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倭國のことを考える時に、日本だけではなく中国(魏だけではなく漢や秦を含む)や韓国(特に三国期)のことを知らないと何も分からず、独断と偏見でストーリーを作ってしまいそうな気がして、中国や韓国の本を読み始めた。韓国アレルギーのある日本人や、日本アレルギーのある韓国人はたくさんいて、そのせいで事実関係が滅茶滅茶になっている感じがあるが、日本でも中国でもあるいは韓国でも「史書」とされるものは、他国で読まれることを意識しており、その結果複数の国の史書と比較されるので、史書と呼ばれる本は比較的信頼性が有る。特に「1国対複数国」の比較ではウソを書いてもすぐにばれるので信頼がおける。1国対1国の場合はお互いにゆずらないと思うので、どちらが正しいかは分かりにくいが、韓国の三国史記を読んで(まだ途中だけど)、変だなと思う所もあるけれど、なるほどと思う所も結構ある。なのでこれを使って調べると、日本のいわゆる「空白の4世紀」もある程度わかってくるのではないかと思う。例えば三国史記では、第4代目の新羅王は「倭人」であると書いている。ものすごい事だと思う。自国の王が他国から来た人間だとは普通は書けない。下手をすると本を焼かれる。でもしっかりと書いてある。巻1新羅本紀四に、第4代新羅王として「脱解尼師今(トヘニサコム)」のことが書かれている。西暦57年に62歳で即位しているが、元々は「多婆那國」の出身で、この国は倭国の東北千里の所に有ると書かれている。これをしっかりと読み解けば当時の日本のことが分かるはずである。但し、三国史記の元になった史料のレベルによっては正確さには疑問がある。例えばこの付近の時代に関する記述としては、第8代新羅王の20年(173年)に倭國の女王「卑弥呼」が使臣を遣わして修交したと書いている。卑弥呼が若い頃の話なのか、あるいは記録された時期が不正確なのかが分からないが、時期が不正確なのは資料の時代の不正確さはレベルの低さのせいにしても、流れとしてはある程度信用できるような気がする。三国史記に書かれた倭人の王統は下の系図の通りである。字が見づらいが画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選ぶと別のタブで、大きな画像で見られる。また倭人の王がいると言うことは倭人の臣もいると言うことで、なんと初代の頃から倭人の重臣がいる。そしてこの第4代新羅王「脱解尼師今」が大事なのは、日本書紀に書かれた神功皇后の事績とけっこう重なるからである。つまり神功皇后そのものに疑義があったとしても、モデルは居たことになる。日本書紀を見てみる。仲哀天皇2年1月に仲哀天皇は神功皇后を后にしている。「気長足姫命」である。この年仲哀天皇は熊襲を討とうと九州に行幸されるが、神功皇后に神の啓示が有り、熊襲なんてとるに足らない、新羅が宝の山である。新羅を攻めれば熊襲も自然と従う。と言うのだが仲哀天皇は信じなかった。仲哀天皇は9年に神の宣旨に従わず熊襲を攻めたのに勝てず、帰って来て亡くなる。そこで神功皇后と竹内宿禰は天皇の死を隠して、熊襲を討つとあっという間に勝った。新羅に出兵した所、新羅の王はこれもすぐに降伏した。これを読むと韓国アレルギーのある日本人や、日本アレルギーのある韓国人は反発して、そんなのは伝説で信じられないと言うだろうが、三国史記を読むと、実は第16代新羅王「訖解尼師今」までは第4代新羅王「脱解尼師今」の子孫であり、もし神功皇后が「多婆那國」の関係者ならば、第16代新羅王「訖解尼師今」が戦いを避けて、それに従ったとしても不思議ではない。三国史記でも、「訖解尼師今」36年に倭兵が攻めて来たが、新羅の軍人である伊伐飡(いばつさん)は静観を決め、兵糧攻めにして、倭兵が退却するのを待っている。つまり倭側から見れば新羅は弱くて戦わなかったと言うことだし、新羅側から見れば倭は兵糧が無くなって退却したと言うことである。「訖解尼師今」36年は346年つまり4世紀中頃なので、もしかしたら日本書紀の神功皇后の事績はこの時のことかもしれない。では何故両者は戦わずして別れたか?それは神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」が遠い親戚だったからだと思う。神功皇后は「金銀財宝」は欲しかったけれども、自分の兵を危険にさらす必要はなく、成果が得られれば引き返した方が得だったからであり、第16代新羅王「訖解尼師今」も相手がその程度で引き返してくれればよかったのである。では神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚だったのか?それは古事記や日本書紀に書いてある。「天之日矛(アメノヒボコ):日本書紀では天日槍」は垂仁天皇の時代に新羅から来た。本人は新羅の王子で、弟に王の座を譲り(妻の後を追って)日本に来たと言ったらしい。妻の後を追ってと言うのは古事記に書かれた伝説なので本当かは疑わしい。天皇は最初播磨国宍粟邑と淡路島出浅邑の2邑に天日槍の居住を許したが、天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許した。そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらくいたのち、近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した。古事記では但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けたと書かれている。Wikiにその辺の系図が載っていたので、古事記における系図を載せる。えー!神功皇后は天之日矛の子孫じゃん!もし天之日矛が本当に新羅の王子だったら、神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚じゃん!でも結構遠い親戚であって、ほとんど他人じゃんと思うかもしれないけれど、皇子が気軽に渡ってくるほど、日本と新羅が親密だったのならば話は別である。例えば訖解尼師今3年には倭国が使臣を遣わして王子の婚姻を求めてきており、訖解尼師今は阿飡の急利の娘を送っている。つまり日本の朝廷と新羅の王家は親戚関係だったのだと思う。では神功皇后と第16代新羅王「訖解尼師今」は遠い親戚だとして、他には証拠は有るのか?それは日本書紀に書いてある。