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戸谷学氏の「古事記はなぜ富士を記述しなかったのか」を読みました。初めに御断りしておきますが、この本自体はトンデモ説に近く、お勧めはできません。でもそれはこの方の職業上仕方が無いことです。この方は神社の神職をされておられるので、話がどうしても現実から離れる傾向があります。ただ、この方は博識で非常に参考になる知識を紹介してくれるので、いわば他山の石的な感覚で読むと面白いです。まず戸谷氏は、藤原不比等にとって都合が悪い秘密=聖徳太子を象徴化する為に利用したにもかかわらず、そのせいで富士山を古事記の中に書くと「聖徳太子の富士登山」から「聖徳太子を守護神とした中臣氏」が想起され、それが藤原氏の祖である渡来系海人族の「鹿島」を想起させることになって、藤原氏が鹿島氏同様に「渡来人」であることがバレてしまうから、隠したのだと説きます。当時、渡来人の血統は皇族に連なることはできなかったからです。確かに「秦氏」や「東漢氏」のような渡来人は、たとえば秦氏のように平安京を作る為に活躍しても皇族には入り込むことはできませんでした。桓武天皇による新しい世界を求めての長岡京への遷都では、造営長官‣藤原種継の義父として、種継亡き後は同じく平安京造営長官‣藤原小黒麻呂の義父として、後ろ盾となって新都建設に取組み、秦氏一族は平安京の最大の貢献者になったのですが、それでもです。蘇我氏のように「本当は渡来人ではないか?」と思われる氏族でもそうです。蘇我馬子の祖先達には韓国系を思わせる名前が多く、竹内宿禰-蘇我石川-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗-蘇我稲目-蘇我馬子と、もしかすると蘇我氏は渡来人と思うような名前の祖先が並び、さらにこの中の蘇我満智は百済の官人木満致であるかのような記述が、日本書紀の履中紀に書かれてます。ただ、年代が合わないので「蘇我満智=百済の官人木満致」は否定される向きも多いのですが、その後の韓子-高麗もふざけているのかと言うくらい変です。そのせいか、曽我氏は娘達を必死で天皇家に送り込み、やっと願いをはたしています。『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しています。まぁそれはそれとして、僕が参考になるなと思ったのは、富士山の名称の「富士」の由来となった「富士原」です。え?「藤原」にそっくり?しかも「富士」は訓読みではなく音読みになっている。日本の古い地名なのに何故音読み?ここで戸谷氏は関東には秦の徐福が来て開いた国が有り、その都は大宮の氷川神社付近に有ったと説くのです。いやートンデモ説かなとも思います。ただ、徐福が秦の始皇帝から命ぜられて「不老不死の妙薬」を探しに日本を目指したことは、中国の史書である史記にも書かれています。富士山は「不死の山」から来ていると言うのも古くから言われてきたことです。さらに言えば「かぐや姫」伝説で、かぐや姫が残した不死の薬が焼かれて煙となって立ち上った所でもあります。だから、まぁトンデモ説なんだけれども、一応もしかしたら的な感じではあります。でも戸谷氏の攻撃はまだ続きます。徐福の本来の記述は「徐市(じょふつ)」だと書いてあるのを見ると、もしかするとと思ってしまいます。そう、香取神宮の祭神である経津主神(ふつぬしのかみ)のお名前です。一般的には、刀を振るう時の「フッ」と言う音が由来だと言うことになっていますが、僕には刀を振るう時の音は「フッ」とは聞こえません。刀はそんなに軽くはないです。よほどの名人か力持ちでも「シュッ」だと思います。「フッ」と言う音は、例えばロウソクを吹き消す場合のように軽い音です。まぁそれは冗談にしても「フツ」が「ジョフツ」の「フツ」ならば経津主神=徐福になります。富津には徐福の子孫がおり、たくさんある古墳群はその子孫のものでしょうか?そう気になるのが富津の古墳群です。富津の地名の由来も経津主神同様に刀を振るう時の音と言う説が有るのですが、徐福に由来すると言う方がもっともらしい。そして何よりも富津古墳群の傍に有る飯野陣屋跡が気になります。ここには藤原鎌足の桜があり、鎌足の名前の由来が書いてあるました。鎌足のお母さんは、ここに居た狩野長官の娘で、常陸国鹿島に嫁ぎ、そこで子が生まれた際に白狐が現れて神秘の草刈鎌を授け、その鎌に由来して子に「鎌子」と名付けたのが、後に中臣鎌足となったと言うものです。僕は飯野陣屋跡にそれを見に行って来ました。横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ!(その16)千葉の富津古墳群に行って来ました。伝説なのでどこまでが本当かは不明だが分かりませんが、後世の大鏡にも同様の話が載っていますから本当かもしれません。ならば、藤原氏は鹿島の子孫であるとともに徐福の子孫なのかもしれないと言うことです。そう、だから富士山は関東の人にとっては霊山で「不死の山=富士山」と呼ばれて、そのふもとを富士原と呼ぶようになった。つまり「富士原」が「富士山」の名前の由来ではなく、逆に徐福が生涯をかけて求めた山である「富士山」が「富士原」の元になったと言う事です。また、それ故に中臣鎌足は「藤原」の名をを天智天皇に頂いた。うーん眉唾だけれども面白いなぁ。そうか、だから古事記で経津主神が霊剣として登場するのは、ここに徐福が連れて来た鍛冶職人が居たからか。そうだよな。砂鉄は鉄の材料としては品質が劣るので、当時の日本人では鎌くらいは作れても刀のような強度を必要とする品物は作れないよな。だから九州や近畿の人達は、相当に遅くまで朝鮮半島から鉄の素材(板)を買っていたんだよな。鎌倉や横浜の金沢区は地名的にも鉄の関連を想像させる名前だし、近所には鍛冶ヶ谷や釜利谷のような地名があるし、栄区には古い製鉄遺跡が残っているし、畠山重忠が秩父から鍛冶職人を連れて来たと言う記録が残っているし、この辺が鉄の製造に関連する言い伝えが残るのは、元々古くから鉄を作る職人がいたからかも?そしてその人達は、徐福が中国から連れて来た人達なのかも?じゃぁ、九州や近畿以外に、関東にも大きな国が有ったとしても不思議は無いなぁ。根拠が無くて妄想なんだけれども、面白いなぁ。<参考>根拠にはできないのだけれども、参考にはなると思うので書く。常陸国風土記の香島群(風土記の時代には「鹿島」ではなく「香島」だった)に群役所東方23里に高松浜があり、慶雲元年(704年)、国司の婇女朝臣が鍛冶の佐備大麻呂らを率い、ここの砂鉄を用いて刀を作らせた。と書かれている。鹿島神宮には経津主神の霊剣「経津御魂(ふつのみたま)」が神宝として所蔵されている。つまり古代にはここは鉄と刀の産地で、神武天皇の東征の際に届けられた経津主神の霊剣はここから贈られてきたのかも?まんざら作り話ではないのかもしれない。
August 29, 2024
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月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その中で「海幸彦・山幸彦」の神話は、兄弟の相続争いのことを書いた物であり、ただ生々しくは書けないので神話の形になったと書いた。その中で皇孫の子孫は当時はまだ宮崎県と鹿児島県の国境付近、都城付近に居り、山幸彦を助けたのは歴史に登場する前の和邇氏の祖先で、それ故に山幸彦の奥様は神話の中で八尋の鰐とされたと書いた。ワニザメが人間の子供を産むわけが無い。和邇氏の娘だから人間の子を産むのである。今回はそこから景行天皇の九州行幸までを「想像たくましく」関連付けてみる。なんせ古事記や日本書紀にもこの辺は神話としてしか残っておらず、確たる証拠は無いのだから、ある程度は想像に頼らざるを得ない。でも僕は魏志倭人伝同様に、古事記や日本書紀に書かれたことはある程度信用すべきとそう思っている。だって天皇が指示して、当時の最高峰のメンバーが編纂した国史がいい加減なはずがない。神話と言えども何らかの史実に基づいていると思うし、誤りは当時のことなので仕方ないけれども間違いは無いと思うから。山幸彦の奥さんがワニザメだったのと同様に、その子の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(いわゆるウガヤフキアエズのミコト:神武天皇の父)も謎が多い。そのせいか、偽書とされる「ウエツフミ」や「竹内文書」に登場するウガヤフキアエズ王朝は、めちゃくちゃな伝説が多い。なのでこの辺の古事記や日本書紀の記述は「神話」であり意味がないとされ、真面目に研究したり、調べる学者は少ない。(反対にマニアは大好きで良く書いている。)でも本当に神話で研究する価値が無いのだろうか?僕はそうは思わない。この辺のことがはっきりとせずに、ちゃんと記録に残っていないのは、上にも書いた「海幸彦・山幸彦」の神話が兄弟の相続争いのことだったせいだと思う。恐らく相当に混乱して記録が残っていない(あるいは故意に破棄された)からだろうと思う。例えば上に書いた偽書に書かれたウガヤフキアエズ王朝が異常に栄えて永く続いているのは、争いが何代も続いて、片方はいわゆる神武東征に書かれたように大和の地に向かい、宮崎に残された方が(頑張って)作り上げた想像上の王朝だからではないだろうか?大和に向かって成功した片割れをうらやんで残った片割れが書いたからである。そう、僕は宮崎県小林市に有った邪馬台国が狗奴国との戦いの後に2つに分裂して、西都原に有った投馬國のメンバー及び狗奴国の残党と一つの「征服団」を作り、時間をかけて大和へ向かいながら、少しづつ大きくなっていったのが神武東征だと思う。そう考えると全ての疑問がうまく解決する。その疑問とは以下のことである。1.もし古事記や日本書紀に書かれたように日向が天孫降臨の場所ならば、 景行天皇はなぜ南九州を攻めなくては行けなかったのか?2.そもそも神武天皇は何故大和を目指したのか? 父親の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊やお祖父さんの山幸彦の国である宮崎で大王になり、 それから九州をまとめて、次第に東に国を広げたらよかったのに、 何故突然に東つまり大和に向かったのか? 古事記や日本書紀に書かれているように「葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か」 などと言うのは、そもそも「葦原中国」と言うのがどこなのかから始まり、 当時としては「東のはて」だった大和を目指す意味が分からない。 普通は国を治める際は、都は国の中心では?何で端っこ?3.