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今日、本を読んでいて驚いたんだけど、いまだに魏志倭人伝には倭国には奴国が2つ有ったんだと言う学者先生がいるんですね。どうして学者先生って常識が無いんだろう?例えば北朝鮮と韓国が、両方「うちが本家の韓国だ」と主張して両者が「韓国」を名乗ったら、世の中がどんなことになるのか考えたことはないのだろうか?まぁ今は北朝鮮が譲って、韓国は南朝鮮の名前になっているけれども、1991年に両者が国連加盟をはたした時に、両者が「韓国」を名乗っていたら、国連総会の時に「韓国代表の方の演説です」と紹介された時に立つのはどちらなんだろう?まぁ、北朝鮮は元々「高句麗」なんだからそんな心配は不要かな?いや何が言いたいかと言うと、民主化された今だから心配はないけれども、専制君主国家だった卑弥呼の時代に、同じ倭国の一員として奴国が2つ存在できるはずはなく、もし平和的ならば、片方が○○+奴國、と言う名前に変えるだろうし、(現に魏志倭人伝には「彌奴國」、「姐奴國」、「蘇奴國」、「華奴蘇奴國」、「鬼奴國」、 「烏奴國」など○○+奴国と言う国名が多数出てくる。)戦闘的ならば強い方だけが生き延びるだろうなと言うことである。倭國の国々が集まる場では同じ名前の2つの国が並んで座るのは無理だろうと思う。(現に中国は「台湾」を中国とは認めていないではないか?)倭国以外のグループの場合は別である。奴国が2つ有る場合もあるだろう。両者が同時に出席する会議や催し事は無いので顔を合わすことはないから。でもその場合は両者が奴国を名乗り、いずれ戦って決着がつくまでは奴国は2つ存在するだろう。でも魏志倭人伝に書かれた奴国は明らかにどちらも倭国の中だと思うので、両方の記述は一つの国を別な角度で書いたものだと思う。そのことについて書いてみる。まずはグループが違う場合は2つの奴国は有り得ると言う話から。晋書武帝紀に面白い記述が有る。景初末年の記述である。<原文>十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。罷山陽公國督軍,除其禁制。己丑,追尊景帝夫人夏侯氏為景懷皇后。辛卯,遷祖禰神主于太廟。その翌年の正始元年に関連する記述が有る。<原文>正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。天子歸美宰輔,又增帝封邑。前者は卑弥呼のいる倭国からの使者である。倭人と書かれている。後者は卑弥呼のいる倭国以外の国である、東倭國からの使者である。愚かな学者は、この時期に既に日本国内が統一されていたと主張したいが為に、倭国からの使者と東倭からの使者を同じ(人物は違うかもしれないが立場は同じ)ものとして、景初末年と正始元年に倭国から使者が送られたと読む。古代の人や中国人をバカにし過ぎていると思う。明らかに言葉を使い分けていると思う。もし本当に両者が同じ立場の人間ならば、「再度やってきた」と書くだろう。それがちゃんと「東倭」と区別して書いてある。恐らくは東倭とは倭国以外の国が、中国(晋)の武帝が、戦争している相手である倭国の味方については困るので、外交戦略として送り込んだものだろう。当時日本は倭国大乱まもないころだったのだ。対する中国側は、倭国が勝つのか東倭側が勝つのか見極めて、勝った方に乗っかろうと考えているので、記録は倭国とは違う国として、東倭と言葉を使い分けているのだ。政治や社会情勢について何も考えずに、言葉だけで物事を考える学者先生なので、景初末年の倭人と正始元年の東倭を一緒にしてしまうのだ。ばかだと思う。魏志倭人伝の2つの倭国の記載も同じだと思う。もし倭国に2つの奴国が有ったのならば、言葉を使い分けるだろう。あるいは2つ有る理由を書くだろう。それが無いと言うことは両記述は同じ倭国を別の角度から書いたものだろう。では最初に戻って、両記述は同じ倭国を別の角度から書いたと言うのはどう言うことだろう。これは2つの奴国が有ると言うことを主張する学者達の言い分を書けばすぐに誤りが分かる。彼等の言い分は次の点である。魏志倭人伝には帯方郡から不彌國までの経路の中に出てくる「奴國」と、女王国の北側にある斯馬國から奴国までの国々である。<原文> 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡上の方の太字部分を見ると、女王国よりも北側には、その戸数(国の規模)や道里は簡単にならかけるが、その傍(かたわら)の国はあまりに遠く絶(情報も無い)ので、詳しくは知ることはできないと書いている。なので、そこ以降は国々の名前を列記しているのみである。そして最後の行にはこう書かれている。次は奴国である。この奴国が女王の境界の(国々の)尽きる所である。この書き方のせいで、漢文をよく読めない学者先生は誤解をする。えー!境界のつきる所?つまり端っこに奴国があるのか。そのせいで帯方郡から不彌國までの経路上に有る奴国と、この女王国の以北の国々の中の奴国が2つ有ると読んでしまうのである。これは「尽きる」の読み間違いである。三国志の編者である陳寿は細かい所まで言葉を使い分けている。国々の名前に使われる漢字は音を倭人の使う言葉にあてはめた当て字みたいなものなので、漢字には意味が無い。しかし、文章の中の漢字は中国における通常の漢字なので意味がある。漢和辞典などで調べると「尽」と言う漢字は「地理的な果て」と言う意味ではない。「最後のもの」とか「これでおしまい」と言う意味である。そもそも其餘旁國遠絶 不可得詳と言うのだから、どの国が西に在って北に有るのか位置関係は分からないはずである。次○有りと言うのは円形にぐるぐると女王国を中心にまわって、奴国が一番外なのかもしれない。あるいは単純に女王国が一番南に在って、そこから順に北側に向かっているのかもしれない。もっと言えば位置関係は全く関係なく、例えば奴国が国を広げて(攻め滅ぼして)いった過程の順番なのかもしれない。<後日追記>位置関係を絵にしてみた。パターンAが単純に女王国が一番南に在って、そこから順に北側に向かっている例で、パターンBはより自由度が高く諸国が比較的どこにあっても大丈夫な例である。パターンBならば、円形にぐるぐると女王国を中心にまわって、奴国が一番外でも大丈夫である。つまり奴国が2回出てくるのは、女王国の北側の国々の位置が全く分からないと言うのは困るので、女王国の北側の国々の一つの国である奴国だけは既に帯方郡から不彌國までの説明の中で位置を明らかにしているので、既に位置の分かっている奴国との位置関係により他の国も類推できるように配慮したのだと思う。描いていて気がついたのだが、魏志倭人伝では狗奴国は女王国に「属さない」と書いて「敵対している」とは書いていない。通常「属さない」とは狗奴国も倭国の一部だが、女王国の支配下には無いと言うことだと思う。後日追記終わり。陳寿は詳しくは分からないので、国名を列記しているだけなのである。だから、国名を列記した後に最後の奴国で「女王に従う国」は「尽きる=これでおしまい」とそう言っているのだと思う。そう、この「尽きる」は「ネタが尽きる」とか「万策が尽きた」と言う場合の尽きるなのである。これを地理的に端っこだと勘違いしたので、奴国が2回出て来たので2つは別な奴国と勘違いしたのである。「尽」きると言う漢字の読み間違いだと思う。日本の学者がこの勘違いをする原因は、1.魏志倭人伝は邪馬台国と卑弥呼のことを書いたものである。2.当時日本は既に統一されており、他に大きな国は無かった。と考えているせいだと思う。2.が間違いなのはこのブログの最初に書いたとおりである。倭国に敵対する東倭も存在し、倭国に対抗して晋の武帝に使者を送っている。(但し、武帝は既に国交の有った倭国に遠慮して東倭の使者は送り返しているらしい)問題は1.である。確かに邪馬台国と卑弥呼について詳しく書いている。何故だろうか?僕は後漢書に書かれた光武帝のくれた漢委奴国王の金印と張政のせいだと思う。張政とは卑弥呼の要請に従って倭国に来日し、倭国内を平和的に戦争状態から解決して壱与を女王の座につけて、壱与から多数の送り迎えを付けてもらって、帯方郡に帰って行った中国の使者である。中国の偉い人達には金印を与えた倭国の状況と今後の付き合い方、そして張政の評価が大事なことだったんだと思う。なので陳寿に調べさせて書かせた。それで(その辺の事情を知らない日本人にとっては)あんな変な文章になっているのだと思う。変な文章とは魏志倭人伝の書かれ方である。帯方郡から不彌國までは「行動様式」で書かれている。実際に人間が歩いたり舟に乗って進むそのままの姿で書かれている。ところが次の邪馬台国と投馬國は「伝聞様式」で書かれている。「邪馬台国はどこに有るのか?」と聞かれて答えたものを書き写している。そのせいで、まずどの方角に有るかを答え、そこへ至る方法と距離を書いている。何故、同じ構文様式で書かれなかったのか?多くの学者は、難しいことは考えないので、前者は使者が実際に行った資料を使って書いた。後者は使者は実際に行っていないので倭人に聞いて書いた。それですましている。単純な人達だなと思う。では僕はどう考えるか。まずは張政のことを考える必要が有ると思う。彼は倭国内の戦争の調整をしている。それが上手くいって壱与を女王の座につけたので、感謝した壱与は多数の送り迎えの人達を付けて中国に送り返している。と言うことは、普通に考えれば調整は邪馬台国に来ていると思う。つまり倭人に聞いた邪馬台国を参考にしなくても張政に聞けば道里は分かるのである。では何故それを使わなかったのか?張政の功績を平等に評価する、張政の主張を別の立場の倭人の言葉で証明する為だと思う。張政は中国の人達に自分の功績を説明したのだけれども、中国の偉い人達は「お前はただ座っていただけで何もやってはいないのでは?」と言い、陳寿は「いや違います。倭人の話を聞いても大変な所です。」とフォローしたので、このような文章になったのだろうと思う。次の女王国よりも北側の国々の記述も同じだと思う。これはその後の狗奴国との関係で、張政の功績の中で重要な部分だと思う。卑弥呼は倭國の中における狗奴国との盟主をかけた争いをしていたのだと思う。よく学者先生達が議論しないのが不思議なのは、卑弥呼が魏に助けを求めた時の状況である。何故、諸国が恐れていた伊都国の一大率が戦いの中に出てこないのか?魏に送られた使者は邪馬台国の官として前述のメンバーではないのか?そもそも狗奴国が倭国の一部ではなく、倭国以外の国であれば、諸国は倭国として戦うはずなので、一大率や邪馬台国の官達は何故動かないのか?卑弥呼の使いとして魏に送られた大夫の「難升米」とはどんな立場の人なのか?そもそも大夫とは何なのか?官や副官との立場の違いは何なのか?これらの疑問は狗奴国が倭国の外の国ではなく、倭国の一部だと考えると説明がつく。そう、狗奴国が倭国の一部で、その国王も倭国の盟主になる資格が有るのならば、いわゆる内紛なので、一大率や下手をすると邪馬台国の官達も手が出せないのである。一大率や邪馬台国の官達は、卑弥呼個人に従っているのではなく、卑弥呼の座っている王の座に従っているので、相手が卑弥呼同様に王の資格を持っている立場の人ならば、中立を保たざるを得ないのである。なので彼らは動かず、卑弥呼は自分自身に属している大夫を使者として送らざるを得なかった?そこで張政が現地に出向き、倭国内の調整をし、卑弥呼は(責任を取らされて死んだのか、狗奴国に殺されたのかは不明だが)死に、狗奴国の王(男王)が倭国の王になったが、うまくいかずに国内は戦争状態になった。そこで男王は(多分張政の力により)倭國の王をやめさせられ、卑弥呼のあとを壱与が継いで、倭国は平和になったが、壱与があまりに幼いので、張政が後ろ盾になって、壱与の成人まで倭国に居て、正式に壱与が政権についた時に、壱与に感謝されて大勢の送り人を付けられて中国に帰って、それを陳寿が張政の功績として書いたのだと思う。なので、女王国以北の国として書かれた国の内、斯馬國から奴国は卑弥呼を支持する国、狗奴国は支持しない国として書かれており、両者は倭國の一員なのだと思う。つまり最初の奴国の記述は帯方郡から倭国への行程の一部としての奴国の記載であり、あとの奴国は倭國の盟主争いの中で女王国側についた奴国と言うグループの一員としての奴国の記載なので、同じ奴国であり、記載の目的が違うので2回出てくるだけなのだと思う。そしてこのように考えれば、今までどの学者先生も説明できなかった、陳寿が魏志倭人伝の中で、倭、倭国、邪馬台国、女王国、女王を使い分けている理由が分かる。倭の中に倭国と倭国以外の倭人の国が有り、倭、倭国、倭人は明確に使い分けられており、倭國の中に邪馬台国と邪馬台国以外が有り、邪馬台国は卑弥呼を支持した国のグループであり、女王国は邪馬台国の中の卑弥呼の居る国であり、女王はその中の祭祀王なのである。i伊都国の一大率や邪馬台国の中の官である伊支馬達は、卑弥呼と狗奴国王が倭國の盟主争いを始めるまでは卑弥呼を支持していたが、盟主争いを始めてからは、どちらにもつかない中立を決め込んで見守る。その時に魏から張政が来て、卑弥呼が死に、その後を若くて卑弥呼によく似た親族の娘の壱与が、張政の支持の元に新しい女王になり、伊支馬達も張政につくことによって、狗奴国王は敗れ、爪を剥がれて、蓑傘をまとって新羅の国に逃れていくのである。張政は卑弥呼と狗奴国王を喧嘩両成敗と言う形にして倭國の内乱をおさめたのだろう。これは、古事記のどの部分とははっきりとはここに書きにくいけれども、古事記に書かれている通りだと思う。(古事記でも月読の命達は天照大御神を助けてはいないし、 何よりも天の岩戸に入る前の天照大御神は一人でなんでも決める独裁者だったが、 岩戸を出てからの天照大御神は思金神に相談するように変化している。 この天照大御神の変化を説明できる理論は今まで無かったと思う。 岩戸事件の前後で天照大御神が別人(神?)に変わったのであればあり得る話だと思う。)なお、ではどうして女王国の以北に有る国々のことを書く際に張政の名を出さなかったか?それは陳寿が魏や西周の人間ではなく、魏に滅ぼされた蜀の出身だったからである。倭国内の内乱が魏の張政の力によって収まったと言う事実が、倭國の人達の名誉(自分達の国の内紛を自分達で解決できず他国人が解決した)を傷つけるので、祖国を魏によって滅ぼされた彼には書けなかったのであろう。(陳寿の祖国である蜀も孔明亡き後に、愚かな皇帝や臣下のせいで滅びている。)ただ、張政の功績は書かなければいけない。そこで彼は、同じ魏志倭人伝の中で、張政の力で倭國の内乱は無事に収まり、倭國の人達、特に壱与には感謝されて、無事に魏へ戻ったことを書いている。次の部分である。まずは倭國の内乱がおさまったと言う部分。<原文> 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與卑弥呼が死んで、墓に納められてた様子が書かれている。その後男の王(狗奴国王?)が倭国の王となるが、争いが絶えずたくさんの人が戦争で死んだ。(倭国の内乱はおさまっていない。)結局たった13歳の壱与が(張政の後押しによって)女王となって国中がおさまった。張政は壱与にしっかりしろよと檄を送っている。つまりこの時に(多分狗奴国王は追放されて)壱与が張政の後押しで女王になり、倭国は平和になったが、たった13歳なので一人では国を治められず、張政が後見人をしているのである。次は壱与が成長して一人でも国を治められるようになり、張政が魏に帰る時の部分を書く。<原文> 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹壱与は張政が魏の臺(中央省庁)へ帰るにあたり、倭國の大夫「善中郎將」と「掖邪拘」達20人を遣わして、送らせたと書いている。さらにその際に、御礼(おみやげ?)として、男女の生口や白珠(真珠?)五千孔や青大句珠二枚及び異文雑錦二十匹も持たせている。張政は鼻高々だっただろうと思う。それだけ壱与は感謝したと、陳寿は魏志倭人伝に書いたのである。これだけ書けば魏志倭人伝を読んだ人達は倭国における張政の功績は分かったのだろうと思う。ついでなので書き加えると、これが後の前方後円墳の(倭国内での)流行と、三種の神器につながるのだと思う。倭國の人達は懲りたのである。王位の継承の難しさと根回しの重要さに気がついたのである。そこで倭國の人達は、古墳に故人をおさめる場を王位継承の儀式の場として使うようになる。また、その前に根回しをして、王位継承の場では既に次期王と各人の役割を決めておくと言う古事記に書かれた通りの方法を行うようになる。そのせいで、古墳は重要な場所になり、大きくなっていくのである。そして国家体制が固まった天武天皇くらい以降は古墳が小型化していくのである。ちなみに三種の神器の話が出たので書いておくと、この時に、思金神の指示によってはじめて三種の神器が作られている。古事記から引用する。<原文>是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思天照大御神が岩戸にこもってしまい(実際は亡くなって古墳の石棺に納められた)、周囲が暗くなって(実際は戦争で国々が荒れてしまったので)八百万の神々は困ってしまい、高皇産霊神の子の思金命にどうしたら良いか考えてもらった。<原文>集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵而求鍛人天津麻羅而科伊斯許理度賣命令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉命而内拔天香山之眞男鹿之肩拔而取天香山之天之波波?常世長鳴鳥を集めて鳴かさせて、天安河の川上にある天堅石を採って来て、天金山の鉄を採取して、それを鍛える人として天津麻羅を探して来て、鍛錬させて、伊斯許理度賣命に命じ鏡(八咫鏡)を作らせ、玉祖命に八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠(八尺瓊勾玉)を作らせた。そして天兒屋命と布刀玉命を呼んできて、天香山の眞男鹿之肩(肩甲骨=占いをする為の骨)を拔いて、天香山の天之波波?(字が読めない)=まじないの道具のようだを採ってこさせた。ここを読むと皇位継承にはいくつかの道具が必要で、それを集めている。既に鏡と玉は有るのだが、剣は無い。これはまだ須佐之男命が八岐大蛇を退治する前だからだろう。こんな感じで、この時から三種の神器が皇位継承に必須なものとして始まっているのである。やっぱり魏志倭人伝から古事記ってつながっているじゃん。と思った。
December 25, 2024
