全5件 (5件中 1-5件目)
1
2023年9月23日に、何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その11)古事記偽書説を書いた。何故「古事記」と「日本書紀」があるのか?(その11)古事記偽書説その中で、古事記の「序」とされている部分は、古事記の序文ではなく、日本書紀の研究の場である「日本紀講筵」の場で、漢文で書かれた日本書紀の特定の部分の日本としての独特の読み方(漢字の訓では読めない)をどう読むのが正しいのかと説明する際に「古事記」を参考書として使っていたのだが、(古事記は本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは 一字一音表記としている。この為、純粋な漢文形式で書かれた日本書紀では読みが分からない 古語や固有名詞が古事記を参考にすれば読めるのである。)その使用する根拠(つまり古事記が正しく古くから伝わる書で信頼できるものだと言う)を先生(弘仁4年(813年) 博士は多人長)が自分の家に残っていた、太安万侶(多人長の祖先でこの序と誤解された上奏文の主)の元明天皇への上奏文を見せて、それを見た生徒が写本に写してしまったのが「序」と誤解されて後世に伝わったと書いた。そもそも朝廷行事である「日本紀講筵」の場で「日本書紀」の参考書として使われたことが、はっきりと記録に残っているのだから古事記本文は偽書ではありえないと思うのである。ただ、序に関しては上に書いたように書写した生徒があいまいな書き方をしており、後世の人がそれが原因で「古事記の序」として勘違いしてしまったもので、最初から「古事記の序」として扱われたものではなく、勘違いした後世の人が悪いと思う。なので、ちょっと「序」を調べてみた。大事なのは最初の部分。(原文)臣安萬侶言夫混元既凝氣象未效無名無爲誰知其形然乾坤初分參神作造化之首(意訳)部下である安萬侶が申し上げます。それ混沌とした世界が固まり始めました。いまだ自然界の形ははっきりとせず、その名前も無く何もなされてはいませんでした。ところが、初めて世界が天と地とに別れ、造化の造化創造主となりました。つまりこのような感じで始まるので、現代人の感覚だと「序文」ではない。どう考えても太安万侶が元明天皇に「説明」しているスタイルである。話はこの後神話の世界から国譲り~神武東征~神功皇后~允恭天皇までのダイジェストが説明されて、天武天皇が壬申の乱で勝利し、正しい天皇である天武天皇により平和になったことを説明し、有名な古事記編纂の経緯になります。ここ(古事記編纂の経緯)が大事なので原文と意訳を下に書く。(原文)於是天皇詔之朕聞諸家之所賣帝紀及本辭既違正實多加虛僞當今之時不改其失未經幾年其旨欲滅斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉故惟撰錄帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉時有舍人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心卽勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭然運移世異未行其事矣(意訳)ここに、天皇(今までの経緯から元明天皇ではなく天武天皇?)はこう仰いました。朕の聞くところでは、諸家(各豪族)に伝わる帝紀(帝の系譜)、本辞(旧辞·言い伝え)はすでに真実と違ってきており、多くはうそいつわりが加えられている。もし、今この時(正しいことが)失われてしまうのを改めねば、何年も経たぬうちに本当の内容が消滅してしまうであろう。これすなわち、邦家(支配下の各地の豪族)のいきさつであり、また王化(王権国家にするため)の大いなる基本である。そこで、帝紀(帝の系図)を整理記録し、旧辞(旧い出来事)を調査検討しようと思う。うそいつわりを削り真実を定め、後世に伝えたい。その時にたまたまいたのが、姓を稗田名を阿礼という舎人でした。年龄は28歳で、その人は聡明で、一通り目を通すだけで難読文字も難なく理解し、音訓も瞬間に判断して話し言葉に直し意味の分かる言葉で読み上げられることができました。そこで(天皇は)阿礼に命令を下し膨大な帝紀(天皇の系図)と旧辞(先人の言い伝え)の資料をしっかり読み込み、全体像を把握しておくよう命じられました。けれども、天皇継承などの複雑ないきさつにより混乱し、時が移り世も変わり、未だに完成できませんでした。こんな感じである。