邪馬台国時代の邪馬台国の官「伊支馬(いきめ)」の名前が付いた古墳(生目古墳群)や 投馬國の官「彌彌(みみ)」が美々津と言う地名で残っており、 伊支馬(いきめ)は垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)のお名前の中にも残っているのに、 それが何故歴史の中で消えていったか?4.継体天皇のお墓(今城塚古墳)や推古天皇の初陵(植山古墳)に有った石棺が、 熊本の馬門石で造られた物で有ったことから、 この時期の天皇家の祖先が熊本付近で有っただろうと言うのは容易に想像できるが、 熊本付近には狗奴国が有ったはずである。ならば天皇家の祖先は狗奴国か? 狗奴国の官はに狗古智卑狗(くくちひこ)であり、これは菊池彦の祖先とされるから。 なお、菊池城が後世の建築であり、菊池氏が平安時代の氏族であることから、 これを否定する人もいるが、 和名類聚抄には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されており、 僕はそれ以前つまり卑弥呼の時代から使われていた地名だと考える。5.景行天皇の九州行幸は古事記には書かれていない。 熊襲を征伐したのはヤマトタケルの命であり、日本書紀でも2回目はヤマトタケルが行く。 でも景行天皇の業績とヤマトタケルの業績はダブっており、 昔はヤマトタケルは空想上の人で景行天皇が実在したと考えられていたが、 今は景行天皇も空想上の天皇で、 ヤマトタケルの命の業績は複数の人物の業績を一人にまとめたと考える人が多い。以上なんだけど、何故、僕の仮説である、邪馬台国が2つに分裂して、片方は大和を目指し、残った片方が宮崎で熊襲になったと考えると都合が良いかと言うと、疑問1.は自動的に解決するから。なんせ2つに喧嘩別れしたのだから、熊襲が景行天皇に反発するのは当然である。なので景行天皇は邪馬台国の残党である熊襲を攻めたし、熊襲はその後も反乱して、仲哀天皇の時代にも暴れた。疑問2.も自動的に解決する。投馬國は和邇氏との対決上、邪馬台国の神武天皇派を受け入れたが、さすがに自分達の国を乗っ取られるわけにはいかないので、少しの部下を付けて「追い出した」のだと思う。狗奴国は邪馬台国と戦っていた頃に比べて弱体化していたし、元々狗奴国の王は卑弥呼の弟で、神武天皇も他人ではなかったので、ここもていよくあしらって少しの部下を付けて追い出した。こうして神武天皇は新しい地を目指すしか無くなったのだと思う。なので、当時としては一番東の果てである大和に着いたのだと思う。要は居場所が無かった?疑問3.も自動的に解決する。大和に向かったグループは故郷を捨てて行ったのだから、名前は残ったとしても未練はなく、垂仁天皇も、もはや「大和の王」であって、宮崎には垂仁天皇の「親戚」しか残っておらず、その親戚達のお墓が生目古墳群なんだと思う。ただ、垂仁天皇は皇后は丹波道主王の娘をもらって、その子が景行天皇なんだけれども、妃の内の一人は開化天皇の娘で狭穂姫命と言う。僕は実はこのお姫様は西都原古墳群の中の男狭穂塚と女狭穂塚に関係があるお姫様だと思う。もしかしたら女狭穂塚が彼女のお墓なんではとも思っている。彼女はお兄さんの命令で垂仁天皇を殺そうとして、でもそれができず、お兄さんと一緒に焼け死ぬのだけれども、そのお兄さんのお墓が男狭穂塚だと思うのである。疑問4.は狗奴国との関係次第である。元々狗奴国の王が卑弥呼の弟だったのならば、血の濃さの関係はあるが皇位に近く、継承争いは熊襲との間だけではなく、狗奴国の親類との間でも続いたのだと思う。なので、仲哀天皇と神功皇后の不思議な関係となり、仲哀天皇は殺されて、神功皇后は息子の応神天皇を皇位につける為に麛坂皇子、忍熊皇子を殺したのだと思う。神武天皇に随行した狗奴国の人の中に天皇家の中に入り込んだ人がいたのではないだろうか?疑問5.は正直な所は何が本当なのかが分からない。ただ、日本書紀に書かれた景行天皇九州行幸の記述を見ると、面白いことが分かる。筑紫に行ったと言うのに、入ったのは豊前つまり北九州の東側で、帰りは福岡県浮羽郡あたりから直接大和に帰っている。つまり後に九州の中心となる大宰府や邪馬台国時代の奴国・伊都国付近には寄っていない。つまりこの時代の九州の中心は浮羽郡付近だった?後世、白村江の戦いの際に斉明天皇は筑紫の朝倉宮に居た。浮羽郡と朝倉市は隣り合わせである。もしかして朝倉宮は朝倉市または浮羽郡あたりに有ったのではないだろうか?そして5月18日に書いたように、水城は(当時はまだ無かった)大宰府を守る為に作られたのではなく、朝倉宮を守る為に造られたのではないだろうか?邪馬台国はどこにあったか(その49)歴史の真実を求めて九州一周その2以上を景行天皇の九州行幸のルートとして地図にして見た。そうそう、よく熊襲とは何か、どこに居たのかが議論になるが、日本書紀を読む限りは議論の余地はない。宮崎の南側つまり上の地図で言えば宮崎の鰐塚山付近に居た、邪馬台国の宮崎に残った片割れである。それは日本書紀の以下の部分を読めば分かる。<原文>十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁 酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮 鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、 其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒 刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾 鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝 納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」 天皇詔「可也。」~途中略~十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也<意訳>十一月、日向国に着いて行 宮を建ててお住みになった。これを高屋宮という。十二月五日、熊襲を討つことを相談された。天皇は群卿に詔して、「聞くところによると、襲の国に厚鹿文、迮鹿文という者がおり、この二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十枭帥と言っている。勢力が盛んでかなう者がない。軍勢が少なくては、敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし、多勢の兵を動かせば、百姓たちに害となる。兵士の威力を借りないで、ひとりでにその国を平定できないものか」と言われた。一人の臣が進み出て言った。「熊襲梟帥に二人の娘があります。姉を市乾鹿文といい、妹を市鹿文といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈物をして手下に入れるのがよいでしよう。梟帥の様子をうかがわせて不意を突けば、刃に血ぬらずして、敵を破ることもできましょう」天皇は、「良い考えだ」と言われた。~途中略~十三年夏五月、ことごとく襲の国を平定した。高屋宮にお出でになること、すでに六年である。つまり日向の高屋宮に来て初めて熊襲梟帥(くまそたける)を始めとした熊襲の討伐を相談し、そこに6年間いる間にことごとくその国を平定している。日向の高屋宮に来るまでは熊襲とは戦っていない。他の賊とは戦っているが、熊襲ではない。特に大分や雲仙の賊は風土記を読むと「土蜘蛛」と書いて熊襲よ区別している。そして景行天皇はここ宮崎(日向国高屋宮)で熊襲を平定した後に筑紫に向かわれるのである。なお、筑紫に行く途中で熊國で熊津彦と戦われるが、「熊襲」ではなく「熊」である。熊襲はちゃんと「熊襲梟帥」と書いており、区別されている。なので、ちゃんとした証拠は無いが、邪馬台国が2つに分裂して、宮崎に残った片割れと、神武天皇以下大和を目指したグループに分かれたと考えると、色々な問題が解決するのである。そうでないと神武天皇が大和を目指した理由と景行天皇が九州行幸を行った理由が説明できない。
August 28, 2024
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7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その2」を書いて、「天岩戸伝説」も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書き、邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その28月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その3」を書いて、「物部氏が実は朝廷の租税や財産の管理をしており、天皇家を支えていた」ことを書いて、蘇我氏と物部氏の争いが表面上は「崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争い」に見えるが、実は朝廷の権力を背景にした租税や財産の所有権をめぐる争いだったのだと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その58)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その3でも3番目は蘇我氏の時代の話で神話じゃないのではと言われるかもしれないので、ちょっと付け加えると、僕は物部氏とは出雲の大国主の子孫だと思っている。実は古事記と日本書紀では、国譲りの後始末が少し違うのである。国譲りに際して、大国主が代わりに天にも届く社を建ててくれと要求する際の記述である。まずは日本書紀の方。<原文>故、大己貴神、則以其子之辭、白於二神曰「我怙之子、既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者、國內諸神、必當同禦。今我奉避、誰復敢有不順者。<意訳>そこで大己貴神は、その御子(事代主命)の言葉を二柱の神に告げ、「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。つまり単に「降参」しているだけである。ところが古事記には、少し違うことが書いてある。<原文>唯僕住所者如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巢而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原水木多迦斯理而治賜者僕者於百不足八十坰手隱而侍亦僕子等百八十神者卽八重事代主神為神之御尾前而仕奉者違神者非也<意訳>ただ私の住む所は、天津神の御子の天津日嗣(天照大御神の子孫)が治める世のご立派な御殿と同じぐらいに、地の底の岩に宮柱を太くし高天原まで千木が高く達する宮とし、統治していただけれぼ私は国土の隅々の多くから身を引きお仕え中し上げます。