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街頭宣伝の後、ご近所を訪ねる。 玄関に入った途端に酸素ボンベが並んでいる。 「酸素を吸っている人がいるんですか」 「見てのとおりです。無ければ生きていられませんから」といわれた。 少し気を使って、「4月から医療費の値上げでかなりあがりましたでしょう」と聞いた。 「大変です。値上げの前までは、1ヶ月850円ぐらいが一気に8倍から9倍にも上がってしまいました。 「本当に大変ですね。医療費の値上げは、自民、公明が支えている、小泉内閣の置き土産だ。地域の業者や商店は苦しくて深刻です」という。 医療の実態は深刻です。 一刻も早い改善を求めていきたいと思います。
2003年08月30日
早朝、仲間がきてくれて北長野駅で街頭宣伝。 障害児のもつ父親が駅に来ていた。 子どもを送ってきたという。 真冬の駅頭で宣伝していたときに、そばによってきて一切れの紙切れをくれた人である。 このときの情景を歌にした。 障害の「子の職頼む」と書き込みし 紙切れもらう底冷えの駅 すぐに思い出した。 「原田さん、事務所に行ったけどいなかったよ。」 といわれた。 又相談があるのか。 心配事の多い人だ。無理も無い障害の子を持つ親だから。
2003年08月28日
いつも一人が今日は中野さんを含めて、4人でチラシまきと宣伝をする。 駅の改札口を背に真向かうギラ天(ぎらぎら太陽)がまぶしい。 投票日まで28日となった。 今が本番。 6人の議席確保は絶対的課題、しかし、少数激戦でなかなか厳しい。 一生懸命演説をした。 今日は、頭がおかしいのか、スムースに組み立てが行かない。 元気も無かったかもしれない。 家に帰って玄関入った途端に、疲れがどっと出てバタンキュウ。 交通事故を起こし、車は大破で廃車したのに本人は元気だった。妻からは「鉄人」の異名をもらったがさすが私も人間。 今日はダウン。 午前中学習休暇。 昼は仲間のおばちゃんたちの手作り、我が家の長ナスとピーマンの油での焼き物、肉じゃが、サラダ全部上手かった。 午後から又、大ハッスル。 演説の後、出てきたお婆さんに「よろしくといったら」「当然ですよ。あんたの話はわかったよ」とひとこと。 訪ねた小売店の奥さんは「聞いていました。市政のことが良くわかりました。いつもここでやってるのを聞いていますよ。勉強になります。応援してるよ」といわれて恐縮した。 元気いっぱいで頑張るエネルギーが沸いてきた。
2003年08月27日
天気は良好の午前中。 団地の一角で街頭宣伝をはじめると、支持者の女性が数人来てくれた。 家々では、暑いので戸と開けて聞いている人も幾人も。 高齢者が多いのでゆっくりとできるだけわかりやすく話した。(つもり) 特に、介護や特養などお年よりの問題を中心にした。 議員の海外視察問題も言ってやった。 あいさつに行くと、「気持ちは一緒だよ。」「いい事いってたね。」「投票につれてって。」などとなり、電話を聞いたり名前を聞いたり、あっちでもこっちでも引っ張りだこ。 どこかの党には負けられないと、投票日前に不在者投票という話になった。 握手をしたら、「こんばんはこの手を洗わないでおこうかな」などと冗談も出てきた。 しかし、ある女性が「ここは姥捨てやまだよ。でもみんな元気だからね」と何の気兼ねもなくいってのけた。 『姥捨て山』が気になり頭にこびりついた。 皺深く苦労苦労を重ね来し 「ここは姥捨て」公住暮らし 雨風を凌ぐ朽ちいる棲みかおば「姥捨て山」と快活にいう
2003年08月26日
今年最高とか、36度の炎天下一生懸命訴えました、長野市のさかさま市政。 街頭宣伝訴えぬきました。「聞いていました、福祉や教育、勉強になりました。」アパート4階からいきなり拍手「わかったよー。がんばれー。」励ましの声は元気のたまもの。 今日の演説は「・・・私はこれまで4期16年間、皆さんのお力で元気いっぱいお年より、子ども達、障害者、不況に苦しむ中小商工業者の皆さんの願い一筋で頑張ってきました。・・・書き込みはあとで・・・
