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2日目午後は故宮へ行きました。民主化弾圧事件で有名な天安門広場から入っていきます。ルート図のように広場の入口には保安検査場が有ります。中国の観光地の大半には入口に保安検査場が有り、パスポートなどの身分証明書が必須です。場合によっては身分証明書だけではなく、手荷物検査も有ります。よほど治安が悪いんだな。左手には人民大会堂が有ります。日本で言えば国会議事堂です。全国の人民代表が集まり、国の政策や人事などが行われます。天安門広場の後ろ側には毛沢東主席記念堂が有ります。ここには毛沢東主席の遺体が安置されており拝顔できるそうです。中国人は一生に一度はここを訪れるのが習わしだそうです。反対側には有名な午門が有ります。門の上の方には毛沢東主席の肖像画が飾られています。「肖像画」です。写真ではありません。5月1日のメーデーや10月1日の国慶節には新しいものに交換されるそうです。すごい。有名な広場なのでみんなここで写真を撮ります。広場と門の間は大きな道路が有って、戦車やICBM等の軍事パレードが行進していくのです。なので、渡るのではなく地下通路を通って向こう側に渡ります。午門をくぐると広場に出て、いよいよ故宮(紫禁城)内に入ります。ここには無数の建物が有り、太和門から乾清門までの囲われた内部を外朝と呼び、ここで政治が行われていました。その奥は内廷と呼ぶ、皇帝や皇后及び妃達の生活の場で、さらにその両側に後宮の女達の生活の場等がある。内廷の西の六宮の南には養心宮が有り歴代皇帝はここで過ごしたそうだ。さらに有名な西太后もこの養心殿で、慈安皇太后(清の咸豊帝(文宗)の皇后)と共に「垂簾の政(皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うこと)」した。故宮の中の案内図。まずは太和門。ここで色々なことが分かって僕は感動した。まずは狛犬である。元々はインドの寺院の前の獅子(ライオン)の像だったものであり、いわゆる「阿吽←梵字」の言葉通り、本来は梵字なのだから仏教が元である。それが何故か日本ではお寺には無く、仏教とは関係ない神社に有るので不思議に思っていた。でもここで理由が分かった。インドから中国に渡ってきた際に変化が起こり、それが日本に伝わったのである。この故宮もお寺ではない。むしろ雲龍階石等から分かるように中国本来の神様や神霊により守られた聖域である。そして高麗犬はそれを守っている結界の守り神である。インドから中国に渡ってきた際に高麗犬は仏教から離れて神様の使いに変化したのである。そしてそれが日本に伝わったので、お寺には無く神社に在るのだ。つまり高麗犬がお寺から離れて神様についたのは中国でなのだ。だから日本に渡ってきた際には既に仏教とは離れていたのだ。またしゃちほこも分かった。名古屋城の天守閣の完成は1612年なのだが、太和殿は明代に造られたものでそれよりも前。もしかすると加藤清正は朝鮮征伐に際して当時の明について色々と調べ、名古屋城の建設に際してそれを応用したのではないだろうか?時代的にちょうど合うと思う。名古屋城のしゃちほこはしゃち+ほこで魚(実は哺乳類)のシャチの尾が矛のようだからと、しゃちほこと呼ばれているのだそうだけれども、口に歯が有る。対してここのは歯が見えない。ガイドさんの説明だと、ここのは龍が魚と交わって生まれたと言う伝説上の生き物で、龍とは違って歯が無い(鯉のような)魚なので水を吐くのだそうだ。つまり加藤清正は朝鮮征伐時に中国の建物のしゃちほこの知識を得て、その特性の(水を吹き出す)火難防除を名護屋城に活かそうとし、日本オリジナルとして考案した。なので名護屋城のしゃちほこは歯が有る日本オリジナルのしゃちほこなんだと思う。