ここは今まで色々な人が伝えて来た通りなのだが、問題はこの後である。(原文)伏惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫宸而德被馬蹄之所極坐玄扈而化照船頭之所逮日浮重暉雲散非烟(意訳)謹んで皇帝陛下が一代で徳を国に大きく広げられ、三統(天·地·人)の徳にて民衆を養い育てられたことを、御推察申し上げます。紫宸(北極星:天皇の威光?)において国中を治められその徳は馬が駆けて行ける限りを覆い、玄扈(天子の座す場所)におかれまして御風習(その威厳)は船を漕いで行ける限りを照らします。日は浮かび輝きを増し、雲は消え霞むこともありません。うーん「皇帝陛下」なの?この言葉が入ってては「序」じゃあり得ないじゃん。そもそも皇帝陛下って誰?天武天皇?元明天皇?話の流れからすると元明天皇だな。だったら、これは天武天皇から命令されたのに何でできなかったの?と言われそうなのを、必死に弁解している(後にお世辞を並べている)だけじゃん。「序」ではない。さらにこの後はさすがに弁解だけではダメだと感じたのか、提出する古事記の「書き方(古い言葉や人名が多いので色々と例外的な部分が多い)や、不確かな内容」について説明する。そしてその後に決定的な記述が続く。よく古事記がたった4か月で作られたと言う誤解を招く表現をする先生がいるのは、下の部分が原因である。(原文)於焉惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者謹隨詔旨(意訳)旧辞、先紀の誤りや食い違いは惜しまれながら正されました所ですが、和同四年九月十八日に至り、わたくし安万侶に稗田阿礼が先に詔された旧辞を読み上げるところを撰録(選び記録)するよう、詔(命令)されました。このたびこれによって献上します(古事記)は、謹んで御旨に従うところであります。ちゃんと「命令されたので、古事記を献上します」と書いているじゃん。これって「序」じゃないよ。古事記を献上する際の「上奏文」だよ。そして、僕が今まで色々な人から教えてもらった、「古事記は天武天皇が命令して作られた」「命令が有って4か月で作られた」と言うのは間違いだと分かる。「古事記を書け」と言ったのは元明天皇で天武天皇は準備しろとしか言っていない。まず和銅4年と言うのは西暦711年である。天武天皇は686年に崩御されている。つまり天武天皇が「古事記を作れ」とは言ったのではない。ただ、稗田阿礼が覚えている「帝紀」と「本辞(旧辞)」が間違っているので直せとそしてしっかり読み込み、全体像を把握しておくよう命じただけであり、この時点では天武天皇は文書化しろとは言っていない。天武天皇は身分の低い太安万侶には(諸家の説得を伴う)修正は無理だと分かっていたからである。ただ、太安万侶としては文書化の必要性を感じており、焦ってはいた。そして、その作業は和銅4年つまり元明天皇の時代まで修正が終わっていない。それを和銅4年に元明天皇が早くしろ!と怒ったので、「先紀(帝紀)、旧辞(本辞)の誤りや食い違いは惜しまれながら正されました所ですが」、と嘘を言いながら仕方ないので、太安万侶は稗田阿礼の口述を未修正のまま文書化しているのである。なので(本来必要な諸家への根回しはできず)たった4か月で出来上がり、案の定、天武天皇が修正したかった所は修正ができていないのが発覚し、元明天皇に奏上したものの、採用されなかったのだと思う。それで「修正が未完成な」古事記には出雲の記述が多く、修正の終わった日本書紀には出雲の記録が少ないのである。また続日本紀等の後世の書に書かれていないのも当然である。元明天皇により「不可」とされた物なのだから。でもこれは太安万侶のせいではないと思う。天武天皇の「すでに真実と違ってきており多くはうそいつわりが加えられている」と言うのは、「俺にとって都合が悪い。だから俺の好きなように書き換える。お前らは黙って従え」と、諸家(豪族達)に無茶振りをしているのだから、太安万侶のような下位の者にはできない仕事。当時はまだ石川氏(蘇我氏系:出雲の派閥)等が残っており、修正に反対したのだと思う。そして古事記は「修正が未完成」ながらも、日本書紀の原典になり、諸家にも無茶を言える舎人親王を中心とした日本書紀は修正を加え、また新たに収集した資料を加え完成したのだと思う。でもさすがに修正しきれなかった部分は「一書」として日本書紀に残っているのである。古事記は乙巳の変で失われた「帝紀」と「本辞(旧辞)」を稗田阿礼が暗記していたもので、それ故に日本書紀の元本になったのである。なので、「日本紀講筵」の場で「日本書紀」の参考書として使われたのだろうと思う。但し、現代人の考える「古事記」としてではなく、「帝紀・本辞」として。「序」はその説明の為のメモだったのだろう。
