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昨日の西都原古墳のブログでは書かなかったが、神武天皇は西都原の妻(つま:昨日5月20日のブログの最終部分参照)から船出されている。いよいよ僕が邪馬台国だったと考えている宮崎県小林市(正確には諸県群高原町)に着いた。古事記を読むと、(原文)神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穗宮而議云坐何地者平聞看天下之政猶思東行卽自日向發幸行筑紫故到豐國宇沙之時其土人名宇沙都比古宇沙都比賣二人作足一騰宮而獻大御饗自其地遷移而於筑紫之岡田宮一年坐亦從其國上幸而上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐(意訳)神倭伊波禮毘古命(神武天皇)とそのお兄さん五瀬命の2人は高千穂の宮に住み相談しました。どこの地に行って日本の国を治めればいいかな?やはり東へ行くのが良いだろう。さっそく日向を出発して筑紫に向かいました。そして豊の国(大分)の宇佐に着いた時に、そこの地元の権力者の宇沙都比古と宇沙都比賣の2人が足一騰宮を建てて大御饗(豪華な食事)でもてなしてくれました。その地から筑紫の国の岡田宮(北九州市八幡区)に向かい1年すごしました。またそこから於阿岐國(広島県)の多祁理宮に向かい7年すごしました。なんとものんびりしたものだけれども、この時点では宇佐の人達は皇室とは血縁ではなく家来だったのである。ただその関係で、宇佐八幡宮には比売大神(筑紫の宗像の3女神)が祀られて、神功皇后の時代に八幡神(応神天皇)が宇佐八幡宮の祭神になったのだろう。でそれがなんで今日の目的地の小林市(正確には諸県群高原町)に関係があるか?それは古事記に書いてあるように、神武天皇と兄の五瀬命は日向の高千穂の宮に住んでいたから。大分に近い延岡にも「高千穂峡」はあるが、あれは後世につくられた観光地である。行けばすぐに分かる。有名な高千穂峡の滝は自然の滝ではなく、上に人工の池が有ってそこから注ぐ人工の滝である。さらに言えば付近には天孫の瓊瓊杵尊が下った形跡が無い。古事記にはこう書いてある。(原文)於是詔之此地者向韓國眞來通笠紗之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地甚吉地詔而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原水椽多迦斯理而坐也(意訳)そこで(瓊瓊杵尊は)仰いました。ここは韓の国(韓国ではなく当時は外国のことを言った)に向かっていて行き来するのに適した笠紗之御前が有る。そして朝日が真っすぐにさして夕日が照らす地なので良い所だ。地面の底にしっかりとした基礎を築き御殿の太い柱を立てて高天原の届く千木を造り、御住みになられた。延岡の高千穂からは韓の国は見えないし、笠紗の岬は無い。(自称の笠紗の岬は愛宕山付近にあるが、人工の高千穂峡同様に観光用。 同じような自称の笠紗の岬は鹿児島の野間岬もそうだがどこも決定打はない。)いや韓の国はどこからも見えないだろう?福岡ならともかく?と言う話は有る。このせいで今までは古事記や日本書紀の神話部分は単なる神話とされてきた。でもちょっと見方を変えれば宮崎ならあり得る話なのである。韓の国と言うのが韓国ではなくて、韓(外国)の人達が住んでいる所なら日本の中でもあり得る?5月18日のブログで書いた「朝倉橘広野宮」が筑後川沿いに有れば九州に韓の国は有り得る。古代には道路は無いので、流通の基本が川を利用した水運だったならば、大陸や朝鮮半島から渡って来た人達は三笠川を利用して博多湾から太宰府までは行ける。また大宰府からは宝満川を利用して朝倉橘広野宮経由で筑後川まで行ける。筑後川まで行けば、佐賀の吉野ヶ里や熊本の八代にはすぐである。現に熊本の八代には「百済来(くたらき)」と言う地名が残り、渡来人の形跡が残る。とすれば、球磨川沿いに上れば、或いは水俣(正確には出水)から川内川を上がれば、宮崎までは来れるのである。<後日追記>女王国は狗奴国の北側に在るので熊本よりも南にはあり得ないのでは?と言う質問が有ったので、解説する。魏志倭人伝には「女王国の南側に狗奴国が有る」とは書いていない。(但し翰苑(かんえん)巻30の魏略逸文には「女王之南又有狗奴国」と書いてある。 翰苑は唐の時代に張楚金により書かれたものなので、 魏略そのものがそう書かれていたかどうかは不明であり、 例えば狗邪韓国への行程の歴韓国の後の「乍南乍東」が抜けていたり、 魏志では「対海國」と書かれている対馬を「対馬國」と書いており、 魏志と魏略双方の元になった古い資料は同じだと推測されるので、 張楚金の独自の解釈が含まれている可能性が高く、 例えば張楚金は当時の知識から「対海」は「対馬」のはずだからと書き直したのだと思うし、 同様に女王国の北側の国々は女王国に属する奴国までのはずだからと解釈して、 書き直した可能性が有り、魏略そのものではない可能性が高い。 写本と違い逸文を読む場合に注意が必要なのはこう言う場合である。)女王国の北側の国々について書かれた部分を読み間違えているのでそうなる。(恐らく学者先生の解釈も張楚金の解釈を元にしたか、 あるいは張楚金と同じ解釈をしたものだと思う。その解釈が下に書いたものである。)該当部分を載せる。(原文)自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 (途中略)次有奴國 此女王境界所盡其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王自郡至女王國 萬二千餘里(意訳)女王国より北側の国々は、その戸数や行程についてはおおよそは分かるが詳しくは書けない。それら国々は付き合いが無く情報が無く、詳しくは分からないからである。(女王国の)北側には斯馬國がある。その次には巳百支國がある。(途中略)その次には奴国が有る。ここまでが女王国に属する国の境界である。(奴国は帯方郡から不彌國までの行程では北側から南へ順に記載されており、 ここでは南の女王国から北側に記載されており、記載は奴国で合流する。)其の南に狗奴国が有る。王は男である。官がいて有狗古智卑狗と言う。女王国には属さない。帯方郡から女王国までは1万2千里である。学者先生は女王国の北側の国々の説明は「女王国に属する奴国で終わる」と理解するので、「其南有狗奴國」の「其の」を女王国(連合=邪馬台国)と考える。なので「女王国は狗奴国の北側に在る」と考えて来た。はたしてそうだろうか?その答えは「自郡至女王國 萬二千餘里」と言う部分に有る。もし女王国の北側の国々の説明が奴国で終わっているならば、この文は奴国の説明のすぐ後にあるはずである。でも魏志倭人伝はそこではなく、狗奴国の説明の後に書かれている。理由は簡単。狗奴国も(女王国には属さないが)女王国の北側の国々であり。説明は奴国で終わっておらず、狗奴国まで続いているからである。それで狗奴国の説明まで終わって、「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれているのである。つまり「其の」は女王国ではなく、そこまで書いていた奴国をさすのである。そうならば熊本と思われる狗奴国が、福岡と思われる奴国の南にあるのは現実的である。なので狗奴国も女王国の北側の国であり、女王国は熊本よりも南に在ると考えられる。後日追記終わり。魏志倭人伝には邪馬台国に至るには水行10日陸行1月と書いてある。有明海を水行して九州山地を歩くならば宮崎県小林市あたりがちょうどそれにあたる。そして、その際に気になるのが「えびの」である。今はえびのの名称の由来を「えび(すすきの色)」から来ているとしているが、そんな理由ならば日本中どこでもえびのである。僕は「えびの」は「夷(えびす=外国人)の住む野」が由来だと思っている。そうすれば、瓊瓊杵尊の天孫降臨を奴国から宮崎の邪馬台国への行幸だとすれば、その途中に韓の国(えびの)があり、そこを通って宮崎に着き、古事記の記載通りになる。なによりも小林市には「ひなもり」の地名が残り、「夷守(ひなもり」は夷(外国人)から国を守る人又は役職なので、天孫たちをえびのの外国人達から守っていたのだろう。その夷守は魏志倭人伝にも書かれている。東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家の中で(僕は不彌國は奴国などと違い竪穴式住居ではなく高床式住居だったので、 「戸」ではなく「家」で国の規模を表していると考えるので大宰府だと考えている。)「卑奴母離(ひなもり)」と言うのがそれと同じもので、福岡の香椎付近には今でも夷守と言う地名が残っており、小林市と同じである。そんな感じなので、今日の目的地は神武天皇ゆかりの地であり、もし魏志倭人伝に書かれた卑弥呼が天照大御神だったのならば、ここが邪馬台国で、今でも何らかの地名や言い伝えや建物などが残っているのではと思って楽しみだった。付近の地図を燃せる。地図の中に書かれた、韓の国から名づけられたと思う韓国岳や天孫ゆかりの高千穂の峰を、小林駅の2階展望テラスから写真に撮ってみた。googleEarth等で見ると分かるけれども、霧島にはたくさんの火口がある。高千穂の峰から韓国岳の間にある火口のうち、新燃岳はいまだに活動中で、鹿児島の桜島や阿蘇と併せて、九州はまだ地球の息吹を感じさせる地だなと思う。JRに乗っていると韓国岳が夕日に映えて綺麗だったので、車窓越しであるが写真を撮った。古事記に書かれた瓊瓊杵尊が言う「夕日之日照國也」と言うのはこんな感じだったのかな?西都原に向かう途中で書いた高鍋同様に、と言うかここはもっと不便な所である。高原駅を降りると何も無い。タクシーも駅の周辺には無いので、前日に調べて予約しておいた。ちなみにタクシー会社は小林市にあるけれど、小林から乗ったら破産するので、僕は高原駅まではJRで行った。タクシーさんごめんなさい。最初は狭野神社に行った。通常は有名な狭野杉の杉並木を歩くので東側の鳥居から入るが、マイカーではなくタクシーで来ており、待ち時間中もメーターは回るので、本殿(神前)に近い西参道から入る。本殿はこんな感じ。記録が残っていないらしいので(略記に孝昭天皇の時代の創建とあるがさすがに信じられない)いつから有るのかは分からないが、相当に古そう。と言うか、実は失敗して見に行けなかったんだけれども、皇子原に「元宮」が有る。こちらは本当に神話の時代に有ったのかもしれない。この神社と言うかそばの皇子原に神武天皇はお生まれになったらしい。そして成長して、(ここから高原駅に向かう途中に有る)狭野渡から日向に向けて出発された。ただ狭野渡はタクシーの運転手さんもよく場所を知らないし、時間も無いのでいかなかった。本殿を横から見ると面白い。拝殿は現代風の普通の神社だが、奥殿は古い昔の造り。樫木や千木が有る。書かれた通り古い神社が有って、その名残かも?本殿から東に向かうと狭野杉の並木道が有る。高い杉が立ち並ぶ。ここですごい失敗をした。タクシーの運転手さんに皇子原の狭野神社の元宮へ行きたいと言って、一所懸命に説明したのだけれども、運転手さんは知らなくて理解できず別の神社に行ってしまった。ちなみに皇子原の狭野神社の元宮と言うのはこれ。神社と言うよりも古墳で、地元の高原町の教育委員会が「高原古墳」として調査している。かなり古いらしいのだが、報告書を見ても要領をえない。ただ、付近には縄文時代からの遺跡や出土品が多く、この皇子原は相当に古くから人が住んでいたらしい。狭野神社の所で、今の狭野神社が孝昭天皇の時代の創建と言うのは無理が有るが、ここがそうだったと言うのならば有り得るなと思ったのはそれである。縄文時代の遺物が出土しているのならば、そのころから村や国があり、弥生時代以降の卑弥呼や神武天皇がおられた可能性は有るだろう。話は戻って、結局タクシーの運転手さんは元宮ではなく、より有名な霧島東神社に連れて行ってくれた。まぁ元宮は探すのが大変だから、帰りのJRの時間を考えると良かったのかもしれない。ここにきて驚いた。元宮に行けなかったのは悔しいけれど、この神社を見られたのは良かったのかも?この神社も古い。本当かどうかは分からないが、崇神天皇の時代の創建らしい。ちょっと眉唾だけれども、ちょっと信じたくなるのは「狛犬がいない」からである。狛犬は仏教が伝わった際に、それまでは建物が無く注連縄で囲まれただけだった神社を、仏教寺院同様に礼拝の場所として整備する際に、結界のばとしてインドの寺院のマネをして設けられたモニュメントである。なので、狛犬が居る神社は仏教伝来以前には遡れないのだけれども、狛犬がいない神社は仏教伝来以前から有るのだと思えるからである。この神社も相当に古いのかも?残念なのは皇子原の狭野神社の元宮だけれども、またいつか来よう。こうして歴史の真実を求めて九州一周は終わったけれども、結構収穫は有ったし面白かった。次はどこに行こうかな?
