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今でもあるのかどうか知りません。昔、使っていた 筑摩書房
の教科書では、高校一年生の最初の教材に演出家? 竹内敏晴
のエッセイ 「出会うという奇跡」
というエッセイが載っていました。
啞然とした! 眼目はことばを取り戻した彼がことばを喪った人たちを相手に実践する体験の報告にありました。
追記2019・06・27
教室で声の小さい生徒は必ずいる。ぼく自身は、やたら声が大きくて、周りの人が顔をしかめるタイプなので、 「イラッ」
とすることがよくあった。バカみたいなことを言って申し訳ないが、この本を読んでから、すこし、腹が立たなくなった。
生徒たちの 「声」
とか、 「ことば」
とか、 「表情」
とか、 「しぐさ」
とか、そういうことが、教壇に立っている時に気にかかり始めた。そうすると、少し落ち着いてしゃべることができるようになったと、あの当時感じたことを、最近、映画の画面を見ながら思い出すことがある。
お芝居をしている舞台の上の役者の声とか、映像の中の表情とことばとか。会話になっているのかどうか、若い俳優さんが出てくるエンターテインメントなんかで、会話をみていて 「えっ?」
と思う。そんなシーンが時々ある。
追記2020・06・04
「うたのはじまり」
というドキュメンタリー映画に、耳の聞こえない父親がお風呂の中で赤ん坊を抱きながら、赤ん坊の言葉に呼応して歌い始めるシーンがありました。 「ダイジョーブー♪、ダイジョーブー♪」
と歌うそのシーンが 「お風呂」のシーン
だったことに、なんだかとても納得しました。
裸で湯につかって、抱き合っている親子が、体全体で伝えているものが、やはりあるのでしょうね。
追記2022・06・23
老人が二人で暮らす、広くもないアパートでお互いの言葉がよく聞き取れないことが、最近、増えました。そっぽを向いたまま話しかけたり、何か尋ねたりしても、たいてい聞こえないようなので、もう一度向き直って 「おい!」
と声をかけなおすということになりますが、向こうからも、まあ、同じようなことであるようです。
老化という言葉を思い出しながらも、これといって 「~ねばならない」
ことが、もう、さほどあるわけでもない暮らしなのに、
「こわばった体とこころで暮らしているのかなあ・・・」
と思うことがあります。耳が遠くなる理由は、耳の老化のせいだけじゃあないだろう、そんな気もして、なんとなく柔軟体操のまねごとを始めましたが、「固いのなんのって!」という状態です。いつまで続くかわかりませんが、せめて、立ったままで手が床につくくらいまでは頑張ろうかなと思っています(笑)。
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