また私の子ら八十神はそのまま八重事代主が神々の端に加えさせお仕え申し上げさせますので、違える神はありません。」そもそも世間一般に言われているように、大国主は死んではいない。「(隱而侍)つまり政治の表舞台には出ずお仕えする」と言っている。しかも「(八重事代主神為神之御尾前)つまり八重事代主が神々の端に加えさせお仕え申し上げさせます」と言っている。そうすれば出雲の一族は誰も逆らわないと。つまり出雲の一族は天皇家に仕えて、支えることにより生き延びて、以降も天皇家と婚姻関係を結ぶなどして栄えていたのではなかろうか?大国主命は大和から離れて島根の出雲に隠遁した、それが出雲大社の前身だったのだと思う。そしてここまで書くと分かるように、事代主命は三輪山に葬られており、奥さんは箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命である。つまり出雲は滅んだわけではなく、名前を変えて生き延びているのである。僕はそれが物部氏だと思っている。物部氏の祖はニギハヤヒである。ニギハヤヒが義理の兄のナガスネヒコを殺して神武天皇に仕え、その娘をもらって神武天皇に可愛がられたと書かれているのに合っている。古事記や日本書紀は一人の人間の記憶から作られたのではなく、集められた諸家の記録や言い伝えをまとめられたものである。大和朝廷の初期の話も色々な家や人により、少しづつ違っていたのだろう。だから僕は「神武東征」と「国譲り」は一つの争いを2つの側面から見たものと考える。最初は武力衝突から始まったのだろう。そして天皇家はナガスネヒコに負ける。でも宮崎から来た天皇家には味方がいた。同じ海人族の人々が、宮崎から黒潮に乗り尾張、千葉や茨城に流れて国をつくっていたのだ。そこで神武天皇は彼等に助けを求めて味方の来る熊野に回る。お日様を背に受けて戦っても、お日様が助けてくれるわけがない。まずは高倉下、尾張から来た人である。でもまだ戦力が足らず、また敵に負けて、みんな気絶してしまう。その時に千葉から武器が届く。援軍は無理だけれどもと、武器を寄越してくれたのである。布都御魂(ふつのみたま:神剣)である。千葉の鹿島神宮に祀られた剣である。日本書紀等では、国譲りの場面でも鹿島神宮の祭神である「建御雷神」に従って活躍する。経津主神(フツヌシ:布都御魂の神)が刀に変身したことになっているが、現実的ではない。恐らく、兵を送るのは困難だからと武器を送ったのだろう。千葉の香取神宮の祭神である。いずれ書こうと思っているが、千葉の富津の古墳群はこの神々のものだと思っている。そして彼らは鹿島氏、千葉氏や三浦氏につながっていくのだろう。千葉だけではなく三浦半島や横浜市金沢区にも鹿島氏の子孫が残っている。伊豆から東北にかけては砂鉄の産地が多い。鎌倉はその砂鉄から作られた鉄製品から付けられた地名だし、付近には鍛冶ヶ谷とか釜利谷と言う鉄にちなむ地名が多く、金沢区もそうである。栄区には製鉄遺跡も残っているし、金沢区の長浜からは昔は「金くそ(製鉄時に出るスラグ」がとれた。特に金沢区には有名な畠山重忠が秩父から招いた鍛冶職人の話も残っている。なので付近は鉄製品の供給地帯だったのだろう。大和で行われた国譲りや神武東征に千葉県の神々が活躍するのは、ここに天皇家の協力者がいたからである。鉄剣を入手した天皇家は勢いを盛り返して大和に迫る。そこでさすがに疲れ果てた天皇家は劣勢を意識したニギハヤヒに講和を持ちかける。その結果、家来にして大事にしてくれるならとニギハヤヒはナガスネヒコを殺して講和に応じた。それが国譲りなんだと思う。だって島根でせっかく国を譲ってもらったのに、反対側の宮崎に天孫降臨して、結局大和に攻め上るのは理論的に変だから。古事記や日本書紀は、たくさんの資料を集めて編纂したので順序や互いの関係が乱れて、書かれた順番通りじゃないのだと思う。僕はこれが古事記が世の中から消されて、日本書紀に出雲の記述が少ない原因だと思っている。よく藤原不比等が日本書紀に手を加えて、真実の歴史をゆがめたと非難されているが、実はこの当時まで生き残っていた蘇我氏の傍流(石川氏)が暗躍していたのだと思う。藤原不比等にしてみれば、その程度のことで石川氏が協力してくれるなら安いものと考えて、取引の材料にしていたのだろうと思う。つまり古事記が消されたのは、蘇我氏と敵対していた物部氏に最後の一撃を加える為だった。僕はそう思うのである。蘇我蝦夷の館で帝紀と旧辞が焼かれた時に、編纂途中であった古事記には出雲の記述が有った。この時点までは、物部守屋は居なくなってもまだ物部氏の一部は残って抵抗していたから。でも壬申の乱で物部日向は大友皇子側につき、捕虜となって天武天皇側につく。そして物部首は姓を連に改め、社地の名によって布留宿禰姓に改めて、物部氏は消えていく。こうして古事記は物部氏と共に滅ぼされて、日本書紀では出雲と物部氏は陰に隠れた?そう思うのである。違うかなぁ?
August 27, 2024
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いつの日にか卑弥呼のお墓を見つけるのが僕の夢なので、一応安物だけどGOPro(もどき)=アクションカメラと、USBロング光ファイバーカメラ(先端にLEDが付いて穴に差し込んで穴の中を写せるカメラ)を買って有る。でもそれ以前にパット見では丘や山と区別がつかない古墳を探す為に、おそらく古墳に埋まっているだろう鏡や刀剣を探す為に必要な金属探知機を探している。金額が高い物は有るのだが、中途半端なのは高いだけで役にたたない。YOUTUBE等で見ても、せいぜい深さ5cm程度でしかない。いや地表に有るのならば10cm位は何とかなるんだけれども、地中に埋まっているとせいぜい5cmなので役に立たない。なので自分で作ろうと思っているのだけれども難しい。でもまぁ人生先は長いので、まずは基礎からと思い勉強している。学校の勉強は大嫌いだけれども、好きな物の勉強は苦にならない。徹夜でもOK!で、基礎の勉強はまずは作ってみる事だと思ってAMAZONで探してみた。愛天堂にも1つ有るのだけれども、それは過去に作っている。2022年3月21日のブログである。愛天堂の金属探知機[AKIT-400B]を作りました。今回AMAZONの新しい金属探知機を見つけたので作ってみた。これである。何となく愛天堂の物に似ているけれど、大丈夫かなぁ?でも愛天堂のは四角だし、これは円形。でも形が違うだけかも?さっそく買ってみた。まぁ千円未満なので愛天堂のと同じでも良いか。すぐに届いた。開けて見たら中国製の物にしては珍しく、(中国語だけれども)説明書が入っていた。その中に回路図が有った。(上の写真の0.001µHと0.1µHは、それぞれ0.001mHと0.1mHの間違いです。)えー!愛天堂のと同じじゃん。まぁでもせっかく買ったのだから、何か一つだけでも有効活用しよう。そう思って、基板に作られたコイルを計ってみることにした。(上の写真の0.001µHと0.1µHは、それぞれ0.001mHと0.1mHの間違いです。)コイルの両端に写真のように差込口を付けてインダクタンスを計った。なお、コイルL1とL2の一端は共通でVDDにつながっているので差込端子は3つで良いのだが、L2はコンデンサー経由でQ1のベースにつながっている。このコンデンサーの足も差込口にすれば、コンデンサーを変えることが可能になり、共振周波数を変えることができる=もしかしたら周波数を変えれば性能UP?これを確かめられるなと思って、ここも差込端子にしたので4つ差込端子が有る。で計ってみたが、L1の方は小さすぎて僕の測定器では計れなかった。多分0.001mH位だと思う。それに対してL2の方は0.1µHで測定可能だった。(上の写真の0.1µHは0.1mHの間違いです。)L1とL2で1000倍も差があるんだ。L2からL1に正帰還(基盤の裏表にコイルを作ることによりうまく位相を反転している)して発振させているのだから、まぁ1:10くらいかなと思っていたら1:1000。奥が深いと思った。で、愛天堂と同じ回路だと言うのは悔しかったけれども、愛天堂の四角いコイルに対してこちらは丸いのは、効果が有るのか?気のせいかもしれないけれどこちらの方が感度が良い。それは検知するのがコイル部分の個々の銅線部分ではなくコイル全体で検知しているから、多分そうだと思う結果が出た。周辺部つまり銅線部分に金属を近づけても検知せず、中央に近づけると検知する。ニッパーを近づけて実験した。まずは周辺部。LEDがうっすらとしか点かない。ニッパーは接触しているのにである。次に中央部分に近づけてみた。中央部だと3cmくらい浮かしても検知する。つまり(銅線の無い)中央の方が検知能力が高い。多分磁力線なのか電気力線なのか不明だけれども、その密度が高い中央部が検知能力が高いのだ。次に検知する金属の大きさと検知能力を比較してみた。ニッパーよりも小さいドライバーを近づけてみる。まずは周辺部。大きな金属であるニッパーの場合はうっすらとLEDが点灯していたが、こちらは全く点かない。でも中央部に近づけると、ちゃんと点灯する。でも感度は低い。そして、面白いと思って半田(右上のくるくる巻いた半田)でもやってみたら、なんと鉄ではない半田でも検知した。これは意外な結果であり、僕的には「やったー!」と言う結果だった。つまり鉄製の剣ではなく、銅鏡や銅剣でも使えると言うことである。少し希望が出た。いずれコンデンサーを変えてみて周波数の違いによる検知能力の変化も調べよう。そして、コイルの大きさも変えてみよう。何故なら今回の重要な結果である「磁力線なのか電気力線なのか分からないけれど、その密度が高い部分が一番検知できる」ことが分かったので、密度を高くするには巻き数を増やすのが一番かもしれないから実験してみようと思ったから。周波数との関係でコイルの巻き数とコンデンサーの容量は反比例するはずなので、色々な組み合わせが有るはずだなと思う。せめて深さ30cmくらい検知可能な金属探知機を作りたいな。<後日追記>面白かったので、色々と実験してみた。まずは電源電圧を既存の3Vから6Vに上げてみた。周辺部では3Vの時と同様に反応しない。中央部に近づけてみる。3Vの時と大差ない。これは上の方で書いた2022年3月21日のブログでも愛天堂の金属探知機で実験したが、この時も12Vまで電源電圧を上げても発振出力は変わらず感度は変わらなかったので、だいたいそうかなとは思っていた。思うに単に電源電圧を変えても意味が無く、電源電圧を変えると同時にコイル1ターン当たりの電圧も変わるように巻き数を変える等して発振回路の定数を変えないと意味が無いのだと思う。次に半田でも反応したことから、「鉄以外の金属にも反応する」ことが分かったので銅で試した。