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9月3日に愛天堂の2バンドラジオであるラジオK-623を改造した際に、図書館で借りた「LTspiceで独習できる!はじめての電子回路設計(鹿間信介)」と言う本で、回路のシミュレーションをする方法を覚えたと書いた。愛天堂のラジオK-623を作りました。SWを改造してラジオ日経を聞けるようにしました(2)その際には同調回路のシミュレーションをLTspiceで行ったのだけれども、これってものすごく便利である。しかも「タダ!」なので年金生活者に優しい。だってちょっとした実験でも部品代はかかるし、半田付けすると手間が大変。ブレッドボードならば比較的簡単に部品交換ができるが、それでも手間はかかる。LTspiceならば右クリックして書き込むだけ。そこで今日はトランジスターの増幅回路を色々とシミュレーションしてみた。トランジスターの増幅回路には接地方式による、エミッター接地、ベース接地、コレクター接地と言う分類以外に、バイアス方式による、電流帰還型バイアス、自己バイアス、固定バイアスの3種類の方式が有る。電流帰還型バイアスは抵抗等の素子数が多い代わりに負帰還がかけられるので安定している。固定バイアスは抵抗が等素子数が少ない代わりに負帰還がかからないので不安定。自己バイアスはその中間くらい。最初に電流帰還型バイアスの回路をLTspice上で作って、0.01Vの1000Hzの正弦波を加えた時のコレクター出力を見てみた。青色が入力で、緑色がコレクター出力である。(赤色はエミッター出力)当然ながら同じグラフに載せるとレベルが違い過ぎて、青色の入力や赤色のエミッター出力は波形が分からないほど小さい。計算すると、入力0.01Vに対して出力は0.4Vなので40倍つまり約32dB増幅されている。すごい!よく言われるトランジスター1個は素のままだと30dBで負帰還をかけて20dB位で使うと言うのにかなり一致している。しかも(見づらいけれど)入力に対して出力の位相が反転しているのが分かる。なお、グラフは右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別タブで大きい画像を見ることができる。ついでにエミッターの出力を見てみた。今のままでは見られないが、LTspiceは任意の波形を表示・非表示にできるので、コレクター出力を消せば良い。おぉー!教科書通り。入力に対して若干レベルが落ちているが同位相。形的にはいわゆる「エミッターフォロワー」なんだけど、バイパスコンデンサーが有るので「エミッターフォロワー」としては使えない。え?何でだろう?交流的には接地レベルのはずなのに出力が出ている?すみません。今現在、この理由は未解決。まぁ僕は低レベルアマチュアなのでこれを解決するのも勉強。さらについでなので「インピーダンスマッチング」の実験もしてみた。僕は低レベルアマチュアなのだけれども長くやっているので格言はたくさん覚えている。前段の出力インピーダンスに対して後段の入力インピーダンスは高くないと使えないらしい。本当に?ちょうど良いので実験してみた。まずはOUTPUTの部分に低抵抗を並列に入れて、模擬的に次段の入力インピーダンスを下げてみた。下手な回路設計の例。出力がガターっと下がる。分圧していると考えれば当たり前かな?それに対してOUTPUTの部分に低抵抗を並列に入れた場合にはどうなるか?ほとんど変化なし。つまり格言通りで、「前段の出力インピーダンスに対して後段の入力インピーダンスは高くないと使えない」みたい。いやー、タダなのに使えるなぁLTspice。次に自己バイアスの場合をやってみた。うーん。ベースとアースの間の抵抗が減り、ベースの上側の抵抗がコレクターにつながっただけグラフ的にはあまり変化なし。実際には入力インピーダンスが変わったり、安定度が若干下がったりするのだけれども使えるな。最後は固定バイアス。ベースの抵抗を電流岐南型バイアスや自己バイアスと同じにすると波形が歪む。そりゃそうだよな。動作点がずれているんだから。なので、固定バイアスにする場合は抵抗値その他を見直す必要がある。見直すとこんな感じ。ちゃんと見直すと電流帰還型バイアスなんかと大差ないグラフになる。でも、このグラフでは分からないけれども安定度はずっと下がるらしい、こんな感じなんだけれども、LTspiceはタダで遊べるので年金生活者には優しいな。