April 27, 2024
コメント(0)

BIOSパスワードの解除で難しいのはLet’sNOTEと東芝なんだけれども、TOSHIBAのノートパソコンで面白い事実が分かった。Password=と出た段階で、ちょっといくつかのキーを入力すると下の画面になる。一番上はSerial番号が表示される。これは何回やっても変わらないので、恐らくこの機体特有のIDだと思う。写真は危ないので消している。2番目はやるたびに変わるので、時計などが関係した時点のチャレンジコードだろう。こちらは真似をされても影響ないのでそのままにしている。恐らくその二つから何らかの演算をして出たコードが、その下のResponceコードなんだと思う。富士通などのパソコンで3回「エラー吐き出し用コード」を入力して出てくるコードと、2番目のチャレンジコードが同じ意味を持つ物で、ドッグバードさんが作ってくれたパイソン等で解析するプログラムを使って得られるコードがレスポンスコードと同じ機能を持つ物なのだろう。つまり東芝のノートパソコンの場合も富士通の場合と同じようなプログラムが有れば、BIOSパスワードは解除可能だと言うことである。ちなみに上の写真はチャレンジコードがQRコード付きの複雑な最近の物なんだけれども、以前のチャレンジコードは、富士通のノートパソコンが吐き出すエラーコードによく似た5文字X5組のコードだったし、レスポンスコードも5文字X5組のコードを入力するみたい。つまり以前の物は知れ渡ってしまったので改善したみたい。YOUTUBEやGOOGLEで探しても、古いタイプは成功者が多いのだが、新しいタイプはたった1人外人さんの成功者がいるだけで、彼はどうも有料でしか解除していないので教えてくれそうにない。ogatamaさんはYOUTUBEには無いと言っているけれど1人だけいる。また、ogatamaさんは5万円かかると言うが、僕にはお金が無い。ogatamaさんはROMから読みだす必要が有ると言うが、外人さんは別に分解はしていない。つまりROMを読みだす必要は無い。何か無料でできる良い方法はないだろうか?誰か解除プログラムを知らないだろうか?
April 13, 2024
コメント(0)

4月4日はわの会で鎌倉市の泉水橋から杉本観音辺りまでを歩きました。今日のルートは次の通りです。集合場所は泉水橋。金沢八景から鎌倉へ向かうバスに乗って行きます。現地に着くとすぐに足利公方邸跡が在ります。でも宅地化により何も残っていない。足利氏の祖、足利義兼はあの権力争いの嵐が吹き荒れた鎌倉時代初期から、この地に館を築いてその後270年間もここは足利氏の鎌倉屋敷でした。でも何も残っていない。足利尊氏は京都に室町幕府を開き、鎌倉には東国と甲斐・伊豆・陸奥及び出羽の統治の為に、鎌倉府を置きます。鎌倉府の首長は鎌倉公方と呼ばれて、足利尊氏の子の基氏が初代です。鎌倉公方は基氏の子孫が代々つとめましたが、鎌倉府は室町幕府と対立し始めて、(上杉禅秀の乱等:墓が報国寺に有る)補佐役(と言うか鎌倉府を見張る役)である関東管領の上杉とも対立していた。第四代鎌倉公方の足利持氏はこれに腹をすえかねて上杉憲実を攻めたが、第6代将軍足利義教は逆に上杉憲実と手を組んで鎌倉府を攻め滅ぼした。(永享の乱)しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。しかし、第五代成氏の時代に補佐役である関東管領の上杉憲忠とまた不仲になり殺してしまい、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、争いは関東地方一円に拡大した。ここから28年間にわたる関東地区の戦国時代が始まる。(享徳の乱)もうこの乱では敵味方が入り乱れてしっちゃかめっちゃかになるのだが、足利成氏は関東の各地を転戦する中で、北関東の上杉方の攻略に手間取っている間に本拠地の鎌倉を今川範忠により占拠され、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟である成潤が日光山に奔って上杉方と通じた。このため、成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総古河に入った。以後成氏は古河城を本拠地とし、古河公方と呼ばれた。それ以来この地は廃墟となっています。