カギは垂仁天皇紀に出てくる「丹波道主命」である。「丹波道主命」と第4代新羅王「脱解尼師今」の故郷が「多婆那國」である事は関係ないか?韓国では日本の「県」にあたる地域区別を「道」と言う。これが古代日本でもそう呼ばれていて、それを「訖解尼師今」が新羅に(名前を)連れて行ったのならば、「丹波道主命」と言うのは「丹波地方の王様」のことではないか?また「多婆那國」と言うのは「丹波奴國」のことではないか?奴国は領土を広げていく際に、征服した国の名前に「奴」を付ける場合が多い。魏志倭人伝に書かれた女王国の北側の国々の名前を見ても、「彌奴國」、「姐奴國」、「蘇奴國」、「華奴蘇奴國」、「鬼奴國」、「烏奴國」と多い。奴国が東側に国を広げる途中で征服した丹波に有った国なのではないだろうか?そして国が亡びる際に逃げ出した王族の子孫が、新羅に逃げて第4代新羅王「脱解尼師今」になったとしたら話のつじつまが合う。丹波の王子が新羅に逃げて、その子孫の新羅の王子が隣の播磨に戻ってくる。そして地元の昔の親戚たちの中に溶け込んで隣の但馬の人間になり、その子孫が神功皇后である。なお、神功皇后は新羅から帰った後に、仲哀天皇の遺児「麛坂王」、「忍熊王」を滅ぼす時に、播磨や丹波・但馬の力を借りて勝っている。ちなみに「丹波道主命」は崇神天皇紀に出てくる四道将軍の一人で、丹波に派遣された。つまり日本でもこの当時は「四道」と書いており、「道」は地域や方面のことである。と言うか北海道は今でも「道」?第4代新羅王「脱解尼師今」は「丹波道主命」に負けた王の子供では?そう思ってしまった。そうすれば、細かい所には不正確さが残るが、神功皇后(のモデルかもしれない)の実在が証明されて、今まで良く分からなかった「空白の4世紀」が見えてくるのかなと思う。<後日追記>系図の中の第25代新羅王「真智(しんち)」を「まち」と読むのならば面白いと書いたのは、蘇我氏の系図の中に日本人らしくない名前が有り、その人物と年代や名前が重なるから。Wikiから蘇我氏の系図を引用する。蘇我韓子とか蘇我高麗とかはものすごく韓国らしい名前。もっとも国としての高麗は10-14世紀の国なので、ここで言う高麗は高句麗の別称としての高麗である。何でこんなわざとらしい名前にしたのかと考えると、蘇我氏は本当に新羅から来て葛城氏の中に入り込んだのではあるが、素性が知れないので、何とかごまかして祖先を偽作したのではないかと思う。その際にたまたま新羅王が「真智(シンチ)」だったので、それを利用しようとしたが、さすがにそのままでは問題があるので、ちょっと読み方を変えて、同一人物ではないがいかにも関係ありそうな架空の人物を作り上げた、そう言う事だと思う。何の根拠もないけれども、ものすごく面白そうなので書いてみた。
June 27, 2024
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6月6日のわの会は、瀬戸神社から上行寺までとあまり歩かなかったので、ちょっと元気が余ってしまったので、一人で前から行きたかった千葉の市原市の神門古墳群を見に行くことにした。横浜市金沢区からは、片道約2時間半。九州に行くのと変わらない?古墳の場所は市原市役所周辺にあり、周辺には国分寺なんかもあるので、そこも行ってみることにした。なによりも下調べをしていて分かったのだけれども歴史博物館が昨年11月20日にできて、諸般の事情により発見者の方が持っておられた「王賜銘鉄剣」が展示されていると言う話を知り、これは見に行かなくてはと思ったからである。市原市は「市原」と言うJRの駅が有るわけではない。五井駅である。内房線。五井駅からバスに乗る。15分くらいで「市役所前バス停」に着く。若い人ならば歩けるけれども、僕達年寄りには無理。バスに乗る。バスを降りると、進行方向少しの交差点を左折すると、この通りが「国分寺通り」。ちょっと歩くと左手に消防署が見える。ここで面白い物を見つけたので寄り道。消防ポンプである。僕は機械いじりが好きなので、こんなのは大好物。まるで戦艦大和の主砲みたい。説明板が詳しくて、一般の人が読んでも分からないと思うけど、用途別の弁の使い分け等が描かれている。何でこんな説明板を付けた?ここを少し進むと、国分寺中央公園がある。市役所の裏になる。入口に面白い物が有った。埴輪は古墳のある町市原市らしいし、噴水も国分寺の街らしい。ここをさらに進んで、公園の角を左に曲がる。ずーっと先に緑地帯が有るのでそこを一段登って奥まで行くと「祇園原貝塚跡」が有る。僕はいつもそう思うのだけれども、都や都市と言うものは必ず歴史が有り、重要な都市は縄文時代から人が集まって、次第に大きくなったのだと思う。だから夏島や野島そして称名寺に貝塚跡が有る金沢区は、きっと縄文時代から南関東の中心的な地域だったのだろうし、ちゃんと教育委員会が仕事をしていれば、弥生時代や奈良時代の遺跡も有ったのだろうと思う。ただ、気がついた時には既に遅く、主要な遺跡は京浜急行や住宅の開発によって無くなり、金沢区の歴史は闇に埋もれてしまったのだろうと思う。でも市原市はこうして早めに気がついたので、今さかんに調査している。良い事だと思う。祇園原貝塚跡を降り、下の道路に出ると前が「国分尼寺跡」である。祇園原貝塚跡の下の道を交差点まで進み、右に曲がって進むと、国分尼寺展示館に着く。玄関を入ると国分尼寺らしく仏様がお迎えしてくれる。中には大きなホールと展示施設があるが、まずは国分尼寺の説明とジオラマ。国分寺って聖武天皇の時代じゃなかったっけ?千葉もその頃から、こんなに立派なお寺が有ったんだ。しかも尼寺。学校で習った昔の歴史では、女性はかなり虐げられてきたイメージが有ったんだけれども、奈良時代頃には女性も大事にされていたんだ。学校では全然教えてくれないけれども国分寺と同じ位、たくさん全国に国分尼寺が有ったらしい。さすがに東北には無いけれども、九州や四国にも有るじゃん。そう言えばNHKの「ひかる君へ」を見ていたら、教科書で、この世をば…と言う藤原道長の「望月の歌」は「我が世を謳歌した歌」と習ったのに、NHKの道長は人間的で常識人で、意外に弱く、なによりも紫式部を始めとする女性が(立場は弱いが)知性と教養にあふれて、以外にたくましく描かれており、学校で習った世界と少し違うなと思っていたのだけれども、ここに来てみて、当時の女性もちゃんと勉強しており、男達と対等にやりあっていたのかもしれないと思った。だって後から行く「国分寺」とほとんど同じかむしろ国分尼寺の方が大きいのだもの。