ちなみに名古屋城のしゃちほこ。歯が有る。ここ太和殿もそうだけれども、後に続く他の門や殿でもみんな入口の段中央には龍の彫刻が有る。雲龍階石と言うらしい。さて太和門の中に入って太和殿。映画ラストエンペラーで有名な所である。映画では幼い皇帝の溥儀が玉座の後ろに「こおろぎの虫かご」を隠す場面があるのだけれども、中国には「コオロギは 一万年生きて 世の移り変わりを見続ける」というような伝説が有り、その伝説が映画の中で象徴的に使われているのだと最近知った。愛新覚羅溥儀の人生って、はたから見ると幸せだったのか不幸だったのか難しいけれども、本人的にはどうだったんだろう?太和殿を始めとした3つの殿が有る部分を外朝と呼び、軍隊の出陣等の大事な政治的な行事はここで行われたらしい。太和殿の次は中和殿。次は保和殿。ここの裏側から下を見下ろすと乾清門が見えて、その門の先は後三宮の有る内廷である。内廷は皇帝や皇后及び妃の生活の場である。(注:生活の意味が微妙:子作りの場かも?)ここでガイドさんが後宮の話や皇帝の子作りの話や宦官の話をしてくれた。皇帝って案外と可哀そうなのかもしれない。そう言えば眞子様もそうだったなぁ。自由はないんだ。ただ、現代の中国の女の子たちは、もう完全に自由である。観光地に行くと、どこでも着飾った(綺麗と言う意味ではなくコスプレと言う意味)女の子達が写真を撮っている。インスタに載せるんだろうと思う。話は少し戻るが太和殿脇には水瓶がたくさん有る。元は金箔が張ってあったらしいのだけれども残っていない。また、甕自体も日本軍が占領した際に鋳つぶして砲弾にしたのでかなり減っているらしい。話は戻って内廷脇の通路を入っていくと、後宮の女性たちのいた六宮につながる通路が有る。この門の左手に六宮が(塀越しに)並ぶ。後宮の女性たちの住まいである。左手にいくつかの門が有り、そこから六宮を覗く。あまりたいした建物ではない。彼女達は幸せだったんだろうか?さらに奥に行くと花園が有る。ここは重要だったんらしいけれど時間が無くて急いで通過した。花園の最後は承光門である。紫禁城もここで終わりである。承光門をあとにすると最後は神武門。北の果てである。神武門を出て、北側を眺めると景山が見える。驚くなかれ、これは人工の山である。明・清代の皇帝の庭園となった山で、明代に紫禁城を作ったとき、元の宮殿であった延春閣の跡地に、堀を掘った時の残土で五つの峰を形成する形に作られた。紫禁城に殺気が入ることを防ぐために、紫禁城の真北に作られたと言われている。これは背山面水という風水の考え方を実現したものである。現在は公園になっている。山頂の堂は万春亭と言うらしいが、時間的に見る余裕は無かった。この後は夕食を食べて、北京の夜のお楽しみの京劇を見に行った。ここの京劇は有名らしいが、劇と言うよりはサーカスに近い。まずは踊りから始まるが、右手から出てくるお姉さんの曲芸が続く。お姉さん達の曲芸はすごい。こんなのは序の口で、さらに過激になっていく。もはやどこが頭で、どこがお尻か分からない。そして面白かったと言うか、気の毒だったのは、お姉さん達は失敗すると謝ってやり直すのだ。芸の道は厳しいのだなと思う。やり直して成功したらお客さん達はさらに大きな拍手を送る。これは日本でもよく見る自転車にたくさんのお姉さんが載る曲芸。男性達も頑張っている。ジャニーズファンの日本の女の子達には受けるかもしれない。最後はサーカスでもおなじみの球体の中のオートバイ曲芸。さすがに5台も球体の中を走り回ると、緊張感があふれる。値段は260元(この日のレートは1元=23円なので約6000円)なので安くは無いが見て良かった。明日は頤和園。
November 30, 2024