その時(明応6年頃)の関東の勢力図をガイドさんが見せてくれました。扇ヶ谷は上杉、下総は足利になっています。ぶっちゃけ足利は追い払われたんですね。公方邸跡から山側に入っていくと、御馬冷場(おんまひやしば)が有ります。うーん奥にやぐらがあるけれど、ほぼ倉庫。ここは源頼朝の愛馬、生食と麿墨の足洗い場だったと言う伝説が有ります。そう言えばすぐ下には滑川が流れているなぁ。生食と麿墨は宇治川合戦の際に頼朝から佐々木高綱と梶原景季にそれぞれ与えられ、両者は有名な先陣争いをします。景季が先を進んでいて高綱が後方に居たのですが、高綱は景季に「馬の腹帯が緩んでいる。おしめなされ!」と声をかけて、景季が締め直しているすきに高綱は川に馬を乗りいれて向こう岸に渡り、それを見た義経軍は発奮して、木曽義仲軍を打ち破ったと言います。ちょっとずるい!次はいなり道とその脇にある庚申塚。いなり道は後から行く鎌足稲荷神社にちなんで名づけられたらしい。でも、何で鎌足稲荷?と思った。お稲荷様は本来は秦氏の神様である。Wikiの稲荷神から抜粋してみる。 もとは古代社会において、「渡来人であった秦氏の氏神的稲荷信仰をもとに、 秦氏の勢力拡大に伴って伏見稲荷の信仰圏も拡大されていった」 と「日本民俗大辞典」は述べている。 本来の「田の神」の祭場は狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の穴) だったと推測されるが、近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が広まり、 狐塚に稲荷が祀られるようになった。また、こうも書いている。 五穀をつかさどる御食津神・ウカノミタマと稲荷神が同一視されることから、 総本宮の伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社ではウカノミタマを主祭神としている。まぁそれはそれとしていなり道の庚申塚の写真。本当に関東それも横浜市や鎌倉市には庚申塚が多いなと思う。あちこちにある。いなり道を進んで行くと浄妙寺山門に着く。桜が満開だった。良い時期に来た。京都や奈良のお寺さんとは違い、心が和むなと思う。お寺さんは大きいお寺さんよりも、おじいちゃんやおばあちゃんがおむすびを持って遊びに来れるお寺さんが良いと思う。この付近の地名は浄明寺と言う。住民がお寺さんの名前である浄妙寺では畏れ多いと1字を変えて付けたのらしい。浄妙寺の開山は退耕行勇で、開基は足利義兼。上でも書いた源頼朝挙兵以来、源氏・北条氏に従った足利氏の祖である。足利氏は代々世渡りがうまかったらしい。鎌倉殿の13人がNHKのドラマでも分かるように、梶原氏、畠山氏、比企氏、和田氏、源氏、そして盟友の三浦氏と次々に北条氏に滅ぼされて行ったのに対して、足利氏は最後まで生き延びて、ついには鎌倉幕府を滅ぼしている。ガイドさんがこれについて面白い系図を見せてくれた。見ると分かるように、この浄妙寺の開基で足利氏の祖である義兼を筆頭に、みんな嫡男は北条氏の娘(女)を正妻に迎えて北条氏と血縁関係を強化して、その時々の北条氏のTOPと近い関係になって名前から1字をもらって自分の名前とし、(写真はワープロミスで1次になっていますが1字です。)またそれだけではなく、武功を重ねて北条氏に仕えていました。そして最後には鎌倉幕府を滅ぼして、関東ではなく京都に室町幕府を開いています。実は今日のテーマの足利一族ゆかりの地を行く。と言うのは、お寺を見に行くと言うよりは、足利氏と北条氏及び新田氏の関係を考えるのがテーマだったのかも?話は戻って浄妙寺の本堂。開基は義兼だが、北条氏を滅ぼした後には鎌倉公方足利氏の菩提寺となり、裏には足利貞氏の墓もある。なお、説明板にも有るように、この寺院は大寺院だったようで、本堂左手奥から坂を登った所に有る石窯ガーデンテラス付近には延福寺、またその石窯ガーデンテラスの西側には熊野神社が有るが、ここは大休寺と言う足利尊氏の弟の直義の菩提寺だったらしい。直義は以前行った「鎌倉宮の後醍醐天皇の皇子の護良親王を幽閉し殺害した」人である。横浜市金沢区わの会22回目のイベントに参加しました。また楠木正成を討ち取ったのも彼である。足利尊氏は(ちょうど源頼朝が義経を恐れたように)直義を恐れたらしい。そこで尊氏は直義をここに幽閉し、直義はここで病死した。(毒殺の噂有り)ところで面白い話が有り、教科書等で有名な下の源頼朝の絵は実は直義の絵なのだそうだ。もう本当に歴史の「常識」は次々に覆されてしまい、信用が置けない。これが原因で高校入試や大学入試で失敗する人もいるのだから入試からは歴史を外して欲しい。