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総裁選報道は公平に=自民自民党の総裁選挙管理委員会(野田毅委員長)は28日、新聞・通信各社に対し、総裁選に関して「公平・公正」に報道するよう文書で要請した。過去の総裁選でも同様の要請文を出しているという。文書は「新聞各社の取材等は、規制いたしません」とした上で、各候補に関する記事や写真は、内容や掲載量を平等・公平に扱うよう求めている。---自民党(あるいは安倍政権)自身が、およそマスコミに対して(それ以外にも同様ですが)平等、公平になど対応していないのに、相手に対してだけ平等、公平に扱え、とは、どの口がそれを言うのか、と思います。しかも、自民党がこんなことを言い始めた途端に、こんな騒動が起こっています。石破派、飯島勲内閣官房参与の文春記事「石破茂は総裁選を辞退せよ」に怒り 官邸に抗議へ自民党総裁選に出馬する石破茂元幹事長率いる石破派は飯島勲内閣官房参与が週刊誌に石破氏への批判記事を掲載したことをめぐり、首相官邸に抗議する方針を固めた。記事は「石破茂は総裁選を辞退せよ」の見出しで週刊文春9月6日号に掲載された。飯島氏は記事で、石破氏をめぐり「まるで学級委員の選挙だ」とし、「政策も政局も語らず、ただ反安倍(晋三首相)を訴えるだけなら討論会もへったくれもない。立候補を辞退すべきだと進言したい」と批判した。石破派の平将明広報委員長は記者団に「政治評論家ではなく内閣官房参与が(総裁選候補者に)『辞退しろ』とは聞いたことがない」と語り、政府関係者に抗議の申し入れを検討する考えを明らかにした。---内閣官房参与が相手候補を非難する記事を出すことは、「平等・公平」なんですかね、自民党さん。そういえば、産経新聞(紙の紙面上は知りませんが、少なくともネット記事では)とか、WILLだったかHANDAだったかの極右月刊誌も、相次いで石破攻撃記事を出していますが、あれも「平等・公平」なんでしょうか?それとも、「平等・公平」を求める相手は、新聞と通信各社だけで、雑誌は対象外と?(爆)いずれにしても、これでは、あからさまなポジショントークであり、自民党の「総裁選挙管理委員会」自身が平等でも公平でもないことを露呈しているだけ、と言われても仕方がないでしょう。こんな要望は、一顧だにする必要はない。もっとも、安倍も石破も似たようなもの、ではあります。安倍はどこから切っても極右、石破が歴史認識だけは安倍よりずっとマシですが、それ以外はだいたい極右。極右度100%対極右度75%の対決でしかありません。私としては原発推進、日米軍事同盟強化路線の石破を評価したり応援したりする気には、とてもなれません。石破が自民党を離党し、これまでの主張の一部でも変更するなら話は別ですが。そういう意味では、両方を等しく罵倒すれば、結果として「平等・公平」になるかもね。
2018.08.31
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生きたまま返して=誘拐された息子、5年不明―母来日、実態語る・メキシコ麻薬戦争メキシコ全土に広がった麻薬戦争に巻き込まれ、2013年に誘拐された息子の捜索を続けている東部ベラクルス州の行方不明者家族会「ソレシートの会」のルシア・ディアス代表が来日し「メキシコの真実を知ってほしい」と訴えている。9月6日までの日本滞在中、東京、京都、大阪で講演を行う。息子はベラクルス市で従業員6人のイベント会社を経営していたが、押し入った何者かに拉致された。警察特殊部隊による初動捜査で、息子の携帯電話の売却に従業員の関与が分かったが「それでも誰一人捕まっていない」。要求通り身代金も払い、車もオートバイも渡したが、息子は帰ってこない。特殊部隊が手を引くと、警察は動かなくなった。捜査を求めても門前払いばかり。同じ境遇の行方不明者の親族たちと知り合い「ソレシートの会」を立ち上げ、2カ月で40人の団体に発展した。現在の会員は250人。16年5月、ルシアさんらがベラクルス市中心部でデモの準備中に男が車で現れ、地図のコピーを渡して立ち去った。十字架が書かれ、秘密の墓地の地図だと直感した。「息子を見つけたいだけだ。犯人を捜しているのではない」と乗り気でない警察を説得。2カ月がかりで許可を得ると、地図が示したベラクルス市郊外サンタフェの丘で発掘を始めた。これまでに300人近い遺体が見つかった。もっと多いと考えられ、会は今も発掘を続けている。メキシコでは、DNA鑑定を当局に委ねざるを得ない。遅々として進まず「日本が支援してくれないか」と呼び掛けている。身元が分かったのは、わずか15人。このうち、遺族が警察に届け出ていたのは5人だけだった。一般に「警察に言ったことは犯罪組織に筒抜けになるから、行方不明者の家族の7割は怖くて届け出ない」と言われる通りの数字だとルシアさんは感じている。---メキシコは3回渡航したことがある大好きな国で(3回目は新婚旅行でした)、是非また行きたい、とは思うのですが、麻薬戦争の陰惨すぎる状況を見ると、二の足を踏んでしまう部分はあります。一般的に、もっとも危険なのは米国との国境に近い北部諸州ですが、米国とは国境を接していないシアロナ州にも、シアロナ・カルテルという恐ろしいマフィア集団がいるし、記事にあるベラクルス(メキシコ湾岸の州)も米国との国境沿いではありません。ただ、観光客がいるような場所はそんなに危険ではなく、実際今も日本から大手旅行会社による多くのツアーが組まれています。それに、演奏仲間が3年ほど首都メキシコ市に家族ぐるみで赴任していましたが、特に犯罪に巻き込まれる事態には遭わずに帰国しています。そういう意味では必要以上に恐れる必要はない、とは思うのですけど、私が行ったことがあるような場所で大規模な殺戮事件が起きた例もあるのでね。(もちろん、確率の問題ではありますけど)メキシコの麻薬戦争は年間の死者が2万人を超えるときもあるほどの凄まじさです。人数だけでも慄然としますが、加えて、殺害の理由がはっきりしない、言い換えれば、たいした理由もなく気に入らない相手を殺戮する、しかも、遺体に激しい拷問の後が残っているなど、殺し方が凄まじく残酷である、という点が目を引きます。また、犯罪組織の武装もきわめて強力で、拳銃レベルではなく、自動小銃、機関銃、対戦車ロケットなどが使われています。もう一つの問題は、行政、警察、軍組織の腐敗が進行していて、犯罪組織にまともに対峙できていないことです。対峙できないどころか、犯罪組織に買収されたり脅されたりして、彼らの犯罪に加担している例が多いのです。もっとも酷い事例として、メキシコの数ある犯罪組織に中でももっとも凶悪と評される「ロス・セタス」があります。ロス・セタスは、メキシコ陸軍の中でも最精鋭の特殊部隊の指揮官だったアルトゥーロ・グスマン・デセナ大尉が創設して、同僚や部下を高額の報酬で引き抜いて組織したのです。陸軍最精鋭の特殊部隊が、指揮官筆頭に何十人もまとめて麻薬組織に寝返るくらいですから、ほかは推して知るべし、です。一つの町の警察署の警官が、全員犯罪組織に買収されて、全員が罷免されて逮捕された、なんて話もあったように記憶しています。買収の甘い罠に落ちるとはけしからん、と言いたいところですが、前述のような状況を見ればわかるように、買収の甘い罠を毅然と拒否すれば報復に殺される(この上なく残虐なやり方で)のですから、一概に買収されるものが悪い、とは言い切れない部分もあります。このような言い方はわたしとしても不本意ではあるのですが、メキシコの現状は、破綻国家同然と言われても仕方のない側面はあります。(ある側面においては、ですが)いずれにしても、一般市民から見れば、「警察に言ったことは犯罪組織に筒抜けになるから~怖くて届け出ない」というのが現実です。残念ながら、こういう傾向は、多かれ少なかれ、ラテンアメリカの多くの国に見られます。制服(あるいは軍服)を着ている連中は信用ならない、と言うのは、ラテンアメリカの一般的傾向です。日本という国にも大きな問題はありますけど、少なくとも現在の日本で、犯罪組織に殺されたと思しき300人もの遺体が発見されたら、それは国家レベルの重大事件になり、当然警察は総力を挙げて身元確認と犯人検挙に当たるでしょう。犯罪の規模で言えば、言ってみればオウム真理教のサリン事件に対して警察が何もしなかった、というのと同じ状態ですから、「日本ではありえない」と言うしかありません。(もちろん、「現在の」日本では、ですけど)犯罪組織の凶悪さはもちろん重大問題です。しかし、あえて言えばどこの国にも程度の差はあっても犯罪者はいます。犯罪者が犯罪を犯すのは当たり前(と言ってはおかしいかもしれませんが)なのです。しかし、それを取り締まるべき警察、あるいは軍などの治安組織が犯罪組織に加担していること、犯罪者が犯罪を犯すことよりはるかに深刻な事態です。そのような状況を打開できない限り、犯罪組織による凶悪犯罪を制圧することは難しいといわざるを得ません。先日の大統領選で、左派のAMLO(印ドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール)候補が勝ったのは、様々な要因がありますが、右派のPAN政権も中道のPRI政権も、麻薬組織の撲滅や軍、警察組織の浄化ができなかったことも大きな要因でした。逆に言えば、今度就任するAMLO大統領の責務は重い、というところです。
2018.08.28