銅鏡は持っていないので、マイクロ道鏡として10円玉で反応を見てみることにした。まずは周辺部。水分の多い人間の手でも関係するかもしれないので、紙の上に載せた。周辺部では反応なし。次に中央部でやってみた。ちゃんと検知する。つまりうまく作れば「銅鏡でも検知できる!」でもニッパーよりも検知する感度は低く、近づける為に紙を減らしてこの厚さで反応した。そしてやりながら気がついたのだが、ニッパーと10円玉では質量は違うのだが、面積はほぼ同じか10円玉が少し大きい。面積が同じだと言うことは磁力線なのか電気力線なのかは分からないが密度は同じはずである。つまり検知感度の差は金属の材質に影響されるみたいである。そしてついでに気がついたが、銅は磁界の影響は受けないはずなので、検知されると言うことは、この金属探知機は磁界ではなく電界つまり電気力線により検知しているということだ。うーん、色々と分かった。次は周波数の影響を見てみよう。コンデンサーを既存の222(2200pF)から102(1000pF)に変えてみる。高さにして約5mmほど感度が上がったような気がする。(目測なので気持ち)つまりコンデンサーの容量が減って周波数が上がったら感度が上がったみたいである。ちなみにやっていて気がついたが、感度調整用VRは右に回すほど感度が下がるので、LEDが『光る一歩手前」で止めるのだが、写真を見ると分かるようにコンデンサーが222の時よりもだいぶ左になり中央近くになっている。つまり検知感度が上がっているのが感度調整VRでも分かる。今度は逆に222(2200pF)から103(10000pF)に増やしてみる。もう金属を近づけなくてもLEDは点きっぱなし。感度調整VRは右いっぱいに回してもLEDは消えない。つまり検知する感度が低くなって使えない。次は222(2200pF)を471(470pF)にさらに減らしてみる。気持ちだけれどもさらに感度が上がったような気がする。しかし感度調整VRが一番左まで行ってしまい限界である。これ以上は使えない。何となく分かったのは発振周波数が効くようである。いや発振周波数なのだろうか?今はコイルを変えていないので分からないけれども、コイルとコンデンサーの組み合わせかも?一般的に同調回路はコイルのインピーダンスとコンデンサーのインピーダンスが一致する時に最高になる。つまり今は組み合わせがコンデンサーを少なくする方向で最高に近づいているだけかもしれない。但しこの金属探知機のコイルは基板の銅箔を利用しているのでコイルを変えることができず、コンデンサーを変えるにも限界がある様な気がする。うーんコイルも自作しなくては。
August 23, 2024
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ひさしぶりなので★AM/FM★2バンドラジオキット [K-ZX2051]を作ってみた。鳴らなかった。なので色々と調べてみた。すると、AMAZON等で売られている「ZX2051」と言う名前のラジオと少し違うのが分かった。恐らく改善を試みたのだろう。でも、その改善の段階でいくつかの誤りを犯して、裏目にでてしまい、その結果、せっかく優秀なラジオで、しかも安いのに鳴らなかったのだと思う。AMAZON等で売られているK-ZX2051は品質が悪いらしい。特にケースが最悪らしく、割れたとか閉まらないと言う不満がネット上にあふれている。また鳴らない人も多い。多分愛天堂はそれを見て、何とか改善しようと思ったのだろう。ケースの品質はそれなりに改善されている。でも、バリコンのダイヤルがケースの角穴に入らないと山さんが言っていた。そこで買って確かめてみた。組み立てている時に、その理由が分かった。AMAZON等で売られている機種とバーアンテナ及び基盤が違うのである。下の写真で比較する。これがどう影響するか?それが山さんの「バリコンのダイヤルがケースの角穴に合わない」だ。そう、ANAZONの場合はバーアンテナのフォルダーがバリコンと基板の間に挟まる。なのでケースはそれに合わせて穴を開けているが、愛天堂の場合はフォルダーが無く、その厚み分ダイヤルが下になる。なので合わない。じゃぁ何で愛天堂はそんなことをしたか?恐らくは感度と選択度を上げたかったのだと思う。明らかに愛天堂の方がANAZON版よりも品質が上である。Qの大きいコイルは特性が急峻で、そのせいで選択度が高く、選択度が高いと増幅率を上げられるので感度が高くなる。ただ、形状を変えたせいでフォルダーが無くなりケースと合わなくなったのである。なので、この点はバリコンと基板の間に厚紙等を挟んでやれば解決する。厚紙を挟みで切って作ればよいので簡単である。そしてこのバーアンテナの変更は肝心のラジオの機能にも影響する。インダクタンスが大きすぎて、バリコンとの組み合わせが合わず、高い方の周波数が1140kHz以上が聞こえない。上の写真の下の方に愛天堂は周波数とバーアンテナとバリコンの組み合わせを書いているが、これが間違いである。(この組み合わせは本バーアンテナとは別製品に記載)理想的なバリコン、バーアンテナ及び基盤とICなら理論上はこれでよいが、実際はバリコンの上にはトリマーがついており、通常は1/2くらい入っている。トラッキング調整の際に+側や-側に回すので1/2くらい入っているのである。基板の上には配線が走っているので、まぁコンデンサーの塊みたいなものである。ICやトランジスターは半導体なので電圧を加えると容量が発生する。これを利用したバリキャップと言う電圧で容量を変えてチューニングするダイオードがある。そんな感じなので、これらをバリコンの容量に加えなければならない。概ね15-20pF位だと思う。昔の職人的なハムの方は10pFの基板を設計したりしたらしいが。でも900µHの物しかないなら、それを使うしかない。フォルダーなら簡単に作れるが。ぼくは良く巻線をほどいて巻きなおすが、ちょっと面倒くさい。上の写真を見て思いついた。a-b間が660µHじゃん!写真を載せる。a-c間にバリコンをつなぐのが本来なんだけれども、ここは900µH。a-b間ならば660µHなので都合よい。じゃぁ記号を読み替えれば良いじゃん!a→c、b→a、c→bと読み替えて基板のa、b、cにつなげれば良いのじゃないか?巻き初めを基板のcに、タップをaにつなげればいいのである。そうすると何となくうまくいった。ただ、インピーダンス関係が元とは変わるので、最高の感度では無いかもしれない。でも、買い替えるよりはまし。<後日追記>上の読み替えは必然ではありません。要はコイルのa-bがバリコンに並列になれば良いので、他にもいくつかの組み合わせがあり、どれが最上かは実際にやってみるしかありません。その後AMAZON新バージョンを入手したら説明書が入っており、それをみて初めて理解しました。b-cをショートしてる!つまりa-b間の660µHだけしか使っていない、その手があったか!バーアンテナはこれで何とかなったが、実はOSCも変だった。受信範囲が狭く、下を520kHzに合わせると上はバーアンテナ同様に1100kHz位にしかならない。いや、もしかするとバーアンテナの受信周波数と合っているので、こういう受信周波数の国向け?よく分からないけれども僕は「ニッポン放送」が聞こえないラジオはラジオと認めない。松田好花ちゃんが聞けないではないか!調べてみたら、回路図の定数がSONY(ICの製造メーカー)のデータシートと違う。えー!SONYの回路だと、バーアンテナはやっぱり660(回路図上は650)µHじゃん!FMのコイルはSONYのデータシートの記載の方が巻き数が少ない。でもこれはSONYの方はアメリカ等海外向けで87-108MHz用なので巻き数が少ないのかも?それで日本向けに改造した結果かもしれないので、何とも言えない。ただOSC回路のC16は明らかに違うぞ!SONYは6PFでAMAZONや愛天堂は120pF。20倍も違う。そのせいなのか愛天堂のキットには120PFではなく、12PFが入っていた。間違いは間違いのままなんだけれども、121と120なら間違える可能性が有る。まぁこうなるとC16を色々な値に変えて「やってみるしかない」。ただC16は付けたり外したりするので、穴に通して半田付けすると基盤が壊れてしまう。なので穴は通さずに最寄りのバリコン等の足に直接仮半田付けする。愛天堂とAMAZONの違いが無いか基板を比較してみたが、あまり変わらない。愛天堂の基板にはバーアンテナを付けるスペースがあり、現在2つ穴が開いている。多分この2つの穴に付属のインシュロック(白い樹脂製の固定ひも)を差込み、基板をぐるーっと回してバーアンテナを固定するつもりだったのかもしれないが、それだとインシュロックが基盤とケースの間に挟まって干渉するので、僕はもう2つ穴を追加して、インシュロックが基板の外に出ないようにした。基板にはその他には大きな違いは見られないので、違いがあるとすれば部品の数値の違いなんだろうと思う。すると予想に反して120pFが正解だったみたい。と言うか僕は120pFが無く150pFを使った。すると520-1620は無理だけど、結構範囲が広がった。思うにSONYの指定するコイルとバリコンとはFM・AMともに全然違う物なんだろうと思う。このOSCコイルはそれに合っていないんじゃないだろうか?C16が150pFと言うのは通常の考えからすると変な数字なので、バリコンも怪しいけれど、むしろコイルが怪しいと思う。ちなみにOSC回路の発振状況の写真を載せる。まずは下の方。何とかNHKも入る。でもバーアンテナのせいで感度は低く南の部屋ならば大丈夫だが電波状況の悪い僕の部屋はダメ。次に上の方。ラジオ日本が入る。上の方は、僕がニッポン放送を中心にトラッキング調整するので結構入る。南の部屋は当然のこととして、電波状況の悪い僕の部屋でも入る。ここでふと思い出したことを書く。何も知らないで組み立てた人の半分は以下の理由で失敗するかもしれない。セラミックフィルターには方向性が有り、逆に付けてはいけない。逆に付けたことが無いので分からないが、Windous11のコパイロット(AIです)で調べると、特性が逆転するらしい。つまり通常は455kHzを通過するような特性になっているのが、455kHzを遮断するようになるらしい。それを確かめるのに必要な測定器を持っていないので、分からない。そんな感じで、ニッポン放送は十分に聞こえるラジオになったが、FMだけはどうしても分からない。元々このラジオは日本向けのラジオではない。ケースを見ても88-108MHzになっている。なので仕方ないのだけれども、周波数が違うだけならばコイルやコンデンサーを変えれば済む?そう思って色々とやったのだが、うまくいかない。実は気になるのが、このラジオはLEDがついており、これは最初はパイロットランプだと思っていたら、実はチューニングランプだった。普段は消えていて受信すると光る。それがAMではチューニングランプとして機能するのだが、FMでは付きっぱなしになる。何で?思うに何らかの接続か定数がおかしくて、発振状態になっているのかもしれない。(チューニングランプは何らかの信号が入って電圧が発生すると点灯する。 それがたとえ雑音でも一時的には点く。 ならば発振状態になって発振した電波で飽和しているならつきっぱなしになるかなと思った。)でも、それを確認する為の測定器を持っていない。なのでお手上げである。最後にこのバーアンテナの部品間違いや色々な誤りを愛天堂に怒ったら、ごめんなさい。確認が不足していましたと謝ってくれた。なので愛天堂は良心的なお店だと思う。安心してまた買い物ができる。