その直義の墓は浄明寺の本堂裏の山の中腹に有る。横浜市の教育委員会の人は「やぐらは鎌倉時代のもので鎌倉時代にしかない」と言うけれど、あちこちに鎌倉時代以外のやぐらが有るので面白い。でも、この直義の墓は、鎌倉時代は終わっているけれど室町時代の初めだから、ぎりぎり鎌倉時代と言う判断なのかな?でもやっぱり地方公務員の無駄なプライドだな。ここから鎌足稲荷神社へは直接行けないので、一旦浄妙寺に降りて、山門手前から左に出て坂を登る。そこに鎌足稲荷神社が有る。ここで僕があれっと思ったのが写真右下の「神社跡」とやぐらっぽい穴。上のWikiの稲荷神の説明のように、稲荷は本来は田の神(だから稲・荷)であり、渡来人の秦氏の神様である。今は何も残っていないし、証拠も無いのだけれども、本来はこの神社跡が元の神社では?そしてここには稲荷ではなく古い神様が居たのだと思う。但し、それが仏教が入って来た時につぶされそうになり、危機を感じた地元の人が「稲荷神」に改装して生き延びた。それが鎌足稲荷神社の元では?実は千葉の富津にも鎌足の鎌の伝説は残っている。横浜市金沢区の富岡八幡宮は古墳だよ(その16)富津の飯野陣屋跡にはここと全く同じ「鎌足稲荷伝説」と「鎌足桜」が残っている。どちらが本命?僕は実はあんがいとどちらも正しいと思っている。藤原鎌足は実は「中臣氏」ではなく、千葉の豪族の人間で、三浦氏や千葉氏の「母方の」祖先だったのではないだろうか?有名な「大鏡」には藤原鎌足は常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)の出身だと書いている。「大鏡」はいい加減な本ではない。ちゃんとした本である。三浦氏や千葉氏等関東平氏の祖先は「平家」なので中央から下って来たのだが、それを受けいれた地元の豪族が居たのだと思う。またその豪族は実は大和王権の成立に大きく貢献した人達で、だから茨城や千葉に神武東征や国譲りで活躍した「神」を祀る神社が残っているのだと思う。国譲りで出雲の神様達を負かした、建御雷神(タケミカヅチ)を祀る鹿島神宮と、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀る香取神宮である。日本神話上こんなに大事な神様が近畿ではなく関東におられるのはそのせいではないだろうか?まぁそれはそれとして、この鎌足稲荷神社のある山に「鎌」を埋めたのが「鎌倉」の由来だそうである。え、そうなの?そんな大事な所なの?と思ってしまう。まぁ当然別の説も有り、鎌は実はかまどのことで、鎌倉が東、北、西の三方を山で囲まれかまどの形状をしており、倉は谷のことで、かまどの形状をした谷に囲まれた土地が由来だと言う説も有る。その他には、僕はこれが正しいと思っているのが、埼玉には高麗郡と言う所が有り、朝鮮の高麗から戦火を逃れて来た人達が住んだのが由来で、同様に神奈川にも高座郡と言う所が有り、この「高座」も元は「たかくら」で、高倉=高麗の人達が移り住んだ場所と言うことから、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったと言う説も有る。僕は源氏を始めとした八幡神信仰に着目し、八幡神はWikiによれば、 「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を 意味する言葉とみられる。 八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、 神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、 また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。と書かれていることから、神功皇后(のモデルになった人)が朝鮮から連れて来た人達が、さすがに近畿には住めないので、関東にたくさん住んだことがこの地の始まりだと思っている。そのせいで、後年桓武天皇の時代に桓武天皇の母方(百済の王女)の家来や皇族が、関東に来たのが坂東平氏の始まりだと思っている。なので、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったと言う説も有力だと思うのである。そうならば、鎌足と稲荷が結び付いたのもうなづける。そうでなければ何で鎌足と稲荷?と思うのである。鎌足稲荷神社を後にすると、次は法告示である。まずは山門。ここの本堂で面白いことに気がついた。それは「紋」。