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今回の邪馬台国宮崎説検証旅行の最後は宮崎県高原町の皇子原神社。前回の検証旅行でも高原までは来たんだけれども、足が無く、やっと呼べたタクシーの運転手さんに、土地勘のない僕がうまく説明できず、目的地の皇子原神社ではない「霧島東神社」についてしまったせいである。あまりに遠く、時間も無く、前回はあきらめた。この辺に来る場合はまず足をどうするかが最重要テーマである。なにしろJRでさえ都城からここ高原や小林市に向かう電車は午前8時から午後1時まで、5時間に1本しかない!しかも高原駅に降りると目的地まで向かうバスは無い。歩く?冗談ではない。そこで色々と調べて、良いものを発見した。距離は有るのだけれども、小林駅の観光協会ににレンタサイクルが有る。恐らくは小林市内の観光に使うように考えてレンタサイクルを置いたんだろうけれども、元気なジーサンには高原町まで(JR2駅分の距離)使えると思った。ただ山道である。通常の自転車では無理。そう思ったら電動自転車が有った。案内の人に聞くと「78kmまでは大丈夫ですよ」と言われた。結論から言えば確かに大丈夫だったが、100%でスタートした充電量が返還時には17%だった。えー!50~60kmくらい走ったのか!行きは小林駅から県道104号線を走って、高速道路の立体交差の先でみやまきりしまロード(農道)に乗り換えれば目的地に着く。行きは元気なので、このルートでOK。でも帰りは疲れているので、ぐるーっと回るので距離は長いけれども、いったん高原駅まで迂回して県道221号線を使う。すると坂が少ない。いくら電動自転車でもアップダウンの激しいみやまきりしまロードは大変だから。当日は都城駅8:03分発車の吉都線に乗って小林駅に向かった。朝早いのは大変だけれども、これに乗らないと何もしないで東京に帰ることになる。小林駅についてほっと一息(缶コーヒーを飲む)すると、観光協会が開く。つまり9時。それほど交通機関が大変なのである。小林市はあの「いわくら」の生まれ故郷。彼女がこの辺の方言をしゃべると「東北弁」に聞こえる。テレビでやっていたけれど、実際東北弁に近いらしい。なぜ?僕は多分、物部氏のせいだと思う。物部氏は蘇我氏に負けたあと、滅びはしなかったが政治の中心からはずれ、地方へ行く。秋田には物部氏に関わる神社等が多い。(秋田唐松神社など)秋田唐松神社には「物部文書」が有る。偽書の噂が絶えないが、僕は「純粋偽書」ではないと思う。多分、元になる物部文書は有ったのだが、なんせ田舎なので保管が悪く、誰かが何とかしようと書き写すのだが、なんせ田舎なので学のある人ではない。書き写すたびにめちゃめちゃになって、ついには偽書同様になったのだと思う。まぁ、いわくらの方言の話はそのくらいにして、ここで電動自転車を借りた。ヘルメットも貸してくれた。1日800円。すぐにスタートする。電動自転車快適!最初は霧島岑神社。104号線沿い。日本の神社はみんなその苦難を乗り越えて来たんだけれども、仏教伝来後の朝廷の仏教保護政策から、神社は消滅の危機を迎えた。神社は生き延びる為に、神様と言うのは仏様の仮の姿と言うことにした。権現様である。まぁ、みんなそんなことは信じていなかったんだけれども、生き延びる為には仕方ない。この霧島岑神社も「夷守権現様」として生き延びた。そのせいで、真ん中の写真のように入口には仏教の「仁王様」が有る。しかも狛犬と同じく、片方は口を開け、片方は口を閉じている。いわゆる阿形と吽形である。ところが中に入ると宮崎の古い神社らしく、通常の神社の狛犬の位置に祠が有る(狛犬は無い)。そう狛犬もインドの寺社の入口の結界が元だから、純粋日本の神社に狛犬も無いのである。宮崎の神社でも新しい神社には狛犬が有る。仏教の影響だから仕方ない。霧島岑神社をあとにして進んでいると、田んぼの中に「田の神」様がおられる。他県のお地蔵様のような感じで、あちこちにある。僕は(お地蔵様の元になる某氏族と宮崎の人達は仲が悪く、 お地蔵様は置けないけれど何か代わりの物?と言うことでできた神様なんだと思っている。)さらに進むと(もうこの辺はみやまきりしまロード)、道筋上大事な交差点に着く。ここを間違えると大変なことになる。左に行くと狭野神社(経由で高原市街)、右に行くと皇子原である。ここを左に曲がっていくと狭野神社に着く。狭野神社は前回も来たので、今回は省略しようかなと思ったけれども、せっかくだからお参りした。おぉー、門松がもう飾られている。早くない?そしてここから本堂前まで狭野杉が参道の脇に並ぶ。どの杉も樹齢400年である。実は狭野杉は自然の木ではなく、慶長4年に島津義弘公が新納武蔵守忠元に植えさせたもの。なのでみんな樹齢400年。ただ場所によって成長の具合が違うので高さは違う。それでもみんな高さは40m以上ある。ここは神武天皇のゆかりの地である。あとから行く皇子原で産まれ育った神武天皇は、皇子原からこの地に降り立ち、西都原に向かう。そして兄達とともに大和の地を目指し、日本を統一、日本の基礎をつくるのである。ここで僕の邪馬台国宮崎説について、古事記・日本書紀の神話との関係を書く。学者先生は古事記や日本書紀の神話をバカにして、南洋の言い伝えなどとの関連をとくが、僕は史実を大人の事情により(危なくないお話に)変形したものだと思っている。いやしくも天武天皇が指示して、当時の日本の最高の頭脳達が根拠のないおとぎ話を書くはずが無く、元明天皇等もそれを受け取るはずはない。信じられない話が書かれていれば、つき返すと思う。でも、何らかの事情でストレートに書けないけれども、あぁこれは皇室にも伝わるあの話かと思うことができれば、(大人の事情を理解できれば)素直に受け取るのだと思う。例えば天照大御神の天の岩戸の話である。古代と言うか万葉集ができた頃位までは、古墳(墓)の石室の由来が残っていたので、万葉集には「岩戸とは墓の入口の石」と言う認識がはっきりと分かる歌が残っている。例を挙げれば、万葉集の中の次の歌である。417大君(おほきみ)の和魂(にきたま)あへや豊国(とよくに)の鏡の山を宮と定むる418豊国の鏡の山の岩戸(いはと)立て隠(こも)りにけらし待てど来まさず419岩戸(いわと)破(わ)る手力(たぢから)もがも手弱き(たよわ)女にしあればすべの知らなく河内王(こうちのおおきみ)が豊前の国の鏡山に葬られた時に、手持女王(たもちのおおきみ)が作った歌3首である。河内王は、持統3年(689年)8月に大宰帥(大宰府の長官)として筑紫に下り、同8年4月に当地で没した人で、手持女王は伝未詳ながら、河内王の妻かといわれている。これを「天岩戸神話にたとえた」と言う人が多いが、「天の岩戸神話は天照大御神」が死んだのではなく、隠れた=その後出てくる=のなら、出てくるのだから、何の例えにもならないのでは?死んでしまって二度と会えないから歌になっているのであって、出てくるのが分かっている神話に例えるのは論理的に変なのでは?つまり、万葉集の頃までは、天岩戸神話は天照大御神が死んだ時の話だと知っていたのだと思う。そして出てきたのが後を引き継いだ、もう一人の天照大御神だと。つまり天照大御神は個人名ではなく、役職名だったんだと万葉集の頃まではみんな知っていた?だって天岩戸前の天照大御神は独裁者で何でも自分一人で決めていたのに、天の岩戸から出て来た天照大御神は思金神に何でも相談するようになっているから。別人(ただよく似ていたのだろうとは思う。)だったんだと思う。そう考えると、天照大御神は歴史上のある人物に似ている。卑弥呼である。天の岩戸に入る天照大御神は卑弥呼で、出てくる天照大御神は壱与(台与)だと考えると筋が通る。壱与(台与)は13歳なんだから一人で何でもできないのは当然。卑弥呼の宗女なんだから似ているのが当然。そう考えて神々の系譜に書き込んでみた。そして景行天皇と熊襲の関係、山幸彦・海幸彦の神話の意味も理解できるようになる。卑弥呼の死後、数代たった後の邪馬台国は、相続争いにより2つに割れたのである。これが山幸彦・海幸彦の神話の元になっている。山幸彦は都城に居た大綿津見(大海神)の娘を嫁にもらって海幸彦に勝つ。(玉をもらった?)古代の神話の神々の奥さんにやたらと「ワニ」が多いのは、大綿津見が都城の西の「鰐塚(わにづか)山」のふもとに居た豪族だからである。そして負けた海幸彦は勝った山幸彦が勢いに乗って大和に行った後に地元を治めたが、その子孫は景行天皇の時代に朝廷に反旗を翻したので、景行天皇は宮崎まで退治に来た。元の自分の一族なので、福岡付近(後の大宰府)にいた部下には任せられなかったのである。多分そうなんだと思う。とすると、ここが卑弥呼の居た邪馬台国の中心の女王国?さの神社をあとに前述の大事な交差点を通って皇子原に向かうと10分くらいで皇子原に着く。皇子原の駐車場の左手に皇子原の高原古墳へ登る階段が有る。皇子原神社と書いているが、本来は狭野神社元宮で、古墳である。上の写真だけを見ると単なる神社にしか見えない。ところがこの神社は高原町古墳群1号墳の上に立っているのである。えー!段丘の上に立っているじゃん!しかも方墳?こんなにはっきりとしている?もしかするともしかする?その裏には古代住居を復元している。中を見て驚いた。高原町古墳の説明板には「地下式横穴墓」って書いて有ったけど、これって石室もしくは石棺のおさまっていた跡じゃん。じゃぁ、ここは古墳の上では?外に出てみたら、前には6号墳が有る。もしかして6号墳の大きさと形状を間違えているんじゃない?この古代住居跡は6号墳の円墳部分なんじゃない?写真に撮ってみた。多分そうだと思う。この古代住居跡は6号墳の円墳部分だよ。多分、トロッコ道の工事の際に壊しちゃったんで、ここを6号墳の一部の円墳部分とは言えなくなっちゃったんだな。土器も出てるし。色々な意味で危ないから、発掘調査はできないんだ。もしかすると、結構な確率で、ここの1号墳は卑弥呼のお墓かも?ただ、神武天皇時代以降は大和に行っちゃったんで、古墳はあまり残っていないのかも?だけどなぁ、田舎過ぎて、不便だからヒマな僕でも発掘調査はできないなぁ。やっぱり邪馬台国はこれからも秘密のままで終わるのかなぁ。但し、ここを掘っても何も出ないかもしれない。僕の予想では神武天皇が卑弥呼の持っていた「親魏倭王」の印綬等は持って行ったはずだから。大和でニギハヤヒがあきらめてナガスネヒコを殺して神武天皇の下にはいったのは、金色のトンビのせいじゃないと思う。神武天皇が「金印を持っていたから」だと思う。ただ、大人の事情で(多分中国との関係で)、金印のことは古事記や日本書紀には書けなかったのだろうと思う。現実的に考えれば、金色のトンビはいないと思うし、金色と聞いて思いつくのは金印だから。皇子原をあとにして小林駅に戻る。自転車を返さないといけないので。帰りにここから高原駅まで走っていて思った。ずーっと下り坂。行きは104号を通って良かった。逆だったら、高原駅から皇子原まで全部上り坂だったって事じゃん。小林駅に着いたら、まだ1時間も空港行バスまで時間が有ったので、(時間的に)危険だけれども、小林市の古墳を見に行くことにした。東二原古墳群である。来て良かった。ここは円墳の周りを地下式横穴墓が取り囲んでいる。吉野ヶ里の北墳丘墓と同じじゃん!首領墓(円墳)と部下や一般人の墓(地下式横穴墓)が有るのって、日本でも珍しいのでは?甕棺と横穴墓の違いはあるけれど、吉野ヶ里の甕棺はいったん下に掘った後に横穴を掘って甕棺を埋め、その後に全体を埋め戻している。吉野ヶ里の北墳丘墓に有った「北墳丘墓と甕棺墓列」の説明図に、宮崎県小林市の東二原地下式横穴墓の状況を書き込んで比較してみた。そっくりなのでは?吉野ヶ里の首領墓は甕棺ではなく石棺なので、甕棺と石棺の違いは国や文化の違いではない。恐らくは経済力と立場の違いである。なら、より貧乏な宮崎なら甕棺さえも買えない?そう考えれば、北九州から南に攻めて来て、ここに邪馬台国が進出していてもおかしくはない。邪馬台国も最初は北九州に有ったんだろう。でも国を広げて、宮崎まで来た。いや、別の考え方もできる。奴国から国を広げて宮崎まできたんだけれども、奴国自体が宮崎に来たんじゃなく、奴国の王族の一部が残って、残りは福岡に帰った。それが一大率で、宮崎には卑弥呼を始めとした一部だけが残った。なので、円墳と周りを取り込む地下式横穴墓は、中央の円墳が奴国から来た王族の墓で、周囲はそれに従った、地元の首領族のお墓なんだと思う。なので、奴国の甕棺の埋め方と同じなんだけれども甕棺は手に入らず直埋めになった。邪馬台国と狗奴国の戦いでも、卑弥呼は邪馬台国(倭国のうちの女王側の勢力)女王ではあるが、奴国の主力は福岡に居て、狗奴国(倭国の内の非女王国側の勢力)王も卑弥呼の弟なので王位継承の権利を持つので、武力による戦いには福岡に居る本家つまり一大率は関与せず、姉と弟だけの争いになった。なので女王国は不利になってしまったんだと思う。結局卑弥呼は負けて死に、狗奴国王が後を継ぐのだけれども(魏志倭人伝に書かれた男王)相変わらず行いが悪かったので、国外追放になり、卑弥呼によく似た壱与が後を継いだんだと思う。やっぱり邪馬台国宮崎説は有力じゃん。そう思うと今回の検証旅行は来て良かったなぁ。<後日追記>色々と調べてみたら、学者先生の中では甕棺墓が福岡の遺跡の中心みたいな書き方をしているけれど、実は同じ遺跡の中で、甕棺墓と石棺墓と木棺墓が同時に存在する遺跡って結構あるみたい。つまり甕棺墓が弥生時代のお墓の形式の特徴と言うのは、ある程度正しいと思うのだけれども、それしかないと言うわけではないみたい。どちらかと言うと、時代的な違いと言うよりは、その主の立場や経済力の違いみたい。ちなみに奴国や伊都国の前段階の遺跡と言われる吉武高木遺跡では、甕棺墓と石棺墓と木棺墓がすぐそばで同時に出ている。福岡市博物館のページからちょっとお借りした。だから宮崎の古墳や遺跡って、弥生時代から古墳時代に移る転換期に、ヤマト王権に逆らったせいで、素直にヤマト王権に従った他地域と性格が違い古いお墓の形式が残り、景行天皇に負けた後は他地域同様にヤマト王権と同じ古墳を造るようになったんだと思う。でもその際に、古い形のお墓は捨てられず、首長層はヤマト王権に従って古墳を造り、それよりも下の階級は従来からある地元のお墓の形式である地下式横穴墓を守ったんだろう。地下式横穴墓は福岡から来る際に甕棺は捨て、直に埋葬するか石室に変化して。これが真相じゃないかな?つまり景行天皇の九州巡幸って本当に有ったんだ。
December 24, 2024
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吉野ヶ里を後にして、宮崎県の都城を目指した。ここは僕が熊襲の居た場所だと考えているところ。熊襲については学者先生は、熊本だとか色々な説を展開しているが、日本書紀をよく読むと、日向つまり宮崎に到着する前に戦った賊はは土蜘蛛と書いているし、熊本の賊は熊津彦つまり「熊」と言っており「熊襲」ではない。「熊襲」と言っているのは日向に着いてからであり、日本書紀景行天皇紀13年12月5日には、「是謂熊襲八十梟帥」と書いている。他の賊は「熊襲」とは書いてはいない。後世の学者が勝手に他の賊も「熊襲」と解釈しただけである。「邪馬台国はどこにあったか(その60)古事記や日本書紀の神話は 単なる神話なのか?その5景行天皇は熊襲征伐後、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。この方が日向国造の祖である。その後、夷守(小林市)についた時に人が大勢集まっているので、何故か聞くと、諸県の君の泉姫が景行天皇をもてなす為だと言われた。その諸県の君が代々日向を治めており、仁徳天皇の時代に、諸県の君の娘の髪長姫が美人だと言うことで妃になったと、日本書紀に書かれている。その髪長姫の一族=諸県の君の一族の墓である高城町古墳群が有る。それを見に行く為に、山之口駅で降りた。駅前には宮崎県あるあるで、タクシーもおらずバスは1時間以上待たないと来ない。仕方ないので歩く。最初は将軍山に着く。その手前の東岳川の端の上から高千穂の峰を見る。右手に月山日和城が見える。遠いので今日は行かないけれど。この橋の先に将軍山が有る。南北朝時代の砦跡である。その後も軍事上の要所として使われたので原型をとどめてはいないが、多分本来は古墳だと思う。ふもとから見ると見事にくびれており、手前に陪塚と思われる塚(小古墳)が有る。ただ、何度も陣地が築かれたせいで跡形もない。道を進んで高城町古墳群に着く。最初は髪長姫が出迎えてくれる。髪長姫の後ろを見て驚く。えー!何でこんな所にこんな大きな古墳が有るの?高城町古墳群第1号墳である。元は大きな前方後円墳だったんだろうと思う。説明板の下に載せた地図を見ると、50mくらいはある。福岡や奈良県ならちゃんと整備されるのだろうけれども、ここ都城では無理。予算が無い。いや、まぁでも僕はうれしい。邪馬台国宮崎説を唱えているのだけれども、宮崎市内の生目古墳群や西都原市の西都原古墳群は有名だけれども、肝心の邪馬台国候補地の小林市には何も無い。でも隣町の都城にこんな大きな古墳が有るのなら、期待できるなぁ。もうちょっと見てみるか。すぐ近くには第2号墳が有る。うん?段丘が有る円墳?どこかで見たなぁ。そうか西都原か。あそこの鬼の窟古墳に似ている。鬼の窟古墳はこんな感じ。但し、鬼の窟古墳は実は段丘ではない。直径33mくらいの円墳の周囲を堤のように取り巻く土の丘があるだけ。この第2号墳はむしろ高松塚古墳に似ているのかなぁ?高松塚古墳はこんな感じ。形はちょっと違うけれども、段丘が有る円墳。やっぱりこの辺はヤマト王権とは縁が深いのかなぁ?その傍らには第3号墳が有る。登れる。僕はバカなのですぐに登ってしまう。せっかく苦労して来たんだから登らなくては。どんどん行ってみよう。次の第6号墳にも登れる。これも前方後円墳みたい。ただ、方墳部分は現在付近の人の墓地になっている。なので僕は墓地の中から円墳部分を写している。お次は第10号墳。畑の中に有る円墳。よく壊されなかったなぁ。バチがあたるから壊さなかった?逆に壊されて形が変になっているのが第13号墳。もはや古墳には見えない。田んぼの中を通って(もちろんあぜ道をです)森の方へ行くと、第12号墳が有る。言われないと古墳には見えない。その後ろには第11号墳。こうして調査は終わり、今日は都城に泊まる。都城のホテルには参った。4千円弱と安かったので頼んだんだけれども、「キャビン形式」というので見てみたら、1つの部屋をついたてで仕切っただけの部屋。当然天井は筒抜けで隣の部屋と共通。御風呂やトイレは無い。隣に泥棒さんが来ると怖いので、追加料金を払ってちゃんとした部屋に移った。ホテルの予約をする時はちゃんと確認しないといけないと言う教訓だった。まぁそれはそれとして、宮崎には有名じゃないけれど、大きな古墳群がたくさん有るじゃん。福岡なんかよりも多いと思う。邪馬台国宮崎説の僕は都城は「鰐塚(わにづか)山」のふもとなので、古事記に出てくる神々の奥さんがワニだと言う話や、海幸彦・山幸彦の神話から、ここ鰐塚山のふもとに居た豪族=諸県の君の祖先が、そのワニの伝説のモデルになったのではと思っている。邪馬台国宮崎説は有りそうな気がする。
December 23, 2024