2003年08月25日
冷夏が心配された、この夏だが一転して、ぎらぎらの太陽の照る残暑厳しいう中、街頭宣伝をする。 うだる暑さに負けまいと、気持ちを引き締めての行動である。 仲間も汗びっしょりでのチラシ配布。 一生懸命はいいが体が心配。 それでも出てきて聞いてくれた、おばあちゃんがいた。 石垣に腰かけてじっくりと聞いていた。 こちらも、お年よりの話に力が入った。 暑さにめげ頭の戦いがこれからも続く。
2003年08月24日
浅川流域沿いのお宅を訪ねる。 多くは田中知事の浅川ダム建設中止は「よかったね。」 若い人も高齢者も異口同音だ。 しかし、長野市の市長や議員は住民運動とともに、英断を下した田中知事への賛意は示さない。 足は引っ張っても協力はしない。 しかし、住民は賢明である。 田中知事に弓引く、県議たちは数いるが、長野市議会も共産党の6人の議員以外は皆同じ。 今度の市議選では、「変わり始めた県政、新しい政治の流れを長野市でも」この思いを実現するために良識ある市民とともに全力を尽くしたい。
2003年08月23日
親子3人でいい仕事をしていた、腕のいい大工職人が、不況のありを受けて倒産。 立派な家も無くなり、仲の良かった夫婦も借金の心配から離婚した。 借金の代わりに家も貯金も、これまでに蓄えた財産はすべて没収となった。 倒産と離婚で悩んだ末に、「跡取り」は家から飛び出し蒸発。 社長は病気で入院となり、不幸が立て続けに襲いかかった。 何本かの生命保険を解約し生活費に回した。もう微塵も余裕など無いといって、私の友人を介して相談に来た。 年金も無く、医療費も払えず、食っていけないという。 生活保護しかないので、福祉事務所と相談、1時間。 何とかいい方向に行きそうだが、不況の影響は一家をめちゃくちゃにしてしまう。 世界でも有数の資本主義国日本での一幕は凄惨そのもの。 痛みはこれ以上結構である。 何時までも庶民への痛みを押し付けないで欲しい。 国政選挙とその前の市議選で共産党の出番だ。
2003年08月22日
3村との任意合併協は、大岡村役場で開いた。 長野市役所から大岡村役場までほぼ1時間走ってようやく到着。 合併となれば長野市もかなり広くなることを実感した。 奥深い山並みと緑の木々を潜り抜けて1時間走る間にすれ違った車は1台。 合併でなく、自立の道を選んだほうが住民のためにはいいのではと考えてしまった。 1市3村の事務事業などの調整案の会議である。 今日は住民のいのちや健康にかかわる国保問題が議題のひとつである。 国民健康保険制度は、経過措置はあるが、基本的に長野市に統一することになる。 そこで、私は質問した。 長野市に統一すれば、それぞれ保険料は高くなるのか、低くなるのか。答弁では、保険料は大岡村は8200円、鬼無里は11400円上がるが戸賀駆使は15700円安くなるという。 鬼無里村は11400円も高くなってしまう。 戸隠村は15700円も矢Kすくなることが そこで、意見を述べた。 田っかうなるのは福祉の向上にならない。特にいのちと健康にかかわる問題である。住民の声を良く聞いて調整するのが当然といった。 しかし、当局は「1年間の経過を見て、どうするかは調整する」と応えた。 鬼無里村の委員からも異議ありだ。1年といわず3年でもどうかという意見を出した。 今後(1年後)の調整課題となる。 合併は、調整案の審議をしてなんとなく意見や質問を出してさほどの討論も無く進んでいく。 もっと、委員同士が議論をしてよりよい合併の案を作るべきではないのか。 もっと、委員同士の議論が欲しい。 福祉や教育が後退してもさほど問題にならない。 こんな議論はいいとはいえない。 活発な討論、意見交換が欲しい。 場合によれば傍聴者にも意見を聴取してもいいのではないか。 もっと開かれた、活発な意見交換が欲しい。 このまま進んでいくのかと思うと、少々むなしい気がする。
2003年08月21日