May 21, 2024
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宇佐八幡宮(大分)から西都原古墳群(宮崎)は結構遠い。なによりも西都市は市街地をJRが通っていない。その上にJR日豊線は本数が少ないので、事前の計画が非常に重要になる。僕はJRを高鍋駅で降りてバスで西都市に向かった。東京や横浜の感覚で行ってはいけない。JR駅前は何も無いし、バスセンターと言っても小さい。なお、僕は最初は歩く予定だったのでバスセンターの手前の御舟通りで降りた。これがラッキーだった。すぐそばにタクシー会社が有ったから。予定は未定。足のマメも痛いので古墳群までタクシーで行くことにした。運転手さんが詳しい人だったので、鬼の窟古墳前で降ろしてもらった。鬼の窟古墳は見どころが有る古墳である。まずは正面から見る。圧倒される。大きい。でもこの古墳の大事な所は、その形の面白さと石室内に入れることである。この古墳は周濠(堀)とドーナツ形の堤の中央に円墳が有る。珍しい形である。周囲をぐるーっと堤が取り囲んでいる。ドーナツ形の堤部分は上をぐるーっと回れる。堤を降りて石室に向かう。この古墳は6世紀末の建造なので、奈良の石舞台古墳(蘇我馬子の墓7世紀建造)とほぼ同時期。さすがに天下の蘇我馬子の墓に比べれば小さいが、その分整っている。大人が立って入れる大きさがあるのに周囲の積石には隙間が無く、床には石が敷き詰められている。まぁもっともこれは復元された古墳なので、復元前はこんなにきれいではなかったかもしれない。(石にはナンバーリングしてあったので、元の石を使っている。)でも床にきれいに石が敷き詰められた古墳は少ない。鬼の窟古墳には伝説が有り、有名なこのはなさくや姫に恋した鬼が一晩のうちに窟(石室)を造ったのが名前の由来らしい。えー?このはなさくや姫って富士山の神様じゃなかったっけ?いや、実は古事記には天孫の瓊瓊杵尊が一目ぼれして妻にした女性と書かれており、お父さんは大山祇の神。そして妻に迎える時に、大山祇の神はこのはなさくや姫だけでなく姉のいわなが姫も付けて瓊瓊杵尊の元へ送りました。でも瓊瓊杵尊はいわなが姫がブスだったので送り返してしまいます。大山祇の神はいわなが姫も妻にすれば岩のように頑丈な身体になって永遠に生きられたのに、返してしまったのであなたはもう有限の命になってしまったと怒った。それ以来、天孫の子孫や人間は短い寿命しか無くなってしまった。つまり古事記の伝承では大山祇の神も瓊瓊杵尊も日向に居たので、ここに居てもおかしくはない。神話の世界って色々とあるなぁ。鬼の窟古墳を後にして姫塚古墳に向かう。西都原古墳群は相当に広いので、結構歩く。参考に西都原古墳群の全容が分かるように、この付近の国土地理院の地形図を載せる。西都市の出しているMapにしようかと思ったけれど、マンガっぽいし、googleMapからつくるとイメージがわかないけれど、地形図は草木等に隠れてイメージしづらい古墳が一目瞭然に分かるので見やすい。地形図を右クリックして出てくるメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと、別のタブで大きな地形図として見られるので参考に。大きくすると古墳がよく分かる。西都原古墳群には200以上の古墳が有り、10以上の支群に分かれている。代表的な古墳は、例えば男狹穂塚・女沙穂塚古墳は第五支群である。地形図を見ると分かるように姫塚は鬼の窟古墳のかなり南で第一支群に在る。行く途中に坂元ノ上横穴墓群を保護する為に造られた覆屋が有る。ここで大失敗したことに気がついた。今日5月20日は月曜日だ!そう公共の博物館などは月曜日はお休みなんである。どうして一番重要な西都原古墳群を月曜日にしちゃったんだろう?いや、九州一周は一週間はかかるのでどこかは月曜日にあたるんだけれども、何で西都原古墳群?相当に後悔したが、すんだことは仕方ない。今日は内部展示は全部諦めよう。仕方ないので先に進んで姫塚に到着。姫塚古墳は西都原古墳群の中でも最終期の古墳で6世紀後半に造られた古墳。2段構成の前方後円墳である。上の写真を見てもちゃんと2段なのが分かる。姫塚と言う名前の由来は、もしかすると神話の中のお姫様から?と思ったら、見た目の優しい形状が名前の由来なんだそうである。確かに柔らかい感じ?姫塚の次は第13号墳。ここは通常ならば石室に入れるらしい。でも今日は月曜日!手前には1/20スケールの模型が有り葺石で覆われている。そうこの古墳は調査時に全体が葺石に覆われていたらしい。石室に入りたかったなぁ。ここから次の目的地の男沙穂塚・女沙穂塚古墳までは相当に歩く。でも通常ならばシャトルバスがぐるーっと回っているので大丈夫なんだけど、今日は月曜日。バスは無い。何で月曜日!途中にガイダンスセンターこのはな館が有る。ここは月曜日だからではなく、現在改修中なので入れない。もう!プンプンである。傍らに三段登り窯が有った。珍しい。展示用の埴輪をこれで焼いたのかな?そしてついに男沙穂塚・女沙穂塚古墳に着く。ここは宮内庁が御陵参考地にしており、中には入れない。相当に大きい。ちゃんと周濠も含めて復元したら近畿の大きな古墳にも負けないと思う。ちなみに御陵参考地なのは、祀られたのが皇室関係者だから。県立西都原考古博物館の北郷(ほんごう)泰道氏らは、「仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい) ではないか」という仮説を立てている。男狭穂塚と女狭穂塚は、隣接してほぼ同時に作られていることから密接な関係が推測され、当時、女性は出身地に葬られる習慣があったこと。記紀などの文献に具体名として登場する日向の支配者は、諸県君牛諸井だけであることが根拠。でも古墳の形状から分かるように男狭穂塚と女狭穂塚は時期が離れていると思う。それは上の国土地理院の地形図に僕が追加した地形レーダー探査結果の図を見れば分かる。男狭穂塚はホタテ型の前方後円墳で、円墳に造出がついた物ならば初期の前方後円墳、方墳部が縮小化して帆立貝型になったのならば後期の前方後円墳である。女狭穂塚はホタテ型の前方後円墳ではない。また仁徳天皇の奥さんの古墳ならば時代的に円墳部と方墳部の境目に造出が有るはずである。形状からは方墳部が広がっており最終期の前方後円墳だと思う。つまり両者の間には100年程度の違いが有り、親子の古墳ではないと思う。じゃぁ誰の古墳か?分からない。だって記録がないから。宮内庁が御陵参考地をやめれば調査が可能になり、副葬品から分かるかもしれないが、今は1年のうちの特定の日(11月の参拝日1日だけ)に入れるだけ。とても調査はできない。男狭穂塚と女狭穂塚を後にして、その陪塚(家来の墓)だと思われる171号墳を見に行く。九州では珍しい方墳である。しかも正方形。このタイプは出雲や関東に多い。あと蘇我氏系の古墳もそう。と言うか僕は蘇我氏は出雲の子孫だと思っているので当然かも?では何故宮崎の古墳なのに方墳?男狭穂塚と女狭穂塚の陪塚だから、つまり男狭穂塚と女狭穂塚が誰の古墳なのかに関係あると思う。女狭穂塚の主は諸県君として宮崎で亡くなったが、元は出雲や近畿に近い人であり、陪塚に葬られた家来は出雲の人だったのだろうと思う。では女狭穂塚の主は誰か?それは「諸県君牛諸井」。出雲系の景行天皇により日向の諸県君に任命された人だろう。だから家来は出雲の方墳。つまり本郷先生の仮説は半分合っているのだと思う。ただ、仁徳天皇の妃となった髪長姫が余計なだけ。別の人だと思う。恐らくは女沙穂塚古墳の埋葬者が「諸県君牛諸井」であり、男沙穂塚古墳はその御先祖様または子孫なんだと思う。(もし帆立貝型前方後円墳が朝廷の規制により方墳部を大きく造れなかった後期のものなら、 子孫だと思う。)中に入れないので確証はないけれど、陪塚から考えると多分そうだと思う。次はすぐそばの170号墳。ここは写真の「子持家型埴輪」と「舟型埴輪」が出土したので有名な古墳。さらに進むと西都原古墳群の最も北側に着く。ここには西都原考古博物館が有り、その庭には古代生活体験館と復元住居が有る。月曜日なので中には入れなかったが、復元住居が住民参加で建てられたと言うのは面白い。将来の日本を背負ってたつ子供達が考古学に興味を持つのは大事なことだと思う。庭を通って考古博物館の正面に出る。立派だなぁ。月曜日に来るんじゃなかった。中にはここ西都原古墳群の各古墳から出土した副葬品がたくさん有るんだろうなぁ。見たかったなぁ。でも愚痴を言っても仕方ないので、最後の都萬神社に行く事にする。すごく遠いし今日はバスが無いのでタクシーで行く。月曜日だから仕方ない。この神社はすごく古くて、創建の時期は不明だが、続日本後紀に載っている。つまり9世紀にはすでに有ったらしい。近畿地方ならばともかく、九州のしかも南のはてなのにそんな昔から有り知られていた?すごいと思う。神社の中には景行天皇が熊襲を攻めた時に奉納したと伝わる大太刀が有る。ただ現在の物は宝徳2年(1450年)、妻町の付近の鹿野田の住人日下部成家が、備前則次らに鍛えさせ、都萬神社に奉納したもので景行天皇の時代のものではない。残念。ここで大事な推理が有る。この付近は妻と呼ばれている。神社の名前が都萬であることから、「つま」と言う音が有って、妻も都萬も宛て字である。では「つま」と言う名前の由来は何だろう?僕は実はここは「投馬國」だったのだろうと思っている。投馬は「とぅま」なんだと思う。魏志倭人伝の中では投馬國は規模や行き方の分からない女王国の北側の国々とは違って、邪馬台国と同様に不彌國(又は伊都国)から水行20日と記され、5万戸を誇る大国である。邪馬台国の7万戸よりは若干少ないが、戸数が書かれた国の中ではNo2である。しかも「官の名前」も記されている。魏志倭人伝の中では重視されている国である。西都原古墳群の規模から考えても、投馬國=つま と言うのは案外正しいのではと思う。なによりも投馬國の官の名前は「彌彌(みみ)」であり、この辺は明治時代まで美々津と呼ばれていた。「みみ」の津(港)である。気味が悪いほど一致する。水行20日と言う距離と方向もだいたい合っている。邪馬台国近畿説や北部九州説のように、「方角を間違えた」とか「距離を間違えた」と言わなくていい。ちゃんと書かれた通りに着く。西都原こそ投馬國だったのではないだろうか?都萬神社に来て自信を持ってしまった。明日はいよいよ最後の目的地である宮崎県小林市(と言うか諸県群高原町)
May 20, 2024