October 28, 2024
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9月23日にわの会で品川歴史館の見学に行って、その報告を書いた。横浜市金沢区わの会39回目のイベントに参加しました。品川歴史館の見学とおまけその中で品川歴史館の展示物として有った「縄文時代のくらし」のジオラマの竪穴式住居が、「土で覆われているのはおかしい」と書いて、その理由が縄文時代の竪穴式住居ではかまどを建物内に置いた場合、燃焼状況を考えると、土で密閉すると一酸化炭素中毒の恐れがあり、危険なので考えづらく、狩猟や貝類の採取が主であった縄文時代はまだ定住化が行われておらず建物は簡易で、何よりも屋根に土をかぶせると重たくなるけれども、海辺では真っすぐな太い木は生えにくく、そのような木を手に入れる山に近くないと定住できないのではないかと考えたからである。現に横浜市の古い遺跡は柏尾川等の生活に必要な水が手に入る川沿いで山の近くが多い。なので変ではないか?と思ったからである。ただ、土で覆われた竪穴式住居そのものを否定するものではなく、また品川付近にそのような竪穴式住居が有ったことを否定するつもりはない。ただ、「縄文時代のくらし」ではないと思ったのである。そして恐らく、ここの遺跡も横浜市の三殿台遺跡や公田平遺跡同様に、縄文時代から奈良・平安時代まで同じ場所で生活が続く場所だったのではと思ったのである。ただ、その証拠を示さなければいけないと思い、今回「公田平遺跡発掘調査報告書」を研究してみた。人間の生活を考えると、住みやすい場所と言うのは必ず水が近くに有り、雨風の影響を受けにくく、田畑を作りやすい場所に近いというのが条件で、それは時代が変わってもそれほど変化しないので、人々は同じ場所に住み続ける。横浜市の三殿台遺跡や公田平遺跡はその良い例だと思う。また一般の人は竪穴式住居と言うと古代の住居で奈良・平安時代にはもうなかったと考えるが、実は相当に遅くまで竪穴式住居は続いていたらしい。板葺きの住居は今で言えば高級住宅で、鎌倉の博物館で見た鎌倉幕府大倉御所も、今で言えば広いけれどもただの平屋建住居にすぎない。「鎌倉幕府」ってこの程度なの?みたいな感じである。幕府でこの程度なので庶民の家は容易に想像がつく。三殿台遺跡には奈良時代の竪穴式住居が復元されている。弥生時代ではなく奈良時代。写真を見ると分かるように、すぐ隣に縄文時代の竪穴式住居が有る。わざと2つを並べたわけではなく、元々すぐ近くに有ったのである。(同時期に有ったわけではない)公田平遺跡もほぼ同様に同じ場所に縄文時代から奈良・平安時代の遺跡が有ったらしい。発掘調査報告書を見るとこんな感じである。縄文時代の遺跡は今回調査の対象外だったらしく、遺物として縄文時代の土器類も見つかったが、今回調査の対象外だと書いてあった。上の写真は右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、大きな写真が別タブで開くので見やすくなる。緑の☆印が弥生時代の竪穴式住居跡、青い星印が奈良・平安時代の竪穴式住居跡である。古墳時代の竪穴式住居跡は残り全部なので個別ではなく範囲で示している。話は戻って竪穴式住居で縄文時代と弥生時代以降つまり定住化以降を比べるには、実際の建物の構造を見ると簡単に分かる。まずは弥生時代の竪穴式住居。品川歴史館の「縄文時代のくらし」ジオラマが変だと言う僕の主張はまずここで分かる。