August 19, 2024
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7月12日に「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」を書いて、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」ではない)や天孫降臨について書き、邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?8月4日に「邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?その2」を書いて、「天岩戸伝説」も単なる伝説ではなく、過去の史実を大人の事情からぼかして書いたために、後世の人達が独自の解釈をしたせいであり得ない話になったと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その2僕がそう考えるのは、学者先生が古代の天皇家や諸豪族に対してあまりに失礼だからである。天皇が指示して始めた「国家事業」を当時の最高の頭脳達が時間をかけて完成したものが、そんなおとぎ話だと考える学者先生が信じられないからである。例えば令和の時代に天皇が新しい国史の編纂の指示をし、それを受けて岸田総理が編纂事業の為に委員会を設置し、委員長は麻生副総理、委員は文部科学大臣(立場的に副委員長)、外務大臣(他国に配布するのだから対外的な調整が必要)、国土交通大臣(諸国庶民と国土の記録所持者)や、財務大臣(事業の予算整理)と言うそうそうたる面々に、事務局として東大教授陣と京大教授陣が並んだ時に、「今南洋の方ではこんな神話が流行っているそうですから、この神話を載せましょう」と言うと、恐らくその場は凍りついて、発言者は二度と立ち直れないのではないだろうか?それなのに、学者先生達は神話の根拠を南洋諸島(ポリネシア)の昔話に求めたり、ギリシャ神話と比較してみたりしている。なんか真剣さが足らないと思う。まぁ夢が有るのは良いのかもしれないが。でも、上記の令和の国史編纂事業の際に、「フイリッピンにこんな神話があります。我が国の古代史に加えてはどうでしょう?」なんて東大の教授が言ったりしたら、麻生副総理は怒って立ち上がり出て行ってしまうだろう。まぁ、東大の教授は絶対にそんなことはしないので大丈夫だとは思うけれども。天武天皇や持統天皇の時代でも同じだと思う。なので、古事記や日本書紀に載せるに際しては当時の最高の頭脳達は、天皇家や諸家に伝わる話や、各地方から集めた話及び中国や朝鮮など他国の話を並べ、喧々諤々と議論したうえで編纂し、日本書紀の場合にはそれでも調整がつかないで「一書」と言う形での落とし所を見つけ、不満を述べる諸家をなだめる努力をしただろうと思う。何故なら一度国史として書かれてしまうと自家の歴史が定まってしまうからである。それまでは例えば蘇我氏と物部氏のように、諸家の間では争いが有ったはずであり、そもそもその事実を国史に載せて良いかどうかから議論が始まると思う。その結果、史実であっても「大人の事情」からぼかして神話の形を取ったのである。日本では後世になっても、例えば鳥羽僧正(今では彼の作とは疑われているが)の「鳥獣戯画」のように擬人化を行い、ストレートな描写をしない伝統があり、僕は根拠は無いがその伝統は古事記や日本書紀の時代に始まったのだと思っている。鳥獣戯画では草むらから出て来た蛇から逃げ惑うカエル達の姿が描かれたり、相撲を取ったり弓を射る姿が描かれている。例えば有名な場面で、走って逃げる猿の犯人と、それを追跡する兎・蛙の検非違使仰向けにひっくり返った蛙(喧嘩の被害者か)と心配して声をかける兎・蛙、「何ごとか」と振り向く狐の一家。こんな場面がある。これを皮肉と考えると、猿や蛙や兔や狐には、当時の人ならば「あいつのことだ」と分かるモデルがいたのでは?そう思うのである。単に滑稽な話ではないと思う。なので、古代の古事記や日本書紀を編纂した人達の名誉回復の為に、神話を現実的に解釈して、史実はどうだったのかを推理してみたのである。そう言う意味で今日は一つの仮説を書いてみる。ヤマト王権の時代には「部民制(べみんせい)」と言うのが有った。(「部民制」を持ち出すのはまずかったかも。 これを使うと分かりやすいので持ち出したけれど、 後世の部民制から起こった他の「部」とは違い、「物部」氏は相当に古くから有るし、 「八草の姓」や氏姓制度のからみで物部氏の位階からすると部民制の「部」は下位すぎて、 ツッコミ所満載になりそう。でも分かりやすいので使っている。 物部氏の場合はそれらの制度が発足するずーっと前の話なので不適切かもしれない。)王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。分かりやすい例を挙げると、矢をはじめとした武器を作る担当の氏族を「矢部」と名付け、占いや祀り事を行う担当の氏族を「卜部」、埴輪などを作る担当の部族を「土師部」と名付けている。では「物部」氏は何を担当していたのだろうか?よく物部氏は軍事を担当していたと言われている。でも蘇我氏に負けたじゃん?僕は多分、「物」を担当していたから物部氏と言われたんだろうと思う。これは後の世で言う「租(お米)と調(布等の特産物)」の徴収と保管である。つまり今でいう財務省。ただ、集めるのは強制力が必要(黙って納めはしない)だし、保管場所は警備が必要なので、現代で言う警察組織も持っていたと思う。なので、強力な軍事力も持っていたのだと思う。これは古代においても後世においても難しい話で、継体天皇の時代でも岩井は抵抗し、戦争になってしまい、岩井の息子は負けて争わないことを示す為に屯倉(天皇家直轄領)を差し出している。逆に構成では荘園がはこびり、寺社や貴族はその荘園から利益を得ている。いつの時代も「金」がすべてである。ここで気がつくのは「物」部氏の首領って、もしかして「大物主」では?だって名前がそのままだから。「物」部氏の「主(あるじ)」実はそれを思わせる古事記や日本書紀の記載が有る。物部氏の祖は「宇摩志麻遅(うましまじ)命」である。宇摩志麻遅(うましまじ)命は「ニギハヤヒ」の息子である。「ニギハヤヒ」は神武天皇よりも先に大和に来た人で、神武東征に際しては最初は彼の奥さんのお兄さんの「ナガスネヒコ」が神武天皇を撃退し、その後熊野に周って高倉下(タカクラジ)等の味方を得て大軍となった神武天皇に負けて、神武天皇の家来になった人(神?)である。うん?神武天皇の家来になった?一度は勝ったのに?もしかして神武天皇の家来になったと言うよりは和睦して臣下になった?なのでヤマト王権の最重要職である「財務大臣(現代風に言えば)になったのかも?そしてその息子の宇摩志麻遅(うましまじ)命はあとをつぎ、物部氏の世襲となった?そう考えると色々な秘密が解決する。蘇我氏と物部氏の争いである。従来は崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の争いが原因だと言われていたが、渋川廃寺跡が見つかり、これが元は物部守屋の別荘の跡で渋川寺が有ったらしいと分かり、物部氏が排仏派と言うのは現在では否定されている。但し、世の中の大人の世界では、表の話と裏の話は常にあり、要は蘇我氏と物部氏は政権を巡って争っており、仏教の受容はそのきっかけあるいは(直接軍事行動に出ると他の豪族の話もあるので)軍事行動に走る為の言い訳だったのだろうと思う。それで「聖徳太子が白膠木(ぬるで)に四天王を刻み、この像に願をかけて」勝ったとわざとらしく記録されているのだと思う。つまり現実的な話ではなく、仏様に助けてもらったことにしたのである。以後、物部氏はすたれていく。国衙ができて、地方からお金が国の役所に入る前はどうなっていたんだろう?もしかして根拠は無いが、神社や寺がその役目をしていたんじゃないだろうか?神社の神楽を見ていると「四方拝」と言い、弓矢や剣で舞う。何で仏教では(生き物に優しくするはずなのに)みんな武装して怖い顔をしているんだろう?仏敵がいると言うのならば、ありがたいお経で改心させれば良いではないか?高野山には僧兵がいるし、宇佐八幡宮には神兵がいる。もしかして寺や神社は昔のお役所で税金を取って、百姓達を黙らせていた?Wikiの「寺」を見るとこう書いている。「寺(じ)」は、「役所・官舎」の意。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。もしそうならば、物部氏は神社組織を使って地方から税を集めており、蘇我氏は、神社組織を廃止し、新たに自分に従う「寺組織」を作って物部氏から政権(と言うか税金徴収機能?)を奪い、日本を自分の物にしようとしたのではないだろうか?それが物部氏と蘇我氏の戦いでは?話は戻って、ニギハヤヒ及びその子の宇摩志麻遅(うましまじ)命が「大物主」ならば、古事記や日本書紀の神話が一つ史実になる。そう、大物主は三輪山に祀られた神様で箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の旦那さんである。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の娘さんである。えー!じゃぁ物部氏は天皇の娘さんをお嫁さんにもらえる立場だったの?そうなんである。箸墓のすぐ近くの「纏向遺跡」はかっては「大田遺跡」と呼ばれていた。でもちょっと離れた所にある垂仁天皇の纒向珠城(たまき)宮がここに有ったと言うことで、今では纏向遺跡と呼ばれている。でも垂仁天皇陵は奈良の尼ヶ辻に有って、桜井市の纏向遺跡から相当に遠いんだよね。僕は垂仁天皇にはたくさんの秘密が有り、纒向珠城宮はその秘密のせいでここに有った?そう思っている。だって都とお墓が離れすぎ。ただ崇神天皇のお墓は近いので、崇神天皇はこの辺に有ったのだと思う。大田遺跡はここに大田田根子が住んでいたからであり、大田田根子は崇神天皇と箸墓の主の倭迹迹日百襲姫命の夢及び占いにより、大物主を祀る為にここに住んだのである。