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福岡をあとにして大分に向かった。1日目はお袋の7回忌で長崎に行ったのだが、今日は古い友人に会うのが一つの目的。彼は両親の介護の為に大分の日田にマンションを買い、そこに住んでいる。周囲に友人がいるのかもしれないけれど、田舎で生活していると退屈だろう。たまに息抜きで2~3時間は外に出て過ごすのも良いのではないか?そう思って宇佐八幡宮で彼に会うことにしたのである。宿は時間的な話(大分を通る日豊線は本数が少ない)を考えて近くの中津にした。中津は福沢諭吉の故郷であり、他には絶景「耶馬渓」がある。ハモ料理も有名。中津駅にはハモにちなんで日本一長い椅子が有った。列車を待つ時間つぶしに改札に降りるには斜行エレベーターに乗る。珍しい。通常上下に動くエレベーターがエスカレーターのように斜めに進む。面白いので数回乗った。改札の手前には中津を紹介する展示が有る。主に福沢諭吉と耶馬渓。耶馬渓は菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で有名である。ここは山国川に沿って細い道が有ったのだが、足を踏み外して崖下に落ちる村人が多かった。旅の途中でここに立ち寄った僧禅海は村人の為に「青の洞門」と言うトンネルを掘り、村人が安全に通行できるようにした。この史実を元に菊池寛は、僧禅海を罪人に脚色して面白くして小説化して、罪人ながら罪滅ぼしに一人村人の為に洞窟を掘る僧が、最初は見向きもされなかったのが、やがて村人も協力するようになり、そんな時に僧を仇と狙う、僧に殺された旗本の子が現れ、切ろうとする。それを村人が止めて、仇討ちは洞門の開通の日まで待つことになる。仇討ちの子も洞門の掘削を手伝うようになり21年目に開通するが、心を打たれた仇討ちの子は仇を討とうとはせず、抱き着いて泣くと言う感動のストーリー。(恩讐とは「恩義」と「恨み」のことである。それが考えさせられるストーリー)僕等の小学校の教科書に載っていたので、よく覚えている。昔の本は良かったなぁ。そんな耶馬渓はこんなに急な崖。JRのPR写真。お姉さん危ない!宇佐八幡宮に着いたが、待ち合わせまで時間が有ったので、周囲を廻ってみることにした。学者先生は皇室と宇佐八幡宮の関係をちゃんと明らかにしていないが、応神天皇と神功皇后の逸話(宇佐八幡宮の祭神)や弓削道鏡事件(宇佐神宮神託)事件等、皇室と密接不可分な関係が有る。出雲大社や伊勢神宮は神話の中でしか関係が語られないが、宇佐八幡宮は神話ではなく歴史上の事件の中で語られているのである。であれば現実的な関係が有ると考えるのが普通だろう。そのせいもあり、最初は「勅使道」に行ってみた。古来、大宰府から宇佐八幡宮には勅使が通っていた。筑紫の水城東門を通る街道は日田道であり、これは日田往還とも呼ばれて、筑紫~日田~中津~宇佐八幡宮に至る。僕は宇佐八幡宮の位置も考えて、昔は宇佐から瀬戸内海経由で京や奈良に至る海路も有ったと思う。それは後述の宇佐八幡宮の鳥居で説明する。勅使道は今ではほとんど農道に近い小さな道。掲示板に書いてある様に、養老4年(720年)に朝廷が大隅・日向の隼人を攻めた際に、宇佐八幡宮の神軍も参加して攻めているが、ここにはその際に捕虜にした隼人の首を埋めたと伝わる「凶首塚」や、隼人の霊を慰める為の百体神社、隼人の霊を慰める為の祭の放生会で使う人形を洗う井戸がある。まずは百体神社。ものすごく古い神社で、本堂は屋根の下に古い神社が有る。神社in神社。横浜市金沢区の富岡八幡宮と同じで、古い神社が八幡宮など他の神社に吸収されたのだろう。本当に隼人の霊を祀っていたのかもしれない。(隼人の話は宇佐八幡宮の御由緒にも書いてある)百体神社から勅使道の坂を登って、右に入る小道を行くと「凶首塚古墳」がある。奈良の明日香の鬼の爼・雪隠と同じじゃん!あそこのは多分地震などで上の蓋部分の石が転げ落ちて2つに分かれ鬼の爼・雪隠になった?これを見るとすぐに分かる。ちなみにこの凶首塚は隼人の首を埋めたとされているが、出土品から6世紀末頃と分かっており、薩摩を攻めた養老4年(720年)と時代が合わない。なのでこの付近の豪族の古墳だろうと言われている。薩摩隼人の首塚の方が面白いのに。さらに坂を登ると化粧井戸が有る。隼人を攻めた時に殺した人達の霊を慰める為に、宇佐八幡宮では放生会を行い、その時に使う人形をこの井戸で洗ったらしい。でも中を見たら今では空井戸だった。年月を感じる。ちなみに宇佐八幡宮の放生会にはもう一つ変わった行事が有ったらしい。宇佐神宮の放生会では、銅鏡を香春神社で造って福岡県田川郡の古宮八幡に運んでいたらしい。放生会の根源であるとする銅鏡奉上儀礼の論(田川郡の採銅所の元宮八幡宮の宮柱が、銅鏡を御正躰として宇佐宮に奉納する儀礼)は、豊日別宮や田川郡香春採銅所に鎮座する豊比売社の宮柱であった長光家に伝わっていたらしい。(この行事は1307年を最後に完全な放生会は途絶え、1420年と1617年に再興するものの、 完全復活とはならず、明治以後は宇佐神宮の仲秋祭として10月の3日間、 和間神社へのみこし御神幸などが行われるのみになったらしい。 なお香春岳の銅鏡の話は宇佐八幡宮の御由緒にもかかれており信憑性は有る)福岡県田川郡の香春町の清祀殿(せいしでん)という史跡が(建物は残っていないが)そうで、(住所:福岡県田川郡香春町大字採銅所でJR日田彦山線「採銅所」駅が有ります。)現在も銅山の穴は残っており、採掘跡は「神間歩(かみまぶ)」と呼ばれているらしい。そこで作られた鏡は御床石(ぎょうしょういし)と呼ばれる石の上に一時置かれるが、御床とは大王や天皇が座る玉座のことである。えー?鏡が大王だったの?まるで卑弥呼みたいじゃん!何か古代日本と皇室の歴史に関係がありそう!まぁこの宇佐八幡宮の放生会の件については、何が真実で信じて良いのかどうか分からず、言い伝えはあるけれど、確かめようもないので、今回は見送ることにした。化粧井戸を西側に進むと、けっこう歩くが駅館川の手前に大分県立歴史博物館が有る。遠いので車で行くのでなければ、宇佐八幡宮参道入口にタクシーがあるので利用したい。若い人ならば歩いた方が早いかも?歴史博物館3階には展望所があり、眼前に古墳群が見える。この歴史博物館は、九州でも有数の(古い)古墳群が有る「宇佐風土記の丘公園」の中に有る。上の写真の部分が下の案内図。駅館川の堤部分に古墳が並んでいる。写真には写っていないが、歴史博物館玄関前の正面には赤塚古墳が有り見学できる。歴史博物館に入るとびっくりするが、正面に熊野摩崖仏の複製がある。上の写真がそう。下の写真は熊野摩崖仏現地。遠いので行けない。摩崖仏の複製の下には曼荼羅の複製も有る。写真に書いてあるように3つの曼荼羅が有り、僕には分からないがそれぞれ意味が有るらしい。そばには臼杵の摩崖仏の復元模型も有った。お土産で有名な臼杵の摩崖仏とは別のタイプ。阿蘇山の裏手にあたるせいで彫りやすい石が多く、摩崖仏が作りやすかったのかも?さらに驚くのは、熊野摩崖仏の右手に進んでいくと「富貴寺」の複製が有る。博物館の中にお寺?実物大と言ってもおかしくないくらい大きい模型。さらに驚くのは、その説明。この富貴寺は宇佐八幡宮の大宮司が死後の極楽往生を祈願して建てたらしい。えー!神社の宮司が「極楽往生」?高天原じゃないの?どうも北九州から大分付近は神仏混淆が激しかった場所らしい。近くに有る英彦山は修験道の名所なんだけど、英彦山神社は寺なのか神社なのか分からないくらいややこしい。日本に仏教が伝わって来た際に蘇我氏と物部氏が争い、蘇我氏が勝って法隆寺を建てるが、その際に推古天皇は甘樫丘付近に「豊浦宮」を開き、蘇我稲目は法隆寺の妹寺として「豊浦寺」を建てる。豊浦って、ここ宇佐は豊の国にあり、文字的に考えても何か関係ありそう。神様と仏様が争ったのをうまく収めた神仏混淆の場として、宇佐八幡宮は関係している?また、公然の秘密ではあるが、推古天皇は継体天皇のお孫さんにあたるんだけれど、継体天皇のお墓である「今城塚古墳」からは阿蘇の馬門石の石棺のかけらが発見されており、また推古天皇の初陵「植山古墳」からも阿蘇の馬門石の石棺が発見されている。うーん。宇佐八幡宮って阿蘇の裏側(どっちが表か分からないけれど)だよな。推古天皇や継体天皇って宇佐八幡宮と関係あるのかな?継体天皇は古事記や日本書紀によれば、応神天皇(八幡神)の5世孫だって書いてあるし、応神天皇のお母さんの神功皇后は、夫である仲哀天皇の嫡男、次男(つまり義理の息子)である麛坂皇子、忍熊皇子を打ち破り、女帝になって、息子の応神天皇に皇位を譲ったんだよな。皇室って宇佐八幡宮の子孫なの?畏れ多いので推測はここまで。上に書いたように歴史博物館の玄関前には赤塚古墳が有る。この付近の古墳はみんなそうなんだけど、奈良の明日香の古墳群よりも古い。(個別に考えると明日香の方に古い古墳もあるが、平均的にはこちらが古い)京都や大阪の古墳等よりももっと古い。しかも前方後円墳。どっちが先でどっちが後?と言う気がするが、もし神功皇后の事績が、神功皇后そのものの史実性は怪しくてもモデルがいるならば、あんがいと宇佐の地が先なのかもしれない。あるいは並行して進行?ただ、現在見つかっている古墳が箸墓よりも新しいだけで、探すと未発見の古い古墳がまだある?歴史博物館の中の展示品が面白い。歴史博物館の傍の小さな古墳、免ヶ平古墳の写真を載せる。なんとここに祀られた2体の被葬者のうちの1人は女性だったらしい。出土した遺物はこんな感じ。えー!鏡と剣じゃん。剣は男の被葬者の物だと思うけれど、鏡は女王の物では?でも卑弥呼は独身だったそうなので、卑弥呼の墓ではない。でも古代九州では女性も権力を持っていたんだな。神功皇后が居ても不思議はない。(注:神功皇后は息長氏の娘つまり近畿の北部の出身です)いや仲哀天皇の奥様の神功皇后と、そのモデルになった九州の女王が、何らかの大人の事情で同一視されたとしても不思議は無い。そもそも神功皇后が、旦那さんの息子たちを滅ぼして女帝になったと言うのが怪しい。いくら血がつながっていなくても、義理の息子達を滅ぼすのを周囲が許すのか?でもまぁ証拠が無いので、ここまで。もっと見ていたかったけれども、友人との待ち合わせ時間が迫ってきたので、あわてて宇佐八幡宮に向かう。宇佐八幡宮参道前のタクシーにお願いして。ちょっと遅れたけれど友人と会えて、二人で「ハモ料理」を食べた。「名物に旨い物なし」と言うけれど、ハモ料理はあまりおいしくなかった。さて宇佐八幡宮に参る。入口の鳥居には特徴が有る。見て分かるように反り返っている。この形の鳥居は他には珍しい。平安時代の書物にもこの鳥居の形状について書かれているので、創建時からかも?しかも2本の柱には黒い輪っかが巻かれており、普通の神社にはつきものの中央の神社のネームプレートが無い。例えば厳島神社の鳥居もこれだけど、ネームプレートは付いている。この大鳥居の先に有る大鳥居は1111年に建てられて、その後17世紀に改修されたそうだが、いわれが知りたい。そう思って調べてみたが、明確な確実な証拠は無かった。鳥居の由来には諸説有り、1.天岩戸伝説の中で、天照大御神を岩戸から誘い出す際に鳴かせた常世の長鳴き鳥に由来。 でもこれは門を伴わない。2.インド仏教寺院の「トーラナ」が鳥居の原型。 でもこれは確かに形状が似ており、「トーラナ」と「鳥居(とりい」は音が似ているが、 仏教を否定する神社にも鳥居が有る。3.中国の華表や鳥竿、牌楼(ぱいろう)を真似した。 これはかなり信憑性が有る。特に牌楼は反り返った屋根が有る門でこの宇佐鳥居に似ている。 もし宇佐の八幡神が僕の考えるように中国の秦の子孫で新羅経由で渡って来たのならば、 この説はぴったりである。(新羅の話は宇佐八幡宮御由緒にも書いている。) しかも隋書に書かれた「筑紫(福岡)の東の秦王国」と言う記述にも一致するし、 日田のダンワラ遺跡で発見された金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡ともつじつまが合う。 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は象嵌が施された鉄鏡で、 中国の曹操の墓で発見された鉄鏡と同じだと言われている。何となく中国の牌楼が原型なんじゃないかな?牌楼はこんな感じ。反っている所が似ているなぁ。鳥居を入ると左手に変わった形の機関車が有る。クラウス号である。かってこの地には参宮線が存在し、クラウス号が走っていた。さらに中に入って上宮にお参りする。宇佐八幡宮には3つの御殿が有り、一の御殿は八幡大神(応神天皇)、二の御殿は二の御殿は比売大神、三の御殿は神功皇后である。比売大神は日本書紀によれば神代に宇佐嶋に降臨され、一の御殿の八幡大神が降臨されるまで古い神・地主神として祀られていたらしい。つまり横浜市金沢の富岡八幡宮が元おられた祖神と併せて源頼朝が八幡神を祀ったのと同じ。神社の由緒によれば、応神天皇は宇佐の地に571年に示現され、一の御殿は725年、二の御殿は733年、三の御殿は823年に建立されたらしい。またこの宇佐八幡宮はお参りの仕方が他の神社とは違う。二拝四拍手一拝である。僕はそれを守って三つの御殿にお参りした。写真には写っていないが、右手に御許山(大元神社)のは参拝所が有る。御許山には交通が不便で行きにくいし。霊域なのでここでおまいりする。御許山には大元神社が有り、次のように伝えられている。宇佐神宮の奥宮である大元神社は馬城峰・廐岑とも称される御許山の9合目に鎮座している。