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一番仲の良かった叔父さんが突然亡くなった。医者は原因不明だと言っているが、僕は心筋梗塞か脳出血だと思う。何故なら今年の正月にトイレで倒れて骨折しているから。その時には医者は「骨折に対する検査と治療」はしたのだけれども、それ以上はしなかった。恐らくその時にも既に高血圧による何らかの障害が有り、そのせいで倒れたのだろう。その時に心臓や脳の検査をちゃんとやっていれば、今回の叔父さんの死亡は防げていたかも?僕の父の時もそうだった。僕の父は動脈瘤で亡くなったのだけれども、実は亡くなる前日に入院する予定医だった。ところが何らかの理由で入院が1週間伸びることになり、出血に対する処置が間に合わず、亡くなってしまった。予定通り入院していれば助かったかもしれない。田舎の病院だから仕方ない。ちゃんとした医師が居ないのである。僕の奥さんのお父さんもそうだった。簡単な手術だと言ったのに、病院に着いた時にはICUに入っており、見たらチューブだらけだった。若い先生だった。経験不足だろう。どんな名医でも若い時は有るのだから仕方ないのかもしれない。でもなぁ。まぁ、それはそれとして、お葬式もすみ、両親のお墓も掃除して、全て終わったので、せっかく九州に来たのだから、飛行機代も高かったので、帰りは寄り道をして、邪馬台国宮崎説の検証旅行をすることにした。今日は吉野ヶ里に行った。吉野ヶ里はJRで吉野ヶ里公園駅で降り、北口が便利。駅前ロータリーに案内板が有り、そこから西に真っすぐである。看板の右上の地図を見ると分かるように(田んぼの中の道なので)ちょくちょく曲がるが、見通しが良くてほぼ一直線なので迷わない。要所要所に看板が有り約900m弱。すぐに入口に着く。誰もいない。平日だからなぁ。入口から見える段の上に「歴史公園センター」が有り入場料を払って中に入る。ここで吉野ヶ里のことを少し学習する。おぉー!今から1800年前だって。僕の邪馬台国宮崎説では、倭の奴国は元は北部九州に居て、2000年前くらいに九州の南の果てまで征服し、その際に宮崎に至る征服した諸国をまとめて「邪馬台国」とし、その首都を宮崎県小林市に置いて、そこが卑弥呼の時代には「女王国」と呼ばれた。そう言う推理が元になっているので、理論的に「ちょうどいい」もしここと宮崎の古代の間に共通点があれば、邪馬台国宮崎説は完成だな。<後日追記>僕は邪馬台国宮崎県小林市説なのですが、吉野ヶ里も邪馬台国の一部だと考えています。確かに女王国と言う表現と邪馬台国と言う表現が並ぶので紛らわしいのですが、よく読むと、女王国は純粋に卑弥呼のいる場所で、邪馬台国は女王国+女王国の北側に在る女王に属する国々と読めます。ちなみに倭国は邪馬台国+女王に属しない国々(例えば狗奴国)だと思います。現代で言えば、東京と言えばおおよそ千代田区を指す場合が多く、八王子や町田も東京なのに、八王子から東京に行くと言うことが有るような感じです。なので、吉野ヶ里も邪馬台国の一部なのですが、狭義の邪馬台国=女王国へ至る途中の国なのです。魏志倭人伝の中では「烏奴國」と言うのが吉野ヶ里だと思っています。古い書物で「和名類聚抄」の地名を見ると、この辺のすぐそばの「鳥栖」と言う地名の由来が分かります。「鳥栖」は古くは「鳥樔」とも書きました。肥前国風土記によれば、鳥栖の鄕の東にあり昔者、輕嶋の明の宮に御宇しめしし譽田の天皇(応神天皇のみ世、鳥屋を此の鄕に造り、雜の鳥を取り聚めて、養ひ馴づけて、朝庭に貢上りき。因りて鳥屋の鄕といひき。後の人、改めて鳥樔の鄕といふ。つまり、相当に昔からこの辺では鳥を飼うことを生業としていたのです。もしかすると弥生時代から?なのでここは、鳥を飼う人達が住む奴国の一部=烏奴國だと思っているのです。後日追記終わり。中に入るとまずは南内郭が有る。吉野ヶ里の中心。まぁ東京で言えば新宿である。周囲は柵で囲まれて、門が有り、両側には物見櫓(ものみやぐら)があってものものしい。いわゆる環濠集落である。うーん。西部劇を思い出す。インディアンの襲撃に備えて、町の周りには柵でおおわれていたんだよなぁ。この柵は単なる柵ではなく、その外側には堀が掘られて、逆茂木が埋められている。写真を見ると分かるように逆茂木の刺さっていた穴や濠の跡が残っていたらしい。ちょっと怖いよ。でも考えたんだけれども、逆茂木は間に人が入れるので、怖いけれど大丈夫では?柵と濠と逆茂木の位置関係が逆になっていれば、濠のせいで柵に登るのが相当に困難になるし、柵から降りようとしたら下に逆茂木が有るので飛び降りれないから効果的なのに。なんか逆のような気がする。まぁでも今は平和な日本。入口を入って復元建物を見学する。まず目に入るのは「大人の家」。えー?奥さんの家は別なの?もしかして奥さんは何人かいるので、ケンカしないように別?その辺は学問的ではないので、当然何も書かれていなかった。ただちょっと前に行った品川歴史館に比べて、ここはちゃんと研究されており、僕が見ても納得できる。品川歴史館の竪穴式住居は「縄文時代の」と書かなければ正しかったんだと思う。ここのは弥生時代。縄文時代の竪穴式住居とは違い水対策や換気対策はしっかりしている。内部の様子もちゃんと研究されている。さすが。まず縄文時代とは違って、定住化しているのでしっかりとした柱と梁が有る。また周囲は1弾高くなっており、掘り下げた室内を囲うように盛り上げた土壁が有る。その結果雨は入ってこないし、風も十分に防げる。天井部分には換気窓が設けられており、下の囲炉裏で発生した煙は上に逃げる。なぉ、不完全燃焼しやすく一酸化炭素が発生しやすい煮炊き用の鎌は屋内に無く、煮炊き用の家は別に作られている。大人とは王の下で、様々な専門職を手掛ける現代の大臣みたいな存在で、例えば土木工事を司る大人、祭り事を司る大人、養蚕(かいこを養う)を司る大人などが、それぞれ居たらしい。大人の家の中の様子。僕はいつも不思議に思うのだけれども、どの国の兵でもだいたい楯は持っている。日本の武士は何故楯を持たなかったのだろう?諸説あるのだけれども、どの説もいまいちしっくりと来ない。例えば、楯は実際の戦闘では邪魔(視界を遮るし攻撃範囲は狭まるし攻撃速度が落ちる)と言うのは確かなんだけれども、楯が無い分防御力は相当に下がるので、訓練度の低い一般の兵士には持たせた方が良いような気がする。大人の妻の家では妻たちが布を織っていたりする。機織りに使う糸は紡錘車で作られる。写真右上の棒がついた丸い車がそうで、左下の説明図のようにくるくる回して巻き付ける。糸の元になるかいこさんは専門の家が有る。雨に濡れると困るし、風は防ぐ必要があるから。大事な品物の製作だし、かいこはすぐに死ぬので、養蚕担当の大人は偉かったんじゃないだろうか?現代の内閣もそうであるが、大人たちがいると言うことは大事な話は会議を開いて決める。その為の集会の館が有ったらしい。「家」に比べて広い図ペースが必要なので柱が多く、高さが高い。ただ、高床式ではない。王の家はちょっと大きいだけで、大人の家と大差ない。屋根に後世の千木や鰹木のような飾りがついている。と言うか、この2つは元は屋根をふいたワラの押さえが飾りに発展した物なんだと分かる。王よりも祭祀者の方が位は高かったような気がする。祭祀者の家は竪穴式住居ではなく高床式である。そりゃそうだよな。今でもタワマンはステータスシンボルだもの。人は高い所が好き。ただ、高床式の建物は格好良さだけではない。ねずみ返しの付いた柱の上に建てられるので、防犯効果が高く、ネズミなど小動物も入らず、湿度も低いので物は腐らない。なので大事な物をしまう倉庫としても使われる。ここはその利点を活かして儀式用の品々をおさめた倉庫だったらしい。近くには北内郭が有り、北内郭は祭事などが行われた場所である。そこに一番立派な建物が有る。主祭殿である。屋根飾りはより芸術的になり、建物としての格は最高に高い。この中では王を中心とした催し事や最高司祭者の神事が行われる。2階部分が王を中心とした催し事の為の部屋。座布団が無いとお尻が痛くないかなぁ?3階は天に近いので、最高祭祀者の神事を執り行う所。最高司祭者はここで神がかりを行う。日本書紀を読んでみると、神功皇后や仲哀天皇は竹内宿禰に琴を弾かせて神のお告げを聞いている。仲哀天皇はその際に亡くなっている。竹内宿禰と神功皇后により暗殺されたと言う説も有るが、寒いので脳出血で死んだのかも?北内郭をさらに北へ行くと北墳丘墓と甕棺墓列がある。一番北に北墳丘墓、その南に甕棺墓列、その南に北内閣が並ぶ。最高祭祀者の神事はこちらを向いて行われている。この時代の神とは「祖先の霊」である。彼女は北墳丘墓に祀られた祖先=霊をおろしていたんだろう。上の写真を見ると北墳丘墓の造り方が書いてある。これは良く研究されていると思う。現代技術をもってしても盛土の安定化は難しい。雨が降ればあっという間に流れて崩れるし、地震があると壊れる。そこを古代人は土饅頭をたくさん造って、それを重ねて組み合わせて造ったらしい。賢いと思う。土饅頭なら壊れにくいし積み重ねて整形しやすい。いつも思うのだけれども学者先生とは、独特な感性を持っているので、非現実的な理論を展開して、自分の理論に合わないと猛烈に怒る。かって、北九州では甕棺に埋葬する文化が有り、石棺や木棺に埋葬する国や文化とは違うと思われていた。(頭の回転が遅い学者は今でも?)ところがここに来ればそれがバカな理論だとすぐに分かる。ここでは墳丘墓に首領が祀られて石棺に納められており、そこに続く甕棺墓列にはその他の人達が甕棺に納められて埋葬されている。特に北墳丘墓の石棺は刻印が有るのが分かり、新聞でも報道されて有名になった。吉野ヶ里は甕棺ばかりではないのである。石棺も有るのである。つまり同じ国の同じ時代でも同じ場所に石棺と甕棺が有る。すみません。最高位の「物」ではなく「者」です。そして両者の違いは明らかに地位と言うか立場の違いだと思う。そしてそれが大事なのは、ここに階級が発生し国ができたと言うこと。もうみんなが同等ではなく、王がいるのである。王がいるならそれは国である。それがはっきりとお墓によって分かるのがすごい。北墳丘墓には石棺だけではなく甕棺も有る。これが面白い。甕棺は単に穴を掘って埋めるだけかと思っていたら、ちょっと違っていた。いったん下向きに穴を掘り、そこから横向きに穴を掘って甕棺を収めて、埋め戻すのである。何故単に地面を掘って甕棺を埋めるのではなく、地面を掘った後にさらに横穴を掘る必要が有るのだろうか?うん!これって甕棺と石室の違いはあるけれど、埋葬の仕方が宮崎の地下式横穴墓と同じでは?甕棺の有無だけの違い。吉野ヶ里では、甕棺も石棺も有るのだから、甕棺自体に宗教性はない。ちなみに吉野ヶ里のひつぎは色々と有るらしい。ほとんどが甕棺だけれども。これって吉野ヶ里の人達が南に攻めて来て宮崎に住みついたかもしれない証拠では?そう言えば宮崎には首領の墓である円墳や前方後円墳の周囲に地下式横穴墓が有る場合がある。例えば生目古墳群第21号墳。そして宮崎県小林市の東二見地下式横穴墓群。そう言えば邪馬台国の卑弥呼が死んだ時に、仕えていた女達も殉葬させられたと、魏志倭人伝に書かれている。偉い人の墓(古墳)が有り、その周囲に古墳とは別の形式の墓がたくさん有ると言う、この墓地の形は吉野ヶ里から宮崎に伝わった?つまり倭の奴国が宮崎まで到達していたと言う証拠なんだと思う。明日はその宮崎へ行く。
December 22, 2024
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僕は趣味でラジオの製作や邪馬台国の解明をやっているけれども、本職は建物の電気工事である。まぁ普通の人にはラジオも建物の電気も同じ電気だろうと言われるが、エベレストと氷山が違うくらい「別の物」である。色々な理論やアプローチする方法は全然違う。電気工事をやっているせいで、ちょっと特別な友人も多い。霞ヶ関の1丁目1番地にある旧法務省庁舎(赤レンガ棟)は重要文化財であるが、その建物の電気の設計者が友達だったりする。その関係でこの赤レンガ棟の見学に行った。なお、こう書くと普通の人は見学できないのかと思われるかもしれないが、実は誰でも見学できる。ただ、説明してくれる人がいるかいないかの違いだけである。東京メトロ有楽町線の桜田門駅を降りて階段を登ると、皇居前に出る。ここに赤レンガ棟は有る。洋風ではあるが、イギリスやアメリカの古い建物とはちょっと違う。ドイツ風かな?実は設計は明治時代にドイツから明治政府に雇われて建設に来たドイツの技術者である。説明板に書かれたエンデとベックマンがそうである。ずいぶんと偉そう。まぁ当時は日本人でも偉そうな人が多かったからなぁ。説明板にあるように、関東大震災ではレンガ造でありながら鉄材で補強されていたので、ほとんど被害は受けていない。さすがである。でも自然災害は免れたんだけれども、アメリカ軍には爆撃でやられてしまった。仕方ないので戦後すぐの昭和25年に昭和の改修として修繕されている。ただ、往年の明治時代の形とは全然違うものだった。それを霞ヶ関の建物の耐震化・高層化・近代化の事業にともなって、平成6年に日本の明治時代の近代化の記録として、現代でも使用可能な文化財として、近代技術を使って明治時代の姿を復元しながら法務図書館などとして使える建物に復元した。今の建物はその復元した建物で、復元されたと言うことで重要文化財に指定されている。昭和の改修時の姿と平成の復元改修後の姿が分かる模型が有ったので載せる。なお、両方とも構造部分(レンガは燃えないので空襲にあっても残っていた)は同じであり、ただ、現代の耐震技術により補強がされている。そして、ここに居た法務省の各部門(実は狭いのであちこちに分散していたんだけれども)は、集められて、今は約126000㎡もある新しい(とは言っても既に22年経っているが)建物が、すぐ裏の日比谷公園側に建てられている。立派な建物である。霞ヶ関の建物の中で一番カッコいいと思う。デザイン的にもアクセントになり良いのだが、中央のへこんだ部分は機能的に必要なものである。建物では中に住んでいる人達の為に換気が必要である。へたくそな設計では屋上に空気の取入れ口と排出口両方が有って、ショートカットと言うのだが、取入れ口と排出口が近いと、汚い空気が両方の間で循環する。この中央の窪みは(屋上も使うのだけれども)それを解消する設計なのである。裏表及び両サイドに同じような窪みが有って有効である。外壁に張ってある石は確かカナダから運んできて、岐阜県の関市で加工したものだと思う。一般の建物ではそこまでしないので、石の模様がバラバラになったり色が不均一になるが、ここの石は地面に並べて遠方から見て石の配置を決めてから加工したそうである。この(もう22年も経つけれど)新しい建物と赤レンガ棟の間には広場が有り、そこには復元当時の法務大臣の名前の入った記念刻印が残っている。前田大臣ってどんな方だっけ?まぁそれはそれとして赤レンガ棟って品が良い建物だよなぁ。屋外の見どころはまだある。実はここの敷地は江戸時代は米沢藩の江戸屋敷が有った所である。碑が残っている。また中庭には古い石灯籠などが配置された部分があるが、これらはなんと有名な大岡越前の守の屋敷に有ったものを、ここに移したものである。この辺はここ法務省で働いている公務員さえも知らないのではないかと思う。さていよいよ建物の中に入って、電気設備を見る。入ってすぐに気がつくのは廊下の照明。奥の照明は古い建物ではよく見られる、ありふれた照明なんだけど、手前のシャンデリアは特別だと思う。これは僕の友人の設計で、彼は古いドイツの照明の本からパクったと言っていた。そして階段室のシャンデリア。これも元はその照明の本に載っていたのが原型なんだけれども、周囲がガラスなので、屋外への余計な光の漏れを押さえて曇りガラスで覆い、また銅製(に見せかけた塗装)の枠には飾りを設けてデザイン性を増している。芸が細かい。そしていよいよ復元室に入る。ここは唯一残っていた1枚の写真を元に部屋を復元している。このシャンデリアも僕の友人の設計である。カワイイ。さてここで実は僕の友人だけしか知らなかった秘密が有る。このシャンデリアは電気照明なんだけれども、おかしくはないか?フランスなんかの古い建物はロウソクじゃん!実はここの復元の際に、それは議論になったらしい。復元に際しては、この方面に造詣が深い東大の(退官されてすぐだったのかも?)村松貞次郎先生を委員長とする復元の為の委員会が設けられていた。村松先生は後にあの有名な愛知県の明治村の館長をされた方である。先生いわく、当時可能性が有るのは「ろうそく」と「ガス」と「電気」である。確かめずに想像だけで復元するのはよくない。是非確認して欲しいと仰った。そこで僕の友人は全国の同時期の色々な建物を調べた。例えば、北海道札幌の豊平館の設計は開拓使工業局営繕御用掛の安達喜幸であり、工事は大岡助右衛門が請け負った。1879年(明治12年)に建築をはじめ、翌年11月に完成、12月3日に落成式が催された。完成当時、完全な西洋式のホテルは日本にほとんどなかった。そう言えば銀座通りのガス灯は明治7年に85基設けられたんだよなぁ。おぉー!じゃぁ赤レンガ棟もガスなのか?でも有名な銀座2丁目大倉組商会(大成建設前身)のアーク灯もその頃だよなぁ。そう、電気照明も明治15年には使われていたのです。アーク灯はものすごく明るくて、当時の人達は「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と言ったそうです。高い所にあるシャンデリアはガスやロウソクでは暗くなってしまいます。何よりもガスやロウソクは高いところに有るシャンデリアでは点灯が大変です。うーん電気かなぁ?でも、銀座はともかく、この辺まで電気は来ていたんだろうか?僕の友人は明治のこの時期(赤レンガ棟の完成は明治28年)に電気が来ていたか、東京電力まで調べに行ったそうです。すると東京電力本社総務部社史編纂事務局には当時の電線路(電柱の配線図)が残っており、もっと参考になる事実が分かりました。明治24年1月21日に国会議事堂(仮議事堂)で火事が有り、その原因が電燈からの熱による発火だと疑われたと言う新聞記事が有ったらしいのです。えー!国会議事堂(但し仮議事堂は現在の経済産業省辺りに有った)にも電気が来ていて、照明は電気式だったの?当時の写真が残っている。そうなんですよ。結局僕の友人はこれをおおいに参考にしたみたいです。友人はこの調査結果を村松先生に報告に行き、先生もじゃぁそれでいこうと納得された時に、法務省の方が当時の写真を(前述の復元室の写真とは別)見つけて来て、それにたった1灯ですが電球が写っていたらしいのです。その電燈は下向きで花びら型のセードが付いていました。こうして復元室のシャンデリアは電気式のシャンデリアとして復元されました。ところで電気に詳しい方は気になると思いますが、重要な話が有ります。建築基準法では1000㎡を超える3階建て以上の建物には非常照明が必要です。明治時代には当然そんなものはありません。法律は守りつつ復元しなければいけない。どうするか?実は建築基準法では当時は非常照明は性能規定でした。つまり既製品でなくても性能を満足すればOK(但し認定を受ける為に建築センターでチェックを受けなければいけない。建築基準法施行令第126条の5(構造)のイにはこう書いてあります。「照明は、直接照明とし、床面において一ルクス以上の照度を確保することができるもの とすること。」施工者はシャンデリアのうちのいくつかの電球を非常照明として確保し、建築センターの認定を受けに行ったそうです。そのせいでこのシャンデリアにはBCJマーク(当時。今は法律が変わっている)が張ってあり、別置された直流電源(簡単に言えば蓄電池。少し違うけど)から電気を供給するそうです。そうそう火災報知器も付けなければいけないんですね。色が白いので上手く飾りとしてつけられています。そして建築基準法と言えば避雷針も必要です。中国の西安の建物や北京の建物は避雷針が丸見えでしたが、ここは屋根の棟飾りの主要部分を銅製にして避雷針として使っています。なので避雷針が有るとは気がつかないくらい上手く処理されています。最後にここの見学をしていて、霞が関の歴史みたいなのに触れて、そうなのかぁ的な感動をしてしまった。明治の初期から現代までの付近の地図を載せる。この目の前の桜田門で井伊直弼は暗殺されたんだよなぁ。恐ろしい時代だったんだ。
