全4件 (4件中 1-4件目)
1

わの会自体は7月4日(木)だったんだけれども、風を引いて書く気が起こらず、ついに3週間もすぎてしまったので、これはじじいになってしまうと危機感を感じて、頑張って書くことにした。当日は暑くて体調を崩された方もおられ、僕もいつもよりもペースを落として気を付けて歩いた。集合は江ノ電腰越駅の予定だったんだけれども、周囲にみんなが集まるスペースが無く、近くの諏訪神社に集まった。鳥居にこんなに大きな注連縄がかけられた神社は珍しいと思うので、また鎌倉の中でも位置的に面白い位置に有るので、何かありそうな気がして調べたが分からなかった。この付近は有史以前は海の底だったのが、土地の隆起により形成された所で、それを思わせる「五頭龍伝説」が有るらしい。ここはヤマトタケルの時代から宿場が有り古くから栄えたらしく、頼朝の時代には宿次過書奉行が置かれて通行手形を司っていたらしい。また源義経が平家を滅ぼして戻ってきた際にもここで足止めされている。さらに義経が殺されて、その首が奥州から送られてきた際に和田義盛と梶原景時により首実検された場所とも伝わっているそうである。地名の由来にもなった「五頭龍伝説」を調べてみた。湘南藤沢市のホームページに載っている。鎌倉と海月(なまっているが久良岐郡のこと)の境の深沢と言う地に有った大きな湖に5つの頭を持った龍が住んでいた。龍は山を崩し、洪水台風を起こすなどをして、長い間人々を苦しめていた。欽明天皇13年(552年)のことだが、突如、海上に雲が立ち込め天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れて舞い降りた。雲が晴れると、今まで何もなかった海上にひとつの島(現在の江の島)ができていた。龍はその天女の美しさに一目ぼれをして結婚を申し込みますが、悪行のために断られてしまった。龍は諦めきれず善行を約束し、人々の役に立つことをするようになり、天女は龍を信じ夫婦となり、人々は平和な暮らしを取り戻しました。この五頭龍を奉るのが龍口明神社(鎌倉市腰越)、現在の藤沢市龍口山です。そう、今日最後に行く目的地の龍口寺である。そして龍がまだ悪さをしていた時代に、子供達を食べたので、人々がこの地から逃げて行ったので、この辺を「子死越(ししごえ)」と呼ぶようになり、それがなまって「腰越」になったと言うものである。ちょっと無理があるけれども言い伝え。なお、新編相模国風土記には、山の腰(鎌倉は周囲を山に囲まれている)を越えるようにして移り住んできたことから、腰越となったとかかれているが、こちらの方が信憑性がある。僕も多分、新編相模国風土記に書かれた説が本当かなと思う。本日のルートはこんな感じ。距離的にはいつもよりもだいぶん短いが、今日は暑いので大変そう。最初に向かったのは本龍寺だが、途中に庚申塔が有る。ルート図で供養塔と書いてある場所。この供養塔は右側面に「鎌倉道」とも書かれており、道しるべでもあったらしい。鎌倉道と言えば、新田義貞とが北条氏を攻めた際には大館宗氏がここを攻め上っている。北条氏は上のガイドさんの説明図のように、巨福呂坂と化粧坂と極楽寺坂に防衛拠点を置き、懸命に戦ってはいるが、多勢に無勢、ついには負けてしまう。ここは上の説明図では「極楽寺ルート」。この辺には旗がたなびいていたんだろうな。次に行った本龍寺は日蓮宗のお寺で、付近の八つのお寺と併せて龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。開山の日行上人はこの後に行く法源寺も開いた方で、両寺は兄弟寺にあたる。龍口寺輪番八ヶ寺とは、龍口寺は創建以来明治19年の太政官布達により住職が入山するまで特定の住職を置かず、近くに八つの子寺を建てて、その寺の住職が交代で本寺の住職を務めると言う珍しい制度。普通は大きな寺の住職が子寺の住職を兼ねると言うのは有るが、その逆なのである。