その由緒は、八幡神が御許山に顕現したとする伝承と、その前史として三柱の比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)が、御許山に降臨されたとする伝承の2つが伝えられている。三柱の比売大神は福岡の宗像の神様で、古事記では素戔嗚尊と天照大御神の誓約の結果生まれた女神様である。やっぱり応神天皇が渡来人だと言う説はこの辺にあるのかな?僕は応神天皇は渡来人ではなく日本人だが、日本書紀を読むと母親の神功皇后は新羅の王族と血のつながりが有る人であり、新羅の王族と血のつながりが有るせいで神功皇后は三韓征伐を行い、新羅から新羅人を連れ帰り、彼らの助力を得て勢力を拡大して女帝になったのだと思っている。上宮からの帰りには外宮にお参りする。説明板にも書いてある通り、上宮は国家の神、外宮は民衆の神なので両方お参りするのである。つまり宇佐八幡宮は上宮と外宮は同じ神様で御殿で分けている。伊勢神宮にも本宮と外宮があるが、伊勢神宮は本宮が天照大御神で外宮が豊受大御神と祀られている神様が違う。この辺が八幡宮が全国に広まった原因なのかな?民衆に受け入れられる説明のうまさがあるなぁ。宇佐八幡宮をぐるーっと回って、友人とは分かれることにした。これから行く大尾神社と護皇神社は遠いので、つき合わせると申し訳ないから。分かれた後、参道でアイスクリームを食べた。イチゴ入りのソフトクリーム、美味しかった。これから向かうのは宇佐神宮の奥に有る大尾神社と護皇神社。お祭りの際に流鏑馬が開かれる馬場の奥に有る。境内図の一番左の川を渡った奥の石段を登ると、二つの神社は有る。またその分岐点には和気清麻呂公の碑も有る。護皇神社は和気清麻呂公を祀った神社で、大尾神社には八幡神の分霊が祭られている。両神社は宇佐八幡宮御神託事件に基づいて建てられた神社である。宇佐八幡宮神託事件は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との神託を受け、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件である。その際に和気清麻呂公が宇佐八幡宮に派遣され、宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣を受けて与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。 天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。これにより道教を皇位に着ける事は否定された。同年旧暦の10月1日称徳天皇が詔を発し道鏡には皇位は継がせないと宣言し事件の決着はついた。これに基づいて両神社に和気清麻呂公と大神を祀っているのである。でも、宇佐八幡宮まで来る人は多いかもしれないけれど、ここまで来る人は少ないだろうなぁ。こうして宇佐八幡宮の御参拝は終わったが、宇佐八幡宮と皇室の関係についての疑問はかえって深まっちゃった。明日は宮崎の西都原へ行こう!
May 19, 2024
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水城で大きな疑問(守るべき大宰府よりも先に水城ができていた?)を解決して、何となく九州にはヤマト王権に匹敵する王朝が有ったんだなと言う考えが強くなり、ではその王朝の元になった奴国はどこに有ったのかを調べる為に須玖岡本遺跡に行った。須玖岡本遺跡は奴国の中心地だったと言われている最有力地である。論理学を勉強すれば、纏向がたとえ3世紀半ばに存在した都市遺跡だとしても、それは単に纏向に3世紀半ばの都市が有ったことを証明するだけで、そこに邪馬台国が有ったと言うことの証明にならないのは簡単に分かることである。その都市は出雲の都でも尾張の都でも熊野の都でも構わないのだから。邪馬台国の都だと言う証明が成り立つのは、日本に当時邪馬台国以外に国が無い場合だけで、狗奴国が有ったと言う事実だけで、それは簡単に否定されるのだから近畿説には無理が有る。但し北部九州説も、どのように理屈を考えても「水行10日陸行1月」にはならないので、ここに邪馬台国が有ったと言う証明は難しい。ただ、江戸時代に「漢委奴国王」の金印がこの地で発見されたことから、また、ここが「那の津」と呼ばれており、奴国の名前の名残が残っていることから、奴国がここに有ったと言うことは、ほぼ正しいだろうし、それは定説になっている。かってこの事実の元になっている金印が偽物ではないかと議論されたことが有る。それは今では完全に否定されているが当然だろう。だって、発見されたのが現代ならば偽造の可能性は有るが、(魏志倭人伝の存在は知られていたが)金印が見つかったのは邪馬台国の議論そのものが無かった時代であり、発見者も(金の地金の価値は知っていても)その金印の価値を知らない「お百姓さん」である。偽造する動機が無い。当時の貴金属の流通状況を考えると、金の地金でさえも換金が難しいのに、あえて(その知識も無い)金印の形状にしても何の得にもならない。換金が難しくなるだけである。恐らく現実の発見時の状況もそうだったのだろう。実際は志賀島で拾ったのではなく、奴国の王墓を盗掘して見つけたのだろう。しかし江戸時代の当時はお百姓さんが「金の塊」を持っているだけで怪しまれ、質屋等に持ち込んだ場合は番所に報告されて捕まるだろう。その結果、発見者の2人のお百姓さんは捕縛されて打ち首になる所を、頭の良い役人が助け舟を出したのだろう。そのおかげで2人のお百姓さんはお金は手に入らなかったけれども命だけは助かり、発見場所も実際の場所(王墓)ではなく、志賀島の畑で「拾った」ことにしたのであろう。拾ったのであれば、盗掘とは違い、正直に届ければおとがめは無い。そして金印は福岡藩の物になり、現在まで残されたのだろう。つまり金印は本物だけれども、実際の発見場所は記録には残らなかったのだと思う。ただ、近年の考古学的な調査は進展が著しく、今日行く須玖岡本遺跡は様々な出土物などから「奴国の王都」だった可能性が高い。楽しみ。現地はちょっと不便で、JRの南福岡駅から自衛隊福岡駐屯地をぐるーっと回った先に、「奴国の丘歴史公園」として遺跡を含む公園として整備されている。入口付近には歴史博物館が有り、面白いモニュメントが立っている。モニュメントの周囲には、多分鏡を模したものであろう噴水?が囲んでいる。写真の奥が歴史博物館で、中の展示が面白い。ここの遺跡の特徴の一つで単なる青銅器だけではなく、その製造の為の鋳型等が出ている。鉄に比べて融点の低い青銅ではあるが、それでも1000度近い温度が必要で、単なる「炉」ではなく、ふいごで強制的に空気を送り込み温度を上げている。鋳型は石や粘土で作られているが、高音の青銅が流れると割れるので、厚さや材質などの選定はそれなりに高い技術が必要である。特に鏡や銅鐸は薄いので、鋳型だけでなく本体も割れる恐れが高い。銅鐸の製造風景も描写されていた。剣とは違い内側と外側の2つの鋳型のすきまに流し込むので、バランスとスピードが必要で、一人ではなく複数の人間が役割を分担して作業していたようである。かっては「銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏」と言われて、銅鐸は近畿地方特有の物と学者先生達は言っていたが、出雲の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡でたくさんの銅鐸が発見され、佐賀で銅鐸の鋳型が発見されるに及び、今では否定されている。確かに傾向としては近畿に銅鐸が多く、九州に銅剣銅矛が多いのであるが絶対ではなく、現在言われているのは、元はどちらも九州経由大陸からで伝わったものであり、元々(九州に有った頃は)祭祀に使われる楽器であった銅鐸が、近畿に伝わる過程で「見せる銅鐸」に変化して巨大化したのだと言われているのである。地道に調査して真実を導き出す考古学と、文献等から想像力で仮説を生む史学は違い、政治的に力が強い史学が、とんでもない仮説を生み出した結果が多くの誤りを生み、日本の歴史を混乱させているのだと思う。そして考古学により新たに発見された証拠により、過去の仮説はみんな覆っているのである。歴史博物館の中には王墓から出土した銅剣・銅矛・銅戈や銅鏡が飾られている。まずは銅矛及び銅戈。銅矛は木の棒の先につけて使う、いわばやりの穂先であり、銅戈は木の棒にクロスして括り付ける、いわば斧である。王墓からは中国製の鏡も多く出土している。すみません。紋ではなく文かも?博物館ではこれらを現代技術で復元している。鏡が光っている。こうしてみると、古墳から出土した時は錆びて青緑の鏡は元は赤く光っていたんだと分かる。これを胸に下げて民衆の前に立ったならばどう見えるだろう?上手く時間を選び、太陽光を反射させると、胸に太陽が乗り移ったように見えると思う。つまり鏡は女王に太陽を乗り移らせる物だったのではないだろうか?だから卑弥呼は鏡を大事にしたのだと思う。(だから天照大御神が岩戸に隠れると世の中は暗くなったのだろう。鏡を上手く使ったのだ。)戦いのあるいは狩りの際は刀よりもむしろ弓矢の方が効果が有る。矢の先端に付ける金属を鉄鏃(てつぞく)と言う。ここの人達は刀子(投げるタイプの小刀)も使っていたようである。さらに高貴な王族の女性は管玉や耳飾りでおしゃれをしていた。いつの時代にも女性は変わらない。博物館を出ると、公園内には王墓の石室の上板や王墓の保存施設(覆屋)もある。その案内図。最初は王墓の上板(石)を見に行った。けっこうでかい。ちなみに僕の両親の実家付近(長崎)の川には石橋がかかっており、ちょうどこんな感じ。調べてみたら、どうも近くに有った古墳の石を運んできて石橋にしたらしい。そう郷土史に書いてあった。今城塚古墳(継体天皇陵)付近の橋もそうだと書いて有ったなぁ。この上石の先に王墓の保存施設が2つ有り、保存の為に覆屋が造られている。甕棺(死者を入れる土器)と集団墓が保護されている。そのうちの1つの写真。上の写真は甕棺の中に死者をどのように葬ったかをホログラムで表現したものである。ホログラムなので幽霊みたいで生々しい。外に出ると真ん前に竪穴式住居が保存されている。通常よく知られている竪穴式住居は丸いのだけれども、ここのは四角い。しかも時代の経過に従い改修・建て直しをしている。通常は別の場所に建てるのに、古い建物の跡に建てている。面白い。他所の遺跡では規模が小さいので、全容を知ることは難しいが、ここは岡本山と呼ばれる山の上にあり、この須玖岡本遺跡以外にも複数の遺跡が付近に有る。たとえばすぐ下の須玖小学校付近には須玖岡本遺跡平岩地区が有るので見に行った。ここは一時調査したのだが、完全には終わっておらず途中なので柵で囲っている。このように付近には多くの遺跡があるのである。須玖岡本遺跡の想像図が有ったので載せる。吉野ヶ里遺跡よりは小さいかな?でも単独の遺跡だけではなく、近くには複数の遺跡が有ったことが分かる。つまり複数の集落が集まって、次第に大きい社会組織を形成していったんだな。奴国の形成の過程が分かる。時代が下るにつれて周囲の村を吸収して大きくなっていったんだろう。その過程では戦争も有ったのかもしれない。そして大王が生まれたのだろう。政治組織が大きくなるにつれて、王位の継承は複雑になっていったんだろう。そのうちに男の王だけでなく、女王が生まれるのは必然である。特に宗教的なものは、自然(例えば太陽)への畏れや、生と死の不思議を考えれば、必然的に王族の力の元として重要になって行っただろう。その場合、単なる筋肉に頼る男よりも、母として慕われ、御婆として経験を積み人心をあやつる女性の方が適していたのかもしれない。ところで実は大事な展示品を載せるのを忘れていたので最後に載せる。計りの権である。珍しくも無い、単なる錘ではと言う人は考えて欲しい。学者先生は、弥生時代には文字や数字は無かったと学校で教える。でも写真上部の説明には「弥生人は10進法を使っていたと権の組み合わせから分かる」とちゃんと書いている。説明板の下の方の絵は、権の組み合わせにより色々な重さが測れると言う説明である。10進法は人間の指が10本有ることからできた数値の表現方法だが、逆に言えば弥生人は数字を理解していたと言うことである。しかも「計りを使っていた」と言うことは、物々交換をしており、その交換物は種類により「価値が違っていた」と言うことである。例えば数えられるものならば、白菜1個はサツマイモ3個と言うように簡単だが、数えられない無形物で計りが必要な物も、重さと価値により交換できていたと言うことである。だったらそれは交易(大きな意味では貿易)である。交易には記録が必須である。何故なら去年はこの位で取引したから今年も同じと考えるから。つまりどんな文字なのかは分からないが、記録に文字を使っていたと言うことである。学者先生は、この計りの権をどう考えるのだろう?これを見ても「文字や数字は使っていなかった」と言うのだろうか?明日は大分の宇佐神宮に行こう。