国分尼寺跡は金堂基壇や回廊と中門も復元している。パノラマ写真の合成に失敗して右側の部分が変になっているが、ほぼ「コの字型」に再現されており、左手には金堂の礎石や基壇も復元されている。写真を右クリックして出るメニューで、新しいタブで画像を開くを選択すると拡大できる。中門は特に見ごたえがあり、柱12本(本柱4本、控柱8本)で支えられた三棟造である。国分尼寺を出て突き当りの道を中学校まで行き、右に折れて1ブロック行くと政庁跡が有る。相当に広いスペースがあるので、大きな役所が有ったのだと思うけれども、まだ未調査。ここをずーっと元の国分寺通りまで行って左に進むと、国分寺通りと稲荷台通りの交差点が有る。この交差点の左手50mくらいの所に稲荷台1号墳が有る。分かりづらいが道の奥。小さな円墳で、日本中にたくさんある古墳の一つと思えば珍しくもないのだが、古墳の評価は「出土品」で決まると言う典型的な例で、ここからは「王賜銘鉄剣」が出土したことで一躍有名になった古墳。埼玉の稲荷山古墳で「ワカタケル:雄略天皇」の銘の入った鉄剣が見つかり、日本の歴史がひっくり返って国宝になった例が有るので、ここも有名になった。ここで発見された鉄剣を展示しているのが、これから行く歴史博物館である。国分寺通りに戻って、稲荷台通りとの交差点を左に曲がると、国分寺通りが突き当りになる。ここを左に曲がって少し進むと「市原中学校入口」の交差点が有る。この標識を見つけないと「歴史博物館」には行けない。交差点を右に曲がると山の中に入り、中学校の正門がある。この先に「歴史博物館」は有る。市原市も頑張ったなぁと思った。この歴史博物館は昨年11月20日にできたばかり。お客さんは僕一人なのに、お姉さんとお母さん4人が迎えてくれた。多分、宣伝が悪いんだと思う。こんなに貴重な展示をしているのに、駅に何も表示やポスターが無いのがいけないと思う。でも、このブログを見た人がちょっと行ってくれたら、お姉さんも喜ぶと思う。さてお待ちかねの「王賜銘鉄剣」はこんな感じ。鉄剣の下の方、金色に輝いている部分に金で象嵌されている。まずは表側。肉眼では分かりづらいがX線で調べると読めるらしい。次は裏側。僕の説明では分からないと思うので、展示の傍に有った解説文を載せる。この「王」が誰かによって評価が大きく変わるので、色々な人が研究しており、歴史博物館では、埼玉の稲荷山古墳に書かれた「わかたける=雄略天皇」より前の、倭王済=允恭天皇と推理しているらしい。僕は違うと思う。国宝の鉄剣が発見された埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳は「首長墓」らしく大きい。なので雄略天皇の家来とは言っても地方に帰れば「地域の王」である。それに対してこの鉄剣が出土した古墳は小さく、これから行く同じ地域の神門5号墳等に比べてもかなり小さく、埼玉の稲荷山古墳の主などと比べて、天皇家に仕えるほどの地域の首領とは思えない。なので、この鉄剣に刻まれた「王」はこの上総の支配者だったのだろうと思う。とは言っても実は時代的に考えると近畿の天皇家とあまり変わらない「王」だった可能性はある。学者先生は「万世一系の天皇」などと考えるので、奈良時代には日本は一つだったと考えるが、先に見た国分尼寺の分布図を見ると分かるように、聖武天皇の時代にさえ東北は日本ではない。つまりこの鉄剣の時代にはまだ関東も「日本になったばかり」だった可能性が高い。なので、この鉄剣に刻まれた「王」は本当にこの上総の「王」だったのだろう。まだ、ヤマト王権に従ったと言っても別の国だったのである。まぁ、それはそれとして、この歴史博物館には他にも面白い展示物がたくさん有る。例えば、人面付土器と猪型土製品。これが何故大事かって?「もののけ姫」を思い出して欲しい。昔の人は獣の中に神様を見ていたのだと思う。ヤマトタケルを倒したのだってイノシシだし、雄略天皇もイノシシ(に化けた神)と話している。人面付土器も祭祀用の(何か意味の有る)土器なんだと思う。また学者先生なら見向きもしないけれども、僕ら低レベルアマチュアが好きなの物もある。小銅鐸。学者先生の理論に合わないので、先生は無視したいだろうと思う。銅鐸は中国から渡って来た時には「楽器」で、日本では祭祀に使われ、次第に「威信材」へと変化して巨大化したと学者先生は考えている。つまり伝わっていくほどに「見せる」為に大きくなっていく方向に有ると考える。ならば何故(当時は辺境だったはずの上総に)小銅鐸があるの?せっかく近畿で大きくなったのに、また小型化するの?意味不明だと思う。答えは色々と想像がつくが、分かりやすいのは、必ずしも「威信材」ではなく純粋に祭祀用だった場合。豊穣を祝うあるいは願う村祭りに使うものならば、祭祀に使わない場合の収納場所を考えれば、むしろ小さい方が便利だし、祭祀での使用方法、例えば本当に鳴らすのが目的で行列の中で鳴らすのなら小さい方が良い。もう一つは、これがヤマト王権に関係するものではなく、ある集団に属する物の場合。例えば「秦氏」の系列の人達が使う祭祀の道具ならば、(秦氏は「お稲荷様」を信じていた)銅鐸が古墳ではなく村はずれつまり田んぼに近い所で見つかるのは自然だし、お稲荷様同様に農民に密接で、大きな神社にはならず、小さな社で神社の片隅にあるのと同じで、大型化は目指さないと思う。庶民的に小さいままで良いのである。3つ目は非論理的なのだけれども、感覚的な理由。この小銅鐸を使っていたのが女性だと言う説。男性ならば大きい銅鐸を使うのだけれども、女性用なので「かわいい銅鐸」。持ち運びに便利だし、見た目が小さくてかわいいから。古代ではないけれども、市原は昔から舟を操る海人族が居り、港が発達していた。僕は金沢区、特に六浦もそうだと思っているので、ちゃんと研究している市原市がうらやましい。何故金沢市は研究していないんだ?この五大力船は相当に大きく、たくさんの荷物を積めたようだ。ここで誰でも気がつくし、同じ疑問を持つと思うのは、人力で櫓やオールでこぐならば、それで船を操れるけれども、帆に風を受けて進む場合は舵が必要だと思う。でもその舵はどうやって取り付けるのだろう?船の底に穴を開けるわけにはいかないし。その答えがここには有った。なるほど。舵の操作部分は甲板上に有って、舵は船底を貫通する訳じゃないんだ。確かにこの構造ならば水は入らない。今までの疑問が一つ解決した。大きな疑問が解決した後は、次の神門古墳群に向かう。国分寺通りを南に進み、国分寺台中学校の角を右に曲がって少し行った所を左にはいる。こんもりとした山が神門5号墳である。