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26日(日)も猛残暑 40℃近い暑さになるところも西~東日本では、晴れて日差しがジリジリと照り付けます。広い範囲で最高気温が35℃以上の猛暑日となり、40℃近くまで気温が上昇するところもありそうです。冷房の活用や水分、塩分のこまめな摂取など、万全の熱中症対策を意識的に行うようにしてください。(以下略)---どこまで続く、この暑さという感じです。先週の土日はかなり涼しくて、このまま暑さが去ってくれれば、と思いましたが、台風とともに猛暑が復活してしまいました。そんな陽気なのに、この土日もせっせと屋外練習に余念がない私です。土曜日は葛西臨海公園で鳥の撮影をかねて笛練習。(特に珍しい鳥はいませんでした)朝早く行って、鳥の撮影の合間、8時過ぎに吹いていたのですが、もう充分に暑くて(海沿いなので風が強いのが救いでしたが、笛を吹く上では風は息を流されるので、本当は風がないほうが助かります、そんなことを言っていられる気温でもありませんでしたが)水筒は持っていったのですが、カラになってもって帰りました。正直言って、やや熱中症気味な感じで、少し頭が痛く、午後公園時阿波踊りを見に出かけるまでのあいだ、家でくたばって寝ていました。その高円寺阿波踊りも、猛烈な暑さで、見て写真を撮っているだけのわたしがこんなに汗をかいているのだから、踊り手はきついだろうなと思いました(いや、想像ではなく、先月29日の哲学堂公園での演奏は、わたしも、ほぼ頭からバケツで水をかぶったのに等しいくらい汗をかきました)。それなのに、今日、日曜日もめげずに屋外練習でした。なんと、不注意なことに水筒を持っていくのを忘れました。水なしでこの陽気に2時間屋外練習、よい子の皆さんは真似してはいけません。幸い、今日は特に不調になることもありませんでしたが、汗は滝のようにかきました。昨日も今日も、暑さのせいか笛はやや不調で、ケーナの3オクターブの上の方が途中から出なくなってしまいます。エアコンの効いた室内なら出る音が、屋外では出ない、やはり暑さのせいでしょうね。この暑さ、いつまで続くのかと思ったら秋の気温、平年より高い=厳しい暑さ、9月上旬までか-気象庁気象庁は24日、秋(9~11月)の3カ月予報を発表した。全国的に暖かい空気に覆われやすく、平均気温は東・西日本と沖縄・奄美で平年より高く、北日本(北海道と東北)で平年並みか高い。降水量は北日本の太平洋側で平年並みか多いが、それ以外はほぼ平年並みの見込み。気象庁によると「9月上旬までは厳しい暑さになる可能性がある。秋の訪れは平年並みか平年より遅い」とのこと。(以下略)---どうやら、暑さはまだ続くみたいです。9月上旬まで・・・・・・。先日告知したように、9月9日に中の区の哲学堂公園でまた演奏します。建物の中ではありますが、エアコンはありません。それまでにこの酷暑がおさまっていないと、またも滝のような汗をかきながら演奏することになりそうです。何とか、気温下がってくれないかなあ。
2018.08.26
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徳島で阿波踊りを巡る騒動が報じられました。それまで阿波踊りについては特に知識もありませんでしたが、騒動についてちょっと調べていくうちに、騒動のことより、焦点となった「総踊り」のド迫力(YouTubeに動画がいっぱいあがっている)に圧倒されてしまいました。これは凄い踊りかも、とは思うものの、まさか阿波踊りを見るために徳島までは行けないなあ、と思ったら、東京でも阿波踊りをやっていることを思い出しました。(知識としては高円寺阿波踊りのことは知っていましたが、今まで行って見たいと思ったことはありませんでした)で、今日行って来ました。が、人人人、すごい人波で、その後ろからだと踊りはロクに見えません。写真はカメラをかざして撮った(失敗写真も多い)けど、直接はあまり見えなかったのは残念です。2日間で来場者数100万人というのですから、それも仕方がないところです。以前参加していたザ・よこはまパレードが来場者数40万人近いというので(開催は1日だけ)、2日間で100万人は、それを上回る人出です。ちょっと後悔しました。ザ・よこはまパレードは、自分自身が出演者だったからよいのですが、観客という立場だと、このくらい規模の大きなイベントは、こうも出演者がよく見えないものか、と。所々、間近によく見える場所もあったのですが、そういうところに限って、「ここは通路ですから止まらないでください」となる。踊りをちゃんと見ようと思ったら、こんな大規模なまつりではなく、もっと人の少ないイベントを探すか、YouTubeで動画を見るほうがいいかも、なんて思ってしまいました。ただ、(断片的にしか見えなかったとはいえ)踊りはやっぱり素晴らしかった。江戸っ子連。わたしが到着したときには、踊り手はもう踊り始めて先に進んでいて、お囃子しか写真は撮れませんでした。が、笛吹きなわたしにとっては、むしろこちらのほうが興味があったりして(笑)三味線と篠笛この辺りは撮影に丁度よかったのですが、通路なので止まれません。この写真は縮小してあるのでよくわからないですが、元写真を等倍に拡大すると、篠笛は右手は指の腹(第1関節より上)で、左手は第1関節と第2関節のあいだで音孔を押さえているんですね。実は、わたしもケナーチョ(低音用の大型ケーナ)を吹くときはそのように押さえています。そうしないと左手の指は音孔に届かないからです。ただ、篠笛は管が細くて、肉厚も薄いので、音量的にはなかなか厳しいものがありそうです。お囃子の主役は太鼓と鉦、特に鉦は音が鋭いので遠くまで届きます。篠笛はどうしてもそれら打楽器に音量で押されます。さらに厳しいのは三味線で、かなり近くに寄らないとほとんど聞こえません。華純連。男踊り、凄くかっこよかったのですが、この気温と湿度の中ですから、そりゃ汗びっしょりでしょうね。浴衣の女性は、それだけでも魅力的ですが、編み笠をかぶった女性の後姿は、ドキッとするほど色っぽいな、と思います。なまめかしい、と言っては失礼かな。(100%オトコの視点丸出しで、すみません)でも、やっぱりみんな汗びっしょり。江戸浮連。ちょうちん担ぎ(というのかな?)が白人系の外国人でした。他にも、外国人が踊り手や笛、太鼓に加わっている連はいくつかありました。でも、そうとわかるのは、白人系や黒人系など肌の色がはっきり違う人だけですから、実際には外国人の参加者はもっと多いのかもしれません。参加者だけでなく、観客も外国人はかなり多かったです。同じく江戸浮連のお囃子。また細かいことを書くと、手前の奏者は左手も指の腹で音孔を抑えています。奥の女性は左手の第1関節と第2関節のあいだで押さえているようです。(元写真を等倍に拡大しないと分かりにくいですが)この写真では分からないと思うまで等倍に拡大すると手前の奏者。左人差し指が、第1関節の上で穴を押さえています。(ただ、中指と薬指は第1関節と第2関節のあいだで押さえていそうですが)奥の奏者。左人差し指は第1関節と第2関節のあいだで穴を押さえています。ということは、篠笛って、指穴の押さえ方について、明確な決まりはなく、各自押さえやすいように押さえる、ということでしょうか?晃妙連また江戸っ子連。それにしても、下駄で踊るのって、どう考えても踊りにくいと思うのですが、それを言えばハイヒールも似たようなものか。ただ、力学的に考えて、歯の高い下駄で前傾姿勢で踊ると、歯が折れる可能性がありそうに思うのですが、よほどしっかり作ってあるのか、踊りの最中に下駄の歯が折れる、なんてことはないのでしょうか?なお、さすがにお囃子の人たちは、下駄ではなく草履なのですね。粋輦(読めん!「すいれん」でしょうか?)演舞場なのですが、分厚い人垣で、踊りはあまり見えません。写真はカメラを掲げて撮りましたが。履物の差はありますが、足の運び方を見ると、「上手い踊り」の足運びって、基本的に洋の東西を問わず万国共通なんだな、と思います。踊りの基本は、足捌きと体の姿勢かな(と、自分は踊れないくせに知ったようなことを言ってみる)びっくり連いわゆるフォルクローレもそうですが、阿波踊りも、おそらく、その原型からは相当に変化しているのだろうと思います。振り付けや動きが、江戸時代と同じであるはずがありません。今の目で見て「かっこいい」と思えるような振り付けは、相当新しいんじゃないかと思います。でも、それが「民俗芸能」(あるいは民族芸能)の本来の姿なのでしょう。変化する、新しいものの影響を受けるというのは、「生きている」証でもあります。あまりに踊りが見えにくいので、後ろを通過する踊り手を観察。なんと、マイクソフト連。企業の従業員で参加する「企業連」が結構あるそうですが、まさかマイクロソフトとはねえ。団扇が、連の名前ではなくてWindowsになっているようですが(笑)徳島天水連というのは、本場徳島から参加した連だそうです。が・・・・・・だけど、背中に挿しているうちわは平和連となっています???(改めてよく見たら、平和じゃなくて天水ですね、失礼しました)人はどんどん増える一方で、場所を移動するたびに(前述のとおり、見えやすい場所は移動を求められるので否応なく動くしかない)踊りが見えにくくなって行きます。それに、終了時間である8時まではとてもいられないので、とうとう6時頃にあきらめて帰路に着きました。が、なんと、こんなところに特等席があった!!高円寺駅のホームです。ただし、駅も大混雑で、当然電車も来るので、ゆっくり見ることはできませんが。それにしても、篠笛いいなあ、吹いてみたいなあ(というか、かなり昔ですが、吹いてみたことはあります、もちろん、問題なく音は出ました)。踊る阿呆に見る阿呆、と言いますが、踊る阿呆は今更私にはできそうもありませんが、踊らせる(つまり伴奏)ほうなら、不可能ではないかも。もっとも、篠笛を吹けることと、篠笛らしい音がすることは別の問題です。フルート奏者がケーナを吹くとフルートみたいな音がして、ケーナ奏者がフルートを吹くとケーナみたいな音がします。だから、わたしのフルートはどうしてもケーナっぽさは抜けません。篠笛を吹いても、多分ケーナの音になってしまうでしょう。ケーナと篠笛を比べると、前打音を多用する、音の最後を切り上げる装飾音などは似ている一方、ケーナにはビブラートとタンギングがあって、篠笛には(あまり)ない、という点が違います。長年のくせで、音を伸ばすとどうしてもビブラートが入ってしまうし、タンギングなしで、かすれたりひっくり返ったりしない音を出すのは、結構難しいのです。