4か所に大きな柱穴が有り、建物の屋根はそれで支えている。基礎石は無いが十分に大きな穴で、太い木が差し込まれていただろうと想像がつく。つまり弥生時代には定住化しているので、ちゃんとした柱を立てているのである。と言うことは太くて真っすぐな大きな柱が必要であるが、狩猟や貝類の採取がメインの縄文時代では、獲物を狩りつくしては移動する生活なので、そう言う家を作ると移動できない。つまり米作りが始まって定住化するようになった弥生時代以降で無いと、品川歴史館のジオラマのような土で覆われた竪穴式住居はできないのだと思う。ちなみに弥生時代に入ると「貧富の差」が発生したようで、(僕の想像なので何の証拠も無いが)上の図のような柱穴の有る大きな竪穴式住居と同時代に、柱穴の無い竪穴式住居も有ったようで、それは上の全体写真の中央部上の緑の字で書いた「柱穴の無い竪穴式住居」で想像がつく。つまり貧乏人の家なんじゃないかと僕は思った。もちろんこんなことは僕の想像であって、発掘調査報告書には書かれていない。でも想像すると面白いから。品川歴史館の展示の中にかまどの構造について詳しく説明されていたけれど、それはこの公田平遺跡発掘調査報告書でよく分かる。古墳時代の竪穴式住居を載せる。なんと同じ竪穴式住居でも時代が下ると円形ではなく方形になっている。しかも入口にはちゃんと入口として段差まである。下の部分。そしてかまどは弥生時代までは建物中央に有ったものが奥の建物際に移動している。円形の竪穴式住居の場合、中央が一番天井が高く、ここに排煙用の穴(窓)を設ける。なので炉は建物中央に作られており、住民が暖をとるに際しても中央が都合良い。ただ、竪穴式住居は掘り下げているので外部から空気を取り入れないと、不完全燃焼した場合には空気より重たい一酸化炭素が建物内に充満する。(空気よりも重たい一酸化炭素や2酸化炭素は上部の排煙口から排出できない)なので、土で覆って密閉してしまうと危険なのだけれども、上の古墳時代の竪穴式住居のように建物際にかまどを作って煙道を設けると、空気の流れが成立して安全になる。(品川歴史館のジオラマは全体を土で覆っているが、下部だけならば土で覆ったかもしれない。 それは竪穴式住居なので外部から水が流れ込むのを防ぐ必要があるからで、 下部だけならば土で覆う作業も簡単だし、重さもさほど重くならないので可能性が有る。 品川歴史館のジオラマもそれを主張したかったのかもしれないが全体を覆うのは無理。)発掘されたかまどの写真。色々と工夫されていて古代人の知恵と工夫が分かる。写真に書いたように煮炊きする鍋類は上から吊るされていたのではなく、かまどの煙道を構成する天井石に開けた穴に置かれ、その穴の下には束石が置かれて鍋類はその上に位置して炎の温度の高い部分に有ったと思われる。しかも熱により炎(煙)は煙道に沿って屋外に導かれるので建物内に一酸化炭素は発生しない。現代のかまどに近いものになっている。ただこれは古墳時代であってかなり後の竪穴式住居。なので、品川歴史館のジオラマの元になった遺跡も単純な縄文時代の遺跡ではなく、縄文時代から少なくとも古墳時代まで続いた遺跡で、縄文時代の遺跡の出土品と古墳時代の出土品が混在していたんだろうと思う。なので品川歴史館のジオラマの土で覆われた竪穴式住居を縄文時代の物とするのは、ちょっと勇み足だったかなと思うのである。
October 25, 2024
