る所は暗いのである。またそこのイザナミには「ウジ」がたかり、頭や腹や胸には雷神(鬼)が乗っかっている。それに驚いたイザナギが逃げる際に追ってくるのはヨモツシコメであり、イザナギが黄泉平坂のふもとまで逃げて来た時に、そこに千引の岩を置いて塞ぐ。イザナギがイザナミを探していく所は地下の「根の国」なんだけれども、黄泉の国の食べ物を食べて、鬼達がいるのは「黄泉の国」である。そして黄泉平坂は現実世界と死者の国の境にあり、イザナギにより千引の岩で塞がれたのである。須佐之男命の根の堅洲国も同様である。須佐之男命の試練に出てくる「蛇の部屋」や「ムカデとハチの部屋」は地下のイメージだし、(ハチはミツバチではなく似我蜂(じがばち)で地中に巣をつくるハチだと思う。 ムカデとハチが同時に居るパターンは地下しかないから)「火がつけられた野原」で助けてくれるのはネズミで地下に居る生き物だから、イザナミが居た黄泉の国と同様に、スサノオが居たのは地下で、大国主の試練は現実のものではなく、スサノオの墓の中の想像上の出来事だと思うから。そこでふと思ったのだが、イザナミ・イザナギの例と、大国主命と須佐之男命の例を現実的に考えると、この2つは古墳のことなのではないだろうか?何故そう思うかと言うと、イザナギは黄泉平坂を「下る」からである。(イザナギがヨモツシコメや8種の雷神達から逃げた先は黄泉平坂のふもとだと書いている。)この事に学者先生はずーっと困っていたらしい。地下に有るはずの「根の国」が「黄泉の国」と同じならば、「黄泉の国」が上に在るはずは無い。どう考えればこの問題は解決するのか?でもこの話が死んだイザナミを忘れられずに古墳の頂上付近の石室に葬られたイザナミを、石室のフタつまり千引の岩を開けて見たイザナギが、腐敗して変わり果てたイザナミを見てショックを受けて、幻を見たのならば、その幻から逃げて、再度千引の岩を閉じて難を逃れて黄泉平坂を下ったのならば、そこには死者を祀る際に置かれた桃の実も有るだろうし、現実的に考えられるのかなと思う。下にイメージ図を作ってみた。大国主命に須佐之男命が国をつくれと言ったのは、スセリヒメと結婚する際に、今は亡き須佐之男命の墓前に祈った大国主命の脳裏に響いた過去の須佐之男命(既に黄泉の国に居る?)に言われた過去の言葉なのではないだろうか?<1日だけど後日追記>簡単に2行でまとめると、死んだ人を埋葬するのが「根の国」(地下)で、死んだ人が行くのが「黄泉の国」なんだと思う。なお、ここでは「常世の国」には触れられていないが、天岩戸で天照大御神が隠れられた際に鳴いたのは常世長鳴鳥であり、死者とは関係ない。「古事記」上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、別に死んだわけではない。常世の国に渡っただけである。神武天皇の兄である御毛沼命は波の穂を跳みて常世の国に渡ったとのみあるが死んだ訳ではない。「古事記」では垂仁天皇が多遅摩毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、「日本書紀」の垂仁紀では垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして「非時香菓」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述があるが田道間守は別に死んで常世の国には行っていない。むしろ垂仁天皇の崩御に間に合わなかっただけである。これらの記述を読むと、常世の国は死者の国ではなく「海の向こうの国」の可能性の方が高い。少彦名神(いわゆるスクナヒコ)は大陸から渡って来た渡来人で大国主命を助け、役目を終えて自国に帰って行ったのではないだろうか?なので「常世の国」を「根の国」や「黄泉の国」と結びつけるのは誤りだと思う。このように従来同じこと、あるいは同じものとして簡単に片づけられていた言葉を、ちゃんと解釈すれば魏志倭人伝も違った読み方になる。例えば冒頭で書いたように、国の規模を示す場合に、戸数を「戸」と書いたり「家」と書いて有ることに意味が有るならば、次のように考えられる。中国の使者は何故わざわざ倭国に来ていたのであろうか?貿易の為?いやそれは使者の仕事ではなく、商人の仕事である。まさか倭国に何かしてあげることが有った?倭国を見下していた中国の偉い人にそれはない。恐らくは中央政府から「倭国に来ている中国の僧や技術者の管理を命ぜられたから」だと思う。後世にフランシスコザビエルが日本に来てキリスト教を広めようとしたように、僧侶や技術者は独自の倫理と決意を持って未開の地に行く。本当は色々な理由は有るのであろうけれど、だからと言って放ってはおけない。だいたいそう言う人達は良家の出身で、偉い人達も放っておけないからである。なので使者は彼らに会って、中国の家族・親戚に報告していたのだろうと思う。なので魏志倭人伝を書いた陳寿は不彌國までは使者に実際の所が聞けたのである。しかるに投馬國や邪馬台国は使者は行っていないので聞けず、手元に有る古い資料に頼った。なので不彌國までは実際に行った行動形式で書かれており、投馬國と邪馬台国は伝聞形式なのである。また不彌國には中国から来た僧侶や技術者がおり、彼らの家は高床式の立派な家であった。なので不彌國の規模を示す戸数は「家」で書かれており、奴国や伊都国のように倭人の家は竪穴式住居だったので「戸」で書かれているのである。「戸」と「家」の使い分けをちゃんと考えていれば、この程度の事は簡単に分かるし、これが分かれば邪馬台国までの経路は分かるのになぁと思う。だから学者先生は魏志倭人伝をちゃんと読むべきだと思う。