2018.08.25
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トランプ時代の合衆国 怒れる若者、社会主義旋風(その1) 米政権の右傾化嫌いトランプ時代の合衆国 怒れる若者、社会主義旋風(その2止) 将来不安、急進化我が家は毎日新聞を購読しており、今日の朝刊のこの記事は大いに注目してしまいました。資本主義の総本山たる米国で、若者に社会主義への支持が急激に拡大している、と言うのです。いや、初耳、というわけではありません。昨年、大統領選の民主党予備選で、社会主義者であるバーニー・サンダースが大善戦したことからも、米国における社会主義勢力の拡大傾向は見て取れます。上記記事のグラフによると、ギャラップ社2016年の世論調査では、「社会主義を好ましいと考える人の年代別割合」が、65歳以上では25%前後に過ぎないのに対して、50-64歳では3割弱、30-49歳では4割弱、そして18-29歳ではなんと5割を超えています。あの米国で、20代の若者の過半数は社会主義を好ましいと考えている、これは大きな驚きです。ただし、65歳以上でも1/4前後が社会主義を好ましいと考えている、私の目には、これ自体も予想外に高い数字だと思います。だって、米国で社会主義なんて、ごく少数の支持者しかいない、泡沫思想のようなもの-のように扱われてきました。実際、米国には国会に議席を持つ社会主義政党はほとんどありません。しかし、実は米国で社会主義政党の議席がないのは、小選挙区制と二大政党制によって、民主党共和党以外の政党がほとんど国政から排除されていることが原因であって、比例代表制や大選挙区制なら当選者を出せる程度の素地はあるのかもしれません。考えてみれば、隣国のカナダでは(やはり小選挙区制ですが)新民主党という左派政党が国会で第3党、一時は第2党になったこともあり、いくつかの州で州知事選に勝っています。つまり、米国で社会主義は泡沫思想と考えられてきた、ということ自体が、ある種の政治宣伝に踊らされていただけ、と見ることもできます。20代の若者の5割以上が社会主義を好意的に捉えている、という傾向が今後も続けば、そう遠くない将来、ある時期を境に社会主義の勢力が米国で急激に増大するかもしれません。バーニー・サンダースは、年齢的にもはや次の大統領選は無理と思いますが、彼に続く誰かが、米国史上初の社会主義大統領に・・・・・・、実現したら、日本の親米派連中、外務省、防衛省は顔色を失うでしょうが、わたしは是非それを見てみたい。まあ、夢です。なかなかそうはいかないでしょうけど。それにしても、日本では若者の保守化が言われて久しいですが、資本主義の総本山たる米国では若者が左派に流れる、果たして、この差はどこから出ているのでしょうか。
2018.08.23
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玉城デニー氏、沖縄県知事選に立候補へ 近く要請を受諾沖縄県の翁長雄志知事の急逝に伴い、9月13日に告示、30日に投開票される県知事選に、自由党幹事長の玉城デニー衆院議員が立候補する意向を固めた。翁長氏を支持してきた「オール沖縄」勢力が近く立候補を要請する方針で、これを受諾する考え。玉城氏は朝日新聞の取材に「やると決めたら、やるしかない」と語った。知事選には自民党県連が擁立する前宜野湾市長の佐喜真淳氏が立候補を表明している。安倍政権が支援する佐喜真氏とオール沖縄勢力の支持を受ける玉城氏がぶつかる基本構図となりそうだ。玉城氏は20日、後援会員らと協議を続けた。関係者によると、会員らからは知事選に臨む方針や選挙態勢についての意見が出たが、立候補に反対する声はなかったという。---オール沖縄派は、翁長知事再選出馬を前提にしていたため、知事のの急逝を受けて後継者選びが混迷するかと思われましたが、翁長知事が亡くなる直前に、後継候補として2人の名前を挙げていたことが判明したことから、急転直下となりました。翁長知事が名を挙げたのは金秀グループの呉屋守将会長と、自由党の玉城デニー衆院議員。2人とも、当初は知事選への出馬を固辞する姿勢を見せたと報じられていたものの、このうち玉城議員が出馬の腹を固めた、ということのようです。非常に良い候補者だと思います。ただ、私は名前が出た当初は無理ではないかと思いました。というのは、玉城議員が所属する自由党は、政党要件を満たすギリギリの議席数しかないからです。所属国会議員は6名なので(政党要件は所属国会議員5人以上)玉城議員が辞職しても直ちに政党要件を喪失するわけではありませんが、もう後がない、完全徳俵に足がかかった状態になります。小沢一郎が、それを認めるかな、と思ったのですが(玉城自身も、おそらくそれを考えて、当初は固辞したのだと思います)、何らかの形で、自由党からOKをもらったのでしょう。玉城議員の所属政党が自由党とはいえ、オール沖縄派の全面支援がなければ小選挙区に勝つことはできなかったのですから、ここでオール沖縄派から逃げ出すわけにはいかないでしょう。これで決まれば、オール沖縄派の戦う体制は整いそうですが、報道によれば、オール沖縄派内で「会派おきなわ」というところが選考過程に異論を唱えているようで、まだ確定とはいかないようです。私は、沖縄に行ったことすら一度もない人間ですし、もちろん沖縄知事選の選挙権はありません。でも、玉城さんに決まれば、応援します。応援します、と書くこと以外何もできないけど、是非勝ってほしい。翁長知事の思いを引き継いでほしい、と願います。
2018.08.21
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「アンデスの家ボリビア」の店主であり、日本のフォルクローレ音楽の先駆者とであった福岡稔さんが亡くなったことは、以前に記事を書きました。日本におけるアンデス音楽の先駆者当然、「アンデスの家ボリビア」も閉店・・・・・・と、思いきや、このお盆中、娘さんの手によって臨時営業する、という話を聞いて、昨日行ってきました。神奈川県の寄、東京の吉祥寺、そして小平、福岡さんのお店は何回か移転をしていますが、私自身は吉祥寺にあったお店にしか行ったことがありませんでした。その後移転した小平のお店には、今回初めて足を運びました。本当は、今一番ほしいのはサンポーニャ(マルタサイズ)なのですが、残念ながらサンポーニャは半辞意準備が整っていない、とのことで、売っていませんでした。なので、ケーナを買うことにしました。アドリアン(アドリアン・ビジャヌエバ)、ルーチョ・カブール、アハユ、マルセロ・ペーニャなどの製作者の(他にもあったかな?)ケーナがずらりと並んでいます。一般的なG調のケーナのほか、F調とD調のケナーチョ(いずれもメーカーはアハユのみ)、それから調は確認し忘れましたが、超低音用の大型ケナーチョもありました。本当は、ルーチョ・カブールの超極太・肉厚ケーナに心が動いたのですが、齢50歳にして、こんなものに手を出しても、息の力はこれから衰えることはあっても伸びることはないだろう、と考えると、結局手が出ませんでした。チャランゴ。いつの間にか、福岡さんのお店でもカルカス・モデルのチャランゴが増えました。わたしはチャランゴは非常に下手なので、今もっている1台(26年前に福岡さんのお店で購入)だけで充分です。ロンロコ(低音用大型チャランゴ)なんと、まだLPレコードがあった!!ボリビアは、CDのプレス工場が国内になかったため、海外で活躍するアーティスト以外は、なかなかCDを出すことができず、LPレコードがずいぶん長いこと生き残っていたのです。もっともそれと平行して、90年代にはカセットテープがずいぶん普及しましたが。ところが、そのLPレコードの品質が怪しくて、レコード板が波打っているのは序の口で、中心の穴が中心に来ていないとか、途中で針が先に進まなくなるとか、レコードの曲あるいは曲順とジャケットに印刷されているものが違うとか(これは、CDやカセットでもよくありました)、ひどいのになると、裏面に溝が切ってなかった、なんて話もありました。それでも、その頃は今と違ってボリビア音楽の情報も音源も乏しかったから、みんな買ったのですよ。わたしは、それより若干後の時代にフォルクローレを始めたので、LPレコードはあまり持っていませんが。特にボリビアの音楽はLPぬで買ったものはほとんどありません(LPを借りてカセットにダビングしたものは沢山あります)が、チリとアルゼンチンのLPは合わせて十数枚、まだ持っています。多分、そこに入っている音源の8割はYouTubeで検索すれば聞くことができると思いますが・・・・・・。ケーナの上に展示してあるのは、非売品、福岡さんがボリビアで購入した、チャランゴ(系)を中心とする弦楽器の数々です。右端近くにバイオリンもあります。その右下はマンドリン、バイオリンの左下(胴体が白っぽくて、厚みがある楽器)はコンコータというボリビア・北ポトシ地方特有の楽器(チャランゴの原型となった楽器群のひとつ)です。一方、写真右のほうにはアルマジロの甲羅を張った楽器がいくつかあります。アルマジロ、そのうちの小型種をボリビアでは「キルキンチョ」と呼びます。これが、チャランゴのボディに使われることがくよありました。