May 18, 2024
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昨日は都府楼跡(大宰府政庁跡)について書いたところまでで終わったが、最後に、本当に大宰府は「奈良時代の日本の地方機関」だったのだろうか?奈良や京都の「日本の中心都市」よりも先にできているし、当時としてはものすごく大きい都市だし。本当はここは「日本」とは別の国の首都だったんじゃないのか?と書いて終わった。その真実?は今日の「水城跡」の調査でますます深まる。太宰府から北に少し(2km弱?)歩くと水城跡が有る。水城?なんで水の城?竜宮城?そうではない。日本書紀には天智天皇3年12月に次のように書かれている。(原文)十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸。是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。」是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。(意訳)十二月十二日、郭務惊らは帰途についた。(この郭務惊と言うのは百済と日本が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後に、 戦後処理の為に日本に兵をひきいてやってきていた占領軍の司令官で、 いわば奈良時代のマッカーサー。それが朝鮮半島に帰ったのである。)この月、淡海国から言ってきた。「坂田郡の人の小竹田史身が飼っている猪の水槽の中に、忽然と稲が実りました。それを穫り入れると、その後、日に日に富が増えました。栗太郡の人の磐城村主殷の新婦の部屋の敷居の端に、一晩のうちに稲が生え穂がついて、翌日はもう熟れて穂が垂れました。次の日の夜、さらに一つの穂が生えました。新婦が庭に出ると、二箇の鍵が天から落ちて来ました。女は拾って殷に渡し、殷はそれから金持ちになったということです」この年(天智天皇3年)、対馬、壱岐、筑紫国などに防人(さきもり)と烽(のろし台)をおいた。また、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と言う。今回見る水城はこの水城である。つまり、対馬、壱岐、筑紫国などに防人を置き、のろし台を備えると同時に、後世の城の周囲に築いたような大きな堀を造ったのである。実はここは地形的に特殊な場所で、両側から自然の丘陵が迫り、その切れ目に堀と丘を造れば、大きな防衛ラインが造れたのである。googleMapで見ると現代でも防衛ラインとしての水城がイメージできると思う。JRや高速道路が通っているのが東門と西門で、ここには関所的な門が有ったらしい。その跡が残っている。堀はさすがに今は残っていないが、土塁はちゃんと残っている。写真はパノラマ風に4枚の写真を合成しているので短く感じるが、実際の水城は相当に長く続いている。また古代にはその外側と内側に大きな堀が有り、木樋を用いて川から水を引いていたらしい。土塁の下付近からその木樋の跡が発見されている。水城の現地にはこの木樋の展示は無かったのだが、この後に行った奴国の丘歴史博物館になんと水城の木樋が展示されていた。なぜ?さて、ここで最初に書いた「謎はますます深まる」と言う話になる。この水城東門や西門が「大宰府への玄関口」だったことは確かである。それは後世の記録を見ても、例えば寛弘2年(1005年)藤原高遠が大宰大弐として赴任した際に、水城で大宰府の印と鍵を受け取っているし、天平2年に大伴旅人が帰京する際には、水城で役人たちが見送っている。しかし、通説で言うように、「水城は天智天皇が唐や新羅から大宰府を守る為に白村江の敗戦後1年でつくった」のであろうか?確かに天智天皇が造ったと言うのは正しい。日本書紀天智天皇3年に書いている。でも、そこには「大宰府を守る為に」とは書いていない。都府楼跡(大宰府政庁跡)ができたのが7世紀後半。水城ができたのが664年。太宰府よりも水城が先にできていないか?守るべき大宰府が後にできているのならば1年で頑張って造らなくても、大宰府の整備に合わせて造れば良いのでは?何故そんなに急いだのか?僕は水城は多分大宰府を守る為に造ったのではなく、別のものを守る為に造ったのだと思う。ただ、結果として、その「別のもの」が無くなってしまったので、大宰府の防護施設になったのだと思う。その「別のもの」とは斉明天皇の「朝倉橘広野宮」ではないだろうか?斉明天皇は百済から応援の依頼を受けて、御自ら九州に行幸されている。よほど九州が大事だったのだろう。普通ならば将軍を派遣して天皇は宮中で結果を待つものである。何故だろうか?その際に行宮として築かれたのが「朝倉橘広野宮」である。ただ、小競り合いならばともかく、唐や新羅と戦う為の大軍は、兵糧も必要だし、兵舎も必要である。「朝倉橘広野宮」の建設だけではすまないのである。それはどこにあったのだろうか?現在でも見つかっていない。僕は斉明天皇や天智天皇は九州の勢力と近かったのだと思うし、そのせいで天智天皇の皇子の大友皇子は吉野の勢力と近かった天武天皇と戦ったのだと思う。壬申の乱である。単なる甥と叔父の皇位継承争いだとは思えないのである。白村江の戦で大打撃を受けて勢力を失った九州の勢力から、日本の主導権を吉野の勢力が奪ったのではないだろうか?と言うかもしかすると、その当時までは九州の勢力こそが「倭国」で、近畿はその勢力下にあり、白村江の戦いに敗れたせいで力関係が逆転したのではないだろうか?旧唐書には次のように書かれている。「日本国は倭国の別種なり。その国日辺(にっぺん)に在るを以ての故に,日本を以て名となす。 あるいは曰く,倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み,改めて日本となす」「日本国は倭国の別種なり。」つまり倭国と日本は同一の国ではなく別の国だと言う認識で、何らかの理由で両国を統一した際に、倭と言う字が(小さく醜いと言う意味が有るので)倭国と言うのをやめて日本と言う国号にしたそう書いているのである。新唐書では倭国と日本がまとめられている。つまりこの段階(白村江での敗戦後)倭国と日本は一つになったと読めるのである。と言うことは筑紫の君がいた頃までは九州に王朝が有ったのではないか?(但しこの話にはもう一つ別の可能性が有る。 それは九州と近畿はやはり一つの国だったんだが、 天智天皇が唐が近畿まで攻めて来るのを防ぐ為に、 唐に対して「白村江で唐と戦った倭国と我国日本は別の国で我国は唐とは戦いません」と、 ウソをついた場合である。 その嘘が通用していた旧唐書の段階では倭国と日本国は別の国だと信じられており、 新唐書の段階ではウソがばれて修正されてしまったと言う場合である。)九州の勢力は白村江の戦いで敗れて捕虜になり唐に連れていかれたと日本書紀に書かれている。彼つまり筑紫の君の都はどこに有ったのだろうか?それが朝倉橘広野宮なのではなかろうか?つまり筑紫の君の都なので、短期間に兵糧や兵舎が準備できて、斉明天皇の行宮もできたのである。白村江の敗戦後、筑紫の君は唐に捕虜として連れていかれたが、残された家族達はその都におり、守らなければならなかったのではないかと思う。それが水城であり、だから大宰府の造営前に水城が造られたのだと思う。「水城は天智天皇が唐や新羅から大宰府を守る為に白村江の敗戦後1年でつくった」と言う通説は間違いなのだと思う。<後日追記>あと追加するならば、百済から逃げて来た人達である。彼らは何も無い所に住むと地元の住民と激しくいさかいを起すだろう。従って政府としては受け入れる為に(東北大震災や輪島の時のように)仮説住宅を造り、(下の地図の朝倉市山田からは簡易な建物の跡が見つかり建物の用途を検討しているらしい)遊ばせるわけにもいかないので、何らかの仕事を与えただろう。例えば水城の建設や大宰府の建設である。従来からいる住民にこの仕事をさせるのは、米作り等に悪影響を与えるが、百済から逃げて来た人達にやらせるならば、苦役から逃げられる地元住民も喜ぶ。一石二鳥である。また亡命百済人の仮説住宅は日本中から集められた兵士たちが使っていた兵舎が、ちょっと改装されただけで使えたかもしれない。行き場を失った百済の人達を受け入れるのは大変なことだっただろう。後日追記終わり。ちょっと「朝倉橘広野宮」の位置を調べてみたらいくつかの説が見つかった。さすがに「朝倉」なので現在の朝倉市近辺なのだが、現在の大宰府だと主張する人もいる。ただ政庁跡ではなく、付近の別のどこかなのだと思う。色々な人の主張する場所は下の通り。図の中の朝倉市の須川、山田及び杷木と大宰府が候補地である。ここで重要なのは、水城東門がかっては「日田道」が通っていたと言う事実である。日田道は朝倉に続き、筑後川沿いである。筑後川は有明海にそそぎ、吉野ヶ里や熊本につながる。つまり交通の拠点で、道路の無い古代にあっては川による水運は重要な運搬手段。この辺に大きな都市ができても不思議はない。なおかつ日田を経由して宇佐八幡宮に通じ、瀬戸内海を経由して大阪や京都・奈良に通じる。朝倉って古代は重要な場所だったのかも?図中に「筑紫の東にある秦王国」と言うのは日田から中津や宇佐の豊前・豊後地区である。大分県の豊前・豊後地区は秦氏姓が異常に多く、古来から渡来人の子孫だと言われてきた。また日田市のダンワラ遺跡で出土した国宝の「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」は鉄鏡で、魏の曹操の墓から出土した鉄鏡と同じであると言われており、もしかしたら中国から渡って来た渡来人の持って来た鏡では?と思うからである。三角縁神獣鏡のような銅鏡とは違い、鉄の融解温度は1536度と高く当時の倭の技術では無理。刀のような簡単な形状ならば鉄片を活用して少し低い温度でも作れるが、「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」のような複雑な形状で、象嵌を施すのは到底無理である。中国本土でも限られた技術者にしかできなかった鏡だと思う。明日は水城より北の「奴國」が有ったと思われる須玖岡本遺跡に行く。
May 18, 2024