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2日目は朝6時に起床して早朝から出発した。大変だったけれども、これが正解だった。観光先は、地元の中国の人にとっても観光地なので、到着時間が遅くなると大混雑になるのである。特に今日行く万里の長城は午後には長蛇の列になる。北京から一番近い「八達嶺長城」まではなんと高速道路が開通しており(実は電車もあるらしい)、1時間半くらいで着いてしまう。さっそく観光を開始した。万里の長城は北方の蛮族から北京を始めとした漢民族の世界を守る為に、高い山の上に連続した砦と城壁を築いたもので、紀元前214年に秦代の始皇帝によって建設が始まった。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。万里の長城と言う呼び名の由来は、司馬遷が「臨洮を起点として遼東に至る。延袤万里」と書いたことにより、そこから「万里の長城」と言われるようになった。人類史上最大の建造物と言われている万里の長城は、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われる。(2003年に中国人の宇宙飛行士・楊利偉が地球に帰還し、 「宇宙から万里の長城は見えなかった」と明言しているけれど~)現在は世界遺産として登録されており、特にここ八達嶺長城へ来る観光客は海外からの観光客も多い。バスを降りると登城口までの道の両脇には店が並び、道路わきに建設当時の様子を再現した銅像もある。この写真は馬だが、地域によってはラクダも使っていたらしい。登城口の脇に、これから登る万里の長城の全景図が有った。上の地図を見ると分かるようにルートは登城口から「女坂」と「男坂」に分かれており、通常は「女坂」を登る。女坂と言う名称から楽そうに思われるかもしれないが、そんなに甘くはない。傾斜の厳しい部分が少ないと言うだけで、傾斜の厳しい場所は結構あり、行きは良いが帰りは膝が笑う。もうがくがく!まずは女坂の全景。最初に見た時は、まぁこの程度となめていた。でも4つ目の砦、北四楼の坂は厳しい。砦付近はこんな坂ばかり。砦の頂上はこんな感じで、上から攻めて来る敵を攻撃できるようになっている。写真では分からないが、両側は絶壁である。山の斜面なので攻城車が使えず、敵は縄はしごで登ってくるしかないが、そこを弓で狙う。貯まったものじゃないと思う。でもガイドさんの説明によれば長城の本当の(隠された)目的は、敵の侵入を防ぐ為でなく、領民が外側に逃げ出すのを防ぐのが主な目的だったらしい。であれば分かるなぁ。下から見上げるだけで逃げ出すのをあきらめるよ。北四楼の先にはまだまだ長城は続いている。地元の観光客はすごいよ。まだ先まで進んでいる。でも僕等には時間制限が有るので、ここから引き返すしかない。ここまで20分かかったので、往復40分(帰りが下りなので危ないから時間はかかる)帰りに北の方の男坂を見た。万里の長城の全長は6259.6kmもあるらしい。司馬遷が「延袤万里」と言うわけである。中国人ってすごいと思う。でも逆に言えば臆病なんだな。中国人が恐れていた匈奴などの北方民族ってそんなに強かったんだ。ちなみにお客さんが少ないように見えるかもしれませんが、それは朝の出発が早かったからで、僕等が帰る頃にはお客さんは数倍に膨れ上がってました。早起きは3文の得です。次(午後)は故宮へ。
November 29, 2024