実は、アルマジロは現地では食用にされており、甲羅をチャランゴにするのはある種の廃物利用のようですが。見た目は非常にインパクトがありますが、音量、耐久性など楽器としての性能は、一般的にはキルキンチョ製より木製のほうが上です。それに、ワシントン条約によってアルマジロの甲羅を使った楽器の輸出が難しくなった(アルマジロの中でも絶滅危惧種は一部であり、全部が輸入禁止ではないと思いますが)こともあり、近年はキルキンチョ製のチャランゴの新品は、日本ではほとんど見かけなくなりました。なお、一番でかい楽器は、チャランゴではないようです。この写真ではネックの上の方が写っていませんが、前の写真を見ると、6コースであることが分かります。つまり、これはアルマジロの甲羅を使ったギター(!)のようです。サイズ的に標準のギターではなくレキントギターかも知れませんが。CDもありました。LP全盛期が長かったとはいえ、ボリビアでも90年代中ごろにはCDが主流になりました。ただ、最近はボリビアの主要レーベルでも、CDをCD-Rに切り替えてしまったところ、さらには、CDの生産をやめてしまったところもあるようです。で、結局わたしが買ったのはこちらのケーナです。アドリアンの木製ケーナ。太さ、肉厚とも標準的で、3オクターブが非常に出しやすかったので、これにしました。すでに30本以上ケーナがあるのに、また買ってしまった・・・・・・。それにしても、福岡さんの娘さん、お通夜のときもちょっと思ったのですが、目の辺りが福岡さんにそっくり。そして、今更ながら気が付いたのは、福岡さんって、結構ハンサムだったかも。で、買って帰ったケーナでさっそく練習。ただ、管楽器ケースがもういっぱいで、入らないのです。どうしたものか。なお、「アンデスの家ボリビア」の8月中の営業は今日8月19日までのようですが、9月以降も随時臨時営業をするとのことです。新たな仕入れは行わず、在庫を売り切ったら閉店、とのことですが。2022年6月追記、その後福岡さんの娘さんがお店を引き継ぎ、継続的に営業を行っています。次はサンポーニャを狙いに行きます。
2018.08.19
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9月9日(日) 哲学堂と民族芸能のひびき シリーズ1第1部15:00〜 フォルクローレ第2部16:00〜 ワヤン・ベベル(インドネシア民俗芸能)会場:哲学堂公園・鬼神窟(中野区松が丘1-34-28)演目:ガトコチョの誕生 (ワヤン・ベベル)観覧無料(先着20名、要予約。 空きがあれば当日参加も可能)予約:哲学堂公園 tel 03-3951-25157月に演奏した哲学堂公園で、再び演奏です。(会場となる建物は前回と異なります)
2018.08.17
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カメラのシャッターボタンは相変わらず動きませんが、レリーズを使えば撮影できるので、気にせず撮影続行です(早く修理に出したいですが)。11日と今日、暑い中を葛西臨海公園まで行ってきました。8月11日ヒバリシギがいました。初めて撮影する鳥です。ヒバリシギ。ミユビシギ、トウネン、ハマシギなどと同属のグループです。大きさも、比較的小柄な部類です。背中の白いV字がトレードマーク。ヒバリシギ。比較的珍しいシギなので、カメラマンが大勢集まっていました。ヒバリシギ名前は、ヒバリに似た色だから、ということなのでしょうか。アオアシシギ。いつも見る鳥ですが、秋の渡りシーズンになってからは初めて見ました。キアシシギ。定番のシギです。このときは、もう満潮に近付いてきた時間帯だったので、干潟が消えてしまい、岩の上に避難していました。そして、今日8月16日(夏休みの最後の1日を消費しました)キョウジョシギ。春の渡りではよく見かけるシギですが、秋は東京近辺ではあまり見ないような気がします。キョウジョシギ。語源は京女シギなんですって。顔の模様が京都の女性の化粧みたい、ということらしいのですが、すごいネーミングです。キョウジョシギ。そして、本日探していた最大の目標がこちらでした。ホウロクシギです。7月にダイシャクシギの写真を紹介しましたが、そのダイシャクシギと同属で、ほぼ同じ大きさのシギです。姿も、異様に長いくちばしも、ダイシャクシギとそっくり。あれ、ということはダイシャクシギと区別が付きにくい・・・・・・翼を広げました。翼の下面と胴体が白いのがダイシャクシギ、このように褐色の斑点があるのがホウロクシギです。つまり、これはホウロクシギです。ダイシャクシギもそうですが、こんなに長い嘴は邪魔じゃないのかなあ。ダイシャクシギは腰が白く、ホウロクシギは白くありません。この写真でも腰が白くないのが分かります。(7月に同じ葛西臨海公園で撮影したダイシャクシギは腰が確かに白かったのです)隣はキアシシギ。ホウロクシギ。少し前から葛西臨海公園にいる、ということは聞いていました。ダイシャクシギは1年中いるようなのですが、今日は見当たりませんでした。ホウロクシギ。この鳥も、初めて撮影した鳥です。もう少し涼しくなってくると、シギの数もさらに増えるでしょう。
2018.08.16
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終戦73年、平和へ祈り=陛下「深い反省」、4年連続―平成最後の戦没者追悼式73回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、遺族ら約7000人が参列。戦没者約310万人の冥福を祈った。来年4月末の退位を控え、最後の出席となる天皇陛下はお言葉で「深い反省」に4年連続で言及。「世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」とも述べられた。式典は正午前に始まり、安倍首相が式辞で「今日の平和と繁栄が、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれた」と追悼。その上で、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。歴史と謙虚に向き合い、どのような世にあっても、この決然たる誓いを貫く」と強調した。歴代首相が踏襲してきたアジア諸国への「損害と苦痛」「深い反省」には6年連続で触れなかった。---左翼の端くれ(いや、現実には、元「左翼の端くれ」ですが)であるわたしは、天皇制や天皇にシンパシーを感じる必要性をまったく感じません。昭和天皇の戦争への対応には大きな問題があった、もっとはっきりと言えば、戦争責任があったと感じている人間ですしね(A級戦犯と同等以上の責任があった、とまで言えるかどうかはともかく、少なくとも「何の責任もなかった」とは言えないと思う)。※が、その私でも、今の天皇のこの言葉には胸を打たれるものがあります。どこぞの首相が「深い反省」を口にしなくなったのと入れ替わりに、自らが深い反省に言及するようになった、その辺りの経緯にも、戦争に対する深い反省に、真摯さと強い信念を感じます。※当然のことながら、敗戦時11歳だった今の天皇には、昭和天皇のは違って、戦争責任はありません。一方、どこぞの首相の方は・・・・・・・・、あまりコメントする意義も感じませんが、太平洋戦争に至る経緯、そこで行われたこと、それらの「歴史と謙虚に向き合」えば、戦前の日本が進む道を誤ったことについて、どうして「反省」という言葉につながらないのか、実に不思議なことです。誤ったことは反省するのが当然のことと思いますが、反省という言葉を口にしないのは、誤っていない、という意思表示です。日本に310万人とされる犠牲者を出したことにも、その何倍もの死者をアジア太平洋諸国にもたらしたことにも、「反省」という言葉を口にする必要はない、ということです。それが本当に「歴史と謙虚に向き合」うことなのでしょうか、とてもわたしにはそう思えませんが。今の天皇が戦没者追悼式に出るのは、今年が最後になります。一方、どこぞの首相は、来年も出ることになるのでしょうか、残念なことです。
2018.08.15
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今度は本気?サマータイム導入 五輪まで2年しかないが2020年東京五輪・パラリンピックの暑さ対策として、標準時を1~2時間早める「サマータイム」(夏時間)の導入を政府が検討することになった。しかし、国民生活や経済への影響が大きく、これまでも浮かんでは消えている。大会組織委員会会長の森喜朗元首相や遠藤利明会長代行が7日午前、首相官邸を訪れ、サマータイム導入を求めた。安倍晋三首相は「内閣としても考えますが、ぜひ(自民)党の方で先行して、まずは議論をしてみてください」と応じた。自民党五輪実施本部長も務める遠藤氏は記者団に「お盆前に具体的な動きをスタートさせる。自民党が主導的に行い、各党の理解を得る形を作っていきたい」と述べ、党が主導して検討する考えを示した。五輪に先行する形で来年から導入できるよう、臨時国会への関連法案提出をめざすという。今夏の「災害級」の酷暑が動きを加速させた。欧米メディアは東京開催を不安視する報道を続けており、政府内には「小手先の対策だけでは限界がある」との声が出始めていた。---そもそもの前提条件として、年に2回時計の針を動かすことを強いるサマータイム制度は、大半の人にとっては迷惑以外の何物でもなく、百害あって一理もない制度です。サマータイムを以前から実施しているヨーロッパは、日本よりはるかに高緯度に位置しているため、夏場は夜明けが極度に早く、冬は極度に遅いのです。