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お袋の7回忌をする為にはるばる長崎まで弟と行くことにした。両親とも亡くなったので実家はもう売ってしまい、親戚も父方は父が末弟なので全て鬼籍に入っており、母方は長寿系の一族なのでみんな生きているが90歳に近く、末妹の叔母と次男の嫁さんが来てくれた。次男の嫁さんは92歳なのに元気で助かる。例によって、せっかく長崎まで来たので、あちこち回って歴史の真実を探ることにした。一日目は法事なので長崎市に宿泊したが、近くで面白いものを発見した。長崎防衛支局の入口にヘリコプターが有った。何で?このヘリコプターはOH-6Jと言い、ちょっと小型で古いが使いやすい機種。説明文を読むと、1990年11月から1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動雲仙普賢岳の際に活躍したヘリらしい。もう34年もたつんだなぁ。多くの人はもう忘れているかもしれないけれど、大勢の方が亡くなり、島原など周辺はその後も大変だった。雲仙は何回も爆発して、江戸時代寛政4年(1792年)の爆発では1万5千人も亡くなったらしい。地震だけではなく、あらゆる災害に対して準備と対策が必要だと思う。よく自衛隊不要論を言う人がいるけれど、そう言う時は人員及び機材が必要で、自衛隊はとても役に立つので絶対に必要だと思う。アレルギーが強い人の為に、名前を「災害救助予備隊」とかに変更したら良いのかも?翌日、西九州新幹線で福岡県の二日市に向かう。お金を安くするにはバスが良いのだけれども、今回はあちこち回るので時間が大事。なので奮発して新幹線を使った。二日市には大宰府が有る。目的は大宰府参りではなく、都府楼跡なんだけれども一応お参りはしていく。参道は修学旅行?の女子高生でいっぱいだったのでうれしかった。そこでちょっと珍しい「スタバ」を発見した。えー!何これ?スタバが芸術的。組木細工の入口になっている。さすが太宰府だと少し感心した。本宮の方に進んでいくと御神牛がおいでになる。牛は道真公と縁が深く、天神様のお使いなんだそうである。これが外国人観光客に大人気だった。福岡は韓国や中国に近いのでかの国の旅行客が多い。下の写真はこの御神牛様の左手から進んだ先の楼門の隋臣像。お雛様の隋臣と同様に、若い隋臣と老人の隋臣がセットになっている。この隋臣が居る楼門が面白い。入る方(太鼓橋側)から見ると屋根が2層になっており、帰りは(本殿側)から見ると屋根が1層になっている。言われないと気がつかないけれども、気がつくと面白い。この手の込んだ楼門の設計は、近代神社建築の重鎮である安藤時蔵によるものだそうだ。楼門から中に入ると本殿があるのだが、今は令和9年の菅原道真公1125年式年大祭に向けて改修中で仮宮が設けて有った。仮宮なのに、通常の神社の何倍も立派。さすがは大宰府天満宮。屋根の上に自然の山があるみたい。え?もしかして古墳?帰りに右手を見ていたら絵馬堂が有り、前でオジサンが芸をやっていた。この絵馬堂は文化10年(1813)、奥村玉蘭の発願によって建てられたもの。九州に現存する最大最古の絵馬堂。様々な時代の人々の願いが込められた絵馬がご奉納されています。でかい絵馬!鳥居を出た所の社務所裏に浮殿が有った。今は水は張っていないが、水を張った際に水面にその影が映る建物を浮殿と呼ぶ。建物の中を覗くと、写真右上の面白いモニュメントが有った。芸術的。今風。さてここを出ると、いよいよ目的地の都府楼跡へ向かう。途中に戒壇院がある。まぁ、現代で言えば佛教大学だな。次は学校院跡。学校と行っても今の大学とは違い、政府の役人養成所だったのらしい。そう言えば今だって、政府各機関は専門の学校と言うか養成機関をもっているな。建設大学校とか税務大学校とか防衛大学校とか。あれと同じだな。今も昔も偉くなるのは日々勉強が必要だったんだなと思う。学校院の次は官衙の跡。簡単に言えば古代九州の霞ヶ関。うん?官衙跡?政庁跡とは違うのか?つまり都府楼跡(政庁跡)には大宰帥がおられて、今で言えば皇居と同じで、下級機関(実務を司る機関)がここに有ったんだな。だって政庁跡とすぐそばだから。今の皇居と霞ヶ関の関係と同じだ。そしていよいよ都府楼跡(大宰府政庁跡)に着く。広い。ここは大宰府の南側の政庁部分の南門だけなので、都としてはこの南にさらに伸びていた。ジオラマで言えば、中央の大きな道(朱雀大路)の奥の突き当りがこの「南門」である。つまり写真の数十倍の広さがあったのである。造られたのは7世紀後半。その後も大きく造りかえられて、都合3回と言うか3期造りかえられた跡が発掘調査で分かっている。663年10月に韓国の白村江の戦いで日本が敗北して、その後に造られたらしい。都府楼跡の右手には「大宰府展示館」が有る。上のジオラマや写真はここに有る。そして南門正面からは分かりづらかった政庁跡の奥行きはこの展示館脇から見られる。やっぱり広いよ。官衙跡よりもずーっと大きい。太宰府が大きいと思っていたら、条坊制について考えさせられる展示が有った。条坊制(じょうぼうせい)とは、中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランであり、日本では藤原京が最初である。ほとんどが京都や奈良で、藤原京・平城京・長岡京・平安京がそうだが、地方には大宰府と多賀城にしか無い。展示を見ていてふと気がついて、あれ?っと思ってしまった。確かに大宰府は大きさでは平城京には及ばないが、平城京よりも先にできているじゃん?じゃぁ太宰府よりも前に有ったはずの藤原京はどうなっているの?調べてみた。藤原京は天武天皇の時代に造り始められたらしいが、その前の飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷したのは694年らしい。えー!大宰府の方が先に造られたのでは?日本で最初の条坊制の都市は藤原京じゃないの?なんで日本の首都である奈良の藤原京の方が後からできたの?しかも藤原京は上の写真の唐の長安城や平城京及び大宰府とは違い、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配しているらしい。えー!形が変じゃん!どうも天武天皇が唐に対抗して、長安城とは違う形にしたかったらしい。うーんなんか変だな?本当に大宰府は「奈良時代の日本の地方機関」だったのだろうか?奈良や京都の「日本の中心都市」よりも先にできているし、当時としてはものすごく大きい都市だし。本当はここは「日本」とは別の国の首都だったんじゃないのか?実はこれが今回の旅行の最大の秘密なんである。それは次の訪問地「水城」に続く。明日書く。
May 17, 2024
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邪馬台国=宮崎県小林市論を考える僕は、同時に卑弥呼=天照大御神論でもあるので、魏志倭人伝と古事記・日本書紀を比べてみている所である。そして今日、面白いことを見つけた。八咫鏡って鉄鏡じゃん!それは古事記の次の記述を見れば分かる。天岩戸の部分である。(原文)故於是天照大御神見畏開天石屋戶而刺許母理坐也爾高天原皆暗葦原中國悉闇因此而常夜往於是萬神之聲者狹蠅那須滿萬妖悉發是以八百萬神於天安之河原神集集而高御產巢日神之子思金神令思(意訳)(この前に素戔嗚命が高天原を去るに際して天照大御神に挨拶に来たのは良いが、大暴れして、 忌服屋=天照大御神の機織り屋に天斑馬の皮をはいで投げ込み、 そこに居た機織り女が亡くなると言う出来事がある。)天照大御神はその出来事を見て恐れ、天石屋の戸を開き立てこもってしまいました。天照大御神が岩屋に閉じこもってしまったので高天原は皆暗くなり、葦原中国はすみずみまで暗くなり、常夜になってしまいました。そこで(不安になった)万の神の声がざわめき満ち、たくさんの妖気があちこちに発せられました。そこで、(これは大変だと)八百万の神は天安河の河原に、みんなで寄せ集まり、その中で高御産巢日神の子である思金神に考えていただきました。(原文)集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵←ここに「鉄」と書いている!而求鍛人天津麻羅而科伊斯許命賣度理令作鏡科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而召天兒屋命布刀玉而內拔天香山之眞男鹿之肩拔而(意訳)思金神は常世長鳴鳥を集めて鳴かせ、天安河の川上の天堅石(天上にある硬い石)を採ってきて、天金山(天上の金山)から鉄を採取して、鍛冶をしていただくために天津麻羅の神(鍛冶の神)を探してきて鋳造させ、石凝姥命に担当させて八咫鏡を作らせ、玉祖命に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(八尺瓊勾玉)を作らせました。また、天児屋命·太 玉 命を呼んで、天香山の真男鹿(牡鹿)の肩甲骨を取り、天香山の波波迦(ウワミズザクラ)を取り、占いをする準備をはじめました。(昔は亀の甲羅や動物の骨を焼いて占いをしていました。)上の原文に赤く書いてしまいましたが、はっきりと「天金山の鉄」で「伊斯許命賣」が「鏡」を造ったと書いてあります。つまり「八咫鏡」は「鉄鏡」だったのです。ここで気がつくのは大分県の日田のダンワラ遺跡から出た、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)=国重要文化財です。これについては過去のブログで概要を描きましたが、邪馬台国はどこにあったか(その16)日本で鉄鏡が出土するのは珍しく、また中国の先生は魏の曹操の墓から出土した鏡と同じ?だと言っています。もう卑弥呼の鏡の匂いがぷんぷんなのですが、学者先生は認めていません。学者先生の推す三角縁神獣鏡なんて、本当に魏志倭人伝にある鏡ならば百枚しかないのに、既に600枚以上も見つかっているし、学者先生が卑弥呼の鏡だと主張するきっかけになった黒塚古墳でも33枚も見つかり、全然貴重な鏡には見えません。黒塚古墳では枕元には画文帯神獣鏡が見つかり、三角縁神獣鏡はあたりにばらまかれ、誰が見ても画文帯神獣鏡の方が大事にされているのに、なんで三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡?と思うのですが、先生方の理論は分かりません。ちなみに金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はこんな感じです。対する三角縁神獣鏡はこんな感じです。とてもじゃないけれど、勝負になるとは思えない。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡をダイヤモンドとすると、これは屋台のネックレスレベルだと思う。つまり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡とは思えないレベルなんだと思う。卑弥呼=天照大御神ではないとしても、天照大御神の時代にすでに鉄鏡が有ったのならば、卑弥呼の時代にも当然鉄鏡は有るし、そして金銀錯嵌珠龍文鉄鏡のように立派だったのならば、鉄鏡を選ぶのが普通だと思う。学者先生はなぜ変な所にこだわるのだろう?不思議だ。何か理由が有るのだろうか?学者先生達の最大の欠点は自分達の専門分野以外のことを勉強しないと言うことである。恐らく学者先生達にとっては鉄鏡は滅多に発見されないことから研究の対象外だったのだと思う。なので、古事記に「鉄鏡」と書かれていることは知ってはいたが、「神話だから」と無視していたのだろう。では何故鉄鏡は発見例が少なく銅鏡は発見例が多いのだろうか?それは多くの人が知っているように「さび」のせいである。多くの金属は2種類の錆を察生する。被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびと、そうでない錆である。銅では被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびとして「緑青」が有名である。なので銅は自然状態でも緑青の発生により内部まで錆が進行しづらい。なので銅鏡は比較的長期間残る。では鉄鏡ではそう言うことは起こらないのであろうか?鉄にも「黒錆」と言うのが有り、これは被膜化して内部への錆の浸食を防ぐさびである。但し自然状態では発生しない。相当に高い温度、数百度の熱により発生する。「南部鉄びんの黒皮」がそうである。なので普通は黒錆は発生せず、鉄は錆びて自然に帰る。なので鉄鏡は滅多に発見されないのである。自然科学を勉強しているならば誰でも分かることである。