ガイドさんの説明では、龍口寺の寺地が日蓮上人の「龍ノ口法難」の霊蹟であり、日蓮宗にとっては大事な霊場であるからと言われたが、常識的には、ならばますます本寺にこそ住職は居るべきであり、もう一つ江の島周辺は真言宗の支配地で、そこに龍口寺が割り込んできた形になり、他宗門徒からの龍口寺防衛の意味もあったからと言う説も有るが、上の地図を見ても分かるように、江の島と龍興寺の間には八ヶ寺は無く防衛にはなっていない。だから理由になっていないのだけれど、恐らくはもっと世俗的な理由なのではないかと思う。例えば有力な住職がおらず、かといってだれもいないのはまずいので、どの住職も同程度に偉いと言う形にして、平和的な解決をしたのだと思う。要は「あがり」をみんなで分配することにしたんだろうなと思う。まぁあまり言うと怒られるので、その辺にして、次は宝善院。かなり奥まった位置に有るので分かりづらい。おぉーそうなのか、江の島周辺の真言宗の寺(龍口寺に敵対する門徒)はここなのか?たしかに敵対する寺がここならば、八ヶ寺は龍口寺を守る位置になるな。では上に書いた地理的に八ヶ寺が龍口寺を守る形になっていないと書いたのは訂正しよう。でも、住職を置かない理由にはなっておらず、龍口寺に住職を置いて八ヶ寺にも住職を置けば良いのでは?しかも江戸時代には宝善院の住職が龍口明神社の別当に任じられたらしい。えー!龍口明神社の真ん前に龍口寺が有るのに???もう関東の神社とお寺は宗教とは関係なく、利害関係だけで成立しているな。まぁ、大陸から仏教が伝わってくる過程で、どうしても地理的に遠い関東は、うまく仏教が伝わらず仕方なかったのかもしれない。本堂は立派だった。上の方を見ると北条の紋が見える。同じ北条の流れなんだから仲良くすればいいのに。隣には大師堂が有って、ここは涼しかったのでしばらく休んだ。次は宝源寺。宝源寺に行く途中に中原観音堂跡がある。ここには十一面観音が有ったらしいが、お堂は既に無く、観音様は宝善院に移されている。お堂の跡には庚申塔等が有った。関東は本当に各所に庚申塔が有る。他県にはこんなにたくさんは無い。よほど(人には言えない)悪いことをした人が多いのか?三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)が必ず下部にあるのが気になる。法源寺は工事中で入れなかった。最後は龍口寺である。すごく立地が良く、江ノ電にも近いし前を大きな道路が走る。境内には日蓮上人がつながれた「龍ノ口法難の霊蹟」として伝わる刑場の跡の碑が有る。日蓮上人の直弟子日法が自作の日蓮上人像と首の座の敷皮石を安置したのが龍口寺の始まり。首の座の敷皮石とは首の座(罪人が打ち首の際に座る場所)の敷石のことである。この敷石の上に皮が置かれていたのでそう呼ばれた。文永八年(1271年)9月12日、当時は内乱や蒙古襲来の脅威が広がり、更には飢餓や疫病など悲惨な状況にあり、それを憂いた日蓮聖人は「立正安国論」を幕府に奏上しましたがこれを幕府批判だとされ、龍の口にて打ち首に処せられようとしていた。信徒と共に法華経を唱えながら石の上に座していると、処刑人が刀を振り上げた時に、江の島の方から強い光が飛渡り、この異変に恐れおののいた役人が処刑を取りやめて日蓮上人は打ち首を免れた。日蓮上人はその後佐渡に流されますが、文永十一年(西暦1274年)赦免されて鎌倉に戻る。それを「龍ノ口法難の霊蹟」と呼んでいる。まずは龍口寺仁王門。天井に龍が描かれています。次に山門。親柱と控柱の間の羽目板四面の両面に、中国の史記に関わる故事が彫られている。裏表有るので本当は八面なんだけれども半分しか写真を撮ってない。失敗。本堂は立派な建物。なお、境内には、日蓮上人が処刑(未遂)前の一日幽閉された洞窟がある。こうしてわの会第37回目のイベントは終了したが、龍口寺の史記の故事を彫った八面の元になったストーリーが知りたいので、いつか調べてみようと思う。史記のどの場面なのだろう?