それに加えて、ヨーロッパは一般的に夏場に降雨が少なく、冬場に降雨、曇天が多い気候のため、日の出・日没時間からの計算以上に冬場の日照時間は少なくなります。人間はある程度以上日光を浴びていないと、様々な健康被害を生じます(たとえばくる病)。だから、生活上の不便はあっても、充分な日照がある夏場に日光を浴びておくことは、必要なことと考えられていました。もっとも、ヨーロッパでサマータイムが始まった最初の経緯は、第一次大戦中に石炭の消費を抑えるためだったようで、健康問題はおそらく後付の理由であろうと思われますが。そのヨーロッパでも、近年はサマータイム廃止の議論が進んでいるといいます。年に2回、強制的に時間を1時間変更することは、日照不足とは別種の健康被害を招く要因となること、IT化の進展で、標準時の変更がオンライン処理などの大きな障害になるからです。翻って、日本はどうでしょう。冬場に極度に日照時間が短いのは、本州の日本海沿い(豪雪地帯)の一部だけで、それもヨーロッパよりはるかに低緯度なので、夏場に時計を早めるメリットはあまりありません。ましてや、全国の人口の大半を占める太平洋気候の下では、夏場は梅雨や台風で降水量が多く、冬場に晴天が多いため、夏冬の日照時間の差はほとんどありません。(東京でもっとも日照時間の少ない月は9月)サマータイムは、国民生活にとって百害あって一利なしです。まして、その導入の理由が、東京オリンピックのため、というのは、賛否以前にそもそも異常ななことだと私は思います。東京近辺だけで行われる、たかが2週間程度(パラリンピックと合わせても1ヶ月あまり)のイベントのために、日本全国の標準時を変更することを要求する、あまりに常軌を逸しています。オリンピックとは、国の標準時すら変えさせることを当然視するほど偉いものですか?しかも、サマータイムの議論には、おそらく朝7時開始のマラソンのことしか念頭にない。確かに、酷暑の下での競技の異常性がもっとも際立つのがマラソンであり、私自身も当ブロクで、マラソンについて槍玉に挙げました。しかし、、それは言うまでもなくマラソンがもっとも象徴的ということであって、マラソンだけが問題ということではありません。ざっと競技開始時間を見ると、陸上は朝夕に分かれていますが、夕方は午後7時開始、野球も7時開始(野球の会場は都内の東京ドームや神宮ではなく、横浜スタジアムなのですね)、サッカーは日程によって6時か8時開始となっています。サマータイムで時計が1時間早まると、これらの競技がより酷暑の時間帯に始まることになります。つまり、なんの解決にもなっていないのです。歴史を紐解けば、日本においては戦後すぐの占領時代に、GHQの意向を受けて、4年間だけサマータイムが導入されたことがあります。しかし、まだITなどかけらもなかった当時でさえ、サマータイムで時計を動かすことによる生活リズムの混乱、仕事の始業時間は1時間早まっても、結局終業時間は変わらない場合が多く、ただ労働時間が伸ばされるだけという労働環境の悪化など、悪評が極めて大きく、サンフランシスコ講和条約成立後ただちに廃止されたような代物です。明らかに、占領時代の失策の最たるもの。それを、戦後レジームからの脱却などと叫んでいる安倍ネトウヨ内閣が持ち出すとしたら、これはもはや喜劇ですらあります。降ってわいたような、オリンピックにサマータイムという暴論は、あまりに馬鹿馬鹿しい話であるとともに、それを言い出したのが曲がりなりにも日本の首相を務めた人物であることに(まあ、森は日本の歴代首相の中でもあまり頭の良くない部類であったと思いますが)、ほとんど絶望的な感覚を抱いてしまいます。
2018.08.13
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前回の続きです。海抜1830mのリフト終点を1時過ぎに出発して、唐松岳山頂に到着したのは、10時半過ぎでした、所要時間は3時間半弱、というところです。残念ながら、怪我の前に比べて脚力はかなり落ちたといわざるを得ません。トウヤクリンドウ下山中の尾根道。キオンでしょう。そしてライチョウの親子が登場です。前述のとおり、一眼レフ故障のため、写真はiPad miniでしか撮影できませんが、それで充分な距離まで近付いてきました。ヒナは足元まで来ました。一眼レフで写真は撮れないけど、動画だけは撮れるので撮影しました。(前半は一眼レフ、後半はiPad miniで撮影)雪渓で一休み。雲の合間に外科医が見えます。マルハダケブキ。鹿が食べないので、鹿の食害がひどい山では、この花だけが増殖するらしいです。(他には、トリカブトとか、コバイケイソウとかも、毒があるので鹿は食べません)オトギリソウ(シナノオトギリ)タテヤマウツボグサ。北海須藤の阿寒湖でも、谷川岳でも、唐松岳でも生えていました。白馬岳方面は、相変わらずほとんど雲の中です。八方池まで降りてきました。ツリガネニンジン。(ハクサンシャジン)マツムシソウもちろん、例によって笛は持っていきました。ただし、ザック内の容量を喰うので、ケーナ1本とサンポーニャ1組(マルタ)だけにしました。リフトの近くで5曲くらい吹いて下山しました。
2018.08.12
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タイトルのとおり、北アルプスの唐松岳に登ってきました。夜行日帰りで八方尾根からの往復です。しかし、今回いきなり山に登る前からトラブル直撃です。小さいけど致命的に大きなトラブル。それは・・・・・・こいつが故障したことです(涙)シャッターが切れないのです。しかし、やがて判明したのは、写真のシャッターは切れないけど、動画は撮影できるという謎状態。デジタル一眼レフビデオカメラになってしまいました(涙)仕方がないので、今回の山行の写真はすべて、iPad miniで撮影しました。(動画は一眼レフでも撮影しましたが)風景は問題ないですが、花の写真はやや厳しく、鳥にいたってはどうにもなりません。八方尾根は海抜1830mまで、リフトで登れます。3つのリフトを乗り継いで、1830mに到着です。天気はいまひとつですが、時々晴れ間は見えます。7時過ぎに歩きはじめました。チングルマ。iPad miniは、風景写真はデジタル一眼レフに遜色ない写真が撮れますが、花はちょっと厳しいです。特に、白系と黄色系の花は色が潰れてしまいます。少しガスが切れてきました急に晴れた!!けど、結局、頭上は晴れるのですが、周囲の山にはガスがかかったままなので、あまり視界はありません。この後はずっと晴れたり曇ったりでしたが、遠方の視界は基本的にありませんでした。うーーん、ここからは稜線上。10年前の夏に来たときは、多分ここが通行止めではなかったように思います。そのときは、テントを担いで五竜岳から縦走してきましたが。この間の谷川岳もそうでしたが、唐松岳もほぼ初心者向きのコースです。しかし、今の足の状態だと、正直これを大きく超える難易度の山はまただ無理だなと思ってしまいます。それでも、とにもかくにも怪我のあとの初北アルプス稜線です。ここまで来られるまでになったことに、まずは感謝です。ガスが、切れそうで切れない。チシマギキョウかイワギキョウ稜線に到着。目の前に唐松岳頂上小屋が。そして同じく目の前に唐松岳が・・・・・・見えません(涙)稜線から唐松岳までは、徒歩15分か20分くらい、目の前なんですけどねえ。しかし、歩いているうちにガスが切れて稜線に張り付くような唐松岳頂上小屋そして、山頂方面も、やっとガスが切れました。と言っても、もう山頂目前ですが。そして、山頂に到着です。時刻は10時半過ぎ。登り始めが7時過ぎだったので、3時間半ちかくかかっています。標高差は850m程度なのに、時間かかりすぎでしょう・・・・・・。不帰キレットに向かう稜線。以下次回に続きます。その前に、明日カメラを修理に出さなくては。帰宅後に判明したのは、レリーズ(リモートシャッター)を付けるとシャッターが切れる。動画が撮れて、レリーズが使えて、しかしシャッターボタンを押してもシャッターが切れない、と言うのは、どう考えてもシャッターボタンが壊れた、ということでしょう。簡単に直るかなあ。
2018.08.10
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沖縄・翁長雄志知事が死去、67歳 膵がんで闘病も転移膵がんを公表し、治療を続けていた沖縄県の翁長雄志知事が8日、沖縄県浦添市の病院で死去した。67歳だった。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に強く反対し、保革を超えて移設反対派の支持を得てきた。葬儀の日程などは未定。翁長氏の死去に伴い、11月18日投開票の県知事選は、前倒しされることが確実になる。翁長氏の体調については、謝花喜一郎副知事が8日午後5時から県庁で会見し、「意識が混濁状態になっている」と説明。8日以降は謝花氏と富川盛武副知事が知事の職務代理を務めると発表していた。謝花氏によると、翁長氏は7日から徐々に意思決定に支障が出てきていた。4日に謝花氏らと面会した際には、がんが肝臓に転移していると明かしたという。翁長氏は4月に膵臓に腫瘍が見つかり、摘出手術を受けた。再発を抑える抗がん剤治療を受けながら県議会6月定例会や、6月23日の沖縄全戦没者追悼式に出席していた。辺野古移設をめぐっては、7月27日に県庁で会見し、前知事による辺野古の埋め立て承認を撤回する手続きに入ると表明。土砂投入前の8月中旬に撤回に踏み切ることを目指し、9日に沖縄防衛局側の反論を聴く「聴聞」を予定するなど、作業を進めていた。謝花氏によると、撤回するかどうかの判断は、知事の職務代理者でも可能という。(以下略)---衝撃的なニュースが飛び込んできました。すい臓がんという、予後のよくない部位の癌であることから、予想しないことではありませんでした。しかし、6月には県議会にほとんど出席し、辺野古への基地移設問題で、埋立承認撤回を発表したのが、わずか12日前だったことから、そんなにすぐこのような事態に至るとまでは予想しませんでした。今にして思えば、埋立承認撤回発表は、最後の気力を振り絞っての、国に対する文字どおり死を賭しての抵抗だったのですね。それにしても、私の亡父の場合は、死の2週間前にはもう、病室で立ち上がることすら困難な状況でした。それに対して、翁長氏は、衰える体力と戦いながらではあったにせよ、最後の最後まで激しい気力で戦い続けることができた。癌の進行具合は、本当に人によって違うのですね。沖縄の平和運動にとっては、打撃、なんて言葉では表現しきれないくらいの大きな損失でしょう。翁長知事が強さを発揮できたのは、その出自がいわゆる左派、平和運動ではなく、自民党出身の保守政治家だったからです。記事に「保革を超えて移設反対派の支持を得てきた」とあるとおり、従来の左派、平和勢力の枠組みを超えた支持を集めることができたのは、翁長さんただったから、としか言いようがありません。これから、本当に厳しい戦いになりそうです。ともかくも、今の日本で数少ない、本当に尊敬できる政治家が一人、亡くなってしまいました。心よりご冥福をお祈りします。