総選挙勝利のための大運動成功の全県の会議があった。 市議選で忙しいが、この会議も当然大切なもので出席した。 帰りのインター出口で、高速料を払っていると、私の宣伝カーを見て、共産党いいね。赤旗は読んでいないけど投票するよ。といってくれた。 同乗している一同、大いに感激。 こんなところにも共産党を応援してくれる人もいるとは、大々感激だ。
2003年08月19日
4年間最後の議会が閉会した。 私も党を代表して一般質問を行った。 合併問題、支援費問題、特養建設と在宅サービスの充実問題などである。 市民の切実な請願も出てきた。 『30人学級をせめて4年生まで拡大を』『消費税の増税は止めて欲しい』『保育園の民営化は見直しを』などである。 いずれも、手分けしてこの請願の採択を求めて討論を行った。 本会議での採決はいずれも否決となる。 この決着は市議選でとなるか。 6人全員勝利で、市民要求実現の力をしっかり確保すること、そのためには、議案提出権をもつこと。 全力を尽くして・・・。
2003年08月18日
暑くなくては稲の成長に影響するのに、相変わらず冷夏が続く。 ようやく穂が出たものの、実るのかどうか心配である。 お百姓さんの話しでは、反収が大きく落ち込むのではないかといっていた。 夜は寒いくらいだから・・・よくわかる。 稲穂を見る度に気になる。 そんな心配をしながら、街頭宣伝をし、近所を訪ねる。 県職員「知事はいいよ。変わり始めたいい県政だと思う。賃金は10%ほど下がったが、やむをえないと思う。ゼネコン優先の県政でなく、暮らしに力の入った県政だと思う。共産党さんもしっかりと応援してやってほしい。それにしても、足を引っ張る勢力がいるのは残念である。」・・・そうです。長野市も同じです。田中知事応援の勢力を強くしないといけませんね。是非、市議選では日本共産党を強く大きくして欲しい。・・・と訴えた。 30人学級の4年生以上の拡大も、対象の子どもさんを持っているお母さん達の切実な願いである。 請願の否決には疑問の声があがった。 やはり、共産党の6議席はかけがえのない議席だ。1議席たりとも減らせない。 今日は、公明党が共産党の悪口を言った宣伝をしていたようだ。 聞いていた仲間が、「ひどい」といっていた。 3月議会で長野市医師会が提出した請願「医療費の値上げの凍結」で国に意見書を上げて欲しいとの要望を、42人の議員のうち4人の公明党議員が反対。それどころか、3割負担、つまり医療費の値上げの主張をしたのである。 こんな福祉に冷たい党には負けるわけにはいかない。 お金が心配で医者にいかれない。では本当に困る。 怒り心頭である。
2003年08月17日
不況の影響で仕事がなく、苦しんでいるNさん怒りが小泉内閣へ。 長野県や長野市はオリンピック以降県内の市町村と比べて、仕事が少なく大変であるという。 長野冬季オリンピックで10年先も前倒しで公共事業が進んだため、その後の公共事業は極端に減ったという。 オリンピックによる社会資本の整備で、当初は経済波及効果で景気は続くものといわれたこともあった。 しかし、現在は違う。 長野の特殊な経済の停滞と、小泉内の経済政策の失敗がどん底状態となってしまった。 一刻も早く小泉内閣は退場してもらいたい。 今こそ、景気を良くすることが必須条件だ。 そのためには、経済の6割以上を支えている国民の購買力に火をつけること。国民の懐を暖めることである。 医療費を上げたり、介護保険を上げたり、年金を削り、さらに、将来、消費税を二桁にするとか、経団連の奥田会長の言うように、16%に引き上げよ。では景気は良くならない。 と話した。 この人は、「私は良くわかっています。 今、共産党が頑張らないといけないとき。」 ゼネコン優先の政治から、国民の暮ら優先の政治へと大きく変わるとき。 日本共産党への大きなお力添えをお願いしたいと訴える。 今日は、雨上がりで、空は真っ青、天気も良く、少しは暖かい感じであったが、気持ちのいい陽気である。 稲の成長にはいいとはとてもいえない。 ようやく、稲穂が出始めたところ。 これで寒さがさらにきつくなると、稲作に多大な影響を及ぼすことになる。 暑くなって欲しいもの。 午後の5時過ぎまで、目いっぱい訪ね歩き自らを宣伝してきた。 今日は送り盆である。実家に帰り、兄弟、甥っ子、姪っ子と墓にいき、 樺をたき、20体ほどある石仏に線香を上げ、水をかけた。 「じいさん・ばあさんこの明かりでお帰りお帰り」と唱えながら手を合わした。 9月21日まで元気に活動のできるようにと。・・・