December 20, 2024
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愛天堂、そしてAMAZONのAM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]をつくってみて、AMAZONの旧タイプはネット上を見てもみんな成功しているのに、AMAZONの新タイプ(愛天堂はこれと同じ)は成功事例が少ないのは何故かなと思っていたら、もしかするとと言う事例に出会ってしまった。これってほぼみんなFMが使えないのはセラミックフイルターの不良なのでは?3端子タイプの10.7MHzセラミックフイルターなのに足が2つしかない。探すと折れていた。つまり、このラジオに使われているセラミックフイルターは工場で不良品としてはねられた、使ってはいけないロット(取引において使われる100個とか千個の一つの単位)なのでは?1台目はいじくりすぎて再生不可能だったけれども、2台目、そして今回の3台目はこのセラミックフイルターを交換すると治ってしまった。ちなみに2台目の記事はこれ。愛天堂の★AM/FM2バンドラジオキット[ZX-2051]を作りました。FMも鳴るようになりました。とにかく不良と誤りが多い。一応まとめて回路図に記入してみた。全部共通なので書くと、回路図通りなら、ANTコイルのaとCは緑色の配線のせいで短絡している。でも実物はこの緑色の配線は無いので大丈夫。単なる回路図の書き間違い。CF1は3台とも不良品だった。高い確率なので、恐らくネット上に成功事例が無いのはこれのせいだろう。説明書の回路図と部品一覧で、L1とL2が入れ替わっており、どちらが正解か分からない。これはSONYのICのデータシートを見るとL2はL1よりも巻き数が少ないので、部品一覧が正しく、回路図は間違いだろうと思う。RPは回路図では50kΩなのに実際は5kΩが入っている。これは5kΩでも大丈夫みたい。RPの上側のラインはRF(高周波)用のアースで、下側のラインは電源のアースなので、SONYのデータシートでは50kΩで直列に10kΩが入っているが、RFのアースと電源のアースの間はそれほど高い抵抗差は必要ないと思う。5kΩにすると感度(と言うか音量)がちょっと上がるので、回路図を無視して現状でOK。ちなみにバーANTは説明書と違う接続にしないと、鳴るには鳴るのだけれども、周波数範囲がかなり低くなる。これはバリコンの変化静電容量(固定容量を除いた容量)が120pFの場合は、正しいコイルのインダクタンスは630µH位なんだけれども、実際入っているのは900µHで、約2/3の変化量しか見込めないから。僕のようにニッポン放送(1242kHz)とラジオ日本(1422kHz)しか聞かない人は、コンデンサーの方を調整してやればいいのだけれども、いやNHK(聞かないので正確には知らないけれども多分600kHzくらい)も聞きたければ、上記の「愛天堂の★AM/FM★2バンドラジオキット [K-ZX2051]を作りました。FMも鳴るようになりました。」のリンクを参照してつなぎ変えが必要です。ちょっとショックだったのは電池用の端子がこのキットの物ではなく、他のキット用だった事。仕方ないので、ニッパーで切って形状を合わせた。C16は回路図には121=120pFと書いてあるのに、実際は120=12pFが入っている。これはパディングコンデンサーなので120pFは小さすぎるような気がする。パディングコンデンサーはスーパーヘテロダイン方式に置いて、ANT周波数がOSC周波数よりも455kHz(FMは10.7MHz)違うのに、等容量バリコンではこの周波数差をクリアーできないので、バリコンに直列にかませるコンデンサーで、通常は470pF以上くらいだと思う。このコンデンサーが小さいほど、OSCの周波数の変化量が小さくなるからである。但し、周波数の変化量を大きくすると、OSCの周波数の変化はコイルの両端の電圧変動に直結するので好ましくない。(コイルのインピーダンスは周波数が高くなると大きくなり、 周波数が高くなると出力電圧が下がる。)なので、目的とする周波数の変化の範囲に合わせて調整する。こんな感じである。あと失敗しやすいのがケースの篏合強さとLEDである。ケースはとにかく安っぽいので、丁寧に扱わないとすぐに壊れる。これはAMAZON旧タイプでも同じで、ネット上で文句を言っている人が多い。でも、僕は値段的に仕方ないと思う。ケースを作るには射出成型用の金型が必要になるのだが、金型は30万円から200万円もする。金型の寿命と販売台数の関係で1台当たりのケース単価が決まるのだが、高い金型だと数万台売れないと元が取れない。なので最低の安物の金型を使うと思うのだけれども、ぞの場合は材料の熱耐性との関係で、精密な金型はできない。つまり壊れやすいケースになるのである。だから愛天堂950円と言う値段からして、無理なんだと思う。ちゃんとしたメーカー、例えばSONYなんかだと軽く1万円はするのでは?で、まぁ鳴るようにはなったんだけれども、せっかく作るのに同じ物を作っては芸が無い。そこで現状は88~108MHzのFM受信周波数をいじくって76~108MHzにできないか考えた。OSCコイルを現状の4.5回巻きから5.5回巻きに、ANTコイルを現状の5.5回巻きから6.5回巻きにしたら良いのではと思ったのである。さっそく実験してみた。えー!もう全部の放送局が上の方になっている。これじゃぁダメだ。元通り、OSC4.5回巻きANT5.5回巻きに戻した。(本当はSONYのデータシートを見るとOSC5.5回ANT4.5回が正解かも? まぁでも上手く行っているから良しとした。)じゃぁどうするか?仕方ないのでコイルに小さなコンデンサーを抱かせて周波数を下げよう。OSCコイル及びANTコイルに8pFを抱かせてみた。うーんかなり上の方にあつまっているけれど、まぁ全部受信できるから良いか?恐らく8pFではなく3pF位をOSCコイルとANTコイルに抱かせるか、C3とC4を現状の15pFから18pFに変えると良いのだと思います。僕の場合は、C3とC4は既に半田付けしており、取るのが面倒くさかったので、交換するのではなく、小さなコンデンサーを抱かせるようにしたのですが、これから作る場合にはC3とC4を大きめの物に変えた方が良いのかな?<後日追記>色々と実験してみたら、考えてみたらニッポン放送の93.0MHz以上は受信する必要が無いし、下は76.0MHz位が入れば良いので、コイルはそのままでC3とC4を25~30pF位にした方が現実的なようです。コイルは広げる方向なら調整可能だと思います。その上で目盛をマジックで上書きしたら良いのだと思います。
December 19, 2024
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YOUTUBEを見ていて「消された九州王朝」と言う動画を見ていてひらめいてしまった。今まで何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?と言うことを考えて、世間一般的に言われている、1.古事記は国内向けで日本書紀は対外的な国書をめざした。2.古事記は皇室内の私的な文書で日本書紀は正史来な歴史書である。3.古事記は「序」を見ると古事記成立時と色々な面で合わないので偽書である。等と言われているのは、論理的におかしいと考えていた。例えば1.や2.は古事記と日本書紀の内容が微妙に違うことを説明できない。古事記と日本書紀が大きく違うのは、古事記には出雲に関わる記述が多く、日本書紀には出雲に関わる記述が少ない。もし1.や2.が正しいならば、ちゃんとした日本書紀を作って、それを翻訳した日本書紀日本語版や簡略して皇室内向けの日本書紀概略を作れば済む話である。内容を変える必要はない。いや皇室内でしか話せない秘密の部分が有るので、古事記を別に作ったと言う話が有れば、それは有り得るかもしれないが、それほど秘密な話は古事記には書いていない。でもYOUTUBEを見ていて突然分かった。これって倭と言う国名が日本に変わったのと関係があるのではないだろうか?通説では天武天皇が国名を「倭」から「日本」に変えたらしい。その理由は、旧唐書に書いている。<原文>倭国自悪其名不雅、改為日本これを従来は次のように解釈してきた。「倭国は自分の国名は優美でないことを嫌い、日本国と改称した」これが全ての間違いの始まりだと思う。これが理由ならば名前を変えるチャンスはその前にも何回も有った。例えば継体天皇の時である。一旦古い血脈が切れたのだから変えてもおかしくは無い。あるいは雄略天皇の時である。倭王武として中国に称号を求めて「倭王武の上奏文」を出す際に、心機一転国名を変えましたと言えば良かったと思う。でも変えなかった。では何故 天武天皇は買えたのか?もちろん乙巳の変を経て、中大兄皇子が体制を一新し、壬申の乱でさらに天智天皇一派を滅ぼしたので心機一転国名を変えた。そう言う見方も有るだろう。でも、今まで倭を大倭に変える程度にしか変えなかったのに何故?実は答えは旧唐書に有ると思う。「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は 648年の記事で終っている。これに対し「日本伝」は、「日本書紀」などの記述と矛盾せず、飛鳥・奈良時代の大和政権のことであることがあきらかである。つまり中国(唐)には倭国と日本は別の国として認識されているのである。これに対して九州王朝論者の古田氏は、中国からは「倭」と呼ばれていた九州王朝が、「日本」と称するようになった。しかし中国は以前からの「倭」という国名で呼び続けた。のち九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ。と解釈している。でもこれは誤りだと思っていた。何故なら同じ旧唐書の中に次のように書かれているからである。<原文>日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。一般的には次のように読まれている。日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。つまり九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「倭」という国号を受けついだのなら、話は分かるけれども、(受け継ぐと言う意味から考えて分かるが)ちょっと日本語的に変では?むしろ元々「日本」を名乗っていた大和政権が九州王朝を併合したので「日本」に統一した?そう考えるのが合理的では?そうすると、旧唐書の「日本国は倭国の別種なり」の部分も意味が通じる。また、より意味不明だった旧唐書の次の部分も読めるようになる。<原文>日本舊小国、併倭国之地これも一般的には次のように読まれている。日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりつまり日本は倭よりも小さな国として認識されていたが、倭国が滅んだので日本に併合されたのだと読める。何でそうなったのか。全ては白村江で倭国のうちの九州王朝が負けて滅んだからだと思う。日本書紀持統紀4年10月22日に次のように書かれている。持統天皇は次のように言われた。「斉明天皇の七年、百済救援の役で、おまえは唐の捕虜とされた。 天智天皇の三年になって、土師連富抒、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、 唐人の計画を朝に奏上しようと思ったが、衣食も無いために京師まで行けないことを憂えた。 その時、博麻は土師富抒らに語って、 『私は皆と一緒に朝のもとに行きたいが、衣食もない身で叶わないので、 どうか私を奴隷に売り、その金を衣食にあててくれ』 と言った。 富抒らは博麻の計に従って、日本へ帰ることができた。 おまえは一人他国に三十年も留まった。 私は、おまえが朝廷を尊び国を思い、己を売ってまで、忠誠を示したことを喜ぶ。 それゆえ、務大肆の位に合わせて、絶五匹、綿十屯、布三十端、稲千束、水田四町を与える。 その水田は曽孫まで引き継げ。 課役は三代まで免じて、その功を顕彰する」実は白村江の敗戦時に筑紫の君薩夜麻以下は捕虜となり、唐に連れていかれた。そして唐人が悪いことを考えているので、日本に知らせようとしたが、お金も無いのでどうしようも無かった。その時に博麻は自らを奴隷にして、そのお金で富抒や筑紫の君は日本に帰ることができた。だから持統天皇は博麻を称えて、褒美を与えて(曾孫まで続く)、課役を3代まで免じた。この時に九州王朝は滅びたのである。それまでは近畿の王朝は九州王朝よりも小さく、恐らくは斉明天皇と中大兄皇子は九州王朝の出身であった。なので、無謀で明らかに負けるのが分かっている唐との戦いに臨み白村江で敗れたのである。そしてその時に日本は未曽有の危機に瀕した。唐が日本に攻めてきたらどうしよう。そこで中大兄皇子=後の天智天皇は策を考えた。唐と戦って負けたのは「倭」で、近畿に有る「日本」は関係ないと言うことにすれば、唐は辺境の近畿まで攻めてこないのでは?その策は見事にあたり、唐は九州まで2000の兵を寄越して駐留したが、近畿までは攻めてこなかった。天智天皇は一応念のために、水城を造ったり、近江に遷都して色々と対策をしたが、唐としても費用対効果が薄い辺境の日本に兵を進めるのは大変なので、まぁ平和的に解決するなら良いかと、矛先をおさめている。それは日本書紀天智天皇紀3年5月17日以下に書かれている。夏五月十七日、百済にあった鎮将(占領軍司令官)の劉仁願は、朝散大夫郭務惊らを遣わして、表函(上奏文を収めた函)と献物を奉った。つまり唐は倭(九州王朝)を滅ぼしたあと、敵なのか味方なのかを探りに郭務惊を寄越している。冬十月一日、郭務惊らを送り出す勅をお出しになった。この日、鎌足は沙門智祥を遣わして、品物を郭務惊に贈られた。四日、郭務惊らに饗 応された。つまり天智天皇は戦争なんかするつもりはありませんよと、上手くいなしている。恐らくは(想像だけれども)天智天皇はこう言ったのだろう。「唐と戦争をしたのは倭国です。我が国日本は唐と仲良くやっていくつもりです。 よろしくお願いいたします。」九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣わしてきた。等というのは右 戎衛郎将上柱国百済禰軍、朝散大夫柱国である郭務惊のことをいう。郭務惊は天智天皇が敵ではないことを確認させる為に、上司の劉徳高を連れて来た。十一月十三日、劉徳高らに饗応をされた。十二月十四日、劉徳高らに物を賜わった。この月、劉徳高らは帰途についた。劉徳高は安心して、唐に「日本」は敵ではありませんよと報告しに帰って行った。6年十一月九日、百済の鎮 将である劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして、大山下の境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。ここで注意が必要なのは、筑紫都督府とは大宰府のことではない。近年の発掘調査で、大宰府の遺構は7世紀後半以降に築かれており、まだこの時大宰府ははない。ここで言う筑紫都督府とは、唐の占領軍事務所である。ここまで書くと、僕が何を言いたいのかが分かると思う。そう、日本は天智天皇の上手な外交戦略により救われたのである。天智天皇は「倭」国と「日本」は別の国で、倭は百済と協力して唐と戦ったが、日本はそれに関与しておらず、倭が滅びたこれ以降は、日本がその地も含めて平和に治めていきますから、これからも仲良くしましょうねとごまかしたのである。なので、旧唐書には、倭国の条と日本国の条が独立して別々に有り、1.日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。2.日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと書かれているのだと思う。天智天皇の策略が見事にあたっているのである。天武天皇も(日本の安全を考えて)この政策を継続した。なので、この時に「倭」を「日本」に変えたのだと思う。そして、これが古事記と日本書紀が有る理由だと思う。古事記には倭=出雲+九州王朝に関する記述が多く、(島根の出雲はあくまでも大国主の死んだ所であり、島根の出雲は九州王朝の属国だった。) それ故に出雲大社の大国主命は今でも正面を向かずに故郷の福岡の方を向いている。)唐など他の国に知られると、天智天皇は嘘(倭と日本の関係)を疑われ、日本侵攻の口実にされる恐れが有るから、無きものにしよう。日本書紀は、「倭国の歴史書」ではなく「日本の歴史書」としてつくろう。どうしても倭に関わる部分は神話にして、神話だからとごまかしてしまおう。こうして古事記は作ったのだけれども廃棄して、(でも唐が滅びたら出てしまった)日本書紀は倭の部分はうまくごまかして、「日本」の歴史書としてつくられた。これが古事記と日本書紀がほぼ同じ時期に違う内容で2つ存在する理由だと思う。なんかうまく解決したような気がする。本当にそうかも?だって、何故唐と新羅が日本に攻めてこなかったか理由が分からないから。天智天皇が(うまく外交政策を行って)日本を救ったのだと思う。<後日追記>やまさんに、「何故大化の改新以前の歴史を記した文書が少ない(と言うか古事記と日本書紀以外に無い)のか」と聞かれて、このブログを紹介したが、その時にふと気がついてしまった。それって異常では?本当に無かったの?もちろん帝紀や旧辞の話は知っている。でも天皇家に帝紀や旧辞が有るのならば、他家(諸家)にも同じような自分の家の歴史的な文書が有ったのではないのか?天武天皇も「諸家に伝わる帝紀、本辞(旧辞)は既に真実とは違ってきている」と言っている。つまり諸家にも帝紀や旧辞が有ったと言うこと。それが何故どこにも残っていないのか?すぐに思いつくのは、このブログに書いた天智天皇が日本を守る為に唐に対してウソをつき、天武天皇もそれを引き継いで、唐を始めとした諸外国に知られないように、徹底して文書を焼き捨てたと言うこと。違うかなぁ。そのせいで、実は先代旧辞本紀なんかも、本当は正しい文書が有ったのに、原書は無くなって、聞き伝えた物を文書化し、それを学の無い後世の人間が書き伝えたせいで、もう偽物同然になってしまった。そう言うことじゃないだろうか?(この天武天皇の言葉は今まで我が天皇家に伝わる話が本当だから他家の物は無くしてしまえと そんな意味だと思っていた。 天武天皇ごめんなさい。そんな人じゃァなかったんですね。 そうか、諸家に残っている文書の中には倭と日本の関係を書いてある物があるから、 日本を守る為には、そう言う文書は無くさないといけないと言う意味だったんですね。)つまり古事記や日本書紀が日本最初の文書ではなく、その前にも有ったのだけれども、天智天皇や天武天皇の時代に、唐から日本を守る為に、全て焼き捨ててしまったので、いきなり日本書紀のような本格的な史書が世の中に出たのではないだろうか?だって世の中そんなに急に文書が進化する訳がないから。最初はつたない文書から始まって、古事記のようなレベルになって、そして日本書紀のようなちゃんとした文書ができるのが普通だと思う。どこかに「つたない文書」があるのではないだろうか?