足利尊氏の紋は写真左上の「足利二つ引両」が有名だが、ここは「丸に二つ引き」。ちなみに新田義貞は「新田一つ引き」。何故か三浦氏の紋によく似ている。北条氏のミツウロコとは似ていない。うーん、やっぱり桓武平氏は元はみんな一つだったのかもしれない。報国寺は本堂裏に禅寺らしく、池とやぐらが有る。このやぐらは開基の足利家時と義久の宝篋印塔である。またここを左に行くと、見事な竹林が有る。好きな人は何時間でも見られる。この竹林を出た所に、鐘楼脇五輪塔群がある。これは元弘三年(1333年)5月の北条一族と新田勢の合戦で死んだ両軍の遺骨を葬った墓だそうだ。すごい量の墓。報国寺を出て、上杉朝宗・氏兼屋敷跡までの道を「田楽辻子の道」と言う。吾妻鏡に書かれた道ってすごい。いや、道は生活に必要なので有るのだけれども名前が残っているなんて。道の終点が上杉朝宗・氏兼屋敷跡。何も残ってはいない。でも、何故か昔のことが想像できて良い。あとは杉本観音バス停で解散したのだけれども、せっかくなので杉本寺。やっぱりお寺は石段が良い。
April 13, 2024
コメント(0)

3月25日に邪馬台国はどこにあったか(その45)魏志倭人伝と古事記や日本書紀を書き、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代3世紀と、古事記や日本書紀ではっきりとは分からないがおおよそ様子が分かる5世紀に挟まれた、日本の様子がはっきりとはわかっていない4世紀を空白の時代と呼んでいることを書いた。邪馬台国はどこにあったか(その45)魏志倭人伝と古事記や日本書紀でもその時に書き忘れたのだけれども、日本書紀はあたかも神功皇后が卑弥呼であるかのように魏志倭人伝を引用して書いている。(原文) 卅九年、是年也太歲己未。 魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。 太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」 卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」 卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」(意訳) 神功皇后39年(日本書紀は編年体で書かれている)、 この年は太歲己未(つちのとひつじ)である。 魏志倭人伝によると、 「明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わし帯方郡に至り、 洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。 太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。」 四十年、魏志にいう、 「正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。」 四十三年。魏志にいう、 「正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。」日本書紀第9巻「神功皇后」の一部である。つまり、神功皇后39年を景初3年で卑弥呼が魏に難斗米を派遣した年で、その翌年、神功皇后40年を正始元年とし、魏の天子が卑弥呼に詔書や印綬を送った年だと、またその3年後神功皇后43年に倭王は魏に伊声者掖耶ら八人を遣わしたと書いているのである。何も考えずに読むと難斗米等を魏に派遣したのは卑弥呼だと魏志倭人伝に書いてあるので、ここで言う倭の女王は神功皇后=卑弥呼と読めてしまう。つまり日本書紀の編者は魏志倭人伝に書かれた卑弥呼は神功皇后だったんだよと主張している。ちなみに神功皇后は景行天皇の孫の仲哀天皇の奥様で、仲哀天皇2年に皇后となられて、仲哀天皇は神功皇后と熊襲征伐に行かれた際に筑紫の香椎宮で亡くなっている。それが仲哀天皇9年2月。神功皇后はその後熊襲を征服し、山門の賊を討ち、新羅征伐を行い、12月にお子様の応神天皇をお産みになった。新羅征伐の間は応神天皇が生まれないように石をお腹に巻いて新羅征伐を行っているのは有名。翌年、仲哀天皇の子の麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)が謀反を企み、これを討っている。(多分その年に神功皇后は天皇になったのだと思うのだけれども即位の記事は無い。 でも、紀年体で神功皇后○○年と書いてあるので、神功皇后は天皇の扱いである。)