鉄剣は見つかっていないけれど大きい。この古墳は近畿の「纏向の箸墓古墳」よりも古い、3世紀前半の古墳。え?纏向より古い?いや日本には箸墓古墳よりも古い古墳はざらにある。邪馬台国近畿説を唱える学者が認めないだけである。特に千葉は古墳が多く、しかも古い。この神門5号墳が大事なのは、付近の3号墳及び4号墳を併せて「前方後円墳がどうやって発達したのか?」が分かる古墳だから。その説明板がこれ。5号墳が一番古く3世紀前半の築造で、方墳部が最も小さい「いちじく型」4号墳、3号墳と新しくなるに従い方墳部が大きくなって3号墳の頃には箸墓と同じになる。つまり前方後円墳は近畿からその形状が伝搬したのではなく、ほぼ全国で同じように発展した可能性が有るのである。近畿からこんな田舎の千葉まで伝わったのならば(製造技術の伝搬もあるので)、そんなに早く伝わるはずがない。そしていつも僕が主張するように、国が発展するのは農業だけではなく海も関係しており、関東特に南関東では海人族が国を造った場合が多いので、古墳は海のそばの山の上に造られたのだと言うことがここの古墳を見ると分かる。神門古墳群は元は東京湾の入江の傍の山の上に造られており、その前にある「雷神池」が海の入江の名残であることが、上の説明板右上の図でも分かる。ちなみにその雷神池はこんな感じ。神門古墳群をあとにして、すぐそばの戸隠神社に行く。僕は雷神池との位置関係、及び神門古墳群との関係から、この戸隠神社も古墳群だったので有り、ただ後の時代に造られたので古墳は小さくなり、その古墳は仏教の伝来とともに変形して(僧がいなかったので)神社になったのだと思う。神社の境内図をみれば容易に想像できる。恐らくは代々の一族がたくさんの古墳を造り、それが神社として祀られたのだろう。例えば金毘羅宮。(右下を見ると雷神池脇には金沢区瀬戸神社同様に弁財天もあるし)他の神社も同様に、みんなこんもりとした盛土(円墳?塚?)になっている。色々と想像すると楽しい。戸隠神社をあとにすると最終目的地の国分寺に向かう。戸隠神社の裏手になる。立派な仁王門である。この手前に面白いものが有る。将門塔である。え?将門?説明文に書いているように、もちろん将門とは関係ない。でも関東特に千葉や茨城の人にとって将門は大事な神様で、あちこちにこの手の伝承が有る。国分寺の中には薬師堂が有る。由緒が有る薬師堂のようで、立派な茅葺の建物である。ここで不思議な物を見つけた。薬師堂に「鐘」が有る。えー!何で薬師堂に鐘が有るの?まるで神社じゃん!しかも虎がいる?仏教に虎?もしかすると神仏混淆の際に色々とあったのかもしれない。あるいはこの薬師堂は、元は神社だったのかも?面白い物を見てしまった。あちこち歩いていると、色々とあるなぁ。
June 22, 2024
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やまさんとやり取りをしていて、電波が届かない地域にいると、せっかく作ったラジオが、うまくできていないせいで入らないのか、元々電波が弱いせいで入らないのかが分からない場合は、せっかくちゃんとできているラジオをいじくりまわしてダメにしてしまう可能性があり、もったいなと思ったので、何とかできないかと考えた、プロやハイレベルアマチュアならば立派な測定器を持っているので、それを使えば済むのだが、(と言うかプロやハイレベルアマチュアはラジオなんか作らない?)低レベルアマチュアには、そんな測定器を持っている人はいない。そもそも、例えばSG(シグナルジェネレーター:信号発生器)なんて、僕が若い頃は100万円以上して、工場や研究所にしかなかった。学校のクラブ活動なんか、到底買えないレベルの物だった。でも愛天堂のホームページに良い物が有るのを見つけた。これです。何が良いかと言えば、発振回路とデジタル周波数カウンターが初めからついており、しかも値段が950円(税抜き)である。100万円のSGに比べると、1.発振周波数が安定しない。しかもコイルではなく水晶発振子(クリスタル)なので固定。2.発振出力が安定せず、調整できない。3.50MHzまでしか使えない。4.ケースが無く剥き出し。5.そもそも改造できるのかな?と言う欠点があるが、値段が1/1000なので使えればもうそれだけでうれしい。なので、頑張ってみることにした。まずは回路図の検討。画像を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、別タブで画像が開き、自由に拡大できるので利用してください。なお、左のエミッター接地型コルピッツ発振回路と右の回路図をつないでいる緑線は、ここを接続すると言う意味ではないのでごめんなさい。矢印にするつもりが矢印を書き忘れただけで、この部分を置き換えると言う意味で矢印を書いたつもりで失敗しただけです。その上のコレクター接地型コルピッツ発振回路を置き換える方が赤の矢印なので、赤じゃまずいと思い緑にしたのですが、位置が適切ではなかったです。回路図右部分がカウンター、左部分が発振回路で、両者結合コンデンサーで結ばれている・上の「7550」付近は入力した電源を5Vに変換してPIC12F628(マイコン)を動かしている。左の発振回路は元々の対象が水晶発振子(クリスタル)なのでインピーダンスとQが高いので、コレクター接地型発振回路になっている。右側の9014はLEDのドライブ用。非常に簡潔で分かりやすい。まずは元の回路を利用して、なるべくいじくらずにクリスタルをマイクロインダクターに交換。そしてキモとなる周波数可変用に2つの22pFのコンデンサーを270pFX2のバリコンに交換。(あと何か所か回路定数を変えて基板パターンをいじくった。 特にクリスタルをコイルに変えると直流的にはトランジスターのベースがアースと導電位に なるので、ベースとコイルの間に結合コンデンサーを入れるのでパターンカットが必要)やってみた。一応動作したのだが、バリコンを右側に回すと(つまりmin側抜けきった方)発振が止まる。まぁでも90%位までは発振する。何故か?恐らくバリコンがminの時には周波数が高くなりコンデンサーのインピーダンスが低くなり、ベースの電位が下がりすぎて、エミッター電位+Vbeが取れなくなるのだと思った。だって回路図で言えば22pF2個の部分が例えば0Ωになればアースに落ちて、ベース電圧が0Vになるようなものだから。なので試しにここに50pFのコンデンサーを並列に入れてみたら、若干改善するものの、やはりバリコンmin付近では使えなかった。ではどうするか?