July 23, 2024
コメント(0)

歴史学者は自分達が理解できないことは「うそ」だとか「間違い」と考えて、ちゃんと調べたり、理解しようとはしない。ちゃんとした資料「魏志倭人伝」が有るのに、これを「東と南を間違った」とか「距離を間違えた」などと勝手に解釈してしまい、そのせいで邪馬台国は日本中に散らばっており、未だに解決しない。同様なことが古事記や日本書紀の神話に対しても言える。「歴史とは想像力である」なんて偉い学者先生は言うけれど、何故日本の歴史を書いた「官製の史書」に神話が書かれているのかを理解しようとはしない。世の中の全てのことには理由が有るはずである。僕は、古事記や日本書紀を編纂した昔の偉い人達は、書こうとすれば書ける真実を「大人の事情」からぼかす為に神話にしたのだと思っている。例えば「稻羽之素菟」が良い例だと思う。古事記では「稻羽之素菟」と書かれており、「因幡の白兎」とは書かれていない。古事記では音に仮名をあてて書いているので、因幡のように漢字に2音をあてられないので稻羽としていると言う学者がいるが、じゃぁ素菟はどうなるのかと聞きたい。白兎ではなく素菟としたことに意味があるのだと思う。「菟狭津彦命(うさつひこのみこと)」である。菟狭津彦命は、神武天皇が東征する際に筑紫国の菟狭に上陸したとき、菟狭国造の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がおり、菟狭川(大分県宇佐市)の川上に一柱騰宮を造営して饗応の奉仕をした。その人のことではないかと思っている。対する鰐(わに)は和邇氏の祖先で(神武天皇と大和に行った後は京都を根拠地にするが)それ以前は都城付近に居たのだと思う。鰐塚山のふもとである。大分の宇佐の人達と宮崎の都城の人達の争いが「稻羽之素菟」の神話になったのだと思う。じゃぁ何故素直に書かないで神話にしたのか?それは両者がどちらも天皇家の祖先に従う人達で、禍根を残したくないが、でも天皇家の祖先の歴史に関わる一族だから歴史からは消せなかったからである。両者はその後もたびたび戦っている。景行天皇の九州への行幸の際にも(大分側は景行天皇に告げ口して)宮崎(熊襲)を攻め、奈良時代に入ってからも宇佐八幡宮の神兵は隼人を攻めている。宇佐八幡宮付近にはその際の捕虜の首を埋めた(と言う伝説が残る)首塚が残っている。実際に見に行って来ました。宇佐八幡宮近くの首塚なので「稻羽之素菟」は書けない事情が有って神話になったのだろう。ちなみに隼人は一部は大和に移って朝廷に仕え、一部は都城に残って朝廷に反発している。後世、藤原純友の乱の際には大和の隼人が宮崎側の隼人に呼び掛けて、宮崎側の隼人が寝返った為に藤原純友の軍勢は大混乱に陥り、大宰府の軍勢に敗れている。想像でしかないが、恐らく大和に移った都城人が「隼人」で、地元、都城に残った都城人が「熊襲」と呼ばれたんだと思う。でも、「隼人」達の尽力により、都城に残った人達も、後世には「隼人」に統一され、皇室との深い関係は明治維新まで続き、長州と土佐と薩摩は明治維新の立役者になった。歴史って「続く」ものなんだなと思う。天皇家の祖先に関わる「天孫降臨」は大人の事情と言うよりも古代過ぎて神話になったのだと僕は思っている。例えば天孫降臨の際に高千穂の峰から下界を眺めて「韓の国」が見えたのは、地球は丸いのだから、ここから韓国が見えるはずもなく、韓国岳から見える「えびの」のことで、ここには中国もしくは韓国から戦火を逃れて来た人々が住んでいたのだと思っている。つまり「えびの」は俗説に言う「えび色(すすきの色)に染まった野原」が由来ではなく、「夷(えびす=渡来人)が住む野」が由来なんだと思っている。そう考えれば瓊瓊杵尊のお言葉は現実のことである。また「海幸彦と山幸彦」の話も神話ではなく、後継者争いの話で、山幸彦は都城付近に居た和邇氏の祖先を味方につけて後継者争いに勝ったと言う話だと思う。山幸彦は和邇氏の娘を嫁にもらい、その軍勢の助けにより海幸彦を退けたのが鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)の話として残ったのだと思う。その何よりの証拠は、山幸彦の奥さん(海幸彦の釣り針を探しに行った龍宮城のお姫様)の出産の話である。彼女は「豊玉毘売命」と言う名前だが、姿を変えた八尋和邇(やひろわに)である。魚類のワニ(古代日本で言うワニはワニザメつまりサメのこと)が人間の子供を産むわけがない。天皇家の人達が自分の祖先は魚類のワニだと書いた古事記を読んで気持ちが良いはずがない。