その結果、神功皇后3年には応神天皇が皇太子になっている。ここまで書くと分かるのだけれども、魏志倭人伝の狗奴国に相当する記述が無い。魏志倭人伝では正始8年に卑弥呼は狗奴国との戦いで魏に助けを求めるのだが、上記のように卑弥呼=神功皇后ならば、正始8年は神功皇后47年になるはずだが、日本書紀の神功皇后47年には、百済と新羅が朝貢してきて、百済の使者が(新羅のせいで)貢物が少なくなってしまったと言い訳をしている記事だけである。なお、神功皇后9年には麛坂皇子と忍熊皇子との戦いの話はあるのだけれども、2人は旦那さん(仲哀天皇)の子で、狗奴国とは読めないし、戦争した年が40年以上違う。魏志倭人伝の記述とは合わないのである。だから神功皇后は卑弥呼ではないのだけれども、何故日本書紀の編者はそうほのめかすのか?恐らくは目的は2つあるのだと思う。一つは中国の正史である三国志(含む魏志倭人伝)の登場人物に日本の天皇を結び付けたかった。もう一つは神功皇后を魏志倭人伝の時代にすることにより、それ以前の天皇をはるか昔に設定したかった。明治時代のいわゆる皇紀2600年と同じ発想である。欠史八代や神武天皇等の古代の天皇が100歳を超えているのと同じ原理である。では神功皇后が卑弥呼でないのならば、神功皇后は歴史上どの時代の人か?神功皇后52年9月に以下の記述が有る。(原文) 五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、 則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、 仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、 其邈七日行之不及、當飲是水、 便取是山鐵、以永奉聖朝。」(意訳) 五十二年秋九月十日、久氐(クテイ:百済の人)らは千熊長彦に従ってやってきた。 そして、七枝刀を一口、七子鏡を一面、および種々の重宝を奉った。 「我が国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。 その遠いことは、七日間行っても行きつきません。まさに、この河の水を飲み、 この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と申し上げた。ここに書かれた「七枝刀」が奈良県天理市の石上神宮に伝来した鉄剣で国宝である。七枝刀には表に34字裏に27字の銘が刻まれており、「百済王が倭王に贈った」とされている。このことから、百済の王から神功皇后に送られたと言う日本書紀との整合が取れ、その年も銘(「泰■四年」と一字が不明で「泰和」、「泰始」あるいは「泰初」の議論がある)から概ね372年であろうと推測されている。つまり卑弥呼から約120年後である。ネットで見つけたその写真を載せる。またこれは埼玉の稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)に書かれた年代が、ワカタケル(雄略天皇)の時代である辛亥年(471年)とよく合い、僕はほぼ正しいのではないかと思っている。以上から神功皇后は卑弥呼ではないと思う。ただ、神功皇后が天皇であったか天皇ではなく摂政であったかは別として実在したのならば、空白の4世紀は日本書紀が結構(年号は別として)信頼できる資料なのではと思う。
April 4, 2024
コメント(0)

2024年3月30日(土)はシーサイドラインフェスタ2024が開催されました。コロナのせいでずーっと中止されて来たので4年ぶりです。久しぶりだし、今年は幸野ゆりあちゃんが卒業するので、是非と言うことで行きました。3月なのに6月並みの暖かさで晴れ渡り、もうお客さんでいっぱいでした。ただ今年は1月2月が暖かかったのに桜の開花が遅く、お花見には少し早かったです。イベント会場は本館の前で名前は分からないけれど女神さまの像の向こう。奥が本社ビルです。右の木は確か桜なんですがまだつぼみ。幸野ゆりあちゃんはプリンセスプリンセスの「Diamonds」を歌っていました。ゆりあちゃんももう33歳。ファンはもうオジサンが多く年月を感じました。でもゆりあちゃんはまだまだ元気。力いっぱい踊っていました。ゆりあちゃんのコンサートが終わって、車両工場に行きました。工場はすごく広くてちょっとした体育館2つ分くらい。5連結の車両が2つ入るので、この位の大きさは必要です。僕は技術者なので、どうしても車両の色々な装置や仕組みが気になります。まずはシーサイドラインの特徴であるタイヤを見ます。