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コロナでどこにも行けない4年間に1か月1万円弱を貯金してお金を貯めて、念願の中国旅行に行ってきた。4年間の最初の頃はまだ働いていたので、月に2~3万円でも大丈夫だったが、最後の方は退職してからなので、貯金は四苦八苦だった。でも、中国には何としても行って、魏志倭人伝の邪馬台国の秘密や、古代の神話の話、古事記・日本書紀の話などを中国の現地で確かめたかったので行けて良かった。今回色々なことが分かった。例えば、日本では神社に狛犬がいるが、これは本来は高麗犬で、(音は両方とも「こまいぬ」)飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。一般的に、獅子・狛犬は向かって右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、古くは角を持っていた。つまり「阿吽」は梵字なので、そもそも日本由来の物ではないのである。それが何で日本ではお寺ではなくて神社に有るのか?狛犬の由来まではわざわざ中国に行かなくても、調べて分かっていた。でも中国に行ってふと気がついた。中国でもお寺じゃなくて、神様の居る所に高麗犬は居る?そう、故宮の太和門に高麗犬がいたのである。故宮はお寺ではない。皇帝の居た宮殿である。神社が神様=御先祖様を祀るところならば日本と同じじゃん!つまり狛犬がお寺の置物ではなく、御先祖様を祀る場所の結界に変わったのは中国だったんだ。そう思ったのが、僕にとっては結構収穫だった。高いお金を払った価値が有ったと思った。中国旅行の目的はもう一つあって、実は僕は過去に若い頃にアメリカ・カナダに旅行してシアトル・ロスアンゼルス・ナイアガラワシントン・ニューヨーク等あちこちを廻り、子供達がお嫁に行って生活が楽になってから、世界各国に行くのが野望だったのだ。まずはスペイン・フランスに行って来た。今日からスペインからパリ2日目イタリアにも行って来た。イタリア旅行1日目からイタリア旅行9日目イギリスにも行って来た。ペニーレーンやジョン・ポールの生家に行った時は感動した。イギリス1からイギリス7マチュピチュにも行った。ペルー&メキシコその1からペルー&メキシコその10オーストラリアにも行った。ここでは水中散歩で空気が送られてこず死にそうになった。オーストラリアその一からオーストラリアその6コロナ前にはエジプトに行った。エジプト1からエジプト6つまり南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリアの5大陸を制覇し、あとアジアに行けば大陸単位としては世界を征服したことになるので、何としても生きているうちに中国に行きたかったのだ。あとはギリシャ・トルコとガラパゴスに行きたいな。ちなみに僕のこのブログは「日本を征服だ」である。日本で行ったことが無い県は無く、住んだことが無いのは沖縄・四国・近畿だけだから。まぁ、僕の野望です。まずは成田から北京に海南航空の飛行機で飛んだ。海南航空は意外にお勧めです。一般の人にはどうかは分からないけど障害者に優しい。航空券の受付で、僕が耳が聞こえなくてもたもたしていると、受付のお兄さんが、気がついてくれて書類を書き始めた。それを見ると、障害者は通路側の席を確保して、ベテランのCA(昔ならスチュワーデス)さんが、面倒を見てくれるようだ。座席に座るとお姉さんが「食事は何が良いか?チキンライスでも大丈夫か?」とか聞いてくれる。お姉さんは日本後は離せないので、携帯+翻訳アプリで通じるのである。日本のJALやANAではここまでやってはくれない。海南航空はお勧めだと思った。北京に着くともう夕方でこの日は終わり。さっそく夕食を食べてホテルに向かう。途中にオリンピックの会場となった建物が見えた。いよいよ中国旅行の始まりだ!中国は結構都会で、道は広くて30階建てくらいのマンションがたくさん立っている。そして面白いバスを見つけた。北京も公害が発生し始めた頃にガソリンではなく電気で動くバスを始めたらしい。トロリーバスである。ただ、トロリー線が無い場所ではパンタグラフは降ろして走っている。環境負荷低減の効果はあるのだろうか?