プリント基板を削る必要があるけれども「エミッター接地型」にすれば良いのかなと思い、さっそく実験してみた。僕は不器用なので失敗しないように、なるべく基盤を削る箇所を減らすように工夫した。特に今はコレクター接地型なので、コレクターがVCC直結になっているが、ここにマイクロインダクターを挿入すると2か所も基板を削ることになるので、コレクターは基板から浮かして穴に差し込まず、その穴にマイクロインダクターを刺し、マイクロインダクターの2次側とコレクターを半田付けして、そこにカウンターへの結合コンデンサーを半田付けした。(まぁその他にもあるのでどうしても削る箇所は出るが、何とか2か所に抑えた)その結果何とか動作するようになった。バリコンMax(つまりラジオならば低い周波数側)の出力の様子。コレクター側のマイクロインダクターが470µHで小さかったからなのか、下側が電源をオーバーして切れている。1mHの方が良かった?逆にバリコンmin側(つまりラジオならば高い周波数側)はこんな感じ。うーん正弦波とは言い難い。何の影響だろう?レンジを100nsにすると見た目は多少マシになるけれども、何かの抵抗が邪魔している?でも、案外と優秀なのは、周波数が2.5倍も変化しているのに出力電圧の変動が少ないこと。電源が「固定バイアス」でこの程度なら、「電流帰還バイアス」ならばもっと安定する?まぁでも基盤を削るのは大変なので、目的がAMラジオ調整用SG「もどき」なので良いかと思って、これで満足した。ちなみにこのセットの利点はもう一つあり、コイルさえ変えれば50MHzまで使える(はず)。ちょっと470µHを330µHに変えてみた。まずはバリコンMax側やっぱりドライブが大きすぎて、下側がはみ出して切れている。バリコンmin側を見てみる。インダクタンスが減ると出力が減るみたい。おかげで下側の切れが少し改善している。発振周波数は2.46MHzまで上がっている。コイルを33µHとかにすれば短波帯でも使えそう。次にこの高周波発振回路に「変調」をかけることにした。AMラジオでこの電波を受信しても、変調がかかっていないと無音になるからである。変調用の低周波は最初はウイーンブリッジ等でカッコよく正弦波にしようと思ったが、面倒くさかったのでタイマーIC555で矩形波を作ることにした。回路はこんな感じ。標準的な回路である。発振周波数が分かりやすいのが良い。僕はRa=Rb=1kΩ、C=1µFにして作った見た。予定では480Hzである。すると簡単に発振した。発振周波数は465Hz。誤差は3%。まぁ抵抗の精度およびコンデンサーの精度を考えれば上等。ただ、矩形波と言うよりも「台形」になっている。これは多分コンデンサーへの充電にかかる時間のせいだと思うので、コンデンサーと抵抗の組み合わせを変えると矩形波らしくなるのだと思うのだけれども、まぁ実験用なので、これで十分。さて発振回路、カウンター回路、変調波回路ができたので、組み合わせて、百均で買ったアクリルケースに入れることにした。これが最大の難関だった。僕の技術力が未熟なせいである。1回目はバキバキに割れた。最初は丸穴で小さかったので、何とかなったのだけれども、大きな穴を開けようとすると「パキパキ」と音を出して、無残にも割れた。まぁ百均なのでと思い、また買いに行ったが目的のケースよりも電車賃が高い。なので、2回目は1回目の失敗を改善して、色々と考えた。まず一番良いのは、あて木等をして木ごとくりぬけば割れにくいと思うのだが、目的物よりもあて木の方が値段が高くなるのがしゃくにさわるので却下(皆さんはあて木使って下さい)思うに、小さな穴は何とか開くので、最初は小さな穴を開けて、その穴をガイドにして少しづつ大きな穴にしていけば良いのでは?やってみると意外にうまくいった。なお、LED等の角穴は、今回は透明アクリルケースなので、穴を開けなくても良かった。出来上がったのがこちら。左側に「記念に」バキバキに割れたアクリルケースを載せた。もうバキバキ!完成品の方に、「MENU]と書いてるのは、実はこのカウンターは秋月のカウンターと同様にいくつかのモードを切り替えることが可能で、例えば原周波数に450kHzや10.7MHzのオフセット周波数を加えたりすることが可能である。なので、本当は結構優秀なのかも?ついでにコレクター接地型とエミッター接地型も並べてみた。せっかくなので。プロやハイレベルアマチュアは100万円のSGを使うのだろうけれども、低レベルアマチュアがAMラジオの調整をするのに100万円のSGを買うのはナンセンスなので、総額でも2000円にいかないSG「もどき」で十分遊べて、使えるのかなと思う。なお、愛天堂には申し訳ありませんが、AMAZONでも同じ950円で「送料無料」なのでお得です。そうそう、最後の写真に載せましたが、これってアンテナの効果がすごく分かります。アンテナを付けないと50cMくらいしか電波を受信できませんが、たかだか50cm位のアンテナを付けるだけで2m離れても聞こえるようになります。ちなみに奥さんの耳だと10m離れても大丈夫です。(僕は耳が悪い)また、僕にとって最高にうれしかったのは、今までどうやっても見られなかった、変調がかかった高周波をオシロスコープで見られたこと。教科書には載っているけれど、実際に自分で作ったもので、実際に自分のオシロスコープで見られるのって大変なことだと思う。何かうれしかった。
June 18, 2024
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6月6日はわの会のイベントで瀬戸神社宮司様の講演をお聞きしました。これは恐らく会の監事の皆さんが、6月上旬には梅雨入りして通常のように歩くことは大変だろうと気をつかったもので、よく考えて年間スケジュールを組まれておられると思いました。講演は主に神額の字の由来や書いた人とその時代がテーマで、非常に詳しく良いお話でしたが、ただ、ちょっと難しかったです。その後できたばかりの権現山公園を見て、米倉陣屋跡を見て浄行寺に行き、そこで解散しました。でも、どこも前に一度見た所で、既にこのブログにも書いた所でした。なので、あまり書くことは無いのですが、唯一瀬戸神社の所蔵品が見られたのはうれしかったです。特に古い絵図はなかなか個人では見られないので良かった。まずはものすごく大きな絵馬。大宰府の絵馬堂ほどは無いけれども、通常の神社の絵馬としては相当に大きい。奉納されたのは寛文13年(1673年)で、今から350年前、江戸時代初期です。