ただ、この鉄鏡の発見に関しては少し特殊だったかもしれないので、あまり先生方を責めるのは良くないかもしれない。この鉄鏡が発見された「ダンワラ遺跡」は大分県日田市に有り、隋書に書かれた「筑紫の東に秦王国有り」と言われる地に比定される場所である。その事には色々な説が有るので確定ができないが、鉄鏡が千数百年にわたって保存できたのには訳があり、こちらは学術的に証明できる。ダンワラ古墳はアカホヤと呼ばれる、水はけの良い火山灰の上に作られており、この火山灰は特殊なガラス質で、これが保存に役立っていたらしいのである。(誤解を恐れずに簡単に表現すれば)ガラス瓶に密閉されたような状態だったのである。だからかなり特別だったのであろう。もしかすると魏からもらった卑弥呼の鏡は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」以外に残っていないのかも?だから学者先生にはもっと勉強して欲しい。地位にあぐらをかいて欲しくない。例えば、何故朝鮮から渡って来た船は「末蘆国」で上陸して陸行するのか?末蘆国などに寄らずに、そのまま伊都国に行けば良いのでは?こんな簡単な問題にまともに答えられる学者先生がいない。僕は過去のブログで書いているので参考に。邪馬台国はどこにあったか(その18)中ほどに写真を載せているように「海王丸」程度の小舟でさえも砂浜では着岸が難しい。潮の満ち引きまで考慮すると、洗掘により常に削られる波打ち際では港は造れない。日本では鎌倉時代位まで人工の港は恒久的には造れなかった。(一時的には可能)そのよい例が北条泰時の造った「和賀江島」で、泰時は何としても貿易港を造りたかったのだが、あまり役には立たず、結局は伊豆や三浦半島(例えば横浜の六浦)に頼っている。海水に浸かっても大丈夫な木材ならば「材木座」でも陸揚げできたが、貿易品では到底無理なので自然の良港が作りやすい呼子(末蘆国)で上陸したのである。学者先生の邪馬台国論争は机上の議論なので、この手の議論は見たことが無い。と言うか過去の学者は「倭人が乗る舟」と「中国の使者が乗ってくる船」の違いが、まったく議論されずに今に至っている。角川の「野生号」や大阪市の「なみはや号」である。両者は日本で発見された舟の絵や埴輪の舟を参考に「現代技術で作られた」。現代の技術で作られても対馬海峡を渡れなかった。韓国には届いていない。対して三国志の「赤壁の戦い」に出てくる船は比べられないほど大きい。中国の使者は倭国に来る時に「命がけの航海」はしない。逆にそのような大きな船は砂浜には着岸できない。でも学者先生は自然科学が分からないので議論できない。同様なのが「纏向は3世紀半ばの遺跡なので邪馬台国の都である」と言う理論である。学者先生には「集合と写像」について勉強して欲しい。高校で習う簡単な理論である。卑弥呼は3世紀半ば頃に居たので、邪馬台国の都は3世紀半ば頃に有ったはずである。これは正しい。しかし、その逆命題である、だから3世紀半ばの遺跡は邪馬台国の都である。これは間違いである。よく「3世紀半ばの都だとしても、何故他の国の都ではいけないのか?」これに答えられないのは論理的に間違っているからである。「集合と写像」を勉強すればすぐに答えが分かる。3世紀半ばの都市で邪馬台国の都だと言えるのは「邪馬台国以外に国が無い時」だけである。でも邪馬台国は狗奴国相手に苦戦している。つまり邪馬台国以外に狗奴国も有る。つまり論理的に誤っているのである。学者先生は自分達の専門外の勉強もするべきだと思う。
May 13, 2024
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本当はわの会のイベントではないのだけれども、概ね活動範囲が重なっているし、わの会で行くお寺や神社の御先祖的な古墳なのでここに書きます。せっかくの天気が良い連休にどこも行かないのはもったいないので、以前、まだ未整備な時に遊びに行った逗子の長柄桜山古墳に行くことにしました。前回行った際の記事はこちら。ヤマトタケルゆかりの古墳へ行って来ました。この当時は本当に未整備で何も無かったんだけれども、平成14年に国の史跡になって10年して、やっと1号墳だけ整備され、4月20日にオープン!でも2号墳はまだ未調査。でもこれは仕方のないことで、逗子市は予算が少なく、古墳等の文化的な用途よりも生活関連の支出に力を注がざるをえない。なので、多少不満が有るのは仕方ないが、将来の楽しみにとっておこう。現地は比較的交通の便がよく、日帰りが十分に可能で子供でも行ける。付近の地図とルートを載せる。前回は5年前で、僕もまだ会社に毎日片道2時間、往復4時間かけて通勤していた時代なので、上の図の「体力自慢コース」を選んだ。これは京浜急行の逗子・葉山駅がまだ新逗子駅だった時代で、南口から1時間強歩いた。と言うか、まぁ高さが120m程度なのでたいしたことは無いけれど「登った」でも道が悪くて狭いし、防御設備が何もないので滑ったら大事故になるので、とてもではないがお奨めしない。今回は年寄りらしく、バスに乗った。始発はJR逗子駅で、1時間に約2本有るのでバスの利用をお勧めする。上の地図の「普通の人コース」である。頂上近くまでバスで行ける。葉桜バス停から普通の人コースを3叉路まで行くと、ここから急な上り坂になる。三叉路付近の写真。普通の人コースならば子供でも大丈夫。少し登ると1号墳が見える。前回来た時にはシートがかけて有って何も無かったが、今回は植栽も有り円墳部は3段になっている。ちゃんと調査したんだなぁ。下には過去の経緯を書いた説明板が有る。この後にも同じような説明板を載せるので、ちょっと繰り返しになるのだけれども、この説明板が大事なのは過去の経緯を載せているからである。古墳そのものの説明よりも発見された経緯が面白い。と言うか僕にはうれしい。そう、地元の東家洋之助さんが「埴輪を発見した」のが発端である。後から埴輪の説明は載せるが、要は昔から古墳らしいと言うことは分かっていたんだけれども、「証拠が無くて」認めてもらえなかった。それが埴輪と言う物的証拠が見つかって、行政も対応せざるを得なくなったと言うことである。僕も金沢区内にいくつか「古墳らしき場所」を見つけているのだけれども、なんせ土地の所有権や立入禁止などの規制が有って確かめることができず、またそのせいで証拠が見つからないので、認めてもらえない。行政とはそう言うものである。そして壊されて初めて認められる。例えば下の写真(等高線図)の左側の山である。写真1,写真2と書いているあたりは、自然の地形がこんなに整っているはずが無い。絶対に人工的に加工された地形だと思う。でも許可なく掘り返すわけにはいかないし、横浜市の教育委員会に話に行っても、聞いてももらえない。教育委員会も仕事が多くて対応できないと言うことなのである。ヒマそうに見えるけれど。なので、アマチュアが発見したこの古墳は元気が出るのである。1号墳の円墳部の頂上に登ってみた。ここは整備後は頂上にも登れるようになっている。写真右手の2人が見ているのが埴輪と埋葬施設の説明板である。三浦半島の古墳は円墳部頂上に埋葬施設が有る場合が多く、木棺が埋まっている場合が多い。ここの円墳部には周囲を囲むように円筒埴輪が有ったらしく、出土した埴輪の内の1つは復元されている。上の写真の奥の左手に有るのがそう。拡大した写真を載せる。埴輪の説明文も載せる。頂上の写真にはこの円筒埴輪を「特殊器台」と書いているのには訳が有る。僕はこの復元された円筒埴輪は、ちょっと違うのではないかと思っている。何故なら上の説明板の円筒埴輪の写真を見て欲しい。朝顔(ラッパ状に開いた部分)が無い。なのでこれは「特殊器台」だと思うのである。特殊器台はこの古墳の時代つまり古墳時代初期の古墳から多く出土するもので、上に土器を載せる為の台である。実は下の写真の1号墳の説明板にも、この特殊器台以外に「高杯や孔の開いた壺」も出ていると書いている。つまりこの特殊器台は単独で使われたのではなく、上に乗せる土器も出ているのである。だから、こんな風に朝顔状にはなっていなかったのではないかと思う。近畿地方、特に吉備付近で発生した埴輪は近畿の古墳でも採用されて日本中に広がるが、その元になった吉備地方の埴輪について上手く説明した写真が有るので載せる。これを見ると僕の主張が分かってもらえると思う。弥生時代には装飾器台の上に土器(装飾壺)を乗せていたものが、古墳時代に入ると器台が大きくなって特殊器台となり、最終的には特殊器台と壺が融合して埴輪に発展するのである。しかし、ここで出土した円筒埴輪は上の朝顔部分が無く、土器が同時に出土している。従って、ここの円筒埴輪は真ん中の時代の物だと分かるのである。なので、間違っているのだと思うのだけれども、埴輪を復元したのが学者ではなく行政の方であれば仕方ないと思う。学者ならば怒られてしかるべきだと思う。さて1号墳の円墳部頂上から方墳部へ下ってみる。この古墳は初期の物なので円墳部が方墳部よりもだいぶ高い。僕が古墳だと思っている富岡八幡宮の裏山の時代には円墳部と方墳部はほぼ同じ高さになる。綺麗に整備されている。ただ綺麗になりすぎて、ここが祭祀の場であったと言う可能性が分かりづらくなっている。そう、円墳部に埋葬施設が有り、その周囲を円筒埴輪が囲んでいるのだから、葬送の儀式はこの方墳部に至る場所で行われていたはずなのである。そのせいで古墳は単なる円墳から「前方後円墳」に発展したと考えられている。後から行く2号墳はちょっと後の時代の古墳なので、1号墳よりも方墳部が大きい。ちゃんと方墳部も役割が有ったのである。その辺も説明板に書いて欲しかったなぁ。<後日追記>僕は前方後円墳は大和王権の発展(地方への広がり)に伴う、各地域の首領の世襲の為の「前王の葬送」と「目に見える権威の世襲」の儀式の場だと思う。それを過去にブログに書いた。前方後円墳とは何か?秦の始皇帝が行ったと言う封禅(新しい皇帝がたち、治世が始まることを天に報告する儀式)や中国の「天円地方(天は北極星を中心に円を描き、地は四神=青龍・白虎・玄武・朱雀が守る)」と言う思想が具現化したものだと思っている。しかもそれは古墳時代が終わっても無くなった訳ではなく、形を変えて残ったのだとも思う。キトラ古墳の中の壁画などが良い例である。天井には北極星を中心とした「天文図」が描かれ、四方には方位に従って四神が描かれており、天井の丸い天文図を前に倒せば、四方の四神と併せて前方後円墳になる。だから、古墳時代前期には細くて小さかった方墳部が、「目に見える権威の世襲」を示す場として高く大きくなっていったんだと思う。1号墳を見終わるとちょっと下り気味に2号墳に向かう。元気な人コースと書いた蘆花記念公園からのコースはずーと上り坂なので、バスに乗ってくる普通の人コースで来て良かったなとつくづく思う。2号墳はまだ未調査で整備はされていない。この写真だけを見ると小さいなと思うかもしれないが、1号墳がそうであったように、古墳は何段かの段が重なった構造になっている。この写真は一番上の段だけなので小さいのである。1号墳と2号墳の両者が載った説明板が有ったので載せる。規模的にはほとんど同じか、むしろ2号墳が大きい。1号墳は円墳部に対して方墳部が細く、古墳時代前期のものだと思う。説明板では4世紀後半になっている。これに対して2号墳は右上の図を見ると方墳部がかなり太い(緑色部分横幅が大きい。)なので数世代後の古墳だと思われる。ただ、まだ未調査なので結論は出せない。2号墳下の方の広場からは江の島や伊豆そして富士山が見える。富士山がうっすらとしか写っていないが、秋なんかだと奇麗に見えると思う。なんか俳句や和歌が詠めそう。ここから下って行くのだけれども、途中に面白い所が有った。これって3号墳では?まぁでも逗子市は予算が少ないから、僕が「宝くじが当たったら」寄付して調査しよう。でも今は無理だなぁ。さらに下って平地に出ると蘆花記念公園が有る。前回来た時よりもだいぶ綺麗になっている。5年もたつからなぁ。蘆花記念公園の説明板ができていましたので載せます。ここを出ると田越川に出るのだが、なんとボード初心者がたくさん練習していた。ここの辺は波も無いし、初心者でも安全だから練習場になっているのだろう。ここから京浜急行の逗子葉山駅に向かう途中に六代御前の墓が有る。入口に六代御前最後の故址の碑が有る。墓まで行ってみようかと思ったけれども、山歩きで疲れたので諦めた。六代御前とは、平高清(1173年-1199年)のことです。父は平維盛。平清盛の曾孫にあたります。六代という名は高清の童名であり、平氏繁栄の基盤をつくった平正盛から数えて六代目です。平家滅亡後の文治元年(1185年)、菖蒲谷に潜んでいたところを北条時政によって捕縛され、殺害されるところでしたが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚(もんがく)が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文覚に預けられて出家し妙覚と名乗りました。その後、将軍頼家に斬首に処せられ、斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池周辺と言われ、この墓は江戸時代に六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る、水戸藩士斎田三左衛門尉平典盛によって建てられた供養塚です。六代御前の墓を過ぎると京浜急行逗子葉山駅に着きます。その北口付近に、三浦為義遺弧碑が有ります。説明板にも有りますが、まだ10歳にも満たない子供達を切り殺すなんて北条氏は怖いですね。この碑は駅のすぐそばなので、行きのバスの待ち時間や帰りの電車の待ち時間の調整によく、ちょっと見に行くと良いと思います。