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10月3日は横浜市金沢区わの会第40回目のイベントで、鎌倉円覚寺の開山忌を見学しました。開山忌とはお寺の初代住職の毎歳忌法要のことであり、初代住職のことを、親しみを込めてその業績を敬う古くからの行事である。円覚寺そのものは有名なお寺で、メンバーも何度も行ったお寺だと思うが、この開山忌を選んで見学に行くというのは、わの会のお世話役の皆さんの心遣いだと思う。JR横須賀線北鎌倉駅に集合した後、まずは白鷺池を廻って県道側に行く。そう、JR横須賀線は円覚寺境内の中を横切っているのである。ルート図を載せる。我々は北鎌倉駅からいったん境内の外に出て、再度入るのである。まずは境内の中の踏切。手前の両側には白鷺池(びゃくろうち。しらさぎいけではない)が有るが写真構図に入らなかった。入口には開山忌の立札が立っていた。10月3日は開山忌である。円覚寺は鎌倉五山第2位(1位は建長寺)であり、舎利殿は国宝である。臨済宗円覚寺派の大本山で弘安5年(1282年)開山。開山者は無学祖元(仏光国師)。元は南宗の方で弘安2年に北条時宗の依頼により来日。最初は建長寺の住持だった。円覚寺は深く禅宗に帰依していた北条時宗が、文永・弘安の2度の元との戦いで亡くなった、敵味方の兵士達の菩提を弔う為に建立した。禅宗様式の七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)が整い、盛時には塔頭が41か所も有ったらしい。(塔頭:たっちゅう:とは禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、 大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。)現在の塔頭は門内17院、門外は東慶寺・浄智寺・瑞泉寺の3か所。今日は応安7年(1374年)の全山を焼いた大火で焼失した法堂(はっとう)を除く六堂を巡る。まずは山門。上を見上げると伏見上皇から賜った扁額が見える。山門は三門とも書き、三解脱門(空・無想・無願)を象徴し、諸々の煩悩を取り払う門である。現在の山門は天明5年(1785年)に建てられた。次は仏殿。円覚寺の御本尊をおまつりしている。関東大震災で倒壊したが、昭和39年に再建された。扁額は後光厳上皇より賜ったもの。御本尊は冠をかぶっておられるので宝冠釈迦如来と呼ばれ、華厳の盧遮那仏とも称される。永禄6年(1563年)の大火で焼失し、頭部だけが救出されたが、寛永2年(1625年)に仏殿が再建された際に躰部が補造されて、両脇に梵天と帝釈天が祀られる。次は選佛場。選佛場とは仏様を選び出す場と言う意味で、簡単に言えば修業僧の座禅道場。中央には南北朝時代の薬師如来がおわす。右は聖観音菩薩像。僕は観音様が大好き。次は居士林なんだけど立入禁止で外から写真を撮ったのみ。おぉー!有名な方々がここで参禅しておられる。次は宝堂(はっとう)跡。古いお寺なので、建物はみんな何回も大火に襲われており、ここは再建されていない。それにしても火事が多い。次は妙香池に行った。ここは虎頭岩が有名。最初は上の写真の方向から見たので、全然虎には見えなかったんだけど、少し上の方から見たら、下の写真のように、おぉー!確かに虎に見える!ここをちょっと上に登ったところに国宝の舎利殿があるのだが、10月3日開山忌に見学に来て良かったという場面に出会った。ちょうど御一行が出てこられる所だった。手前の2人の随卒が持つ青い灯籠が珍しい。多分開山様と思われる像をお持ちになった住持?:傘の下:が見える。開山様ではなく開基(北條時宗)様の可能性もあるが、ここは舎利(お釈迦様の骨)殿で、開山忌はまずここでの読経から始まるそうなので開山様だろう。次は開基(北條時宗公)廟。当然中には入れない。ここを奥に進むと黄梅院が有る。文和3年(1354年)に建てられた北条時宗夫人の覚山尼(安達義景娘)が、時宗追善の為に建てた華厳塔の跡地に、足利氏が無想疎石(円覚寺15世)の塔所として建てたもの。無想国師は五山文学に大きく貢献された方で作庭にも才能を発せられた方。黄梅院には室町幕府2代将軍の足利義詮の遺骨も有り、足利氏の菩提寺の性格も帯びる。開基の饗庭氏直は足利氏の近臣で、わずか18歳にして6000人を率い、その部隊は美しく飾り立てられ、梅の花を兜の真向に差していたので、風が吹くたびに、さぞ梅の花が匂っただろうと言われている。