350年たっても色あせずちゃんと残っているのはすごい。また僕がよく話題にする、金龍禅院の飛石について、飛石が当初は裏山の中腹に有った物が、文化9年()の地震で現在の位置に落ちた経緯が分かる、2枚の絵図が、ここには両方あります。まずは落ちる前。裏山の中腹に有ります。この中腹の部分は今でも存在し、飛石とは関係ありませんが石碑が有ります。次に落ちてしまった、現在と同じ位置の絵図。下の本堂脇に有ります。この絵図を見ると、これも僕がよくブログに書く、九覧亭は太子堂とは別に有って、九覧亭は現在九覧亭跡と書かれている市よりも、ずっと奥に有ったと分かるような絵図になっています。横浜市の教育委員会は、何故この絵を見てそれが分からないんだろうと不思議です。講演を聞いた後は境内の紫陽花を見て瀬戸神社をあとにしました。その時にふと気がついて宮司さんに聞いたのですが、この瀬戸神社の鳥居は明神鳥居です。(八幡鳥居かもしれない?)ただお聞きした後に、まずいことを聞いてしまったと後悔しました。実は今は鶴岡八幡宮は神社庁ともめていて、神社庁から脱退すると表明しているからです。瀬戸神社の立場としては、神社庁側につくか鶴岡八幡宮側につくか微妙な立場かもしれず、鳥居の形は神社の由来や成り立ちと関係が有る場合が多いので、宮司さんとしては答えづらかったかもしれません。今の瀬戸神社の鳥居はこんな感じです。八幡宮ではないのに八幡鳥居の形状です。まぁ、明神鳥居ともいえるかな?でも笠木が沿っている?思うに瀬戸神社は源頼朝と関係が深く、元は三島神宮と関係が有るので、微妙なのかも?ちなみに富岡八幡宮の鳥居は、当然八幡宮なので八幡鳥居です。正当八幡鳥居です。貫の先端がちゃんと笠木の先端とそろっています。瀬戸神社は貫がそろっていません。鶴岡八幡宮の鳥居はこんな感じです。え?鶴岡八幡宮の鳥居も貫の先端がそろっていない?何故?瀬戸神社と同じ?昔から宮大工さん達が教科書にしている「当世匠家雛形」と言う本があります。第1/6巻。通常の鳥居の場合は笠木(一番上の木)の先端と貫(その下の横棒)の先端はそろえるもので、そろっていないと言うことは、ちょっと手抜きかな?と言う感じはします。ついでなので他の神社の例を見てみます。出雲大社はこんな感じ。えー!これもそろってないや。伊勢神宮の場合。笠木が「沿っていない」のが分かると思います。しかも貫が「貫いていない!」神門鳥居です。かっては「天津神系」つまり天照大御神の系統の神社はこの「神明鳥居」で、出雲大社や厳島神社などの「国津神」系統の神社は「明神鳥居」と言い「沿って」いました。それで鳥居の形状により神社の祭神が分かったのですが、ある時代以降(天照大御神を信じる人が減って以降)、鳥居は寄進する人の自由になり、今では鳥居を見ても祭神は分からなくなりました。寄進者が知らない場合が増えたので。まぁそれでも宮司さんに鳥居の形について質問したのは、僕の軽率でした。ごめんなさい。最後の開山場所は上行寺ですが、ここの入口には「舟繋ぎ松跡」が有ります。えー?海から相当に離れているのに、何で「舟繋ぎ松跡」?そう思う人は多いかもしれませんが、今回瀬戸神社の所蔵品の絵図の中に、その理由(と言うか事情)が分かる絵図が有りました。昔の横浜の地図です。左下を見ると、今の上行寺付近は海です。そう、今の柳町付近は埋立てられた所で昔は海でした。今日のブログの上の方の「武州金沢八景略図」を見ても、金龍院の下の辺り「内川暮雪」と書かれた辺りは海だったんですね。なので上行寺は海辺だったんです。なので、「舟繋ぎ松跡」はここに有るんですね。この地図を見て、ふと気がつきました。富岡を見ると「岡」の字が今と違う。今では使われていない文字で、今の字ならば多分「罡」かなと思います。インターネットやパソコンの環境によっては表示されないかも?地図の書き込みには「うかんむりに正」と間違って書いていますが、正しくは「冗」の下に「正」です。なんて字だろう?まぁ結論から言うと、「おか」は「おか」で正しいようです。でも「岡」ではない。じゃぁ字を間違えたのだろうか?いや何か意味が有るのかも?色々と調べていると、岡とは違いますが「丘」には昔は「墓」の意味があったみたい。前にこのブログで、富岡は元は「登美丘」だったのではないだろうか?と書いたけれども、それが本当であれば「富岡」は「富=長者」の「岡=墓」だったのではないだろうか?いつも僕が主張する「富岡八幡宮は古墳だよ」です。地震で円墳部が壊れていなければ、どうみても古墳ですから。古代にはここ久良岐(金沢区のこの辺の古い地名)は皇室の直轄地でした。恐らく皇室の財政上の理由から奈良に居られなくなった皇室の分家の子女がここに居り、故郷の奈良の「登美丘」の地名を付けたのではないかと思うのです。しかも和名抄に書かれた久良岐の「鮐浦(ふくら)」と言う地名は、実は「富倉(ふくら)」であり、富の蔵から来ているのかも?と思いました。それが「久良(くら)」岐(き)と言う地名として残っていたのではないか?「岐」とは山のことです。「富(ふ)=長者」の所持する「久良(くら)」の「岐(やま)」だから久良岐?久良岐郡の中の古い地名である「鮐浦(ふくら)」とは富岡のことではないか?上の方では「岡」を「墓」だと考えて富岡八幡宮と、結びつけましたが、「岡」を「墓」ではなくて「山」の意味だっと考えた場合にはこちらの方が合うようです。新編武蔵国風土記の編者は「鮐浦(ふくら)」を六浦だと推理していますが、漢字の読みを考えても富岡の「富倉(ふくら)の方が合いそうです。だって六浦を「鮐浦(ふくら)」と読むのは無理があるから。うーん、自分でも分からないくらいグジャグジャになったので整理すると、534年に「武蔵国造の乱」で朝廷の直轄地になった倉樔屯倉(くらすのみやけ)は後に「久良岐郡」となるのだが、(屯倉とは朝廷の直轄地)「倉樔(くらす)」は「倉樹(くらき)」の誤記だとされている。倉樹つまり、僕はこれを倉(くら)岐(き)つまり朝廷に納める物質の倉の有る山と考える。そうすると久良岐の意味が定まる。富岡は富の納められた倉の有る岡(当時は丘)だと考えると、そこは朝廷の直轄地であるから、朝廷の財政上の理由から奈良に居られなくなった皇室の分家の子女がここに居たと言うことである。それが色々な本に載っている、例えば桓武天皇の孫娘達なんだと思うのである。そのような人がいたので、倉の有る山「倉岐(くらき)」の中でも、この富岡の地は「富倉(ふくら):富の納められた倉」と呼ばれ、それが和名抄に書かれた「鮐浦(ふくら:布久良=富倉)」なのではないだろうか?違うかなぁ?