そう言えば日本では(今は廃止されたけど)黒部第4ダムへの道でトロリーバスが有ったなぁ。最初の北京のホテルはこんな感じだった。廊下の右はバス(お風呂)で寝そべって浸かれる大きな湯舟が有る。海外に行くと最初に心配なのは電源だが、中国はOタイプやAタイプが混在するが、今回のホテルは全ホテルに万能型のコンセントが付いていたこの万能コンセントは便利だと思う。他の国だとその国独特のコンセントに対応しなければならないが、これならどの国でも大丈夫。ただ、日本は100Vなのに中国では200V。でもアメリカやヨーロッパはみんな200Vなので、アメリカ人や中東の人やヨーロッパの人が多いのであればこれで良いのだろう。と言うか日本の人も、携帯やパソコンのACアダプターは200Vでも使えるので問題はない。ただ、ドライヤー等は使えないが、ホテルに備え付けのドライヤーが有るので問題ない。つまり今回のホテルは全て何の問題も無かった。他のホテルは分からないが、クラブツーリズムのお姉さんが気を使ってホテルを探して、上手くやってくれたのだと思う。明日からが楽しみだ。
November 29, 2024
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11月7日はわの会のイベントで、横須賀の走水に行った。暑かった今年の秋もようやく涼しくなり、皆さんも重ね着をしておられた。僕はシャツ1枚だったけど。だってまだ衣替えしていないので仕方ない。京急の馬堀海岸駅に集合して、走水神社まで歩く。走水神社で解散なんだけれども、僕はもう少し足を延ばして「ゴジラの足跡」まで行くつもり。ルートはこんな感じ。わの会はだいた10時から12時半がいつもの行程。なので僕はその後2時間くらい追加で歩く。馬堀海岸駅は「まぼりかいがんえき」と読むらしい。今日の今日まで知らなかった。今までずーっと「うまほりかいがんえき」と思っていた。恥ずかしい。駅前のコンビニ付近で挨拶をした後、歩き出すとすぐに「高尾」の看板が有る。この辺に「高尾横穴墓群」が有ったらしい。僕はいつも、野島や富岡総合公園付近の山のふもとにある穴は横穴墓だと思うのだけれど、横浜市の埋蔵文化財センターの人は認めようとはしない。下は野島の横穴墓。関東には「吉見百穴」のような横穴墓があちこちに有り、現に横浜市内でも栄区本郷台付近の横穴墓はちゃんと認められて調査されている。特に横須賀にはたくさんあるのだけれど、埋蔵文化財センターの人は「自然の穴」と言って、全然感知しないのである。例えば米軍から返還された土地に、三浦一族の横穴墓(新編武蔵国風土記に書かれている)何かも有るんだけれども、きっとつぶされるんだろうな、多分認めると調査をしなければいけなくなり、面倒くさいのだろう。金沢区富岡付近で言えば、慶珊寺付近に道路を作る際に横穴墓が見つかり、あわてて調査して、刀や板碑等が出て来たのだけれども、せっかく調査したのに、出土品は今は無いらしい。埋蔵文化財センターは職員が少なく、他の自治体のように自前の建物が無く旧小学校校舎に間借りしている状態なので仕方ないかも。横浜市の教育委員会が怠惰なんだと思う。教育委員会は称名寺の工事に際して、古い祭祀跡を壊していたのを僕は目撃しているから。まぁそれはそれとして、看板に書いてある「高尾太夫」は吉原の花魁で有名だったらしい。「吉野太夫」、「夕霧大夫」と併せて「三名妓」と呼ばれる。ここの出身は8代目と書いているが、世の中で有名なのは2代目。仙台高尾である。仙台高尾は僕でもちょっとは聞いたことが有る。仙台藩主伊達綱宗が3000両(1両は10~30万円)で身受けしたのだけれども、実は恋仲の男がいて綱宗は振られて怒って船の上で殺したらしい。(史実では無いかも?)そのせいで伊達綱宗は藩主をクビになった(伊達騒動)のだから花魁ってすごかったんだな。