もう、匂いがぷんぷんするけれども、要は大物主=物部氏の首領ならば、それを祀る大田田根子は物部氏縁故の人では?(夢や占いでは大田田根子は大物主の子と言うことになっている)と言うことは纏向は物部氏の里で、垂仁天皇にも何らかの関係が有った?(例えば平安京は秦氏が土地の提供等により推進したらしいので)物部氏が垂仁天皇の為に纏向に都を造った?そう考えると、物部氏(大物主)と崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命の関係がすっきりとし、箸墓の伝説や物部氏の大和政権の中の立ち位置が分かり、古事記や日本書紀の内容が信憑性を持ってくるような気がする。違うかなぁ?ニギハヤヒ=物部氏の祖先で物部氏の首領=大物主命筋が通っていると思うけど。<後日追記>誤解を招く恐れが有るので追記。物部氏は「氏姓制度」上は「連」です。しかし「斎部連」が「斎(ものいみ、いつき)」を担当する「部」であって「連」とされたように、「物部連」も「物」を担当する「部」であって連となったのではないか、つまり氏姓制度や部民制が確立する前から、「部」と言う概念が有ったと考えて書いています。それで「部」が付くのに「連」と言う感じになっているのだと思います。例えば他にも「土師部」も後世には「土師臣」となり「臣」になっています。部民に関しては、日本の官司の原型はヤマト王権(大和朝廷)の行政事務を複数の伴造が分掌して、部民を動員・管理して業務を遂行した組織体であったと考えられている。その後、部民を管理して行政事務の実務を遂行する官人組織が伴部の下に形成されたとされ、いわゆる部民制が「物部」の「部」になったのではないけれども、つまり「部」及び「民」の概念が後世の「お役人」の立場とは違うけれども、まとまりと言う意味で(血縁ではない人も併せて)一つの種族としてとらえたと考え、分かりやすいから使っても良いか?と言う感じで、「物部」の「部」を部民制の「部」と同じような感覚で使っている。部民制で説明すると、例えば時代が違うと血縁集団と職業集団で違うとか、誤解を与えるのであまり適切ではないかもしれないが、一番分かりやすいので、これで説明した。海外でも、この「部」と似たような話はあって、例えば「カーペンター」は大工さんだし、ブッチャーは肉屋だし、フォスターは刃物職人だし、ポッターは陶芸家だし、スミスは鍛冶屋なので、日本同様に昔から、はじめは血縁で相伝、そのうちに多人数になって職業集団となり、その職業が名前になって行ったのかもしれない。
August 11, 2024
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2024年7月12日のブログ「邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は単なる神話なのか?」で、「稻羽之素菟」(「因幡の白兎」とは書かれていない)は神話だけれども、単なるおとぎ話ではなく、史実に基づく話を「大人の事情」のせいで神話にしたと書いた。また「天孫降臨」や「海幸彦と山幸彦」も単なる神話ではなく、実際に有った話を「大人の事情」のせいで神話にしたと書いた。邪馬台国はどこにあったか(その56)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?特に最後に書いた(古事記や日本書紀ではないが)出雲国風土記の「国引き神話」は、僕自身も、かっては単なる神話だと思っていたものが、2024年の能登地震の経験から、実は地震に伴う土地隆起による島根半島の成立(元は島だったのが隆起で半島になった)が、科学的知識の無かった昔の人の経験を元に語られた実話が神話になったのものと分かった。今回、8月1日にわの会の講義で知った「鶴岡八幡宮の御神楽」で舞われる「人長舞」から、「古代において鏡がどのように使われたか」が想像でき、それが僕の想像通りならば、古事記や日本書紀における「天岩戸」も単なる神話ではなく、古代に実際に卑弥呼等が行っていた祭祀が古事記や日本書紀に書かれたものなのでは?そう思われるようになったので書く。そもそも「天岩戸」伝説を現実のこととして考える人は、邪馬台国の卑弥呼=天照大御神だと考えて、その根拠としてこれを語る人が多い。天岩戸伝説を「日食」で天照大御神=太陽が隠れたことに重ね合わせて考える人達である。単純に考えればありそうな話だけれども、偶然による部分が多すぎて、ちょっと成立しづらいかなと僕は思う。それは天岩戸伝説では、単に天照大御神が岩戸に隠れたと言う話だけではなく、その時にアメノウズメが踊った話や、八咫鏡を作ったり八尺瓊勾玉を準備しているからである。これ(準備)って天照大御神が岩戸に隠れてから始めたんだよなと思う。日食は長くても1時間くらいしか続かないので暗くなってからでは間に合わないのでは?「お日様が隠れて暗くなってしまった」とあわてふためいて、右往左往する中で、人を集めるだけでも、その位の時間は経ってしまうのでは?そうでなければ事前に「この日のこの時間に日食が有る」と言う情報を持っていないと無理?つまり日食を天照大御神が岩戸に隠れたと考えることの可能性はあるけれど、古事記や日本書紀に書かれたような踊りや儀式は説明できないのでは?なので無理が有ると思う。では僕はどう考えるか。その説明の前に、そもそも「卑弥呼は鏡をどのように使ったのか?」を考えるべきだと思う。これは三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏の皇帝からもらった鏡だと考える人達の主張とも関連する。この人達は卑弥呼が鏡をどのように扱ったと思っているのだろうか?魏志倭人伝にはこう書いている。(原文)前略 銅鏡百枚 途中略 以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也(意訳)(前略)銅鏡百枚を与える。(途中略)汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。銅鏡は百枚与えられており、それを国中の人達に見せなさい。そしてそれにより魏の国が汝(卑弥呼)を支持していることを周知しなさい。そう言っているのである。この文から分かるのは、100枚ももらっていることと、卑弥呼がそれをよく使っていたこと。まず、単なる装飾品ならば100枚はいらない。現代のお金持ちがカルチェの時計を100個持っているのとはわけが違う。そんなことをしても、相手国は「じゃぁ滅ぼして奪ってやろう」と思うだけである。じゃぁ自国民に(私は偉いし魏が味方なんだよ」と見せる為か?この場合も同じで100枚はいらない。100枚並べても5枚でも効果は同じだし、相手国は「じゃぁ滅ぼして奪ってやろう」と思うだけ。じゃぁ100枚にはどのような意味があるか?ここまでは今までの学者先生も同じように考えている。戦争に際して、どちらにつこうかと迷っている国や、味方になりそうな国に渡す為である。渡された国はどちらについた方が有利か、魏が卑弥呼に味方しているのならと考える。なので有効であるから(味方になる国が多いので)枚数は多い方が良いのである。あるいは寝返ってこちらにつきそうな国に渡すのも良いだろう。つまり威信材なら多い方が良いのである。ここでちゃんとものを考える人ならばすぐに気がつくと思う。え?渡しちゃったら卑弥呼の手元には無くなる?あるいはちょっとしか残らない?そうなんである。つまりもし三角縁神獣鏡が魏から渡された鏡ならば、邪馬台国にはあまり残らない、むしろ邪馬台国以外の国から見つかるはずなのである。相手国に渡すのだから。つまり近畿には邪馬台国は無いはずなのである。次に卑弥呼が良く使っていたと言うのは、どのようにして使ったのだろう?これは渡された相手国の使い方にも関係すると思う。渡された相手国の王は卑弥呼と同じ使い方をしていたんだろうと思う。ではどのような使い方?これが最初に書いた、8月1日のわの会で「やっぱりそうだったのか」と思った使い方である。卑弥呼は、もしかすると天照大御神は太陽神の使いであったと思う。彼女達、日の巫女は必ず「神降ろし」を行う。そして神懸った状態で御神託を扱う。それ故に民衆は日の巫女を大事に扱うのである。では「神降ろし」とはどうやるか?僕はずーっと「鏡を使って太陽を反射させ、あたかも天の太陽が鏡に乗り移った」かのように日の巫女の胸に掛けた鏡を利用したのだと思う。卑弥呼から鏡を受け取る際に、受け取った国の巫女達もそのノウハウを受け継いだだろう。もしかすると、卑弥呼はそのノウハウを持った巫女を付けて相手国に送ったかもしれない。相手国の王は、自国民を(武力を使わずに)従えられるので重宝したと思う。国を治める際に、武力で治めるのはもろ刃の剣なのである。自分よりも強い男が出てきたら、娘を与えて身内にするか、自分が強くなるしかない。いわゆる力持ちのインフレーションが起こり、マンガでよくある様に、主人公は際限なく強くなるしかないので大変なんである。王の地位を「神が与えた」とか、強い(自分達の国が従っている)国に与えられたと言うのが、一番無難な方法で、世襲で王位をつなぎやすい。なので、多くの国は(お互いに利益が有るので)友好関係がまとまる。100枚の鏡はその為に使われたのだと思う。僕は今までそう考えていたんだけれども、その裏付けがなかった。ところが8月1日のわの会の講義で「鶴岡八幡宮の御神楽における人長舞」を知って、「やっぱりそうだったんだ」と確信した。人長(にんじょう)とは御神楽の儀を奉仕する神楽人の長で、進行を司る人。吾妻鏡の中で、頼朝が京都から神楽人を招いて、鎌倉に普及させたと言う記事が有り、それは現代に至るまで鶴岡八幡宮に伝わっている。鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭で行われる神楽の中で、人長は最初に神を降ろす。一般の神社で行われる神楽(里神楽)とは違い、人長が舞(人長舞)を舞うこの神楽は「御神楽」で、元は宮中で行われていた。その由来は天岩戸の前でアメノウズメが踊った舞になぞらえている。御神楽は「本役(神迎え)」、「中役(神遊び)」、「後役(神送り)」の3つからなり、15の曲からなる組曲で、そのうちの「早韓神」と「其駒」の時のみに人長舞が行われる。手に持つ榊には、「グミの木の枝」を円い輪の形に折り曲げた上に胡粉が塗られた「鏡の輪」が結び付けられ、これを「日の御像(みかた)」とか「八咫鏡(やたのかがみ)」の形と伝えられている。非常に神聖な物で、神鏡を表していると伝えられているらしい。これは今では宮中だけではなく八坂神社などでも行われている。ネットで探すとこんな写真が見つかる。ちょっとお借りする。これが「神降ろし」である。人長が持つ榊に白い輪がついており、これが八咫鏡を模している。つまり宮中には「鏡を使って髪を降ろす」ことが伝わっていたのである。