June 8, 2024
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今回の九州一周でよく分かったけれども、史学(歴史学)と考古学は別のもので、邪馬台国論争が収拾がつかず、論理的に変な議論が多いのは史学に問題が有るのだなと思う。(史学は文献等に基づき歴史を研究する学問で、空想に偏りがち。 考古学は出土品や副葬品など実際の調査により歴史の真実を探る学問)いや、史学そのものは良いのだけれども、末端の史学の先生に問題が有るのだと思う。思うに、史学の先生は、歴史の勉強に打ち込むのは当然だが、論理的思考を養う為に「論理学」も併せて学ぶことが必要なのではないだろうか?元々数少ない「確実な証拠」から真実を求められれば良いのだが、過去に書かれた歴史書は当然「目的を持って」書かれているはずなので、真実と「ある集団や個人に都合の良いうそ」も混在している。なので複数の書物を比較検討して、真実のみをあぶりだして使用する必要があるのだが、人間の本質として、保身や利益誘導は必ず多数派なので、多い方が正しいとは限らない。むしろ少数派に真実が隠されている場合が多いのだが、多数の書物を比較検討する場合、多数派の意見を真実だと考えやすい。そこに末端の史学の先生が陥りやすい落とし穴がある。史学の先生は、その学問の性質から「暗記型」の頭脳の持ち主が多いのだ。書かれた論文を見れば分かる。「○○年○○月に✖✖先生が書いておられる~」と言う書き方がものすごく多い。その結果限られた範囲の分野に関しては異常に詳しい。いやそのこと自体は良いのだが、少しでも外れた分野には全く知識が無い。例えば僕のブログでは良く書くのだけれども、魏志倭人伝に書かれた「中国から来る使者が準構造船に乗ってくる」と信じている人が、圧倒的に多い。(準構造船とは丸木舟に堅板や側板を追加して改良した舟)中国の偉い人がそんな危険を犯してくるわけがない。魏志倭人伝は三国志の一部であるが、三国志には有名な「赤壁の戦い」での船の描写があるが、魏の軍船は結構大きい構造船。つまり技術的には中国側は既にある程度安全な大きな船を持っていたと言うこと。歴史を専門に研究する史学の先生なのだから「三国志」くらい読んでいるはずなのに、自分の専門分野をちょっとでも外れると気がつかない。そういう事例がものすごく多い。史学の先生ではないが、角川春樹は「野生号」、大阪市は「なみはや号」を作り、韓国に渡ろうとして失敗している。準構造船であんな大きくて流れのはやい海峡を渡れるはずがない。みんな埴輪の舟から「想像して」舟を作るからだ。想像から作る物は間違っている可能性が極めて高い。野生号もなみはや号も一応専門家の先生の助けを得て作っているが、その先生は舟については詳しいが三国志を読んでいなかったらしい。もっと極端な例は「太安万侶の墓」と墓誌の発見である。それまでは史学の先生達は、古事記は偽書だと主張する先生が多数いた。「古事記の序」が時代に合わず、書式が上奏文の形で変だからである。これは確かにそうなんだけれども、あれが「古事記の序」だと誰が言ったのか?「序を併せて」と書かれているだけで、古事記の序とは書いていない。僕は日本紀講の序において先生が資料として使う古事記の正しさを説明する為に、自分の家に伝わる太安万侶の上奏文を見せたのを、つまり「日本紀講の序」で使われた文書を併せて書いただけで、先生もまたそれを書き写した生徒も「古事記の序」として書いたつもりは無いのだと思う。つまり史学とは、資料を読む人の解釈だけで真実が変わる性質を持っている。危ない学問だと思う。最近韓国の古代の勉強をしている。日本の古代に関係するものがありそうだから。特に韓国の南側には、明らかに日本由来の前方後円墳が多数ある。なので調べている。日本由来の古墳ではないが、百済の武寧王陵が面白い。韓国の史学者も日本同様なので、全く誰の古墳なのかが分からず、墓の形式が中国の塼築墳であり、南朝のものに合致していた。(塼=せんとは焼き物製のブロック。誤解を恐れずに言えばレンガ。 武寧王が死んだのは523年頃なので日本はまだ古墳時代。百済って進んでいたんだ?)塼には蓮華紋や忍冬紋が刻まれており、平積と縦積を繰り返して壁を構成し、連子格子状の模倣窓の上部には龕(がん)が設けられており燈明皿が置かれていた。出土物も中国色が強く、百済土器等の百済の王であることを示す物は無かった。ただ生活に関連する副葬品は百済の地元の物が多いために、誰の墓かは分からなかった。ところが1971年に「未盗掘」墓であることが分かり、発掘すると「墓誌」が見つかり、その内容から武寧王陵であることが分かり大騒ぎになった。このように「解釈」に頼って真実に迫ろうとする史学は常に変わる可能性があり、出土物や物理的な証拠から真実を求める考古学の力なくしては成り立たないのである。墓誌が出てこなかったら武寧王陵はどうなっていただろうか?<後日追記>こんなに面白い古墳を黙っているのはイヤなので、行ったことはないけれどネットから画像をお借りして載せる。武寧王陵は宗山里古墳群の一つで、(日本も同じだけれども学者は見向きもしなかったので)地元の高校の先生が6号墳まで発掘調査していた。その調査に付随する排水溝の工事の際に「塼」が見つかり、これが第7号墳としての発掘調査の始まりだった。武寧王陵とその入口。大きさはそれほどでもない。円墳らしい。「塼」と言うものがどんなものか、言葉だけでは分かりにくいと思うので発見時の写真。単なるレンガではなく、右上を見ると(多分燈明皿を置く?)穴が有る。日本の古墳の石の代わりに「塼」を縦横に積んで室を作っている。ここで墓誌はが見つかった。ところで武寧王は、実は日本それも九州で生まれた。日本書紀に載っている。