December 15, 2024
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11月28日は年一回のわの会のバス探訪だった。昨年は伊豆に行ったが、今年は上野・巣鴨・柴又と東京の下町の寺社にお邪魔した。ただ、僕は11月27日まで中国に行っていて、そこで風邪をひいてしまったので、すぐ翌日のバス旅行はちょっとしんどかった。いや、中国で風邪をひいたと言っても、怪しい病気じゃないので、体力さえ回復すれば大丈夫だと思っていたんだけれども、きつかった。まぁ、でもバスなので、休み休み行くことにした。ルートは下の地図の通り。バス旅行なので地図はアバウトだけれども、結構充実した寺社巡り。出発は朝の7:30なので、6時起き。中国の早起きと同じだ。まずは上野の寛永寺に着いた。寛永寺は天台宗の別格大本山。徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた天海大僧正が1625年(寛永2年)に建てたお寺。山号は東叡山。山主は輪王寺宮の称号を朝廷から与えられ、ここ寛永寺の他に比叡山延暦寺、日光山輪王寺の山主を兼任した。偉いんだぁ!寛永寺の案内図をまずは載せる。うーん広い。そりゃ徳川家のお寺だもんなぁ。当然か。寛永寺はそんな徳川家ゆかりのお寺なので、現在の上野公園を中心に35万5千坪の広さ、寺領は1万2千石も有ったらしい。幕末には彰義隊が立てこもった場所として有名だが、今はお花見の名所。まずは根本中堂。上の写真だけれども、元々は少し南の現東京博物館玄関の噴水池辺りに有ったらしい。ただ、それが彰義隊の戦いの際に焼けてしまい、現在の建物は川越の喜多院の本地堂をここに移して本堂としたらしい。何で中堂と呼ぶのかと思っていたら、中堂とは天台宗の建築様式らしい。ここで、天台宗→天海僧上からいわゆる天海僧上の伝説を思い出した。この人は相当に謎の多い人で、たくさんの伝説がある。1.百歳以上生きたらしい。 これはいくつかの資料に書かれており、意外に信憑性があるが、 そのいくつかの資料がバラバラで、どれが真実か分からない。 ただ、どれも百歳を超えているので、長寿だったのは間違いない。2.福島正則や沢庵和尚を特赦を願い出て助けた。これは確実な史料が残っており、 史実らしい。3.家康の死に伴って行われた事業に多く関わっている。 江戸の都市設計や日光東照宮の創建、そして今日行った上野寛永寺は彼の設計である。 多分才能のかたまりだったんだと思う。4.上杉謙信と武田信玄が川中島の戦いで直接対決したのを山の上から見たらしい。 これは多分虚言で半分冗談だと思われる。但し、武田信玄はこの時は影武者だったと言い、 元になっている資料はかなり怪しい。5.生き延びた明智光秀だと言われている。 彼は素性が相当に怪しく、前半生が良く分かっていないので、 足利義澄の子だと言う説や、生き延びた明智光秀だと言う伝説が有り、小説になっている。 彼は蘆名氏(三浦一族の末裔の一つ)の出身で会津出身だとは言われているが確かではない。 何故この眉唾な説が出て来たかと言うと、 徳川家光の乳母の春日局は明智光秀の家来の斉藤利光であり、 家綱の乳母は同じく光秀の家来の溝尾茂朝の孫の三沢局であると言うことがある。 斉藤利光は本能寺の変後山崎の戦いで敗れて秀吉に処刑されているが、 娘の福(春日局)は母方の稲葉家に引き取られて小早川秀秋の家臣の稲葉正成の後妻となる。 関が原の戦いで稲葉正成らが小早川秀秋を東軍に寝がえさせたのが東軍の勝利の一因だが、 家光の乳母に抜擢されるほどのことではないので、 何らかの原因、例えば天海僧上が光秀で、彼女を引き立てたと言うのが根拠らしい。 でもちょっと無理がある。まぁただ天海僧上が怪しい人物で、何故か家康に大きな貸しが有ったらしいのは事実である。もしかして、家康が本能寺の変の筋書きを描いたのであれば、家康が伊賀山中を逃げ延びたのも光秀のお陰かもしれず、それならば天海僧上が光秀かどうかは別として、春日局が勢力を伸ばした遠因かもしれない。まぁ冗談は置いておいて、寛永寺根本中堂の脇に面白い物が有った。関東のお寺には古い鬼瓦を飾る伝統みたいなのが有るなぁ。横浜市金沢区のお寺にもいくつか、それも三浦や北条の紋が入った鬼瓦が有ったような気がする。次は徳川綱吉霊廟なので中には入れないが、上の縁起にも書いてあるように整った造り。派手さは無いが、しっかりとしていると思う。次は開山堂を目指すのだが、途中にまた面白い場所が有った。今は使われなくなった京成の駅。京成博物館動物園駅跡である。この駅は東京都心への乗り入れを目指す京成が、1933年に日暮里と京成上野駅(現形成上野駅)の中間に設けた駅で、公園の上には線路を設けられないので、京成は地下に線路を引き、ここの場所は朝廷の世伝御料地だった為、皇室の勅許が必要で苦労したらしい。お陰で通常の駅とは違う西洋風の荘厳な造りになっており、動物園や上野公園の最寄り駅として利用されたが、ホームが短く4両しか止まれない等の理由で2004年に廃止されたらしい。確かに古くて立派な駅だなと思う。ここを過ぎると開山堂に着く。開山堂は上の縁起にも書いてあるように、天海僧上が崇拝していた慈恵大師を祀る寺。ただ、それだけならどこにでもあるお寺なんだけど、ここ特有のお堂が有る。右の絵はなんだ?どこかで見たと思っていたけれど、このお寺さんに有ったんだ。角大師は、天台宗の慈恵大師(十八代目天台座主)が世の厄災を憂いてあらわされた護符。世の中に疫病が流行っていた時に、慈恵大師の元に疫病神が現れて言った。お前も病気にならねばならない。そこで慈恵大師は左の小指を差し出したところ、小指が疫病にかかった。ものすごい激痛が走ったが、慈恵大師は法力により疫病を打ち払った。その時に人々を救わねばならないと思った慈恵大師が等身大の鏡の前でお祈りをささげたところ、鏡に映った慈恵大師の姿がみるみる変わっていき、最後は骨ばかりの鬼の姿になった。この降魔の姿となった慈恵大師のお姿を弟子が書き写し、版画として慈恵大師が開眼の加持され、世の中に広めたのがこの護符だそうだ。(骨と皮になった慈恵大師と言うことは断食してやせ細った姿を書き写したんだな。)テレビでやっていたなぁ。さっそく(当日は体調が悪かったので)お祈りしてきた。ここから上野公園を通って上野東照宮を目指す。途中に野口英世の銅像が有る。何でここに有るんだろう。そう言えば横浜市金沢区には長浜に野口英世ゆかりの検疫所が有る。長浜検疫所は元はコレラの蔓延防止の為に横須賀(長浦)に建てられたものが金沢区に移転して、若き野口英世はしばらく金沢区で働いていたのである。わの会のお世話役の皆さんがそのことを覚えていて、ここを通ったのだろう。上野東照宮に着く。実は僕は九州から上京して45年以上たつのに、上野東照宮は始めて来る。最初は入って左手のお化け灯籠。お化け灯籠と言っても別に妖怪がいるわけではない。大きいのである。6mもある。元に戻って右手を見ると五重塔が有る。えー!東京にも五重塔が有るじゃん。関東大震災は大丈夫だったの?実はこれが大事な所で、この塔は心柱が懸垂式ではなく土台からしっかりと建てられている。江戸時代の建物は懸垂式が多いのだけれども、この五重塔は桃山時代の建築様式。だから地震に強いのです。また、看板にも書いてあるけれど、全国の神社に有った五重塔は江戸時代の神仏分離令により、仏教形式の五重塔はけしからんと壊されてしまいました。ところがここの五重塔は当時の神官が頭の切れる人で、この五重塔は東照宮の物ではなく隣の寛永寺の物だと機転を利かせて、守られました。なので珍しくも残っており立札に書かれたように寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)となっています。さらに進むと沢山の銅灯籠が並んでいます。全国の大名たちから寄進された物です。柱部分には寄進者の名前と年月日等が刻まれています。中でも大きくて立派なのが御三家の物です。手水屋の傍には可愛らしい親子虎の石彫が有ります。そして東照宮は神社なので、当然狛犬も有ります。さすがに名の有る石工さんが造っただけあって、立派だし細工が細かな芸術品です。突き当りは唐門です。立札に書かれた左甚五郎の彫刻はこれかなと思って写真を撮って来た。うーん。僕には芸術は分からない。ちょっとけばけばしいかなと思う。中に入ると社殿が有る。金色殿である。日本の建物は確かに中国の建物よりも趣が有ると思う。中国のはけばけばしくて軽い。金色堂の周囲は透き塀で囲まれているが、たいしたことはないので写真は無い。この金色堂の脇に面白い物を発見した。狸の神様?である。栄誉権現と言う。いや、そもそも何で狸?他にも神様は居ただろうに何で狸?大名・旗本・諸家を潰し?ふと気がついた。徳川家康のあだ名って「狸じじい」じゃん。それでなのかな?隠神刑部だと言われているらしいが、何で東照宮に有るの?東照宮はこの辺までとして、次はとげぬき地蔵。実は僕はこの辺が最高に体調が悪くて、バスの中で寝ていた。なので、このとげぬき地蔵は後日1人で見に行った。コンクリート製の神社ってなんかなぁと思う。でも、由緒ある神社なので、中は立派。傍らには有名な洗観音が有る。本殿よりもこちらの観音様の方が人気があるような気がした。オバサン達がみんなで水をかけて手拭いで拭いていた。僕もさっそく磨いてきた。次は柴又帝釈天。フーテンの寅さんのお陰で、参道は平日でもにぎわっている。入ってすぐの高木屋さんで遅めの昼ご飯を食べた。映画でおなじみの店先である。中でご飯を食べた後に壁を見ると、寅さんの出演者との写真がたくさん貼ってある。倍賞千恵子さんと大原麗子さん。昔の女優さんは本当に綺麗だと思う。会いに行けるAKBのお陰で日本全国アイドルだらけになったけれども、本当に綺麗な人がテレビに出てくれると嬉しいな。それまでは高木屋さんに来ると良いと思います。(宣伝)帝釈天に着きます。今にも竹ぼうきを持った蛾次郎が出て来そうな気がする。中に入ると、今日は特別に見たいものが。彫刻達である。一人で来るとなかなか見ないのだけれども、来て良かった。すごいと思う。中国のお寺の彫刻も良いけれど、日本の彫刻にはかなわないと思う。精密だし、だいたん。奥行きが有ると思う。ちなみに離れにこの彫刻の下絵等が有った。横山大観だって。下絵と言えど一流だな。正直すごいと思った。またここの庭が良い。いやー、やっぱり日本の庭園は世界一だと思う。一人で来ると、ここまで見ないからなぁ。帝釈天、来て良かった。そんな感じで東京下町寺社巡りは終わり、帰路についた。
December 13, 2024
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北京-洛陽-西安に行って来て思ったのは、日本の歴史学者や歴史マニアは中国に行ってみた方が良いと言うこと。えーそうだったのか的なことがたくさん分かるから。例えば、漢委奴国王の印の文字について、金印は「倭」を略して「委」と書いている。これを略すわけはない。伊都国の「委」だと言う人がいるが、中国に行けばすぐに分かる。そもそも魏志倭人伝には「伊都國」と書いてあるのだから「委」は伊都国のはずはないのだが、学者と言うのは頑固だから思いつきでものを言うので、譲らない。でも中国に行って分かったのは、中国人は漢字を略して書きたがると言うこと。古代の中国だけでなく、現代中国でも同じである。いわゆる「簡体字」と「繁体字」で、「簡体字」は1950年代の「文字改革」より制定されたもので、偏(へん)や旁(つくり)が簡略化され画数が少ないため、とても書きやすく、書き慣れると日本人にとって快適で馴染みやすい。つまり倭のにんべんを略すなんて、今でも行われているのである。だから委は倭のにんべんを略したものと考えるのが普通だろう。それは中国に行くとあちこちで気づく。今回特にそうなのかぁと思ったのは「洛陽(ルオヤン)」を現代では「洛阳」と書く。何でそうなのかぁと思ったかと言うと、篇はこざとへんでそのままなのだが、つくりが「日」で元の全体の「陽」と意味が同じだと言う事。なるほどなぁと思わずうなずく。「日」も「陽」も同じじゃんと言う安易な現代中国人。多分その程度なんですよ。学者先生。その中国人の感覚が分かれば漢委奴国王の印の問題なんてすぐに解決すると思う。そしてもう一つ、中国に行って分かったのは、中国は韓国よりも日本と感覚が似ていると言うこと。今回本当に日本人は中国から渡って来た中国人の子孫なんじゃないかと思った。いわゆる秦の時代の徐福の話は眉唾ではあるんだけれども、案外と史実の可能性もあるのじゃないかと思った。昔から神武東征の話は神話ではあるけれども、何らかの元になるエピソードが無ければ、あの話は作れないなぁと思っている。もし徐福の話が本当で、彼の連れて来た人達が日本に散らばり、その地の日本人と結びついたとしたら、神武東征の話は有り得るなぁと思った。秦の始皇帝陵と兵馬俑を見たからである。紀元前3世紀つまり卑弥呼の600年前にあのレベルの文化が有って、その文化を身に着けた人達が日本に来たのならば、日本に起こったカルチャーショックは容易に想像できる。恐らく日本人は排他するのではなく、受け入れて吸収しようとするだろう。だって当時の日本には馬もいないし、舟は丸木舟のレベルだったんだから。そしてそれが事実ならば神武東征の話は簡単に解決する。神武天皇が戦ったナガスネヒコは同じ秦から来たニギハヤヒを受け入れた日本人で、ニギハヤヒグループの技術力により、優れた武器を持っていたので、一旦は神武天皇の勢力は敗北する。神武天皇が熊野に回って再挑戦したのは、尾張にいた同じ秦から来た高倉下のグループの協力を得ようと考えたからで、その時は伊勢に居た別のグループに襲われて全滅しそうになったが、(古事記にはみんなが気を失ったと書いている)関東に居た、同じ秦から来た別のグループ、武御雷が関東に根付いており、(古事記に出てくる武御雷神を祀る鹿島神宮と経津主大神を祀る香取神宮は関東に有る。)武御雷が加勢に来て、たくさんの金属製武器(刀)を持ってきてくれたので、(古事記ではふつのみたまのエピソードになっている)再び力を盛り返し、ナガスネヒコに再アタックする。その時にニギハヤヒが寝返って神武天皇についたので、ナガスネヒコは負けてしまう。こうして神武天皇は大和の地を征服したと言うのが神武東征だとすれば、中国から渡って来た徐福の一団が日本各地に散らばっていたとすれば、簡単に解決するのである。しかも日本人は仏教が中国から渡って来たと言うので、中国は仏教の国と考えるが、確かに仏教寺院はたくさんあるけれども、日本同様に「神様の国」である。神仙や龍なんてのは仏教から発生したものではない。故宮なんて仏教は形だけで、真実はほとんど神様の世界である。なのであちこちに高麗犬(狛犬)はいるし、正面入り口には雲龍階石が必ずいる。どうみても仏教色は無い。屋根にはしゃちほこがあるし、もう日本じゃん。お寺ではない神様のいる所には「門」がたくさん有って、日本の鳥居の原型のような感じ。中国の神様のいる所の入口の「門」はちょっと変形すると宇佐八幡宮の門そっくりになる。(反り返っている)だから、中国は日本に似ているなぁと思った。日本の神仏混淆は日本で発生したのではなく、既に中国の段階で神と仏は混じったんだ。