2003年08月16日
今日、8月15日は58回目の終戦記念日である。 昼の12時に長野駅前で、街頭宣伝で訴えた。 中野さん、石坂県議、阿部市議、永井市議予定候補、民青県副委員長と私が担当した。 私は「・・・長く続いた15年戦争は、アジアの人々2000万人、日本の国民310万人が犠牲となりました。 どこの家庭でも、なくなった方々と関係のない家はないほどの多くの人々がなくなりました。 忌まわしい、悲しいこの戦争は2度として欲しくない、してはいけないと誓い、憲法に政府の行為によって再び戦争はしない、という戦争放棄をうたいました。 しかし、イラクへ自衛隊を派遣するための、イラク特措法を作った。イラクには安全な場所はどこにもありません。 だから、重武装をして派遣しなければならなくなりました。 小泉首相が殺されるかもしれない。殺すかもしれないと戦争の可能性まで言ってのけました。 これほど憲法を踏みにじることはありません。 戦争はしないという憲法を守り、自衛隊はイラクへ派遣するな、平和憲法を守ろう、の声をさらに大きくしようではありませんか。 日本共産党は戦前から戦争反対を主張してきた党として、世界やアジア日本の平和を守るため全力を尽くします。・・・」 今日は、古里、吉田、若槻と連続での宣伝・対話を行う。 街頭宣伝のあと近所を訪問。 「聞いていました。よくわかりました。応援します。」 「頑張っていますね。駅頭で頑張っていること良く知っていま す。駅をきれいにしていますね。」 「あちこちでやっていますね。すごいことです。」 盆踊りの太鼓の音が聞こえてきました。地元の上野で8時近くまで訪問活動をしたが、神社の境内での踊りの賑わいが伝わってきます。 訪問した家では、「田中知事はいいですねー。」お願いと盆踊りが交差して大忙しだ。 今日も元気に楽しく1日が無事に終わりそうだ。
2003年08月15日
盆入り二日目。 確かに陽気がおかしい冷夏の感じだ。 かんかん照りがあたりまえの天気が、まったく違うのだ。 雨のせいもあってか、涼しいというか少々肌寒い。 早朝は北長野駅での宣伝。 お盆休みもあって、通勤する人が少ない。何時もの3分の1だ。 そこえ雨ときている。チラシの受け取りも極端に少ない。 雨の中、街頭からマイク宣伝をした。 F予定候補の地元を訪問した。 どこのお宅へ行っても、「ここは地元の候補者を押しているから・・・」と軽くあしらわれる。 さすが、長期に及んで議員活動をしているので、強いというか凄みがあるのか。 しかし、中には「議長さんまでやったからもういいんじゃないの」という人もいた。 ・・・田中知事のダムを辞めて、30人学級や宅老所を作る、特養への援助など、福祉や教育や暮らし応援の県政に大きく変わり始めてきた。 私はこの県政は賛成。すべてよしではないが、基本的の税金の使い方が変わってきたことはいいと思う。」とはなした。 多くの人は賛意を示してくれた。 日本共産党議員の前進こそが市民の暮らしを守る力。 告示まであと一ヶ月だが全力を尽くして6人全員勝利を・・・・
2003年08月14日
来月14日は市議選告示日。あとちょうど1ヵ月後となる。 気負いだけが先に行く。 早朝の駅頭宣伝は桐原駅である。 盆休みで出勤する人が少なく、チラシも何時もよりは少ない。 中野さんも応援に来てくれた。 二人でマイクで訴えた。 「・・・8月の暑い夏の58年前、広島と長崎で世界ではじめて原爆が投下されました。一瞬にして21万人が犠牲となりました。 強烈な放射線と爆風は人々を焼き、殺し尽くしました。 残虐な兵器、核原爆はつくるな、使うな、持ち込むなの非核3原則は日本の国是。 世界にアピールし、地球から核兵器をなくそうの声をさらに大きく広げよう。と訴えた。 市政についても、訴えた。 今日は、迎え盆である。 昨年の盆以降になくなられた知人へのお参りでそれぞれのお宅を訪問した。 行く先々で、市議選のことが話題となる。 我が地域にも、多くの予定候補者が来ていることがわかった。 並な闘いでないことがあらためて認識した。 盆などやっていられない。