武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島→呼子付近の島らしい)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。僕も九州人なので、武寧王は韓国人なんだけれども親近感を覚える。ところで百済って、後世の扶余褒章もそうなんだけれども、よく王族を日本に送っていたのね。日本側の日本書紀等の書物では人質みたいに書いているけれど、天智天皇時代の扶余褒章を見ても大事にされており、今川に預けられていた徳川家康みたい。「可哀そうじゃない人質」なのかな?そして、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。なんかドラマが有った匂いがぷんぷんする。武烈天皇もひどいことをした天皇として、日本書紀に書かれており評判が悪く、崩御された時に子供がいなかったので、越に居た応神天皇5世孫の継体天皇が探し出されて、後継の天皇として担ぎ上げられたんだよね。しかも継体天皇は19年もさまよって、なかなか都に入らなかった。(入れなかった?)日韓で同じ時期に、同じように悪い王様が出て、周囲が新しい王様を担ぎ上げる。何で同じ時期?政治の嵐が吹き荒れたのかな?武寧王は日本で生まれ育ったせいなのか、武寧王と王妃の木簡は、コウヤマキという日本にしか自生しない木材で作られていた。うーんなんかありそうな空気が漂っているなぁ。別に韓国の木で作っても良いはずなのに、何で日本の固有種で作るの?本当に武寧王は百済の人なのかなぁ?まさか日本人それも筑紫の人だったりして。そしてその関係が後世まで続いていて、斉明天皇も天智天皇もその子孫だったなら、無謀な白村江の戦いに臨んだのも分かるような気がする。百済は九州の王朝の子孫が造った国?後日追記終わり。そう言えば継体天皇の「今城塚古墳」も史学が考古学に負けた良い例である。宮内庁は別の墓を継体天皇陵としていたために、今城塚古墳は発掘ができ、おかげで色々な事実が明らかになった。天皇陵などは宮内庁が管理しており発掘などもってのほかなので、日本の古代は分からない。史学者は真実が明らかになると自分達の立場が危うくなるので、宮内庁に味方する。史学者は日本の古代研究の為に考古学を大事にして、もっと勉強して欲しい。
June 5, 2024
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僕は身体障害者手帳をもらえるくらい耳が悪いので、マンションに住むととても苦労する。テレビを見ようとするとボリュームが大きくなりすぎて奥さんに怒られる。かと言って奥さんにちょうど良いボリュームだと全く聞こえない。テレビCM(通販)を見ていると、ミライスピーカーと言うのを宣伝していた。自分専用のスピーカーを手元に置けば、他の人の聞くテレビのスピーカーとは別に自分の好きな音量に設定して聞けるのだ。うーん便利。でもすごく高い。自分で安く作れないか?やってみた。素材は百均のスピーカー。ステレオでそこそこ良い音がして300円。安い。イヤホン端子に接続して使えて、電源をUSBから供給して音量を調整できる。さっそく買ってきて分解してみた。USB端子からVCC(5V)とGND(アース)を取っている以外に、D+とD-も使っている。音源はイヤホンから取っているのでD+とD-の意味が分からない。恐らくはテレビのON/OFFを感知して電源のON/OFFをしているのだろう。最近の色々な機器のUSB端子は本体がOFFでも充電したり、外付けHDDのON/OF制御が可能なので、これもそう言う使い方をしているのかなと思う。まぁでも気にしない。さっそく使ってみた。え?そう言えばイヤホン端子に差し込むとテレビ本体の音も消えるのでは?ミライスピーカーはどうやって使えるの?色々と調べたら、最近のテレビは「設定」によって、イヤホン端子にイヤホンを指し仕込んでも本体の音を消さないことができるらしい。設定メニューボタンを押して、音声設定→ヘッドホンモード→親切モードと設定すると、確かにイヤホン端子に300円スピーカーを差し込んでも本体のスピーカーから音が出ている。いやー、最近のテレビ(僕のテレビは東芝のREGZA)は進歩している。ところが奥さんに怒られた、奥さんは僕の数百倍も耳が良いので、僕の手元のスピーカーでさえもうるさいのらしい。我家はカーストが厳しいので勝てない。仕方ないので百均の300円スピーカーを改造してヘッドホンを使えるようにしよう。さっそく再度分解して調べてみた。するとちょっとややこしいことに気がついた。僕の頭は古いので、ヘッドホンはR,GND,Lの三端子なんだけど、300円スピーカーの出力はR,RGND、L、LGNDの4端子なのである。うーん困った。RGNDとLGNDを接続してGNDにしても大丈夫だろうか?調べると大丈夫なICも有るけれど、これに使われているICは大丈夫だと書いていない。しかもデーターシートがなかなか見つからず、等価回路図がのっていないので、諦めてアイソレート(直流的に絶縁して交流のみ流すように)した。こんな感じ。コンデンサーCは直流的に絶縁しているだけなので、いくらでも良いのだけれど手持ちの470µFにした。小さいのにすると低音が出なくなるし、大きいと負荷が大きくなりすぎて壊れそう。多分100~500µFくらいが良いのかな?実験中。あれ?変だな、うまくいかない。ごめんなさい。配線がイヤホンとスピーカーが入れ替わっていました。さっそく直すと、無事にヘッドホンが使えるようになりました。よくできましたと奥さんにほめられて、めでたしめでたし。
June 3, 2024
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