その混じった物が日本に伝わったものだから、日本の学者は「混じった物」を真正の仏教だと考えて、仏教と神道が混乱したと考えるが、すでに中国で混じってしまい、混じった状態で日本に伝わったんだなと思う。なんかそんなことを今回の中国旅行で考えてしまった。僕でも色々と考えるのだから、偉い学者先生はもっと中国に行って新しい発見をすると良いのではないかと思う。兵馬俑に色が付いていたのならば、高松塚古墳の壁画の例もあるし、日本の埴輪に色が付いていてもおかしくは無いなぁ。兵馬俑の色は衝撃的だった。だってどの教科書にも書いてないもん。そして西安の観劇でも大発見をした。よく日本の銅鐸(どうたく)は元はもっと小さくて、牛の首に掛けた鐘から発達したのだと学者先生は言うが、確かに根源までさかのぼればそうかもしれないが、日本に渡って来た時点ではもう牛の首の鐘ではなかったのでは?といつもそう思っていたら、(だって魏志倭人伝なんかを見ていたら当時の日本にはまだ牛は居なかったはずだから)西安で答えが出た。牛の首の鐘から楽器に発展したのは既に中国での話であり、その牛の首の鐘から進化した楽器が日本に伝わって銅鐸になったのだと直感した。編鐘(へんしょう)である。これが牛の首の鐘から進化した楽器に違いない。Wikiにはこう書かれている。編鐘(へんしょう)は、音高の異なる複数の鐘を枠に吊るした、古代中国の打楽器である。青銅で作られているため、八音の「金」に当たる。ほら青銅で作られているって書いてあるじゃん。西安で見た編鐘はこんな感じ。まさに銅鐸(どうたく)じゃん。銅鐸は古墳からは見つからず、村はずれのような所から見つかるらしい。(偉い人のお葬式で使うのではなく、田んぼのそばで収穫祭や田植え祭りに使ったのだろう。)出雲の加茂岩倉遺跡で見つかった39個の銅鐸は、重ね合わせた状態で見つかったらしい。上の写真の銅鐸を使わない時には倉庫に重ね合わせて格納していたと考えれば、まさに銅鐸そのままじゃん。上の編鐘は木枠に取り付けるので、首の部分が銅鐸とは少し違うが、紐で吊るしたのなら、上の写真の編鐘は日本の銅鐸の形になるのじゃないだろうかそして、村の規模が大きくなるのつれて、祭司者も偉くなっていき、使われる銅鐸も楽器から、その祭司者の宗教的な道具に変わっていき、最終的には巨大化して、威信材として飾るものに変化していったのだろう。そう思った。そんな感じなので、繰り返しますが歴史学の先生方は是非中国に行ってみると良いと思います。そう言えばもう一つ考えたことがある。それは、2018年1月に神奈川県・横浜市・鎌倉市・逗子市の偉い人達が、鎌倉及びその周辺の「やぐら」と龍門石窟の関係について開催した会議の話である。日本側の人達は「やぐら」と「龍門石窟」の形状が似ていることから関連性を主張したが、僕は以前から、それって「くそみそ」の世界じゃんと思っていた。確かに両方とも山の側面の岩に穴を掘って、壁に彫刻している。(石窟については今回の中国旅行の中で紹介したが、 やぐらは鎌倉近辺に多い横穴墓から発展した山の穴を利用した法華堂である。 法華堂とは「皇家・貴顕の納骨堂。 納骨のために設けられた建物」である。 中には死者を埋葬したり、或いは火葬した骨壺を生めて、傍らに仏塔を置いている。 埼玉の吉見百穴が発展して法華堂になったような横穴。)確かに見た目は同じなんだけれども、宗教的目的と歴史が違うじゃんと思っていたが、今回行ってみて、やっぱり違うじゃんと確信した。中国の龍門石窟は「仏様を祀るのが目的で、一部僧侶を祀る石窟もあるが、それは僧侶その人を祀っているのではなく、仏としてさとりを開いた、つまり仏になった人を祀っているのであって、お墓ではない。」対して日本のやぐらは「鎌倉武士を始めとして主に亡くなった武士の菩提を弔う為のもので、解脱して仏になった僧侶を祀るものも、その僧侶を仏ではなく故人として祀っている」と言う絶対的な違いがあると思った。つまり中国の石窟は、やぐらよりもむしろ摩崖仏に近いと言うことである。たしかに形状は似ている。でも祀られているのは中国の石窟は仏で、日本のやぐらは武士である。くそみそだと思う。くそと味噌は見た目は似ているが全然別の物。偉い先生達はやぐらを世界遺産にしたかったのだろうけれども、ちょっとなぁ。学者先生って変だと思う。見た目が同じだからって宗教や主旨が違うじゃん。実は会議の席でも中国側の人達はその事に気がついていて、柔らかく否定している。報告書の総括を見るとこう書いている。「「やぐら」が「痙窟(いくつ)」 の派生形であるかを判断するには、形状の比較だけに止まらない考察が必要ではないかと指摘があっ た。」と。また中国側から、「石窟葬のかなり古い例として、6世紀後半 の乙佛氏の「痙窟」がある。その対象は僧侶だけでなく、皇帝 を埋葬した事例もあり、さらに仏教徒以外も埋葬されたと考えられる。」と気を使っている。皇帝は神様に近い人だろう?武士とは全然違うと思う。仏教徒以外も埋葬されたと考えられると言うのは明らかに気を使っているので具体性が無い。龍門石窟で僧侶が祀られているのは、12月3日のブログで書いたが、龍門石窟の恵簡洞である。恵簡洞この石窟は確かに「痙窟(いくつ)」ではあるが、説明に書いてある文を読むと、修業の末に仏になられたのでここに祀っていると書かれている。つまり僧侶として祀っているのではなく、仏として祀っているのである。皇帝も同じだろう。死んだ皇帝として祀ったのではなく死んで神になったので、神として祀っているのである。やぐらに三浦一族や北条政子が祀られているのとはわけが違う。三浦一族も北条政子も仏や神になったわけではない。子孫たちが亡くなった三浦一族や北条政子を故人として祀っているのである。いくら「やぐらを世界遺産にしたいから」と言って、事実を曲げるのは良くないと思う。先生方は中国に行って、龍門石窟を見てきた方が良いと思う。
December 8, 2024
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中国旅行もあと少し。今日は西安市内の観光。まずは西安城壁を見に行きました。西安は昔は長安と呼ばれていました。古代より政治の中心地として西周から秦、漢から隋、唐の都城と十三の王朝の都として、二千数百年の歴史を有す古都です。唐の滅亡後、中国は五代・契丹・北宋・遼・金等と揺れに揺れていましたが、モンゴルがアジアから中東まで広く征服し、その支配下にありました。このモンゴルが分裂して中国の王朝になったのが元ですが、元は中国の王朝ではないと言う見解も有ります。その頃から首都は北京に移り、長安は首都機能を失い、明の時代に西安府が置かれて、それ以来西安と呼ばれるようになります。なので、逆に言えば北京に首都が移る前の古い文化は全てここに残っているのです。なので見るべき所はいっぱいあるのですが、今回は大雁塔(唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔)や、西安城壁(唐の長安城を基礎に明の洪武年間にかけてレンガを積み重ねて築かれた堅固な城壁)そして日本から派遣されて遣唐使としてここを訪れた空海や阿倍仲麻呂の縁の地を訪ねます。西安城壁はホテルとの関係で西門からスタートです。ここから城壁の中に入っていきます。城壁の中に入ったら上に登ってみます。上の写真のやぐらの右手あたりから、中庭を見下ろした感じです。下の写真の門は中庭の奥にあたる門。中庭は日本のお城で言えば「虎口」かなと思います。兵隊たちが出入りする部分で、一度に多くの敵兵が入れないようにし、入ってきた敵を四方から弓矢で攻撃可能な構造です。城壁は市街をぐるーっと囲み、上は馬でも走れる広さになっています。こんな感じ。城壁の幅、そして長さが実感できるように、平面図を付けてみました。延々と向こうまで続いているのに、なんとこれは平面図で言えば左のほんの一部でしかありません。左の門が今入って来た門。えぇー!すごい!ちょっと日本のお城とは違う規模?山や川が多くて、それを自然の要害として使える日本とは違って、中国のようにだだっ広い平原に都市を造る場合は、人工的に城壁を作って守るしか無い。それが実感できる城壁でした。そしてそれはレンガで作られているのです。今回面白いのを見つけました。そのレンガを作っている人のプライドです。いやもしかするとプライドではなくお金の支払いの証拠としての物かもしれませんが、レンガに名前と日付が刻んであるのです。以外に新しい日付なので、近代になって補修された時のレンガかもしれません。そして僕の仕事の関係で、これはと言うのも写真に撮って来ました。城壁のやぐらの避雷導体です。大平原の中で、他に高い建物が無いので、雷はここにしか落ちないのでしょう。もう全体を避雷導体が覆っています。燃えにくい鉄筋コンクリートであれば避雷針でもOKですが、木造だと無理だなと思います。しかもその避雷導体に落ちた雷は、写真右のビニール管内を通る立ち下げ導体を通って地面へ。金属製の管だと付近に居た人まで感電します。雷の電流は5万~20万Aは流れますから。しかもそれだけの電流が流れると金属の管は磁力を発生し磁力でつぶれたり曲がったりします。日本のお寺も見習った方が良いと思います。鎌倉時代からこっち、日本のお寺はたくさん火事になっていますが、多くは雷のせいですから。城壁を見たら次は大雁塔です。入口には玄奘三蔵の像が有り、バックに大雁塔が見えます。絵葉書のようです。いよいよ見学開始ですが、ルートはこんな感じ。最初は鼓楼と鐘楼です。見学通路の両側に有りますが、写真は一つに合成。まっすぐ進んで行くと大雄宝殿が有ります。その裏には兜率が有ります。写真にも書いていますが、正確には兜率天(とそつてん)です。でも仏教の世界観はよく分からないので、素通りします。兜率の両側には6つのお堂がありますが、僕は観音様が好きなので観音様だけ写真撮影。いわゆる千手観音様なのかなぁ?そしていよいよ大雁塔です。ツアーには登壇は含まれていないので別料金25元かかります。でもせっかくなので登ります。登っていると途中に宝冠が有りました。明らかに中国の帽子とは違う(中国に王冠なんてあった?)ので、恐らく西方から持ち帰った物でしょう。さすが西安はシルクロードの起点だと思います。三鈷杵が付いているので仏教に関係する王冠ですが、玄奘三蔵が持ち帰ったのかも?大雁塔の頂上に登ると西安の街の四方が見られます。南の方を写真に撮ってみました。中国って広いなぁと思います。しかもものすごいマンション群。不動産屋はもうかっているな。と思ったら最近はバブルが崩壊して大変なんだそうです。大雁塔を降りて奥に進むと玄奘三蔵院が有ります。玄奘三蔵が持ち帰ったお経等を保管しているお堂です。門をくぐると、中には大遍学堂、光明堂及び般若堂が有ります。玄奘三蔵が持ち帰ったお経等が保管されているのです。おぉー!般若心経?だから般若堂なのか。壁を見ると玄奘三蔵が苦労してたどった道のりが書かれています。半端ない距離を歩んだのだなぁ。ところで、玄奘三蔵と言えば西遊記のモデルです。そもそも三蔵(さんぞう)は、仏教における経蔵・律蔵・論蔵の3つのことであり、仏教の典籍を総称したものなので、人間の名前ではありません。でも玄奘三蔵はインドから中国にそのお経を持ち帰った人なので、特に三蔵と呼ばれています。玄奘は中国を出る時に唐の王朝にインドへの旅の許可を求めましたが許されませんでした。でも玄奘は国禁を犯しても頑張って出発し、お経を持ち帰ったのです。えー!それじゃぁ密輸じゃん!いや冗談ですが。道のりは大変で苦難の連続だったと思います。さすがに西遊記のように妖怪は出なかったでしょうが、盗賊なんかは当たり前に居ただろうなぁ。と言うことは孫悟空や猪八戒や沙悟浄は居なかったかもしれないが、ボディガードは居たんだな。まぁ、それが巡り巡って日本にも伝わったんだ。大雁塔を後にして次は青龍寺。空海が修行したお寺です。入口はこんな感じ。青龍寺の案内図。中に入って、まずは牡丹園に行きます。綺麗な所ですが、ふと見ると日本と同じ灯籠が有ります。滝や石も何となく日本のお寺の庭と共通するものが感じられます。いや、逆に日本のお寺は、この辺の中国のお寺のマネをしたのかな?お庭を進んで行くと青龍寺が有ります。中に入ると、中の廊下に恵果と空海の説明板が壁に飾られています。うーん読めない。でも何となく空海が恵果の弟子になってと言う雰囲気は分かります。ここを出て次は空海の記念碑。けっこう立派じゃん!実はここ西安と四国の人達は姉妹都市になっていてあちこちに四国の人の名前が書いてあります。あれ?そうか、四国の八十八か所巡りか。そうかぁ空海かぁ。そうなんですね。だから日中友好関係の展示が多いんです。恵果・空海記念堂なんてのも有ったりします。中にはもちろん空海ゆかりの品々が。そしてお二人の像も有ったりします。ここまで来るとなんか白けてしまいそうだったんですが、お庭を歩いていて、珍しい木を見つけて急に元気が出ました。葉っぱは松なんですが、木が全然違う。なんか白樺みたい。悩んでいたら、同じツアーの方が調べてくれました。シロマツと言うらしいです。中国の木で、日本にも持ち込まれて南の方では生えているみたい。さらに僕を元気にしたのは地元のお姉さん達。北京は不細工なお姉さんばかりだったのに、ここのお姉さん達は美人が多い。おぉー!北京よりもはるかに美人だよ。嬉しくなっちゃう。ちょっと安心して次は興慶宮。阿倍仲麻呂が唐で過ごした場所らしいです。お客さんが少ない。中には阿倍仲麻呂記念碑が有ります。結構立派です。日中友好に気を使っているのかなぁ?この興慶宮はあまり見る所も無いのですが、一番奥に龍堂が有ります。龍堂の中には立派な龍がとぐろを巻いています。あまり怖くない。こうして西安の観光は終わったのですが、このツアーにはオプションで観劇が付いています。260元と高いのですが、ネットで調べると日本でチケットを買っても6000円なので、1元23円とすると260元=5980円ですから、ちょうどです。演目は「大唐女皇」唐の則天武后の物語らしいです。言葉が分からないので苦労しますが、両サイドの電光掲示板には英語で解説が出ます。って英語も分からないから役に立たないじゃん。でもまぁあらすじはあきらめて、演技と音楽を楽しむことにします。すると不細工なお姉さんに混じってきれいなお姉さんが。卓球の福原愛ちゃんに似ています。彼女の役はヒロインではないのですが、物語を進める重要な役のようで、最初は下っ端の女中さんみたいな感じだったのが、着ている着物がだんだんと豪華になり、最後はヒロインの則天武后を迎える重要な役柄になります。中国語が分かれば面白かったかも?そして最後は彼女ではありませんがヒロインの則天武后が階段を上りつめて女皇になったようです。言葉が分かればなぁ。でも最後はお楽しみが!お客さんは彼女達と写真が撮れるのです。ムフフですが、僕も写真を撮ってもらいました。嬉しかった。こうして僕の中国旅行は終わり、明日は3時半に起きて7時頃の飛行機に乗って帰国です。色々と有ったけど面白い中国旅行だったかな。クラブツーリズムの添乗員さんありがとう。
December 5, 2024
