さて、本題に入る前に、文学作品の翻訳、特に作品の書かれた言語からの翻訳は、作品研究、作家研究の成果であることを確認しておこう。英語の娯楽作品などで、ほぼ機械的に翻訳されて出版されていくものや、英語版からの重訳などはともかく、チェコ語や日本語のような特殊な言葉で書かれた文学作品の翻訳は、研究者が自分の研究さ対象とする作家の作品を研究の一環として翻訳することが多い。
チェコ文学の日本語訳をその傍証としてもいいだろう。翻訳者の大半は、チェコ語、もしくはチェコ文学の研究者だし、翻訳につけられた訳注も多い。特に日本で最初のチェコ文学の翻訳者と言ってもよさそうな栗栖継氏の翻訳など、本文と変わらないほどの分量があるものもある。訳注に頼りすぎる翻訳も良し悪しだとは思うけれども、作品研究の結果を盛り込みたい訳者の気持ちもわからなくはない。
高校大学時代の一番純文学の作品を読んでいた時期に、なくなった作家の作品は読まないなんて縛りで読むべき作品を探していたから、戦後すぐに亡くなったらしい梅崎春生の作品を読んだことがないのは当然としても、情けなかったのはチェコ語にまで翻訳されるような作品を生み出した作家の名前すら知らなかったことである。古典が専門だったとはいえ、文学科にいたんだけどなあ。図書館には日本語の本も結構入っていたのだけど梅崎春生のものは残念ながらなかった。
それから、確か翻訳者が収録作品を決めたという戦前の作品のアンソロジーに、岩野泡鳴なんかの作品が入っているのにも驚いた。共産主義の国だったわけだから、プロレタリア文学ばかりが称揚されるものだと思っていたし、確かに小林多喜二や徳川直なんかの作品は重要視されていたけれども、戦前の日本文学がプロレタリア文学だけではなかったことがわかっていなければ、共産主義体制の中で岩野泡鳴なんかの作品をわざわざアンソロジーに入れたりはしないだろう。
泡鳴の作品だったかどうかは正確に覚えていないのだが、アンソロジーに収録された作家の作品が入った日本語の本が図書館にあったので、読んでみてびっくり。現代の小説同様に言文一致が徹底された文体だったのだ。明治期の文学革新運動の中で出てきた言文一致の考え方が、大正から昭和の初めにかけてここまで浸透していたとは思いもしなかった。
大学時代の畏友が、日本文学の言文一致は、最終的に赤川次郎によって成し遂げられたという説を唱えていて、それに同調していたのだけど、実は一度到達していた高みから戦争の影響で落ちて、言文一致のレベルを再度引き上げたのが赤川次郎だったといったほうがよさそうだ。1970年代だと漫画でも吹き出しの中のせりふが、「したんだ」というような場合でも「したのだ」になっていて、小説の会話文は推して知るべしだったのだが、これでも言文一致が進んだ結果だと思い込んでいた。それが、実は先祖がえりだったわけだ。
小説の言文一致という点では、赤川次郎が会話文の中で徹底し、一人称小説の字の文でもかなり話し口調に近づけるような工夫をしていたと思うが、それをさらに徹底して一人称の語りまで、完全に話し言葉にしてしまったのが、高千穂遙の「ダーティペア」シリーズと、久美沙織の「丘の家のミッキー」シリーズだった。その良し悪しはともかく、二人ともSF出身の作家であるのがなんとも象徴的である。
なんてことを、チェコの日本文学研究の成果である翻訳のアンソロジーをきっかけにして考えたのだ。日本にいたら、特に熱心な近現代文学の読者ではなかったから、こんなところまで考えることはなかっただろう。これもまたチェコの日本文学研究の恩恵というべきであろう。
2019年2月27日24時。
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