2018.08.08
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酷暑の夏が続いていますが、鳥たちの秋の渡りは始まっています。7月22日、葛西臨海公園にて。ダイシャクシギ。本来は旅鳥(渡りの途中で立ち寄る鳥)ですが、この固体はどうやら留鳥化してしまい、葛西臨海公園に真夏も真冬も1年中いるみたいです。で、いつもはるか遠方からしか撮影できなかったのですが、このときは西なぎさですなり近い距離から撮影できました。ただ、ちょっとピントがあっていなかった。あっという間に飛んでしまったので。無念のピンボケ写真ばかりですがこうやって見ると、くちばしの長さは異様です。体の大きさ自体も、シギ科のなかでは最大級で、ほぼ小型のカモ類くらいの大きさがあります。何というか、やはり異形の鳥です。ダイシャクシギ続いて8月4日、同じ機葛西臨海公園。この日も酷暑でした。さて、どこに何がいるでしょうか。チュウシャクシギです。先ほどのダイシャクシギと同属ですが、嘴は多少短いので、ダイシャクシギほどの異形という印象はありません。キアシシギの群れ。珍しくチュウサギがいました。左がチュウサギ、右がダイサギ。並ぶと、チュウサギよりダイサギのほうが大きい、嘴はチュウサギよりダイサギのほうが長いのが分かりますが、並ばないとその差は分かりにくいです。一番はっきりした違いは、眼の下の線で、眼より大きく目元まで線が入っているのがダイサギ、眼の下あたりで止まっているのがチュウサギです。そして、8月5日船橋三番瀬海浜公園。やはり酷暑でしたが、干潟は風があるのでそんなに暑い感じはしませんでした。駅から干潟までの行き帰りは暑かったですが。(片道2kmもある)珍しい鳥は折らず、定番の鳥ばかりでした。キアシシギミヤコドリミヤコドリ、全部で4羽いました。ミヤコドリのアップ(と言いたいですが、等倍でトリミングしました)かつて幻の鳥だったミヤコドリは、近年は東京湾で300羽程度が越冬し、当たり前の鳥になってしまいました。ただし、数が増えたわけではないようで、全国的には相変わらず希少種です。ただ、何故か首都圏の海岸に集まってしまっただけで。オオソリハシシギオオソリハシシギ。奥はウミネコ。若いおばさん。いや、オバシギの若鳥。ミユビシギ。あまり寄ってこないので、もう帰ろうかと思っていたら・・・・・・寄ってきた!!ミユビシギ(かなり冬羽に換羽している)同じくミユビシギ。まだまだ夏羽が残っている個体。ミユビシギは、全部で8羽いました。これからまた次第にシギチドリが増えていくでしょう。
2018.08.07
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東京医大、女子受験生を一律減点…合格者数抑制東京医科大が今年2月に行った医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話でわかった。女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていた。大学の一般入試で性別を対象とした恣意的な操作が明らかになるのは極めて異例で、議論を呼びそうだ。東京地検特捜部も、文部科学省の私大支援事業を巡る汚職事件の捜査の過程で、同大によるこうした操作を把握しており、同大は現在、内部調査で事実関係の確認を進めている。---すでに各方面で問題になっていますが、まったく酷い話もあったものです。東京の都立高校は男女別の定員制です。わたしの行っていた高校は、旧東京府立第X中学校で、つまり元男子校だったので、1980年代前半当時、女子の定員は男子の半分以下でした。3年生は文系志望理系志望の進路別希望別のクラス編成だったのですが、比較的希望者の少ない理系志望では、通称男クラ、つまり男子だけのクラスが何クラスかできました。共学高の中の男子校状態です。わたしは文系志望だったので、男クラではありませんでしたが。その後、1990年代に入って、このことが問題になり、現在は都立高はどこも男女の定員は半々になっています。一昨年だったかの同窓会で、現校長が「高校の歴史上初めて、女子生徒の数が男子生徒を上回りました」と話していたことを思い出しました。上回ったと言っても、原則は男女同数なので、3学年の合計で女子が男子を1人か2人上回った、というだけの話ですが、それでも史上初めてのことだったようです。定員の男女格差は問題ではあったでしょうが(だから改められた)、ただしこれは最初から男女別の定員が明示された上で、志願者数も男女別で発表されてのことですから、明朗ではありました。それに対して、今回の問題は、表向きは男女別の定員ではないのに、陰でこっそりと「裏定数」に合わせるように点数を加減していた、というのですから、陰湿な印象を免れません。しかも、より問題なのは、ことが東京医大だけのことではなく、少なからぬ医大(医学部)でも似たようなことが行われているらしい、という点です。もちろん、ここまで露骨かつ陰湿なやり方ではないのかもしれませんが。要するに、医学界全体の裏の意思として、女医をあまり増やしたくない、ということなのでしょう。ならばせめて、かつての都立高のように「男女別定員」を明示すれば、まだしも明朗なのに-と言っても、今の時代それを表向きにはできないから、こういう陰湿な手段をとるのでしょう。何故こんなことをするのかというと、女性は結婚、出産、育児で離職する割合が高いから敬遠される、というのです。それはどんな職種でも同じと思うのですが、医学部は付属病院があり、卒業生(医師免許を取得した)は多くの場合それらの病院で医師としてのキャリアをスタートさせるので、医学部は「入学試験」であるだけでなく、実質的に「付属病院の医師採用試験としての色彩を帯びている」という特殊性故です。大学を卒業してどこの企業に就職するかは、採用してもらえる限りは本人の自由意志であるはずなのに、そうなっていない、実質的に職業選択の自由が機能していない現実の反映ともいえます(もっとも、医学部のみならず、理工系でとりわけ修士課程博士課程に進んだ場合、教授とつながりのある企業に就職を指定される、というような話は散見されるところではあります)。それにしても、女医の離職率が高いというのは、医師の勤務条件が過酷だから(ブラックだから)ということに尽きます。正直なところ、わたしも昨年骨折で入院して、整形外科の医師って激務だなあと痛感したところではありますし、その過酷な勤務の一環として手術してもらったわけです。病気や怪我は、ある日突然なることが多いので、医師の勤務条件が厳しいものになりがちなのは、やむを得ない側面はあるでしょうし、その分給料はよいのでしょう。でも、それを割り引いても、もれ伝わる勤務の過酷さは、「仕方ないよね」では済まないものがあるように思います。つまり、女性はブラック労働に耐えられないからと排除して、男はそのブラック労働に耐えさせておけば解決なのか、ということです。それって、何かより本質的な部分で道を間違えている気がしてなりません。そして、本来女医の需要はかなり高いはずじゃないでしょうか。かつて、局部にかなり近い部位の炎症で、大きな病院の皮膚科にかかったことがあります。行ってみたら女医さんで、炎症の部位が部位だけに、心理的にちょっとたじろいだ(けど、背は腹は変えられないし、まさか診察室に入ったところで「やっぱり帰ります」とは言えないので診察してもらった)記憶があります。異性とはいえ、わたしは男で、医師が女性だった(そんなに若い医師だったわけでもない)から、「ちょっとたじろいだ」程度の話ですが、逆だったら、つまり患者が女性で男性の医師に同じ部位を診察してもらうとしたら、心理的抵抗は「ちょっとたじろぐ」程度では済まないでしょう。そして、世の中の半分は女性です。もちろん、緊急事態ではそんなことは言っていられないにしても、本当は女医はもっと多いほうがよいのではないかと思うくらいです。実際のところ、女医の離職率が高いと言っても、離職してそのまま一生専業主婦で終わる人もまた稀でしょう。子育てが一段落すれば、たいていの人は医師に復帰しているのではないでしょうか。(ただし、さほど過酷ではない非常勤として、ということが多いでしょうが)それなのに、現実は女医の数を増やさないように(おそらく)男の医学界の有力者があれこれと画策している、ということなのでしょう。前述のとおり、私自身が医者、ひいては医学に大変お世話になったので、医学界には感謝するばかりではありますが、この問題に関しては、医療を受診する人の半分は女性という事実を無視した暴挙としか思えないのです。