何も言わないで世の中に古事記や日本書紀を出したのは、魚類のワニではなく和邇氏の娘が祖先だと知っていたからである。ただ、大和の隼人は朝廷に従ったが宮崎の隼人は従わなかったので、素直には書けず、天皇家の祖先が和爾氏であるとは書けず、神話になったのである。そして今日は「出雲の神話=国引き」の話である。これは古事記や日本書紀には載っていないのだけれども、出雲国風土記に載っている神話。当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば、「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。最初は出雲の国が周囲の国々を征服して広くなっていった過程を神話にしたのだと思っていた。でも「できた土地が現在の島根半島」なら小さくは無いか?ここで重要なのは、「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったと言う部分である。それがあちこちの土地を引っ張って来て大きくなった。これって2024年に実際に有ったぞ!そう能登半島の地震に伴う土地の隆起である。地震により大きく隆起した所は10mも高くなった。港が隆起して陸地になった写真が有る。ものすごいと思う。元の防波堤の外側まで陸地になっている。これがなんと90km位も細長く「陸地が増えた」らしい。それを学会で報告している。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったのが、地震により隆起して幅広くなっている。現代人だから「地震により隆起した」と科学的に理解できるが、古代の人達ならばどう思うだろう?多分、どこかから神様が土地を引きずって来て「島根半島になった」と考えても不思議ではない。土地が増える前には地震で相当に揺れただろうから、「引きずって来たので揺れた」と考えても何の不思議もない。そう考えれば「神話には根拠が有り、ただ説明できないので神話として書いた」のではないか?ふとそう思ってしまった。古事記や日本書紀の神話部分ってこうしてみると、全て根拠があるのでは?だから当時の知識人や天皇家も「神話」であることを容認したのではないだろうか?
July 12, 2024
コメント(0)

やまさんとコメントを交換していて、何となく僕もK-3839Aを作りたくなったので愛天堂に行ったついでに買ってきた。こんなラジオ。かって世界中のラジオで使われて有名だった東芝のラジオICのTA7613APのセカンドソースD3839を使ったAMラジオである。なんせセカンドソースなので、値段以外はオリジナルとさほど変わらない。よく中華は品質が劣ると言われるけれども、ちゃんと「まねした」物ならば、オリジナルがしっかりしているので大丈夫。むしろ「改良した」方が危ない場合が多い。このキットの場合、プリント基板を見ると愛天堂とは書いておらず、2002年製で別の会社の名前が入っている。えー!2002年?確かに今のガラスエポキシ製のプリント基板とは違いベークライト製だし、(ベークライトは昔のプリント基板でよく使われた樹脂で、銅箔がすぐにはがれ使いにくい)まぁでも、逆に言えば20年以上も使われていると言うことは「信頼性が有る」と言うこと。そう考えれば良いのかな?さっそく組み立てたが、最初は「どこかがショートしてびっくりした」幸いにして僕は低レベルアマチュアなので、「火を入れて鳴ると思うなアマラジオ」と言う格言をしっかりと守っているので、電源を入れる前に電源とラジオの間にテスターを入れて安全をはかっている。多くの製品は多少の余裕があるので、0.2秒くらいならばショートしても大丈夫。すぐに電源を切れば部品は(多分)壊れない。部品が壊れるのは大電流が流れて熱破壊されるからである。ただデジタル系の部品はCMOS回路が使われているので、熱破壊ではなく静電破壊で壊れる場合があり、電圧を加えるだけで壊れるので注意が必要。まぁラジオならば多少は大丈夫。すぐに全回路を見直して一つ一つ部品を調べて、半田部分をやり直した。ハンダブリッジと言って、僕のように年寄りが半田付けをすると端子同士が半田でつながりショートする場合がある。だって見えないんだもの。ルーペが必要。今回もそうだったようで、どこに原因が有ったのか不明だけれども何故か直った。電源端子間の抵抗を測ると何故か大丈夫になっていた。不思議?さっそく電源をつなぐと、無信号時には10~15mAしか流れていない。さっそくバリコンを回すとニッポン放送が受信できた。我家は僕の部屋は電波が入らないので、奥さんの部屋を借りて受信して調整する。でも何故か最初から結構調子よく受信できた。