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2010年に映画になりました。残念ながら見ていませんが、監督は 熊切和嘉
。帯の写真は映画の写真からとられているようです。
この小説がとてもいい小説だと、上手に伝えられたらうれしいと思って書き始めました。ある作品がいい作品かどうかなんて、学校の国語の時間にはもっともらしく解説されるのですが、本当はそんなことは、読んだ人が決めればいいことであって、客観的にいい作品なんてものはあるんだろうか。教室でかたる仕事をしながらいつもそんなふうに感じてきました。
それにしても、この小説がいい小説だと上手に言うことが出来れば。というのは、読み終わった人の多くはどちらかというと暗くて哀しい印象に捉われるだけかもしれない、そんな小説だからです。
その上、この作品は未完です。 佐藤泰志 という作家はこの連作小説を短編小説のように雑誌に掲載していたのですが、書き終えることなく、自殺してしまったらしいのです。それが1990年の10月のことで、もう20年以上も前のことです。彼は何度か芥川賞の候補として名が出た人であるらしいのですが、それも、もちろん1980年代のことです。
ところで、人というものはどこからかはわからないけれども、この世に投げ出された存在であるという考え方があります。この小説は、人という生きものが、投げ出された存在である自分というものと格闘しつづける姿を書き綴った作品でした。
この案内を読んでくれる人たちの中で、お正月の朝、二人の全財産がポケットにある230円ポッキリだという、27歳の兄と21歳の妹という境遇を想像できる人はいるでしょうか。それが 「まだ若い廃墟」 という最初の小説の設定です。 妹は兄が389メートルの山を歩いて下りてくるのを、ふもとの待合所で待ち続けています。なけなしの所持金をはたいて、初日の出を見に登った展望台のロープウエイの帰りの料金が、一人分、足りなかったのです。
帰りのロープウエイに乗るとき、兄は残った小銭でキップ一枚しか買ってこなかった。どうしたの、とわたしはその理由を知っているのに、きかずにいられなかった。百も承知だ。兄は前歯を覗かせて笑い、ズボンのポケットから残りのお金を出し私の手に渡した。
一時間待ち、二時間待ち、三時間待ち、とうとう六時間になろうとしている。時間はだんだん濃密になる気がする。なんということだろう。
女が売店の少女に、「この人、頭が少しおかしいわ」と聞こえよがしにいっていた。「厭になっちゃう」少女は大声を出した。「そうでなくったって、元旦から仕事に出てきているっていうのに」あやまらない。誰にもあやまらない。たとえ兄に最悪のことがあってもだ。兄さん、私はあやまらないわよ。もしも、どこかで道に迷いそこから出てこれなくなったのだとしたら、それは兄さんが自分で望んだ時だけだ。 街を見下ろす展望台のある山の中で遭難死した、貧しい青年を巡るエピソードでこの連作小説は始まります。街の中の、どこにでもある哀しい話が、季節のめぐりとともに書き継がれ、秋の始まりに作家自身が描き続けてきた「投げ出された生」に耐え切れなくなったのではと考えさせるような絶筆となりました。
あやまらない。だれにもあやまらない。たとえ兄さんに最悪のことがあってもだ。 つぶやき続けて待合室のベンチから立ち上がれない二十歳を少し過ぎた女性の姿を思い浮かべながら、読者の僕にはとめどなくわきあがってくるものがあります。
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