高尾の看板を過ぎると、馬堀小学校・中学校に着く。ここは元は陸軍重砲兵学校の跡地。三浦半島は海軍の基地があちこちに有ったのだけれども、陸軍も有ったんだな。この小学校の向かいに浄林寺が有る。(当日は馬堀観音堂に先に行った)ここの境内には関東以北では珍しいムクロジの木がある。ムクロジは本来は暖かい地方の木なので、寒い関東以北では育たないのだけれども、海岸沿いなので暖かいのだろう。ガイドさんがムクロジの実をくれたのが上の写真。サポニンが含まれるので、つぶすと石鹸のように泡立つそうだ。浄林寺の右手の坂を登っていくと馬頭観音堂が有る。僕の母親の実家にも昔は馬がおり、火事で亡くなったので馬頭観音が有るのだけれども、ここの馬頭観音はそれとは違って古くからの言い伝えに基づいて建てられたお堂で、その言い伝えに基づく清水が脇に湧いている。右の写真。おぉー!有名な佐々木四郎高綱の馬の池月がこの観音堂の主なのか。木曽義仲追討の宇治川合戦の先陣争いかぁ。僕でも知っている。ただ、この看板には池月が「房州嶺岡」の生まれだと書いてあるんだけれども、(石橋山の合戦で負けた頼朝が千葉に逃れて、 そこで味方を得て鎌倉に帰る途中の千束=今の台東区で捕まえたのが池月と言うのが通説)別の説では、桐生(群馬県)の高園寺の出身だとあるんで、どれが本当なんだ?と言う素朴な疑問はあるが、まぁ吾妻鏡には書かれていない話なので真相は不明。馬頭観音堂と浄林寺を後にして馬堀海岸に向かう。途中にトンネルが有る。おぉー!あの有名はヴェルニーの水道かぁ。このトンネルの中を通したのか。トンネルを抜けると、馬堀海岸が見える。海辺には走水の水源地が有る。ここを海側に行くと「ヴェルニーの水」が有る。それにしても、ここは海の近くだし、付近には大きな山が無いし、川も無い。ここで湧き出る水はどこから来るんだろう?横須賀市の水道はこの湧水を水源としていると書かれた本は多いが、この湧水の元になる地下水がどこからやってくるかを書いた本が無い。一説によれば、この湧水の源は富士山からの地下水だと言われているが本当だろうか?ここに至って、僕の長年の疑問を考えてみた。ここから見る浦賀水道の波は確かに荒いけれども、流れはそれほど早くは無い。古事記の中のヤマトタケルの命の逸話にも「走水」が出てくるんだけれども、この海の流れを見て「走水」と言ったのだろうか?(通説ではそうなっている)海の流れの速さであれば、むしろ六浦の方が速かったのではないか?そう、六浦はかっては大きな湾の中でその入口はフグの口のように狭く、潮汐の際にはものすごい勢いで流れていたらしい。だから海の水の流れから言えば、ここよりも六浦の方が「走水」では?もしかするとヤマトタケルの命のエピソードはここではなく六浦の話だった?通説では上に書いたように浦賀水道の流れが速いことが走水の名前の由来とされている。でも、川などの流れは「水」と言うが、海の場合は「潮」と呼ぶのが普通ではないか?いわゆる潮の満ち引き、潮流と言う言葉になる「潮」である。水とは言わない。また、日本書紀には、ヤマトタケルの命が海を望んで、「是小海のみ。立跳(たちはしり)にも渡りつべし」と言ったことが由来だと言う馬鹿な説を主張する人も居るがこれは間違いだと思う。何故なら日本書紀よりも古い古事記に既に「走水」と書いているのだから、日本書紀が走水の名前の由来であるはずが無い。ヤマトタケルの命が当地に来た時点で既に当地は走水と呼ばれていたのである。でも今日答えが分かった。「走水」と言うのはきっと海の流れではなく、湧き水のことだったんだと思う。おそらくこの辺のあちこちから湧く水を元に「走水」と名づけられたんではないだろうか?そして、たまたまヤマトタケルの命が渡る際に海が有れたと言う古事記の記述が有った為に、走水とは海の流れと言う誤解が生まれたのではないだろうか?