思うにIFT等は部品の出荷時にある程度調整しており、回路に間違いが無ければ受信できるようになっているのだろう。でもここで。やまさんのコメントを思い出した。カウンターをつけると、カウンターの表示が受信周波数とかなりずれると仰っていた。僕のもそうだった。ニッポン放送1242kHzのはずなのにカウンターをつけると1270kHzと表示される。この場合、カウンターはデジタルで、実際の電波の波を「数えている」ので間違いは無い。ニッポン放送はしっかりとした放送局なので、周波数は間違っていないはず。じゃぁ何が原因か?IFTが455kHzではなくずれている(ずれた状態でMaxになるように調整されている)のだ。計算すると1270-1242=28kHzなので、455+28=483kHzくらいになっているのだろう。やまさんが仰っていたのと合っている。なので、IFTを調整し直すことにした。ただ、この作業は難しいので(慣れると簡単なんだけれども)おすすめはしない。やるならば、失敗した時はラジオが聞こえなくなるのを覚悟して自己責任でやること。まずはカウンターの表示が1270kHzよりも少し低い1265kHz位にする。(調整は一番電波が強い放送局の電波を利用して行うので、 僕の場合はニッポン放送の1242kHzで調整している。)多少低くなっても音が小さくなるだけで聞こえるはず。聞こえなければ1267kHz位にする。逆に音が小さくならなければ1260kHz位にする。この塩梅は放送局の電波の強さ次第なので、場所によって違う。音が少し小さくなった状態で白いIFTをほんの少し右へ回す(IFTが455kHzより高い場合)すると音が多少大きくなるので、次に黄色いIFTも同様にすると音はさらに大きくなる。つまり、カウンターの表示が実際の受信周波数に近づくのである。これを繰り返してやると、最終的にはカウンターの表示と受信周波数が一致する。この時にはIFTは455kHzに同調しているはずである。なお、音の大きさが大きくなると書いたけれども、十分に電波が強い場所では、むしろ同調が少し外れた方が音が大きい場合がある。でもこの時には音は歪んでいると思う。歪んだせいで音量が増えてしまったのである。この場合は、音が明瞭になる部分を探す。綺麗に同調すると音楽や人の声が無い場合は無音になる位にきれいになる。この場合が真の同調点である。ただ、電波が弱い場所では音質よりも音量を選択せざるを得ないかもしれない。そうしてうまくいくとこんな感じになる。あとはこのカウンターをどこに付けるかだけなんだけれども、悩みどころ。今はケース上側に接着剤で付けようかなと思っている。せっかくうまく動くようになったので、色々と実験してみた。まずは局部発振回路の出力波形を見てみることにした。ここでオシロのプローブの扱いの大切さがわかった。プローブをそのままで局部発振回路の出力(つまりカウンターの入力)を見ようとすると、こんなに局部発振回路の出力周波数が低い方にずれる。ニッポン放送は周波数が高い方なので、発振回路の同調回路のバリコンの容量は小さく、オシロの入力容量さえも響くのである。10kHzもずれてしまう。そこでプローブをX10にすると端子間容量がかなりキャンセルされるので、局部発振回路の出力周波数はほとんど変わらなくなる。測定器もちゃんと考えて使わないといけないんだなと思った。この時の局部発振回路の出力はこんな感じ。字(特に左下の数値など)が見づらい場合は画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで大きな画像を見られる。いやー綺麗な正弦波だと思う。ディスクリートで作る6石スーパーだとこんなに安定した出力は出ない。特に低い周波数と高い周波数の出力電圧の差が大きく、2倍以上違うなんてざらである。ラジオ用ICってさすがだなと思う。ちなみに受信電波も何らかの方法で見られないかなと思ったけれども、原理的に微小過ぎてオシロの感度では見られない。さて次はIFT(中間周波数変圧器)部分ではどうなっているかを見ることにした。実は僕も学校で習った「原理」的な知識は有っても実際には見たことが無い。原理的には、局部発振回路の出力周波数(変調無し)-受信周波数(変調有り)=455kHzの変調された波形が見られるはずなんだけれども、大丈夫かな?半分くらい大丈夫だった。おぉー!初めて見た!横軸の目盛は500µs/divなので、ちょうど音声周波数程度。2目盛で1000Hzくらいかな?それを中間周波数(455kHz)が埋めている。つまり変調されている。これが検波されて低周波つまり音声や音楽だけが低周波増幅回路に入り、さらに増幅されてスピーカーから出るんだな。