宮中にそれが伝わっていると言う事は、天皇家の祖先の天照大御神もそうしていたのである。ここまで来ると、天岩戸の神話も現実的な話だったと分かる。天照大御神が天岩戸から出てくる際に、その前には榊に差した鏡が有るからである。古事記の該当部分を引用する。(原文)故於是天照大御神見畏開天石屋戶而刺許母理坐也爾高天原皆暗華原中國悉閣因此而常夜往於是萬神之聲者狹蠅那須滿萬妖悉發是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思(意訳)天照大御神はそれを見て恐れ、天石屋の戸(天岩戸)を開き立てこもってしまいました。すると高天原は皆暗く葦原中国(日本のこと)はみんな暗くなり、常夜になってしまいました。そして、たくさんの神の声がざわめき満ち、たくさんの妖気がそこらじゅうに発せられました。そこで、八百万の神は天安河の河原に集まり、その中で高御産巣日神の子である思会神に(対策を)考えていただきました。上の方に書いたように、もしこれが日食であれば、こんだけ混乱しているので、続いて書かれているように三種の神器を作って祀ったり占い(御神託)の準備などできない?(原文)集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵而求鍛人天津麻羅而科伊斯許理度賣命令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉命而內拔天香山之眞男鹿之肩拔而(意訳)思会神の指示に従って常世長鳴島を集めて鳴かせ、天安河の川上の天堅石(天上にある硬い石)を採ってきて天金山(天上の金山)から鉄を採取して、鍛冶をしていただくために天津麻羅の神(鉄人=鍛冶の神)を探してきて、伊斯許理(いしきり)度賣命にお願いして鏡=八咫镜を作らせ、玉祖命にお願いして八尺瓊勾玉これは五百津之御須麻流之珠を作らせました。また、天児屋命布刀(ふと)玉命を呼んで、天香山の真男鹿(牡鹿)の肩甲骨(昔は骨を焼いて占いをした)と天香山の波波迎(ウワミズザクラ)で占いの準備を始めました。ここで分かるように、天照大御神をおびき出すと言いながら、実は3種の神器を作っている。日食だと言い張る学者先生はこれを何と考えるのだろう?神話では天照大御神の姿を写す為としているが、八尺瓊勾玉は何に使ったのか?これは素戔嗚命のオロチ退治前なのであめのむらくもの剣はまだない。つまり、この記述は「三種の神器の由来」を書いているのだと思う。そこで気がつくのは「三種の神器」とは何か?また何の時に使うのか?それは天皇の象徴であり、皇位継承の際に使われるものである。(剣はまだない)もしかすると、天岩戸の神話は皇位継承の由来を書いているのでは?そして八咫镜が「神降ろし」に使われるのであれば、「三種の神器」の中の鏡は皇位継承の儀式の始まりに於いて、神が立ち会う為に、神降ろしをする為に使われるのでは?そしてそれが今でも「御神楽における人長舞」の中に残っているのでは?そう思うのである。え?天岩戸の神話は皇位継承の史実が「大人の事情」で神話になったものなの?僕はそう思うのである。日食なんかではない。天岩戸は亡くなった卑弥呼を祀る墓の石室のフタのことなんだと思う。そしてアメノウズメの舞や神々の宴会はその殯(もがり)の様子であり、天照大御神が天岩戸から出てくるのは、卑弥呼そっくりだった(魏志倭人伝には卑弥呼の宗女=親戚の娘と書いている)壱与であり、人々は卑弥呼の若い頃にそっくりな壱与が石室の中から出てくるのを見て、天照大御神が再び現れたと思ったのである。つまり天岩戸伝説は卑弥呼が亡くなって、そのあとを壱与がスムーズに引き継いだ儀式の記録が、天岩戸神話として後世に伝わったものだと思うのである。そうしないと(国中が王位を求めた男達であふれて乱れるから)思会神は仕組んだのである。で、それが「大人の事情」で神話になったんだと思う。非常に現実的で、夢を壊して申し訳ないが、こう考えると全てのつじつまが合い、天照大御神は卑弥呼と同一人物ではないかもしれないが、(僕は邪馬台国=宮崎県小林市説なので同一人物だと思っているけれども)古事記や日本書紀は正しく日本の歴史を記しており、それは中国の史書である魏志倭人伝につながっているのだと思う。魏志倭人伝も古事記も日本書紀もちゃんと史実を書いているのだと思う。ただ「大人の事情」でちょっと脚色しているだけだと思う。<後日追記>ここまで書くと、じゃぁ三角縁神獣鏡は何なんだ?と言う疑問がわくに違いないので、根拠は薄いが、僕の推理を書く。上に書いたように鏡の使い方が日の神(太陽神)を鏡の中に降ろすこと、つまり卑弥呼や天照大御神が御神託を得る為に神を降ろしたり、また王位継承の際に神に立ち会って頂く為に、神を降ろすものだとしたら、三角縁神獣鏡はあまりにも小さい。神を降ろして民衆にアピールするには、やはり八咫鏡のように八咫(約46cm)くらいの大きさが必要である。では三角縁神獣鏡は何か?神降ろしには使うのだけれども、民衆に見せる目的ではないのだと思う。ではどんな目的か?これは学者先生方の言う通り、降ろした神の神聖な力による破邪が目的だと思う。つまり卑弥呼の鏡の応用で、鏡に神を降ろして、邪悪なものを退けるのである。その良い例が、三角縁神獣鏡を有名にした黒塚古墳である。発掘調査された黒塚古墳の石室はこんな感じ。中央に棺が置かれていたようだが、三角縁神獣鏡はばらまかれていた。そして枕元には一枚の画文帯神獣鏡が置かれていた。つまり被葬者にとって大事だったのは「画文帯神獣鏡」であり、三角縁神獣鏡は被葬者を邪悪なものから守る為の鏡だったのである。恐らくこの三角縁神獣鏡には巫女が神降ろしを行って日の神を宿し、その霊力によって被葬者が守られると信じられていたのだろうと推測される。(もちろん霊力と言うのは現代人にとっては迷信だけれども、 他に手段がなく、まだ神秘的な力を信じていた古代人にとっては強力な力だった。)鏡の使われ方を考えれば、誰にでも分かる事だろうと思う。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ならば、魏の皇帝から贈られた鏡がここだけで1/3も使われ、魏の皇帝の言うような効果が無く、意味の無いものになってしまうだろう。つまり結論として卑弥呼の鏡は、御神託の際の神降ろしの為の鏡であり、また王位継承の際に立ち会って頂く神を降ろす為の鏡であり、元は卑弥呼の後ろに魏の皇帝がいると示すのが目的だったのが、この王位継承をスムーズに行えると言うメリットが他国の王族にも支持されて、そして(天岩戸でそれが実証されたので)邪馬台国連合の連携のシンボルとして広まった。これが卑弥呼の鏡の真相だと思う。なおこの王位継承をスムーズに行えると言うメリットが他国の王族にも支持されて、連携のシンボルとして広まったと言うのは前方後円墳も同じである。単に死者を祀るのが目的ならば、円墳でも方墳でも形状にこだわりは無いと思う。各国の王族にもメリットがあるので、ヤマト王権のシンボルとして広まったのだと思う。円墳部分に死者を祀り、本来死者を祀る儀式を行っていた造出が「王位継承のイベントの場」に変化して大きくなり、方墳部として巨大化したのが前方後円墳だと思う。ただ、律令制が進み、地方支配の人事権が朝廷に移って行った為に、「王位継承のイベントの場」の役割が朝廷にとっては邪魔になったので、前方後円墳の方墳部は小さく制限されて、最後は無くなったのだと思う。邪馬台国はどこにあったか(その28)前方後円墳とは
August 4, 2024
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8月1日はわの会だったんだけれども、暑いので金沢公会堂で鎌倉ガイド協会の松林先生の講義を聞いた。鎌倉は寺や神社が多く、たくさんの祭や行事が行われるのだけれども、そのうちの代表的で面白い祭と行事として、1.龍口寺(腰越):9月12日~14日の法難会2.御霊神社(坂ノ下)の例祭:9月18日で行われる鎌倉神楽、面掛行列3.光明寺(材木座):10月12日~14日(令和5年)の十夜法要4.鶴岡八幡宮(雪の下):12月16日の御鎮座記念祭5.長勝寺:2月11日の大国祷会成満祭祈を説明して頂いた。でも僕は罰当たりなので、お寺の教義や権威には興味が無いので、最初は聞かないで帰ろうかと思ったのだけれども、聞いてみて良かった。いくつか「そうだったのか」と思う良い話が聞けたから。なので、それを書いてみる。1.龍口寺の法難会は「ぼたもち供養」として知られる面白いお祭り。境内には露店が建ち並び、万灯が奉安され、法要が終わると名物の「ご難ぼたもち」(難除けぼたもち)が堂内にまかれます。いやー、VTRを見ていると本当にまいている。これは龍口寺の成立に関係があるお祭り。鎌倉時代に日蓮は幕府に逆らって、また他の仏教の宗派の悪口を言って恨みを買い、幕府に捕まって龍ノ口刑場へ処刑の為に護送されるが、その途中でお婆さんがゴマ入りのぼたもちを差し上げたらしい。そして処刑の時に不思議な光がさして、恐れた処刑人が処刑をやめ、日蓮は処刑を免れた、その処刑場がこの地に有ったらしい。龍口寺はその跡地に建てられた日蓮の広めた浄土宗のお寺。そのことから、この日にばらまかれるぼたもちを頂くと日蓮の御利益にあずかれると言う話。そうだったのか。でも九州出身の僕に言わせると、秋は「おはぎ」で初夏に食べるのが「ぼたもち」では?そう思ってしまう。罰当たりかなぁ?まぁそれはそれとして、お祭りでおぉー!っと思ったのが万灯の奉安とまといの舞。万灯は、これってお盆だなぁと思う万灯。ネットから写真をお借りした。手前のお兄さんがぶん回しているのがまとい。でも何で「まとい」?2.御霊神社の鎌倉神楽、面掛行列(めんかけぎょうれつ)も面白かった。何が面白かったかと言うと面掛行列の面々。これもネットから写真をお借りする。上の写真左が有名な阿亀さん。下の写真の皆さんもユニークなお顔です。面掛行列は元々は鶴岡八幡宮の放生会で坂ノ下村の人々が行っていたのが明治以降廃れてしまい、それが御霊神社に引き継がれたものだそうで、行列の中には「白旗」を持った氏子もおり、源頼朝公ゆかりのお祭り(僕調べ)なのだそうです。なので「阿亀」さんは頼朝が浮気したあのお亀さん?(根拠はなく僕の勝手な推理)なのかも?なお鎌倉神楽は富岡八幡宮と同じなので略。3.光明寺の十夜法要は伝統のある古式ゆかしく格調の高い法要で、あちこちの修業僧が集まるものなのだけれども、僕にはあまり興味がわかないので略。4.鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭はものすごく盛大なお祭りなのだけれども、ただそれだけなので略。ただ、その中でものすごく僕の興味を引くものが有った。それは人長が行う「神降ろし」人長(にんじょう)とは御神楽の儀を奉仕する神楽人の長で、進行を司る人。