だからやっぱりヤマトタケルの命はここから千葉に渡ったんだと思う。だってここには昔の東海道(古東海道はここを通って千葉に続いていた)が通っていたんだから。走水水源地を出て、走水低砲台跡に向かうのだけれども、途中に伊勢町観音が有る。伊勢町観音は町内会館に有り、町内会館の屋根飾りが面白い。残念だけれども中には入らず外から眺めただけ。いよいよ走水低砲台跡に着く。ここに築かれた砲台のキャノン砲により、東京湾の入口は守られる予定だったらしい。まぁ実際は時代は航空機の時代に向かっており、艦隊を防いでも意味は無かったかも?現に砲台は奇麗なままで残っている。重要な攻撃目標になっていたら、こんなに綺麗に残っているはずはない。役に立たなかったから攻撃されなかったのだと思う。キャノン砲は弾道を描いて遠方に着弾するので、写真のように砲台は地面よりも低く作られている。だから「低」砲台?合理的ではあるけれどもなんかなぁ。走水低砲台跡を後に、いよいよ最後の目的地の走水神社と大泉寺に向かう。まずは大泉寺。ここはたいして見るものは無かったんだけれども、外に重要な場所が有った。水琴窟が傍らに有った。お地蔵様の前の水をひしゃくでお地蔵さまに2回くらいかけると左の筒から音が聞こえる。僕は生まれて初めて水琴窟の音を聞いた。前々回の品川歴史館にも有ったんだけれども全く聞こえなかったから、今回聞けてうれしかった。もっとキンキンした音かと思ったら、ちょっと柔らかい感じだった。何よりも(補聴器ごしだけれども)実際に音が聞こえるのが良い。走水に来たらこの水琴窟の音を聞くと良いと思います。わの会の最後は走水神社。うーんヤマトタケルの命ゆかりの神社か。一説によるとヤマトタケルの命はこの付近では天皇(すめらみこと)とされていたらしい。常陸国風土記にはそう書かれていたそうだ。なのでここで海に身を投げた弟橘姫命は古事記には「后」と書かれている。天皇の奥さんでなければ「后」ではない。例えば秋篠宮の奥様の紀子様は皇嗣妃つまり「妃」であって「后」ではない。古事記はちゃんとそれを意識して書いているのだろうから、ヤマトタケルの命はここで天皇に即位していたのかも?(近畿地方では認められないけど)走水神社の上には上の古事記に書かれたようにヤマトタケルの命を助けて海中に身を投げた、弟橘姫命の碑が有る。石碑は伊豆石なんだそうだ。何故伊豆石なんだろう。確かにこの辺の石は砂岩が多く、石碑には適さないので地元の石は使えないと思うけれども、もしかすると伊豆石を使うのには何か意味があるのかも?走水神社がわの会の最後の訪問場所で、みんなはここで解散した。一部の人はここから横須賀美術館に行くようだけれども、僕はもっと先の観音崎灯台まで(あるいはもっと先まで)行こうと思い一人旅に出発した。まずは横須賀美術館。お金がかかっていそうだけれども、建物としてはデザイン的にはたいしたことはない。特に左の四角い出っ張りは趣味が悪いと思う。まぁでも人の作品にケチをつけてはいけない。結局中には入らず眺めただけで次の観音崎公園に向かう。最初は灯台まで行こうかと思ったけれども、坂道を上り下りするのが大変そうなのでやめた。もうジーサンになったなと自分でも思う。いつかバスで来よう。ここを右手にずーっと歩いていくと観音崎自然博物館が有り、その下あたりのたたら浜に「ゴジラの足跡」があるので行ってみた。うーん何だかなぁ。初代ゴジラはここから上陸したらしい。足跡は実物(本当にゴジラがいたのならば)の1/10だそうだ。この程度ならば、OPENHOUSEの堺雅人が勝つような気がする。お天気の心配をしたけれども、何とか晴れて汗もかかないちょうど良い天気で良かった。
November 17, 2024
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