2003年08月13日
定例の三才駅での街頭宣伝を、中野早苗さんと行い市役所へ急ぐ。 9時集合で議会対策である。 10時から本会議で一般質問である。 今日は、市議団二人目の私の番である。 予定候補者としての活動の合間をぬっての質問準備で、大変忙しかった。 質問と答弁含めて39分間の持ち時間である。 ・合併問題、・障害者の支援費問題、・特別養護老人ホームの建設と24時間ホームヘルプサービスの問題、・議員の海外視察問題、・浅川流域対策問題と土石流災害問題など6項目を取り上げた。
2003年08月11日
楽しく元気な「原田のぶゆき励ます集い」は、140人参加。 感動のうちに終了する。 オープニングは、地元の三味線の会「秀喜衛会」7人の演奏で始まった。 伝統の芸術をじかに触れることができ最高であった。 次はマジックショーである。 『原田のぶゆき・必勝』のマジックには「うーん」・・・ 疲れました又あとで・・・
2003年08月10日
中野早苗さん、石坂県議、宮崎党市議で経済文教委員を報告者として「30人学級規模についての懇談会」を開いた。 30人ほどの参加者であった。続きはあとで・・・
2003年08月09日
今期最後の議会一般質問が始まる。 わが党市議団の大ベテラン、伊藤議員は60時分きっかり質問をした。 自衛隊のイラク派遣、国保問題、30人学級などなど市民の切実な問題を正面から取り上げた。 明快な質問だった。 文句なしだ。 我が同級会の後援会を開いてくれた。 15人が集まり意気投合、一本締めで気持ちを引き締め頑張ろうと誓い合う。 同級生はありがたい。自分も大いに元気が出た。
2003年08月08日
早朝定置定点で、早朝から照りつける灼熱の太陽の下、マイクを握って宣伝。 はじめる直前に、ジープが宣伝カーの傍らで止まった。 女性が忙しくよってきた。 「原田さんですか。共産党ですね。新婦人を探しているんですが教えて・・・」という。 早速電話番号を聞いて声を出した。 朝から幸先のいい日である。
2003年08月07日
終戦の直前に、アメリカは実験をしたかのように、広島に原爆を落とした。8月6日である。14万人が瞬時に放射線と爆風で死んだ。 その後の犠牲者はあとを立たない。 今も続いている。戦争は終わっていないのだ。 今朝はその話を中野さんがした。私は市政報告をする。 午後、若槻支部の仲間と、街頭宣伝をした。ここで核兵器なくそうと訴えた。 石坂県議からの紹介で生活保護の相談があった。 息子のことである。 厚生課の職員の聞き取りなどで、何とか生活保護の対象になりそうだ。 小泉内閣の構造改革は暮らしが良くなることであるはずが、逆の方向である。 ここ数ヶ月の間に生活保護の相談は何人もいた。 皆深刻そのもの。 益々生活が苦しくなるばかり。 よくぞ構造改革が進めば暮らしは良くなるといったものだ。 とんでもないこと。福祉や暮らしの舵取りは厚生労働大臣。 これが「福祉」を標榜する公明党出身だから問題だ。 長野市議会でも、長野医師会の『医療費引き上げ凍結を国に意見書を上げて』の請願に公明党の4人の議員は反対した。 そして、引き上げを主張したのである。とても庶民の味方ではない。 この党がいくら「福祉・福祉と叫けび、のびても・・・」市民の暮らしは良くならない。全力で頑張る決意だ。
2003年08月06日