鉄製車輪のJRなどとは違い、高架の上を走るシーサイドラインは騒音防止の為にタイヤです。しかもパンクした際の対策の為に中子式空気タイヤです。タイヤがパンクした場合、複数のタイヤが有るので通常は走行不能にはなりませんが、重大事故で複数のタイヤがパンクすると大変です。(平坦部ならタイヤの交換も可能だと思う。 でも坂の部分だと荷重がかかってジャッキは使えずタイヤ交換は無理だと思う。 シーサイドラインはモノレールとは違って坂が多いから)通常のタイヤではパンクすると車両が大きく傾いてしまいます。傾くと内輪差が生じて走れません。でも中子式の場合は多少傾きますが、走行は可能です。(例えばバランスを取る為に他のタイヤの空気を抜けば内輪差は無くなる。)前回は無かったタイヤの断面も今回は追加されていました。次は主スイッチを見ました。シーサイドラインは電気で動くので、点検時など電気を遮断する必要が有る場合はスイッチが必要です。写真を見ると分かりますが、スイッチはナイフスイッチです。家庭の入口にあるブレーカーは過電流(要は故障等で電流が流れ過ぎた状態)保護の機能が有り、ショートしてもそれを遮断(OFFにする事)ができますが、これは単なるスイッチなので、保護機能は別になります。写真を見るとスイッチは横向きです。何故でしょう?実は電気関係の大きなスイッチはみんな横向きです。地球には重力が有るので、縦向きだと重力で落ちてしまう危険が有るので、横向きなのです。特にシーサイドラインのような車両は振動が有るので、縦向きだと動いてしまいます。よく考えて作られていると思います。次は電動空気圧縮機です。よく見ると上の方がV字型になっています。ここがポンプで、下の円形部分に電動機(モーター)が入っていて、空気を圧縮します。ハーレーのバイクがV型ツインと言うこれに似た形をしていますが、あれはV型部分のシリンダーでガソリンが爆発して発生した圧力を、クランクで下の円形の回転軸に伝えてバイクを動かしますから、V型部分と円形部分の役割が、この電動圧縮機とちょうど逆の関係になっています。次は車両の制御部分です。シーサイドラインは無人運転を行っていますが、これをATO(Automatic Train Operation=自動列車運転装置)と言います。ATOは管理担当部の方にメインの装置が有り、プログラムされた運航を管理していますが、その命令を走行路に配置されたアンテナを通じて列車に伝えて、スピードの制御をしたり、発車・停止そして扉の開閉をしたりします。各駅の扉付近には走行路に白い四角のアンテナが有り、車両の下にはループ状のアンテナが有ります。なお、アンテナはATOだけでなくATC(Automatic Train Control=自動列車制御装置)にも使われます。ATCは車両が信号に従わなくて異常な動きをしたり、速度超過や停止位置で止まらない場合、速度を調整したりブレーキをかける装置で、ATOとは少し違います。よくATCの上位規格がATOだと言う人がいますが、JIS上は別の概念です。ただ、ATOとATCは同じ機器を双方で使うのでアンテナ等は共有します。例えばブレーキは運転速度の調整(ATO)にも使うし、危険防止(ATC)にも使うからです。工場内には子供達の為に色々な体験スペースが設けられていました。まずは運転体験。実際の運転席とほぼ同じ物を使います。またミニ列車にも乗れます。シーサイドラインと京浜急行は密接な関係に有り、京浜急行のミニチュアも有りました。これ欲しい!リビングに置きたい!工場の外の敷地内には警察や消防や他地区の私鉄、そして近所の食品工場の出店も有りましたが、子供達には消防車に乗ったり、白バイに乗るのが大人気でした。この子供用の白バイは警察が広報用に作ったのかなぁ?欲しい。そして最大の展示物はウルトラセブンのポインター号。久しぶりに見ました。ダンなんかが乗っていた車です。でも1957年モデルのインペリアルを改造って書いてある。放送は1967年だから10年前のモデルを改造したんだ。予算が厳しかったんだな。社長の車検切れの車を改造したのかも?色々と廻って楽しかったのですが、最後は幸野ゆりあちゃんとのお別れ会。ゆりあちゃんは健気にも元気にふるまっていましたが、寂しそう。偉い人から花束をもらって、キラキラシーたんとお別れです。ゆりあちゃん7年もプロモーションガールをやっていたんだなぁ。感無量です。これからもお元気で。
April 2, 2024
コメント(2)
全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()