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5日目も早朝から観光。とにかく朝早い。年寄り向き。今日は洛陽の関林からスタート。三国志で誰でも知っている、人気者の関羽の首塚の有るお寺さんである。魏の劉備に仕えていた関羽が、襄陽攻めで敗北し、呉の国の孫権に討たれてしまう。孫権は関羽を斬首したものの、劉備の怒りが自らに向かうことを恐れて、関羽の首を、劉備の宿敵である魏の国の曹操に贈った。曹操はかねてより義に厚い関羽に惚れ込んでいたので、関羽の首を魏の国で諸侯の礼を尽くして葬った。それが関林である。バスは関林に着き、さっそく観光の開始。関林の中はこんな感じ。一番最初は千秋艦。正確には千秋艦舞楼である。つまり関林のお祭りの時にはここで舞を舞ったのね。千秋艦の反対側には大門が有る。その大門から儀門までの間におもしろい飾りが有った。最近お祭りかなんかが有ったのだろうか。それとも一年中この龍の灯籠?中国人もお祭りが好きなんだな。龍の灯籠の先には儀門が有る。ガイドさん以下みんなが集まっている疑問左手には関帝紫竹がある。曹操と関羽は敵と味方ではあるが、かっては主従として袁紹と戦い、関羽は敵陣の真っただ中で曹操の敵方の袁紹軍の大将の顔良を討ち取っている。ただ、関羽は曹操から受け取った褒美を貧しかった劉備に全て送っており、なんと曹操はそれを見て見ぬふりをしている。蜀書「関羽伝」に書かれているので史実だろう。赤壁で敗れて死ぬ思いで逃げ帰る曹操を関羽が見逃したと言うのは、三国志演義つまりお話なので史実ではないが、曹操が関羽を認めていたのは事実みたいである。この関帝紫竹は多分事実ではなく創作だと思うが、219年に関羽が孫呉に殺害され「首」だけの状態で届けられた際に、曹操が篤く弔ったと言うのは事実なのではないかと思う。儀門から后圣殿及び平安殿に続く道は石獅御道と呼ばれて、両側に石の獅子の欄干が並ぶ。石獅御道の外側には歴代のお墓(石碑)が並んでいる。突き当りが后圣殿である。中を覗くと関羽の像が有る。偉丈夫である。后圣殿の中に入ると平安殿につながっており、両側の壁には壁画が書かれている。勉強不足でガイドさんの説明がよく聞こえなかったので、関羽のどんな場面なのか分からない。うん?関羽が赤兎馬(関羽の愛馬で最強の馬)に乗っている。じゃぁ戦場かな?感覚的に后圣殿と平安殿は裏表につながっている感じである。何故2棟に分けないのかは不明。何か意味があるのだろうか?平安殿から奥に進むと財神殿が有る。関羽は商売の神様でもある。三国志が好きな日本人には信じられないかもしれないが、中国ではこちらがメインみたい。そう言えば長崎や横浜の中華街にも関帝廟が有るなぁ。曹操廟や劉備廟が無いのに何で関帝廟だけある?と思っていたが、関羽が財神だからなのか。そう言えば、后圣殿の関羽は冕冠(べんかん:前後に5色の簾のような垂珠を垂らした帽子)をかぶって笏を手にしていたが、あれは本来は皇帝等が大儀の際にかぶるもの。それに対して財神殿の関羽は冕冠は被っていないし、手には何も持たず鎧も着ていなかったなぁ。立場が違うのね。財神殿の壁にも壁画が描いている。え?冕冠かぶっている?関羽の両側は、関羽の息子の関平と家来の寥化だと教えてもらった。ちょっと離れた右は王甫で、左の軍旗の前は周倉(演義に出てくる架空の人物)だそうです。何をしている場面なんだろう?分からない。まぁいいか。財神殿を出ると春秋殿がある。ここの関羽は黒く、他の后圣殿や財神殿のようにお供を伴わずおひとりである。忠義仁勇と書いているような気がする。分からない。ちなみにここの中の関羽は武人なのに本を読んでいる像もあるし、寝ている関羽もいる。普段着の関羽と言うこと?春秋殿を抜けると最後の関羽の首塚を祀る碑坊に行きあたる。奥に八角形の碑亭が見えるが、その後ろの小山(塚)が関羽の首塚である。まずは碑亭。真ん中の碑文は残念ながら読めなかった。その奥には首塚の門が有る。安らかにお眠り下さい。そして急ぎ足で回ったせいで写真を撮り忘れた重要な場所があったので、ネットから写真をお借りする。赤兎馬の像である。関羽と言えば赤兎馬じゃん。何で忘れたの?とおしかりを受けそうですが、急いでいたから。赤兎馬は関羽の愛馬として有名で、三国志演義だけではなく正史三国志にも登場する。つまり実在の馬だと思う。ただ、赤兎馬が一頭の馬であれば、呂布が董卓を殺害した頃(192年)から関羽が死去する(220年)まで約30年間現役の軍馬だったことになり、これは一般的な馬の寿命に相当し不自然であるので、赤い毛色を持ち兎のように素早い馬=西方からもたらされた優秀な馬一般をそう呼んだのだろう。上の写真の赤兎馬は雲の上を走っている。関林を見終わったら、高速鉄道に乗って西安へ向かう。約1時間40分かかる。東京から名古屋くらい?西安に着いたら秦始皇兵馬俑博物館(兵馬俑)に向かう。入口に秦の始皇帝像が有る。おぉー!キングダムだ。でも現地の中国のガイドさんは映画キングダムは知らなかったっぽい。知っていればもっとPRしただろう。あれがキングダムの嬴政(えい・せい)だよとか言えたのに。秦の始皇帝嬴政が生まれたのは趙の首都 邯鄲(かんたん)。父は子楚(しそ、後の荘襄王 そうじょうおう、在位3年)、母は趙姫(後の太后)です。趙に人質となっていた父が、大商人の呂不韋(りょふい、後に秦の丞相)の妾だった「邯鄲の宝石」趙姫を目染めて生まれたのが政なのです。なんとか秦に戻り、その後秦王となった政ですが、15歳の時に弟の成蟜(せいきょう)が反乱を起こし、咸陽(かんよう、秦の首都)を追われてしまいます。命を狙われる政は、黒卑村(こくひむら)に隠れます。ここで信と出会い、王座奪還を目指します。信は下僕、身分はまったく異なりますが二人は友となり、まだ見ぬ中華の姿に向けて共に前進していくのです。(この部分はマンガキングダムの設定)つまり秦の始皇帝嬴政は王の子ではあったが、決して恵まれた境遇に有ったわけではなく、父王の死後、権力は呂不韋が持ち、母である太后と呂不韋が実験を握っていた。しかしそれから味方を増やしていき、ついに呂不韋失脚、太后を幽閉して権力を掌握し、中華統一の野望を掲げて、他国と戦い、ついに初めての中華統一、皇帝となるのです。さっそく、秦始皇兵馬俑博物館に入ります。秦始皇兵馬俑博物館は1号坑から3号坑の3つの発掘現場を建物で覆ったもので、現在も発掘中です。兵馬俑は1974年3月29日、臨潼県の西揚村で井戸を掘っていた6人の住民によって、欠損した兵馬俑が発見されたことが始まりである。歴史的教養に乏しい住民たちは当初、この発見の重要性を理解しておらず、報告を受けた臨潼県文化館も現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上部への報告を怠っていた。ところが新華社のある記者がそれを記事にしたところ、大発見と言うことになり、発掘を開始したところ続々と発見が相次ぎ、現在のような世界的な遺跡になったものである。古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器(冥器)の一種であり、被葬者の死後の霊魂の「生活」のために製作された。(うーん日本の埴輪とは少し主旨が違うかな? 被葬者の死後の霊魂の「生活」の為にと言う目的は同じだけれども、 古事記や日本書紀等によれば、それまでは生きた人間を生き埋めにしていたのを、 垂仁天皇の時代に、それではあんまりだと、埴輪に替えたと書いてあるから少し違う?)春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れて、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになり、華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られた。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものだが、秦代の始皇帝陵兵馬俑においてその造形と規模は極点に達する。漢代以降も兵馬俑は作られたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなった。まずは1号坑。中に入ると、有名な兵馬俑の世界が見の前に広がります。思わず「わぁー!」とため息が出ます。中国、来て良かった。造られた時代は、秦の始皇帝死後なので紀元前3世紀。日本で言えば弥生時代中期。卑弥呼の時代の400年前である。日本の古墳時代(はにわが作られた時代)の1000年前にこんな立派な俑(はにわ)が作られて、しかもそれが約8000体もあるなんて。1号坑は右手はほぼ完成した兵馬俑が、発掘された時の状態に復元されている。左手は発掘の状況と、その後の俑の復元の方法等が現物の展示によって紹介されている。まずは、発掘状況。資料整理区と書かれている。胸には赤や黄色・青の丸いマークが付いており、修復後に元の列に戻す際の目印になっている。修復中の様子。各兵馬用には白いプラスチックケースが付けられており、発掘中に出て来た小物や兵馬俑の破片を入れ、完璧な修復が行えるように配慮されている。一部を拡大する。うぇー!まだ顔が割れている。手も折れているし。これから修復していくんだろうなぁ。それが済むと一列に並べるらしい。こうして完成すると、最初の写真のように、見慣れた兵馬俑の列になるんだろうなぁ。ここを出るとガイドさんに連れられてお土産売り場に案内されるが、無駄な時間。まぁでもトイレには行きたいし、トイレは必要な施設で維持しなければいけないので仕方ない。出ると2号坑。ここは発掘中そのもの。中に入ると、まだ半分埋まった感じの兵馬俑が並ぶ。こうやって掘っていくのか。坑の周囲には過去に掘り出された兵馬俑が展示されている。この人は一番有名な人。本を見るとだいたいこの人が兵馬俑代表として載っている。兵馬俑は、日本の今城塚古墳の埴輪もそうだけれども、色々な立場の人を、それぞれの個性を保ちながら、あたかもその人が生きていた頃そのままに作られている。下の兵馬俑は少し偉い人だったみたい。顔が兵隊さんではない。明らかに士官だと分かる表情をしている。この辺がすごいと思う。単なる人形ではなく、生きている人の個性が出ている。兵馬俑と言うと戦士だけのように感じるかもしれないが、文官もいる。体型と装備を見ると、どう見ても戦い向きではない。多分文官で、事務の仕事をしていた人だろう。兵馬俑なので、馬もいる。ここでふと気がついたが、横の人と比べてみても少し小さい。兵馬俑は現実的な模写が多いので、多分本当にこの大きさなんだろうと思う。日本でも源義経の乗る馬は、現代の馬に比べてかなり小さかったと言うことが分かっている。中国の馬も同様で、現代のサラブレッドとは違う種の馬で小さかったのかもしれない。兵馬俑はかなり現実の人間の行動に近い状態を再現しており、次の写真は弓を射たあとの兵士だとされている。立ったまま弓を射た直後に右手はそのまま残り、弓を持った左手は下に下がっているのが分かる。リアルだなぁ。ここで、2号坑ならではの衝撃の事実が分かる。今まで見て来た、と言うか我々の知っている兵馬俑は粘土の茶色なんだけれど、実は掘り出された直後は赤や青の色がついていたらしい。ただ、当時の技術力では変色を防ぐことができず、我々が見ているような色になるらしい。おぉー!綺麗じゃん。何とかして色を残したい。そう言えばギリシャのパルテノン神殿も、現代の色は大理石の白なんだけれども、最新の研究では色が付いていたことが分かってきたらしい。それをアメリカの「実物大パルテノン神殿」でプロジェクトマッピングで再現したと、世界ふしぎ発見でやっていた。またエジプトのコムオンボ神殿の柱の飾りにも色がついていたことは、僕がこの目で(まだ若干色が残っているのを)確かめている。エジプト旅行に行って来ました。(3日目)と言うことは日本の埴輪にも、元は色が付いていたのかも?でも、日本の学者先生にはそれを期待するのは無理だろうなぁ。学者先生ってバカだもの。いやでも、今は恵まれない立場の先生が、ふと気づき、一念発起して頑張れば、日本でも着色埴輪が見つかり、センセーショナルに報道されれば、その先生はいちやく有名になり、面白いことになるかも?そんなことにならないかな?2号坑を堪能したら、次は3号坑。ここは宮殿の跡かもしれない(但し伝説の始皇帝の水銀の宮殿ではない)。中に入ると驚きの世界が待っている。みんな首から上が無いけれど、そのうちに復元するんだろうな。可哀そうだから早く復元してあげて欲しい。馬の後ろには馬車が有ったのに違いない。しかも4頭立てだから偉い人の馬車?それが正面を向いていると言うことは、これから出るのならば、左手に宮殿跡がある?今入っていくのならば右手に宮殿跡が有る?僕は後者だと思うけれど、もしそうならばそのうちに宮殿が出てくるのではないだろうか?(但し、伝説の水銀の川や海が有る始皇帝の宮殿は別の場所)ここを正面から見るとこんな感じ。うーんどう見ても通路のような感じなので、馬車はこの通路を通っている途中なんだろう。手前が宮殿なのか、奥が宮殿なのか?これからの発掘が楽しみ。秦始皇兵馬俑博物館の見学も無事に終わり、西安のホテルに帰るのだが、途中、秦の始皇帝陵を車窓から見た。始皇帝陵は彼がまだ13歳の頃から作り始められて、70万人の囚人により39年間かけて造営され、造営当初は周囲25km高さ100mも有ったらしい。秦の始皇帝陵は大人の事情からなのか、今でも発掘されていない。なので見学はできない。何故発掘されないか?理由は色々と考えられるが、一番の理由は遺跡の保存の技術力不足だろう。兵馬俑の例でも分かるようにむやみに発掘すると、元の状態が失われてダメになってしまう。日本の高松塚古墳が良い例だろう。かって新聞にも載った高松塚古墳の壁画は無残にも変色し、剥がれ始めている。人間と一緒に侵入した湿度と菌類のせいである。多分、この例でも分かるように始皇帝陵も開けた瞬間から劣化し始めるだろう。それに対応できる技術力ができていないと思われているのだと思う。実際その通りだろう。次に考えられるのは水銀のせいである。始皇帝陵の存在は司馬遷による歴史書史記や漢書など古代中国の歴史書でも言及されており、墓には「侵入者を殺害するための罠」や「大河のような水銀が自動的に流れてくる仕組み」が備わっているというのだ。本当は水銀の川や海で世界観を作っていると書かれているのだが、裏読みすると侵入者を防ぐ装置とも読めるのだ。しかも、実は既に土壌調査が行われており、水銀は蒸発することから、この付近の水銀量が他地区よりもかなり高い(約100倍)ことが確認されている。なので、実はこの説も有力なのだ。最後は既に破壊され盗掘されており、発掘しても成果が得られないからと言う説だ。史記によれば、秦の滅亡後漢の劉邦と争った項羽は30万の兵を使って始皇帝陵を焼き討ちしたらしい。そのせいで始皇帝陵は当初よりもかなり低くなっており、そこに有った宝物等は持ち去られたと書かれている。既に価値のある物が残っていないから、費用をかけてまで発掘する必要は無いと言う訳である。まぁいずれにしても、今の中国にはそんな気持ちは無いだろう。西安に着くと遅めの夕食を食べた。今回の食事の中で一番おいしかったかも?その食堂のシェフは有名な人みたいで、こんなものも作っていた。いや、これを食べたわけではないけれど、中国にしては珍しい細工である。いつか食べてみたい。夕食後、西安の夜の街を歩いた。大唐不夜城と言って有名らしい。入口付近はまだマシで銀座みたいなんだけど、奥は新宿みたいで怪しそうなお姉さんがいた。声をかけてみれば良かったのかな?