子育てネットワーク代表の中野早苗さん、新日本婦人の会長野支部の皆さんを中心に市教委と懇談をした。 党市議団も全員が参加。 長野県は3年生まで拡大した。市町村がはじめれば県は援助するとしている。市教委も努力し中学校を含む全学年で実現をと要望。 これまで一貫して、要望してきたこと。 応えて欲しいと、30人学級で子ども達が楽しく学校へ行っている姿を参加者が自ら訴え、子育ての体験を話し、強く要望した。 市教委は、長野県は見通しも、準備もなく急にはじめた。金もかかること。 として、長野県の積極的な努力に水を差す態度である。 市教委自らも努力し、少人数学級のよさを拡大し、子ども達がすすすく育つ環境をどう作るか、長野市の子どもへの責任である。 義務教育の責任は市教委にあるとの自覚はどこかへ飛んでいる。 せめて、クラス替えが心配な4年生についてはやってもいいのではとの強い要望には応えるべきである。
2003年08月05日
Sさんは、4年前の市議選で、2ヶ月も前から私の宣伝カーの運転手で協力をしてくれた。 おかげで私も勝てて、日本共産党は1名増で6人全員当選を果たした。 しばらくして、Sさんが農作業のあと一輪車で家に帰る途中で倒れた。 だいぶ長い間発見されず、意識のないまま病院へ担ぎ込まれた。 手遅れであった。 意識は回復せず、寝たきりで今日に至った。 たまに見舞いに行き、名前を言うと、わかるのか、大きな口をあけて泣いていた。 私とは、大変なかの良い関係で選挙活動もいいコンビで頑張った。 しかし、ついに病には勝てずに、69歳でなくなった。静かに永い眠りについたという。 残念至極である。 酒が好きで、よくいっぱい酌み交わし楽しいひと時を過ごしたことがある。 市議選は、まためぐってきた。 私は5期目の挑戦となる。少数激戦だ。 公明党は1増の5議席を狙っている。 その公明党なんと「自衛隊をイラクへ派遣せよ。」長野医師会の「医療費値上げ凍結」の請願に反対した。そして、医療費の引き上げを主張し、3割負担を容認。 今どこのお宅へ行っても、医療費が上がり、介護保険もあがり、逆に年金が削られたことに怒っている。 こんな党には負けられない。 有権者への働きかけをさらに広めなければ。・・・
2003年08月04日
街頭宣伝のあと近所を訪問した。 4年生や5年生のいる若いお母さんと話す。 うちは38人クラスで多すぎる。もっと少人数がいい。 少人数学級のよさは皆承知している。 二人のお母さんから田中知事の30人学級について賛同の声である。 次は、4年生以上である。口々に是非お願いしたいとの声が寄せられた。 6月議会では、30人学級の拡大を求める請願を、日本共産党以外の議員で反対し否決となった。 とんでもないことと厳しく指摘した。 県がやろうとしているのに、長野市は協力しないとはけしからん話である。 長野市が6年生まで30人学級にするとすれば、40人の先生が増え、約1億円あればできるのである。 国はやめた、県も来年やめる、長野市もきっぱりやめればいい。 長野市は同和対策に毎年2億円。削ればおつりが来る。 やろうと思えばできないことはない。 子どものことを思えば。 全力で頑張り実現したい。 足を引きずり玄関に来たおばあちゃんの話。 4本の足に戸車をつけたいすを頼りに、足を引きずりながら玄関まで来てくれたおばあちゃんとその夫と話した。 「原田さん遅かったよ。2~3日前に地元の人来たので書いちゃったよ。」と言われた。 私は、「誰を書いても自由だしそれはいいですが、今の市政を聞いて欲しい」特養などお年よりに冷たい市政について話した。 しかし、納得していないようだ。・・・医療費上げて、介護保険料上げて、おまけに僅かな年金まで削り、お年よりいじめをしている。その一方で、皆さんの税金を使って、自民党と公明党が中心となっている、小泉内閣はイラクへ自衛隊を派遣する法律を作った。どう思いますか。・・・と聞いた。 これには怒り心頭。「とんでもないこと」と一喝した。 「あれは間違いだ。テレビ見ていて何時も思っていた。」 力ずくで小さい国を抑えるのはいけない。弱い者いじめだ。 こんな弱い者いじめはいけない。 県政のようにダムを中止して福祉や、教育などお年よりや子ども達、障害者などにお金を使っている。こういう、弱者を大切にする市政にしたい」といった。「そうだなー。そんな気がしてきた。考えさせて欲しい」と、老夫婦は賢明な対応をしてくれた。
2003年08月03日