2018.08.05
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何となく、YouTubeを見ていたら、「もしもミッドウェイ海戦で日本海軍が勝利していたら?」という動画を発見してしまいました。2008年に民放のどこかの局で放送されたもののようです。この種の戦争にまつわる歴史のifの定番です。他には、真珠湾攻撃の際にもし米軍の空母が在泊していたら、レイテ海戦で栗田艦隊が反転していなければ、なんてものもあります。ミッドウェイ海戦については、攻撃隊があと5分早く出撃していたら、というifもあります。米軍の急降下爆撃機の攻撃を受けたとき、日本艦隊は攻撃隊の発艦準備が整ったところで、攻撃隊の1番機が発艦した直後に被弾してしまった。あと5分米軍の空襲が遅ければ、日本側の攻撃隊は全機出撃して、海戦の結末は変わっていた、というものです。敗北の当事者である草鹿参謀長と淵田飛行長が戦後に著書で広めたもので、冷静に考えると、怪しさ満点の主張ですが、私が子どもの頃の戦記本では、定説のように扱われていました。これに初めて公然と疑義を呈したのは、ミッドウェイ海戦の全戦没者を調査した「滄海よ眠れ―ミッドウェー海戦の生と死」の著者である澤地久枝です。ひとつには、生存者からの聞き取り調査、もうひとつは、当時の戦闘詳報などを基に防衛研修所戦史室が編集した「戦史叢書」の記録などから、この定説を覆したのです。今日では、「運命の5分間」説は完全に虚構であることが明白です。攻撃隊の1番機が発艦した直後、というのは、実際には米軍機を迎撃するために発艦した戦闘機(零式艦戦)をさしたもので、攻撃隊自体は、まだほとんど発艦準備が整っていませんでした。このとき唯一生き残って反撃した空母「飛龍」が攻撃隊を発艦させたのが、3隻の被弾から30分以上後であることからも、このことは明らかです。そもそも、それ以前に、よく知られているように、連勝によって日本側が増長著しかったこと、日本側の暗号を解読されていたこと、米軍はすでにレーダーを実用化していたのに対して日本側はまだ試作段階であり、対空警戒の目に大差があったこと、など、5分間がどうこう以前の弱点を日本側は沢山抱えていました。なので、史実のミッドウェイ海戦の経過の中で日本海軍が勝つのは絶望的に困難です。艦隊の編成からすべてやり直せば-具体的には、アリューシャン列島への陽動作戦や上陸部隊の護衛用に派遣した3隻の空母をすべて機動部隊に加え、何故か空母部隊のはるか後方を付いていった戦艦中心の「主力」部隊を機動部隊の前面に配置すれば-勝てたかもしれない、という程度です。勝てたとしても、敵は空母3隻全部撃沈、味方は損害なしということは、絶対にありません。太平洋戦争中日米の空母同士の海戦で、日本が米軍の正規大型空母を撃沈したいずれの海戦(珊瑚海海戦と南太平洋海戦)でも、日本側は、それと引き換えに艦載機を大量に撃墜され、また日本側の空母も大きな損害を受けているからです。ミッドウェイ海戦では、実は日本の搭乗員の戦死はさほど多くありませんでした。「飛龍」以外の空母は、搭載機が発艦する前に沈没したので、機体は失われましたが、搭乗員の大半は海を泳いで救助されたからです。搭乗員の戦死者は120人程度で、勝った米軍の搭乗員の戦死者より少ないのです。その120人の過半数は、唯一米空母を攻撃し、最後に撃沈された空母「飛龍」で生じています。空母「ヨークタウン」大破(後に沈没)と引き換えに、60人以上の搭乗員が戦死しています。つまり、もし日本がミッドウェイ海戦に勝っていたら、言い換えるなら、他の空母も米空母への攻撃に参加していたら、搭載機の撃墜と搭乗員の戦死はもっと多かったはずなのです。「飛龍」の数字から類推すれば、史実の2倍以上が戦死したでしょう。そこまで被害を出しても、米空母の防御力(ダメージコントロール力)は日本空母に比べて格段に高く、撃沈は容易ではありませんでした。したがって、勝つとしてもせいぜいあと1隻撃沈して、残りの1隻が一時的に戦闘不能、くらいが関の山です。日本側の艦船の損失ゼロはありえませんが、仮に奇跡的に艦船の沈没がゼロだとしても、飛行甲板に被弾する空母は確実に出ます。日米の空母が激突した海戦で、日本空母が被弾しなかった例はありません。米空母は、飛行甲板に被弾しても応急処置用の鉄板を敷いて飛行機の発着艦を可能にしましたが、日本海軍にその発想はなく、飛行甲板に穴をあけられたら、帰港して修理するまで戦力喪失です。だから、海戦に勝っても、その直後の時点では運がよければ、2隻程度の空母がかろうじて運用可能で、その搭載機の半分が使える、程度でしょう。しかも、航空燃料や搭載爆弾が残っていたかどうかは分かりません。つまり、海戦にかろうじて勝ったとしても、そのあとミッドウェイ島に上陸する陸戦部隊を航空援護することは、もはやできなかっただろう、ということです。どうも、「もしミッドウェイ海戦に勝ったら」というifには、「海戦に勝てば上陸作戦も成功する」という思い込みがあるように思いますが、現実はそうではありません。ミッドウェイに上陸する予定だったのは、後にガダルカナルに転用されて壊滅した歩兵第28連隊の1個大隊(歩兵4個中隊・機関銃1個中隊、歩兵砲1個小隊)及び連隊砲、速射砲各1個中隊(おそらく速射砲4門、歩兵砲6門、重機関銃8丁と思われる)・通信隊・衛生隊1/3個からなる、一木支隊の約2000名余です。※連隊砲中隊、通信隊、衛生隊が抜けていたため訂正しました。したがって、歩兵砲2門と書きましたが、大隊の歩兵砲小隊に連隊砲中隊をあわせれば6門あったはずです。また、この時期の歩兵1個大隊は3個中隊編成が標準ですが、このときの一木支隊は4個中隊編成だったので、通常の歩兵大隊よりは兵力が3割増ということになります。これに、海軍陸戦隊も2000名余が加わりますが、これに対する米軍のミッドウェイ防御部隊は、兵力こそ3000名ほどですが、全島に数十門の火砲と戦車を配備、火力では日本側を圧倒していました。さらに飛行場には120機の飛行機もありました。その過半は日本空母との戦いで喪失しましたが、少なくとも20機や30機は生き残っていたはずだし、当然、ハワイから増援の航空部隊も送られてくるだろうことも考えると、一木支隊は、全滅の場所がガダルカナルではなくミッドウェイ、時期は2ヶ月ほど早まるだけで、その命運は史実と変わらなかったでしょう。実際には、もしミッドウェイ海戦に日本が勝ったとしても、珊瑚海海戦と同じことになったでしょう。つまり、大損害と引き換えにかろうじて海戦には勝ったが、上陸作戦は中止、撤退、ということです。そこで、なおもミッドウェイ島の占領にこだわり続けたとすると、やはりガダルカナルの泥沼の消耗戦がミッドウェイで起きることになったでしょう。仮に奇跡的にミッドウェイ島占領に成功しても、日本本土からこんなに遠い島に充分な兵力を置くには、補給もままならず、日本軍が占領した太平洋上の多くの島と同様、1年後には奪回されて、守備隊は全滅したでしょう。さらにハワイを占領なんて夢のまた夢、米本土上陸なんて、夢でもありえない、というところです。ミッドウェイ海戦では、日本海軍は4隻の空母という「箱」と搭載機約260機のすべてを失いましたが、前述のとおり、搭乗員の戦死は120名ほどに過ぎませんでした。続くガダルカナルの戦いでは、飛行機の損失(陸上機も艦載機も合わせて)800機以上、搭乗員の戦死は2000人以上なので、損害の大きさは比較になりません。加えて、輸送艦船や艦隊の手足となる駆逐艦も大量に喪失し、太平洋戦争における本当の転機となりました。さて、もし日本がミッドウェイ海戦に勝っていたとしても、最初の推定のようにミッドウェイ島の占領はできずに撤退した場合(珊瑚海海戦と同じ)、史実同様にガダルカナルの戦いが起き、史実とさほど変わらぬ経過をたどっただろうと思います。史実では、ミッドウェイで4隻の空母を失った日本海軍は、それ以上の空母の損失を恐れて、ガダルカナルでは2度の空母決戦(第2次ソロモン沖海戦と南太平洋海戦)以外は空母温存の消極策に終始します。しかしミッドウェイで空母を失っていなければ、もう少し空母を上陸部隊援護に積極活用したかもしれません。そうすれば、酷使されて損耗した駆逐艦の損害が多少減ったかもしれませんし、奇跡的にガダルカナル島の占領にいったんは成功したかもしれません。そうだとしても、程なく奪回されたでしょうし、航空戦力の消耗は史実と変わらず、空母の防御上の欠点はミッドウェイでは露呈しなかった代わりにガダルカナルの戦いのどこかで露呈して、4隻同時ではなくても、結局は次々と撃沈されていったでしょう。そこで生き残ったとしても、マリアナ海戦かフィリピン沖海戦で沈むか、搭載機も燃料も尽きて呉軍港で動けないまま空襲に晒されるか、要するに史実と大同小異ということです。もし、日本軍がミッドウェイ占領を簡単に諦めなかったとしたら(占領に成功した可能性は低いけれど、仮に成功したとしても)、前述のとおり、史実のガダルカナルで起きた泥沼の消耗戦、航空戦力と駆逐艦、郵送船舶の大量喪失がミッドウェイをめぐる戦いで発生していただけのことで、その後の戦局の経過には史実と差はあっても、戦力枯渇の経過は史実と大差なく、最終的には史実と大同小異の結末を迎えたでしょう。結局、ミッドウェイで日本が勝っていたとしても、太平洋戦争の結末は史実と差ほど変わりがなかっただろう、というのが結論です。ミッドウェイで勝っていれば米国と講和、なんてのは、相手の都合を考慮しない夢物語の最たるものです。生産力の差から、戦争が長引けば長引くほど米国が有利なのは歴然としているのに、わざわざ自国にとってもっとも不利なタイミングで講和しようと考える国がどこにあるのか、立場が逆で日本米国の立場だったら講和したのか、と考えれば、それがどれほど非現実的な話かは明らかです。上記の番組中で、田岡俊次氏はミッドウェイ海戦にもし日本が勝っていたら、ミッドウェイを占領し、ハワイを占領し、ひょっとしたら米本土にも侵攻を試みて、その結果、日本は負けるが戦争は史実より1~2年長引き、その結果日本の損害も史実よりさらに膨らんだだろう、という見立てでした。実際には、ミッドウェイの占領は困難、ハワイの占領なんて絶対不可能、米本土進攻なんて話にもならないので、史実より1年も戦争が長引くことはなかったと私は思います。ただ、1ヶ月や2ヶ月だったら、史実より戦争が長引くことはありえます。そもそも史実においてさえ、降伏に反対するクーデターが成功していたら、敗戦がもっと先になった可能性はあるのですから。もし、史実より1ヶ月でも戦争が長引いていたら、多分3発目の原爆が投下されていただろうし、毎日のように餓死者が出ていたので、それこそ1日につき1万人ずつ死者が増えていたとしても不思議ではありません。その意味で、「ミッドウェイ海戦で負けてよかった」というのが偽らざる感想です。