なんか学生時代に戻ったみたいで面白い。ところで、カウンターに切替スイッチが付いていないのに気がついたかもしれないけれども、今回のようにAMしか使わない場合は切替スイッチは必要ない。元のカウンターK-M3610Aの説明を見ると下のようになっている。つまり、LCD Display Rangeは「H]だし、IF Offset for different applicationも1-1つまり「H」-「H」なので、スイッチはOPENになるのだから必要ないのである。いや、ケースに接着剤で付けるならば、スイッチは厚みが有って邪魔なので付けない方が良い?<後日追記>「カウンターを付けてみた」と言うタイトルなのに、実際にどこに付けてみたかを書かないと不完全なので、追記。回路図上は下図の通り。写真を右クリックして出るメニューから、「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別のタブで大きな写真を見られます。別の候補点としては回路図左側のT1赤と書かれたIFT部分でも良いのだけれども、カウンターの入力容量がバリコンに加わるので周波数が微妙にずれるので、こちらにした。なお愛天堂の3610タイプのカウンターのように低い電圧で動作するタイプの物は良いが、秋月の五角形のカウンターのように1Vの入力電圧以上じゃないと動かない物は使えない。僕は上の方の「ニッポン放送受信中」の写真のように、ICの足に半田付けしたが、慣れない場合は基板裏側の該当部分に半田付けした方が安全だと思います。
July 10, 2024
コメント(43)

愛天堂が6月29日に店舗を再開するとホームページに書いてあったので、さっそく行ってみることにした。ただ、奥さんが29日は家の掃除をするからだけだと怒ったので、仕方ないので29日は家の掃除をして、30日に行った。僕は地方出身者で東京の地理に詳しくなく迷った。なので、同じ間違いをして悔しい思いをする人がいないように地図を載せる。地図が無いとすごく分かりづらい。一番最初の愛天堂は秋葉原のすみっこの何も無いお店の1階で誰も気づかない所だったし、(初めて行った時はノートパソコンの「冷陰極管」を買いに行った。 当時日本で売っているお店は愛天堂といくつかのお店しかなく、 他のお店はメチャメチャ高かったので、愛天堂一択だった。)二番目のお店も末広町のビルの2階で入口の掲示板が無いと通り過ぎてしまうお店だったが、(このお店は若い中国のお姉さんがたくさんいて、オジサン族に大人気だった。 オジサン達は本当はちゃんと知っていてもあえて知らないふりしてお姉さんに聞いていた)今回のお店も路地を入っていかないとならず、さらにビルの入口には何も(30cm位の表札みたいな看板は有るが)ないので、通り過ぎるのは確実だから。地下鉄日比谷線「入谷」駅で降りて、4番出口から地上に上る。但し、今は工事中なので「エレベーター」で上る。地上に出ると前を通るのが国道4号線(昭和通り)。この道を三ノ輪方面に向かう。と言ってもどっちが三ノ輪方面なのかと言うと地下鉄の進行方向なんだけど、地上に出たら分からないと思う。確実なのは道路の遠方に横断歩道橋と首都高速道路へ上る坂が見える。こちらが上野方面なので「逆」。反対側に行く。2つ目の信号を左に入って30m程度行くと、右側に学校のような建物が見える。これが「たいとうこども園」。その園門真ん前のビルの2階である。僕は最初迷って「逆」方向の首都高入口側に行ってしまった。ここを斜めに行くのが清州通りで、この付近は「かっぱ橋」。ちょうどお祭りの準備中だった。左手に「スカイツリー」が見える通りまで行ってしまった。この通りが「かっぱ橋通り」で刃物のお店なんかがあるらしいが、急いでいたので寄らなかった。でもスカイツリーが見えたのでうれしかった。何となく反対側に来たような気がしたので、引き返してやっと愛天堂を見つけた。2階に上って中に入ると、昔通り「ごちゃごちゃ」な展示で、床にセール品が入った箱が並び、壁にはたくさん商品がぶら下がっていた。奥には昔通りお姉さん達がレジをやっていた。懐かしい中国のお姉さんも居た。多分彼女がボスなんだな。そして山村紅葉さんそっくりのお姉さんも昔通り居た。目が合うと挨拶してくれたのがうれしかった。店内の品物は通販の物と同じなんだけれども、今日はセールで全部19%引きだったので、いっぱい買った。これからもヒマな時にはかっぱ橋観光も兼ねて遊びに行こうかな。愛天堂ホームページ
July 1, 2024
コメント(3)
全4件 (4件中 1-4件目)
1