70歳の中国帰国者Aさんから、生活相談があった、深刻である。 15歳で家族の暮らしを考えて、国策である中国へひとりで渡る。 中国へついた3ヵ月後に終戦となる。 政府はわかっていたはずだと怒りを隠さない。 右も左もわからない、他国での生活。 食うか食わずのどん底生活。馬の足跡にたまった汚い水をすくって口にした。 昼間は危なくて動けないので、夜に食べ物を捜し歩く生活が続いた。 時には、畑の野菜を黙って掘り起こし食していた。 女であり、身に付けているものや顔には泥を塗り、汚いふりをしていた。 中国には仕事に来たがありつけるわけもなく、ただただ、さまよっていた。 幸いにして、現地の中国人と16歳で結婚できた。 農家の長男である。流れ落ちる汗をして苦労の農業を続けた。 50歳台で夫は死んでしまった。8人の子どもを育てて生きてきた。 日本に帰ろうと思い金をためた。子どもを残して先に帰ってきた。 その後、子どもと孫達38人が次々と日本へ帰ることに。 帰ってきた子ども達は職もなく大変な苦労をしてきたが、かろうじていろいろな職につくことができた。 しかし収入は少なくみんな苦労して生活している。 自分も厚生年金月に4万円程度では食えない。 子ども達に頼るわけにも行かず、生活保護をとの相談となったのである。 福祉事務所へ生活保護の申請に同行した。 生い立ちを話し、家族のことも伝えた。 結果として生活保護が受けられるようになった。 よかった。収入の少ない子ども達には頼らず何とか生きていける。
2003年08月02日
国の方針通りに、H17年3月合併に向けて、速いペースで合併の調整案が審議されていく。 今日も、膨大なページ数の調整案が出てきた。 豊野町から出てきた、土地開発公社からの債務負担行為35億円が合併の際長野市移管される。 長野市よりも人口の少ない町でありながら、なお大きな債務負担額であり、どういうものなのかと質問をした。 売却のできない工業団地の造成地だと説明された。 売れ残りを長野市へ移管はいかがなものか。 相応しい対応をすべきではないかと聞いた。 長野市の助役は、「バランスシートを考えていく。合併までに売却できるように努力する」と答弁。 この不況の元、出きるはずはないと直感する。 水道料や下水道料の使用料で気になったので聞いた。 豊野には母子世帯や障害者には減免制度があるが、 合併で長野市に統一するとなっている。 そこで、この人達はどのくらいの世帯あるのか、尋ねる。 30世帯という。約3000世帯の10%である。 これは長野市に合併すると同時に、「長野市に統一」は無理がある。救済すべきだと意見を言う。 様々な形で救済できるとしたが納得できず再質問。 救済できるのかできないのか。 答弁では特別減免は保障のかぎりではなさそうだ。 私は、救済せよと意見を述べた。 豊野町の委員から(町議員)からは、「豊野町では今後アンケート調査をし合併の有無を町民に聞く」という発言があった。 長野市の委員(市議)からは、「問題ではないか。合併を前提で協議をしているのに問題あり」だといった。 私は不規則発言で「そういうこともありだ」といっておいた。・・・任意合併協議会は、編入する側もされる側も、本来は住民の声が反映された事業の調整を行う場所である。 調整案を住民に説明し、現状で合併協議を進めていいのかどうか、その有無を住民に問うことは「合併は住民が決めるもの」という国の考えからして文句はないはず。 民主的運営上当然である。ところが長野市の議員は「とんでもない」「いまさら何言っているのか」「もし合併反対が過半数になったらどうするのか」心配しているのである。 豊野の町長もきちんと「アンケート調査をして町民の意向を聞く」と明確だ。 合併の原則は福祉の向上であり、今回の任意合併協議会での調整案の中には、明らかに福祉や教育などの後退があった。 町民に経過を良く説明して、アンケートを取り、町民の声がきちんと議会や協議会へ反映されることが民主的運営というもの。このことが強く求められている。
2003年08月01日
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