2018.08.04
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大阪市 学テ成績結果で教員の人事評価 手当増減を検討大阪市の吉村洋文市長は2日、全国学力テストの成績が政令市で最下位だった結果を受け、市として学テの数値目標を設定し、達成状況に応じて教員の手当を増減させる人事評価の導入を検討すると発表した。学テの結果を教員の評価に反映させた前例はなく、公正な人事評価を定めた地方公務員法に抵触する恐れもあり、学校現場の反発も予想される。吉村市長は、ほとんどの科目で市の平均正答率が2年続けて政令市で最下位だった結果について「教育委員会に危機感が感じられず、結果に対して責任を負う制度への転換が必要だ」と発言。正答率の数値目標を立て、2020年度以降、達成状況によって教員の評価や勤勉手当、学校ごとの予算に反映させたいとした。また、吉村市長は「学力の底上げにつながる」として、8校程度の市立高に難関大などへの進学を目指す「特別進学中学」を併設して中高一貫とすることや、教育委員会を四つのエリアにブロック化することも提案した。学テを巡っては、学力だけで学校や子どもを評価することへの懸念や、競争の過熱化が指摘されている。文部科学省の担当者は「調査で測定できるのは学力の特定の一部分で、学校の教育活動の一側面でしかない。結果の扱いについては、序列化や過度な競争が生じないよう配慮すべきだ」と話している。ある市立中校長は「数字ばかり追いかけると、学力の低い子や、障害のある子をテストから排除するという誤った方向に進みかねない。あまりに短絡的だ」と危ぶむ。大阪では学テの結果活用について混乱が続いており、15年には大阪府教委が学テの成績を高校入試の内申点評価に反映させる仕組みを作ったが、文科省が「本来の目的にそぐわない」として、実施要領で禁止した経緯もある。---どうして、こういう短絡的な方向に進もうとするのか、わたしには理解できません。そもそも大本は文科省がこのようなテストを行うところに問題の発端があるので、文科省の担当者の言い分は「それなら全国学力テストはやめるべきでしょう」とも思えるのですが、ただその発言内容自体はまったくの正論です。学力の地域差は、どうしたって生じるものです。例えば、東京23区の場合、最上位は渋谷区だそうですが、最下位は足立区だそうです。最上位の方はどうか分かりませんが、最下位は大方の予想どおり、ではないでしょうか。では、足立区の子どもの学力が低いのは、教員が怠けているからですか?そんなわけはありません。足立区の元教員の知人もおりますが、話を聞くに、子どもを取り巻く環境はなかなか大変と思わざるをえませんでした。学力の偏在は、個々の学校や、ましてや教員の努力でどうにかなるようなものではなく、まさしく地域の特性ともいうべきものです。しかも、学力優秀な学校と、いわゆる教育困難校と言われるような学力の低い子の多い学校と、教員にとってどちらの方がより大変でしょうか。もちろん学力優秀な学校なら楽、などということはないでしょうけれど、教育困難校のほうが、より大変であることは自明でしょう。それなのに、学力が低い学校その教員にはペナルティを課す、ということになったら※、教員にとって、教育困難校への配属は罰ゲーム化してしまいます。むしろ、教育困難校にこそ多大な労力を投入しなければならないのに、その逆をやることになります。特別進学中学、なる構想も同じで、一部の学力優秀な子どもだけを集めてエリート教育を施すことは、「全体の底上げ」にはなりません。※さすがに、絶対的な成績ではなく前回成績から上がったか、下がったか、という相対比較で判断するのだろうとは思います。ただ、それでも「打てば響く」優秀な子と、打っても響かない子では、学校が同じ努力を払っても、結果に差が生じることは明らかです。結局、大阪市長のやろうとしていることは、「底辺の底上げ」ではなく、一部の成績優秀者だけを引き上げて、成績下位は見捨てる、という方向性であり、それで問題の本質が改善するとは思えません。入学試験は、1点2点を競い合って、合否が分かれるものです。良し悪しはともかく、希望者全員が入学できるものではない以上、入試とはそういうものと言うしかありません。しかし、学力をめぐる自治体間の競争は、そうではないはずです。大筋において、地域の子どもたちの学力は高いほうが良いことは間違いないけれど、何も1点2点の点数で順位を競い合う必要があるとは思えません。これを行き過ぎた競争主義と呼ばずして、なんと呼ぶか、と思います。
2018.08.03
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前回の続きです。タカネコンギクのようです。オキの耳とトマの耳の中間点付近から、トマの耳を振り返ります。同じくアップ。登山者は大勢います。タテヤマウツボグサのようです。オキの耳到着。ここが谷川岳の最高峰。ここで昼食にしました。かの有名な一ノ倉沢方面を覗き込んでみる。と言っても、カメラだけを突き出して撮影しています。絶壁なので、身は乗り出せません。一ノ倉沢は尾根一つ向こう側ですが、雪渓が少し見えます。ツリガネニンジンかその近縁種でしょう。このあと、どうしようかちょっと考えたのですが、ちょっとだけ先に進むことにしました。オキの耳のほんのちょっと先に、鳥居があります。富士浅間神社だそうです。こんなところにもあるのですか。その向こうに一ノ倉岳。できればここまで行きたいな、と思ったのですが、これが結構な難路でした。一枚岩の鎖場を下って、その先も大変そうな感じです。登山地図によると、トマの耳とオキの耳の間は10分なのに、オキの耳と一ノ倉岳の間は50分とあります。直線距離ではせいぜい2倍なのに時間は5倍、つまりそれなりに難路ということでしょう。怪我の前だったら、この一枚岩だって、前回紹介した鎖場だって、どうということはなかったので、問題なく一ノ倉岳までいけたでしょうが、今となっては、左足が「この辺りでやめておけ」というので、今回は諦めることにしました。キンコウカと思われます。トマの耳まで戻ってきて、オキの耳とその向こうの一ノ倉岳を振り返ります。オキの耳のアップ。キオンと、その向こうに肩の小屋。この時間になると再び雲が湧いてきて、この辺りはまだ雲の上でしたが、すぐ下に雲海が広がっています。山頂から肩の小屋までは目と鼻の先です。ここで休憩し、例によって笛の練習をちょっと。このあと天神平への下山路は、雲の中に没してしまいました。岩場の下りは、やっぱり踏ん張りの聞かない足では多少辛いところがありましたが、転んだり滑ったりすることは特になく、下ってきました。「踏ん張りが利かない」というのは、具体的にどういうことかというと、片足立ちをしたときに、右足一本と左脚一本では、片足立ちの持続時間及びその間の安定性に大差がある、ということです。右足は何も考えずに片足になっても問題ないのですが、左足は、重心を左側に寄せる体制を整えてから足を上げないと、グラグラになってしまいます。それでも、左脚で10秒20秒と片足立ちができるようになったこと自体、相当の回復なのですが。左脚は、9割以上回復していて、日常生活ではそれほど意識をすることはなくなりました。それでも、怪我以降、左足だけが外反母趾になってしまい、普通に歩いていても親指の付け根が痛みないしは違和感を感じやすいこと、階段の下りでは、ややぎこちなさが残ること、くらいはありますが。山登りでも、先日の雌阿寒岳のような斜度の緩い山では問題ないのですが、谷川岳でも天神尾根ですら、まだ回復していない1割がそこそこに重くのしかかってくる、というわけです。なかなか完全回復の道は遠いです。が、ともかくもさほど問題はなく、天神尾根からの谷川岳往復はこなせる程度に回復した、ということは言えます。というわけで、天神平まで戻ってきました。ロープウェイ終点の脇で、またまた笛の練習をして、下山して帰りました。行きは新幹線でしたが、帰りは水上まではバス、そこから先は東京まではるか各駅停車の旅でした。行きはともかく、帰りは急ぐ必要もないので。しかし、3時間以上もロングシートに座っていたら、尻が痛くなってしまいました。高崎から先はグリーン車にすればよかったかな。今回は残念ながら、鳥の写真は1枚も撮っていません。
2018.08.02
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