吾妻鏡の中で、頼朝が京都から神楽人を招いて、鎌倉に普及させたと言う記事が有り、今回「そうなのか」と思ってしまった。この鶴岡八幡宮の御鎮座記念祭で行われる神楽の中で、人長は最初に神を降ろす。一般の神社で行われる神楽(里神楽)とは違い、人長が舞(人長舞)を舞うこの神楽は「御神楽」で、元は宮中で行われていた。その由来は天岩戸の前でアメノウズメが踊った舞になぞらえている。御神楽は「本役(神迎え)」、「中役(神遊び)」、「後役(神送り)」の3つからなり、15の曲からなる組曲で、そのうちの「早韓神」と「其駒」の時のみに人長舞が行われる。手に持つ榊には、「グミの木の枝」を円い輪の形に折り曲げた上に胡粉が塗られた「鏡の輪」が結び付けられ、これを「日の御像(みかた)」とか「八咫鏡(やたのかがみ)」の形と伝えられている。非常に神聖な物で、神鏡を表していると伝えられているらしい。ネットから写真をお借りして載せる。(八坂神社HPより)おぉー!やっぱりと思った。卑弥呼の鏡じゃん。何故神社には鏡が祀られているかと言うと、天照大御神が「これを私だと思って枕元に置きなさい」と言った、つまり鏡は天照大御神を象徴するものだからなんだけれども、何故そうなったかと言うと、僕は昔は神に使える乙女が、民衆の前で胸元に鏡を持ち、鏡に映った太陽があたかも巫女に乗り移ったかのように見えることから始まったと思っており、これが神降ろしの始まりだと思っているからである。つまり卑弥呼が鏡を大事なものとしたのは、民衆の前で自身に(鏡に太陽を映すことにより)太陽神が乗り移ったと言う演技をする為で、そのせいで(多くの民衆から見えるように)八咫(鏡の寸法で約46cm)鏡の大きさになり、それ(神を鏡に降ろす)が御神楽にも伝わったのだろうと思う。卑弥呼の行う「神降ろし」の儀式に集まった数千に及ぶ人達は、卑弥呼の胸元に掲げられた大きな鏡に反射する太陽の光を見て、卑弥呼に太陽神が乗り移ったのを目の当たりにして、恐れおののき、その後に卑弥呼が大きな声で述べる御神託を聞き、それに従わなければいけないと感じたのではなかろうか?この「鏡=太陽を映して太陽神を巫女に降ろしたように見せる」と言うのは、学者の先生方は誰も言わないけれど、僕は昔からそうなんだと思っていたので、今回、それが(何故か鶴岡八幡宮の神楽で)証明されたと思った。なので、おぉー!やっぱりと思ったのである。なお、付け加えて言うならば鏡を神降ろしに使ったのは民衆の前だけではない。古事記の天岩戸の出来事の際には、卑弥呼を天岩戸から引き出す為に三種神器を作る。(天岩戸の時代にはまだ須佐之男命は八岐大蛇を退治していないので実際は2種の神器)僕はこれが三種の神器の由来で、天皇家が皇位の継承を行うに際して三種の神器を必要とするのは、皇位の継承に際して神を降ろし、立ち会っていただくためだと考えている。それが人長舞の神降ろしの儀式として宮中に残っているのだと思っている。邪馬台国はどこにあったか(その57)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その25.の長勝寺の大国祷会成満祭は「世界平和」と「除厄開運」を願う立派な祈祷で、日蓮宗の中山法華経寺で100日間の寒の大荒行を達成した修行僧たちが、出身の寺に帰り、檀信徒・寺の関係者に成満を報告する物なのだそうだけれども、ただそれだけで面白くないので、罰当たりな僕は略。講義はなかなか為になるものだったけれども、僕にとっては特に「神降ろし」が大事だった。一つ自分の考え(古代の鏡の使われ方)に自信が持てて良かったと思った。
August 4, 2024
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今日はうれしかった。多分この一年で一番。ちょっと無理して買ったパソコン(電源が入らない)が修理できたから。難しかった。一週間もかかった。ヤフオクで買ったこんなパソコンです。(写真には8コア8スレッドと書いてあるけれども4コア8スレッドの間違い)送料を加えると4千円近くになるので、僕のお小遣いの上限に近い。売ってくれた会社は、多分技術員がおらず自分で修理できない会社だと思うのだけれども、ここで買うと安い代わりにコネクターが壊れているとかケーブルが外れていることが多い。どうも内部のメモリーやSSD(HDDを含む)を外して別売りにするように、会社から指示されて無理して外す際に壊したり忘れるようである。過去にバッテリーのコネクターが壊れていたりマザーボードのケーブルが外れていたことがあり、そのせいで電源が入らなかったり、起動しなくなっている場合があった。なので、僕ら貧乏で内部をいじくるのが好きなオジサンは大好きな会社。故障しているから外すのか、外す際に壊すのか微妙で分からないけれども、動いているパソコンのメモリーやSSDを外して別売りしてもうけようと考えているならば、バカだなぁと思うし、そのお陰でちょっと修理するだけで直せるならお得だと思う。まぁ故障しているから外すのならば、それは正しいと思うのだけれども。今回のパソコンは壊れていた。だからメモリーやSSDは外して別売りするのは正しい。そしてそれを僕らが修理して遊ぶのは、この値段ならば、まぁありかなと思う。修理の為に分解してみると、電源が入らないのはまずヒューズが切れていたからだった。なのでまずはこれを修理した。でもこの手の表面実装型のヒューズは記号しか記されておらず定格電流が分からない。「N」と記されているので、いくつかのメーカーの物ならば2A。別のメーカーの物ならば5A。えー!どちらだろう?裏ブタを見ると、定格は19V,2.63Aと書いている。通常ヒューズは定格電流の2倍を目安に考えるけれども、2.63X2=5.26A5Aも超えている。ヒューズは通常5Aの上は10A。ヒューズなので切れなければただの導体。仕方ないので手持ちの10Aを使うことにした。元のヒューズを外そうかと思ったけれども、すぐ隣にファンが有って高さが高く、ヒューズの上部に余裕がある。うーん既存のヒューズに「おんぶ」するか?それでも高さ的には大丈夫だろう。さっそく実行。おんぶしても右下に見えるファンよりも高さが低いのでOK.この状態で電源側から見たインピーダンスを計ってみた。(実際にはテスターなので抵抗値)ショートしている。つまりどこかでショートしているのでヒューズが飛んだのだ。ノートパソコンの場合は、ACアダプターからの19~20Vの直流を、DC-DCコンバーターで降圧して、目的の電圧を得ている。概ねこんな回路。見ると分かるように元の19~20Vの直流をスイッチングして目的の電圧を得ている。出力電圧はスイッチングのタイミング(デューティ比=オンとオフの時間割合)で決まる。オンの時間が長いほど高い出力電圧が得られる。回路を見ると分かるように入力側と出力側に2個一組のコンデンサーがついている。オーディオアンプ等の電源では平滑用に大容量の電解コンデンサーを使うが、スイッチング電源の場合は周波数が高い方が効率が良いので、導体をぐるぐる巻きにした電解コンデンサーは、高い周波数では「ぐるぐる巻きにした導体」はコイルに等しいので使えない。高い周波数では電解コンデンサーは大きなコイルと抵抗とみなせる状態になるのである。なので通常スイッチング電源では積層型セラミックコンデンサーを使う。しかも通常1個単体ではなく2個(場合によっては3,4個)を並列にして使う。2個並列と言うとバックアップ(どちらかが切れても他方が残っている)を思い浮かべるが、容量的には確かにそうなので、コンデンサーが1/2の容量で済むと言う利点はあるが、実際にはコンデンサーの故障は短絡(ショート)が多いので、2個並列は危険率が2倍になるだけなので、多分バックアップが目的ではないと僕は想像する。恐らくはESR(コンデンサーの抵抗分)を1/2にするのが目的なのではないかと思う。パソコンの電源故障はコンデンサーの不良が圧倒的に多く、自作パソコンをやっている人ならば、昔台湾製のコンデンサーの不良率が高く、日本製のコンデンサーを売りにしたマザーボードを売っていたことを思い出すだろう。確かその後は「固体コンデンサー」を売り文句にしていたはずだ。あれは電解コンデンサーの大きさを小さくする目的もあるが、電解液の経年劣化を防ぐと言う目的の方が大きかった。なので、ノートパソコンでは電解コンデンサーは滅多に使わない。上のDC-DCコンバーターの19Vラインにつながっているコンデンサーが故障すると、そもそも19Vラインがショートしているので、ここにつながっているコンデンサーはテスターで計るとどれもショートしているように見える。実際は1個なんだけれども、みんな並列なのでどれが故障したコンデンサーなのかは分からない。お金持ち及びプロならば、インピーダンスメーターやラインテスターで調べるけれども、僕等にそんなお金は無い。なので手当たり次第に外して調べるしかない。さっそくやってみた。その結果、予想は当たり、19Vラインにつながる多数のコンデンサーの内の1個が不良だった。それを取り換えると治った。文字で書くと「それを取り換えると治った」の一行だけれども、1週間かかった。上の写真を見れば理由が分かる。狭くて細かいのである。年寄りなので、ピンセットで挟んだコンデンサーがパチンとはじけて飛ぶとおしまい。力が入って手が滑ると隣の部品が壊れておしまい。若い人ならばなんでもないと思う。でも年寄りなので、ルーペで見ながらピンセットで押さえて半田付けするのは大変である。基板は銅を張り付けているので熱容量が大きく、予熱を与えにくいので半田が乗らない。溶けた半田が基板には付かずに丸くなってその辺を転がる。かと思うと突然溶けてつかなくてもいい所についてショートする。新しいコンデンサーを付けようと熱を加えすぎるとせっかく付けた前のコンデンサーが外れる。ルーペに半田ごてがくっついてイヤな匂いがして何度も溶けた。実はヒートガン(ドライヤーの親分みたいな300度を超える熱風を出す機械)を使えば簡単。でも理想を言えば400度近い温度のヒートガンは何万円もする。安いのは使えない。なので、2300円のノートパソコンの修理に数万円の工具を買うのはナンセンスなので、頑張るしかないのである。YOUTUBEなんかで見ると、お金持ちの人は拡大鏡で拡大しながらヒートガンで半田付けする。すごく簡単そうに見える。でもそれは拡大鏡やヒートガンを買う経済的に余裕の有る人の話。貧乏な年寄りには根性しかない。まぁそれでも1週間かけて、何十回もやり直して修理は完了した。で、Windows11を導入してベンチマークソフトを動かしたが、特に問題なく完走。Finalrealityの最後の方の場面。テーブルの上部で宙に浮いた十字型のモニュメントが格好いい。修理がうまくいってうれしかった。ビールがうまい!
August 3, 2024
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