May 7, 2024
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5月2日は横須賀の三浦海岸駅付近の和田義盛の伝承の残る地域をわの会で廻った。ルートはこんな感じ。三浦海岸駅に集合して、来福寺まで歩いた。来福寺は道からはずれて、田んぼの中に有り、静かな所。一人で来たら見つからなかったかも?写真の左側の方に門が有る。説明板に書いてあるように開基は和田義盛で、元は鎌倉名越に建立された。建保5年(1217年)にここ和田の地に移転して、和田の乱で敗れた義盛を供養する菩提寺になった。元は天台宗だったが鎌倉光明寺の末となり江戸時代初期に浄土宗の寺となった。下にガイドさんが見せてくれた古い時代の寺の写真を載せるが、確かに藁葺きの屋根であり、禅宗の寺の雰囲気は無く、地域のお百姓さん達の寺の雰囲気。本堂には義盛の位牌と、義盛自身がノミを入れたと伝わる義盛公の木像が有る。来福寺の裏側に抜けて、田畑の中を進んで日枝神社に向かう。ここは塔の台とも呼ばれ、義盛が信仰する行基作の地蔵尊を祀る地蔵堂が有った所らしい。後に承久の乱から生き延びて帰った孫の朝盛が家来と共にこの地に逃れ、高円坊と名乗り、一族の菩提を弔い、田畑を開墾して余生を送った所だそうだ。高円坊の地名はこれに由来すると言われ、前の畑の中には朝盛の碑が有る。この後、五劫寺跡に向かうが既に廃寺となっており、写真には撮れなかった。残念。近くの庚申塔群に寄った。うーん。良く分からない。下に「見猿・言わ猿・聞か猿」の三猿が彫られているので康申搭だと思うのだけれども、碑には「猿田彦大神」と書いている。確かに猿と言う共通点は有るのだが、庚申と言うのは中国の伝説で日本の神様猿田彦は関係ない。本当に宗教と言うのはいい加減なものばかりだなと思う。ここが寺の跡ならば神仏混淆と言う話も有るので、話は分かるのだが五劫寺跡からは離れている。何なんだろう?よく分からなかったけれども、仕方ないので先に進む。ワクリ井戸に到着。田んぼの中のクリークの脇にある。説明板を読もう。こうしてみると和田義盛と言うのは武士なんだけれどもお百姓さんの味方だったんだな。だから北条義時や三浦義村とは話が合わなかったんだ。僕的には和田義盛の方が好感が持てるな。素朴で良い人な感じがする。ここからが問題だった。次の目的地の神明白旗神社に行くには大回りして通常の道を行くか、畑を突っ切るかだが、ガイドさんは畑を突っ切る道を選択した。これが大変だった。なんせクリークの横の道なので雑草がいっぱい。足元はぬかるんで滑る。女性もお年寄りも大勢おられるので、ちょっとまずかったかな?ただ僕的にはラッキーだった。途中で「古墳らしき山」を見つけたから。いや本当は古墳じゃないのかもしれないけれども、夢があるのでOK!最近になって分かってきたのだけれども、山の上に造られた古墳には特徴がある。周囲より少し高くなった円墳部(と思われる部分)には必ず木が植えられている。しかも周囲には木が無い。つまり自然に生えた木ではない。もしかすると「盗掘」防止用に木を植えたのではないだろうか?木が無いと墓荒らしが堀返すだろうけれども、木が有れば大変な作業になり諦めるだろう。違うかな?まぁ違うかもしれないけれども、想像するのが楽しい。大変なクリーク脇の小径を歩いて、まあ何とか神明白旗神社に到着した。この神社は不思議な神社で、もしかすると(もう忘れられてしまっているけれども)古い時代には大事な神社だったのかも?それは屋根に「鰹木」と「千木」が有るから。八幡社等の普通の神社にはこの2つは無い。いわゆる「大社」や「神宮」等の古くから有る神社や大きな神社にしかない特徴である。奈良時代位までに建てられた神社には有ったのだが、平安時代以降には造られなくなる。江戸時代初期に復古意識の高まりから一時期つくられたが、八幡社等は作られなかった。なので、ここは何らかのいわれが有るのだと思う。しかもそれは白旗神社ではない方。白旗神社は源氏特に義経を祀った神社だから新しい。参考までに神奈川県内の有名な「白旗神社」三つの写真を載せる。鎌倉の「元祖?白幡神社」にはさすがに「千木」が有る。でも「鰹木」はない。藤沢と戸塚の白旗神社は新しいのでどちらも無い。白旗神社に合祀される前の神明社に何かいわれがあるのではないだろうか?この後天養院に向かうが、またここで道に迷って、険しい細い坂道を登った。ガイドさんのリーダーは大回りして登って来ていたが、到着時間は一緒だった。天養院はこんな感じ。ここも何故か浄土宗のお寺である。僕等の頭には「武士の宗教=禅宗」と言う感覚が有るが、和田義盛はお百姓さんの味方だったのか、三浦半島は浄土宗や浄土真宗の寺が多い。義盛は良い人だったんだな。天養院の説明板と薬師如来像の説明板を載せる。上の説明板に書かれているように、ここには行基作と伝えられる薬師如来像が有る。この薬師如来像は義盛の持仏であり、和田合戦の際に義盛の身代わりになって顔(右目)から胸・腹まで切られた傷跡がある。伝説では血まで流れたそうである。伝説が本当かどうかは分からないが確かに薬師如来像には傷跡がついている。また、この脇には義盛の位牌が有り、位牌の後ろには義盛の像が有る。ちょっと写真の撮り方が下手で、義盛の像は隠れて見えない。残念。天養院を出て、バス通りに出て南下すると安楽寺に着く。ここには和田義盛の碑が有る。和田義盛の碑の説明板を拡大するとこんな感じ。やっぱり地元の人は和田義盛が好きなんだな。鎌倉の色々な碑には北条氏に好意的な書き方が多いが、ここの書き方は「北条義時の挑発と策謀にのり」と書かれている。義時は悪者である。義盛は「悲運の最期」と書かれている。地元って良いな。この後、この安楽寺で解散したのだけれども、僕は元気が余っていたので、みんなとは別れて和田城址に向かった。ガイドさんは、ここには既に何も残っていないので、ここの見学は省略したと思うのだけれど、ここに来て分かったのは、鎌倉時代の「城」はほぼ「館程度」で、戦争の為のものと言うよりは村役場的な感じだったんだなと分かった。周囲を見たら分かる。一面の畑で、戦場には似ても似つかない。鎌倉とは違う。鎌倉に居る時には「武士としての和田義盛」だったんだけれども、ここに居る時には「みんなの和田義盛」だったんだな。そして和田の地の見学は終わってバスに乗って帰ろうとしたが、失敗&ラッキーなバスだった。失敗は寝過ごし本来降りるべき京浜急行の横須賀中央駅を通過しJR横須賀駅まで行ったこと。ラッキーなのは、そこにヴェルニー公園が有ったことである。ヴェルニー公園には戦艦陸奥の主砲が置いて有る。大事なのは、この「主砲弾の説明」である。普通の人は大砲の玉は、その硬さと重さで相手の鋼板を貫いて破壊すると思っているだろう。でも、それが違うと言うことがこの説明板で分かる。硬さと重さで相手の鋼板を貫くのならば、上部甲板を狙うものである。でもこの砲弾は船腹を狙い、貫いた後に遅延信管が作動して内部で爆発するのである。つまり魚雷と同じ原理である。これならば破壊力は硬さと重さで相手の鋼板を貫く数倍大きい。これを見られて良かった!もう一つ良いものを見られた。米軍のドライドックである。たまたまだけど、米軍の駆逐艦?(違うかも?でもその位の大きさ)と通常型潜水艦が2隻いた。そして、反対側にはイージス艦がいた。バスで寝過ごして良かったなぁ!
May 6, 2024
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連休中はヒマだったので、パソコンを買って修理して遊ぶことにした。でも、もちろん僕のお小遣いの範囲の中なので「ジャンクパソコン」である。運が良かったのか抜群に安いパソコンを落札できた。送料込みで1400円。通常送料は梱包込みで1400円はするので、実質0円である。送料込み1400円、実質0円なので古いパソコンかと思ったら結構新しい。ネットで調べると、今でも売られている現役のノートパソコンである。CPUはCeleron6305つまりTigerLAKEで第11世代である。今、ネットでたくさん出回っているのが第8世代。リース開けのパソコンが出回っているのであるが、それよりはずいぶん新しい。ただCeleronなので低く見られがち。でもさすがに世代が新しいと4~5世代前のCOREi3と変わらない性能である。ネットで探したベンチマークを載せる。メーカーの営業上の話も有るので、情報元によって違いはあるが、概ねこんな感じ。つまりちょっと前の20万円のパソコンには負けない。ただ、さすがにジャンクなのでもう一つ大きな欠点が有った。液晶モニター部分が割れている。でも僕は液晶パネルの交換は得意なので、さっそく分解してみた。えぇー!何この液晶パネル!そう、メーカーが売り文句として「通常より横幅が狭い」のを売りにしているので、通常の液晶パネルが使えないのだ。裏側を見るとよく分かる。幅をかせぐ為にヒンジ(液晶部分を支える金具)と液晶パネルが両面テープで一体化している。なんとか両面テープをはがしたが、液晶パネルそのものが特殊で幅が狭い。これはダメだと諦めかけたが、せっかくの新しいパソコンがもったいない。そこで、ふと思いついた。15.6inchは幅が狭くて無理だけど、14inchや13.3inchならば狭くても大丈夫なのでは?さっそくジャンク箱を探してみたら13.3inchが有った。本当は14ibchが良いと思うのだが、「実質0円」にお金はかけられない。なので13.3inchで修理することにした。結果がこれ。「額縁」が広いと思えば何の問題も無い。ただ解像度は元が1920X1080なのに対して1366X768つまり面積にして半分。でもタダで修理するのだから、その位は我慢。さっそくWindows11を導入した。元々128GBのSSDが付いていた(これもジャンクとして売られていた理由で工夫が必要だった)ので、そこそこ速い。と言うか6年前のパソコンくらいからSSDが標準になり、劇的に速くなっている。CPUの性能よりもSSDに変える方が、体感速度は圧倒的に速くなるので、十分に使えるパソコンになった。連休はヒマだけど、頑張れば遊べるなぁ。
May 3, 2024
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