March 10, 2024
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愛天堂の液晶表示器付DSPラジオモジュール [M5807LA]は性能が良い。なおかつ表面実装部品は既に実装されているので、半田付けが難しくない。唯一、液晶が半田付けされていないので、これを半田付けする必要があるが、30~40Wの先が細い半田ごてが有れば大丈夫。追加する必要があるのは、タクトスイッチ5個、100µFのコンデンサー2個及びイヤホンだけ。なお、イヤホンはさすがに直付けするのが難しければイヤホンジャックが必要。必要な部品を下に示す。値段的にもお手ごろだと思う。タバコ1~2箱分のお金で液晶付きDSPラジオが作れる。なお、液晶表示器付DSPラジオモジュール[M5807LA]には写真のピンヘッダーは付いていない。けれども通常は配線を半田付けするのでピンヘッダーは無くても大丈夫。ただ、ピンヘッダーは実験する場合は必要。僕は愛天堂のラジオは時々「ちょっと違うなぁ」と言うのが有るので、事前に実験する。今回も事前に実験してから組み立てた。その時の様子。写真だとニッポン放送(ワイドFMで93.0MHz)受信中なんだけれどもちゃんと聞こえている。でも、実は失敗している。何が失敗なのか?僕が天邪鬼だったのが悪くて愛天堂が悪いわけではない。写真を見ると分かるが、イヤホンをDSPラジオモジュールに直付けしているが、これが間違い。僕はイヤホンアンテナが嫌いなので、外付けアンテナを付けるので回路を少し改造する。愛天堂の回路はイヤホンのアース部分をアースから浮かしてANTにつないでいる。その場合、高周波的にはアースから浮かす為にイヤホンのライン側に1µHのインダクターが必要。しかもイヤホンのアース側はアース(GND)にはつながっていない。でも僕は外部アンテナをつなぐので、1µHのインダクターは使わずイヤホンのアースはANTから外してGNDにつないでいる。そしてイヤホンのアース側を外したANT部に外部アンテナをつないでいる。外部アンテナは50㎝くらいのリード線。この時に、ちょっとお茶目をして100µFのコンデンサーまで省略してしまったのである。これが僕のバカな所でROUTとLOUT経由でマイコンのスイッチ回路が不安定になった。ラジオの音は聞こえているのに液晶が表示されず、スイッチがON/OFFできない。また「不安定」なので、写真のようにうまく行く場合もある。なまじ上手くいく場合も有るのが致命的。原因を探っていたら、この100µFのコンデンサーを省略したのが原因だった。僕は耳が悪いので、たとえ100µFでも負荷を減らして大きな音で聞きたかったのが悪かった。ちなみにこの100µFを22µFにすると、かなり音は小さくなり僕にはギリギリ聞こえる位。まぁそれでも原因が分かったのでOK。100均で適当なケースを見つけて組み込んだ。上の写真でイヤホンジャックを基板付きの物にしているが、基板は無くても良いんだけれども、ケースに入れる場合は有ると便利。ケースにイヤホンジャックを付けるのは予想以上に器用さが必要で面倒。基板の穴を使ってネジ止めする方が簡単。配線が無ければ簡単なんだけれども、ケースに取り付けてからの半田付けは難しく、配線を付けてからケースに取り付けるのは配線が邪魔で難しいから。ケースに入れた完成品はこんな感じ。ケースには環奈ちゃんの写真を貼った!可愛い!液晶部分は上手く切り取らないといけないのが大変。小さなスピーカーを付けてみたけれども、音が蚊が鳴くくらいの小さな音なので使えなくて、百均の300円のスピーカーを買ってつけた。これがイヤホンと同じ3.5mmのプラグで接続するので便利。ただ、電源がUSBなので、手元に有った百均のUSB充電用アダプターで5Vを供給している。このスピーカーはアンプ内蔵でボリュームも付いているので便利。僕のマンションみたいにスピーカー使用禁止の建物で、大きい音で聞きたいならばヘッドホンで聞くと良いと思う。良いヘッドホンを付ければ結構良い音で聞こえる。電波があまり入らない僕の部屋でも関東のFMはみんな入るので相当に高性能だと思う。近所の地域の小規模(コミュニティ)FMも入る。(地域のFMは地元のお姉さんがアナウンサーで時間限定で放送中)ベランダで聞くと中華のFMを除き20局以上入る。このDSPラジオユニットはハイレベルアマチュアには物足りないかもしれないけれど、低レベルアマチュアの僕等にはとても良い(安い)おもちゃだと思う。ラジオ製作は初めてだけど自分のオリジナルFMラジオを作りたい人向きです。電源スイッチ付き電池ボックス [BATBOX-T3]は単三2個用は80円ですが、今は品切れ中。
March 2, 2024
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