ここの近くに「白鹿洞」が有る。立札に書いてあるように、無学祖元が説法をする際に、この洞窟から白い鹿が現れて禅師の説法を聞いたというのが山号「瑞鹿山」の由来となっている。ここから折り返して戻る途中で、仏殿付近で開山様の列にまた遭遇した。舎利殿付近で見た際にははっきりとは見えなかったが、ここで再確認。仏殿の脇には松嶺院がある。円覚寺150世叔悦禅懌の塔頭。松嶺院月窓妙円尼から寺領の寄進があったのが名前の由来。今日は本来は入れない日なのだそうなんだけれど、ガイドさんが頼んで入れてもらった。むらさきしきぶが有った。珍しい。ここの裏手には墓地が有り、著名人のお墓が並ぶ。他にも中井貴一のお父さん(佐田啓二)のお墓なんかも有ったけれど省略。田中絹代は僕の親父が大フアンで、いつも話をしていた。でも僕はお袋の方が美人だったと思う。田中絹代の往年の写真。ネットからお借りした。お袋の方が美人だと思う。近く(円覚寺の選仏場の横)に、空手道始祖の船越義珍の碑がある。「空手に先手無し」と書いてある。武道をする人はみんなよく知っている言葉である。船越義珍が広めたので、船越先生の言葉としばしば誤解されているが、実は琉球王国時代からある古い言葉である。「先に攻撃してはいけない」とか「敵が攻撃するまで手を出してはいけない」といった解釈がなされるが、決してそう言う意味ではない。あくまで青少年たちが、空手を使ってむやみに他人に暴力を振るったりしないように、戒めるための言葉である。空手等の武道をたしなむ子供達は、どうしても「勝てば良い」と考えがちなので、そうではなく大事なのは平常心と相手をいたわる心なのだと教える言葉である。ここを過ぎて外に出て、県道を南に進むと東慶寺が有る。開山は覚山志道尼、つまり北条時宗夫人(安達義景娘)で開基は北条貞時である。中は撮影禁止なので写真は無い。ここは覚山尼が無学祖元に師事し、息子の貞時に「縁切り」の寺法を説いて勅許を得させ、その後名門の女性が代々尼となって歴代の住持を努めて来たお寺。高い尼寺の寺格を持ち、「縁切り」寺法を江戸時代中期の玉淵尼まで存続させてきた。明治4年に明治政府により寺法が廃止され男僧の寺になってしまっている。中には小林秀雄の墓なんかが有るらしいが、分からなかった。あの江戸幕府が一時期とは言え治外法権に等しい「縁切り寺法」を容認したのは何故だろう?「縁切寺」とは江戸時代に妻が駆け込んで、一定期間在寺すれば離婚の効果が生じた寺。 駆込寺(かけこみでら)ともいう。当時、庶民の間では、離婚は原則として夫が妻に離縁状を渡すことによって行われ、妻から夫を離婚する道は開かれていなかった。まぁ昔は男尊女卑だから仕方ないのだけれども、この哀れな境遇の妻に与えられた離婚の方法が縁切寺への駆け込みであったらしい。で、江戸幕府が一時期とは言え、これを認めたのは千姫に由来するらしい。東慶寺は豊臣秀頼の娘(後の東慶寺住持の天秀尼)を千姫が養女として命を助け、この養女が千姫の後ろ盾もあり義理の曽祖父になる徳川家康に頼み込んで東慶寺の縁切寺としての特権を守ったらしい。大阪城落城の際に8歳だった娘は一度捕らえられたが、養母天樹院(千姫)が家康の孫娘であったおかげで助命され、東慶寺に預けられて第20代住持「天秀尼」となった時に、有る武士(会津藩堀主水)の妻子が助けを求めて東慶寺に飛び込んできた時に、「縁切寺法」の存続を幕府に願い出て妻子を助けたことに始まる。(会津若松藩主加藤明成・老臣堀主水の「会津40万石改易事件」 加藤明成は有名なバカ殿様で、家臣の堀主水の諫言を聞かず、 怒った堀主水は妻子を鎌倉の東慶寺に預けて約300人の家臣たちと出奔した。)そして縁切りは「権現様御声がかり」として江戸時代を通じて守られた。そうか、江戸幕府黎明期のごたごたが裏に有ったんだな。色々と考えながらイベントは終了した。
October 6, 2024
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