日本の政教分離にうるさい人たちが考えるのは、恐らくヨーロッパレベルの政教分離であろうが、ヨーロッパの政教分離のレベルは、実はそれほど厳密ではない。政党名に堂々と宗教名キリスト教が入っていて、キリスト教的な価値観を守ることを主張する政党が何の規制もなく活動し、キリスト教会の利権を守るために積極的に動いているのである。日本で神道なんて言葉をつけた政党が存在できるかと考えたら、その緩さも理解できるだろう。
また、これはチェコの話だが、国家の行事にキリスト教の大司教が登場して演説することもあるし、国葬の会場となるのはプラハ城内のキリスト教の教会で、儀式はプラハの大司教が取り仕切る。そもそも、大統領の官邸たるプラハ城内に、教会が存在、いや建物が存在すること自体は問題ないが、教会組織が管轄管理しているのは政教分離の観点から見ると問題ではないのか。規模が違うとはいえ日本の首相官邸の敷地内に神社があって、そこで国葬が行なわれるようなものである。
以前読んだ、政教分離にうるさい人の著書では、テレビのニュースで、神道行事や、仏事を取り上げるのにも、また冥福を祈るなどの仏教に起源を持つ言葉が使われるのにもクレームをつけていたが、そんなところまで気をつけてニュースを作成しているテレビ局なんて世界中のどこにもあるまい。チェコだってキリスト教の重要な行事は毎年大々的に報道される。チェコの国家の守護聖人たる聖バーツラフが、キリスト教の聖人となっていて、聖バーツラフの日が国の祝日となっている時点で、政教分離もくそもあったもんじゃない。ビロード革命後のチェコの教会って国費で運営されてきたしさ。
念のために言っておくが、このヨーロッパ、チェコの状況を批判する気は全くない。こんなことを、いちいち批判するのが野暮というものであって、政教分離の原則で規制されなければならないレベルのものではない。だから政教分離がヨーロッパのレベルでいいのであれば、日本で、大嘗祭だろうが、これもしばしば裁判がおこわれる地鎮祭だろうが、公費を費やして行ってもまったく問題がないという結論が出る。
以前もどこかに書いたが、日本の政教分離を主張する人たちは、神道的なものだけを政教分離の対象にしていて、キリスト教的なものには無頓着である。だから、キリスト教の行事であるクリスマスのイベントを行政が主催してもだれも裁判を起こさない。もしくはヨーロッパのやっていることは盲目的に正しいと考えているだけだろうか。チェコの政治家なんかヨーロッパ的民主主義はキリスト教的な価値観に基づいているとか発言してしまうのだから、これが正しいのであれば民主主義自体が、厳密に言えば政教分離の原則に反していることになる。それを批判する人はいないし、批判すべきでもなかろう。
また、大嘗祭に関しては、皇室の中からも、秋篠宮が国費で行なうのはどうかと疑問を呈されたらしい。大嘗祭に宗教性があるというのは確かで、それを否定するつもりはないが、流行の世界規準から言えば十分に許容範囲である。日本基準の政教分離を確立するというなら、それはそれでかまわないけれども、その場合には、キリスト教的なものについても対象にして批判したり裁判を起こしたりしてもらわないと話にならない。
正直今回の秋篠宮の発言にはがっかりなのだが、これも戦後の民主的であろうと努力してきた皇室のあり方からすると仕方がないのだろう。できれば、皇室の私的行事なのだから国は金も口も出すなという面からの批判を聞きたかったものである。そうすれば、現在のゆがんだところのある皇室の位置づけを議論するきっかけになったと思うのだが……。
公と私の境目があいまいで、私がないようにも見えながら、同時に秘密主義的でもある皇室のあり方は、決して健全ではあるまい。この機会に、今後も天皇制を続けていくのなら、どのような位置づけを皇室に与えるのかについても議論されるべきであろう。いや、今の日本には建設的な議論自体が期待できないから秋篠宮の発言自体はこれでよかったのかもしれない。
2018年12月1日10時50分。
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