December 4, 2024
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4日目も早起きして、今日は洛陽付近の観光。洛陽付近は中国の中でも最も古くから開けた場所で、新石器時代より重要な遺跡が残されている。洛河支流の澗河上流には仰韶文化の発見由来ともなった仰韶村遺跡があり、文化古典伝承の夏(中国最古の王朝?)に相当するとも考えられている二里頭遺跡、殷初期の都城遺跡である偃師商城などが並んでいる。今日最初に行くのは白馬寺。あいにくの雨だった。でも小雨なので大丈夫。白馬寺は仏教が中国に伝わって初めて建立されたお寺で、1900年以上の歴史を持つ。えー!卑弥呼よりもずーっと昔じゃん!そりゃお釈迦様はもっと前だけど、中国に伝わったのもそんなに昔なんだ。そして白馬寺の名前の由来は、その時にお経を積んだ白馬が由来なんだそうだ。昔なので、しかも中国からインドってほぼ砂漠みたいな経路だから大変だったんだろうなぁ。そして実は日本に帰ってから白馬寺について調べて驚いた。ここって(マンガの想定ではあるが)北斗神拳の故郷じゃん!ガイドさんは知らなかったのだろうけど、これは大事なこと。オジサン達の中には「北斗の拳」世代が多いから、これが知られたらお客さんは増えるよ!だって聖地じゃん!僕も現地で知っていたら、あちこち回って見たかったなぁ。最初に見たのは天王殿1900年もたつので、もはや古い建物は残っておらず、やや興ざめな感じはする。次は大雄殿。次は、実は名前を忘れちゃったんだけれど、多分弥勒殿。で、中に入ると布袋様がいらっしゃる。日本のお寺と違い、効率がよくて、布袋様の裏側に天王様がおられる。1堂で2柱の仏様。天王様、少しダイエットした方が良いと思います。長生きできますよ。さらに大仏殿が有る。でも名前は大佛殿なんですが、上の写真の両側にも御二方仏様がおられました。釈迦三尊?で、今回のツアーは超特急で回るので見損じてしまったのでネットから画像をお借りして、斉雲塔。西安の大雁塔みたいなもの。ちょっと見られなかったのが残念。帰り道の途中に空海様の像が有った。写真にも書いたけれど、実はこのお寺に空海が来たと言う確実な記録は無い。でも「中国に仏教が伝わって初めて建立された寺」だから来ただろうなとは思う。出口手前の道の脇に石臼の一部がずらーっと埋められていた。ガイドさんに聞いても分からなかったけれども、この脇には修行僧の寮が有り、そこで修行僧達が使った石臼を埋めたのではないかと思った。白馬寺の出口。と言うかこっちが正門では?と思ったけれども、最初の入口には白馬の石像が有ったので、やっぱり向こうが正門かな?白馬寺の次は高速道路を走って少林寺に向かう。映画の影響から、少林寺と言うと武道の印象が強いが、現在はほぼ観光地。演舞もやって見せるが、僕等からすれば踊りに近く武道には見えない。まぁ、入口。おぉー!強そうなお坊さんが居る。さらに中へ。少林寺境内は広いのであちこちに案内図が有る。目的地は遠そうだ。少林寺の中は広すぎて、歩いて観光すると日が暮れるので、観光は電動カートに乗る。そして降りたところに有るのが有名な塔林。少林寺の高僧たちのお墓である。手前の人は偉そうだな。ガイドさんの説明では、どうも偉いと言うよりは少林寺に貢献してくれた僧らしい。つまり少林寺拳法が強い人でも長く修業を積んだ人でもなく、経営能力が有った人だな。世の中は現実的だと思う。少し進むとここはお寺らしい雰囲気が有る。脇には精霊もある。そして入ると仁王様もおられる。少し進むと天王様もおられるのだが、違和感が有った。写真は間違えて「日本で言えば仁王様?」と書いたけれども天王様だろう。そして、通常は鬼や天邪鬼を踏んでいるのだけれども、ここのは一般人民にしかみえない。なので、天王様が人民をいじめている?ダメじゃん。そんな感じだった。少林寺は実は禅宗の祖である達磨(だるま)が就業して、初めて弟子を取った地でもある。ちょっと達磨について調べてみた。達磨大師は今から1600年ほど前、南インドにあるカンチープラム(香至国)の第三王子として誕生し幼名は菩提多羅といいました。若い頃に父である国王が亡くなり、菩提多羅王子は国政を二人の兄に頼み、お釈迦様から二十七代目にあたる般若多羅尊者のもとに出家し、『菩提達磨だるま』の僧名を頂きました。師に就ついて修行すること四十年に及び、般若多羅尊者から釈尊正伝の第二十八代目を継承しましたが、師より「六十七年間はインドを布教し、その後に中国に正法を伝えなさい」と遺言され、それに従って老年になってから、海路を三年かかって中国・広州の港に上陸しました。梁の武帝と問答し、縁かなわず揚子江を渡って洛陽の都のはずれ嵩山少林寺の裏山の洞窟に住み、面壁九年の坐禅をするうちに求道者・神光が現れ、その熱意に感じ中国で始めて弟子をとり、慧可と名付けました。この慧可にすべてを伝え、中国に禅宗の基礎を築かれたのですが、その教えを理解できない者たちによって毒殺され、熊耳山定林寺に葬られました。と書いてあった。ちなみに「だるまさんがころんだ」のだるまさんと同じです。さらに進むと演舞庁が有る。この後少林寺の演舞(と言うか演舞ショー)を見るのである。入口。なお脇には写真はないが、少林寺の僧達が演舞している像が並んでいる。なんとも軽くて趣が無い。町のボクシングジムみたいな感じ?中で舞っていると演舞が始まる。最初は大先生が書道の腕を見せる。先生、上手いです。これは拍手!次は弟子たちの演舞。こんなの曲芸じゃん。槍を受け止めているのはすごいけど、鑓ってこんな使い方はしない。何よりもこんなに悠長に待ってはくれない。さっさと引いて刺すを繰り返すよ。まぁ、サーカスのたぐいだな。武道ではない。演舞を見るのも飽きて来たので帰る。帰りは龍門石窟に行く。龍門石窟は洛陽の南の郊外、伊河畔にある。これから回るルート。少林寺と同様に近くまで電動カートで行く。歩いたら日がくれるくら距離を歩くから。ルート図では分かりにくいので、石窟の概要と配置を別に載せる。写真を右クリックして出るメニューから、別タブで画像を開くを選択すると、別タブで大きな画像として見られる。駐車場からは結構歩くので、今回のツアーは現地まで少林寺の時と同様に往復電動カートを使用した。実際はほぼ全てのお堂を階段を上り下りしながら見ていくのだけれども、(お年寄りは下の道路から眺めることが可能ですが、お堂の中は見られない)写真は全部は撮れない(と言うか仏像が壊れて撮るのが無駄なお堂も多い)ので、最初のお堂はこれ、万佛堂。この両サイドの壁には無数の仏様が刻まれている。次はこのお堂に祀られているのは、仏様ではなく仏になられた高僧である。誤解を生じるといけないので補足すると、あくまでも「仏様」として祀られているのであってお墓ではありません。お墓は別に有るようです。日本で言えば、権現様となった家康は神社の東照宮に祀られて、お墓は別にあるのと同じですね。次は有名な奉先寺。まずは正面真ん中の盧遮那仏。洛陽はここに来るだけでも来たかいがあると思う。次に右側の天王と金剛力士。最後に左側の天王と力士像である。こちらはかなり壊れており、残念である。さぁあと少し。老体に鞭打って階段を登り降りしよう。次はこれだけ階段を登り降りするんです。下から洞はでも見えますが、中の仏様は見えない。そして写真を見ると分かりますが、日が暮れると灯りがともり始める。ここから先にもいくつかお洞はありますが、限界なので橋を渡って対岸へ。もし望遠レンズの良いのを持っていたら対岸から写真を撮るのもお勧めです。もう日が暮れ始めているので良く見えないですが、灯りがともると幻想的でいいかも?石窟を後にして、洛陽のホテルに帰ります。帰り道にガイドさんに無理を言って中心市街を通ってもらいました。応天門が見えると思ったからです。応天門はツアーには含まれていないのですが、是非見たかったのです。ガイドさんに無理をきいてもらって良かったと思いました。すごく綺麗でした。もう少し先に進むと天道遺跡もライトアップされていました。北京で言えば天壇みたいな所です。近くには21世紀の考古学界の大発見といわれる東周時代の大型馬車陪葬坑跡に建造された天子駕六博物館が有るのですが、写真を見ると分かる通りすでに夜。無理です。ネットから写真をお借りして載せるとこんな感じ。中の展示は、発掘中の馬や馬車が見られます。白馬寺の有る洛陽ならではの博物館だと思います。天子駕六博物館を見られなかったのは残念ですが、第4日目の洛陽も面白かったです。<後日追記>上の方の写真の天道遺跡は昼間見るとこんな感じです。ネットから写真をお借りしました。左上がライトアップされていた天道遺跡です。うーん行ってみたかった。今回のツアーは洛陽は2日のうち半分は北京からの高速鉄道による移動、及び西安への高速鉄道による移動中なので、実質1日しかありません。なので天子駕六博物館や天道遺跡には行けなかったのですが、他にも王城公園や古城地区なんかも有り、見どころは多いので、もう一日増やした方が、お客さんも高速鉄道による疲れもいやせるし、良いのかなと思います。そして実はその場合、洛陽には(日本では知られていませんが)地下鉄が便利です。僕も(もっと時間が有れば)一人でツアー時間外に行ってみようかなと思っていました。参考に地下鉄路線図と観光地を絵にしたので載せてみます。参考に。なんか地下鉄の駅のそばが多い。ちなみにホテルの真ん前に地下鉄の駅がありました。中国では地下鉄は地鉄と書きます。
December 3, 2024
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3日目も早起きして北京市内を廻る。どうもこの旅行は盛りだくさんなせいで、ずーっと早起きみたいである。年寄り向き?ただ、夜も遅くまで回るんだよね。盛りだくさんなんだ。早朝から頤和園に向かう。頤和園は中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の大部分を占める人工湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1153年(貞元元年)に金朝の海陵王が頤和園内の香山・玉泉山に金山行宮を設置したのが始まり。その後、元・明の時代に徐々に整備されて、明の正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まった。頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。(中国ってスケールが大きい。 ただ日本の古墳も周囲の堀を掘削する際に出た土を盛り上げて造ったと言う説が有るので、 日本の方が先かな?)昆明湖と万寿山。ガイドさんの説明によれば昆明湖は平均深さは約1.5m位しかないらしい。人造湖だもんな。バスを降りて最初に目に入るのは大きな門おぉー!ここにも高麗犬がいる。(中国なのであえて高麗犬と言う言葉を使っています。)しかも皇帝や皇后が遊んだ所なので、入口中央に雲龍階石が有る。ただ、屋根にはしゃちほこは無い。ガイドさんに聞いたらここは城でも神殿でもないからね。単なるお屋敷だよと言われた。なるほど。妙に納得した。なお、恐らく誰も気がつかないと思うので、この写真は滅多に見られないと思うのだけれど、この高麗犬は、本当に日本の狛犬と似ている。なんと天邪鬼(だと思う)を踏みつけているのだ。えぇー!じゃぁ一応仏教的な要因は残ってはいるんだ。いや天邪鬼じゃなくて、中国の古来の妖怪かな?今回はクラブツーリズムの中国旅行では現地の日本語が話せるガイドさんが、全行程を案内してくれたのだが、みんなものすごく詳しく勉強していた。昔行ったイギリスやフランスの場合は添乗員さんが案内してくれたが、たいてい僕の方が詳しくて、例えばイギリスの場合は、ビートルズの歴史や曲目なんかは完全にお客さんが上だった。なので、僕なんかツアーには含まれていないペニーレーンやジョンの生家まで独自に行った。でも今回は現地ガイドさんの方が詳しくて、とても参考になった。頤和園内の主な見学地はこんな感じまずは仁寿殿。ただ、すみません。建物よりも麒麟の方に興味が行って建物が小さい。東京の日本橋の麒麟とは少し違うなぁ。顔が大きすぎて威厳が無い。ちなみに日本橋の麒麟はカッコいい。何となく動物の組み合わせは中国版とは違うようで、日本橋の麒麟には羽根が有る。また、圧倒的に日本橋の麒麟の方がカッコいいと思うな。仁寿殿の前には他にも神獣や灯籠が並んでいる。うーん。鳳凰と龍の並びが逆だなんて、そんな細かい所まで気がつかなかった。偉い人(西太后)はそんなことまで気を使うんだな。僕なんか考えもしないよ。次は玉瀾堂。清朝第11代皇帝光緒帝(西太后の妹の子)の寝所である。光緒帝は従兄の同治帝が早世した後に権力保持を狙う伯母の西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、実権は西太后が握り垂簾聴政が行われた。当初は東太后の教えより強い影響を受け伯父の恭親王奕訢も政権を担ったが、光緒7年(1881年)に東太后が急死(暗殺か?)、光緒10年(1884年)に親政派の恭親王が開戦に反対していた越南(現ヴェトナム)での清仏戦争の敗戦の責任を西太后から転嫁され失脚させられると西太后が専権した。光緒帝は、康有為、梁啓超らによる変法運動に関心をもち、西太后の傀儡から脱し、自らの親政と体制の改革を宣言し、光緒24年(1898)9月16日には、軍を掌握していた袁世凱と、この場所で接見し、変法運動への協力を要請した。ところが同調していたかのように見えた袁世凱が、変法派の動きを、西太后にリーク。西太后は先手を打って、敵方の勢力を封じ込めるクーデター、いわゆる“戊戌の政変”を起こし、敗北した光緒帝はここ玉瀾堂に監禁された。その後西太后は光緒帝を廃し、別の甥を次の皇帝にしようとしたが列強の反対に有って失敗。そして義和団の乱が発生、列強は中国を荒らしまわって、清朝は滅亡する。つまり清朝滅亡の舞台となった場所でもある。自分が歴史の舞台に立っていると思うと、何か色々と考えてしまうなぁ。次は楽寿堂(上の案内図には楽ではなく中国の今の漢字で書いています。変な字)楽寿堂の前には、ここにも神獣達が並んでいる。鹿や鶴や大瓶にはそれぞれ意味が有るんだな。次は聴鸝館。字が難しい。聴鸝館の「鸝」は「り」と読むらしいが、漢和辞典で苦労して探した。「鸝」つまりコウライウグイス(旅鳥で日本海側に渡って来ることもあるらしく色々な声で鳴く)の声=音楽を聴く館なんですね。順序は少し前後するこれど、ここの庭にはものすごい庭石が有る。青芝岫と言う。いや、これって庭「石」じゃないでしょ。庭「岩」じゃん!思わず突っ込んでしまいそう。さらに進むと目の前が開けて湖が見える。目の前に突き出た島のような部分に知春亭が有る。知春亭の左側には文昌閣が有る。ここ知春亭から眺める前方の湖は昆明湖と呼ばれ、何と人造湖である。そしてこの湖を造る際に出た土で造った山が万寿山で、湖右手にそびえ、そこには仏香閣が立つ。これが人工の山?昨日故宮の裏側に有った景山も人工の山だったけれども、すごい。そして昆明湖の万寿山とは反対側には、南湖島と島に渡る十七孔橋が見える。古の皇帝や皇后はここに舟を浮かべて楽しんだらしい。それどころか、西太后は約50kmも離れた自分の実家からここに来るのに河(運河?)を造り、船で通ったそうだ。確かに馬は不安定だし、行列を引き連れてくるのは大変だからなぁ。その河(運河?)が今でも残っており、北京市街からここまでつながっているそうだ。おいおいやりすぎでは?実際、昆明湖を造るのに西太后は海軍の予算をくすねて使ったそうで、そのせいで軍船の整備が遅れたことが清朝の滅亡につながったと言う話もあるらしい。そりゃ中国人も怒って共産主義に走るよな。昆明湖を眺めたら、長廊を歩いて仏香閣や石船を見に行く。長廊は728mもあり、途中には4か所の春夏秋冬をあらわす東屋が有る。そして長廊の側面上部を眺めると、そこには三国志等の有名故実や山水風景、花鳥、虫魚、人物など、多様なテーマで描かれた絵画が見られる。ガイドさんがその中で一番わかりやすい、僕でも知っている三国志「桃園の誓い」の絵を教えてくれた。おぉー!劉備・関羽・張飛の3人が桃園で宴会を開きながら話し合っている場面だ。三国志演義では3人は桃園で義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行ったとされている。(正史三国志には書かれていない)黄布の乱平定軍に参加するかと言う時期の話で、これが将来の蜀の建国につながる、いわゆる三国志の始まりの時期の話。長廊のほぼ中央にも、昆明湖を眺める良い場所が有る。牌楼である。と言っても、実はこれは門で、真後ろに在る仏香閣への入口である。本当はここに入るのが頤和園見学のメインなんだけれども、このツアーでは時間が無いので、中には入れなかった。3時間くらいはかかるらしい。中に入るにはもっと余裕の有るツアーを選ぶしかない。ここを過ぎて長廊の最果てにくると石船が有る。もちろん浮かんでいるわけではないが、ちゃんと船の形をしている。しかも多分蒸気船。外輪船である。2階建て。趣が有ると言っても良いかも?頤和園の見学を終えると、北京最後の見学地である「天壇」へ向かう。中国の皇帝が新年に豊作と無事を祈願する場所である。入る前の前庭?部分に七星石が有る。石はどうも石灰岩ぽい。形状はもしかすると自然の形ではなく人間が削ったのかなと思う。神聖さは感じないので、何のために置いてあるのかよく分からない。さぁいよいよ天壇だ。天壇の配置案内図を載せる。写真を撮り忘れてしまったんだけれども、上の案内図の南端にある圜丘壇は三層の円形石壇で、古来中国で最も重要とされる数字9の倍数の石の欄干や石板で構成されています。皇帝は毎年冬至に、石壇中央の丸い石板の上に立ち祈りを捧げました。これから行く天壇だけでなく、圜丘壇も大事な場所だったんですね。図中の祈年殿と言うのが、いわゆる天壇である。周囲の石段の階段や欄干は圜丘壇同様に神聖な数字である9やその倍数で造られている。色は青。ガイドさんが一生懸命説明してくれたが、青は神聖な色で神様の色なのだそうだ。なので神様のおられる天壇は青く塗られている。中を覗いてみるとこんな感じ。日本のお寺さんとは違って金ぴかである。まぁ文化の違いなのかもしれないけれど、品が無いと思う。天壇:北京の皇帝の廟壇は1420年に明の永楽帝が築いたとされる長い歴史を誇るスポット。もともとは天地壇と呼ばれ、天と地に祈りを捧げる場所だったのですが、後に天壇と地壇で分離され、現在の天壇は天にのみ祭祀を行う場所となったのです。根本には中国の昔から受け継がれてきた考え方にあります。中国では天はこの世の全てを支配するものと考えられ、崇拝の対象で天へと祈りを捧げたのです。天は気候を司るもので天壇では豊作を願う祈祷が行われました。皇帝は毎年、春節(旧正月)にこの塔の下の皇乾殿で五穀豊穣をお祈りしていた。日本の天皇陛下が日本国民の為に皇居でお祈りして下さっているのと同じですね。こうして北京での見学も終わり、洛陽に向かう為に北京西駅に向かったのですが、途中に古いマンションが有り、僕は職業柄ちょっと心配になりましたね。これは相当に高く階数が多い建物なのにS造には見えないんですよね。日本では通常5階建てまではRC造、7階建てまではSRC造で、それ以上はS増で造られるのですが、それは地震が起きた際の偏移と建物の重量と構造部材の強度からきているのですが、こんなに高いとRC造だとポキっと行っちゃうんじゃないかと心配です。いやS造なら大丈夫なんですが、外壁を見るとそうじゃないんで。まぁ北京付近は地震が無いらしいので良いのかな?<後日追記>今調べてみると日本でも12階建てのRC造マンションが有るらしい。無責任な不動産屋が構造的な知識が無いのに「大丈夫」だと言っているらしい。確かに売らなければいけない不動産屋ならそう言うだろうけれど、責任を持たないといけない良心的な建築士にはとてもそんなことは言えない。建築の構造計算の際には震源の想定などいくつかの条件の設定が有るので、上手くやれば一見安全に見えるが現実はそうではない。現に一番良い例が「福島第一原発」である。地震の数年前に、あの付近は30年以内に大規模地震が起きると発表されていたのに、「想定外」などと言って対策を怠り、ものすごい被害を出したのだ。ちゃんと30年以内に大規模地震が起きると言われていたのに。だから金の亡者の言う事など信じない方が良い。北京西駅に着くと、洛陽まではここから高速鉄道(日本で言えば新幹線)で3時間です。こんな車両。日本の秋田・山形新幹線に似てるかな?時速350kmで走っていました。大丈夫かなぁ?まぁ、無事に洛陽に着きました。明日から洛陽見学。
December 2, 2024
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